ヘブル2章のメッセージ

自然災害をどのように考えたらよいのか(講義Ⅱ)
ヘブル人への手紙 2 章のメッセージから学ぶ
2013 年 11 月 1 日 10:50-12:20
関西聖書神学校(神戸)にて
序
もう 30 年近くも前の話になる。私はある神学校で、一度だけヘブル人への手紙のクラスを担当したことがある。
2 章 6-18 節の講義を準備していたとき、まさに「目からうろこ」という経験をした。「キリストの贖いは、人間の被造物
に対する管理権を回復した」ということを示されたのである。それまでの私は、「キリストの贖い」をそのように考えた
ことはなかった。そう教えられたこともなければ、読んだこともない。大げさな言い方だが、私の信仰にとってそれ
は「コペルニクス的転回」となった。
その時以来、キリスト者に対するイメージが大きく変わった。自分の歩みに変化が起こり始めた。それまでの私
には、この世のほとんどのことは意味のないことだと思っていた。ところが、この世の文化、学問、芸術、仕事、社
会や国家、経済や政治、自然やそこに住む人々、それぞれの宗教が果たしてきた歴史的な役割、そんな一つ一
つすべてが、とても大切なことなのだと気づき始めた。神がこの世界を統治されている中で、私のような者をも「キリ
ストとの共同相続人」(ローマ 8:17)にお招きくださったのだ。とすれば、この世界に起こっているすべてのことは、
私の生きる使命と無関係ではないのだ、そう教えられた。
そうなるとむろん、牧師として教会員を見る目が変わった。そして次第に、教会に対する理解も大きく変えられ
た。自分が所属する教派の中で、相模原の牧師たちとの関係において、日本福音同盟や福音主義神学会にお
いて、さらにはエキュメニズム運動に対して、自分の立ち位置と果たすべき責任が見えてきたのである。
ヘブル 2 章のメッセージは、まさに私の歩みにパラダイムシフトを起こさせた。同じように、今日ここに集っている
皆さんの中に、大きな変革が起こるきっかけになるようにと祈りつつ、これからの講義をさせていただきたい。
Ⅰ.見落とされているヘブル人への手紙 2 章のメッセージ
聖書の中には、人の歩みを大きく変えてきた聖句がたくさんある。しかし、これから取り上げるヘブル 2 章をその
ような個所と見なす人はいないだろう。私も、「一番好きな聖句は?」と聞かれれば、直ちにローマ 8:28 をあげる。
ヘブル 2 章が好きだというわけではない。ただそのメッセージの大きさとすばらしさに圧倒され、自分の歩みが根
本から変えられてしまった、と証するのみである。
ところが、これは本当に不思議なことなのだが、このヘブル 2 章のメッセージを正しく受け止めている人はいな
い。世界中どこを探してもいない。少なくとも私は、そういう人に出会ったことがない。書物で読んだこともない。
例えば、信仰にとって重要なことであれば必ずどこかでふれているであろう「信仰告白」とか「信条集」を見てみ
よう。教会史上に現れたどのような信条集でもよい。手にとって、じっくり調べていただきたい。どの信条集を見ても、
ヘブル 2 章のメッセージにはふれていない。古代教会の信仰告白である「使徒信条」、「ニカイア信条」、「アタナ
シウス信条」、「カルケドン信条」、どれでもよい。「人間の被造物の管理権」などということについては、全く無関心
である。1
このことは近代・現代の信条集においても変わらない。皆さんの手元にある信条集、信仰告白、大小の教理問
答などをチェックしていただきたい。「アウグスブルグ信仰告白」、「ウェストミンスター信仰告白」、「ウェストミンスタ
ー大教理問答集」、「小教理問答集」、どれでもよい。「贖罪論」の項目でも、「キリスト者の信仰生活」の項目でも、
どこでもよい。「人間の被造物の管理権の回復」などという教えにはぶつからない。
では、あなたの属する教派が出版している信徒手帳にある「信仰告白」とか「教理基準」などはどうだろうか。お
家に帰り、ぜひ読み直していただきたい。たぶん、何の言及もないはずである。もし、ふれているものがあれば、ぜ
1 渡辺信夫著『古代教会の信仰告白』(新教出版社、2002 年)参照。
-1-
ひ私に教えていただきたい。
信条集だけではない。キリスト教出版物の中には、十字架の奥義を解説している書物は山ほどある。霊的な読
み物でもよいし、学問的な書物でもよい。どのような書物であっても構わないので、丹念にチェックしていただきた
い。
私の手元には、十字架や贖いのことを解説した、次のような書物がある。皆とても有益な本ばかりだが、「キリス
トの贖いの業」に人間の被造物管理権の回復を含めている書物はない。皆さんの本棚にある書物はどうだろう
か・・・。
G.P.ピアソン著『キリストの十字架』(いのちのことば社、1988 年)
アンドリュー・マーレー著『主の十字架の奥義』(いのちのことば社、1989 年)
マックス・ルケード著『ザ・クロス-イエスはなぜ十字架を選んだのか』(いのちのことば社、2003 年)
このような信徒向けのやさしい本には、そういう難しい事柄にはふれていないのではないか、そう考える人もい
よう。では、もう少し難しいことを扱う、学問的な書物であれば言及しているのか? 私の書棚には、次のような「新
約聖書神学」に関する書物がある。この種の本は「キリストの贖罪論」を扱う専門書である。一言ぐらい、何か言及
されているはずだ、そう思って私は、一冊一冊を開いてみた。
E.ザウアー著『十字架の勝利』(新教出版社、1955 年)
A.リチャードソン著『新約聖書神学概論』(日本基督教団出版部、1967 年)
H.コンツェルマン著『新約聖書神学概論』(新教出版社、1974 年)
W.レーヴェニヒ著『ルターの十字架の神学』(グロリヤ出版、1979 年)
W.G.キュンメル著『新約聖書神学』(日本基督教団出版局、1981 年)
J.D.G.ダン著『新約学の新しい視点』(すぐ書房、1986 年)
J.デニー著『キリストの死―新約聖書・説教・神学における贖罪』(新教出版社、1992 年)
G.ボルンカム著『現代神学の焦点―新約聖書』(新教出版社、1994 年)
J.エレミアス著『新約聖書の中心的使信』(新教出版社、1997 年)
E.シュヴァイツァー著『新約聖書への神学的入門』(日本基督教団出版局、1999 年)
B.リンダース著『ヘブル書の神学、叢書新約聖書神学 12』(新教出版社、2002 年)
私は本当に驚いた。これらのいずれの書物においても、キリストの十字架が人間の被造物の管理権を回復した
ことや、ヘブル 2 章の論述について、何もふれていないのだ。
ただ一つの例外があった。キャンベル・モルガン著『キリストの危機』(聖書図書刊行会、1964 年)という書物で
ある。その 126-127 頁は、ヘブル 2:6-9 にふれ、キリストご自身が人間の管理権を回復したと述べている。ただし、
それは「キリスト論」にとどまっており、それ以上の展開はなされていない。キリスト論レベルであれば、後に確認す
るように、ヘブル人への手紙を注解する学者たちも認めていることで、今私たちが期待しているものではない。
最近になって、「贖罪論」に関する優れた書物が何冊か出版された。この中の誰かが必ずこの問題にふれてい
るはずだと期待して、丁寧に読んでみた。だが、すべてが期待外れだった。
Colin. E. Gunton は、1989 年に贖罪論に関する包括的な研究書『贖罪の現実』を著した。2 実に造詣の深
い、贖罪論に関して現時点で最高級の書物であろう。その 81 頁には、ヘブル 2 章 6 節以下が引用され、「キリス
トの主権性」について述べられている。しかし、この書物もそこまでで、キリストの贖罪論の中身にまでは踏み込ん
でいない。贖罪論の専門書であるだけに、とても残念である。
N. T. Wright は 2003 年に、『神の子の復活』という、800 頁以上に及ぶ大著を出版した。3 彼もまた、ヘブル
2 章 5-13 節に 3 回言及し、「キリストの主権性」について解説をしているが、贖われたキリスト者が被造物の管理
権を回復されたことにまではふれていない。彼が昨年出版した『簡素なキリスト者』という書物では、ヘブル人への
手紙に対する言及さえ見られない。4
Peter Schmiechen は 2005 年に、贖罪に関する総括的な研究書『救いの力:贖いの理論と教会の形態』という
2 The Actuality of Atonement (Eerdmans: Grand Rapids, 1989)
3 The Resurrection of the Son of God (Fortress: Minneapolis, 2003)
4 Simply Christian (SPCK: London, 2011)
-2-
大著を出版した。5 この書物は、教会史上有名な神学者の贖罪論を紹介している。その神学者とは、エイレナイ
オス、アタナシウス、アンセルムス、アベラルドス、ウェスレー、シュライエルマッハー、ルター、カルヴァン、チャー
ルス・ホッジ、ニーバー、モルトマンである。文字通り古代から現代までの教会史を形成してきた人々である。彼ら
の誰一人として、自分の「贖いの教理」を展開する過程で、ヘブル 2 章には言及していない。このことは、教会史
上に現れた贖罪論においては、「キリストの十字架が堕落によって被造物の管理権を失った人間に、その管理権
を回復した」というヘブル 2 章のメッセージは完全に無視されてきた、ということである。
このことは組織神学、教義学などの書物においても変わらない。バルトの『教会教義学―和解論』をはじめ、手
元にある組織神学関係の書物をチェックしてみた。だが、どの書物も「キリストの十字架の死が人間の被造物支配
権の回復をもたらした」ことに言及していない。その書物とは、次のようなものである。
岡田稔著『改革派教理学教本』(新教出版社、1969 年)
大木英夫著『組織神学序説』(教文館、2003 年)
宇田進著『現代福音主義神学』(いのちのことば社、2005 年)
大宮博著『フォーサイス神学概論―十字架の神学』(教文館、2011 年)
W.D.オルベック著『福音的信仰の遺産』(聖文舎、1969 年)
H.ジェーコブス著『キリスト教教義学』(聖文舎、1970 年)
H.ミューラー著『福音主義神学概説』(日本基督教団出版局、1987 年)
J.モルトマン著『三位一体と神の国 1 神論』(新教出版社、1990 年)
J.モルトマン著『イエス・キリストの道 3 キリスト論』(新教出版社、1992 年)
J.モルトマン著『いのちの御霊 4 総体的聖霊論』(新教出版社、1994 年)
J.モルトマン著『神の到来 5 キリスト教的終末論』(新教出版社、1996 年)
H.シーセン著『組織神学』(いのちのことば社、1998 年)6
M.エリクソン著『キリスト教神学』(いのちのことば社、2006 年)
A.E.マクグラス著『キリスト教神学入門』(教文館、2010 年)
S.J. Grenz, Created for Community, (Baker: Grand Rapids, 1997)
A.E. McGrath, Christian Theology, (Blackwell: Oxford, 1997)
