イギリス音楽の変遷

イギリス音楽の変遷
■音 楽 の な い 国 ? (18 世紀~19 世紀前半)
イギリスは一般市民の為のコンサート発祥の地であり、300 年もの伝統ある大合唱祭が行われるなど、音楽の面でも古
くから世界をリードしてきた。しかし「イギリス音楽」という視点では、状況は少し異なる様である。
バロック時代の 17 世紀後半、イギリスではヘンリー・パーセルが作曲家として活躍し、イタリアやフランスの影響を受け
ながらエリザベス時代のものを基盤にしたイギリス独自の音楽を生み出していった。彼が 36 歳の若さでこの世を去った
後、18 世紀に入るとドイツからヘンデルが移住し帰化して活躍した。しかしパーセル以後、イギリス人として独創性のあ
る作曲家は生まれてこなかった。そんなイギリスについて、バッハやヘンデルを輩出したドイツの人々からは「音楽のな
や
ゆ
い国(Das Land ohne Musik)」と揶揄される程であった。
■エ ル ガ ー の 登 場 (19 世紀後半~)
エルガーは、長く続いたイギリスの音楽的空白を埋めるかのように現れた。彼は国外でも名声を得、国の誇りとして民衆
から敬愛され親しまれてきた。特に、彼が作曲した《威風堂々》の中間部は歌詞がつけられ、イギリスの第二の国歌《希
望と栄光の国》として親しまれてきている。ただし、ヨーロッパ音楽史の流れの中で捉えると、その作風はドイツ、オースト
リアの伝統的な技法によっている。フランス近代音楽など、より新しい音楽を創出していく流れの中で、外からの刺激を
受けてからその後を慎重に追従していく姿勢がイギリスにはあった。こうしたスタイルがイギリス音楽の保守的な傾向に
つながっていると受け取られ、エルガーはそれを象徴していると言われた。しかし、彼はパーセルやヘンデルの伝統を
受け継ぎ、数多くの合唱曲を作曲するなど新しいイギリス音楽の土台を築いた作曲家であり、その功績は大きい。
■ナショナリズムの台頭と世界大戦 (20 世紀前半)
第一次世界大戦前のヨーロッパにおいて、ナショナリズムの高まりが全てに大きく影響するようになると、音楽におい
ても国家としての権威を示すことが求められ、イギリス独自の音楽語法を創り出すことが必要となった。
ヴォーン ウィリアムズは自国の民謡が衰退していくのを知り、その採集と復興に力を注いだ。和声が先行する当時の
ヨーロッパ音楽の傾向の中で、民謡のもつ純粋な旋律の美しさを重視し、それらを取り込むことで自らの語法を確立した。
二つの世界大戦に挟まれた不安な時代の動きを憂い、作品に反映させ、国内では自国の独自性を示した作曲家とし
て愛されている。彼は、エルガーの築いた土台の上に新しいイギリス音楽を形作ったと言ってよいであろう。
■戦後から現在に至るイギリス音楽 (20 世紀後半~現代)
第二次世界大戦後イギリス音楽はベンジャミン・ブリテンで始まったと言える。彼は数多くのオペラを作曲し、パーセル
以来のオペラ作曲家として、また、パーセルの主題を基にした作品を手掛けるなど幅広く活躍した。彼は戦後初めて国
外で広く認められた作曲家であり、イギリス国内におけるその存在感はエルガーをもしのぐほどである。
戦後、アメリカ軍がイギリスのリバプールに駐留し、軍放送が始まると米兵はリズム&ブルースやロックンロールを含め
たニューオーリンズ・ジャズばかりを聴いた。それは、やがてリバプールに住む人々に大きな影響を与え、この地でビー
トルズが誕生することになる。
17世紀
18世紀
19世紀
パーセル(英)1659-1695
ヘンデル(独⇒英)1685-1759
ベートーヴェン(独)1770-1827
パーセル
バッハ(独)1685-1750
ワーグナー(独)1813-1883
モーツァルト(墺)1756-1791
シューベルト(墺)1797-1828
ハイドン(独)1732-1809
シューマン(独)1810-1856
ブラームス(独)1833-1897
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その後、彼らのヒットナンバーのクラシック化が試みられるなどイギリス音楽はジャンルを超え多様化していく。1977
年、ラターは編曲を依頼された《ビートルズ コンチェルト》で絶賛を浴びるが、こうした流れに最もうまく適合してきた作
