第4回(10/15) 「EUに向けての歴史上の数々の試み」

横浜市立大学エクステンション講座
ヨーロッパ史における戦争と平和
第4回(10/15) 「EUに向けての歴史上の数々の試み」
横浜市立大学名誉教授 松井道昭
はじめに
最初に、ここでの問題を明らかにしておこう。4点ある。
(1)ヨーロッパでは戦争が多発したが、それはなぜなのか。
(2)ヨーロッパ史をみると、戦争がひと区切りつくと、必ず恒久平和への動
きが始まる。ここに特徴的なことは、それが何かしら国家連合、国際会議、
国際機関の設置の指向というかたちをとることである。
(3)ヨーロッパ統合という場合、その場所的限定について過去はむろん、現
在でもどこまでを含むべきかの問題がしばしば論議にのぼる。そも そ も 、
ヨーロッパとは何か。「ヨーロッパ」なる概念はいつごろできたか。
(4)ヨーロッパ統合に向けての試みを9~18世紀の1千年の独仏関係史にお
いて考察する。
第1章
ヨーロッパではなぜ戦争が多発したか
1. ヨーロッパの地理的特性とダイナミズム
中国ほどの面積をもつ比較的小さな地域に全域を支配する覇権国家が一度として出
現しなかったのは不思議である。 ローマ帝国でさえ地中海以北ドナウ~ライン川が北限
である。どのような統合への試みが過去にあったか?
・ 西暦 800 年のシャルルマーニュの西ローマ帝国がある。
・ 10 世紀以降の神聖ローマ帝国
・ 14 世紀のフランス王国
・ 19 世紀初めのナポレオン帝国
・ 20 世紀前半のナチス=ドイツ第三帝国
ヨーロッパの政治の特徴は絶えざる分裂抗争と合従連衡にあり、その根因
は地理にある。つまり、東西に走る峻厳な山脈、流量豊富な河川、3方が海に
なっていて、南北に跨る大帝国が築きにくく、どの国も海運と水運を通じて国
際貿易を営むことができ、軍事的技術の独占ができない。こうして、いつの世
も小さな国が分散し、平地の小王国、辺境の領邦国家、高地の部族国家、海岸
と川岸の都市国家などが孤立的に存在することになった。
2. 聖 ・ 政 ・ 経 の 3 権 力 の 三 ど も え 争 い
もう一つ重要な特徴は、ヨーロッパの政治と経済と精神(宗教)の担い手
が分散し、これら3権を同時に握る専制的な独裁者が生まれにくかったことで
1
ある。3権を一人の者が握ろうとする動きはあったが、いつも邪魔が入り権力
の独占ができなかった。
3. い つ の 世 も 競 争 原 理 が 支 配 す る
上記1と2の特性はあらゆる権力の競争状態につながり、瞬時でも油断を
すれば他国に滅ぼされる危険性があった。ここからあらゆる地域、民、権力は
いつも競争を強いられ、これがヨーロッパの不断の進歩と活力の源となった 。
合従連衡と衝突はヨーロッパにおいて避けがたい生存原理となる。かくて、軍
事費の支出を惜しむことは亡国の悲哀を嘗めることを意味した。他文明のもと
では聖権はふつう軍事と無関係でかつ調停者の役割を演じるものだが、ヨーロ
ッパではこの聖権さえも、軍事や連衡への配慮を強いられた。
第2章
ヨーロッパとは何か
1. 「ヨーロッパ」の語源
(1)ギリシャ神話に出てくるエウロペ……フェニキア王の娘で絶世の美女だった。ゼウ
ス神は彼女に惚れて牡牛に変身し、彼女を乗せクレタ島に運び王妃とする。エウロ
ペは 3 人の男子を産んだが、そのうちの 1 人がミノス王朝を開いた。先進文明の地
フェニキアとクレタ島という未開の地で花開くというところがミソである。フェニ
キア → ギリシャ → ヨーロッパの文化的系譜が想定できる。
(2)別の説によれば、
「エレブ ereb」は「日没」という意味で、他の語彙「アツーacu」
の対語である。前者が「ヨーロッパ」
、後者が「アジア」の語源である。つまり、オ
リエントの「肥沃な三日月地帯」に住む人々から見ると、地中海の向こうに位置す
るヨーロッパは「日の沈む土地」となる。古代ギリシャ人は世界をヨーロッパ、ア
フリカ、アジアの3つの部分に分けて考えていた。
2. 「ヨーロッパ」観念の誕生
古代ギリシャやローマ文化の影響に浴したヨーロッパ人は、自分たちは文化的に後
れた地域にいるという自覚をもっていたが、やがて、他文明との接触やルネサンスと大
航海時代に獲得された知識により、自己中心的な世界観を悟っていく。ヨーロッパが大
陸でもないことも悟る。その一方で、独立的な文化的実在であるという観念もますます
強めていく。つまり、それまでの地理的ヨーロッパに代わり、文化的ヨーロッパの観念
が誕生したのである。
「ピレネーより南はヨーロッパではない」…… イスラム文明
「ドン川以東はヨーロッパではない」…… アジア的遊牧民の跋扈する地域
「ドーヴァーの向こうはヨーロッパではない」…… ブリテン島は海賊の定植地
文化地域とは、信仰と行動や生活様式の多様な特性を共有する人々の共同体。具体
2
的には言語、イデオロギー(信仰)
、技術、社会制度(法慣習)が含まれる。文化地域は
共通文化をもつ人々の居住する空間で、土地において文化の刻印が見出される。それは
歴史的に形成されたものである。
通説に従うと、ヨーロッパの原型は中世期に形成され、その特質はローマ文化、キ
リスト教、ゲルマン起源の封建制の混淆にある。それを象徴する出来事としてフランク
王シャルルマーニュが西暦 800 年のクリスマスの日に教皇レオ三世によって西ローマ帝
国の皇帝として戴冠された事実である。→「ヨーロッパの父」
「ヨーロッパの首長」
「シ
ャルルマーニュ大賞」
。その歴史的意義は以下の4点にある。
(1)ラテン語とローマ法の継承
(2)キリスト教の庇護者としての皇帝・・・世俗権も聖職権の下位に位置する
(3)ゲルマンの慣習(封建法の根底が族長権)に従う
(4)西ヨーロッパの誕生
3.ヨーロッパの分裂
上記(4)はきわめて重要。文化的に後れたゲルマンがローマ文化に包摂される。ロ
ーマを征服したゲルマンは文化面ではローマに征服された。ヨーロッパの東西への領土
的分裂は文化面での分裂を基礎とし、
「西」はしだいに文化面でも「東」の支配をすり抜
け、これを凌駕していく。つまり、自立から膨張へ・・・その象徴が十字軍(1096~1270)
である。トルコ族の侵攻に晒された「東」が「西」に救援を頼み、それが十字軍。
第3章
戦 争
1. 独・仏・教皇こそ紛争好きの張本人!
