全国骨髄バンク推進連絡協議会 ● 運動の基本理念 ● 「骨髄移植を望む患者の救済と骨髄提供者の保護 を第一義とし、より良い公的骨髄バンクの実現 と骨髄移植医療体制の充実を訴え、各地域に根 ざした市民運動を推進し、各地運動体の活力と 情報を相乗的に集積できる全国的なネットワー クを構築する」 −2− 骨髄バンク 第4号 骨髄バンク 第4号 目次 目次 ●はじめまして、もう一人の私 花蓮ひとり旅 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・渡辺孝一(実行委員長) 2 ドナーから患者さんへ2通目の手紙 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・池田あゆみ(ドナー) 6 「拝啓ドナーさま」2通目の手紙 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・早川真名(元患者) 8 「出会い」と「対面」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・田中重勝(対面ドナー) 10 日本初「対面」当事者の私 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・橋本和浩(対面患者) 13 会って、励ましたいね……ドナー ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 15 会いたいな、でも不安……元患者 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 19 「対面」実現に視点の転換を ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・畠山茂房(副委員長) 27 ●特別寄稿 私とボランティア活動 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・匿名 29 ●hideさんを偲ぶ やさしさと愛と勇気をありがとう ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・遠藤允(ジャーナリスト) 32 ボランティア、ファンの追悼記 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 42 ●臍帯血バンク特集 非血縁者間の臍帯血幹細胞移植と臍帯血バンクの役割・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・生田孝一郎(横浜市大) 46 臍帯血移植における産科医の役割 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・岩崎克彦(東海大学) 51 へそバンクよ どこへ行く ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・陽田秀夫(副会長) 56 ●骨髄バンク報道に携わって 日本骨髄バンク「エージェンシー化」試論 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大久保嘉二(NHK) 59 「きずな」を求めて ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・妹尾浩和(中日新聞) 75 取材を通して見たボランティア ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・高野義雄(読売新聞) 95 社員寮を患者支援施設に利用する夢 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・小野博宣(毎日新聞) 113 ●エッセイ 「ふれ愛コンサート」よもやま話 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・多田そうべい(元殿キン) 62 コンサートは早くも45回 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・小澤洋介(チェリスト) 98 ●私と骨髄バンク運動 あれやこれやと10年目 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・秋山良実(埼玉) 64 たまたま…… ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大田進也(愛知) 115 ●ドナーの手記 2泊3日の思い出 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大川はるみ(イラストレーター) 66 ●元患者の手記 ドナーへの想い ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・横田豪雄(アメリカ在住) 70 ●骨髄移植関連最新医療情報(DLT) ドナーリンパ球輸注療法の医学的効果 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・塩原信太郎(金沢大学) 78 ドナーリンパ球輸注における「骨髄バンクのシステム的課題」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・幸道秀樹(府中病院) 86 ●佐藤きち子患者支援基金 基金給付申請から見える医療の内実 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・野村正満(運営委員長) 90 ●相次ぐ新加盟 「キョウギカイ散」に著効 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・井上直子(福井) 100 二人の熱意が実を結ぶ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・北川尚仁(島根) 102 「全国」を支えるのも地方の役割 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・猶 克美(山口) 104 ●全米骨髄バンク年次総会出席報告 「あやちゃん展」98年アメリカ開催へ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・三田村真(前事務局長) 106 ●97年アンケート調査結果 患者支援活動・地道な努力重ねる地域団体 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・新田恭平(前運営委員) 117 ■表紙・原田維夫(版画・デザイン) ■裏表紙・富永一朗(絵) 本誌は日本財団のボランティア支援協力援助金を発行経費の一部に充当して作成しました。 はじめまして、もう一人の私 花蓮ひとり旅 渡辺孝一 広がれ骨髄バンクキャンペーン実行委員長 ●大ピンチが発端に 示されたのはビジネスクラスのチケットであ 何の準備もなく、羽田国際空港の中華航空窓 った。ゲートの係員は「こちらのミスでお席が 口を訪ねたのは、97年9月14日午後4時ごろだ 重なってしまいました。料金は変わりませんの った。台北行きを決めたのが前日の土曜夜だっ で移っていただきたいのです」おー! なんと たから予約の方法がなく、 「なんとかなるわい」 ラッキーではないか。こちらは一人旅だし、狭 てな軽い気持ちでいた。 苦しいエコノミーからゆとりのビジネスに移れ 台北のホテル予約は羽田で済むだろうし、地 るなんて大ラッキーである。 「苦しゅうない」て 図と案内書は空港の売店で買えばいい。だが、 なものだ。幸先がよいと多少浮かれながら、ゆ その判断は甘かった。羽田の国際線ロビーには とりのシートに身体を沈ませると、慌ただしさ 観光案内所どころか観光ガイドを扱う売店も見 つづきの中でやっと一息つける思いであった。 当たらない。日曜だから開いてないのか? し そもそもなんでこんなに急な旅立ちになった かし、現実に何もない。 のか。 「はじめまして、もう一人の私」のイベン 「どうしよう、北京語はもとより広東語、台湾 トが大ピンチに直面してしまったからである。 語、もちろん英語まで無理ではないか」 ●なぜ伸びないのかドナー登録 台北空港に着けば国際空港だし日本語の案内 書くらい売っているはずだ、日本語の分かる人 このイベントは、ドナー登録数を一気に10万 が必ずいるはずだ、と自ら言い聞かせながら中 人にしようとする試みであった。日本骨髄バン 華航空便を確保できた。アナウンスに従い、ゲ クのドナー登録者数の低迷は深刻な問題であ ートの前に人が並び始めたとき、ロビーの放送 る。半面、台湾やNMDPの登録者数の増加ぶ が私の名を呼んでいるではないか。 りは驚異的であり、その違いはどこからきてい 「何かあったかな」 るのか。骨髄バンク運動に関わっている人なら 不安を胸にゲートの係員のところまで行く。 必ず疑問に感じるはずである。 「渡辺さんですか、すみませんがお席の変更を いくつかの疑問の中で、ドナーと元患者さん お願いできませんか」 の対面の是非が浮上してくるのはごく自然のこ −2− とである。ドナーと患者さんの間に、現在まで された、チャンスやポスターで登録の推進を図 例外なしに存在しつづけている壁がある。一方 り、「はじめまして、もう一人の私」の対面イ で、一部の移植病院において、ドナーの氏名・ ベントで加速を付けて、一気に10万人登録を達 住所のメモが公然と患者さんサイドに渡ってい 成すべく、準備が進められた。 当然、日本骨髄バンクでは許されていないの るという驚くべき事実があり、組織としての不 で、東海骨髄バンクか海外のペアでの対面式を 完全さを感じる。 ともあれ、全国協議会ではイベント企画前に 行おうと考えた。NMDPをはじめ海外の多く 対面問題の議論を重ねてきた。当然、賛否両論 の骨髄バンクが、一定の条件の下に定期的に対 あったのだが、議論を進めるにしたがい「対面 面式としてのイベントが行われている。 推進」で意見の一致を見た。ただしこれは運営 実行委員会ではまず東海骨髄バンクでのペア 委員の議論での話であり、骨髄バンクに関わる から探すことになり、そのための協力依頼状を すべてのボランティアのコンセンサスがとれて 東海骨髄バンクに発送したのであるが、見事に いるという意味ではない。 拒否された。まあ東海骨髄バンクは人的に財団 その要旨は次のようになる。 と深い関わりがあるので、結論は予想のうちで プライバシー保護は本人の意志で決定される はあったのだが、事前の根回しでは「NMDPか べきであり、プライバシー放棄の権利も認める らの提供であればいいかも」と、関係医師から べきである。当事者双方が会いたいと主張した かなり前向きな意見を聞き、 甘い期待もあった。 場合には、それを拒否する権利はなく、一定の ●対面の挫折 条件を付けてでもその権利を尊重すべきであ る。対面後に懸念される問題が発生したとして ともかく東海骨髄バンクが駄目になったこと も、それは双方の責任に帰することであり、そ で、次の段取りとしてNMDPと台湾バンクと れは対面に向けての条件、つまり対面にいたる の調整が始まった。正直たかをくくっていた。 手法で解決できることであり、日本骨髄バンク この2つのバンクはすでに何度も対面式を実施 に責任が及ぶことはない。 しているし、我々とも友好的に接触してきた経 このような議論を経て、「広がれ骨髄バン 緯がある。だから3組くらいの対面ができるだ ク・キャンペーン」の『はじめまして、もう一 ろうとの予想で企画案も作っていたのである。 人の私』が企画されたのである。むろん、「財 NMDPは英語に堪能な三田村真氏、台湾は面 団に申し入れをしていけばいいのではないか」 識の深い遠藤允氏がそれぞれ担当した。 といった意見もあるが、今日までの財団の姿勢 台湾からは「すぐに探す」との好意的な連絡 を見ていれば、そうした意見が空しいことであ があったが、NMDPからはなかなか返事がな ると認識せざる得ない。 い。時間はどんどんたっていくが、「まだ1カ 全国協議会のやり方に嫌悪感を持つ人もいる 月もある」と自分に言い聞かせながらも少々焦 だろうが、私たちには時間がない。過去に病気 る。NMDPは年次大会の準備で思うように動 と闘い、亡くなっていった多くの患者さんはま けないらしい。そうこうするうちに、今回は準 さに時間との戦いだったと言える。日本骨髄バ 備期間が足りないのでペアの調整が不可能との ンクは残念ながら官僚と医学界の巨大な権力構 連絡が入り、ここでNMDPからのペアは断念 造の狭間で運営されており、純粋に患者さんと せざるを得ないことになった。 ドナーのことだけを考えて運営されている組織 さあ、大変だ。あとは台湾バンクだけが望み ではない。だからこそ、マスコミや国民の圧力 となってしまった。ところが、その台湾バンク を感じないと動けない、 こんな組織なのである。 からその後連絡が入らない。どうもなかなかペ 農林中央金庫の協力で各地の農協施設に配布 アの同意が取れないらしい。9月10日には厚生 −3− 省での記者会見を設定してある。この記者会見 「さあ、あとはままよ」と腹をくくってはみた は重要である。報道の媒体がなければ、この対 ものの、さすがに気が重い。台湾サイドの窓口 面イベントの影響がドナーリクルートに反映さ とはその後もうまく連絡が取れないでいる。ビ れない。つまりイベント全体の成功は、この記 デオテープや職員派遣の確認も取れない状態に 者会見にかかっているのである。 なってしまった。そんな時、思わぬニュースが 入ってきた。 遠藤氏は毎日のように台湾バンクにファクス を入れまくっているが、やはりまだ同意が取れ 台湾バンクの母体である佛教慈済会の総合医 ていないのかはっきりとした返事がない。どた 院院長である曾氏が来日しているという情報で ばたしているうちに記者会見の日となった。延 ある。台湾バンクの事実上の指導者であり、日 期するわけにもいかないし、「対面の是非はま 本語も話せる日本通である。急遽慈済会日本分 だ分からない」と発表するのではまったくイン 会を通じて、曾院長と面談すべく依頼し連絡を パクトがなくなってしまう。そんな発表では当 待ったのだが、なかなか連絡が取れない。 やっとのことで宿泊先のホテルを探し当てて 日の取材も来なくなる可能性が高い。 この台湾ペアが、来るのか来ないのか分から 電話をしてみたが、まだ戻っていない。夜の10 ない状況の中で、最悪の場合を想定してのシナ 時である。ホテルに伝言を入れて翌朝8時に再 リオもつくり始めた。それは台湾での対面式を 度連絡してみた。驚いた、なんと、すでにチェ 記録したビデオを上映し、台湾バンクの職員に ックアウトされていた。院長は製薬会社の招待 対面についての考え方を発表してもらう、とい で日本を訪れていて、かなりの強行日程であっ うものであった。最悪の場合にはこれでいこう たらしいが、ともかく万事休すである。 ということになり、ビデオテープと人材の手配 曾院長は14日に成田から台湾に帰国するとい もペア探しと同時並行で進めることになった。 う情報が入ったのが13日の土曜日である。私は 曾院長とは2度お会いしたことがあり、直接話 ●重みのない首 ができれば道が開けるかもしれない考えてい た。やはり電話やファクスだけではこちらの誠 記者発表の内容は私の責任で行った。ところ が、発表前日に「日本で初めてのドナーと元患 意がうまく伝わっていないのかもしれない。 者の対面イベントが行われる」との新聞報道が 「よし、明日台湾に行き曾院長と合流しよう」 されてしまった。情報がどこから流れたかは分 からない。しかしこの報道が流されたことで、 ●台北にて この日の発表内容が決まった。台湾骨髄バンク 台北国際空港に降り立ったときには、とっぷ からのドナーと元患者さんの対面式が行われる りと日が暮れていた。当初期待していた日本語 予定、という発表になったのだ。その結果、世 の通じるような売店も案内所も見あたらない。 間を偽ることになる可能性が出てきた。台湾か 困った。台湾バンクは花蓮市にある。国内便で らはまだ回答がなかったからだ。 1時間たらずの所である。乗り継ぎの航空チケ そうなったら、 これは自分の暴走行為であり、 ットはすでに羽田で買ってあり、明日早朝のフ その時は「俺が辞表を書けばいい」と決意した。 ライトである。とりあえず台北市内で宿泊所を もっとも自分の辞表などそんなに重みがないか 探さなければならないのだが、どうしよう。 もしれない。もし重みが足りなければ、海部会 そうだ電話だ、台北市内の大飯店に公衆電話 長を含む全役員を道連れにしたらどうか。待て をかけてみることにした。公衆電話のかけ方は よ、そのほうがかえって「対面」についての世 電話機に貼ってある、何度かやってみるが、発 間に対するアピールにつながって効果的かもし 信音だけで呼び出し音の形跡がまるでない。 れない、などと考えてみたりした。 公衆電話はあきらめることにした。なにか手 −4− がかりはないかとロビーをうろちょろ歩き回 その間にHLAの検査室などを案内されたり、 る。そのうち、胡散臭そうなお兄さんが「カモ 院内見学に連れ回されたのであるが、言葉は分 だ」とばかりに、中国語らしい言葉で話し掛け からなくてもバンクボランティアで培った医学 てきた。「やばい」。ここでウロウロしていると 用語などを織り交ぜながら、まあ何とかなるも ちょいと危なそうである。 のである。 タクシーに乗れば何とかなるかと、空港ロビ 曾院長とは昼食をとりながら、いままでの経 ーの外に出て乗り場を探す。5∼6人のドライ 緯やら台湾バンクの事情を詳しく知ることがで バーが車の横でタムロしている。ちっと臆しな きた。台湾では2カ月前にも対面イベントが行 がらも「台北までOK?」てな調子で、何とか われていて、日本に派遣できる新たなペア探し 台北までたどり着くことができた。ホテルは空 が事実上困難な状態であった。 港ロビーのポスターにあった麒麟大飯店ですん 結局、台湾バンクのボランティア代表の陳さ なりチェックインできた。「フー、よかった」。 んと提供者の連さんが訪日することに決定。さ 台湾は初めてではないのだが、以前は団体旅 らに台湾での対面式のビデオを借りて日本に戻 ってきたのである。 行だったものだから、すべて添乗員のお世話で 9月20日の「はじめまして、もう一人の私」 おまかせ旅行。こんなことならその時にもっと よく調べておけばよかったと思ったが、まさか イベントはご存じのように、劇的とも言える結 こんなことになるとは想像できるはずもない。 果になったのだが、あくまでもハプニングの結 翌朝はタクシーで松山空港まで走った。待合 果であり、企画をした私としては不完全であっ たと自責を感じている。 室ではアニメの「ちび丸子」が中国語で流れて いてなんかへんてこでおかしい。 ●ハプニング対面その後 ●慈済医院で このハプニング対面事件は、その後さまざま な論議を呼んだ。 超小型の単発機で約40分。花蓮空港はローカ ルでいい! 出迎えの人たちがサンダル履きに 「対面」については二つの論点が出ている。一 短パン、本当にのんびりムードだ。でも、こっ つは提供者と患者さんの権利とプライバシーの ちはのんびりしてるわけにはいかない。さっそ こと。もう一つは「対面」をドナーリクルート くタクシーで慈済医院に直行した。医院といっ に活用することの是非である。単純に海外との ても大病院である。 比較だけでは論じられない問題ではあるが、私 病院のロビーは漢方薬の匂いがかなり強い。 たちが投じた一石が日本骨髄バンクとして公に 事務所に入り、「曾先生いらっしゃいますか」 公開された形で論議され、組織や関係者の保全 ともちろん日本語で尋ねる。はぁ∼まったく日 のためではない、人の命を救う目的のための結 本語が通じない。日本で外国人に英語で質問さ 論を早急に出していただくことを期待する。 れてあたふたする光景があるが、それとまった 最後に、花蓮空港から乗ったタクシーの運転 く逆の現象が起こっている。女性事務員が何人 手さんは康登賢さんといいまして、日本語の堪 か走り回る。私は曾先生の名刺を出してもう一 能な方で、花蓮の夜の町を案内していただき、 度、会いに来たことを告げる。そのうち英語の 地元の人だけの店で食事をさせていただき、お できる人が応対に出てきて英語で聞き返してき 友達の家で飲茶をご馳走になってきました。お たのだ。知ってる限りの単語で勝負するしかな かげで忘れることのできないひとり旅をするこ い。窮すれば通ず、何とか理解していただいた とができ、良い思い出となったことを報告させ らしく、院長室に通された。 ていただきます。 1時間くらいして曾院長が来られたのだが、 −5− はじめまして、もう一人の私 ドナーから患者さんへ2通目の手紙 池田あゆみ こんにちは。お久し振りです。もう、あれか のプレゼントができて、とってもハッピーだっ ら6年以上が経ちました。私にとって、あなた たこと。同じ病棟の患者さんたちが健康な私を は、いつも心のそばにいてくれる人なので、 励まし、一緒に喜んでくれたこと。そのチャン スをくれたあなたや、橋渡しをしてくれた骨髄 「お久し振り」というのは、ちょっと違う感じ バンクに、すご∼く感謝していること。そして、 ですが。 私は毎年、大好きな春の一日を、ひとり静か 今も多くの患者さんたちが、ドナ−の現れるの に祝います。私たちの記念日──私の骨髄液が を、一日千秋の思いで待っていること。その一 あなたに届いた日──を。私のとても大切な日 人でも多くの患者さんに生きるチャンスを届け だから。 てあげたい……自分の命を狙っている連中相手 私のちっぽけな人生の中で、あなたが私にく に、分かってもらえるかは、甚だ疑問ではあっ れた、骨髄提供の体験は、やっぱり、いちばん たけど、発砲されないのをいいことに、必死に うれしくて、楽しくて、すてきなことでした。 語り続ける私。その話は、これまでに出逢った ほんとにありがとう。 患者さんたちのことへと続きました。 この間、ヘンな夢を見ました。ちょっとカッ 骨髄バンクからの移植で元気になり、社会復 コ悪い話ですが、泣きながら目を覚ましたんで 帰して活躍している青年。幾度も生命の危機に す。何かとんでもないトラブルに巻き込まれて、 直面しながら、長く厳しい闘病を克服して、幸 私の周りじゅうを黒づくめのギャングたちが大 せな家庭生活に戻ったお母さん。自らの病気を 勢取り囲んでいました。しかも、手に手に持っ 公表して、骨髄バンクへの協力を訴えた美しい た銃は、真っ直ぐ私に向けられています。まさ 人。移植後の再発で亡くなるまで「ありがとう」 に、絶体絶命。非常な緊張と恐怖が走りました。 を言い続けた天使のような人。宝石のような笑 その大ピンチに、私は辞世の句を詠む代わり 顔と言葉を遺して、 燃え尽きてしまった幼い命。 に、何と、自分の骨髄提供体験を語り出したの 世界中のバンクを探し続けて、やっと辿り着い です。数千分の一とかの確率であなたと私の た無菌室で、まだ小さい娘のために、自分の生 HLAが合った不思議。そんなご縁で、いのち い立ちを記していた人。骨髄バンクにドナ−登 −6− 録していたのが一転、患者登録しなければなら 髄バンクがしっかりと根をはり、豊かな緑のは なくなった、今もドナ−を待っている人……あ っぱを繁らせ、患者さんたちを守る、より頼れ の人のことも、この人のことも……と、忘れ得 る存在になってほしい。その木の赤い実は、移 ぬ人たちを語るうち、涙が止まらなくなったの 植が成功して、患者さんが元気になることです。 でした。 たくさんの実をどんどんつけて、途中で枯れる 私は本当に多くの人たちと出逢いました。そ ことなく、豊かに実ってほしい。その果実はき の一人ひとりと、あなたが重なって見えます。 っと、周りの人たちを勇気づけ、幸せにするこ お元気な、生き生きとしたお顔に会えるのは、 とでしょう。 私の何よりの悦びです。私とあなたがそうであ 私が、骨髄提供したとき、550ccの骨髄液と るように、どこかで何かが繋がっている気がし 引き換えに、あなたから、ひとつぶの「しあわ て、それが私の支えになります。 せのタネ」をもらいました。ありがとう。おか 残念なことに、悲しい別れもたくさんありま げで、私は今も泣いたり、笑ったりしながら、 した。せめて、彼らが遺してくれたものを大切 私の幸せを生きています。私はこれからも、 に生きたい、と思わずにはいられません。どこ 「しあわせのタネ」に水をあげ続けます。骨髄 バンクの木が大きく育つことを祈って。 かで誰かが悲しみの涙を流さなくてもいいよう に、希望の灯火が消えることのないように、骨 1997年9月20日JAホール(東京)で移植をうけた患者とそのド ナーとの日本初の対面が実現した。 元患者の橋本さん(左)とドナーの田中さんは、ハプニング の対面で涙をうかべて握手した。 イベントが終わり、あらためて対面した2人を記者がとり囲 んで緊急記者会見となった。 −7− はじめまして、もう一人の私 「拝啓 ドナーさま」2通目の手紙 早川真名 元患者(千葉県在住) あなたから骨髄を、命をプレゼントしていた 分の病気と向かい合わなければならない辛さ。 だいてから、早くも3年半たちました。私が、 子どもを母に預け、病院に向かうときの辛さは、 あなたのおかげでこのように元気に、希望に満 まさに身を切られるような思いでした。 ちた日々を送っていることを、ご報告したい、 病気の名前は骨髄異形成症候群。骨髄移植の お会いしてお礼を申し上げたい、と、いつもい ほかに完全治癒はないとの説明を受けました。 つも思っております。 兄弟のHLAが適合しなかったときの家族の悲 自分が血液の病気であることに気づいたの しみは大変なものでした。私たちは当時やっと は、5年前の夏でした。それが重大な病気で、 活動を始めたばかりの骨髄バンクに希望を託し しかもどんどん進行しているのがわかったと ました。 発病後ほぼ1年、あなたとのHLAが適合し き、本当に途方に暮れました。 一人息子はまだ生後11カ月。一人歩きの最初 たとの知らせを受けました。あなたに私との2 の1歩がやっと出るようになったころでした。 次検査を受けていただいたのは、ちょうど4年 毎日、子育てと医療とに追われ、目いっぱい活 前の今ごろでしたね。 2次検査を受けるため、病院の採血室に座っ 動しているときでした。 そんなこと、あるわけない。いつの間にか治 たときの気持ちを今でもありありと思い出せま ってしまうのではないかしら。そんな甘い希望 す。骨髄をくださる方がやっと見つかった、希 はどんどん進む病状につぶされ、入院が決まり 望が見えた、その喜び。私のために都合をつけ ました。 て検査に来てくださっているあなたへの心から の感謝。そして現実のものとして迫ってきた、 医師として、病気で入院して来られる患者さ 骨髄移植への不安。 んのお気持ちはよくわかっているつもりでし 移植のゴーサインが出て、あなたが移植はい た。それが自分に迫ってきたとき、認識が甘か つでもよい、と言ってくださっているのを聞き、 ったことを思い知らされました。 我が家は再び感謝と喜びの渦につつまれまし それまでの生活すべてを、有無を言わせずに た。 中断させられ、愛する者を置き去りにして、自 −8− 手を合わせ、涙ぐんでいます。 私の再発予防の化学療法はもう手詰まりなと あなたは、私の家族みんなの希望を、夢を、 ころまできていましたが、ドナーの方のご都合 未来へとつないでくださいました。 次第で移植は普通、数カ月先になる、と聞いて いましたから。2週間後の入院が決まりました。 数年間の闘病生活の間に、私は貴重なことを 苦しい前処置の化学療法を終わり、朦朧とし たくさん教えていただきました。自分は自分の た意識が少しはっきりしてくると、あなたのこ 力だけで生きていられるのではなく、多くの人 とが浮かんできました。きっと今ごろは全身麻 に支えられ、助けられているのだということ。 酔や骨髄採取を前にして、不安な夜を過ごして そして、私が苦しい思いをしているとき、敢え いらっしゃるに違いない。こんな大変なことを て苦しい思いを共にして手を差し伸べてくださ 引き受けてくださって、あなたはどんなにお優 った方がいらっしゃるということ。それまでの しい方なのでしょう。有り難さと申し訳なさで 私の人生観がいかに傲慢なものであったかを思 いっぱいでした。感謝の気持ちをお伝えしたい、 い返し、反省しています。 私は今、千葉の田舎で小児科の医師として働 と祈りました。 いています。小さな命の喜び、悲しみに囲まれ そして翌日、無菌室で待つ私のもとに、あな て毎日を過ごしています。 たの骨髄が届きました。私と、無菌室の外でガ あなたの優しさへの、そして私を支えてくだ ラス越しに待つ家族のもとに。 さったたくさんの方の優しさへの感謝を礎に、 部屋の外につるされた輸血バッグから長い長 い点滴ラインを通して、骨髄液が私のなかには 患者さんとともに苦しみ、悲しみ、そして喜び いってきました。まさに新しい命そのものが、 を分かち合える医師であるよう努めていきた ぼろぼろになった私のからだのなかに吹き込ま い、と心に決めております。 いただいた貴重な命、大切に、一生懸命生き れてくるようでした。 ていきます。 このときの思いは言葉になりません。私と夫 本当にありがとうございました。 はただただ見つめあって涙ぐんでおりました。 あれから早くも3年半がたちました。 あのとき2歳だった息子も、来年小学校にあ がります。あのとき、あなたからの骨髄をいた だけなかったら、今の私は、なかったでしょう。 息子は私のことを母として記憶にとどめずに育 つことになったかもしれません。年老いた父は、 この世には観音さまがいらっしゃると言っては −9− はじめまして、もう一人の私 「出会い」と「対面」 田中重勝 岐阜骨髄献血希望者を募る会代表 ●骨髄バンクとの出会い の悪い私たちには絶対回ってこないと確信をし ていました。とりあえずの無事登録を祝ってか、 昭和63年9月10日に名古屋で開催された第1 回骨髄バンク名古屋シンポジウムが、翌日の新 名古屋で飲む嬉しさかはわからないまま、貸し 聞で報道されました。全国的なバンク結成の必 切りのくせにビールが遅いと愚痴を言う二人で 要性を訴えたものです。この記事が骨髄バンク した。 との初めての出会いでした。 ●想像上の患者さん 私でも役に立ちそうだがよくわからないた め、名古屋大学病院に電話をしました。ところ それから6カ月ほど経ってから、適合者があ がそこでもよくわかっていなかったのか、本当 るとの連絡があったときは、提供するというこ にあちこちとたらい回しにあいました。よく我 とより、当たったという喜びで、早々に早退届 慢をして電話口で待っていたものだと思いま けを出しての名古屋行きでした。 す。 普段、名古屋へ行くことはめったにありませ そこで骨髄バンクの説明を受けたものの、一 んでしたので、とりあえず公然と名古屋へ行け 人で登録する勇気もなく、二人だったら怖さも るのが楽しかったのを覚えています。大垣から 半分、不安も半分ということで、友達を誘って 東海道線で名古屋へ、そこで乗り換えて中央線 登録することにしました。 で大曾根へ。ここで下車して名古屋大学付属病 登録場所である名古屋市役所前の血液センタ 院分院まで、徒歩で10∼15分はかかったかと思 ーまで、大垣から1時間30分ほどかかるので、 います。 採血を入れると3時間余りです。さっそく早退 ここで出会った先生からは、どこの誰だかわ 届けを出して名古屋へ。目的は採血よりも名古 からないのに提供するのか、やめてもいいんだ、 屋散策と、栄での一杯です。でも時間が早く、 やめろ! と言わんばかりのコーディネート? 店を二人で借りきっての大宴会? 採血された が何度か行われました。その中で関西に住む20 ときに「適合するのは一生に一度あるかないか 代後半の男性が患者さんと知らされました(若 ですからね……」との説明でしたから、くじ運 い女性だといいなと期待していたのに……)。 − 10 − した。 その後入院をして骨髄液を提供し、患者さん に移植できたとか無事に退院されたとかの連絡 でも新聞などで患者さんの名前も顔も知って を受け……もう一人の私を思い浮かべながら嬉 いるため、ひょっとしたらとの思いがイベント しく思っていました。 のたびに頭をよぎりました。 その中でも心が揺れたのは、平成6年12月11 ●患者さんとの出会い 日に大阪MBSギャラクシーホールで行われた 翌年の平成2年6月4日の新聞に『白血病か 「骨髄バンク推進全国大会'94」です。会場が大 らの生還 元気な姿で報告会』という見出しで、 阪で、彼も関西でボランティアに関わっている と聞いていましたから、スタッフの中にいるの 「東海骨髄バンクからの提供」 「非血縁者間の成 人で初めての移植」との記事がありました。 かなとの思いでいました。さらには第2部で骨 「ああこれは私の患者さんだ」 「この人だったの 髄移植経験者と骨髄液提供者の顔合わせがあ か」。でもバンクでは、相手がどこの誰かわか り、ディスカッションがありました。ひょっと らないことになっているというのに、名前に住 するとこの中にいるだろうか……でも覚えてい 所と勤務先までわかってしまっていいのかな る顔はありませんでした。 相手は私を知らないので名乗るつもりはなか あ、と思ったほどでした。 さらにその後、週刊誌フライデーにも掲載さ ったのですが、私は顔を新聞で見て知っている れたりしましたので、その大きな写真のおかげ ので、どうしても探してしまう。探してどうす でその顔を今も覚えています。 るものでもないのですが。 こうした患者さんと誌面で出会えるのはとて ●対面 も楽しいものでした。移植してもその後の生存 には極めて厳しいものがあるという説明を、コ 次にまたも心ときめくイベントが開催されま ーディネートの中で十分受けていただけに、さ した。それは平成9年の9月20日、東京JAホ らに病状が悪化しかけていたときの移植だった ールで行われた全国骨髄バンク推進連絡協議会 だけに、元気に誌面で対面できたときはとても 主催による「広がれ骨髄バンクキャンペーン」 嬉しく思いました。それ以上に、周りの人たち の中での「ドナー・患者50人に聞きました」で から激励されたのを印象深く覚えています。 す。この準備段階で岐阜からも出演していただ こんな私でも人の命を助けることができたと ける患者さんはいないかと、出演者依頼の連絡 いう感動からか、それ以降の仕事への取り組み がありました。となると、もう昔のことになっ 方が変わり、ボランティア活動にも弾みがつい てしまった、もう一人の私にも声がかかってい てきたように思います。それまでの引っ込み思 るのではとの思いがありました。 案の行動から、前向きに行うことが多くなって 当然、全国協議会主催になれば私たちも主催 きたのです。何かのコマーシャルで「一歩前へ」 者で役割があります。当日はドナーの世話人と というのがありますが、まさに一歩前へ踏み出 いうことでした。控え室ではドナーの皆さんと していくのが人生のようにも思います。 歓談するほか、ドナーの会をつくりましょうと 熱弁をふるっていました。それでも、会が始ま ●対面への期待 れば役割はなく客席で進行を見守っていまし それ以降、ひょっとするとどこかで会えるか た。しかし、患者さん27人の中には記憶にある もしれないなとの思いがありました。しかし、 顔は見当たりません。やはりここにもいないの 会わなければお互いに夢を見続けることができ だなと納得していました。 るが、会ってしまえばそれで終わりで、その後 しかし、突然患者さんの中から、「8年前の のつき合い方が難しいという思いも持っていま ……」という発言がありました。その方は想像 − 11 − していた感じと違う。ええっ! この人なの! した場合のみの対面について何が問題であるの ドキドキ、一気に脈が早くなってきました。で か理解できません。 も患者さんは思っても見なかった人でした。記 骨髄バンクの国際化が進む中、国を越えた提 憶ではもっとふっくらしていたはずです(薬の 供もあるわけで、その両者が対面を希望したと 副作用の顔を思い浮かべていたようです) 。 きは、日本ではできないが、海外では対面でき ることになるのでしょうか。 隣の席には福井の井上直子さんがいて、「あ の人なの……」「そうみたい……」といった会 会う、会わないは個人の問題として、お互い 話をしていました。司会者からの呼びかけに躊 が希望すれば対面も可能な取り扱いにする。そ 躇しましたが、周りから促され手を挙げ、司会 の中でも協力的なカップルには骨髄バンクキャ 者に導かれるまま壇上に上がりました。 ンペーンに協力していただく。そして、麻酔や 今までは、会ったら何を言おうか、どうしよ 痛みといった後ろ向きのイメージのみの骨髄バ うかと思いめぐらしてきたものの、もう一人の ンクではなく、命のプレゼントという素晴らし 私を目の前にしたとき、今まで見えていた客席 い感動も国民の皆さんに知っていただき、本当 が見えない! 舞台の上の人が見えない! 彼 の骨髄バンクを理解していただくことにするべ だけが視界に入っている! 舞台の上で歩を進 きではないかと思います。さらに、今まさにド めるにつれ、熱いものが込み上げてきました。 ナー登録が伸び悩んでいるときドナーリクルー 彼が提供者を確認するかのように「9月」と トの方法を根本から見直してみるべきかもしれ ません。 言ったのを受けて「13日」と返し、「O型」で すねと言った時、彼の確信と会場のどよめきを その後、岐阜新聞企画の紙面対談のため岐阜 感じ、ますます血が高ぶってきました。頭の中 で、さらには帯広でのシンポジウムにと再会の は真っ白。思わずお互いに両手でお互いに握り 機会がありました。1月の帯広はマイナス20度 しめていました。言葉を忘れたかのように何も を超えるような日でしたが、シンポジウムでは 言えず、息をするのも忘れたかのような一瞬で 9月の対面のときのような熱いものが会場にあ した。 ふれてきました。シンポジウムの後は凍てつく イベントの飛び入りであることすら意識の中 寒さの中、いざ居酒屋へ。道路は凍りつき、吸 にありません。司会者から発言を求められたと う息は冷たさで胸をさすようですが体の中は暖 き、初めて気がついたものの、なぜこうしてい かく、心も改めての感動からかほっかほっかの るのか理解するのには時間がかかったように思 一夜でした。 最後に突然のアクシデントであれ、感動の対 います。 面という体験をさせていただき、大きなご褒美 ●対面して をいただけたのは、大谷貴子さんをはじめとす る東海骨髄バンクの皆さんや患者さんの存在、 対面については賛否両論がありますが、その 中でも否定論は、ドナーが将来生活不安に陥っ さらには全国協議会をはじめとする多くのボラ たとき、患者に金品を要求するかもしれない、 ンティアの皆様のおかげであると思います。今 一方患者が再発したときドナーに提供の強要を 後はいたずらに個人的つき合いをするのではな するかもしれないという、ひょっとすると…… く、骨髄バンクにとってプラスになるためのお かもしれないという不安によるものです。さら つき合いをしていくことをお約束し感謝へのお に、患者はドナーに感謝し続けなければならな 礼といたします。ありがうございました。 いのはおかしいとか、対面したくない患者もい るからと対面を否定する意見もあります。しか し、会ってみたい、会っていいとお互いが希望 − 12 − はじめまして、もう一人の私 日本初の「対面」当事者の私 橋本和浩 元患者(大阪府在住) 慢性骨髄性白血病(CML)を発病したのは、 スがないことを知った時は、さすがに落胆して 10年前の6月でした。発病当時、骨髄バンクは しまいました。移植を受けてもうまくいくとは なく、兄弟間でHLAが合わなければ骨髄移植 限りませんが、この病気を治すための唯一の方 のチャンスはほとんどありませんでした。弟が 法である移植を受けることができないのです。 1人いますが、検査の結果HLAは一致しませ 74年に設立されたイギリスをはじめ、欧米諸 んでしたし、他の血縁者にも一致する人はいま 国には非血縁者間の移植を目的とした骨髄バン せんでした。しかし幸いなことに、日本で最初 クがすでに稼働していましたが、当時、日本に の骨髄バンクである東海骨髄バンクに登録され は骨髄バンクはなく、ドナーを探す手だてはあ たドナーの方から骨髄の提供を受けることがで りませんでした。 私のHLAは、2000∼3000人に1人いるあり きたのでした。そして97年9月、移植8年目に ふれたタイプだそうです。どうすることもでき してお会いすることができたのです。 ないのですが、毎日電車に乗るたび、街を歩く ●発病 たび、この中にHLAの合う人がいるのではな いか、と思わずにはいられませんでした。 CMLとわかったのは1988年6月、26歳の時 このまま急性転化を黙って待つのは悔しく、 でした。会社で行われた定期検診の血液検査で 異常を指摘されたのがきっかけでした。この病 日本での骨髄バンク設立を訴える一方、個人的 気は慢性期が数年続き、ある時点に“急性転化” なドナー募集も行いました。友人、知人、職場 を起こし一気に病状が悪化、治療で元の慢性期 の同僚に「どなたかドナーになってほしい」と のような状態に戻せなければ死に至るというも 訴えた結果、3000名を超える方々がHLA検査 のです。 を受けてくれました。しかし、HLAの一致す 何の自覚症状もありませんでしたが、自分の るドナーは現れませんでした。そして、発病か 病気がCMLであること、CMLの完治には骨髄 ら早くも1年後に、血小板が大きく減少するな 移植が必要であることは理解し、何とか受け入 ど急性転化へと進み始めたのです。今までは自 れることができました。しかし、移植のチャン 覚がない状態でしたが、ぶつけてもいないのに − 13 − 大きなあざができ、採血の際も出血がなかなか と、私が東海バンクの第1例として非血縁のド 止まらなくなってきたのでした。 ナーの方から移植を受けその後職場に復帰した こと、及び移植の大まかな時期は新聞や雑誌で ●移植 報道されていました。 このイベントにはボランティアもたくさん来 入院が始まりました。 もう時間はありません。 まさにこの時、主治医から、発足寸前の東海骨 ていましたので、患者の意見を聞くコーナーで 髄バンクに登録しているドナーの方とHLAが 「ドナー経験者の方や会場の方の中に、ちょう 完全に一致しているということを知らされたの ど8年前に骨髄液を提供された方はおられませ でした。本当だろうか、希望を持っていいのだ んか」と呼びかけたのです。 ろうか、というのが正直なところ最初の感想で しばらくして会場から挙手がありました。壇 した。個人的なドナー募集でも、1次検査で適 上にあがってきた方と「9月13日ですね」と骨 合した方に2次検査を断られるなど、希望が浮 髄採取日であり移植日であるこの日を確認し合 かんでは消えるということが何度もあったた いました。T氏は40代も既に後半になられた、 め、素直に喜ぶのが怖かったのでした。 優しそうな紳士でした。 しかし、すでに最終同意もされているという 私は発病当時から、「どなたか骨髄を提供し のです。完治へ向けての移植のチャンスを与え てほしい」と訴えてきました。骨髄は天から降 てくれるというのです。89年9月、前処置を終 ってきたわけではありません。医師が作り出し え無菌室にいる私に、ドナーの方から採取した たわけでもありません。提供してくださった人 骨髄液が届けられ、左腕の静脈から点滴でいた 間がいたから移植を受けることができたので だきました。左腕をじっと動かさず、息をのん す。自分の行動を完結する上でも、ドナーの方 で見守りました。 には是非お会いしてお礼を申し上げたい、と思 その夜、無菌室の中でドナーの方にお礼の手 っていました。これがやっと実現したのです。 紙を書きました。ただし、私と特定できる情報 会う前は、こんな自分でドナーはがっかりし にはいっさい触れないのが手紙を書く際の条件 ないだろうか、 なんて思ったりしていましたが、 でした。 実際お会いするとそんなことを思う余裕はな く、この10年弱の出来事が一気に、感情を伴っ ●ドナーとの対面 て、どっとやってきたのでした。 移植8年目を数日過ぎた97年9月20日、全国 ……悔しかったこと、しかし素晴らしいドナ 協議会主催で、ドナーと元患者をそれぞれ27名 ーに恵まれうれしかったこと、そして全くの無 集めた、「はじめまして、もう一人の私」とい 償で入院までいとわないドナーの存在を知った うタイトルのイベントがありました。 からこそ自分も移植を乗り越えてがんばれたこ ドナーと元患者は、もちろん実際の移植のペ と、病気を通して知り合った多くの友人たちが アではありません。私も元患者27名の1人とし 残念なことにドナーを待ちながら亡くなったこ て参加していました。 と、などなど。 これからどんな関係が続くのか? T氏は 私がドナーの方について知っていた情報は、 当時40代の男性ということ、当たり前ですが 「お互いボランティアとしてやっていきましょ HLAが同じということ、ABO式の血液型はO型 う」といってくださってます。最近、ボランテ であること、これが全部でした。ただし、ボラ ィアらしいことは何もしていない私ですが、ド ンティアの中に私のドナーらしい人がいる、と ナーの大きな愛につつまれて、仕事に、妻との いうことを聞き及んでいました。 生活に、そしてボランティアとして、伸び伸び やっていきたいと考えています。 誤解を避けるために少々詳しく説明します − 14 − はじめまして、もう一人の私 会って、励ましたいね……ドナー ●阿部勲 めていけばいいのか、自分でもわからなくなっ すばらしい出会いでした。偶然にも患者さん てしまうんです。これからもいろいろな会に参 とドナーさんが出会い、堅い握手と涙の対面が 加して、いろいろな意見を聞いたり話したりし 私の目の前で行われたなんて、今でも信じがた たいものです。 い気持ちです。 ●梅田正造 このたびのイベントにドナーとして参加する よう要請されましたが、私個人としては、何か この広い世の中に、私と同じ血液をもった人 面映ゆい(ささやかな奉仕なのだからそっとし がいる……。何かとても不思議な気がします。 ておいてほしい)気持ちでした。ですが、目の ――いま君は、健康を取り戻して元気になった 前の光景から、患者さんの大きな喜びがドナー でしょうか? さんの喜びとなり、お二人の喜びが周囲の人々 移植のとき2歳半でしたから、去年は幼稚園 の感動を生むことを、強く感じました。患者さ の年長組で、今年はピカピカの1年生ですね。 んとドナーさんとの対面は、なんと温かく優し おじさんには、 高校1年の男の子がいますが、 い、人間らしい心を起こさせるのでしょう。 君は私の文字通り血を分けた“次男坊”です。 イベントの運営に多少の意見は持ちました 現在の骨髄移植推進財団の方針では、会うこ が、それは些細なこと。あのすばらしい対面が とは叶いませんがいつも君のことを応援してい 実現する「チャンス」を与えてくださった多く ます。 のスタッフのご苦労に、深く敬意を表します。 人は一人では生きられません。 おじさんもある時、過労から健康を害したと ●五十嵐上太 きがありましたが、多くの人に助けられ、君に 骨髄液をあげられるほど元気になりました。 登録者数の伸び悩みということはよくわかり そこで、おじさんは「支え合ういのちと愛」 ました。 を合言葉に、仲間の皆と骨髄バンクの支援活動 対面を進めていくことで増加につながってい をしています。 くのかなあ、よくよく考えるとけっこう怖い話 この活動の中でおじさんも君に骨髄液をあげ でもあるなあと思います。 患者と対面したいという気持ちはもちろんあ ることになり、世の中に恩返しをさせていただ るんです。私の場合、患者さんが若い女性であ きました。貴重な体験もさせていただき、多くの り、普通の人であるということは、手紙を読ん 方とも知り合えることができ感謝しています。 でわかりました。しかし万が一、相手の患者が いつの日か、君が大人になったら、今度は君 反社会的な犯罪者で、私の骨髄で元気になり、 が困っている人を支え助けてあげてください。 数々の悪行を重ねているとしたら、これはウー そのような、心の優しい思いやりのある人にな ムと考えてしまいますよね。相手を見てから ってほしいと願っています。 今回の「広がれ骨髄バンクキャンペーン」で 「再発してもあの人には提供したくない」なん て言えませんものね。 一人の人間の命ですから。 は、私も主催者側のお手伝いで、ドナー27人の こうやって考えていくと、どういう方向で進 世話役をさせていただきましたが、皆さんそれ − 15 − ぞれに骨髄液の提供を「当たり前のことをした この「素晴らしかった体験」をいろいろな人た まで」との感想を述べられていました。 ちに知っていただきたいと思っています。 皆さん心の優しい人ばかりで、世の中まだま ●荻野妙子 だ捨てたものではないと心強く感じました。 ハプニングで、ドナーの一人が元患者さんと 「ドナーになって良かったと思っている人はボ 対面しましたが、とても感動ものでした。骨髄 タンを押してください」という最初の質問に、 バンク運動の推進を図るためには、もっともっ ボードは即座に27を示した。全員が迷うことな とこの感動を多くの人に知ってもらいたいと思 く良かったと答えるのが一番の感動だった。ド います。現状では骨髄移植推進財団の取り決め ナーは自分自身自己満足しているのだからそれ 「ドナーと元患者さんの相互のプライバシー保 以上感謝の言葉は要らない。「神様のような… 護」と「骨髄バンクの公正な発展」のため、ド …」という過大な礼を、それも次々と何人もの ナーと元患者さんの対面は不可となっています 人から言われ、身の置き所のない感じがした。 が、諸外国のようにドナー、元患者さんの双方 ドナーはたった3日間だが、患者は何年も苦 が望むなら、私は対面を許すべきだと思います。 しい闘病生活をして、その大変さは比べものに 万が一不心得者が出た場合は、NMDPのよ ならない。病気になるか、ならないかは「神の うに法的措置で対応すべきだと考えます。是非 思し召し」。私たちの代わりにあなたが病んで とも骨髄移植推進財団には、この対面について いた、だからその回復のために、ほんの少し手 はご一考願いたいと切に思います。 助けをしただけ、回復の一番の功労者はあなた そしていつの日か、私の“次男坊”が望むの 自身です。そう叫びたい気持ちだった。 なら、彼と対面して、彼が健康を取り戻したこ 患者さんへ。元気になったあなたの存在その とを共に喜び、直接励ましたいと思っています。 ものが、今病んでいる人、看病している人への 希望、励ましです。胸を張って精いっぱい生き ●大川はるみ てください。私もあなた方のがんばりを分けて とても有意義な一日を過ごすことができて、 もらいました。ありがとうございました。 こちらのほうが感謝しています。理想的な形で ●匿名 元患者さんとドナーの対面が行われ、たくさん のマスコミにも取り上げられ、日本の骨髄バン 元気になられた方々を見てとてもうれしくな クのあり方に一石を投じたことだと思います。 り、私の骨髄を受け取ってくれた〈もう一人の 実際に私も手紙のやり取りができ、少しなが 私〉も、この中にいるのかもしれないと思うと、 らお互いのことを知ることができたのはラッキ 目頭が熱くなりました。 