巻頭言 巻頭言に代えて ―わがサルコイドーシス学のはじまり記― 京都大学名誉教授 泉 孝英 昨年 3 月,停年退官した.在職中,興味の対象の赴く 生は 1930 年にノーベル生理学 • 医学賞を受賞している. ところ,結核,サルコイドーシス,間質性肺炎/肺線維 Landsteiner K, Chase MW : Experiments on transfer of 症,びまん性汎細気管支炎,COPD,喘息と変転して 38 年が過ぎた.確かなことは「サルコイドーシスこそわが cutaneous sensitivity to simple compounds. Proc Soc Exp Biol Med 49: 688-690, 1942,はモルモットの腹腔浸出細 古里」の思いである.私のサルコイドーシス学のはじま 胞を用いて接触性過敏性を他のモルモットに移行できる りの思い出の記を書かせていただくこととしたい. ことを証明した論文で,抗体は血清だけでなく,細胞に 学位論文は「ツベルクリン感受性伝達因子に関する研 もあるという新事実,細胞性免疫の発見論文である.58 究」である.Journal of Immunology 93: 838, 1964に掲載 年前のことである. し,京大医博第216号を頂戴した.学位の仕事が済んで, 1966年夏,日米医学協力計画結核部会の会合で来日し さて何をしようかと今後の暮らし方について思案した時 たロックフェラーの Richard Costello 助教授の配慮で, 期がある.この頃,図書室で関東逓信病院牛尾耕一氏の 応が陰性化することを知った.サルコイドーシスにおけ WHOの奨学金が貰え,67年8月,ロックフェラーのRene Jules Dubos 教授の許に留学することとなった. ロックフェラーはマンハッタンの東,EastRiverに沿う 62から66番街の風光明媚な場所にある.近くのアパート るツベルクリン反応陰性化の機序から,逆にツベルクリ の家賃は月 1,000ドル以上.私の給与は,WHOから500ド ン反応の成立機序を検討してみようと考えた.わがサル ル,ロツクフェラー大学からの450ドル,併せて950ドル 総説「 Sarcoidosisと結核菌」 (医学のあゆみ 39: 13, 1961) にめぐり会った.サルコイドーシスではツベルクリン反 コイドーシス学のはじまりであった. 1963 年 7 月の暑い で,住めるわけはない.当時は1ドル 360円,助手の月給 日と記憶するが,正確なことではない. は 1 万 8,000 円 (50 ドル ).銀行のニューヨーク支店勤務 その前,6 月にサルコイドーシスの第1例を経験して だ った 義 弟 に 270 ド ル の ア パー ト を Queens 区 の Kew いた.結核予防会京都府支部西ノ京診療所の上田千里先 Gardensに探してもらい,満員のバス,地下鉄,バスを乗 生から紹介された 19歳の女子症例である.以来,停年ま り継いでの通勤となった. での 36年間に 約 900例のサルコイドーシスを経験するこ デュボス教授は,世界人名辞典には細菌学者と記載さ とが出来た. れているが,当時はEnvironmental Biomedicineの教授で, チエイス先生 主な関心事は環境問題,午後はほとんど不在,コステロ 先生は,昼食前に現れる先生であった.私は,結核免疫 「サルコイドーシスの免疫学」を研究課題とした私に のいささかの仕事をしながら,同じ大学のチェイス先生 とって,1966年,Rockefeller UniversityのMerill Wallace のところへ出掛けたり,予研から留学中の吉田彪先生の Chase 教授によって執筆された "Delayed hypersensitivity and immunology of Hodgkin’s disease, with a pararell examination of sarcoidosis (Cancer Research 26: 1097)" は 目映 い ば か り の総 説 で あ っ た.当 時,先 生 は Louis E Silzbach 先生と協同してクベイム抗原の活性因子の研究 紹介で後に免疫応答遺伝子の研究でノーベル賞を受けら すこととなった.