商店街が残るために 総合教育セミナー 「21世紀の商店街」 石井班 加藤寛和 中心商店街が直面するもの 山田将平 岐阜市柳ヶ瀬(やながせ)商店街 中村絵里子 柏二番街商店街――駅前の商店街 小川靖人 駒川商店街――地域との密着にかける 岩田直樹 モトスミ・ブレーメン通り商店街の繁栄を探る 商店街が残るために 私たちを取り巻く生活環境は、ここ数十年の間に著しく変化してしまったといわれてい る。たった 20 年しか生きていない我々の記憶の中にも、それは意識できる。その中で、商 業の勢力図の変化というのは著しく、かつては栄光を築いたいくつもの業種が、新興産業 にその座を明け渡している。モノアマリの時代に国内の市場を広げるため、日曜日の営業 や 24 時間営業は当たり前のようになり、郊外型大規模小売店やコンビニエンスストアが 次々にできるなど、商業地図は大きく変化した。当然、変化についていけない業種という のは、衰退の一途をたどらざるを得ない。 このような状況の中、商店街もその置かれている状況により、明暗がはっきりと分かれ た。我々は全国にある 5 つの商店街の実態を調査し、衰退の原因を考察していった。その 結果、商店街は活路を見出す努力を怠ると今の時代の変化に追いついていくことはできず、 衰退していくというのが我々の結論である。これを示すために、静岡県浜松市の中心商店 街、岐阜県岐阜市の柳ヶ瀬商店街、千葉県柏市の柏二番街商店街、大阪市内にある駒川商 店街、そして川崎市内にある東急東横線元住吉駅周辺地域の商店街の実例を取り上げてい く。 これら 5 つの商店街のうち、浜松の中心商店街は、商業環境の変化についていけず衰退 の道を歩んでおり、柳ヶ瀬商店街も浜松中心商店街同様、時代の流れに乗ることができず にいる。柏二番街商店街は、商店街を取り巻く環境がこれまでに幾多も変化してきたが、 商店街の努力により、衰退を招くことなく元気よく生き残ってきている。また、柏二番街 と同様、大阪駒川商店街も様々な対応を積極的に行ってきている結果、優良商店街とみな すことができる。そして、元住吉の商店街であるモトスミ・ブレーメン通りは、ブレーメ ン州との提携や環境問題に取り組むことで、これまでは元気のある商店街でいられた。し かしながら、商店街を取り巻く環境が大きく変わりつつある現在、これまで以上に時代の 流れを感じて新しい対策に取り組んでいく必要がある。 以上 5 つの商店街のうち、加藤が浜松中心商店街を、山田が柳ヶ瀬商店街を取り上げ、 商店街の衰退の状況を見る。次に、中村が柏二番街、小川が駒川商店街を取り上げ、これ ら 2 つの商店街で長年行われてきている活動を紹介する。最後に岩田が、大きな環境変化 に今後どのように対応していくのかが課題となっているモトスミ・ブレーメン通りを取り 上げ、常に革新的な取り組みが不可欠であるということを確認する。 (文責:加藤寛和) 中心商店街が直面するもの 経済学部2年9組 加藤寛和 1.導入 「平成の大不況」と呼ばれる今日であるが、ここにきて景気が踊り場に差し掛かったと 言われている。しかし、その回復傾向は主に大企業中心で、中小の経営者からは依然とし て厳しい声も聞かれている。そのあえぐ中小業種のひとつが、街の中心商店街である。中 心商店街は地方都市の駅前に集まってくる人を主な顧客として、長い間地域に根ざして発 展してきた。郊外に住む人々はバスや電車でやってきては、洋服を買ったり食事をしたり する。また、中心地に住む人々は、日々の生活必需品を買いに、中心商店街を利用する。 このような風景が、以前は確かに存在した。娯楽や生活の場所として中心商店街は、大き な役割を果たしてきたのである。しかし、高度成長期やバブルを経た後、中心商店街は衰 退し、商店街のあちこちで店をたたんでしまうという、いわゆる「シャッター商店街」が 増え始めた。 浜松市でも同様のことが起きている。浜松市の場合、①ライフスタイルの変化、②郊外 型大規模小売店の進出、③中心地の衰退といったいわゆる典型的な地方都市衰退のパター ンが原因で、中心商店街が苦境に立たされている。これら3つの要因には、互いに関連性 が見られる。 2.浜松市中心商店街衰退の背景 現在、中心商店街の衰退についての様々な著書や新聞記事が出ているが、それらすべて の文献に「ライフスタイルの変化」、「郊外型大型小売店舗の進出」、「中心市街地の衰退」 など、共通するいくつかのキーワードが見られる。そこで本論文では、筆者の出身地であ る静岡県浜松市の中心商店街衰退の背景及びそのプロセスを、主にこれらのキーワードに 基づいて考察する。これらの要素は実際にはどのようにして商店街の衰退に影響を与えて いったのであろうか。また、中央商店街が再びかつての反映を取り戻すことができるのか 考えてみたい。 2−1 静岡県浜松市 徳川家康が 17 年間過ごしたこの街は、東海道五十三次のほぼ中央にあたる宿場として栄 え、本陣や旅籠が立ち並んでいた。本陣が 6 軒もあったのは、東海道五十三次では箱根と 浜松だったと伝えられているように、歴史的にも重要な主要都市であった。静岡県西部に 位置するこの都市は、オートバイ、楽器、車など、主にものつくりの街として栄えてきた が、平成 8 年には中核市に移行し、平成 17 年の夏には周辺の天竜川・浜名湖地域の 11 市 町村と合併し、新「浜松市」が誕生した。さらに、県並の権限と大きな財源で、市民が望 む市政を強力に推し進めることができる政令指定都市が、平成 19 年 4 月に誕生する予定で ある。合併後の人口は 80 万人を超え、面積も 1,511 平方キロメートルと、県内最大都市で ある。人口も年々周辺都市からの流入により、増え続けている(図 1)。 図1 旧浜松市の人口の推移 旧浜松市の人口の推移 610 600 (千人) 590 580 570 560 550 20 05 年 20 04 年 20 03 年 20 02 年 20 01 年 20 00 年 19 99 年 19 98 年 19 97 年 19 96 年 19 95 年 540 (人口は合併前の旧浜松市の数字) (浜松市 HP) 2−2 小売業界の状況 長引く不況の中にあって、地方の各都市では、全般に商業の落ち込みが見られるが、浜 松市は深刻な状況には至っているというわけではない。図2は、昭和 57 年を 100 とした場 合の、過去における旧浜松市の商店数、従業者数、年間商品販売額、売り場面積の変化を 表したものだが、年間商品販売額や従業者数など、市全体として見た時は必ずしもすべて の小売店が厳しい状況にあるというわけではないことがわかる(図2)。これは、ひとつは 人口の増加がもたらしたものだと考えられる。一方で、商店数は減っているものの、従業 者数、年間商品販売額、売り場面積は増加しており、これは、浜松市の小売店が大型化し、 大量集客・販売の傾向にあるとともに、雇用施設としての役目も担ってきていることを示 す。 図2 旧浜松市小売業の指数の推移 旧浜松市の小売業の推移 180 160 140 120 100 80 60 40 20 0 H9 年 H1 1年 H1 4年 H6 年 H3 年 S5 7年 S6 0年 S6 3年 商店数 従業者数 年間商品販売額 売り場面積 S57 年 S60 年 S63 年 H3 年 H6 年 H9 年 H11 年 H14 年 商店数 100 95.6 98.8 101.1 98 92 88.6 83.4 従業者数 100 95.1 106.8 113.2 126 120.7 131.9 136.2 年間商品 100 108.2 114.1 157.3 168.7 161.7 163.1 157 100 96.7 109.5 123.6 138.7 148.6 148 154.6 販売額 売り場面積 (浜松市商工部) 3.ライフスタイルの変化 現在の地方都市の状態を語る上で欠かすことができないのが、「クルマ」である。東京の ように公共交通機関が発達していない地方都市では、移動にはほとんど自動車を用いる。 自動車がなければ、中心市街地までバスを使わなければならないが、バスも東京の電車の ように数分おきにやってくるわけではなく、場合によっては1時間や2時間待たなければ ならない地域もあり、移動の手段には必然的に自動車を使うことが多くなる。一家に一台 から一人一台と言われるようになった自動車の普及は、2004 年の統計によれば、日本にお ける乗用自動車保有台数は 5,529 万台で、74 年の 1,455 万台から 4 倍近くにまで増えてい ることがわかる(図3) 。自動車がここまで普及してしまったため、地方都市では公共交通 機関の代わりとして、自動車が生活の足となった。日本の中心商店街の多くは、駐車場の 不足などの理由から、自動車中心のライフスタイルへの変化に対応することができなかっ た。その上、郊外に住宅を構える人が多くなり、中心部の人口が減るという空洞化現象が おきたため、中心商店街は顧客をどんどん減らしていくこととなった。事実、90 年代後半 からは、中心商店街が苦戦を強いられているという新聞記事を多く目にするようになった。 図3 乗用車保有台数の推移 乗用車保有台数の推移 6000 台数(万台) 5000 4000 3000 2000 1000 0 1974年 1984年 1994年 2004年 (自動車検査登録協力会) 4.郊外型ショッピングセンターの進出 人々のライフスタイルが変化する中で近年登場してきたのが、郊外型の大規模ショッピ ングセンターである。イオングループなど、全国規模で展開しているものが多く、特に車 社会において、巨大駐車場を完備しているというのは人々の新しい生活様式にマッチして いると言える。これら大規模店は、規制緩和により郊外の安い土地に店舗を構えることが できるようになり、そのため、こぞって中核都市の郊外に進出するようになり、浜松市の 商圏は中心市街地から郊外へと拡大していった(記事1)。図4に見られるように、70 年代、 80 年代から始まった大型小売店舗の郊外への進出は、90 年代、2000 年代に入るとさらに 加速している(図4)。70 年代、80 年代、中心商店街の活気がピークでであった頃から比 べると浜松市内には多くの大型小売店が進出し、その中から 2004 年の時点で営業を続けて いるのは 100 店舗で、その中の実に 88 店が郊外に店を構える。 これに対し中心商店街は、中心部の人口減少や商圏の拡大による客足の低下により、全 国的に苦戦しているところが多い。浜松市の中心商店街もその例に漏れず、年々賑わいが なくなっている。図2で、浜松市全体の小売店としては、商店数が減少する一方で、従業 者数、年間商品販売額、売り場面積が増大しているというデータを示したが、これは近年、 小売店で例外的に飛躍的な成長を遂げているコンビニエンスストアの急激な店舗数の増加 や、郊外型大規模ショッピングセンターが次々に進出してきていることを考えれば、中心 地に位置するものを含む小規模個人商店が相対的に劣勢を強いられているのは明らかであ る(記事2) 。 図4 浜松市内の大規模小売店舗数の推移 (浜松市商工部) 記事1 特定の顧客を取り込む 浜松市郊外で大型店を出店する動きが加速している。八月、静岡県内最大の店舗面積 を持つショッピングセンター(SC)が浜松市西部に開業。市北部では食品店を併設し た大型ホームセンターがオープンする。市内流通業界の競争激化は必至で、中心市街地 の大型店や商店街には生き残りをかけて新たな業態に進出する動きも出ている。 ◇ ◇ 「戦艦がやってきたようだ」。周辺住民がこう表現する「イオン浜松志都呂ショッピ ングセンター」は来月六日に営業を始める。浜名湖花博(しずおか国際園芸博覧会)に 合わせて整備された雄踏街道と、南北に走る浜松環状線が交わる場所に位置。三千五百 台収容の無料駐車場を備える。店舗面積は五万六千平方メートル。西棟に入るジャスコ と東棟に入る家電量販店のエイデン、スポーツ用品専門店のスポーツオーソリティーが 核テナントで、東西の両棟を結ぶ二百十メートルのモールに百五十の専門店が入る。 両棟ともに建物の端から端までの長さは約四百メートルと、駅のホームがすっぽりと 入る大きさ。児童用遊戯施設や飲食店などもそろえており、「レジャーに近い感覚で来 てもらえるのではないか」 (鈴木真琴開設委員長) 。小さな子供がいるヤングファミリー を主要顧客層に想定している。 一方、JR浜松駅から車で三十分の新都田のテクノポリス内にオープンするのがホー ムセンター、カインズ(群馬県高崎市)の運営するSCだ。店舗面積は二万四千平方メ ートル。核となるカインズのホームセンターに加え、食料品販売の「ベイシア」と家電 販売の「プラグシティ」が出店する。 カインズはイオン浜松志都呂SCの隣接地への出店も検討している。 こうした郊外への相次ぐ大型店進出を受けて中心市街地の事業者も危機感を強め、対 応に動き出している。値下げやサービスの向上といった、どちらかと言えば「守りを固 める」動きにとどまらない。特定の顧客をターゲットとした新業態の店舗を開く事業者 が出てきたのが特徴だ。 浜松市を中心に展開するスーパーいしはら(同市)が今年、浜松駅北口にオープンし た「フィーネ」。高所得者や、比較的ゆとりがある高齢者などを意識したスーパーだ。 オリーブオイルや五十種類にのぼるはちみつなど、地元ではなかなか手に入りにくい 商品を多数陳列。レジに「サッカーサービス」という袋詰め専門の店員を配置するなど、 独自のサービスを展開している。上新電機は五月、浜松市内の家電販売店を大型のホビ ーショップ「スーパーキッズランド」に変更した。プラモデルや木製模型のほか、キャ ラクター玩具、テレビゲーム、音楽CDなどを取り扱う。郊外に大型の家電量販店が続々 と登場するなか、商品を特定の顧客が見込める分野に絞り込むことで対抗する。 車社会の浜松市にあって、中心市街地は「交通渋滞が激しい」「駐車場は有料、スペ ースも少ない」などと買い物客の評価は今ひとつ。