国際貿易と公衆衛生・食安全に係わる展開と課題 ――その対策の現状と問題点―― 2006.5.19 青山学院大学WTO研究センター 松延 洋平 I.はじめに 「国際貿易が盛んになれば国も人も富み、そして豊になった国力の元で国民の栄養状 況等が改善され、公衆衛生や食品安全も自ら向上してくるであろう。 」 以上の国際貿易の自由化を促進する原理、原則の最も根底にある前提に対して最大の 疑問を投げかけつつある核心的な課題の一つは――貿易自由化が Public Health 公衆衛 生と食安全問題そして安全保障に与える影響であろう。 Globalization は、その明るい光の部門として中国やインドあるいはブラジルなどの経 済成長の多くの成功事例が語られてきている。 しかし、一方で多くの途上国において著しい都市化 Urbanization と過密化をもたらし つつある。特に其の場合水資源に恵まれるか否かが重要な要因になるがさらにそれが公 衆衛生、食品衛生において大きな落差を生んできていることは、今までにも良く議論さ れてきている。 一方、WTO体制は、物の移動に続いて凄まじいスピードでの人の移動をもたらして いる。この結果、貿易・人の移動による感染症の脅威はかってない高まりをみせている。 その底辺でWTO交渉の影響の事例とされる農業の高度化 intensive agriculture が見 逃せない。 貧しい衛生環境の中での高度・過密化農業は最も大きなリスクをもたらしやすいこと は明らかで、特に東南アジア地域における農・畜・水産業について顕著である。 最近鳥インフルエンザの脅威はますます高まっているが、例えば、東南アジアの養鶏 産業とその産品貿易の伸びは、過去10年をとって見ても誠に凄まじいものがあること はFAO等の統計にも明らかである。 貿易拡大に伴う感染症による公衆衛生あるいは食安全を脅かす要因は、以上の鳥のイ ンフルエンザに係わるものだけではない。 即ち、まずグローバル市場が急速に拡大することがある。関税引き下げ等により国境 障壁は低下し、国際競争が激化し、効率化への要求はますます激しくなる。 かつての森林であったところ、あるいは未開発の地帯にも急激な開発の波が及びここ にも新興感染症の発生のリスクが高まる。 一方、厳しい競争のもとで規模拡大や効率化を図るため、今迄の生産段階全体にも技 術・経営革新が進むことが、ECOLI O-157 H7やBSEなどのような、か ってない世界的に食安全をゆるがす新しい事態をもたらしている。 1 以上のように、市場のグローバル化によってさらに事態の悪化が進展して行く反面で、 産物・製品の貿易が拡大一途を続け、人の移動や交通・旅行などが飛躍する。 しかし、 ひとたび不安が発生するや、突然として混乱の状況に落ち込み、巨大な経済打撃が発生 する。2002年アジア中国で発生したSARS事件は28以上の国に大きく影響した。 カナダでもトロント市を中心として14週間にもわたり混乱が継続し経済は麻痺した。 このようなWTO体制を根底からゆるがしかねない事態の展開は、特に2000年以 降ますます顕著になっているが21世紀の初期段階はこの傾向が継続するものと予測 される。 反面で、これに対応する動きも注目すべきである。世界の Public Health 公衆衛生や 食品安全の国際対応体制を強化し、パニックの拡大の波を食い止めようという懸命の動 きも始まっている。 果たして、これらの保健サイドの努力がどれだけ効果をもたらし得るのか。 まずその動向と過去の「国際保健規則 International Health Regulations」の推進の姿 を理解していくことが必要となろう。 今までは、牛肉ホルモンケースあるいはGMOケースのように食安全問題を理由とす る輸入規制問題は既にWTO体制の中で紛争処理 Dispute Settlement のシステムにお いて大きな課題として取り上げられてきた。 しかし、最近のBSE問題あるいは鳥インフルエンザは、人畜共通の感染症・疫病と もされるため、その脅威等が今後の国際貿易の諸動向にどのような影響のものとなるか 予測し難い側面を持つ。 