当時のロックフェラーは日本人は 3 人 れた Baruj Benacerraf 教授のゼミに出掛けたりして暮ら だけという寂しいものであった. チェイス先生の研究室はFlexner Hallにあった.赤痢菌 をされていた. の発見者の Simon Flexner 所員を記念して命名された建 チェイス先生は,細胞性免疫学の開拓者である.先生 物で,ロックフェラーでは一番古い建物である.フレキ は,1900年に ABO血液型の存在,1910年に血液型の遺伝 シナー先生のペンシルベニア大学時代からの弟子であっ はメンデルの法則によることを証明した後,1922年,ウ た野口英世博士の研究室もこの建物であった.私の研究 イーン を追わ れロッ クフ ェーラ ー大学 に移っ てき た 室の South Building から Flexner Hall に行くのに,地上は KarlLandsteiner 教授の弟子である.ランドスタイナー先 寒いので専ら地下道を利用した.私がチェイス先生のと 1 巻頭言 ころに通っているのが知られてくると,顔見知りに会う された.確かにそうである.ジルツバッハ先生に教えて と,私の頭を指して「大丈夫か」とひやかされる有様と いただいた一番大きなことである. なった.ランドスタイナー先生は大変厳格な学者であっ たらしいが,その先生に仕えただけに,チェイス先生は, 当時,J. G. Sca dd ing 先生 の「Sar coi dos is (E yre s Spottiswoode, London)」が出版された.後にも先にも, きわめて厳格な定量的な学者であった.外様であった私 私が全巻を読破した英語の本はこの一冊だけである.留 は叱られずに済んだが,教室員は大変で,逃げ出す者多 学中は時間があったということである.通読したお陰で, しの有様であった.それだけに,先生に惚れこむと話は別 サルコイドーシス患者を診るときに,何かの問題点があ で,かなり年下の女医さんはチェイス夫人となっていた. れば,Scadding 先生の本ではどのように書かれていたか どれくらい定量的だったかというと,モルモットの皮 を思い出すことができたことは幸せであった. 膚反応を測定するときには,研究室のなかで,太陽光が 2 一定の角度に入る場所を選び,測定時刻も決めていた. 帰国・大学紛争 反応を(−)から(+++++)までを 20 に分け,(+ 早々にニューヨークでの1年が経過した. ++)と(++±)は明確に区別しなければならなかっ もう少しという気分もあったが,1年の期限で出張の形 た.頂戴した写真付きの判定・記載方法の図は,私の数 での留学であったし,助手の身分を失う勇気もなかった. 少ない宝として保存している. 1968年1月29日, 「東大医学部無期限スト突入」以来,大 ある日,日本から大教授がチェイス先生を表敬訪問し 学紛争が全国の大学に拡大の気配をみせていた.ともか た.「学会発表は年 500,論文 100」との話に,大先生が く帰ることとした.出張期限ぎりぎりの8月31日の夕刻, 帰ったあと, 「彼は,クレージー」かと尋ねられた.自分 羽田に帰着した. が直接手を下していない仕事の発表や論文に名を連ねる 1969 年 1 月 17 日,機動隊による安田講堂封鎖解除があ ことはチェイス先生には理解不可能なことであった.私 り,東大紛争は鎮静化に向かったが,同月14日,京大で 自身,在職中,学会発表の仕事のスライドなどはすべて は増寮問題から学生による学生部封鎖という事態にな 自分で用意して暮らしたが,これはチェイス先生の影響 り,紛争は京大にも飛び火し,やがて医学部にも波及し であることは間違いないことである. てきた. 1969 年 4 月,ジルツバッハ先生は,1972 年の国際サル ジルツバッハ先生 コイドーシス会議東京開催をとの希望に応えられて来日 チェイス先生の皮膚反応判定の手伝いをして,モル された.併せて,京都での第44回日本結核病学会のシン モットを持ち上げている時に, 「もう,ジルツバッハ先生 ポジウム「サルコイドーシス」にも特別発言者として参 に行ってきたか」と問われた. 「まだ」, 「電話しておくか 加された.京都の楽友会館でのジルツバッハ先生との国 ら行ってこい」ということになり,晩秋の午後, Mount 際会議の打ち合わせに参加されていたのは,千葉保之, Sinai病院に出掛けた. 