説教 「内なる光」 イザヤ書 60.1 - 3 ルカによる福音書 11.33 - 36 ○夜の闇に輝くあかり 主イエスは「光」についてお語りになるのを好まれたようです。今日の御言葉にも、33 節に「あかり」の譬を語っておられます。この譬は、すでに第 8 章 16 節でもほぼ同じよ うに語ってられました。夜の闇に輝く光。それは大変美しく、また力強く、しばしばわた くしどもを慰める力をもっています。主イエスの時代、あかりはランプで灯されました。 アラジンの魔法のランプはご存じでしょう。ちょうどそのような形のお皿に、油を注ぎ、 とがったその鼻先に灯心を置いて、その灯心に火をつける。そうすると、暗かった部屋の 中が、ぱっと明るく照らされる。主イエスは、おそらく幼いときからこのランプの明かり を夜ごと見ておられたのだと思います。そして、この小さな、しかし力強いあかりを見つ めながら、主イエスは光の大切さを実感しておられたに違いありません。 ○この闇の世に 主イエスはこの前のところで、 「この時代は邪悪な時代である」と言っておられました。 それは、人々の心の中にある不信仰、神さまを信頼しない心、主イエスを救い主と信じよ うとしない、そのような頑なな心をご覧になって、そうおっしゃったのです。ここに、こ の時代の暗さをもご覧になっていたに違いありません。 今、新聞やニュースなどで、どうも暗いことが多く報道されているように思われてなり ません。今の青少年たちの心は、すこやかに育っているのだろうか。そして、今の世の中 は、彼らに明るい未来を約束することが出来ているのか。かつて大きな戦争を経験したこ の日本が、世界が、再び同じ過ちを繰り返そうとしているのではないか。そのように思う とき、暗い気持ちにさえなってくるのであります。しかし、わたくしどものだれよりも、 深く、鋭く、この世の現象や出来事によってではなく、わたくしどもの心の中をご覧にな る方が、この世の暗さを見ておられるのです。それは、主なる神への不信仰と、この世の 暗さとが密接に結びついている、ということを意味しています。神に対する信頼を失って しまっているから、希望を見失うのです。神の愛を信じようとしないから、あるいは、そ れを受け入れようとしないから、いつまでも愛に飢え渇いてしまっているのです。そして、 愛を知らないから、人を愛することも、同情することも、大切に思うことも出来ないので す。それが、今の時代の暗さを表しています。 主イエスが夜の闇に輝く「あかり」の話を好んでなさったのは、そのためなのではない でしょうか。この世が、闇の夜のような時代だからこそ、その世を照らす「光」はなくて はならないものだからです。 〇目はからだのあかり それならば、その「あかり」とはなんでしょうか。主イエスのこの譬は、何を意味して -1- いるのでしょうか。主イエスは、34 節でこう言われました「あなたの目は、からだのあ かりである。あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいが、目がわるければ、からだも暗 い」。このように聞きますと、わたくしどもはすぐにこのように勘違いするのではないで しょうか。わたくしどもの目が明るく、いきいきと輝いているならば、その目の輝きによ って体全体も輝いて、あたりを照らすほどになる。しかし、目がわるければ、つまり、陰 気な目つきをして、どよんと濁り、死んだような目でいると、体全体からその陰気で暗い 雰囲気が滲み出てしまう。だから、いつもあなたがたが光り輝く存在でいるために、いつ も目に力を込めて、いきいきと輝かせなさい。どこかで聞いたことがあるような教えです が、主イエスはそのように言っておられるのでしょうか。 ○内なる光 35 節を読むと、そうではない、ということがすぐにわかります。「だから、あなたの内 なる光が暗くならないように注意しなさい」と主イエスはおっしゃっているのです。主イ エスがここで言われている「光」とは、わたくしどもの目の輝きとか、目力とか、そのよ うな外見に現れるようなものではないのです。そうではなく、わたくしどもの内側で輝く 「内なる光」なのです。しかし、そうなると、今度は自分の内面を磨くことによってキラ リと光る人間性を持つようになるとか、何事もあきらめずにひたすら目標を目指して精進 することによって、内に秘めた光を持つようになる、とかいったような自己実現の道を主 イエスが説いておられるかのように思ってしまうのではないでしょうか。 人間は、とことん自分勝手なので、聖書もまた、自分の側に引き寄せて読もうとしてし まいます。とことん、自分が主役でいたいのです。この主イエスがお語りになっている「内 なる光」も、自分が放つ光だと思いたいのです。自分の力で、自分の美しさや華やかさで、 あるいは、自分の精進や努力で、光放つ存在になろうとするのです。それはもちろん、結 構なことであります。しかし、果たしてその光はいつまでも続くものでしょうか。夜の間、 ずっと部屋を明るく照らし続けるランプのように、わたくしどもはこの世にあって、いつ までもこの暗闇を明るく照らし続ける光となり得るでしょうか。 わたくしどもの人生には、思いがけない試錬が襲う時もあります。若い時はできていた のに、年を重ねてきたことによって、できなくなってしまった、というようなことはたく さんあるかもしれません。それこそ、目の力はどんどん衰えていきます。そればかりか、 目が薄くなってくるのです。