戦争が起こるから「平和」が沙汰されるのであって、
「平和」があるから「戦争」が
浮上するのではない。この論理に従うと、平和を論じる場合には必ず戦争を論じなけれ
ばならない。ヨーロッパは紛争多発地帯である。いつも戦争をおこなっており、その反
面において必ず平和希求の論議もおこなう。戦争の中心はいつも独・仏・教皇である。
1.叙任権闘争(1075~1122)
2.十字軍(1096~1270)
3.ブヴィーヌの戦い(1214)
4.教会大分裂シスマ(14~15 世紀)
5.英仏百年戦争(1338~1453)
6.第一次・第二次イタリア戦争(1494~1544)
7.宗教改革と宗教戦争(16 世紀)
8.ドイツ三十年戦争(1618~1648)
9.ルイ十四世の戦争(1667~1714)
10.七年戦争(1753~1763)
11.フランス革命戦争とナポレオン戦争(1792~1815)
3
12.イタリア統一戦争(1859~1860)
13.普墺戦争(1866)
14.普仏戦争(1870~1871)
15. 第一次大戦(1914~1918)
16.第二次大戦(1940~1945)
これを見てわかるように、独・仏・教皇の絡まない大規模戦争を探すのは困難であ
る。敢えて3勢力と全く無関係の戦争を挙げれば、レコンキスタ(11~15 世紀)
、英蘭
戦争(17 世紀)
、北方戦争(17 世紀末~18 世紀初)くらいしかない。他にオランダ独立
戦争やベルギー独立戦争があるが、やはりこれにも独仏両国と宗教は関わっている。他
はすべて国内的な要因によるものである。
上掲の戦争一覧から、当初は独・仏・教皇の三つどもえ争いに終始していたものが、
ドイツ三十年戦争以降はしだいに教皇の絡みが薄れ、独・仏の抗争に単純化していく。
それには宗教戦争以後、漸次的に進行してきたキリスト教信仰の衰退による。
独・仏は 19 世紀にいたるまで永続的なライバル関係にあるとはいえ、本格的な激突、
すなわち食うか食われるかの厳しい戦争に発展することはほとんどなかった。兵器その
ものがまだ破壊力をもたなかったことのほかに、戦争のかたちが民族主義や民主主義や
自由主義の影響を受けていなかったからだ。いうならば、戦争のタイプは王朝戦争であ
り、国民は納税の形で戦争を支えることはあっても、戦争には無関係だった。
戦争の激越性と破壊力を質的に拡大させたのはフランス革命である。かくて 19 世紀
以降の戦争はいずれも国民戦争の性格を帯び、前線と銃後の区別が薄れ、敵の戦争遂行
能力を直撃することに戦略の中心が移り、これがやがては軍民無差別の殺戮をもたらす。
第一次世界大戦は突如、皆殺し的な性質を帯びるようになり、それは第二次世界大戦で
頂点に達するのである。
2. 英国は大陸紛争への関わり方の特徴
イギリスは紛争への関わり方が独・仏とは違う。この国が島国であり、基本的に紛
争に関わるかどうか自国の利害関係で判断でき、干渉・不干渉を選択できた。それと、
この国は羊毛と小麦を輸出するだけの存在、いわばヨーロッパにおいて第一次産品生産
の後進国であり、大陸諸国の関心の外にあった。ゆえに、マイペースで国家的成長する
ことができた。大陸との紛争ではイギリスは「戦力均衡のために介入」
「大陸の覇権国を
叩け」の原則で臨んだ。17・18 世紀のライバルはオランダとフランスである[注]。
[注] 蘭・仏を敵国として英国がかかわった戦争は以下のとおり。英蘭戦争(1652~1674)
、ファル
ツ継承戦争
(1689~1697)
、
スペイン継承戦争
(1702~1713)
、
オーストリア継承戦争
(1740~1748)
、
七年戦争(1756~1763)
、フランス革命戦争(1792~1797)
、ナポレオン戦争(1798~1815)
。
ナポレオン戦争が終結すると、イギリスはすっかり大陸に関心をもたなくなり、海
外進出に躍起となる。そのため、ヨーロッパで戦争そのものが少なくなる。よって、ウ
ィーン体制の初めから第一次世界大戦を迎えるまでヨーロッパは穏やかな1世紀を享受
するのである。
4
3. 独・仏の命運
なぜ、独仏両国は対立するのか。それは①地政学的な差異があること、②元々の民
族の地の差があること、③ローマ文化への接触度に違いがあることを挙げうる。地政学
的差異は後にまわし、②と③をまとめて先に論じよう。
大雑把にいうと、ドイツは基本的に古ゲルマンの慣習法がもとにあり、ローマの属
領にどっぷり組み込まれたフランスはローマ文化(成文法)の影響下にある。これまた
大雑把な特徴を列挙してみよう。
古ゲルマン……狩猟・牧畜、共同所有権、血縁社会、従士制、限嗣相続制、自然崇拝
古代ローマ……定着農業、私的所有権、地縁社会、平等相続、貨幣・交換経済、平等相続、多神教
以上を要約すると、共同体的、団体主義的、家父長的権威主義の強いドイツと、個
人主義的、契約社会的、共和主義的フランスの差といえまいか。前者がプロテスタント
を受け入れたのに対し、後者はカトリックのままに残った。元の生地は長く残り、この
差が独仏の対立を助長し、また、それ以上の融合を妨げていった。
フランク王国はシャルルマーニュの死後20年で東西に分裂する。この分裂は恒久化
を狙ったものではないが、両国の地の差が前面に出て元の鞘におさまらなかった。両国
とも第二次民族移動(ノルマン、マジャール、サラセン)のせいで、封建制を営むが、
フランス国王が長子相続制でもって世襲王制を確立でき、国家の凝集力を維持したのに
対し、東フランク(ドイツ)の王制はゲルマン族長会議で王を選ぶという選挙制を遺し
ていたため、ひとたび政治的分散状態になると、中央集権に戻すのが難しかった。こう
してフランスが着実に膨張したのに対し、ドイツの統一は19世紀までお預けになる。
しかし、フランスに弱点がないわけではない。国王になるためには直系男子、しか
もカトリックでなければならないことで、男子の世継ぎをもたずして王が死去した場合
や、教皇庁と軋轢を起こした場合に危機が訪れた。一方のドイツ(神聖ローマ帝国)は
皇帝が後退するたびに選挙があり、そのつど当選するためには諸侯(七選帝侯)に妥協
しなければならず、譲歩のうえに譲歩を重ね、結果的に国家は無限分裂状態になる。
4. 独仏対立の遠因
お隣さんどうしは仲が悪いのは世のつねである。領土が接していれば、領土紛争は
つきものである。イングランドとスコットランド、アイルランドとイングランドの例に
代表される。スコットランドはイングランドを懼れるあまり、フランスと結びつく。イ
ングランドはフランスを懼れるあまり、神聖ローマ帝国やプロイセンと結びつこうとす
る。プロイセンはポーランドを間に挟んでロシアと結びつく。
仏独は国を接しているので仲が悪いのは当然だった。そのうえ、同じフランク族の
出自をもち、それゆえ正統性(本家)争いもしょっちゅうだった。フランクが分裂した
とき、東フランクが正統の継承国で、フランスは傍系だった。この弱みをかかえていた
西フランクはいつも東フランクにされてしまう懸念から、東フランクを長く分裂状態に
維持することを国是とした。そのため、東フランクとローマ教皇庁の争い(高位聖職者
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叙任権闘争)を煽るべく、
「西」は陰ひなたに教皇庁の味方をした。
「西」が求心力をもって中央集権に向かい、
「東」が領土・国権的に無限分裂してい
く背景となったものに自然的な要件も作用している。すなわち、
「西」が大西洋、ピレネ
ー、アルデンヌ、ライン川、アルプス山脈、地中海といういわゆる “自然国境”なる境
界をもっていたのに対し、
「東」のほうは自然国境がなく、バルト海沿いに無辺広大な平
地をひたすら東進できた。どこまでがドイツの境界なのかわからない。ここにドイツ人
を宿命づける不幸の因が潜む。じっさい、ドイツ人はあるときはスラブ系民族を駆逐し、
自国領に編入し、または共住のかたちで移住した。いずれにしても単一国家をつくるの
はむりで、どこでも異民族との混住と摩擦を避けられなかった。おまけに、東進したド
イツ人はプロイセン国家をつくり、東南方向に峡谷沿いに進出したドイツ人はオースト
リアを建国。かくて、ドイツ人が統一をめざすとき、主導権争いで決着をつけねばなら
なかった。これが普墺戦争(1866)である。
5. 分裂状態を望むドイツ人
今でもそうだが、ドイツは一枚岩ではない。つまり大別してドイツは三つの地域に
分けられる。一つはフランクの故地たるライン左岸地域(ラインラント)
、そして、ライ
ン川を越えた東に住むザクセン族を封建関係で従属下においたザクセン平原地域、さら
に東進してエルベ川を越えた地域の三つである。東フランク → 神聖ローマ帝国になっ
ても、この元からある生地の差は覆いがたく、封建的割拠状態は長く続いた。封建制度
が弛むと、その割拠性はどんどん強まっていく。10 世紀後半に神聖ローマ帝国が成って
も、国としてのまとまりは隣国フランスと比較にならない。
ドイツの分権化をつながる要素として、領邦国家群だけでなく、ライン川流域の諸