では、ヘブル人への手紙の注解書や説教集ではどのように扱われているのか。私の手元には、以下のような注
解書がある。
名尾耕作著『ヘブル人への手紙(信徒のための聖書講解第 13 巻)』(聖文舎、1962 年)
安田吉三郎著『ヘブル人への手紙(新聖書注解、新約 3)』(いのちのことば社、1972 年)
H. シュトラートマン著『ヘブライ人への手紙(NTD 新約聖書註解)』(NTD 新約聖書註解刊行会、1975 年)
シュラッター著『ヘブル人への手紙(新約聖書講解 12)』(新教出版社、1977 年)
宇田進著『ヘブル人への手紙(新聖書講解シリーズ 10)』(いのちのことば社、1983 年)
C. W. カーター著『ヘブル人への手紙(ウエスレアン聖書注解、新約 4 巻)』(新教出版社、1986 年)
山岸登著「ヘブル人への手紙―現代の教会に対する警告」(津久野キリスト恵み教会出版部、1989 年)
W. バークレー著『ヘブル(聖書註解シリーズ 13)』(ヨルダン社、1993 年)
J. ヘディング著『天にあるものの写しと影』(牧草社、1993 年)
加藤常昭著『ヘブル人への手紙Ⅰ(加藤常昭説教全集 19)』(ヨルダン社、1994 年)
松山幸生著『ヘブライ人への手紙に学ぶⅠ』(旧約聖書を学ぶ会、2001 年)
T. G. ロング著『ヘブライ人への手紙(現代聖書注解)』(日本キリスト教団出版局、2002 年)
尾山令二著『ヘブル人クリスチャンへの手紙講解』(羊群社、2003 年)
蓮見和男著『ヘブル書・ヤコブ書(聖書の使信 14)』(新教出版社、2004 年)
川村輝典著『聖書註解、ヘブライ人への手紙』(一麦出版社、2004 年)
平位全一著『ヘブル人への手紙』(インマヌエル総合伝道団出版局、2007 年)
J. レイリング著『ヘブライ人への手紙』(教文館、2012 年)
Markus Dods, The Epistle to the Hebrews-Expositor’s Greek Testament (London, 1910)
A. T. Robertson, The Epistle to the Hebrew (Broadman: Nashville, 1932)
5 Saving Power: theories of atonement and forms of the church (Eerdmans, 2005)
6 ヘンリー・シーセンは、人間の被造物支配権が堕落によって失われたが、キリストの贖いにより、千年王国時代に回復されると考え
ている(『組織神学』833 頁)。
-3-
Alexander C. Purdy, The Epistle to the Hebrew-The Interpreter’s Bible (Abingdom: New York,
1955)
R. C. H. Lenski, The Interpretation of the Epistle to the Hebrews (Augsburg: Minneapolis, 1961)
F. F. Bruce, Commentary on the Epistle to the Hebrews (Morgan $ Scott: Edinburgh, 1964)
G. W. Buchanan, To the Hebrews-The Anchor Bible (Doubleday: New York, 1972)
Leon Morris, Hebrews-The Expositor’s Bible Commentary vol. 12 (Grand Rapids, 1983)
H. W. Attridge, The Epistle to the Hebrews (Fortress: Philadelphia, 1989)
R. C. Stedman, Hebrews-The IVP New Testament Commentary Series (InterVarsity: Downers
Grove, 1992)
Paul Ellingworth, The Epistle to the Hebrews-A Commentary on the Greek Text (Eerdmans:
Grand Rapids, 1993)
C. R. Koester, Hebrews-The Anchor Bible vol.36 (Doubleday: New York, 2001)
これらは、注解書である限り、むろん 2 章のテキスト本文を詳しく解説している。しかし、上記の注解書はすべて、
「キリストが十字架を通してキリストご自身の被造物の支配権を回復した」ということを述べるのみで、今この地上に
生きているクリスチャンたちが、贖われた結果、被造物の管理権を回復し、そこに生きる使命が与えられていると
いう理解にまでは至っていない。どの注解書においてもそういう理解で、例外はない。
むろんどの注解書も、「被造物に対するキリストの主権性の回復」ということは解説されている。しかしその程度
のことであれば、何もキリストは十字架と復活を経験する必要はなかった。キリストは創造の初めから万物の主権
者だったはずである。堕落した人間の贖いが絡んでいるから、キリストは十字架に架けられたのである。ヘブル人
への手紙 2 章は、わざわざこの点を明らかにしている聖書箇所である。にもかかわらず、世界的に有名な注解者
たちすべてが、どうしてこのことに気づかないのか、私には本当に不思議でたまらない。狐に包まれたような思い
で、この 30 年間いろいろな注解書を読み漁ってきた。
教会がこのヘブル人への手紙のメッセージを正しく受け止めてこなかったので、今のクリスチャン像はとてもい
びつなものに変形してしまっている。ほとんどの人のクリスチャン像は、「天国行きの切符を片手に、何もすることが
なく、ただ目的地のパンフレットでも眺めながら、天国行きの待合室でぶらついている」、そんなところではないだ
ろうか。中には、出発までまだ時間がありそうなので、待合室から出て、駅の周囲の人々に、「天国行きの汽車が
間もなく出発しますよ。早く待合室にいらっしゃい」と熱心に誘っている人もいる。また、待ち時間はまだ相当ありそ
うだと思い、待合室からかなり遠くまで行ってしまい、天国行きにはだんだん興味を失いかけている、そんなクリス
チャンもいるけれど・・・。
福音派の教会では、「四つの法則」という小冊子が求道者を導くためによく使われる。また、子どもたちに救いを
説明するため、「字のない絵本」などが用いられる。そういう教材は、もしクリスチャンになったら、後は天国行きし
か残っていません、そんな風に言われているのではないかと勘違いさせる。クリスチャンの間では、よきキリスト者と
は、礼拝を忠実に守る人、十分の一献金をする人、教会活動とその維持のために熱心に奉仕する人、一生懸命
伝道(証)する人、毎日のデボーションを守り続ける人、そんなイメージが強い。皆、すべてが内向きなのである。
ヘブル 2 章のメッセージを真剣に受け止め、そこに生きようとしているクリスチャンはまずいない。7
Ⅱ.ヘブル人への手紙 2:6-13 の解釈
では、このヘブル 2 章 6 節から 13 節のメッセージを聴くことにしよう。まず、このテキストを新改訳聖書によって
読んでいただきたい。私は、たくさんある日本語訳の聖書の中で、新改訳聖書、フランシスコ会訳、詳訳聖書がヘ
ブル人への手紙の著者の論理を正確にたどって訳出しているように思う。
むしろ、ある個所で、ある人がこうあかししています。
「人間が何者だというので、これをみこころに留められるのでしょう。
人の子が何者だというので、これを顧みられるのでしょう。
あなたは、彼を、御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、彼に栄光と誉れの冠を与え、万物をその足の下
7 リック・ウォーレン著『人生を導く 5 つの目的』(パーパス・ドリブン・ジャパン、2004 年)」という書物は、福音派の教会の信徒訓練や
弟子訓練のテキストとして 3000 万部以上も売れたと言われている。この書物には、人生の目的の五番目として「あなたは使命のため
に造られた」という項目があるが(367-420 頁)、そこにおいては宣教や証の使命が述べられているだけで、被造物の管理権などに
ついては言及されていない。
-4-
に従わせられました。」
万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもな
お、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。
ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。
イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべ
ての人のために味わわれたものです。
神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、
万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。
聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、
こう言われます。
「わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう。教会の中で、わたしはあなたを賛美しよう。」
またさらに、「わたしは彼に信頼する。」
またさらに、「見よ、わたしと、神がわたしに賜わった子たちは。」と言われます。
最初に、ざっとこの箇所の流れを追いかけ、その内容の把握に努めよう。
①ヘブル人への手紙の著者はまず、人間とは何者なのかと問いかけた詩篇 8 篇を引用する。(6 節)
②そこには、人間が他の被造物を支配する存在として造られたことが告白されている。(7 節)
③ところが著者は、現実に生きている人間は今なお万物を支配していない事実を指摘する。(8 節)
④だが著者はそこにとどまらず、人となられたイエスだけは別格だと宣言する。(9 節)
⑤人間になったイエスは、死と復活を通して、万物の支配者となられた、と著者は続ける。(9 節)
⑥それだけでない。そのイエスの死は、人間に「すべての被造物の支配権」を回復させた。(10 節)
⑦つまり、キリスト者はイエスの兄弟になったのである。(10-13 節)
この箇所は一つ一つのステップがふまれ、極めて論理的に話が展開されている。まず、人間はもともと被造物
を管理するように造られていた。第二に、ところが現実の人間はそうなっていない。第三に、ただイエスは別で、十
字架の死を通して人間を本来の位置に戻した。そして第四に、その結果人間は、「神の子」になり、「イエスの兄弟」
となった。
誰がどう読んでも、この箇所は一つのまとまりをもっており、著者の言いたい意図は明らかである。ところが、世
界中の有名な聖書注解者たちすべてが、この箇所のメッセージをこの流れに沿って読み取っていないのである。
不可解という以外にない
すべての注解書は、「キリストが死を通して被造物の支配者になったこと(被造物に対するキリストの主権性が