浜松駅前という一等地にあり、十期 以上も増収を続ける遠鉄百貨店でさえ「中心市街地全体の売り上げは縮小している」と 危機感を隠せないのが実情だ。 地価の違いもあり、店舗や駐車場の広さで郊外の大型店と対抗するのは難しい。それ ならば、消費者を引きつける新たなサービスを提供するしかない。新業態に打って出る という最近の動きが成功するか、注目される。 (日本経済新聞 2004) 記事2 ●従業員20人未満は苦戦 景気回復顕著な浜松地域 浜松信用金庫が9月時点で従業員規模別の売上高を比較したところ、静岡県内で特に 景気回復傾向が著しいとされる浜松地域でも、従業員20人未満の小規模企業は、調査 対象の半数近くが5年前と比べ売上高が「減少した」と判断していることが分かった。 20人以上を抱える企業の多くが「増加した」と答えているのと対照的な結果になって いる。 従業員5人未満、5−9人の企業はともに、減少したとするのが44・6%で、 増加は2割に満たなかった。10−19人でも、減少したとみているのが47・3%に 及んだ。対照的に20−29人、30−49人、100人以上の企業は、いずれも増加 したとみるのが5割以上。100人以上に至っては、減少は16・3%にとどまった。 一方、業種別にみると、製造業の二輪車、四輪車、機械では増加とみている企業が5割 を超えたのに対し、非製造業はすべての業種で減少が増加を上回った。(中略)調査は 浜松市を中心とした浜信取引先企業を対象に実施。有効回答を寄せたのは規模別が40 7社、業種別が428社だった。 (中日新聞 2005 年) 以上 2 つの新聞記事でも、景気回復とはいっても中小の企業は相変わらず苦戦しており、 特に中心部の商店には郊外型大型店が大きな影響を与えてることがわかる。 5.中心市街地の衰退 商圏が郊外に拡大していく一方で、市の中心に位置する大型百貨店の倒産や撤退が相次 いでいる。90 年代、ニチイ、長崎屋、丸井が撤退。85 年に 34,877 人あった人口は減少を 続け、西武百貨店が閉店した 97 年には 28,039 人に落ち込んだ。そして 2001 年、老舗の松 菱百貨店も倒産した。松菱は、1937 年、県内初のエレベーター付きの百貨店として開店。 スマートな制服とフォードの自動車を使った配達で人気を集めた。戦災で焼け野原となっ た市中心部で生き残ったビルは、浜松市民の復興のシンボルとなった。1949 年 11 月に全 売り場の営業を再開し、1951 年には沼津支店が開店された。1960 年には全館冷房を導入し、 その後も赤電話コーナーやギフトセンターをいち早く設けたり、教育事業に乗り出すなど、 斬新な試みで県内最大の百貨店に成長した。しかし、郊外へ消費者が拡散する一方、同じ 中心部では商品開発力に勝る遠鉄百貨店と競合、松菱の低迷が続き、ついに 64 年の歴史に 幕を下ろすことになった。そして、松菱と隣接していたザザシティーが、一昨年経営難で 浜松市に財政援助を要請している。これも、中心部の空洞化が影響しているのだが、街の 顔とも言うべき百貨店が撤退するということは、中心部の客足がさらに減るということで ある。中心部に来る人の絶対数が減れば、商店街やその中の個人商店がいくら努力をした ところで客数は減る一方になり、それまで確立していた、 「百貨店に行ってから周りの商店 街に足を運ぶ」という回遊性がなくなってしまうことになる。松菱の倒産の例でいうと、 それまで商店街がターゲットにしていた年配の客層が、倒産によりますます中心部に足を 運ばなくなっている。浜松商店界連盟事務局長の江藤氏が、「百貨店ががんばってくれない と商店街だけの努力では効果は薄い」と言っていることからも、百貨店の倒産及び撤退が 中心地経済に与える影響がいかに大きいものかがわかる。松菱の跡地には未だ当時の建物 が残っており、利用されないままとなっている(図5)。 さらに、現在残っている駅周辺の大規模小売店のうち、イトーヨーカ堂が撤退を検討し ているという。以下はそれに関連した新聞記事である。 記事3 ●07 年撤退を検討 ヨーカ堂浜松駅前店 イトーヨーカ堂が浜松駅前店を二〇〇七年をメドに閉鎖する方向で検討しているこ とが三十日、明らかになった。郊外での大型店出店が相次ぎ、市中心部の来街者の減少 に歯止めがかからないことが最大の要因とみられる。店舗建物を所有する地権者法人で は契約条件の見直しなどを提示し、ヨーカ堂に引き続きとどまるよう働きかける考えだ。 駅前店は地権者が主体となって建設した「浜松ショッピングセンター」の核店舗とし て一九八七年七月にオープン。売り場面積が約一万二千平方メートルで当時はヨーカ堂 の中では東海地区で最大規模の店舗だった。 ただ、市郊外にはイオンやホームセンター最大手のカインズ(群馬県高崎市、土屋裕 雅社長)などが大型ショッピングセンター(SC)を相次ぎオープン。ヨーカ堂自身も 二〇〇〇年に郊外の大型SC「浜松プラザ」に浜松宮竹店を開業している。一方、市中 心部では西武百貨店の撤退や老舗百貨店「松菱」の経営破綻などで回遊人口の減少が続 いている。 駅前店の賃貸契約は〇七年七月までの二十年間。イトーヨーカ堂は〇六年七月前後を メドに契約を更新するかどうかを正式に表明するとみられる。地権者法人は契約更新に 向けて賃料引き下げなど条件を提示するとともに、浜松市に対しても支援を要請するこ とも検討している。 (日本経済新聞 2005) ここからも、中心部の地盤沈下が以下に深刻なものかというのがわかる。 図5 松菱とザザシティーの連絡通路 完成直後に松菱が倒産したため、人が通ることはなかった。 (筆者撮影) 6.中心商店街が復活するには はじめに挙げた 3 つのキーワード、 「ライフスタイルの変化」、 「郊外型大型小売店舗の進 出」、「中心市街地の衰退」は、ひとつの軸として互いに作用仕合い、また、中心商店街の 衰退に密接にかかわっていることがわかる。これが時代の流れと言ってしまえばそれまで だが、浜松市商店界連盟が創立 50 周年に作成した、『行きたくなる、歩きたくなる そん な街にしたくて 50 年』という冊子の中で行ったアンケートによれば、実に 84%の人が浜松 に中心商店街は必要だ、と答えている。その理由は、「買い物に便利だから」といったもの から、「浜松の顔として誇りにしたい」といったものまであった。これだけ多くの人が商店 街が必要と考えている以上、中央商店街の復活が望まれる。では、そんな中心商店街がこ れから生き延びていく可能性はあるのだろうか。 衰退の原因やプロセスの中には変えられないものもあれば、変えられるものもあるはず である。難しいかもしれないが、今一番求められるのは、中心地の大型小売店の復活、又 は跡地利用であろう。まずは中心地に人を集めることが第一条件である。そのための魅力 ある街づくりも必要になってくるだろう。そして、中心商店街自身の努力である。たとえ 大型小売店が復活したり、その跡地が魅力ある施設に変わって中心部に人が集まったとし ても、商店街に魅力がなければ人の遊性が無駄になってしまう。さらに、中途半端なもの は売れない世の中になっている現在では、より魅力的な商店街を作らなければならない。 商店界連盟事務局長の江藤氏は、「自分の土地、建物で商売をしてきた商店は、商店街が苦 戦を強いられている中でも善戦している」と述べていたが、これは、老舗の商店は古くか らの固定客により客離れを最小限に食い止めているからである。また、新しい店舗でも、 個性的な店はやはり強いそうだ。一商店としての店側の努力も求められる。 中心商店街は、市の中心に位置する、個人商店の集合体である。これからの時代、街づ くりや商店街全体の改善から、一つ一つの商店の改善まで、あらゆる主体が努力をしてい かないかぎり、中心商店街が生き残っていく術はないであろう。 <参考文献・サイト> 自動車検査登録協力会(http://www.aira.or.jp/) 中日新聞 2005/10/12 日本経済新聞 地方経済面 (静岡), 2004/07/09 日本経済新聞 2005/05/31 浜松市商工部『浜松市の商工業 H16 年版』 浜松商店界連盟『行きたくなる、歩きたくなる そんな街にしたくて50年』 浜松市 HP(http://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/index.htm) 岐阜市柳ヶ瀬(やながせ)商店街 経済学部 2 年 21 組 山田将平 1. はじめに 近年、全国的に商業の構造が変化している。昔に比べ金銭的に豊かになり、モノがあふ れ、人口は減少傾向にある。日本で古くから存在する「商店街」も例外ではない。全国の 商店街のなかには変化に巻き込まれ苦戦している所が少なからず存在する。岐阜県の柳ヶ 瀬商店街もその一つで、苦しんでいる。 柳ヶ瀬商店街が苦戦しているのはもちろん長く続く不況の影響もあるだろう。しかし不 況だけが原因ではない。不況下でも健闘している企業はいくらでもある。駐車場もなく小 さな店が多い商店街は構造不況に陥っているという考え方もできるが、同じ商店街でも善 戦しているところも少なくない。ではなぜ柳ヶ瀬商店街は苦戦しているのか、あるいは構 造不況を克服できないのか。その理由の一つとして時代の変化に対応できていないことが 考えられる。日本経済は成熟している。消費者の好みは多種多様になり商店も、百貨店、 スーパー、専門店からコンビニまで多様化している。もはや経済成長のおかげで黙ってい ても客が来る時代ではない。この大きな変化に商店街は対応できていない、努力が周りに 追いついていないのは明らかだろう。苦境を乗り越えるためにはまず商店街自身の努力が 必要なのは間違いない。 柳ヶ瀬商店街は苦境に立たされている。ただしそれは商店街だけに原因があるのではな く、街全体の衰退とも密接に関係している。柳ヶ瀬商店街に限らず地方の中心地商店街の 多くに言えること、それは商店街の問題を商店街だけの問題としてはいけないことである。 商店街は百貨店などとともに街の核を担っている。商店街を考えるときは自ずと街全体を 考えることになるし、街を考えるときは自ずと商店街を考えることにもなる。 スーパーやコンビニ、郊外の大型店があれば商店街などなくてもよいかもしれない。し かし住民からの商店街への親しみや、街の顔としての機能・効果は大きい。青森市がコン パクトシティを目指したり、福島県が郊外大型店の出店を規制しようとしているのは、中 心地やその商店街に価値を見出しているからでもある。中心地市街地衰退が危惧され、活 性化の機運も高まりつつある。この危機は復活のチャンスだ。逆にこのチャンスを逃した ら商店街に未来はないかもしれない。 2. 岐阜市の概要 岐阜市は岐阜県南部、濃尾平野北部に位置する県庁所在都市である。人口は約 41 万人。 岐阜県内では最大人口都市(二位の大垣市は約 15 万人)。主要鉄道路線として JR 東海道線 と名鉄名古屋本線が走る。JR 利用で名古屋までは最速で 17 分。市街地は JR 岐阜駅、名鉄 岐阜駅から北に展開する。主な観光資源としては駅から北に約 3km の位置に長良川が流れ、 毎年晩春から秋にかけて鵜飼が行なわれる。また鵜飼場の近くに織田信長の居城であった 岐阜城(金華山)が存在する。 3. 柳ヶ瀬商店街とは 柳ヶ瀬商店街は JR 岐阜駅、名鉄岐阜駅より北に約1km に位置する岐阜県随一の商店街 である。東西、南北それぞれ約 300m 四方の区域を碁盤目状、網目状に商店街が展開して いる。高島屋百貨店を中心に展開している商店街で全面アーケードとなっている。自動車 は通行止めだが商店街の通路幅は広いところで車 4 台分くらいある。岐阜市の中心市街地 に位置することから地元住民の買い物場所という性質と、岐阜市および近隣自治体にとっ ての中心商業地という性質を併せ持つ。そのため八百屋、魚屋といった毎日の食料を提供 する店よりも、アパレル関係の店や飲食店、食料品であればお菓子などの店が中心で、ど ちらかというと「よそ行き」の性質が強い。もちろん毎日利用している地元住民もいるが、 一方で遠方から自家用車やバスで来る人が多いことからも「よそ行き」の性質が窺える。 ベッドタウンの駅前に広がるような、地元住民を対象とした商店街とは異なる。 また片側 4 車線の道路を挟んで西側には西柳ヶ瀬という歓楽街が存在する。このことも あって道路東側の柳ヶ瀬商店街にも一部歓楽街が食い込んでいる。歓楽街部分も全面アー ケードである。 なお、歌手の美川憲一氏のデビュー曲「柳ヶ瀬ブルース」はこの柳ヶ瀬商店街が舞台と なっており、柳ヶ瀬ブルースの歌詞が書かれたタイルを足元に見ることもできる。 4. 柳ヶ瀬商店街を取り巻く環境 4−1駅との地理関係 駅から多少離れてはいるが旧来より柳ヶ瀬は岐阜の中心商業地区である。2005 年 10 月 現在、岐阜駅地区には大型店として岐阜パルコ、ロフト岐阜、そして名鉄系の新岐阜百貨 店が営業している。そして柳ヶ瀬地区には前述の高島屋、そして名鉄系のメルサが営業し ている。この二つの地区を結ぶ道路沿いにも商店街が展開しておりこちらもアーケードと なっている(図1)。 図1 岐阜駅および柳ヶ瀬周辺地図 (Yahoo!地図情報より) (上地図は岐阜駅及び柳ヶ瀬商店街の周辺図。上方の太枠内で柳ヶ瀬商店街を、下方の二 つの太枠でそれぞれJR岐阜駅と名鉄岐阜駅を示す。二つの矢印で示すように駅と商店街 の間には距離がある。) 4−2 岐阜市街地の大型店 近年の岐阜市の商業地区は、柳ヶ瀬商店街だけではなく全体的に大苦戦を強いられてい る。10 年前には大型店として前述以外にも、岐阜駅地区にはダイエー、柳ヶ瀬地区には近 鉄百貨店、長崎屋が存在した。これらは全て撤退・閉店されており、長崎屋にいたっては 跡地利用もされぬまま、商店街の中にシャッターが閉まったビルが現在も存在している。 さらに現在生き残っているなかでも、駅前地区では新岐阜百貨店の 2005 年末閉店、岐阜パ ルコの 2006 年夏の閉店が決定している(いずれも建物の老朽化に対する耐震工事の費用が 賄えないことが閉店の大きな原因の一つとなっている)。 