秋葉さん・きおくの樹

きおくの樹
南米アンデスの鉄道と悪性リンパ腫
秋葉
裕嗣
著
【はじめに】
悪性リンパ腫(血液のガン)の再発後、いろんな事を考えて、このまま命が無くなるとしても、我
が人生に悔いはないと思えるだけのことは、その時々の状態で努力した結果、周りの方々に助けら
れながらやれ、北海道の北見に移住して来て築いたものや、結婚前の27歳の時に、南米アンデス
を駆け回り列車を追いかけ2年間を過ごした経験。時期的に誰も余り出来ないことを、一人旅なが
ら出来た事もとても有りがたいことであった。
こうした経験によって生活や人生観など、自分の人生に対する生きる力となり、自信が持て60
年間過ごすが出来ました。
その事は素晴らしき思い出と経験と喜びとして残って、ガンによる終末を迎えるかもしれないが、
子供の時の愛読書であった「太閤記」の中に出てくる織田信長の「人生50年流転の内に」の舞に
惹かれ、戦後ある時期までは人生50年、60年が当たり前でもあって、自分も50年間悔いの無
いように生る事を願っていました。
50歳の誕生日を元気に迎えられたときは、本当に嬉しく普通の誕生日とは別の感激で、また、
2000年21世紀にも足を印すことが出来て、ガン以外で人生の終末を如何なる事が起きても、
一般的な普通のこととして受け止められる覚悟は出来ています。
仕事のことや、孫の顔が見たいとか、欲を出したら切りがないのですが、先ず、心残りになった
事は、南米アンデスの鉄道を撮った列車の写真(ポジフィルム)が30年経っても保存状態も良く残
っているので、このまま残しておいても価値の判らない者にとって撮影場所も判らず邪魔物でしか
ないでしょう。
これを助ける方法として、簡単でも一冊の写真集として残し、これまでの生きた証を親しい方々
にお配りしようと、慣れないパソコンを駆逐して、病院のベット上で作成してゆく内に余りにも写
真が良いので、本として出版して書店に並べられるような写真集を作り、多くの人に見ていただき
たいと、欲が出て編集に力が入り、これが闘病生活を支え、抗ガン剤治療にも耐えられた面が大き
い。
幸いにも2006年10月に自費出版ながら、書店に並び、書店主の予想よりも売れ行きが良く、
写真集を購入した鉄道マニアの奥様方に、また、同じ病気で闘病中の人には癒される写真として好
評で、海外にもメールを通じて12カ国に1970年代の貴重な写真の記録として60冊ほど販売
出来ました。
この間、自家抹消血移植や、骨髄バンクの非血縁同種移植のドナーさんの骨髄液を頂きながら、
写真集の販売を続けて来て、450冊印刷して残部30冊程になり、一段落してしました。移植後
のGVHDや再発による、入院期間の延長も余儀なくなり、遣ることがないとベットで横になると
本当の病人らしくなってしまうので、人生記のように堅くなく、これまでの経験や時々に思ったこ
と、記憶の中から記録して、精神的な病人から脱出したく書き始めたので、思いつくまま勝手なこ
とを書いているかもしれませんが、これが、写真集と異なった生きた証の記録として、また写真集
の疑問に答える為に撮影秘話を加えて、誰にも読まなくてもパソコン上では残るでしょう。
2007 年 6 月 22 日
<目
次>
0、 はじめに
1、 横浜港出港ブラジル丸にて
出船
船内の生活
カード社会と信用
2、 東京大空襲
3、 カメラとの出会い
母の死
クラブ活動
4、 何で南米ブラジルか
5、 鉄道写真の撮影について
6、 居候
7、 北米大陸の横断と失敗談
バスへの荷物の積み込み
ニュー・ヨークへ
南部へ
8、 スペイン語を覚える
素人下宿に
9、 南米の国々では
南米は何処が良かったか
心豊かな人 心貧しき人
泥棒と警官
革命
A型流行性肝炎
10、列車の撮影裏話
予算
列車の時刻
撮影許可書と国内無料一等乗車券
撮影機材
太陽特急
北部線レールバス
悪魔の鼻
インカ鉄道
海抜4781mをゆく
秋葉 裕嗣、
インディオ列車
首都ラ・パス
ポトシ銀山をゆく
雲の上の列車
草原をゆく小さな列車
リオ・トゥルビオ炭坑鉄道
広軌幹線の国産蒸気
薪で走る蒸気機関車
軍事クーデターと戒厳令
革命分子による政情不安
11、ブラジル入国
サンパウロ
中馬先輩のこと
ブラジリア
ベレン
トメアス移住地 ピメンタ
勇三先輩
12、早足世界一周
フラメンコ
シンプロントンネルからテルミノ駅
ギリシャ
王家の谷 エジプト
イスラム教と日本の女性
インドの紙幣事件
インド女性とカースト制
13、那覇空港に帰国
日本の夏と順応性
14、写真集の出版と原稿書き
オイル・ショック
偶然の再会
他の写真集への貸出し
15、ブラジル移住の準備と就職
16、北海道に移住地の変更
偶然の重なりは必然か
先輩の婚約者
北海道へ移住
17、結婚の経緯
18、60歳を元気に迎えて
クリーニング工場を建てる
健康診断
19、悪性リンパ腫の発病と闘病生活
疲れ
血液ガンの宣告
最初の入院・治療
再発・自家末梢血移植
写真集の編集
再再発・非血縁者間骨髄移植
写真集の出版と販売
骨髄移植を断られる
実際の骨髄移植
横浜港出港ブラジル丸にて
<出船>
1971 年8月 29 日、横浜港国際埠頭に停泊中の大阪商船三井船舶のブラジル丸には、すでに新天
地の夢を抱いて、ブラジル、アルゼンチンへの移住者が、デッキに並んで見送りの人々と挨拶を交
わし、五色のテープがにぎやかに飛び交っていた。
その集団の中に、太鼓を真ん中に黒の学ランを着た一団が部歌を歌い、南米を目指す一人の男を、
送り出さんとしていた。その周りに男の親友や兄弟そして、5・6人の女性も混じっていた。
最後に親友でグリークラブの男が、出船を歌い始めた
出船(作詞 勝田香月 作曲 杉山長谷夫)2 番の歌詞
「いま鳴る汽笛は出船の合図
無事で着いたら便りをくりゃれ
暗いさみしい灯影のもとで
涙ながらに読もうもの」
男は歌に目をつぶって聴いていた。歌が終わりしばしの別れを惜しんで、一人ひとりと笑顔で握
手をしてタラップを登った。
彼にはある思いが有ったので涙が無かった、それでも銅鑼がなり、蛍の光が流れると、生きて帰
れるのかと頭をよぎった、出国の前の報道では、アマゾンで日本人の遺体が発見され、親元に引き
取られた、またペルー側のアマゾン源流から川下りの探検を目指した早稲田の学生達が、雇った現
地人に機材や金品を奪うわれ全員殺された。不幸な出来事であったが、アマゾンの奥地で遺体が発
見され、親元に戻ることが出来たのは幸運だ。
日本の親が息子からの連絡が途絶え、心配をはじめ在ブラジルの日本大使館に捜索願を出したと
しても、広大な土地に多くの日本人旅行者が、思い思いの目的地に向かっている状態では、奥地で
殺害され遺体は埋められ、証拠は隠されてしまうので、大使館でも警察でも捜しようが無い。救い
は日本人の旅行者が、地元の人には目立つ存在で、急に居なくなれば疑問を抱いてくれるかもしれ
ない。そこから発見される場合も有りうるのです。
当時はUS1$ 360円の固定為替レートの時代が終わりになった時で、まだ旅行者も少ない
時代に続けての事件だけに感心を集めた。
<船内の生活>
ブラジル丸は貨客船で、僚船のアルゼンチナ丸と共に、移住者を運ぶ目的で運用されていた戦後
唯一の外国航路の船舶でした。横浜を出航した船は、ハワイに向かわず、一路南下し、新たな移住
者を乗せる為、神戸港に向かっていた、紀伊水道に入ると台風と遭遇、本船は大いに揺れ、食堂に
集まった人数も極端に少ない中、食器はテーブルを泳ぎ、やっとの事で食事を終えて、船室に居た
のでは、エンジンの振動と臭いで気持ち悪くなるので、最上階の図書室のソファで波を見ながら耐
えた。
神戸に入港後、台風の影響で米原付近は水害となり、新幹線も遅れたが、男はまた東京に戻り、
親友と酒を酌み交わし、神戸に戻ったのであった。
神戸港では、多くの移住者が乗船し見送りの人々と別れを惜しむ姿を、気楽に見ていられた。台
風一過の晴天で静かな太平洋に戻り、アメリカ西海岸に順調に航海続け、海ばかり見る日が続いた。
船内の食事は、最初は和食の定食、翌日は洋食のフルコースと交互に並び、段々アメリカが近づく
につれて洋食が多くなり、洋食に慣らす配慮が伺われた、元々肉の好きな男は体力の維持の上では
日本食より洋食のほうが栄養になると思い、それ以降、日本食を外国のレストランでは口にするこ
とが無かった。
移住者とは、異なる一階上の4人部屋には、アメリカを目指す若者が多く、フルコースの食事に
は、彼らでも何も動かないで、食事に挑戦するのは無理なことで、男もその一団に混じって、食事
の為の腹空かしの縄跳びや、デッキを走る運動に加わり、けっこう船旅も忙しいものであった。
<カード社会と信用>
ホノルルでは補給などのため2日の停泊、その間マウイ島に飛びのラハイナ観光用の鉄道を見に
行くため、レンタカーを借りた。
ハワイの島である点や日本人である点など、国際免許証とパスポートだけで簡単に借りられた。
でも、アトランタではカード決済を要求され、カードを持っていないとパスポートだけでは中々信
用されない。カード社会になっているアメリカ、カードがまだ信用出来ずに現金が主体の日本、ハ
ワイで借りた同社の領収書を見せてやっと貸してもらい、郊外の遊園地に広い片側2車線の道路を、
ダッジの車は大きく緊張の連続で向かい、ジョージアの機関車を撮ることができた。
信用という点では、ハワイのバーのカウンターで飲んで居た時、隣にマスターサージャンとの肩
章をつけた黒人兵が座り、日本に駐留していたとか、話しかけてきて、別の場所で飲み直しをしよ
うと、誘ってくれた。時間も遅かったので、断ったら、自分が信用されていないと思ったのか、カ
ードや身分証明を出してきた。男は黒人兵の行為がとても悲しかったが、その場は黒人兵と別れた。
差別されている側の人間が、信用される手段とはなにか、果たして男が日本人である証拠はパスポ
ートだけであり、チャイニーズやコレアと区別が一見では出来ないだろう。南部の田舎町へ行けば、
黄色人種や、戦争相手として差別を受ける可能性も有るという話を聞いていたからだ。
ホノルルから、6 日の航海でアメリカ本土に付く。海を眺めながら、東京大空襲で浅草や下町を
爆撃したB29の事を思い出した。まだ生後 11 ヶ月で記憶も何も無い、でも右手小指は焼夷弾の
火の粉で焼け、曲がったままだ。
東京大空襲
男は、1944年4月に台東区浅草6丁目、元の浅草区馬道3丁目、吉原の大門へと向かう日本
堤と馬道通りの交わった、堤の横に、寛永
年から続く、豊作を願う神を祭る合力稲荷神社で生
まれた。祖父は修行を積み、病気も直せた人であったが、父は夜間工業高校を出て、日本冷蔵に勤
め、製氷缶の水漏れ防止の特許をとり、工場を経営していた。
戦争もミッドウェイ海戦で日本側の航空母艦が全滅し制空権が無くなった頃から、町内会や家々
では防空壕を掘って、空襲警報に備えていた。男の家の庭にも掘られ空襲警報が鳴ると、防空壕に
入った。男の唯一の弱点はトンネルや暗い閉所を嫌がる性格は、この経験からではなかろうかと思
っている。
3月9日22時半,2機のB29が飛来したが房総沖へ飛び去り、空襲警報は解除になっていた。
日付が10日に替わり午前0時8分,B29の編隊の第一波が、台東区、墨田区、江東区にまたが
る40k㎡の周囲にナパーム焼夷弾を投下して、火の海を作り、その後、合計344機が2時間半
の間に焼夷弾の波状絨毯爆撃を続けた。目標となる軍需工場も無く、一般市民の住む木造の木と紙
で出来た家屋が並ぶ地域に、空中で破裂した爆弾は、油のしみこんだ小さな火の玉となって、雨の
ように降り注いで家屋は次々に燃え始めた。折しも風速 30mの強風が吹き荒れ、住民は猛火の中を
逃げ惑っていた。
兄二人は、父の経営する亀戸の工場を見るため、隅田川に架かる言問橋を渡ろうとしたら、荷物
を背負った人や、荷車を引く人で混雑し中々渡れなかったが、そこへ憲兵の車がサイレンを鳴らし
て来て、その後についてやっと橋を渡れた。火勢が強く、暑さに耐えられず墨田川に飛び込む人が
大勢いて、そこへ、川面や橋の上を強風と共に火が炎の波となって通ったため、多くは水死や頭を
焼かれ水の中で亡くなり、川は一面丸太を流したように埋め尽くされた。
橋の上で焼かれて亡くなった人も多く、最近まで言問橋には人の油が黒く敷石にしみこんだ場所
があった。兄達は幸運であり、焼け野原になった場所を逃げまわりながら生き延びることが出来た。
父は町内の役員として消火活動をして、最後まで家の付近に居り、家が焼け落ちたのを確認して逃
げた。
11ヶ月の男の子は母の背中にオブイ半纏で包まれ、20歳も離れた姉二人の4人で、土手の窪
みで熱風をやり過ごしたり、ボート公園や、富士小学校、上野公園に避難したり、いろいろ逃げ回
っていた、その間に火の粉が、オブイ半纏に付き燃え出した、後ろから来た人に教えられ慌てて消
したが、子供の小さく握り締めた右手は火傷を負った、現在でも男の右小指は真っすぐ伸びないで
いる。学童疎開していた姉一人を含め、一家全員無事に再開できたことは、3月10日の東京大空
襲で、死者10万人、負傷者11万人を数える中、とても幸運というだけでは言い切れないものが
ある。
防空壕に入った人たちは、地上を火が走り、蒸し焼き成って亡くなった方も多かったと、父は後々
まで話しをしていた。
カメラとの出会い
<母の死>
焼け出されて、埼玉県の浦和に家を買い住み、男は、高砂小学校には越境入学して、岸中学、県
立浦和高校へと進んだ。20 年後には越境入学が問題となるほどの進学コースです。
小学生の修学旅行の時には、兄のカメラでスナップ写真を撮るなど、当時としてはませた子で、
カメラは絞り・シャッタースピードなど、調節する手動で、蛇腹と共にレンズ出る。
4 年生ごろから柔道を町道場に通たりもして、クラスの中で相撲などと言った遊びにも自信を持っ
ていた。6 年生の時、講道館の試合の合間に少年達による型の演舞が披露され、それに選ばれて稽
古以上に型の練習をしたのが後にこれが役に立った。
高校 1 年の時に母が倒れ、入院生活となり、学校から帰り道によって見舞いをすると、必ずもり
蕎麦の出前を注文してくれ、自分の分も半分わけて嬉しそうに食べるのを見ていた。蕎麦といえば、
良く聞かされた話しに、合力稲荷神社にお参りに来た、何代目かの人形遣いの結城孫三郎氏は、蕎
麦の食べ方がとても上手だったと母が話をしていた。いろいろ工夫して上手に食べる練習をしたが
難しい。その時の思い出を忘れないように、蕎麦は誕生日とか親の命日とかには、盛りそばを食べ
る習慣となった。
戦時中には生や殖やせの時代で、母が43歳の時に産んだのも普通の出来事で、男3人、女4人
の7人兄姉の最後の子供でした。直ぐ上の姉を腸チフスで亡くし、戦後の21年には長兄を結核で
亡くしていたので、男にとっては二人の記憶は残っていない。
小学校の参観日には必ず母親が来ていたので、友達からは「どうしてお婆さんしか来ないのか」と
言われることが多かったが、子供をたくさん育てた経験から、自由かつ厳しく接してくれて良かっ
たと思っている。
中学になると弁当持参、毎月1日、15日はお赤飯で、本格的に炊く場合や、簡単に小豆を入れ
て赤飯らしくする場合もあった。浅草の合力稲荷さんの祭日で、赤飯を炊く習慣を続けていたのだ
ろうか、コレも友達からは、今日は誰の誕生日だと問い合わせが毎回有り参った経験があったが、
本人は別に気にも留めることなく、普通のことと感じていた。
働き者の母は、農家から畑を借りて、陸稲、サツマイモ、大根などの作物を作っていて、6年生
ぐらいになると、畑にまく肥料として、コイダメの先棒を担がされた。心臓の病気が判ってからも、
畑の草取りは欠かさず、きつくなると息子に手伝ってと頼むが、息子にとってはもう畑仕事は止め
て欲しいと思いから、わざと手伝いを拒否した。性格的に畑を借りている間は、草を生やしとくの
は我慢が出来なかったのだろう、手伝ってやれば良かったと死んでから後悔したものだ。
高校1年生の十二月、兄の奥さんである人の義兄が通産省に居て、カメラでも何でも安く買える
との話しをしていて、自分では病気の母にねだった記憶は無かったと信じているが、こんな機会だ
からと、カメラは当時の大卒の初任給の 2 倍位した高価なもので、当時出たての一眼レフ、ミノル
タSR-1を買って貰った。
それから、半月もしない内に、学校の期末試験で早く病院によったら、前日知人が来て興奮した
のか、急に容態が悪くなり、父に知らせなさい、皆を呼べと医者から言われ、東京から父が駆けつ
け、兄弟が揃った頃、お前は試験が有るから帰れと言われた。当時は電話も無く、一人で留守番を
していたが、9時頃になって心配になり、自転車で夜道を走った、幸いにも待っていてくれたよう
に母の死に際に会うことが出来た。
カメラはこの時を覚悟した母の贈り物であったのだ。
<クラブ活動>
県立浦和高校では、東大・早稲田・慶応を大学受験の目標にする生徒が大半で、男も入学試験の
成績では中の上であったので、部活をそれなりに選んでおけば、勉強もおろそかに成らなかったで
あろうが、中学からの最大の目標である県下で一番の男子校に入り、安心したのと、幼い時に柔道
をやり、体を使う運動部に入りたいと思った。
そこに目新しいスポーツとして漕艇部があり、自ら希望して入部したら、平日は学校で、土日は
戦前に幻の東京オリンピックのボート会場として作られた戸田コースまで、自転車で40分かけて
行き、練習をしてまた自転車で帰ると、夕食もとらずに寝てしまうことが多く、成績も当然のよう
に落ちて行った。赤点を取り補修を受けていると、年配の数学の教師が、自信喪失になるのをかば
ってか、
「君は他の高校へ行けば、それなりに上の成績で有ったはずだから、自信を持って頑張れ」
と励ましてくれたのが強く残っている。
当時は部活を2年で止めて、進学の為の勉強に入る友人が多い中、3年まで続けインターハイに
