第 35号 - 伊丹市文化財保存協会

第35号
絲海
第
35
号
伊丹市文化財保存協会
Copyright(C) 伊丹市文化財保存協会
第35号
絲海
平城京遷都
1300
今年は平城京遷都
年に際して
明日香
年を数えます。世
年、盛大な開眼供養が聞かれます
710
年、行基は
立を助けたのが、僧行基です。
平城 京 選 都
43
c
その大仏建
歳。その当
中央に仕えました
。
。
奈良時代、中央に出仕した
猪名部は、行基 集団 とともに、猪名野
猪名部もいたことが続日本紀などに記載されて
います
開発に努め、また東大寺大仏造立にも携わった
号」に記載
。
歳、摂津国河辺郡山本里
「昆陽上池
「
総海
合わせてご覧下さい。)
年後、
745
。
年、行
本市では
けると、川辺郡・
つに分かれます
*
億円
19
1
次大極殿」
1
、高さ 27m
現在の宮大工・瓦
・ 5m
年度から復元した「平城宮第
44m 、南北
180
1300
年祭に参加して、過去・
〈奈 良〉 の歴史・文化を体感
1300
:JJ-
-::1
::::::215
年に際して
会事 務局生涯学習部
壇 状部分。
(
伊丹市教育委
-平城京選都
・伊丹郷町の氏神猪名野神社
・
事 業の計画、回顧・編集後記::::::口1M
・博物館からのお知らせ夏季企幽展・::ロ
吉田初 =一
郎画『伊丹市鳥服図 」 :::日j ロ
-日本第一の烏服画史
61 日
功績のあった山本賢之助さんの歩み」:・
「
伊丹市の文化財保存に
主査)
基明・ 社
・ 寺建築などの礎石が配置される以下部の
してみてはいかがでしょうか。
現在・未来を結ぶ
是非、この
最新の免 震技術が駆使されています。
り知られていませんが、基 壇( きだん)内には
伶
職人の技術、美術・工芸の集大成。また、あま
で、総工費は約
は、東西
01
さて、今回の 事 業に合わせて、文化庁が
。
時、国家による統制のもと運営されていた 寺 院
1300
ことが考えられています
64
。
設に尽くしました。国は、行基の民間伝道を僧
年、行基
「毘陽施院 」は施 工され、他に、
731
尼令違反として禁圧しました
に
34
2
やがて国は、行基の行動を認め、大仏造営に
3
20
とは違い、庶民を救うために仏教を広め、同時
年を覚えたものです。
講を造り、田畑を開墾し、救済のための施設建
界遺産であり、また国指定特別史跡である「平
「なんときれいな
。
に土木技術を駆使し、畿内各地において、池・
年 祭が始まりました
城宮跡」(現・・奈良市)を中心にして平城遷都
1300
794
年と、また、「なくようぐいす平安京」と
平城京」というフレーズで、平城京遷都は西暦
710
平安京遷都
しかし、桓武天 皇 の平安京遷都と違い 、平城
第
・下池」や溝 (
岡山本里)、「見陽布施屋」(同
年祭の会場には、きっとその
京の遷都時の「天 皇 は誰?」と、選都の立役者
1300
昆陽里)が築かれました。(詳細は前号
。
である天皇自身がもうひとつメジャーではあり
ません
間いに対する答えがあるでしょうが、行かない
対し「勧進役」に、その
「大僧正」に任じます。
とわからないでは困りますので、お答えします。
歳の時、
武庫郡・豊島郡の
でした。さらにそれを郡に分
奈良時代、現在の伊丹市全域は摂津田の一部
78
基
年
都は、藤原京(現・橿原市)から移りました。
時の天皇は、元明天皇です。奈良の都というと
784
寺本・山田・野間のあたりは武庫郡に、下河原
「川の辺」にあ
。
・中村・東桑津・西 桑津のあたりは豊島郡に、
あとは川辺郡に属していました
川辺郡は、その名のとおり、
次
i
目
聖武天皇のイメージが強いのですが×。
平城京に遷都してから長岡京に移る
です。彼は遷都を
その首謀者こそ、聖武
・紫香楽と、都
までを奈良時代と呼んでいますが、その時代は、
。
平城京だけでなく、難波・恭仁
は何度も遷されました
天皇( 在位 724'749)
たる猪名川流域に広がるエリア(現・猪名川町、
民
一 ったのが平城
って、
繰り替えし、最後に落ち着き、
朝廷の頃から、秀でた建築・土木技術をも
川西・伊丹・尼崎市 )に位 置 します 。そして、
752
京でした。諸国に建てた国分寺の、総国分寺と
年後にあたる
現在の伊丹・尼崎にまたがる猪名野の地に拠点
200
なる「東大寺」に大仏(悶宝「銅造慮舎那仏坐
年の
を置いていたと考えられる「猪名部」は、大和
552
像」)を造ります。日本に仏教が公的に伝来し
たとされる
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中
畔
第35号
絲海
猪名野神社
山本
喜輿士
宮 、牛
護もあ
っ て、
郷町 全 体 の氏神としてあがめ
ら れた
。
ご 六八八
1
ら
一七 O 一
二
れ、
に
明治 二 年 二 八 六 九 )の神仏分離で野 宮 牛頭 天 王