ーでした。いつの日か、私も相手の患者さんと 骨髄バンクを通じての患者とドナーの初の対 対面できる日がくると信じていますし、その感 面が偶然実現するなど、感動に満ちあふれたイ 動的な姿を人々が見て、新たなドナー登録者が ベントの中、今も骨髄提供者を待っている患者 増えることを願っています。個人個人考え方も さんも一日も早く移植が受けられるよう、ドナ 違うし、対面を望まない方もいらっしゃいます ー登録者を早く増やしたいと切に感じました。 が、少なくとも私自身は会いたい! 幸いいた ●中谷光子 だいた手紙にも「ぜひお目にかかりたい」と患 者さんも書いてくださいました。 今から5年前の夏、私は骨髄移植のドナーに 私も含めドナーたちに、このような場をもっ なりました。そんなに不安には思わなかったも とたくさん設けてください。人々に体験談をお のの少し高ぶった気持で入院しました。 話しできる機会をつくってください。少しでも 「公的骨髄バンクを支援する東京の会」という − 16 − ところにあゆみちゃんという本当にかわいい女 登録呼びかけだけでなく、いかにしたら患者さ 性がいらっしゃいますが、そのあゆみちゃんの んの所へ一刻も早く骨髄が届くか、あるいは高 ドナー体験記を読んだ後だったので不安に思わ いと言われている治療費をどうするのか、家族 なかったのかもしれません。彼女の体験記とほ の方への精神的な、あるいは物質的なケアはど とんど変わらない経過をたどりました。全身麻 うするのか……考え始めるとまだまだやること 酔をし、骨髄をとり、終了後2時間ほどで麻酔 がいっぱいあります。 先日、テレビの取材を受けたとき「私の人生 からさめました。その第一声は「えっ、もう終 の後半のライフワークにしたい」と大見得を切 わったの」でした。 私にとって大きなショックだったのは、同室 ってしまいました。どなたもこんなおばさんの になった患者さんの様子でした(私の骨髄提供 言葉など気にも留めていないでしょう。でも私 の相手ではありません。念のため)。彼女は20 は自分自身と約束したのですから、その言葉に 歳ぐらいで、ドナーを待っている白血病の方で 恥じないよう、できる範囲の中で力を尽くして した。多分髪の毛が薄いのでしょう、真夏なの いきたいと思っています。 に毛糸の帽子をかぶり、おふろも駄目、熱い湯 ●中村尚子 で身体をふいてもらうだけ、お刺身も漬け物も 生のフルーツもみんな駄目、こういう患者さん バンク登録から現在で7年、提供から4年半 を目のあたりにしたのは初めてのことだったの を迎えます。今回は、気の小さい私の取り越し で、本当に大きな衝撃でした。 苦労を、笑い話としてお話しいたします。 あの患者さんに出会わなかったら私はバンク 3次検査を終了した後、両親の承諾を得る段 運動に関わらなかったかもしれません。この人 になって、 父の麻酔アレルギーが発覚しました。 のために何かできることがあるかしらと思った しかも肥満型の体型。麻酔のリスクが高く、周 とき、主人が「提供した人、提供を受けた人、 囲に随分心配されました。「麻酔事故の危険が 双方が元気になって世の中の人に訴えてゆくこ ないとは言えない」という言葉が頭の中で増幅 とが一番彼女のためになるのでは……」と言い され、「私は死ぬかもしれない」という不安に ました。退院してから「東京の会」の会報発送 陥り、提供の6日前に、私の葬式が行われる夢 を手始めにいろいろなところでお手伝いをし始 を見てしまいました。目覚めた翌朝から、私は めました。 仕事や家の掃除から、税金に至るまで、とにか 骨髄バンクの活動を始めてから多くの方々に く身辺を片づけることに奔走しました。「死ん 会いました。その中には、骨髄移植を望みなが だら天国へ。安心しましょう」と説教するはず ら、ドナーが現れなかったり、現れても時期を の牧師の私。情けない話ですが、今考えると、 失ってうまくいかずに亡くなられた方が何人も ドナーでこれだから、患者さんの恐れは計り知 おられました。本当に悔しい思いで見送りまし れない重さだろうと察することができます。 た。またご家族の方を失い、バンク活動をして さすがに入院してしまうと腹もすわり、採取 も我が息子や娘のためにはもう何のメリットも の朝を迎えました。麻酔の点滴がささって10も ない人たちにも出会いました。その方たちは、 数えないうちに、一瞬真っ暗になり、パッと目 バンクの活動をすることが亡くなった家族の供 覚めるとそこはまだ手術室でした。「おわりま 養にでもなるかのように、いつも黙々と活動を したよ」との担当医や看護婦さんの声に、「ど しておられます。 うも」と返事をして驚かれました。あれほど麻 昨年秋から始まった公共広告機構のキャンペ 酔の心配をしていたくせに、手術室でしっかり ーンにより、ドナー登録がずいぶん増えたと聞 意識が戻ってしまいました。お陰で、それから きましたが、それでもまだまだだと思います。 の時間の長かったこと。私の心配は患者さんの − 17 − ほうへ移り、移植が成功することをベッドの中 骨髄提供をする日が訪れました。本当に待ちに で祈り続ける時間が2日丸々与えられ、退院し 待ったその日でした。とにかく嬉しかったこと ました。「生きて帰れた!」との喜びを胸に抱 を今でもよく覚えています。私にとっては、私 きながら見た、銀杏並木の黄色の美しかったこ でなければできないたった一つの大仕事をやり と。今でも忘れることができません。 終えた、満足感だけでした。しかし周りの人々 振り返れば、私はただ眠ったままの、命のお には、偽善者だとか閑人だとか、変わった人だ すそわけ。しかし、患者さんの闘いは続くので とかいろいろ言われ、まだまだ日本人は遅れて す。毎日患者さんのことを考えて祈りました。 いると本当に実感しました。そのときの一番の 後日、患者さんは女子高生で、無事退院された 理解者が主人だったことは幸せなことだと思い ということを聞いて、 会ったことのない相手が、 ます。 まるで自分の分身のように愛おしく思えまし しかしだんだん理解者が増えていることも感 た。街を歩いていても、「もしかしてあの子か じています。若い人々の熱い思いは確実に大き な?」と、女子高生を見るたびに考えました。 くなってきている現実があります。先日、会社 どこかにいるもう一人の私。素敵な女性になっ に要望書なる物を提出しました。我が社にボラ ていてほしいなあ、と、老婆心ながら思ってい ンティア休暇を認めてほしいという内容です。 ます。 私の入院は、まるで内密に病欠の処理をされて しまいました。もちろん有給を取っただけです ●古田悦久 が、本社では誰も知りません。悪いことをして 橋本さん田中さん、おめでとうございます。 いるわけでもないのに、なぜ隠す必要があるの こんな場面に立ち会えるとは役得でした。 だろうと思いました。ボランティアで会社を休 とはいえ、イベントの間じゅう僕は、財団の むことは日本の社会ではまだまだ“悪いこと” 方はどう考えるだろうとびくびくびくびくして のようです。まさに命より経済優先の日本の姿 ました。このお二人に関しては、今後のトラブ だと思いました。まず一歩から始めなければい ルなんて心配いらないでしょうけど。 けない、自分を取り巻く人々に骨髄バンクの存 在を理解してもらうことから始めなければいけ ドナーさんと元患者さんが会ってはならんと ないと強く思いました。 いうのは、たとえば、目や足の不自由な方にう ちから出るな、と言っているようなものではな 私のこの要望書が取り上げられる日が楽しみ いでしょうか。リスクは確かにあるでしょうけ です。そして、きっと骨髄バンクの意味の大切 ど、心配していたらキリありません。それを承 さと必要性をわかってもらえると思います。そ 知で会う、という選択もあってよいのでは。 してこれから何人のドナーを作れるかが私の今 「二通目の手紙」には両方とも泣けましたです の一番の目標です。ひとりのドナーがひとりの ドナーを作れば今のドナーの数は倍になるとい (それにひきかえ僕の発言ときたら……)。 つも思っています。この活動はとても大切なこ これら多くの感動が、たくさんの人の目に触 とだと思います。 れて、骨髄バンクが少しでもメジャーになると 実際にひとりだけドナーになってもらうこと いいんですが。 元患者さんへ。病気に立ち向かったのは、ご ができました。提供を終え2年以上たって、こ 自身なんですから、どうか、ご自身のこともほ れからの私の活動はそれが最も大切になりま めてあげてくださいね。 す。でなければ、病と闘いつづけていらっしゃ る人間の命の炎をむざむざ消してしまうことに ●柳原幸 なりますし、見て見ぬふりをしてしまうことに なると思うからです。 今思うと、ドナー登録をして約2年で念願の − 18 − はじめまして、もう一人の私 会いたいな、でも不安……元患者 ●油野千里 Thank you for sharing of your life!(いのちをわ けてくれてありがとう!) ×月○日−私の移植記念日。 2度目の誕生日という意味でなら、私はこの ●北河佐知子 日3歳になった。おめでとう、私! し、しか し、あろうことか、家族の誰もが思い切り忘れ 今回のイベントに参加して、とても感動的な ていた。日にちを勘違いしているもの約2名 場面に偶然居合わせることができて私自身もと (母と夫)、子供たちは「あ、そういえば……」 ても感激しています。 だった。おいおい、あの超嬉しかった日を忘れ 私は、今回初めて人間の姿をした天使を見た ていたっていうのかぃ。私は超悲しくて、家族 ような気がしました。その存在の大きさは、も に怒りまくった。不届きにもほどがある、いの し、私自身がこの病気にならなかったら、きっ ちをいただいた日を勘違いしているとは! と気づくことなく過ごしてしまっていたと思い そこで、はたと思い出した。 ます。それに骨髄バンクの活動すら耳にしたこ この世のどこかにいるもうひとりの「私」の とはあったとしても、何も思わずただ平凡な毎 ことを。私にいのちをくれたドナーさん。家族 日を過ごしていたと思います。 が闘病のことをちらりと忘れてしまうほど元気 そんな私が、あんなに気持ちの優しい人たち になったのも、彼(彼女?)がいてくれたから。 のお陰で今こうして生きていられるのです。移 ほかの誰が忘れていたとしても、もうひとり 植はとても辛く、私自身も変わり果てた自分の の「私」はきっとこの日を忘れない。姿形は見 姿にとてつもない絶望感を抱いていました。で えないけれど、この日の喜びを分かち合える も、今、こうして現在生きていて私はこんなに 「私」たち……。これってすごいことだよね。 も幸せでよいのかと思うくらい、ほんわかした そう考えたら、とっても嬉しくなってしまった。 優しい気持ちになれたのです。 さて、「はじめまして、もうひとりの私」キ これもそれも、すべて私の前には決して姿を ャンペーンの時にドナーさんと会えた患者さん 現すことのないドナーさんのお陰だと感謝して がいる。あらあら、まあまあ、こんなところで います。しかし、私は、今はまだドナーさんと 出会えるなんて……。と二人の姿にドキドキし の対面は望んでいません。馬鹿正直に人を信じ たのを覚えている。 ていた私ですが、病気に対しての差別を受けた 星の数ほどある白血球の型が家族でもないの ことで、まだ少し人間不信なのです。間違って に一致する。私が「私」に出会えたように、ド もこのあいだお会いしたたくさんのドナーさん ナーを待っている闘病仲間にも「もうひとりの の中にはそんな方はいらっしゃらないと思いま 私」が白馬にまたがった王子さまのように手を すが、もう少し自分に自信がもてるまで、それ 差し伸べてくれる日が必ず来ることを、願わず ができたときはきっとものすごくお会いしたい にはいられない。 気持ちになると思います。やはり、ドナーさん そして、私もいつか自然な形で「私」に会え との対面については、人それぞれ考え方があっ る日が来ればいいなあと思う今日この頃。 ていいのではないかと思います。 私から「私」へ、この言葉を贈ります。 「海外からの移植を不安に思うか」という質問 − 19 − がありました。私はお金のこと、医療のことと、 した。 不安がないと言えば嘘になりますが同じ人間で 残念なことに日帰りの日程を立ててしまって す。ましてや、まれにしか合わない同じHLA 早々と帰らなくてはならなかったので、もっと をもっていてくれる人、そんな人の善意の気持 いろいろな話をしたり、たくさんの友達をつく ちを喜んで受けたいと思います。 ったりしたかったのに、本当に残念でなりませ んでした。 このあいだ、お金でドナーさんを募っていた という記事を新聞で読みました。とてもショッ 会場にはたくさんのドナーさんが来られてお クでした。患者さんの気持ちを思えば、どんな り、私にくださった方もいらっしゃるのかなあ ことをしてでも助けたいと思う友人の善意だっ と思うと、感動でいっぱいになり一目会いたい たかもしれないけれど、 本当にショックでした。 なあと思っていた矢先、あの感動の対面が目の 前で起こり涙が止まりませんでした。 私も、ほんの少しですが何かのお手伝いがで きたらと思い愛知の会に参加することにしまし そしてドナーさん側から出た「ありがとう」 た。これからも少しでも多くの患者さんが命の という一言が、 とても印象的で忘れられません。 贈り物を受け取ることができるよう皆さん頑張 これも骨髄移植のなせる業の一つなのだと思い ってください。 ました。あの日出会えた多くの人たち、主催し てくださった人たち、会場に集まってくださっ ●腰越梢恵 た多くの人たちに感謝の気持ちでいっぱいで す。 先日は、ご招待いただきまして本当にありが 私は、今まで自分の病気が大嫌いでしたが、 とうございました。 初めてこの病気に感謝した一日でした。楽しい 日本で初めてのドナーさんと患者さんの対面 を、目の前で見ることができて、とってもうれ 一日を有り難うございました。 しく思っております。やはりあのような感動的 P.S. な場面を目のあたりにしてしまいますと、私自 どんボランティアに参加するつもりです。また、 身もドナーさんと対面できたらと思ってしまい このようなイベントがある時は連絡くださる ます。日本ではまだ対面できないというのも、 と、とってもうれしいです。どうかよろしくお せめて手紙だけは、他の患者さん側の方からも 願いします。 もし来年、希望大学に合格したら、どん 意見がありましたように一度ならず、二度、三 ●笹川剛 度ぐらいは認めていただきたいと思います。そ していずれは日本でも対面ができれば、バンク 移植をしてから3年が経過しましたが、正直 の登録人数も増えるのではないでしょうか? なところ、移植時の感動や決意などが薄らいで いずれにしても、私もこれからどんどん骨髄 きていました。 バンク運動に参加させていただきたいと思って しかし、今回のイベントで病中にあった様々 おりますので、よろしくお願いします。 な出来事が思いおこされ、改めてドナーとなっ てくださった方に自分も会ってお礼がしたい気 ●匿名 持ちでいっぱいとなりました。 お招きいただいて、本当に有り難うございま また、自分と同じように移植を経験した方々 した。日ごろは移植患者や、ましてドナーさん にも出会え、今回参加させていただけたことを とはあまり交流がない私には、とても楽しい一 大変感謝しています。 本当にありがとうございました。 日でした。私はまだ移植して半年ほどなので移 植数年後の方々から、いろいろな情報やアドバ イスをしていただいて、心から勇気づけられま − 20 − ●三瓶忠治(患者・徳子の父) 娘は小4の時にバンクのドナーの方から移植 先日はお世話になりました。 を受け、そして2年8カ月後に再発し、中1の 患者とドナーの対面には大変感動いたしまし 時に姉から(ミスマッチ)移植を受けました。 た。「ドナーと会いたいか」という質問には この2回の移植の時も、一生懸命闘っていた娘 「会いたい」と答えましたが、ドナーの方の に感動しました。そして今回の対面にも感動し 「患者さんからの手紙をもらったか」という質 ました。 このような企画に参加させていただいたこと 問で、半数の方が「もらっていない」と答えら に感謝申し上げます。 れ、その方々のことを考えますと、患者さんが 亡くなってしまっているのではないかと思い、 自分の娘が成功したからドナーの方に会ってお ●上法和博 礼を言いたいのは山々ではあるが、帰りの電車 「はじめまして、もう一人の私」に参加できた の中で亡くなった患者さんや家族の方々のこと ことは、いただいた命で元気で生きている、喜 を考えますと自分たちだけが会えれば良いのか びでもあります。 と反省いたしました。 左隣にはドナーがいる、同じ血が流れている 登壇していた元患者さん(今も患者さんの方 もう一人がいる、何とも言い難い現実を目の前 もいたのではないか)にもう少し配慮していた にした一日でした。命は尊い自分のものじゃな だいたほうが良かったと思います。私は健康な いと言われても、生まれた時から心臓が動いて のでさほどつらくもなかったのですが、患者さ いて、朝起きても夜寝て命そのものを考えるこ んにはライトの光や長時間同じ体勢でいるのは となく過ごしてきた自分、発病を境に明日へつ つらかったのではないかと思います。 なぐ命が見えなくなることの大切さを考えるよ お客様が少なかったのは残念でした。 うになりました。 地方よりもマスコミが多くて、その宣伝効果 あのまま、死んでも「あそこの息子さん、白 はかなりのものが期待できると思います。 血病で亡くなったって……22歳でまだ若いの しかし、マスコミの方も観衆が少なければ意 に!」 気込みも薄れると思いました。まして、テレビ この一言で終わっていた命だったことでしょ や新聞からではあの対面の時の感動は感じられ う。骨髄移植によって助けられ、全国何万人も ないのではないかと思います。 のボランティアの力があり、7万5000人(当時) 地方から行った私は、東京でやるのだからか の一人ととてつもない数字の上に僕の命があ なりの観衆が入っているものと思っていました り、自分だけの命ではないことを知ることがで が期待はずれでした。 きた9月20日でした。 あるスタッフの方にその点を聞くと「東京で どうもありがとうございました。 は、この程度のイベントはいつもやっているの ●高品亮介 で、観衆もあの程度のものですよ」と答えが返 ってきました。少し残念でした。 私は再発してからの化学療法でなかなか合う 観衆が少なかったことに対する反省の答えが 薬がなく、やっと見つかった薬でも治らないこ 返ってくるものと期待していたのですが、地方 ともなかったのですが、確実に治すなら骨髄移 の人間にとって東京であの程度なのだから「地 植をするほうがよいと言われたので、すること 方はしょうがないや」と思われてしまうのでは になりました。 ないでしょうか。 家族3人のHLAは合わず、幸いなことにバ 私なりに感じたことを書かせていただきまし ンクでドナーの方が見つかり移植しました。両 た。申し訳ありません。 親はその時のことを「神様みたいな人がいるん − 21 − だね」と話していましたが、私は27人のドナー さなかった人が、確か2人いたと思いますが、 の方たちにお会いして、神様ではなく普通の人 その2人は、ドナーの方との間に金銭的なトラ たちなんだと思いました。 ブルが生じてしまうのではないかとか、ドナー ドナーの方たちが特別なことをしたのではな の方への精神的負い目を感じてしまうのではな い、ドナーになることを反対されても話し合い いかとか、もし再発したときに、ドナーの方に をし、理解してもらった話もありました。そし 精神的重圧を与えてしまうのではないか、など てだれもが「ありがとう」の言葉を言っていま の不安があったから「はい」と答えられなかっ した。「ありがとう」という言葉は、私が何度 たのではないかな、と思いました。私は「はい」 言っても足りない言葉です。普通の人がドナー のほうに押しましたが。このような不安が多少 になってくれることに感謝しています。 あり、ドナーの方に会うことに、躊躇してしま いそうな気持ちが、心の片隅にあることは否定 最後に一組のドナーと患者さんが対面しまし できません。 た。みんな心を熱くして感動しました。 「ドナーの方に出会って、直接、感謝の言葉を ●竹内京子 伝えたい」と、元患者の一人が言われていまし 私は、運良く骨髄移植ができました。 たが、これは自然な感情だと思います。ただ、 でも、病気が病気ですから、毎日本当に不安 問題が起こるのは困るなというのが今の正直な 気持ちです。 でした。 今回、このようなイベントに参加させていた それと、台湾の様子を映したビデオを見てい だき、たくさんの元気な人に出会えて、うれし る時間と台湾の人が話している間、壇上でじっ かったです。 と座っているのは、照明が暑かったこともあり、 疲れました。 私自身、ずーとドナーに会いたいと思ってい ました。でも今回の皆さんの意見を聞いている このようなイベントに参加できたことは、と と、元患者もドナーも、みんな同じ思いをして ても貴重な体験でした。このような機会を与え いたんだということがわかり、自分の相手一人 てくださり、どうもありがとうございました。 じゃなく、ドナーになってくれた人全員に「あ ●中津俊広 りがとう、こんなに元気になりました」でいい のではないかと思いました。 このキャンペーンにご招待いただきましたこ だから、このようなイベントで、ドナーにお とをうれしく思います。 礼が言えたので、私なりに満足しています。本 日本で初めて元患者さんとドナー様の対面と 当にありがとうございました。 いう歴史的な瞬間を見ることができ、自分も会 いたいという気持ちがより一層高まりました。 ●辻林和巳 賛否両論ありますが、少なくともあの会場にい た人たちは素直に「よかったね」と言ってあげ やはり橋本さんとドナーの方の対面の場面に は、とても感動しました。橋本さんのことは、 ていたと思います。 しかし、最初に手元に来た企画とあまりにも 移植前から遠藤允さんの本で、知っていました 差があったように思います。 し、お会いするのは3回目で、同じ年齢、同じ 病名ということもあり、親近感を持っているせ 私自身、元患者の代表の一人として壇上に上 いか、対面の場面は自分のことのように嬉しく がりましたが、長時間の上がりきりでは、遠方 感じました。 から来られている方や、退院して数カ月の方々 には体力的に限界がきていたので、もう少しそ 元患者に「ドナーの方に会いたいですか」と の辺のケアが必要だったと思います。 いう質問がなされた時、「はい」のボタンを押 − 22 − 運なめぐり合わせができたわたしたちは本当に 私は私の母と京都で「なかよし会」という患 幸せであると思います。 者家族会をやっています。会を設立してまだ日 が浅いのですが、今後このようなイベントや、一 でも、私たちのような幸運なものばかりでは 人でも多くの患者やその家族の心のケア、ドナ ないのが現実です。こういった血液関係の病気 ー協力などをやっていきたいと思っています。 になる人たちは年間で6000人新たに発病するそ 大変失礼なことも言ってしまったことをお許 うです。そうした現状の中で医療の進歩によっ しください。 て今までは助かることができなかった血液の難 “胸に残る感動をありがとうございました” 病についても治る可能性が出てきたのです。そ の方法が骨髄移植なのです。しかしそのために ●西原真弓 は骨髄を提供していただけるドナーの存在が不 平成7年6月、私はこの骨髄バンクを通じて 可欠なのです。そして骨髄移植をするために患 「もう一人の私」に出会いました。そして今年 者により近い型の骨髄が必要なのです。そのた で丸2年がたちました。まだ本格的にはバンク めには現在の段階で30万人のドナー登録が必要 の活動に参加はしていませんが、このイベント ということです。私は骨髄を提供してもらった を機会にいろんな友人ができ、またバンクの活 患者であるため骨髄を提供することはできませ 動にも積極的に参加できるのでは……と思い参 ん。だからより多く皆さんに骨髄移植の素晴ら 加させてもらいました。 しさを理解していただき多くの人たちに骨髄バ イベントでは思わぬハプニングが起こり、ま ンクに登録していただきたいのです。そして多 るで自分のことのように感動しました。ドナー くの患者に希望と病気と闘うチャンスを与えて と患者が対面することはとてもよいことだと思 ほしいのです。 いますが、 その半面やはり不安は数々あります。 これからの骨髄バンクの発展が多くの患者に 私には、たぶん患者たちからはドナーの方々 希望をあたえることは確実です。そのためには はみな神様に見えたと思います。きっとドナー まず多くの方々に骨髄バンクを知っていただ の方も本当に元気になってほしいと思っている き、ドナーの勇気ある行動が確実に病気と闘っ にちがいないですが、中にはそうでもない人も ている患者を生還させているという奇跡をまの もしかしたら今後いるかもしれません。そうい あたりにしてほしいのです。もしかしたらこれ ったドナー、患者の不安も含めた今後のバンク を読んでいるあなたが唯一患者を助けることが のあり方を考えていきたいと思います。 できるドナーかもしれません。生きている時に 提供した喜びを感じることができる命のボラン ●西村好弘 ティアに参加してみませんか! 今回のイベントに参加してあらためて、今自 ●匿名 分がこうして生きていられることに感謝しまし た。そして私に骨髄移植をうけるチャンスを与 人前は苦手な私にとっては、ドキドキの一日 えてくださった多くの人たちに心から感謝した でしたが、思わぬハプニングに、もっとドキド いという気持ちでいっぱいになりました。もし キさせられてしまい、そして同時にとても感動 ドナーの方々の勇気ある一歩がなければ、そし させられました。ほかの患者さん、ドナーさん てドナーをささえる家族や友人、骨髄バンクの もうらやましく思われたことでしょう。 多くのボランティアの方々、医療関係者など、 確かに私もお会いして一言、と思う半面、で もしその中の誰か一人でも欠けていたら、元患 も知らないままでもそれはそれでいいのではと 者となることができた私たちはこの世に存在で 思っています。誰しも命をありがとうという気 きなかったかもしれないのです。このような幸 持ちは、 言葉にしなくても心の中に常にあって、 − 23 − それが日常の生活に現れていると思うのです。 ていきたいと思います。何か協力できることが 現に私は、この病気のお陰で何もかもに感謝す あれば、体と時間の許す限り手伝わせていただ る毎日で、心からありがとうと言えます。 きます。 そしてそんな自分になれたことに、またあり ●匿名 がとうと言えます。だから対面を重点に考えず、 とりあえずは骨髄バンクの登録がもっと手短に 私たち患者の移植後の人生は予後にもよる できるようになってほしい。 が、ふたつの道に分かれるだろう。 骨髄バンクとは、骨髄移植とはどんなことな 病気のことはあえて忘れ、ごく普通の日常を のか、知らない人がほとんどだと思うので、こ 送ることを第一に考える生活、そして、今回お んな簡単に人ひとりの命が救われるということ 会いした多くの元患者さんたちがそうであるよ を、献血のように自然に耳に入るような情報の うに、自分たちの病気や、骨髄バンクに関わり 提供ができればいいなと思います。貴重な体験 を持ち続けながら生活していく道。 をさせていただきありがとうございました。 移植後1年半が過ぎようとしている私にとっ て、今回のイベントに参加できたことは、今後 ●舟田潔 の自分の歩みを考える上で、貴重な体験となっ た。 やはり何と言っても思わぬハプニング、最初 はヤラセではないのかと思ってしまいました。 健康を取り戻し、病気になる前の状態に近づ 橋本さんの発言、そんなことできるわけない くにつれ、ドナーになってくれた方、骨髄バン やん、と思っていましたが、手を挙げた田中さ クという制度を作るために努力してくださった ん、本当に、嘘とちゃうん、頭の中が混乱しま 方々には感謝の念が大きくなり、私にもできる した。 ことはないかと考えていたところだった。しか でも目の前で握手、ドライアイの私でも涙が し、感謝の念が大きくなるほど、バンク活動に 出ました。心の底からの感動でした。と同時に、 携わる方々の立派さと、自分の非力を痛感し、 私に骨髄を提供してくださったドナーの方にも 逆にバンク活動に踏み入れないような気分にな お会いしたいと思っていました。すごくうらや っていた。 ましかったです。今後対面という問題は賛否両 でも、この度お会いした皆さんは自然体でバ 論分かれると思いますが、私個人としては賛成 ンクと関わっておられ、お話をする機会のあっ です。 たドナー経験者は、「あなたみたいに元気にな あと、もう一つ気になったことは、やはり一 ってくれるとうれしいね」「病気でもないのに 般の方の関心のなさという点です。たぶんスタ 入院を体験できてよかった」「私たちにとって ッフの方々及びマスコミ関係者以外一般の方と も患者さんからの手紙は宝物よ」とおっしゃっ いうのは、ほとんどいなかったのではないでし ていた。 ょうか。私個人の意見としては、大会を開くと ドナー体験者の生の声を聞けたこと、それも いうのは大切なことと思いますが、どこかのイ 「提供してよかった」と言っていただけたこと は、大きな収穫であった。 ベントに飛び込むというゲリラ的な方法も一つ ではないかと思います。私は弱少者ながら、ラ また、我々患者、元患者にとってはジャン イオンズクラブの定例会などに参加させていた ヌ・ダルクのような存在である大谷貴子さんに だき、一人でも多くのドナーをと呼びかけてい もお会いでき、そのオーラを少しわけていただ る次第です。 いてきた。帰ってみると、主治医から「そろそ ろバンクの活動をはじめてみないか」と声が掛 少しずつながら、やはり行動なくしては何も かり、第2の人生の扉が開いた、という感じだ。 始まらないのでコツコツ私もがんばって活動し − 24 − ドナーの方との対面についてとても勝手な言 登録してから約半年後、骨髄移植を受けられ い分だが、移植中、そして直後は相手がわから る知らせがありました。骨髄移植にもリスクが ない気楽さというのが、確かにあった気がする。 伴いますが私には迷う道はありませんでした。 ただでも様々なプレッシャーのあるなかで、誰 移植の前処置の全身放射線照射と大量の抗ガ からもらったかを気遣うのは、患者にとってス ン剤は今までよりも強い過酷な治療です。もの トレスになる気がする。だが、一番辛い時期に すごい吐き気で全く食事がとれなくなりまし ドナーの方からいただいた手紙は、本当にうれ た。体を動かすのがやっと、しゃべるのがやっ しかったし、とても励みになったのも確か。今 とというくらいの状態でした。その上、感染予 でも一番の宝物である。今、移植後1年半が過 防のために隔離された無菌室での孤独感も重な ぎ、体も心も健康になると、元気になった自分 り想像以上に過酷な日々となりました。 しかし、待ち望んだ命の骨髄液が届き、点滴 を見てもらいたい。それが一番のお礼になるか で体に入っていくのをながめていると、自然に も……と思う。 涙があふれてきて止まらなくなりました。もう、 ●南川英則 どんなに辛くて痛くて苦しい合併症が起こって 「急性リンパ性白血病です」。今から3年前の も耐えられる自信がつきました。ドナーの方が 夏、入院と同時に告知されてから私の闘病生活 骨髄液の中に勇気の素まで入れてくれたからで が始まりました。目の前が暗くなり絶望の淵に す。言いようのない温かさ、生命の重さを感じ 立たされたようでした。 ました。 今、私は生きていることを実感しています。 骨髄移植によって白血病は治る病気の一つと まで言われるようになりつつありますが、骨髄 2年間のブランクを経て職場復帰もできまし 移植を良い状態で受けるためには、それまでに た。病気になった時の赤ん坊は今春から保育園 辛い治療を重ねなければなりません。 児です。ドナーの方からいただいた骨髄液は、 私だけでなく私の家族までも救ってくださった 助からないかもしれないと死を意識しなが のです。 ら、吐き気、高熱、脱毛などの副作用に耐えな ければならず精神的にも肉体的にも苦しいもの ●村地浩美 です。 私には妻と生まれて半年になる長男がいまし 私は移植してほぼ4年がたちますが、骨髄バ た。合併症で肺炎になり意識が薄れていきそう ンク推進関係の集まりに参加させていただくの になったとき、このまま死んだら楽かなあと思 は今回が初めてでした。まずは、声をかけてく いそうになりかけましたが、もし私が死んだら ださってありがとうございました。 残された妻、子どもはどうなるのかと考えると 現在、フルタイムで元気に働いています。当 死にきれるはずはありません。「生きて家に帰 日、会場に着いてまず驚いたことは皆さんとて るぞ」と強く決意しなおしました。 も仲がよいことでした。また、イベントの内容 自分のことを精神的に弱い人間だと思ってい についてですが、スイッチを使った回答方法は ましたが、こんな辛い時期を案外、前向きで明 匿名という点で気軽に本音で答えることができ るく過ごすことができたのは自分でも感心する てとても良かったと思います。また、ドナーの ほどでした。これは骨髄移植というお守りのお 方に手紙が1回しか出せないことも今回、初め かげです。妹とHLAが合わず、骨髄バンクに て知りました。 登録をしたばかりでしたが、うまくドナーの方 そして、一番心に残ったのはなんといっても に巡り会えれば助かるチャンスがあると信じて ドナーの方と、元患者の方の対面でした。私は いたからだと思います。 この場面を自分自身に置き換えて見ていまし − 25 − た。しかし、対面したいかどうかについて様々 理解がもっと深まっていくのではないかと思い な意見があることには驚きました。 ます。だからこそ日本でもこれからはいろんな いずれにせよ、真心からの善意に対し私がで 選択肢が選べるようにもっともっと患者とドナ きる精いっぱいのご恩返しは、心も体も元気に ーの新しい関係を模索していく必要があると思 生き抜いていくことだと思っています。とても います。 最後に骨髄バンクの関係者、ボランティア、 感動的な場面に立ち会わせていただけたことを 心から感謝しています。本当にありがとうござ ドナーの方、それに同意してくださった家族の いました。 皆様、私を助けてくださった多くの皆様に声を 大にして一言。 ●匿名 本当にありがとうございました。 ありがとうございます。 ●山崎揚久 いま、私が言えることができる最大級の感謝 の言葉です。もし貴方(ドナー)が、現れなか イベントでの感想は、とてもありふれた言葉 ったなら、今の私はもうこの世に存在しなかっ では言い表せない感動的で、ハプニングにはと たでしょう。今こうして生きているということ てもビックリしました。なりゆきとはいえ規則 を、今まで何気なく生活し、当たり前のように、 的にはあってはならないこと、でもこんなに感 行ってきたことが普段と変わりなくできること 動が感動を呼び、結果的には最高のイベントだ に、本当に感謝しています。 ったと思います。後ろで観ていてとてもうらや 生きているということの素晴らしさを本当に ましく、そのうちにこういう時がくればいいな 今かみしめています。私が味わったこの感動と と思いました。 感謝の気持ちをドナーの方に伝えたいというの 前にも書きましたが、規則とはいえお互いが が今の気持ちです。そして私たちのために自ら 会いたがっていればかまわないと思います。こ のリスクを顧みず、骨髄を提供してくださった の感動をみんなに伝えることができれば、もっ ドナーの皆様の勇気と善意に心からありがとう ともっとドナーが増えると思うし、僕たちも直 ございます、と感謝したいです。 接会ってお礼が言いたいし元気な姿を見せてあ これは提供していただいて移植を受けた患者 げたい。ドナーが思うように増えない一つの要 すべてが、私と同じ気持ちだと思います。 因ではないだろうか。財団も面倒だろうがもっ しかし今の日本の現状では、その気持ちを一 と柔軟にやってほしい(財団には感謝していま 通の手紙でしか伝えることができません。それ す)。 は、大変歯がゆい気持ちです。海外では移植後 この機会に分かったことは、ドナーの方には 1年以上たった場合、お互いの同意の下にドナ 提供した患者に会わなくても良いという意見。 ーと患者が対面できる選択肢があることを今回 元患者としては残念ですがそれもしょうがなく のイベントを通して初めて知りました。確かに 思い、ドナーさんの人間性に改めて尊敬しまし ドナーと患者が対面することにリスクがあると た。このようなイベントが各地でできればいい 懸念する声もありますが、今までの海外の状況 なと思いました。 などからみても、マイナス部分よりもプラスの 部分のほうが大であるような感じがします。 現在のドナー数が少し停滞気味であるのもや はり、ドナーの方に患者の感動と感謝がダイレ クトに伝わらないからであり、それを共に分か ち合うことがもっと実感でき、骨髄バンクへの − 26 − はじめまして、もう一人の私 「対面」実現に視点の転換を 畠山茂房 全国骨髄バンク推進連絡協議会・運営副委員長 ●はじめに 私」「公開フォーラム・明日の骨髄バンクを考 今、対面について考える上で必要なのは、禁 える」をはじめとする各種イベントでの経験か 止や許可という従来の「規制」の視点から、 ら多くのことを学んだ。さらに各地団体での話 「共感に基づく支援」という視点への転換であ し合いや運営委員会、代表者会議など様々な機 り、これは現在の骨髄バンクがドナーリクルー 会をとらえて議論を深めてきた。この要望書は、 トやドナーコーディネート、患者擁護や患者負 これらの経験や議論を通して到達した全国協議 担金などの場面で抱えている様々な問題の解決 会としての対面に関する結論である。 を目指すためにも不可欠な考え方である。 ●具体化のためのポイント(主人公は患者) ●要望書 1.対面は移植後一定期間経過したペアのう ち、双方が希望する場合のみ実現 1998年3月23日、全国協議会は会長名で厚生 大臣及び財団理事長に対し「骨髄バンク非血縁 2.申し出は患者側から(会う、会わないは 者骨髄移植における患者・ドナーの対面等につ 患者の自由意志を最優先する。先にドナ いて」と題する要望書を提出した。要望の内容 ーから申し込みがあった場合、患者にプ は「患者とドナーが、移植から一定の期間を経 レッシャーが生じ自由な選択ができにく 過し双方が希望する場合に限って、対面等によ い状況が生まれることが予想されるた る問題点を十分説明の上、双方が希望する方法 め) 3.対面方法は患者の希望する方法で(住所、 で、それぞれの責任で対面や文通を行うことが できる制度としてください」というものであり、 氏名や電話番号などの個人情報を明らか 要望書には対面規定案として、目的、対面条件、 にした上での対面、反対にこれらを明ら 対面方法、説明、責任、誓約の6項目にわたり かにしないままの対面、他人を排した場 要望内容の具体化のための試案も添えてある。 所で当事者だけでの対面、バンク関連の 私たちはこれまでにアメリカ、台湾など海外 イベント会場での対面、文通のみ、ある バンクの視察や、「はじめまして、もう一人の いはプレゼントのみなど様々な方法が考 − 27 − えられるが、方法の選択は患者が行いド 移植時の個別依頼の予防を念頭に置いたものと ナーはこれに応える形になる) 読める。患者をドナーから保護するという逆の 発想がどこから混入してきたかは不明である。 4.自己責任(対面の結果、万が一好ましく ない状況に陥ったとしても、その問題は ●規制から支援への転換を 当事者で解決するものでありバンクシス テムは関与できない。そのためにも事前 私たちは骨髄バンク創成期の慎重さのすべて に十分な説明が不可欠であり、場合によ を否定するものではない。しかし、運用開始か っては何らかの誓約行為が必要かもしれ ら6年が過ぎ、バンクを介した移植カップル ない) 1500組(3000人)の声や、海外バンクの事例か ら学んだことを次世代のバンクづくりに生かす ●現状は一律禁止という形の予防拘禁 努力を怠ってはならない。 骨髄バンク発足当時、この制度には幾重にも ドナーとの対面・文通を希望する患者や、そ 予防線が張られた。その一つが患者とドナーの うした患者の声に応えたいというドナーの意向 直接対面を認めないというルールだ。巷間言わ を無視し、保護に名を借りた規制を続けていて れている対面禁止の理由は、①患者が予後不良 は、共感や信頼に基づく希望に満ちた明日の骨 に陥った場合、患者またはその家族がドナーに 髄バンクはつくれまい。懸念が生じるたびに禁 対して再提供の直接依頼をすることがないとは 止項目を増やすだけの場当たりの対応ではな 限らない②善意から提供したドナーといえども く、困難な状況にあっても当事者の気持ちに思 経済的な苦境に立たされた場合には、苦し紛れ いを馳せ、どうすれば希望が叶えられるか、ど から患者またはその家族に金品を要求すること のような支援が可能かを探る努力こそが求めら がないとは限らない、などである。 れている。 つまり、ひょっとしたら患者またはドナーが ドナーに会ってお礼を言いたいと願う患者が こんなことをするかもしれないし、しないかも いる。自分が提供した相手の元気な姿をこの目 しれない。しかし、万が一にもそのようなこと で見たいと言うドナーがいる。こんな素朴な気 が起きてしまったら骨髄バンクシステムに計り 持ちすら、日本のバンクは応援できないという 知れないダメージが生じてしまうから、初めか のか。 らお互いに知り合えないよう、禁止を前提にし 重ねて言う。できない理由を並べるのは簡単 た仕組みにしておけば何も起こり得ないという なことだ。その隙間から、できる方策を見いだ ものである。 すことこそ、事業を推進する者の責任である。 しかし、これは結果としてすべての患者、ド ナーを疑いの眼差しで捉えることになってい る。万が一の事態に備えることは必要であって も、その手段が一律の全面禁止というのでは、 あまりにも安易でありかつ失うものが多すぎる とは言えないだろうか。 ただし、現行の対面禁止の根拠とされている 平成2年度厚生科学特別事業「骨髄バンク組織 に関する研究」報告書の中の「ドナーのプライ バシーの保護及びレシピエントからの完全な独 立のための方策を十分講じる必要がある」との 記述は、ドナーを患者から保護する、つまり再 − 28 − 特別寄稿 私とボランティア活動 匿名 ☆娘と私 しばらく考えた様子の娘は、移植はしたくない と言う。困った私は、輸血もお注射も、そして 私には、娘がいてとても幸せだと思う。 先天的に赤血球だけを造れないという珍しい病 移植も全部、代われるものなら代わってあげた 気を持つ娘は、健康に生まれてきた私よりも、 いと思うけれど、どうしてもできないから頑張 ずっと大変な思いをしているのかもしれない。 って欲しいと言った。その後、滅多に泣いたこ 娘が生まれてから現在にいたるまで、私は出 とのない娘は、ポロポロと涙をこぼしながら、 来るだけ普通の子育てをしてきた。いつかは、 代わってくれなくてもいい、母親の私がつらい 絶対に元気になると信じていたけれど、それで 思いをするくらいなら自分が受けると言った。 も時には、娘の将来を不安に思うことがあった もうすぐ8歳になろうとしている娘は、髪の し、心配を通り越して悲しみに変わる時もあっ 毛なんか抜けたってまた生えてくるから平気だ た。けれど、それは私のものであって、娘は自分 と笑って見せる。私は、この娘を持てたことを を悲しいなどと考えてはいないと思っていた。 心から幸せだと思っている。 2歳になったばかりの頃、娘は名古屋の病院 ☆出会いと始まり に入院した。たくさんのお兄ちゃんやお姉ちゃ んに刺激されて、少しずつ言葉を憶えはじめた。 最初に骨髄移植という言葉を聞いたのは、娘 その時の私は、望んだような治療の結果が得ら が1歳になる前のことだったと思う。もしかし れなかったので、沈んだ顔をしていたのだと思 たら娘には、この治療法が有効かもしれないと、 う。娘はたどたどしい口調で、「心配ちゅるな ドクターからお話があり、雑誌の切り抜きを頂 よ」と私に言ってくれた。本当に驚いた。 いた。日本には東海バンクという民間の骨髄バ そして昨年の秋、7歳になった娘は、骨髄バ ンクはあるものの、公的な骨髄バンクがまだで ンクに患者登録をすることになった。3歳頃か きていない為、設立を求める動きがある、とい ら娘には、病気について説明をしてきた。移植 う内容のことが書かれていた。その記事につい を受けるとなると、これまで経験したことのな て問い合わせをしたのが、藤岡さんとの出会い い厳しい状況になる事も考えながら、話をした。 だった。 その後、ベビーカーに娘を乗せてビラ配 − 29 − らったおかげで何人かメンバーも加わり、会場 りや署名運動のお手伝いをするようになった。 も教会を併せ持つ幼稚園のご協力を得られて、 娘の2歳の誕生日に、阪本記念再生不良性貧 血シンポジウムが名古屋で行われた。娘が造れ さらに友人知人を総動員したら、とても立派な ないのは赤血球だけなのだけれど、同じ病気の バザーができた。夏の盛りの暑い日だったが、 人には会ったこともないし、聞いたこともない たくさんの人が集まって下さった。 ので、他の血液の病気の治療のついでに特効薬 次は、もう少し話題になるようなことが出来 が見つかるのではないかと期待していた。その ればいいと思い、伯母に相談してみると、狂言 会場で小島先生にお会いし、相談に乗って頂い 会がいいのではないかと、人間国宝の茂山千五 た後、プレドニンのパルス療法を受けてみる事 郎氏(現・千作氏)の連絡先を教えてくれた。 になり、娘は名古屋の病院に入院した。 早速、千五郎夫人にお願いに上がったところ、 考えれてみれば当然のことだけれど、周りに 快諾して頂き、会場も、湊川神社能楽堂に決ま いる子供が(血液には限らないが)、みんな何 った。日程の都合を合わせてみると、ちょうど かの病気を持っているということに驚き、旅立 バザーから1年後になった。本来なら、無作法 って行く小さな命がある事を目の当たりにし で何も分からない素人が入り込むのは、難しい て、本当に恐ろしいと感じた。当時、娘には20 世界なのかも知れないが、ボランティアの取り ∼30%の自然治癒もあると思っていたし、リス 組みということで、茂山一門の方々と、能楽堂 クを考えると、移植以外で治る可能性を信じた の管理をしておられる能楽師の馳川氏に全面的 いと思っていた。でも、もし移植が必要になっ にご協力を頂けた。 たとしたら、その時に慌てても何もできない。 ただ、みんなが大変なので、これからは真夏 のイベントは避けようと誓った。 親が出来ることはほんの僅かなことだけれど今 のうちに動いておかなければと、そう思った。 この年、MBSのキャンペーンで骨髄バンク 家に帰ってから、小さな子供を抱えながら、自 の名称がかなり広がって、関西圏の高校や大学 分に出来ることは何かを考えた。 の学祭でも取り上げられるようになった。私も 近くの高校へお手伝いに出かけた。 私の住む地域には、まだボランティアの組織 がなかった。個人的に活動をしていた人達と藤 その頃、骨髄バンクの窓口だった市の保健予 岡さんを通じて集い、小さな会が出来た。牧師 防課の人達もボランティアの取り組みを認めて さんが1人、新聞記者さんが1人、患者家族が 下さるようになってきて、次の年、課で健康バ 3人、全部でたったの5人。話し合いの結果、 ザールというイベントをすることになったの とにかく骨髄バンクの知名度がまだまだ低いの で、舞台で何かして欲しいとお声が掛かった。 で、知って頂くための草の根的な活動やイベン 日程は、また7月。でも、せっかくのチャンス トを行おうということになった。 を逃すようなことはできない。その時、前の秋 に出かけた高校の先生と生徒達の顔が浮かん ☆狂言会とお芝居 だ。お芝居をするのはどうだろうかと思い、お 願いしてみたところ、参加して下さるとの事。 活動は、ドナー候補者の人も含めて、たくさ んの人を巻き込んでいかなければならない。そ 急いで脚本を書き上げ、医学用語の部分は京大 れには楽しそうで、外から見て、自分も仲間に の秋山先生にチェックして頂いた。学校へ行っ なりたいと思えるような活動をしよう。もっと てみると、先生は既に必要な人数の生徒を集め、 欲を言えばおしゃれな集まりになろうなどと、 体育館を練習場所に使えるように手配して下さ 贅沢な発言も出てきた。とにかく何をするにも っていた。生徒は全員2年生で、演劇部の3人 資金が必要なので、まずは、バザーから始めよ を中心にクラブの部長やクラス委員などの7 うということになった。新聞に記事を載せても 人。そろそろ受験準備という時期だったのに、 − 30 − 貴重な夏休みの前半をお芝居の練習に充ててく 不安である。だからといって他にどうしようも れた。練習を始めると、先生も生徒も大人も関 ないことも分かってはいるものの、親として 係なく、いつの間にか、すっかり仲間になって 色々悩まずにはいられなかった。財団の中にも、 いた。暑くて大変ではあったけれど、それ以上 全国協議会やボランティア団体の中にも、私た に楽しかった。当日は、エキストラや大道具、 ち親子の比ではないくらい努力をしてこられた 幕引き等、たくさんの人数が必要で、また友人 人達がいる。ご自分にとって、もっとも大切な 知人を駆り集めて奈良の会からも応援に駆けつ はずのお子さんの命は繋げなかったけれど、他 けてもらい、大成功を収めた。 の人のために力を尽くして下さる人がある。そ つい先日、お芝居に出てくれた女の子から手 ういう方々の思いやり、ドナーになろうと、或 紙が届き、「私も、バンクにドナー登録ができ いはなって頂いた人達の他人への愛情、それ無 る年になりました。申し込み用紙を送って下さ くしては、骨髄バンクの事業は成り立たない。 い」と書かれていた。 それを決して忘れてはいけないと思う。 ☆感謝の気持ち ☆おまけ これまで、娘の元気を維持するために関わっ 友達から、私はいつも走っているとよく言わ て下さった先生方、つまり、最初に病気を見つ れる。だけど、それは急いでいる時だけで、む けて下さって、今も輸血して頂いている舟田俊 しろ、ボーッとしていることの方が多い。その 平先生、最初にバンクの記事の切り抜きを頂き、 上、大変なドジだ。 いつでもいろんな可能性を求めていくように 先日も、バスかびを退治しようと景気良く薬 と、母親としての在り方を教えて下さった西村 剤をスプレーしていたら、いつの間にかドアが 清子先生、今もお注射でお世話になり、バンク 閉じていて、2日くらい物が食べられなかった へのご寄付を含めて、いつも支援をして下さる ことがある。その前は、ベッドの布団カバーを 小野一広先生、そして、これまでの入院治療と、 取り替えていて、気が付くと自分も中に閉じ込 これからの難しい治療に携わって下さる小島勢 められていたりする。でも、そんな私に「一緒 二先生。どの先生にも心から感謝しているし、 にいたら何をさせられるかわかれへん」と言い お会いできた娘は、ラッキーだったと思う。そ ながらも、勝手な思い付きの度に付き合ってく して、献血をして下さった人々の存在がなけれ れる友達がいて、本当にありがたいと思う。 