2度出場した。そのお陰で卒業時はスポーツ功労賞を頂いたが、成績は多分一番終わりであったと
思っている。後年ある先輩がOB会のときに浪人しても後輩の指導を続けていたで、お前は漕艇部
の中興の祖だと言われた。嬉しい褒め言葉では有ろうが、好きなことを当然の事としてやっていた
ことで特に何も感じなかった。
男は、小学校の恩師の影響もあって社会科が得意で、小学校の教師に成りたかったのが本心で、
工場の跡を継がせる積りの、父の絶対命令的な希望が工業大学への進学であった。同じように浦和
高校入学も男子校だからと言う単純な理由であった。
浪人して工学院大学の生産機械工学科に入学できた。またも父の希望に沿った訳だ。
今度はボート部が無いのでヨット部と思ったが、新宿淀橋に有る大学からは、海が遠く諦めて、
何か無いかなと思っていた処に、「ブラジルに行こう」のキャッチフレーズで、海外工業技術移住
研究会の募集があった、海外移住は盛んな時期で、東京農業大学や、拓殖大学などは盛んに活動し
ていた。しかし特別誘われた訳では無く、その時はブラジルも南米もまた移住も特別興味が有った
のでもなく、変わっているからとの理由で入部した。高校のとき漕艇部へ入った時と同じ感覚で入
ってしまった。入部した仲間も移住しようと思っていた人間は無く、クラブ活動の雰囲気を満喫し
て、みな卒業していった。
1年生は八王子の奥に校舎があり、初めて素人下宿の 4,5 畳の部屋を借り、食事はご家族と共に
させて貰い、夏休みには酒乾物の商店にアルバイトに行った。スポーツで身体は鍛えてあったので、
ビール瓶など重いものを持つのは苦ではなかったが、これまで親の工場ばかり見ていて機械の都合
で身体が空く時間が有って休むことが出来たが、商店はで仕事の切れたときに、仕事を探して掃除
や、店をキレイにするなど休み無く身体を動かすことに、最初は苦労したが商人の良い経験をした。
2年生からは、淀橋浄水場の前の古い校舎に移り、場所が新宿西口で、安い鯨かつ屋や汚くても大
盛りで安い店が有ったり、日活でバイトをしていたお陰で、日活名画座の映画をただで見たり、新
宿の良いところを生かして結構楽しめた。
何で南米ブラジルか
移住研究部で、まじめに活動して他大学と交流していくと、ブラジルの広大な土地、その中に隠
された資源の豊富さなど、その頃は海外移住が盛んで、国力の未来性と共に、自分の未来も開けて
いくのではと思うように成って来た。
男が東京オリンピックの柔道競技の券を、徹夜して手に入れ、父に見に行かせた時から、風邪を
引いたとかで病院を出入りするようになり、最後は胃癌の診断で大学2年の夏に他界してしまった。
厳しい父で幼い頃は、食事の時父の隣の正座をして座らされ、箸や口が止まると横から拳固が飛ん
できた、だから小学生までは嫌いであったが、高校へ行く頃から、何か父の姿が頼もしく、偉いな
と思えるようになって、自分も子供には同じように思ってもらえる父親像の後ろ姿を求めるように
なった。
就職を考え始めた時、工場の跡継ぎの話も終わっていて、新たに就職を見つけなければいけなく
なり探しているところへ、大学の前身の高専時代の先輩社長が講演して「ブラジルに工場を作る予
定である、ブラジルは未来の国である、共に苦労する人間を探している。
」
この講演を聴いて、これだと思い就職試験を受け、幸い電話の交換機や警視庁の指令表示板など
を造っている、(株)長谷川電気制作所に入社することが出来た。
入社式の後、大卒だけ集められて歓迎会を開いてくれた席で、常務から驚くべき発言がでた。
「こ
の中にはブラジルの新工場に派遣される目的で入社した者いるが、ブラジルは経済が不安定で、イ
ンフレが激しく、工場建設の予算の計画が立たないので中止した。
」
ブラジルのインフレについては知っていて理解したものの、目標が初日で崩れて、さて今後どう
するか考えた結果、折角入社したのだから、石の上にも3年、3年間は仕事を教えてもらいながら
会社のために働き、社会人としての経験を積み、3年経ったらブラジルの夢を追うかどうか考えよ
うとの結論になった。
3年後になって、移住はともかく、一度ブラジルをこの目で見てみたい、それからでも遅くない
ので会社に辞表を出した。
丁度、父から遺産として貰った金が150万ある、これだけ有れば2年は過ごせるだろう、直接
ブラジルに行くよりも、これまで日本中の蒸気機関車を追いかけてきたのだし、幸い南米の鉄道の
写真や資料は日本に紹介されていないので、北から南まで鉄道を追いかけてみようと、計画を立て、
鉄道ファン誌に趣旨を説明に行き、写真を印刷する為には、ポジフィルムで撮るようにとアドバイ
スを受けた
これまで男子高校生活から大学でも男ばかりのクラブ生活で学ランを着ていたのが、背広を着て
芝信用金庫に卒論調査の目的で出入りする事になり、女性ばかりの職場で、生活が一変し親しくな
る女性も出来たし、年頃の男としてのお付き合いもさせてもらった。
しかし、「ブラジルへ行く」、「列車の写真を撮る」ことが大前提で結婚したら無理になる。また結
婚して生活を続ける自信もなかったで、女友達としてお付き合いをさせて貰った。横浜にはそうし
た女性が見送りに来てくれ、ブラジル丸で出航したのであった。
鉄道写真の撮影について
中学校の校庭の横に、東北本線、高崎線、そして電車の京浜東北線が走っていました。
主役の座は、電気機関車に譲ってははいたものの、D51,C58などの蒸気機関車も客車を牽引
していた。帰り道、客車の中に台車と言ってレールの上を走る走行装置が、普通一両に横から見る
と軸が2つある、たまに、3つの軸が3軸ボギーと呼ぶ戦前の優等寝台列車で使用されていた車両
が、丸い屋根に改造されて普通の客車として使用されているのを見たり探したりするのが楽しみで、
線路脇をゆっくり下校し見つかると喜んでいた。
高校時代はボートに夢中で、カメラは手に入ったものの、本格的に鉄道写真は撮ってはいなかっ
た。
大学に入り、夏休みは合宿とバイトで忙しく、本格的に蒸気機関車を追いかけ始めたのは、1年の
春休み、移住研の活動の中で、北海道の別海町に原野を開墾して、北欧風の集団酪農牧場を国策で
開発を進めた、パイロットファームと言う一戸あたり19ha、乳牛10頭で昭和31年から始ま
った入植牧場が有るのを知り、3 月の休みに北海道に渡った。
中春別の農協に行き、丁度居あわせた農協婦人部長に拾ってもらい、開拓農家へ向かった。
13キロほどの未整備な道を、車での移動でしたが、それは夜間であり周りの景色は見えず、星が
輝くばかりで、大変長く感じ、何処に連れて行かれの思うほどであった。
春三月では雪が有り、たいした仕事の無く、一日中薪割りや薪きりをしていて、実習と言うより、
お世話になった感じが強い。
途中C62の急行ニセコや、美流渡炭鉱、中雪裡で鶴居村営鉄道などの写真を撮り、最初の本格
的な撮影旅行となった。この後、大学の春休みや、就職した会社が早くから土日完全休日であり、
祭日などを組み合わせて、北海道にはだいぶ足を運び、各地の列車を追いかけていた。
次第に北海道行きの夜汽車の中で、絵コンテを書くようになった。蒸気機関車とは何だろう、何
を撮れば蒸気機関車として感じられるか。その甲斐合って吹雪の中を黒い塊が煙を吐いて登ってく
る写真が、神奈川県の二科展写真部門で準賞を貰った、後で審査に当たった関係者から聞いた話し
では、選考委員長が「いい写真だが煙は公害だな」でひとつ順位を下げられたと聞かされた、蒸気
機関車が黒い煙を吐くのは、力のいっぱい頑張っている姿なのに、公害だとする感覚を疑ったが、
後の祭り。
それでも、準賞は自分なりの撮り方に励みになり、今後の鉄道写真を方向つけた。
蒸気機関車は、生き物だと言う、燃料をたき水を蒸気に換え、蒸気の力でピストンを動かし、動
輪を回転させ動かす構造の中に逆転棒、加減弁、バルブなど調子を見ながら加減しながら、機関車
を最高の状態にする、ただの機械では無いと、多くの機関士が語ります。機関車をよく見ると、煙
のはき方、動輪、ピストン棒、など部分的に撮っても機関車のイメージがわくものです。
居
候
ロス・アンジェルスの港に到着、いよいよアメリカ大陸上陸、これから南のマゼラン海峡までの
旅が始まる。上陸に当たって入国審査官に、若い人が観光ビザでアメリカに入り仕事を捜して、住
み付くのを警戒した質問攻めにあった。
大学時代友人の代理で、新宿日活は当時直営館で石原裕次郎も封切りの挨拶に来る映画館であっ
た。休み時間にアイスクリームを売って歩き、映画が始まると喫茶店でコーヒーを入れる仕事を手
伝っていた。そのバイトの先輩でロス・アンジェルスのガーデェナに住んでいる人のお世話になる
ことになっていてのだが、これがまた審査官の印象を悪くしていたようで、メキシコからコロンビ
アまでの航空券を見せてやっと、スタンプを押してくれた。
男の好きな落語の中に、
「居候三杯目にはそっと出し。」住まわせて貰い、食事の世話を受け、二
階でゴロゴロしている、放蕩若旦那の話がありますが、その男も、先輩に「日本の習慣と外国の習
慣は違うのだから、これからの旅の為には慣れるまで、ここにいたら良い。」お言葉に甘えて、日
中ダウンタウンに行ったり、遊園地の本物の機関車を撮ったり、3週間ほどお世話になった。当人
はこれが居候生活の始まりとは思ってもいなかったが、アルゼンチンのブエノス・アイレスではク
リーニング店を営んでおられた、中村隆志氏に洗濯物を頼みに行った時、これまでやって来た鉄道
写真撮影の苦労話や、目的を話して入るうちに、それでは、アルゼンチンで写真を撮る間、ホテル
代が勿体無いからここに住むよう勧めて頂き、6ヶ月間、撮影で旅をしている間を除き、居候をさ
せて貰いました。
クリーニングを現在の仕事としている身でありますが、その時は、クリーニングとは縁が無く、
水洗いを教えてもらい、ササラブラシで自分の服を洗っていただけで、仕事は手伝わず、三食とワ
インを3杯以上御馳走になって、いつも良い機嫌で眠りに付いたりしていた。
また隣国のチリーでは列車の中で、知り会った若い夫婦の家にも呼ばれ、そのまま居続け、友人の
結婚式にも参加させて頂き、本当の外国人の家庭を知る機会を得た、今では言うホームステイと言
うのかも知れません。そこの家には、15歳ぐらいの弟がいて、彼がいつもベットメイクをしてく
れていた。
こんな生活を永くやっていた習慣で、日本に帰っても、高校時代の友人が、前に住んでいたアパ
ートの部屋があくまで、ここに居ろと、兄姉もいる中、他人の家に転がり込み、彼が家内工業で仕
事を終えるまで、原稿を書たり、時間をつぶし、仕事が終わったら、二人で酒盛りと、夕食を頂く
生活を半年以上に渡って続けさせてもらいました。
この間、彼の仕事について手伝った記憶は、運転手を1週間したぐらいで、居候を続ける男も変
だけれど、彼の家族は優しく自由に、行動させてくれた、素晴らしい人たちであり今でも感謝の気
持ちは大きい。
ロス・アンジェルスの先輩のアパートに滞在中の出来事で、トイレのドアは、日本の場合、使用
後はきっちりと閉めないと、昔からの臭いの関係で「穴の締りの無い奴だ」と馬鹿にする、アメリ
カなど水洗式のトイレの普及が進んだ国では、使用後ドアを少し開けておく事、理由は簡単で中で
誰も居ないと判るようにする為と教わった、合理的だ。
日本とまったく反対の事が行われ、小さいときからトイレを閉めるよう、うるさく指導され、そ
れが常識だった、常識イコール真実であるとも感じることさえもあったが、その土地に於いてはト
イレのドアを閉める事が常識ではなく真実でも無い事に気がつかされた。
その後、日本では常識と思っていたことが違っていたりする場面にでくわす、海に囲まれた孤立
した国の日本の文化、習慣は特殊なもので、海外の地続き国の生活習慣とはやはり違うのを実感さ
せられた。
北米大陸の横断と失敗談
<バスへの荷物の積み込み>
お世話になった先輩に別れを告げて、グレー・ハウンドのバスでアメリカ大陸を西部から東部へ
向けての旅を始めた。現地では買えなく日本で買える、ある期間乗り放題のパスチケットがあり、
若者にはずいぶん利用されていました。先ずは、途中コロラド州のデュランゴを基点とした、デン
バー・リオグランデ鉄道の写真を撮るため、ロス・アンジェルスのバスターミナルに行った。
各地へ出発するバスは数が多く、大きな空港と同じようなカウンターで、手続きと、車内に持ち
込めない大きな荷物の預けを行う。ネービーバックに冬物、夏物、挙句は浴衣、下駄まで入れた重
いバックを預けた。カメラはアルミのカメラバックに日の丸や名前を書いて、盗まれないように派
手にして、車内に持ち込んだ。発車までそれ程時間がなく、ダウンタウンを離れ、バスは快調に飛
ばしていました。目的地のまでは、途中サンタフェで乗り換えなければ成りません。
バスの胴腹に荷物スペースがあり、預けた荷物を降ろし始めたとき、自分のネービーバックが無
いことに気がついた。あせった。運転手に聞いても途中では降ろした覚えが無いと言うし、乗り換
えのターミナルで事情を聞くことになったが、なれない英語での交渉は汗をかきながら、今、荷物
が無いと言うことは、この旅も終ってしまうほどの大事件が、最初に発生してしまった。説明では、
多分カウンターとバスの発着場と離れていた為、時間がなく乗せられなかったのだと、ここから乗
り換え目的地までのバスはもう直ぐ来るから、そこで待つように、必ず届けるから。やっとのこと
でこれだけ聞き出し、アメリカを信じる事にして、また別のバスに乗り込んだ。さすがアメリカ、
二日目でやっと受け取ることができた。それ以来預け荷物はアメリカでは胴腹に、南米のバスは屋
根に積み込まれるので、バスが停車し下車客が居る時は、必ず自分の荷物を確認することを、教訓
として毎回やった。
荷物と言えば他にも注意することがあります。バスや列車を待つ間、荷物は横に置かないで必ず
両足で挟んで、座るか立って居る事、置き引きは人が側に居ようが、目的の為、横に有れば簡単に
取れる。失敗しても逃げてしまえば、追っかけてこないのを知っているし、上手くいけば儲け物と
思っているので、取るほうが一枚上で、特に日本人は狙われやすく被害をこうむる、こうした普段
の注意が足りない奴に、男は取られるほうが悪いと考えている。
アンデスの首都と呼ばれる都会では、山奥から仕事を求めて来た人たちが、集団で水も電気も無
いバラックに住み、盗んだものの価値を知っていれば、必ず狙う、なぜなら彼らはそれで一年間生
活できる資金が得られるのだから、これは大きい。
日本人は肩からカメラを提げた格好で市内見物している、一番取りやすい持ち方をしているので
狙われやすい。カメラは最低半年の収入になるのだから、取るのは当たり前、罪は神に祈り、お許
しを請う。とられた人間だけが馬鹿で、また罪を作らせた犯罪者とも言えないだろうか。
生活用品を入れたネービーバックは無くても、カメラのケースはしっかりと手元に置いて、乗車し
ていたので、デンバー・リオグランデ・ウエスタン鉄道の写真を撮ることにした。
アメリカでも渓谷沿いに70KMを走る有名な観光鉄道で、全米各地や海外からも愛好者が集ま
ります。ここで写真や録音をしていると、愛好者同志親しくなって、会話も弾み、車で追っかけを
するから一緒に乗らないかと誘われ、ボールドウィン製の黄色い蒸気機関車に牽引された、同じく
黄色の西部劇に出てくる木造の古い客車を撮ることが出来ました。
荷物の問題は解決して、コロラド州の大都会デンバーに向いました。途中バスの中で、少々酒に
酔ったメキシコ系の男性と話しをしていたら、彼は坂本 九の「スキヤキ」を歌い出しました、
この歌は全米ヒットチャートに登ったとは知っていましたが、彼に歌われてその凄さを実感させら
れた。
<ニュー・ヨークへ>
デンバーの都会に出て、東部を目指しグレイ・ハウンドのバスの旅が始まった。コロラド州は西
にロッキー山脈が有り緑の多い所で、隣のカンサス州では、トウモロコシ畑、小麦畑や牧草畑を何
時間も見続け、走り抜けた。肉牛の姿が見えなかったので、これらの畑の作物は何処かに運ばれる
のでしょう。
やっとのことで東部の大都会ニュー・ヨークに到着。摩天楼を遠望した時は、都会の素晴らしさ
では無く、長いバスでの横断の旅で、アメリカの大きさを実感させられ、また、大西洋を見られる
事に感激したのでした。
到着して、会った日本人の方曰く、安ホテルは従業員が平気で合鍵で入ってくるので、盗難に気
を付ける様にとの忠告であった。
日本のユース・ホステルの施設は、ヨーロッパには
多いのですが、アメリカでは YMCA の宿泊施設が同じように、若者を安く泊めてくれます、鍵など
はしっかりしていなく、寝るときは机をドアに寄せて、安全を確保しなければ成らず大変です。
大陸横断が目的でこの大都会に来た訳で、写真とか観光が目的では無いが、それでも地下鉄で自
由の女神だけは見に行った。地下鉄の車内は映画見たのと同じで、落書きが酷く、先入観と忠告に
従って大都会を脱出する決心が付いた。
<南部へ>
またバスでワシントンを通過して、南部のアトランタへ向った。アトランタでは前述したように
やっとの事でレンタカーを借り、ストーン・マウンテンのジョージア観光鉄道の写真を撮り、また
南下して、ニュー・オリンズで市電を撮った。この市電は一系統が残りダウンタウンと郊外の閑静
な住宅地を結んでいた。この写真と記事が鉄道ファン誌の134号に載り、友人から雑誌を送って
もらい、その後、各国での、鉄道写真撮影の許可を受けるとき、日本の雑誌記者としての待遇を得
た。メキシコや南米の鉄道施設は軍需施設としての面も有り、鉄道にカメラを向けていると、警官
や兵隊にとがめられるのです。
ジョン・ウェイン、リチャード・ウインドマークが主演した映画「ジ・アラモ」が大好きだった
ので、サン・アントニオの聖地アラモ砦にも寄った。