4−3 路面電車 2005 年 3 月 31 日まで岐阜市街地には名鉄により路面電車が運行されていた。長年赤い チンチン電車として愛されてきたが、利用客の減少により廃線となった。岐阜県は自動車 の保有率が高い(2003 年度全国 6 位、世帯あたり 1.69 台)のも廃線の一因といえる。架線 は撤去されたが軌道は廃線後もそのままになっており、現在高島屋や郊外のショッピング センターなどが中心となって路面電車の復活に向けての運動が行なわれている。 4−4 柳ヶ瀬商店街の現状 柳ヶ瀬商店街の現状はたいへん厳しい。以前より人通りが減っているのは誰の目にも明 らかであり、数字的にも人通りはピーク時の 3 分の 1、岐阜市中心市街地の商店数は、ピー クであった 1982 年の 5849 店から 2002 年の 3483 店まで約 4 割減少(日経MJ、2005 年 11 月 7 日付)、商業販売額はピーク時の 1991 年 1182 億円から 2002 年 638 億円まで約半 減(日経MJ、同日付)、周辺人口は 20 年前の 15 万人から現在では 7 万人にまで減少して いる。 柳ヶ瀬商店街の衰退で特徴的なのは、商店街単独での衰退ではなく岐阜市街地の商業地 全体の衰退の中に柳ヶ瀬商店街の衰退があるということである。つまり柳ヶ瀬商店街だけ でなく近隣の駅前商業地や百貨店まで危機的な状況にある。 5. 衰退の原因 柳ヶ瀬商店街および岐阜市中心市街地の衰退の原因として考えられるものをいくつか挙 げていきたい。 (1)郊外型大型店の出店 まず郊外型大型店の進出が挙げられる。80 年代後半、90 年代前半から現在にかけて岐阜 市郊外には郊外型大型店が次々開店している。従来から駐車場付きのスーパーマーケット は存在していた。しかし新しい郊外型大型店が従来のスーパーマーケットと違うのは長時 間滞在型である点である。従来のスーパーマーケットは、販売商品の中心は食品で、その ため買い物客の滞在時間はそれほど長くはない。つまり従来のスーパーマーケットは主に 日常の食料品の購入に利用されていた。一方郊外型大型店は食品スーパーに加え、専門店 がテナントとして多数入店しており、商品展開が幅広くなっている。平日に食品スーパー として利用されるのはもちろん、夜間や休日に家族連れなどで専門店などを中心に非食料 品を購入したり、飲食店などの娯楽的要素も備えている。この非食料品・娯楽的要素が柳 ヶ瀬商店街のような中心市街地にある商店街にとっては大きな脅威となっていると考えら れる。 商店街には、郊外の食品スーパーより規模は小さいがスーパーマーケット、あるいは八 百屋、魚屋などが存在している。さらに商店街には衣料品や雑貨などの非食料品の専門店 が存在する。また飲食店や柳ヶ瀬商店街で言えば、映画館やゲームセンター、食料品にし ても専門店など娯楽的・奢侈的要素を持つ店も存在する。これらが商店街とスーパーマー ケットの違いの一つである。この違いは柳ヶ瀬商店街のような中心市街地にある商店街に とって大きな売りであり、生命線であると考えられる。なぜならこの非食料品・娯楽的要 素という違いによる集客力によって通常の食料品店まで賑わい、最終的には商店街全体の 賑わいにつながるからだ。非食料品・娯楽的要素の部分で食品スーパーにはもちろん対抗 できるし、衣料品なども扱う総合スーパーに対しても娯楽的要素の部分で差別化はできた。 しかし非食料品に加え娯楽的要素も兼ね備えた郊外型大型店との競争力は乏しい。岐阜市 周辺には複数の自動車ディーラー、映画館、大型玩具店まで備えた郊外型大型店もあり資 金力や信用力を武器に積極的に展開されている。食料品・非食料品・娯楽という同じ要素 を持つ商店街と郊外型大型店を比較すると商店街は苦しい。柳ヶ瀬商店街は全面アーケー ドで全天候型ではあるが、郊外大型店には当然ながら屋根が付いており、さらには冷暖房 も完備されている。これに加え、大規模な無料駐車場が隣接されている場合がほとんどで あり、柳ヶ瀬商店街も含めて少し離れた有料駐車場しか持たない商店街とは比較にならな いほど利便性が高い。しかも先述のように郊外型大型店は資金力と信用力という協力な武 器を持っている。郊外型大型店が一店舗出店することは新しく商店街一つあるいは商店街 以上のものが一つできるのと同じ意味を持つ。このようなものが一つに限らず複数、多数 建設されれば商店街が苦戦するのも頷ける。 岐阜市周辺においては、郊外型大型店の出店は前述のように 80 年代後半から始まった。 定義が曖昧な点はあるが、専門店や大型無料駐車場を備えた郊外型大型店は平成 17 年 10 月現在、岐阜市内に 2 店、柳ヶ瀬商店街は岐阜市周辺の中心商業地なため商圏を周辺自治 体まで広く捉える(半径約 15km)と 8 店存在する。これはあくまで専門店と大型駐車場 を備えた店舗であり、専門店がないあるいはわずかであるような大手スーパーの売り場が 中心の総合スーパー(GMS)や、規模はとても大きいが専門店がないスーパーセンターは これらの数字に含まれていない。 これだけの数の競合相手が存在するのは、柳ヶ瀬商店街にとって大きな脅威であるし、 さらには、岐阜県は自家用車の保有率が高く、公共交通機関がそれほど整備されていない 車社会のため、こういった郊外型大型店が成立しやすい土壌なので、郊外型大型店が今後 も増加していく可能性があるかと思われる。 (2)自動車中心の交通 大型店進出の後押しともなっているように、岐阜県の交通は自動車中心となっている。 これにはトヨタ自動車を擁する自動車王国愛知と隣接していることや、車庫を確保できる 十分な住宅面積が理由として挙げられる。さらに、中心市街地の空洞化には、これらの理 由だけでなく、岐阜市の交通政策も大きく関係している。 岐阜市議会は昭和 42(1967)年、路面電車撤廃決議を可決した。この時期、岐阜だけで なく日本全体が高度経済成長とともにモータリゼーションの時代を迎えていた。自動車が 増えるなかで市街地を走る路面電車は、自動車通行の妨げとなるため岐阜市議会はこれを 決議した。ちなみにこの決議は 2005 年 11 月現在においても有効である。 (3)近すぎる脅威・名古屋 先に述べたように岐阜駅から名古屋駅までの所要時間は短い。料金もJR利用なら 450 円である。この名古屋への近さが、近年岐阜市中心地にとって大きな脅威となっている。 脅威が初めて具体的に表れたのは 2000 年のJR名古屋高島屋の開業だ。名古屋には駅周辺 の名駅地区から東に約3km 離れた場所に東海地方最大の繁華街である栄地区がある。栄地 区には松坂屋本店、三越、丸栄の3百貨店やパルコ、ロフトといった大型店がある。一方 名駅地区は高島屋開業前までは名鉄百貨店と規模の小さい近鉄系テナントビル、売上高に して栄本店の 10 分の 1 以下の松坂屋名古屋駅店しかなかった。そこに高島屋が開業したわ けである。高島屋はいわゆる駅ビルであり駅の真上にある。駅の真上に大きなホテル、レ ストラン街、広い本屋、東急ハンズとともに高島屋という複合型大商業施設が現れた。 このJR名古屋高島屋の出現は、名古屋だけの話ではなく岐阜にもおおいに関係がある。 高島屋ができる前まで岐阜から「名古屋」に行くというのは主に栄地区に行くことを指し た。しかし高島屋ができてからは、栄の用事は名駅地区で済ますことができるようになっ た。柳ヶ瀬商店街が岐阜駅から離れているように、栄地区は名古屋駅から少し離れている。 岐阜の人が栄に行くというのは岐阜の中心地に行くのよりも手間がかかることからか、名 古屋・栄に行くということは特別なことだった。しかし名古屋駅に行くのは栄に行くより も手間がかからない。岐阜から少し足を伸ばせば名古屋駅、すなわち「名古屋」に行ける ようになった。岐阜よりもさらに「よそ行き」性を持つ名古屋が、「よそ行き」の商品力や ブランド力はそのままで、距離だけが近く身近な存在になってしまったのである。JR名 古屋高島屋の開業により、岐阜の中心商業地は急に名古屋との競合を迫られることになっ た。岐阜にとって規模も設備も上回る名古屋との競合条件は極めて厳しい。 JR名古屋高島屋の影響を最も如実な形となって表れたのが岐阜パルコの撤退決定であ る。高島屋開業以前は一時的に売上高が下がっても、改装などで前年度比 100 パーセント 前後の売上高を維持してきた。しかし高島屋開業後はそういった努力も効かなくなり毎年 売上高が減少し、閉店に至った。 6.復活の兆し 柳ヶ瀬商店街も現在の厳しい状況に対して何もしていないわけではない。結果が出てい るかは別として、どのような取り組みが行なわれている実例をいくつか挙げていきたい。 (1)コミュニティバス 柳ヶ瀬商店街の特徴の一つとして駅から離れている点がある。街全体が集客力を失って いるなかで、この距離は弱点ともなりかねない。そこで駅と商店街の実質的な距離を縮め るために、コミュニティバス「柳バス」(やなバス)が運行されている。この柳バスは運賃 が 100 円で、毎時 15 分間隔で運行され、30 分で 1 循環する仕組みである。岐阜駅を発着 点とし、柳ヶ瀬商店街の東西南北 4 辺を 1 周して岐阜駅に戻る。 柳ヶ瀬商店街に限らず全国の中心市街地の弱点として駐車場不足がある。この柳バスは、 駅と商店街を安価かつ高頻度で結ぶため、自動車から公共交通機関での来客を促す誘因に なり、駐車場不足を克服する一助になり得る。また路面電車が廃止された現在、柳バスは 路線バスと共に駅と商店街を結ぶ架け橋の一翼を担っており、その存在意義は今まで以上 に大きい。駅と商店街を安価に行き来できるということは、電車で岐阜駅まで来てそれか らバスで商店街へ行くという流れをつくることができる。これは商店街地区と同時に駅前 地区の振興にも有効であり、岐阜中心部へ向かう路線バスが通っていない地域の交通弱者 を中心に、鉄道とバスを組み合わせた広域的な集客が図れる。 (2)路面電車復活への取り組み 岐阜市では名古屋鉄道により長らく路面電車が運行されてきた。しかし前述したように 過去に岐阜市議会は路面電車撤廃決議を可決している。決議可決当時は高度成長期の真っ 只中であったし、現在のような中心市街地の空洞化など予想されていなかっただろう。岐 阜市の路面電車は、最盛期には岐阜市内から郊外まで幅広く走っていたが、次第に廃線に なり 2005 年 3 月をもって最後まで残っていた 2 路線が廃線となった。40 年近くも前の決 議が未だに有効なこともあって、路面電車への行政からの風当たりは強かった。通常、路 面電車の軌道内を自動車が走行することは理想とされていないが、岐阜の路面電車では最 後まで路面電車の軌道内を自動車が走行でき(図2)、さらに利用者のための安全島もない ような状況だった(図3)。 図2 軌道内を走る自動車 (筆者撮影) 図3 安全島のない停留所 (筆者撮影) 路面電車の廃止の直接的な原因は利用者の減少だが、その利用者の減少に行政の交通政 策が少なからず影響を与えていたのは間違いない。具体的に路面電車がどれくらい街の賑 わいに貢献するのかは判定しにくい。しかし実際ヨーロッパでは路面電車導入により市街 地の人通りが 5 割増加したとのデータも存在する。 路面電車は岐阜のシンボルとして愛されてきた。利用者は年々減少していきその結果廃 止が決定されたわけだが、廃止決定後沿線住民のあいだで反対運動が起こり署名運動にま でなった。確かに路面電車は利用者が少なく、商店街や市街地への直接的な経済効果は小 さかったかもしれない。しかし住民は利用しないにもかかわらず路面電車の廃止には反対 であった。つまりシンボルとして残してほしい、愛着があるから何となく残してほしいと 思っていたわけである。シンボルや愛着のある物が街から消えたことで、住民の街に対す る親近感や愛着まで消してしまった可能性がある。そう考えた場合、もし路面電車が消え ることによって街への親近感や愛着が消えてしまったとすれば、市街地や商店街への影響 も当然ある。もちろん親近感や愛着が消えたと断言できるわけではないが、その可能性が あることは認識しなければならないだろう。 廃止反対署名運動があったように、廃止された路面電車を復活させようとする取り組み も行なわれている。電車に限らず復活運動はよくあるが、岐阜におけるこの取り組みには 特徴的な点がある。まず、基金方式が採られている点だ。エンジェル基金と名づけられた この基金は、住民などから広く基金を募り、これを将来路面電車復活が実現した際に、新 会社設立のために拠出するということになっている。路面電車の復活を求めて単に声をあ げるだけでなく、実際に行動を求めている点は画期的である。1 口 1 万円のこの基金はエン ジェル基金公式ホームページによると 2005 年 10 月 21 日現在 655 万円集まっている。 次に特徴的なのは大型店が協力的であるということだ。基金の受付窓口として高島屋と、 共にイオン系のジャスコを核テナントにもつマーサ 21 とマーゴの計 3 店が協力している。 柳ヶ瀬商店街の中にある高島屋が協力するのは自然かもしれないが、後者のマーサ 21 とマ ーゴは典型的な郊外型大規模ショッピングセンターである。しかもマーサ 21 は岐阜県にお ける郊外型大規模店のさきがけであるし、マーゴはそのオーナーがエンジェル基金の主要 な呼びかけ人の一人となっている。なぜ郊外型大型店が協力的であるのかは定かではない が、この事実は大変興味深い。 路面電車復活運動の最後の特徴として、積極的な路線計画を挙げることができる。具体 的には廃止された路線をそのまま復活させるだけではなく、近隣の第 3 セクター路線との 乗り入れを計画している。少々強引な解釈かもしれないが、この乗り入れが実現すれば岐 阜市中心市街地の商圏は大幅に広がる。 行政や名鉄などとの交渉は決して順風満帆なわけではないようだが、行政に頼ってばか りではない民間主体のこの取り組みは確実に進んでいるようだ。 (3)高島屋改装 2005 年 10 月 1 日、高島屋岐阜店は開業以来の大規模な改装オープンをした(記事1)。 