ば、生きることさえ困難だったろう。これから 今年の私のお誕生日に、玄関のドアから入らな 先のことを考えてみても、バンクを作ることに いくらいの大きな箱が3つ届いた。驚いてふた 関わって下さった人達、骨髄バンクにドナー登 を開けると、フワフワと中身が浮かんで来た。 録して下さった人達にも心からのお礼を言いた 透明の風船の中にカラフルなハートが泳いでい い。それが親としての感謝の気持ちである。 て、とてもメルヘンチックな光景だった。送り 私の場合、移植を望む患者家族になったのが 主は、遠くへ嫁いだ学生の頃からの友達。CM 昨年の秋だから、それまではボランティアと呼 を観た彼女からのメッセージのような気がし ばれることに違和感がなかった。患者登録をし て、言葉に言い表せないくらい嬉しかった。 てからは、患者家族だからCMやTVに出たりす 自分達の手では、何ともできない大変なこと ることも含めて、努力するのが当然と言われれ もあるけれど、娘は将来、アメリカに住みたい ば当然かもしれない。ただ、移植を受けること のだと言う。娘の心がこんなに羽ばたけるのは、 も、患者登録して以降のボランティア的な努力 多くの人のあたたかさに包まれているからだと も、娘がまだ幼いので、親の意志で決定してき 思う。その気持ちを大切にしながら、これから た。将来、娘がこのことについてどう思うかは も活動のお手伝いができたらと思っている。 − 31 − hideさんを偲ぶ 優しさと、愛と勇気をありがとう ──真由子さんとの交流を軸に── 遠藤 允 全国骨髄バンク推進連絡協議会事務局次長、ジャーナリスト ●1998年5月 誰もが感じたであろう同じ印象を、私も持っ 2日付朝刊のテレビ番組に目を通して、「X た。自ら骨髄バンクにドナー登録したのは、和 ジャパンの軌跡・『ラストコンサート・イン東 歌山市の貴志真由子さんとの交流があったから 京ドーム』」の告知を見た。NHK総合テレビで だ。そして登録を機に、全国コンサート会場で ある。3日午前1時15分(業界用語では2日25 の募金活動を認めてくれた。 時15分)からだった。 「あれほど、優しさを見せたhideが、どうして 自殺なんかを……」 あとで分かったのだが、1月に衛星第1で放 送したものの再放送だ。深夜とはいえNHKと やがて、インターネットを利用した全国協議 あってみれば、年末の紅白歌合戦に出演したこ 会のメーリングリストに、所属事務所がマスコ とを差し引いても、解散してなお余りある人気 ミに流した「訃報」を、野村正満氏(現運営委 を保っていることを如実に物語っていた。 員長)が転載した。書き出しはこうだ。 「hideこと松本秀人儀、突然の呼吸困難により 18時のテレビニュースを見ていたら「hideが 5月2日午前8時52分死去いたしました」 自殺した」と報じている。 どうも自殺とは違うようだ……。そう思い始 「そんなバカな!」 − 32 − めた私の直感は、やがて確信へとつながってい 計の役を受け持っているが、そのころはまだ真 くのだが、その理由はのちに紹介したい。 由子さんの治療方法として骨髄移植が有効であ ることは分かっていなかった。何しろ、病名す 本稿で、さん付けでなく「hide」と表記する のは、ファンのほとんどが親しみを込めてそう ら確定できていなかったのだ。 呼んでいるのに倣ったためである。 「これだけ検査をして、さまざまな薬を使って も分からないのでは、『この病気』しかないの ●世界で23例目の超難病 ではないか」 貴志真由子さんは活発な女の子だった。小学 そう予測を立てた田中医師は、酵素研究の権 校への入学を待ち焦がれたのは、姉の仁美さん 威に検査を依頼した。真由子さんが体調不良と と一緒に通おうとした少林寺拳法の道場が幼稚 なって1年を経た92年12月のことだ。両親が病 園児を受け入れていなかったからだ。1年生か 名を告げられたのは、年末年始の外泊を終えて らの稽古のかいがあって、5年生の91年11月、 病院に戻った93年1月である。 初段になった。 「GM1ガングリオシドーシス・タイプ3」 身体に変調をきたしたのは、直後の12月にな 先天性代謝異常のひとつだが、家庭の医学書 ってからだった。疲れているような様子を見せ などには載っていないほど珍しい病気だ。のち 始めたのだ。翌92年1月に日赤和歌山医療セン に分かるが、真由子さんが世界で23例目、しか ターで1週間の検査入院をしたが、主治医の田 も最年少という難病中の難病だった。 中江里子さんは首をかしげるばかりで、診断が 下せない。 これは難しい病気かもしれない……。 そう感じた父・政人さん、母・和子さんは主治 ●進行を遅らせるには骨髄移植 この病気は、分解されなければならない酵素 医に告げた。 が脳に蓄積し、末梢神経を徐々に冒しながら運 「真由子のためなら、どんなところへでも行き 動機能を低下させていく。だが、知能に影響を ます」 及ぼすことはない。治療法は確立していないが 紹介されて訪れた京都の病院の医師には、の 一つだけ、「進行を遅らせる可能性がある」と っけからこう言われた。 されているのが、骨髄移植なのだ。白血球の中 「すぐに入院が必要です。ただ、私が考える病 に分解に必要な酵素があるため、健康なドナー 気なら和歌山でも治療できるはずです」 からの移植によって、その酵素をつくり出そう 真由子さんは11歳の誕生日翌日の3月5日、 日赤和歌山に入院した。これが、長い闘病生活 というわけである。 骨髄移植の可能性が両親に伝えられたのは、 の始まりとなったのである。 診断後だったが、骨髄移植は必ず結果が出る。 だが、診断はなかなか下されなかった。2カ すべてが「良好な結果」となるわけではない。 月ごとに薬を換えてみるが、効果があらわれな そのときの田中医師の判断は、「移植に臨むよ い。田中医師にも神経系統の病気とまでは分か りは、このまま推移を見守ろう」ということだ るのだが、「これ」と確定できないのだ。真由 った。そう長くはもつまいと考えたようだ。 子さんは、少しずつではあるが発語と歩行に障 中学1年となった93年9月には、知人の紹介 害を見せ始めていた。 を受けて中国・上海の病院にまで行ったが、東 和歌山骨髄献血の和を広げる会が旗揚げした 洋医学でも対応のしようがないという。真由子 のは、この年10月だが、両親は再生不良性貧血 さんの障害は、少しずつであれ確実に進みつつ の子どもを持つ知人に誘われてボランティア活 あった。一家は骨髄移植に期待をかけるように 動に乗り出すことにした。政人さんはこのとき なる。家族のHLAを調べたが、政人さんと長 から2年間、会長を務め、和子さんはもっか会 女の仁美さんは、真由子さんとは2座違ってい − 33 − た。 的にしたボランティア団体がある。メイク・ 「骨髄バンクしかない」 ア・ウィッシュ オブ ジャパン(MAWJ)だ。 そう考える両親に、田中医師は本当に移植に 1980年にアメリカで始まったこの運動は、日本 臨んでいいのかどうか、何度も念押ししたが、 でも92年12月に立ち上がった。初めての夢は93 一家の最終決断は真由子さんの言葉によってだ 年3月に実現したが、この団体を紹介する記事 った。 が、公的骨髄バンクを支援する東京の会発行 『東京の会通信』第41号(95年9月)に掲載さ 「寝たきりのまま生きててもしょうがない。進 れた。 行が止まるなら骨髄移植に懸けたい」 真由子さんは、病名ばかりかどんな経過をた この『通信』は貴志さんの家にも届けられて どるかもすべて知っている。その後も折に触れ いる。書類を整理していた和子さんが、何げな て、真由子さんは自ら決断することになる。骨 く読んでいるうちに「これだ!」と直感した。 髄移植推進財団への患者登録は、94年1月だっ 移植の見通しもはっきりしておらず、このまま た。 では真由子さんにはなんの楽しみもないことに だが、 待てど暮らせどドナーはあらわれない。 なる……。政人さんの職場に電話して了解を得 てから、すぐMAWJに電話をした。 95年7月、両親は「CD34陽性細胞移植」があ ることを知った。教えてくれたのは、大阪で骨 9月末には事務局の大野寿子さんらが自宅を 髄バンク運動を進めていた平田浩三さん・和子 訪れた。子どもの夢を本人に確認するためだ。 さん夫妻だ。浩三さん自身、慢性骨髄性白血病 「真由子さんは、どんな夢をかなえたいの?」 でドナーを探していたが、やはり適合者はあら 和子さんから知らされてはいたが、本人の声 を直接聞きたい。 われなかった。 「X-JAPANのみんなと、ディズニーランドへ行 この陽性細胞移植法を日本で初めて実施した きたい」 のは東海大学病院で、それが新聞記事に載った のを目にした夫妻が「これしかない」と決断し、 グループ全員というのは難しいかもしれな 一家で病院のある神奈川県伊勢原市に転居し い。2番目の希望も聞いておきたい。 た。浩三さんは小学生の長男をドナーとして95 「じゃあhide! hideに会いたい」 夢の希望が有名人との対面である場合、実現 年10月に移植を受けることになっていた。 するとは限らない。所属事務所の方針で協力し 「それなら真由子にも」 両親は、さっそく小児科の加藤俊一助教授に てもらえないケースもある。だから、第1号の 電話をかけた。だが、加藤助教授にも積極的に ウィッシュ・チャイルドからずっとそうなのだ 勧めるわけにはいかない事情があった。数例の が、3番目の希望まで聞くことにしている。3 実績しかないのだ。平田さんがようやく8例目 番目も同じだった。 だから、まだ「実験段階」ともいえる状況だっ 仕方なく大野さんは、4番目……と尋ねてい たのである。このときは、移植への話に具体的 ったが、真由子さんは9番目までの希望をすべ な進展はなかった。 て「hide」で押し通した。 帰京した大野さんは、さっそくhideの所属事 なお、平田さんは移植後の96年4月10日に EBウイルスによるリンパ腫で亡くなったが、 務所に連絡をとった。hideはロサンゼルスに滞 本誌第2号に「患者の手記 家族の愛に囲まれ 在しているという。 て…(絶筆)」が掲載されている。 「たぶん、大丈夫だと思いますよ」 事務所のスタッフは、いとも簡単に言ったが、 ●ひたすら「hideに会いたい!」 大野さんはまさか? と半信半疑だった。2週 「難病の子どもたちの夢をかなえる」ことを目 間後、そのとおりの回答を得て大野さんは思っ − 34 − 移植することになったのである。 た。 「hideって、優しいんだな。それに、いい事務 ●対面後の思いがけない歓待 所だわ」 それから大野さんは慌ただしい日々を過ごす 1995年大晦日の東京ドームは、コスチューム ことになる。真由子さんは9人目のウィッシ プレイのファンであふれ返っていた。最後の2 ュ・チャイルドだが、8人目までの子どものう 曲をステージの真ん前で楽しんだ真由子さんら ち、3人はマスコミに取り上げられたものの、 は、興奮さめやらぬまま控え室に移動した。 それは地方にとどまっていた。できれば、全国 待つ間もなく、ステージ衣装のままのhideが 的にもっと活動を知ってほしい、難病の子ども あらわれ、しっかり握手してくれた。真由子さ たちにもっと願いを出してほしい。そう考える んが紙包みを手渡す。この日に備え、手編みで と、かなうことなら真由子さんとhideの対面を 作り上げた毛糸のマフラーが中に入っている。 マスコミに取材してもらえれば……。貴志さん 包装を解くhideの手がうまく動かない。 一家は「骨髄バンクの推進に役立つなら」と承 「おっちゃん、ステージ終わったばかりで、手 諾した。hideもマスコミに身をさらすことに理 が震えてる」 解を示した。 マフラーをすぐ首に巻いたhideの笑顔と、真 こうして、12月31日の対面が実現することに 由子さんの笑顔が交錯して、控え室を温かく包 なったのだが、大野さんは「会って終わり」だ んだ。今度はhideからのプレゼントだ。ケース と思っていた。貴志さん一家のみんなも、同じ から出したギターに、蛍光ペンでサインをして 気持ちでいた。それが、予想を超える展開にな 記念写真に収まった。このギターはhide指定の ろうとはだれも考えていなかった。 もので、 日本でたったの1本、大阪の楽器店にし 一方、真由子さんと両親、姉の仁美さんは12 かないものを、MAWJのボランティアが運んで 月25日、移植についての話を聞くため東海大学 間に合わせたのである。 真由子さんが口を開く。 病院に加藤助教授を訪ねていた。加藤助教授の 「2月から入院するけど、手紙を書くんで、お 事前説明は徹底していることで定評がある。こ 返事をください」 のときも2時間に及んだ。そのうち「希望の持 「OK。頑張ってね、頑張ろうな」 てる内容」は、せいぜい20分くらいで、あとは そんなやりとりを聞いていた両親は、実は期 失敗の可能性を含めて「希望をくじく内容」だ 待していなかった。hideは手紙嫌いと聞いてい った。 たからだ。 それ以前に一家は、ある国立大学病院の専門 対面の一部始終をテレビカメラが追い、スチ 家に「真由子さんの病気の場合、骨髄移植の成 ールカメラのフラッシュがたかれたが、マスコ 功率は30%程度」と言われたことがある。 ミは15分ほどで引き揚げていった。 「この場では結論を出さなくて結構です。一晩 「これで、おしまいなんだろうな。私たちもホ じっくり考えて、それでも迷いがなければやり テルに戻らなきゃ……」 ましょう」 和子さんはそう考えていた。超有名な芸能人 加藤助教授はそう告げたが、真由子さんは即 が、たまたま難病の子に会ってはくれたが、そ 座に答えた。 れも仕事の一環なのだろうと、対面が決まって 「わたし、移植を受けます」 からずっと思いつづけてきたのだ。それでもい それでも、一家はいったん持ち帰った。しか い、これから細胞移植を受ける真由子にとって、 し、真由子さんの意志が最優先され、移植に臨 大きな励みになったにちがいない。だから、ひ む決断が下されたのだ。ドナーは仁美さんと決 とつだけお願いをしておこう。 まっていたから、高校が休みになる3月以降に 「あのう、真由子が入院していた和歌山の病院 − 35 − ●「兄」になったhide の看護婦さんに、サインをお願いできないでし ょうか」 両親が半信半疑だったhideの手紙が、ほどな 熱烈なhideファンの看護婦に頼まれていたの く和歌山の自宅に届いた。便箋2枚にコンサー だ。気軽に請け合ってくれた。 トの折の印象がつづられ、3枚目にhideのサイ 「真由子をよろしく」 ンが躍っていた。 そう添え書きするhideを、和子さんは見つめ hideの支えを背に、真由子さんは96年2月19 直した。確か、一度だけ出した手紙に病気のこ 日、東海大学病院へ入院した。真由子さんは3 となどを書いたはずだが、名前をきちんと覚え 月4日に15歳の誕生日を迎えた。 ていてくれたことに、目頭が熱くなった。驚き このときロサンゼルスにいたhideは、13日帰 は、さらにつづく。 国の予定を1日早めて12日のうちに成田に着 「じゃ、行こうか」 き、13日に病院へやってきた。見舞いというよ hideが真由子さんの手をとった。行くって、 りは、真由子さんの顔を見に来た、という風情 どこへ? 和子さんは一瞬、聞き違えたと思っ だった。 た。真由子さんと手をしっかりつないだhideが、 「ごめん、アメリカでお土産を買ってこられな ぽつりと言う。 くって」 「これから、打ち上げがあるんだ」 そう言いながら、日本で買った万華鏡を真由 歩行が不自由な真由子さんの歩みに合わせ 子さんに手渡した。 て、hideがゆっくり歩く。相変わらず、しっか この翌日、ドナーとなる仁美さんから骨髄液 り手が握られている。 が採取された。注射が大嫌いな仁美さんにとっ 打ち上げ会場は立食パーティーにしつらえて て、本来ならやめたいところだが、妹のために あった。hideがすぐ折り畳み椅子を探し当て、 はそんなことを言っていられない。さらに、28 真由子さんのために会場中央に置いた。部屋の 日と29日には末梢血幹細胞を採取されたが、こ 隅にあるクーラーボックスからウーロン茶を取 れは事前に幹細胞を増やすためのG-CSFが注射 り出し、プルトップを開けてストローを入れて される。仁美さんは真由子さんのために、ひた から、真由子さんに手渡してくれた。 すら注射の恐怖に耐えた。 (椅子もウーロン茶も、こんな有名人なんだか 真由子さんは18日から前処置が始まっていた らマネジャーに命じても、不思議じゃないのに が、待ちに待った移植は28日と29日だった。 ……) 移植のあと大切なのは、ドナーからの造血細 和子さんばかりか、政人さんも仁美さんも、 胞が新たな血液を造り出すかどうかだが、それ 次々と立ちあらわれる光景を信じられない思い が確認できる前に真由子さんは危機を迎えた。 で見つめていた。 移植当日から、心臓の周りに水が溜まり始め 「ダチの真由子、よろしくな」 ていたのだ。4月1日に110ccほど抜き取った X-JAPANのメンバーに、そう紹介しながら が、それでも溜まってしまう。3日にもう1回 hideの表情は生き生きしていた。真由子さんの 160cc抜いたが、真由子さん自身はいわゆる 表情も輝いていた。 「虫の息」状態にまでなっていた。 打ち上げが終わり、会場の外へ出るときも 主治医の加藤助教授は、ほとんど覚悟を決め hideは真由子さんの手をしっかり握り、もう一 た。治療中は無菌室の中に家族が立ち入ること 方の手に持った懐中電灯で足下を照らした。控 はできないが、交代での入室を許可したのだ。 え室へ向かうとき、リーダーのYOSHIKIも真 「ご家族の皆さまにお集まり願います」 由子さんの手を握ってくれ、3人が横一列に並 和歌山の自宅には真由子さんの祖父母がい んで歩いた。 る。それに仁美さんが帰宅したばかりだ。すぐ − 36 − に呼び戻した。 う時期にEBウイルスに襲われてしまったのだ。 「なんとか、どうにかならないものか……。せ 無菌室から一般病棟に移る前日の5月8日に、 めて、hideさんの声だけでも」 平田さんの死去を加藤助教授が伝えたら、真由 子さんはけなげに答えた。 4日の朝、和子さんは矢も盾もたまらずhide 「平田さんの分まで頑張りたい」 の事務所に電話をかけていた。夜に入って危篤 状態になる3日午前中に二人は電話で話してい 真由子さんは、9月に退院するのだが、その たから、せめてもう一度と思ったのだ。しばら 前後にhideと全国協議会をめぐる動きが急速に くして、hide自身が電話をかけてきた。 高まることになる。 「オレ、これから行きますから」 ●ドナー登録と協議会への協力 反応している間もなく電話が切れた。午後に は普段着のhideが無菌病棟にあらわれた。hide 96年8月13日、日赤中央骨髄データセンター は無菌室の中にこそ入れなかったものの、ガラ でhideはドナー登録を果たした。少し前、和子 ス越しに真由子さんをじっと見つめた。和歌山 さんが事務所のスタッフらと話しているとき、 から祖父母、仁美さんも到着していたころで、 登録はどうすればいいのかといった話題にな 病院関係者には家族全員がそろって真由子さん り、『チャンス』を事務所へ持っていく約束を を励ましているように見えた。 していた矢先だった。 このとき、hideは真由子さんの兄になった。 マンションに電話があったのは、登録の2日 インタホン越しに、 兄は妹に約束したのである。 前だった。 「今度出るCDのラベルに、真由子の名前を印 「あ、登録してくれるんだ」 刷するんだよ。だから、頑張れ!」 それまで、貴志さんのほうからは一度も頼ん 真由子さんはもうろうとしていたようだが、 hideが来てくれたことは覚えているという。4 だことがない。 これには、ライオンズ日本財団の加藤正見理 カ月後にhideは骨髄バンクにドナー登録をする 事長の尽力があった。 のだが、記者会見でこのときの心境をこう答え 当日は、マスコミが殺到した。ところが、ち た。 ょっとした混乱が起きたのである。登録のため 「(真由子さんの)顔を見たかったし、 (自身の) の説明、採血現場は取材おことわりとなってし 顔を見せたかったから」 まったからだ。取材陣は初め、hideが嫌がって この日を境に危機を脱した。10日後には白血 いるのかと思ったが、日赤側の堅い対応だとわ 球が1マイクロリットル当たり1000を超えた。 かった。 それからは順調そのものの回復ぶりを示したの 92年6月にタレントのケント・デリカットさ である。のちに放送されたテレビは「奇跡が起 んと歌手の刀根万里子さんが、同じ中央データ きた」と報じた。加藤助教授が振り返る。 センターでそろって登録したときは、大部屋で 「医師の立場から言えば、hideさんだけの力が の採血の場面をすべて取材できた。そのころに あったからではなく、家族の誰かが必ずいて、 比べて、 日赤の雰囲気はいささか変わっていた。 真由子さん自身も非常に我慢強く、それに昼夜 そのため、中の様子を知るには一緒に登録し を分かたぬ医療スタッフの努力もあって、これ たほうがいい、とばかりに小部屋に入っていく らが複合した結果でしょう。私は、とても無理 記者らが5人もいた。うち女性リポーターは比 かなと思っていたのですが……」 重が低くて登録できなかった。 確実に回復しつつあった4月10日に、平田浩 登録を終え、ドナーカードを持ったhideが会 三さんが亡くなった。前年10月にCD34陽性細 見場にあらわれてから、登録の動機などが質問 胞移植を受けた平田さんは、もうすぐ退院とい された。真由子さんとの交流を知らない記者も − 37 − いたりしたが、hideはこんなことを答えている。 達した。 「あんなちっちゃな身体で、そんな大きな病気 と闘っている。ぼくは何をしたいんじゃなくて、 ただ頑張ろうと言っているだけですけど、闘っ ている姿にひかれますよね」 これほどに患者への思いやりを持っているな ら、超有名人でもサインをねだって大丈夫だろ うと考えた記者がいる。毎日新聞社会部の小野 博宣さんだ。折から連載中のガンの子どもたち を追跡したキャンペーン記事の中に使うためで 募金のため財布を取り出すファン(1996年9月4日、横須賀) ある。 h i d e 小 野 記 者 の 求 め に 気 軽 に 応 じ て サ イ ン す る 9月に退院したばかりで、伊勢原の仮住まい マンションで生活していた真由子さんは、ツア ー初日の横須賀のコンサートに和子さんと出か けた。病院からは、多数の人混みの中に入るの は感染症にかかる危険性があるからと、止めら れてはいたのだが、過酷な移植後の危機を乗り 越えた真由子さんが、hideの個人ツアーに出か けないわけがない。 ●親を超えてしまった真由子さん hideは、いとも気軽にサインしてくれた(冒 真由子さんは、危篤状態から徐々に回復した 頭ページ参照)。あまりにあっさりした対応に、 時期、つまり4月には通信制の和歌山県立陵雲 小野さんのほうがあっけにとられるほどだった。 高校に入学していた。入学式には政人さんが代 この8月は全国協議会にとって多忙であっ 理出席していたのだが、退院後も勉強のほうは た。上旬には海部幸世会長を団長に台湾骨髄バ ままならなかった。すぐには自宅に帰れず、病 ンクの視察団が台湾に赴き、中旬には国際フォ 院への通院に便利なように、伊勢原市内に和子 ーラムを東京で開催した。そんなところへ、秋 さんと二人で仮住まいを始めたからだ。初めは に開催されるhideの全国ツアーでの募金活動が 民間の賃貸マンションだったが、その後、 可能になったのである。 BMTハウスサポートの会の斡旋で、低価格の 9月4日のよこすか芸術劇場を皮切りに、10 マンションに移った。 月20日の代々木第一体育館まで、全国20回のコ 97年2月、急に熱が出始めた。感染症の可能 ンサート会場で「骨髄バンクにご協力を」と募 性があるため、病院では抗生物質を打ったが効 金ができることになった。募金者に手渡すバッ かない。同じ移植法を受けた平田浩三さんがか ジも、hideがデザインしたものが所属事務所か かったEBウイルスの可能性が疑われ、28日に ら提供されることになり、全国協議会は加盟団 は再入院となったが、熱は38度から39度にまで 体と調整しながらスケジュールに対応した。 上昇した。 全国協議会とライオンズ日本財団のボランテ 3月13日には、ドナーリンパ球輸注(DLT) ィア延べ550人が、募金箱を抱えてコンサート がおこなわれた。日本ではまだ症例が少ないの 会場の外に立った。20回のコンサートの観衆は だが、この療法はドナーから採取したリンパ球 延べ6万人を超え、募金総額は670万円近くに を患者に注射して、白血病細胞をたたくもので、 − 38 − ようと決めていた。 再発防止に役立つとされている。真由子さんの hideとの交流はテレビでかなり紹介された 場合はEBウイルスを抑えるのが目的だった。 が、初めディレクターが仮名にしてもいいと提 真由子さんのドナーとは当然、姉の仁美さん となる。1週間後に熱が下がり始め、EBウイ 案したときも、きっぱりと言い切った。 ルスも消えていった。つまり、真由子さんは仁 「この世から、私という存在を、仮名によって 美さんに二度、救われたことになるのだ。 なくしたくない」 移植の前処置で、副作用によって髪の毛が抜 ちょうど同じ時期、小児科病棟では4人の患 者が危険な状態に陥っていた。うち真由子さん けることも全く気にかけなかった。 ら二人がなんとか危機を脱したのだが、もう一 「病気になったのは私の責任じゃないから、恥 人の患者の誕生日が3月27日だった。その日、 ずかしくもなければ隠す必要もない」 こうした真由子さんの言動に、両親は「親と 真由子さんが和子さんにねだった。 「誕生日のプレゼントをあげたい。1本ずつ数 して、もう教えるものは何もない」と思うとと えられる花を10本ね」 もに、hideからもらったものがすこぶる大きい と感じている。 和子さんは、勘違いしていると思った。その 4月に仁美さんは福岡県内の薬科大学へ進学 男の子は9歳の誕生日なのだ。 「いいの。だって、9歳の誕生日なんだから、 した。薬剤師の資格を得て、薬剤の研究・開発 また10歳の誕生日まで頑張れるように10本な に取り組みたいと考えたからだ。妹の病気に効 の」 く薬がなかった。それなら、妹と同じように薬 に困った患者のために何かをしたいと考えた結 びっくりしたのは和子さんのほうだ。 果だった。 (この子は、こんなことまで考えるようになっ 真由子さんは97年6月19日に再入院から退院 たのね。きっと、前向きに考えようとするhide したあと、9月27日には両親とともに和歌山の さんからもらったんだわ) 自宅へ戻った。その直前、X-JAPANが解散宣言 残念ながら男の子は4日後に容態が急変して を出し、真由子さんを寂しがらせた。 しまったが、のちにこの話を聞かされた政人さ んも舌を巻いた。幼いとばかり思っていたわが それを少しでも和らげてくれるのが、hideと 子が、親を乗り越えてしまったように感じたの のE-Mail交換だった。ロサンゼルスに行くこと である。 の多いhideは、ほかにもスケジュールがいっぱ い詰まっていて、電話もそうそうかけるわけに 真由子さんの「しっかりぶり」を示すエピソ はいかない。メールなら、いつでも送れるから ードは、ほかにもある。 日赤和歌山に通院していたころ、治療方針を とhideが勧めてくれたのだ。それにhideのホー 聞きに行くため、大阪のある大学病院を訪ねよ ムページに真由子さんへのメッセージが書き込 うとしたときのことだ。真由子さんがいきなり めるコーナーまでつくってくれた。 怒りだした。わけが分からず手がつけられない 真由子さんとhideとの交流は、hideのファン 両親は、その理由を探るのとなだめる役割を仁 なら全員が知っている。ホームページに書き込 美さんに任せた。 んでくるファンのうち、「これなら大丈夫」と 「病気のことを本人に相談しないまま、家族で いう内容のものだけを、hideが転送してくれる 決めることが納得できない」 のだ。これを機に、真由子さんのメール友達も 増えていった。 これが、真由子さんの怒りの理由だった。真 X-JAPANのさよならコンサートは大晦日に東 由子さんにはただ「大阪の病院へ行こう」とし か伝えなかったのだ。中学1年のことである。 京ドームで開かれた。ドームの周囲には、コス そのころから、両親は真由子さんの意志に任せ チュームプレイの若い女性が相変わらず押し寄 − 39 − せていたが、真由子さんの周りにもそうしたフ 本願寺の周りはまさに十重二十重の行列で、献 ァンがやってきては、一緒に写真に収まったり、 花台に向かうファンに向けて、ファンクラブの あいさつをかわしたりしていく。 スタッフが「静かに見送ってあげてください」 全国協議会も前年秋のhideのコンサートツア と声をからしているのが印象的だった。そうし ーのときと同じように、会場周辺で募金活動に た姿があるからこそ、行列が去ったあとのゴミ 取り組んだ。 の後片づけにファンたちが行動したのは、不思 議でもなんでもない。 明けて1998年3月、真由子さんは意識を失っ 朝日新聞の1面コラム「天声人語」 (8日付) て倒れ、高熱が2日つづいた。原因はよく分か らなかったが、ともあれ数日して回復した。そ も葬儀の様子を伝えながら、最後を「大喧噪は れをメールで伝えたら、hideがすぐ返事を書い なかった。いい葬式だった」と結んだほどだ。 6日午後6時からの通夜は、短い読経のあと てくれた。3月26日のことだ。 『夏からの、楽しい事をたくさん考えるんだぞ。 すぐ焼香になり、私たちは控え室へ案内された そんで、熱などよりつかないように、してな』 が、やがてそこへ小室哲哉氏があらわれた。海 夏には、全国コンサートが計画されていた。 部会長、加藤理事長がこもごもにhideのバンク hideのソロ活動の本格始動だ。真由子さんは、 運動を振り返り、小室氏にも協力を呼びかけた。 全国を回るつもりでいた。そればかりか、この 否定の言葉はない。むしろ、その後、YOSHIKI メールによって真由子さんは勉学への意欲を高 と相談しあってhideの追悼コンサートを開くこ めた。2年前に通信制の高校に入学したものの、 とを決めたくらいだから、小室氏が今後、骨髄 闘病生活の連続で勉強どころではなかったのだ バンク運動に協力してくれる期待を抱いたもの が、「hideのコンサートを聴くためにも、勉強 だ。 はしっかりやっておこう。リポートもちゃんと 7日午後1時からの葬儀が始まるはるか前に 出そう」と決めたのだ。その証に、4月19日に 本願寺へ着いた。前夜とは比べようもないくら おこなわれた入学式には、在校生であるにもか いのファンが集まっていた。上空には報道のヘ かわらず真由子さん自身が出席した。 リコプターが3機舞っている。行列が隅田川沿 いに数キロもずっとつづいていたとは、帰宅し 最後のメール交換は4月24日である。ロサン てからのニュースで知った。 ゼルスにいるhideに、パソコンで描いたhideの 全身像を送ったところ、返事が来た。 『今月中には一時帰りまする。送ってくれたフ ァイルは僕はマックなので開けませんでした』 hideは4月27日に帰国した。そして……。 ●再び1998年5月 骨髄バンクというより、全国協議会に温かい 眼差しを向けてくれていたhideに報いるため、 葬儀では海部幸世会長が喪主の松本満氏に感謝 築地本願寺正門前を埋めつくしたファン(1998年5月7日) 状を贈ることになった。 本堂内の参列者は通夜の倍の1000人はいた。 6日の通夜、7日の葬儀・告別式には海部会 長、野村氏、それに私の3人が参列したが、ラ 葬儀委員長の真下幸隆氏(ヘッドワックス・オ イオンズ日本財団の加藤正見理事長とともに、 ーガナイゼーション代表)や友人代表の 私たちは来賓の扱いだった。 YOSHIKIは、それぞれの弔辞の中でhideと骨 髄バンクとのかかわりに触れた。 すでに報じられているとおり、両日とも築地 − 40 − hideと最後の別れをしたのは100人あまりだ 「彼は『自殺マニュアル』といった本をよく読 ったろうか。hideが急逝した2日、たまたま東 んでいた。泥酔状態で、本の内容と現実とがご 海大学病院へ来ていた真由子さんは、和歌山へ っちゃになったんじゃないか。それに、録音装 は帰らないまま、母の和子さんと横浜の親戚宅 置付きスタジオを含む自宅の新築工事契約を済 から毎日、本願寺に通い詰めた。憔悴しきった ませたばかりで、お父さんには『今年は最高の 表情で椅子に座り込んだ真由子さんの横で、膝 年になる』と伝えていたし、まさに『これから』 を折って同じ高さの視線になったYOSHIKIが、 だった」 マニュアル本を読んだからといって、多くの 真由子さんの左手に自らの右手を添えて、小声 で語りかけた。 読者がそれを真似るわけではない。結構売れて 「hideおじちゃんと同じようにはできないけど、 いる割に“教科書”になっていないのは、単な これからはYOSHIKIお兄ちゃんやみんなが真 る読み物である証拠だろう。 由ちゃんを支えていくからね」 「これから」というのは、5月に相次いでシン グルが発売されることが分かっていたのと、前 小さくうなずいた真由子さんの両目には、新 述の夏の全国コンサートが予定されてもいたか たな涙があふれていた。 らだ。状況証拠はまだある。焼香後にもらった ●「事故死」を確信する理由 最新CD『ピンクスパイダー』に同封されたカ ードには、オフィシャルファンクラブ『JETS』 全 国 協 議 会 の ホ ー ム ペ ー ジ の発足と、レギュラー出演するラジオ番組の告 (http://www.marrow.or.jp/)の表紙には、hide の死を悼む次のような文面が出ている。 知に加え、「ツアースケジュール近日発表!」 『hideさん、ありがとう。X-JAPANのhideさん の文字が躍っていた。 X-JAPANの解散後、本格的なソロ活動のスタ が、突然の不幸な出来事で亡くなられました。 骨髄バンクに心を打ち込んで、ことあるごとに ートとなる、まさに「これから」という順風満 私たちを応援してくださったhideさんに、私た 帆のときに、自殺などするはずがない。優しさ ちは心からの哀悼をここに捧げます。合掌』 や愛、そして勇気を真由子さんやファンに及ぼ したhideなら、なおのことそうだ。 さらに、告別式で父・満氏に贈った感謝状の 文面を開くことができる。そのため、hideのフ とりわけ、真由子さんへのメールを考え併せ ァンからのアクセスが増えた。それ以前、1日 ると、自殺ではなくて不慮の死だったという思 に平均50通ぐらいだったのが、もっか毎日100 いは、確信となるのである。真由子さんの両親 通を超えている。 がこもごも語る。 マスコミの多くはいまだに「自殺」と表現し 「遠い未来のことではなく、近い将来の計画を ているが、私たちはそう見ていない。確実な物 打ち明けてくれるのがhideさんでした。真由子 証がないにもかかわらずそのように考えるの はそれに励まされ、真由子なりの前向きな姿勢 は、「状況」をいくつも積み重ねていけばいく をつづけてこられたんです。熱を出したあと、 ほど、「事故」や「不幸な出来事」としか思え 夏のコンサートを話題にしたのは、『明日への ないからだ。 メッセージ』です」 いずれにしても、亡くなった事実は変えよう ファンだけでなく、hideをよく知る関係者が 口をそろえる。 がない。「秀徳院釋慈音」となったhideの冥福 「こうなって、誰よりも一番びっくりしている を、全国の骨髄バンクボランティアとともにお のは、hide本人にちがいない」 祈りします。 通夜の控え室で、hideとも親しかったある有 力者が根拠を挙げた。 (写真はすべて遠藤撮影) − 41 − hideさんを偲ぶ ボランティア、ファンの追悼記 編集部 各地の加盟団体を通じて、hideへの思いを募 真由ちゃんと接することで、きっとあなたの心 ったところ、ボランティアとファンの計8人か にも愛や平和、生きることの意味を感じていた ら原稿が寄せられた。(五十音順・ボランティ のですね。 ア団体名は略称。見出しのない原稿は編集部が 今も不思議な心の糸でむすばれている二人。 適宜付けた) 初めてコンサート会場での募金協力でファン たちに出会ったとき、正直言って私はびっくり ●偶然のつながりを胸に秘め しました。 阿蘇吉洋(宮城の会) (一体この子たちは、どこで着替えてこのいで たちになって現れ出てくるのだろう。こりゃニ 私とhideとは、お互いを理解しあえた“親友” ューヨークよりすごいなあ) みたいな関係でした。 けれど、かわいい貯金箱にせっせと貯めたお まず、私がhideの所属するX-JAPANの音楽を 金を箱ごと寄付していくたくさんのファン、 好きになり、ファンクラブに入会しました。そ 「がんばってね」と言ってくれるファンに「『今 の後、今度はhideが私の活動している骨髄バン 時の若いモンは……』なんていうせりふを言う クに登録してくれました。 この偶然ともいえる“つながり”を胸に秘め、 ような年の取り方だけはしたくないなあ、いつ これからもhideの分まで骨髄バンクの活動を頑 も青春の心、柔軟なハートをもって時代に取り 張っていきたいと思います。 残されないようにしたいなあ」とつくづく思っ たものでした。 たとえ、あなたに会えなくても……。 熱烈ファンだけにしかわからない秘密の暗 ●「今時の若いモン」と言わない年の取り方を 号? (ドラえもんの風船やかわいいぬいぐるみ) 井上直子(福井の会) を見ても、この子たちほんとに、今の社会に目 私がバンクボランティアをしてきた関わりで も耳もふさぎたいくらい色々不安を抱えている 忘れられないことの一つがhideの事故死です。 けど、純粋で優しいんだろうな、あんな大人に hideの生前の優しさ、彼を慕うファンの優し なりたくないんだろうな、こんな日本社会の現 さ――私は、熱烈ファンではないけれど、どこ 実を見たら、ついつい、心を閉ざしてピュアな か彼らの純粋さがとても好きになりました。難 ものを求めたくなるとオバサンでも思うものね 病の真由ちゃんに 「おっちゃんのギターを……」 って、とても複雑な思いでファンと一緒に少し とサインを入れて贈り、真由ちゃんの編んだマ だけ踊ってたんだよ。笑ってた? フラーを嬉しそうに照れて巻いたhide。そのと ある生物学者の説によると、人類には利他の き限りではなく何度も電話をかけ、お見舞いに 心を持つ遺伝子があって、その遺伝子は利己に 訪れたhide。「言葉ではうまく言えないから」 より自然淘汰されていくはずなのに、性選択が とバンク登録という行動で示したhide。 働く(いい女はいい男を選ぶ)ので、この利他 真由ちゃんが危篤状態になりかけたときも、 の遺伝子が引き継がれていく? とか……(わ 駆けつけて呼びかけつづけたそうね。あなたは、 けわかんないようで、うなずける良い話)。そ − 42 − してこの利他行動がONになっているいい男は hideさんのドナー登録をきっかけに、私もド いい女にバンバンもてるそうです。そう、hide ナー登録を考えたのですが、昨年4月に多発性 こそが、そのいい男だったのではないかしら。 骨髄腫と診断され、ドナーになれなくなってし まいました。告知を受けて1年になりますが、 あなたの優しさに心打たれて、今もスイッチ オンはどんどん広がっています。本当に悲しく がんばろうと思ったり、どうでもいいやと落ち 残念です。Hideのご冥福を祈っています。あ 込んだりしました。前向きに考えられるように りがとうhide、あなたと募金活動に参加できた なったのは、hideさんのことを思い出したとき ことを誇りに思っていますよ。 です。 記者会見で「自分がドナーになることで、も ●Forever Love っとたくさんの人に骨髄バンクを知ってもらえ 上田早苗(福岡のファン) たら」というようなことを言っておられたと思 hideはまだ私の中で生きています。 います。自分が真由子さんやほかの患者さんと hideと出会ってから、私にはたくさんの出会 HLAが合うかもしれないという思いだけでな いがありました。そして、これからもたくさん く、もっとたくさんの可能性を求めたhideさん の出会いがあると思います。 の気持ちはすごいと思いました。 昨年10月の 「しまね骨髄バンクを支援する会」 私のやっているボランティア団体・紗真秀の メンバーとの出会い、真由子との出会い、九州 設立時に、大谷さんは「ドナーになることだけ 骨髄バンク推進連絡会議の方々との出会いな じゃなく、ボランティアにはいろんな協力の仕 ど、本当に大切な出会いばかりです。 方がある」と言ってくださいました。でも私は、 そして、hideは私の将来の夢を決定づけた人 そんなこと言われても……と思うことしかでき でもあります。私はボーカリストになろうと真 なかったのですが、hideさんのことを思い出し 剣に思っています。音楽と共に生き、そのすご たとき、「しまね骨髄バンクを支援する会」に さ、素晴らしさを教えてもらったし、何しろ音 たくさんの人が入会されたのを知ったとき、自 楽って人の支えになることができるから。 分一人の生命が助かればいいってもんじゃな い、ということを教えられた気がしました。 真由子も私もそうだけど、ほかにもhide、X- ドナーにはなれなくなってしまったけど、患 JAPANの音楽に助けられたと思っている人は いると思います。私は、人の心を動かすような、 者だからできることがあるんじゃないかと思っ 人生までもかえてしまうようなボーカリストに ています。 私は今後、末梢血幹細胞移植をする予定です なりたいと思っています。 が、これからもhideさんやたくさんのボランテ この想いを言葉にすることはむずかしくてで ィアの人たちを支えに生きていきます。 きないけれど、hideには生きる意味を教えても らったし、hideが安心して永遠に輝きつづけら hideさんが死んでしまったことをみんな驚い れるように、hideの分まで、自分には何ができ ているけど、一番驚いているのはhideさん本人 るのかを考え、精いっぱい輝いて生きていこう じゃないでしょうか。そうあってほしいです。 ……hideに感謝の気持ちを込めて書いていま ●「宝物」でありつづけてほしい す。 hide 匿名(ボランティア) 本当にありがとう。 突然、大きな光を失ったhideのファンの姿に、 ●hideさん支えに闘病していく 4年前の自分がダブって映る。だからこそ今、 岸野寿子(島根のファン) ファンのみんなに伝えたい。 私が、デビューから10年以上も愛し続けたミ 突然の訃報を、今でも信じられずにいます。 − 43 − ュージシャンは、白血病に倒れ「もう一度歌い hideさんがこれほど大きな存在なんて知りませ たい」と願い続けたまま、この世を去った。覚 んでした。 今、あのときのファンの顔を思い出すと、胸 悟はしていたものの、やはりファンは哀しみの が締め付けられます。あなたたちに、今だから 涙に暮れた。 贈ります。 でも、今はみんな穏やかな笑顔で、そう、あ のころのライブ前の喫茶店の光景と同じよう 「みんな頑張ってね! あなたのいのちは、重 に、思い出話で盛り上がる。もう涙はない。そ くて尊いもの、大切にしてください」 そして、hideさんのご冥福を心よりお祈りし の背景に、彼が遺した二つの言葉が私たちファ ています。 ンを支えている。「みんなの心に思い出がある 限り、僕は心の中で生き続けられる」。そして ●バンク運動でhideの思いが育っていけば 「ファンは僕の宝物」……。 中島義則(愛知の会) hideはあなたたちにとてもたくさんのものを 贈ってくれたはず。彼の音楽、彼の言葉、彼の 昨年のGLAYのコンサートのときでした。 視線から教わったことがいっぱいあるよね? 「骨髄バンクを応援してください!」という私 それをずっとずっと守り続けてほしい。その限 たちの声に、たくさんの少女たちが振り返りま り、hideは心の中でいきていてくれるんだよ。 した。 ね、やるべきこと見つかったね? もう後を追 「hideさんが応援している骨髄バンクですよね」 ったりする必要ないよね? 「私も応援します」 「がんばってください!」 そして、これからも胸を張ってhideを愛そ 多くの声と募金をいただきました。GLAYの う! だって、あなたたちはきっとhideの「宝 ファンの子も、hideさんの言葉や行動を応援し、 物」のはずだから……。 関心を寄せてくれていることを知りました。 最後にhideへ。彼の発病を機にボランティア hideさんの曲が好きでした。hideさんが、外 を始めたものの、自分の無力さに落ち込み、逃 に見せている考え方や行動が好きでした。X- げようとしたとき、hideが教えてくれたね。 JAPANのリーダーYOSHIKIもそう見えるので 「愛」で守れるもの、動かせることもあるんだ すが、 ポリシーを持ったワガママであぶない奴。 って……。それを信じて、これからも続けてい そんな感じの彼が好きでした。彼や彼らを応援 こうと思う。ありがとう。 している子たちも好きでした。外見ではなく、 そして、ひとつお願い。たぶんそっちに「歌 心に持っている「優しさや思いやり」の大切さ いたいよぉ」ってわめいている奴がいると思う。 を改めて教えてくれたのも彼や彼女らでした。 よかったら、セッションしてやってください。 彼はいなくなってしまったけれど、彼の想い いつかまた、きっと逢える日がやってくるでし のほんの一部でもいいから、骨髄バンク運動と ょう。そのときに聴かせてください。そのとき いうものの中で、育っていってくれればと思っ がくるまでは、みんなで支え合って「宝物」で ています。 あり続けられるように頑張るから。 X-JAPANが好きです。hideが好きです。でも、 辛いです。涙が出ます。でも、ガンバリマス。 ●ファンのみんな、頑張ってね! ●爽やかな出会いと気づき 千葉武子(宮城の会) hideさんの音楽を愛し、優しい人柄を慕って、 仙台サンプラザに集まった大勢の若者たち。 「どこから来たの?」 「大阪から。おばさん、頑 村上順子(東京の会) 元X-JAPAN hideさんの突然の死は、多くの 若者に大きな衝撃と深い悲しみをもたらせ、世 張って!」 「20歳になったら登録するよ」 。私は、 − 44 − の“大人たち”に驚きとともに感動をも与えた ように思える。過去にも不世出といわれた著名 に迷惑かけちゃダメだよ」 の合言葉が飛び交い、 人の葬儀に多くのファンが参列した例はあった ゴミ拾いが始められた。この自然に繰り広げら が、今回のように、参列したファンの言動が故 れる光景に、私はさらに強い衝撃を受け、心は 人の人となりを広く社会に知らしめたことがあ 喜びに震えた。 彼女たちは、hideさんの「言葉ではうまく言 ったであろうか。 参列者数の多さに増して、世の大人たちを驚 えないから行動しただけです」を、われわれの かせたのは、hideファンの整然と並んで故人を 眼前で身をもって体現してくれた。彼らによっ 悼むその敬虔さと、誰ともなくゴミ袋を出して て私は、今まで外面で人を判断していた自分に 周囲を掃除する秩序正しい姿であったと、多く 気づかされ、大いに反省させられた。彼らとの のマスコミが報じた。 出会いは私に素直な感情を呼び起こさせ、柔軟 な心を与えてくれた。 1996年秋、私は同様の感動に初めて出会って 『ありがとうhideさん。hide さんによって素 いた。 秋の深まりを見せ始めた10月19日、原宿駅に 晴らしいファンとの出会いを得、さりげない優 降り立った私は、まさに“目がテン”状態とな しさと勇気を与えられたことは、私にとっても った。その日は、8月に骨髄バンクにドナー登 大きな喜びです。今後はあなたの優しさを、あ 録したX-JAPAN なたの多くのファンとともに引き継いでいきた hideさんのコンサートの当日 いと願っています。もう一度、ありがとうhide である。 さん……』 駅前の歩道はメンバーと同じように赤やピン ク、金色に染めた頭髪を逆立て、歌舞伎役者を 思わせるメイクに派手な衣装をまとったコスプ レの若者たちであふれ、その列が会場前の広場 へと吸い込まれていく光景たるや、まるでミュ ージカルの舞台のようであり、不気味であった。 広場では、 あちこちでエールの交換が行われ、 互いに化粧しあう隈取りメイクには怖ささえあ ったが、まっすぐに見るその瞳はとても優しく、 純粋で喜びに満ちており、そのうえ彼らから発 せられる言葉は、どれもみな優しく、温かさが 感じられるものであった。 この経験は、街頭での広報活動や募金活動で、 時に口汚くののしられたり、冷たく無視された 経験を持つ私にとっては思いがけない喜びをも たらした。募金を呼びかける私たちに、彼らの 誰一人として冷たい視線を向けるものはいなか った。そればかりか、「ありがとう」の言葉と ともに募金を呼びかけてくれ、一緒に写真に収 まってくれもした。そして「20歳になったら登 録するね」という若者のなんと多かったことか ……。 やがて開場のアナウンスが流されると、あち らこちらで、彼女らの「メンバーやhideちゃん − 45 − 臍帯血バンク特集 非血縁者間の臍帯血幹細胞移植と 臍帯血バンクの役割 生田孝一郎 横浜市立大学医学部小児科 ●はじめに て大いに期待されています。 治りにくい白血病、重症の再生不良性貧血、 われわれは横浜市立大学、神奈川こども医療 先天性免疫不全症や一部の代謝性疾患などの根 センターなどの神奈川県内の数施設で1995年に 治療法として同種骨髄移植療法が確立されてい わが国ではじめての臍帯血バンクである神奈川 ます。骨髄移植を行うには組織適合性抗原とい 臍帯血バンクを設立し、そこから供給された臍 われる白血球の型(HLA)が一致する必要が 帯血を用いて、本邦第1例目を含めて11例の非 あります。HLAが一致する確率は兄弟間で最 血縁臍帯血幹細胞移植を行っております。 も高く約1/4です。しかしながら、少子化の 以下に、臍帯血幹細胞移植の現状および臍帯 現在血縁ドナーが得られる確率は少なくなって 血バンクの役割、課題および将来展望などにつ おります。そのため血縁者以外の提供者からの いて述べたいと思います。 移植が必要とされ、骨髄バンクが設立されてい 1.臍帯血中の造血幹細胞の特徴 ます。しかし非血縁者間でHLAが一致する確 率は極めて低く、骨髄移植を必要とするすべて 造血幹細胞とは白血球、赤血球や血小板など の患者さんが骨髄の提供を得られない現状とな の様々な血液細胞になることができる能力(多 っております。 分化能)と自分と同じ細胞を作る能力 (自己複製 最近、臍帯血中に存在する増殖能力の旺盛な 能)を持った細胞です。この造血幹細胞の自己 造血幹細胞を用いて骨髄移植と同じ治療ができ 複製能とは長期にわたって血液細胞を造りつづ ることがわかり注目されております。そしてこ けることができる能力のことであり、造血幹細 の骨髄移植という治療法の呼び方も末梢血幹細 胞移植を行うことができる根拠となっています。 胞移植も含めて、造血幹細胞移植というように 臍帯血中には増殖能力が旺盛で未分化な造血 なってきました。 前駆細胞である芽球コロニー形成細胞が骨髄よ 臍帯血中の造血幹細胞は出産後は不必要とな りも高頻度に含まれることがわかっています。 る臍帯、胎盤を利用できるためドナーの負担が またFACSを用いた細胞表面抗原の検討により なく、非血縁者間造血幹細胞移植の供給源とし 臍帯血中には骨髄よりも高頻度に未分化な造血 − 46 − 前駆細胞の指標とされるLTC-ICやCD34+CD38- (NYBC)のRubinsteinらにより、3年間にわた 細胞が含まれることがわかってきました。