<福音> ローマの信徒への手紙1章15~17節 今日の説教第は「福音

<福音>
ローマの信徒への手紙 1 章 15~17 節
今日の説教第は「福音」でございます。
福音は救いを与える神様の力です。救いは神様を離れた人間達が経験する 3 つ
の死の恐れから解放される事です。即ち、霊的な死、肉体の死、そして、永遠
の死、この 3 つの死の恐れから解放される事です。こういう自由と解放が救わ
れた私達にはもう与えられているのです。そして、また、こういう救いの恵み
と共に生きる時、この世の恐れと心配とを乗り越えられるのです。
今日の主題はその救いの贈り物は神様から与えられる事で、それは神様がな
さる事のために初めから終わりまで信仰によって成し遂げられるのです。つま
り、救いは私達の姿で私達の行いでもらう事ではなく、神様から一方的に与え
られる贈り物で、恵みの中で享受出来る事柄です。16 節を読んで考えて見まし
ょう。「私は福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、
信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」と。
ここでは、救いの恵みを神の力だと語っているのです。これはこの救いが人
の力で成し遂げられるのではなく、神様のご計画で成し遂げている事を強調し
ているでしょう。神様はこの救いが人の努力で与えられたのではなく、信仰を
通して救われるようになさったのです。どなたでも過去のどういう生き方、生
活と関係なく、ただイエス・キリストを信じる信仰によって救いの恵みが与え
られるのですと語り教えているのです。
福音には神様の義が表れているのです。この神の義とはどういう事か、聖書
学者の意見がたくさんありますが、一番、代表的な意見は神的な属性です。つ
まり、その方の品性です。神様の定義は愛であり、悪の憎む品性なのです。そ
れで、その方から救いが与えられ、裁きを下ろすすべてが神の義なのです。も
う一つは神的な活動として見る観点です。その方がご自分の民のためにタッチ
し、救われる行為を義と言っているのです。
この二つは神の義は罪人を神の子として下さる神の品性と言えるのです。道
徳的な次元で、義を理解する事とは差があるのです。神の義は単純に道徳的に
正しい状態だけではなく、罪人であった人間達を神の子として下さった神様の
慈しむ品性の全体を表現しているのです。
つまり、神様の義とは罪人を神の子として下さる恵みの品性です。
従って福音の中でこの神の義が表れていると言う言葉は福音を通して神の正し
い義が実現される事です。
罪人として永遠に滅ぼされるしかない人々が神の子とせられ、永遠の命を得
る事は人間自らは成し遂げられない事です。エフェソの信徒への手紙 2 章 8 節
です。
「事実、あなた方は恵みにより、信仰によって救われました。この事は自
らの力によるのではなく、神の賜物です。」人間の行為に通じてこの事が成し遂
げられたのではないのです。信仰によって成し遂げられたのです。
今日の 16 節の「信じるすべてに救いをもたらす神の力だから。」と言う御言
葉も同じ脈絡です。
ある人が東京の隅田川を泳いで渡る事は可能かもしれませんが、太平洋を水
泳で渡る事は出来ないのです。自分の実力では不可能です。救いも同じです。
一生、一回も罪を犯さなくて生きる人がいるでしょうか。その心で犯す罪ま
で含むと誰もいないでしょう。まるで、罪を犯さなくて天国に行こうとするの
は、太平洋を自分の力だけで渡ろうとするのと同じです。人間の努力と意志で
救われようとすると、結果的には一人も救われる人がいないのでしょう。
太平洋は人間の努力ではなく、飛行機に乗って行かなければならないのです。
飛行機に乗って行けば無事に渡る事が出来るのです。それでも天国に行くよう
にして下さいますので、私も何か良い行いをしなければならないと思うのと同
じです。
ちょうど飛行機にのって何もしなくて太平洋を渡るのがすまないので、飛行
機の中で走るのと同じではないでしょうか。飛行機の中ではただ座っていたら
無事に渡ってむこうのアメリカやカナダに行けるのです。感謝だけでOKです。
救いの海に招待し、無事に渡って天国に行けるようにする方はイエス・キリ
ストです。救いが神様の力で成し遂げられると言う事は神様が私達を救って下
さると言う事です。神様はその方が私達の代わりに贖いの血潮を流させて下さ
って私達の力では到底成し遂げられない救いの恵みを享受出来るようにして下
さったのです。
たまには、私が何もしなくてそんなに簡単に救われるか。と言う人がいます
が、感謝して信仰で受け入れ、神様の御旨に従って生きて行ったら、良いので
す。私を飛行機に載せてアメリカに行かせる目的が何か、神様に聞いてみてそ
のまま生きていたら良いのです。
ガラテヤの信徒への手紙 5 章 6 節です。
「キリスト・イエスに結ばれていれば、
割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」割礼を行なっ
たかどうか、つまり、素晴らしく生きたか、どうかではなく、神様の愛を受け
入れ、信仰で生きるかどうかが重要なのです。
しかし、この信仰さえも信じられる神様の贈り物なのです。皆さんも考えて
見て下さい。私が信じましたか、信じられましたか。この時、この時間イエス・
キリストが信じられた事に感謝しましょう。
ところで、福音を知っているという事がここまでの場合が多いかもしれません。
しかし、福音はここまでではなく、私がイエス様を信じて救われる事で、終わ
らなくて、救われた人として生きる過程・プロセスも福音が必要です。再び、
信仰が必要で、イエス様が必要です。