記事1 『改装高島屋、新たな船出 大型店閉鎖続く中、地元も大きな期待 柳ケ瀬 /岐 阜県』 岐阜市・柳ケ瀬の岐阜高島屋が大規模な改装を終えて 1 日、リニューアルオープ ンした。 約 20 億円の事業費を投入して売り場面積を拡大、新たに 60 ブランドを商品に加 えるなど品ぞろえを充実した。岐阜市ではここ数年、中心市街地で大型店の販売不 振による閉鎖が続き、今年も新岐阜百貨店と岐阜パルコが売り上げ低迷を理由に相 次いで撤退を表明、商業活動の地盤沈下が深刻になっている。老舗(しにせ)繁華 街の空洞化も懸念される中、岐阜高島屋の改装オープンにかける市民や地元商店街 の期待は大きい。(内山修) 「いらっしゃいませ」――。1 日午前 9 時 55 分、松原久男社長が、新店舗のガラ ス張りのドアを開けると、開店前から詰めかけていた客たちが、どっとフロアの白 いタイルがまぶしい店内へ吸い込まれた。 ●売り場を拡大 店の前にはこの朝、約 1100 人が開店前から列を作った。午前 8 時から並んだ同市 忠節町の主婦(71)は「長年通っているが、雰囲気が変わった。店内が明るくなり、 品ぞろえも豊富になった」と顔をほころばせる。 新店舗は、これまで公共空き地が必要だった都市計画法上の制限が緩和され、1、 2 階を全面的に売り場に改装。店舗面積は前より 1 割、約 1800 平方メートル広くな った。また、客層を 50―70 代に加え、新たに 30―40 代をターゲットに設定。「C OACH」や「FURLA」「4℃」「アンタイトル」など、女性向け人気ブランド 商品の売り場を開設、販売を強化した。 高島屋が岐阜に進出したのは77年。柳ケ瀬商店街の顔として成長、ピーク時の 91 年度は 250 億円を売り上げた。だが、郊外型ショッピングセンターの出現や、ジ ェイアール名古屋高島屋の開業などで客足が離れ、04 年度の売り上げは 170 億円ま で落ち込んだ。 今回の改装で、岐阜高島屋は今年度 22 億円の売り上げ増を見込む。松原社長は「開 店から 30 年たち、顧客のニーズに合った品ぞろえが不足するなど、努力が足りない 面があった」と総括。「名古屋や郊外店と競うのではなく、地域に根ざした店に再 構築したい」と話す。 ●商店もセール 地元商店街にとっても、岐阜高島屋のリニューアルは大きな刺激になりそうだ。 市商店街振興組合連合会の大塚滋治理事長は「昔は、商店街には百貨店へのライバ ル意識があり、関係は必ずしもよくなかった。それが今では高島屋頼み」と期待を 隠さない。 柳ケ瀬商店街では、リニューアルに合わせて様々なイベントを開催。各店も値引 きセールなどでにぎわいを後押しする。岐阜高島屋に近い靴店の店長(33)は「私 たちも岐阜高島屋を盛り上げていくつもり。柳ケ瀬に人が多く来れば、商店にとっ てもプラス」と話す。 しかし、期待の一方で課題もある。同市周辺では今後もさらに郊外型大型店の進 出が予定されているほか、新岐阜百貨店と岐阜パルコが閉店した後、駅前と柳ケ瀬 のつながりが薄まり、二極化が進むとの懸念もある。 松原社長は「本当の勝負はこれから」と気を引き締めている。 (岐阜新聞) 記事1の中にあるように、この改装の最も大きな部分は 1、 2 階部分が売場になったことだ。 普通は百貨店の顔である 1、2 階だが、高島屋岐阜店においては長年この部分は吹き抜けの 広場となっていた。実際に店の前へ行ってみて改装前後の入り口の印象を比べると、改装 前は広場の部分が人の少ない店内や商店街の閑散さをさらに引き立てていたが、改装後は 少なくとも外見だけは閑散さや淋しさがなくなり、百貨店らしい高級感のある面構えにな っていた。 高島屋にとっては今回の改装やこれからの運営は背水の陣だ。なぜなら赤字店だった岐 阜店は 2004 年に分社化され、独立採算制となっている。つまりここで経営が振るわなけれ ば閉鎖・撤退に直結するというわけだ。商店街にとっても高島屋が撤退するとなると核を 失い、致命的な打撃を受けることになる。今後は商店街と高島屋が一体となった活性化が おこなわれていくことだろう。岐阜市内で唯一の百貨店となった高島屋には、柳ヶ瀬商店 街に限らず岐阜市中心商業地の存亡の面からも注目が集まる。 (4)再開発の機運 岐阜駅前地区では数年前から再開発が盛んになっている。従来の顔であった名鉄岐阜駅 前周辺の建物の老朽化を尻目に、ほんの少し離れた JR 岐阜駅周辺では新しいビルが次々建 設されており、今年になって空中回廊も部分的に運用が開始された。97 年の JR 岐阜駅の 高架化に始まり、07 年には県内初の超高層ビルとなる岐阜シティ・タワー(高さ 163m) が完成予定である。このように駅前地区では大型店の閉店と同時に再開発も着実に進みつ つある。 一方の柳ヶ瀬地区は近鉄百貨店の跡地が中日新聞社の社屋になった以外は目立った再開 発は行なわれてこなかった。しかし 05 年 10 月に、13 階建ての再開発ビル計画が発表され た。完成後のビルは、低層部分は商業施設だが中高層部分は福祉施設や老人ホームとなる 予定である。この再開発計画は商店街組合が中心となって進められる。行政や最資本主導 ではなく、商店街組合主導で再開発が行なわれるのは大きな意味がある。再開発ビル自体 の効果も大きいがそれ以上に、この計画は衰退を続ける商店街をあきらめずに自らの手で 何とかしようという機運が盛り上がってきている証拠であり、これは今後様々な活性化活 動につながっていくだろう。現在商工会議所内にある商店街の事務所も、05 年中には商店 街内に移転する予定があり、商店街も活性化に対して本気になってきたと言えるだろう。 7. まとめ 柳ヶ瀬商店街の前途は多難だ。商店街自体も寂れてきている上に、岐阜市の中心地全体 が集客力を失いつつある。既に体力を消耗している商店街が単独でいくら頑張っても賑わ いを取り戻すのは容易ではない。先にも述べたが、やはり柳ヶ瀬商店街の問題は街全体の 活性化と同時に考えていかなければならない。商店街、大型店、行政、その他の街を構成 するものが一体となって活性化に取り組まなければならない。とは言っても商店街には商 店街の思惑、大型店には大型店の思惑があるため、街全体からコンセンサスを得るのは現 実的ではないかもしれない。しかしせめて商店街と高島屋、駅前再開発と行政のように協 力できるところは協力していかなければならない。路面電車復活にむけて高島屋や商店街 などが協力しているのは良い例だ。 街の活性化には行政の力が必要になる。行政任せの活性化ではうまくいかないことも多 い。しかし民間だけでも限界がある。せっかく路面電車基金のような市民レベルから商店 街再開発、高島屋改装といった企業レベルまで岐阜の現状をなんとかしようとしているの だから、行政はもっと協力的に民間の後押しをするべきだろう。行政がかかわると税金の 無駄遣いのイメージが浮かぶかもしれない。しかしそれは住民無視のハコモノ行政などを 指すのであり、地域や街の声を組み入れた活性化であれば決して無駄遣いではない。県も コンパクトなまちづくり、中心部再生に向けて舵をきり始めたようだ。既に県と岐阜市は 協同で「県都岐阜市のまちづくり協議会」を発足させた。行政の後押しと民間の努力は活 性化の両輪だ。どちらか一方が欠けても本当の活性化は実現できない。 岐阜は大型店の撤退や中心市街地の衰退といった大きな闇のなかに中心部そして商店街 再生にむけての小さな光がある状態だ。岐阜にとって今後 5 年が勝負となるだろう。街が、 行政が、そしてできるなら住民を巻き込んでどれだけ一体となり本気となれるかが勝負の 分かれ目だろう。 <参考文献> 岐阜新聞ニュース 2005 年 10 月 2 日(http://www.jic-gifu.or.jp/np/) 岐阜新聞ニュース 2005 年 10 月 28 日(http://www.jic-gifu.or.jp/np/) 日経MJ(日経流通新聞)13 面 2005 年 11 月 7 日 柳ヶ瀬商店街公式 Web サイト(http://e-yanagase.com/) <取材協力> 岐阜柳ヶ瀬商店街振興組合連合会 正村周一氏 柏二番街商店街――駅前の商店街 商学部 2 年フ組 中村絵里子 1.序文 JR 柏駅東口前にある柏二番街は県内で指折りの元気な商店街である。現在、長さ 250m の商店街の中に 44 店舗がある。柏二番街は駅前の商店街であり、小規模小売店が中心であ るが、丸井や新星堂カルチェ 5、長崎屋、KEIHOKU など、都心同様の品揃えをしている 大型店舗も存在する。駅前にある以上、商店街を脅かす大型商店の進出はどうしても避け られない環境にあるのだが、このような状況下でも柏二番街は衰退することなく今日まで 発展してきた。 駅前で人が多く集まるはずなのに衰退している商店街は日本で多く存在する。しかし、 柏二番街は、日曜・祝日で約 3 万人、平日でも 2 万人を超える人が訪れる。若い女性を中心 に自転車の主婦、サラリーマンまで、人の流れが止まることはない。しかし、そんな柏二 番街もこれまで、商店街の衰退を招きかねない 3 つの大きな外的脅威を経験してきた。そ れらはすべて商店街を取り巻く環境の変化に由来している。すなわち、駅前再開発などに よる大型店の進出、やがてそれら大型店が時代の流れにあわせてターゲットとする客層を 若年層に絞り集客を図ったこと、そして最後に柏郊外地域への大型店の進出である。しか し、その都度、二番街商店街のシンボルとなるアーケードの架け替えや、また、柏市と官 民一体の「若者の集う街」というイメージ戦略の推進の一躍を担うことで、商店街の活性 化を進めた。このように、柏二番街は商店街が置かれている環境の変化にいち早く反応し、 大型店の進出を悲観するのではなく、これをむしろ好機としてとらえ、大型店に来る客層 を想定して積極的に様々な対策を講じた。結果、柏二番街は柏駅前でも最も賑わいのある 商店街となった。 2.柏市・柏二番街の概略 柏市は、千葉県北西部の東葛飾地域に位置し、地理的には首都圏東部の中心的な地域と なっている。柏近郊の市も都心まで 1 時間のベッドタウンであり、柏はベッドタウンの中 心市街である。柏駅は東武野田線と JR 常磐線が乗り入れ、1日の合計乗降数は約 50 万人 弱、県内では1位で首都圏では 16 位にあたる。柏の商圏人口は 200 万人(県北西部・茨城 県南部・埼玉県の一部の 14 市 12 町村)である。県内だけでなく埼玉や茨城などからも人 が来る柏市は広域型商圏であり、人が集まるといった点では最高の環境にあるといえる。 そのため、柏駅周辺には数々の大型百貨店がある。実際柏駅周辺では生活必需品のような 最寄品ではなく、衣服のような買回り品を買う客がほとんどである。 柏二番街は柏駅東口側にあり、南口にそのまま直通している。客は東口駅前(そごうな ど)から二番街、丸井、そして南口へ、またその反対のルート、と流れる。つまり、柏二 番街は大型店からくる客を吸収できる立地条件である(図1)。 図1 柏駅周辺マップ (二番街ホームページ) 二番街は飲食店が多いが、大型店やチェーン店も存在する。大型店は 5 店、丸井や新星 堂、長崎屋、スーパーKEIHOKU、ABC−MART がある。また、既存の店舗の売り場面積 を縮小し、売り場の一角をチェーン店に貸すといったテナント化も進んでいる。この例が 靴の大型チェーン店の ABC−MART である。柏二番街も値段が安く商品も豊富なチェーン 店の進出は避けられないが、柏市自体が賑わっていて地価が下がらないため、空き店舗が 出るという状況にはなっていない。 3.柏二番街の盛況とその客層 柏駅周辺には多くの商店街が存在するが、柏二番街は,先にも述べたように、柏の駅前で 一番栄えている商店街である。また、柏駅周辺にはそごうや高島屋などの大手百貨店やス ーパーが存在するが、柏二番街で買い物する客は多い。実際、商圏範囲の住民で柏に買い 物に来る客に、柏で普段買い物する場所を調査したところ以下の結果となった(図2)。 図2「柏で普段買い物する店」 普段買い物する店 60% 51% 50% 45.50% 41.90% 40% 30% 20% 10% 0% 柏二番街 柏高島屋ステーションモール 柏そごう (柏市統計書 2002 年度版) 図2のとおり、柏で買い物する客の利用する場所は、柏二番街が 51%で、大型店である 柏高島屋ステーションモール(45.5%)、柏そごう(41.9%)を抑え、堂々のトップだった。 これは二番街は全蓋式のアーケードが架けられ 1 つのショッピングモールのような雰囲気 を醸し出しているため、前述の大型店目当ての客も二番街に立ち寄る、という人の流れが できるためである。目的買いではなく「つい立ち寄りたくなる商店街」という二番街の目 指す商店街のかたちが実現されていると見ることができる。 また柏は、90 年後半から若者の街として度々メディアに取り上げられた。今では「東の 渋谷」と言われるまでの賑わいを見せるようになった。実際、二番街に来る年齢別客層を 見ると、20 代及び 20 代未満が客層の約半数を占める(図3)。これは柏が比較的新興住宅 街であり、柏及び柏の商圏にこの世代の人口が非常に多いこと、さらには、二番街自体が この層にターゲットを絞った結果である。 図3 二番街の客層 二番街の客層 その他 37% 30・40代 14% 20代 29% 20代未満 20% 20代 20代未満 30・40代 その他 (2001 年柏二番街マーケティング調査) このように、柏二番街商店街が力のある商店街である要因の 1 つは、ターゲットとする 客層を明確にしているということを挙げることができる。しかし、若者で賑わう二番街に も大きく分けて 3 つのポイントとなる商業環境の変化による影響を受けた。1973 年に行わ れた駅前再開発、1992 年の高島屋専門店街のリニューアルの結果客層が変化したこと、ま た 1990 年代後半から柏郊外への大型店出店により中心市街の落ち窪みが見られたことであ る。