都市やバルト海沿いにつくられた諸都市同盟=ハンザ同盟も見逃せない。ハンザ同盟と
は、共通の貨幣、度量衡、裁判所、議会、軍隊、外交権まで保持した連邦国家のような
ものだった。通商の安全が至上命令であって、そのかぎりで国権による保護は求めたが、
税の増徴のような縛りは嫌う。バルト海沿岸都市には、ドイツ人を結合する要素と封建
関係のなかでの例外であることを望む自由主義の風潮があった[注]。この商船隊は強力
で、フランドル公(1358)やデンマーク(1368)と一戦交えて勝利さえしている。
[注]
ハンザ同盟の自由主義的傾向はフランス革命軍が雪崩こんできてラインラントを制圧したとき、
そこの住民は挙って家々から出てきて革命軍を歓呼の声をもって迎えた。その意味でラインラン
トはドイツよりもフランスの気風を好んだ。
要するに、ドイツは君侯、公爵、城主、ライン伯らの大小の封建的領主、聖職諸侯、
商人、ハンザ同盟、自由都市、自由農民など、いわばドイツを構成する雑多な要素が自
治を求めていたのであり、けっして中央集権国家の登場を望んでいなかった。彼らは大
権に服して自由を失うよりは、小国であっても独立の主権者であることを望んだ。今の
団体主義、権威主義のドイツを見て過去の状態を連想してはならない。また、国民性と
いうものは変幻自在なものである。変幻自在は密接に時代の政治に関連しており、これ
を考慮して初めて“国民性の謎”が理解できるのである。プロイセン国家による国家統
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一までのドイツの歴史は権威主義と民主主義、王政と共和政、中央集権と分権主義、大
国と小国、外国勢力と国内勢力のあいだの永続的なせめぎあいの歴史であった。
第4章
ヨーロッパ統一への試み
1. 武力による統一への試み
フランスがドイツに対し武力でもって勝利したのはブヴィーヌの戦い(1214)であ
る。この時仏王フィリップ・オーギュストと教皇の連合軍がドイツ、ポルトガル、イギ
リス、ブルゴーニュ侯の同盟軍に勝利した。これを機にフランスは上昇の、ドイツは下
降の道に入る。ルイ九世(1226~1270, 十字軍遠征の途上テュニスで病死し聖別される)
はひとつのピーク期だった。ソルボンヌ大学が創立されたのも彼の治世下である。フラ
ンスがどこからも侵入を受ける危険がなくなったのに対し、ドイツはモンゴルの侵入を
受けた(1240)ばかりか、ハンザ同盟やライン都市同盟が結成され、分離独立の動きが
あり、一時期皇帝のいない「空位時代」
(1256~73)さえあった。
教皇権はボニファティウス八世(1294~1303)のとき絶頂期を迎えたが、まさにこ
の時フランス王フィリップ四世(美男王、1285~1314)と衝突する。十字軍の失敗によ
り教皇の威信は下り坂であったにもかかわらず、ヨーロッパ世界の支配者として皇帝的
スタイルで権威を維持しようとする教皇の主張はもはや時代後れとなっていた。かくて、
教皇は仏王によってアナーニに幽閉され、教皇庁は一時期アヴィニヨンに移設された。
ドイツの神聖ローマ皇帝カール四世は「金印勅書」を発して、以後の皇帝はすべて
選挙によって選出することを宣言し、かくて皇帝の「神聖」性は完全に消え失せた。
フィリップ四世の主張を代弁したのは法律顧問ピエール・デュボワ(1250?~1320)
である。彼はボニファティウス八世との論争において中心的な役割を果たした。デュボ
ワは「短縮論」と「戦争を短縮する方法に関する試論」
(1300)を著してドイツ皇帝にも
教皇にも反対する立場をとり、フランス王こそヨーロッパの覇者にふさわしい人物だと
褒めたたえた。
「フランスは他の人々がやるよりも合理的な判断によって権限をよりよく使うであ
ろう。
」
ここにまさしく「中華思想」ならぬ「中仏思想」の真髄が大胆に描かれているのだ。
デュボワは仏王が皇帝になることを勧める一方、イェルサレム解放のために第二次十字
軍を率いることを提唱した。
デュボワはイギリスのエドワード一世(1272~1307)にも招聘され仕えたが、ここ
でも十字軍の再開を唱えた。英王自身もボニファティウスの高慢さに業を煮やしていた
のだ。デュボワは「失地回復論」と題する論文でヨーロッパ連合への構想を明らかにし
た。彼によれば、戦争は風土病と同じく忌まわしいものである。戦争の防止のためには、
ある種の国際的な規律にもとづくシステムが必要である。ローマ帝国を再現しようとす
る試みはアナクロニズムでしかなく、国家連合の結成を主張する。
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「過去幾世紀の経験からいえば、賢明な人であれば、現世の事柄について単一の君
主によってすべての人が支配されることが可能であるとは考えないだろう。… 終わ
りなき戦争、動乱、不和は避けられないだろう。… それは多数の民族、領土の広さ
と多様性、相争う人間の気質に因るからだ。
」
かくてデュボワは、ヨーロッパの君主たちと諸都市が国家連合的な「キリスト教共
和国」をつくることを提唱する。もし紛争が起これば、当事国と聖職者から成る評議会
をつくり仲裁にあたる。もしこれら仲裁者の仲裁によっても紛争の調停ができない場合、
最終的な調停者の教皇に控訴される。だが、教皇はあくまで来世における地獄行きの威
嚇によってのみ当事者を和平に向かわせる道徳的な調停者であるにすぎない。教皇はそ
れ以上の存在ではありえないため、現世の事柄については評議会による軍事的・経済的
制裁によって調整するしかない。なおも強情に反抗する国または都市は征服され、経済
的な制裁を加えられ、その主権者は家族もろとも聖地に流される…。
ここには十字軍と遠征というヨーロッパの古い経験と、物理的な制裁による恒久的
平和の維持という新しい理念との混淆が見出される。特に、国家による征服では事が解
決しないとしている点が斬新である。とはいえ、デュボワはフランスに特権的な地位を
与える。紛争を避け平和を維持するには、人々の啓蒙による文明的な力に依存しなけれ
ばならないのであって、そうした教化をなしうるのはフランスしかないという。教育は
再編され聖職者の統制から解き放たれるべきという主張に近代的な響きが感じられる。
教会の権威から解放された学校はヨーロッパの諸言語、古典語(ギリシャ語)
、イスラム
語を教科に入れ、さらに医学と科学を教えるべきである、とも言う。イスラム語の採用
は異教徒を改宗させるためである。フランスは教皇領、イタリア、アラゴン、ハンガリ
ー、イングランドも支配し、ビザンツ帝国をも含めた大帝国を樹立すべきである。
デュボワの所論はのちにエルネスト・ルナンは「偉大な預言者」と評したが、これは
あまりに斬新かつ近代的で、フィリップ美男王のために書いたというよりルイ十四世や
ナポレオンのために書いたとするほうがふさわしい。また、
(A)ヨーロッパ全体の統一
で紛争の発生源を断つ、
(B)評議会の設置、
(C)武力制裁の考え方は未来の国際連盟・
国際連合を思わせるものがある。
だが、彼とて時代の子であり、中世的観念の枠から完全に自由ではない。①道徳的教
化しか和平の道はない、②紛争の当事者を流刑にするという措置、③現世事象に対する
教皇の容喙を非難、④問題児を植民に駆り出し、キリスト教世界の拡大に役立てる発想
――がそうである。
2. フランソワ一世とカール五世の対決
16 世紀は、
スペインとポルトガルの海外進出に代表されるヨーロッパの膨張の時代、
その結果としてのヨーロッパ全体を覆う経済繁栄の時代である。それと当時に、宗教戦
争に象徴されるヨーロッパ規模での内乱の時代でもあった。ルターとカルヴァンの宗教
改革は「普遍のヨーロッパ」という中世的理想を最終的に破壊した。それゆえ、キリス
ト教的統制からの解放という見方からルネサンスと宗教改革は同じラインで語られるこ
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とが多かったが、それらの歴史的意義はかなり異なるとみるべきである。
16 世紀の初め、は神聖ローマ皇帝の座をめぐり、仏王フランソワ一世とハプスブル
ク家のカール五世の争いが見られるが、これは単に国王どうしの帝座争奪戦ではなく、
仏独の覇権争いである。結果としてハプスブルク家が勝ったが、同王朝に実際の得失は
ない。ハプスブルク家は長く神聖ローマ皇帝の帝位に就いており、それを守りきったか
らだ。帝座争いに敗れたフランソワ一世はキリスト教世界の仇敵オスマン=トルコと軍
事同盟を結んでドイツに当たった。信仰問題なんのその! となったところに新しさがあ
る。
3. 宗教戦争
宗教戦争はキリスト教世界を真二つに切り裂いた。信仰問題で信徒どうしが殺しあ
うという例は今まで存在したことがなかったのであり、その後遺症は長く続くことにな
った。精神界と俗界における亀裂はすでに 14 世紀に生じていたが、16 世紀を迎えると、
この分裂は決定的段階を迎えた。フランスも手痛い打撃を受けたが、ドイツのほう深刻
だった。