三上理一郎,岩井和郎,細田 裕,山本正彦,辻 周介, その日の午後は,外来診察日で,いくつかの外来診察 大島駿作の諸先生ではなかったかと記憶するが,定かな ブースがあり,ジルツバッハ先生は各ブースを廻りなが ことではない. ら,若い医師を指導していた.教授とはこういう仕事を この夏,ワシントンで開催された日米医学協力会結核 す るも の か と 思 った.若 い医 師 の 中 に,後 の Alvin S 部会のため,2 度目の渡米をすることができた.大学紛 Teirstein 教授もいた筈であるが,当時は,はっきり認識 争は問題提起の段階を通りこして,いささか馬鹿らしい していたわけではない.臨床カンファレンスがあり,ジ 様相を呈してきた.良い方向には解決しそうもないこと ルツバッハ先生は胸部 X 線写真を示しながら,「BHL は が判ってきた.もう一度,外国へ出てみたいという気が 正面写真よりも側面写真で明瞭に見えるものだ」と強調 かなり起こっていた.しかし,アメリカの生存競争のす 巻頭言 ざまじさも十分承知していた.往路,ノースウエスト・ モスクワ経由のパリ行の日本航空便が開設された頃であ オリエントの B707 の北太平洋上空で猛烈な揺れのなか る.パリ,コペンハーゲンを経由して,ストックホルム で,この際,一応,研究者として米国に再入国して永住 に到着した 15日,ニクソン大統領によって米ドル防衛の ビサが獲得できれば,日本人の単身赴任者を相手の 2 食 ための非常措置としてドル・金交換停止が声明された(ニ 付下宿の商売でもやれば生活できるのではないかと真面 クソン声明).旅行者のドル交換は1人1日200ドルに制限 目に考えてみた思い出がある. された.米国政府の圧力で,27日,日本政府は変動相場 帰国して 3 年ばかりが過ぎた.大学紛争は末端ではい 性に移行,1ドル360円で購入したドルが,12月21日には よいよおかしなことになってきた.昼間は,教授,助教 314円となった.大変な勉強をしたが,大損である. 授を弾劾しても,夜になると,教授,助教授の自宅を訪 ストックホルムでは,レフグレン先生のところで勉強 ねてゴマをすり,中間の助手を追いだして,助手になり し たい と 希 望 し てい た が,K a r o l i n s k a 病 院 の Ak e たいと企てる教室員も出てきた.こういう人のなかから, Hanngren 教授のところへ行くように指示された.これ 後年,教授になった人もあるのは残念であるが,医学部 は,前年,1970年にいわゆる7クローネの改革が行われ, 紛争の原因のかなりの部分は,人事の停滞に対する鬱積 医療の完全公営化が実施されたためである.患者の医療 であったことを考えると,きわめて日本的現象であった 機関選択権(フリーアクセス)はなくなり,病気になれ とも言える.私の正論は上にも下にも通用しないことに ば,重症度,病気の種類によって,地域の診療所,地域 なった.いよいよ馬鹿らしくなったので,外国へ出かけ 病院,さらには基幹病院(大学病院)に転送される体制 ることとした. となった.ストックホルム地区では,カロリンスカ病院, 帰国後,大学紛争で研究どころではなかったが,サル 東病院,南病院が基幹病院として機能するようになり, コイドーシスという当時の日本では数少ない病気を研究 レフグレン先生のセント・ヨーランス病院は地域病院と 目的として持っていたことは大変幸せであった.1970年 して位置づけられ,以前のようにサルコイドーシス患者 10月,自験症例の胸部X線写真を集めて「サルコイドー を沢山集めてということはできなくなっていた. シスのX線像」と題した写真集を出版した.結核予防会 この医療革命には驚いた.7 クローネの革命と呼ばれ 京都府支部の御援助によるものであった. る理由は,医療の公営化,正確には医療は州が責任をも つことが明確にされ,外来患者は7クローネ支払えば,後 ストックホルム留学 は無料となったためである.医師はすべて公務員となり, 1971 年 1 月頃,スウェ―デン心臓・肺協会(結核予防 給料は大幅ダウンの大打撃となった. 