この日は何かのお祭りで、大胆にも浴衣に下駄の格好で、南部の街を散歩してしまった。それでも
時々すれ違う人から、「コンニチワ」と声を掛けられ嬉しかった。浴衣を着たのはこの日が最初で
最後、浴衣はメキシコで言葉を覚える為に下宿した家にプレゼントで置いてきた。下宿の話しは又
の機会に。
西部劇の本場テキサス州に来たので、その記念と土産と実用を兼ねて、ジーンズの上下を買った。
履き心地を良くするために、コインランドリーで洗濯をした。三回目には洗剤が無くなり、自販機
で商品名が判らず適当に買ったのが漂白剤で、しかも水を張る前にパラパラと蒔いたものですから、
出来上がりは全体に所々白く脱色してしまい、泣けてくるほどがっかりしたものです。
今の時代は、使い古しの様に漂白したのや、穴あきジーンズが主体で、ブルージーンズを捜すの
に苦労するほどですが、当時のジーンズはブルーと固定概念が出来ていた、それでもバランス良く
脱色していたので、仕方なく着続けました、偶然ですが時代の先端を行っていたのかも知れません。
アメリカのエル・パソとメキシコの町ファレスの間には、西部劇でよく出る偉大なリオ・グランデ
河に橋が掛かり、それぞれの国旗がはためいて、国境の橋であることを示しているが、人々は町内
の橋を渡って買い物に行くように通勤や買い物に通行していた。別にアメリカを無断出国する積り
は無かったけれど、その流れで橋を渡ってから、少し歩いた所に入国審査の建物が目に入ったので、
そのままメキシコのスタンプを押してもらい入国してしまった。アメリカの観光ビザまで取り、入
国にはいろいろ質問攻めにあってやっと入った国を、黙って出国してしまい、是で良かったのかな
と思うほど、国境が陸で繋がっている国同士の関係も良い面を見ました。
過去の戦争ではこの河を軍隊も簡単に超えて行ったのでしょう。メキシコ人のアメリカ人に対す
る本音の一端が解る話しとして、日本人がアメリカ人からジャッブと呼ばれるように、彼らはアメ
リカ人を軽蔑したように陰でグリンゴと呼ぶのです、理由はグリーンの制服を着たアメリカの軍隊
との戦争に負けた結果、テキサス州やカルホルニア州などの広大で肥沃な領土を取られたから、悔
しく感じて、グリーン・ゴウ・ホームを短くしてグリンゴなのです。
また、教育を受けた中産階級の人は、英語が話せるにも拘らず、仕事などで必要なとき意外は、
我々対しても普段英語を話さず、自国語のみです。考えを変えれば、自分の国に誇りを持ち、外国
人でも自国に滞在している間は客ではありますが、自国語で話し、少しでも理解して貰い帰って頂
くのは逆に親切かもしれない。逆に日本人は外国人に対し必ず英語を話せる人は極力会話をするか、
逃げて関わりを持たないようにしている人に別れています。自信を持ってメキシコ人のように日本
語で話すことは、彼ら旅行者にとって、少しでも必ずプラスになるはずです。悪い言い方をすれば、
日本に来ていて母国語しか話さないのは、失礼だし日本に来た意味が無いのではないか、言葉から
生活習慣や文化などを日本の国や日本人を理解する一端が見えたら、旅行者にとって素晴らしいこ
とでしょう。
スペイン語を覚える
ソアレスから、首都のメキシコシティまで、またバスの旅が始まった。
トリオ・ロス・パンチョスが当時日本で人気があり、その歌の題名、ベッサメ・ムーチョ、アディ
オスぐらいしかスペイン語は知らないで入国した。人の良いメキシコ人に囲まれたバスの中では、
当然のように話しかけてくる。但し自国語で。
言語は意思の伝達手段の一つの手段であって、全てと思うのは間違いで、パントマイムとか、身
振り手振りや、顔の表情から意思を伝える手段はいろいろと出来るものです。兎角日本人は、言葉
が話せないと外国人と仲良くなれないと思いがちです。でもこのバスの中で、彼らが話してくるの
を好意と捕らえた、男は戦った。
男性より女性の発音の方が、聞き易い場合が多く、彼女らが話しかけてきた時、男は「スペイン
語が話せない」と言う、言葉すら知らなかったので、断りきれず、男の人の良さと好奇心とで相手
をした。彼女の表情から読み取れる事柄を全身の神経を集中して、「はいのシー、いいえのノー」
を使い分けていた、のべつ幕なし話をしていた訳でもなく、3時間ほどたった頃、「エル・ノエン
ティエンデ」と言われた。この意味だけは言葉を知らなくても、その後話しかけて来なかったこと
から、理解できた。
「彼は言葉がわかってないよ」その時男は力が全身から抜けるのを感じた。
アステカ王朝の後に造られた首都は、当地ではメヒコDFと呼ぶ。昔の湖を埋め立てた盆地のよう
に囲まれた場所にあり、当時は大型の市内バスが排気ガスの黒鉛をもくもく吐きながら、運行して
いるので、空気が悪く空が見えない。現在は問題ないと思います。
ホテルを決め、中華レストランを見つけ、夕食を取った。アメリカ本国や、中南米の各国では、
中国人の移民労働者の子孫が、中華レストランを小さな街でも、現地の一般の市民を相手に営業し
て価格も特に高くも無く、他のレストランと変わりません。メニューも中国語と現地語の二カ国語
で記載され、男のように言葉が判らないものには、漢字を見ると、炒、麺 飯など料理を推察する
ことが出来、安心して安く食事が出来き、肉料理に飽きた時や、腹の調子の悪い時など、大いに利
用をした。日本レストランも探せば都会にはあるけれども、日本の感覚では金額的に付いて行かれ
ない。中華レストランには現地の日本の方も利用されているので、話しを聞くことが出来、助かる
ことが多い。
客の一人の日本人に、スペイン語を覚える目的を説明したら、DFの空気の悪いところより、メ
キシコ第二の都市、グアダラハーラは、近くに、メキシコの酒テキーラ造る、テキーラ村や、また
マリアッチ楽団の盛んで、落ち着いた街が在ると教えられ、早速翌日バスに乗った。
<素人下宿に>
これから訪れる中南米各国は、スペインがアステカやインカ帝国を侵略し、副王庁を置いた、ス
ペイン語圏なので、旅行に必要最低限の会話が出来ないと、旅は続けられない。
グアダラハーラで1ヶ月もの間スペイン語学校に通うには、ホテル泊まりより、下宿を探したほ
うが安く、また実践の勉強になるので下宿を探す行動に出た。日本と同じように新聞の三行広告の
下宿の欄で見つけ、辞書を片手に当たりを付け、市内地図を本屋に買いに行ったところ、言葉の話
せない日本人を親切な若い店員が、環境と価格を検討して下宿先に案内までしてくれました。素人
下宿で一部屋空いているので一人下宿人を置こうと考えたのでしょう。そこへ言葉の話せない日本
人が来たので、驚き断られるところを交渉してくれて、やっと決まった。
普通の家庭で、未亡人の母親と子供が3人、長女は結婚していますがご主人と同居の5人家族で、
一番家のことを仕切っているのは、結婚している娘さんでした。
居間には立派な大きなテーブルとイス、普段は使用せず、台所のテーブルで全員が揃って食事を
する中に男が一人入ったのです。まずはみんなの真似してテーブルマナーを覚え、会話には辞書は
使わず、バスの中と同じ状態で目と耳から聞いていた。
スペイン語学校は、アメリカ人を対象に英語で説明をしたスペイン語なので、一挙両得なんて甘
いものではなく、どちらも良く判らず、結局半月で止めてしまった。
下宿での会話の中で時々出てくる言葉を10回ぐらい聞いたら、同じように使ってみると意志が
通じて、意味と発音を覚える、小さな子供が母親の真似をしながら言葉を覚えるのと同じやり方で
少しずつ、会話が出来るように成って行きました。
学校を止めてしまったので暇になった頃、街の子供や女性を相手にした柔道場を見つけた、柔道
は小学生の頃に習い、講道館で形の模範演技をしたほど、形は良く覚えていたので、客として扱わ
れ、久しぶりに道着に袖を通し、毎日通って相手や形を教えながら、スペイン語の勉強にもなって、
友達も出来た。
各国の若者や子供は、日本人は柔道や空手が皆、出来ると思っている。空手は大学の空手部の友
達から前、後。左横、右横の相手を突いて最後は前蹴りを見せる形だけ習ったことが有ったので、
俺は空手も出来るとハッタリも必要なことが有り、この形の見本を見せて終わりにしていた。中に
はナイフを出して、映画のように空手がどんなに強いか戦えと、血の気の多い奴も出て困った場面
もあった。
こうして旅行に必要なだけ言葉を覚えたので、3ヶ月を経って、メヒコDFに戻り、特別なレト
ロ市電や、ナローゲージの蒸気機関車の記事を雑誌に載せ始めた。
スペイン語は国によって、征服者のスペイン地方の発音が原因で、Yo(ヨ・ジョ)など発音が
異なる場合が起きる。日本の東京言葉が標準語になったように、王宮のあるマドリッドのカスティ
ジャノが標準語です。一般にはエスパニオール、スペイン語と言うので、ふざけて日本語と上記の
2語を加えて3ヶ国語話せると笑わせることもあった。
1年以上も経つと、男の言葉は上手だと誉められる様になっていた、外大のスペイン語科を卒業
した人のように、物を説明するのに、簡単な単語は出てこないけれども、広辞苑の説明文章のよう
に、幼児が成長しながら言葉を覚え、よどみなく簡単な言葉を連ねて意志の伝達を行えるようにな
ったからであろう。
南米の国々では
<南米は何処が良かったか?>
帰国すると必ず質問を受ける言葉です。
アンデス山脈に関連する国と鉄道の事は、他の日本人より詳しいと思っている男は、漠然と何処
が良かったか?と質問されても、答えられない、良いところを知らないのではなく、南米大陸は、
とても広い、太平洋側の砂漠地帯も有れば、中央にはアンデス山脈が背骨の如く南北に連なり、大
西洋側はアマゾン流域の密林湿地と、地勢的にも特色のある3つの地域に別れ、国の数も12、こ
れら全てを廻る訳でもないが、それぞれの国には地勢、民族、経済の発展度などが異なる。質問の
中身の訓練が足りないのか、または何も知らないのか、腹立たしく質問者を見たりする。
簡単なこと、例えば女は何処の国には美人が多いか、何処の国が暮らし易いか、アンデス山中の
気温はどうだったか等々、絞って質問されると答えやすいのです。
海外旅行の旅行記が多く出版されていますが、まず旅行者の日本における生活環境および知識な
ど、資質に関する生い立ちや学歴などの違いが、同じものを見ても感じ方が違うはずですし、まし
て、楽しい思い出や、または嫌な経験をしたことによっては、ある国の印象が同じに書けることは、
無いと思っているので、この手記はこの男の経験からの見方で、旅行記を書く積りもなく、数項目
の質問に答える形でまとめます 。
先ず、女性について、美人と言うか、エキゾチックな顔立ちは、コロンビアの女性、お嫁さんに
したら男性が幸せになれそうな女性はチリーの女性、チリーの女性については、南米各地の男性が
同じように答えますので、確かな事でしょう。
暮らしやすい国は、当時インフレで経済や治安が不安定で、抜きん出てお勧めできる国は見つか
りませんが、アルゼンチンは文化とか多くの面で良いと思っていますが、広大なパンパやパタゴニ
アを見ると、日本人的感覚では、四季や、山、川などが無く、寂しく感じてしまう。其の点コロン
ビアはスキーをしたければ、高い山に行けば雪があり、泳ぎたければ、標高の低い所に降りれば良
いし、カリブ海の海などは素晴らしいです。だからいつでも四季を選べる点が、その男が日本人で
ありうる生活したい国として思ったことです。
<心豊かな人・心貧しき人>
アンデス山中のインディオ達は、金銭的には貧しいと言えます。彼らの生活は夫婦間など、とて
も幸せで路上での夫婦喧嘩(口論では無く)をしているところを目撃しましたが、それなりに充実し
ていて、お金持ちの日本人の中には、金銭欲で心貧しき人が多い中、彼らは心が豊かだなーと感じ
ます。
経験した中で変わったことは、海岸近くの暑い所では、夕涼みを良くします。
ボリビアのポトシの町は、ポトシの富める山、ヨーロッパを貨幣経済にしたのはこのポトシから運
ばれた銀であると、マルクスが資本論で述べているような、銀の産出の多い鉱山の街です。午後の
8時頃、人々が列を成して、街中歩いていたのです。男の小学生ころ、映画館が全盛だったとき、
終映の後で、一度に外に出てくるような光景が有りました。そう思って男も列に入り、だいぶ歩い
てみたのですが、映画館も無ければ何もない、でも歩いている。理由は、家に居ても暖房が無いの
で寒いから、輪の中ではみんなの体温でとても暖かく、歩いて自分自身も温まり家に入って、すぐ
寝る事が出来る生活の知恵なのです。
銀が豊富に取れる街に、各地からインディオが集められ、抗夫たちはコカの葉を噛みながら長時
間の採掘作業を強いられた、現在も住民の生活は同じように貧しく、19世紀と少しも変わりが無
いようでした。
<泥棒と警官>
先ほど、コロンビアの良い点を書きました。今でもアメリカへの麻薬の供給地として、政情は安
定していないかも知れません。
次はこの国で経験した注意すべき点を書きましょう。これは旅行全般にわたる事だと思います。
「バスに乗ったら窓の縁に手を置くな」、信号で停車中に何処と無く現れた若者が、腕の時計を
車外から引きちぎろうとした。幸い盗られなかったが手には、相手の爪あとが残ってしまった。
「また警察官でも信用するな」、遺跡が残るカルタヘーナでの出来事で、カメラバックは目立つ
ように、わざと日の丸やJAPONと大きく書いて在りました。そこへ警察官が職務質問だったの
でしょう、呼び止めて、そして広い通りから脇道に誘い「中身を見せろ」、仕方が無いので従おう
とした時、通りかかった中年の紳士が警察官と話しを始め、男に手で行け行けと合図するので、そ
のままその場を離れました。
職務質問や入国の荷物検査など受けると、まず言葉が流暢に出来ないし、興奮して頭の回転が鈍
くなっていて、中身の品物を失敬されても判らない危険がある。男は紳士に助けられたのでした。
次は被害にあった本人から聞いた話しですが、観光するのに荷物が邪魔になり、預けるところも無
く、安全な場所として警察署にお願いして預け、夕方取りに行ったら、皆知らないと言う、荷物は
無くなってしまっていた。
山間を走るバスを止めて客から金品を巻き上げるバス強盗、など当時は危険に遭遇することも結
構有ったようだ。
アルゼンチンのユダヤ系の人は、必ず高価そうな指輪をはめ、財布を二つに分けて置き、強盗に
遭遇したら、指輪とか財布を遠くへ放り投げ、その隙に逃げるのだそうです。これはとても海外旅
行の参考に成る事だと思います。
<革命>
ボリビアがスペインからの独立運動に勝ち、独立宣言をした都市スックレーが、憲法上首都にな
っています、ラ・パスは行政上の首都です。
当時、ボリビアでは革命が頻繁に起こり、政情不安定とか、危ない国とかの印象が広がっていま
した。革命とは政権交代の手段なのですが、実情は次の大統領を狙っている将軍が、軍隊を動かし
大統領府を取り囲み、大統領を2・3年もやって、賄賂とか色々で金がたまり、海外の銀行に預金
してあるようだから、「そろそろ交替をしようか」と始めた革命で、追われた大統領も安全に国外
に逃げる道が残されて、金を貯める権力争いが革命で有って、市民は困ることなく生活が出来るの
です。
ただし、本格的な革命をボリビアで目指した一人の人間が、チェ・ゲバラでした。
彼のことをよく知らなくても、ベレー帽を被り、髭をはやした黒くTシャツに印刷された柄を着た
若者を見かけますが、彼こそアルゼンチン生まれで、カストロと共にキューバ革命を成功させた英
雄です。日本に外務大臣として来ています。その革命家の彼は、まだ南米がアメリカによって搾取
されている現状に飽き足らず、ボリビアの密林地帯で革命の旗を上げたのでしたが、アメリカ資本
が充実したキューバと違い、ボリビアでは民意が低く、それでも彼は雰囲気を盛り上げれば、イン
ディオ達の気質や識字率の低さをカバーして、勢いをつけ成功出来ると考えたのでしょう。反対に
住民の密告などで捕らえられ拷問の末に殺されてしまいました。
<流行性A形肝炎>
ゲバラが殺された密林地帯から、100㎞ほど離れた場所を切り開いた、日本のサンファン開拓
移住地があります。そこの病院に入院して、肝炎を治して貰いました。
ペルーを出てから、風邪に似た、微熱や、身体がだるい症状が続き風邪かと思い、ラ・パスで風
邪薬を買い求め、サウナにも入り独力で治そうとしましたが治らず、ポトシの日本製蒸気機関車を
やっと撮り終えて、スックレーを通過して、ブラジル、アルゼンチンに向かう列車の分岐点の大き
な都市サンタ・クルスへ向かいました。この街には日本人が経営する宿があって、事情を話したら、
医者もいるので移住地に行くように勧められました。病院に着くと、即点滴治療が始まり、肝炎は
発病して入院しても、一旦谷を迎えるまで悪くなるそうで、男の場合は旅の途中で谷を迎えたので、
2週間ほどで退院でき、あとは体力の回復を図るため、看護婦の川上さんの家に居候をさせて頂い
た。
流行性A形肝炎は唾液などで移る病気、後から振り返ると原因が判りました。ペルーのリマでは
日系人の立派な家に下宿していた時に、寝酒に地元の酒でアルコール度55度を飲んでいたので、
肝臓が疲れていた、それにインディオ列車を撮っていたとき、ある農家で収穫の祝いをしていて招
かれ、テーブルを囲み席に着き、チャチャという地酒がコップで出てきます、強い酒で一口飲んで
は隣に回し、仲良くするのですが、これが結構続くのです。
チャチャの製法は、後に本で読んだ処によると、原料はトウモロコシ、これを茹で主婦が口の中
で噛み砕き、唾と共に瓶に吐き出し、唾液によって醗酵させて作られるのでした。現地の人たちは
慣れて免疫が出来ているので平気ですが、男の肝臓が疲れているところに、飲んだので即感染して
しまった様です。
男は移住地で体力の回復が出来た頃、若い人と友達になり酒を飲む機会が出来た。奥地の移住地
ではおいそれと酒は手に入れることが出来ないので、結局、飲用アルコールを7、水2の割合で割