試験 り国立心肺血液研究所から430万ドルの研究助 管内において1個の臍帯血CD34+CD38-細胞か 成金を得て初めての臍帯血バンクが設立されま ら2週間で数千個の血液細胞が産出されます。 した。移植施設はアメリカ国内をはじめ、フラ これらの結果から臍帯血が骨髄に代わる新たな ンス、イタリア、ブラジルなど国外の多数の施 造血幹細胞の供給源になることが示されまし 設にわたり、凍結保存された臍帯血は液体窒素 た。実際には臍帯血移植では骨髄細胞の約1 による低温輸送容器、ドライシッパーを用いて /10の臍帯血細胞で骨髄の再生が可能です。 ニューヨークから空輸されています。他には Arizona大学、UCLA,Minnesota大学など数施 2.同胞間の臍帯血幹細胞移植 設で臍帯血バンクが設立されています。ヨーロ 臍帯血幹細胞の最初の臨床応用は1988年に ッパでは1994年にフランスのGluckmanが中心 Broxmeyerが米国のFanconi貧血の5歳男児に となりヨーロッパ各国を結ぶEUROCORD 同胞間の臍帯血幹細胞移植を行おうとしました TRANSPLANTが結成さました。このコンピュ が、当時米国内ではこれを実施しようという臨 ーターネットワークで各国の臍帯血バンクを結 床医はいませんでした。そこでBroxmeyerは患 ぶ試みは必ずしも成功したとはいえませんが、 者を同胞の凍結された臍帯血とともにフランス 現在もこの名称のもとに各国の臍帯血バンクが につれていきGluckmanらにより世界で初めて 情報交換、臍帯血の検索、相互提供を行ってい の臍帯血幹細胞移植が施行されました。この患 ます。 者さんは現在も元気と聞いております。以後国 これら欧米の臍帯血バンクから供給された臍 外では300例以上の同胞間臍帯血移植が施行さ 帯血により施行された非血縁臍帯血幹細胞移植 れ骨髄移植に遜色がない成績が得られています。 は、現在までに700例に達しており、その成績 は非血縁骨髄移植に劣らないことが示されてい 国内では1994年に同胞間の臍帯血幹細胞移植 が初めて行われ現在までに、HLA適合から3 ます。 抗原不一致まで20例以上が施行されており、 3.日本における臍帯血バンク HLA2抗原以上不一致例で重症の移植片対宿 前述しましたように、日本では1995年9月に 主病(GVHD)を起こしていますが全体として 初めて神奈川臍帯血バンクが設立されました。 は良好な成績が得られています。 その後近畿臍帯血バンク、東海臍帯血バンク、 東海大学臍帯血バンク、東京臍帯血バンク、静 3.臍帯血バンク 岡臍帯血バンク、北部九州臍帯血バンクが設立 1.臍帯血バンクの意義 され、北海道、東京の赤十字血液センターでも 血縁者間の臍帯血移植では対象となる患者さ 臍帯血の保存が行われています。これらの臍帯 んが必要とする時期にHLAの適合した臍帯血 血バンクはいずれも移植医、産科医や赤十字血 が得られることが条件であり、一部の症例にし 液センターなどの研究者などが中心になって設 か行えません。出産後必要がなくなる胎盤から 立された民間のバンクです。 臍帯血を計画的に採取し大量に凍結保存すれ 4.神奈川臍帯血バンク 神奈川臍帯血バンクは横浜市立大学医学部、 ば、必要な患者さんに対し必要な時期にHLA の適合した臍帯血を供給することが可能とな 神奈川県立こども医療センター、昭和大学藤が り、造血幹細胞移植を必要とする患者にとって 丘病院、神奈川赤十字血液センター、横浜市立 多大な利益をもたらすことになります。 愛児センターなどが中心となって1995年9月に 2.欧米における臍帯血バンク 設立されました。 臍帯血採取についてのインフォームドコンセ 米国では1992年にニューヨーク血液センター − 47 − 東海臍帯血バンク、近畿臍帯血バンク、東海 ントは外来通院中の妊婦さんに臍帯血採取のお 願いの文書および同意書を配布、説明を行い、 大学臍帯血バンクにおいても1997年6月頃より 同意の得られた妊婦さんから臍帯血を採取して 患者登録を開始しております。それぞれのバン います。臍帯血を供給した赤ちゃんに関しては クを通じて一定数の移植が行われた後には、バ 1カ月健診にて診察し、以後は郵送によるアン ンクの有効利用および公的臍帯血バンクの設立 ケートにより発育状況を調査しています。 へ向けての前段階として情報交換、臍帯血の検 索、相互提供などの各バンク間のネットワーク 臍帯血の採取、分離および保存は神奈川こど づくりが必要と思われます。 も医療センター、横浜市立大学医学部および昭 和大学藤が丘病院の3カ所で行い、HLAの検 1998年4月までで約350の臍帯血が保存されて 4.横浜市立大学小児科における非血縁臍帯 血幹細胞移植 います。HLAは血清学的に検査を行い、移植 日本での初めての非血縁臍帯血幹細胞移植 施行例では遺伝子型で確認を行っています。デ は、神奈川臍帯血バンクを通じて1997年2月に ータセンターおよび事務局は神奈川県立こども 急性骨髄性白血病の1歳女児に横浜市立大学医 医療センターに設置しており、HLA検索シス 学部小児科にて施行されました。以下に横浜市 テムも完成しています。 立大学にて施行した3人の経過を述べます。 査は神奈川赤十字血液センターで行っており 臍帯血バンクで臍帯血を保存し非血縁の患者 第1例は初診時8カ月の女児です。急性骨髄 に利用するためには臍帯血のみならず、母体お 性白血病の診断にて治療を開始し部分寛解が得 よび新生児の情報が不可欠です。われわれは臍 られ移植の適応と考えましたが、血縁ドナーが 帯血登録票を作製し、母体情報、分娩情報、臍 いないため骨髄バンクにて調整を開始しまし 帯血情報、新生児情報をデータセンターで保存 た。当初複数のドナー候補者がいましたが、い 管理しています。 ずれも最終同意に至りませんでした。そのため 患者登録は1996年10月より神奈川臍帯血バン ご両親の同意を得たうえで神奈川臍帯血バンク ク参加施設の範囲内でHLA1抗原不一致まで に登録したところHLA1抗原不一致の臍帯血 を検索の対象として開始し、検索依頼書、移植 が2例得られました。当医学部の倫理委員会の 実施計画書、ドナー臍帯血引渡依頼書、臍帯血 承認を得た上で、このうちの細胞数の多い臍帯 搬送実施計画書などの書式も完成しています。 血を用い、本邦初めての非血縁臍帯血幹細胞移 移植可能と考えられる臍帯血が検索された場 植を行うこととしました。移植臍帯血の提供者 合、移植審議委員会において適応を審査した後、 は男児でした。 移植施設の倫理委員会の承認を得たうえで移植 移植時は体重8kgで移植細胞数は患児体重 を施行することとしています。そして、1997年 あたり有核細胞数は2×10 /kgでした。病気の 2月に本邦初めての非血縁臍帯血幹細胞移植が 状態は移植時には治療抵抗性となっており、末 横浜市立大学医学部小児科にて施行されまし 梢血に白血病細胞を認める状態で脾臓も腫れて た。以後患者さんの登録は神奈川臍帯血バンク いました。移植前処置が終わったあとの移植日 参加施設以外からの受付も開始し、北海道から の血液学的所見では白血病細胞を認めず、脾腫 九州にいたる全国の施設から現在 (1998年4月) も消失していました。移植後の経過は21日目に までに60例の患者登録があり、HLA1抗原不 好中球数500/μrに至りましたが、26日目の骨髄 一致までで15例に一致(25%)した臍帯血ドナ で芽球92%と残念ながら再発を認めました。こ ーが検索されております。そのうち11例におい の時点の骨髄細胞の染色体検査ではXX67%、 て移植が施行されています。 XY33%とドナー由来のXY染色体を認め生着を 5.国内臍帯血バンクのネットワーク 確認できました。この患者さんはGVHDおよび 7 − 48 − り遅延しました。 感染症などの合併症を認めることはありません でしたが、残念ながら原病の悪化のために移植 5.臍帯血幹細胞移植の利点、問題点、課題 後100日あまりで亡くなられました。 および今後の展望 第2例は初診時2歳の急性骨髄性白血病の女 1.ドナーの安全性 児です。白血球が著明に増加したため第1寛解 期で移植を行うこととしました。血縁者にドナ 臍帯血の最も大きな利点はいうまでもなく不 ーがいないために、骨髄バンクに登録したとこ 必要となった胎盤および臍帯から血液を採取す ろ複数のドナー候補者がおられましたが、移植 るために、提供者(母親、新生児)の負担およ 適期に間に合わないために神奈川臍帯血バンク び危険性がほとんどないことです。 を通じた非血縁臍帯血幹細胞移植を行うことと 2.移植までに要する期間 しました。移植時体重12kgで、HLAは血清型 幹細胞自体が保存されているために骨髄バン および遺伝子型でA1抗原不一致でした。移植 クでは数カ月必要な移植までの調整期間が極め 7 細胞数は有核細胞2×10 /kgでした。移植後の て短く患者にとって最適な時期に移植が可能で 造血能の回復は好中球数500/μrが26日目,網状 あることです。 4 赤血球数20‰が36日目、血小板数2×10 /μrが 3.HLAの適合性 臍帯血中に含まれる免疫担当細胞が未熟であ 64日目でした。GVHDや合併症は認めず現在移 るために骨髄移植に比べて、移植後の最大の合 植後10カ月で再発を認めず元気です。 併症である移植片対宿主病(GVHD)をおこし 第3例目は初診時13歳の女児です。急性リン パ性白血病ですが、初診時白血球数560,000/μr にくいことがあります。非血縁骨髄移植では と著明な白血球数の増加をみましたので予後不 HLAが一致している必要がありますが、非血 良と考え、第1寛解で移植を行うこととしまし 縁臍帯血幹細胞移植では欧米では1から4抗原 た。血縁ドナーがいないため骨髄バンクに登録 不一致まで行われていますが、大多数で生着が したところ、複数のドナー候補者がおられまし 得られGVHDは比較的軽いと報告されていま たが調整が進まないため神奈川臍帯血バンクを す。しかし一部の症例においては重症のGVHD 通じた非血縁臍帯血幹細胞移植を行うこととし の報告もあり軽視することは危険です。わが国 ました。HLAは血清型および遺伝子型でB1抗 においては1抗原不一致で一定数の移植を行っ 原不一致でした。移植細胞数は有核細胞 た後に、患者を選択して2抗原不一致の移植へ 7 2×10 /kgでした。移植後の造血能の回復は好 と進むべきだと考えます。 中球数500/μrが26日目、網状赤血球数20‰が 4.造血能の回復 4 36日目、血小板数2×10 /μrが68日目でした。 移植後の造血能の回復は骨髄移植よりもやや 移植後21日目から皮膚にgradeIのGVHDを認め 遅く、特に血小板回復の遅延が指摘されていま ましたが無治療にて治癒しました。また移植後 す。横浜市立大学で行った3例の経験でも国外 9日目から中等度の肝中心静脈閉塞症を認めま の報告と同様に特に血小板の回復遅延を認めま したが治療にて治癒しました。現在移植後10カ した。 月で再発を認めず元気にしております。 5.品質管理の問題 これらの3人の患者さんはいずれもHLA1 骨髄バンクと臍帯血バンクの最も大きな違い 抗原不一致の臍帯血からの移植であるにもかか の1つは、骨髄バンクはドナー候補者のHLA わらず、全例に生着が得られGVHDは認めない などのデータを保存、管理すれば良いわけです か極く軽度でした。移植後の造血能の回復は欧 が、臍帯血バンクでは血液細胞そのものを凍結 米の報告と同様に骨髄移植と比較して、好中球 保存しなければならないことです。従って保管 および網状赤血球はやや遅く血小板回復はかな 場所の設置や管理費用が必要となります。これ − 49 − は保存件数の増加や保存期間が長くなるに従っ などが中心になっているので、通常の業務が極 て管理費用も大きくなるわけです。 しかし一方、 めて多忙であるため、この臍帯血の採取および 実際に移植が行われる場合にはドナーの採取お 保存にかかわる時間や労働の負担は非常に大き よび入院費用がかからない点は臍帯血移植の有 い問題となっております。また臍帯血を1件採 利な点でもあります。また、凍結保存した臍帯 取、分離、保存するために10万円程度必要と考 血をどの程度の期間使用可能であるかも正確に えられていますが、現在は各施設の研究費でこ はわかっていません。プログラミングフリーザ れをまかなっている状態であり早急な資金面の ーで段階的に凍結が行われ、液体窒素中に保存 対策もたてる必要があります。 されていれば半永久的に使用可能であるとの意 早期に大規模な公的臍帯血バンクの設立が必 見もありますが、現実的には一定の検体が保存 要です。そのために解決しなければならない課 された場合には古いものから順次廃棄するな 題はたくさんありますが、最も大きな課題とし ど、一定の保存期間の設定が必要でしょう。 て臍帯血の採取、保存を行う施設、スタッフお 6.移植患者 よび保存場所の確保です。また臍帯血の採取に 採取量に限界があるため主として30kg以下 は産科医の理解と協力が必要ですが、産科医の の体重の患者さんが対象となります。しかし米 ボランテイア精神にのみ頼っている現状では解 国では30kg以上の患者への移植もかなりの例 決できない問題です。このことも含めて採取施 数があり、われわれも38kgの患者への移植を 設の整備が必要です。 施行しています。Laughlinらは40kg以上の9例 ●おわりに に対する移植を報告しており、移植細胞数は 7 7 0.9∼3.8×10 /kg(中央値1.1×10 /kg)と比較 採取量が少ないために成人への移植が困難で 的少量の細胞数であるが全例で生着が得られて あるという問題点を解決するために試験管内に おり、成人患者さんに対しても非血縁臍帯血幹 おける造血幹細胞の増幅の研究の進歩が待たれ 細胞移植が可能であることを示しています。 ます。臍帯血中の造血幹細胞の試験管内増殖が 7.臍帯血の安全性 可能となれば臍帯血移植の適応は成人にもより 臍帯血を介した感染症の伝搬のチェックは勿 拡大できるでしょう。 論必要なことですが、それ以外にも問題な点が 現在骨髄バンクに登録されているドナー候補 あります。日本人では頻度が低いと考えられま 者は10万人近くに達していますが、それでも すが、臍帯血から患者さんへの遺伝性疾患の伝 HLAの一致したドナーが得られない患者さん 搬の可能性があり、臍帯血を提供してくれた赤 も少なからずいて、ドナー候補者がおられても ちゃんの経過を一定期間観察した後に使用する 実際に移植まで到達できない患者さんも存在し 必要があります。この期間についてはどの程度 ます。現在の各地域で行われている研究者中心 観察する必要があるかが難しいところですが、 の民間バンクから供給された臍帯血を用いて一 米国では6カ月、英国では12カ月観察している 定数の移植を行い、早い時期に大規模な公的バ ようです。われわれは詳細な家族の疾患歴(家 ンクが設立されなければならないと思います。 族歴)を調査し、生後6カ月の段階で異常の認 そのためにも共通した基準で臍帯血採取、分 められないことを確認して使用しております。 離、保存を行い、また情報交換、臍帯血の検索、 8.大規模な臍帯血バンク設立へむけての課題 相互提供などの各バンク間のネットワークづく 現在の民間の臍帯血バンクではその参加施設 りが必要です。そして骨髄バンクと臍帯血バン の職員が通常の業務以外に臍帯血の採取、 分離、 クが相補的に機能することが造血幹細胞移植を 保存、管理などを行っているわけです。 待つ多くの患者にとって大切なことであると思 もともと骨髄移植などを多数行っている施設 います。 − 50 − 臍帯血バンク情報 臍帯血移植における産科医の役割 岩崎克彦 東海大学医学部産婦人科学教室 ●はじめに 人々に理解、膾炙されてきている。その広がり と、業績は、関係者の熱心な努力によって、驚 臍帯血バンクにおける一連の動きは、大きく くべきものがある。しかしながら、唯一問題と 分けると、 1)臍帯血採取 なる点を強いてあげれば、ドナーに対する医療 2)採取臍帯血の分析 的、また、経済的な負担ではなかろうか。この 3)その登録と保存 点で、臍帯血採取に関しては、非常にメリット 4)臨床応用 が大きい。その特徴をあげれば、 という過程を経る。このうち、産科医の占め 1)臍帯血は採取が容易である。従って、準 る分野は、臍帯血採取が中心となる。これを行 備の上でも、採取者の条件でも、難しい うにあたっては、誰からも気兼ねなく採取する、 問題点はない。 2)臍帯血は従来破棄されていたものであり、 という訳ではなく、また、どんな採血方法でも 無料である。 良い、ということでもない。そこには、倫理的 にも学問的にも自らルールというものがあり、 3)母子ともに危険性はない。 また、それに従うことが、将来的にも臍帯血バ こうした観点のもとに、一般の人々、特に臍 ンクを発展させる最大の要因の一つである。本 帯血採取の対象となる妊婦さん、およびその御 稿では、東海大学病院臍帯血バンクにおける、 家族の方への啓蒙と協力依頼が必要となってく 産科医(産婦人科)の役割を中心に、その流れ る。そのポイントは 1)骨髄バンクに匹敵する臍帯血バンクがあ に沿って紹介、検討したい。 るということ、骨髄バンクと同じように、 1.臍帯血バンクのPR いくつかの難病の人々を救えるというこ と、 不治の病い、難病とされてきたいくつかの血 2)採血にあたっては、母子ともに全く負担 液疾患、また、一部の先天性代謝異常に、幹細 がないこと、 胞移植が著明な効果をもたらす、こうした事実 3)元気な赤ちゃんが誕生したその喜びを、 は、骨髄バンクの設立と普及によって多くの − 51 − ■図1 東海大学病院臍帯血バンクのポスター ■図3 臍帯血バンクを知った理由 ■図2 東海大学病院産科外来でのビデオ 友人・知人より (1.9%) その他 (8.0%) ,,,,,,,,, ,,,,,,,,, 新聞 (10.8%) ,,,,,,,,, ,,,,,,,,, ,,,,,,,,, ,,,,,,,,, ,,,,,,,,, 産科医師の説明 (34.9%) テレビ (13.7%) 産科医師の説明 外来VTR ,, ,,新聞 テレビ 外来VTR (30.7%) その他 友人・知人より n=193 少しでもおすそ分けしていただきたいこ の院内掲示(図1)をするとともに、母親学級 と、 時に医師からの説明、また、外来待合室での定 などである。こうしたPR手段としては、 時的ビデオの放映(このビデオは、当院でオリ 1)ポスターの掲示、 ジナルに作成したもの)等により、患者さんへ 2)パンフレットの作成と配布、 のPRを行っている(図2)。その実態調査では、 3)ビデオでの公開、 図3のようになっており(中沢紀代子他、神奈 等が中心となるが、広くマスコミを初めとす 川県母性衛生学会雑誌2号に掲載予定)、当院 るPR媒体は、より広範囲にわたる知的宣伝効 に通院されている妊婦さんには、ほとんど周知 果が期待できる。東海大学病院では、ポスター されているのが現状である。ただし、問題がな − 52 − システムになっている。「臍帯血採取保存同意 い訳ではなく、今後の課題としては、 書」については、東海大学病院長あてに、 1)より詳しく説明する時期を、妊娠のどの 1)臍帯血バンクについて説明を受け、理解 時期から始めたらよいか、 したこと、 2)臍帯血採取の現場を、ビデオで実際に観 てもらった方が、より理解しやすいので 2)採血、保存に同意すること、 はないか、 3)母体血も10ml採血すること、 3)あくまでもボランティア的存在で、臍帯 4)臍帯血は本来は胎児(新生児)に属する 血を提供しても、そのメリットは両親や ものであるが、新生児は同意能力がない 赤ちゃんに還元されないのか、 ために、親権者である両親が代わって同 意すること、 4)どの病院でも同じように採血できないの 5)臍帯血の所有権、使用権は、東海大学病 か、 5)誰でも採血に協力していただけることで 院臍帯血バンクに属すること、 はないので、採血に協力していただける 以上の5点について確認した旨を、 方とそうでない方の区別をどう説明した 6)母親の自署、 らよいか、 7)父親の自署、 8)住所、連絡先、 といった問題が残されている。実際の協力者 等を加えて署名していただいている。そして の御意見を、その都度参考にしながら、改善し 最後には説明担当医として産婦人科医の自署を て行きたいと考えている。 記入する、という内容である。同意書は、次回 2.インフォームドコンセントの実際 外来受診時、または分娩入院時に提出していた だいている。 当院においては、妊娠34、5週の時点で、医 師より、採血条件にふさわしい妊婦さんに、説 1997年1月∼12月に当院で正期産単胎経腟生 明書と一緒に、同意書をお渡しし、協力をお願 産した患者さんは383名おり、このうち304名 いしている。説明書は、「臍帯血(へその緒の (79.4%)に同意書をいただいている。同意書 血液)の提供のお願い、あなたの赤ちゃんが人 をいただけなかった、または、いただかなかっ の命を救えます」という標題の元に、要旨とし た症例としては、 1)母子感染が明らかに考えられるもの(例、 て、 HB感染) 、 1)臍帯血は、今まで分娩終了後は無造作に 2)臍帯血を他の診断目的で使用せざるをえ 捨てられていたこと、 なかったもの(例、Rh不適合妊娠)、 2)その血液を利用することによって、白血 病患者などの難病に役立てることが可能 3)胎児先天異常の場合、 となったこと、 4)説明時期が分娩に間に合わなかったもの、 5)宗教上の理由、 3)採血にあたっては、母子に全く影響がな 等があげられる。 いこと、 実際に同意を得られた患者さんの意見をアン 4)採血手順の説明、 5)採血された血液の保存について、 ケートすると、表1のようになった(前述中沢 などが書かれている。そして、より詳しい説 ら)。現時点では、ほぼ順調に施行されている もの、と受け取っている。 明を受けたい場合は、外来で産婦人科の医師が 補足するか、または、「臍帯血の採取に関する 質問事項」なる別紙が添付され、当院細胞移植 センターの担当医が、これにお答えするという − 53 − ■図2 ■表1 臍帯血バンクに同意して良かったと思う理由 人助けができたと思う 69人 自分や子供に負担がなかった 27人 臍帯血の重要性、有効性を知った 21人 捨てられるものが役に立っていると思う 15人 臍帯血採取の様子 M=193(複数回答) ■表2 出生体重別採血量 出生体重 (g) ■表3 臍帯長別採血量 最少 最大 最少 最大 臍帯長 (cm) 症例数 M±SD (g) 88 00∼49 44 45.6±19.6 14 110 20 108 50∼59 98 54.1±21.7 27 139 53.8±19.7 25 110 60∼69 68 60.4±22.7 25 120 66 56.2±27.3 10 156 70∼79 25 61.4±22.2 29 106 3250∼3499 40 60.9±24.9 18 155 80∼89 6 63.7±45.1 10 156 3500∼3749 18 56.7±19.1 30 84 90∼99 4 77.5±9.2 63 86 3750∼3999 5 91.6±26.1 61 139 100∼0 2 84.5±23.5 61 108 4000∼ 4 78.7±16.0 60 100 症例数 M±SD (g) ∼2499 15 47.7±15.9 20 2500∼2749 42 49.9±19.7 2750∼2999 57 3000∼3249 (g) (g) 3.臍帯血採取とその後の手順 (g) (g) 採血の実際は、妊婦さんが分娩室に入室した 時点から始まる。一般の分娩の準備とともに、 同意書を提出していただいた患者さんについ ては、カルテにその旨の連絡印を記し、病棟で 臍帯血採取用として、100mlのディスポ注射器 もすぐに対応できるようにしている。 を用意し、18Gの注射針を固定して、抗凝固剤 病棟では、いつでも採血できるように、分娩 としてACD液10mlを吸引しておく。胎児娩出 室の一角に専用の冷蔵庫と注射器、試薬等を常 後は、即座にコッヘルにて、臍帯の新生児側5 時準備している。最初は、入院時にプロトコー cm位の部位を把持する(この間の時間は、1 ルを作成し、先ず母体血10mlを採血、保存す 分以内が望ましい。その方が採血量は多い)。 る。 新生児に対するルチーンの処置後、臍帯を結 紮・切断した後に、臍帯血採取に移る。コッヘ 臍帯血の採取法には、大別して2つある。い ずれも胎児娩出、臍帯結紮・切断後に行う訳で ルのすぐ近くをイソジンで充分消毒した後に、 あるが、胎盤剥離前に、妊婦さんが分娩台にい 用意した注射器で臍帯静脈を穿刺し、採血を開 る時点で行う方法と(この場合は産科医か助産 始する。ある程度採血が進んだら、採血部位を 婦が採血する)、胎盤剥離後に採血する方法と 母体位置より低下させ、臍帯母体側又は胎盤内 があるが、当院では前者を採用している。その の残留血液を自然落下させながら、出来るだけ 理由は、後者と比べ、採血量がより多い、血液 多くの血液を採血する(図4)。この間の操作 凝固の心配がない、感染の機会が低い、等の理 は、2∼3分で終了する。 この操作過程で、医療側として忘れてはなら 由による。 − 54 − た急性骨髄性白血病(M1).臨床血液,37 ないことがある。それは、提供者に対する礼儀 (12):1371-1376, 1976 である。採血開始前には、「これから臍帯血を いただきます」と、必ず声をかける。これは、 2)加藤俊一,他.東海大学における臍帯血移 同意を再確認する意味もあるし、赤ちゃんが臍 植と臍帯血バンク.今日の移植,10(2): 帯より完全に分離された状態であることを認識 411-414, 1977 していただき、安心感を与えるためでもある。 3)加藤俊一,他.臍帯血を利用しての造血幹 更には、採血終了後は、注射器を見せながら、 細胞移植.日本内科学会雑誌,86(19):156160, 1977 「こんなにたくさんいただきました。有難うご ざいました」と、お礼を言う。当たり前の常識 4)矢部晋正,他.日本国内の臍帯血バンクの かも知れないが、 こうした配慮も必要となろう。 現状――東海大学臍帯血プロジェクト.日常診 療と血液, 7(4):79-84, 1997 採取臍帯血は、注射器のままでキャップを完 全にかぶせ、指定の冷蔵庫に常温保存とし、毎 日2回、回収係の助手が運搬するまで安置して おく。 以上が当院での臍帯血採取のあらましであ り、1997年度の実際のデータのいくつかを表示 したい(表2、3)。将来、全国的規模での臍 帯血バンクが設立されるようになると、この臍 帯血採取に対しても、同意書や採取方法、器具 の統一がはかられることになると思われる。そ の際は、当院でもそれに準ずる予定である。 ●おわりに こうした臍帯血採取・保存に対して、実際に 御協力いただいた患者さん達のアンケート結果 を分析すると、193人中192人(99.5%)が、無 条件で「同意してよかった」と答えており、他 の1人も、 「もう少し考える時間がほしかった」 とのコメントがあるだけで、完全に否定的な態 度ではなかった(前述中沢ら)。臍帯血バンク については、これからも啓蒙を続けながら、反 省と改善を繰り返しつつ、推し進めていきたい と考えている。 なお、臍帯血バンクの基礎医学的、および臨 床応用に関しての詳細は、『BANYU VIDEO LIBRARY,「癌」治療と診断シリーズ,CA 49, 「臍帯血幹細胞移植」(加藤俊一著)』が最新で わかりやすく、一見を推薦したい。 参考文献: 1)服部欽哉,他.臍帯血幹細胞移植を施行し − 55 − 臍帯血バンク特集 へそバンクよ どこへ行く 陽田秀夫 全国骨髄バンク推進連絡協議会・副会長 ●山場が来た ア代表が2名含まれていた。臍帯血バンク運動 を続けてこられた有田美智世さんと私である。 この原稿を書いている時点ではまだ臍帯血移 植検討会の結論が出ている訳ではない。第8回 8年前骨髄バンクを立ち上げた時の骨髄移植対 の検討会が終了したところで委員の間の論点と 策専門委員会の事を考えるとまさに異色の二人 厚生省の事務局の腹の内がようやく見えてきた。 である。 もう一つ驚いたのが公開で開催されるという 委員会を二分している論点はバンク運営部分 における「中央統制型、骨髄バンクとの一体論」 ことだ。数々の不祥事や政策決定プロセスの不 と「地方分権型、骨髄バンクとの分離論」であ 透明さに対する批判に応えるためだろうか。厚 る。私の主張は後者である。理由は後で述べる 生省も変わったなあと変に納得してしまった。 こととしよう。事務局は前者を支持しており第 多くの傍聴者に監視されての検討会のスター 7回検討会で「報告書のたたき台」として後者 トに緊張感が走る。自分は徹底して患者さんや を少数意見と決めつけて資料を提出し、第8回 その家族の立場から発言しようと決意する。 検討会で後者支持の各委員から猛反発が出た。 ●小林保健医療局長の前向きな発言 骨髄バンクの組織運営の反省から簡単には譲 れない気持ちでいる。ここ一カ月が山場である。 第1回検討会で小林局長の発言の中に注目す この情報誌が出る頃には結論が出ているかも知 るべき点が何点かあった。まず挨拶の中で「臍 れない。今の最も心配のタネは検討会でまとま 帯血バンク実施に向けて、皆さんを最適なメン らなかった事を理由に前者でも後者でもない臍 バーとして委員の人選を行った」とはっきりバ 帯血バンク実施先送り論が省内に台頭すること ンク実施の意思を表明されたこと。そして検討 である。 会の位置づけの質問に対して「ここで決まった 通りにやらないといけないという義務はなく、 ●臍帯血移植検討会のスタート 皆さんのご意見をいただいて最終的には厚生省 平成10年1月19日、厚生省臍帯血移植検討会 が決めることになります。しかし公開でやって がスタートした。19名の委員の中にボランティ いるという事は皆さんの意見を無視して恣意的 − 56 − に変えてやろうということはない。もしそれを 日、東京で開催された。現在、臍帯血の保存を やらない時はその理由を述べる義務があるので 開始している全国9施設の代表の方々の現状報 す」。5月まで報告を出すのはスケジュール的 告とパネルディスカッションであった。 に厳しいのではないかという各委員の発言に対 このシンポジウムで学習できたことがその後 して「この事業を少しでも早めに実施しようと の検討会での私の考え方に大きな方向性を与え すると公的な資金を導入しないとうまくいかな たと言ってよいだろう。 骨髄バンクとの一体論を主張する方々はその いだろう。予算要求をするとすれば年に一遍で 理由として利用対象者が同じ患者さんである事 す。だから5月という期日が出たのです」。 要するに「この検討会で結論を出していただ を挙げる。そして中央統制型の組織でなければ ければ臍帯血バンク事業を開始するため関係予 ならない理由としては臍帯血の質が損なわれて 算を11年度予算に計上します」と言っていると はならない、統一した基準で保存されなければ 私は解釈したのだが……。 ならないとのことである。確かに対象の患者さ んは同じである。だからと言ってバンクを一体 ●第4回検討会で私案を提出 化した方が患者さんにとって有益だとは限らな 第2回、第3回と回を重ねたが抽象的な議論 い。臍帯血バンクの最も優れたところは「迅速 に終始してなかなか核心部分に進めない。委員 性」である。そうした優位性が損なわれてしま の間にも少しイライラが募って来た。事務局か うとしたら何の意味もない。臍帯血バンクでは ら出される検討資料に意見を言うだけでなく思 造血細胞そのものが保存されているのだから いきって自分で案を作成して検討会に提出した。 HLA型のデータベースを公開すれば患者自身 「臍帯血バンクの組織に関する提案」と題して (主治医が代行することになるのだろうが)検 第4回検討会に提案したものが全国協議会ニュ 索できることになる。患者登録もバンク側の検 ース第70号(4月1日)に概要が紹介されたの 索業務も必要ないのである。手間と時間を相当 でここでは省略するが、後に「地方分権型」と 省略できるだろう。バンク側の経費もさる事な 呼ばれるネットワーク型の組織案であった。 がら患者側の時間短縮は大きな意味がある。時 は「命」なのだ。 また、同時に加藤俊一委員と西平浩一委員か らも案が出されていて加藤委員の案は中央統制 私たちは創造的思考をするときどうしても現 型ピラミッド型の組織案で私の案と正反対の案 存する類似のものを基準に発想をスタートさせ と言ってもよいものであった。しかも将来的に てしまう。古いものと新しいものを合体すれば は「造血細胞バンク」として骨髄バンクとの一 古いものが変化するチャンスにもなるが新しい 体化を目指すものであった。その中で「臍帯血 ものが古いものの体質に引きずられることも否 バンク構築の過程で、現在の骨髄バンクについ 定できない。要するに骨髄バンク的発想体質か ても根本的に見直し、改めるべきものは大胆に ら抜け出さなければ臍帯血のよさを引き出すこ 改めるべきだ」との表現が印象的だった。 とができないのである。 また一体論の委員の方々は骨髄バンクの改革 ●なぜ骨髄バンクと分離なのか や改組を提案されているがその具体的なプログ ラムまでは示されていない。 私がこの検討会に臨んだときは頭の中は白紙 状態であった。臍帯血についてはあまり知らな ●なぜ地方分権型か かったと言った方が正確な表現かも知れない。 そんな折、実にタイミングよく全国協議会が 骨髄バンクと臍帯血バンクではHLA型がコ 前年から準備していた「臍帯血バンクのネット ンピューターに入力されるまでまったく異なっ ワーク化」と題する公開シンポジウムが2月21 た業務のプロセスとなる。臍帯血は産科医療機 − 57 − 現在、造血細胞移植を必要とする患者で、家 関で採取されてから分離・保存業務が大変大き な比重を占め、この部分に予算の大部分を使う。 族に提供者が見いだせない場合、骨髄バンクに 従って保存施設の業務をいかに質の高いそし よって多くの非血縁者間骨髄移植が実現するに て効率の良いものにするかで臍帯血バンクが成 至っている。平成10年4月現在、約1500例の非 功するかどうか決まってしまうと言っても過言 血縁者間骨髄移植が行われたが、それは希望し ではない。しかもこの保存施設は効率性を考慮 た患者の約25%にすぎない。そうした事から、 すると全国で数カ所(3∼5カ所)で良いと考 国内における実施例は少ないものの、臍帯血移 えている。保存施設の代表によって構成された 植への期待から臍帯血バンク設立への機運が高 連絡協議会でクォリティレベルやサービスレベ まっている。そのことは患者にとっては治療法 ルを低下させないための協議と調整を図って行 の選択肢の拡大であり、造血細胞移植の機会が けば中央統制型の組織形態でなくともバラバラ 飛躍的に増大すると思考される。 そうした患者の救命に寄与するためには、良 な運営をされてしまうという心配はない。 中央統制型の組織になって保存施設が「決め 質の臍帯血が公平にしかも迅速に供給される体 られたことを決められた通りにやれば良い」と 制を国の支援のもと早急に整備する必要があ いう下請け的な発想になってしまう事の方が働 る。臍帯血バンク事業には多額の事業費が必要 く人々の「やる気」を誘発できなくなってしま になることから、公共性が高く、臍帯血の保存 うのではないかと危惧している。 等に十分な能力を有する組織に対し財政的に公 的支援を行って実現することが望ましい。 地方都市における保存施設は地域臍帯血バン クとして採取施設、自治体、ボランティア等の また、この事業は善意の提供者をはじめとす 協力によって地域の特性を生かした自治運営を る国民の協力を得て行うことから、透明性の高 目指すことが将来の発展性において大きく違っ い事業であることが求められる。そのため、監 たものになって来るのではないだろうか。 視体制を整えた非営利の事業とし、情報公開を 積極的に行わなければならない。すなわち、事 ●報告書のたたき台が袋だたき 業主体としてのバンク組織は善意の提供者から 患者の救命のために臍帯血の管理と利用につい 事務局が第7回の検討会で資料として提出し て付託を受けていると考えるべきである。 たたたき台が第8回検討会で一体論を支持しな さらに、臍帯血を供給する側(バンク組織) い委員から袋だたき(あまり言葉は良くないが 表現としてはぴったりなのだ)に遭ってしまっ と供給される側(移植医療機関)は組織・人事・ た。余りに一方的に一体論を支持したたたき台 財政等あらゆる面で厳格に分離されるべきであ だったからである。冒頭に座長と事務局担当者 り、独立性の高い組織のあり方が求められる。 の交代要望まで出てしまう大荒れの検討会であ ●移植施設は登録制へ った。こうした状況の中で、委員の意識の中で 基本理念を確認し合いたいとの想いから明文化 私の提案で重要な部分がもうひとつある。移 して私が提案した基本理念(一部修正)を以下 植施設は認定ではなく登録制として「患者が選 に紹介する。 ぶ」ことを目指したい。実績・成績・体制等の 情報をすべて公開する事を望む。認定だけして <基本理念(案)> 臍帯血バンク事業は 臍帯血移植を必要とする患者の救命のため 国の支援と 善意の提供者をはじめとする国民の協力を得て 公平性と迅速性のある事業として 公共性と透明性の高い組織によって行う 情報を公開しないのはあまりにも片手落ちだ。 − 58 − 骨髄バンク関連報道に携わって 日本骨髄バンク「エージェンシー化」試論 大久保嘉二 NHK・生活科学部 ●はじめに 題が噴出している日本骨髄バンクのあり方にも 参考になるのではと考え、敢えて紹介を試みた ちょうど一年前、日本の官僚組織の問題を追 い。 及した番組の取材に携わった。 なお、この中で「独立行政法人」ではなく、 NHKスペシャル「日本再建・官のピラミッ 「エージェンシー」という言葉のほうを使って ドは崩せるのか」。 いるのは、何も格好をつけているのではなく、 お役所が、天下り先の特殊法人や公益法人を 使って自らの権限を肥大させ、税金の無駄遣い 日本版のエージェンシーが本当に機能するの を続ける実態の検証。そしてその対策として、 か、今の段階では私自身全く信用していないか 行政改革の先進国イギリスに、現状打開のヒン らである。 トを見ようという番組だった。 ●エージェンシーとは その中で取り上げたものに、イギリスの「エ ージェンシー制度」がある。 まずはお勉強からいこう。 97年一時的に盛り上がり、そして案の定市民 エージェンシー(Agency)は、ご存じ、「鉄 を失望させた、政府の行政改革会議の省庁再編 の女」と呼ばれたイギリスのサッチャー首相の 論議の中でもしきりに報道されたので、その名 元で導入された制度だ。各省庁の組織を政策の に聞き覚えのある人もいるかもしれない。 立案部門と執行部門に分け、この執行部門をエ 行政改革会議の最終報告では 「独立行政法人」 ージェンシーとして切り離す。そしてそこでは という名前で、日本にもエージェンシー制度を 大胆に民間の手法を導入して、官僚組織の非効 導入することが盛り込まれた。 率をなくしていこうというのが狙いだ。 このエージェンシー制度。基本的には国の行 1988年、まず自動車の車検業務で導入された 政をいかにスリムにし、財政赤字を減らしてい このエージェンシー制度は、その後のメージャ くかという目的のものなので、その点で骨髄バ ー政権の中で増え続け、現在その数は130に上 ンクと馴染むものではないのかもしれない。し る。パスポートの発給や土地の登記、さらには かしその組織の基本理念は、現在様々な形で問 刑務所の運営までエージェンシー化されている − 59 − (さすがに刑務所エージェンシーは脱獄が増え では、記念硬貨の販売事業を拡大していった。 て問題化してしまったようだが)。これらのエ こうしてイギリスの造幣エージェンシーは保有 ージェンシー化によってイギリスでは年間およ している資産の80%という大幅な利益を上げる ことに成功したという。 そ620億円の税金を節約していると見積もられ ている。 (4)エージェンシーではさらに情報公開が徹 底している点も大きな特徴として挙げられる。 エージェンシーの特徴の主なものとして、以 前述の基本文書はもとより、各年の年次会計報 下の4つが挙げられる。 告などの業績報告書の公開が義務づけられてい (1)公募制の導入で、民間人の長官就任の可 る。会計報告の中では、通信費や事務用品費な 能性を開いたこと ど詳細に費目が設けられ、すべて前年度の実績 (2)所管の大臣によって業務が定期的に見直 と対比される。業務の数値目標の達成状況の評 されること 価は、こうした情報公開がなされて初めて保障 (3)長官の裁量の範囲が広いこと されるのだ。 (4)情報公開の原則 ●骨髄バンク「エージェンシー化」構想 (1)まずエージェンシーの最大の特徴は、責 さてそれでは、このエージェンシーの精神を 任者である長官を公募制にして、民間人が就任 骨髄バンクに生かすと、いったいどのような組 する可能性を大きく開いた点である。日本の特 織になるだろうか。 殊法人のように、天下りの役人が半自動的に理 まず何より長官は民間からの公募である。や 事長のポストに座り、たいした業績も上げない りたいという意欲と能力のある人間が、相応の のに、数年で多額の退職金をせしめるなどとい 収入を保障されて選ばれるべきである。任命権 うことはありえない。 者、契約の相手方は厚生大臣。この点で、公益 (2)この長官には民間企業と同じように大き 法人とはいっても、厚生省の担当課によって設 な経営責任がついて回る。各エージェンシーは 立が認可された形の財団よりも、立場的に随分 業務の目的や内容などを定めた基本文書の作成 強くなりそうな気がする。ただし長官の選任に を義務づけられ、長官は任命権者である所管の は後述するように評価委員会のような組織が当 大臣との間で業務の数値目標を立てる。そして たるのが望ましいのではないかと考える。 その達成度が本省や議会によって厳しくチェッ 長官は毎年の目標を掲げる。ドナー登録者30 クされ、目標の達成度が低ければ、その長官は 万人の実現のために今年は○万人の登録増を実 罷免されることもありうる。 現します。移植は一年間で××件を目標にしま (3)その代わり長官には大きな裁量権が与え す。患者の登録から移植までのコーディネート られている。番組で取材した造幣エージェンシ 期間の平均を△カ月短縮します。そのための施 ーの長官、ロジャー・ホームズ氏は、今から6 策としてこれこれこういうことを実施します。 年前に新聞広告を見て長官に応募。面接の結果 こうした目標は長官が自らの裁量で決定し、実 長官に選ばれた。ホームズ氏は電機メーカーの 現に向けて職員をリードしていくのは言うまで 取締役など6つの民間企業で働いてきたビジネ もない。 スマンだ。 もちろん厚生省や日赤との折衝、移植医の先 長官になったホームズ氏はまず、人事考課制 生方との調整も長官が責任を持って行ってい 度の改革に取り組んだ。職員に毎年の目標を決 く。そうすれば、理事会ですでに決定され、翌 めさせ、その達成度によって最大4%の範囲で 月にはスタートと公に発表された事業が、実際 給与を上積みすることにした。そして事業の面 の実施まで4カ月以上もかかるなどという理解 − 60 − いか」「責任を持って取り組んでいるか」の3 に苦しむようなことは起きないだろう。 点をチェックし、 それをクリアするのであれば、 もちろん意欲と能力が高く、目標実現に尽力 した職員は、考課の面でも評価される。そうし 担当するのは官でも民でも構わないという考え たことを可能にするためにも、財政的に独立し 方である。 ていることは必須の条件だ。いきなり補助金カ ドナーリクルートとコーディネート業務を財 ットなどという場合にも組織として影響を受け 団と民間会社で競わせた場合、今の財団で果た ないよう、骨髄液にも点数をつけ、骨髄移植に して業務を落札できるのだろうか。 伴う病院側の保険収入の一定部分をバンクにプ 日本版エージェンシーの導入を打ち出した97 ールするなどして、財政基盤の強化を図る必要 年12月の行政改革会議の最終報告。すでに国立 がある。そうしたプランニングも長官を筆頭と 博物館や車検業務などについてはエージェンシ した事務方がリードして行う。 ー化が打ち出されているそうだが、そのリスト そして情報公開による業務の評価である。設 に骨髄バンクを加えたい気になっただろうか。 定したドナーリクルートの目標の達成状況はど その最終報告は亡くなった司馬遼太郎さんの うか。コーディネート期間短縮の目標はなぜ達 書いた「この国のかたち」を引用して、「自由 成できなかったのか。きっちり検証して責任の な合理主義的精神と『公』の思想に富み、清廉 所在を明確にする。こうした評価制度の下では、 にして、自己に誇りと志をもった」明治維新期 いつまでも書留郵便でドナーの検索を依頼する の人間像こそ、行政改革を担うとした。 某先生の口癖ではないが、骨髄バンクにも高 ことなどあり得ない。 杉晋作は登場するのだろうか。 ただしこのチェックはイギリス流に議会や大 臣が行うよりは、第三者的な評価委員会で行っ たほうが実効的かもしれない。日本ではかつて 大臣や議会のチェックというものが働いたこと はほとんどないからだ。評価委員会は現在の企 画管理委員会を改組するが、移植医の数を減ら して患者側の代表を増やし、医療に詳しい評論 家等も入れて第三者機関的性格を強める。 イギリスの行政改革では、このエージェンシ ー制度に限らず、これまで官の仕事だと思われ ていたことに、大胆にメスが入れられている。 「強制競争入札」という制度は、現在役所が行 っている業務をどれくらいのコストでできる か、官の側と民間会社で強制的に競わせ、入札 を行うというものである。 道路の清掃や公立の建物の管理業務など、日 本でも民間委託が進められているものばかりで はない。自治体によってはこの強制競争入札の 結果、税金の徴収業務まで民間会社が行ってい るところがある。 こうした行政改革の進め方の背景にあるの は、ある公共サービスについて、常に、「お金 に見合った価値があるか」「サービスの質はい − 61 − エッセイ 『ふれ愛コンサート』よもやま話 多田そうべい 大人の寺子屋講師、殿さまキングス・メンバー 今から2年ほど前の出来事。私が主宰してい 「白血病? 再生不良性貧血? そんな病気に る『命のつどい・ふれ愛コンサート』に携わる かかっている会員はウチには誰もおらん。それ 若い女性スタッフが、事務所に泣きながら帰っ だったら、病院か保健所へお願いに行きなさい。 て来ました。ある民謡協会の会長へ、協会所属 縁起でもない。帰れ帰れ……」 と、 剣もホロロに追い返されたとのことです。 グループの出演依頼の交渉に行ったときのこと です。この催しは、会場となる開催地で活動し 初めてこんな言葉を浴びせられ、よほど悔しか ている文化芸能団体の皆さんが中心で、民謡、 ったのか思わず泣いてしまったのです。そのと 民舞から詩吟、大正琴、バレエ、カラオケ、合 き、私は彼女にこんな話をしました。 あまりいい言葉ではないけれど、『目明き千 唱、フラダンスなど多種にわたり子どもから大 人まで大勢出演します。 出演交渉の順序として、 人盲(めくら)千人』という諺がある。世の中 まず組織の長である会長のところへ挨拶に行く には星の数ほどの人がいるけれど、全く物の道 のが筋道です。 理が通じない人もいれば、道理のわかる人もい その日、スタッフである彼女はコンサートの る。特に自分には無縁の事柄に関しては誤解が 目的や内容を記した趣意書、出演依頼書、公演 あったり、頭から理解を示そうとしない人がい 実績書、プログラムの見本などを携え、いつも たりするもの。でもその半面、ちゃんと理解を 通り事前に電話でアポ(約束)を取り、事務所 してくれる人もいる。特に骨髄バンクや移植に を後にしたのです。 関しては、世間ではまだまだ勘違いをしている 「骨髄バンク? なんやそれ」 人が大勢いる。だからこそ、もっと正しくバン クのことを知ってもらうため、こうしたコンサ 70歳前後の男性の会長は稽古場の片隅で、趣 ートでの運動も必要なんだ、と。 意書へロクに目も通さずこう質問したそうで す。彼女は、骨髄バンクの必要性や、ふだん病 彼女は大きく頷いてくれました。 気とは無縁の方にももっとバンクのことを知っ この場合とちょっと状況は違いますが、実は 私もこんな経験をしているのです。 てほしい。だからぜひ皆さんの出演協力をお願 会場と開催日時が決まると、私が直接役所に いしたい、と精いっぱい説明したそうです。 − 62 − 出向き、『後援』をいただくことにしています。 いますが、ここでの経験は初めてです」と、今 こうして役所を回るのはこの7年間で全国80カ 日のいきさつを説明。私の話をあらためて聞い 所以上、お陰様ですべてクリアしています。ど てくれた秘書は、応対の不手際を詫びながら、 の役所へ行ってもまず秘書課へ直行します。そ 秘書課が窓口になってくれました。「なんで最 して、課の責任者にすべての書類を添えて説明 初に受け取ってくれなかったのか」と言いたい します。初めて役所を訪問し、受付で「後援の ところをぐっと我慢して、 役所を後にしました。 申請書はどこに出せば?」と聞いても、「さ 後日、M市からの『後援承諾書』も無事届き、 あ?」の返事しかありません。あちこちとたら コンサートも盛況のうちに終えました。 い回しにされ、挙げ句の果てには違う課を紹介 平成3年の春、再生不良性貧血で18歳の息子 されたりします。たった1枚の書類を出すのに を送った年から続いている『命のつどい・ふれ 半日が過ぎてしまうときもあります。 もちろん、 愛コンサート』。試行錯誤を繰り返しながらも その役所役所によっていろいろ手順があるので 現在は入場無料で、会場費、音響照明費、印刷 しょうけど、いやはや……です。「最終的には 代、人件費など一切の費用は、プログラムの販 市長のハン」が貰えればいいわけですから、そ 売利益で賄っています。 こに一番近い秘書課へ行くのがベストだと、苦 会場では、骨髄バンクとはほとんど無縁の人 い経験から知恵をひとつ授かった次第です。時 が集い、出演します。出演者だけでも200人を には、文化芸能団体を統轄している「生涯教育 超えることもあります。観にこられた多くの人 課」が窓口になることもありますが、だいたい たちの前で、『ミニシンポジウム』を設け、バ がその場で快く申請書を受理してくれます。 ンクの必要性と仕組みなどを分かりやすく訴え ます。単純計算しますと、1カ所の観客数を平 一昨年の春、東京近郊のM市役所へ名義後援 均800人として、この7年間で80カ所ですから、 の依頼に行ったときのことです。 役所でのこんな経験をしてきた私は、このM 少なくとも6万4000人の人たちが骨髄バンクの 市役所のときもまず秘書課へ向かったのです。 話を会場で聞いてくれたことになります。それ 「骨髄バンクの運動ですか。これは健康保健課 が果たしてどれほどドナー登録につながったか ですね。そこへ行ってください」 は分かりません。でも、ステージからの呼び掛 けに、年寄りも子どもも皆、大きく頷いてくれ、 珍しくそう言われた私は健康保健課へ。 