もともとは教義と礼拝慣行の些細な論争から始まりながら、やがてキリスト教全体
を切り裂き、拷問と殺戮をくり返した。新・旧キリスト教の激烈な争いは世俗間の勢力
争いと絡んで絶えず引き伸ばされ、何度も再現され、17 世紀のドイツ三十年戦争で頂点
に達した。戦場となったドイツでは軍隊が我が物顔に闊歩し、農民と市民を犠牲の巻き
添えにした。この紛争の惨状と大量殺戮は人々の心に衝撃を与え、ここから「寛容の精
神」が生まれる。18 世紀の啓蒙思想家たちの合言葉がこれだ。
宗教で引かれた境界線と国境は一致しない。もし一致していれば、すっぱりした国
家分裂でひとつの妥協に達した可能性がある。しかし、信徒の居住地はモザイク模様を
描く。このような不一致が紛争を社会の底辺にまでもたらし、民衆間にも軋轢を起こし
た。このことが兄弟信徒を助けるという名目で外国君主の干渉を招き、混乱を増幅した。
その典型がスペイン帝国からのオランダの独立戦争である。オランダはカルヴァン
信徒の多い地域である。もともと外国貿易に従事していたオランダ人は信仰はもとより
重税をかけてくる旧教のスペインに従うのを潔しとしなかった。オランダは商人貴族の
寡頭制にもとづく都市連合のようなところで、あらゆる意味で自由を欲していた。ネー
デルランド7州はフェリーぺ二世治下のスペインから独立を企てる。スペインから海上
覇権をもぎ取ろうとするイギリスはネーデルランドに味方する。かくて国際紛争の色彩
を帯びる。その後、宗教的争点は徐々に薄れ、この紛争が終わるのは 1648 年のヴェスト
ファーレン条約である。この時点では宗教問題はそっちのけになっていた。
神聖ローマ帝国の本拠地ドイツはもともと割拠性の強い国柄において宗教的混乱が
つけ加わり、深刻な事態にたちいたる。ルターがドイツの農民反乱を支持しながら後に
鎮圧に与したため、混乱はさらに大きくなる。1555 年のアウグスブルク宗教和議でルタ
ー派の信仰が認められた。しかし、これは領主にとっての信仰の自由であり、領民レベ
ルのものではない。領主と同信徒の領民であれば、まったく問題はなかったが、領主と
領民で信仰が違えば、信仰に忠実であろうとすれば亡命しかない。商工業者は移動でき
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たが、貧しい農民は移動すらできない。アウグスブルク和議から帰結したのは、ドイツ
がプロテスタント国家とカトリック国家に二分されたことであった。ハプスブルクはオ
ーストリアの首長としてカトリック派を代表した。その結果、ドイツのハプスブルク帝
国は依然として有力国だが、もはや超大国ではなくなる。同国は北方のプロテスタント
諸国に対して、もはや俗権の分野ですら権力をふるうことができなくなった。
アウグスブルク和議は一時的な休戦にすぎない。やがて 17 世紀を迎えると、スウェ
ーデンやデンマークなどプロテスタント国家の介入を招いて、再びドイツが宗教戦争の
るつぼに嵌まることになる。
フランスはどうか。ここも激しい宗教紛争に巻き込まれたが、ややうまい立まわり
をした。英明王とその賢臣がいたからである。彼らこそ、不幸な経験を土台としてヨー
ロッパの恒久的和平のためにヨーロッパの統一を唱える英傑たちである。英明王とはア
ンリ四世に代表される。彼はプロテスタントだったが、国王に就任にするにあたってカ
トリックに改宗し、同時に「ナント勅令」を出し(1598)信仰の自由を認めた。これは
個人レベルの自由であった。彼は国民の大和解を説き、宗教内乱で疲弊した国家の経済
的復興を期した。彼はオランダから技術者を招いて国立工場を立て、パリのテュルリ―
宮の中庭を桑畑にまでして養蚕業の振興を助けた。アンリは華麗な儀式を止め、質素な
身なりを好んだため、侍従たちは王を一般人から見分けるのに苦労した。
彼はフランス中興の祖と見なされ、国民から愛された。決断力、健全な常識、宗教
的寛容、外向的で善良な性格と相まって彼の人望は絶大だった。一方、同王は着実にフ
ランスを集権国家に仕上げつつあった。もし彼が暗殺(1610)されなかったなら、ルイ
十四世に引き継がれていく偉業を彼の治世下で完了していたかもしれない。
4. シュリ—のヨーロッパ連合構想
シュリ―(Maximilien de Bethune, 1560~1644)は長くアンリ四世の宰相をつとめ
た人物である。彼は宗教戦争の最中、兵士として勇敢に戦い、それが王の目に止まり起
用されたのである。彼が特に傑出していたのは経世的手腕により王室財政をたて直し、
フランス経済を見事に復興させた。彼が回想録『王国経世論 Oeconomies Royales』
(1630
年)で記した中身はまさに重商主義理論である。
「経済学」の生みの親である。
しかし、ここでとりあげたいのはその経済理論ではなく、ヨーロッパ連合構想を力
説している部分である。
『王国経世論』のポイントは2つある。その1つはヨーロッパ均衡の理論である。
そのために、ハプスブルク帝国の弱体化は必須だった。これは主人アンリ四世の持論で
もあったという。ヨーロッパで超大国が存在するのは平和の維持にとって不つごうであ
る。ハプスブルク帝国を解体し、それに拮抗すべく仏・英が台頭しなければならない。
しかも仏・英が連携することによってハプスブルクと対峙する。シュリ―は、英女王エ
リザベス一世(在位 1558~1603)との密談話までねつ造して、自分の構想が英仏両王の
合作であると強調する。ともかく、英仏連携のもとにハプスブルク帝国を解体し、スペ
イン、イタリア、オランダを切り落とす。こうすると、仏・英・墺の力が均衡し、ヨー
ロッパ全体を併呑するような大国がなくなる。この前提のうえに、勢力均衡維持のため
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に国際的な機関をつくるのが望ましい。国際機関設置に関しては後述に譲る。
第二の論点は宗教的寛容の精神である。シュリ―は宗教内乱の惨劇を身をもって体
験した。プロテスタントの彼は自己の信仰を譲るつもりはなかったが、信仰上の相違を
もってする抗争や戦争には反対した。信仰の一元化に拘るかぎり戦争は永続する、と彼
は考えた。これは当時の一流の知識人のだれもが感じていたことである。
「戦争と平和の
法」を唱えたオランダのグロティウス人がその代表格である。グロティウスがフランス
の宮廷を訪れたことがあったため、シュリーが彼と意見を交換したであろうことは容易
に想像がつく。
ゆえに、ヨーロッパの戦争の原因の一つである信仰問題について「寛容の精神」の
組織的保証を唱える。平和的共存に含まれる思想とはカトリック、カルヴァン主義、ル
ター主義の3つである。彼は言う。
「現在、ヨーロッパではキリスト教3宗派のそれぞれが独立して存在している。こ
れらのどれ1つをとっても瓦解していく兆候すらなく、また、瓦解させようとの企
てがあっても、それは無益であるばかりか危険であることは歴史の事実が十分に物
語っている。それゆえ、最善の策とは3宗派すべてを存続させ、むしろ、こうした
並存状況をより固定化することである。
」
3宗派の共存を保証する体制として国家次元で物事を考えるのはむりだという。ゆ
えに、信仰の自由を動機とする人の国外移動を認めなければならない。彼はアウグスブ
ルク和約の不完全さを認識し、またオランダ独立戦争時の大量の人口移動[注]を知って
いた。人間の移動によって無用な摩擦を避けられるよう、国家はそれを保証すべきだと
説く。注意すべきは、ここで近代的意味での「信仰の自由」は説かれていないことであ
る。無神論も含めた「信仰の自由」はまだ先の話、18 世紀の啓蒙思想の課題である。
[注] 新教徒の牙城アントウェルペンが開城するとき(1585)
、ここに立てこもった者の生命と「信
仰の自由」を保証する代価として、彼ら全員の国外亡命が認められた事実を指している。
宗教的寛容に関連し、もうひとつおもしろい論点がある。すなわち、ロシアがとり
あげられているのだ。キリスト教から枝分かれした東方正教会とキリスト教異端の処置
についてである。後者の異端は排撃の対象とし、宗教的寛容の枠外に置く。一方の東ヨ
ーロッパ全体に広がった東方正教会はカトリックおよびプロテスタントにとっても無視
しがたい存在であり、敵・味方の区分で済ませる問題ではない。
そこで、シュリーは言う。ロシア皇帝が西欧の3宗派のいずれか1つに従うという
のであれば、ヨーロッパ統合構想に参加を許され、従わない場合にはウラル以西のロシ
ア帝国の領土ははく奪されるとした。現在のEUにおいてロシアが排除されている現実
をシュリーは予見していることになる。その反面、当時のハンガリーはビザンツ帝国の
滅亡後もオスマン=トルコに敢然と立ち向かい西欧の防波堤の役割を果たしているゆえ
に西欧に含めるべきであると説く。同じような理由にもとづいいて、ポーランドの領土
拡大と王国としての独立性を保障すべきだという。
もうひとつ無視できない論点に、ローマ教皇の役割が明示されていることがある。