り、味付けにレモンを絞って飲むのです。レモン味がして口当たりが良く、二三杯は往けてしまう。
戦後の日本での飲用アルコールの話しは、聞いてはいましたが、自分が飲むとは思ってもいなかっ
たのですが、
列車の撮影裏話
いよいよ、列車の撮影についての話しをしましょう。
初めての路線で、情報も無い時は先ず終点まで乗って、窓からの風景と共に、橋やトンネル、ス
イッチバック、地形などの施設をチェックして、撮影場所を決め、そこに行く方法を調べるのです。
列車の本数が極端に少なく、大切な材料に乗ってしまうと1列車分損をするので、なるべくバスを
利用できるところはバスを、またバスも無い路線では近くの駅のホテルを取り、後は歩いて、ポイ
ントまで行きます。でも実際は思い描いたような構図にならず失敗することや、列車が思うように
来なかったりして、最初から
短期間で各国を巡る計画は諦めなくては成らなかった
<予算>
こうなると予算の関係で倹約を始め、各国の低所得のインデェオ達の泊まる安宿に宿泊して、宿
代はUS 1$ 食事は街の食堂の入口に置いてある「本日の定食」を食べ合計三食でUS 1,5
$、そのほか交通費、お土産などの予備費を合計して、一日の経費US 5$で過ごした。
宿探しの基本は駅の傍、受付で宿代を聞いてから、部屋を見せてもらい、価格相応であれば寝台
がたわんでいようが、水しか出ない共同のシャワーでも宿泊した。鍵などはもちろん簡単でも、泥
棒や身の危険を感じるようなことは無く、むしろ都会のホテルよりも、安心して睡眠が取れた。
食事の定食は普通その店の安くて美味しい物を提供しているので、何が出てくるか判らない、でも
土地の人が美味しく食べているものは全て口に入った。ただ鳥の爪つきの足がスープにそのまま入
って、すね肉をナイフとホークでスープをこぼさないように食べるのは苦労した。
<列車の時刻>
横に話しがそれましたが、旅客列車の時刻は、始発駅の発車が確認できます、途中の駅での時間
については、日本のように定時運行が行われていることが珍しく、頼りにならず、まして貨物列車
については判らない事が多いのです。
慣れた頃になると、駅で始発駅や途中の大きな駅での実際に通過した時間を教えて頂き、およそ
の通過時間を推測して、カメラを三脚にセットして待ちます。
前にも書いたように、当時鉄道は軍需施設としての面を持っていたので、簡単に何処でもかまわず
撮影することは出来なく、コロンビアは治安上のこともあり憲兵や警察官が、列車の監視に動員さ
れていた。
<撮影許可書と国内無料1等乗車券>
エクアドル、スペイン語で赤道を意味する国では、日本大使館の二等書記官の方が鉄道愛好家で
したので、鉄道省に同行して貰いました。他の国では機関車を輸出した商社などの関係者にお願い
して、鉄道省の偉い方を紹介して貰い、鉄道ファン誌を見せて、日本の鉄道雑誌記者だと告げ、こ
の方法で、各国で撮影許可書と国内全線の無料1等乗車券を手に入れることが出来ました。
列車に乗車して居ても、待遇がよく、鉄道職員仲間でも話題になったりしていたのでしょう、切
符の検札も無く、カメラをセットしているのが判ると、機関士さんが特別に煙を勢い良く出しても
呉れ助かりました。
ちなみにエクアドル国内では赤道のことを、メディオ・ムンド地球の真ん中と言います。
<撮影機材>
撮影の機材では、フィルムについて事前に雑誌社から、印刷用にポジフィルムで撮影するよう言
われ、友人に頼んで、日本から大使館気付で送って貰っていた。
コダック社でも、ポジフィルムは2種類あって、アンデスの2500m以上の高地は紫外線が強く、
フィルムのテストやフィルター等を替えテストをし、全体の発色には多少問題は残りましたが、色
感がけばけばしく無く調子が良いので、エクタクロームを使用し、今回はデジタル画像の様に印刷
で補ってくれました。
カメラは勿論、ミノルタのSR-1、母の残してくれたカメラ、12年も使用していたので、一
度オーバーホールの必要を感じ、ミノルタ東京支社に母の形見で、これから南米に行く事情を話し
たら、快く全て分解し、生産ラインに乗せて組み立て直しをしてくださった。もう一台は社会人に
なって購入したやはりミノルタのSR-T レンズはミノルタロッコールの標準、105mm 1
35mmの3本にテレプラスで、写真家の象徴ニコンではなくミノルタ製品でした。それに手軽な
三脚。
写真集を購入して戴いた方から、どうやってこの構図を撮影したのかと、質問を受けることが多
いのです。
まず、基本的スタンスは、列車と撮影国がわかり易く、特徴を捕える事で、写真集を見たある鉄
道ファンの人は「普通の形式写真にも、必ず現地の人が写っている」現地の人の服装や帽子から住
んでいる地域が判る事が多いので、撮るようにしていました。
見開き2ページの写真について順次、話しをしましょう。
<太陽特急>
太陽特急が急角度の斜面を下る列車の写真は、少し手前にループ線が在ったので撮影場所決め待
った、しかし残念なことに地形が岩などに邪魔され、列車が見え隠れして失敗、その列車が斜面を
登る場面は、先頭の機関車が小さく迫力が無く、蛇がはっているようでまた失敗。翌日少し場所を
変え斜面を登り、斜面の急角度が表現されるように構図を取り、降り列車を撮ったものです。首都
のボコタは2600m付近でマグダレーナ河の上流から、急に登坂をしなくてはならず、難工事で、
開通が遅れた路線でした。
<北部線レールバス>
エクアドルのこの地域は、インディオの多く住む地域で移動式の観覧車や遊園地が出来て、祭り
が開催されていたのでしょう皆楽しそうにしていた。レールバスは本物のバスを改造して、ゴムの
車輪を外し、線路を走行出来るようにしただけで、運転席周りはハンドル、クラッチも在って普通
のバスです。ただレール上を走るので、カーブにハンドルをきる必要なく、別の役目のハンドブレ
ーキとして使用していました。
<悪魔の鼻>
山の全体像を見ると、大きな鼻に見え、スイッチバックで斜面を急激に登る事は大変なことで、
悪魔の鼻のように見えたのでしょう。
シバンベの駅に数日通う内に、友達が出来て、全体を見られる対壁の急な山に、道案内してくれ
登りました。全体は標準レンズで、逆行する機関車を真ん中に上下2本のスイッチバックのレール
の写真は、ピントボケの心配も有ったのですが、初めてテレプラスを使用しました、よく見るとは
っきりボケが判る部分も有りますが、この構図では許される範囲でしょう。
エクアドルでは、列車停車中に昼食時間になると、駅弁と言うか食事を売りに来る、ジャガイモ、
トウモロコシ、トマトなど南米原産の野菜を鶏肉と煮込んだものがメインで、たまにパンを付けて
売っています。これらは現地の定番メニューと思って下さい。
<インカ鉄道>
クスコの町の丘の上にあるサクサイワマン城址からのスイッチバックを繰返す普通列車を撮影、
街の中心から丘陵を。日干煉瓦を積み上げた住宅が見られ、住む人の収入は場所が高くなるに
付け、低い傾向にあります。
この城址は日本の城の石垣より大きな石で出来ていて、崩れないように切込みや変形石が組み合
わせてあり、この石を運び上げるのに、インカ帝国では道具としての車輪は使用されては居なかっ
たので、この地域に住むインカ時代を築いたケチュア族が本当に制作したか、インカ以前に建設さ
れた可能性も高く、謎が多い城砦です。
天空都市マツピチュより先の、リオバンバに向かう普通列車は、観光客が利用する特別観光列車
に、追い越される時間待ちの間に、付近の農家が出来た作物を売る場面です。また、客も心得てい
て大量に買い込み網棚やイスの下などに作物を置いています。
理由はこの路線はリオバンバ川に沿って降って行くので、終点は熱帯地帯でジャングルが有り、
その為標高差で獲れる作物が異なる、途中の駅で仕入れているのです。
<海抜4781mをゆく>
アンデスの高地3500m付近から、銀や銅などの鉱物が発見され、輸送方法として鉄道の施設
が計画されました。明治8年頃の話しで、首都のリマから170kmで高地まで登坂する鉄路は、
アメリカの鉄道技師ヘンリー・ミッグスが計画設計した。山間をまずロープで繋ぎ、資材を渡し橋
の建設などの工事が始まった。
完成した鉄道はヒラミッドなどと世界の七不思議の一つとして、シネラマ映画で紹介されていま
した。日本との関係では明治の大蔵大臣であった、高橋是清がワザワザ現地に乗り込み、日本から
の投資により鉱山の開発を計画したことも有るほど、資源が豊富なアンデスの山脈です。
今回の撮影では、日本大使館に勤務されていた方の弟さんが恋人と共に、日系人らしく乗用車は、
日本国内でも珍しい車種のイスズ・べレットで、列車の追いかけをしてくれ助かりました。
遠方の谷に掛かる鉄橋を通過した下り列車は、山肌に沿って降り、カメラの前を通過した。この
後、先ほどの鉄橋まで登り、難工事の末で来た鉄橋の迫力を求めるため、先程とは逆の全体像の構
図は諦め、登り列車に的を絞った結果、同じ場所を通過する上下の列車が写っている。アンデス山
脈の中でもこの地帯だけが、日本で思い浮かぶ山岳と言えた唯一の場所です。
3500mを越えた地帯では、多くの人が農作物を作り、生活できる広大な場所が大半でアンデ
ス山中でも山岳と表現出来ません。気圧などに慣れたら、標高は関係なく普通に生活の出来る場所
です。後からのボリビアの写真の中には平坦な場所を走る列車が見られます。
4871mを列車で越えて行くと、地元の日系人に話をしたら忠告として、「決して駅で列車か
ら降りてはいけない、死ぬぞ、」富士山より1000mも高い場所に3時間ほどで登ってしまうの
だから当然かもしれませんが、降りて歩いても平気でした。これまで半年、高地で撮影していた関
係で体が順応して来ていたのでしょう。
<インディオ列車>
ペルー中央鉄道の終点から、線路幅の1mと狭い、規格のナローゲージ線と呼ばれる鉄道が続き
ます。古いままの列車で、機関車からブレーキを制御して各車両に制動を掛けることが出来ず、各
車両に付いているハンドブレーキを制動手達が、機関士の合図で回して止めるのです。
鉄橋の脇で、カメラをセットして列車の通過を待っていると、男性が、これは何だねと尋ねて来
ました。彼はカメラを知らなかったのです。現在のデジカメが有れば写して見せてあげ説明も簡単
だったのですが、これから来る列車の写真を撮るのに、待っていると説明した。
大都会では、カメラの価値を知っている人達が多く、カメラを盗み売った場合は、生活費として
3ヶ月から半年の代金を受け取ることが出来るのです。こうした田舎では、その心配が無く、彼ら
は貧しくとも心豊かに生活を送っていて、こちらの気持ちも同化されるようです。
下の川では、インディオの女性たちが川の流れに入って身体を洗い、洗濯をし、川原の草の上に
洗濯物を広げて乾かしている。荷物運びのロバも草を食み、この写真1枚は、蒸気機関車、制動手、
鉄橋、インディオの生活などが納まり、南米アンデスの鉄道を表したお気に入り。
ペルーではリャマという駱駝に似た動物が身体も大きく荷物運びに、ロバよりも活躍してその数
も多いのです。リャマと同系の動物では、グアナコ、ビクーニャと小型になり、毛糸はカシミヤと
並ぶ女性の憧れの上質なものです。
<首都・ラ・パス>
ラ・パスは植木鉢のような、地形で底の方になるほど、官庁や高級住宅が並んでいます。植木鉢
の縁にはイリマニ山(6300m)がそびえて居て、反対側はアンデスの中央部に位置するボリビ
アならではの3800mの高度を持つ、エル・アルトと呼ばれる平坦な地形が続いています。
グアキ鉄道の終点チチカカ湖は琵琶湖の3倍の広さの湖で、近くには太陽の門を残したティワナ
コ文明があります、また、ラ・パスから国際列車が南下してアルゼンチンに向かう途中には、ウユ
ニ塩水湖が在ります。水深は浅く線路は湖を横切るようにして続き、湖の端では塩田を作り、塩を
生産している。
イリマニ山と対照的な平坦な何も無い畑の中を列車は走ります。
<ポトシ銀山をゆく>
ポトシについては先ほど触れましたが、CDに収録されている列車が山裾を通過する写真は、山
裾が傾斜をしても平らで岩盤も見えるのは、太古の時代に、海中での堆積物がアンデスの造山活動
によって、海抜4000mの高さにまで押し上げられた証拠の、凄さが判る写真であります。
旧式のバスを改造したレールバスは、各駅停車の列車で出発を待っています。乗客のインディオ
の女性は、新品のキレイな上着にスカート、背中には大きな風呂敷のような布で赤ん坊をぐるぐる
巻いて背負っているのか、または財産を包み込み背負っているのか、背中に固く背負う習慣は、イ
ンカ時代からの狭い道を歩くのに両手が使えて、赤ん坊も動かないので安全に歩けるからです。
また、彼女達は、新品を手に入れるとそのまま重着し、一番下の服はそのころにはボロボロにな
っているので捨てます。
<雲の上の列車>
標高3600mまで登ってきた列車は、時計回りのループ線でさらに高度を上げます。付近には
植物限界を過ぎているため、木も無く荒涼としたアンデスの山並を見ることが出来ます。
第二ループ線は下部が日陰になり、列車が浮かび上がり素晴らしい1枚となり、サボテンは何故か
ここにポツンと1本だけ立っていて、撮影の構図としては、近景を入れて奥行きを出す目的で、場
所を決定したのでしたが、結果的に日陰の中でのサボテンは、この男自身の(広大な景色の中で、
ひとり列車を待っている)姿でもあるようです。
どうやって写真を撮ったのかと質問を受けることが多い1枚です。
このループ線の近くに、デェゴ・デ・アルマグロ駅が在って、鉄道の職員が十数人常駐しています。
宿も無く、駅で寝るしか無いなと覚悟していましたら、駅長さんが、親切に自分の宿舎に泊めてく
れ、食事も一緒にさせて戴きました。
この列車のループ線の通過時間は、途中の大きな駅での発車した時間から推測し、2時間前から
駅を出て線路を3kmほど歩き、全体を見渡せる向かいの山を這うように登り、太いサボテンを近
景に構図を決め、列車の通過を待ちました。ここまでは普段の撮影手順でしたが、大問題が生じて
いたのです。
列車は予定の時間が過ぎても来る気配が無く、太陽は傾き始め影が段々伸びてきました。待つの
には慣れていますが、それでも諦めかけていた時、3時間以上も遅れて来たのです。
写真を良く見ると、上り勾配なのに蒸気機関車は煙を吐いていないのが判ると思います。そして
客車の後ろに黄色いのが少し見えるのですが、これは新型のディゼル機関車なのです。理由は、途
中で蒸気機関車が故障してしまい、旅客列車でしたから、途中運休には出来ず、始発駅の機関区に
配属されたばかりのディゼル機関車の応援を受け、後ろから後押しをしてもらい勾配を上って来た
のでした。写真としては内情を知らなければ素晴らしいものです。
また、もう1枚、ポルボリィジャ鉄橋で、アルゼンチンで有名なこの鉄橋は標高が3700m付
近の渓谷にあり、長さ225m、高さが63m、雲が橋の下を漂うことも多く、この事から「雲の
上の列車」と呼ばれるようになった様です。沿線の中ほどに鉄道の機関区が在る、S・A・ロス・
コブレスの町から、15km先に在ります。街には宿や食堂など有り、撮影には都合が良くCDの
タイトル写真などもここで撮りました。
明日の日中には、貨物列車が鉄橋を通過することが判り、昼食用にパン、サラミソーセージ、水
代わりにワインを仕入れて準備して居ましたら、明朝、車に乗せてくれ、途中で降ろしてくれる人
が現れお願いしました。次の日に途中まで便乗させてもらい、この道を右に5km程行くと橋が有
ると教えられ歩き出したのです。普段は線路を歩くことが多く、線路から離れていると、歩いた距
離や、また列車の通過も判らず不安になってきます。
渓谷の斜面は急角度で、下からは登れないので、一度線路に出てから鉄橋全体が見渡せる場所ま
で荷物を持って、横に這うようにして、滑り落ちないよう注意して移動しました。
カメラをセットしてから、貨物列車の通過時間も判らずに、通過するのを信じて、場所が悪くて
身体を動かすことも出来なく、ただ待ちました。午後の3時過ぎ頃、遠からドラフトの響きが聞こ
え、待っていた時間も忘れ、喜びでシャッターを切りました。この3ヶ月後には、ディゼル機関車
が主体になってしまい、この写真は蒸気機関車が鉄橋を通過する、最後に撮られた写真になったと
思います。
帰りは、線路を歩いて行けば町にたどり着くので、安心でしたが、途中で暗くなり始めた時、ま
たも幸運にも保線作業の人達に会い、トロッコに便乗させて貰って帰ることが出来ました。
<草原をゆく小さな列車>
アルゼンチン北部はアンデス山脈が緑多く連なり、中央は肥沃なパンパ大草原で肉牛を飼い、南
部には余り草の生えないパタゴニアと呼ばれる地帯では羊を飼い、南北3500kmに及びます。
エル・マイテンは沿線の中間に有る鉄道の町で、ホテルとレストランを兼ね、たまに映画館にも
なるホテルに連泊をして、米国と独逸製の小さな機関車が仲良く重連運転をし、多分洪水で橋げた
が流されたのでしょう木製の仮橋を通過する姿や、街に近ついて来る姿を待っていると、機関士さ
んが気付いて、列車は平坦で駅に近づいているのに、ワザと火室に砂を撒いて黒い煙をまっすぐに
登らせてくれ、撮影をしました。
機関区や列車の運行は一日上下二本なので、昼間2時間の間に撮影すると、もうすることはなく、
ホテルでワインを飲みながら話しをして過ごしていました。当時、インフレが激しく、Ing・ハ
コバシからブエノス・アイレスまでの硬券(切符)には4度も値段を訂正した跡が残っていました、
さすがに肉牛とワインの国では、食料に困ることはなく、ステーキとワインだけは充分に有りまし
た。
<リオ・トゥルビオ炭坑鉄道>
首都のブエノス・アイレスからバイヤ・ブランカでバスを乗り換えて、南下を始めるとパタゴニ
アに入ります。なだらかな丘陵地帯で川もなく変化の無い景色が続き、マゼラン海峡の入口付近の