理解は深まったものと確信しています。 「ドナー登録呼びかけ運動の催しの後援依頼で それと、このコンサートにはもう一つの目的 すね。それは保健所の管轄です。保健センター があります。それは各地域で活動しているバン に行ってください」 (このM市はこういう段取りなのか)と、私は クのボランティア団体に、会場のロビーで活躍 少々疑問に思いながらも車を走らせ、保健セン していただくことです。その場所で皆さんから ターへ。そこで応対に出たのが、定年間近と思 よくお礼を聞きます。いえいえ、 「ありがとう、 われる男性職員。突然の訪問者に面倒くさそう ご苦労さま!」を私から皆さんに言わせていた な顔をして、 ひととおり私の説明を聞いたあと、 だきます。バンク運動に日夜奔走しているボラ ンティアの方々の熱意と情熱と気迫が、多分に 「ここの保健所の管轄は東京都です。後援名義 私を動かしているような気がするからです。 が欲しいなら、この催しに対する東京都の推薦 今、講演活動が中心の私ですが、その合間を 状を貰ってきてください。それがないと受け付 けられません」 縫っての『ふれ愛コンサート』。今日も地図を 「……!?」。私は目が点に。多少(実は大いに) 眺めながら、半年先のコンサート計画を練って 腹の立った私は、その足で再び秘書課へ逆戻り。 います。あなたの街で『ふれ愛コンサート』開 「何十カ所も後援依頼の申請書を役所に出して 催の話を聞きましたら、ぜひ会場へ! − 63 − 私と骨髄バンク運動 あれやこれやと10年目 秋山良実 埼玉骨髄バンク推進連絡会・会長 「骨髄バンクのボランティア団体って何です た。いろんな世代の様々な階層の人たちとのふ か?」と時々たずねられることがあります。 れあい、そして涙と微笑み、人との交流がボラ 「骨髄バンクが必要だと思った人の集まりです ンティア冥利につきます。 全国協議会の初代運営委員長の宮戸さん、お よ」と答えています。 私も、この運動にかかわっている人たちのほ 互いに言いたいことを言い合いよく怒鳴られま とんどがそうであるように元患者家族です。で したが交渉事の巧みさにはなるほどと思うこと もハッピーな父親です。自分のうちの娘が骨髄 の運続でした。通称ヒメこと大谷さん、どうい 移植で救われたのに、同室の子供たちがドナー う風の吹きまわしか結婚して私の隣町に、患者 がいないために命を落としていく、『ドナーの 本人にしかわからない心の間題、たいへん参考 有無に運命の差がある』これをなくそうと、埼 になっています。埼玉発足の時のシンポジウム 玉県でこの運動が始まったときに参加し、はや で無菌室からのメッセージを聴いて以来のおつ 10年目を迎えました。 きあいです。財団の職員になった町田君、病気 思い起こせばいろいろなことがありました。 に対する知識の豊富さには舌を巻くものがあり 初めはちょっとお手伝いのつもりで顔を出した ます。一例ですが、皆さんは抗ガン剤が正常細 この運動、生まれついてのお節介な性格で翌年 胞も侵すものなら脳細胞も破壊されてしまうの から会長に、今でも「小さな親切、大きな迷惑 では? と考えたことありませんか。これこれ ってこともあるんだョ」と仲間の笠原君に言わ こういう仕組みになっているからそういう心配 れながらも、精力的に活動を続けています。も は無いのだと説明してくれました。個人的な付 ともと街頭で署名を集め、チラシを配っていた き合いはありませんが、橋本明子さんのことに 現場監督上がりですので、楽しくやっているか も触れておかねばなりません。私たちが埼玉県 ら長続きしているのでしょう。10割る3は、 3で で骨髄バンク運動を始めるきっかけを作ってく 余り1という物の考え方ですので、楽しくなけれ ださった方です。彼女のおかげで今の埼玉骨髄 ばボランティア運動ではないと思っています。 バンク推進連絡会の前身である「埼玉骨髄バン おかげ様で、随分と勉強させていただきまし クを進める会」が発足し、全国組織の結成と同 − 64 − 時に今の名前になった経緯があります。私も彼 もこの運動にかかわらせているのかもしれませ 女を見習って、近隣諸県の骨髄バンク運動体の ん。パソコン通信がきっかけで入会してきた山 結成に協力をさせていただきました。組織的な 口さん、某電気メーカーの部長さんですが、さ ことは苦手なようですが、何しろマスコミ操作 すが間題の本質を見抜く目は確かなものです。 の上手な方でうらやましく思っています。 このほかにも患者家族部会「麦の会」を作った 現在の全国協議会では陽田さん、前運営委員 みどりさんと久美子さん、骨髄バンクを広める 長として大活躍中ですが、項目ごとに問題を整 ことに夢中になって、ともすれば忘れがちにな 理して考える力は見習わなくてはいけません。 っていた患者さんたちへの対応が図られまし 職業柄かもしれませんが結構几帳面で、財団の た。二人とも青年部でしっかりと婿殿を見つけ、 普及広報委員を一緒にしていた頃は教えられる 幸せな結婚生活を送っています。 読書感想文コンクールの関係で知り合った ことの連続でした。三重の庄司さん、この運動 は行政と共に歩まねばできないと思っていまし 「金色のクジラ」の作者、茨城の岸川悦子さん、 たので、県職員の彼からいろいろなアドバイス いろいろ話をしていくうちに『あったかーい を受けお世話になりました。 心』、これが骨髄バンクの本質ョということに 埼玉の仲間でも素晴らしい人たちがいます。 なり埼玉連絡会の行く道が決まりました。他の 発足以来の友人、笠原君。現在全国協議会運営 病気の方、様々な障害を持った方まで私の視野 委員としてニュースの編集に携わっています を広げてくださった恩人です。 が、県内ではアバウトの笠原、ファジィの秋山 「自分の人生みんなが先生出逢い感動ありがと う」という詩があります。 (本人に言わせると逆だそうですが)として埼 玉連絡会の発展につくしてきました。組織作り 過去9年間を振り返ってみると、本当にたく と人遣いの上手な人で、どうしても硬くなりが さんの方々とお付き合いをしました。この文に ちなこの運動を楽しくやりがいのある運動にし お名前を載せた方はほんの一部分です。他の方 てくれている中心人物です。院内バンクでドナ たちもみな私に何かを授けてくれました。 ー経験を持ち、初期のころは全国のシンポジウ 骨髄バンクのボランティア運動は、患者さん ムを回っていたからご存じの方も多いと思いま のためにと思っていましたが、結局は自分のた す。本当に骨髄バンクが必要だと思っていたお めの運動でした。 特に順風満帆の人生を過ごし、 母さんの近藤さん、私の女性観を変えてくれた とかく自己中心的になっていた私に娘の病気を 一人です。利己心にとらわれることのない広い 契機として、神様が与えてくださった仕事だと 視野の持ち主で、この運動にかかわったからめ 思えます。灰谷健次郎さんも著書のなかで「仕 ぐり会えた貴重な友人の一人です。近藤さんの 事とは4と5と10と書きます。足し算をしてみ 川越グループの伸間たち、小川先生のお陰で埼 ると9になって10ではありません。足りない1 玉独自の「いのちを考える読書感想文コンクー は遊びです。楽しいという遊びがなけれぱ仕事 ル」が今年も8回目を迎えることになりました ではありません。それは、しごく(しご苦)に し、倉形さん、石倉さん本当に心優しい人たち なります」と述べています。私もこの数年間の です。家族ぐるみで参加する家庭的な雰囲気を 活動のおかげで「ありがとう」という言葉が、 作ってくれる先鞭を付けてくれたのもこのグル 金儲けのためでなく心から言えるようになりま ープです。 した。 近藤さんのほかにも悲しい家族は仲間にたく 最後に「自分から始めなければ何も起こらな さんいます。みな息子の供養だから、娘の遺言 い、しかし自分だけでは何もできない」という だからと活動に頑張っているのを見ると、男と 同じ方の詩を、この拙文を最後まで読んで下さ して見捨ててはおけない心境が、私を9年以上 った皆様に送り、終わりにします。 − 65 − ドナーの手記 2泊3日の一生の思い出 大川はるみ イラストレーター − 66 − − 67 − − 68 − − 69 − 元患者の手記 ドナーへの想い 横田豪雄 米国ニュージャージー州在住 ●初めての出会い ●診断 「おおむね異常はありませんが、白血球が少し 1989年、アメリカでの新しい環境にも慣れ、 高いようです。気にかかるようでしたら、精密 仕事も一段落したところで、何げなく久しぶり 検査を受けてみてはいかがですか?」と、大阪 に健康診断でも受けてみようかと思いつきまし の病院で身体検査後に言われたことが、血液に た。42歳の厄年だからということもあったと思 関して初めて関心を持ったときでした。 います。ほかには大した理由もないままに、日 1985年、アメリカへの移住を決意し、そのた 本人の医師に約束を取り付け、一般の健康診断 めに必要な提出書類の中に身体検査証明書が含 をしてもらいました。強いて理由を言えば、当 まれていたことから受けた健康診断でした。健 時は便秘気味でいつも腹が張っているような気 康には自信があったものの、ふだんは年に1回 持ちがあり、食欲があまりなかったということ の簡単な会社の健康診断しか受けておらず、年 くらいでしょうか。 齢も38歳と中年にさしかかっていることも考 健康診断では血液と尿の採取、それにレント え、この際、アメリカへ行く前に徹底的に調べ ゲン検査のほか現在の生活、体調などに関する ておこうと考えたからです。 問診がありました。既往症などは全くありませ 精密検査がどういう具合に行われるかも考え んでしたが、そのときに骨髄液採取の件も含め ずに、気軽に病院へ出向きました。その検査が て話しました。 胸骨からの骨髄液採取だと知らされ驚きました 数日して医者から会社に電話が入り、「具合 が、冷や汗をかくというより、骨髄液採取中は はどうですか?……確か……以前……横田さん ドリルが心臓まで突き刺さるのではないかとい は……白血球数が高いといって……骨髄液を検 う恐怖心に支配されました。恐怖心とは反対に、 査したと……そういう話をなさいましたよ 結果は異常なしと出て安堵の胸を撫で下ろしま ね?」。先生のゆっくりとした、声の低いぼそ したが、この検査の年、医師との会話の中で初 ぼそとした話し口調も何か意味ありげに響きま めて耳にした言葉が「白血病」でした。 した。これを聞いた途端、頭の中が一瞬、真っ 白になりました。 − 70 − 「……先生、それでは診断は白血病ということ 類縁者には父から血液検査のお願いをして回り ですか?」という私の誘導質問に、「……ええ、 ましたが、適合者は見つかりません。どういう まあ、そうなんですが……」という返事でした。 わけか、皮肉にもふたりの姉同士がお互いにマ あとは無我夢中で、 妻の勤め先に電話を入れ、 ッチしていました。 外で待ち合わせをしてタクシーで医者のところ その後はNMDP(全米骨髄バンク)をはじ へ向かいました。タクシーの中で「絶対に何か め、英国のアンソニー・ノーラン、カナダなど、 の間違いだ。そんなはずがない」と自分に言い のちには香港の骨髄バンクにも検索を依頼しま 聞かせながら……。 した。それは、同じアジア系民族なら欧米人な どの民族に比べ適合率は高いと聞いていたから ニューヨークでは連翹(れんぎょう)の花が 満開の、4月のことでした。 です。 ●暗中模索――諦め の中をさまよっている迷子のような心境で毎日 しかし適合者は見つからず、出口のない暗闇 マンハッタンの86丁目5番街とマジソン街の を過ごしていました。また単純にドナー探しと あいだにあるドクター・ウイッシュのクリニッ いっても、ドナーが見つかった時点では生死を クを訪問したのは、それから1週間後でした。 賭けてall or nothingの移植の決心を下さなくて 先生は血液専門家(hematologist)でもあり、 はなりません。私の白血病診断後すぐに訪ねた 癌の専門家(oncologist)です。おろおろする Leukemia Society of Americaの事務所で貰った 妻と私を前に、開口一番「慢性ですから急性に ビデオテープ(題名:Critical Decision)には、 転化する前に骨髄移植を勧めます。急性になっ 成功例と失敗例がドキュメンタリーで紹介され たら処置が難しいので、それまでにドナーを見 ています。 ドナー探しを始めた当初は、そのような危険 つけることです」と言われました。 「急性には半年後、あるいは来年、または2∼ を冒さずになんとかできるのではないか? 骨 3年後に転化するかもしれない。それまでに、 髄移植をせずにほかに助かる道はないのかどう 早くドナーを探しましょう」 か? いくつも病院を回ったり、図書館などで あとになって分かったことですが、ウイッシ いろいろ調べたりしました。時には、日本の新 ュ先生のお母さんも30年前、私と同じ慢性骨髄 聞などに「白血病患者に光明」などと、あたか 性白血病で亡くなられたそうです。当時、先生 も治療方法が開発され、それがすぐに実行に移 は医学生で、自分の専門分野をどれにするか考 されるがごとくの記事に狂喜したこともありま えていた時期でもあり、そのことがきっかけで したが、「うたかた」に終わり、落胆させられ 迷わず血液学の専攻に決めたそうです。 たことが記憶に強く残っています。結局は、骨 ドナーの適合確率は兄弟間で4分の1と言わ 髄移植でしか命が助かる道はないことを認識さ れていましたが、それは4人兄弟姉妹の私にと せられました。ドナーを探すしか方法はないの って相当な期待を持たせてくれました。こうい だ、と。 うときに人間は、希望的観測をするものです。 ドナーを探しているとき、常に心の中にこび それからは血液検査のためにドイツに住む りついて離れなかった想いは、本当にこの世の 兄、日本から姉ふたりが次々ニューヨークを訪 中に善意で骨髄の提供をしてくれる人がいるの れ、 そのたびにウイッシュ先生のところへ行き、 だろうかと、大変否定的だったことです。どの 血液タイピング用に採取した血液を自分たちで ような理由があって、わざわざドナーになると ニューヨーク血液センターへ持っていきまし いうのだろうか? 骨髄移植を必要とする人々 た。 が身の回りにいたからということなのだろう か? あるいは何かのニュースなどを見て移植 同時に日本では、両親をはじめ考えられる親 − 71 − の必要性を確信した人なんだろうか? 単純に 年には日本でもいよいよ公的骨髄バンクが設立 善意というが、何が善意をその行動に起こさせ される」という知らせが、父から入りました。 たのだろうか? まして時間と労力を犠牲にし 待ちに待ったバンクの発足です。92年に最初は てまで、さらには全身麻酔を受けてまで骨髄を ドナー登録、そして患者登録が始まりました。 提供してくれる方とは、私の思考外の存在であ しかし、海外在住者については登録規約がな り、まさに神、仏の救世主のような存在に感じ く、初めは私の登録は受け付けてもらえません られました。 でした。というのも、規約では「患者登録は患 者本人から直接ではなく、担当医師からの申し 数多くのドナー登録はあるものの、適合者も 込み」が必要でしたが、私の医者はアメリカ人 いないまま3年が過ぎました。 こんな状態でいるうちに突然、予想もしない ですので、その申請ができません。父は「英文 ことが起こりました。1991年11月、支社長に呼 の申請書があってしかるべきだ。なぜ日本人で ばれ、いきなり解雇を言い渡されたのです。余 ある息子が登録を許されないのか。理事長と直 命いくばくもない身に、ダブルパンチです。 接交渉させてほしい!」などと悲憤慷慨し、そ 実はそれ以前に、妻が近い将来にくるかもし の必死の要求は財団を困らせたと聞いていま れない最悪の事態を考え、家庭でできるかぎり す。というのも、患者登録は45歳までという財 一緒に楽しめる環境をつくりたいと会社を辞め 団の規定に、私の年齢がほんの数カ月先のとこ ていましたので、私の解雇後はそれこそ無収入 ろまできていたからです。 そのような時期、シアトルのフレッド・ハッ になってしまいます。果たして、それからの生 活を考えなくてはならなくなりました。 しかし、 チンソン癌研究センターに相談したところ、私 医師が宣告した4年に手が届くところでもあ のコーディネーターであるハイディが「心配し り、ドナーの出現をほとんど諦めかけていまし ないで。仮に日本で登録ができなくても、私が たので、この解雇をきっかけに、残り少ないで 名古屋の骨髄バンクに問い合わせをしてドナー あろう人生を思う存分楽しく過ごそうと決心し 検索をしてあげるから」と、元気づけてくれま ました。 した。東京に財団が発足したのになぜ名古屋な 解雇後は、まず初めに最悪の「その日」を憂 のだろうと不思議に思いましたが、こちらも必 い、車のローンを決済したりマンションのロー 死でしたのでとにかくハイディにお願いしまし ンを返済したりして、残される妻には経済的負 た。 担がかからないように準備しました。そのほか、 「アメリカから日本に骨髄を提供した過去の経 生活費は白血病診断前から入っていた生命保険 緯もあるのだから、日本がわれわれに骨髄提供 金が払われるであろうから、当面は大丈夫だろ する機会を持つべきなのは当然。任せてくださ うななどと想いを巡らせていました。 い」とも励まされたのが、1992年の暮れでした。 一方では毎日が規制のない自由時間となり、 父の財団への強い交渉もあり、このような 結婚してから十数年まとまった休暇などなかな NMDPとの交流の経緯もあったためでしょう かとれなかった生活に比べ、鳥籠から解放され か、果たして財団の勇断により例外として財団 た鳥のように、アメリカ南部へのあてもないド から日本人医師を私の担当医師ということで任 ライブ旅行に出かけるなど、かつてない複雑な 命し、その医師を通じて患者登録をする形で登 心境ながらも達観した日を送っていました。 録ができました。その際に財団からは、特例で もあり患者の年齢制限もあるので、検索は1回 ●日本骨髄バンク発足そして登録 だけ行い、適合者が見つからない場合はそれ以 降の検索はしないといわれました。 多くの患者がそうであるように、私の場合も 父から国際電話が入り、「やれるだけのこと 「時間切れ」とほぼ諦めかけていたときに、「91 − 72 − はやった。これでドナーが出ない場合は天命と 植のスケジュールを打ち合わせしていました 思って諦めよう」と、悲壮感をもって話し合っ が、なかなか日程が決まりません。何か雲行き たことを今でも鮮明に覚えています。 がおかしいなと思っていると、ハッチンソンか その後しばらくして、財団から父に登録がで ら連絡があり「日本でドナーの最終同意が得ら きたとの連絡が入ったのは、年齢制限の45歳に れないため、2番目の適合者にドナーになって は1週間前の92年12月10日と記憶しています。 貰うよう、これから新たに同意のための交渉を そして、93年早々には検索が始められるという 始める」というものでした。 これを聞いたときは、まさに金槌で頭をたた 連絡も受けました。 かれたような気がしました。財団の規定では独 ●ドナー発見から移植まで 身者のドナーには親の承諾が要るといいます。 それまで4年近くに及び、世界中から100万 この適合者は独身でその適用を受けるものです 人を超えるドナー登録者の中からも適合者が見 が、移植直前という状況にあって、結果は親の つかりませんでしたが、最初で最後の検索で、 承諾を得られないということで、残酷にもNO しかも登録者数わずか1万6000人の中からふた の答えでした。あくまでもボランティアとして りもの適合者が見つかりました! この広い世 骨髄提供をしたいという本人の意志を尊重する 界の中には自分の分身、兄弟みたいな人が存在 前に、その規則のために善意を反古にすること するのだという本当に不思議な感じで知らせを が大変恨めしく思われました。 受けました。自分自身がこれまで健康でいられ 病院からはひとまずニューヨークに帰ること たことに感謝すると同時に、いよいよ決断の時 を勧められましたが、長期滞在の予定でシアト がきたと、 体のふるえを抑えられませんでした。 ルに来ているので、そう簡単には帰れません。 1993年2月のことです。 それからは再び憂鬱で精神的に不安定な日が続 それからというものは、シアトルでの移植の きましたが、その間ボランティアにはシアトル 準備のために大忙しでした。なにしろ、未だ行 中ドライブに連れていってもらい、いろいろな ったことのない土地で数カ月も生活しなければ 場所へ案内され大変お世話になりました。おか ならないのですから。ハッチンソンでは7月中 げでシアトルの自然にも接することができ、そ 旬に移植予定だから、なるべく早めに2週間ぐ れが私たちの心をなごませてくれました。 らいの余裕をみて来なさいという。衣類のほか そして1カ月近くたったある日、ドナー決 に、考えられる生活必需品の最小限のものを先 定! の知らせを聞き、思わず万歳を叫びまし に送り出し、われわれ夫婦は6月30日にシアト た。まさに、天にも昇る気持ちであり、言葉で ルに向かいましたが、到着してから予想外の問 は表現できないほどの嬉しさでいっぱいになり 題が起こりました。 ました。骨髄提供に合意してくれたドナーに感 ふたりの適合者をどのような優先順位で選択 謝するのはもとより、その提供に同意してくれ するのか、移植成功の確率は五分五分と聞かさ た配偶者である奥様にも手を合わせて感謝した れていたので、当然のことながら気にかかりま ものです。 した。ハッチンソンの説明では、適合者の血液 おかげさまで1993年9月17日、無事に日本か タイピングが患者と同等にマッチしている場 らの骨髄液が私の身体に入っていく瞬間の興奮 合、まず患者と同じ性別の適合者を選択、次の と、看護婦から「ハッピー・バースデイ」と言 選択では若いほうの適合者を選ぶと言われ、私 われたときの感激は、 忘れることができません。 の場合は当時29歳の独身男性がドナーに選ばれ ●移植後――近況 ていました。 一方では並行してハッチンソンと財団とが移 骨髄移植後の状態は必ずしも順調とはいえ − 73 − ず、1994年5月、移植6カ月後にして肺炎にな ードはその後どうなったのか分かりません。こ り手術も含めて2週間入院しました。その後も れは、最近になって姉から聞いた話です。 疲労、発熱をはじめ味覚喪失やら手の震えなど 規則というのは患者、ドナーがあっての規則 様々な症状が次々と起こり、2年近くも苦労し であるべきで、規則があっての患者、ドナーで ました。 はないと考えます。財団にはこの点を考慮して ようやく元気になり始めたかなと感じる間も いただき、今後は患者、ドナーの意志に基づく なく、今度は結腸腫瘍が見つかりました。その 情報の公開ができるよう、その規定を改めてい ために1995年11月から翌年1月にわたり、3度 ただければと願っています。 の大手術を余儀なくされました。しかし、新し 国際間の提携が行われ、お互いにドナーの検 くいただいた骨髄がこれらの障害を次々と克服 索をして、お互いにマッチした骨髄を提供しあ してくれました。今では毎日が楽しく、健康な うシステムになっている今日、日本だけが規定 日々を送っていますが、これもドナーの善意の により情報を出さないというのは、国際間にお 賜物と感謝しています。 ける相互主義に反するものと思います。 移植してから今まで、常に頭に残っているこ 例えば、アメリカ人のドナーが日本人の患者 とは、どうしてもドナーに会いたい、直接お礼 について知りたいと希望している場合に、規定 がしたい、ということです。患者なら誰でもが により拒否するというのは正しいことではない 持つ正直な気持ちだと思います。善意によって と思います。移植後1年目の検査のためにシア 命をもらったのですから。ドナーにとっても自 トルを再訪した際、やはり同じ理由でシアトル 分の骨髄を提供した人間が、元気に生活してい に来たドイツ人の婦人と話す機会がありまし る姿を見ることは大変な喜びだと思います。 た。彼女のドナーはアメリカ・カンザス州に住 しかし、残念ながら財団の規定では両者のプ んでいる男性で、まだ対面はしていないが文通 ライバシー保護のため(?)お互いの名前と住 をしていると楽しげに話し、いつか会いたいと 所を連絡してくれません。欧米ではそれが日常 目を輝かせていました。 茶飯事に行われています。誰がプライバシーが ●終わりに 保たれない云々と懸念しているのでしょうか? 確かにドナー、患者のいずれかがなんらかの理 余談になりますが、アメリカでは「国民があ 由で相手のことを知りたくないと思う当事者が っての国」という意識が強く、国あっての国民 いるかもしれません。それはそれで、当事者が という概念はありません。そのため刑事裁判で 決めればいいことであると考えます。当事者の も民事裁判でも、新聞の見出しなどには例えば 意志の如何に関係なくまず規定があり、それで 「オウム真理教 対 検察」とはいわず、これ すべてを制約するというのはどんなものでしょ らは「オウム真理教 対 国民(people)」と うか。 いいます。また、「疑惑の証券会社 対 検察」 私が骨髄移植を受けられたことで、日本の家 とはいわず、これらも「疑惑の証券会社 対 族は少しでもドナーに対して感謝の気持ちを伝 国民(people)」です。当事者は国民であり、 えたいと、財団にはカードと一緒に花でも贈っ 国民が検察をして罪の追及をさせるという図式 ていただきたいと若干のお金を送りました。家 です。 族も規定を知っていましたから、カードにはお その意味でも、財団には患者、ドナーあって 礼の言葉のみで患者の家族として匿名で出した の財団として、近い将来はその規定を改める日 そうです。後日、財団から連絡が入り、カード がくることを期待しています。そして、ドナー も花も遠慮してほしいといわれたということで と会える日が1日も早くくることを切に願うも す。そのためお金は財団に寄付しましたが、カ のです。 − 74 − 骨髄バンク関連報道に携わって 「きずな」を求めて 妹尾浩和 中日新聞生活部 か、個人を救うことができない、ということを 私が骨髄バンクとお付き合いを始めて一年余 がたちました。歴戦の勇士の方々の歩みから見 痛感したのです。 ればわずかな期間ですが、反応の鈍さに憤慨し 「手遅れになってしまったが、自分たちにでき たり、巨大な岩が動き出して感動したりとさま ることをやろう」と、組合員に「チャンス」を ざまな体験をすることができました。 配り、骨髄バンクへの登録呼び掛けを始めまし バンクに関わるようになったきっかけは、30 た。そして、所属している生活部で私は、健 歳代の若い同僚記者が白血病になったことで 康・医療問題を担当していましたので、紙面で す。闘病期間中は、正直言って、どのようにす 骨髄バンクを取り上げることにしました。「き ればいいのか、とまどいました。と、いうのも、 ずな」と題し、移植の実際やバンクをめぐる人 骨髄バンクに登録し、仮にHLAの型が合って 間模様をつづった企画を97年6月に15回連載し も「彼を指名して提供できない」のでは仕方な ました。 い、という気持ちがあったからです。個人的に、 白血病など骨髄移植が必要な患者さんたち 血液検査をしてHLAの型を調べた仲間もいま は、いつ訪れるか分からない死と直面しながら、 す。「ダメで元々」というつもりでしたが、非 命をつなぐ移植に希望を託し、生と死に向かい 血縁者間で型が一致する可能性が、数百から数 合いながら凝縮した人生を送っています。ボラ 万分の一に過ぎないという確率の中で無力感を ンティアは、気負うことなく、おごることなく、 感じるばかりでした。労働組合を通じて、バン ドナー登録を増やす環境づくりに取り組んでい クへの登録を呼び掛ける準備の途中で亡くなり ます。記事にする際は、事実を書くだけで余分 ました。発病から1年半でした。 な装飾の言葉は要りませんでした。「登録をし 多くの仲間が、何もできなかったことを悔や て、人を救ってあげよう」というのは、おこが みました。この過程で「1人のためから、みん ましい考えであることを思い知らされます。患 なのために」という骨髄バンクの精神を痛感し 者さんから、生きることについて教えられてい ました。同じ病気に悩んでいる人を救おう、と るのです。せめて、自分ができることをしよう バンクの「パイ」を大きくすることによってし という気持ちになってきます。 − 75 − 多くの患者さんに話を聞いた中で、気になっ 80%から84%にアップする一方、女性は71%か たことは「ドナーに何回も断られた」「最終同 ら32%に急落してしまいます。年齢別では、20 意の直前までいって断られた。断るなら、早い 歳代までは復帰しやすいものの、30歳以降は年 時期にしてほしい。期待しているのにつらい」 齢があがるにつれて激減。45歳以上では、80% という声が多かったことです。「ドナーが逃げ から50%に落ちてしまいます。医療技術の進歩 た」という悔しい思いは察しますが、誤解もあ によって命が助かったとしても、その後、社会 ります。ドナー側の理由で中止になった人の3 で自らの意思に基づいて自由に生きることがで 分の2は、健康上の理由です。健康だと思って きなければ、命の価値は半減してしまいます。 いたら糖尿病だったなどの例が多いのです。中 「骨髄バンクは医療システムにとどまらない、 止になった理由を、主治医は、必ずしも個々に 社会システム」との認識にたって社会を変えて は説明しないので、患者側は「断られた」と思 いかなければならないと実感します。 連載は、中部地方での骨髄バンクへの登録申 いこむようです。誤解で、ドナーに不信感を抱 し込み数の増加に結び付きました。愛知県では かれるのは残念です。 骨髄採取の様子を取材して紙面化しました ▽問い合わせ・照会数5月の94件が6月は323 が、読者からは「人工呼吸装置を使った全身麻 件に▽登録申し込み数同じく75件から222件に 酔のイメージが違った」との声がありました。 ▽登録数61件から97件(7月は137件)に伸び 「麻酔とは、眠ってしまうことだと思っていた。 ました。6月には、未登録者に財団がダイレク 自分で呼吸できなくなるとは思わなかった」と トメールを送っており、その結果、7月の登録 いう人もいれば「何重にも対策がとられていて が全国的に増えたという事情があります。とは 安心できた」という人もおり、受け止め方の個 いえ、具体的に効果が数字に表れたことは、記 人差は大きいことが分かりました。全身麻酔や 者冥利につきます。そして報道の意義と価値を 採取後の合併症は、ドナーになろうかと考えて 再認識しました。 いる人にとって大きな不安点になっています。 この取材の過程で、骨髄バンク運営の問題点 移植が成功したとしても、その後に多くの悩 を実感するようになりました。「善意を実現さ みを抱えていることも分かりました。不妊はそ せるために作ったはずのシステムが、なんでこ の典型例ですが、それを克服して結婚した大谷 んなに融通がきかないんだろう」「だれのため 貴子さん、関口隆さんのお二人の話には「感動 の組織なんだろう」とあきれてしまいました。 「一度決まったシステムを変えるためには、公 した。自分に自信を持って生きたい」との手紙 衆衛生審議会を開き直さなければならない」 も寄せられました。 しかし、厳しい社会の現実に苦しんでいる若 「財団は、日赤とは直接交渉することはできな 者もいます。化学療法で元気を回復した21歳の い。厚生省の橋渡しが不可欠だが、間にたって 青年は、就職の面接で「過去の病気」を尋ねら くれない」……通常では考えられない硬直した れて正直に「白血病だった」と答えたところ、 組織の現状が見えてきました。 「丈夫な人を採用したい」と断られたそうです。 問題点にどう切り込むか、頭を悩ましていた 一方で、骨が弱って歩くのがつらい時に車いす ころ 「明日の骨髄バンクを考えるシンポジウム」 の助成を申請したら「障害者ではないからだめ」 が開かれました。殺気を漂わせながら、本音で と断られました。「障害者ではないが、社会的 交わされる議論に、うなずいたり、首をかしげ に制約を受ける」とやりきれない思いをされて たりしました。組織の在り方について陽田秀夫 います。 運営委員長が訴えられた言葉が今でも耳に残っ ています。「組織を評価する尺度の一つとして、 社会復帰についても現実は厳しく差が出てい 意志決定の速やかさがある。バンクの評価は5 ます。就職率をみると、男性は移植前と後とで − 76 − 段階で1。三頭体制がネックとなっている。意 度解体して、財団も含めて血液、骨髄・臍帯血 思決定が遅れるとその間に助かる命が失われて バンク事業を一体的に扱う組織に衣替えできた いく。患者にとっては“時は命”だ」 らいいのに、と思います。 バンクの在り方を考える上で、カギを握るの ドナー登録をする段階からコーディネートを は、やはり日赤の姿勢でしょう。シンポジウム 始め、医師による検診を取り入れてほしいもの の後、日赤の実務責任者にインタビューを申し です。登録に、一時間もの時間を費やしながら、 込んだところ「質問を文書で出して下さい」と ビデオを見て「何か質問はありますか」と聞か 求められ、結局「回答は文書で出します」と拒 れるだけではもったいなさすぎます。最初の時 否されました。仕方なく、文書で六項目の質問 点からコーディネートに組み入れてほしいと思 を出しました。担当者は「インタビューが無理 います。コーディネーターを、(新)日赤の職 な代わりに、誠意をもってお答えします」とは 員として身分保障し、各地の日赤血液センター 言ってくれましたが、結果は型通りに終わりま を事務局にして、不安なく活動ができるように した。 すべきでしょう。 質問例……バンクの運営について財団と日赤 ドナーの情報を、HLAのデータ管理だけに の当事者間で決めることはできないのでしょう とどめず、プライバシーに配慮しながら、うま か。「財団と日赤の交渉は厚生省を通じなけれ く普及啓発活動につなげる工夫が必要です。現 ばできない」との指摘がありますが厚生省は 在の、財団ニュースを日赤に送り、日赤がラベ 「実務は両者の間で話し合いを」と言っていま ルを張って発送するという流れは異常です。ド す。日赤から「文書で出せば検討する」と言わ ナー情報は、骨髄バンクに所属するのであって、 れるが、一方で「文書を受け取ってくれない」 日赤のものではありません。 との声があります。見解をお聞かせください。 日赤本社への不満ばかり書いてしまいました 答えは、次のようなものでした。 「『関係三者 が、ボランティアと一緒に現場で取り組んでい 事務連絡会』を開催し、案件を持ち帰って解決 る地域では、数多くの方が尽力してくださって に向けて鋭意努力しています。一層意思の疎通 います。愛知県では、98年4月下旬から栄の血 をはかり、骨髄移植推進のために万全を期した 液センターで土、日曜日に登録をすることがで い」 きるようになりました。 「赤十字精神って何なんだろう?」 戦場で、敵味方の区別なく手を差し延べ、地 現場で、患者さんやドナーの人たちと接して 震などの災害があれば、危険を物ともせず駆け いると、多少の困難があっても何とかしたいと つけるという赤十字のイメージが崩れてしまい 考えます。しかし、現場を離れ、取り組んでい ました。「弊害ばかりが目につく官僚組織」と ることが「仕事」になってしまうと、自分たち 言わざるをえません。人と会って話しあうこと の都合を優先して処理するようになります。今 を拒否し、文書だけでしかコミュニケーション こそ、原点に立ち返ることが大切だと思います。 がとれない組織を信用しろ、と言われても無理 私は、登録はしましたが、残念ながら提供す でしょう。「閣議了解に基づく本来業務の血液 る機会に恵まれていません。骨髄バンクに関わ 事業でさえ、問題山積なのに、厚生省からの委 り、提供する前に、多くの宝物を受け取ってい 託事業に過ぎない骨髄バンクに深入りしたくな ると、感じています。骨髄バンクのさらなる発 い」との姿勢がうかがわれます。 展を期待します。 HLAの検査能力を始め、世界にも誇れる実 力を持つ日赤だけに、新しい世紀に向けて業務 を根本から見直してほしいものです。日赤を一 − 77 − 骨髄移植関連最新医療情報(DLT) ドナーリンパ球輸注療法の医学的効果 塩原信太郎 金沢大学医学部付属病院輸血部 ●はじめに−日本で有利なDLT療法− で前処置後、HLA適合ドナー(兄)から同種 Donor Leukocyte Transfusion(DLT)は同種 骨髄移植を受け順調に経過していた。しかし39 骨髄移植後の再発例に対しドナーのバフィーコ カ月後に細胞遺伝学的再発を認めたので、高齢 ートを輸注し再発を治療しようとする同種免疫 であることを考慮し、同一ドナーから総量 療法である。1990年のKolb等の報告 1) 以来、 欧米では再発例に対するsalvage療法として疾 患別と病期別の治療効果が確立してきたが 分けて採取しそのまま輸注した。表1に経過を 2-4) 、 5) 示す。輸注後経過は順調で急性GVHDも発症せ ず50日目に骨髄のPh1染色体が減少し78日目に 欧米と異なりT細胞除去症例が少なくまた GVHDの発症頻度の低い本邦では 8 2.47×10 /Kgのbuffy coatを週2回ずつ5回に 消失した。 欧米と同 様の治療効果が得られるのか興味深かった。そ 図1にDLT後の赤血球のキメリズムの推移を こで小寺班の研究の一環として全国調査を行っ 示す。再発時93%あったホスト由来の赤血球は たところ抗白血病効果は、欧米とほぼ同等だが 消失し、再発時7%のドナー型赤血球は100% 副作用のGVHDは頻度・重症度共に低く、その となった。DLT後患者の造血能はドナー型造血 結果、本邦におけるDLTの総合的治療効果は 細胞によって再構築された 。TCRの経時的検 GVHDが低い分だけ相対的に高く、今後期待で 討でGVL効果発現時にだけTCRのクローナルバ 7) 6) きる事が明らかとなった 。ここでは我々の経 ンドが認められたのでドナーリンパ球輸注後に 験した興味深い2症例を紹介し、全国調査の成 特異抗原を認識したT細胞のクローナルな増殖 績を述べ、適応疾患と病期、具体的な投与細胞 があったものと考えられる。 図2に第二例目を示す。第二例目は48歳の 数、投与方法について述べる。 ALLで、HLA適合ドナーからの移植後約150日 ●多様な抗白血病効果−GVHDが関与する GVL効果と関与しないGVL効果− に再発したが、帯状疱疹を合併していたので化 学療法は危険と判断しDLTを優先した。輸注後 第一例目はDLT時46歳の女性で、42歳時 一週間目に急性GVHD(2度)が発症し、同時 CML慢性期のためBU16mg/KgとCY120mg/Kg に白血病細胞は末梢血から消失し、LDHは正 − 78 − ■表1 DLTによるGVL効果(1) 急性GVHDを発症せず発揮されたGVL効果 ―再発CMLに対するDLT後のPh染色体の推移― キメリズム 移植後月数 UPN78 Ph-positive Donor由来 metaphase/total (%) RBC (%) -3 20/20/ (100) 0 +1 0/10 (0) n.d. +2 n.d. 69 +4 n.d. 96 Donor Ieukocytes +39 16/20 (80) n.d. transfusion +40 13/20 (65) 8 +42 n.d. 7 +44 1/20 (5) 9 +45 0/20 (0) n.d. +48 n.d. 75 +60 n.d. 100 +72 n.d. 100 +84 n.d. 100 42歳時CMLCPのためBU16mg/kgとCY120mg/kgの前処置後、HLA適合ドナー(兄)からBMTを受けた。39ヵ月後に細 胞遺伝学的再発を認めたので2.47×108/kgのbuffy coatを同一ドナーから輸注した。Rh-EとRh-cの赤血球膜抗原をフ ローサイトメトリーで検査した(ドナーの赤血球はRh-E,cで患者の赤血球はRh-e,Cであった) 。 ■図1 DLTによるGVL効果(1) ホスト型造血の消失とドナー型造血の回復 DLT CyA 4mg/kg (p.o.) RBC (×104/μl) 500 400 host type 300 200 donor type 100 0 10 1993 11 12 1 1994 − 79 − 2 3 4 ■図2 DLTによるGVL効果(2) 急性GVHDと同時に発揮されたGVL効果 IT MTX20mg CA40mg No. of blast in PB (/μl)or LDH level (IU/I) 1500 DLT acute GVHD 1000 500 LDH 0 120 100 160 Days post BMT 180 200 48歳、男性;平成6年1月27日ALL(L2)の1CRにCY-FTBIで前処置後、HLA適合ドナー(妹)からBMTを受け順調 8 に経過し退院したが152日目に再発した。全身性の水痘を合併していたのでDLTを優先し、同一ドナーから3.8×10 /Kg のbuffy coatを輸注した。 ■表2 疾患と病期例のDLTの有効率 本邦 ヨーロッパ 北アメリカ 国際集計 %(例数) % (例数) %(例数) %(例数) 慢性期 100 (7/7) 79 (53/67) 76 (28/37) 75 (56/75) 移行期・急性転化期 26 (3/11) 13 (1/8) 28 (5/18) 63 (15/24) 急性骨髄性白血病 30 (5/17) 29 (5/17) 15 (6/39) 38 (8/21) 急性リンパ性白血病 26 (5/19) 0 (0/12) 18 (2/11) 50 (5/10) 骨髄異形成症候群 83 (5/6) 25 (1/4) 40 (2/5) 16 (1/6) 文献番号 6 (塩原) 3 (Kolb) 4 (Collins) 2 (Slavin) 疾患 慢性骨髄性白血病 ●日本の成績 常化した。 以上の2症例の治療経過からDLT後のGVL効 6) (1)効果――疾患と再発病期によって異なる GVL効果 果は一様ではなく、CTLが関与する場合とサイ トカインが関与する場合があり、効果発現時期 欧米の成績との比較で共通点は疾患と病期に も異なると予測された。単一施設での再発例に よって効果が異なる点である(表2)。DLTの は限りがあるので、小寺班の協力を得て全国調 有効性は疾患と病期によって大いに異なり、 査を行った。 CMLの分子再発例と細胞遺伝学的再発例ある いは慢性期再発例に対しては100%にGVL効果 を認めた。しかし急性白血病の再発例に対して − 80 − ■表3 DLTの総合的な治療効果 再発時の 症例数 症例数 疾患と病期 DLTの GVL効果 致命的GVHD 治療効果 (%) CML 慢性期 7 7 2 5 (71) 移行期・急転期 10 3 0 3 (30) AML 17 5 1 4 (23) ALL 19 5 1 4 (21) MDS 6 5 0 5 (83) 59 25 4 21 (35) 合計 ■表4 DLTの副作用 GVHDと血球減少症 HLA GVHD 血球減少症 適合度 急性 (≧2) 慢性 致命的 一過性 致命的 6/6 35%(23/64) 37%(18/49) 9.3%(6/64) 22%(13/64) 0% ≦5/6 40%(3/10) 18%(1/6) 0%(0/7) 10% (1/10) 0% 合計 36%(27/74) 35% (19/55) 8.4%(6/71) 20%(14/73) 0% れた。 は約26−30%と低値であった。 CMLに対する成績はヨーロッパ移植グルー 本邦のALLの長期生存例は分子再発に対する プの成績を集計したKolbの成績や北米の移植 DLTの症例であった。MDSに対しては本邦の グループの成績をまとめたCollinsの報告、誌 成績は欧米の報告より優れている。再発時病期 上報告された症例を集計したSlavinらの報告に 別ではRAEBとRAEBinTが2例ずつで、合計6 比べ、同等か優れた成績である。病期による成 例中5例がCRに導入された。導入されなかっ 績の差についてはイギリスのRheeらは細胞遺 た1例は急性転化期の再発症例で、DLT後芽球 伝学的再発例だけを検討し7例中7例がCRに は30%から4%まで減少したが最終的には再発 導入されたと報告している 8) した。CMLとの差異は再発であり、MDSは のでCMLでは早 期診断すれば確実な治療効果が期待できよう。 CMLと同様にGVL効果を認めるがCMLと異な DLTから効果発現までの期間は本邦の調査結果 り短期間で再発する点である。CR導入後の追 では2カ月以内であるが、Kolbらの最近の追 加治療を早急に検討する必要があろう。 加症例の検討結果では輸注細胞数が少ない場合 (2)副作用−GVHDと汎血球減少− には、6カ月間との報告もあり、輸注細胞数や DLTの最大の副作用はGVHDである。せっか GVHDの合併の有無などによって異なると考え くCRに導入できてもGVHDで死亡する例が存 9) 在する。本邦ではCRに導入された25症例中4 られた 。 ALLに対するDLTの治療効果はKolbとSlavin 例がGVHDのために死亡した(表3)。全74症 の報告で異なり、Kolbは0%だがSlavinは約 例の集計結果を示す(表4)。本邦では2度以 50%にGVL効果があったと報告している。後者 上のGVHD発症頻度は36%、致命的GVHD頻度 の報告中にはSlavin等の自験例が7例含まれそ は8.4%であった。この発症頻度は欧米の頻 の7例は連続してDLTを行い、また積極的に 度に比べ低くEBMTグループでは41%、北米の rIL-2を投与して免疫賦活を行った症例であ 集計では46%で、誌上報告例の国際集計では る。再発病期としては細胞遺伝学的再発例と分 54%であった。 子再発例が含まれている。ALLの再発例に対し 治療としてはCyAとPSLが主で進行例は ては再発早期に免疫賦活を行いながら連続的な FK506も使用されている。致命的GVHDの頻度 DLTを行うと成績が期待できる可能性が考えら も欧米よりも少なく、GVHDを差し引いたDLT − 81 − ■図3 GVHDとGVLの効果の関係 6 14 11 GVHD (n=20) GVL (n=25) total (N=59) a-GVHDを発症した患者の70%はGVL効果を示す。しかしa-GVHDを発症しない患者でも28%はGVL効果を示す。 ■図4 輸注細胞数の検討 GVL効果を認めた症例の輸注細胞数 1.3 0.5* 0.7 1.2 1.7 0.1 0.3 0.2 4.2* 3.9 4.8 2.3 2.5 2.82.8 1×106/kg 1×107/kg 1×108/kg 初回投与量 0.7 1.3 1.2 1.8 2.0 2.3 致命的GVHDを発症した症例の輸注細胞数 説明文:DLT単独でGVL効果を認めた15症例と致命的GVHDを合併した6症例の輸注細胞数をスケール上に示した。初 回輸注量としては1×107/kg∼5×107/kgが推薦される。( ):初回輸注量の安全域、*:IFN治療例 の総合治療効果は欧米よりも優れていた。 となる。我々の第一症例も再発時93%を占めて HLA5/6以下適合例は4例と少なく、それら いたホスト型造血細胞が排除された後、初めに の症例のGVHD頻度は約40%と低頻度であった 7%であったドナーの造血はDLT後100%ドナ が、全例がHLA2または3座不一致ドナーか ー型に変わった。Drobyskiらはドナーの造血 らの純化CD34陽性細胞移植例であり、輸注細 細胞を追加輸注し汎血球減少から回復できた症 胞数が極端に少なかったことが原因の一つと考 例を報告している 。DLTの時期はドナー型造 えられた。 血の残っている時期が望ましい。それ以外の原 10) 再発時に造血細胞が100%ホスト型に変わっ 因としては慢性GVHD発症による骨髄抑制が報 ていたとするとDLT後の汎血球減少症は致命的 告されている。 − 82 − ■図5 DLTの初回投与量(案) ―疾患別― 5×108/kg 6W 6W 1×108/kg CD3+ cells 5×107/kg 6W 6W 1×107/kg 5×106/kg CML CP/MDS1) BLPD2) 1×106/kg 1 2 3 4 5 6 dose escalation of DLT 説明文:疾患と再発病期別の初回投与量(案)を示す。 1)CMLCPにはCMLの分子再発例。細胞遺伝学的再発例と慢 性期の血液学的再発例を含む。 ●輸注細胞数―致命的副作用のない初回投 与量― 球である。 ●EBV関連リンパ増殖性疾患とDLT GVL効果が得られた25症例の急性GVHD合併 の有無を図3に示した。GVL効果とGVHDは異 EBV-associated B cell lymphoproliferative なる移植免疫反応と考えられる。そこで安全な disorder(=BLPD)は移植後重症免疫不全症を 投与細胞数を知るため輸注有核細胞数とGVL効 基礎に発症するEBV感染B細胞の腫瘍性増殖疾 果・GVHDの関係を検討した(図4)。GVL効 患である。不明熱が続き放置すると短期間にポ 果が得られた25症例と致命的GVHDを合併した リクローナル(良性)からモノクローナル(悪 症例の輸注細胞数から、副作用の少ない安全域 性)に進展する。第60回の日本血液学会で報告 7 7 は1×10 /Kg∼7×10 /Kgであった。初期投与 された全国集計では血縁者間移植例での頻度は 量が決まればdose escalationが可能となる。 0.08%(3631例中3例)と低いが非血縁者間移 植例では約1%(969例中9例)と高いことが 通常1回のアフェレーシスで採取可能な有核 8 報告された。致命率は84%であった。 細胞数の平均は1×10 /Kgなので1回のアフェ このBLPDに対し極少量のDLTが奏功する。 レーシスでまず初回のDLTを行い1カ月間観察 した上でdose escalationをする案が望ましい。 HLAの拘束性のためドナー由来のBLPDが反応 欧米ではCMLの慢性期再発例を対象とした する。表5に当移植班で生前診断した4症例を dose finding studyからGVHDを回避できる輸注 示す 。症例1は1座不一致の血縁者間移植例 7 12) 11) 細胞量はT細胞量として1×10 /Kgであった 。 で初回の移植片が生着せず、ATGで前処置し 本邦での初回投与量が多い理由はGVHDの頻 再移植後にホスト由来のBLPDが発症した。残 度・重症度が低いためと考えられる。図5に疾 りの3例は非血縁者間移植例でいずれもドナー 患別の初回投与量の案を示した。少量から輸注 由来のBLPDであった。 することでGVHDを回避しながらGVL効果を得 第1例目と第3例目は免疫抑制を減じること ることが可能となろう。輸注細胞数はCD3陽性 で改善。第2例目と4例目はバンクに依頼し 数で示しているが輸注細胞はbuffy coatか単核 DLTを目指した。前者(第2例目)にたいしバ − 83 − ■表5 当科におけるEBV関連BLPD発症例 症 例 症例1 (R.Y.) 症例2 (T.Y.) 症例3 (K.T.) 