今後の公衆衛生への懸念がどのように強まるのか。また、この懸念が今後どのように 高まり、どのような形で種々の国際的取り組みへ影響を与えるのかその進展に関心を持 たざるを得ない。 食品・バイオテロ問題などテロ対策SECURITY問題はさらにWTO体制に対し 複雑で強力な衝撃をもたらす可能性が極めて大である。 にも拘らずその検討はまだ始まったばかりの段階である。 その検討の輪を広げるための素材を以下簡略にここに提供して行きたい。 2 11.これまでの貿易と公衆衛生・食安全にかかわる国際的展開とその対策の歴史的な 考察 ――今後のWHOとWTOのあり方を考えるために―― 1. WHOにおける International Health Regulation の意義 ――改定にいたる問題とその諸動向―― 天然痘が世界全体から根絶された旨のWHOによる宣言などを通じて、70年代末に は、感染症は完全に克服され最早や先進国市民の脅威でなくなったという楽観的認識が 先進国では一気に広がった。 一方日本においては60年代から70年代にかけて公衆衛生基盤の整備が進みコレ ラをのぞいて主な感染症の発生は急減した。感染症対策は既に過去の問題とみなされた。 日本ほど極端でないにしろ、先進国の間でも60年代から感染症分野の研究者および 臨床医家の著しい減少・不足を見せた。先進国では、楽観主義の傾向が顕著に現実に進 み始めていたのである。 こうした状況の一方で、途上国では毎日多くの栄養不良や環境汚染を伴う感染症が原 因で幼児等が死亡していく現実は続いていた。 しかし、グローバリゼーションの進展や途上国での開発や都市化に伴い、80年代・ 90年代に入り HIV/AIDS やO-157等新興感染症あるいは結核病等再興感染症の脅 威が出てきた。 さらに、2000年代に入りSARS、鳥インフルエンザなどの人・動物共通感染症 の大規模発生が途上国のみならず先進国の経済社会政治体制に大きな衝撃と影響を与 えた。 特にSARS事件は震源地の中心の中国等にとって国家体制を揺るがしかねない大 事件となり、WHOと国家との関係の基本的問題を明るみにした。 2001年の同時多発テロ以降、米国を中心としてテロ対策のためにかってない大規 模な政府の組織改革が行われ、多大の財政措置が講じられ、連邦バイオテロ法等の法制 度が新設された。 農産物・食品貿易が進展するにともない先進国のみならず途上国にとってもテロ攻勢 を受ける脅威が迫っているとの認識を示したWHOのガイダンスTerrorist Threats to Food (Guidance for Establishing and Strengthening Prevention and Response Systems2002、WHO) 1 が発表された。 このような事態が進展する諸情勢に対応すべく、WHOにおいて国際的取り決めであ る国際保健規則(International Health Regulations :IHR)の大改正の作業が加速され た。感染症へどう取り組むかは、従来、議論されてきた保健問題、通商問題のみならず、 1 http://www.who.int/foodsafety/publications/fs_management/terrorism/en/ 掲載。 3 人権、国家安全保障と深い係わり持つ問題として国際政治の大課題となってきた。 そして当然WHOのみならずこれからの国際機関特に国際専門機関に対しても深刻 な波紋が及んでいることの認識を持つ必要がある。 新しい事態の急激な進展の中で、国際化・グローバリゼーションの影響が激しく、S ARS、鳥インフルエンザ等新興感染症が多発するアジアに近い地政学的立場からも日 本が一番強い関心をもって取り組むべき課題である。先進国の中での遅れの部分を早急 に取り戻す必要がある。 そして種々の関わりがある国際法制の見直しも行われつつあるが、新しく法制度が整 備されただけではまだ途半ばというべきであろう。 これから途上国の能力を高めるために国際協力として正面から取り組む局面にきて いる。