を猪名野神社と改め
天 王 町は、元禄年間
*
昭和 二 十八 年 頃 の 小字 で は
、
こ
の地域
の地名 で あ ったといわれ
で は、門前町の意味で、宮ノ前通
成立した町で、門前西側にあり、宮西といわれ、
昭和初年頃ま
。
りの 一部を含めて宮西
ている
ご六六 九
1
)
一七 一一
六一
は桜崎と称され ていた( 『
綜海』第 お号参 照 )。
*近衛 家 県公
。
『牛頭天 王』 額は 、貞 卓二 年 (一六八五 )本殿
再建を祝して貞 半 三 年六月に 奉 納された
『摂津名所図会j 巷之六 (見開き 2 頁を 1 頁に合成)
伊丹郷町の氏神
猪 名 野 神 社 の 歴史
ノ
で、伊丹郷
宮 、天 王
猪名野神社は伊丹郷町全体の氏神
町の北端にあり、古くは野ノ
野ノ 宮 と称
ここ
猪名野神社の社殿と境内神社
き
現 在 の本殿は、 素 木造り の向唐破風付春日造
りで、 屋 根は槍皮茸、本殿の前面に接して幣殿
と正面に唐破風を付けた千鳥破風付き本瓦 葺
の拝殿を備えた雄大で美しい建築である。
・
ったとされ、
、桁行八尺五す (約 二
ル)
玉垣 があ
一丈 (約 一
- 2Copyright(C) 伊丹市文化財保存協会
。
。
ご 六 O 二、豊臣秀頼公
以後「神社史 」)を要約する
「猪名野神社史」(
と、本殿は、慶長六年
ート
の命により再興され、 屋 根は板葺きで、梁行九
メ
、本殿の四方に
メ ートル )
約二・九
尺五す (
六
貞 享二 年 ご 六八五 )再建の本殿は、
猪名野神社本殿
頭天王、祇聞社などと称していた
の 却の λ 一主 』
するのは、猪名野ノ宮の意味で、祭神は猪名野
に ますすき
坐大神と称し、素輩鳴尊が杷られている
(
九 O四)猪名
ったものと伝えられ
・
に神社が杷られたのは、延喜四年
。
(
2
J
い
旬
日
4ee
人 向川社哩
砂
ヘ
アt ψ
土
'tの {手'
宮 よ 丹1
・
皇T
'
寺 (
尼崎市 )から現在地に移
ている
った天正十一年
『
牛頭
。
f'
f
J
i
呂田盛田戸
有岡 (
伊丹 )城が廃城とな
八三)以後、伊丹に残る最も古い絵図、文禄年間
(一五九 二|九六 )の様子を後年描き写されたと
O こ に発行された
。
ご 六六九 )の絵図には
いわれている絵図には既に牛頭天王として記さ
れており、また寛文九年
ご 七八九一八
真言宗野宮寺と描かれている
寛政年間
『
摂津名所図会 』 巻之六 (下図 参 照 )には、見聞
王町
きで「伊丹野宮牛頭天 皇 」として神社の絵図が
鳥居の額
後世猪名野の中
。
例祭八月二十 三
俗称して野宮といふ
。
掲載されており、その解説には、「伊丹天
、
にあり、古豊桜崎宮と称す
なれば
。
日
傍
天王 』 は近衛家照公の筆
った近衛家の保
一
応年
伊丹郷町の領主とな
近隣十四村の産土神とす」とあり、寛文
(一六六二
丘
第35号
絲海
メートル)四方、屋根は板葺で、周囲に 玉垣がめ
ぐらされていたと記 さ れ て い る 。
正徳四年(一七一四)本殿屋根を槍皮茸に茸替
現在の拝殿は、入母屋造、千 鳥 破風、唐破風
きあ
らひ的
祭神
q
H
な
L H
由〈
、
寸
U
天 秘日命
-AAaAZ
i
っ
ひめひ
母二
せ わ
おりウひ
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みずは咋 昨
祭神間象女
H
やらまたひめくな
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ひ
H
これい
ゃあ
き
‘ ゃあ
t ・、
つ
Uめ
かつ 元九日や
:勺
ひこね
祭 神正哉吾勝々速日
H
祭神伊邪那岐
瀬織津 姫神、速秋津 姫 神、気
、
しなっ
U
ニ
天津 日子根命、活津日子根
内かケづ民
ちよりひめ
め
・民
佐依毘 百 命、
や U
具 上神)・
ひ
街 比 古神 、八 街 比 賀 神、久那 ・
戸
ueqまで
(
貴 船神社
(祭神天間…大神)・相殿社
h -
祭神八
H
命・ 悲 神社
はや
-Z
・五 メートル)、
間九す(約五
=一
MP勺え
付、瓦茸、梁行
suz
神・械 戸 神社
あ崎町主
L
志 那津比 百神)・愛宕神社 (祭神火之迦
命、熊野久 須毘 ム叩・立回神社 H祭神志那津比古神、
'
天 忽穂耳 命
命、伊邪那岐命・五柱神社
吹戸神、 速 佐須良姫神・熊野神社
Fh
'
ニニ方縁側行欄
。
桁行五間四分(約九・一メートル
付、向拝付で、幣殿に接続している
「神社史」によると、慶 長 六年、梁行 三 問、
桁行五問、瓦茸破風造で建築され、正徳四年
ご七一四)に再建された。
貞享 二年の文 書 では、梁行 三 問、 桁行五問。
BUh '
zdzmA
佐田彦神社
祭神
(祭神大山祇命、佐田彦命、宮比
(一六九 一) の文 書 では、梁行 三 間、
三社
H
担むや
天 児屋根命、大山