いつも明るく、楽しく、などと生きていけないようになる。 努力しよう、精進しようと思ってもそのような元気が出ない。それが、わたくしどもの現 実ではないでしょうか。そうだとすると、「目のあかり」や、「内なる光」が、もしわた くしども自身の中から出てくるものだとするならば、それはやがて消え失せる。光を放た ない、役に立たないランプに、わたくしどもはなってしまう、ということではないでしょ うか。それは、とても寂しいことです。悲惨なことです。絶望を覚えるよりほかありませ ん。主イエスはそのようなことをわたくしどもに求めておられるのでしょうか。 ○御言を聴くことによって そうではありません。全く違うのです。この 33 節の主イエスの譬の意味を正しく読み -2- 取るためには、この譬を主イエスが最初にお語りになった第 8 章 16 節のところをもう一 度読む必要があります。この第 8 章では、主イエスが種まきの譬をお語りになって、神が 蒔かれる御言の種をよく聴く者は、その御言が大きく育って、百倍もの実を結ぶのだ、と おっしゃったことが記されています。そこで、主イエスは「聞く耳のある者は聞くがよい」 といわれたのです。その後で、「あかり」の譬をお語りになって、「だから、どう聞くか に注意するがよい」と言われたのです。つまり、そこでは、御言をよく聴くことによって、 その御言が光となって、その人の内に輝く、と言われたのです。そのようにして、御言を 聴く者が、「あかり」となるのです。 ○信仰の目によって ここでも、やはり同じことが言えます。この「内なる光」は、わたくしどもの中で造り 出され、放たれるものではないのです。そうではなく、わたくしどもの外にある光、それ がわたくしどもの内側に入って、わたくしどもが光り輝く「あかり」となる、ということ なのです。 けれども、第 8 章においては、問われていたのは「耳」でした。御言を聴く耳です。し かし、ここで問われているのは「目」です。その外なる光を見る目です。光の源を確かに 見つめることのできる目です。それは、肉の目ではありません。霊の目です。神様によっ て与えられる、信仰の目です。その目によって、何を見るのか。主イエスは「澄んだ目」 と語っています。これはきれいな、とか、きよい、という意味もありますが、もともとは、 単純な、とか、単一の、という意味の言葉です。つまり、純粋に、一つのものを見つめる 目です。信仰において、見つめるべき一つのものとは、何でしょうか。 ここで、わたくしどもは主イエスがマルタに言われたあの御言葉をもう一度思い起こさ なければなりません。「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわず らっている。しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤは その良い方を選んだのだ」。そのマリヤは、一心に主イエスを見つめ、主イエスの足下で、 その御言に聴き入っていたのです。そうです。わたくしどもが、信仰において見つめるべ き一つのもの。それは、光なる主イエス・キリストなのです。なぜなら、この方こそ、死 に打ち勝ち、永遠の生命の光を放たれた方だからです。この世の闇は死の闇です。死に対 する不安が、わたくしどもの心を支配しているのです。しかし、主イエスは、その闇を吹 き払い、決して消えることのない永遠の生命の希望をもたらし、わたくしどもに真の光を もたらしてくださいました。さらに、キリストが十字架でながされた血によって、わたく しどもの一切の罪がぬぐいとられました。従って、わたくしどもの心の中にある闇もまた、 消していただけるのです。だから、主イエスこそ、この「邪悪な時代」、この闇の世にあ って、ただ一人、永遠に光り輝く存在なのです。従って、この方を見つめることによって、 この方の光がわたくしどもの内側を照らし、わたくしどもを光で満たされるのです。こう して、わたくしどもに「内なる光」が輝くのです。 ○信仰の天窓 ある人は、わたくしどものこの信仰の目は、言わば家の「窓」のようなものだ、と申し -3- ました。なるほどと思いました。窓の一つもない部屋は、昼間でも真っ暗です。しかし、 ひとたび窓を一つでもつけると、外の日の光が部屋いっぱいに差し込んで、部屋中をあか るく照らします。それと同じように、わたくしどもは、主イエスに向かって、信仰の天窓 を開けさえしたらいいのです。そうすることによって、わたくしどもはからだ全身が光に あふれる、と主イエスは言われるのです。 ○光を放つ者とされて この光は、わたくしどもの暗い部分をすべて消し去ることのできるほどに力強いもので す。もちろん、わたくしどもには相変わらず罪があります。人を傷つけることもあるし、 憎むこともあるでしょう。裏切ってしまうこともあるかもしれません。その意味では、な お暗いものを抱えて生きているといわざるを得ません。けれども、主イエスの光は、この 罪深いわたくしどもの暗さにまさる、というのです。これは、なんと驚くべき恵みでしょ うか。 このような驚くべき光に照らされているわたくしども、「内なる光」をもつわたくしど もだからこそ、世の終わりまで、この暗き世にあって、光を放ち続けることができるので す。 (2014 年 8 月 3 日 -4- 神戸神愛教会 主日礼拝説教)
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