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教皇に統一ヨーロッパの議長の椅子があてがわれているのは当然であろう。その一方で、
教皇は世俗領主としてイタリア半島を統治する主権者でもある。こうすれば、教皇の世
俗的願望が満たされ、彼のヨーロッパ支配の野望にブレーキがかかるだろうという。
さて、最後に国際機関の問題に移ろう。全ヨーロッパのキリスト教国から選ばれた
代表は、大陸の中心部にある一都市に常設された議会の構成員(定員 66)となる。議長
はローマ教皇がつとめる。シュリーが考えていることは、神聖ローマ帝国の精神的権威
を剥奪し、それを教皇に譲るということだ。教皇はそれに満足し世俗の野望を捨て、し
たがって一石二鳥の効果が期待できる。議会の役割はこうだ。
「異なった利益を議論し紛争を鎮圧し、国内または隣国間であるの別を問わずヨー
ロッパで発生した民事、政治、宗教の紛争をすべて解決する。
」
「議会の決定は等しく自由で、独立した方法で、すべての主権国家の統合された権
威が合意した処置と見なされたときに、最終的で変更不可能な決定と見なされる。」
議会の上に機関の設置が想定されているが、そこでの決議が有効となり行動に移さ
れるためには議会における満場一致が必須だった。満場一致の原則は 20 世紀の国際連盟
がかかえこむ難点となったが、シュリーはこの問題 ― ヨーロッパ連合の行動力を鈍ら
せ、制限する ― が起こりうることは自覚していた。だが、シュリーはこれにきわめて
楽観的だった。自宗派ないし自国優先の利己的な行動が結局のところ愚挙となってしま
うのは、皆がこれを経験上知っており、また知ることになるからだと言う。
ただ、シュリー構想には国際連盟よりも前に突き進んでいる面もある。それはこの
ヨーロッパ連合が独自軍隊をもち、軍事行動をとる点である。この軍隊は各国軍から成
る混成の“多国籍軍”であるが、ここで想定されている敵はロシアとトルコだった。い
うならば、異教徒に対する十字軍の聖戦である。ただし、シュリーはこうした軍事行動
の重要性をそれほど強調していない。平和と均衡を目的として樹立されたヨーロッパ連
合が軍事力を濫用すれば、かえって平和を乱しかねないとの懸念があったかもしれない。
あるいは、あくまで国際政治の現状凍結がヨーロッパ連合の主旨であったからかもしれ
ない。
このほか、シュリーの「回想録」は、国際間の自由貿易が平和の維持に貢献するこ
とを説く。これも画期的な発想である。なぜなら、17 世紀というのは重商主義的な排外
思想の最もはびこった時代であり、各国はいずれも利己的な経済保護主義政策を展開中
であったからである。そんな時代にスミスを先取りした自由貿易論を展開しているのだ。
シュリーの構想はあまりに非現実的かつ理想主義的でありすぎ、その時代はさほど
影響力をもたなかった。しかし、反響は後世に起きた。18 世紀の啓蒙思想家たちでシュ
リーに言及しない者はいなかったし、彼らは遠く 20 世紀の作家たちもヨーロッパが戦争
の悲劇をくり返すなかで、彼の提唱を思い出すことになる。
5. ドイツ三十年戦争とヴェストファーレン条約
アンリ四世とシュリーに共通するのはハプスブルク家への対抗意識、その解体であ
ったが、ハプスブルク家に対する敵対政策はしばらく中断されることになる。アンリの
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死去とともに啓蒙的専制政治が終焉し、その息子が幼少であったため、フランスはまた
も紛争の舞台となった。ルイ十三世(在位 1610~43)が成人となり(1617 年)
、自身の
権威でもって大臣を登用するようになったとき、ようやく無政府状態が終わる。無政府
状態は国の収縮に、反対に王の専制政治は国内の再興を扶け、対外的膨張の時代にそれ
ぞれ照応する。このリズムはフランス史を貫ぬく法則といってよい。
1618 年、ヨーロッパにまたしても大激動の兆しが現われる。その震源は東部のベー
メン(ボヘミア)である。ここはフス派などキリスト教の異端の発祥地であるが、プロ
テスタント派は改革派の王国を樹立すべく独立を画策していた。国内にユグノー問題を
かかえていたルイ十三世とその宰相リシュリューは当初、プラハの事件[注]に介入する
つもりはなかった。
[注]1618 年5月、神聖ローマ帝国の皇太子で、ベーメン王のフェルディナントがベーメン
での信仰の自由を侵したため、新教徒たちがプラハの王宮に押しかけ、国王顧問官らを
王宮の窓から放出した(プラハ窓外放出事件)ことからドイツ三十年戦争が始まった。
ベーメンでの騒動は民族主義と宗教問題が重なりあった事件であり、プロテスタン
トは指導者にパラティナ選帝侯を擁立し、神聖ローマ帝国内外の不満分子と改革派諸派
に支持を呼びかけた。ドイツ問題はふたたび前世紀半ばのカール五世反対闘争時と同じ
様相を呈した。プロテスタント諸派は、伝統的にハプスブルク敵対政策をとるフランス
に加勢を要請した。当時、リシュリューはまだ宰相に就いておらず(1624 年に起用)
、
ハプスブルク家から王妃を迎えオーストリアとの和解政策に転換したばかりのルイ十三
世はドイツ問題に局外中立の立場を標榜した。
しかし、三十年戦争はその後意外な展開をしていく。1620 年 11 月、ヴァイセルベ
ルクの戦いでプロテスタント軍が皇帝軍に大敗北を喫し、神聖ローマ帝国の勢威は一挙
に回復したか見えた。ローマ=カトリックの手が伸びることを恐れた新教国のデンマーク
とスウェーデンは新教徒軍に加勢して参戦。その背後にオランダとイギリスもいた。し
かし、デンマークとスウェーデン両国も皇帝軍に敗北してハプスブルク帝国の制覇が目
前となったとき、ドイツ駐在フランス大使たちはパリに急報を送りはじめる。
パリはそれまでの優柔不断態度の過ちをはっきりと悟るにいたる。宗教的な事柄よ
りも現実の国際政治のほうを優先しなければならない、と。神聖ローマ皇帝の吹聴する
反宗教改革計画は帝国膨脹のための口実にすぎない、
「国家理性」の名においてフランス
は政策を大転換した。現実主義の宰相リシュリューもこれに異論はない。フランスの参
戦により戦争は国家戦争の色彩を帯びるようになった。
1635 年、カトリック国フランスが新教徒と同盟して、本来宗教上の盟邦であるべき
神聖ローマ帝国と戦う羽目になった。このとき、旧参戦国の間での勝敗はすでに決して
おり(1635 年のプラハ条約)
、長期の戦いに疲れた皇帝軍は徐々にフランス軍に押し捲
られていく。
勝利を確信するにいたったリシュリューは外交面での政教分離を企てる。すなわち、
ドイツのプロテスタントを支持する一方で、皇帝派とカトリックの利害の矛盾を衝いた。
皇帝軍に従うカトリック諸侯も裏を返せば、皇帝から独立を図るプロテスタント諸侯お
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よび国家と何ら変わらないのだ。リシュリューは、皇帝フェルディナント三世(1637~
57)の掲げる反宗教改革の旗幟は実はドイツとヨーロッパをハプスブルク家に隷従させ
る野心以外の何ものでもないと叫ぶ。リシュリューは枢機卿というカトリック教会の要
職にあり、彼の声明には真実味があった。こうなると、攻守立場を変えるところとなっ
た。ハプスブルク家がたった1枚のカードで戦ったのに対し、リシュリューは公正無私
の仲裁人として、そしてドイツの自治と自由の擁護者として2枚のカードを駆使するこ
とに成功した。
フランスは大陸最強の陸軍(40 万)の投入で勝利をおさめた。宰相リシュリューは
最終的な勝利を知らないまま病没した。しかし、その政治原則は非常に堅固な基礎の上
に、しかも明瞭なかたちで固定されていた。駐仏ヴェネチア共和国大使は枢機卿の死亡
に際し、母国政府にこう書いた。
「帝国に大激震を与え、イギリスを苦しめスペインを弱めたところのリシュリュー
は、ヨーロッパの大事件を導くべく神から遣わされた道具であったと言いうる。
」
かくて 1648 年 10 月 24 日、西ドイツのヴェストファーレンに集まった戦争当事国の
代表および諸侯は講和条約に調印する。これによりドイツの領土的細分化は完成するが、
その考察は後まわしにし、未来にとってより重要な側面を先に考察しよう。
ヴェストファーレンの会議には戦争に関わりのある皇帝、国王、諸侯、諸都市の代
表が一堂に会して和平問題を論じ、講和条約の遵守に共同責任をもつことを確認した。
この方式はその後におけるヨーロッパの紛争の処理と防止策を講じる際にいつも踏襲さ
れることになった。17・18 世紀の戦争の終結方式がこれであったし、特に有名なのがナ
ポレオン戦争後のウィーン会議、19 世紀後半のベルリン会議、20 世紀のヴェルサイユ会
議である。
以後、列強会議で顕著になっていくのは講和よりも紛争の未然防止という面だった。
戦争の惨禍が極大化するにつれ、列強は紛争が拡大する前にそれを揉み消すべく、交戦
国を誘って話しあいの場を設ける。講和会議でも必ず紛争再発の防止策が議題にのぼっ
た。だが、平和会議が実際に目的を達成したかどうかは疑わしい。かえって問題解決を