ぐ
い
吋 V 山れ
昨命、三筒 男之命)の神
I
A
叩)・天満神社(祭神 菅 原道立で新 宮神社(俗称
骨
市杵 島 姫 尊、多紀理 児 賀 命、金山 彦 命、 多紀津見 背
命)・厳島神社(俗称 弁天 社
あれば、
正徳年中の文 書で は「有来候拝殿、
。
。と
二 年(一八七九 )
社が集ういうなれば神様の団地といわれている
11
(左図参照 ) 3
ソV
配凹
岡州国
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元禄五年
桁行六問
、
なお向拝は明治十
貞享 代と同大なるべ
梁行三問、桁行六問、破風造、瓦茸
。
桁行間数相違有れど 慶長
し」とある
。
の新築で、唐破風もこの時に付けたとされてい
る
本殿の南南西にある 絵馬 堂は、 入母屋造、瓦
茸で、慶長六年建築の旧拝殿を正徳四年に現在
。
L~盟国神社
の場所に移し建てたものといわれている
この絵馬堂は、平成となったから腐食が激し
。
く大修復を行い現在に至っている。しかし当神
社最古の建物である
一呂 田回
境内見取図 cr総代必燐より J)
白⑨閉
9 佐田彦神社
10 厳島神社
文化十 一年 (一八一回 )八 月、本殿と幣殿と
1 3 字 ()t
目巴
日鬼貫句碑
の聞の東西に唐門が新築され、大祭時には開門
12 新宮神社
回
7 愛宕伸社
られたとの記載があり、寛政元年(一七八九)か
。
11 天満州社
~
6 相殿社
「
有
災 災で倒
L
5 神明神社
回
仁主コ
3 大地主神 ti
4 神興援
替事 業が行われ、
され通り抜けが出来たが、阪神淡路大
壊し、以後再建されないまま現在に至っている
神域(境内)約一万五0 0 0 平方メートルの中
ぬ
護国 神社・
おとこ
霊 神)・大地 主 神社(俗
み た ZM
事代主神)・神明神社
2 稲荷神社
ら五年にかけての屋根茸
岡庄年代秘記」によると、本殿を北に 二 間半 (約
四・五メートル)移 動 し 、 寛 政 五 年 九 月 十 八 日 に
遷宮したと記載され て い る 。
の
大 由主 神
うが
に、素養鳴尊を記る本宮のほかに、
骨
祭
神
稲荷神社(祭神字迦能御
社
幣殿は、 貞享二 年本殿ならびに拝殿との聞に
。
戎
新築され、梁行二間 半 、 桁 行 一
二間(約五・五メー
トル)の瓦 茸 である
称
猪名野神社の拝殿と注連柱
第35号
絲海
*稲街神社は、平成
一四年 二月 二 日未明、 放火に
より焼失し、平成一二年再建された。
八
“
一七
さ
) 八月
*新宵神社は、松尾大社、 春 日大社、住育大社の
三社を杷っており、文政十年(
建立
術家上 以の際、邸内社を
の 崇 敬が叩く、明治初
近衛忠県公の厳命により旧郡役所の地に
年東京選都に伴い、近
れたと伝えられ、酒 造家
当神社に移されてと伝えられている。
ドドレ 品
Qフ
大正三年十一月二十五日
内 冊 t 品咋村
ト合杷岨也同神 tF魚
F体
地va
宵可宇 古岨昼間M
骨払え渇 神仏岨内天神品
境
神祉『ヲ
E­
仙骨神日仏 軍
­
‘仏唆内舗時
字 合成・岡修払
HW
伊礼町吋
時# 弘境内
同 弘同
時弘--
え正 明牟 -H+Aa
崎神 社向上
臼
同上
壮
吋 一一
ι 丹神 仏ニ
可 牢 長 6f 島 崎柑抗
伊 比打
体持池内仏境内
同峰
吉弘境内 八惜神仏信
大正四年一月ニ十三回
伊丹町宇品畑村社八峰神品作
工
F
l
司
泡付社八岨神社宿高丹神社ニ
b?
大正四年一月
伊丹吋 $t
境 内大且宜神社-一合且竜宮 神社ト技#
ヲ
北河 厚村字 北 訓 練 ω
四社 へ 惜 仲 仕指名坪##ニ
“神社
MV丹町菜園 am
吐曹神社
伊丹町舟町村社へ 幡 神社猪名丹神社ニ
伊丹町 字 宮ノ 需 品格枇へ惜神社同上
向六年五月ザ自分離合記
J
山本式市
丹安吉
A 句麗兵惜
車キ情介
武由 へ 阜聞門
屯伶冊-郎
山骨古
典初亀太郎
丸惇四布左 衛 門
大草伊太郎
温
山中卯三郎
五回旬咽止郎
鼻本情三郎
前回昌治郎
る
猪名野神社の境内
神社の境内には、伊丹の酒造家や
商 人の寄進
による 豪 華な石灯能が並んでいる。その数は九
十七基におよび、地方の神社として、これだけ
。
まとまってあるところは珍しく、当時伊丹が裕
福な町だったことを物語っている
一番古い年号は、寛永二十年
の建立で、一番新しいものは明治
調べによると、
(一六四
二 八
二十年(一八八七)である。又境内神社南端に
ある新宮神社の灯龍には、文政十一年
よ 地域
伊丹郷町と近衛家とのつなが
二八)当時領主だった近衛家の奉行四人の名が
刻まれており、
りを示す 遺 品として貴重なものである
いたみ 』)。
境内には老樹や巨木が多く、いわば鎮守の森
三 ・五メートル、
を形成している。中でもムクロジは市指定天然
記念物となっており、樹高約十
ムクロジは
巨木
枝張り東西約十四メートル、南北約十二メート
。