感染症・公衆衛生・食安全に本格的に取り組むためには種々の自然科学・法律学 さらに経済(国際経済)、国際政治、経営学・社会学、文化人類学等までの幅の広い視 点が大事である。 Ⅱ.新しい国際的な感染症への対策法制の枠組みにいたるまで このような背景の中で改訂が進められている国際保健規制(International Health Regulations以下IHRと略称)2 改定に到る諸動向と意義についてその歴史を追いた い。 公衆衛生を国際的に管理するガヴァナンスのシステムは、旧態化し構造的な弱点 が集積してきていた。 IHRは唯一の感染症を国際的に管理・コントロールする ための国際的な規制枠組みであるが、1951年に始めて制定されてから半世紀間 も、実質的に改定されないままで至っていた。 1995年の世界保健総会で採択された決議に基づき数年前から既にWHOはI HRの改定の作業過程に入っていた。このIHRは今日の国際社会を脅威にさらし ている新興感染症やバイオテロによる大きな挑戦に応えることが求められてきた。 そして、長年の紆余曲折を経て2005年5月改定が行われた。 ここでIHRの歴史的考察を行い、改訂作業の過程を説明することは極めて意義 のあることだと感じられる。さらにIHRの改定への提案にいたる、国際感染症対 策の法制の世界的な課題と動向をいくつかの項目に焦点を絞って紹介し、考察を行 いたい 3 。 2 3 International Health Regulations (IHR) “http://www.who.int/csr/ihr/en/” Lawrence Gostin , Infectious Disease Law , --- Revision of the World Health Organization’s International Health Regulations, June 2004 Journal of American Medical Association Review and approval of proposed amendments to the International Health Regulations: draft revision WHO Intergovernmental working Group on Revision of the International Health Regulations Provisional agenda item 3. 30 September 2004. 4 1)感染症の国際的な管理ガヴァナンス:その歴史的背景 IHRが生まれた起源は1851年にパリーで開催された第1回国際衛生 SANITATION 会議にさかのぼる。1830年から1847年に発生したコレラ伝染 病が国際外交を展開させるきっかけとなった。 20世紀に入りこれらの議論を推進する多国間国際機関が設立された。ヨーロッ パ諸国は1907年に多国間機構を設立した。そして、第一次大戦と第2次世界大 戦の間の1923年には、保健国家連盟 (Health Organization of the League of Nations :HOLN)が設立された。 国家主権が脅かされる可能性を暗黙に感じていただけに政治的前提として国家主 権が強調されており、関連する他の機関ともそれぞれお互いが独立していて 目標 もやり方もばらばらで調和がとられていなかった。 むしろ国際的なガヴナンスというべきものがかろうじて出来たのは、第2次世界 大戦終了後の国連誕生以後で、国連が最初に作った国際機関が世界保健機構(World Health Organization :WHO)である。その後地域的な多国間協定の諸機能を結合し たもののWHOでの横断的な管理の機能は不十分なままで変化発展は少なかった。 一方、加盟国は国内の監視と衛生システムを改善する義務という厄介な要件は避け ていたずらに国家主権の尊重を繰り返し内外に唱える場面が多かった。 2)IHR改定までの内容と改正の過程 そのWHOの元で正式にIHRが1951年に採択され、73年、81年と手直 しをされたものの、適応病はコレラ、ペスト、黄熱病のみであった。 