先延ばしにしたことにより欲求不満を残し、排外主義を助長し、来るべき戦争の規模を
拡大させたようにも思える[注:第一次世界大戦を見よ]。しかし、上辺だけにせよ列強が
平和に対して共同責任を負ったということは、一国のみが抜け駆け的に他国の領土を侵
略し併合することを妨げたのはまちがいない。つまり、列強会議は現状維持を促したの
である。1815 年のウィーン条約の効力が、署名国のいずれもが心底でこの条約に不満を
もちながらも1世紀も存続したことに留意されたい。
ヴェストファーレン会議以前においては当事者および利害関係者による国際会議と
いうかたちは主にキリスト教会を中心におこなわれてきた。教皇が主催者となり教義上
や教会組織上の懸案問題を調整した。世俗権の神聖ローマ皇帝が発議したトリエント公
会議(16 世紀半ば)のような例もあるが、そこで問題となったのは領土問題というより
は新教徒の台頭への対応、つまりローマ=カトリックの教義上のたて直し問題であった。
前出アウグスブルク和議(1555)も宗教問題を扱った。したがって、ヴェストファーレ
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ン会議こそ、世俗の領土問題で列強が参集した史上初の国際会議ということになる。そ
の意味でこれは後のUNやEUへの動きの原型となったと評してよいだろう。
条約の中身に移ろう。オランダとスイスの独立が確認されたことや、フランスが領
土を拡大したことはさほど重要ではない。なぜなら、前者は事実的に既遂の事実であり、
後者はフランスにとって初めてではなかったからだ。何より重要なのは、神聖ローマ帝
国の解体が成し遂げられ、ドイツの分邦化が極限にまで進んだことである。以後のドイ
ツは公国、共和国、司教領、辺境伯領、騎士領など 300 個の飛び地の寄せ集め状態にな
った。それぞれが主権をもち、外国と交渉し同盟や条約を結ぶ権限をもつにいたった。
ドイツはもはや、ドイツ第二帝国のビューローが 1900 年の宰相就任演説で述べた
「ばらばらにされたモザイク」状態になった。しかも、そのモザイクは均質ではない。
かなり大きな領土をもつ数少ない選帝侯、星屑のような公国、自由都市が入り交じって
いた。これほどまでに切り刻まれ撒き散らされたドイツは「地理学者の十字架」と評さ
れた。人がそこに足を踏み入れるや直ちに道に迷う。領土区分をつけるべく彩色しよう
とすれば、きまって絵の具不足に陥る。この「十字架」は運ぶにあまりにも重かった。
神聖ローマ帝国は名目的には残ったが、以後、歴代皇帝はこれらの散在する諸侯を率い
て行動を起こすのは不可能となった。独立した各国が全体的な利害関係を考慮に入れつ
つ統一行動をとる見込みはほとんどなくなった。
この複雑な散布図をみると、この無秩序状態がでたらめに生起したのではなく、炯
眼と政治的術策の発現であったことがわかる。つまり、ハプスブルク家のオーストリア
を牽制するためにバイエルン、ザクセン、ブランデンブルクの領土が巧みに配されてい
た。ライン川沿いには有力国家は一つとして存在しない。群小のドイツ諸王朝はもはや
隣国に影響を及ばさぬよう配慮されている。台頭しつつあるプロイセンがこの網目を破
るためには特別の状況が必要となろう。
皮肉な表現をすれば、ドイツの割拠状態は古今におけるヨーロッパの割拠状態のミ
ニチュア版であった。このドイツは未来のEUが議会をもつように、諸邦の代表を集め
た議会さえもっていた。南ドイツのレーゲンスブルクにおかれた議会は騒動が起こるた
びに開催された。仏・典・英の列強は必ず参席する。議会が開会されている間の宴会だ
けは豪奢だった。しかし、列強はもとよりドイツ諸国もそれぞれの利害が錯綜し、ここ
でまとまった決議をなしうるはずもなかった。ドイツの都市は民主的要素を代表し、フ
ランスは大国風を吹かす。討論順序に関する細かな規定、投票方法の民主主義は事の進
捗を極端に緩慢にし、たまさかになされた決議を実行不可能なものにした。各国代表の
権限があまりに大きいため、問題の解決を困難に陥れ、すべてを苛立たせ、不和と紛争
を拡大した。財政と課税問題ではまったく身動きできない状態に陥った。要するに、ド
イツの議会は問題を解決したのではなく、ドイツの無政府状態を維持したのである。
6. サン=ピエール構想
三十年戦争はドイツを荒廃させ、富を破壊し、疫病を招き、人口の3分の1を消滅
させた。一方、フランスは領土を拡げ、現在のそれの原型を形づくった。ライバルが消
えたという意味でヨーロッパ征覇一歩手前まで進んだ。つづくルイ十四世がもう少し思
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慮深く、その計画に系統性をもっていたなら、フランスの目標は達成できたであろう。
ヨーロッパ意識の問題にたち戻ろう。18 世紀のフランス啓蒙思想を代表する論客ヴ
ォルテールは『ルイ十四世の世紀』
(丸山訳、岩波書店)の中で次のように書く。
「すでに長い間にわたってロシアを除き、キリスト教のヨーロッパはいくつかの国
家に分割されているが、一種の大きな共和国と見なすことができる。すべての国家
が相互に調和しており、さまざまな宗派に分かれているものの、同じ宗教の分流を
共有している。すべての国家は他の世界では知られていない公法および政治的な法
律の同じ原則を保持している。これらの原則に従ってヨーロッパ国民は彼らの捕虜
を奴隷としない。彼らは敵国の大使たちに敬意を表し、とりわけ彼らは可能なかぎ
り自身の勢力均衡を維持し、絶えず、戦時でさえも交渉をおこなうという賢明な政
策を遂行している。
」
真に見事な、というより、
「啓蒙の世紀」にふさわしいヨーロッパ観である。その中
軸をなすのはキリスト教という宗教的要素である。そして暗黙のうちに理性的な政治制
度(開明君主制?)が要素のなかに含まれている。注目すべきは、これら2要素を条件
としてロシアがヨーロッパから除外されていることである。
18 世紀のフランスは内外にわたって絶対王制の綻びが目立ちはじめた時代である。
しかし、フランスはヨーロッパ諸国のなかで最強の陸軍を擁し、前世紀来の主要戦争の
すべてに関与していた。啓蒙主義者はこれを嫌悪した。とはいえ、フランスの武断膨脹
主義に反感を覚える啓蒙思想家たちは一方でフランスの文化的覇権については疑いをも
っていなかった。すなわち、フランスが国家と文化の中心であり、全世界が模範とすべ
きものであった。彼らは専制君主といえども、蒙さえ啓けば理想の政治をおこなえると
楽観的に考えていた。
「啓蒙の世紀」は理性万能、進歩信頼の時代でもあった。人間は国家・都市・法律・
制度・慣習に対して服従する前に、まずもって自然法に従わねばならないというのだ。
ここではキリスト教倫理一辺倒の考え方は影を潜め、代わって自然法つまり“理性とい
う神”が前面に出る。これに従えば、人類は自ずと繁栄と幸福に導かれるというのだ。
フリーメーソン団が誕生し発展するのもこの時代である[注]。この理性崇拝はフランス
だけでなく、イギリスにもドイツにもイタリアにも、いわばヨーロッパ規模で起こり、
19 世紀半ばごろまで人類進歩の理念として長くつづく。産業革命の諸成果はそれを裏打
ちする出来事であった。
[注]フリーメーソン団は 18 世紀の初め、熟練技術の修得を目的とする石工の秘密結社とし
て出発したが、次第に階級・身分・民族・信仰の別なく加入を認めるようになり、加盟
員には神への忠誠と慈善と徳行が促され、真理を探求し偏見や迷信を取り除くことも推
奨された。しかし、ユダヤ教的色彩が強くなるにつれ、教皇庁から異端宣言を受け、プ
ロテスタント各派からも忌避された。
しかし、現実には人類不幸の因としての数多くの戦争がある。これを何よりも防止
しなければならない。啓蒙思想家たちはそこで啓蒙活動を通じて民主主義の国家、平等
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の国家の実現を模索する。このとき国家論が百家鳴奏のごとく噴出するのはこのためで
ある。戦争はヨーロッパ人どうしの殺しあいであり、この不幸な経験が「ヨーロッパ」
なる意識を強めた。
そのころ、ヨーロッパ人の海外進出も激しくなり、他の大陸のようすも徐々にわか
るようになっていた。これは彼らの視野を拡げる。つまり、自分らはイスラム教徒と違
うのは当然としてアジア人とも違うことが強く意識される。特にモンテスキューやヴォ
ルテールは、中国人が専制君主の支配下にありながら高度の文明に浴し平和裏に暮らし
ていること、宗教をもたない(と彼らはみた)ながら倫理観をもっていることに驚愕し
た。こうして遠国の平和な生活をことさら強調することによって、間接的にヨーロッパ
の専制政治を批判したのである。ともかく、ヨーロッパ人の自己認識は異文化との接触
のうちにはっきりした姿をとる。特に中国の明・清帝国の威風は強い印象を放った。こ
こでは諸民族が共和のかたちで生活を送っている。ヨーロッパ諸民族もこれと同じよう