確立されたこと)」については読み取っている。しかし皆そこに留まってしまい、「キリストの死が、救いを受けたキリ
スト者に被造物の管理権を回復する」というメッセージにまでは進まない。これはおかしなことである。もしキリスト
の主権性だけの話であれば、十字架は必要ない。キリスト者の贖いに関わるので、十字架が必要だったのである。
それに、①7-8 節においては、ヘブル人への手紙の著者がわざわざ詩篇 8 篇を引用して論じていること、②9 節
は、受肉したキリストについて言及していること、③10-11 節では、一連のみわざは神にふさわしいと確
認していること、④12-13 節は、旧約聖書を引用して、キリストとキリスト者とが家族として一つであることを強調し
ていること、この四点をたどっていくなら、キリストの主権性の問題に留まることなど、絶対にできない。贖罪論、人
間論、被造物論、神の国論に発展しない注解書は、著者の論点を明らかにしておらず、不十分である。
このことは、どうでもよい、小さなことではない。牧師がこの大切なメッセージをしっかり読み取り、きちんと語るの
でなければ、教会は致命的なダメージを受ける。キリスト者は貧しい福音理解しかもてず、いびつな信仰生活を送
ることを余儀なくされる。「ケープタウン決意表明」は、「包括的福音」を提示すると意気込んでいるのだが、ヘブル
2 章の「キリスト者の被造物管理権」には言及していない。それでは、いくらキリスト者の社会的責任を強調しても
「包括的な福音」にはならず、依然として「欠陥福音」と言わざるを得ない。
どうして世界的にすぐれた一流の注解者たちが、ヘブル人への手紙のこのテキストのメッセージをきちんと読み
取れないのか。原因は二つある。一つは、ヘブル語旧約聖書とパウロがここで引用している七十人訳ギリシャ語
旧約聖書との間に違いがあり、詩篇 8 篇の解釈に混乱を生じさせているからである。そして二つ目は、ヘブル 2
章 5-18 節が本来一つのまとまりをもっていることは明らかなのに、9 節と 10 節の間で区切る伝統ができ上ってし
まい、テキストを分断して解釈する方法を踏襲してしまうからである。
-5-
それでは、注解書に見られる混乱の中身を、もう少し具体的に検証してみよう。
①5 節の「私たちが今話している後の世」とは、ヘブル 1 章 2 節の「この終わりの時」、あるいはヘブル 6 章 5 節
の「後にやがて来る世」と同じ世界、つまり「キリストの復活に始まり再臨の時までの現在の時代」を指す(安田、ブ
ッハナン、宇田、ドッド、ブルース、モリス、アートリッジ、ステッドマンなど)。これは、イエスの言われた「神の国」の
ことであり、現代の新約学は、今のこの恵みの時代を指していることを明らかにした。8 ところが、注解者の中には、
現在既に存在している「神の国」を考えないで、「未来のこと」(レンスキー、エリワース)、「キリストにある新しい秩
序」(ロバートソン)、「再臨以降の未来の世界」(名尾、シュラッター、カーター、尾山)、「終末時のメシヤ到来後に
現れる新しい世界秩序」(川村)、「未来の神の支配される時」(コスター)、「千年王国」(山岸、ヘディング)など、
未来の出来事と解釈する注解者が少なくない。これでは、被造物の管理権の回復という恵みが、遠い将来の事
柄になってしまい、今のキリスト者とは無縁な事柄になってしまう。
②詩篇 8 篇の「人の子」(6 節)と「彼」(7 節に 2 回出てくる)については、ヘブルの詩における平行法から「人間」
を指すことは明らかである(バークレー、モリス、他)。ところが、七十人訳ギリシャ語聖書を持ち出し、「キリスト」と
解釈したり(レンスキー、山岸、ブッハナン、宇田、ブルース、ロング、コスター、レイリング)、「キリストと人間」の両
方を含めて解釈する注解者(ヘディング、エリワース、尾山)が少なくない。これでは、詩篇の作者が本来言わんと
していた「創造時に人間に本来与えられていた被造物の管理権」という点があいまいにされ、この箇所全体の言
わんとすることが不鮮明になってしまう。イエスはご自分のことを「人の子」と言われていたし、この箇所でも最終的
には受肉されたイエスの話になるので、混乱しやすいことは分かる。しかしここではまず、「人間」のみを指すことを
はっきりさせ、著者の言わんとする意図を把握しなければならない。
③8 節に二度出てくる「彼」は、続く「私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません」と
いう文章から、「人間」を指していることは明らかである。ところが、ある注解者たちは、「キリスト」と解釈し(新共同
訳も「この方」と訳しているので、そう読める)、混乱を招いている。ヘブル人への手紙の著者の緻密な論理によれ
ば、9 節まではキリストのことではなく、人間についての言及である(モリス、アートリッジ)。そのように著者の論理を
丁寧に追いかけながら読まないと、この箇所の著者の論点が分からなくなる。というより、きっと反対なのだろう。注
解者たちは、ヘブル人への手紙の著者の意図がよくつかめないので、キリストと読み込んで、少しでも理解したい
と思うのだろう。実は、それが間違いのもとである。
④9 節の「栄光と誉の冠」は、7 節の「栄光と誉の冠」と全く同じ表現である。それが、創造時に与えられた人間
の被造物管理権を指していることは、詩篇 8 篇の趣旨から明かである。ところが注解者の中には、9 節の「栄光と
誉の冠」を 7 節から切り離し、「変貌されたキリストのお姿」(Ⅱペテロ 1:17)とか、復活のキリストが「すべての名にま
さる名を与えられた」こと(ピリピ 2:9)とか(ブルースやエリワースなど)、「大祭司としての栄光」(シュトラートマン)な
どと解釈する人々がいる。このように読んだのでは、著者の意図からずれてしまうのは当然である。
⑤9 節から 10 節は内容的にスムーズに続いている(エリワース、NIV、新共同訳など参照)。従って、9 節と 10
節の間で区分しなければならない理由は全くない。にもかかわらず、ほとんどの注解者は、5-9 節と 10-18 節とを
分けて注解する。その結果、10 節の「栄光」は本来 7 節あるいは 9 節の「栄光と誉れ」を受け、「人間の被造物管
理権」という栄光を指すはずなのに、全く別の内容が読み込んでしまう。例えば、「和解」(ブルース)、「人間社会
の問題」(松山)、「苦しみや死に打ち勝つ栄光」(加藤)、「人々を最終的に完全な救いに導く」(プディ)、「ヘブル
1:3-4 に見られる御子としての栄光」(エリワース、レイリング)などと、文脈に沿って忠実にテキストを釈義しないと、
自分勝手な考えを読み込み、著者の言わんとするところから離れてしまう。
⑥11 節の「聖とする」及び「聖とされる」という言葉を、「神のために選び別つ」という言葉の本来の意味(エリンワ
ース)に理解するなら、人間がキリストの贖いを通して、再び被造物を管理するよう招かれている(聖別されている)
と読むことができる。文脈から言えば、そう読むのが自然である。ところがほとんどの注解者は、この「聖別する」と
いう言葉を「清くする」という意味に解釈し、「キリスト者の聖化」の意味を読み取る(安田、松山、蓮見、シュラッタ
ー、ブルース、プディ、ロバートソン、カーターなど)。これでは、人間の被造物管理というテーマがどこかに飛んで
8 この「神の国」理解は、G.E.ラッドの『神の国の福音』(聖書図書刊行会、1959)が出版されて以来、広く受け入れられている。
-6-
行ってしまう。というより、ここも実際には反対だった。人間の被造物管理権の回復というメッセージを思いつかな
かったので、聖化の問題を持ち込まざるを得なかった、ということなのである。
⑦11 節及び 12 節においては、キリストの死によって贖われた人々は「兄弟」と、13 節においては「子」と呼ばれ
ている。これらの表現はキリストとキリスト者との一体性を指す。14-16 節はさらにこの事実を深く展開している(ステ
ッドマン、レイリング)。キリスト者がキリストの支配権を共有できるのは、キリスト者が「キリストの兄弟」であり「神の子」
だからである。それは、ローマ 8:17 の「神の相続人であり、キリストとの共同相続人」と関連がある(レンスキー)。と
ころが、ほとんどの注解者は、このようなヘブル人への手紙の著者の論理展開を無視して、イエスが言われた「兄
弟」(マタイ 12:49、28:10 など)というニュアンス(そこでは、一般の家族関係を表わす言葉で、「相続人」という意
識はない)か、本書の著者が読者に語りかけた「兄弟」(3:1、12、8:11 など)と同一視する(ブッハナン、コスター)。
これでは、著者がこの箇所で言わんとしたことが分からなくなる。
以上の説明で、詩篇 8 篇で歌われた「人間の被造物管理の使命」がキリストの贖いによって回復されたというメ
ッセージが、「キリストの主権」や「キリスト者の聖化」の問題にすり替えられていくプロセスを理解できたと思う。注
解者の誰一人として、ヘブル人への手紙の著者の意図を正確に解説できていないのだから、一般のクリスチャン
にとってこの箇所が分からなくなるのは当然である。
Ⅲ.人間の被造物管理権の回復について
私たちはこれまで、ヘブル人への手紙 2 章が「キリストの贖いは、人間の被造物の管理権を回復した」というメッ
セージを伝えていることを確認した。それでは、被造物支配の管理権の回復とはどういうものか、聖書全体の流れ
の中で説明しよう。
1.人間は、創造時に被造物管理の使命を与えられた
ヘブル人への手紙 2 章は詩篇 8 篇 6-8 節を引用している。その詩篇には次のように歌われている。
あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。
すべて、羊も牛も、また、野の獣も、空の鳥、海の魚、海路を通うものも。
この詩篇の箇所は、創世記 1 章 26-28 節の「人間の創造の記録」を基にして歌われたことは、その表現の類似
性から明白である。そこで、創世記の記録を確認することから始めよう。
「そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家
畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身の
かたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、この
ように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべて
の生き物を支配せよ。」
この箇所では、人間について二つのことが強調されている。まず、人は「神のかたち」に創造されたこと、そして、
人は「地球の他の被造物を支配せよ」と命じられたことである。神が「われわれに似るように」と言われた「神のかた
ち」とは何を指すのか。聖書学者たちは、神がもっている「知性、感情、意志」、「神と御子の間の愛の関係」、「神
がもつ被造物の支配権」の三つの可能性があると述べている。どれか一つに限定する必要はない。三つともすべ
てを含めて考えておこう。人間は、神のこのような姿の一部をもつ、極めて特異な存在である。