その規則の内容は、 第1には,加盟国は領域内に発生する人への疾病の発生および終結の通告をWH O宛てに行うこと。 第2には、港湾、空港等で国際貨物、コンテナ、荷物等に対して衛生措置を講ず ること。さらに施設,器具、敷地の検査さらに病気にかかった人の隔離、消毒、治 療等の衛生措置を講ずること。 第3に、感染地域から非感染地域への旅行者へワクチン証明の発行。 第4に国際交通に対して自国を護るために最大限の措置を講ずることが許される こと。 実際はWHOが加盟諸国にこのIHRの規定を遵守させるのに幾多の困難を経験 していたのが現実である。まず、 (1)加盟国が報告を怠ること; 5 (2)国境措置として衛生措置が充分でないこと; (3)公式規則外にエイズ等の証明を要求する国があること;、 (4)科学的な理由がないのに旅行者や国際貨物の入国を過度に禁止する措置を とることなどがある。 国家主権を振り回すとか、自治、政治経済利益に反するとか、経験や資源が不足 であるとか、能力不足など加盟国が従わない形は多様で、挙げる理由は多種であっ た。 しかし、ペルーでのコレラ、インドでの黄熱病、ザイールでのエボラ熱等の発生 に対応してWHOは1995年総会でIHRの改定の方針を決議して、2004年 9月、その改定原案は提出されて、地域ごとの検討に回ってきた。しかし、検討は 期待ほど円滑に進まなかった。 その間のSARSや鳥インフルエンザなどの新興感染症などの事態の進展をみれ ば、調整が難航してきたことにもどかしさが感じられてきたが2005年念願の改 定が行われた。 3) 世界の公衆衛生改善へ:新IHR体制へ向けての議論: IHR体制が抱えてきた弱点は何か、改定すべき措置として議論となったものは 何か、どう評価すべきかなどを挙げていく。 ①両立し難い使命と目的; 最大の問題は円滑な人と物の交流・交易と感染症の拡大の阻止とは両立し難い状 況に立たされてきている事にある。しかし、この両立自体が大変困難になっている ことの認識を先進国の国内にあっても通商関係者と保健関係者との間で共有するま でにまだ至っていない。 SARS等の体験を通じても明らかになっていることは、 仮に科学的に十分な解明が得られていない事態の中であっても、一時的にしろ貿易 や通商を犠牲にして敢然と公衆衛生の措置を講ずることが時には求められることで ある。 ②視野の広がり 長年、IHRでは、コレラ、ペストと黄熱病の3種の病気のみに制限されていた 時代は終わり、明らかにWHOがエイズやSARSなども含めより幅の広くかつ弾 力的な対応を求められていた。即ち、今までのように病気を特定していく手法をや めて、国際的な広がりを持つ緊急性の強い全ての公衆衛生事態に取り組むことが必 要となった。 世界的な健康・食安全への脅威となる病原菌,化学物資、放射性物資等から発生 する緊急事態や行為を監視・通告する等の措置を考えるべき時代になってきた。自 然発生的にあるいは偶発的に発生する事態は勿論、さらに意図的な散布・撒くテロ 6 行為も含め対応措置を考えるべきとされている。少なくとも初期には病因・原因の 究明.確認に貴重な時間を割いている余裕はない。 ③国際的な監視 IHRでは週毎の疫学報告を受動的に受ける形であったが、必要なデイタを迅速 かつ総合的に確保することが緊要であることとして、国家・政府からの通告を待つ だけでなく、複数の情報源からの情報収集を推進することとしている。その中には 病気発生等の疑いについてのインタアネット情報等のコンピュウター監視なども定 めている。WHOのみならず米国などでも精力的に他国内の情報をネット探索して いる。 ④国別の公衆衛生システム; 国際交通による場合や国境を超える場合はさておき、とかくIHRのもとでは手 段、手法、対象国の選定等に統一性を欠くきらいがあるので、WHOが (1) 各国に臨時や一時的に適切な措置を講ずるよう勧告を発する権限を持ち、 (2) 各国が監視や対応措置を講ずるよう要請する権限を持つ ようになっている。 