なかたちの統一国家をつくれないだろうか…。
サン=ピエール(1658~1743)は 18 世紀の初めにヨーロッパ統合案を提起した人物
である。彼の主張は嘲笑されるだけでほとんど影響力をもたなかったが、今日のEUと
彼の構想を比較するとき、両者のあいだに著しい近似性のあることがわかる。
サン=ピエールはフランスのノルマンディの男爵家の生まれで、幼いときからカトリ
ックの教育を受け、下級の聖職を得る。とはいえ、サン=ピエールはさほど敬虔な僧侶で
はなかったようで、若くしてパリに出て、デカルト哲学やプルターク政治学に没頭する。
彼は理神論に染まり、キリスト教の神学論争は有害だとさえ思っていた。彼は合理主義
を信奉し、人間の思考力と善意を信じ、進歩を信じていた。さらに、ベンサム流の功利
主義思想に基づき「最大多数の最大幸福」を図ることが社会の目的であると考えていた。
彼は当時のパリの知識人のつねとして、社交界(サロン)にも出入りするようにな
る。ここで彼は議論を交わすうちに自説を形成していく。彼は 1712 年にケルンで「ヨー
ロッパ永久平和論」を著し、翌年に改訂版を出した。その後、何度も改定増補版を重ね
たが、その基本思想は変わらない。以下に、彼の主張の骨子を列挙する。
第一に、国際紛争の平和的解決は、人が国内法の定めにしたがって行動するように
国際法的な取り決めに拠らざるをえない。主権者はそれの有効性を信じ、同意署名しな
ければならない。ドイツの議会がドイツ人を何世紀にも亘って戦争から守ってきたよう
に、ヨーロッパの君主は永久平和の基本条文に従うことによって、ヨーロッパ人を戦争
から守らねばならない。
第二に、この連合への加盟国についてはすべてのキリスト教主権国が参加を求めら
れるが、可能なかぎり多くの国が連合に参加するよう努力しなければならない。ここで
ロシア帝国が加盟を認められているのに対し、トルコは除外されている。
第三に、国家連合がひとたび結成されると、各国は予算分担金を醵出しなければな
らない。この額は臣民の収入に比例して配分される。同連合は議会をもち、同議会の議
長は一週間ごとの輪番制に従う。通商や領土の紛争が生じた場合、調査委員会が設置さ
れ、現地に派遣される。紛争の調停がうまくいかない時、議会は過半数の票決で暫定行
動を決め、5年後に4分の3以上の多数決で前の暫定票決を確定する。国の大きさと無
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関係に1国1票となる。
第四に、同連合の平和を乱す国や条約上の義務を履行しない国が出れば、連合は軍
事力を行使してこれを除去する。サン=ピエールは各国に平和の利点を説く一方で、妨害
者に対する厳罰を科すことを考える。“アメとムチ”はこのように、条約を実効あらし
めるための不可欠の要素であった。これは現実的であるととともに空想的でもあった。
加盟者はひとたび甘言につられて“アメ”をしゃぶったら、二度と離脱できないし、“ム
チ”を食らうことになるからである。
サン=ピエールの描くシステムは一旦機能を発揮すれば自動的に発展し、強化される
ものであった。関与すれば、その利益が大きいことは自ずと自覚されるはずだからとい
う。このように、ひとたび連合からの離脱は許されていなかった。善良であるとともに、
いかに厳格であることか! サン=ピエールが各国を平等に扱っている点も特筆に値する。
しかし、ザクセンのような小国とフランスやロシアのような大国を同等に扱うことは、
実際問題としてできない相談であった。大国がこの連合に加盟すれば手も足も縛られる
ことを意味するわけであり、そうである以上、大国は加盟そのものに逡巡するであろう。
善良なサン=ピエールの立論は、彼が自説の正しさへの確信が大きいだけに現実との摩擦
は避けえなかった。つまり、非現実的で説得力をもたなかったということだ。
にもかかわらず、彼の命題の現実性を示す面もある。
第一に、単なる平和条約はいわば休戦協定のようなもので、それだけで恒久的平和
に連なることはない。それには、諸国が主権の一部をも譲るようなかたちでの連合体を
結成しなければならないとしている点である。これは後述の強制力とも関連するが、彼
は国際政治を国内政治のアナロジーと見ている。単なる約束で済ますのはなく、約束事
に実行力をもたせなければ、永続的平和は訪れないとしている。連合はひとつの主権国
家である。これを裏返しにいえば、戦争の根因は国家主権にあり、それゆえ主権は制限
しなければならないことになる。これはきわめて現実的な指摘である。その解決は今な
お難しいが、真実であることに変わりはない。
第二に、暫定票決と確定票決を分けている点である。この仮調停と本調停の間に時
間の経過が予定され、その間に事態の変化を見定めることができ、また加盟国の理解の
深まりが期待できるであろうとしている点。
第三に、加盟国同等1票の原則は荒唐無稽であるにしても、そこに強大国と弱小国
の調和を何とか実現しようとの態度がうかがわれる。
第四に、軍事力による制裁がなければ恒久平和が“絵に描いた餅”となることを自
覚している点も彼の鋭さを示す事柄である。ここにシュリーと同じ主張が見られ、その
影響を読み取ることもできよう。
彼の構想はこのようにユートピア性と現実性が同居している。彼の提言は受け入れら
れなかった。しかし、長く残ることになった。出現があまりに早すぎたのかもしれない。
彼の主張が迎え入れられ感動をもたらすためには、さらに時間を要した。つまり、主権
国家の残忍性がすべての人によって余すことなく認識されるには、人類はもっともっと
大きな不幸を味わわねばならなかったのである。それが第一次・第二次の世界大戦の惨
劇であることはいうまでもない。
18
要 約
ヨーロッパ統合運動の歴史的回顧
1. ヨーロッパの歴史的ダイナミズム
A ヨーロッパはまれに見る紛争多発地域である。ヨーロッパ全域を抑えこむほどの強
国が一度として出現しなかったからである。山脈、山塊、地形(ケスタ)
、大河、海、
気候差など主に地理的 要因のゆえに、いかに強力な政治権力でもヨーロッパ全域を
支配することはできなかった。これはフン族やモンゴル族など外敵の侵入を妨げるこ
とにもなり、ヨーロッパが単一の文明圏を形成する要因ともなった。
B 覇権国家の不在は慢性的な戦争状態につながる。戦争は不幸を撒き散らすだけでな
く、ヨーロッパの活力の源でもあった。小さな政治単位は他国との合従連衡と離合集
散を繰り返して防衛と攻略につとめた。戦いが一段落すると決まって和平への動きが
始まるが、戦争当事国をはじめ中立国が和平会談に参加し、集団的に講和を保証する
という形をとる。これは後世のEUへの動きのモデルとなる。
C 政治的単位の分散だけでなく、ヨーロッパでは経済的・文化的単位も分散していた。
経済の実権は都市が、文化の実権は聖職者(カトリック教会)が保持し、人間生活の
あらゆる面を支配する東洋風の専制権力者は輩出しなかった。いわば「中世の三権分
立」がヨーロッパの常態であり、これが活力の源泉となった。
2. ヨーロッパ統合の前提としての「ヨーロッパ」意識
D ヨーロッパ統合には住人の意識の問題をなおざりにできない。すなわち、彼らが共
通の屋根の下に入るためには、社会的等質性が存在し、人々にそう意識されているこ
とが前提となる。ヨーロッパ人はローマ文化、封建制、キリスト教を共有していた。
ローマ文化は私的所有権、貨幣=交換社会、地縁制、個人主義、民主主義、共和主義
の諸観念をもたらし、封建制は契約の観念をもたらし、キリスト教は一神教でもって
神と人間・社会・自然の結ぶ関係を説明し、合理主義の思想の基礎ともなった。上記
3要素の融合を契機にヨーロッパが誕生し(シャルルマーニュ帝国)
、それが人々の意
識における“European identification ”の始まり となった。
E 意識形成は諸部族・諸国家・宗教諸派の抗争・摩擦のうちに育まれていく。また、
古来、ヨーロッパに盛んであった貿易や文化の交流といった平和時における接触も貢
献する。
F ヨーロッパ人の一体感を飛躍的に高めたのは、モンゴル族やイスラム勢力など外部
勢力との抗争においてヨーロッパ人が同盟して応戦したという歴史的経験にある。十
字軍がその典型である。この遠征は聖地エルサレムの奪回こそならなかったが、少な
くともヨーロッパの防衛には成功した。この経験はその後、オスマン=トルコとの領土
紛争、キリスト教異端との戦い、レコンキスタ、海外遠征においてたびたび想起され
ることになった。
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G 現在のEU構想のなかでいつも問題になるのは、地理的ヨーロッパに含まれるロシ
アおよび東欧、トルコおよびバルカン地域を含めるべきかどうかである。これらの地
域はロシア正教またはイスラム教に帰依した住民をかかえる。しかもこれらの異民族
との交流はすでにヨーロッパの内部にまで浸透し、排除も合一も容易ではない。した
がって、統合の条件としての「ヨーロッパ」概念の中心は依然としてカトリックまた