ル、根張り九十五センチメートルで、特に
であるので文化財的価値が大きい
落葉高木で、一般に台湾、朝鮮及びインド・ピ
へ
・・・」によるもの
ど山林に生える
。
その実は一心皮が発達して球
国においては、本州中部・南部・四国・九州な
事記 」 より「是に天つ神諸の命以ちて伊邪那岐
ぎ宇みとどよ
かた
。
』 と詔りて、天の沼矛を
ルマ(現ミャンマー)などに広く分布し、わが
〈におきつく
国 を修め理り固め成せ
賜ひて、 言 依さし賜ひき
形となり、成熟すると黄色または貫褐色となり、
この種
で、昭和天皇教育係の杉浦重剛の謹 書 により、
品 伊丹の文化財 』)。
子は正月の羽根っきの珠に、皮は石鹸の代用と
。
ほほ楕円形の硬くて黒い一種子を含む
。
大阪市の村田徳松・井上次作の寄進によって大
正九年五月建立されたものである
して使用されてきた
4
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「神社史」及び拝殿西側回廊に掲げられてい
「
合杷記念額』 左写 真 及び下図参照
町永公 判同宣宜 祉境内費宮神
L7
大正四年へ月二十三日、二十四日
品崎ロ町外八
大正四手九月二十三日
田町村ノ内命清水村令社規佐男神社術品野神社ニ
問弁え
門
杷白川
以よ具ノ晶ノ許可ヲ提チ畠 AV
t
埠本昌男
同旬止喧
ゐよえ兵血間
武内佐止郎
武内判右閉
大川陸太郎
折車清キ
究
o
命、伊邪那美命の二柱の神に 「
是の多陀用幣流
『古
研
大・4
村宇一-守宅地村社傘宜大神品仏大正百年一一月+五回境内神咽-神
て祉
章司
と大正 三 年(一九一四)から四年にかけて伊丹
合杷記念額
A、
記
,、ュa、
「修理」「固成」と刻まれている。これは、
村岡え之附
世
1正
イt
払#
代地子氏
郷町の村々の神社が合記されている。
拝殿前の注連柱 (石柱・前 貰 写真参 照)には、
園田冒頭...
言乙
A、
る
第35号
絲海
本 殿 西側に高さ約一・
陰 影 には、 嘉 永
鳥 は未口もほど
一一
一
六メートルの壮大な
白然石の鬼貫の句碑があり「
c
八 五四)甲 寅 初秋に伊丹の俳人、山口
けず初桜」と彫られている
七 年で
( 七 O 七)鬼貫
太乙・岡田糠人・梶曲阜によって建立されたこ
とが記されている。宝永四年
四十七歳の時の作で、碑石一面にこの区が雄揮
O
現在碑面の風化が激しく、危険が伴うので近
る事 が出来ない。
八メートルの断 崖 が残
ことで、 ここに堀があったことが確認されてい
骨
この堀跡は、後に 農業 用の水路の加茂井とし
て利用された。
*加茂井は、猪名川から取水し、川西市加茂地区
から伊丹郷町の村々を潤すための農業用の水路
である。
伊丹郷町の村々では、加茂井の水だけでは農業
用水に不足することがあり、それを補うために
鋳物師、今の緑ケ丘公園に二つの池、すなわち
昔奥谷上池・下池あるいは伊丹池といっていた
1
九五
のころに
池を築造して樫庇用水として加茂井に流された。
」の池は文禄年中(一一点九二
築造されたといわれている( 『伊丹市史 」 第 二巻)。
参 考文献
「
伊丹の文化財 』
『
摂 津 名所凶会
『
猪名野神社 」
二 九九 五 )
伊丹市教育 委 員 会
平成七年
秋里離島著
寛政八年二七九六
s
・年二九九
一、
/一→ノ」ノ
Jj
IM
伊丹市 立 博 物 館
O)
御大典 記 念御屋根 替事 業 完成記念
伊丹市
昭和四四年
ヘ -1u
昭和六十三年(一九八八
いたみ 』 第一七号
平成
猪名野神社御 尾 根 持事 業奉賛会実行委員会
『
地域研究
『
伊 丹市史 』 第 二巻
参考資料
「県社 猪名野神社史」
猪名野神社
現在この加茂井の一部は埋め立て、あるいは暗
(伊丹市文化財保存協会理事
平成十九年( 二 O O 七)六月
付制海
『
』 第日記号 伊丹市文化財保存協会
町場の成立過程と町名の移り変わり」
昭和五 三 年 二九七八
「総代必携」 猪名野神社総代会
『
締海 』 第辺号参照)。
「伊丹郷町における
渠とし、伊丹緑道として利用されている。
「神社史」によると「往昔野宮は 天 王 町の西端
を正面とせしものにして、宮崎町は其の馬場先
なりき。宮崎町の名は之より起り、清水橋の用
同時に清水橋も取
材の石は此の所に有りし鳥居の断片なりきと。
其の後加茂井を暗渠とし、
H
り除かれしを以て今は無し」と記されている
宮崎町
これらは有岡域惣構えの一部で、北の守りの
「きしの砦」 又は「野宮砦 」 といわれ、神域全
体と共に国史跡に指定されている。特に土塁や
国 的にも珍しいといわれて
堀跡等は有岡城惣構えの外郭の一部として椋で
指定され、これは全
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る
いる。
- 5-
月
月
月
月
月
四
八,
五
に刻まれている( 『伊丹の文化財 』)
寄
1
塁の