これにより、WHOが新しく付与された権限を十分に活用して勇敢・敢然と必要 な措置を取ることが期待される。その場合には勿論当該問題が発生した国政府から は円滑に協力が得られるとは限らない.それを克服して行って始めて国際的に公衆衛 生・食安全は大きく改善され方向に動いていける。 しかしWHOは同時に、その勧告等が生かされるよう特に途上国のインフラ整備 へ技術協力や資金協力を行っていく義務がある。 ⑤人権の擁護; IHRでは貿易・通商についての配慮を目的にうたっていて、現実にWTO、CO DEXなどの機関とは改定作業中も連絡が密に行われてきた。しかし一方で人権につ いての配慮規定が不十分であることもあり現実に人権問題が多々発生している。 こ のように感染症対策を強化することは、個人のプライバシイ、身体や行動の自由制限 (旅行制限やボヂイ検査による)などを阻害する可能性を孕んでいる。 同時に公衆 衛生のための措置は特定の個人や集団・団体への差別や偏見を助長するおそれがある。 確かに、人権保護の面では改善される方向であることは確かである。がまだ一般的 に個人の権利や差別的措置を禁じるなどという人権保護は、まだまだ国際法レベルで の抽象的表現に留まるきらいがある。手続きにおける公正性を確保し、規制基準に科 学的根拠を求めるとかを明瞭にしなければならない。 特に隔離とか検疫とかその他の強制措置についてはっきり国家の義務が規定される 7 べきであるとの強い批判がある。 ⑥これからの健康と食安全のための国際法的枠組みが機能するために; WHOは他の国際機関とは比較にならないくらい、デイタの客観性や情報公開や 手続の透明性が強く求められる。 強国がとかく有利で途上国がいつも不利な扱い を受けているという批判が続いてきたがこの様な批判が起きないようにしなければ WHOの信頼性は損なわれ、このことが国際的な保健の向上に大きな支障となりう る可能性がある。 一方、WHOの勧告をそのまま忠実に真面目に従えば一時的に国家の権威は低下 し、貿易は阻害され観光産業等は大打撃を受けるというリスクが常に伴う。 これはかって中国政府がWHOにSARS事件の報告を遅らしたときとかカナダ のオンタリオ州がWHOの旅行制限の勧告に抵抗したときの事例に良く表われた。 政府が閉鎖的とか保護主義的とかの原因は確かにあるがそれだけでなく、政府の 基盤が弱体であるとか能力に欠けている場合もWHOのルールを守らない原因とし て指摘しなければならない。IHRを改定したからといってそれだけで劇的変化が 出てくるわけではない。 特に公衆衛生への水準を向上させる能力に乏しい加盟国が国際保健のルールを国 内法に定めさらに財政資金を得て国内政策に具体化していけるよう、WHOは経済 協力・技術協力の支援措置を動員集中するよう国際社会に働きかけていくべきであ ろう。国際的な法規制の枠組みが国家内の保健の諸規範として諸法制度さらには具 体的な生活上のルールに替っていく動きまで見守る必要がある。 公衆衛生の水準 向上へ向けて幅広く対策を講じるためにそのための政府の能力の強化を図っていく ことから着手していくことが大事である。 ⑦国際関係と改革のプロセス 進展する科学技術の成果を先手をうって取り入れつつ、一方新しい感染症の出現 とテロ対策に取り組まねばWHOはリーダシップを失い無力な存在となってしまう 危険がある。新しい感染症等による深刻な事態に対処するためには、国際社会や加 盟国が狭い利害・既得権や国家主権の狭い尺度を捨て、協力・団結することが必要 である。 その間のSARSや鳥インフルエンザなどの新興感染症などの事態の進展をみれ ば、調整が難航してきたことにもどかしさが感じられてきたが2005年念願の改 定が行われ、2007年6月から発効するものとされていた。 しかし、鳥インフルエンザが人から人へ感染するように変異する可能性が高まっ ている情勢等を踏まえ、WHOの本年2006年5月末総会でこの新型感染症の発 生の早期通報や監視システム、対応措置などの緊急措置を各国政府に義務付ける改 8 正国際保健規則・新IHRを1年前倒して直ちに実行するよう求める決議を採択し た。