「苦難と教育―神、人間そして自然の関係」

旧約聖書 ヨブ記5:1-27
「苦難と教育―神、人間そして自然の関係」
一
はじめに
ヨブ記の学びは、「苦しみ」という切り口から、神の恵みを教えてくれる。
イザヤ 53:3
「悲しみの人で病を知っていた。」
ヘブル 4:15
「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。」
この二つの聖句にあるように、神様は私たちの「悲しみの同伴者」であり、私たちの生きる
目標は、「御子の形に似せられていくこと」である。
では、「悲しみの人」「病を知る人になる」とは、どういうことなのか?まさに、このヨブ
記は、私たちの成⾧のための書、苦しみをどう受け止めたら良いのか?を教えてくれる。
先週の箇所で、エリファズは、神の人間に対する取り扱いに不満を持つものは、不信仰であ
り愚かであると言った。そして、そういう者が結果として、災いを受けるのだとも言った。し
かし、当然とも取れるこの言葉の中に盲点がある。
二
呼ぶヨブ、答える神―法廷的意味
5:1
「さあ、呼んでみよ。だれかあなたに答える者があるか。」この「呼ぶ」(カーラー)
「答える」(アーナー)は、法廷で使われる用語である。ヨブがただ嘆くだけではなく、神の法
廷に訴え出ることを暗示している。
5:2-7
ここからエリファズは、教訓的な事を述べ始める。ヨブが怒りを爆発させている
が、それは愚か者のすることであると言う。
愚か者であっても、一時的にはこの世で栄えることがある。しかし、愚か者の繁栄は永遠の
ものではない。
1
「門で押しつぶされる」とは、以前にも言ったとおり、「門」とは裁判を行うところであ
り、愚か者は裁判で敗れ、悪人の不幸は子孫にまで及ぶのだとエリファズは言う。
三 真に聖書の御言葉を読み解くとは
旧約聖書の前半では、イスラエルは賞罰においては「ひとつの運命共同体」であった。しか
し、旧約聖書の後半の預言書群、特にエゼキエル書では、「個人の責任」を説いている。その
意味でも、賞罰の理解にも「啓示の漸進性・発展性」が見られることを押さえておかなければ
ならない。
聖書の言葉を「その言葉通り」に受け取ることは大切だが、「極端に言葉通り」に受け取
ると、聖書全体から「語られているメッセージ」を聞き間違うことになる。時代性・目的性、
また「漸進性・発展性」を念頭に、語られている言葉を理解し、御霊の照明によって、本質
的・普遍的メッセージを抽出することが求められる。
5:7
「人は生まれると苦しみに会う。火花が上に飛ぶように。」これを原文通りに訳せば
「そは人は悩みの中で生まれ、また火の粉は上に飛ぶが故なり」となり、これを仏教用語で言
えば、「それはこの世界は火宅」となる。つまり、「人々が、実際はこの世が苦しみの世界で
あるのに、それを悟らないで享楽にふけっていることを、焼けつつある家屋(火宅)の中で、子
供が喜び戯れている」のに例えた言葉である。
ヨブは、3 章において自己の苦しみ悩みを「訴え」、生の「無意味」を叫んでいるが、その
ようなことを、いかに訴え叫んでみても誰も聞いてくれない。人間の「怒り」や「ねたみ」は
かえってその人を子孫をも不幸にする。
なぜなら、「人生そのもの」が「苦悩」に満ちているからである。ヨブ 1 人が苦しんでいる
のではないとエリファズは説教する。
2
四
全知・全能の神―歴史・自然、そして人間社会への働きかけ
5:8
ここからは、エリファズが、わたしならこうするという事を述べている。この「わた
しなら、神に尋ね、私のことを神に訴えよう。」という「私であるならば」は原文ではただ一
語「我」(アニー)に強調が置かれ、「わたしなら、お前と違う」という傲慢な態度である。
ヨブの苦しみを理解せず、ヨブを批判する。自分なら神に求める、神は全知全能であるか
ら。
5:9,10
「神は大いなることをなす者にして計り難し。不思議なる事、数えがたきまでに」
神の大いにして、不思議なわざに対する「賛美」の形式をもって語っている。
5:11
神の働きは、歴史や自然のみならず、「人間の社会」にも行われる。
5:12,13
悪賢い者は、賢さによって潰される。まことの知恵は「神を畏れる」ところから
生まれる。悪人は自ら穴を掘り、その穴に落ちる。
5:16
「こうして寄るべのない者は望みを持ち、不正はその口をつぐむ。」以上のようなこ
とであるから、貧しい者も絶望するにはあたらない。神が正義と憐れみをもってこの世界を統
治される限り、弱き者、虐げられる者も、その希望を失うべきではない。
五
苦難と教育―神、人間、自然の関係
5:17-21
は「知恵の歌」の形式をとり、それは「ひとつの教訓詩」を示し、それに従う者
に対する「幸福」が約束されている。その多くは、詩篇等の中に数多く出てくる。
「神は苦難をもって人間を教育する」ということであり、父の教育的愛を示し、「神学的根
底」になっているものは「賞罰の信仰」である。
5:18
「神は傷つけるが、それを包み、打ち砕くが、その手でいやしてくださるからだ。」
5:23
「野の石とあなたは契りを結び、野の獣はあなたと和らぐからだ。」
3
ヨブ記の舞台であるウズは、中東南方の荒野地帯であり、肥沃なカナンとは違う。ヨブ記の
自然は「調和的な自然」ではなく、「対立的な自然」である。そんな地域の自然は人間にとっ
て苛酷な物であり、ヨブの財産や子供たちすべてを奪った「火」「大風」であった。
そのような所にあるものは「砂漠的文化」である。そんな苛酷な自然の中で生きるために、
創造者の顧みと守りなくしては、生物も人間も「1 日たりとも生存を続けていく」ことは出来
ない世界なのである。
六 結語
エリファズの言うことは、「真理」であり「聖書的」である。そして、ヨブに同情は寄せて
いるが、ヨブの深い苦しみは理解できていない。
それにひきかえ、「主は悲しみの人であり、病を知っていた。」
それは、「また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわい
そうに思われた。」マタイ 9:36、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか
自分でわからないのです。」ルカ 23:34 からもよく分る。
また、内住の御霊の助けにより、「御子の似姿に変えられていく」という私たちの生涯、生
きる意味、また目的の一つは「隣人の悲しみ、苦しみの理解者、同伴者」として成⾧していく
ということも含まれている。
ヨブを見舞いに来た 3 人の友人を「反面教師」として、これからも学んでいただきたい。
以 上
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