尚 い丘が連
宕 社が一段と高くなっており、
神域の 束 の縁では七
っている。奥の愛
神域の西側には北から南にかけて小
国 時代の有岡城の土
の堀の特徴である防御用の乱杭が多数出土した
トル、深さ約五メートル、底の部分からは当時
掘跡である。堀跡は発掘調査により幅約八メー
一部で、更に北側の伊丹緑道に入る低い場所は
なっている。これは戦
風化が進む前の鬼貫句碑
第35号
絲海
"歴史上の人物と伊丹“について
山本 賢 之助さんの略
み」 昭和四十八年一月一日「紙海
昭和 一二
十六年四月、伊丹市立図
事事
務局 長。
伊丹市文化財審議会委
伊丹地方史学会長
」 第 一号から
。
寺 保存会を発展的
兵庫県文化財愛 護 推進協 議 会委員
員長
昭和 三十八年十一月、伊丹廃 寺 保存会専務理
書 館長就任
昭和 で十 五年、郷里の島根県を出て伊丹市に
歴 は次のとおりである
「伊丹市の文化財保存に
宏之
緒
功績のあった山本賢、之助さんの来歩
み」
る。
はじめに
@いずれ も 徳 川 時 代 に 活 躍 し た 人 で
昭和四十年十一月、伊丹廃
日
、文化庁から文化財
に改組し、伊丹市文化財保存協会を設立。
昭和四十五年十一月五
章)
。
七十五歳。
三 日、秋の叙勲を 受 け
の保護活動の功績で表 彰 を受ける。
日
昭和四十七年十一月
等 単光旭
昭和四十年十
一 月 十八日、伊丹廃寺保存協
館に残
っ ている。
代表的なものとして昭和
九年に焼 失 前 の 近術 家 会 所があげられる
。
二十
三 十九年に伊丹空港の拡張計画
。
@
って解村を余儀なくされた中村や旧集落の
その他に昭和
に伴
移転前の 岩 屋 の写 真 があげられる
また市内の古い神社仏閣に標柱を立て、市民
に文化財愛護を呼び掛ける一方、寺本公団、御
願塚、南野地区の文化財愛 護 少年団の結成に力
。
く
。
の若作を残しておられ、
。
その活動の子は今日も若い
を注ぎ、 若 い世代に文化財の価値を教え、大切
に守る心を 育 てた
之助さんは多
世代に引き継がれている
山 本賢
主 なものは次のとおりである
(伊丹市立情物館蔵)
私はこれまで"歴史上の人物と伊丹“につい
。
@
る 。(勲六
昭和四十八年四月 三 日死去
山本賢之助さんの業績
昭和 三 十八年十一月 三 臼に伊丹廃 寺 保存協会
。
が設立され、山本 賢 之 助さんは事務局長になっ
た
会が発展的に改組し、伊丹市文化財保存協会と
爾来昭和四十
。
を
なり、引続き事務 局 長 となった
の職 責
可長
。
八年四月 三 日に亡くなるまで 事務
全うされた
その間市内の伊丹廃 寺 をはじめとする文化
財を直接求めて歩き、史料つくりをし、その指
定・保存に努められた。その史料の多くは博物
- 6Copyright(C) 伊丹市文化財保存協会
ての本欄で伊能忠敬、伴林光平、緒方洪庵をと
りあげた
ある。今回は昭和二 十 五 年 に 郷 里 の 島 根 県 か ら
伊丹市に来られ、亡くなられた昭和四十八年四
月 三 日まで伊丹市文 化 財 保 存 協 会 の 事 務 局 長 の
。
重 賀 を担ってこられた山本賢之助さんをとりあ
げたい
参考文献等
伴林光平の伊丹におけ
十 三号 、平成 ニ 十年六月
「天諒組
@「伊能忠敬と伊丹」「綜海 」 第三十二号、平成
十九年六月
る足跡」同 第
方洪庵に関係する人の伊丹における活躍」同三
十四号、平成 二 十 一年六月
@山本賢之助さ ん に つ い て は 平 成 十 七 年 十 一 月 荒
一一寸
木村 重 研究 会 「摂津の地誌 ・郷土誌に見る戦国
武将荒木村重 」 の中で山本賢之助さんの業績等
をまとめた。
山本賢之助 さ ん の 略 歴
日 の「広報いた
昭和田十五年十一 月 一 日 、 昭 和 四 十 七 年 十 月
十五日、昭和四十八 年 四 月 十 五
焼失前の会所正門
益
尾
第35号
絲海
その概要は
(一五二 八) 八・十六伊丹城落城によ
書 館蔵
二十五年八
一
①「伊丹の災害誌」山本肩之介編(山本賢之
助 ) 毛筆で自著、発行年不詳(昭和
0
月以降 ) 昭和五十年九月十日伊丹市立図
5
。
亨禄一
り火災
天文一八(一五四九)越水城より 三好長慶伊
で発表したものと思われる。その理由は「目次一
章 」の説明があ
の 下 に「研究発表」と 書 かれており、表紙の次
に 昭 和十五年に制定された「市
り、「伊丹市歌」が載せられているからである
。
冨 田酔花氏は俳人伊丹
和 二 十年十二月から昭和
った
。
三 樹彦 さんが終戦後昭
古本 屋「伊丹
二十五年九月まで伊丹
@
市の 宮 前通りの一角に開いていた
文 庫」 の常連であ
。
,
守
川
乃 川H
第二
主な内 容 は第一章総説で伊丹の地名の語源、
伊丹の酒、伊丹の系譜、有岡八 景 を概説
「伊丹市歌」は昭和二十五年九月 二 十五日と
十一月十日の「伊丹市公報」によると同年八月
。