これらはどれも大型店による影響である。しかしこういった影響を受けながらも、柏 二番街は、商店街が一体になり商店街活性化を進めてきた。この 3 つの環境の変化による 影響にも二番街はあきらめず生き残る道を模索し、その都度、先見の明で様々な対策を講 じてきた。その対策は商店街のみならず、行政との連携もあった。官民一体となって柔軟 な対応をしてきたことが成功の秘訣だと思われる。 このように環境の変化を乗り越え今のかたちができた。その環境の変化とはどのような ものだったか、次から詳しく述べる。 4.駅前再開発事業の影響と対策 4−1 駅前再開発事業による大型店進出 昭和 48 年、駅前再開発事業によりそごうと高島屋の進出が決まった当時、市の人口は 20 万人に迫りつつあった。都心から 30km 圏のベッドタウンとして急速に発展しているとこ ろだった。当時の国鉄は常磐線の複々線化工事と、地下鉄の乗り入れを提示していた。実 現すれば快速電車が停車するようになり、都心への連絡がますます便利となる。ここで駅 前再開発事業が計画された。区画事業整理が開始され、駅前広場を、将来 50 万都市を目指 す柏市の表玄関にふさわしい形にしようとした。再開発に必要な事業費は柏の年間予算に 匹敵するという、巨大なプロジェクトだった。折よく国の施策「都市再開発法」による第 一号の認定を受けることができた。そして 1973 年(昭和 48 年)10 月、駅前再開発事業が 完成し、柏駅を挟んで東口には「そごう」、西口には「高島屋」という二大百貨店と、地権 者が入居した 2 つの地元専門店ビルがほぼ同時期にオープンした。 4−2 大型店出店による二番街の影響と対策 東口駅前再開発事業によって、駅に隣接した丸井柏店も大幅に増床した。さらにはその 他の既存の大型店も軒並み増床を表明し、市内における大型店売り場面積占有率は一挙に 70%近くまで達した。当時の二番街でこの駅前再開発事業の決定に、中小小売店はもちろ ん危機感を持ったが、商店街の中にある大手スーパーの長崎屋、みどり屋、扇屋も脅威を 感じ、やがて、二番街活性化の主導権を握った。この 3 店が中心となって全蓋式アーケー ドを造ることが決定された。 当時、二番街は「京北通り商店会」と呼ばれ、雨が降れば道路がぬかるみ、風が吹けば 土埃が舞う横丁であった。柏市商工会議所の指導の元、柏市と千葉県の援助を受け、アー ケードの建設に着工した。柏二番街商店会会長の石戸さんによれば、総費用が 4,000 万円、 うち自己負担率が 70%であった。一か八かの賭けである事業だった。そして 1972 年(昭 和 47 年)、県内初の全蓋式アーケードを完成させた。完成と同時に商店街は「柏二番街商 店会」に名称が変更された。 それでも柏駅東口にそごう、高島屋といった大手百貨店の進出の影響を大きく、柏市全 体の衣料品店は壊滅的な状況に陥った再開発から約 10 年の間で柏から衣料品店はその姿を ほぼ消した。昭和 49 年までに 216 店舗と、着実に増加傾向にあった衣料品店は昭和 51 年 には 209 店舗と初めて減少に転じた(1978 年度版柏市統計書より)。また、柏二番街商店 会会長の石戸さんによれば、二番街でも先の大手スーパー3 店のうち 2 店がつぶれてしまっ た。しかし、それでもアーケードの効果は大きく、大型店の客を二番街に引き寄せること ができた。七夕祭りを初めとするさまざまなイベントを開催し、多くの人を動員した。ま た、年に 1,200 万円かかるアーケードの維持費用を無駄にはできないという商店街の意気 込みにより、二番街はこの大型店進出と共に賑わいを見せ始めたという。注目すべきこと は、大型店の危機感によるこのアーケード対策により、中小小売店にも危機感が芽生えた ということである。アーケードという外面的な要素だけでなく、内面でも商店街としての 一致団結を見ることができた。このときに「自らが出資・投資しなければ客もお金を使わ ない」という意識が深く浸透したのだった。 5.高島屋専門店街のリニューアル 5−1 高島屋専門店街のリニューアルによる客層の変化 柏二番街に大きな影響をもたらした 2 つめの変化は、1990 年代前半からバブルがはじけ、 団塊世代にも購買意欲が薄れたころに訪れる。大手百貨店、高島屋の専門店の再編成であ る。二番街はまた新たな岐路に立たされた。1992 年に、柏高島屋専門店館を全面改装し、 「ステーションモール」という専門店館をオープンさせた。それがさきがけとなり、丸井 柏店が柏二番街に若者をターゲットにした専門店で占められている新館をオープンさせた。 これら新しい専門店の多くは都内でも若者の間でトレンドリーダーと呼ばれる店舗であり、 多くの若者で賑わうようになった。 5−2 客層の変化への二番街の対応 それまで二番街は家族連れをターゲットにしていたが、これを機に若者にターゲットを 絞ることにした。そこで二番街の外観の要となるアーケードをリニューアルすることにな った。柏二番街商店会会長の石戸さんによれば、アーケードのリニューアル事業をスムー ズに進めるため、同商店会では商店会を法人化して振興組合(組合員 32 人)を組織した。 国と県の補助を受けての総事業費は約 7 億 650 万円となった。組合員の負担分は 2 億 650 万円で、各組合員が道路に面した店舗の間口に応じて負担、15 年で返済することとなった。 建て替え時にはすでに柏高島屋専門店館「ステーションモール」はオープンしていたので 流行に敏感な消費者が柏に集まりつつあった。多少のコストアップは覚悟の上で、グレー ドを上げたデザインをアーケードに施した。リニューアル工事は 1995 年に完成した。また このアーケードのリニューアルを機に二番街全店も一緒に改装し、各店とも若者にターゲ ットを絞り、店舗レイアウトや商品構成、販売戦略を練っていった。その結果、先の図3 で示したように、二番街の客層は 20 代もしくは 20 代以下の客層が半分を占めるようにな った(図3) 。こうした客層の変化に対応し、商店街メンバーの長崎屋柏店でも若者中心の 店に衣替えした。これは商店街が大型店を取り込んだ珍しい例といえる。 5−3 アーケード事業後の動き 二番街商店会は、アーケードのリニューアル工事の完成でハード事業は一応終了とした が、21 世紀に向けたソフト事業の展開を次の目標とした。これは、組合員がアーケードを 架け替えた時点で、商店会の活動が終了したという意識を持たず、アーケード架け替え完 了が活性化のスタート、との意識をもちソフト面にも目を向けたためである。しかし、そ の事業の柱を何にしたらよいか判断をしかねていた。その矢先、商店会は千葉県中小企業 団体中央会の組合マーケティング強化対策事業があるのを知り、商店街の現状をより知る ため、マーケティング調査をすることにした。二番街商店街のハード事業の一環としてア ーケードのリニューアルは行ったが、次に何が求められているのか知るためである。この 調査事業により、柏二番街は「個性的な店が多く、個店の認知度は高いが、二番街という浸 透度は決して高くない」と指摘された。この改善のため焦点となったのが「顧客の開拓を図 る」「顧客の深耕を図る」「情報発信を図る」の 3 点である。こうして柏二番街商店会の販促 計画の柱は、 「情報発信により顧客の開拓と深耕を図る」というものになり、以下の計画が 立てられ実効された。 ① 情報誌『パサージュ』の発行 平成 9 年に第一号を発行。年 4 回の発行で各店の情報・商店街のイベント情報・そのほ か二番街の歴史やコラムなどを掲載し、来街者に好評である。 ② ホームページの開設 各店の情報・駐車場マップ・案内図などを網羅したホームページを開設した。今年は大 幅なバージョンアップを図り、将来はインターネット上で買い物のできるバーチャル(仮 想)商店街を作ることも検討中である。 ③ サテライトスタジオの開設 地元のケーブルテレビとタイアップし、商店街にサテライトスタジオを開設、近い将来 に商店街から生の情報を発信する計画である。 このように二番街は、アーケードを架け替えた時点で商店街の活性化への活動が終了し たという意識を持たなかったということが現在につながっている。 6.中心市街の落ち窪み このように、アーケードのリニューアル後も柏二番街は大きく発展を遂げていったが、 柏市近郊の発展により、1990 年代後半から中心市街の落ち窪みが目立ってきた。 6−1 郊外への大型店の出店 柏二番街に大きな影響を与えた3つめの変化は、柏郊外に次々と大型店が進出してきた ことである。これは柏近郊の発展により、マンション建設が進み、柏市近郊の人口が増え、 柏市内でも 2000 年までの間に 5 つの郊外のショッピングセンターができた。このことは、 1995 年から 1998 年の間に柏中心部の吸引率が減少したという事実からも明らかである(図 4)。柏の中心市街が落ち込んだ結果、テナントも集まらなくなってきた。 図4 柏市への吸引率 柏市への吸引率 30 29 % 28 27 26 25 24 1992年 1995年 1998年 2001年 (2003 柏経済ガイド) 6−2 中心市街の盛り返し そこで、柏の市役所の経済省、商工会議所、商店街が一体となり、1998 年、 「柏市商業 振興ビジョン」を策定した。これが基になって「柏駅周辺イメージアップ推進協議会」が 発足された。ここで主に取り上げられたのは、 「街のイメージアップ」である。ふつう街づ くりとは自然に形成されていくものだと考えられがちだが、自分たちが積極的に「ヒトや カネ」をつぎ込み、良いイメージを創り出そうと活動を始め、マスコミ受けするイベント を次々としかけていった。もともと柏はベッドタウンであり、団塊ジュニアが数多くいた。 またその当時柏に若い女性に最も人気のあった話題のブランド「エゴイスト」を有する柏 VAT 館がオープンしたのも相まって、 「若者が集まる元気なまち」というイメージを定着さ せていった。イベント戦略が本格化したのは、98 年に街づくり集団「ストリート・ブレイ カーズ」が発足したことがきっかけだ。柏商工会議所青年部が 20 周年事業の一環として、 柏市在住・在勤・在学を条件に、街づくりに興味のある 18 から 25 歳の若者を募集。60 名 を超す応募者全員をメンバーに迎え、コンサルタントの指導のもと、活動をスタートした。 若者たちは自由な発想でイベントを企画制作した。同協議会のイベント部会では、商業マ ーケティングコンサルタントとして有名な西川りゅうじんさんを起用した。その力は、98 年秋に実施された街角コンテスト「ストリートブレイク KASHIWA」に集約された。柏の 街に出没するストリート・ミュージシャンやダンサーをステージに上げて、パフォーマン スを競い合わせるというものだ。 「若者による若者のためのイベント」は成功を収め、以後毎年続けられるようになった。 ストリート・ブレイカーズは、ほかにも、一般の若者がモデルとなり周辺の店がコーディ ネートを競う「ストリートファッションショー」、柏をピーアールするオリジナル映像作品 による「コマーシャルコンテスト」などを展開し、行政とは違う視点で新たな若者文化を 生み出していった。これらのイベントは新聞やテレビで何度も取り上げられ、商店街の来 街者は次第に増えていった。また、彼らはストリート・ミュージシャンのコンテストを開 催するにあたり、駅周辺で弾き語りをしている若者を個々に回り、参加を促すだけでなく、 柏駅周辺の一角を使うときに守るべき一定のルールを理解してもらうよう努めた。 こういった官民一体となった街の活性化によって柏は他の商業都市と比べ地価が下がっ ていない。その結果後継者のいない身内がいなくても相応の賃料でテナントに貸すことが できる。 7.まとめ 柏二番街には今まで述べてきたように大きく分けて 3 つの商店街を取り巻く環境の変化 に影響を受けた。それぞれ駅前の商店街が受ける環境の変化である。また、それは商店街 対大型店という単純な構造ではなく、街全体、市全体の環境の変化に大きく影響された。 そのような中で柏二番街が、周りの環境の変化に屈することなく成功したのは、商店街の 意識の高さと、官民一体での「柏」という街全体のイメージアップに取り組んだ結果であ る。それは 1973 年の駅前再開発の際に商店街の存亡の危機にあたってアーケードを架ける という決定がなされたときから、商店街一体となってこの危機を乗り切ろうという意識が 生まれた。その結果、商店街一体となって危機を乗り越え生き残り、 「自分たちが商店街自 体に投資しなければ、客も商店街でお金を使わない」ということに気がついた。それがア ーケードの改築、各店舗の改装につながっていった。ハード面でのこうした事業の成果は、 外面的にも二番街として一体感を出し、それはまた、商店会組合員一人一人が「二番街」 のうちの 1 店舗として、改装に取り組む意識が芽生えるという内面的な意識にも働くきっ かけとなった。また「街」自体の活性を官民一体となって取り組んだことも成功の要因の 1つだと思われる。「街」としてのイメージアップに商店会自らが協力し、結果,「柏」の イメージアップは二番街に活性化をもたらしたのである。 駅前の商店街は環境の変化が激しい。二番街は常に先を見据え、柔軟な対応をしていっ たことが今につながっている。 <参考文献> 石戸新一郎(柏二番街商店会会長 県で1番元気な街 柏駅周辺イメージアップ推進協議会・会長)著『千葉 柏 「東の渋谷」の出来るまで!』