性/年齢 女/38歳 男/24歳 女/23歳 男/31歳 移植時の診断 AML (M2)-1st CR CML-1 st CR ALP (M3)-PR CML-2 nd CP 血縁・5/6 非血縁・6/6 非血縁・6/6 HLA適合度 移植前処置 BU+CY→ mPSL+ATG TBI+CY TBI+CY 症例4 (T.T.) 非血縁・6/6 Ara-C+CY+ ATG+TBI MTX+CyA GVHD予防 MTX+CyA MTX+CyA MTX+CyA 急性GVHD grade II grade II grade II grade II extensive extensive extensive (皮膚・目・口腔) 慢性GVHD ― (皮膚・肝・目・口腔) (皮膚・目・口腔) GVHDの治療 PSL+CyA PSL+CyA PSL+CyA PSL+CyA CyAトラフ濃度 400ng/ml前後 600ng/ml前後 400ng/ml前後 200ng/ml前後 反 応 良好 不良 不良 良好 BLDP発症時期 day 11 after 2 nd BMT day 135 day 144 day 80 症 状 異型リンパ球増多 小腸穿孔 小腸穿孔 病理診断 ― diffuse large cell type diffuse large cell type 細胞由来 ホスト ドナー ドナー ドナー 治 療 CyA中止 ― CyA減量 donor leukocyte transfusion 良好 良好 ― 敗血症 (カンジタ) BLPDおよびカリニ で死亡 肺炎で死亡 反 応 転 帰 生存・社会復帰 発熱・複腔内リンパ 筋腫脹 diffuse large cell type 良好 敗血症 (緑膿菌) で死亡 ンクでは中央調整委員会で議論の末、ドナーの 白血病細胞に対する標的抗原の研究と腫瘍特異 輸血を許可されたのが2カ月目で、患者は血液 的CTLの検討あるいは自殺遺伝子をトランスフ が到着した当日に肺炎のため死亡した。後者 ェクトしたCTLの基礎研究などは急務で、再発 (第4例目)は依頼後約1週間でドナーの血液 予防や治療がより安全になる日も近いと思われ が200ml届き130ml(CD3陽性細胞数で1× る。しかし高度な細胞処理をしなくてもDLTの 6 10 /Kg)を輸血できた。その後約1週間で解 dose-escalationだけで、GVHDを回避しながら 熱し2週間目にはリンパ節が消失した。 GVL効果を獲得できる可能性がある。安全な初 BLPDに対するDLTは採血量が少なくドナー 回量と投与方法が決定できればGVHDという副 の負担が少ないため、バンク経由でその後2例 作用が少ない本邦の特徴を生かした細胞治療が のBLPDに対してDLTが行われ2例とも有効で どこでも安全に施行できるようになるであろ あったと報告されている。いずれも依頼から供 う。 給まで約1週間とすばやい対応であった。バン クのコーディネートシステムに感謝している。 非血縁者に対するDLT例はまだ3例と少ないが ●謝辞 金沢大学骨髄移植班の諸先生方とスタッフ一 6 1--2×10 /Kgまでは副作用がなく安全であるこ 同、日本骨髄バンクのスタッフ諸氏、貴重な症 とが明らかになった。 例を報告していただいた全国移植施設の先生方 に深謝します。 ●今後の方向 同種骨髄移植で白血病が治る理由の一つはド ナー由来の免疫細胞によるホスト由来白血病細 胞の持続的排除機構(GVL効果)の存在である。 − 84 − ■表6 回答施設 名古屋第二赤十字病院内科 岡山大学医学部第二内科 名古屋第一赤十字病院内科 兵庫県立成人病センター血液内科 大阪大学小児科 自治医科大学輸血部血液科 慶応大学内科 済生会前橋病院内科 新潟大学第一内科 順天堂大学医学部血液内科 新潟大学無菌治療部 名古屋大学医学部小児科 横浜市立大学小児科 九州がんセンター 東京都駒込病院内科 大阪大学第三内科 千葉大学第二内科 東海大学小児科 札幌北楡病院内科 名鉄病院内科 神奈川県立がんセンター 東京医科大学第一内科 九州大学第一内科 京都大学小児科 大阪成人病センター第5内科 藤田保健衛生大学内科 東京大学医学研究所内科 近畿大学第三内科 金沢大学第三内科 県西部浜松医療センター血液内科 富山県立中央病院内科 大阪母子保健総合医療センター 金沢医科大学血液免疫内科 名古屋市立大学医学部第二内科 国立大竹病院 (広島) 都立府中病院輸血部 徳島大学小児科 名古屋市立大学医学部小児科 神奈川県立こども医療センター 愛知県立医科大学附属病院輸血部 日本大学小児科 茨城県立こども病院 愛媛県立中央病院内科 参考論文 1)Kolb HJ, et al.:Donor leukocytes transfusions for treatment of recurrent chronic myelogenous leukemia in marrow transplant patients. Blood 76:2462-2465,1990 2)Slavin S,et al.:Allogeneic cell therapy for relapsed leukemia after bone marrow transplantation with donor peripheral blood lymphocytes. Exp Hematol 23:1553-1562,1995. 3)Kolb HJ, et al.:Graft-versus-leukemia effect of donor lymphocytes transfusions in marrow grafted patients. Blood 86:20412050,1995 4)Collins RH,et al.:Donor leukocyte infusions in 140patients with relapsed malignancy after allogeneic bone marrow transplantation. J Clin Oncol 15:433444,1997 5)Morishima Y.et al.:Low incidence of acute GVHD by the administrationof methotrexate and cyclosporine in Japanese leukemia patients after bone marrow transplantation from human leukocyte antigen compatible sibling; possible role of genetic homogeneity.Blood,74;2252-2256,1989 6)塩原信太郎、他;本邦における同種骨髄移植後の白 血病再発例に対するdonor leukocyte transfusion(DLT) − 85 − の治療効果。臨床血液38:1162-1169、1997 7)山崎宏人、他:同種骨髄移植後の再発に対するドナ ーリンパ球輸注後に急性GVHDを経過せずに寛解が得 られた慢性骨髄性白血病。臨床血液36:677-681、1995. 8)Rhee FV,et al.: Relapse of chronic myeloid leukemia after bone marrow transplant; the case for giving donor leukocyte transfusions before the onset of hematologic relapse. Blood 83: 3377-3383, 1994. 9)Kolb HJ,et al:Donor cell transfusion for the treatment of recurrent leukemia after allogeneic bone marrow transplantation. Blood 90:546,1998(Suppl 1) 10)Drobyski WP, et al.:Salvage immunotherapy using donor leukocyte infusions as treatment for relapsed chronic myejogenous leukemia after allogeneic bone marrow transplantation; efficiency and toxicity of a defined T-cell dose. Blood 82:2310-2318,1993 11)Mackinnon S,et al.: Adoptive immunotherapy evaluating escalating doses of donor leukocytes for relapse of chronic myeloid leukemia after bone marrow transplantation ;separation of graft-versus-leukemia responses from graft-versus-host disease. Blood 86:12611268, 1994. 12)山崎宏人、他:同種骨髄移植後のBリンパ球系悪性 リンパ腫の合併症とその対策。血液・腫瘍科 35:276281、1997 骨髄移植関連最新医療情報(DLT) ドナーリンパ球輸注における 「骨髄バンクのシステム的課題」 幸道秀樹 都立府中病院輸血科 1.はじめに ので、両者をつなぐもの「DLTにおけるシステ ム的課題」をできるだけ具体的に述べてみたい。 タイトルにあげた問題は、あまりにも数多く の問題点を含んでいる。ドナーリンパ球輸注 2.DLTを行うにはどうしたらよいのか? (donor lymphocyte transfusion, 以後略してDLT とよぶ)は、骨髄移植後の再発や悪性リンパ腫 DLTの要請を患者主治医から「元の」調整医 の発症の治療法として最近注目されている治療 師に連絡し、その医師が「元の」ドナーに連絡、 法である。これは、単に治療法のみならず、疾 了解を得た後にその医師の病院で採血をする。 患の発症のメカニズムを考える意味でも重要で 運搬は、冷凍する必要もないので比較的簡単で あり、将来は白血病や悪性リンパ腫の治療法と ある。 しても応用される可能性があるだろう。 以上、簡単に述べると何でこんなことができ 後半のシステムの問題は、しばしば個人的資 ないのか、と思われるであろう。しかしこの中 質の問題と混同され混乱を極めていると言って には多くの問題が含まれている。 も過言ではない。当然のことながら個人的問題 3.問題点を整理してみよう とシステム的問題は表裏一体であり、たがいに 影響しあってさらに問題を複雑にしている。あ 現在のバンクのシステムでは移植が終わり、 たかも現状は幕末の京都に似ている。しかし、 ドナーの安全性が確認された時点ですべて終了 だれが近藤勇かはわかりやすいが、だれが竜馬 である。ドナーのプライバシーを守るためにそ なのかだれが慶喜なのかが分かりにくい。人が の時点で調整医師やコーディネーターの持って 変わればすべてよし、とする見方はあやまりで いるドナーの情報は破棄される。その後にアン あることはよく分かっていても、やはり気持ち ケートなどが行われるが、向こう一年間に再び としては「遠山の金さん」を求めたくなる。 移植を要請されることはない、 と説明している。 ここでは、前半の部分は金沢大学の塩原氏が したがって、バンクではDLTを行うことは想定 述べるし、後半の部分は多くの心ある人(ボラ されていない。 ンティアなどつまり志士)が声を大にしている 日赤の規定では、過去に輸血を受けた人から − 86 − の血液を輸血用に使用することを認めていない をした医師の個人になるが、法的なことはとも (この場合、自己血輸血も含まれるかという問 かく、医学的な問題の責任を個人がとることは 不可能であろう。 題は残るが、実際は自己血以外の輸血の可能性 を排除できない)。これについては資料を参照 c.DLTの説明と了解 していただきたい。血液をある人から採血し、 正式な医療行為でないため、説明の根拠が不 他の人に輸血をするのを業務とするのは法律的 明である。基本的には病院の倫理委員会の承認 に日赤の専任事項である。また、日赤が扱うの が必要であるが、論理的に一つの問題を複数の は献血であり、ある特定の人に輸血されること 施設が審議するというのは問題がさらに複雑に を前提として採血をするのは献血の原則に反す なる。現時点で倫理委員会は各病院ごとという る。自己血を推進する立場から病院で採血した ことになっており、複数の病院が関与する場合 自己血に関しては協力をしてくれるが、DLTは (臓器移植など)は厚生省が指針を出している。 免疫学的には自己血(?)であるが(?)、社 d.経費をどうするか 会的には他家血ということになり、いずれにし 何かをすればお金がかかるのが当然であり、 経費の負担を考慮しないシステムは成立しな ても中途半端なことになる。 厚生省はDLTを有効な治療法として認めてお い。自己血輸血の仕組みから言えば、DLTを受 らず、したがって健康保険に採用もされていな ける患者負担となるであろう。複雑なのは病院 い。最近の薬害の問題の反省から、有効性は正 が複数あることであり、これは自己血輸血でも 式な研究グループを設けて厳密に判定されるべ 解決されていない。すなわち自己血に採血料が きであるが、 現在正式な検討はなされていない。 ついていないため採血病院では危険性と責任の 過去には、ほとんどの医師が正しいと考えた治 みが押しつけられ、輸血病院のみが恩恵を受け 療法が、結局は何の効果もなく、後遺症を残し ることになる。これではシステムとしては成り ただけということもあった。ただ正しいだろう 立たない。たとえば、腎移植では腎採取術と移 ではなく、厳密な検討が必要である。もう一つ 植術は別個となっている。また運搬に関する経 の方法として日赤が検討して厚生省に申請する 費は療養費払いとなっている。 という道がある。しかしこれも前述の問題があ 5.問題解決までの道筋 り、まったく行われていない。 DLTの実施に際しての問題点は数多く、解決 4.では具体的に問題点をみていこう 不可能にも見える。しかしこの世の中にあるシ a.「元」ドナーに連絡したいが、移植終了の ステムなどの問題を解決できないわけはない。 時点で連絡先などを破棄している。――プライ 非血縁者間移植の発展そのものがそのよい例で バシーの問題 ある。また、保険で認められていない方法が実 b.病院にきてもらって採血の際 際に行われることは決してないわけでもない。 「元」ドナーは、「現」ドナーではなく患者で しかし現在ではあくまでも正当に行われること もない。 が原則であり、たとえ動機・目的が正当であっ 「元」調整医師は、「現」調整医師でもなく、 てもすべてが許されることにはならないのは言 主治医でもない。 うまでもない。 この観点にたって、問題の解決法を考えてみ 病院にとっては、「元」ドナーは単なる訪問 る。第一に厚生省が保険にて認めることはその 者でしかない。 根拠が薄弱であろう。もっとも担当部署に近い 医師が院内で患者でもない人から採血をする のは正当な医療行為ではあり得ない。行為の責 のは日赤であるが、これも前述の問題があり、 任の所在は、バンクでもなく病院でもなく採血 すぐには困難であろう。結局はバンクが非血縁 − 87 − 者間移植の発展のための研究の一つとしてDLT の輸血として積極的に取り組むむきもある。重 があり得ることを明記して細かな手順を定め、 要なのは秘密主義に陥ることなく、堂々と着実 責任の所在を明らかにすることである。現実的 に検討していくことである。バンクは官僚のも な障害として、骨髄バンクは研究をしないこと のではなく、医師が作ったものでもない。また、 になっているが、実際は依頼されたという形態 事務員が運営する組織でもなく、ボランティア で研究してきた実績もある。日赤と話し合って に任せるべきものでもないことも明白である。 形態を整えることはいくらでも可能である。 おそらくバンクが秩序だった活動を行い、なお かつエネルギーを保つためには事務方とボラン 6.望まれるDLTのあり方 ティア代表の比率が1:1ぐらいが望ましいで あろう。そうすれば自ずから情報公開は保たれ、 目標の形態として、自己血輸血及びそれに類 する輸血(DLTなど)を日赤の業務とし(すで 国民の信頼の大きいバンクになるであろう。こ に通達で自己血は業務の対象となっている)、 のようなバンクが有効性を明らかにすべく研究 バンクがDLTを日赤に依頼するというのがもっ 協力をお願いすれば、DLTは比較的短期間で結 とも自然であろう。そのためにバンクと日赤が 論を得ることができる。 共同で検討委員会を結成し、DLTなどの有効性 骨髄バンクは通常の銀行ではなく、中にいる を明らかにするように前向きに研究を始めるべ のは銀行員ではない。骨髄バンクはけっして固 きである。そうなれば現実のDLTは研究の一つ 定された組織ではなく、組織でありつつバンク としてインフォームドコンセントも可能であ 運動のひとつであることをすべての人が肝に銘 り、責任の所在も問題はない。 ずべきである。 7.そのためのバンクのあり方 [資料] 献血の際の資料より これから組織が信頼されて活動していくため のキーワードとして3つがあげられる。Free, Fair, Globalである。すなわち情報が公開され 問診により、次に該当する方は献血をご遠慮い ているという条件の下で、自由な議論が保証さ ただいています。 れ、公平性が維持され、国際的活動も必要とい うことである。もともとこれは大蔵省が金融ビ ■体調がすぐれない。 ッグバンのキーワードとして提案したものであ ■この3日間に注射や服薬をした。 るが、優秀な官僚が考える標語は優れていると ■いままでに次の病気にかかった。または、現 言わざるを得ない。バンクにはさまざまな問題 在かかっている。[心臓病、肝臓病、マラリア、 が多いが、おそらくこの3つの問題に集約され 脳卒中、血液疾患、がん、けいれん、じん(腎) るのではなかろうか。 臓病、糖尿病、結核、ぜんそく、アレルギー性 まず、情報が公開されていないし、自由な議 疾患、乾せん(癬)、梅毒、その他] 論も保証されていない、また公平性もない。も ■6カ月以内に伝染性単核球症にかかった。3 ともと組織の人事自体が不明な点が多く、任期 週間以内にはしか、風疹、おたふくかぜにかか も定まっていない。これでは財団法人としての った。 形態も問題であろう。国際的問題に関してはよ ■この1カ月間に発熱を伴う激しい下痢をし くご承知であろう。しかしながらDLTの問題は た。家族にA型肝炎やリンゴ病(伝染性紅斑) 目標に正当性があり、数ある中でももっともア を発症した人がいる。 プローチしやすい問題である。日赤としても目 ■この1年間に予防接種を受けた。 標自体に異議を唱えることはなく、むしろ将来 ■この1年間に海外旅行をした。海外にすんで − 88 − (3)抜歯 いた。(1) ■この1年間にピアス(2)、または刺青をし 口腔内常在菌が血中に移行している可能性を考 た、使用後の注射針を誤って自分に刺した、肝 えて、抜歯をされた方は抜歯後3日間は献血を 炎ウィルス保有者(キャリア)と性的接触等親 ご遠慮いただいています。 密な接触があった。 ■今までに輸血や臓器の移植を受けた。 ※■の項目については、医師の判断により献血 ■B型やC型の肝炎ウィルス保有者(キャリア) にご協力いただける場合もあります。この他に といわれた。 も患者さんの安全を確保するため、医師が献血 ■今までにCJD(クロイツフェルト・ヤコブ病) をお断りする場合があります。 及び類縁疾患と医師にいわれた。または、血縁 者にCJD及び類縁疾患と診断された人がいる。 ■今までに人由来成長ホルモン注射、角膜移植、 硬膜移植を伴う脳外科手術をうけた。 ■この3日間に抜歯した。(3) ■女性の方:現在妊娠中、または授乳中。この 6カ月間に出産、早流産した。 例えばこんな理由により、残念ながらご遠慮 いただいているのです。 (1)海外旅行及び海外で生活した方 熱帯、亜熱帯地域を中心に流行が見られる原虫 症(血液を介して感染)の中で最も注意を要す るのが、「マラリア」です。マラリア流行地に 居住したことがある方は帰国後3年間、マラリ ア流行地に旅行したことがある方は帰国後1年 間、献血をご遠慮いただいています。また、現 在マラリア感染が認められている方はもちろん のこと、過去にマラリアに感染したことがある 方からの血液を輸血したことによってマラリア に感染した例も報告されていることもあり、マ ラリア原虫が残存している可能性を考えて、輸 血をご遠慮いただいています。 (2)ピアス エイズウィルス、B型及びC型肝炎ウィルスと いったウィルスは感染者の血液を介して感染す るので、友人同士などで安全ピンや針を用いて 穴をあけた場合などは、感染の可能性があると 判断して1年間献血をご遠慮いただいておりま す。また、医療機関で行った場合でも、医師の 判断により献血をご遠慮いただくことがありま す。 − 89 − 佐藤きち子患者支援基金 基金給付申請から見える医療の内実 野村正満 全国骨髄バンク推進連絡協議会・運営委員長 ■申請受付休止 ■佐藤きち子患者支援基金・給付実績 給付月 給付金額 1. 1996.3 ¥500,000 東大医科研病院 2. 1996.6 ¥350,000 名古屋第一日赤 3. 1997.1 ¥500,000 東海大学病院 第1件目の給付から2年あまりを経過してい 4. 1997.5 ¥300,000 国立がんセンター た。その日までに17件の基金給付を実施し、事 5. 1997.5 ¥500,000 国立がんセンター 実上の機能が停止する事態となったわけであ 6. 1997.5 ¥500,000 埼玉がんセンター 7. 1997.5 ¥500,000 東海大学病院 8. 1997.8 ¥500,000 東海大学病院 で審査が進行中であった給付申請が3件あっ 9. 1997.10 ¥250,000 国立がんセンター た。結局は、その3件を含んで基金創設から20 10. 1997.10 ¥45,340 件、総額にして約780万円の給付を行って第1 11. 1997.10 ¥500,000 滋賀医科大学病院 12. 1997.11 ¥500,000 佐久総合病院 13. 1997.11 ¥400,000 横浜市大附属病院 第1段階というのは、この基金の顛末は決し 14. 1998.1 ¥300,000 国立がんセンター て廃止ではなく、あくまでも休止である、とい 15. 1998.1 ¥500,000 東海大学病院 う点にある。休止に至った原因は、とりもなお 16. 1998.3 ¥100,000 国立がんセンター 17. 1998.3 ¥500,000 名古屋第二日赤 18. 1998.5 ¥500,000 埼玉がんセンター 19. 1998.5 ¥100,000 国立がんセンター 20. 1998.5 ¥450,000 1998年4月18日、全国協議会運営委員会が開 催され、その場でついに佐藤きち子患者支援基 金の休止が決議された。基金は発足から3年、 る。しかしながら、その時点で基金運営委員会 段階の役目を終えた。 さず基金の枯渇にある。給付したくてもお金が ないのである。そこで全国協議会では、今後資 金の確保に努力することとして、しばらくの間 給付合計 は「給付申請の受付を休止する」決定をせざる 移植病院 東大医科研病院 東海大学病院 ¥7,795,340 を得ない状況となったものである。いち早い復 活の願いがそこには込められている。それだけ、 ■あやちゃん展 この佐藤きち子患者支援基金の持つ意義と、金 全国各地で開催されてきた「あやちゃんの贈 額としてはささやかだが果たしてきた役割は大 り物展」は、1998年7月の埼玉県川口市で、 きなものがある。 100回目の開催を迎えた。100回もの開催ができ − 90 − たのも、実は佐藤きち子さんのおかげである。 東京の会に、この300万円の使途をゆだねた。 骨髄移植を望みながら白血病のため7歳で逝 東京の会ではきち子さんの遺志を生かすため、 った小さな画家・三瓶彩子ちゃんは、8000枚の 早速このお金の運営についての検討を開始し 素晴らしい絵を残した。それから4年が経過し た。運営規定を作り、申請と審査の基準を設け た1994年夏、彩子ちゃんの絵は生まれ育った東 た。また、申請の審査と運営にあたる基金運営 京の三鷹市美術ギャラリーを1カ月にわたって 委員の構成と人選、さらには申請書類の作成な 飾り、マスコミにも大きく取り上げられ反響は ど、着々と準備を進めた。95年7月にその名を 大きかった。あやちゃんの絵を見て関心を持っ 「佐藤きち子患者支援基金」とし運営環境を整 た多くの観客のひとりが、佐藤きち子さんであ えた。さらに、基金の性格上、東京の会が運営 る。きち子さんは「あやちゃんの絵をなるべく するよりも全国協議会が担当すべきとして、同 たくさんの方に見てもらうために使ってくださ 年9月その業務は全国協議会に移管された。 佐藤きち子患者支援基金の内容は次の通りで い」と、あやちゃんの父・三瓶和義氏(現「東 京の会」代表)に100万円を寄付された。その ある。 100万円は全国協議会で「あやちゃん基金」と <患者支援金の給付対象> して、絵の額装や補修のために使われ、全国を ○骨髄移植を望みながら、経済的事由により実 施が困難な患者とその家族 まわることが可能になったのである。 ○すでに骨髄提供者がいるか、提供者を得る見 ■佐藤きち子さん 込みのあること(血縁・非血縁を問わず) ○日本国内に居住し、日本国内で骨髄移植を受 きち子さんは東京・青梅市の老人ホームに独 けようとしていること り暮らしをしていた。遠戚の者はいるようであ ったが、まったくつきあいはなかったようだ。 ○特別の理由がある場合を除き、年収が600万 円以下の者 趣味は絵を描くこと、その趣味があやちゃんの 絵を注目させたのだろう。かつては保健婦をし <患者支援金の給付内容> ていたようで、仕事柄か医療問題には深い興味 ○骨髄移植に際して患者負担となる医療費 を持っていたようである。 ○骨髄移植医療にともなう交通費やその他の費 用、及び家族の生活費の一部 1995年5月、きち子さんから再び「寄付をし ○骨髄バンクにより骨髄提供を受ける場合の患 たい」と三瓶氏に連絡が入った。あやちゃん基 者負担金 金となった100万円の寄付から半年あまり後の ことである。「急いでください」とのことであ ○ただし、公的制度、医療機関、民間団体など った。三瓶氏が駆けつけると「貧乏で骨髄移植 により給付・援助・減免されるものを除く ○給付総額の限度額は原則として50万円 ができない方がいますか、そういう患者さんの ために使ってください」と言って、300万円の ■患者の経済状況 小切手を手渡した。その2日後、佐藤きち子さ んは心臓発作で亡くなった。82歳だった。 骨髄移植は健康保険が適用される医療であ 「急いでくれと言ったのは、自分の最期が近い る、高額療養費の制度もあり、患者が負担すべ ことを感じ取っていたのかもしれない」と、死 きお金は限度があるから大丈夫、と考えるのは 去の知らせを老人ホームから受けた時、三瓶氏 まちがった認識である。 は思ったという。 医療費でも、患者負担となる部分はいくらで もある。病院によっては長期にわたる差額ベッ ■基金発足 ド料として、数百万円となった例はいくらでも ある。また、骨髄移植はどこの病院でも受けら 三瓶氏は所属する公的骨髄バンクを支援する − 91 − れる医療ではない。地方の患者は、都会の病院 い状況の時には、申請者や移植病院に直接コン に出てこなくてはならない。小児の場合は親が タクトして、申請内容の細部を確認する。2名 付き添う。非血縁者間骨髄移植なら骨髄バンク のMSWはいずれも骨髄移植を数多く手がけて の負担金もある。その他に、医療とは直接関係 いる病院に勤務したことがあり、移植患者の経 のない出費が患者には次から次へと山のように 済的問題などに精通している。MSWの的確な 出現する。支出だけではない。病気をかかえる 判断が、給付の是非や給付金額の決定に際して ことにより、患者家族の収入は減少する場合が は、重要なポイントである。 多い。家族に患者が1人できると、家族の生活 ■メディカル・ソーシャルワーカー は患者中心に生活のサイクルを作らなければな らないのだ。そうした闘病資金を捻出するため また、申請者にとってもMSWの存在は重要 に、借金を頼める人はまだ救いがある。どうし である。申請書類には移植病院のMSWの意見 ようもない経済状況に追い込まれている患者も を添付しなければならない。基金運営委員の いる。病魔は貧富の差など関係なく襲ってくる MSWは、移植病院のMSWと連絡を取って、事 のである。 実関係を確認することが多い。しかしながら、 佐藤きち子患者支援基金のコンセプトは「経 どの病院にも必ずMSWがいるとは限らない。 済的困窮者にも骨髄移植という治療法を提供す 骨髄バンクの認定病院で骨髄移植を数多くこな ること」にある。骨髄移植ができるのに、お金 している病院でも、MSWがいない病院がある。 がないから骨髄移植をあきらめるという患者を もちろん、MSWがいなければ給付申請を受 支援することにある。経済的な問題で、助かる け付けないというわけではない。しかし、申請 命を失うような悲劇をなくしたいのである。そ 者にとっても、 申請を審査する立場にとっても、 のためには、患者家族の生活費の一部さえ、給 移植病院のMSWの存在は重要である。 付の対象となっている。 MSWという専門職は、日本では国家資格に なっていない。しかし、病院においては重要な ■基金運営委員 職域である。患者のかかえる様々な問題に真剣 審査等に諸々の判断を下す各分野8名の基金 になってアドバイスし、時に行動をしてくれる 運営委員がいる。弁護士として宮田信男氏、移 存在である。だが、そのMSWも能力の個人差 植医として坂巻壽氏(都立駒込病院)、税理士 は大きいようだ。現実問題として、基金の給付 の大塚和博氏、メディカル・ソーシャルワーカ 申請の審査段階で、移植病院のMSWがもう少 ー(MSW)として磐井静江氏(都職員共済清 し理解をしてくれていたならば、と思えるよう 瀬病院)と後藤千春氏(都立駒込病院)の2名、 な事例がいくつもあった。 ボランティアを代表して若木換氏(東京の会)、 ■おむつ代 そして三瓶和義氏にも元患者家族ということで 入ってもらい、それに私という8名である。 給付申請内容をつぶさに分析すると、病院の 基金の給付申請があった案件に対して、委員 骨髄移植に対する経営姿勢の違いがおぼろげな はそれぞれの立場から必ず意見を述べる。とい がらいろいろとわかってくる。そして、患者に っても一堂に会しての会議ではない。すべてフ 対して病院としての努力の足りなさがあちこち ァクスや郵便でのやりとりである。委員はすべ 見えてくるのである。 てボランティアで、無償で委員の役割を果たし 骨髄バンクを介した非血縁者間骨髄移植を最 てきた。 も数多く実施している一つの病院での申請例で 委員の中でも、特に重要な役割を担っている ある。その病院は、家族が無菌室に入るときに のがMSWである。申請書類だけではわからな 着用する防衣等の費用が、患者負担であった、 − 92 − さらには「おむつ代」として7万円もの経費が ることはできないし、そういう規定はない」と 計上されていた。原価計算をすれば、このおむ いうものだった。おかしな解釈である。規定が つは定価である。しかし、実際にはもっと安く あろうがなかろうが、絶対におかしな事務処理 購入できる。病院として、あるいはMSWとし である。そうした一方で、財団は莫大な患者負 て、おむつや防衣等のディスポを安価に購入で 担金の未収金がある。事務処理の怠慢による未 きるようにする配慮がここには欠けていた。お 収金である。相手が貧乏人であろうと、取れる そらく、それ以外のところでも同様のことがあ ところからは取る、という論理なのだろうか。 この事例は、その他にも多くの示唆を含んで るに違いない。 この病院のMSWには、もっと患者・家族の いる。まず、主治医が減免制度の存在を患者に 負担軽減に努力した上で、当基金の利用を願い 知らせていなかった。日本骨髄バンクの患者コ たいと申し上げた。しかし、その後この病院で移 ーディネーター不在による悲劇である。 植する患者からの給付申請は1件もなかった。 ■CD34と臍帯血移植 骨髄移植を行っている病院の経営は、どこも 苦しいと聞いている。しかし、最近になって診 基金を申請する患者たちの選択した治療法は 療保険点数の引き上げなど、かなり改善が図ら 多彩である。基金運営規定では明らかに同種骨 れてきている。それを以前のままの基準で行う 髄移植が対象であると解釈できる。だが給付事 ことなく、患者の負担についての見直しもしな 例は同種骨髄移植だけではない。自家骨髄移植 ければならないだろう。移植病院の努力をもっ の例もあった。この取り扱いについては、基金 と望みたい。特に、経済的に苦しい立場にある 運営委員の中でも意見は分かれたが、この基金 患者には特段の配慮があってしかるべきだろ の給付趣旨に十分見合う支援すべき患者であ う。 り、骨髄提供者を「患者本人」と解釈すること で給付が実現した。 ■財団減免規定 その他、実験的な最先端医療の事例での申請 この基金を創設するにあたって骨髄移植推進 も決して少なくはなかった。骨髄移植後再発例 財団に対して、骨髄バンクの患者負担金減免制 の臍帯血バンクを介しての臍帯血移植もあっ 度についての資料の提供を申し出た。しかしな た。なぜ非血縁者間骨髄移植ではなく臍帯血移 がら、減免規定は公開していないとの理由で拒 植を選択したのか、医学的な根拠がよく示され 否をされた。 ていない申請もあった。また、CD34陽性細胞 当基金へのある給付申請事例である。その事 選択の骨髄移植もいくつかあった。こうした実 例は明らかに財団の減免規定に該当すると思わ 験的ともいえる移植については、保険適用とは れるような経済状況であった。この事例に減免 ならない領域が広く、患者負担となっている部 適用がないのなら、減免制度など存在意義がな 分が多い。そうした費用の補填を患者たちは求 いくらいの内容であった。だが「給付申請 めてきた。 MSW推薦意見書」の減免適用欄は「なし」と それしか選択肢が残されていない実験的医療 なっていた。確認をすると、一家の大黒柱が に関しては、医療機関としてはあくまでも研究 「会社を辞めてわずかな退職金をもらって支払 費から捻出すべきだろう。実験的医療で医療機 った」「減免制度があるのを知らなかった」 「あ 関が得る成果は大きい。患者自らがその費用を とで知り、財団に減免を申請したが認められな 負担するのではなく、その医療を行うところが かった」というのである。 負うのが原則だろう。それができないのであれ この件についてすぐに財団に問い合わせた。 ば、実験的医療を手がけるべきではない、と考 えるのは私だけだろうか。 すると「一度支払われた患者負担金はお返しす − 93 − ■領収書「研究費として」 バンク(NMDP)から骨髄提供を受けるとな 領収書等の添付は必要ないが、基金を給付さ れば、順調にドナーが決定したとしても、500 れた者は6カ月以内に使途の報告を義務づけら 万円程度のお金が必要になる。もちろん全額が れている。実例はないが、基金の趣旨に反して 患者負担である。 海外の骨髄バンクでドナー検索をしてみよう 給付金が使われた場合は返還の請求もあり得 と決断する前に、経済的なことを考えてしまう る。 ある給付事例の使途報告として、お礼状とと 患者・家族は決して少なくないはずである。経 もに1枚の領収書の写しが申請(受給)者から 済的な問題から、せっかく実現した海外からの 同封されて送られてきた。発行者はその移植病 骨髄提供ができないとすれば、これはまたあま 院の責任的立場にある医師個人名で、但し書き りにも哀しいことである。国際協力の推進で、 には「研究費として」とある。知らない者にす 経済的な患者支援のニーズがより高まるのは必 れば、基金からの給付金を研究費として寄付し 至だろう。 たと受け取れる。実際にはそうではなかった。 ■どうする経済的患者支援 実験的医療の場合、病院の会計を通さずに支払 いは直接医局に行われる。しかしながら、これ 佐藤きち子患者支援基金の運営にあたってき はなんとも不透明で、どんぶり勘定的な会計処 て、いずれの申請事例であっても、そこにはす 理であるといわざるを得ない。 さまじいドラマを感じ取ることができた。ささ おそらく随分と昔からこういうやり方で行わ やかな当基金の運営ではあるが、日本の医療の れてきたのだろう。慣習であるからこそ、疑問 体質を垣間見ることができた。 も抱かずに続いてきたに違いない。医療界では いま当基金は休止状態にある。これまでの実 常識だろう。誰かが指摘しないとこういうこと 績を見ると、年間500万円程度のコンスタント は改まらない。ここではっきりと言っておこう、 な収入がないとこの基金の円滑な運営は難しい これは世間一般では通らない方法である。 だろう。いや、今後は国際化の推進などにより、 もっと必要であるだろう。 ■国際協力 病気になるならないは「運・不運」というこ 海外骨髄バンク間の国際協力が進んでいる。 とで、一切をその患者の負担とするのが現在の 遅ればせながら日本骨髄バンクもアメリカと台 状況である。厚生省の担当者や財団の職員・委 湾との提携が実現し、これから韓国をはじめと 員からは患者負担に関して「受益者負担」とい してアジア諸国との協力関係が大きく翼を広げ う言葉がしばしば出る。病気になってそれが治 るようになるだろう。そうあらねばならない。 療できるとなれば「利益」だと考える思想がそ 例え、日本でのドナープールが目標の30万人を こにある。別の表現をすれば、貧乏人は骨髄バ 達成しても、日本でドナーを得られない患者は ンクの恩恵に浴すことなかれ、と言外にいって 確率的に存在する。そうした患者のHLAは日 いるようにも受け取れる。 本ではまれなタイプである。しかしながら、日 もちろん、たかだか1件50万円の給付金では 本人ではまれであっても、海外ではポピュラー 焼石に水で、問題を解決できるわけではない。 である可能性がある。そのためにも国際協力の しかし、早期に患者支援基金を再び立ち上げる 推進は不可欠である。 必要性があることを、佐藤きち子患者支援基金 の運営に携わってきた者として私はいま強く感 しかし、患者にとっては日本のドナーでも海 外でも同じというわけではない。なぜなら、各 じている。行政で救済する可能性は皆無である。 国の医療経済の違いによる患者負担金額がとて どこかに心優しいパトロンはいないだろうか。 つもなく違うからである。現実的に、全米骨髄 − 94 − 骨髄バンク関連報道に携わって 取材を通して見たボランティア 高野義雄 読売新聞科学部 HLAに合った日本骨髄バンクの登録ドナーの 骨髄移植の取材を通じて、日頃思っているこ 有無をインターネットで確認できるように聞い とをつらつらと書かせていただきます。 ていたので、財団は約束違反ではないかと思い とにかく毎日、全国骨髄バンク推進連絡協議 ました。 会のだれかがさまざまな視点から、骨髄移植推 進財団の活動や厚生省の動きをきわめて熱心に しかし、発表ではあくまでも、財団が 監視、全国各地で広報、普及活動していること BMDWに加盟し、同日から日本の主治医から に、敬意を表します。 の問い合わせに対して、患者のHLAと同じ日 とてもわれわれ記者には、 できないことです。 本と世界の骨髄ドナー人数を回答する「HLA 新しく仕入れた情報を逐一、協議会のメーリン 照合サービス」(いわゆる予備検索)を始める グリストで毎日送っていただいているので、大 という内容。財団は日赤から提供された手持ち 変助かります。メールは毎日読むようにしてい の日本骨髄バンクデータを使って、日本人ドナ ますが、ちょっと忙しくて1日、2日チェック ーの人数を答え、世界のドナー人数はBMDW していないと、すぐメールが10通以上たまって を調べて回答し、 つじつま合わせしていたため、 しまい、読むのも一苦労。その活動度の高さを 記事にはしませんでした。 その後のメールによると、さらにその先があ 強く感じています。 例えば、財団が今(98)年4月13日、世界骨 って、財団はBMDWの予備検索結果をそのま 髄ドナー集計システム(BMDW)に加盟した ま回答したのではなくて、BMDWの検索結果 と発表した翌日、さっそく協議会メールで、財 のうち患者とHLAが一致したドナー人数だけ 団はBMDWに日本の骨髄提供者(ドナー)の を回答し、検索結果にあるHLA一部一致の人 HLA(白血球の型)データを送ったものの、 数は教えずにいたことが判明、協議会ボランテ BMDWの掲載締め切りに間に合わなかったた ィアの調査能力に感銘を受けた次第でした。新 め、すぐにはBMDWに日本のデータが登録さ 聞の立場からすると、記事にするほどの不正と れていない不手際が報告され、驚きました。日 いうわけではないとの判断ですが、命がけで適 本も含めた世界の患者がその日から、自分の 切な治療法を探している患者、 家族にとっては、 − 95 − 財団が勝手に情報操作したと考えるのも無理は 標に、非血縁者間の臍帯血移植を実現させる新 ないと思いました。 たなバンクを作る計画が進んでいますが、検討 会メンバーである協議会の陽田秀夫副会長に加 メールを読んでいると、これは最近の財団の トラブルのほんの一部であることがわかり、ど えて、野村さんや協議会事務局員の遠藤允さん ういうわけか財団はここのところ不祥事続き (日本文芸家協会会員)らがほぼ毎回出席され ている熱心さには頭が下がる思いです。記者の で、目が離せません。 私ですら都合がつかなくて、毎回は出られず、 私は、財団発足(1991年12月)の翌々年から、 ほかの読売新聞科学部記者が代わりに出ていま 骨髄移植の取材を始めました。 す。NHKを除けば、テレビ各社は検討会の途 当時は、協議会の事務所が、東京の隅田川に 中経過なんて取材してないようですからね。 近い墨田区東駒形にあって、会合におうかがい した時、公的骨髄バンクを支援する東京の会代 臍帯血移植は、今は産後に捨てている胎盤や 表の野村正満さん(現全国骨髄バンク推進連絡 へその緒の中にある血液(臍帯血)を、骨髄同 協議会運営委員長)や北海道骨髄バンク推進協 様、白血病などの重い血液疾患の治療に利用す 会事務局次長の山崎裕一さん(現骨髄移植推進 るもの。血液のおおもとである造血幹細胞がふ 財団広報・募金部長)らが休日を返上して、ボ んだんに含まれ、赤ちゃん由来の未熟さが功を ランティア活動していたことを懐かしく思い出 奏して、HLA(白血球型)が一部ミスマッチ (不一致)でも、完全一致の骨髄移植なみの成 します。 93年4月、白血病と骨髄移植に関する12回の 績、成功率をあげている事例が欧米で報告され 連載記事を、取材班がその後、菊池寛賞を受賞 ています。白血病などの患者、家族が期待して した読売新聞朝刊の医療ルネサンスというコー いるだけに、協議会の皆さんの取材活動にも熱 ナーに書きました。以来、野村さんとの“腐れ が入るのでしょう。 特に、約6年半前の発足以来、“腰が重い” 縁”とボランティアの熱心さにひかれ、マルチ メディア取材担当などで一時遠縁になった期間 のが特徴とされる骨髄移植推進財団と日赤に対 もありましたが、骨髄移植の取材を継続してい する日頃からの不満がつのり、二度と同じ失敗 ます。 を繰り返したくないとの思いが、協議会には強 財団のドナー登録者が、当時の目標10万人の いから、当然の行動なのだと見ています。陽田 折返点である5万人に達すると、国立国際医療 副会長や協議会ボランティアが検討会を見守っ センター総長だった高久史麿財団副理事長(現 ていなかったら、厚生省と財団が思いのままに、 自治医大学長)、骨髄移植サポーターのタレン 財団と移植医だけに都合よく、患者の便宜を二 ト東ちづるさん、谷修一厚生省保健医療局長 の次にしたバンクになりかねません。 (現健康政策局長)の三人に、財団を通じた非 とにかく赤ちゃんは毎年、100万人以上も生 血縁者間骨髄移植の成果と課題を語っていただ まれているので、特定の病院とそこで出産する く鼎談を読売新聞東京本社で開催、その内容を 妊婦さんの協力を得れば、1万件や2万件の臍 特集紙面(94年6月)に掲載しました。 帯血は短期間に集まりそうです。いったん臍帯 最近は、協議会の監視がなく、財団に任せ切 血が集まって、たくさん保存されれば、新設さ りだと、患者、家族の求める方向からどんどん れる臍帯血バンクを通じて、HLAが適合した ずれていくという印象で、どうしてこうなって 臍帯血を見つけた患者は、一両日中にでも移植 しまったのかとつくづく考えさせられます。 を受けられるのが強み。 生身の提供者とのコーディネーションが必要 現在、厚生省の臍帯血(さいたいけつ)移植 検討会(座長・斎藤英彦名古屋大医学部教授) で、財団に移植希望の登録をしてから実際の移 が毎月2回ほどのペースで開かれ、6月中を目 植まで半年以上も時間がかかる骨髄移植に比 − 96 − べ、スピーディーに移植ができます。この格段 意識と情熱を持った人たちなんだと、つくづく の時間短縮が、患者にとっては大きな魅力なの 感じました。 KENさんは最近も、骨髄移植のメーリング でしょう。提供者の麻酔リスクもないから、患 リストに頻繁に情報提供、患者側の立場から具 者側の心理的な負担も軽い。 ただ、いいことづくめではないのが、臍帯血 体的な政策実現を図る、いわゆるロビイストと 提供者である赤ちゃんは、健康に何年間も生き して活躍されています。「本業そっちのけ(冗 抜いてきた履歴がないこと。骨髄移植の場合は、 談です)」で、ボランティア活動するエネルギ 20年から50年も健康に生きてきた保証付きの人 ーには脱帽です。「患者本位の骨髄移植と臍帯 から骨髄が提供される。そこで、臍帯血移植で 血移植」の実現をめざし、腰の重い財団や厚生 は、提供者となる赤ちゃんの健康状態を半年監 省を動かす、ますますの活躍を期待、応援して 視して、問題がない場合に限り、その臍帯血を います。 ただ、 こうした一部の強力な牽引者だけでは、 使う仕組みになるようですが、その後に先天性 疾患を引き起こす確率はゼロではないと聞いて 実際に行政や組織を動かす力としてはまだ不十 います。もっとも、海外でも臍帯血移植が原因 分で、全国各地のボランティアの声やロビイン で、ほかの病気を提供者からもらったという報 グ活動の結集が必要であり、協議会メンバーは 告はないですから、それほど神経質になる必要 それをよくご存じで、いろいろな形で活動して はないのでしょうが。 いることが重要だと思っています。 問題は、骨髄移植か臍帯血移植かの選択が、 マスコミ記者である私は、骨髄移植、臍帯血 患者、主治医にやりやすい仕組みを作れるかど 移植のほか、昨年10月に法律が施行された脳死 うか。骨髄提供を待つうちに、健康状態が悪化 臓器移植も担当しています。骨髄提供者の意思 して、移植を受けられなくなった患者が実際に 確認段階で弁護士が立ち会う現在の仕組みは、 いるわけで、今後、そうした患者、家族の期待 臓器移植に比べたら、ドナーの権利保護を配慮 に応え、スピーディーな臍帯血移植を実現させ した、はるかに進んだシステムだと認識してい る臍帯血バンクができるようにと願いながら、 ます。逆に、これから始まる臍帯血移植で、本 取材しています。 邦第一例が疑惑だらけだった心臓移植に対する 協議会と財団が昨(97)年11月、東京・新宿 ような汚れたイメージを国民が持ってしまった の全労済・東京レインボー会館で共同開催した ら、大変な足かせになり、臍帯血提供者となる 「公開フォーラム 明日の骨髄バンクを考える」 赤ちゃんや妊婦の協力を得られません。 では、さまざまなテーマについて、医師、患 移植医の我田引水は許されないのです。それ 者・家族、財団、日赤、協議会メンバーらから意 を監視、正しい道筋に向かわせるのは、協議会 見が出て、 取材者にとっては貴重な体験でした。 の役割であり、マスコミの責務でもあると考え ています。 当日のシンポジウム・パネリストで、元患者 の家族の立場から参加していたKENさん(埴 さいわい、骨髄移植、臍帯血移植を取りまく 岡健一さん)が、財団や移植医が公表しない 支援者には、熱心なボランティアが多く関係者 「骨髄移植実施件数の病院別一覧」を独自に入 の努力で、 よりよいバンク作りが進んでいます。 手、 掲載した資料を会場で参加者らに配布して、 私は、マスコミがその一助になり、「患者本 患者、家族の求めに応えた時には、当然ながら 位の医療」が広い意味で実現すればと考えてい ニュース報道しました。その後の取材で、元の ます。 これからも、どうぞよろしくお願いします。 データは、骨髄移植や臓器移植など医療問題を 熱心に監視している代議士事務所から出たと知 り、骨髄移植を支えているのは、こうした問題 − 97 − エッセイ コンサートは早くも45回 小澤洋介 サンクト・フローリアン三重奏団 私が骨髄バンク、いや、当時は白血病という そこでドナー探し。当時すでにオーストリア ものにかかわりをもったのが1990年2月のこ では日本に先駆けて骨髄バンクが設立され機能 と、オーストリアのザルツブルクでだった。10 していた。すぐ、サンクト・フローリアン三重 年来の留学、そして音楽仲間であったピアニス 奏団のバイオリニストである三戸素子と一緒 トの金井いづみさんの発病を知らされたのがき に、ザルツブルクの血液センターに登録しに行 っかけだ。この話はこの8年間、骨髄バンクキ き、血液を採取した。自分の型が金井さんと適 ャンペーンを通して何回となく述べてきたの 合しているか、一刻も早く知りたかったので、 で、もうご存じの方も多いかと思う。 一週間後に電話で問い合わせたところ、「それ 誰もがそうであるように、白血病という恐ろ ではメモしてください」と、A座・B座・DR座 しい病気がごく自分の身近で起ころうなどとは まで教えてもらった。確かたった一回、注射器 夢にも思っておらず、当然のことながら、仲間 一本分の採取だった。まあ、現在でも日本で一 から自分は白血病だと告白されれば、当然病気 回の採取ですべての座を調べることができない に対して無知な我々にとっては、 「家庭の医学」 のは、それなりの理由があるのだろう。また採 等のアマチュア医学書を読んだところで、これ 血の時、自分の型を知ることができますかと尋 ほどの病気に対して、なすすべがあるわけでも ねたとき、「あなたの型なのだから当然です」 なく、ただパニックを起こすことしかできなか と回答された。確かに、基本的人権として自分 った。 のことを知る権利はあると思う。また知りたく いったいどうすりゃいいんだということで、 なければ訊かなければいいし、またきいたとこ 当時、インターフェロン治療と骨髄移植という ろでメモを大事にとっておかないかぎり、「あ 治療がある、という説明を受けた。インターフ なた何型?」「それは、几帳面なタイプで……」 ェロンは技術改良され手に入りやすく、もし体 なんてできるほど単純ではない。 いっそのこと、 によく合えば、かなりの効果があるとのこと、 血液型研究の大家の先生にお願いして分析して ただし、金井さんの場合は骨髄移植が唯一の助 もらって、「骨髄型人間学」とでも称してカッ かる道とのこと。 