はプロテスタントであるかどうかである。
3. 戦争の中心につねに独・仏・教皇がいる
H ヨーロッパ成立後の1千年を回顧するとき、つねに波乱を掻き立てる“元凶”とな
ったのは独・仏・教皇の三巴争いである。8世紀のフランク王国の分裂が独仏両国の
誕生と抗争の始まりとなった。
東フランク王国(ドイツ)はローマ=カトリック教会の庇護者としてフランク王国の
正統国家であった。西フランク王国(フランス)はその分家的な地位に長くとどまる。
前者が時とともに国運を傾けていくのと対照的に、後者はしだいに勢威を強めていく。
教皇庁との関わりようがその背景にある。ドイツ(神聖ローマ帝国)は高位聖職者の
任免権をめぐり教皇と永続的に争い、フランスはドイツと教皇の争いを尻目に教皇に
味方し、さらに領邦国家の独立を支援しドイツ国家の細分化を推進する。その結果が
17 世紀のドイツ三十年戦争である。
I 独・仏間には生地の差がある。ドイツが古ゲルマン慣習法を引き摺り、フランスが
すっぽりローマ支配に浴したことは、部族連合的、共同体的、家父長的伝統の強いド
イツと、個人主義的、契約社会的、共和主義的なフランスとの差として表われる。後
に前者がプロテスタントを受け入れた地域とそうでない地域に分裂したのに対し、後
者はほぼカトリックのままに残った。この信仰上の差は独仏の対立を側面から支える。
独仏両国ともに経験した宗教戦争は内乱状態からしだいに国家間対立に変わっていく。
J 教皇はドイツ皇帝の庇護の下にあったが、ドイツの世俗勢力の分裂を利用し、また、
フランス王とも連携して独立的地位を築き、やがて諸国王の上に君臨し世俗権をも有
する超然たる権力に伸し上がった。その勢威の絶頂期に十字軍遠征がおこなわれる。
仏王と教皇の対立もないわけではなかったが、深刻にはならない。パリ=ローマ枢軸
はフランス革命という例外を挟んで 1870 年までつづくことになる。パリとローマが同
盟しているかぎりフランスは安泰、ヨーロッパは平和であった。
4. 一貫して抗争と和平の主導権を握ったのはフランス
K 戦争を仕掛けたのも和平や統合案をもちかけたのもフランスである。ドイツは一貫
して受け身にまわる。フランスは武力統合案または平和的統合案を提起した。このよ
うな提起はきまって独仏の均衡が崩れフランスが優位に立ったときになされた。フラ
ンスが挑戦的かつ積極的でありつづけたのは、もともと弱小国家であったフランスが
隣国のドイツへの脅威感をいだいていたためである。
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L この恐怖感情は第一次大戦後も第二次大戦後も残った。前者の場合はドイツの全面
的武装解除の要求として、後者の場合は恒久的融和の保証としてヨーロッパ統合案と
してあらわれた。共倒れを自覚しフランスはドイツを飼い馴らそうとしたのである。
5. ヨーロッパ統合の縮図(実験場)はドイツに見出だせる
M 宗教戦争に終止符を打ったアウグスブルクの宗教和議(1555 年)は、ドイツ内の利
害関係国のすべてが一堂に会して紛争処理をおこなった最初の例である。これをもっ
て領邦単位の信仰の自由が確立された。
N つづく実験はヴェストファーレンである。ドイツ三十年戦争の講和会議(1848 年)
には、戦争に関わりのある皇帝、国王、君侯、都市代表、聖職者代表がここに集まり、
講和条約の遵守に共同責任をもつことを確認。この方式はその後におけるヨーロッパ
の国際紛争の処理法や防止策をめぐる会議のモデルとなる。英・仏・スウェーデンな
どもこの議会でドイツ問題を論じた。ただし、問題を解決することは少なく、無駄な
討論で時間を空費することが多かった。それはまた列強の狙いでもあったのだ。
O ナポレオン戦争後のウィーン体制もその類例である。ここには戦勝国・戦敗国の別
を問わずヨーロッパの列強が一堂に会して旧制度を復活させたうえで現状維持を約束
し、各国における自由主義および国民主義の運動を抑圧することを誓った。
P ウィーン体制下に設立されたドイツ連邦はフランクフルトに連邦議会を設置したが、
それはあらゆる意味でラティスボン会議の再版である。ドイツ問題の処理において前
向きの解決をなしえず、喧騒と対立に明け暮れた。関税同盟などドイツの国家統一へ
の気運が連邦議会とは別のところからなされたことは特筆に値する。
Q 以後の統合と紛争処理の実験はドイツだけでなく、全ヨーロッパ規模でおこなわれ
る。紛争を国際会議で調停するやり方は 19 世紀に限っても、ギリシャの独立とベルギ
ーの独立、
「東方問題」の処理、クリミア戦争、ロシアの南下問題の処理、露土戦争の
処理へとつづく。いずれも列強が議定書に署名し、共同責任と遵守保証をする形をと
っている。これが 20 世紀の和平会議の典型ヴェルサイユ条約につづく。
6. 独仏対立はナポレオン戦争をもって決定的段階に達した
R ナポレオン自身にヨーロッパ統一構想があったことは否定できない。彼が遺したい
くつかの手紙や『回想録』がそのことを証拠だてる。否、ヨーロッパの各地にフラン
スを軸とした傀儡政権を配置した彼の現実の政治がそれを証明する。これら傀儡国家
はナポレオンの失脚と運命をともにしたが、この栄光の思い出はフランス国民の心中
に深く刻みつけられる。そうした夢想は 30 余年後のナポレオン三世の出現とともに再
び現実の姿をとる。
S ナポレオンの征服戦争と惨劇への反省がサン=シモンの「ヨーロッパ連合」の構想で
ある。彼はナポレオンとは異なる方法で統一を夢見て人類の理性・英知・進歩への信
頼から社会の再組織を唱える。中世的なヨーロッパ共同体の復興を唱える一方で、産
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業革命と技術進歩の成果を新しい国際組織の中に採り入れることを主張した。
T 独仏間の遺恨戦争の系譜を逆に辿ると、第二次大戦 → 第一次大戦 → 普仏戦争
(1870~71 年)→ナポレオン戦争となる。最近 150 年間の世界史は独仏対立を軸にま
わったといっても過言ではない。よって、ナポレオン戦争のインパクトを無視するこ
とはできない。ナポレオンの征服は農奴制の圧政に苦しむドイツ国民を解放するとも
に、あらゆる面でのフランスの革命的要素の強制、内政への容喙、重税・徴用・徴発
をもたらした。それまで分裂小国家の中で安逸の夢を貪っていたドイツ人はナポレオ
ンの「圧政」を通じて民族意識に目覚めた。
U ドイツの統一をめぐってはドイツ諸国間の争いが、また統一方式をめぐる争い(民
主主義と自由主義によるか、軍隊と官僚制によるか)があってなかなか進まなかった。
とくに普墺両大国の鞘当てがもっとも大きな障害となる。しかし、普墺戦争でプロイ
センが勝利したことにより、ドイツ統一は不完全ではあったがひとまず達成された。
V 1870 年の独仏戦争はドイツ側から仕掛けられた遺恨戦争であった。他国が干渉しな
い、久方ぶりの一騎打ちの決戦であった(講和も当事国で締結)が、意外なほどにあ
っけない結末を迎えた。軍制・軍事技術の旧套墨守にしがみついたフランスは大方の
予想を裏切って大敗。しかし、両軍 170 万をもっても短期決戦に終わり、被害が比較
的に小さかったことはドイツに電撃戦重視の思想を残し、次期戦争における長期戦の
備えを怠らせた。これが第一次世界大戦の長期化と未曾有の不幸と惨劇の原因の一つ
となる。
7. 英国は局外中立の政策をとりつづけた
W この国はヨーロッパの一国であると同時に、海洋国家として例外的な国でもあった。
英国は大陸内の紛争には積極的に関わろうとせず、
“漁夫の利”に最大の利益を見出だ
した。英国は海峡に隔てられ、海軍だけの備えがあれば国防は十分であった。同国は
この自然的利点を最大限に活用した。
X 英国は 16 世紀後半までは人口、産業構造、経済力などあらゆる面でヨーロッパの後
進国であった。だが、同国は産業技術や組織を大陸から積極的に学びとり、殖産興業
を通して大国に伸しあがり。もともと高度に集権化されていた政府は経済振興に力を
注ぎ、貿易発展を促した。海洋大国として地位を築きあげた英国は、すでに飽和市場
となっていたヨーロッパを諦め、海外市場における商権確保に全力を傾注する。
Y 英国の対ヨーロッパ政策の中心は消極政策であり、大陸内に覇権国の出現を防止す
ることであった。自国の利害が侵されないかぎり、大陸内の紛争に積極的に関わろう
とはしなかった。それでも 17・18 世紀中は大国フランスを叩くことに執念を燃やして
いたが、ナポレオン戦争に最終的に勝利をおさめると、非同盟主義に転換した。英国
の関心は専ら海外における自国の経済的権益の保持に定められた。
Z 第二次大戦後、急速に現実味を帯びてきたヨーロッパ統合問題に英国が一貫して消
極的なのは、上述のようなこの国の地政学的位置とその伝統的政策と関連することで
ある。
(c)Michiaki Matsui 2015
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