「支配する」の原語は、他に「導く」(詩篇 68:27 など)とか、「指揮する」(Ⅰ列王 5:16、9:23、Ⅱ歴代 8:10)とか、
「平和に、安心して住むことができるように支配する」(Ⅰ列王 4:24-25)などの意味がある。「統治」とか「支配」とい
う訳語は、全体的な視野を前提とした言葉であり、神にはふさわしい。しかし人は、ごくわずかな部分を分担する
のみなので、「管理」という訳語の方が適切であろう。前者は創造者としての上からの目線であり、後者は同じ被造
物としての横から、または下からの目線である。
神が人に「地」や「地の上に造られた生き物」を管理するよう命じられたということは、被造世界は創造後も維持・
管理される必要があることを意味する。神はその創造の過程において、一つ一つを「よしとされた」(創世記 1:4、
10、12、18、21、25、31)けれど、それはその一つ一つが「不動の完成品」だったというわけではない。造られたも
のはその後も生成発展を繰り返すもので、継続的に神の摂理の御手を必要としている。その継続的な維持、発展
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のために、驚くべきことに人間が共同管理者として招かれたのである。
そのような招きを受けた人間であるお互いは、「そもそも神はなぜこの世界を創造されたのか」と問いたくなる。
むろんそのような答えは聖書に啓示されていないのだから、誰も答えることはできない。しかし、ヨハネの福音書
17 章にある「イエスの祈り」にそのヒントが隠されているように、私には思える。
あなたがわたしに行なわせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現
わしました。今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにい
て持っていましたあの栄光で輝かせてください。わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々
に、あなたの御名を明らかにしました。彼らはあなたのものであって、あなたは彼らをわたしに下さいました。
彼らはあなたのみことばを守りました。いま彼らは、あなたがわたしに下さったものはみな、あなたから出てい
ることを知っています。それは、あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼ら
はそれを受け入れ、わたしがあなたから出て来たことを確かに知り、また、あなたがわたしを遣わされたことを
信じました。わたしは彼らのためにお願いします。世のためにではなく、あなたがわたしに下さった者たちの
ためにです。なぜなら彼らはあなたのものだからです。わたしのものはみなあなたのもの、あなたのものはわ
たしのものです。そして、わたしは彼らによって栄光を受けました。(ヨハネ 17:4-10)
それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、
彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じ
るためなのです。またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが
一つであるように、彼らも一つであるためです。わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、
彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛され
たように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったも
のをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられ
たためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。そして、わたしは彼らにあなたの
御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼ら
の中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。」 (ヨハネ 17:21-26)
受講生の皆さん、創造以前にタイムスリップしたつもりで、このイエスの祈りをじっくり思いめぐらしていただきた
い。特に、下線の部分に注意を集中しながら繰り返し読んでいただきたい。すると、創造以前の御父と御子の会
話が目に浮かんでくるのではないだろうか。残念ながら今はこのことのために時間を取ることはできない。重要な
点を以下のように要約することで、とりあえず我慢しておこう。
イエスとみ父は、創造以前から愛の交流をもたれていた。そして三位一体の神は、その愛の関係をさらに広げ
ようと望まれ、愛の関係を分かち合える人間を創造することにした。それ故、人は「神のかたち」に造られたのであ
る。それによって、御父と御子が一つであるように、御父と御子とキリスト者が一つになるようにと願われたのである。
その愛の交流は、被造物を共に支配するという作業を共有することによって実現されたのである。従って、人以外
の被造物は、神と人間のドラマの舞台として創造された。これが、神とキリストが、人間に被造物支配の権限を与
えられた背景にあったものである(なお、エペソ 1:3-5 をも併せて参照していただきたい)。9
人間には、その共同管理をする能力が与えられていた。神はアダムに、エバがつくられる前のことだが、動物に
名前をつけるよう命じた。創世記 2 章 18-20 節をお開きいただきたい。
その後、神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい
助け手を造ろう。」 神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな
名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が、生き物につける名は、みな、それが、
9 Clark H. Pinnock, Unbounded Love(InterVarcity, 2000)、15-54 頁。このような考えは、カナダの神学者クラーク・ピノック
(1937-2010)の書物の随所に見られる。彼は 1970 年ごろまでは固いカルヴィニストであったが、次第にアルミニウス主義者となり、
1986 年ごろからさらに大きな神学的変遷を遂げた。以下の彼の書物は、賛成するかどうかは別として、神学を学ぶ人々の必読書で
ある。The Grace of God and the Will of Man (Bethany House, 1989)、A Wideness in God’s Mercy (Zondervan, 1992)、
The Openness of God (InterVarcity, 1994)、Flame of Love (InterVarcity, 1996)、Most Moved Mover (Baker, 2001) など。
なおピノックに関するよい入門書として、Reconstructing Theology – A Critical Assessment of the Theology of Clark
Pinnock (Paternoster, 2000)を推薦しておきたい。
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その名となった。 こうして人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが、人にはふさわしい
助け手が、見あたらなかった。
「名前をつける」という作業は、普通管理を委ねられた者にとっての最初の仕事である。アダムは動物の一つ一
つの本質を見抜き、それぞれにふさわしい名前を、瞬時につけていかねばならなかった。それは、簡単にできるこ
とではなかった。アダムは造られて間もなく、地を支配するための最初の仕事を、与えられた洞察力、判断力や知
力をフル活用して実施したのである。
2.人間の管理使命に破綻が生じた
ヘブル 2 章 8 節は、「万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それ
なのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません」と述べている。これ
は、創造時に人間に与えられた被造物の管理命令が何らかの理由でうまくいかなかったことを意味する。
何か異常事態が発生したのである。
それは、創世記 2-3 章に記されている「人間の堕落」という事件だった。神はアダムに、「あなたは、園のどの木
からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるそ
の時、あなたは必ず死ぬ」 (創世記 2:16-17)と言われた。その後、どれほどの時間が経過したのかはっきりしな
いが、ある時サタンがやってきて、エバを誘惑し、禁じられた木の実を食べるよう唆した。エバは誘惑に負け、神の
戒めを破ってそれを食べ、さらに悪いことに夫にも与えてしまった。
そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好まし
かった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。 (創世記 3:6)
二人は、神の戒めに背いた結果、それぞれ罪の報いを受けた。エバは、出産という最も喜ばしい使命を、苦痛
の伴うものに変えられてしまった。また夫とは対等に愛し愛される関係だったはずなのに、夫に支配されるという屈
辱的な位置に立たされてしまった。
女にはこう仰せられた。「わたしは、あなたのみごもりの苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まな
ければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」 (創世記 3:16)
では、アダムの方はどうだったのか。まず、土地が呪われ、人間にとって害になる植物が生えてくることを告げら
れた。それだけではなかった。アダムは、自分の食物を確保するのに苦しみが伴うと宣告された。
また、アダムに仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から
食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならな
い。土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。
あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。
あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。(創世記 3:17-19)