その中で特に荒木村重に関心
寧 で史跡を説明
。
に市制施行十周年を記念して七十四人の市民か
-可
,
・ 2u
v
口N
心4au
7-
を持っておられることが分かる
Bとが巳
4H川
』
。
った酒の街として大に遠近に伊丹の名が知ら
Copyright(C) 伊丹市文化財保存協会
らの応募から和仁敏之氏の作詞されたものが当
9
ia
q
沿
して近衛家の領有時代となってから西国街道に
「伊丹が往古豪 族割擦の年 筆 時代から抜け出
ある
にも基本的に通じる力強さを感じさせるもので
和 二十八年に 書 かれたものとしては今日の伊丹
「むすび」の中で次の 文 章 は市制十周年の昭
---‘『
。
(こ
f
,
件T
「緑に 薫 る学
恒
丹城を攻め城下に火を放っ
岨帽
mの面
4
V4
九 肱川
が げき
・ d1
和仁敏之氏は当時兵
れた「創立百周年記念誌」の中で
び舎」と題して述べておられる
。
生の時応募したことを平成十四年十月に発行さ
@
日の記念式に関西交 響 楽団の大津毒氏が作曲し
この本は昭
。
が、生前に刊行されていない。昭和二十八年と
。
庫 県立伊丹高 等学 校二年
て発表されている
「伊丹史年代表」で一番後に昭和二十六年「伊
2
」とあるからである
丹市図 書 館 開 設 さ る 」 が か か れ て あ り 、 「 逆 算
年前」で「
和二十六年の市制十周年記念を意識してどこか
品
。
(一
R
年
五
十
大 河 :予 人 作 ÄIi
選し、詩人富田酔花氏が補訂したものが十月十
帥
利 (~鰍 之 作周
天正 二( 一五七四 ) 伊丹落城下火災
昭和 三 十五年
(一五七九 )織田信長、有岡城攻 朕 焼
1
名
がれ盤 5 t尚一猪川
均
v
h
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川町捕
障間
の吋
側 五一作藤
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〈一)
‘』鹿市
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1
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笠宮み し 々 の かみ
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1
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出町な
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一
上.
凡制
帝 γ 都L
Fch
す苛 IME牧民 の幽明
­
会=ル
‘Fa'
天正七
土戦術により伊丹全土焼討
震 、火災、うち
九六 O) 八月二十九日台風十六号猛威岩屋口
酒井浸水までの伊丹の被った地
。
伊丹ラ
こわし、強奪等の災害を年表形式でまとめたも
のである
②「伊丹の歴史」昭和四十 三 年九月
イオンズクラブ刊
昭和四十三年一月から六回にわたって伊丹ラ
イオンズクラブの会報に「伊丹の歴史」と題し
。
て古代・中世・近代に分けて発表したものをも
とにまとめたもの
③「伊丹市の研究」
5;
いうことがわかるのは末尾に添付されている
昭和 二十八年に山本肩之助名で 替 かれていた
灯
1
;I
Iþ,~ E~ II
主弘・
丹
朝
:J.王
m
すサ
f宇
昭和=+玄年十戸月一日
L
第35号
絲海
工業地帯、大住宅大観光地帯として伊丹空港と
想を継承してその遺跡見陽池を中心に伊丹は大
往古行基が猪名川の大笹原を開拓し勇気と大構
強く著しく街の発展を阻害してきたことによる。
之は長い伝統によって天領としてこの保守性が
見えてる街」といったような存在になって来た。
発展に挟まれた衛星都市として「静かな夢でも
に入ってからは大阪、神戸の二大都市の急激な
れるようになったが、明治、大正、昭和の時代
八、有岡の一万騎
七、有岡の硝煙
六、村 重謀 叛
五、信長
四、摂津平定
三 、戦国
も
一一、
1
・
…
自笠
一、栄根域内
次の見出しは次のとおり。
までの一生を克明にまとめあげられている。目
された。昭和 三 十九年十一月郷土史シリーズに
報昭和 三 十九年十 二
ロす)
る。(昭和五十 二年五月「池田郷土研究」第四
「伊丹城主荒木村重について」を発表してい
市の中央公民館で伊丹地方史研究会長として
とも交流があり、昭和四十一年七月十日に池田
⑦「伊丹城主荒木村重
1
日本最古の天
四十一二年三月)で発表
1((三十七) 伊丹市広
山本賢之助さんは池田郷土史学会(林田良平)
⑧新伊丹紀行(二
月
をあげてみると次の通りである。
①伊丹難攻不落の名城に
守閣(九)昭和田十年十一月一日
∞有岡八景|ほとんどが消失残る名句に
.十二昭和四十一年十一
昔をしのぶ( .