従来の規則とは異なり改正規則ではこの報告義務の対象となっているのは原因 の分からない未知の感染症、生物兵器によるテロ等大規模な被害なども含まれるこ とになっている。 Ⅲ.貿易と新興感染症、テロの脅威への政策展開等今後の新しい課題 長年、WTOの本流をなす考えとしては、保健・公衆衛生、食安全問題は貿易障 壁を作るための口実、あるいは保護主義貿易の隠れ蓑だと決め付ける視点が強かっ た。一方、保健・食安全問題が具体的に発生して措置をとっても、例えば“紛争処理 機関において保健・公衆衛生に対して理解がないから新手の非関税貿易障壁の手段 という判断がだされるのがオチだ”という保健推進コミュニチイ・グループの強よい 思い込みがたびたび顔を出しWTO批判という発言となる。 貿易と保健・安全保障等諸課題との調整がこれからの国際社会の最も大きな課題 として全力で取り組むべき時代となってきた。 加えて食品へのテロの脅威については、WHOは自然に発生する大規模感染症発 生の懸念と併せて其の懸念を宣言し、そのためのガイダンスを出している。 その影響が既に多くの国において対策・措置として現れ始めている。 このような食品テロによる大規模被害の脅威とそれに対応しうるか否かの課題は 突如新しく出されて来た未経験の問題であり誠に厄介な課題である。 それだけに、今後、これと絡まって基本的な国家主権問題(中国と台湾問題も含 めて)が再燃する可能性には絶えず配慮しなければならない。 貿易と保健・食安全問題は既に、GMO,牛肉ホルモン等の経験を通じてこれか らのWTOにとっての最大の難しい課題の一つとなっている。 しかし、WTO体制の直接的影響ですら十分議論され尽くされているわけではな い。貿易の直接的影響として代表的に取り上げられるものは当然商品貿易、商品の 輸出入の場面で関税の交渉として焦点が当る。 特に経済成長著しい中国、アジア諸国などの商品貿易の伸びは誠に目覚ましい。 商品貿易と公衆衛生に関連してSPS協定あるいはTBT協定などが重要な役割を 果たしているし今までも盛んに論議がなされてきた。 これからは、サービス貿易の伸びは過去20年近く著しい伸びを示しておりその なかでも公衆衛生に関するサービス貿易の伸びは目覚ましい. GATS協定ではこれら上水道、エネルギー、衛生、福祉、ヘルスケア、教育等 の200に近い分野にマーケットアクセスの改善を与える意図をうたっている。具 体的にはこれらは従来公的機能として位置付けられてきただけに公衆衛生への直接 的間接的な影響や住民市民への責任が希薄化することを懸念する自治体や、NPO, 9 専門家集団等が多い。世界的には、この分野に民間企業や第3セクターを導入し、 効率性を高め、財政赤字対策に役立てようとする政府の数は増加している。 この分野の動きは始まったばかりであり、議論が早急に広がることを望む次第で ある。 そこに別個に、貿易と安全保障問題SECURITYという新しい課題を重点的 に取り組むべきであると言う動きが登場しつつあり、さらなる大きな難題と成り得 る可能性がある。 1)食品テロの脅威; 2002年5月のWHO総会(第55回)では、悪意を持って食品をテロリスト が汚染させる脅威が現実に今そこに存在し、世界規模の健康危害・食安全問題を引 き起こす可能性があるとの深刻な懸念を冒頭に表明されている。前述したWHOガ イダンス「Terrorist Threat to Food :Guidance for Establishing and Strengthening Prevention and Respose Systems 2003 WHO 」 である。テロの攻勢は先進国のみに向けられるのでなく、むしろ現実には発展途 上国に対しても増加してきている。 途上国ではバイオテロ・食品テロの発生の場 合医療施設等のインフラが不足しているため被害は拡大するおそれがある。 続いて自然に発生する食疾病と食品テロと両事態に対して、両面の対策の効果を 同じ一つのシステムで挙げ得る効率的な手段・方法があるとし、その方法としては、 強力な監視サーベイランスと対応能力に優れた綿密な警戒措置とを組み合わされた 手法が極めて効率的であるとしている。