土地が呪われた結果、「いばら」とか「あざみ」などが生えてきたということは、人間の堕落の結果が自然界にも
及んだことを意味する。「いばら」と「あざみ」のような植物は、人の堕落以前からあったことだろう。しかし、アダムが
耕すよう命じられたエデンの園には、堕落以前にはなかったのだろう。アダムの労働は何ものにも煩わされること
はなかった。だが、堕落事件によって状況は一変した。パウロは「被造物が虚無に服したのが自分の意志ではな
く、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子ども
たちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみ
をしていることを知っています」(ローマ 8:20-22)と述べている。創世記 3 章の「いばら」と「あざみ」は、「被造物が
虚無に服した」ことの実例と見なしてよいと思う。
この「いばら」と「あざみ」は、自然災害を考えるときのよいヒントになる。津波や地震は、地球生成過程において
絶えず起こり続けてきたことであろう。アダムとエバが罪を犯した結果、突然生じたというのではない。もともと存在
していたが、堕落後に人間が歩む舞台に現れてきた、ということであろう。これは、人間に死が入ってきたことと同
じである。神は最初、そのプロセスはどのようであれ、人間を永遠に生きる者として創造されたはずである。しかし
罪を犯した結果、死ぬべき存在となったのである。
これは、創造時に与えられた人間の被造物管理権に破綻が生じた、ということである。
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3.イエスは十字架の死によって人間の管理権を回復された
まず、ヘブル 2 章 9 節を読むことから始めていこう。
ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。
イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべ
ての人のために味わわれたものです。
ここに出てくる「栄光と誉」は、8 節と全く同じ表現で、「人間に与えられた被造物の管理権」を指す。「御使いより
も、しばらくの間、低くされた方」とは、受肉してこの世界に人間として来られたイエスのことである。つまり、堕落に
よって破綻をきたした人間の被造物管理権が、受肉されたイエスの死によって回復されたというのである。多くの
学者たちが主張するように、もしこの箇所がイエスの被造物に対する主権性を解き明かしているのに過ぎないの
であれば、イエスの十字架上の死など必要なかったはずである。キリストは三位一体の御子なる神であり、その存
在の初めから万物の創造者、支配者だったからである(ヨハネ 1:1-3、コロサイ 1:15-17)。
復活後イエスは、「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています」(マタイ
28:18)と、弟子たちに宣言された。それは受肉され、人になられたイエスが、十字架上で罪人そのものとして、「エ
リ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか)」(マタイ 27:46)と大声
で叫ばれた言葉を受けてのものである。
このことは、次に続く「その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです」という言葉から
明かである。イエスの十字架上の死は、全人類のためだったのである。十字架には、いろいろな意味がある。罪の
身代わりの死(Ⅰコリント 15:5)、神と和解をもたらす死(コロサイ 1:22)、サタンや死を滅ぼした死(ヘブル 2:4)、自
己犠牲の模範としての死(ピリピ 2:5)などである。しかしここでは、人間に被造物管理権を回復したところの死であ
る。しかもそれは、すべての人に与えられるべきものである。10
それでは、ヘブル人への手紙のもう少し先を読み進んでみよう。ヘブル 2 章 11-12 節は、キリスト者が「キリスト
の兄弟」であることが強調されている。
聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、
こう言われます。「わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう。教会の中で、わたしはあなたを賛美しよ
う。」
パウロは、イエスが多くのクリスチャンの中で「長子」であると述べている。11 「なぜなら、神は、あらかじめ知っ
ておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中
で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた
人々にはさらに栄光をお与えになりました。」(ローマ 8:29)。ここで、義と認めた人に与えられた「栄光」とは、「御
子のかたちと同じ姿」のことであり、それは 8:17 に出てくる「神の相続人」あるいは「キリストとの共同相続人」のこと
である。ヘブル 12:23 では、「天に登録されている長子たちの教会」と言われているように、キリスト者が「長子」と
言われている。つまりキリスト者は、地の管理権を相続している人たちなのである。
さらに次節に進んでいこう。ヘブル 2 章 13 節は、キリスト者が「神の子」であることを強調する。前節でキリスト者
が「キリストの兄弟」であると言われたことが、別の表現で確認されている。
またさらに、「わたしは彼に信頼する。」
またさらに、「見よ、わたしと、神がわたしに賜わった子たちは。」と言われます。
この後のヘブル 2:15 では、キリスト者以前の人間の姿が「奴隷」として描写されている。その「奴隷」と本節の
「子たち」とは何が違うのか。子どもには相続権があるが、奴隷にはない、ということである。「相続権」とはむろん、
「神の相続人であり、キリストとの共同相続人」(ローマ 8:15-17)が受け取るものである。キリスト者は「神の子」とさ
れたのだのだが、その意味は、「被造物の相続権を受けている者たち」ということである。
新約聖書は、贖われたキリスト者は「王」であり、「祭司」であると述べている。(Ⅰペテロ 2:9、黙示録 1:6、
5:9-10 など)。これは、驚くべき表現である。自分を「王」と見立てて信仰生活を送っているキリスト者はどれぐらい
10 この句は、万人救済主義を暗示するかのように思われる(他に、ローマ 5:18、Ⅰコリント 15:22、Ⅰテモテ 2:4 など参照)。しかしそ
れと同時に、聖書は「救いはイエスを信じる人にのみ与えられる」と説いている(ヨハネ 3:18、使徒 4:12、ローマ 10:9-10 など参照)。
福音派の教職者は、全人類への罪の処罰が終わったことと、救いを受けることとの違いを正しく理解しておく必要がある。
11 ヘブル 1:6 でイエスは「長子」と言われている。この言葉が相続権を背景としていることは、ヘブル 12:6 から明かである。
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いるだろうか。ほとんどのキリスト者は、パウロの「罪人のかしら」(Ⅰテモテ 1:15)という表現には親近感を覚えるが、
「王」と言われると違和感があるのではないだろうか。
「王」とは「支配権を持つ者」である。聖書によれば、キリスト者が王であるという恵みは、今後永遠に続く。黙示
録はキリスト者について、「彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった」(20:4)とか、「彼らは神とキリ
ストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる」(20:6)、「彼らは永遠に王である」(22:5)などと、「王」とし
て描いている。前の二箇所は「千年王国時代(それがどのようなものかは、今は問わない)」のキリスト者像であり、
三番目は「新天新地」におけるキリスト者像である。贖われた民は、千年王国時代でも、新天新地の時代でも「王」
なのである。
Ⅳ.被造物管理と自然災害について
これまで私たちは、ヘブル 2 章の「堕落によって破壊された人間の被造物管理権はキリストの十字架の贖いに
よって回復された」というメッセージを、聖書全体の流れの中で確認してきた。それは、創造に始まって終末に至る
までの全歴史を通じて展開される「神の贖いのドラマ」そのものである。
では最後に、キリスト者が被造物の管理を遂行するときに考えておかねばならない事柄について、簡単にふれ
ておこう。
1.無視されてきた自然への管理権
キリスト者の被造物管理は、本来非常に広い概念である。ヘブル 2 章 8 節が、「万物をその足の下に従わせら
れました」とか、「万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです」と述べてい
る以上、天使も、地上の生き物も、人間も、人間社会も、自然も、すべての被造物が含まれる。
聖書は天使が存在することについては明らかにしているが、その創造のプロセスや働きについてはほとんどふ
れていない。ただ、神の民の出来事の中で偶発的に登場するのみである。従ってここでは、問題にしないでおこう。
地上の生き物についても、絶滅種の問題などいろいろないわけではないが、取り立てて管理上の問題を指摘す
る必要もないだろう。
被造物管理の中で、キリスト者が最も苦労するのは、やはり人間ではないだろうか。それは、自分自身の問題で
あり、身の回りの家族や地域社会、大きくは国家や国際などの問題でもある。人は皆、アダムの堕落の結果を受
け、罪性を身に着けてしまっている。人間社会は、その罪性に満ちた人間が長い時間をかけて作り上げてきたも
のである。従って、問題の一つ一つは、罪性の塊のようなところがある。キリスト教神学は、自分自身の問題を「キリ
スト者の聖化」の問題として、社会の問題に対しては「キリスト者の社会的責任」として扱ってきた。
さらに人間の管理権は、自然界に関わるすべての問題を包含する。その場合、自然のすばらしさを前提とし、
人間がそれを破壊した結果生じてくる問題と、自然自体が暴走し(人間にそう見えるだけなのかもしれないが)、人
間に災いをもたらす結果生じてくる問題とに分けられる。「地球温暖化」、「原発による放射能汚染」、「行き過ぎた
自然開発」、「遺伝子組み換え」、「公害の垂れ流し」などは前者に属し、「地震や津波」、「台風や竜巻」、「干ばつ
や洪水」、「異常気象」などは後者に属す。先の問題は人が蒔いた種を人が刈り取るのだが、後の問題は、神が
蒔く種を人間が刈り取るということで、問題の発生源と受け手とが逆転している。
これまでの福音派は、人間が被造物に侵害した問題については「キリスト者の社会的責任」として取り上げてき
た。しかし、自然災害については、手をつけてこなかった。人間に責任があるわけではないし、神に責任を問うわ