(2000 年) 石戸新一郎氏(柏二番街商店会会長 柏駅周辺イメージアップ推進協議会・会長)へのイ ンタビュー調査(2005 年 10 月 7 日) 石戸義行氏(柏二番街・株式会社京北スーパー代表取締役社長)へのインタビュー調査(2005 年 10 月 7 日) 柏商工会議所『2003 柏経済ガイド』 柏市経済部商工課『柏市の商圏』(柏市役所発行、2002 年) 柏市企画部事務管理課『柏市統計書』(柏市役所発行、1978 年・2002 年) 振興組合情報 No.340 号 (2000 年 6 月) (http://www.syoutengai.or.jp/genki/chiba/340/340.htm) 全振連発行「続 元気のある商店街 100」より一部抜粋 (http://www.syoutengai.or.jp/genki/chiba/kasiwa2/kasiwa.html) 二番街ホームページ(http://www.chuokai-chiba.or.jp/nibangai/) 日本商工会議所月刊誌「石垣」99 年 11 月号 (http://www.jcci.or.jp/machi/h9911isigaki.html) 駒川商店街――地域との密着にかける 商学部 2 年ネ組 小川靖人 1.序文 駒川商店街は大阪市東南部の東住吉区にあり、近鉄南大阪線針中野駅と地下鉄谷町線駒 川中野駅の 2 駅に囲まれており、また南北は主要道路に囲まれているという来街に便利な 好位置名ある商店街である。日本の多くの商店街と異なり、シャッターを下ろしたままの 店はほとんど見当たらない。約 200 もの商店数を誇り地域に密着して発展をしてきた。大 阪府商店街連合会によると 2004 年度の大阪府全体での小売店の加盟店数は 31,196 店で、 この 5 年で約 6,000 店が減った。しかしながらこのような状況下、閉鎖店がほとんどない 駒川商店街の元気さは際立つ。商店街にある小売店の業種も多岐にわたっており活気があ り、多様なニーズに対応できることで好評を博し、一般消費者からは「駒川に行けば商品 が豊富で安い」と親しまれている。 駒川商店街は「地域住民とのふれあいのある街」をコンセプトとする商店街活性化活動 を積極的に展開し、イメージアップと集客力の拡大を図ってきた。これにより商店街のイ メージが向上するとともに、地域住民と心のかよったふれあいが実現された。商店街は、 街内の大型店とも協調し、地域の中心的商業集積を形成することができ、来街者数売上高 ともに増加し、空き店舗や休廃業も発生しなくなった。また、これらの事業を通じて、組 合員の組合活動に対する理解と信頼感が強まり、組合の求心力が強化した。商店街が成功 してきている要因としては、①組合理事長の強力なリーダーシップのもとに、役員と事務 局が一体となって組織づくりを行い事業の運営に当たっていること、②やがては商店街組 織の中核となる後継者の経営能力の向上などがあげられる。このように駒川商店街は、最 大限に地域との密着性を高めることで活性化を図り続けているといえる。 2.商店街の概要 駒川商店街は全長 730m(南北約 540m、東西 190m)の十字のアーケード型の活気あふれる 地域密着型商店街である。商店街のある東住吉区には約 6 万の世帯があり、人口は 14 万に 近い(表1) 。駒川商店街の位置する針中野・駒川商業地区には、駒川駅前商店会、駒川仲 通商店会、駒川五番街商店会、鷹合商店会などの商店街があり、さらに近商ストア、玉出 スーパーなどの大規模小売店が隣接し、東住吉区の中心的な商業集積を形成している。強 力な競合先として近鉄百貨店を中心とした天王寺・阿倍野商業集積地とジャスコ・ダイエ ーを核とした平野商業集積地や、同じくジャスコを核とした藤井寺地区が挙げられる。 表1 東住吉区の世帯数・人口 所帯数 61.043 世帯 人口 137.870 人 男 65.796 人 女 72.074 人 面積 9.75 k㎡ 平成 16 年 9 月 1 日 (駒沢大辞典) 3.昭和期における駒川商店街 3−1 外的脅威 昭和 40 年代から、商店街周辺へ大型チェーン店等の進出が相次いだ。昭和 62 年地下鉄 谷町線駒川中野駅から 5 分の位置にある出戸駅にダイエー出戸店がオープンし、昭和 63 年 11 月には、近鉄大阪線起点の阿倍野橋のターミナルに近鉄百貨店が、西日本一の売り場に 増床するなどにより商業環境が大きく変わった(表2)。こうした百貨店の増床、交通体 系の変化により、来街者数および売上高の減少が顕著となり、閉店する店舗も多くなるな ど商店街は厳しい状況に置かれた。 表2 商店街の位置する針中野・駒川商業集積地区への大型店の出店状況 昭和 41 年 10 月 万代百貨店(平成 15 年 11 月閉鎖) 昭和 43 年 8 月 イズミヤ(平成 13 年 5 月閉鎖) 昭和 46 年 6 月 ダイエー(昭和 60 年 1 月閉鎖) 昭和 51 年 4 月 ニチイ (平成 7 年 10 月駒川サティ→平成 14 年 3 月閉鎖) 昭和 51 年 11 月 近商ストア 平成 5年 6月 玉出スーパー (駒沢大辞典) 3−2 商店街の対策 このような背景のもと、将来を見通して、商店街を活性化する施策に迫られ新しい事業 を開始した。この時期に、東京世田谷区烏山商店街の桑島俊彦氏(現理事長)のスタンプ 事業講演を聴講し、大型店に対抗する方策はスタンプ事業であることを認識し、昭和 63 年 10 月にスタンプ事業の導入を決定した。導入に当たっては、先進の烏山商店街、大正区平 尾商店街を見学し、組合員の加盟への勧誘、銀行への協力依頼、スタンプ事業の問題点な どを中心に討議を重ね、167 店の加入(加入率 83%)により平成元年 3 月から実施した。 そして、スタンプとからめてスタンプの付加価値を高めるための多彩なイベントを工夫し、 これらを毎月実施する一方、顧客への情報提供として、情報誌やチラシを毎月配布してき た。これは「駒川ゲッ!報」と名付けられ、月 35,000 部を主な新聞 4 紙(朝日,読売,毎 日,産経)の折り込みを通じて配布している。内容は、店の紹介、セール・イベント、そ の他商店街にまつわる広告などといったものである。また、同紙はホームページでも閲覧 できるようにもなっている。買い物客の意識を的確に捉えスタンプ利用客への提供として は、イベント参加、買い物券、銀行(近畿大阪銀行、三井住友銀行、泉州銀行、UFJ 銀行)・ 郵便局へ入金を行うことでのポイントの現金化、映画館証券、セレッソ大阪観戦チケット、 提携する料理店への招待、地下鉄回数券、阪神高速回数券、駐車券の交換などを継続して 実施しており、人気を呼んでいる。 4.平成期における駒川商店街 4−1 外的脅威 各地の老舗商店街と同様、スーパー、百貨店の大型店に押されて買い物客の流出が進ん でいることや、95 年秋には隣接する阿倍野区に専門店ビル「天王寺ミオ」が開業し、これ らの大型店に顧客が流出することに商店街は危機感を強めていた。また、スタンプ事業か らの脱会が増えてきたということもあり、スタンプ事業による販売促進としての効果が薄 れてしまい新たな対策を講じる必要があった。 4−2 商店街の対策 大型店との差別化をはかるために商店街がより地域と結びつくための機能を取り入れる ことにした。消費者のニーズは、買い物の場のみだけでなく、社会的、文化的機能、情報 発信基地機能が求められているということと、また、地域振興に寄与する商店街活動を推 進するために老朽化した事務所の再生は、地域住民に愛される商店街の構成には欠かせな いということから、コミュニティーホールの建設に取り組んだ。建設費は商業基盤施設整 備事業に対する大阪府、大阪市の助成金や、経営の近代化、合理化等の体質の改善を図る 事業の際に大阪府が中小企業総合事業団と協力し、長期・低利の条件で融資する資金であ る高度化資金の借り入れなどにより、建設費を調達した。総事業費は土地、建物にパソコ ン、ビデオ・プロジェクターなど情報関連機器を含めて約 1 億 7 千万円であった。コミュ ニティーホールは平成 4 年 3 月に完成した。新施設の敷地面積は約 70 平方メートル、エレ ベーター付きの鉄筋 3 階建てで、延べ床面積は約 200 平方メートルである。建設に伴う組 合員 1 人当たりの負担は 20 年間で合計 48 万円、月額はわずか 2,000 円である。この低価 格は組合からの出資金 800 万円のほか、スタンプ事業の収益金 1,300 万円を事業費に充て ることができたからである。完成したコミュニティーホールは「ココロホール」と名付け られ、1 階は振興組合事務所と会議室、2 階は会議室(地域住民等にも開放)、3 階はカルチ ャー教室として使用されている。 また、駒川商店街振興組合(大阪市東住吉区、西川雄幸理事長)は 1997 年 5 月に隣接す る大型店との共同販売促進を開始した。これまで、ほとんど例のない館内放送やポスター を利用した宣伝面での協力が中心で、大型店と販売促進で連携し、他地区への顧客の流出 を食い止めるのが狙いであった。同商店街と協力するのはマイカルの駒川サティ、近商ス トア針中野店、イズミヤ駒川店であった。商店街の案内放送、掲示板、大型店の店内放送 や掲示板でお互いのイベント、セールの宣伝を行った。これをきっかけに、合同チラシ配 布や共同イベントの開催などに連携を広げていく計画である。また、区内の大型店と幅広 く協力体制を築き、地域の消費者の認知度を上げることを目標とした。 5.最近の取り組み 5−1 ハード面での取り組み 駒川商店街は昭和初期に誕生したため、商店街の老朽化がすすんでいたこともあり、地 域住民顧客への快適性利便性安全性、買い物環境の整備を目的にショッピングロードのカ ラー舗装化に取りかかり平成 5 年に完成させた。また、市街地にある駒川商店街では駐車 場を確保することが困難であったが、車利用客の利便を図るため、近鉄大阪線高架下に 37 台収容の駐車場を開設した(平成 4 年 12 月) 。現在この駐車場の設置により利用者に満足 してもらい、収益ももたらしている。また商店街内の自転車放置が通行に障害を生じてい ることを受けて、商店街組合は自転車整理係を雇い、放置自転車の整備に取り組んでいる。 また、クリーンレディーを雇用,商店街通路の美化にも努めている。これらの結果は良好 で、買い物の支障を取り除き、商店街のイメージアップにもつながっている。 また郊外型ショッピングセンターに押されて集客力を高めたい商店街に、特徴のあるア ーケードを取り入れ、売り上げ拡大、かつ商店街の近代化を目的に老朽化した商店街アー ケードの新築を行うことにした。これは、巨大映像スクリーンを備えた全長 730 メートル のアーケードである。平成 6 年 9 月から翌 7 年 3 月まで構想策定作業を行い、平成 7 年 9 月にアーケード準備委員会を組織して建設事業にあたった。全長 730 メートルの長いアー ケードであるため、平成 10 年度、平成 11 年度の 2 期工事の特別許可を受け、第 1 期工事 415 メートルを平成 10 年 9 月に着工し、平成 11 年 3 月に完成した。第 2 期工事は平成 11 年度内の 12 月 3 月に竣工した。約 50 メートルごとに 12 平方メートルの巨大スクリーン 13 枚を取り付け、総事業費は約 18 億円であった。各スクリーンに 4 台の映写機で風景や花火、 鳥など四季折々の映像を午後 5 時から午後 10 時ごろまで映しており、 「商店街の雰囲気が 明るくなり、映像のある地区は、ないところより人出が 30%ほど多い」とのことだ(駒川 商店街振興組合の西川雄幸理事長談)。総事業費約 18 億円のうち半分は助成金、残り半分 は無利息の高度化資金で賄ったが、20 年という返済期間は商店主らにとって楽ではない。 だが「子供、孫の代まで古いアーケードを残しておくわけにはいかない」と取り組むこと に決めた。また街路清掃などの種々の環境整備事業に地道に取り組んできた。 5−2 その他の地域に根ざした取り組み 駒川商店街の活性化にとって、「駒川祭り」の果たすウェイトは大きい。この祭りは、 針中野駅前通りの土曜夜市を商店街全体に拡大させたもので、毎年 5 万人を超える人出で 賑わい、いまや地域を代表する一大イベントとしてすっかり定着した。この祭りは,商店 街の一体化をうながし,地域住民には思い出づくりの機会となるほど,商店街の魅力維持 の財産となっている。駒川まつり事業として、このイベントのために毎年委員会を組織し、 意欲ある若手がこれを支え、この事業部の活動は目覚しく、商店街の活気づくりに貢献し ている。 1994 年、サッカーチームのセレッソ大阪のJリーグ入りが決定した時には、すぐに商店 街をあげての支援を決定した。これに伴い、商店街の近くの通りを「セレッソ通り」と名 付けた。また、チケットセゾンの協力もあって、商店街で運営する「ココロホール」で入 場券を取り扱うといった素早い対応は、理事の平均年齢が 40 歳未満というところからもき ているようだ。駒川商店街振興組合は斬新な発想を持って活躍する若手には、絶大な信頼 を置いているからこそ実現できたと言える。また、関西地区では絶大な人気を誇る阪神タ ガースにもしっかりと絡んでいる。阪神タイガースにちなんだ催しなども行われ、2005 年 のセントラルリーグ優勝の際には「おかだるま」を制作し、商店街で胴上げをした(図1)。 図1 おかだるま (デイリースポーツオンライン) 2001 年 1 月には、魚のおろし方など、近年忘れられがちな調理の基本技術を商店主が地 域住民に教える講習会を始めた。これは、商店主の知恵と技術を生かして、食品スーパー に奪われている客を呼び戻す考えから生まれたものだ。講習会は 1 カ月に 1 回、昼と夕方 に開かれている。会場は「ココロホール」にある商店街事務局の会議室が使われている。 講師は魚、茶店などの店主で魚のおろし方や煮付け方、緑茶のおいしいいれ方を、店で売 っている商品を使って教える。定員は毎回約 30 人である。無料だが、希望者多数の場合は 商店街のスタンプサービスで 3,000 円分をためた客を優先している。こういった講習会な どは商店街のチラシや掲示板などで開催の告知がなされている。須田良之商店街副理事長 は、「商店街の強みである職人技術や知恵をアピールして顧客との接点を増やし、地域で必 要とされる商店街を目指す」と意気込んでいる。 また、地元客に足しげく通ってもらう工夫も欠かさない。