パブックスでベストセラーにでもなれば、日本 − 98 − 懐かしく思い起こされる。何といっても、一番 でも百万人達成は夢ではないかもしれない。 そのようなわけで、真っ先に金井さんと三戸 思い起こされるのが、それぞれの会場で出会う 素子と私と三人でタイプを付き合わせてみる ボランティアの人たちのおもしろさだ。その上 と、最初のA座のA9は全員一緒。その他は当た じつに楽しくエネルギッシュな人たちだ。それ らずとも遠からず、といったところで、提供で ぞれの独自のカラーを出しつつ、見事に仕事を きるほどまでには合っていなかったので、もち こなしていく。このような人々に、巡りあえる ろんがっかりした。しかし、ヨーロッパ人種の 機会を与えられたのは金井さんのおかげだ。7 友達と比較してみると、これがお話にならない 年間にわたって骨髄移植をひたすら望みなが くらい見事に一つも合っていない。三戸素子と ら、オーストリア、ドイツ、ニューヨーク、ロ 私はその他にも完全に2つマッチしているほど ンドンとあらゆる手を尽くし、そして最後は故 で、まだ当時人種によって片寄りがあると知ら 国の日本で闘って逝った彼女は、私たちに、素 なかった私でも、これは日本で探さないとどう 晴らしい人々との出会いを遺してくれた。 ボランティア活動のメリットは、行動の原点 しようもないと本当に実感した。 そんなとき、日本にもバンクをつくろうとい が自由意志に基づいているが故に、その行動が う運動があると聞き、何かできないかと思い、 マニュアルに制約されないことにあると思う。 はじめたのがサンクト・フローリアンピアノ三 危機に瀕したとき、たいていそれまであったマ 重奏団の骨髄バンク支援キャンペーンコンサー ニュアルが役に立たないことが多い。その現場 トだった。 ではまさに個人判断しかない。血液疾患では、 まだ、当時は骨髄バンクが設立されたばっか まさに時間との勝負であることをまのあたりに りで、キャンペーンといっても患者家族を中心 見た。たまたま伝染性がないがゆえ、多くの人 としたシンポジウムが主だった。東京の浅草の が他人事に思ってしまうのも質が悪い。 先日、円覚寺でのコンサートの練習を兼ね、 小さなアパートの一室にあった東京の会の事務 室を三戸素子と共に訪れ、コンサートのことを ロサンゼルスへ行っているとき、ちょうど当地 話すと、いとも簡単に「ぜひやりましょう」と でアカデミー賞の発表があった。ほとんどが の返事、1992年11月26日東京青山のカワイミュ 「タイタニック」の話題でもちきりだったが、 ージックショップを皮切りに、鎌倉の円覚寺、 短編実話の部門で「VISA AND VIRTUE」日本 そして千葉市民会館の三カ所から始まった。2 語でなんと訳すのだろう、直訳で「査証と美徳」 年目に入り、埼玉が加わり、3年目に福島が加 ということだが、リトアニアの杉原副領事の事 わった。それからずっと続いている、以上の4 を映画化したものが受賞した。このストーリー 県1都の他に、1995年と97年に九州・沖縄地方、 は私も以前テレビドラマか映画で見たことがあ また96年には新潟1県だけで8回のキャンペー る。強制収容所から逃れようと日本への通過ビ ンという骨髄バンクツアーも行った。試しに今 ザを申請に来たユダヤ人に、政府の意に反し独 までに行ったキャンペーンを数えてみると、つ 断でビザを発行する実話だ。3週間の間に1日 い先日の「春の円覚寺コンサート」まで、主な 16時間、彼は2000以上のビザを発行し、それに ものだけで45回になるようだ。一昨年には、全 よって約6000人の命が救われた。そして、現在 国協議会から表彰もしていただき、全国の素晴 その子孫たちが4万人を超えているという。 社会的義務と人間的良心、私はこの杉原副領 らしいボランティアをさしおいての表彰に大変 恐縮した。 この時まだ存命中だった金井さんが、 事のした行為をやはり英雄だと思いたい。そし とてもとても喜んでくれたのが、印象的だった。 てその行為を、骨髄バンクの運動とも重ねあわ せてみるのは私だけだろうか。 このような文章を書く機会により、数年前の プログラムを繰りながら、様々なエピソードが − 99 − 相次ぐ新加盟・福井 「キョウギカイ散」に著効 井上直子 福井骨髄バンク・サポーターの会 私が、 福井に住むようになって5年が過ぎた。 闘病の上での情報、バンク関連の情報はほしい 海外駐在中に子どもが白血病になり帰国を迫 ものの、まだ時期尚早、加盟してもついていけ られたときに、日本の会社という組織には人情 ないと判断し、加盟を延ばしていた。右も左も という言葉など通用しないものだと思い知っ わからないまま、思い立ったらどうにも止まら た。そして広々とした環境を求め、約20年ぶり ない? 井上はあやちゃんの贈り物展や、シン に田舎に戻ってきたことが、こうして今、この ポジウム、金色のクジラ上映、キャンペーンな 北陸の福井にてボランティアをはじめるきっか ど、協議会からも色々なことを教えてもらいな けになった一因である。 がら(協議会は加盟していなくても、力になっ 当時、福井には骨髄バンクのボランティア団 てくれる。さすが患者本位だ)実施してきてみ 体がなかった。と言うより、出来てはつぶれ出 て、やはり、福井だけの情報では何ほども患者 来てはつぶれしたらしい。登録者数は全国でも 救済はできないなと感じだしていた。 最下位レベルだったことにいたくショックを受 思い出せば、あの感動のドナー・患者初対面 けた私は、根が単純なせいか、私がやらなきゃ のあとのこと。陽田運営委員長に「協議会に入 誰がやる? とおっちょこちょいな思いこみを ること自体を、 あまり大変に考えないでいいよ」 抱きはじめていた。そんな折、金沢で開かれた と例の穏やかな、説得力のある雰囲気で言われ シンポジウムに参加し、あの熱血漢の岐阜の田 た。帰ってから、皆と話し合いをして、「つい 中重勝氏に出会ったことで、決心が固まった。 ていけるかどうかわからないけど、とにかく入 闘病中、色々な本を読んだりしているうちに、 ってみよう」ということになった。 いつの頃からだろうか? 東京の会会報や 全国協議会というパワフルな組織があること、 全国各地にパワフルなボランティアがいること 色々な会の会報を頂くようになり(皆さんあり を知った。しかし、協議会に入るには、それな がとう)、協議会や他ボランティア団体を運営 りに組織がしっかりしていないといけないこと している人はどのような人たちで、どのような や加盟料(当初、減免制度はある)がいること 考えで活動しているかが少しずつわかるように を聞き、 様々なボランティアのノウハウを含め、 なっていた。私達は超過激で有名な東京の会会 − 100 − 報を読んで、「わー、すごい。こんなこと書い などの良い面で)を目の当たりにした。そして、 ているー」と思うこともあれば、「なるほど、 その間の米国人たちの反応、日本人駐在員家族 そういう問題があるのか、そういう見方もでき たちの反応、帰国後の日本人達の反応、帰国後 るのか」と教えられることも多かった。十分な の日本の医療に接してみて、問題意識はますま 話を聞くこともなく、ただ、会報を読んでいる す高くなった。そんな私だから、協議会の雰囲 だけでは「どうして、こういう書き方をするの 気は、ストッキングのように? 抵抗なくフィ だろう。ボランティアだけならまだしも、会報 ット感がある。おまけにサポート効果つきだ。 は一般の人もドナーも読むのに…骨髄バンクの 骨髄バンクのボランティアは、たとえば「日 イメージダウンにつながるし誤解を招くことも 本海に漂着したC重油を柄杓ですくい取ればバ あるのでは?」と思ったこともあった。しかし、 ケツに何杯、ドラム缶に何杯と溜まり、海がど 会の人たちの考えを知れば知るほど、「表現の んどんきれいになっていく」というような結果 仕方はきつい所もあるかも知れないが、彼らの は見えにくい。いや、ほとんど、見えない。患 思いは信念があってのこと。患者を救いたいと 者も、家族もドナーも特に地方では表に出てく いう気持ちはどこの誰にも負けない」というこ ることはほとんどないからだ。だからボランテ とを確信するようになった。問題は、彼らにこ ィアをしていて疲れを感じたとしても、その疲 のようなことをいつまでも言わせっぱなしにし れを吹き飛ばすための自分の心へのご褒美が感 て、速やかに改善されない所にあると思う。彼 じにくい。そんなとき、協議会を通して、元気 らの怒りは、優しさの裏返しなのだ。真面目で にやっている仲間たちの「肩の力を抜いて、気 繊細な心の人が、至って過激なのである。 楽に、長くやっていこうよ」「たかがボランテ 協議会に入ってからというもの、そのパワー ィア、されどボランティアだよ」「疲れたら休 には改めて驚かされる。ついて行くだけで精一 め、皆も遠くへは行くまい」という声、他府県 杯で、とても加盟の抱負など今は語れない。特 のドナーの声、患者・家族の声を聞くとき、 に、この頃は、ビッグな問題が続く。各地から 「そうそう。みんなと気長にやっていこう」と も、いろんな情報が入る。その情報についてい 元気づけられる。いつのまにか、日本にもこん っているうちに、地元の現状を忘れてしまいそ なにすばらしいドクターたちが沢山いてくださ うになることがある。協議会で得た情報も、地 るという発見もできた。 元のメンバー全員に公平に公開できているかと いうと否である。事務所が我が家の当会では、 「いつでもお好きなときに勝手にお入り下さり こんな風に、「キョウギカイ散」は、不思議 な薬効があり、また、若干の副作用もあるのだ が実に適用範囲の広い有用な薬だ。ザイダーン 資料を見て下さい」というわけにはいかない。 錠・抗生省物質・ニッセーキカプセルなどと併 沢山の資料、情報を皆に公開できたとして、全 用する場合は、まれに重篤な副作用(高血圧・ 員がそれを理解・把握するだけの時間もなけれ 脱力感・頭痛・ストレス蓄積など)が出ること ば、関心の深さも違う。情報が増えれば増える があり、慎重投与が望ましい。副作用発現時は ほど、ボランティア間の温度差が広がるばかり サンクトフローリアン社とミートス社の持続型 のような気がして時として不安になる。 クラシックコンサート吸入剤が極めて有効と報 もともと、職業柄、日本の医療に色々な面で 告されている。 疑問を感じていた私は、たまたま、ニューヨー 相互作用による薬害がおきず、効果減弱もせ クという異文化空間の中で愛娘の発病となり、 ず、よい相乗効果のみが得られるよう、目下、各 日米の医療の差(特にメンタルケアや、セカン 4製剤の改良品を開発中とか……? 巷の噂で ドオピニオン、スペシャリストの存在、インフ は製造中止になる可能性もあるとか? 多くの ォームドコンセント、QOL(<闘病の生活の質> 患者の命がかかっているため開発が急がれる。 − 101 − 相次ぐ新加盟・島根 二人の熱意が実を結ぶ 北川尚仁 しまね骨髄バンクを支援する会 しまねの会は、昨年10月18日に発足したばか JCメンバーの北尾さんが、広く各方面に声 りの、新米の会です。それまでは、島根には骨 をかけ、第一回設立準備会が平成10年6月、開 髄バンクを支援するボランティアグループはな 催されました。集まった顔ぶれは、調整医師や かったのですが、その必要性を感じた有志が集 血液センター職員等の骨髄移植医療関係者、県 まり、会の発足にこぎ着けました。 からも担当職員の参加を得、さらに出雲市を中 そこには二人の若者の熱意がありました。一 心に有志が集い、約20名で出発いたしました。 設立までの約四カ月間、七回の会合を重ね、 人は、鹿児島から島根大学に進学した吉田君で す。彼は鹿児島で高校時代にこの活動に関わり、 さほど大きな問題もなく、比較的スムーズに設 島根に来るときに、鹿児島の仲間たちから、是 立に至りました。新聞報道では、このような民 非島根にボランティアの会を作れと励まされた 間主導型のケースは珍しいこととして紹介され そうです。 ました。 そしてもう一人は、特別養護老人ホームに勤 当初、準備期間が短いのではとの懸念もあり 務する北尾さん。彼女は出雲青年会議所のメン ましたが、一人一人の真心と熱意が集まり、大 バーでもあり、ボランティア活動には関心と熱 きな力となったのだと思います。 準備会委員長として調整医師の島根医科大学 意の持ち主です。 東京に研修に赴いた際、大谷貴子さんとの巡 輸血部石倉医師、副委員長として松江日赤病院 血液内科大居医師、並びに私が務めさせていた り会いが、彼女の心を動かしました。 この二人がそれぞれに、血液センターや調整 だきました。医師のお二人には、お忙しい中ご 医師を訪ねたりするうち、お互いの存在を知る 尽力下さいましたこと、あらためて感謝申し上 ことから始まりました。チラシ配りなどの活動 げます。 設立総会には、財団から清水普及広報委員長、 を二人だけで続けたり、青年会議所の例会に大 谷さんを招いて、 講演してもらったりするうち、 全国協議会から大谷副会長にわざわざおいで頂 次第に意識は高まっていき会の結成を決意した きましたこと、厚く御礼申し上げます。また、 そうです。 引き続いての大谷副会長のご講演には、多くの − 102 − 感じます。そして同時に自らの力不足を感じま 聴衆が心打たれました。 当初20数名で出発したこの会も、現在会員数 す。 は130名を超えました。県の行政担当者の方や、 さて設立準備も大詰めのある日、インターネ 地元新聞社の記者の方なども会員になって下さ ットでメールが届きました。 「生後二カ月です」 り、社会的な反響の大きさに、初代会長として という書き出しのメールは、骨髄移植をうけて あらためて責任を感じます。 間もないある男性からのものでした。 私がこの活動に関わるきっかけとなったの 同じ病に苦しむ人たちのために自分も何かさ は、昨年一月の三次検査でした。残念ながら提 せていただきたいけれど、GVHDに苦しめられ 供には至りませんでしたが、以降すっかり忘れ 思うに任せないので、代わりに妻を会員にして ていた骨髄バンクにあらためて目が向き、個人 下さい、という内容でした。 ご主人のお世話や家事の時間をさき、熱心に 的に啓蒙活動をしていました。 そんなある日、風の噂を耳にしたのでしょう 活動して下さる奥様。ご主人のご容態も気がか か、北尾さんから電話がかかってきました。突 りなのではないでしょうか。いつかご主人にも 然何の面識もない女性からの電話に戸惑いなが お会いして、お話をさせていただきたいとお願 ら、軽い気持ちで「じゃぁ、一緒に頑張ろうか」 いいたしました。 しまねの会は、ほんのささやかな二人の真心 と答えたのでした。 自分ではかなりな覚悟を決めて臨んだ三次検 の滴から始まりました。 二人の存在がなければ、 査、しかしそのプレッシャーの大きさには少々 この会は誕生しなかったかも知れません。そし 驚きました。自分と同じHLA型の患者さんが、 てその思いに引き寄せられるかのように、皆が 間違いなく命の危機に瀕しているという、目に 集まりました。 見えない現実。そして実際に提供となれば、日 すべての患者さんが、骨髄移植で助かるわけ 常生活に全く支障のない健康な人間が、あえて ではありません。一人一人の人生、一人一人の 4∼5日間入院し全身麻酔をかけられること。 命、その命の叫びに対して私たちができること もし実際に提供者に選ばれていたとしても、 私の気持ちに変わりはなかったと自信を持って は、砂漠に滴を垂らすようなものかも知れませ ん。 しかし、どんなに小さな滴でも、集まれば大 言えます。しかし同時に、辞退するドナーの気 きな潤いになると信じます。 持ちも素直に理解できました。 雨は、野にも山にも大きな木にも小さな木に ドナーには、骨髄移植を正しく理解していた だいた上での決意が必要なことを知りました。 もそして草にも、平等に降ります。そして大き そして日頃からの、家庭内のコミュニケーショ な木、小さな木、草それぞれがそれぞれに雨を ンの重要性も、同時に感じました。 養分にします。 待ち望んで、やっと現れたドナーの直前の辞 一人でも多くの患者さんの、もう一度生きる 退、患者さんにとってそれはいかなる意味を持 チャンスのために、社会に向けて滴を捧げさせ つのでしょうか。ドナーには一切の強制もなく、 ていただきたいと思います。 また責任もありません。あくまでも本人の自由 生後半年の未熟な会、まだ活動は手探りの状 意志のみが尊重されます。それならば、なおさ 態で、お粗末な有様ですが、一人でも多くの患 らより高く純粋な決意が必要なのではないでし 者さんやご家族のために、微力を尽くしていき ょうか。そしてそれはドナー一人一人が自ら考 たいと思います。 えたときにのみ、実現できることなのでしょう。 単純に、表面上の感動を伝えることでは、な かなかここまでの意義は理解されがたいものを − 103 − 相次ぐ新加盟 「全国」を支えるのも地方の役割 なお 猶 克実 骨髄バンクを支援する山口の会会長 そのシンポジウムは中四国骨髄バンク推進連 このたび全国協議会に加盟するにあたり、ご 絡会議の「骨髄バンクの設立」をめざしたシン 挨拶させていただきます。 この会は1990年9月に「中四国骨髄バンク推 ポだったのですが、すでにバンクがあって登録 進連絡会議」の山口県支部として設立されまし するくらいのつもりで参加した私にはとてもシ た。名前も当時は「山口骨髄バンク推進連絡会 ョックでした。 そのシンポで出会ったのが当時、 議」でスタートしましたが、骨髄移植推進財団 中四国の代表の土居優子さんでした。私が帰り の設立とともに会の目的も「公的骨髄バンク設 がけに「山口でこの運動をやっておられる人は 立」から「骨髄バンク登録を増やすための普及 いますか?」と、その人を頼りにしようと尋ね 啓発」に変わったので、今の名称に変更しまし ると、「あなたが来たんじゃからあなたがやり た。中四国のほうも一足先に「広島骨髄バンク いねえ」と言葉を返されたのを今でも覚えてい 支援連絡会」と変わっていました。 ます。 設立当初より、山口県が広島県と福岡県の間 まずは骨髄バンクとは何かを学ぶために、広 に位置するため、九州骨髄バンク推進連絡会議 島赤十字血液センターで毎月開かれる定例会に にもお世話になることが多く、今でも会報など 参加し、日赤の先生や広島原爆病院の土肥先生 で抱っこされっぱなしです。福岡での九州の会 らが熱心にボランティアらにアメリカの骨髄バ 議に呼ばれることも多く、当時ご活躍の磯和夫 ンクのシステムを説明されるのを学んでいきま さんのご両親にも多くのご指導を受けました。 した。本当にずぶの素人だったと思います。こ 設立のきっかけをお話ししたいと思います。 れから第一歩を踏み出すくらいで、骨髄バンク 私の長女(絵美・当時4歳)が1988年の1月に ができるのかと迷いもありましたが、「みんな 山口大学医学部で急性リンパ性白血病と診断さ の一歩一歩がなかったらバンクはできない」と れました。当時の主治医より再発の可能性や完 土居優子さんや東京の橋本明子さんらに励まさ 治の方法として、骨髄移植の治療法の説明を受 れ、1990年の9月に山口赤十字血液センターで け、骨髄バンクのシンポジウムが広島であるか の設立会に漕ぎ着けることができました。 設立後は1990年12月の宇部市をはじめ、下関 ら行ってみないかと誘いを受けました。 − 104 − 市、山口市、徳山市、下松市などで9回のシン に、何度か全国協議会の会議に参加したことが ポジウムや県内さまざまなお祭りごとに参加し ありましたが、山口県のボランティア団体とし て、チラシ配りなどの普及啓発に努めて参りま て初めて参加させてもらうことになり、あらた した。最近では「金色のクジラ」の上映会を各 めて喜びと同じくらいその責任の大きさも感じ 地で開催しています。 ております。加盟にあたって、全国協議会に助 私たちの会は会費制ではないので、会員が現 在何名なのか正確に把握されていません。県下 けてもらう期待とともに、全国を支えるのも地 方の役割と認識いたしております。 何もわからない本州の端っこの田舎者ばかり に下関地区、周南地区(徳山市、下松市、光市)、 山口地区、そして宇部地区と計4カ所の支部が ですが、どうぞよろしくお願いいたします。 あります。豊田町も支部設立の予定で合計約 100人の会員ではないでしょうか。今年は少な い金額での会費制を検討中です。 そうそう、私の娘は7年前再発し、6年前骨 髄移植推進財団ができる前、九州骨髄バンクで 当時1000人足らずの登録者の中からドナーがみ つかり、移植を受けることができました。子ど もが4人いれば1人の確率で一致すると言われ ていましたが、その気になって4人もつくって しまいました。長女の病気のおかげで最近では 珍しいにぎやかな家族に恵まれました。 血液の難病に対して移植が絶対の治療と思い がちですが、GVHDや肺炎など移植を受けても なお命がけです。今なお我が子は慢性GVHDと 免疫抑制剤の治療の影響で病院に入院しながら 高校に通っています。でもバンクのおかげで今 なお生きながらえている1人です。バンク設立 までに、ワラをつかめなかった多くの患者たち がいたことを忘れてはなりません。 もうひとつみなさんにお伝えしておきたいこ とがあります。もう2年前になりますが、下関 市の江島市長がドナーになられました。ご存じ の方もおられると思います。江島さんは当会発 足初期よりの会員で、市長になられた後もボラ ンティアとしてチラシ配りや、ドナー体験談な どをシンポで話されたりしています。現職市長 がボランティア活動もされていることは珍しい のではないかと思います。江島市長も言われて いますが、公務員自らがドナーになることがで きるいい見本ではないかと思います。 このたび、はれて全国協議会に加盟すること ができました。中四国骨髄バンク連絡会議時代 − 105 − 全米骨髄バンク年次総会出席報告 「あやちゃん展」98年アメリカ開催へ 三田村 真 全国骨髄バンク推進連絡協議会・前事務局長 ●はじめに た経緯を説明しよう。97年5月新潟において開 1996年9月、第9回全米骨髄バンク年次総会 催された全国協議会の第8回通常総会において に遠藤允事務局員が参加してその詳細なリポー 採択された97年度活動計画の中に、「国際交流 トを情報誌第3号に掲載したのは、読者に新鮮 事業の推進」という項目が掲げられた。96年秋 な感動を与えたものであった。それは全米骨髄 頃から97年3月頃にかけて、厚生省、財団、医 バ ン ク ; NMDP( National Marrow Donor 療関係者、そして我々ボランティアを巻き込ん Program)の組織としての強固な基盤、協力関 で一大議論を交わした台湾骨髄バンク提携問題 係を築く様々なネットワーク、そして次代を見 を契機に、全国協議会も国際化に向けての旗手 越した先見性。そのいずれもが、日本の骨髄バ たらんとする機運が非常に高まっていたことも ンクには欠落しているものばかりであったから あって、この「国際交流事業の推進」は、ある だ。そして、今回伝聞推定でない、自分自身の 種必然の流れでもあったわけだ。具体的には、 目と耳で検証する機会を得たので報告する。 最初に昨年度遠藤さんが訪米した際の行程を 復習しようと思う。NMDPの年次総会に参加 (ミネソタ州ミネアポリス市) 、その後東海岸に あるニューヨーク血液センター、さらに西海外 に戻りシアトルのフレッド・ハッチンソン癌研 究センターと中部、東部、西部と飛び回った。 さすがジャーナリストであり、その取材内容は (1)NMDPとのボランティア交流企画 (2)国際フォーラム「アジアの骨髄バンク」 開催 (3)香港・シンガポールの骨髄バンク視察と 交流 (4)外国患者のJMDPへの登録に要する費用 援助に関する研究 非常に的を射て奥が深い。今回、私の訪米はミ (5)あやちゃんの贈り物展の海外開催 ネアポリス1カ所、総会会合参加だけであり、 (6)その他 面識あるNMDP関係者も限られていたので、 となっている。私個人としては、この中のど 十分なインタビューもできなかった。 まずは、今回のNMDP年次総会参加に至っ れを重点的に実施していくか、と考えた時、既 − 106 − に97年秋には関西地区で財団と関西協会が共に 約を交わしており、向こう2年間はこのホテル 企画しているアジア太平洋骨髄バンクフォーラ が会場となる。次回第11回1998.9.18∼20、第 ムの概要を聞いていただけに、「あやちゃんの 12回1999.10.8∼10と既に決定。肝心のボール 贈り物展inUSA」を実現させたいと願っていた。 ルーム、カンファレンスホール(会議場)の広 実は遠藤さんも「あやちゃん展海外開催」の可 さだが、幾つものパーテーション(間仕切り) 能性を米国内でも打診しており、フレッド・ハ をぶち抜いて大広間にアレンジできるスペース ッチンソンのハンセン博士(97∼98年度の は2カ所しかなく、しかも常にセッションが開 NMDP理事長)にも可能性を示唆されたとの かれているといった様子であった。 それでは、協賛・関連団体の展示はというと 情報を得ていた。 さっそく新年度がスタートすると間もなく、 ホテル中央に位置する吹き抜けの周囲の回廊 実現に向けて動き出した。あやちゃん展開催準 と、各部屋の間のわずかな空間に、一小間3m 備にまつわる話は次章で述べることにするが、 程度の掲示用プレートが用意されているだけで 結局展覧会は開催せずに、情報収集を主目的に あった。総展示数は26日、27日と日ごとに替わ 総会に参加する運びとなったわけだ。 り、合計27団体が出展。とてもではないが、こ 思えば、日本骨髄バンクが創設される前から の展示空間だけでは、絵画の展示など実質不可 話に聞いていたNMDP。お手本にすべき大先 能であろう。とすれば、必然的に会議が開かれ 輩、そして全国協議会主催の国際フォーラムに た部屋を貸し切りにしなければならない。しか 来てくれた親友がいる組織。多くの思いから、 し、見た感じどこも小部屋でせいぜい絵画を10 ある意味では長い間訪れることを熱望していた 点程度掲示できるか、といった印象だ。会場探 願いが実現したということになるのであろう しに関しては引き続き検討が必要である。 か。ミネアポリスには、仕事の都合で過去1度 最も賑やかで人通りの激しい廊下の目の前の 訪問したことがある。空港近くには、全米最大 小部屋において、インターナショナル参加者の と呼ばれる巨大ショッピングセンター兼レジャ 登録を受け付けていた。元国際コーディネート ーランドの「モール・オブ・アメリカ」があり、 部会の部長という非常に人なつっこい初老の紳 NMDPのオフィスそのものは、ダウンタウン 士が何やらお土産を参加者にうれしそうに配布 からハイウエーで20分ほど離れた閑静な所に位 していた。 さて、今回の参加者数と、参加国数であるが、 置する大きなビルに間借りしている。 総会の会場となるマリオットホテル・シティ 事前登録の段階で20カ国、698人であったが、 ーセンターは、文字通り市街地のど真ん中に位 最終的には24カ国、720人以上とのことであっ 置し、ホテルの2階からそのまま、シティーセ た。アジアからは、日本3人(私以外に財団関 ンターと呼ばれる小規模な商店街兼多目的集約 係者2人)、台湾4人、イスラエル3人、香港 施設に隣接している。ちなみに冬の寒さと積雪 1人、シンガポール1人という内訳。例年の参 が厳しいこの都市では、市街地のほとんどの高 加者が600人前後ということで、この年はかな 層建築物が、公共・民間を問わず2階部分で、 りの活況を呈していた。 SKAWAYと呼ばれる渡り廊下のような空中構 造で繋がっている。そのため、地上に降りるこ ●あやちゃんの贈り物展米国開催顛末記 となく移動ができる都市設計がされている。 ①97年度全国協議会の活動計画に盛り込む NMDPは毎年9月第3週に開催する年次総 会に際して、全米各地はもとより世界中から参 ②国際協力田中基金をベースに、海外展開を (米国、台湾) 集する骨髄バンク関係者を一堂に会する場所を 前にも述べたが、実のところ誰が最初に「あ 安定して確保するために、マリオットと長期契 やちゃんの贈り物展」を海外で実施しようと言 − 107 − い出したか定かでない。しかしいつも、その展 直接手がけるしかない。 示を見る度に、世界中の骨髄バンク関係者にも ⑤三瓶さんの期待 見てもらえたら素晴らしいだろうな、とは思っ NMDPとの連絡交渉の結果は進捗があり次 ていた。そうした気持ちもあって、誰からとな 第三瓶さんには報告してきた。しかし、想像以 く提案された海外開催についても、この企画に 上に米国開催を非常に楽しみにしている様子で は自分から中心的に参画していきたい意向があ あった。なんとか成功させたいと考えていた。 った。さっそく実行に移す前段階の企画書・提 病院に勤務する三瓶さんは、1週間にも及ぶ長 案書づくりの作業から始まる。また、その際の 期休暇を確保するのが困難で、何とか早めに申 資金的なバックアップも、96年度開設された 請し、許可をもらったという。そして、これま 「骨髄バンク国際協力田中基金」からの支出と で海外旅行の経験がないというので当然パスポ いうこともほぼ決まっていた。あとは、実際に ートの入手も早くから準備されて、あとは絵と どれだけの経費を要するか、見積もりを出すこ 共に出かけるだけという様子だった。 ⑥究極の選択 ととなった。 そうこうするうちに期日は確実に近づいてい ③国内2セットあるうち1セットを海外展開 用に、さらには準備作業として海外渡航に備え た。電話で直接話を進めようと試みもしたが、 て、1セット分をあらかじめキープして、海外 いかんせん自分のコミュニケーションレベル 展覧会実施の準備に当たらなければならない。 が、同時通訳モードになっていない。結局、 現在あやちゃんのセットは、A、Bの2セット FAX、メールのやり取りになる。そして究極の ある。最初に作成してオリジナルが多いのがA 選択をするタイミングとなった。というのも、 セット、その後重複開催を懸念してコピーを含 以下の二者択一を迫られたからだ。 めたのがBセット。今回は、日程的にBセット が都合良かったのと、あやちゃんパパである三 A.会場はホテルから少し離れたシティーセ 瓶さん自身も、万一の事態を心配して、オリジ ンターホールという、人通りは見込める場所で ナルが少ないほうということですぐに決まっ 今年第10回を予定通り開催。 B.会場は同じホテル内であるが、時間と場 た。 所の都合で、来年度開催とする。 ④NMDPへの打診、ハンセン博士の返事 ようやく、セットも自分の手元に用意でき、 あとはNMDPから色よい返事を待つばかりで 以上、2点の選択肢を出されて、もちろん自 あった。5月には、正式な依頼状を海部幸世会 分自身で即答はできず、陽田秀夫運営委員長を 長名で提出したが、一向に音沙汰がない。継続 はじめとした、全国協議会の幹部クラスに意見 して打診した末、国際コーディネート部会の担 を求めることとした。ただし、時間があまりな 当者で、今回の年次総会の出席・展示関係も取 かったため、運営委員会に諮ったり、運営委員 り仕切っているテレサさんを紹介され、彼女と 全員に意見聴取することはできなかった。数人 E-mailでのやり取りを始めたところであった。 に聞いたところ、出された意見はほぼ皆同じで、 さすがに、それまで何度となく依頼を重ねてき 「総会会場内での実施と、世界中の骨髄バンク ただけに、話は通っていたが、何しろ多忙を極 関係者に見せることが重要であって、ミネアポ めているということもあって、なかなか思うよ リス市民に見てもらうことがメインの目的では うにはコミュニケーションがはかどらない。最 ない」という趣旨であった。 大の懸案事項は、展示スペースの確保と、器材 自分としては、ここまで準備してきたことも の搬入・設置・搬出の人手を手配できるかとい あり、何とか今年開催できないか、とも考えた うことだった。いずれにせよ、三瓶さんと私が がやはり、その意見を尊重すべきだと考え、 − 108 − NMDP、三瓶さんに連絡を取った。テレサも、 かなり良好な感触を返答前から感じていた。こ むしろこの選択を歓迎してくれ、今の時期にバ の件も、実際には最終段階まで話が進展してい タバタと準備するより、じっくりと来年準備し ながら、こちらから延期取り止めの話で終わっ て取り組みたいと言ってくれた。 たのだが、まず間違いなく了承が得られるもの ⑦直前の開催中止、総会単独参加に変更 と考える。以前、和太鼓の演奏活動で訪米する 結局、直前になって開催中止となったわけだ。 という市民団体の渡航を支援したこともあると 中止となれば、何を言っても言い訳にしかなら いう。こうした市民ボランティアの活動を積極 ないし、これ以上何を書いても無意味かもしれ 的に支援することが、企業の宣伝にもなるとい ない。しかし、極端な話、98年に、約束通りに うことであろう。 実は、総会に参加して初めてわかったことだ 第11回の年次総会において「あやちゃんの贈り 物展」が開催できる保証はない。そのためにも、 が、NW航空は米国でもNMDPに全面的に支援 どのような準備、検討を行ってきたか記録に残 を行っており、ドナーの提供時の移動、並びに すことは重要と考え、さらに何点か補足させて 採取検体の搬送にも無償で協力している。また、 いただくことを了承願いたい。 機内広報用ビデオでもNMDPとタイアップし ⑧荷物の梱包・輸送方法 て制作した子どもの患者からのメッセージ、そ 荷物は、Bセット全部で木箱13箱になる。総 してNW役員の挨拶・説明と、ドナー登録と協 重量は約150kg。これを海外に運搬するとなる 力を呼びかけるものが非常にコンパクトに仕上 と、 運送会社を利用して往復40万円近く要する。 がっていて会場でも試写され、特別表彰を受け ただし、この金額には海外傷害保険がついての ていた。日本でも企業の社会貢献活動について 話であるが、いくらあやちゃんの絵が素晴らし 言われて久しいが、社会全体が不況のあおりを いからといって、高額の保険に入れられるもの 食らっている時こそ、企業の姿勢が問われると ではないらしい。 いうもの。経営者には、社会的責任を今一度検 この輸送会社は、空港∼空港間の荷送をする 討してほしいものだ。 だけで、成田までの持ち込みと、ミネアポリス 空港から会場までの運搬は、別系統で依頼する か、自分たちで運ぶしかない。 ●感動的な対面式2組(直前の日本国内で の初の対面実現を受けて) ⑨NW航空の協力 まず最初の対面式は、初日の26日(金)午後 NWエアライン(ノースウェスト航空)は、 6時から始まった10周年記念式典においてであ 米国の大手航空会社だが、本拠地をミネアポリ った。幾つかのセッション、セレモニーが行わ スとデトロイトに置いている。文字通り、米国 れた最後に、文字通り「The Gift of Life」と題 北西部をこの2拠点のハブ空港を中心として世 した企画があった。最高経営責任者(CEO) 界中に路線拡大をしている。そして97年は、ア のクレイグ・ハウがモデレーターとして紹介が ジアへの太平洋横断路線を開業してから50周年 あった。移植を受けた患者は、50歳前半のフラ に当たるという。いきなりPRするようだが、 ンクさん。石油会社に勤める技術者。診断は 実はこの会社に絵画の運送並びに人間2名分の 1985年、CML。ドナーは同年代のマイクさん。 輸送に関してボランティア団体の扱いというこ 骨髄提供・移植は1987年12月。フランクさんは、 とで、特別配慮で費用減免していただきたいと 診断後すぐに登録したが適合ドナーが見つから 打診をしていた。初めは広報部に電話で依頼し、 ずに、居住地域のロサンゼルスで新たなドナー その後趣意書を提出した。企画内容、目的、全 リクルート団体の旗揚げに自ら参画。この団体 国協議会の紹介などである。 (AADP)のトップが頻繁に来日している 社内に提案、審議していただけるとのことで、 Jonathan Leong、NMDPの副理事長であり共に − 109 − 活動してきた。結果、西海岸にドナーを探すこ いないかどうか聞いたが、特にないという。周 とができたという。感動的な対面をした後のフ 囲の参加者数人も肯定的な意見ばかりだった。 ランクさんのマイクに向かっての一言は「アロ 対面によるあらゆる事例の想定、検討、トラブ ハ!」であった。ハワイ出身の彼は故郷の言葉 ルシューティングを科学的に分析検討したわけ でその万感の思いを伝えていた。 ではない。また、感情論だけに流されて賛否の 続いての対面は、翌日27日(土)のGeneral 議論のフォーカスがぼかされることも好まない Sessionにおいて企画された。朝一番のこのセ が、少なくとも会いたいと希望する患者・ドナ ッションでは、ハンセン理事長が司会進行を務 ーカップルの意向は尊重すべきなのではない め、CEOリポート、NMDP表彰が執り行われ、 か、そういった印象を改めて感じた次第だ。ち やはり最後に対面式があった。ドナーは21歳の なみにフランスの「The France Greffe De 女子大生エイドリアンさん、登録は19歳、そし Moelle」は、国内法によってドナーと患者の て提供時は20歳。この辺りもドナー年齢幅拡大 一切の対面並びに直接の接触を禁じている。こ が日本でも実施されれば、さらにチャンス拡大 の法律は骨髄のみならず他の臓器・組織移植に に繋がる実証というもの。患者さんは、ジャイ おいても適用されるという。 ボン君という8歳の少年。診断時年齢は3歳。 ●NMDPの目標ドナー登録者数 骨髄移植は96年3月。 この時、ジャイボン君は壇上に立たされて、 「What is the optimal registry size?」 Patricia 周囲の興奮状況とは対照的に何が起きているの Coppo, Chief Operating Officer かわからず、きょとんとした表情。代わりに母 ・ドナー登録者数のサイズの解析 親が若く毅然としたドナーに抱きつき、涙がと ①HLAハプロタイプの出現頻度 めどなく流れて言葉にならない様子だった。ジ ②人種の多様性 ャイボン君は、一言「Thank You!」とだけ言 ③HLA適合の規準 えた。しかし、このジャイボン君はおよそ1カ ④HLA検査の正確性 月後に、寝ている最中に突然死してしまったと ⑤ドナーの可能性 いうことを、後にNMDP関係者から聞かされ て大きなショックを受けた。原因は不明とのこ ⑥ドナー検索時の輸送とタイミング ・至適サイズの骨髄バンク登録者数とは? とだが、あの時のはにかんだ笑顔が今も忘れら ①公開された方針の見通し れない。 ②患者の見通し わずか、1週間の間に3組の患者・ドナー対 ③移植センターの見通し 面を目の当たりにした自分は、日本で初の対面 ④NMDPの見通し も感動したが、聴衆の印象は日米で余りに違う ⑤経済的見通し という様子だ。日本では、それこそ突然の出来 以上を踏まえて明らかにされるべきもので、 事であったが、それでもその場にいた人たちは、 現時点でまだ具体的な数字目標を掲げるには至 大きな感動を覚えたものの、それを言葉や態度 っていないようだ。 で表現するほどではなかったように感じてしま ●NMDPの組織 う。それに対して、米国はわかりやすい。 いざ対面となると、全員総立ち状態となって、 NMDPの組織力が充実していると感じるこ 両手を頭上にかざして拍手喝采し、骨髄移植を とは、およそ一般の医療関連の私企業(製造業) 通して結ばれた二人に対する称賛と、感動的場 並みのスタッフを誇る点だ。勿論、潤沢な資金 面を与えてもらった感謝を忘れない。今回数人 があればこその話であるが、ここはJMDPとの の関係者に対面によるトラブルや弊害が起きて 比較云々というよりも、何より組織・人的資源 − 110 − の豊富さ、そして適材適所、この言葉に尽きる むしろ本来営業収入になりえた金額というもの 気がする。 は非常に膨大である。社会的、人道的立場から 具体的には心理学者、臨床開発部隊といった こうした活動を支援する企業への評価はもっと 専門知識と経験を有するスタッフを抱えるとい 高まってもよいのでは、と考える。 うことと、 さらには一部ではあろうが薬事部門、 ・MCI電信電話会社: 同じように、ドナー希望者がドナーセンター、 統計解析専門家といった存在がいるのだ。薬事 部門とは、製薬・医療機器製造メーカーが、自 NMDPなどに電話連絡をする際に、その料金 社開発生産した新規製品を国の許認可を受けて をいわゆるフリーダイヤルにするのが、米国流 製造・販売するための様々な事務手続きを行う カスタマーサービスである。その費用は、本来 部門である。それこそ、一流の専門知識と経験 企業が支払うべき性格のものであるが、MCI社 がなければ務まらないし、何より戦略立案、厚 の場合、このフリーダイヤル費用を電信会社が 生省(米国の場合、FDAという政府機関)と 負担している。これも立派な企業の社会貢献で 対等に交渉しうるだけの能力が求められる部門 あり、これら2企業に限らず、全米では非常に だ。 多種多様な企業・団体・個人が支えあって骨髄 さらに、臨床治験データの取りまとめをはじ バンク事業が成立している。 め、様々なドナー・患者に関するデータを集中 して一元管理、解析するための専門家を雇用し ●雑感 ている。日本では、とかく医学会に任せきりに 今回、渡航して非常に多くの情報・知見を得 なりがちなデータ管理・発表が系統的に処理さ た。その中で非常に疑問に思うのは、財団から れるのも米国ならではの特徴と言えよう。 2名が日本代表として派遣されながら、その多 繰り返し言うが、NMDPがすべて理想で、 くの情報が十分にフィードバックされているの JMDPがそのままの形態を模倣するようにとは か、という点だ。BMDWへの加盟問題、 決して言わない。しかし、現時点で実現不可能 NMDPをはじめとした各国の様々な規定規準、 であるとしても、将来的にあるべき方向に進め これらとの歩み寄り、整合性・摺り合わせ確認、 るために布石を打つ。あるいは、しかるべき そうした作業がもう少し迅速に進められていれ OJTによる職員教育研修を実践していく。その ば、もっと日米提携をはじめ、多くの諸問題が ようなことが当たり前ではないかと思うからこ クリアされたのではないか、と考える。もっと そ、あえてJMDPに対しては、「もっと積極的 も、国際部関連のスタッフが非常に過酷な労働 にNMDPを範とせよ」と声を大にして叫びた を強いられていることは伝え聞いても、日本骨 い。 髄バンク全体の問題であり、組織としての問題 である。国際委員会のメンバーだけに責任があ ●各方面の社会の理解と協力(NW航空、 MCI電話会社) ると言っているわけではない。間もなく、98年 ここでは、NMDPの事業に特別に貢献して 誰が派遣されるにしても、日本骨髄バンクの代 度の年次総会の案内も来ることだろう。 その時、 いる2企業を紹介したいと思う。 表として恥ずかしくないような組織整備を大至 ・NW航空:(ノースウェスト航空) 急推進しなければなるまい。前回、自分はあく 「あやちゃんの贈り物展」開催準備の項でも述 まで骨髄バンク運動を推進している一人のボラ べたが、ドナー採血後の検体輸送、並びに提供 ンティアとして参加したが、日本骨髄バンクを 時の採取センターへの移動などにNW航空は、 担っている一員である自負を持って臨んだこと 無償で協力をしている。急激に移植症例数が増 を追記しておきたい。 大している現在であればこそ、その必要経費、 − 111 − より一層のご支援へのお願い 海部幸世 全国骨髄バンク推進連絡協議会会長 私ども全国協議会の運営資金は、皆さまの善意 を割ってしまい、当面は基金増額の見込みが立た のご寄付によって賄われております。しかしなが ら、長引く不況の影響もあってこのところ資金不 ないことから98年4月に「休止」を決めざるを得 なくなってしまったのです。 足に悩まされているのが実情です。それでも、活 動自体は様々な工夫を凝らすことによってなんと 基金の趣旨に賛同され、早期の再開に向けて善 意をお寄せくださる皆さまのご寄付を心よりお待 かしのいでおりますが、とりわけ残念なことに、 骨髄移植を受ける患者さんにとって「頼り」とさ ちします。なお、基金の給付申請については協議 会事務局までお問い合わせください。 れてきた「佐藤きち子患者支援基金」が基金不足 <ご寄付受け入れ口座> のため今春、休止のやむなきに至りました。痛恨 の極みでありますが、これをどうにか再開したい 郵便振替口座 00160-8-39724 加入者名義 「佐藤きち子患者支援基金」 というのが私どもの切なる願いです。 また、全国各地での絵画展示によって感動を広 ●あやちゃん基金 げている「あやちゃんの贈り物展」を運営する 三瓶彩子ちゃんは、念願の骨髄移植を果たせな 「あやちゃん基金」も同様の資金不足をかこってお ります。一般のご寄付も含め、皆さまのより一層 いまま白血病のため7歳9カ月で逝きました。で も、あやちゃんは短い生涯の中で8000枚もの素晴 のご支援をたまわりたいと存じますので、なにと ぞよろしくお願い申し上げます。 らしい絵を残してくれました。小さな画家・三瓶 彩子ちゃんの作品は「あやちゃんの贈り物展」と なお、ちょうだいしたご寄付につきましては、 して全国で巡回展示され、多くの感動を呼んでい お名前と金額が月刊の『全国協議会ニュース』に 掲載されます。匿名を希望される方は、その旨を ます。それを通じて、多数の方々が骨髄バンクを 知るきっかけになっており、今秋には全米骨髄バ ご連絡ください。 ンクの年次総会会場(ミネソタ州ミネアポリス市) で展示されることから、今後は海外での展示に広 ●佐藤きち子患者支援基金 がりを見せる可能性が出てきました。 「お金がなくて骨髄移植を受けられないでいる患者 さんに役立ててください」 そうしたことがあって、 「あやちゃんの贈り物展」 の開催希望が全国から舞い込んでいるため、全国 1995年5月、そうおっしゃった東京の佐藤きち 子さんは300万円を寄付してくださった直後に、心 協議会では96年、あやちゃんの作品群をもう一組 額装して要望に応えられるようにしました。「あや 臓病のため82歳で亡くなられました。佐藤さんか らご寄付をいただいた全国協議会加盟の公的骨髄 ちゃん基金」はこれらの絵を全国各地の皆さまに 鑑賞していただくために設けられたのです。基金 バンクを支援する東京の会では、佐藤さんの名前 はすべて「あやちゃんの贈り物展」を各地で開催 を冠した基金を設立しました。その後、東京に限 らず経済的な問題で骨髄移植に臨むのが困難な全 するため、作品の修復や運営・管理などの目的に 活用されます。 国の患者さんのためにという趣旨から、運営と管 理が全国協議会に移管されました。 <ご寄付受け入れ口座> 郵便振替口座 00100-5-583401 この基金は、ドナーがいながら経済的な理由に 加入者名義 「あやちゃん基金」 よって骨髄移植を躊躇せざるを得ない患者さんに、 1件当たり50万円を限度に給付されます。つまり、 ●一般のご寄付は… 返済の義務はありません。96年3月から98年3月 までの2年間に17件(約675万円)が給付されまし その他、全国協議会の活動資金に充てられる一 般のご寄付は、こちらへどうぞ。 たが、これは途中から「骨髄バンク国際協力田中 <一般寄付受け入れ口座> 基金」から200万円が繰り入れられたほか、約270 万円のご寄付によって賄われたものです。しかし、 郵便振替口座 00150-4-15754 加入者名義 新たな申請が2件あった段階で基金残高が100万円 − 112 − 「全国骨髄バンク推進連絡協議会」 骨髄バンク報道に携わって 社員寮を患者支援施設に利用する夢 小野博宣 毎日新聞社会部 私と骨髄バンクとの出会いは「小児がん」を 本人には大河のような人生だった」と、印象的 通して、ということになる。毎日新聞社が毎年 なことをどこかで書いておられた。その通りだ 展開するキャンペーン企画「生きる――小児が と思う。長かったか短かったか、どんな価値が んの子どもたちとともに」の担当に、1996年に あったかは主体の問題であって、他人にとやか なったのがきっかけだ。 く言われることはないのだ。 以来、全国協議会の皆様の支援もあり、多く ただし、こうした残酷な発言の裏に潜むもの の小児がん、難病の子供たちと接することがで を考える必要はある。発言者はたぶんに想像力 きた。バンク運動とはやや離れるが、考えさせ がない人なのだろうが、それだけで見過ごせな られることが多く、そのいくつかをここに記し い問題も含んでいると思う。 がん患者の有名・無名度を比較すれば、小児 たい。 「小児がんになるくらいなら、生まれてこなけ がんの患者は圧倒的に無名だ。有名アナウン ればいいのに」 サーや芸能人の闘病は美談になり、事細かに報 私が「小児がんの担当です」と自己紹介をす 道される。が、小児がんでそうしたことはほと ると、こんなことを言う“大人”が何人もいた。 んどない。「〇〇ちゃんを救おう基金」といっ たぶん何気ない一言なのだろう。しかし、私は た形で、 社会面や県版にたまに登場するくらい。 いたたまれない。憤りを覚えることもしばしば 要するに、 実態がまったく知られていないのだ。 だ。 「子供でもがんになるんですか」。取材先で知 確かに治療の甲斐もなく、亡くなった子は何 り合ったおじいさんにそう言われたことがあ 人もいた。葬儀にも出かけた。しかし、生きて る。80年近く生きてきた人でも、子や孫をなし いて「無駄」という人生は絶対にない、と思っ た人でも、こんな発言をする。やや乱暴な結論 ている。どんなに短い人生であったとしても、 かもしれないが、小児がんに関する情報が少な 親や家族、親族、そして、医療スタッフに残し 過ぎるために、こんな発言が生まれるのだろう。 情報過疎が次にどんな現象を生み出すか。 た足跡は計り知れないものがあったはずだ。 作家の宮本輝さんは 「たとえ三日の人生でも、 「誤解」「差別」「偏見」のトリプルパンチが子 − 113 − 私と取材班の同僚はもうひとつ「会社利用」の 供たちに襲いかかることになる。 去年、都内の公立小学校で実際にあった話を 悪だくみをしている。 社員寮の一部を、難病の子供と家族の生活を しよう。 脳しゅようと闘っていた男の子が、自宅療養 支える「ファミリー・ハウス」にできないかと を許された。元の小学校に通うこともできるよ 計画を練っているのだ。聞くところによると、 うになった。喜んで、学校に通った少年。しか 法人では日産自動車が提供しているという。 し、クラスの母親たちからは「転校してほしい」 「だったら、うちでもできるよなー」とごく単 純に思い至った。現在、上司と鋭意交渉中だ。 の声が上がった。 「がんがうつる」「勉強が遅れる」――。なん 結果がどうなったかは、紙面で報告するつも と残酷な物言いだろう。それだけではない。登 り(もちろん成功した時のみ)。今後の紙面に 下校の時に、「あの子ががんなんだって」「なん 注目して下さいネ。それと、朝日さんや読売さ だ普通じゃない」と見物に来る“大人”まで現 ん、NHKさんもどうでしょう。一緒に社内か れた、という。 ら「風」を起こしませんか。取材競争ばかりで 結局、男の子は養護学校への転校を余儀なく なく、こういった競争も悪くないと思うけど。 された。この事実を知った私たち取材班は、記 事にしようとした。しかし、家族から反対され た。「私たちはこの地域で生きていかなければ ならない。どんなにひどいことをされても、生 きていくのはここしかない。