けにもいかなかったのである。とはいえ、もしキリストの贖いが、被造物すべての管理権を人間に回復したというの
であれば、自然災害を避けることはできない。12
自然災害は、自然の法則(あるいはリズム)の中で生じるものであり、それを防ぐことはできない。被造物の管理
者としては、ただそれをそのまま受け止め、どのように対処すべきか考えるだけである。自然災害といえば、ときど
きしか起こらないが、自然のリズムに左右されるという点では、毎日出くわしている。日々の天気や暑さ寒さなどに
影響されながら、日常生活を送っているからである。人間がそれに対し適当に対処しているということは、自然に
12
「ケープタウン決意表明」はエコロジーの問題などにもふれ(59-60 頁)、「包括的な福音」理解を提唱している。むろん従来の福
音派の福音理解からすれば、かなり包括的になっているが、自然災害に対する管理責任までを含めないなら、依然として「欠陥福音」
の汚名を受けなければならない。
- 11 -
対する管理がうまくいっている、ということである。
2.自然災害は「悪の問題」か
正統的な神学は、自然災害についてはほとんど扱ってこなかった。たとえ扱ったとしても、人間の被造物管理
権という視点からではなく、「悪の問題」、あるいは「神の義の問題」として論じられてきた。例えば、ニコラス・トーマ
ス・ライト(N. T. Wright)は、『悪と神の義』という書物(2006 年)において、自然災害の問題にふれている。13
彼はまず、スーザン・ニーマンが主張する、地震やハリケーンのような「自然がもたらす悪」とテロリストによる「人
間がもたらす悪」とを区別することに賛成する(19-21 頁)。そして、聖書の「悪」の取り扱い方は、教理的・倫理的
な説明ではなく、「神がどのような方であるかをイスラエルの民の間で開示されていく過程の中で描かれている」と
述べる。それは出来事の中に記述されており、抽象的に論理化されたり、体系化されるものではない(45-46 頁)。
そういう前提に立ってライトは、旧約聖書(47-74 頁)及び新約聖書(75-100 頁)、そして来たるべき新しい世にお
いて(101-130 頁)、「悪」がどのように描かれているのかを解説する。最終的には、神は悪に決定的な勝利を治め、
私たちをすべての悪から解放される(131-163 頁)。ライトは、結論として次のように述べている(164-165 頁)。
私たちは、「このすばらしい、美しい、根本的に善であるこの世界になぜ悪が存在するのか」を説明できない。
しかし、いつの日か、すべてがよくなり、神の勝利が現わされ、真理を知る時が来るだろう。その時を待ち望
みながら、今の世においては、キリストの死と復活の土台の上に立って、聖霊の働きを受けながら生きていく。
今あるところで、隣人を愛し、敵を赦すという経験をすればするほど、「すべてが善に変えられていく」という神
学的な深い真理を味わうことができる。
N.T.ライトは、現代的な問題意識にふれ、西欧の伝統的な「二元論的悪の理解」を克服しようと考えた。特に
「悪」を、教理的にではなく、歴史的に記述しようとした点には、斬新なものを感じさせる。しかし、たとえ「悪」を歴
史的に解説したとしても、その背景にあるライトの考え方は、結局伝統的な「悪の理解」と大差ない。リスボン大震
災のときの啓蒙思想家たちの論争にも言及しながら(19-21 頁)、自然災害をホロコーストや9.11の出来事から
は区別していない。彼ほどの鋭い神学的な感性の持ち主であっても、西欧の神学的伝統の枠から飛び出すのは
難しいのだろう。14
同じことは、ローザンヌ世界宣教会議の神学委員長クリストファ・ライトについても言える。彼は、今年の 6 月、日
本宣教学会全国研究会において「東日本大震災に対する神学的応答-聖書と悪の問題」という主題講演をして
いる。タイトルから明らかなように、彼もまた、西欧のキリスト教の伝統に基づき、自然災害を「悪の問題」として論じ
ている。その結果、自然災害は「不可解」であり、説明することは「時に害になる」とまで言いきる。結論として彼は、
次のように述べている(同講演の原稿 12 頁)。
それでは、日本で起きた地震・津波のような破壊的な悪に対して、私たちはどんな神学的・宣教学的な応答
ができるでしょうか? これまで述べた点を踏まえて、次のようなことが言えます。
神は私たちに悪の根源を啓示していないので、こうした出来事については私たちには金輪際理解できない
不可解さが存在することを受け入れなければなりません。ですから、「説明」を考え出そうとすることは避ける
べきです。説明は時に益になるより、害をなしてしまいます。
私たちは泣く人と共に泣くべきです。こうした出来事に対して哀しみ悲嘆に暮れ、抗議することは、正当で聖
書はこれを許可し、肯定するばかりか、そうする際に私たちが用いるための表現を豊富に提供しています。
神は私たちと痛みを共にし、私たちの叫びを聞いておられます。ヨブの友人たちが、一週間だけにせよした
ことを、私たちもするべきかもしれません。つまり、苦しむ人と共にじっと座り、彼らの苦しみを共にするというこ
とです。
自然災害をこのように「悪の問題」と神学的に理解すると、災害に対する神の意図は不可解のまま残り、日本人
や日本の教会への積極的なメッセージは出てこない。それでは、神学は「暇人たちの無意味な言葉遊び」と見な
Evil and the Justice of God (InterVarsity Press: IL, 2006)。
スウィンバーン(Richard Swinburne)は、Is There A God? (Oxford: London, 2010、Revised Edition)を著し、神がなぜ「悪」
を許しているのかという章を特別に設けている。人間は、全くの自由意思をもって選択するという、他の動物にはない特権を与えられ
ている。人は、それによって人間の本姓と歴史を形成してきた。「道徳的な悪」は、その与えられた自由の中で選択した結果生じるも
のである。「自然の悪」は、人間が悪を捨て、善を選ぶために不可欠のものである。それは、最終的には他の人々に役立つために用
いていかねばならない、と説いている(84-99 頁)。
13
14
- 12 -
され、嘲笑されるだけである。神学が日本のキリスト者と教会に大きなインパクトを与えるためには、他の道を探さ
なければならない。
3.自然法則に対する神の姿勢
西欧のキリスト教神学においては、自然災害は伝統的に「悪の問題」として扱われてきた。すると、神の義を守
るために、人間の罪が自然災害をもたらしたということになり、神の裁きにまでいってしまう。さすがにそこまでには
行けない人たちは、結局「不可解」という結論を出してお茶を濁す。それでは、これから日本が直面せざるを得な
い厳しい状況に対し、何の役にも立たない。
地震や津波は、人間が罪を犯すずっと前から恒常的に起こっていた。というより、そういう事象が繰り返えされて、
現在の地球は形成されてきた。もし大きな地震や津波(台風や竜巻、大水や雷、山火事や異常気象、その他何
でも同じ)が、人の住んでいない場所に起こった場合には、震災の問題にはならない。よくある自然現象の一つと
見なされるだけである。人がそこに住み、人の命(あるいは建物や田畑)が失われるとき、それが災害としてクロー
ズアップされる。人間が他の被造物と区別され、特異な存在だからである。
そこで私は、自然災害は「悪」の問題ではなく、「自然法則」あるいは「自然のリズム」がもたらすものであり、 15
人間の「被造物管理権」に属する問題であると提唱したい。そうすれば、日本のキリスト者と教会は、自然災害を
迎え撃つ準備ができる。そこまでいかない神学は、机上の空論に過ぎない。16
自然災害が起こるとき、神はどのように自然法則に関わるのかという問題をはっきりさせる必要がある。神が主
権者・統治者であるというと、一般には専制君主的な独裁者のように、被造世界を何でも意のままに統治するイメ
ージを抱く。しかし神は、そのような統治の仕方をしていない。創造された被造物に、それぞれにふさわしい形の
法則性と自由性をそなえ、それを尊重するという姿勢で統治しているのである。従って、神はむろんのこと、その
被造物自身であれ、他の被造物(人間を含む)であれ、その法則性に対し勝手に侵害することはできない。
神に関して言えば、神はむろん全能の神であり、法則に介入できないわけではない。ただ、なさらないだけであ
る。なぜなら神は、その法則性の自律性を最大限に尊重し、自らのご意志をもって「自然法則に侵害しない」と定
められたからである。神は人間に自由意志を与え、その自由意志を最大限尊重された。 17 神に背くことさえ、許
容された。それと同じように神は、被造物の内に制定された自律的法則性と自由性を尊ばれ、それに仕える形で
統治されているのである。
では、神が法則性を尊重し、侵害しないのであれば、神に祈ることは無駄なことになるのか。キリスト者は、自然
が人間(自分)に害を及ぼしそうになるのを知ると、それを避けたいと願い、祈りをささげたくなる。もし神がその法
則性を常に守るのであれば、そのような祈りは結局無駄になる。でも私は、そのようには思わない。自然現象には、
法則性に縛られない、自由性にあふれた部分も存在する。しかも、被造世界は、常に一つの法則性に基づいて
15
自然界には、すべてが自然の法則で動いているというより、その現象を法則化できない不確定な領域がたくさん存在する。この動
きを私は、リズムというあいまいな言葉で表現した。
16 サンプルス(Kenneth Richard Samples)は、7 Truths That Changed the World (Baker: Grand Rapids, 2012)という書物
の中で、自然災害を「悪」と位置づけているが、西欧の伝統的理解とは少々異にしている。彼は、「悪が存在する」と言い得るのは、
「善が存在する」ことを前提としており、「神の善」と「神の悪」とを対立的にとらえる必要はない(191-203 頁)という。そして、「悪」につ
いて、①神は、悪が存在する理由を明らかにしてはいない(ローマ 11:33-36)、②キリスト者の成熟、自立、生き残り、励まし、知恵の
ために、悪が用いられることがある。③未信者が自分の本当の姿を知るために、悪が用いられることがある、④自然災害は人が現れ
る前から存在するもので、人間の住環境の整備のために必要な現象である。人はそれに対峙し、克服して生きていく責任を負う。⑤
最終的には神は悪に打ち勝ち、その主権と栄光を現わされる(205-215 頁)と述べている。従来の考え方より一歩進んでいる。
17 福音派のこの問題に関する情報としては、ジョワース(Dennis W. Jowers)著 Four Views on Divine Providence (Zondervan:
Grand Rapids, 2011)という書物が参考になる。この書は、「神の摂理」に関して 4 人の異なった見解それぞれに述べさせ、互いに
論争させている。4 人とも、福音主義に立ち、必要であれば神は被造物に介入されることを信じている。しかし、人間の自由意思、神
の全知・全能性、そして悪の問題という三つの点でそれぞれが微妙な違いを主張している。ヘルセス(Paul Kjoss Helseth)は、こ