(有岡八景の一つである「城山の秋月」
にちなむ句
婦女子数百人
|
薬師
- 8-
のには含まれていない。
表玄関に阪神間枢要の地の利を活用して大伊丹
九、秋月有岡
引続いて郷土史の実務家の立場から伊丹の歴史
書 館に寄贈さ
「謎の武将荒木村重 と伊丹城」の著者・香村
1
曲阜木枯の残す姿やあらき山)
②女郎塚の碑有岡城の碑
l
有明けが丘の略称
の大虐殺( 二十三) 昭和四十二年一月一
④ 有 岡のいわれ
如来の伝説に因んで(二十八)昭和四十
一年六月一日
Copyright(C) 伊丹市文化財保存協会
」
と構成することも夢ではない。」
十、戦塵の跡
の中での秘話を中心にまとめた随筆である。荒
「伊丹市の研究」末尾に付録としてある。
④「伊丹史年代表」
十一、散華
木村重に関連するものが七四分あり、その項目
二
この作品は前載の「伊丹市の研究」と共に昭
付記されている。
この作品は末尾に「昭和一一十年十三月稿」と
十二、英雄の末路
河迎臣川辺の地に派せ
三年逆算年前(基準昭和
大和十九代充恭天 皇
られる。西暦四一
十八年)一五 三 五年から昭和 二十六年伊丹市
立 図 書 館創設されるまで
しの製本されたものが伊丹市立図
和田十九年九月六日、篤志家から直筆原稿と写
来てから昭和二十六年までに「伊丹市の研究」
れている。
されていたことが分かる。
菊雄さん(昭和五十八年 三 月、神 戸 新聞出版セ
館に篤志家から寄贈されているも
E
u
昭和三十五年に郷里の島根県を出て伊丹市に
伊丹史をまとめられたのは「伊丹史年代表」の
⑤「実説秋月有岡城」
ンター発行)がその作成過程で山本賢之助さん
⑥「伊丹氏の没落と荒木村重」
山本賢之助さんが郷土史家として荒木村重に
が荒木村重のことに詳しいことを知り、伊丹市
基礎となる日本の古代からの歴史について熟知
関心を持っておられた。ペンネーム「山本西破」
文化財保存協会(伊丹市教育 委員 会 事 務局内)
伊丹市立図
「実説秋月有岡」と共に見せてもらっているが
にその当時の事務局長松本一郎さんから前載の
「山本芝根」で「実説秋月有岡城」を 手 書 きで
原稿用紙百十頁余の大作を著しておられる。
天文十年摂津川辺郡の郡栄根域内での一世の
風雲児荒木村重の誕生から有岡城をめぐる謀叛
月
日
第35号
絲海
l
重説 得 の 黒
田孝 高 が 虜
(その 二) 秀 古 、有岡城
(二十九 ) 昭和四十 二年 七月 一 日
有 岡落城秘史
に
有岡 落城秘史 村
pu
F
E
手 の将.
に村 重 を諭 す (三十)昭和 凶 十 二年八月
有 岡戦 記 |激烈なる攻防戦寄
74
-
(一二
十 一一昭和四十二年九
った荒木村
(
昭和四十八
0
重 は、 主君信 長を
参考文献等
1
一
卜
、
き品
き伊丹のく
-
|
文庫開
(
創刊
ら し 1明治大
弘報縮 印刷版
平成五年四月十七日
伊丹 三樹彦 」 二九
号 )五、 ムハ頁
昭和五十年十月
五周年記 念
』 一一
十 一一 二 十 三頁 平 成 元年 一パ
一川
@ 伊 汁市博 物 館 『附
正
@ 「| 市制
神 芦 新聞
自 叙伝
口7
一1 第 一
一四
一六
!
@「わが心の
店
昭和五十五年 六
月
その際に昭和
この伊丹公論については門
昭和五十年九月
(
」でその概要
)
「伊丹時代のこと」伊 丹 ニ樹彦 「文 芸 伊丹」複刊
、
ニ頁
一一 一
二十五年故郷
郷土史家山本賢之助さんと小林丹城
郷土史家山本賢之助さんは昭和
。
の島 根 県から伊丹市に来てから伊丹の古代から
の歴史を丹念に調べておられる
十一年 一月二十日伊丹町で編輯発行兼印刷人・
小林丹丈さんが創刊した「郷土研究伊丹公論」
(
終刊・昭和十五年十一月十日)を読んで研究
されていたと思われる。
。
小林丹丈さんはペンネームであり、本名は小
林杖吉さんである
脇良光さんが伊丹史学第二号
l
郷土研究伊丹公論 』 と補筆私立伊丹
で「雑誌 「
図 書 館|昭和初期伊丹の出版物
と小林杖吉さんの略歴を紹介している。
それによると明治四年十二月七日、鳥取市で
生まれ明治 三 十五年に早稲田大学を卒業して後
ら 伊丹
。
『ニ余
設
英 ・数・
市 宮の 前通りに
の著述編 集 にたずさ わっ た
著述業の かた わ
学寮 』 なる私 塾を開 き、町内の師弟に
一 ・ 簿記 など を 教 え、明治
凹 卜六年六月に
地世
立した私 立 伊丹 図占 館(館長 小林枕 古)の蔵 苫
。
として図 書 の 閲覧 ・貸し出しを無料 奉 仕でおこ
な った
度 の「伊
大正 三 年には巡回文 庫 を開始、蔵 書 は和漢 書
洋 書 など四万冊にのぼり、昭和十一年
主 要図 書 館にな
っ ていた
。
丹町 勢 要 覧」によれば 県 下公私立図 書 館 中の第
二位に名を連ねる
、
9
万見千代討死
⑨「郷 土 の城の も の が た り 」 阪 神 編 ・ 伊 丹
一
二 日 に亡
山本賢之助さんの絶 筆 となったものである。
山本賢之助さんが 昭 和 四 十 八 年 四 月
厚 生会発行)
書 いたものである。
くなられる以前に郷土の城物語阪神編 集 委員会
の一人として
年十一月兵庫県
伊丹城(有岡城 ) そ の 概 要 は 次 の と お り
.有明けが問
に仕える
中山観 音 の申し子荒木村 重
荒木村 重信長
とな
黒 田 官 兵衛有岡城 に 捕 え ら れ る
「有岡城主
ったので明智光秀などからねたまれ、本人
助けて仕えていましたが、あまり出世がはや