曲家とも言える。彼は保守的な宗教曲を中心に作曲している。ジャズやポップ調の軽快なリズムを取り入れた親しみや
すい曲調だが、作風はグレゴリー聖歌やバッハなどの宗教音楽の伝統的な技法を基盤としている。
イギリスでは、エルガーからブリテンまでを「イギリス音楽のルネサンス」と呼ぶという。これは、傑出した作曲家たちが
数多く登場し、「合唱王国」と呼ばれる伝統の上にイギリス音楽の新たな全盛期を迎えた画期的な時代を意味する。そ
してそれは、ラターをはじめ現代のイギリスの作曲家たちに引き継がれてきている。
エドワード・エルガー Edward Elgar (1857-1934)
豊かな自然に囲まれロンドン以上に音楽が盛んな街ウスター(ウスターソースで知られる)で誕生。10 歳
頃には家庭音楽会の劇音楽を、13 歳で教会のオルガニストとなり聖歌を作曲。20 歳以降二度のロンドン
生活を送るが、作曲家として名声を上げることは出来なかった。故郷に戻った後、30 代後半から生命感
あふれる作品《弦楽セレナード》などを次々と世に出す。合唱が盛んな土地故に声楽曲も多く作曲。《Te
Deum and Benedictus》はこの時期の作品。そして《エニグマ変奏曲》《ゲロンティアスの夢》など出世作を
生み出し、世界的に有名な作曲家となる。50 代半ばから 60 代前半は人々の心の内に問いかける室内楽
を主に作曲。晩年、愛妻アリスの死後はあまり作品を生み出すことはなかった。癌が進行し 1934 年 2 月
23 日、76 歳の生涯を閉じた。
レイフ・ヴォーン ウィリアムズ R. Vaughan Williams (1872-1958)
ロンドン西のダウンアンプニーで生まれる。陶器で有名なウエッジウッド社の創始者や、進化論で知ら
れるダーウィンに縁のある由緒ある血筋を引いている。1890 年王立音楽大学に入学し、ドイツ音楽の基
礎を徹底的に学んだ。その後ケンブリッジ大学を卒業し、再度王立音楽大学に戻り生涯の親友となるホ
ルストと知り合う。第一次世界大戦に自ら志願し従軍、その後、戦没者への追悼を込めた《交響曲3番》、
不穏な情勢を反映する《交響曲4番・6番》、戦争の記憶や平和を願う《Dona Nobis Pacem》を作曲する。
1939 年第二次世界大戦が始まると、彼はナチスの台頭によりドイツから逃れてきた難民の為にロンドン郊
外の自宅を開放するなど積極的な支援を行った。80 歳を越えても精力的に作曲活動を続け、《交響曲9
番》は亡くなる3カ月前に初演された。色々なジャンルの作曲に取り組み、交響曲、室内楽、合唱曲、オ
ペラ、教会音楽から映画音楽まで多くの作品を残した。
ジョン・ラター John Rutter (1945-
)
1945 年ロンドン生まれで現在も活躍中。幼少期から非凡な音楽的才能を発揮したので両親はハイレ
ベルな音楽教育で知られるハイゲイトスクールに入学させた。合唱と作曲、編曲に情熱を注いだ。18 歳で
ケンブリッジ大学クレア・カレッジに入学し音楽を専攻。卒業後はサザンプトンで教鞭をとった。この頃
《Gloria》が作曲され、アメリカで評判となった。その後、30 歳でクレア・カレッジの音楽主任となったが、音
楽活動に専念するために退職。1981 年プロの合唱団「ケンブリッジ・シンガーズ」を結成し、多くの自作曲
を録音する。2011 年 4 月に行われたウィリアム王子の結婚式に《This is the day》を作曲し好評を博した。
また、東日本大震災の復興支援として《永遠の花》を作曲している。
参考資料:「20 世紀のイギリス音楽」四反田素幸著、「エドワード・エルガー 希望と栄光の国」水越健一著
他インターネットより
第一次世界大戦
1914-1918
第二次世界大戦
1939-1945
20世紀
エドワード・エルガー1857-1934
21世紀
ザ・ビートルズ1962-1970
レイフ・ヴォーン ウィリアムズ 1872-1958
ジョン・ラター 1945ホルスト(英)1874-1934
ブリテン(英)1913-1976
ドビュッシー(仏)1862-1918
ラヴェル(仏)1875-1937
ラベル(仏)1875-1937
ブリテン
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