1971 年といえば, 会の後身:当時,病院,診療所などの現業部門を廃止し 日本では国民皆保険後10年,薬漬け医療の拡大(当時の ていた)が奨学研究員 3 名(心臓 2 名,肺 1 名)を募集し 薬剤費の医療に占める比率は40%)とともに医師の富裕 てい る こ と を 知っ た の で,S t . G or a n s 病 院 の S v e n 化に拍車のかかった頃である.スウェ―デンと日本の違 Lofgren 先生のところでサルコイドーシスの勉強をした いという希望を書いて応募した.6 月中旬,採用との通 知がきた.サルコイドーシス147例を経験した時点で,8 月12日,羽田から出発した.脱出したいという気分が大 いに仰天した.どうして,このような医療革命ができた 変強かったのだろう.準備は何もなかった.当時は,ディ た.在宅でも入院でも食費は必要との簡単な論理からで のか. 「土地と医療は利権の対象としないというモラルが 北欧にはある」と言われても理解できないことであった. 医療費無料といっても,入院すれば食費は徴収されてい スカウント・チケットもなく,航空運賃は片道 24 万円, ある.抗生物質は入院では無料となるが,外来では50% スウェ―デンの物価は日本の10倍で,丁度,今,中国か 患者負担となっていた.サルコイドーシスの勉強にきた らの留学生が日本にきたようなもので,留学は大変な経 はずであるが,スウェ―デンでは何よりも社会保障,医 済的出費を伴うことになった.父親に 200万円借金した. 療保障の勉強をすることにした.スウェ―デン留学中の 3 巻頭言 体験が,その後の私の医療観を大きく支配することに D. Geraint James 先生に初めてあったのはこの時である. なったのは間違いないところである. 研究会の世話役で,大きな体で大きな声を出して,第一 サルコイドーシスの仕事も少しはした.午前は,カロ 印象は,その後に変わりはない.スキャディング先生は リンスカ病院の外来を手伝い,サルコイドーシス患者か 謹 厳 な先 生 と い う 感じ で あ っ た.先 生 が cryptogenic らリンパ球培養のための採血をした.血液を冷蔵庫に入 fibrosing alveolitis の概念を提唱されたのはこの年であっ れておいて,正午前のカンファレンスに出席した.カン た. ファレンスに出席してまず驚いたことは,結核の胸部 X どこへ連れて行かれるのか,判らないまま若い医師の 線像が京都と全く違うことであった.肺炎様の症例ばか 車で夕食に連れて行かれ,夕食後の二次会はジェームス りであった.帰国して,京都でも十数年経つと同じよう 先生のお宅であった.10人以上が,ガヤガヤと話して過 な胸部 X 線像の患者が増えてきた.午後は,血液を提げ ごしたが,後世名をなした人も多かったらしい.サイン て,バスに乗ってシティホールの前にあるセラフィル病 でも集めておけばと思うと残念である. 院の研究室に出掛けてリンパ球を培養し,クベイム抗原 ジェームス先生のお宅からホテルまでは歩いて帰っ による刺激テストの仕事をした.結果的には否定的な仕 た.ジルツバッハ先生御夫妻と3人で歩いた.ジルツバッ 事であった.スウェ―デンでは臨床部門は研究室を持つ ハ先生は Ciba Guest House に滞在されていた.ゲストハ ことはなく,研究は基礎部門の研究室に出掛けてするこ ウスの前で,バーで少し飲まないかと誘われたが,疲労 とになっていたためである. 困憊で断りを申し上げたことだけは覚えている. 渡 米前 の 1967 年 5 月 頃か らオ ース トラ リア の T. H. Hurley 先生から Kveim 抗原を頂戴して,京都でクベイム 巻頭言に代えて,わがサルコイドーシス学のはじまり 反応を行っていた.当初は,きわめて特異性の高いもの との出会いの場を中心に書かさせていただいた.この 3 であったが,米国から帰国してからは,特異性がおかし 人の先生からはいろいろな意味で教えを受けた.感謝し くなってきた.当時は, 1970 年 5 月頃,ハーレー先生に ていることである. 記,チェイス先生,ジルツバッハ先生,ジェームス先生 訪ねても原因不明であった.このクベイム反応の自験約 600 例の成績をストックホルムに持参して整理して見 た.結果をチエイス先生,ジルツバッハ先生に送付して 謝記:執筆の機会を与えられた山口哲生,四元秀毅の 両先生に感謝する. 意見を求めた.ジルツバッハ先生はロット差と推定され た.