即ち、既存の食安全の管理システムに食品 テロ対策を上乗せ導入し、さらに融合・統合化していくことをこのWHOはこのガ イダンスを通じて勧告している。 2)WTOルールと各国国内公衆衛生規制: 高まる緊急性―――両立は可能か; 国際貿易が公衆衛生に与える影響がますます注目を集める時代となってくる。 WTO国際貿易機構とWHO国際保健機構とはその基本とするそれぞれのルールが 違い、組織の性格が違う。このことをどうお互いに調整するかが大きな問題となり つつある。 WTOでの有名な係争事例として、石綿問題がある。わが国でも最近大問題とな ってきた。フランスが保健上の見地から石綿の輸入を禁止したことに対し、これは 保護貿易主義な行為で非関税障壁であるとしてカナダをWTOに提訴した。 この石綿アスベスト事件のWTOの処理過程の中で、WTOが法的処理に重点を 置いて科学問題は外部から選んだ専門家の助言委員会に任せてその判断に頼って処 10 理していくプロセスはいかがなものかと違和感・不安を公衆衛生関係者に広く感じ させた。これはWHOにおいては、広く科学者等が保健・食安全に係わる課題の討 議から結論を出してゆく過程において科学的論議が尽くされるという信頼性が重視 されているからであるといわれる。 さらに、最近ますます新しい感染症やテロの脅威が強まるなかで、WTOの紛争 処理プロセスにおいて、貿易問題への配慮が健康・公衆衛生より優先・重視されて いくのではこれからは問題が深刻化するだけではなかろうかとして、不安と不満を 強めるNPOが多くなりつつある。一部の国の政府もそのような見解を述べる場面 も多くなった。 勿論、WTOそしてWHOの両国際機関ともこの問題の緊急性を痛感せざるを得 なくなっているという。両機関の相互理解と調整が必要であるが、其の努力はスタ ートしたばかりであり本格的にはこれからの問題となろう。 そのなかで、例えばWHO側の努力として、貿易と公衆衛生の規制の両面を理解 出来る人材の訓練に着手し始めている 4 。 3) 「安全保障」の観点からの世界的な保健問題と国家主権の問題: ――これからの国際政治、国際機関と国際法制はどう対応すべきか; 保健問題あるいは食の安全問題は、最近それぞれの国内問題としても大きな政策 課題となってきたが従来あまりにも軽視されてきたことに保健分野の専門家集団か ら強い不満が聞かれる。 一方、国際的な問題としてもここにきて大きな政策課題として取り上げられつつ ある。国際機構特に各種の国際専門機関を巡る国際政治の問題としてこれ等の課題 が急速に重要性が高まりつつあることは確かである。 生物兵器・テロの手段としての拡散と利用に関する恐怖は90年代から公衆衛生 に対し大きな影響を与えてきていたが、9.11事件は公衆衛生と国家安全保障問 題の融合を加速してきている。 国家の政策と体制に関して考えれば、国家主権を尊重し他国家への内政不干渉を 宣言し、国際法、国家間の規制は国家間の合意を基にするという原則のウエストフ ァリア主義は1648年から約3世紀間も続いた。 第2次大戦後は個人、国民と国家の間の相互依存関係を重視するポストウェスト ファリア主義が発展してきたと言われる。 しかし、これからはテロに対しては公衆衛生と国家安全保障問題との融合を図る 必要性が高まり、さらにテロを国際的に監視する重要性が高まる。 4 Jason Sapsin Globalization, Public Health ,and International Law Medicine & Ethics 2004 The Journal of Law, 11 それにつれて政府に対してのみならず非政府組織にも情報源を求めることが必要 になり、 「国家間ガザナンス」から「グローバル・ガヴァナンス」へ移行させなけれ ばならなくなっている。 先年突如、SARS事件が発生しウエストファリア的な国家間ガヴァナンスでは 危機に対処出来ないことが明らかになった。そこでこの緊急の事態のもとで、IH Rの規定上明記されていないにも拘らず、直接の当事者国の同意を得る手続きを経 ること無くして、いわば黙認状況でこのWHOの独立機能が発揮されたのである。 