その一つが、昨年から始めた 携帯電話を使ったポイントシステム「タマール」である。買い物の際に携帯電話画面の 2 次元バーコードを読み取ってもらうと、マールと呼ぶポイントがたまっていく。これはス タンプ事業の販売促進効果が薄れてきているということを受け新たに試みられた事業の一 つである。さらには、消費者の購買頻度をさらに高めようと、須田良之商店街副理事長ら は「私らはアマゾン(ネット上の書籍販売)を見習うべきだ」と次の一手をすでに思案中 だ。 8.まとめ 現状に甘んじることなく店主一人一人に危機感を持って努力することの重要性を理事長 らが中心となって強調することで、駒川商店街は様々な取り組みを実行に移すことができ ている。地域に根ざした取り組みも数多く行われ、郊外型ショッピングセンターの勢力に も地域密着という力を武器に戦ってきている。一つの成功事例が必ずしも他の商店街にあ てはまるとは限らない。商業環境、条件が異なるわけであるから、消費者のニーズを的確 につかまねばならない。そして、やる気と企画力、発想力をもって新たなイベントの具体 的なアイデアを出していかなければならない。祭りへの参加などを通して、それを組合内 部ではなく地域の若い人たちから求めていくことが商店街の活性化には必要である。そし て、ニーズにかなった事業を数多く実行に移せる機敏な対応力があるからこそこの発展が 成り立っているといえる。よって組織のリーダーとなる人の柔軟な発想力や新しい発想を 許容でき、やる気を後押しする能力も活性化には欠かせない。 <参考文献> 『大阪府商工労働部金融室』 (http://www.pref.osaka.jp/kinyu/FAQ/KOUDOKA/koudo̲a1.html) 『桑島理事長[スタンプ事業について]・スタンプの効果』 (http://www.elmall.or.jp/riji/f3̲6.html) 『駒川商店街振興組合』(http://www.syoutengai.or.jp/genki/osaka/komagawa.html) 『駒川大辞典』駒川商店街作成 『先進組合情報詳細一覧』 (http://www.chuokai‑kagawa.or.jp/chuokai/sensin/sens̲detail.php?ID=08B26) デイリースポーツオンライン (http://www.daily.co.jp/gossip/2005/09/21/187963.shtml) 『日本経済新聞』地方経済面 (近畿特集) 『日本経済新聞』地方経済面 (近畿B) 31 面(1992/06/25) 10 面(2005/01/29) 『日経流通新聞』 13 面(1997/04/29) 『平成 12 年度京都市商業活性化セミナー』 (http://www.city.kyoto.jp/html/sankan/shogyo/chie/kassei12/0102.htm) モトスミ・ブレーメン通り商店街の繁栄を探る 商学部 2 年ミ組 岩田直樹 1.序論 モトスミ・ブレーメン通り商店街は、常に多くの客が集い、特に休日には前に進めない ほどの客で溢れかえる。その外見は中世ヨーロッパをイメージして作られており、商店街 の中心付近には「ブレーメンの音楽隊」に登場する四種の動物の像が設立され、楽しげな 雰囲気をかもしだしている。また、ドイツのブレーメン州にある姉妹商店街と提携してお り、交流の盛んな国際派の商店街であることもアイデンティティの一つとなっている。現 在多くの商店が周囲を取り巻く環境の変化に対応できなかったり、長引く不況の影響を受 けて衰退している。モトスミ・ブレーメン通り商店街も、他の商店街と同様に不況の影響 を受けて、以前ほどの年間販売額を維持できていない。さらに商店街を取り巻く周辺の環 境も不安要素となっている。それは、元住吉駅が各駅列車しか停車しないなどの交通に関 することや、商店街を構成する店にとって脅威となる大型スーパーが内外に存在している ことなどである。それでも、モトスミ・ブレーメン通り商店街は全国的な優良商店街なの だ。年間販売額も極端に落ち込むこともなく、その集客力もまだ健在といえよう。では、 いくつもの脅威にさらされながら、何故モトスミ・ブレーメン通り商店街は比較的栄える ことができたのであろうか。それはもちろんいくつも要因があるのだが、いずれにも共通 していることは、集客力を維持していくためには保守的な考えに留まらず、革新的なこと に取り組むという精神である。 2.モトスミ・ブレーメン通り商店街の概要 2−1 立地と構成 モトスミ・ブレーメン通り商店街は東急東横線元住吉駅のすぐ西に位置し、線路を挟ん で反対に位置するモトスミ・オズ通り商店街とともに元住吉駅周辺を商店街で形成してい る(図1)。モトスミ・ブレーメン通り商店街の全長は東西約 580 メートルである。商店街 周辺には約 250 の店が存在している。商店街の振興組合に属しているのは約 140 店舗であ り、その構成は、食料品・酒類販売店が 31 軒、食事所・喫茶店が 25 軒、洋服・和服・靴 販売店が 14 軒、生活雑貨・家電製品店が 12 軒、不動産・建築業者が 10 軒、銀行・証券会 社が 8 軒、薬局・化粧品販売店・病院が7軒、本・CD・文具販売店が7軒、スーパー・100 円ショップが6件、メガネ・時計・アクセサリー販売店が 5 軒、クリーニング店・幼稚園・ 学習塾が 5 軒、娯楽所が 3 軒となっている。この構成からこの商店街には、生活に密着し た飲食料品店、日用品店、飲食店が多いことに気づく。また 2002 年に商店街振興組合が行 ったアンケートによると、約 85 パーセントの客は徒歩または自転車で来ており、東急東横 線や自動車を利用してまで来る客は少ない。そのことから商圏は広いとは言えず、地域に 密着した商店街と言える(図 2)。 図 1 モトスミ・ブレーメン通り商店街マップ (モトスミ・ブレーメン通り商店街 HP) 図 2 商圏人口(徒歩圏人口) 居住人口 世帯数 総数 27,585 人 14,588 世帯 男性 14,124 人 人口密度 女性 13,461 人 171.28 人/ha (かわさきの商業) 2−2 年間販売額 モトスミ・ブレーメン通り商店街周辺の年間販売額を見ると、平成大不況の影響を受け つつも、比較的優れた集客力により年間販売額をある程度維持していることが分かる。ち なみにこの資料は、モトスミ・ブレーメン通り商店街周辺のデータであり、モトスミ・オ ズ通り商店街の年間販売額は含まれない(表 1)。 表1 モトスミ・ブレーン通り商店街周辺の年間販売額の推移 年間販売額 (億円) 1979 1982 1985 1988 1991 1997 2002 101.6102 109.7924 105.7524 148.2690 136.0653 137.690 124.6092 (川崎市商業統計) 3.衰退し得る外的要因・内的要因の出現 モトスミ・ブレーメン通り商店街にも、もちろん衰退に繋がる要因はある。それは外的 要因と内的要因に分けることができる。まず外的要因としては、元住吉より大きな商圏を 持つ近隣地区を挙げることができる。最寄りの駅である元住吉駅は渋谷と横浜を結ぶ東急 東横線の駅で、渋谷と横浜のほぼ中間に位置する。つまり、この立地では客が渋谷や横浜 に流れてしまうことも考えられる。また、元住吉は各駅列車しか停車しないが、急行で停 車する武蔵小杉駅、日吉駅が隣接しており、それらの駅に客が流れるということも考えら れる。武蔵小杉駅は東急東横線と JR 南武線に接続しているうえ、周辺には公共施設が集中 しており、この地域は現在川崎市の中でも二番目に栄えている。現在武蔵小杉周辺では年々 人口が増加し続け、大型マンションが建設され注目される地域となりメディアでも取り上 げられている。また、駅周辺には商店街に加え、マルエツ、イトーヨーカドーなどの大型 スーパーが存在している。そのため、今後特に武蔵小杉周辺はモトスミ・ブレーメン商店 街にとって競争相手になる可能性が高い。また、1996 年には東急百貨店日吉店が開業した。 当初ミニデパート風で高級な品物を扱っていたため、客層の違いによりモトスミ・ブレー メン通り商店街にとっては競争相手ではなかったが、後に一部がテナント化されたことで、 それらの店の客層がモトスミ・ブレーメン通り商店街の客層に近づいた。そのため、東急 百貨店日吉店はモトスミ・ブレーメン通り商店街から客を奪ってしまうのではないかと考 えられたこともあった。次に内的要因としては、大型スーパーによる商店街内の進出が挙 げられる。1960 年代になるとユニー、マルエツ、OK ストアーなどの大型スーパーが商店 街内に進出してきたことにより、従来から存在する店にとって、客を奪われてしまう可能 性があった。このような外的要因・内的要因によりこの商店街も、対策なしでは他の多く の商店街同様に衰退しかねない状態であった。 4.対抗策 4−1 ハード面の充実化、そしてドイツの商店街と姉妹関係を築く 1982 年神奈川県商工部は商業ルネッサンスという構想を立てており、モトスミ・ブレー メン通り商店街はこれとリンクさせるため「中世ヨーロッパのロマンと語らいの街づくり」 というテーマを設定した。そしてこのテーマに基づいた街の概観を新しくする工事を開始 し、1989 年についに完成した。その新しい外見は、ガス灯に似せた街灯や、モロッコ産赤 御影石の乱張り平板を使用したオープンモールの街路を整備したことにより、 「中世ヨーロ ッパのロマンと語らいの街づくり」を演出している。これと同時に、外見にふさわしい「モ トスミ・ブレーメン通り商店街」という名前をつけた。しかしブレーメンは実在するドイ ツの州の名前であるため、ドイツ大使館を通じてブレーメン州と交渉しなければならなか った。そして 1991 年に熱意が認められ、ブレーメンという名前の使用も許可されたうえ、 ブレーメン州ロイドパサージュ商店街と友好提携することができた。確かにハード面の充 実化は、物珍しさで集客力の増加を期待できるものである。しかしソフト面が充実してい なければ客は数年経てば商店街から離れてしまうものだ。 4−2「環境対策」に取り組み、全国的に名を馳せる (1)「環境対策」に着目する 1995 年頃、長い不況の影響で他の商店街と同様に、モトスミ・ブレーメン通り商店街も 影響を受けていた。そこでこの商店街がどうあるべきかという根本的な見直しが必要だっ たため、以前は地域のみの存在でよいという雰囲気があったが、この商店街を全国的に有 名にしようと考えるようになった。この頃、既にロイドパサージュ商店街と姉妹関係があ ったため、そこでそれを最大限に活かそうとした。そして当時日本ではどの商店街も目を つけていなかった「環境対策」に着目する。当時日本では使い捨てが美徳とされた時代に 珍しかった「環境対策」を商店街ですれば必ずマスコミが振り向くと考えた。商店街とし て抽選くじのような普通のことをしてもマスコミは注目しないが、斬新的なことをすれば 必ずマスコミは振り向くはずである。そうなれば進出を検討している店も客も注目して来 るようになり、街が活性化されるはずだという狙いがあった。当時からドイツは日本より はるかに環境対策においては先進国であったため、ロイドパサージュ商店街から環境対策 の知識を学ぶことができた。 (2)環境に取り組む商店街としてアイデンティティを築いていく (ⅰ)エコバッグ まず、ロイドパサージュ商店街を視察した後、1995 年 6 月にエコバッグの導入に取りか かった。これは客が買い物袋を持参することで、無駄なレジ袋のゴミを減らそうという狙 いがある。今では「マイバッグ運動」と呼ばれ各地のスーパーが行っているこの運動を日 本で初めて本格的に始めたのは、実はモトスミ・ブレーメン通り商店街である。ロイドパ サージュ商店街で実際に使われている布製のエコバッグを 2 万枚輸入し、 「エコバッグキャ ンペーン」を行い、エコバッグを地元の幼稚園児にプレゼントしたり、商店街セールの際 に無料で配布したりしてこの運動を軌道に乗せようとした。 (ⅱ)シンポジウムの成功、そして全国的優良商店街へ エコバッグキャンペーンに続き、 「商店街が取り組む環境問題」をテーマにした国際シン ポジウムを 1995 年 9 月に開催した。この頃は資源リサイクル法が制定される直前だったた め、当時の通産省の担当課長も訪れた。この国際シンポジウムの開催をきっかけに、モト スミ・ブレーメン通り商店街の環境対策の活動がマスコミに取り上げられるようになった。 これにより、狙い通り存在を全国に知らせることができたのである。この後、環境への取 り組みや業績が評価され様々な賞を受賞することとなる。同年 10 月には、かながわ地球環 境賞を受賞し、1997 年には、全国商店街振興組合連合会が選ぶ全国 10 ヶ所優良商店街に 選ばれる。さらに 1998 年には、当時の与謝野通産大臣が来街し、不況の中いかに健闘して いるかを視察した。1999 年には「環境にやさしい商店街」を宣言し、積極的に環境問題に 取り組んだとして神奈川県知事賞を受賞した。もちろん、これらは環境への取り組みや業 績が評価されたことによるものである。こうしてモトスミ・ブレーメン通り商店街は、様々 な人から以前以上に注目され、来客数も増えた。 4−3 リサイクルと販売事業をドッキング この後、商店街独自でリサイクル資源を回収するという段階に達し、最初はダンボール の集団回収から始まり、ペットボトルの回収機を求めるようになる。そして富士電機とい う会社から回収機を提供してもらい、1999 年 11 月 18 日から 12 月 2 日にかけ、ペットボ トルリサイクルキャンペーンを実施する。その内容は次のようなものである。ペットボト ル 10 本で1回の抽選に参加でき、当たりが出た場合にはペットボトルから再生された布製 のオリジナルエコバッグ、はずれの場合にはボールペン又はペーパーホルダーをプレゼン トした。このキャンペーン期間中、約 7 千本のペットボトルを回収した。 