どうか記事にはし ないで」と。 こんな実態が「文明国・日本」の首都・東京 で、いまだにあるのだ。 協議会のこの情報誌を読む方には自明の理な のだろうが、バンク運動はドナー登録者の量的 拡大を目指すだけでなく、「社会の質」といっ たものを引き上げるものだと私は理解している。 ドナー登録者が10万人を超え、20万人、30万 人、そして100万人を超えるころには、小児が んや難病の子供たちに対する偏見や差別がなく なっているようでなくてはと思う。 今年もキャンペーンが始まった。掲げた目標 は遠いように見える。しかし、いつか目標に到 達するという緩慢な歩み方ではなく、一つ一つ の記事に現状を変える「祈り」を込めたいと思 っている。 ■ ■ 閑話休題。 弊社は新聞社としては唯一ドナー休暇制度が あり、東京本社の受付に「チャンス」が置いて ある唯一の新聞社(だと思う)。それらは小児 がんキャンペーンの社内向けの成果なのだが、 − 114 − 私と骨髄バンク運動 たまたま…… だいた 大田進也 骨髄バンクを支援する 愛知の会 こんなことを書くと、患者さんなどからおし 経験者がインタビューを受けていました。「た かりを受けるかも知れませんが、「バンク活動 またま」 いつもと違うチャンネルだったことと、 に携わる者の中には一人ぐらい、こんな奴がい 出勤前の1時間足らずのドタバタしているさな てもいいじゃないか」と大目にみてやってくだ かだったため、詳しい内容は忘れてしまいまし さい。 たが、その提供者が「どんなに医療技術が進ん 私が初めて「骨髄バンク」と出会ったのは、 でも、またすばらしい医者がいたとしても、私 名古屋市内の献血ルームにあった東海骨髄バン という人間がいなければ助けられなかったかも ク作成の小冊子を「たまたま」手にしたことで 知れない命を救うことができた」と話されてい した。そのころ献血が趣味のようになっていた たと思います。この言葉を耳にした途端、「登 私は、白血病という病名ぐらいは知っていまし 録しなきゃ」と思い、献血に出かけた際に「チ たが、それはかつてのテレビドラマ「赤い」シ ャンス」を持ち帰り、即はがきを送りました。 リーズで、主演の山口百恵さんが不治の病に冒 二次検査までは割とスムーズに進んだと思い されていくというイメージがあるぐらいでし ます。それから4年近く経ちますが、残念なこ た。ですから、骨髄移植で白血病が克服できる とに何ら音沙汰なしです。 なら、すばらしいことだとは思ったものの、全 ここまでなら、ふつうのドナー希望者として 身麻酔という4文字を目にした途端、足がすく の行動でしょう。私の場合は性格がひねくれて んでしまいました。 いるので、ここからが違いました。 当時、 骨髄バンクが社会的に認知されはじめ、 当時の私にとって、 白血病とは無縁だったし、 見ず知らずの人のために何もそこまでして骨髄 理解のある大企業ではボランティア休暇を導入 を提供しなくてもと考えていたからです。 する方向にありましたが、私の勤務先はボラン それから数年、骨髄バンクのことはほとんど 忘れていましたが、テレビのワイドショーなど ティア休暇の導入の検討すらなされていません でした。 で、骨髄移植についての話題が頻繁に取り上げ 先ほども書いたように、性格がひねくれてい られるようになり、ある番組の中で一人の提供 る私は、実際に提供することになった際に必要 − 115 − な休暇を、一般の有給休暇として処理するので わりました。引き続き、場所をかえて食事もす はなく、ボランティア休暇を利用したいと考え るからと誘っていただいたので厚かましくもみ ました。これは単に自分自身がドナーとなった んなについていきました。そしたら目の前に見 場合ばかりを想定したものではなく、広くボラ 覚えのある人がいるではありませんか。以前テ ンティア活動を行っている従業員にも活用して レビに出演され、私に登録を決意させたメッセ もらうような制度があればとの想いからでし ージを送った方でした(私が勝手にそう思って た。会社に新しい制度を導入するよう提案する いるだけで、その方はどう思っているか知りま ためには、それなりの知識がなければなりませ せん)。さらにミーティングの時とは違い、み ん。そのころの私には、「チャンス」に書かれ んなざっくばらんに話をしてくれました。これ ている以上の知識もなく、そんな状況でボラン がきっかけで、 難しい話は理解できないまでも、 ティア休暇の導入を提案しましたが、案の定 とりあえずはボランティアミーティングには参 「検討の時期ではない」と素っ気ない対応でし 加していくことにしました。 ボランティアミーティングの会場まで自家用 た。 ボランティア休暇にこだわった私は、もっと 車を「たまたま」使っていたのですが、何度か 骨髄バンクに関する知識を得たいと考え、関連 参加するうちに、イベントの際に荷物を運んで 図書を読むようになりました。が、それだけで くれないかと頼まれ、引き受けるようになりま は自分自身で説明するだけの自信は得られませ した。その頃乗っていた車が日産セレナで、色 んでした。もっと勉強したいと思い、献血ルー が「たまたま」ライトグリーンだったこともあ ムの方々にも相談しましたが、病気についての り、周りからは「サンダーバード2号」と呼ば 総論的なことは教えてもらったものの、自身で れるようになっていました。運転することと裏 は満足できませんでした。 方の仕事が好きだったので、「このくらいなら 「たまたま」その頃、名古屋市内のデパートで 手伝えるかな」と軽い気持ちで、私のバンク活 名古屋骨髄献血希望者を募る会主催の「中堀由 動が始まりました。今でも私のバンク活動は荷 わかれ 希子・21歳の別離展」が開催されていたので、 物運搬が中心になっています(最近では私自身 その会場へも足を運び、数々の資料を目にしま よりも、車のほうが会に必要だとも言われます。 した。それまで「中堀由希子」さんや骨髄バン これは「たまたま」ではありません。ショッ クというものは、私にとって書籍やマスコミの ク!) 。 中での存在でしかありませんでした。それが形 職場や家族からはボランティア活動なんて立 あるものと接することで、それまで他人事だっ 派だとよく言われますが、自分自身好きなこと た骨髄バンクをより身近に感じさせるようにし をやっているだけなので、ボランティアをやっ たと共に、思い切った行動を取らせていました。 ているなんて意識が余りありません。 それまでの自分だったら、このような展示会が 新たにバンク活動を始めようとするなら、ま あっても見て終わりでしたが、こともあろうか たいつまでも続けようとするなら、こんな気軽 スタッフの方に自分から話しかけていました。 な意識で取り組んではどうでしょうか。今、ボ その人は「今度の金曜日の晩に会のボランティ ランティアメンバーが集まりにくいのは難しい アミーティングがあるから、よろしければいら ことばかりを求めているようにも感じられて仕 してください」と教えてくれました。 方ありません。 最初は、骨髄バンクのことについて勉強する つもりでボランティアミーティングにお邪魔し 「たまたま」バンク活動を続けている者の独り 言でした。 ましたが、専門用語が飛び交い勉強するどころ か何がなんだか分からぬままミーティングは終 − 116 − 97年アンケート調査結果 患者支援活動 地道な努力重ねる地域団体 新田恭平 全国骨髄バンク推進連絡協議会・運営委員(白血病フリーダイヤル担当) 1はじめに 活かす機会がつくられることを願い、あらため 1.調査の目的 て情報誌に発表させていただくこととした。 「白血病フリーダイヤル」事務局では、全国骨 2.調査内容と調査方法 髄バンク推進連絡協議会(以下、全国協議会) (1)調査時期 が1997年7月から9月にかけて、全国の骨髄バ ア.1997年6月末調査依頼状発送 ンク推進にかかわるボランティア団体にご協力 イ.1997年8月末調査表回収 をお願いし、患者支援活動実施状況に関して行 (2)調査方法 ア.質問紙による回答調査法 ったアンケート調査を分析した。 イ.選択回答及び補足記入法の併用 これは、 全国協議会が1996年度に続き、 1997年 度においても「患者支援活動の充実と強化」を (3)調査対象団体 全国協議会加盟団体 37団体(支部を含む) 課題として取り上げたことを受けて、各地域団 体において実施されている患者支援活動、地域 ごとの医療機関など社会資源情報を集約して紹 (4)質問項目(後述のため省略) 3.回答状況 回答は合計29地区(25団体、3支部に加え、 介すると同時に、全国協議会と各地域団体が密 接な連携を取りつつ適切な「患者支援活動」を 団体未加入地域の鳥取県からは骨髄バンク地区 展開していくための検討資料として活用するこ 普及広報委員から) の団体からご提出いただき、 とを目的とし、また「白血病フリーダイヤル」に 調査目的を達成することができた。ご多忙の中 相談してこられる患者関係者の皆さんへの情報 を調査にご協力いただいたことに対し、誌面を 誌編纂の材料とすることも目的の一つであった。 借りてあらためて感謝の意を表する。 統計的集約結果については既に全国協議会運 なお、調査結果の発表に当たり、記事の簡明 営委員会を通じて公表済みであるが、さらに広 化のため、各団体の名称を略称で表記させてい く、各地域団体が地道に展開しておられる「患 ただくことをご容赦いただきたい。 者支援活動」を患者関係者や地域団体関係者相 互に知っていただき、地域での患者支援活動に − 117 − 2患者支援活動の実態 絡紹介する活動である。あまり多くの会が実施 各団体から寄せられたアンケート調査結果に していないが、岩手・栃木・東京の各会が取り ついてはその全体のデータを載せるのが本来か 組んでいる。 と思われるが、誌面の都合により、要約を発表 e.その他の活動 設定した設問以外に、各団体が工夫して実施 させていただく。 しておられる患者・患者家族に対する一般的啓 質問1.どのような患者支援活動を行っていま 蒙広報活動を洗い出していただくための設問で すか。 ある。 ア.患者対象の一般的啓蒙広報活動 ①他の団体との共同活動 この設問は患者・患者家族への情報発信によ 岩手(地元JC、RC、LC、婦人会など)・福 る啓蒙広報活動の実施状況についての調査が目 島(バンク、パンダハウス等)・栃木(ホスピ 的であるが、この分野の活動は今回調査をお願 ス運動をすすめる会、患者と家族の会等)・東 いした各団体が骨髄バンク支援を主目的として 京(マリンロータリークラブ、ふれあいコンサ きた団体であるため、ドナーリクルート目的の ート等) 活動と患者支援目的の活動を同時に行っている。 ②地区イベント参加 宮城(のみの市)・東京(品川宿場祭、世田 a.シンポジウム・セミナーの開催 患者対象だけでなくドナーリクルートも兼ね たものを含め、シンポジウム・セミナーの開催 谷ボロ市等) ③情報資料の提供 長野(患者相談に個別対応)・栃木(患者家 は各地の団体が行っている。回数は北海道推進 協議会が抜きんでて多い。 族の会学習会紹介)・関西大阪(患者会員に情 ①年間20回(北海道)、②年間3∼6回(岩 報誌無料配布)・高知(関連図書の貸出) 手・福島・東京)、③年間1∼2回(宮城・栃 イ.個別の患者・家族に対する医療その他情報 木・神奈川・関西和歌山・高知・九州・同沖 支援活動 アの一般的情報に対し、個別の患者・家族に 縄) 対応する個別の情報支援活動が対象である。 b.会報・情報誌の発行 会報・情報誌の発行も患者支援、ドナーリク a.電話による相談窓口の開設 全国協議会が開設している「白血病フリーダ ルート双方を目的としたものが大部分である が、多数の団体が実施している。 イヤル」と同じような電話相談窓口が開設され ①年間12回(長野・栃木・埼玉・東京・神奈 ているかどうかを調査の対象としたが、該当団 川・九州)、②年間4回(千葉)、③年間1∼2 体はなかった。 回(北海道・宮城・関西和歌山・高知) b.シンポジウム・セミナーに併設の面接相談 c.単行本参考冊子の発刊 会開設 この設問はたとえば白血病についての解説 一般的啓蒙広報活動として開催するシンポジ や、その地区の専門病院などのリストを載せた ウム・セミナーに併設して、終了後等に個別相 患者・患者家族用の小冊子などを発行している 談の機会を設けている事例を対象とした。実施 団体が有るのではないかと想定したものであっ している団体は次の5団体であった。 宮城 たが、実施しているとの回答団体はなかった。 (年1回)・福島(年6回)・栃木(年2 回)・九州大分(年4回)・同沖縄(年1回) d.TV・新聞などの関連記事の紹介・宣伝 TVの番組・新聞記事等で参考になる内容の c.予約制の個別相談会の開設 ものについて、放映予定や新聞のスクラップコ 東京都医師会等で実施しているやり方で、あ ピーを会員や情報を求めてきた患者や家族に連 らかじめ相談日を公示して希望者を予約受付 − 118 − し、相談会を開催する方式である。実施してい 必要とするため、付き添い看護の必要期間が長 る団体はなかった。 期とならざるを得ないこと、また病状が厳しい 神奈川は、予約制ではないが会報により開催 状態を繰り返す場合が多く看護に当たる家族の を予告し、オープンシステムで医師による相談 精神的・肉体的負担が大きいこと、さらに、医 会を開催している。 療費の負担も重いことを考慮すると、まず、経 d.ボランティアによるメディカル・ソシアル 済的負担が少なくてすみ、且つ精神的にも身体 ワーク 的にもゆっくりくつろぐことができる設備と雰 メディカル・ソシアルワークは幅広い社会資 囲気を持つ施設であることがのぞまれる。さら 源に関する知識と行動力をもって、医療機関の に、この宿舎で、ボランティアや同じ立場の患 紹介、経済的問題へのアドバイス、精神的支援 者家族どうし触れ合いや情報交換ができる場が などを行っていく活動であり非常に難しい仕事 得られたら、患者・家族にはどんなにか心強い であるが、福島と大分の2団体が取り組んでい ことであろうか。 また、患者は退院後も検査などアフターケア る。 全国協議会で実施している「白血病フリーダ のため、定期的に通院が必要な場合が多く、そ イヤル」による患者からの電話相談受付の経験 の際にも遠隔地からの通院患者には安心して利 から、このようなメディカル・ソシアルワーク 用できる宿泊施設が必要となる。 タイプの患者・家族に対する情報支援活動は必 以上のような患者および付き添い家族の宿泊 要性が高く、重要なものであると筆者は考えて 施設の必要性については、広く認識されている おり、この形での情報支援活動がさらに充実し が、各地域団体の取り組み方、考え方は地域に て広がっていくことを期待している。 より分かれている。 e.その他 <患者・家族滞在用宿泊施設の必要性の認識と 個別の患者・家族に対する情報支援活動とし て、その他にどのような活動が行われているか 団体の課題としての考え方> ①既開設地区 (i)地域団体が運営主体となり運営してい についての設問である。次のような事例が回答 る(福島・新潟・栃木・神奈川) された。 (ii)他の団体・個人が運営主体の施設を有 ①患者・家族の懇談会開催(関西・同姫路)、 ②定例会で患者相談を行う(三重)、③電話な 形無形の支援をする(東京・九州) どの相談に個別に対応(愛知・栃木) ②未開設地区 (i)開設準備中(愛知)※現在は稼働中 相談に個別に対応する方式はメディカル・ソ (ii)調査検討中・検討課題としている(北 シアルワークに近い方式である。 ウ.患者・家族の滞在用宿泊施設の提供 海道・秋田・岩手・三重) (iii)他の団体・個人が運営主体の施設を有 患者・家族の滞在用宿泊施設の必要性は、次 形無形の支援をする(関西大阪) のように要約できる。 白血病をはじめ、難治性疾患の患者・家族は (iv)当該地区の必要性は小さいと判断して それを治してくれる高度先端医療を求めて、自 いる(千葉・関西和歌山・高知・九州長崎・同 宅を遠く離れることもいとわず、専門医療機関 沖縄) (v)資金面で実現できない課題である(関 に入院してくるが、このような病院は基準看護 が原則で、面会時間以外、付き添い家族の居る 西・同大阪・同奈良・同和歌山) (vi)組織として検討する余裕ない(未討議 場所がないため病院に通うための基地としての を含む)(宮城・長野・静岡・関西・同奈良・ 宿舎が必要である。 このような宿舎は、難治性疾患が長期入院を 同姫路・九州大分) − 119 − 主な受診医療機関 施設・部屋数 設置運営主体 地区別 福島県 パンダハウスを育てる会 1施設3部屋 福島県立医大付属病院 新潟県 にいがた骨髄バンクを育てる会 1施設1部屋 新潟大学病院・県立がんセンター 茨城県 茨城骨髄バンクを広める会 3施設6部屋 茨城県立こども病院 栃木県 とちぎ骨髄バンクを広める会 1施設2部屋 自治医大病院・獨協大学病院 東京都 「ファミリーハウス」 運営委員会 6施設17部屋 ※省略 東京都 (財) がんの子供を守る会 1施設2部屋 ※省略 東京都 聖テモテ愛の家 「ぶどうのいえ」 1施設10部屋 東京都 鴨下祥子氏 「かもの部屋」 1施設1部屋 都立清瀬小児病院 東京都 山崎幸子氏 「アリスの部屋」 1施設3部屋 ※省略 神奈川 BMTサポートハウスの会 4施設5部屋 東海大・横浜市大ほか 愛知県 はなのきの会 4施設9部屋 ※省略 福岡県 「愛の家」 福岡 1施設3部屋 国立九州がんセンター 熊本県 たんぽぽの会 1施設3部屋 熊本大学病院 埼玉県 日本化薬株式会社 1施設10部屋 (開設準備中) (注)上表については大部分を、97年6月開催された「愛の家」運動ネットワーク会議発会式で配布された資料等から 転載させていただいた。 (vii)この問題は会の趣旨を超えている(石 企業が本格的に参画してくる初めての事例であ る。 川) 回答の中に、資金面で実現できない課題、こ 我が国は税制の問題があって私企業がNPO の問題は会の趣旨を超えている、組織として検 に寄付したり、直接非営利事業に参加する社会 討する余裕がないなどの回答が出てきているの 的環境が整っていないが、昨今の経済環境の中 は、宿泊施設の設置運営問題が土地建物の確保 で不要不急施設の利用見直しなどを行う企業の など多額の費用を要するため、取り組みや実現 中から同じような計画が出てくる可能性もあ が極めて困難な課題だからである。 り、われわれボランティア団体から呼びかけれ しかしながら、その壁を打ち破って、既に各 ば、応えてくれる企業があるかもしれない。 地で12施設が運営されており、さらに数件が具 因みに既に開設されている宿泊施設および開 体的な計画段階に入ったり、検討課題として取 設準備中の施設を地区別、運営主体別に紹介す り組まれおり、まことに心強いことである。 れば表のとおりである。 すでに開設されている12施設についてみる エ.個別の患者・家族に対する精神的ケア活動 と、施設用の建物・土地は有志の提供によるも 白血病など難病に罹った患者・患者家族は、 のが大部分であり、最大の難関である施設用不 突然、生命にかかわる問題に直面してしまい、 動産が個人の善意によってブレークスルーされ 精神的恐慌状態に陥りながらも必死になって最 ているのが実態である。 善の医療機関についての情報を求め、さらに、 この中で、昨年開設された福島の「パンダハ 医療費負担の経済的問題を抱えながら闘病して ウス」は、設立母体となったパンダハウスを育 いる最中に受ける精神的圧力は並大抵のもので てる会が募金などによって資金を集め、団体の はない。したがって、患者や家族に対し、カウ 所有物件として施設運営を行っており、福島県 ンセラーやメディカル・ソシアルワーカー(MSW) 連絡協議会も一体となって支援協力されている。 による支援が必要となる場合が多いものと思わ 現在、計画中の施設の一つに日本化薬株式会 れるが、我が国の医療機関でカウンセラーや 社が創業80周年記念事業として埼玉県に建設中 MSWを配置している機関は極めて少ない の平成10年開設予定の施設があるが、これは私 (MSWは公的資格として制度化されていない)。 − 120 − この隙間を少しでも埋めるために個別の患 形での資金援助制度を持っているか否かについ 者・家族に対する精神的ケア活動を各地団体が て調査したが、いずれの団体にもこのような制 どのように行っているかについての調査項目で 度は設けられていなかった。 資金援助など経済的支援制度は多額の資金を ある。 必要とし、また運用に当たってはなんらかの形 a.患者の会を組織化して相互交流の場の設定 白血病・再生不良性貧血関係の患者経験者の で審査を行うための審査機関設置や、審査のた 全国組織としては「フェニックスクラブ」「再 めに申請者の生活事情にまで踏み込む必要があ 生つばさの会」などがあるが、地域団体として るなどプライバシー問題等も絡むため、小規模 当該地区で組織化し、患者相互の交流の場を設 なボランティア団体で取り組める課題ではない 定して、精神的ケアの一助とする活動事例の有 と考えられる。 医療費負担の経済的問題は、昨年9月の健保 無の設問である。 この活動を実施しているのは、にいがたの会 本人負担率の変更や薬価計算方式変更により、 だけであった。 医療費全体の患者負担が加重されてきているた b.患者家族の会を組織化して相互交流の場の め、問題として大きくなってきているものと思 設定 われるが、個別患者への直接的な資金援助活動 aと同様の活動を患者家族に対して行ってい は全国協議会レベルでも維持運営は困難な課題 である。 るかについての設問である。 全国協議会および各地域団体としてこの問題 福島の会(光の子を守る会の活動を支援)、 とちぎの会、九州推進連絡会議が組織的活動を に取り組む方向性として、一つには経済的問題 行っている。 のために必要な医療が受けられない原因がどこ c.入院患者・患者家族の見舞い に有るのか、現行の医療福祉制度や社会保険制 制度として入院患者・患者家族のお見舞いを 度の問題点を点検し、改善運動を展開していく こと、また患者・家族が現行諸制度を十分活用 行っている事例についての設問である。 実施しているのは、宮城・栃木・静岡・愛 できるよう情報支援活動を充実していくことな どがあげられる。 知・関西奈良の各会である。 制度はないが、会員が個人的に対応実施して カ.その他の患者支援活動 この項目は以上ア∼オで質問調査した項目以 いる事例では、千葉・関西大阪・九州大分があ る。 外の患者・家族支援活動の事例を対象として紹 d.専門カウンセラーのボランティアとしての 介し、洗い出していただく項目である。次の4 カウンセリング 団体から事例紹介があった。 ボランティアの中に専門カウンセラーがいな <福島県骨髄バンク推進連絡協議会> いとできないことであるが、福島では必要な場 患者・患者家族からの相談で必要な場合に、 合、患者・患者家族に対し、専門カウンセラー 社会福祉協議会、 福祉事務所等への問い合わせ、 によるカウンセリングを行っている。 照会を行う オ.患者・家族に対する経済的支援活動 <茨城骨髄バンクを広める会> 患者家族滞在宿泊施設利用者への生活必需品 全国協議会では「佐藤きち子患者支援基金」 により、HLA適合にもかかわらず経済的困難 の貸与(食器、寝具、洗濯機、冷蔵庫、テレビ のために骨髄移植ができない事情がある場合の など) 患者への資金援助制度を運用してきているが、 <静岡骨髄バンクを推進する会> これに準じ、地域団体として、資金援助制度、 県立こども病院への玩具寄贈 見舞金制度、低利融資斡旋制度等、なんらかの − 121 − の制度である。患者のための情報冊子は計画さ <大阪骨髄献血の和を広げる会> 患者と非患者の自然な共同活動による患者さ れているが、未達成の課題として、残っている。 この調査項目は、各地域団体の立場で、全国 んの気持ちのケア この4事例はさりげなく紹介されているが、 協議会として実施することが望ましい患者・家 いずれも患者・家族に対する支援活動の本質に 族への支援活動について意見を求めたものであ つながる内容のある活動である。 る。寄せられた意見は次のとおりである。 福島の事例は、患者・家族に対して、現行の <北海道骨髄バンク推進協会> 健康保険や所得税法など法制度改革による患 社会福祉、医療福祉諸制度で適用の受けられる 制度についての情報を専門官公庁に照会し、正 者支援活動の展開 確な情報を漏れなく提供するための活動であ <秋田県骨髄提供者を募る会> る。メディカル・ソシアルワークに通じる活動 各地団体の活動、公的経済支援など、地域ご であり、患者・家族にとって大変有効な情報支 とに情報をまとめて知らせてほしい。特に宿泊 援の一つである。 滞在施設の具体的内容の情報を知りたい。 茨城の事例は、患者家族の滞在用宿泊施設の <福島県骨髄バンク推進連絡協議会> 什器備品類を充実して施設利用者に貸与するシ 1.光の子を守る会の意見 ステムであり、患者家族の滞在用宿泊施設の項 ①小児がん治療では保険適用外医薬品を使用す で触れたこのような施設に必要な温かい寛げる ることがあり患者負担が大きいので、全額公費 環境作りのための支援システムである。 負担となるよう国へ要望できないか。 静岡・大阪の紹介事例はいずれも患者の心の ②闘病中における保育制度、資金貸付制度があ ケアにかかわる活動である。静岡の会の場合は、 ればありがたい。 小児入院患者が対象であり、幼い身で厳しい治 2.パンダハウスを育てる会の意見 療に耐えながら闘病している子供たちにとっ 当会は難病の子供たちとその家族を対象とし て、心の抑圧を取り除く大切な遊び道具である ており、全国協議会の運動範囲より幅が広くな 玩具が病院に備えられていることはこの上ない るが、全国協議会が全国の情報発信源の役割を 慰めであろう。 担い、またコーディネートや資金援助活動まで 骨髄移植、化学療法いずれの療法により治癒 できるようになれば素晴らしいと思う。 した患者でも心が本当の日本晴れの状態になる <千葉骨髄バンク推進連絡会> のはなかなか難しいことである。発病時に受け 1.BMT患者のQOLの調査(患者がBMTを選 た精神的衝撃の痕跡や再発に対する不安等がど 択する時の参考資料となり、BMT実施患者は こか心の奥底に残っているからである。看病に 予後のレベルの参考資料となる) 当たった家族の場合も同様である。大阪の活動 注:QOL=Quality of Life(予後の生活の質) は、自然な形での共同作業による患者、非患者 2.精子保存施設の紹介。なければ新規開拓を 会員の交流の場を作り、患者の精神的ケアに取 目指す。最終的には精子バンクを設立したい。 り組んでいる事例である。 3.患者の会(フェニックスクラブや再生つば さの会など)を協議会ニュースなどで広く紹介 質問2.地域団体として全国協議会に実施して する。 ほしい患者支援活動 <茨城骨髄バンクを広める会> 全国協議会で実施している患者・家族を直接 行政や企業が運営主体となる患者家族宿泊施 対象とする支援活動は、①「白血病フリーダイ 設を設立運営するよう行政、企業、医療機関な ヤル」による相談受付と情報提供、②「佐藤き どに働きかけること。 ち子患者支援基金」による資金援助活動の二つ − 122 − (2)全国的な情報収集力と分析力、問題解決 <公的骨髄バンクを支援する東京の会> 骨髄バンク(財団)に患者相談窓口を設置す 力への期待 るよう要請する。 ①各地団体の活動、公的経済支援制度、宿泊施 <富山県骨髄バンクを広める会> 設運営の具体的情報を知りたい(秋田)、②全 1.白血病フリーダイヤルの充実 国医療関連ボランティア活動の情報発信源の役 2.佐藤きち子患者支援基金の充実 割を期待(福島)、③BMT患者のQOL調査(千 3.患者向け情報誌の発行実現 葉)、④患者の会、患者家族の会を協議会ニュ <骨髄バンクを支援する愛知の会> ースなどで広く紹介(千葉)、⑤患者支援のあ 1.患者の相談窓口を全国の移植機関病院に設 り方の検討(九州長崎) (3)協議会の財務力、人員動員力、プロジェ けるよう要請する。 2.患者・家族が病気の勉強のため、全国の大 クト遂行力への期待 学図書館、病院図書館を閲覧利用できるよう要 ①白血病フリーダイヤルの充実(富山)、②佐 請する。 藤きち子患者支援基金の充実(同)、③患者の <九州骨髄バンク推進連絡会議> ための情報誌発行実現(同) 患者・家族の滞在用宿泊施設への支援 ここに要望事項として提言されていること <九州骨髄バンク推進連絡会議長崎支部> を、どのように受け止め、問題を整理評価し、 患者支援のあり方の検討 全国協議会として取り組んでいくか否かについ 各地域団体から、全国協議会として実施して ては、今後の課題である。 ほしいものとして寄せられた患者支援活動の具 上記要望事項のうち、東京の会からの「患者 体的内容は上記のとおりであるが、要望事項の 相談窓口を骨髄バンクに設置」の要望は、昨年 個別性を捨象して整理すると、当然のことなが 12月に厚生省『造血細胞移植と免疫応答に関す ら、全国協議会が持つ地域団体の連合体として る研究班』が場所を財団において開設するとい の組織力に期待したものである。組織力の中身 う変形した形だが、実現している。 を、外部への提言行動力、情報収集・分析力、財 「佐藤きち子患者支援基金」は前述のとおり、 務・人員動員力の3項目に分けて各団体から期 資金難のため4月から休止されている。全国協 待する事項を分類してみると次のとおりである。 議会としては、有志の方々の寄金を蓄積して運 (1)国会、中央官公庁(厚生省、財団) 、地方 用を再開することを検討しており、皆様からの 自治体、日赤本社、主要医療機関、マスコミな 積極的なご支援を期待している。 どに対する提言行動力への期待 ①法制度改革による患者支援(北海道)、②保 質問3.各地域団体活動地域の血液疾患の専門 険適用外医薬品の公費負担の国への働きかけ 科と医療施設を有する医療機関 この設問は、各地域団体の活動地域内におけ (福島光の子を守る会)、③患者に付き添い看護 する母親が必要な場合の保育制度と施設(同) 、 る血液疾患の専門科と医療施設を有する医療機 ④闘病中の資金貸付制度(同)、⑤BMT実施患 関(骨髄バンク指定医療機関以外のものも含め 者の精子保存体制整備(千葉)、⑥患者家族宿 て)をリストアップし、患者相談のデータベー 泊施設設置の行政、企業、医療機関への訴求 スの一つとして活用できればとの期待を込めて (茨城) 、⑦患者相談窓口設置の骨髄バンク(財 の設問である。 団)への要望(東京)、⑧患者相談窓口を全国 「白血病フリーダイヤル」への相談の中に約 移植病院に開設する要請(愛知)、⑨医療情報 6%、適切な医療機関紹介希望が含まれている 取得のため全国大学図書館、病院図書館の患 が、従来骨髄バンク指定機関以外の資料は整備 者・家族の閲覧可能化(同) できていなかったため、それ以上の情報を提供 − 123 − が、特にご紹介しておきたい事例をあげると、 することはできなかった。 骨髄バンクの非血縁者間の骨髄移植だけでな 愛知の会では、バンク指定11機関を含む全県46 く、血縁者間の骨髄移植や化学(薬物)療法を 医療機関の詳細なリストを作成され、また、と 主として行っている施設の情報もリストアップ ちぎの会、千葉の会ではMSW、カウンセラー、 して、白血病フリーダイヤルでの医療機関につ ケースワーカーの配置や医療福祉相談室など患 いての相談用の資料として活用し、併せて各地 者支援システム、可能な療法に関する情報も調 域団体としても同様に活用していただくことが 査記載していただき、医療機関情報のあり方に 目的である。 ついて大変参考になる示唆をいただいた。その 調査して改めて認識したことであるが、日頃 他の団体においても、比較的情報の得にくい骨 骨髄バンク支援活動に従事していて、医療機関 髄バンク指定機関以外の医療機関の情報を収集 情報には一般の人より詳しい筈のボランティア し、集約していただいた。そのご努力に対し敬 でも、医療機関の内部情報を得るのはなかなか 意を表する次第である。 難しいということである。バンク指定機関以外 の病院の血液専門科の有無という基本的情報を 3結び 含め、カウンセラーやメディカル・ソシアルワ 患者支援活動のあり方を検討してほしい…… ーカー配置の有無などの情報は医療関係のボラ これは今回の「患者支援活動実態アンケート調 ンティアのご協力がなければ、外部からは分か 査」の1調査項目として回答をお願いした、患 らないのが実情である。 者支援活動として全国協議会に実施してほしい 各自治体の疾病対策部門などには、このよう ことという設問に対して寄せられた回答の一つ な基本情報が集約されていると思われるが、こ である。当初、筆者はこの回答の意味が理解でき れらの情報を整理し、市町村レベルの管内医療 ず、ずいぶん抽象的な注文だなと受け止めてい 機関一覧資料 (取扱診療科と具体的内容を掲載) た。しかし今、アンケート調査結果をまとめて改 とか、都道府県レベルの管内難病専門医療機関 めて感じるのは、この問いかけの重要さである。 一覧資料(疾患種類別の病院名、取扱診療科と 患者支援活動には大別して二つの流れがあ 具体的内容記載)等の形に編集して、公開閲覧 る。一つはドナーリクルートを通じての間接的 に供するなどのサービスはできないものであろ 支援活動であり広義の患者支援活動であり、も うか。 う一つは患者や家族に対する種々の直接的支援 このような状況の中で、各地域団体から精力 活動であり狭義の患者支援活動である。 的に収集した医療機関情報をご回答いただい われわれの全国骨髄バンク推進連絡協議会と た。回答のなかった地域および全国協議会加盟 これに加盟している各地域団体は、公的骨髄バ 団体のない地区については、平成9年10月30日 ンク立ち上げ促進運動から発し、バンク設立後 現在で公表されているJMDP認定施設一覧表に はドナーリクルートを支援することを第一義と 登録された医療機関を掲載することにして、仮 して活動してきた歴史を持っている。不治の病 の全国血液専門医療機関一覧資料としてまとめ とされてきた白血病の新しい治療法として骨髄 た。 移植法が登場し完治も期待できるようになり、 ここに掲載された血液専門医療機関は、総数 患者誰にでも適合ドナーが見つかり、公平性が 205機関(うちJMDP認定施設101機関。JMDP 実現されるために必要なドナー母集団の最少数 認定施設数は133施設であるが同一場所の小児 10万人を早急にリクルートすることが当面の目 科、内科、高齢者施設は同一施設として数えた 標であった。 ため101施設となっている)にのぼっている。 そのために中央では全国協議会が、骨髄バン 誌面の制約上、集約した資料を掲載できない クの行う直接的広報活動の支援に加え、財団の − 124 − 予算や運営方針に指導権を持つ厚生省に陳情し 「佐藤きち子患者支援基金」は申し込みが多く、 たり要望書を提出したり、あるいは厚生省を動 資金が不足して休止していることは既に述べた かすために国会へのロビー活動など展開してき とおりである。 た。また世論の支援を得るためのマスコミへの 「白血病フリーダイヤル」は社会的にも定着し、 協力要請や、医療関係者への支援要請なども重 毎週一定の相談が寄せられている。相談事項の 要な活動であった。 うち、医療情報の相談が約60%を超え、発病初 各地域団体は全国協議会が中央で展開する諸 期の医療相談に加え、治療中の患者・家族のセ 活動を支援すると同時に、各地域においてそれ カンド・オピニオンを求める窓口としての役割 ぞれ独自の工夫を重ね、ドナーリクルート活動 も果たしており、あとの40%の相談には医療機 を行ってきたのである。 関や医療費問題その他いろいろな事柄の相談が 以上が全国協議会と各地域団体が行ってきた 入り、全体としてはメディカル・ソシアルワー 広義の患者支援活動である。全国協議会という ク的取り組みの必要性も出てきているように思 全国的組織の組織力を活用しての間接的患者支 われる。 このような実情を踏まえて、これからの患者 援活動である。 これに対し、直接的支援活動は各地域団体の 支援活動をどのように展開していくのか。「患 地域におけるドナーリクルート活動から必要に 者支援活動のあり方を検討してほしい」この項 より必然的に行われるようになってきたもので の冒頭に記した地域団体からの協議会への注文 ある。 は重い注文なのである。 十分な知識を持たないので無責任な発言にな 地域におけるドナーリクルート活動は、シン ポジウムやイベントにより人を集め、集まった るかも知れないが、NMDP(全米骨髄バンク) 人との接触の中でドナーの大切さ、重要性を直 には組織としての患者支援システムがあり、医 接訴える活動が主である。患者や患者家族も医 療や医療機関についての情報はもちろん、メデ 療情報やその他の支援情報を求めて参加してく ィカル・ソシアルワーク的な情報も資料として る機会でもある。患者や患者家族から相談を受 整備されていると聞く。また、患者や患者家族 ければ誠意をもった対応が行われ、患者支援活 へのカウンセリングや精神的ケアに対する配慮 動が極めて自然に成立してくる。こうして出来 も組織化されているとのことである。 てきた患者支援活動の必要性が認識され、工夫 患者・家族の滞在宿泊施設では、アメリカで されて内容的にも充実してきているのが実態で はマクドナルドハウスが患者・家族に快適な施 あると思われる。 設を提供していることが知られている。 今回の調査においては、各地域団体からその アメリカのやっていることがなんでも進んで ようにして発生し、発展してきた直接的患者支 いるというわけではないが、患者支援システム 援活動を回答していただいたものであるが、各 においては数段どころか十数段も先をいってい 団体とも地道な努力を積み重ねてきおり、中身 るようだ。 患者支援活動をもっと具体的に進展させよう の濃い充実した支援活動が各地で行われている とするなら、目標を定め、行動プランを作って実 実情が把握できた。 全国協議会としては、冒頭に述べたとおり、 行していかなければ一歩も進めないのである。 96年度から直接的支援活動として、「佐藤きち 子患者支援基金」を設定し運用を開始すると同 時に、「白血病フリーダイヤル」による患者・ 患者家族のための電話相談窓口を開設し運営し てきている。 − 125 − 願いは30万人のドナー登録 【前文】 日本骨髄バンクは発足から5年を経過した今年1月、非血縁者間骨髄移植が1000例を突破し、現 在は毎月30例ほどのペースで骨髄移植が行われていますが、骨髄バンクを介した骨髄移植を望む患 者さんは、毎月100人ほどが新たに出現しています。しかし、残念ながら私たちの骨髄バンクはこう した希望のすべてには応えられず、まだまだ大きく成長していかなければなりません。 設立当初から、私たちは「5年間で10万人のドナー登録」を目標に、全国で骨髄バンク推進運動 を進めてきました。10万人のドナー登録目標は「骨髄移植を希望する患者さんの90%にドナーを見 いだせる」との予測から設定されたものです。しかし、発足から6年目に至った現在でも、ドナー 登録者は8万人を超えた程度にとどまっています。 その一方で、これまでに実施された非血縁者間骨髄移植の研究実績から、遺伝子レベルでのHLA (ヒト白血球型抗原)の適合が移植成績を大きく向上させるとの報告が提出されました。移植カップ ルの患者さんとドナーのHLAはより厳しい適合性を求められるようになったのです。つまり、かけ がえのない命の贈り物を、より確実に花開かせるために、さらに大きなドナープールをもった骨髄 バンクが必要とされているのです。 しかも、日本では今年から始まった骨髄バンクの国際間検索を通じた提携促進が大きな高まりを 見せており、日本の骨髄バンクが国際的な善意のネットワークの中で、果たすべき責任も一層大き くなるものと考えます。 日本骨髄バンク発足から5年を経過した今、私たちはこれまで以上に骨髄バンク推進運動を力強 く展開するとともに、広く市民に訴えかけてドナー登録の拡大を果たすため、ここに新たなる目標 を見据えて運動することを誓います。 ★宣言★ 私たちは、 「日本骨髄バンクのドナー登録について、新たに30万人のドナー登録者達 成を当面の目標に掲げ、今後の骨髄バンク推進運動を展開する」 ことを、ここに宣言します。 1997年5月 全国骨髄バンクボランティア大会in新潟 − 126 − あとがき …………………………………………………… 全国協議会のメーリングリスト(ML)はすごい 力を発揮している。例えば5月2日のことだ。 「hideさんが自殺した」という。18時台のテレビは この第4号も発行が大幅に遅れてしまいました。 原稿をお寄せくださった皆様、関係者の皆様、そし て読者の皆様にお詫び申し上げます。 関連映像を流すがすぐ消えていく。MLに新聞社の さて、当初は年2回の発行を目標に創刊されまし ホームページ記事が転載されたのは18時29分であ る。所属事務所がマスコミに流した「訃報」がML た。本誌「骨髄バンク」の位置づけは「オピニオン 情報誌」です。骨髄バンクのかかえる様々な問題と に登場したのは3日16時49分だった。いずれも、管 理者の野村氏による。 課題を、その根源を直視し、検討すべきポイントは どこにあるのかを究明し、明日のより良き骨髄バン ほどなく、ML上に「骨髄バンクにドナー登録し たのに、なんてことをしてくれたんだ」といったニ クを目指すところに発行の意図があります。そのた めには、やはり年2回程度の発行が必要であると編 ュアンスの文章が出てきた。hideの「自殺」を前提 集スタッフは考えています。 にしている。違和感を抱いていた私は「自殺とは違 う」と思い、確たる裏付けがないにもかかわらず、 なぜならば、今号の編集にあたっても、誌面の都 合上、掲載すべき内容を大幅に縮小せざるを得ない MLにそう書き込んだ。この時点で、ML参加者は 「hideは自殺にあらず、不慮の事故」で統一できた 状況になっています。例えば、昨年11月に開催され た「公開フォーラム」については、その内容を掲載 のではないか。 したいとの思いはあったものの、断念せざるを得な その後の経過は「追悼記」に譲るとして、不慮の 事故ならhideの「思い」を引き継がねばならない。 いことになりました。また、年1回の発行では、そ の内容がよりアップデートなものにはなり得ないか 音楽部門は別として、私が思い至ったのは骨髄バン ク運動におけるそれである。「書籍にまとめること らであります。それだけ、現在の日本の骨髄バンク は、次から次へと解決しなければならない問題を抱 だ」と決断し、全国協議会の主要メンバーとのあい えていることの証左でもあります。 だで前向きの検討をつづけた。これもMLを通じて だった。 では、年2回の発行をすれば良いではないか、と のご叱責を頂くところですが、何分にもそれだけの 結論は「書籍を出すべし」。幸い貴志さんと松本 さんの了解が得られ、hideがドナー登録した8月13 先立つものが無いという、発行者の全国協議会は寂 しい財政状況にあることをご理解いただきたいと思 日の刊行に向けて、集中的な取材・執筆に取り組ん います。今回は、日本船舶振興会から100万円の助成 だ。この作業で、これまでの骨髄移植推進財団に対 する「ギラギラ」は薄れた。hideと真由子さんの交 をいただき、今号の発行経費の一部にあてさせてい ただくことができました。心より感謝申し上げます。 流を取材すればするほど、内面が変化せざるを得な かったからである。 また、今号の発行が、予定よりも大幅に遅れまし たことにつきましては、スタッフの遠藤氏が、新著 さて、MLは速やかに情報を得る絶好の場だ。加 入条件はない。ただ、「パソコンを購入してインタ の執筆締め切り時期と重なり、ルーチンワークもか かえていることから、超多忙な中での編集作業とな ーネットへの接続」が最低限必要になる。これを書 ったこともご理解いただきたいと思います。なお、 いている6月25日、52歳になったオジサンの私です らなんとか使いこなしているのだから、全国多数の 遠藤氏の新著は、hideさんの死をきっかけとした貴 志真由子ちゃんのドラマで、hideさんがドナー登録 参加を待ち望みたい。 した8月13日に小学館から発行される予定です。本 誌に掲載されている遠藤氏の原稿は、その序章とも (遠藤允) なるものです。 骨髄バンク・第4号 「全国協議会ニュース」増刊号 (野村正満) 全国骨髄バンク推進連絡協議会 〒160-0005 東京都新宿区愛住町23-1 Woody21-9F 1998年7月10日発行 TEL 03-3356-8217・FAX 03-3356-8637 発行人:渡辺孝一・野村正満 http://www.marrow.or.jp/ 編集人:野村正満・遠藤允 e-mail:[email protected] − 127 − 全国骨髄バンク推進連絡協議会 全国骨髄バンク推進連絡協議会 参加団体一覧表 参加団体一覧表 ◆岐阜骨髄献血希望者を募る会 TEL 0584-91-4998 FAX兼用 〒503-0034 岐阜県大垣市荒尾町1810-182 田中方 ◆富山県骨髄バンクを広める会 TEL 0766-52-4823 〒939-0234 FAX 0766-72-3640 富山県射水郡大門町ニロ771 ◆はとの会 TEL 0762-68-9686 FAX 0762-67-5094 〒920-0342 石川県金沢市畝田西2-88 ◆福井骨髄バンクサポーターの会 TEL 0776-33-0480 FAX兼用 〒918-8055 福井県福井市若杉11-21-11 井上方 ◆勇気の会(三重県骨髄バンク推進連絡会議) TEL 059-226-8406 〒514-0002 三重県津市島崎町3-1 FAX兼用 島崎会館1F 魚肉ねり製品組合内 ◆関西骨髄バンク推進協会 TEL 06-977-2123 FAX兼用 〒537-8511 大阪府大阪市東成区中道1-3-3 大阪府立成人病センター内第三部長室 【骨髄献血の和を広げる会】TEL 0773-27-7693 〒620-0855 京都府福知山市土師新町3-121 FAX兼用 藤岡方 【大阪骨髄献血の和を広げる会】TEL 06-349-2002 FAX兼用 〒566-0046 大阪府摂津市別府1-11-15 佐竹方 【神戸骨髄献血の和を広げる会】TEL 078-742-3546 FAX兼用 〒654-0131 兵庫県神戸市須磨区横尾7-1-1-84-303 伴方 【姫路地区骨髄バンク推進センター】TEL 0792-98-9446 FAX 0792-95-7889 〒670-0995 姫路市土山東の町9-15 姫路YMCA内 【和歌山骨髄献血の和を広げる会】TEL 0734-51-9528 FAX兼用 〒640-0113 和歌山市本脇558-4 貴志方 【京都骨髄ドナ−を募る会】TEL 075-231-1351 〒602-0856 FAX 075-231-4327 京都市上京区荒神口通河原町東入る(日本バプテスト連盟 京都教会内) 【滋賀骨髄献血の和を広げる会】TEL 0748-24-0393 〒527-0004 FAX兼用 八日市市建部堺町250-8 高祖方 【奈良骨髄献血の和を広げる会】TEL 07443-2-5011 FAX兼用 〒636-0247 磯城郡田原本町阪手456-18 吉川方 ◆しまね骨髄バンクを支援する会 TEL 0853-22-3700 FAX 0853-22-3701 〒693-0023 島根県出雲市塩冶有原町1-44 いずもネットワークセンター ◆骨髄バンクを支援する山口の会 TEL 0836-32-4020 FAX 0836-33-2084 〒755-0026 山口県宇部市松山町1丁目2-16 猶方 ◆愛媛「骨髄バンク」を支援する会 TEL 0899-22-6888 FAX 0899-22-6848 〒790-0824 愛媛県松山市御幸1丁目409-8 空無我堂内 ◆高知県骨髄バンク推進協議会 TEL 0888-23-2035 FAX兼用 〒780-0862 高知市鷹匠町1丁目1-5 岡宗眼科内 ◆九州骨髄バンク推進連絡会議 TEL 092-733-9373 FAX 092-732-5243 〒810-0001 福岡県福岡市中央区天神5-3-1 福岡県天神赤十字血液センター気付 【佐賀支部】TEL 0952-30-2864 〒849-0917 佐賀市高木瀬町大字長瀬850 幟持方 【長崎支部】TEL 0957-24-1388 〒854-0007 諫早市目代町2057-6 西村方 【熊本支部】TEL 096-358-5842 〒861-4111 熊本市合志町115-2 坂田方 【大分支部】TEL 0975-43-5005 〒870-0854 大分市羽屋9組の5 大分記念病院理事長 高田方 【宮崎支部】TEL 0983-32-2449 〒844-0102 児湯郡木城町大字椎木1807-2 松清方 【鹿児島支部】TEL 0992-24-4349 〒892-0822 鹿児島市泉町13-5照国ビル301 向原方(かごしま骨髄バンク推進連絡会議) 【沖縄支部】 TEL 098-866-0881 〒900-0002 那覇市曙3-11-1センチュリーシティ804 上江洲方 − 128 − ◆北海道骨髄バンク推進協会 TEL 011-210-6552 〒060-0042 FAX 011-232-5734 北海道札幌市中央区大通西6丁目 北海道医師会館6階 【帯広支部】TEL 0155-23-1511 FAX 0155-23-5507 〒080-0801 北海道帯広市東1条南8丁目 勝毎ビル4F ◆苫小牧骨髄バンク推進会 TEL 0144-75-7661 FAX兼用 〒053-0811 北海道苫小牧市光洋町3-13-2 学校法人原学園苫小牧中央高等学校内 ◆釧路骨髄バンク推進協会 TEL 0154-41-7292 FAX兼用 〒085-0841 北海道釧路市南大通5丁目1-1 シーサイドハイツ 401号 ◆青森県骨髄バンク推進協議会 TEL 0177-74-1221 FAX 0177-74-2981 〒030-0821 青森県青森市勝田1-19-13 根井方 ◆秋田県骨髄提供者を募る会 TEL 0184-24-0770 FAX兼用 〒015-0001 秋田県本荘市出戸町字御門288-1 ◆岩手県骨髄バンク推進協議会 TEL 0196-22-9626 〒020-0823 岩手県盛岡市門1-5-50 FAX 0196-22-6546 ドラッグトマト本部内 ◆宮城骨髄バンク登録推進協議会 TEL 022-211-8381 FAX 022-211-8850 〒980-0801 宮城県仙台市青葉区木町通1-8-18 田村ビル5階 ◆骨髄バンクを支援するやまがたの会 TEL 0236-32-7016 FAX兼用 〒990-0037 山形市八日町一丁目3-45 小野寺方 ◆福島県骨髄バンク推進連絡協議会 TEL 0246-36-8343 FAX 0246-36-3538 〒970-1146 福島県いわき市好間町榊小屋字小畑133-3 (株)邑建築事務所内 【郡山支部】TEL0249-44-5762 FAX兼用 〒963-0725 郡山市田村町金屋字上川原129-1 坂本方 【いわき支部】TEL 0246-26-3151 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