の歴史上のすべての出来事は全能の神の絶対的な支配によって生じているという(アウグスティヌス-カルヴァンの伝統的改革派の
考えを擁護する(28-78 頁)。クレイグ(William Lane Craig)は、神は、周囲の状況や環境を整え、(人の自由意思を妨げることなく)
神が意図される方向に決断するよう導いていると論じる。これはアルメニウスが主張した中間的知識(Middle Knowledge)という考
えを導入したものである(79-140 頁)。ハイフィールド(Ron Highfield)は、全被造物は神に依存している。真の自由とは神に従うと
ころにあり、この場合人間の自由が侵害されることにはならないという(141-180 頁)。ボイド(Gregory A. Boyd)は、神は全人類の益
を願ってはいるが、人間の自由意志は保障されている。神に従うことも反逆することもできないのであれば、それは自由とは言えない
し、責任もないと論じる(183-242 頁)。神の摂理と人間の自由意思に関し、多様な見解と多くのヒントを提供している。
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動いているわけではない。いくつもの被造物の中にあるそれぞれの法則性が複雑に絡み合って一つの自然現象
を呈している。その組み合わせの部分において、神が介入される余地はたくさんあるはずである。そこに、キリスト
者の祈りが生かされる場所がある。
神がその祈りに答えられるかどうかは、むろん神の主権の中にある。キリスト者は、神の介入を期待し、自分の
願いを大胆に祈るよう勧められている(マタイ 7:5-11、ピリピ 4:6-7)。18 奇跡は、いつでもとは言えないが、確かに
起こる。神が直接介入してくださらない信仰生活など、私には全く考えられない。自然界のことであっても、日常茶
飯事のことと同じである。神を自然の法則の中に閉じ込めてしまうのは、完全な間違いである。
4.神の国の統治原理
イエスの弟子たちは、伝道旅行をしていたとき、「自分たちの中で誰が一番偉いか」と論じ合っていた。そんな
弟子たちに対しイエスは、この世界とは違う「神の国の統治原理」を教えられた。被造物の管理権を回復されたキ
リスト者はその原則をよく理解し、それに基づいて管理しなければならない。その統治原理は、マルコ 10 章 42-45
節に記されている。
イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者た
ちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうであ
りません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先
に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕
えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」
イエスはここで、教会の指導者が教会内において取るべき態度を明らかされた。高い地位に立つ人ほど、低く
なって仕える人にならなければならない。イエスご自身も、この原則に基づいてこの地上を歩まれた。カール・バ
ルトは、キリストを通して神を知ることが重要だと説いた。つまり、このキリストの姿は神ご自身の姿なのである。キリ
スト者が「神は全知全能で絶対者である」と告白するとき、すべてを意のままに操る絶対君主、独裁的な王を想像
するかもしれない。しかしそれは間違っている。イエスが弟子たちに仕え、ご自分の命までも差し出されたように、
父なる神もまた同じように、被造物に仕えておられるのである。神の国はこのような統治形態の世界なのだから。
キリスト者は、「キリストとの共同相続者」であり、「王」であり、「祭司」である。「王」とか、「祭司」という言葉はその
職務を表わすが、その形態は「神の国の統治原理」に基づく。つまり、自らを低くし、しもべに徹することである。神
とキリストとがそのように万物に仕えているとすれば、「神の相続人」であり「キリストの共同相続人」であるキリスト者
が同じ姿を踏襲するのは当然である。統治の中心を占めるのは、仕える自分にあるのではなく、仕えられる相手
にある。私が所属する大野教会は「いつだってあなたのために」というキャッチフレーズを掲げている。この表現は、
神の国の統治原理をよく表している。
このような管理形態をとることは、決して簡単なことではない。神がすべてのことを決めるので、人はただ神の命
令通りに動けばよいという方がずっとやさしい。しかしそれでは、人は奴隷であって、管理者にはならない。相手を
中心にして配慮する管理は、絶対的な命令に服する支配より、はるかに多くの労を要する。しかしその面白みとや
りがいは、何倍も勝ったものである。
5.被造物の贖いとは
ある講演の後で、「この世界、この地球は将来どうなるのか」と聞かれたことがある。キリスト者が、管理する対象
の行く末に興味をもつのは、当たり前である。といっても、聖書からこの答えをはっきり出すことは簡単ではない。
Ⅱペテロ 3:10-11 は、「その日(キリスト再臨の日)には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくず
れ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれ
ば」と述べている。この言葉を文字通りに取れば、現在の宇宙のすべてが崩壊し、地球も焼き尽くされてしまうこと
ことになる。
コリンズ(C. J. Collins)は、『科学と信仰』という書物 Science & Faith (Crossway: Wheaton IL., 2003) の中で、神と自然法
則の関係を深く考察している。 神は「被造物が相互間で一定の法則に基づいて影響し合うもの」として創造された。神は、被造物を
保持するにあたり、その法則性を尊重することを基本にしているが、時に必要であればその法則性を超えて超自然的な働きかけを
することもある。人間は被造物の中に見られるその法則を学び、それに基づいて神と共に被造物を管理する権威を与えられている。
神はこの自然界において、人間が生存していくために細かなところまで心配りをしている。それは、両親が子どもに気を配り、子ども
の自主性を尊重しながら育てるのに似ている。従ってキリスト者は、子が親を信頼するように、神の摂理に信頼して歩み続けるべきで
ある、と説いている(226-228 頁)。
18
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一方パウロは、ローマ 8 章 19-23 節において、人間の贖いと共に「被造物の贖い」について説いている。
被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服し
たのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの
束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至る
まで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただ
いている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われる
ことを待ち望んでいます。
この箇所の「被造物が待ち望んでいる」、「被造物に望みがある」、「被造物の生みの苦しみ」などの表現は、
「新天新地」が今の被造物と全く無関係というより、その延長線上にあると考えた方がよいように思われる。もしそう
だとすれば、ペテロの「焼き尽くす」という言葉は、「清め」を表わす象徴的な表現なのかもしれない。今の地球がド
ラスティックに変わっていくことは間違いないとしても、「新しい天と新しい地」は、今の地球の贖われたもので、両
者には深い関係があるはずである。19
むろん私たちは、物質を基にする三次元の世界しか把握できない。従って、新天新地が理解不能な世界であ
ることはイエスが言われたとおりである(マタイ 22:29-30)。それでも、この謎を解くヒントはどこかにないだろうか。
キリストの復活の体とイエスが地上で歩まれたときの体との関係は役立つかもしれない。イエスはトマスに手の釘
跡や脇腹の槍の跡を示し、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差
し入れなさい」と言われた(ヨハネ 20:28)。エマオの途上で復活のイエスに出会った二人の弟子は、復活後に現
れたキリストをごく普通の人間と勘違いした(ルカ 23:13-31)。ガリラヤ湖で弟子たちに現れ、朝食を共にしたキリス
トは、炭火で焼いた魚を食べられたことだろう(ヨハネ 21:9-14)。これらの出来事は、新しい世界に何らかのヒント
を与えるのではないだろうか。
パウロは、贖われたキリスト者について「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古
いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」と述べている(Ⅱコリント 5:17)。この聖句によれば、キリス
ト者は「新創造の始まり」になる。「神の国」は、いまだ完成していないにしても、キリストと共に到来し、現に今この
地上に存在している。キリスト者がその神の国の管理者であるということは、今の地球と新天新地との間に深いつ
ながりがあるとみてもよいのではないかと思う。
ついでにもう一つ、別の問題にふれておこう。地上で管理責任に召されたキリスト者は、来たるべき新天新地に
おいては何をして過ごすのか、という問いである。興味深い問題だと思う。多くのキリスト者は、旧約聖書や黙示録
から、「礼拝」をあげる(イザヤ 27:13、黙示録 4-5 章、黙示録 7:9-17 など)。むろん礼拝が新しい世界の中心にあ
ることは言うまでもない。しかしイザヤは、新天新地においても旧約時代と同じように、礼拝が行われるのは祭りや
安息日の時だと述べている(イザヤ 66:22-23)。こういう表現は、別の日には他のことに従事していると暗示してい
るように見える。
黙示録 22:5 は、キリスト者について、「彼らは永遠に王である」と述べている。千年王国時代についてもキリスト
者が「王」であることはすでに触れた(黙示録 20:4、6)。とすれば、キリスト者は、今のこの世界において「王」であ
るだけでなく、来たるべき世においても「王」だということになる。つまり、贖われたキリスト者は、新天新地において
も、その世界の管理者になるということである。
イエスが語られた「タラントの例え」を思い出していただきたい。5 タラント及び 2 タラント預かった人はそれぞれ、
商売をして 5 タラント、あるいは 2 タラント儲けた。その結果彼らは、ご主人から「よくやった。良い忠実なしもべだ。
あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう 」(マタイ 25:21、23)とほめられた。
「たくさんの物を任せよう」という言葉は、ルカにおいては「十の町を支配する者になりなさい」となっている (ルカ
19:17)。このお褒めの言葉は、もしキリスト者がこの地上で管理者としての責任を立派に果たすなら、新天新地に
19
例えば、ヘンリー・シーセンは、現在の地球の延長線上に新しい天と新しい地を考えている(『組織神学』837-38 頁)。N.T.ライト
は、終末に大きな変化が起きることは間違いないが、今の物質世界とは全く違う、いわゆる霊の世界のような実態のない世界を想像
することは間違いだという。Evil and the Justice of God (InterVarsity Press: IL, 2006)、114-115 頁参照。「ケープタウン決意表
明」は、「神は全被造物の究極的和解を目的としている」と述べているが(33 頁)、この表現は、今の地球が贖われた形で続くことを
想定している。
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おいては、さらに大きな管理責任が託されることを示唆している。日本ではよく葬儀の際、「天国でゆっくりお休み
ください」と語りかける人がいるが、それは天国の光景とはだいぶ違うようだ。
6.自分の置かれた位置からスタート
キリスト者は「被造物の管理」をキリストから委ねられている。では具体的に私たちは、これから何を、どうしたらよ
いのか。それは、極めてはっきりしている。被造物の管理権の遂行は、「今自分の置かれている場所」からスタート
することである。今あなたの置かれている場所は、そこにどのような経緯を通してたどり着いたにしても、神が摂理
の御手で導いてくださったところである。まず、その信仰に立っていただきたい。
キリスト者にとっては、選ぶことができることと、選ぶことのできないこととがある。例えば、私たちは皆、この 21 世
紀に、この日本で、日本人として、××という家系に、この両親から、このような DNA をもって生かされている。そう
いう事実の一つ一つは、私自身が選んだことではない。しかし、自分がどのように成長したか、どんな学校に通っ
たか、どんな友達をもち、どんな仕事についているか、どんな家族関係にあり、どこに住み、どんな経済な状況に
置かれているのか、どこの教会に行きどんな奉仕をするのか、健康の状態はどうか、といった問題になると、自分
の意思や判断が加わっている(多くの外的要因に左右されながらではあるが)。前者はむろんのこと、後者におい
ても、神ご自身が導いてくださったと信仰的に受け止めることが「摂理信仰」である。
よい判断だったと誇れるものもあろう。反対に間違っていたのではないかと不安にかられるようなこともある。罪
の結果を刈り取っているのかな、と感じることもあれば、後悔の念で泣きたくなるようなこともあるだろう。どのような
プロセスを通ろうと、今の自分の立ち位置を神が導いてくださったと受け入れるのが、キリスト者である。その上で、
悔改めを求められていると感じたら、悔改めるのがよい。誰かに謝るべきだと思ったら、躊躇せずに謝ることだ。出
直さねばならないのであれば、出直したらよい。静かに祈りながら、自分の置かれている状況を神の御旨と確信す
るところからスタートしていただきたい。
神があなたを今の場所に置かれた、そう信じることができたら、自分がなすべきだと感じたこと(思ったこと、考え
ついたこと)を、一つずつ始めるのがよい。そうすることを迷うようだったら、祈るのがよい。それでも御心かどうかわ
からなかったら、祈りながら、周囲の状況より判断するとよい。家族や周囲の人々に関わることだったら、当人たち
に率直に話してみることだ。神は、他の人々を通して導いてくださることも少なくない。多くのキリスト者が「神の御
心が分からない」と御心症候群に陥っている。そこから脱却するには、小さなことであっても大きなことであっても、
まず一歩を踏み出すことだ。そうすると、神は二歩目を開いてくださる。「被造物の管理」などと大げさなことを言わ
なくてよい。身の回りの一つ一つに誠実に対応していくことである。
キリスト者は、自分に与えられた賜物を知り、生かす道を探すのがよい。関連する情報にはアンテナを張り続け、
本質を見抜く洞察力や全体像を把握する感性を身に着けていただきたい。他人の英知や経験から学び取る謙遜
さも大切である。新しいことを大胆に取り入れるのに、臆病になってはいけない。失敗を恐れずリスクを払う覚悟も
していただきたい。反対者や批判者の非難も当然起こる。それに耐えていく精神力を培っていかねばならない。
被造物の管理権とは、本来神のみができる仕事だった。それをキリスト者が共に担うというのだから、並大抵のこと
ではない。20
被造物の管理権執行は、簡単にできることばかりではない。神は、さまざまな試練を通らせ、私たちを訓練され
る(ヘブル 12:5-8)。そのようにして、次第に大きな責務を負わされていく。すべてを采配しているお方は主権者キ
リストである。キリストが信頼して委ねてくださっていることを、一つ一つ誠実に果たしていくのである。
7.キリストの下での管理
自然災害は毎日襲ってくるわけではない。キリスト者は、日常生活においては、身の回りの事柄を管理する責
務を負う。ちょっと身の回りを見てみよう。家庭不和、経済的行きづまり、道徳の崩壊、富の格差、不備な学校教育、
人口高齢化がもたらす問題、食料問題、原発問題、人権侵害、弱者の切り捨て、グローバル経済がもたらす歪み、
文明や宗教の対立、人種差別、難民問題、拉致問題、領土問題、国際紛争、環境破壊、・・・。問題は山ほどある。
「地を管理せよ」と命じられたキリスト者は、これらの問題を前にすると、ただ呆然と立ち尽くすのみである。
20
キリスト教の伝統的な人間理解はきわめて低い。アウグスティヌスとペラギウスの論争以来、カトリックであれプロテスタントであれ、
人間の罪による全的堕落という点が強調され、人間の価値は皆無に近い状態にまで引き下げられてしまった。この背後に、人間を
神の前に罪ある絶望的な存在として描くパウロの信仰義認の教理がある。しかしそのパウロが、どのような生き方をしたのかよく見て
いただきたい。自らの知性や教育、社会的な立場を生かしながら、実に豊かな伝道の生涯を送っている。
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しかし、キリスト者は失望してはいけない。キリスト者は、自分一人でこの使命を果たすわけではない。キリストと
共に治めるのだ(ローマ 8:17)。そのキリストは「天においても、地においても、いっさいの権威が与えられた」と宣
言している(マタイ 28:18)。ペテロは、「キリストは天に上り、御使いたち、および、もろもろの権威と権力を従えて、
神の右の座におられます」(Ⅰペテロ 3:22)と述べている。しかり、キリストは今この時、「神の右の座」に神の職務
代行者として座し、万物を治めておられる。パウロもまた、同じ真理を繰り返し述べている。
「神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自
分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世
においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれ」(エペソ 1:20-21)
それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名
によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエ
ス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。(ピリピ 2:9-11)
そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。
(コロサイ 2:10)
キリスト者は、キリストと共に被造物を管理する。被造物の管理に当たって、最も重要なことは、キリストの主権の
下ですべてを行うことである。このことは、どれだけ強調しても、強調しすぎることはない。キリストの主権的権威を
離れては、被造物の管理など無謀以外の何ものでもない。
さらにキリスト者は、教会という共同体において使命を果たすよう、招かれている。教会は、キリストをかしらと仰
ぐ共同体である。それは神が満ち満ちているところである。
「神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会
にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の
満ちておられるところです。」(エペソ 1:22-23)
ここに、「いっさいのものをキリストの足の下に従わせ」という句が挿入されている。ということは、神とキリストと教
会の一体性は、被造物の管理という文脈において考えるべき事柄である。普通「キリストとキリスト者(教会)との一
体性」は「聖化の問題」として語られる。しかし本来は「被造物の管理」という文脈で体験していくべきものである。
神とキリストは、教会を通してこの世界を管理している。従って、教会はあってもなくてもよいようなものではない。
さいごに
本日の講義を終えるにあたり、ローマ人への手紙 8 章 26-27 節のみ言葉で締めくくらせていただきたい。
御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないの
ですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。人間の
心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、
聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。
すべてを津波に洗われ、瓦礫の山と化した海岸にただ呆然と立ち尽くしたのが震災の 2 週間後、3 月 24 日のこ
とだった。それから月に2回の被災地訪問の旅が始まった。それは、仮設住宅に住み、愛するご家族を何人も失
って、「私たちは何も悪いことをしなかったのに、どうしてこんなことになったのか」とうずくまる方々に寄り添う時で
ある。聖書も開けず、祈りもできない。ただ無駄に時を過ごしている、そんなふうに思われる時である。
そんなあるとき、上記のみ言葉がフワッと私の心に舞い降りてきた。私は今、「どのように祈ったらよいかわからな
く」なり、「言いようもない深いうめき」にもがいている。でも、御霊が私の心の深みにまで下りてくださり、自分自身
でもよく分からない思いを神に届けてくださっている。そしてさらに、私が神のみ心に従って歩めるようにとりなして
くださっている。
そのとき涙がとめどもなく溢れ、牧師になってよかった、本当によかった、そう思った。
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