リオ・ガジェゴスの港まで、三日目に到着いたしました。ここまで来ると南極大陸の方が近く、マ
ゼランを悩ました冷たい偏西風が烈風となって、石ころも飛ばしてしまう程。この地方の乗用車の
フロントには、装甲車の様に石除けに金網が取りつれられています。
近くのアルヘンチナ湖は観光客が飛行機では3時間で飛んできて、氷河が崩れて湖落ちる様子を
見物に向かうのです。
この炭鉱鉄道に三菱製作所製の蒸気機関車が、納車されたとの情報で、鉱山局を訪ね説明すると、
簡単にOKが出て、書類も無く連絡しておくからと言われた。
翌朝、会社の事務所に挨拶に行くと歓迎してくれ、旅客輸送は廃止したのに、石炭列車の最後尾
に客車を牽引させ、炭鉱まで送ってくださった。
線路幅は750mmと狭いながらも、自動給炭装置を備えた、日本で製造された最後の力強い機
関車が20両活躍していました。
冷たい空気に冷やされた重い雲に覆われ、また石炭の積み込み作業が昼間行われる関係で、夜間
に運行することが多く、写真的には満足に撮れなかった中で、石炭を満載した50両を渾身の力で
牽引して、走りぬける写真はパタゴニアの大地と、空気と列車の長さを表現でき、写真では40両
程確認が出来ます。
<広軌幹線の国産蒸気>
アルゼンチンと隣国のチリーの間は、二本のアンデス越えの鉄道で結ばれて、北の「雲の上の鉄
道」と、ブエノス・アイレスとサンチャゴ間の首都を連絡する鉄道が有ります。この途中に、アプ
トラック式の軌道が施設されアンデス山脈を越えます。
仲村隆志にお世話になっている時に、東京の歯科医をしているご夫妻をチリー経由ペルーまで案
内する事になり、直接鉄路で結ばれてはいない第3のルートを選びました。
アルゼンチンのスイスと呼ばれる湖や森林のバリロチェ国立公園まで、映画館付の豪華列車で行
き、公園を観光して、バスで峠を越え、チリーに入り港町のプエルト・モントに着きました
チリーは剣のような細長い国で、サンチャゴを中心に北の狭軌間と南の広軌間に鉄道が分かれてい
て、この街の駅は鉄道の最南端になります。
サンチャゴまで24時間の特急列車は、夏のバカンス時期であり、もう一つは経済が混乱してい
て、買出し列車の様な荷物を持った人達で混んでいました。居候でも書いた若い夫婦と車中知り合
ったのです。
広軌間は1670mmで普通の背丈では横に寝ても轢かれないほど、動輪も大きく、前述の炭鉱
鉄道と並んだら面白い写真になるかと思うほど大きく、カマの上で作業する人が小さく見える大型
蒸気機関車です。テムコを中心に活躍して、一等無料パスを持っていたので、車掌に数日経つと顔
を知られて、検札もしないで挨拶するだけの良い面もありました。しかし食糧事情が悪く、昼食用
のパンを買えず、地元産のスイカやメロンが安く並んでいたので、メロンが昼飯の主食になり水代
りにワインを仕入れて、列車の通過を待ちました。
鉄道省へ撮影許可を貰いに行ったとき、偉い人ほどジャンパーやブレザーなどラフな服装なので
す。これは、社会主義のアジェンデ政権になり、同志と呼び合う仲間たちが多く、普段のお役所と
感じが異なっていました。
丁度、日本の援助で電化工事が完成し、大統領の臨席の下、開通記念式典が行われるので、役所
の方々と、今度は豪華列車で同行しました。式典後のパーティで出されたワインは、さすがワイン
の国で大統領が飲まれたと同じワインを飲み、ぶどうの香りと味がした最高のワインでした。
美味しい思いをした罰か、元来たルートで出国しようと、バスに乗り峠での出国手続きでは、人
波乱ありました。入国した時に申請した所持金が出国時には、滞在期間の長さにからすると減って
いない、観光で入国して仕事をしたのではと疑われ取調べを受けました。あまりにうるさいので別
室に通されたとき、これは賄賂を出せば済みそうだと感じたが、男の主義が許さなく、友人の家に
居候をして、ホテルには宿泊せず、また、鉄道の許可と無料パスで列車に乗って移動したと、延々
と説明してバスを30分ほど待たせて開放されました。
賄賂の方法は、パスポートにドル紙幣を挟んでおいて、渡すと心得てもので紙幣は彼の机の下に
入るようになっている。
<薪で走る機関車>
アンデス高地を離れ、内陸国のパラグゥアイの3月はとても暑く、昼寝をしないと体が持たない、
国全体が湿地や密林で、燃料の薪は豊富にあるから、燃料として使用いるのでは無く、南米でも早
くから蒸気機関車が入ったにもかかわらず、50年近く続いた、周囲の隣国とのパラグァイ戦争に
よって国力が衰え、鉄道の建設に充分資金をまわすことが出来なかったのが原因でしょう。
機関車の後ろには燃料の薪を積んだ貨車、次にパラグゥアイ国鉄の車両、後方の3両はパラナ河
を外輪船のフェリーで渡り、ブエノス・アイレスまで行くアルゼンチンの国際列車です。
線路の枕木は露出していると落ちた灰に混じった火の粉で焼けてしまうので土が被せて有り、ま
たレールを良く見ると平行になっているものの高さが同じでなく、左右に傾きながら走行していま
す。
地盤と保線の状態の悪さと気温の暑さが原因でレールが変形し、併せて燃料のことを考えるとスピ
ードも上げられません。
この列車は、ゆっくりと走るので、これを模した曲の。パラグゥアイのアルパの名曲が有ります。
「牛乳列車」で牛乳を一軒一軒配達しながら走る様子を曲にしたもので、嬉しい名前の曲では鉄道
の列車にとって無いです。
<軍事クーデター、戒厳令>
チリーの軍事クーデターによる戒厳令で、その粛清を描いた映画「サンチィアゴに雨が降る」は
テーマ音楽を、バンドネオン奏者のアストロ・ヒアソラが作曲した程で、民主主義の崩壊に怒りを
込めた映画です。
チュキカマタの露天掘りの銅山などの国有化を目指したアジェンデ大統領は、アメリカの応援を
得た軍部のピノチェト将軍により、軍事クーデターを実行され、大統領府において交戦後殺害され
た。また赤狩りで同志と呼ばれていた人達や、民主化の旗頭であった、詩人で歌手のパブロネーダ
や外国人も含め、サッカー競技場に収容して無差別に殺害した。男も半年遅ければ鉄道の幹部職員
と共にサッカー場へ追い立てられたかもしれない。ピノチェトは大統領になりアメリカの後押しで
経済も安定はさせました。退任後、最近になって、無差別殺人の罪を問われています。
男が滞在していたのは、このクーデターが決行された1973年9月11日より半年前の3月で
した。このとき議会議員の選挙が行われ、大統領派の社会民主党が辛くも勝利した。居候させてい
ただいた若い夫婦は保守を応援、開票が終わった頃、皆で保守党の本部へ祝賀に出かけた、道路は
人であふれ、勝利の歌声をあげ騒いだ。反対に民主党も同じような光景が繰り返されていたのでし
ょう。この日は衝突も無く、それぞれが選挙に酔い。この素晴らしい時間から、半年後に軍事クー
デターが起きることを予想できただろうか。
民主主義の選挙が行われ、社会民主党が勝利し、アジェンデ博士が大統領に選出されました。社
会主義、保守主義は国民の民意による選択で、その後のアメリカによる締め付けで、物資の不足、
経済の不安定で前述の買出し列車の光景や、メロンの昼飯が当たり前になっている、そんな中の選
挙で大統領派の勝利となったのです。
<革命分子による、政情不安>
1972年2月から1973年3月までかけて、主に日本製の機関車が走る、鉄道を追ったので
すが、アンデス越えの素晴らしい路線や列車は各地にあり、後から思うともっと情報を集めとけば
良かったと後悔しましたが、先ず日本の蒸気機関車の現役の姿を撮り納められたのは幸いでした。
当時、蒸気機関車の写真といえば白黒の時代で、カラー写真の普及は日本、アメリカなど一部で、
現地の愛好家の人にとっても、まだ一般的でない時期でしたので、今回のカラー写真は発色など保
存状態も良く、記録としての価値が出ています。また、機関車を愛する海外の愛好家達にとっては、
チリーの軍事クーデターによって外国人が逮捕されたり、アルゼンチンではペロン元大統領の帰国
騒ぎ、ペルーではセンヂオロミロッソが、インディオ列車の地域を中心に、革命を目指し住民を脅
し、外国人を人質に取り殺害したりして、南米は危険な国となり、鉄道写真を撮る人も渡航を控え
るようになってしまった。
「南米アンデスの鉄道」出版して、海外からの反響を見ると、この時期、北から南までカラー写
真で撮り収められたものは無いようで、30余年前の記録ですが、副題としてタイトルを付けたの
が、1972年当時の記録であると胸を張れるものになっています。
ペルーはフジモリ大統領の功績により叛乱分子は一掃され安全な国に、チリーも民主的な国に生
まれ変わり、アルゼンチンも落ち着いた文化華やかな国の姿に戻り、観光客も安全に旅行が出来る
ようになっています。
ただ残念なことに、パンナメリカンハイウェイが出来たり、道路網が整備されたりして、バスの
発達と共に列車の陰が薄く、廃線になったところが多く有ります。
また、30年の間にクスコや各地の都会には地方の農村から出てきた人の住宅が対並び、同じよ
うな景色の写真が撮れないと聞きます。
生活が安定してきて余裕が出来、保存鉄道の話が出ているような環境が出来て、蒸気機関車の元
気な姿を撮れるよう願い、列車の撮影を終わります。
ブラジル入国
列車の撮影はまだまだ素晴らしい路線やめずらしい機関車が、アンデス山中の高地には在りまし
たが、アメリカ大陸に上陸してから1年半、2 年間の予定で南米に来て、目的地のブラジルで、移
住についての答えを出さなければいけない。そこでパラグァイ、アルゼンチン、ブラジル3カ国に
またがるイグアス大瀑布の壮大さに驚き、パラグァイから国境の永い橋を渡り念願のブラジルに入
国しました。
ブラジル語の母国語はポルトガル語で、スペイン語とは隣どうし、スペイン語はアエイオウの母
音が中心なのですが、ブラジルに入った途端、子音が鼻に掛かる発音が耳にさわって戸惑った、で
もそこは隣国同士、お互い別の言語で話しても意味は充分理解でき会話は成立しました。数字だけ
は覚えないと間違いが生じるので注意が必要で始めに覚え直した。
<サンパウロ>
イグアスから直行バスでサンパウロまで向かい、田舎ばかり回っていた慣れから、びっくりする
ような大都会に見えます。親友の叔父さんが移住していたので、また厄介になりました。
かれは東京農大を卒業後単身移住したのでした。結婚して8歳になる子供がおり、団地では子供
の誕生日には、どんなにうるさく騒いでも、許される習慣がある。お互い様の精神が子供を大切に
する気持ちでお祝いをするのでしょう。家族3人の生活でメイドが炊事のほかに、洗濯、アイロン
掛けを一人でやっていました。ご主人に尋ねたところ、洗濯機を買うより、人件費のほうが安く、
洗濯以外にもしてくれるので助かるそうです。
アルゼンチンのブエノス・アイレスでは小学校の制服は、白い化学の実験着のようで、アイロン
の掛かった白い服を着て、通学しているのを見たとき、洗濯が大変だろうと思っていましたが、理
由はこの辺にあったのかもしれません。
サンパウロを中心に近郊の町には、日系人が多く、蔬菜農家が新鮮な野菜を大都会に供給してい
る。農家の規模が大きく、それだけ天候の加減や、皆が儲かると思うと同じ作物を作り、大量に出
来てしまい価格の暴落を招き、赤字になる事が起こることがあると聞きました。肉牛を自然放牧し
ている牧場の中には、小型飛行機で見回りをするほどで、その規模の大きさに驚かされます。農業
移住者は初め大きな現地の農家に小作として入り、なれた頃独立をする人が多い。
こうした移住者で、成功した例を見ると、まずは家族労働者が多いこと、日本から資金をある程
度持ってきて、土地や耕作道具を現金で購入できること、借金を大きく抱えた人は運がよければ、
大当たりをして返せるのでしょうが、なかなく上手く行かないのが現状だそうです
<中馬先輩のこと>
サンパウロの近郊に中馬先輩を訪ねた。先輩が4年生の時入部したので、親しく話しをした経験
は余り無い、先輩は海外移住を目指し、同士を募って、海外工業技術移住研究部を興した方で、そ
の後、わが大学から遠藤先輩が学生移住連盟の、派遣学生として1年間在伯し、1年先輩の勇三さ
んがトメアス移住地で胡椒の栽培農家に行っていた。彼のことは後に詳しく語るとして、各年度の
学生が渡伯し、海外移住の先鞭を付けられた、実行力の素晴らしい人である。
当時電線工場を経営して、その間仕事も数回変えたりしてしたようです。やはり、農業以外に移
住を目指すのであれば、特殊な技術を持って、新しいことに挑戦するのが、成功の近道で有ると感
じた。
ブエノス・アイレスで他大学の先輩に、何かの機会に列車を撮る為に何時間も待っている話しを
した事がブラジルの中馬先輩の耳に入り、「いい後輩を育てたと褒められた」と言って喜んで下さ
った。
<ブラジリア>
新しい国家の中核として、リオ・デ・ジャネイロの首都機能を、中央内陸部の森林を切り開き、
超近代的な都市計画による、新首都の建設が1956年から始まり、公募による飛行機の形のよう
なデザインの都市が1970年に出来上がった、クブチェック大統領の時代で、無理な借款と移転
に伴う莫大な資金、完成してもサンパウロ、リオ・デ・ジャネイロから約1000kmも離れてい
るため、効率の低下などで経済的に重くのしかかっていた。
1973年はまだ出来あがったばっかりで、飛行機を取り囲むように大きな楕円の軌道に建設に
関った人達のバラックが立ち並び、異様な光景であった、都市の中央に立っても、人も車も少なく、
まだ機能の移転と人口の移転が進んで無く、新惑星の都市に不時着をした感じでした。現在は人口
200万を越える、立派な首都となっている。
こうした中央部の開発が道路を造り、アマゾンの密林を機械力で薙ぎ倒し、農地を広げた結果、
広大なアマゾンの密林が担っていた地球環境の酸素の供給量が少なくなって、温暖化の促進に大き
な影響力を発揮しているのが現状です
<ベレン>
コロンビア、ペルーなどのアンデス山脈を源とする川が集まり、大アマゾン河となり大西洋に到
着した河口にベレンが有ります。川幅は対岸が見えないほど広くブラジル丸も最初の寄港地として、
移住者を下船させて行きます。
ベレンはアマゾン河流域の最大の都市での高層建築は少ないです、ブラジリアからは2000k
mほど離れています。
ブラジルのバスは大型で長距離用のため、他の各国のバスより快適です、イスが3列でリクライ
ニングになり夜はゆっくり休めるようになっていますが、ブラジリアからの道路は赤土、整備の出
来ていない悪路が続きゆっくり休む事は出来ませんでした。現在は真っすぐな直線舗装道路で、運
転手が眠くならないかと心配になるほど単純なハイウェイを、フルスピードで飛ばしているそうで
す。
<トメアス移住地 ピメンタ>
日本人が最初にアマゾン開拓に入った移住地で、ベレンから中型の川舟でアマゾン河の支流に入
り、ハンモックを吊るしたりした乗客が多く満員で、船縁に座って川の景色を眺めていました。川
幅は段々狭くなり蛇行して、倒木が浮いていて、上から木の枝が垂れ下がり、密林の中を縫うよう
に映画そのものの光景が続き、所々で現地の人が下船して行きました。
マラリアなどの病気もあり、また、虫が腕などに針で刺し、卵を産み付けて行くと、腕の中で幼
虫が動き出して肉を喰いちぎって表に出てくるのも居るそうで、初期の開拓は大変なご苦労が有っ
たと思われます。
1973年当時は東南アジアから持ってきたピメンタ胡椒の栽培で繁栄し最盛期に入っていま
した、胡椒はインドを目指した航海者が求めたもので、肉食の人たちには欠かせない物です。
その後 土地の肥沃度や病気の発生で問題が生じ、生産量が落ちて、農家経営の危機に立たされた、
それを輪作や、混合栽培などで危機を乗り越えたと聞きます。
<勇三先輩>
ここトメアスには、1年先輩の勇三氏が移住していたので、訪ねる目的で船に乗って行きました。
勇三先輩のパトロンはベレンに店を持ち、娘さんを大学に通わせている方で、男がトメアスを訪れ
た時に、丁度写真もカラーの時代になるので、先輩に日本の富士カラー現像所でプリントの勉強を
する話しが持ち上がり、6ヶ月間帰国することに成ったのです。
男はブラジル移住を念頭に、各地を回ったのですが、人に使用されていたのでは、洗濯機より安
いメイドの人件費を考えれば得策でない。自分の得意技を生かして商売をするのが一番良い方法で、
それでは、それは何か、会社に勤めていた間は生産コストの削減、工数の削減をテーマにやって来
たのですが、この土地ではそこまでの需要が無さそうでした。
写真は戦前の日本と同じように、個人が経済的にまだカメラを持てない状態で、子供の生まれた
時や結婚式などの記念写真を写真館で撮り、白い皿にカラーでプリントして、居間や、客間に飾っ
ているのです。ヨーロッパ系の大きな家には、これまた大きな肖像画が飾ってあり、先祖のだれ某
であると、主張し誇りにています。キレイな仕上がりの半切の大きさの記念写真は額に入り、居間
に飾って自慢してくれ、需要が拡大するに間違い無いと確信した。
男は写真を撮ることに関して出来るし、白黒写真の現像引き伸ばしの経験はあるが、カラー写真
と成ると経験が無い。先輩がカラーの勉強に行くのであれば、分業してやればキット成功すると閃
き、偶然と言うか、素晴らしいチャンスだ、幸運にも最後になってブラジル移住の方策が出来た。
ベレンは湿気が多く暑い街で、住むには余り適さないが、先輩が、パトロンや恋人と生活の基盤を
作るのであれば、住めば都として何とかなるだろう。
いろいろ計画や状況を調べて、確信を持って先輩よりも一足先に帰国するため、大西洋に突き出
た都市のレシフェから、ヨーロッパ大陸の西端、ポルトガルのリスボンに渡る大西洋横断の一番近
いルートで、航空機も多く、ブラジルの旅と、南米アンデスの鉄道の撮影を終えて、先輩には、日
本で再会をしたとき、具体的な話を詰める事にしまして、帰国の途に着いた。