この活動の成功と住民の強い要望により、翌年にはペットボトルに加え、空き缶回収機 を併設する(図3)。1 年目の回収実績は、ペットボトル 56 万本、空き缶 22 万本、合計 78 万本を回収した。この回収を促進するために、次のようなリサイクルと販促事業をドッキ ングするシステムを採用する。①客が回収機に空き缶やペットボトルを入れる。②入れた 数に応じて、レシートにその数がプリントされる。③1本で1ポイント、200 ポイントで商 店街のスタンプ(ブレーメンチップ)1シートと取替える。これは 1 本あたり 50 銭の計算 である。④7シート分(700 円相当)貯めると、商店街チップ加盟店で 500 円分の利用券 として利用できる。⑤商店街では、この 200 円の差益で、回収機の電気代や運営費(事務 費等)に充当する。このシステムは消費者にとって回収日以外にも捨てられるという側面 もある。もちろん商店街側にも次のようなメリットがある。①回収機を利用する客が商店 街に来るという集客効果。②客がスタンプ台紙を利用することにより商店街での購買機会 が増え、商店街の利益収入となる。③リサイクル事業を展開することによる商店街のイメ ージアップ。しかしこのシステムは消費者や商店街だけにメリットをもたらすだけではな く、地方自治体、メーカーにとっても有益である。回収のための人員・車両費・ガソリン 代等の削減などで地方自治体にも貢献しており、メーカーは商店街で集められた資源を回 収し、売却することで利益を得ている。その後、回収機の老朽化で撤廃せざるをえなくな るまでの約 2 年 8 ヶ月で約 300 万本のペットボトルや空き缶を回収した。 図3 空き缶回収機 (モトスミ・ブレーメン商店街 HP) 4−4 1 店 1 エコ運動の展開 回収機の再度設置を検討したものの、値段が高額であることや、補助金が出なかったこ とによって、現在モトスミ・ブレーメン通り商店街では回収機は設置されていない。しか し、環境対策活動を維持するために1店1エコ運動を行っている。これは商店街全体で排 出する二酸化炭素を削減するために参加店舗がいくつか目標をたて、それを店頭に貼って 客に活動をアピールするというものである(図4)。現在 50 店舗以上が参加し、年々その 数は増加している。 図4 1店1エコ運動参加店(川崎ブレーメン通郵便局) (モトスミ・ブレーメン通り商店街HP) 4−5 集客力のある店を呼び込む バブル時代が終焉を迎え、通常であれば地価は低下する傾向にあったが、この商店街で は進出しようとする店の増加などで地価が高騰していた。当然以前から存在していた店の 中には不況の影響などで業績不振の店もある。しかし商店街の方針として、このような店 は地価の高騰を活かして進出を検討している企業などに土地を売却したり貸すことを勧め る。地価の高騰に伴って家賃が高くなるため、力の無い零細企業などではなく、資本に余 裕があり各地に店舗がある企業が進出するようになった。一般的な零細企業と各地に店舗 がある企業を比較した場合、後者の方が客にとって利点が多い。まず、普通の零細企業で は夜になると早めに閉店してしまうが、資本のある企業は深夜まで営業することが多い。 また資本のある企業は商品を多く仕入れることで、販売価格を抑えることができる。通常、 客が歓迎するのは便利な後者である。つまり、企業が進出することで商店街全体の集客力 が増すのである。このことが、モトスミ・ブレーメン通り商店街の集客力拡大の一要因に なっている。現在では商店街の構成の 85%が外部出身であり、以前から存在している内部 出身は 15%ほどである。 4−6 大型スーパーの進出は拒まず 1960 年代になるとユニー、マルエツ、OK ストアーなどの大型スーパーが商店街内に進 出するようになった。確かに大型スーパーは商店街にとって脅威な存在となる可能性があ るが、これらの進出を拒むことはあえてせずに、従来から存在する店は潰されないように 努力をするべきだというのがモトスミ・ブレーメン通り商店街の方針である。価格やサー ビスを充実させることで、客にとって魅力ある店となれば客は離れないというのが商店街 の見解である。結局ユニーや OK ストアーは撤退し、マルエツは 1 号館と 2 号館があった が現在は規模が半分に縮小している。これは周辺の店が健闘した結果といえる。もちろん、 業績不振の店は先述のとおり土地を売却したり貸すことになった。 4−7 今後のリニューアル工事とまちづくりルール 現在モトスミ・ブレーメン通り商店街では、1989 年に中世ヨーロッパをイメージして作 られた歩道舗装の老朽化をきっかけに、舗装の修復などのハード面だけではなく、今後商 店街の活動を検討するソフト面についてもリニューアルが検討されている。そのためにリ ニューアル委員会が設置され、リニューアル工事の設計に取り組んでいる。この工事のコ ンセプトは、この商店街のアイデンティティとなっている環境対策を重視していることを 強調し、ブレーメンの音楽隊に登場する動物を活かしたデザインを利用するというもので ある。環境保全重視をアピールするために、アーチに「1 店 1 エコ運動実施中」という垂れ 幕を下げ、環境に優しいまちづくりをするために、街灯には電力消費の小さい LED 照明を 導入し、その電源はソーラーパネルを利用する予定である。また、ブレーメンの音楽隊に 登場する動物を活かしたデザインを、街灯、タイル、車止めなどあらゆる物に利用するこ とでより個性的な商店街を目指している。ソフト面に関しては、リニューアル委員会が財 団法人川崎市まちづくり公社と協力してまちづくりルールの制定を目指している。まちづ くりルールの基本理念は①地球環境にやさしいまちづくり②地域との連携を保ちながら、 高齢者、障害者にやさしく、快適な空間を提供できるまちづくり③100 年後の世代に受け継 ぐべきまちづくりであり、運営システムやアイデンティティを保つためのルールである。 その他、安全な商店街を目指し防犯カメラの設置、商店街の情報を発信するため IT 化を検 討している。このように今後は商店街のアイデンティティの更なる確立と、安全で公序が 乱れない商店街を目指す。 4−8 地域社会に貢献し客に親しみをもってもらう 商店街は地域との関係を保つために、地域に貢献していかねばならない。地域に貢献す ることで客に足を運んでもらうきっかけを作ることができるのである。モトスミ・ブレー メン通り商店街では、商店街と地域のふれあいをテーマに、毎年秋にオクトバーフェスタ を開催してきた。その内容は、街角コンサート、地域ふれあいテント村の設立、フリーマ ッケットの開催である。街角コンサートは地域の音楽家に発表の場を提供しており、個人 からサークルまで参加している。また地域ふれあいテント村では、地域で活動している団 体にその活動の発表の場を提供している。 5.今後の課題 モトスミ・ブレーメン通り商店街は全国的優良商店街とはいえども、今後の課題はある。 これらは、大きく分けて、環境対策に関する課題、交通の課題、ライバルに関する課題で ある。まず、環境対策についてである。この商店街は環境対策をしていることが何よりの アイデンティティでるにもかかわらず、現在空き缶・ペットボトル回収機の設置ができて いない。回収機は経済効果や環境対策にも実績があるだけに、新しく設置するための努力 が必要であり、または、それに代わる制度を導入するべきである。その他、1店1エコ運 動の参加店舗数がまだ不十分であるということも課題である。現在その数は増加している ようであるが、どの店舗の店先にも活動をアピールするあの緑色のシールが貼られている ようでなければ客へのアピールは不十分である。次に交通の課題に関しては、道幅に合わ せて人や自転車が多すぎるため歩きにくいということが挙げられる。この問題は 2003 年に 商店街振興組合が客にアンケートして得られた回答である。店の前に駐輪する人も多いた め、実際の道幅はかなり狭くなってしまう。この問題を解消するためには、駐輪場の整備 などを検討しなければならないだろう。また、店も商品を道路に置くことを控えるように しなければならない。商品を道路に置くことがあまりに目立つようであれば、これはまち づくりルールに記載して徹底的に禁止するべきである。またモトスミ・ブレーメン商店街 では夏冬にセールを行っているが、全ての店が参加していないため、客から不満が出てい る。やはり、1店1エコ運動も同じだが客に商店街全体で取り組んでいるという姿勢を見 せなければ不信感を与えてしまいかねない。その取り組みのメリット、デメリットをきち んと理解してもらって協力してもらうようさらなる努力が必要である。 そして最も重要な課題はライバルに関することである。おそらく武蔵小杉周辺が今後モ トスミ・ブレーメン通り商店街にとっての脅威になってくるであろう。先述のように、現 在武蔵小杉周辺は人口が増えており、この地域の環境は大きく変わろうとしている。武蔵 小杉駅地区に隣接した中原区新丸子東地区に JR 横須賀線の「武蔵小杉駅」が 2009 年度中 に開業する予定である。川崎市は、新総合計画「川崎再生フロンティアプラン」の中で JR 南武線・東急東横線の小杉駅周辺地区を市の広域拠点に位置付けている。また民間開発や 再開発事業が進み、2011 年度までに小杉周辺地区では約 5 千人以上の人口増加が見込まれ ている。さらに、NEC 玉川ルネッサンスシティ新設で就業人口も増加したことから、新駅 の1日の利用者は約7万人と想定される。そのため武蔵小杉周辺はただでさえ現在川崎市 第二の地域であるが、さらに発展し活気付くことが見込まれる。そうなると武蔵小杉周辺 に新たな集客力のある魅力的な店が集まり、モトスミ・ブレーメン通り商店街の影が薄く なってしまうことが十分予想される。モトスミ・ブレーメン通り商店街は武蔵小杉周辺の スーパーなどと商圏の重なる地域の客を逃さないために、これまで以上の柔軟なアイデア を駆使して対抗していくことになるだろう。 6.結論 モトスミ・ブレーメン通り商店街は、他の商店街同様平成大不況の影響を受けていたが、 集客力を維持することを最優先にして保守的な考えに留まらず、革新的なことに取り組む ことで全国的優良商店街になった。魅力の無い店には客は来なくなり閉店し、そのことが 商店街の活気を失っていく連鎖反応に繋がることが多い。これを防ぐために、今後もモト スミ・ブレーメン商店街は集客力の無くなってしまった店が現れた場合、現在の方針通り 店の入れ替えを積極的にしていくべきであろう。環境対策に関しては現状で満足せず、さ らに地域全体を巻き込むような方法で取り組むことが望ましい。モトスミ・ブレーメン商 店街の振興組合は十分機能しており、今後のビジョンも描けている。ただし、今後の武蔵 小杉駅周辺地区の発展がどれだけ影響し、それにどれだけ対応できるかということが最も 懸念される事柄である。現在のモトスミ・ブレーメン商店街は外へのアピールをしつつも、 地域に密着したまちづくりをしていることが魅力の一つであると思う。今後も客に足を運 んでもらうためには現存の魅力以外に、より地域に密着した付き合い方が求められるだろ う。 <参考文献> 川崎商工会議所『川崎市商業統計』1979 年−2002 年 かわさきの商業ホームページ (http://www.city.kawasaki.jp/28/28syogyo/home/database/3_shop/3_327.htm) 建設業界ニュース神奈川版ホームページ (http://www.kentsu.co.jp/kanagawa/news/p00926.html) 全国商店街振興組合連合会ホームページ(http://www.syoutengai.or.jp/index.html) モトスミ・ブレーメン通り商店街公式ホームページ(http://www.bremen.or.jp/bremenst/) また、モトスミ・ブレーメン通り商店街振興組合理事長の山田一之氏にお話を聞かせて頂 き、川崎商工会議所の酒井一郎氏に統計資料を頂きました。 まとめ 序文でも示したように 5 つの商店街は、衰退している浜松市中心商店街と岐阜県岐阜市 柳ヶ瀬商店街、そして比較的活気のある千葉県柏市の二番街商店街、大阪市内の駒川商店 街、川崎市内のモトスミ・ブレーメン通りの 2 グループに分けることができる。 浜松市中心商店街と柳ヶ瀬商店街は、時代の変化に対応できず衰退を招くこととなった。 今後は時代の変化に追いつくための商店街の努力とともに、商店街だけではなく街全体が 一体となったまちづくりが必要になるであろう。商店街が街の中核を担っている以上、商 店街の問題は街全体の問題として扱わなければならない。 一方、柏二番街商店街、駒川商店街、そしてモトスミ・ブレーメン通りは、商店街の努 力により衰退を免れてきた。柏二番街商店街は商店街を取り巻く外的環境の変化に、商店 街と行政が積極的かつ柔軟に対応してきた。駒川商店街も同様に、時代が移り商業環境が 変化するなかで、その時々に応じて対策を講じてきた。モトスミ・ブレーメン通りは振興 組合を中心に、集客力を維持するための革新的な努力を続けてきた。つまり、各商店街の 努力が商店街を衰退から守り、発展させてきたのである。 我々は衰退している商店街と、衰退を免れ、元気な商店街をそれぞれ見てきた。そして 商店街の発展のためには、商店街全体、あるいは商店街組合の団結が必要であるというこ とを強く認識した。商店街の各店舗が強い意気込みを持って活性化に取り組んでいなかっ たり、商店街組合員の意思統一が図れていなかったりするようでは、その商店街はやがて は衰退していくであろうことが容易に予測できる。しかしながら、そのような状態から脱 却できれば商店街は、時代の変化に柔軟に対応できるばかりか、商店街を取り囲む街全体 の改革の中心的な役割を担うことができるであろう。 (文責:山田将平)
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