緊急旅行制限措置の勧告その他の警告措置がWHO事務局によって急遽、即ち独断 的な措置としてとられたのである。 しかも、その後開かれたWHO総会において専門能力、情報収集能力などを持つ 事務当局に対し、将来も同様の警告・助言・勧告措置をとるよう正式な指示が行わ れそこでWHOは新しい段階に入った。 一歩踏み込んで考えれば、生物テロの脅威のもとで国家安全保障と公衆衛生との 融合が進む事態のもとで、ますます強まりつつある米国の単独行動主義・一国主義 は国際機関のリーダシップとどう両立しうるのか。 米国に持ち込まれる農畜水産物、食品につぃて届出・留め置き等の措置を定めた 米国連邦バイオテロ法(2002年制定)などは明らかに一国主義的なものであろ うがこれについてWTOとの関連で異議をさしはさむ加盟国はなくその後円滑に推 移しているようである。 再びSARSや鳥インフルエンザのようなPANDEMIC大規模感染症が発生 した場合や大規模テロ事件の場合に果たして今後とも国際機関のこのようなリーダ シップは無条件最高のものとして今後とも尊重され続けるのだろうか。多国間主義 (マルチラテラリズム)と単独行動主義(ユニラテラリズム)とはどのように調整 され、変化して行くのか見守る必要が出てきている。 IV. 終わりに: 過去10数年間、WTOでも貿易と公衆衛生・食安全の課題の重要性が時折に議論が 転換されて来た。しかし明らかに新感染症やバイオ・食テロなど新しい事態の発生は今 までの議論の範囲を超えているように見える。 しかもますます活発化しているこの論議はこれからの10数年間にわたって一体どう いう方向に進展して行くのであろうか? 現段階では幾つかの不確定要素がある。 まず、第1に、WTO交渉自体の進展であり、 第2に、ますます増加しつつある二国間協定、あるいは地域間協定の進展がある。地 域間協定での公衆衛生問題の取り扱いも注目すべきである。 12 第3に、新しいIHR“国際保健規則”がどう進展するかである。 そのほか知的財産権問題の保健食安全への影響も極めて大きい要素である。 国際通商にかかわる協定や枠組みの予想がまだまだ混沌としている中で、公衆衛生・食 安全に係わる懸念すべき事態は着実に進んでいく。 <参考文献> 1. John H.Jackson「Sovereignty, the WTO, and Changing Fundamentals of International Law」 Cambridge Univ. Press, 2006. 2. Judith Miller, Stephen Engelberg, William Broad「GERMS」Simon & Schuster, 2001 3. Lawrence O.Gostin[The Aids Pandeminc] North Carolina Press, 2004 4. Nestle,Marion,「Safe Food」Univ.California Press, 2003 5. Tu,Anthony,「生物兵器、テロとその対処法」 (株)じほう,2004 6. David P Fidler, [Germs, Norms and Power: Global Health’s Political Revolution] Law, Social justice & Global Development, 2004 7. 井上忠雄『「テロ」は日本でも確実に起きる』講談社新書,2003 8. 竹内勤・中谷比呂樹編著「グローバル時代の感染症」慶応義塾出版会,2004 9. 山内一也・三瀬勝利「忍び寄るバイオテロ」NHK ブックス,2003 10. 吉川昌之助「細菌の逆襲」中公新書,1996 11. 最上敏樹「国連とアメリカ」岩波新書,2005 12. 高瀬保「WTO(世界貿易機関)と FTA(自由貿易協定)―日本の制度上の問題点」東信堂,2003 13. 岩田伸人「WTO と予防原則」農林統計協会,2004 13
© Copyright 2024 Paperzz