早足世界一周
<フラメンコ>
ポルトガルのリスボンはマゼランやバスコ・ダ・ガマなどの先人が、世界一周やインドを目指し
出航した都市です。古代の遺跡では無いですが、歴史上大切なところです。リスボンには、珍しい
市電やケーブルカーが在って撮りましたが、この後は鉄道関係を写すことは止めてしました。
リスボンから地中海周りの列車で、スペインのアンダルシア地方に入りました。永くスペインの
南半分を領地にしていた回教徒はアルハンブラ宮殿などの回教式の素晴らしい建築を残し、同時に
ヒターノ達もエジプト周りで、一緒に入り込み、フラメンコという今やスペインを代表する舞踊を
残しています。
TVが家に来て、何かの番組にフラメンコのアレグレアスを男女二人が踊ったのですが、多感な
中学生とって男女の愛のもつれ合いを、新鮮に感じたのがフラメンコ好きの始まりだったと思いま
す。社会人になって新宿のフラメンコバーに通うことが多く、やはり本場に来たら本物を見ること
が全てで、昼はホテルのラジオから流れる歌やギターを聞き、よい曲はレコードを探し、夜はタブ
ラオや特設ステージでのショウを見て歩きました。
印象に残ったのは、エル・グレコがグラナダのステージに出演するので、踊りを見に行った時に、
かれは自分の出番の前に客席の後ろから、ステージに並べられた仮設の板の響きをチェックしてい
たことです。今までの人とサパティアードのリズムと音が全然違うのでした。サパティアードは靴
に前と踵に金具が付いて、鋭い音がするような仕掛けで、男性舞踊家の力強い踊りの中で一番の見
せ場なので、そこまで神経を使ったのはさすが一流の踊り手です。
セビリアでは、公園で青年男女がワインを飲みながら、セビジャーナスを踊っているではありま
せんか、彼らに聞くとコレはセビリアの昔からある踊りで、フラメンコとは違うとの話しでした。
フラメンコはヒターノ達が、古くから自分達の家庭内や集まりに踊っていたのが、スペイン人の農
場主や金持ちに呼ばれて、踊りやギターの演奏、歌などの芸を見せるようになり、お金を稼いだの
が見せるフラメンコの始まりでした。その後、歌、踊りやギターの名手が各地を回って芸を披露し
て行く内に、首都のマドリッドなどの本格的なタブラオ出来て、そこで公演するようになりました、
ヒターノが多く住むグラナダのサクラモンテの洞窟の家の中でも、観光客を相手にステージが造っ
てあります。
今ではセビジャーナスはステージの初めの方で集団舞踏として披露されて、フラメンコショウに
とっては外せない演目です。
マドリードのタブラオに毎夜通いました、夕方6時半ごろから、団体の観光客が来てワインを飲
み、パエジャなどの食事をしながら観賞して、2時間ほどで帰ります。ステージは観光客が帰って
から本番に入り、先ずは、前座さんなどから、段々格が上がって、12時頃から、真打登場になり
ます。
会場も目の肥えた人だけになり、特別な雰囲気が作られ、当時、日本人の長嶺ヤスコさんも出演
されていました、ここで感激したのは、ルセロ・テナーさんの踊りです。女性の第一人者とは聞い
ていましたが、まずサパティアードで両足を上手な人ほど細かく打ち鳴らしながら、細かく早く舞
台を回るのですが、彼女はその細かさの中にリズムを刻んでいるのでした。またカスカネットを両
手にはめ、猫のまねをして、足とカスカネットで絶妙のリズムと感覚を見て、満足してホテルに帰
ります。高級ホテルでは0時を回っても堂々と帰れます、しかし安ホテルの場合は、部屋の鍵は持
って出ていますが、ホテルの入口のドアーの鍵は閉められていて、入ることが出来ません。入口付
近には数件のホテルの鍵を預かっている男が居て、彼にチップを渡して中に入れてもらう仕組みに
成っています。日が高く昇るまで寝ている生活を1週間続けました。
<シンプロントンネルからイタリアの執着駅まで>
マドリードで言葉は通じ、美味しいものを食べ、フラメンコを堪能したので、帰り道を急ぐだけ
です。
マドリードから列車でバルセロナに、次にフランスを横切り、スイスのジュネーブを目指しまし
た。その先のヨーロッパアルプスをくり抜きスイスとイタリアを結ぶ、シンプロントンネルは、小
学生の時に地図で見つけた子供のころからの憧れの世界一長いトンネルで、19823mを、スイ
スのグリーグからイタリアのドォモダッソーラまで 列車で通過する為に、スイス経由にしたので
した。しかし1982年に上越新幹線の大清水トンネル22221m が出来て世界一の座を降りま
した。
スペインを出るとフランス語が出来ないのに、時刻表も買わずに、ジュネーブへ通じる路線の列
車で、乗換えをしながら向かう事にしました。
フランスに入り地中海沿いに走っていたところ、段々退屈してきて、座っているのも嫌になり、デ
ッキに立っていたら小さな駅で、年配のご婦人が大きな荷物を持って乗り込もうとしていましたか
ら、降りて荷物を持ってあげました。初めて聞いた生のフランス語は「メルシー・ムシュウ」でそ
の発音のきれいなこと、コレがフランス語かと感心してしまい、何時までも心に残っています。リ
ヨンに近づいた頃車内は混みだし、周りの青年が、話しかけてきましたが、英語もおぼつか無くな
っていましたので、ただ、ジュネーブに行くとだけ言うのがやっとでした、青年は友達と相談して、
路線を変更してと列車を乗り継いで行けば早く到着すると、相談がまとまり説明してくれるのです
が、よく判らず地図を描いてもらい、その通り実行したら確かに早く到着しました。
フランスではパリなど観光地も多く有りますが、何も見ずに列車で通過したのみで、
「メルシー・
ムシュウ」でフランスは十分でした。
スイスも1泊しただけで、列車を乗り継ぎ、シンプロントンネルに向かいました、列車はアルプ
スのヒダと渓谷と牧草地を通過して、アンデスの風景とは山の雄大さと大きさなどで異なったもの
でした。スイス側は平坦な入り口から、いよいよトンネルに入ってゆきます。地図ではループ線に
なっている事になっていますが判りません。イタリア側に抜けると、アルプスをドンドン下って行
きます。
ヨーロッパの鉄道は国境を跨ぎ走行するので、列車の中で入国手続きが簡単に終わります。また
ヨーロッパの鉄道では、軌道幅が異なる場合が多く在り、列車は走行中駅構内でゆっくりと、車軸
の変更をして、そのまま目的地まで向かうことが出来るのです。
イタリアのミラノのターミナル駅を過ぎ、いよいよローマの中央駅テルミノ駅は終着駅と言うイ
タリア語で、まさに行き止まり線ばかりのホームがドームに包まれて居ました。この駅は映画「終
着駅」で見た印象が強く残っていて、どうしてもこの駅を目指たわけです。
映画ローマの休日は新宿名画座で何度も見ていたので、オードリーが歩いたところを歩いて見たい
と思っていました。そこを訪ねる前に。コルシアムを見てからと考えたのが間違いで、野良猫が多
く幻滅し、さっさっと次の国ギリシャに飛びました。イタリア語とスペイン語は同じラテン語の仲
間ですので、半分は通じたと思います。
<ギリシャ>
アポロン神殿など、観光の名所は整備されていて十分堪能出来ました。アテネには日本人の若い
人が宿屋をやっていて日本語が通じたので助かりました、なにせ、数学で習うギリシャ文字が出て
くるので、高校の数学を思い出して気後れしたのと、聞き慣れない発音で苦労していた処でしたか
ら。
アテネから観光船がエーゲ海の有名な島々に通っていましたが、これまであまり日本人団体観光
客とは接触しない生活でしたので、今度も誰も行かない島で、泳ぎのんびりしたいと思って島を選
び、白壁のエーゲ海特有の家屋を船上から見て楽しみ、白い砂浜で寝転びアンデスのように気楽に
過ごした気分にボケーット浸りながら、ブラジル、ヨーロッパ等言葉の問題や急いだ疲れをとるこ
とが出来ました。
<王家の谷、エジプト>
アテネからエジプトのカイロに飛んで夕方着き、空港の案内所でルクソール行きの列車を調べた
ら、まだ間に合うというのでタクシーで駅まで行き、そのまま夜行に飛び乗りました。ゆっくり翌
日の列車でも良かったのですが、まずは目的地に行きたい思いが強く、何時間かかるか判らない中、
2等の混雑した車両に乗り込み、少しの間しか眠ることが出来ませんでした。
ルクソールはカイロの670km南ナイル川の畔にあります。古代エジプト紀元前2100~7
50年までの首都テーベの都の一部で宮殿都市でした。
その後イスラム帝国が進出して来たときに、カルナックス神殿の神々の顔を破壊してしまいまし
たが像そのものは残り、当時の面影は十分に堪能できます。
ルクソールへ来た目的は、ナイルの対岸にある王家の谷で、そこの若きツタンカーメン王の墓所
を見ることでした。王家の谷と呼ばれる山の斜面に造られ、ハトシェフスト女王の葬祭殿や、ピラ
ミッド以降の各王の墓が盗掘を防ぐため、地中を迷路のように造った墓所の場所です。
翌日、ナイル川を船で横断し対岸の王家の谷向かい、歩き出したところ客引きが来てロバに乗れと
勧めます、アンデスではリャマと同じく荷物運びに活躍していて、親しみがあったので一度は、乗
ってみようかと、初めて客引きに応じた。
彼は其れだけでなく、懐から小さいカラスの形をした神の使いの像を、買わないかと持ち出しま
した、緑症があり出土品の本物みたいで2体買いました。帰国後、成分を簡単に調べてみたら金が
多少入っているので盗掘品で在ることが確認されました。小さいので疑われずに家に置いてありま
す。
各墓所は迷路というか仕掛けが凄く、簡単に中に入れない仕組みになっていて、大きな四角い穴
の上を板で渡して歩かせたり、上に登ったり下ったり、観光客でも簡単に到達出来ないようになっ
て居るのに、有名な王の墓は盗掘にあっていた。
若きツタンカーメン王は余り歴史に残らない内に、亡くなったので墓所も小さく、盗掘を免れた
のでしょう、本物はカイロ博物館に展示されていますが、墓所にはレプリカや副葬品が置いてあり
ました。20畳ほどの石官の置いてある部屋は、一面に装飾がなされていて、驚いたのは日本の欄
間ほどの高さに、無数のヒヒが同じ方向を座っています、そして、変な処に気が付きました。各ヒ
ヒはみんな勃起しているのです。理由は判りませんが、その後そこを訪れた人に聞いても、誰も気
が付かなかったと、男が変なのか。
その後、カイロ博物館で、本物を見て、エジプトに別れを告げた、有名なピラミッドやスフイン
クスを見ないで終わりました。
世界の各地には、ピラミッド同様な墓所が、日本の古墳や秦の始皇帝陵、インドネシアにも、ま
たメキシコやグアテマラには墓所としではなく祭壇として、ピラミッド状の遺跡が残っているのは、
年代に開きが在りすぎますが、不思議に思えて仕方在りません。
<イスラム教と日本の女性>
カルナックル神殿を見物していたときに、日本人の28歳ぐらいの女性に、助けて下さいと声を
掛けられた。彼女の格好はエジプトの暑さのためか、帽子をかぶり、ショート・パンツに半袖、化
粧は日焼け止めのために厚く塗り、口紅は深紅、肩からショルダーのハンドバックを提げ、一人旅
で古代エジプトを堪能する勇気のある女性でした。彼女曰く、安ホテルでは無く、普通クラス以上
のホテルに宿泊しているそうですが、ホテルの従業員達の仕事が終わる夜間9時頃になると、部屋
には鍵を掛けてあっても、従業員が合い鍵を持っているので、ノックして酒瓶を持って、「一緒に
飲もう」と訪ねて来たので、彼女は怖くなって、やっとの事でお帰り願ったそうです。もう泊まれ
ないので同じホテルに泊めて欲しいと御願いされました。
イスラム教の戒律の厳しい国の女性は、顔がやっとみえるぐらい体を隠し、普通の国でも肌の露
出は少ないし、これが日焼けを防ぐにも最適なのですが、彼女は日本の夏の感覚で旅行をしていた
のです。もうお解りの事でしょうが、彼女の格好はイタリアでのストリート・ガールと同じで、イ
スラムの男性から見れば、簡単に仲良くなれる女性と見られたのです。
最近は気楽に海外に出られるようになったお陰で、訪問国の事よく調べず、国内旅行と同じ感覚
で一人旅に出てしまい、特にイスラム教の習慣を知っていれば、こんな事にはならなかったでしょ
う。
男のホテルは安ホテルで鍵など余り当てにはならないので、今泊まっているホテルクラスの別の
ホテルに代え、服装も直して行けば安心できると、説得して別れました。
<インドの紙幣事件>
カイロ博物館を見学し、飛行機でインドのニューデリーに飛び、機内で同年ぐらいの一人旅の青
年と一緒になり、これまでの話しをして意気投合。
空港内には銀行が無く、外にある立派な建物の銀行で、当座の資金の両替をしました。相乗りタ
クシーで市内に入り、ホテルは前金で支払いをすることになっていたので、両替したばかりの分厚
い量の紙幣で払ったら、ホテルマンが1枚ずつ数えて、その中の1枚に1cmくらいの破れを見つ
けたのです。現在のATMのような機械でチェックして弾きだされたのでなく、目で確認して、こ
の札は使えないと、理由は破れが有るから駄目で、他の紙幣には相当使い込まれて、ヨレヨレでも
破けていないからOKなのだそうです。
二人は唖然とした、先ほど空港前の銀行で両替したばかりの札だったので、半分切れて無いとか
なら、その場は納得が出来たのですが、いろいろ交渉したけれども結局駄目で、二人は翌日両替し
た銀行の本店に乗り込んで行きました。日本の感覚では、まず窓口で説明するのが順当な方法です
が、二人とも海外での生活が永く、手っ取り早い方法を知っていたので、頭取クラスの偉いさんに
直接会いに行きました。そして、お宅の支店で両替した中にこの少し破れたのが混じっていて、使
用できないと言われた。「外国人が両替に利用する支店で、平然とこのような事が許されて良い事
だろうか、外国から来た客は、この程度の破れであれば自国でも使用できるので、気が付いたとし
ても財布に入れてしまうでしょう。これが観光インドの姿なのか」インドは英語の発音に少し訛り
があるようですが、英語で彼がまくし立てました。多少待たされたのですが、破れのない紙幣と変
えてくれました。
それから、街で買い物や食事の時には、注意する習慣となり、結構手垢の付いた使い込まれた紙
幣を目にしたのですが、破れてはいなかったです。
外国では交渉ごとは、下の人間では、日本のように決済能力がなく、上の人間になると理解して
くれれば直ぐOKを出してくれる。帰国後この方式は、これまでの生活で染みついた日本の常識が、
頭を持ち上げ、躊躇してしまい使った事は有りません。日本式は決済の印鑑が増えるので時間が掛
かってしまい。どちらが良いか。
<インドの女性とカースト制>
写真や日本で見るインド女性は、福よかで額にヒンズー教の赤い印をつけ、サリーをまとい、と
ても印象的な美人の国と思って憧れていました、実際こうした女性も多く美人の国だと実感した。
しかし、インドではカースト制度があり最下層の人たちが教会の炊き出しに並び、貧しい家に住ん
で居てもインドの女性ですから、顔立ちもよく、そのギャップに驚くと共に、かえってカースト制
度の悪い面を観てしまい此までの憧れが無くなってしまいました。
街を歩いていると子供が周りを囲み、
「お恵みを」と口々に言っています。イスラム教圏でも「バ
ックッシーシ」同じように囲まれまれ、歩くのも困難な状態ですが、貧乏旅行している身では施し
をする余裕はないし、人数の多さに区別することも出来ず、無言のまま目的地に向かうと、その内
に諦めて周りから離れて行く、上の階級の者やまたは金持ちが、施しをすることが当然の事とのよ
うな宗教社会では、子供に罪はないのですが困ってしまいます。南米のカトリック教の社会ではイ
ンディオ達は貧しいのに、こうした行為は一切しない。
此が宗教の違いなのでしょうか。
那覇空港に帰国
1973年7月15日にインドからマニラ、台北を経由して那覇空港に丸2年目で帰国した。空
港では荷物検査も簡単で気が抜け、此ならブラジルから簡単に買える拳銃を、持ち込んでも通過す
るかなと思えたほど、でもこんな男だから顔や態度にすぐ出て駄目だったでしょう。
沖縄在住の与儀君は、移住研の同期生で新宿日活のバイト毎日をして、彼が用事のあるときに臨
時に映画館のアイスクリーム売りを手伝い、卒業してからも研究生として大学に残った時には、川
崎高津の男の部屋に一年間居候をしていた親友です。此まで、沖縄が返還される前の学生時代に身
分証明書とドル紙幣を持って遊びに行っていたので、先ずは彼の所に報告に寄った訳です。
九州の博多には、小学校からの友人が結婚して住んでいたので、ここも帰り道で寄らせて貰った。
博多の鳥の刺身は珍しくもあり美味しかったのを覚えている。
フィルムや原稿などを出版社に持ち込み、サポートを続けてくれた、岩槻の豊住君の家に荷物を
置き、やっと帰国した感じがしました。彼とは神戸から新幹線でトンボ返りをして酒を飲んだのが、
日本の最後の酒で、今日また無事に帰国をした喜びと、酒を酌み交わせる喜びとで、サポートに感
謝して遅くまで飲んでしまった。
その後、兄弟や見送りに来てくれた方々の所へ、順次報告に訪問をして、また食事を頂いた、此
が面白いことに、久しぶりの日本だから、日本の代表的な食事と言えば「鮨」で、余り食べた事が
ないだろうからと、訪問した家庭では必ず出前の鮨を取って待っていてくださった。出前を取りご
馳走することが日本の常識かもしれない、外国では客に手料理で持てなすことが常識で、肉の好き
な国ではパーティ形式で肉を焼いて食べます。
海外にいるときには日本食のレストランにも行かず、本格的な鮨は食べたことがなく、アルゼン
チンの仲村さんの所にいるときに、刺身をご飯の上にのせ、鮨らしく食べた思い出ぐらいで、本格
的な鮨を出されるのに感謝した。
<日本の夏と順応性>
此までの経験では8月は蒸し暑いと決まっていたし、まだ30年前はクーラーも一部の家庭にし
か設置されていなく、普通は扇風機で外の風を入れるか、団扇を使うかして涼を取っていた。