ジルツバッハ先生,ハーレー先生,私の間で何回か の手紙の往復があった後に,65 年 6 月製造の抗原には問 おける有利さ, 題がなかったが, 68 年 6 月製造の抗原には木綿線維の混 1. 健康診断が普及しているので,早期発見ができる. 2.健康保険が普及しているので,患者の診療・経過観察 入した可能性が明らかになり,ハーレー抗原は使用中止 となった. ジェームス先生 に経済的支障が少ない.加えて,サルコイドーシスは 難病に指定され,医療費の支払いがきわめて少額に なったことはこの面できわめて有利なことであった. 12月の上旬,ニューヨークのジルツバッハ先生から研 1,2は病気の生涯を追跡できる断然有利な状況であった. 究室に電話があり,クベイム抗原をめぐっての研究会を 加えて, 開くからロンドンに来ないかと誘われた.18日から1週 3.わが国では,社会保障のもとでの医療保障でありながら 間ロンドンへ出掛けた.Royal Northern Hospitalでの会合 フリーアクセスが認められるという臨床研究面でのき がいつであったかは記録していないが,スキャディング わめて有利な体制である.患者を集めることができる. 先生をはじめ偉い先生方に会って小さくなっていた. 4 追記:1972 年 8 月,帰国した私は,日本の臨床研究に を生かして,国際的に評価される仕事をしようと考えた. 巻頭言 難しいことではない.サルコイドーシス患者をできるだ て, "Mangement of the asymptomatic patient with sarcoi- け集めて,その時点,その時点で最善の医療を行い,経 である.しかし,これは自由診療体制の米国では出来な dosis" として講演する機会が与えられた.そして,1997 年5月,San Franciscoで開催された米国胸部学会では,TE King Jr と と も に,Postgraduate Course "Sarcoidosis as a いことである.また,医療費に制限を受ける欧州,当時 Systemic Disease" を担当することができた. 過,少なくとも10年以上の経過をみようというだけの話 の自由欧州でも社会主義的欧州でも,個人業としてはで きそうもないことであった. 1963 年 6月の第1 例以来,停年までの 36年間に約 900例 を経験したが,得られた結論は以下に要約されることで ある. 1.自然経過症例,ステロイド薬治療症例,いずれも,肺 (肺門/肺野)病変の寛解は,発症・発見5年目までに 認められる.従って,5 年を経過しても病変の残存し た場合,難治症例として対応すべきである. 2.症状発見群は検診発見群よりも,肺野病変例はBHL群 よりも,病変部位の多い症例は少ない症例よりも,高 齢発症例は若年発症例よりも経過・予後不良である. 3.発症・発見10年目に肺病変の残存しているのは25%程 度であるが,多くの場合,病変はそのまま残存し進展 することはない.症例全体の5%程度が,多くは10∼ 15年の経過を経て線維化病変に進展し,呼吸不全に陥 り,不良の転帰をたどる. 4.ステロイド薬は,一時的には,胸部X線所見,自覚症 状の改善に有効であるが,年単位でみれば有効との成 績ではない.特に,若年(20歳代)の肺外病変なし無 症状発見群では,ステロイド薬投与は,病変残存率を 高め,経過不良をきたすことが認められた. 5.サルコイドーシスにおけるステロイド薬投与は,肺サ ルコイドーシスでは咳・呼吸困難など耐えざる愁訴の 症例に限定し,副作用を考え,少量・短期間に限るべ きである. これらの成績は,1992 年 4 月の日本内科学会講演会に おいて教育講演「サルコイドーシス」として報告するこ とができた.5月には,Miami Beachで開催された米国胸 部学会のClinical Topics in Pulmonary Medicine:Sarcoido- sis Update:New Concepts in Pathogenesis and Key Issues in Mangement (Chairman:TE King Jr, J Forrester)におい 5
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