パラグゥアイでの昼寝をしなければ耐えられない、昼の暑さと、その後に向かったアマゾンのベ
レンやエジプト、インドの暑さを経験して慣れていたのでしょうか、東京の暑さも汗もかかず暑い
と感じなく過ごせた。これと同じ事がアンデス3500m付近に長期滞在し、高山病にもならず、
過ごせたのは人間の順応性でありましょう。
順応性と同じかどうか判りませんが、出国する前は外国人に声を掛けられるのがドキドキして、
赤面恐怖症みたいに成っていた、帰国後は東京の街を歩いていると、外国人に道を尋ねられる事が
多くなった。理由は判らないけれども、体から外国の臭いが発散していたのか、自信が体に表れた
のか、またまた服装がちょっと変わっていたのか
順応性を試したいと一番に思っていた事は、アンデスに居るときからの念願であった富士登山を
して、頂上で走って一周してみたい、標高的には恐れる程の高さでなく問題が無いと思っていたが、
富士山は登るのに足場が悪く、それなりの靴と格好をしないと危ないのと、面積の少ない頂上では
風など、天候の変化に対処出来ないことが判り断念をしたのが、いまでも心残りになって居ます。
写真集の出版と原稿書き
<オイル・ショック>
小学校時代からの友達で、鹿島出版に勤めている清水君と写真集の出版や販売について話し合っ
た、彼は建築関係の本を扱うので会社の組織を使えないが、写真集など本の出版のノウハウは解っ
ているので、直接印刷屋や製本所に頼み、最初は自費出版の形を取るが、十分販売にも力を入れる
ので、遣ってみようと決めました。観光案内も兼ねた南米の鉄道の案内書になるようすれば、為替
の自由化で海外に行く人も多くなり、売れるだろう。
題名も「秋葉裕嗣の旅と鉄道」と決め、絵はがきを作たり、宣伝のために学生の時お世話になっ
た、芝信用金庫の15カ所の店舗で、順に写真展を始めることの交渉がまとまった。いまから思え
ばブラジルで写真屋を開業するのだから、銀座の会場を借りて個展をすると価値が出たのだろう、
其れと銀座の個展というとそれなりの方が見てくれ、良い方向に走ったかもしれなかった。
1973年はオイルショックの年で、関西の団地で始まったトイレットペーパーが無くなる風評
が、全国的に広がり、買い占め騒ぎが起きた。このトバッチリで紙が不足をして、印刷用紙も価格
が上がり、写真集の用紙代の見積もりが出来なくなって、予算が組めない状態になり、この企画は
断念せざるを得なくなってしまった。
会社に入社したときも、ブラジルの経済がインフレで進出の予算が組めなく、男の最初のブラジ
ル進出計画が中止になった結果と、同じに成ってしまい運がないというか、考え方を変えれば、別
の道を走ることになり、幸運で良かったかもしれない。こうして、自費出版の写真集はこの時断念
し、鉄道ファン誌に、「秋葉裕嗣の南米めぐり」として連載を始めた。
1974年 6月 158号
7月 159号
9月 161号
11月 163号
1975年 2月 166号
10月 174号
アルゼンチンの750mm鉄道
アンデス山脈越えの鉄道
マゼラン海峡の入口に国産蒸気を訪ねて
チリーの600mmナローゲジ
チリーを行く日本製大型蒸気
ポトシ銀山を行く日立製蒸気
1975年は日本国内から蒸気機関車が廃止されて行き、鉄道雑誌もさよなら運転等イベントの
企画がいっぱいになり、海外の鉄道や蒸気機関車を扱う余裕が無く、電車特急など新企画に力を入
れる始め、南米めぐりの連載は中止になってしまった。パラグァイの薪で走る機関車など、珍しい
のもあり残念であったが仕方がない。
資料はいっぱい集めてきたので問題はなかのですが、原稿書きは慣れないことで、原稿用紙に読
みやすい文章を並べる事に苦労した。
<偶然の再会>
鉄道ファン誌の交友舎は駒込駅から、六義園の横を降りた場所にあり、原稿を持ち込み打ち合わ
せに時々通っていた。ある天気の良い昼過ぎ、原稿を届けた帰りに、駅の跨線橋の上で女性に名
前を呼ばれた、その人は幼児車に1歳ほどの男の子を乗せ、子供に日光浴をさせていて、全然気が
付かず驚いて顔を見た。
彼女は横浜に見送りに来てくれた女性の一人で、偶然の再会、こんな事もあるのかなと思えるほ
ど、近くのマンションに住んで居るので、寄ってお茶でもと誘われた、昔の親しさは有っても、結
婚している家庭におじゃまするのは、良くない事と断ったら、男が一人いるから大丈夫と幼児を指
さしたので、1時間程これまでの撮影旅行の話しをして来ました。
横浜港に見送りに来た女性が、その後結婚をして幸せに成っている姿を見て、自分は目的のため
に最初から結婚は出来無いと、時折ブラジルの話題を交えて、判って貰う様にしていたので、船の
見送りという形で別れ、彼女はその後結婚して、幸せに成ってくれて安心しました。
<他の写真集に貸出し>
この連載を見た、集英社が1976年発行の「世界の鉄道」
ユージン・フォーダー著小池 滋
訳に南米各国の紹介の写真として、貸し出した。
アメリカのニュー・ヨークの研究者 Allen Morison が、南米の市電の古い珍しい記念写真やサイ
ンが入っている写真と資料を基に、Latin America by Streetcar を書いた。
彼が、未発表のラ・パスの市電とイリマニ山の写真を、何処で知ったのか判らないけれど、写真
を使用させて欲しいと、神奈川の住所に手紙を寄こしてきた。この時期は北海道へ移住して間もな
いときで、忙しく返事も出さずに居たら、アメリカ人というかアメリカの情報収集能力の凄さで、
彼の日本在住の友人が北海道の住所を調べたのでしょうか、再びお願いの手紙が届きましたので OK
したら、写真集の唯一のカラー写真として、カバー表紙を飾っている。
また最近の話しで、ペルーの鉄道愛好家が彼の研究をまとめた、ペルーの鉄道史「Peru Trein」
の本に、私の写真集から数枚使わせて欲しいとメールが来て、OK したら此も表紙を飾っています。
当時の鉄道をカラー写真で撮影した人も無く、最近のイベントでの走行写真ではカラー写真であっ
ても、塗装がけばけばしくて、実際の生活列車の雰囲気が生まれないので、使用できなかったので
しょう。
こうした写真の貸し出は、版権だとか問題が起きますが、欲がないというか、版権の保護の手続
きを知らないのと、広く写真を見て戴く機会が増える事が希望であり、報酬は出来上がった本を数
冊送って来て終わりでした。多くの人に写真が利用されるのを、むしろ喜びを感じています。
写真集に CD-ROM を付けたのは全ての写真を掲載するのでは、印刷代が高くなってしまい、息子
の助言もあり、CD からもプリントも出来る様にしたので、版権の問題より、多くの人に写真が愛好
され、いつまでも写真が生命を持って残ってくれると信じるからです。
ブラジル移住の準備と就職
お世話になった方々への帰国の挨拶の中で、元勤めていた会社にも顔を出し、若い係長さんは入
社時からいろいろ仕事などを教えて戴いた方で、元気に帰国した事を、ことのほか喜んでくださっ
た。会社を辞めた経緯は、やはり帰国後の事の心配と、働きやすい会社であった為、こちらの都合
の良い休職扱いを常務にお願いしたが、常務から休職扱いだと、何か事故でもあると会社の社員と
いう事で会社名が出るから、自己退社をしてくれと言われ、もっともな話であり、その通り退社し
た。常務には帰国後の再就職については待っているからと保証をもしても戴いた。
係長は会社を辞めた経緯を覚えていて下さり、会社に復職を働きかけて頂けるという有りがたい
申し出も受け、今後の仕事のことを心配しても戴いた。
再就職については、機械科を卒業し、担当も技術系の仕事を任されて居ましたが、3年目あたり
から、親会社との仕事の受け渡しなど、外で折衝する仕事が増え、噂では総務に回されるらしいと、
自分自身も技術系より、クラブ活動でそれらしきことを多く経験していたので、自分に向いている
のかと思うこともあり、退社しなければそちらの仕事で定年を迎えていたかもしれない。
二年間の海外生活は自由気ままで有って、会社勤めの生活が耐えられるか自信もなかったが、一
人で海外を回った経験を特に評価してくれていた。さきの係長は、再就職の話に OK が出ているの
で、お祝いをしようとわざわざご自宅に招いて下さった。
今後の生活については、訪問先では皆さん心配してくれて、ブラジルへ移住して「ブラジルのア
マゾン河の入口にあるベレンと言う大きな街で、先輩と二人で写真屋をやる予定です。先輩も帰国
し、現在富士フィルムでカラー写真の焼き付けについて勉強をしているところです」と説明してい
た。中には移住を引き留める方、励まして下さる方などいろいろでしたが、係長のような具体的な
話は初めてでした、すでに移住して写真屋をやると決心は出来ていたので、丁重に再度お断りをし
た。
先輩とも打ち合わせを重ね、スタジオ撮影のカメラも購入していて、スタジオでの設備について
は、日本から持ち込むか、現地調達か、検討をしていた。
北海道に移住地の変更
<偶然の重なりは必然か>
この男の人生は、この後の結婚の経緯等でも出て来るように、一貫性が無いと言えるのか、偶然
が重なりそれが必然となり、人間を創り人生の航路を歩ませたのか。
まず、此までを振り返ると、高校のボート部に入ったのも目新しさに惹かれたことで、その結果
勉強もおろそかになり県立浦高をビリの成績で卒業。
大学では「ブラジルに行こう」のキャッチフレーズに惹かれ、ブラジルも南米も関心すら無く、
何も知らないのに、海外移住のクラブに入部してしまった。
就職も、ブラジルに工場進出するので、有望な人材を求めている社長の言葉で決め、会社の設立
と発展に寄与すべく、二・三年したらブラジルに渡っていたのであろう入社日に、其れが白紙にな
ったと知らされた。その結果、移住をする前にブラジルを見てから、どうすれば良いかを決めるた
めに事前に行くことにした。
それは鉄道写真マニアの男が、日本に紹介されていない南米の鉄道写真を撮りながら旅をする事
になり、結果34年後に写真集を病気をしてから、出版する事を決意し、病院で編集作業をして、
完成させたのでした。
ブラジル移住は、先輩と共同で写真屋をする事になり、移住は実現するかに進んだ。
<先輩の婚約者>
またも他の要因で、ブラジル移住が中止になってしまった。
ベレンには婚約者のパトロンの娘さんが待っていて、先輩が半年以上日本でプリントの勉強をい
ている間に、当然のごとく頻繁に手紙を送って来ていた。しかし先輩も仕事に疲れたりして、男と
してはやはり筆無精になる。たまに書く手紙や小包には判らないようにして、現金や、ネックレス
など日本で手に入る、良い物を入れて送っていた。これは普通の愛情表現だと思うが、しかし相手
はブラジルであり、特に地方には確実に手紙が時々届かないことは起こり得る。そうすると婚約者
は、返事の間隔が開き、イライラしてしまう事も想像は付く。まして小包など一回中身がばれてし
まうと狙われ易く、月に一度手紙が届けば良くなり、婚約者の気持ちとしては我慢が出来ない状態
に成ってしまい、先輩の愛情が無く成ったと、考え違いをして婚約を解消して来てしまった。
こうなると地球の裏側と電話による遠距離恋愛等の出来ない時代で、お互いの誤解を解く手段も
なく、一方的に別れる結果になった。これはただ、婚約者との別ればかりでなくパトロンとの別れ
でもあり、ベレンに帰る場所が無くなった事を意味する。先輩のまじめな気持ちを思うと、どんな
に苦しかったか想像は付く。
失意の中で先輩の計画も方向が見えなくなり、男との写真屋の話も出来る状態では無く、話し合
って写真屋の計画は御破算に成ってしまいました。結局、男もブラジル移住の再検討をするか、止
めるか決断を迫られた。
元の会社は断った後のことで、会話力と経験を生かして、南米に住むか、日本で南米関係の仕事
に就くことの、選択種も有ったでしょうが、男も失意の底で、就職活動をする元気もなく、また東
京の都会に本拠地を置くことは、空気 空、大地、何かが合わないので、撮影で良く足を運んだ広
い大地の北海道に、本拠地を置く方向で検討を始めた。
<北海道へ移住>
移住とは生活の本拠地を他に移し(学移連)・・・・・北海道で生活を始めることも移住と同じ
事と考えた。これまでいろんな偶然と言うか流れで、歩んできた道を、これからは自分の責任で決
定して行き、新たな土地で生活を組み立てる事に成った。
先ずは場所選び、条件は大都市でもなく、田舎でもなく、下水道の普及率が高く、中央との連絡
も NHK や都市銀行の支店もあり、地方の文化都市である、北見市を選んだ。北見は盆地の街で、山
も川もあり、日照率も高くアルゼンチンの北部の様なニオイを感じ、生活の本拠地を構えることに
した。
仕事は当時新しい個人事業として宣伝していた、布団乾燥車による出前乾燥は一人で出来るので
決め、住む家探しには、不動産屋を通さず、街の商店で近所に空き家がないか訪ね歩き、物件を見
て、持ち主と交渉する方法を取ったところ、たまたま石北本線の路脇に小さな家が在りました。持
ち主は当然のことの如く、東京から流れてくる独り者を信用する筈もなく、南米に一人旅をして、
空気の似たこの街を選んだ話をした。持ち主は元鉛筆工場の社長をやられていた方で、話しを評価
してくれて、快く借りることが出来た。
布団乾燥車に全ての財産と思える物を積み込み、着の身着のままで、昭和50年の3月に、釧路
港に上陸し、昔お世話になったパイロットファームの菅野さん方により、網走監獄に送られた受刑
者と同じ道を通り、北見の家に落ち着いた。蒸気機関車がまだ活躍をしている線路の脇で、これま
た縁という事でしょうか。
結婚の経緯
何度目かの雪の北海道撮影旅行中、夜汽車で稚内に向っていた時のこと、美幸線の始発駅であっ
た美深を発車して間もなく、男にとっては偶然の出来事で有ったか、必然の事であったか、同年代
の女性が突然騒ぎ出した。美深で降りるのを彼女は読書に夢中になり忘れてしまった。宗谷本線は
夜になると、列車本数も少なく、無人駅が多く、美深駅に帰るのは大変な事で、騒ぎ、不安に成る
のも当然なことであった。別のボックスにいた男は、必需品の時刻表を取り出し、上りの列車と交
換する駅を探して、彼女にこのまま音威子府まで行くか、途中の駅で多少待てば帰れると教えてあ
げた。彼女は途中の駅で待つのを選択したが、一人で待つのは寂しいから、男に一緒に降りてくれ、
そして美深まで帰り食堂をやっている家で、泊まっていって下さいと懇願してきた。男にとっては
稚内には急ぐ目的もないので、泊めてくれると言うので、一泊助かるし、一緒に降りることにした。
公衆電話で、心配している家族に電話を入れたら、美深からタクシーが迎えに来ることになり、
薄暗い駅で待ってから、タクシーで国道を南下し街灯の付いた明るい美深の町に着いた。ラーメン
をご馳走になり泊めて貰った。彼女の家族は両親に高校生の妹の4人で住んでいて、この高校生と
将来結婚するなどとは想像すらも出来ない事で有った。翌朝、男はまた稚内に向い、C55 と利尻富
士の写真を撮った。
二年後、また稚内に行く途中、美深に下車して、この前の礼と東京土産を渡しに寄ったら、ご主
人は前年他界され、降り損ねた彼女は結婚して、近所に住んでいた。折角だからと一泊して行きな
さいと勧められ、泊まることにして、高校生の妹が放課後、裏の町営スキー場に連れて行って呉れ、
初めてスキーをした。
その後何回か寄らせて貰い、南米に旅だった。メキシコで下宿をしていたとき、妹から日本人が
世話になっているのだからと、日本人形を送ってくれ、たいそう喜ばれ、心使いがとても嬉しかっ
たのが印象に残っている。長期に滞在が決まって、住所がはっきりした時は手紙も呉れたりしてい
た。
男のブラジル移住が本格的に成ったときは、結婚など家族も許さないし、妹も適応しないであろ
うし、考えられない事であった。
其れが、先輩のことなどで、北海道に移住することになり、北見に住んで半年後に結婚した。
偶然、姉が読書に夢中に成っていなく、スンナリ美深駅に下車していれば、会うことのない人で
あり、こちらは下心が有って、数回寄らして貰った訳でもなく、ラーメンも美味しいし、地方にお世
話になった人が居るのは楽しいことでしたから。
結婚することが、偶然の積み重ねで必然なるのか、哲学者でないので解らないが、結果的に結婚に至
ったのは現実である。
60歳を元気に迎えて
<クリーニング工場を建てる>
移住してきて最初の数年は、布団乾燥と簡単な布団の丸洗いを専門にして、生活が苦しい時期が
続きました。
北見は古代の湖だったところに出来た街で、ぐるり山に囲まれた盆地です、この盆地の地形だけ
の理由か、他から新しい血が入ってくることもなく、また外に出て行くでもなく、これまでの住民
生活は山に守られた如く、環境が深く生活に影響を与え、東京では考えられないくらいの血縁関係
が生まれていました。例えば、嫁を迎えた相手の家族までは、親戚として理解できるのですが、そ
の従兄弟の嫁ぎ先の家族も嫁を貰った家では親戚と考えて、外交に訪ねると、こうした親戚まで引
っ張り出して、親戚にこう言う人がいるので、仕事は出せないと何度も断られた。
盆地の中で生活をしていると、新しく起業を始める事もお互い牽制し合って出ず、やっても小規
模で余り迷惑に成らない程度に抑え、また其れで十分生活が出来ていたのでしょう。数年後、山の
外から、たくさんの資金を手にした大手のスーパーマーケットが進出して来るや、血縁よりも安さ
に惹かれた住民が、既存のスーパーから離れ潰れていったのでした。
こうした環境の中、真面目に仕事をこなしている姿を、あるクリーニング店のご主人が見ていて
くれて、組合の絨毯クリーニング専門工場の後釜として推薦して頂き、多くのお店と取引が出来る
ようになって、人も雇えるようになり生活も安定してきた。クリーニングの組合の役員も任され、
信用も付いた。
平成4年には作業場が手狭になったので、借金をして200坪の土地に50坪の工場を建て、中
古の洗濯機も揃え作業環境も良くなり、仕事も増えて、従業員もアルバイトを含め5人となった。
また隣には2階建ての住宅も建てた。土地は建築屋さんと不動産の方にお願いして捜して貰った、
ところが、またしても線路の隣の用地でした。偶然ながら男と鉄道とは縁の深さを感じました。
また、布団乾燥車一台に入れて運んだ財産らしきもので、始めた生活を家内の頑張りが有って、
借金とは言え、現在の建物を見ると充分なサクッセスストリーに成ると、心の中で自負するところ
です。
<健康診断>
2004年4月、萬60歳を迎え、暦の上では還暦、1歳に戻ると言うので、人間ドックで健康
診断を受けた、結果、糖尿病、高血圧、内蔵機能に異変は無く、実年齢より若く評価された。これ
まで顔や姿が年齢よりマイナス5歳ほど、若く見られて、うれしい時も馬鹿にされたような時も有
りましたが、今回の結果には大変嬉しく、大それたことまで考えた。
小学生の頃より体育の成績は良く、スポーツは何でもそれなりに上手であったので、60歳から
のシニヤ・オリンピックに練習をして出てみようか、年齢ごとのクラスで争うので可能性も有るの
ではないか。また、年賀状の挨拶文には健康診断の結果と、北見の空気の良さで、友人の中では一
番長生きをするのではないかとまで、思い上がったことを公言してしまった。
悪性リンパ腫の発病と闘病生活
<疲れ>
発病の数年前に偶然にも前後して姉の二人の家族が、初めて訪ねて来たので、道東の広大な景色
や有名所を案内した。
この2004年は、姪が小学生の子供を連れて夏休みに来るというので、姉たちと違って、小学
生の為になる場所を事前に下見しりした、友人達には孫がいて楽しい話を聞かされて居たものです
から、我が家の息子達は当分結婚する予定もないし、孫の話も出来ないので、仮想孫として楽しみ
にして、数日過ごした。
夏は、工場の仕事が忙しく、子供の相手とで自分自身に疲れを感じた。9月には居候をさせて貰
っていた友人が、定年前の休暇とかでご夫婦で来てくれた。車を貸し二人に自由にして貰ったが、
趣味が同じ事もあり、遠く静内町のレコード館の素晴らしいスピーカー装置で、趣味のレコードを
持参して聞きに行きもした。
彼らが帰った後、ご飯のお米が咽を通らなくなって、カロリーメイトの流動食を飲みながらも仕
事をしていた。午後から時間が空いたので、扁桃腺の腫れだと思い、花粉症でお世話になっていた
耳鼻咽喉科で診て貰ったら、このまま家に帰らず直接、北見赤十字病院の耳鼻咽喉科の医長に電話
をしたので、時間外でも診てくれるので行きなさいと言われ、診て貰ったら、咽が詰まっていて窒
息しそうになっているので、3分で脳死になるから即入院。病棟の部屋が決まってから、家内に電
話をして来て貰った。
<血液ガンの宣告>
この時点では病名は解らず、咽の腫れている組織を取り検査をして、今度は血液内科の先生から
病名を二人で聞いた。
「病名は悪性リンパ腫の、非ホジキン微慢性大細胞 B 型リンパ腫、聞き慣れない病名でしたが、
これは血液のガンで体中に血管と同じようにリンパ線が張り巡らされていて、腕にバイ菌が入った
ときに脇の下が腫れるのがリンパです。今回頸部のリンパに出来た腫瘍で、世界的に標準療法とし
て COHP が確立されていた、これで充分寛解(治った状態成ります)」
「処で血液のガンだと言われましたが、これはガン保険が使えるのですか」
「ガン保険の適用になります」
「やった!!」と思わず叫んでしまった、普通はガンの宣告をされたら、将来の不安と死を考え
落ち込むのが一般的でしょうが、この男には、親や姉妹をガンで亡くし、自分も当然そうなるであ
ろうと覚悟が出来ていて、ガン保険にも入っていたのでした。
でも「やった!!」とは、ここまで読まれた読者の方には、理解していただける精神構造で在り
ましょう。
<最初の入院・治療>
ボリビアの移住地以来、30年ぶりの入院で、3ヶ月以上の入院予定となり、ゆっくりと本が読
める時間がある。ブラジル丸の中で読むようにと先輩に貰った本で、司馬遼太郎の「峠」は河合継
之助の考え方行動に共感するものが有り、本はペルーの日本人に譲ったので、再度購入して読み始
めた。この治療は副作用もあり調子の悪い日々が続きましたが、長編でも集中力が切れずに、読み
終わり、次に「孫子」の厚い本も読めたのでした。
だんだん再入院を繰り返す内に集中力が長続きせず、短編を一章毎に読むのが背得一杯になって
しまいました。
咽の腫れで食事が取れなくなり、点滴栄養から、治療が進むに従い、口から食事が出来、まずは
流動食、破砕食(メニューは付いてくるのですが、何が何だか判らない固まり)だいぶ経てから形
の判る食事となり、最後は普通食に戻りました。
皆さん、病院食は不味いと言われますが、これだけ食事の変遷を経験すると、全て美味しく感じ、
調子の少し悪いときでも完食していました。この男の主義として、口から食べなければ死んでしま
う、アンデスでも皆が食べている物は食べられる、また食べられるときに食べておく。
5ヶ月の入院で CHOP を6コース、腫瘍が小さくなり、生きている細胞か、残骸か判断付かない
ぐらいになり、本人の希望はダメ押しで後2回をやって欲しかったのですが、男の体は抗ガン剤に
反応しやすく、腫瘍も消えるのが早いのだそうで、大丈夫との Dr の言葉で退院しました。
<再発 自家末梢血移植>
2月に退院し、永い病院生活であった為、昼寝をし、家で体力の回復を待ちながら、生活を戻し
て行きました。7月になるとある程体力も回復してきたのと、工場の絨毯巻きの仕事が忙しくなっ
てきて、手伝い始めた。
悪性リンパ腫の注意点は、ある期間人混みとか、ホコリの多い場所は危険地帯で、特に、クリー
ニング工場は、汚れ物を扱い、絨毯や布団からホコリが出て、衛生的な環境ではなかったので、再
発寛解の後は工場の仕事が禁止に成ってしまいました。
8月に右あごの骨近くが腫れ始め、検査をしたところ、やはり再発で、北大の先生が来られてい
たときでしたので、先生から説明を受けました。再発の時間が早いので、自分の末梢血から幹細胞
を集めておき、体の中を超大量抗ガン剤でキレイにしてから、採って置いた自分の幹細胞を戻す、
自家末梢血幹細胞移植を北大系の札幌の市立札幌病院で受けることになった。
今回の治療方法がきつく、治療で治るとは言え、再発期間も短く、また移植は肝臓移植とかを想
像する大変な事ではないか。いささか楽天的である男も、覚悟を決め、少しの財産でも男の子2人
と家内の3名が仲良く暮らして行かれる方法を書いて、財産の分配を遺言の代わりに、それぞれに
コピーをして説明し渡した。
<写真集の編集>
次は、南米で撮った写真のことで、これまで大切に保管してきたポジフィルムをどうするか、子
供達にとっては写真の内容も判らず、邪魔なだけで何時か処分されるので有ろうと思った、写真は
男の青春であり、生きた証でもあるので残したい。
まず考えたことは、簡単な小冊子を創り、プロフィールと共に,葬儀の会葬者に故人の記念とし
て配ることする。
現在は,ポジフィルムを CD 化してパソコンに取り込むことが出来るので、次男のノートパソコ
ンを借りて制作に入った。
作業場所は,病院のベットオーバーテーブルの上で、これをやっていると副作用で気分が悪くて
も忘れ、夢中になれてつらい治療もそれほどで感じずに受けられた。
作業が進んで行くと,余りにも写真が良く,会葬者に配るだけでは勿体ない気持ちになり、欲が出
てきて、書店で並ぶくらいの写真集に仕上げたいと,80頁ほどの内容にすべく頑張り、退院後、
家に集めてあった資料や,現在はネットで海外のホームページを調べることが出来るので,写真と
文章の半々の見本を完成させた。
元お世話になった交友舎や、鉄道関係の出版社に送り出版をお願いしてみた。
今の時代、蒸気機関車や特に南米関係では,関心が薄く売れないから、写真も良いことだし自費で
出版したら、また英語でも書き海外へ販売すれば、結構売れるからとアドバイスを受けて、文章は
少なく写真主体の写真集を考えた。写真の枚数が増えると,費用もかさむので予算の関係で頭を悩
ましていた。
長男が帰省したときに、相談したら、「今はインターネットの時代で、写真を公開すれば世界中
の人に見て貰えるから」
また利益を求め無くとも残したいのであれば、
「費用を少なくするためには、他の写真は CD にし
て写真集の中に付ければ、写真はいっぱい入るよ」このアドバイスを受け、写真主体の構想が出来
た
<再再発 非血縁者間骨髄移植>
市立札幌病院で自家抹消血幹細胞移植を受け、これで体内の悪い細胞は前処置の超大量抗ガン剤
で死んだ、治ったものと信じて、6ヶ月過ぎての、検査入院を気楽な気持ちで受け、終わって帰る
日の検査結果の発表を、楽しみにしていた。
結果、腹の大動脈の横に腫瘍が見つかり、再再発している。ここで倒れても普通のことだなと一
瞬思いましたが、堪えて詳しく説明を聞きました。
質問したのは、この腫瘍が動脈を圧迫して傷害が出るまで、何日の余裕が有るか、その間、写真
集の編集をある程度終わらせたい気持ちが強かった。
今度の治療は、同種移植と言って、他の人間からの骨髄を貰って移植する、この方法が最後の手
段である、一番良いのは、兄弟からの骨髄移植が安全であるから、誰か適当な人は居ないかと聞か
れても、末っ子で直ぐ上の姉は70歳になっているので、骨髄を大量に抜いたら死んでしまう。こ
うなると、骨髄バンクを通じて善意のドナーさんからの提供を受ける、非血縁者間の同種骨髄移植
に頼るしかない、男は何時も幸運に包まれて居るのは、死んだ両親や先祖のおかげか、ドナーの適
合者が居ない患者もいる中で、千人以上の適合者の中から、健康で血液も同じ O 型の若い善意の方
から戴ける事になりました。
札幌の病院から、北大での移植の相談が始まったとき、ネクサスという悪性リンパ腫の患者の会
にネットで参加していたので、再再発は死刑の宣告と思い、この題名でメールを送ったところ。全
国から励ましの書き込みが多くあり、中でも「じゅんさ」のネームの方から、東大の医師で専門は
血液内科、いろいろ相談に載ってくれる方を紹介され、メールの交換をしていくと、浦和高校の後
輩で応援団に在籍していたと知り、男はボート部で全国大会に出場の前は、何時もエールを受けて
いたので、年代は違いますが今回もエールお願いしたところ、東大の血液内科の教授を紹介するの
で、一度受診してみたらと返事を頂き、市立病院で治療して居る中、主治医に厚かましくも事情を
説明し、一度東大病院で診察を受けたいと申し出た。
幸運な事に、主治医と後輩の田中祐次医師はアメリカの大学病院で共に勉強した仲でしたので、
快く治療を中断して、東京に送り出して戴きました。
結果、東大で移植をして貰えることになって、骨髄バンクに登録し、北大を断る事になり、すぐ
に戻って治療の続きを始め、寛解状態にして、骨髄移植の日を待つことに成りました。
<写真集の出版と販売>
骨髄移植をする事なって、いよいよ大変な手術が行われるので有ろうから、その前に写真集を完
成させ、販売のルートを造って於かないと、これまでの努力が無駄になるので、ある程度めどが立
つまで移植を延ばしたいと希望していた。
10月半ばに完成し、東大の外来診察に上京した時、鉄道書籍を広く扱っている神田の書泉グラ
ンデと東京駅の栄松堂書店に、お願いに行きました。担当の方のお話では、やはり余り売れ無いで
あろうが、格好を付けるために30冊平積みの山にするので、送るようにと注文を受けました、ネ
ット販売をしている書誌アクセスで、東京には3店舗、札幌に紀伊国屋の他2店舗で販売を引き受
けて戴いた。関西以南には営業に行かれなかったのが残念でした。鉄道ファン誌やレール・マガジ
ンに新刊書として紹介されたので、広島・九州からメールで注文が来た。東京の2店はさすが専門
店で、追加注文が来て東京で120冊売れたことになった。
海外には、以前ラ・パスの写真を表紙にしたアメリカの市電研究家にメールをして、南米などの
友人を紹介して貰い、見本に写真集を送り、それがアルゼンチンの鉄道雑誌の編集者にも渡り、紹
介記事を英語とスペイン語で書いてくれ、南米以外のアメリカ・イギリス・イタリヤ・オーストラ
リアなど、合計12カ国に60冊ほど売れました。全てメールで注文が来るので英語・スペイン語
を思い出しながら連絡を取り、最後には無菌室に入って、移植を受けた後も続けていた。
しかし男が Cancer ガンで治療を受けて居ることも話したら、その後連絡が止まってしまった。
<骨髄移植を断られる>
2月7日が移植日として、ドナーさんの都合で決定した。写真集の販売も順調に進み、思い残すこ
とがなく受けることが出来るので、1月10日に入院し、移植に耐えられる体かどうか検査が続け
られた。
入院時に、主治医から今後の治療について夫婦二人で聞いた、「まず、これまでの治療の経緯か
らいろんな抗ガン剤を使用しているので、移植は難しく移植よる関連死亡が50%以上、再発率が
30%、二年生存が10%ぐらいであろう。また、これまで当病院では同じ病種で、自家移植後に
バンク移植を受けた患者7名が全て6ヶ月以内に死亡している、それでも良いですか?」凄い説明
で涙を流す場面でしょうが、男の考え方は普通の人と大きく異なり、即座に「私が6ヶ月生きてい
たら、東大としては1/8になり、12%も成功の実績が残るので,頑張りましょう」と、主治医
は笑えずに居ました。
移植日の12日前に、PET による検査で、右上腕部に再発が見つかり、移植は寛解になっている
ことが条件だったので,移植までの期間寛解状態をたもつ維持療法を続けて来たのに,最後になっ
て起こってしまった。
これでは、骨髄移植は出来ないので、帰って病変が悪さをするまで元気に生活を続け、思い出作
りをしたらどうですか!半年は元気に生活できますよ、残りあと1年でしょう。
移植を拒否されてしまい,寝られずに子供や家内に連絡し,急遽、東室蘭で集まることにして,
翌朝千歳へ飛んだ。話し合った結果、長男が「後のことは心配せず,生きられるだけ生きれば」,
全員の意見は移植できないなら,皆でその日まで頑張ろうと誓い,最後には千歳の駅で,家内にヨ
ロシクと頭を下げた。
東京に帰り,後輩の田中医師の所に行き,一時間以上経緯を話していたら,だんだん、自分自身
がこれまでの南米などの経験からして,東大病院まできて何も挑戦しないで、帰るのが悔しくなっ
てきた,田中医師からも「秋葉さんはやりたいんだね、成功するから移植を受けなさい」と後押し
され、病院に帰り家族会議の結果を報告する事になった。写真集を主治医の前に広げ、「私は南米
でいつ来るか判らない列車を待って,この写真を撮ったのです。だから多少の事では驚かないし、
辛い治療期間も待てるので、移植をやって下さい。」と言って写真集を見せた。
主治医の上位の助教授が写真を見ながら笑って、「本当にやりたいんだね,良いでしょう移植し
ましょう。」腫瘍部分には放射線を当て、無菌室に入った。
<実際の骨髄移植>
長男が北海道から飛んできて,無菌室の窓の外から移植を見守ってくれたが、ドナーさんの骨髄
の入った血液パック約1リットルが、輸血と同じように首から入れた CV カテーテルを通して、体
内に入って行くだけした。赤い抹消血の混じった元気でガン細胞のない骨髄液が正着後には、私の
DNA もドナーさんの DNA に代わり、細胞も入れ替わって体内では元の私は無くなり、新しく生まれ
変わった様になるので、感動しながら2時間見ていた。
ドナーさんは入院し、全身麻酔を掛けられ、骨盤に針を百ヶ所ほど刺され採取されたことを思う
と、善意とは言え大変な事なのです。ありがとうございます。
生着(ドナーさんの骨髄幹細胞が根付く事)まで2週間ほどで、ドナーさんの骨髄が働き始め、
白血球などが生産され、無菌室から個室に出られるようになります。その間に口内炎、便秘、下痢
などを起こしますが、生着で白血球が上がり始めると自然に治ってきます。その間待てば良いわけ
で、痛みに対してはモルヒネなどで緩和してくれるので、無菌室での治療自体はマニアルも出来て
いて充分な対応をしていただけますので、危険や怖いこと無い。
その後に起こる、ドナー細胞と今までの私の細胞が戦いを始め、その戦いを GVHD と呼び、3ヶ
月までを急性、6ヶ月まで慢性区別し、全身ドナー型になるまでの拒否反応が続き、肝臓、腎臓、
腸管剥離、皮膚の湿疹などの傷害が起こる可能性が有りますが、血液検査などで細かくチェックし
て戴けるので、重篤にならずに済む場合が多く、移植関連死は見舞客やその他売店で多くの人と接
する機会に、ウイルス菌を貰い、肺炎になって死亡するケースが多いようです。
死亡率のデーターは昨年までの5年間の数値で有って、毎年治療の技術は向上しているので、過
去の数値に心配する事なく、驚かず必要なら移植を受けるべきだと思います。
<8月6日で180日達成>
今回の移植で、皮膚の湿疹が全身に広がり、治ったと思うとまた出て現在も少し発症しますが、
塗り薬で抑えられる状態まで弱くなっています。内臓の機能傷害や、腸管の剥離もなく、湿疹だけ
で済んでいて幸運だと思っていたら、やはり予想通り、5ヶ月目で顔などの表面にリンパ腫瘍の再
発が出てしまいました。CT などで細かく検査したところ、頭から足までの体の内部には、腫瘍が無
く、内部はドナーさんの力で発症がなく、力の届きにくい表面に現れて来るのだそうです。表面の
腫瘍は放射線で治療できるので、抗ガン剤を使用せずに済み、まだ充分元気の出ていない骨髄細胞
を弱めることが無く、不幸なことですが幸いでした。
こうして、8月6日に180日6ヶ月を達成した。東大病院としても大事にして治療をして戴い
たので、実績が出来きて万々歳です。あと半年で1年1歳に誕生日を迎え、2歳になる頃には元気
になることでしょう。
完