か
っ て、や
信長 に反旗をひる
ご 五七八)部下一万騎とと
の知らない聞に謀叛人にされてしま
むなく天正六年
もに有岡城にたてこもり、
。
に大阪医学校(現大阪大
和十八年に 図占 館を閉じ、 蔵品
AH凶万冊を伊丹市
の 郷 土 史研究に 導
しかし、この年から休館するようになり、昭
・秀吉と村重最 後の出 会 い
り英・数・地歴の教科を担当する。しばらくし
に寄贈し、その後は伊丹地域
学 医学部 ) で教授とな
・今は昔 の名残りを語る鴨塚砦
て同校を退職して出版社で字典類や教科 書 など
Copyright(C) 伊丹市文化財保存協会
日
.有岡城の惨劇
」
号
日
がえすことになりました
私立伊丹図書館 ・ 三余学寮
)
(伊丹市立博物館「伊丹の商いとくらし J
括主
四
月
第35号
絲海
。
@
念したが、昭和 三 十二年( 一九五七)
八十五歳でなくなった
月四日、
一
小林丹丈さんは大 阪 か ら 伊 丹 に 移 住 し て き た
時期は不 明 だが 明 治 四 十五年六月に図書館を開
設しているので、その数年前と 見 られている。 @
小 林杖吉の名前が載っ
川 玉 成堂から発
二 年 三 月に原著者大槻磐渓
小 林 丹丈さんは本名
ている明治三十
講述者富本長洲で大阪市の中
三
、
。
巻之凹の巻頭に
書 店で見つけた。
売されている和 漢 書 「
龍頭詳解近古史談講
義地」を偶然吹田市内の古
その 和 漢 書 には同書巻之
「稲葉 小 林杖吉校」と記載されている
「
伊丹公論」では伊丹氏の歴史を
「伊丹往古
年去」 (
其の 一11ハの八) としてまとめ、その
山 本賢之助
中で荒木村重についての歴史を北摂全体の中で
研究しておられた。
と
。
研 究・詩
。
山本
的 な係わりは分からないが、共通
小林丹 丈さ ん(本名小林杖吉 )
さんとの具体
点があり、その接点は次のことがあげられる
山 本賢之助さんは伊丹の郷土史の
その郷里は共通して山陰地方にあり近い
賢之 助 さんの出身は島根県とされており、
小小
一 林丹丈さんの出身は鳥取市であり、
Z
雅号を 山 本肩之助と 言 い、
おわりに
私が直接山本賢之助さんを点接見ているのは
伊丹市役所に採用された昭和四 十 二年四月に新
。
その当時 山 本賢之助さ
之
四十年以上経った今、伊
。
人研修で伊丹の歴史全般について説明を受けた
時の 一回だけであった
んは七十歳近かった
。
丹の歴史に関心を持つ中で郷土史家の山本賢
助さんについて改めて学ぶ機会を持てた
@
。
郷土史家山本 賢之 助さんに特に関 心 を持たれ
研 究された人で
た人に 香 村菊雄さんと瓦回昇さんがおられる
二人とも荒木村重について深く
。
歌に造詣が深い
ある。
劇作家香村菊雄さんは「荒木村重の叛乱」の
伊丹の災害誌を 書 いており、筆名を山本西
回
破 (
山本芝根)と ち一
い、実説秋月有岡城と
二人とも荒木村 重
。
今後ともその学びを深めたい
。
の生没年
-
昇さんがまとめあげる過程
荒 木村重
@
戯曲を伊丹市で上演するために荒木村重につい
。
、
前 戦 ku
口升「
荒 木村 重 研究 序説 」海鳥社
@ 香村菊雄
参考文献等
を持っており
私は伊丹の歴史に登 場 する人物について関心
について 議 論されている
で山 本賢之 助さんと出会い、荒木村君
研究序説」を瓦 田
「戦国 の将村重の軌跡とその時代
賢之助さんの名前を知るところとなった。
言 う小説を 書 いている
戦国時代からの火
て調査している過程で伊丹史教育委員会の山本
、
について研究しており、小林丹丈さんにも
「伊丹災害史」があり
災や災害をまとめている。
@
生
三 十二
① 山本賢之助さんが伊丹に来た 昭 和二十五年
から小林丹丈さんがなくなった昭和
。
年 ご月四日まで二人は伊丹市内で同時に
存していたことになる
参考文献等
伊丹の郷土史家、
U
@瓦 同
(伊丹市文化財保存協会会員)
十
-1
0
Copyright(C) 伊丹市文化財保存協会
五
十 二頁
五
@ 「明治から昭和にかけて活路
小林丹城さん」いたみテイ六十四
平成十七年七月
「戦後 活蹄 した郷土 史家 、山本町之助さん
平成 十七年十月
伊丹の文化財の紹介、保 存に尽 力」いたみテイ
六 十丘号
十
地」
小林丹丈「近古史談講義
第35号
絲海
日本第一 の烏雌画史
28
年の伊丹
1
正治
吉田初三、郎画『伊丹市鳥隊図 』
ー昭和
小長谷
終戦からおよそ八 年 を 経 て 、 戦 後 復 興 の 槌 音
も高らかに響きわた っ て い た 頃 、 伊 丹 市 役 所 か
版の折本
。
れ、観光プ
。
l
ムが到来した。鉄道沿線の名所旧
横長の絵は、折りたたみ式の携帯用案
跡を案内した鉄道旅行案内に彼の烏服図は向い
ていた
彼の最盛期の頃は、彼が
経緯が記されている
。
それによると、「わが伊
っ て、銘酒の
誉 れ高く
丹市は東は大阪府に連なり、西に六甲連峰を望
む北摂平野の中心部であ
自然の 景 勝を具える文化田園都市である」とし、
「文化田園都市を標梼するだけに市域全般に亘
。
経営する「観光社」から数々の鳥廠図が作成さ
って、観光に価すると云えよう」と、観光に対
内図にちょうどいい
れていった。彼の鳥敵国の特長は、鉄道沿線図
「本図発刊にあたり、斯界の権威吉田初三 郎画
そして、
しての力の入れよ、つがうかがわれる
その「初三郎式鳥
伯及び、関係諸賢に対して深甚の謝意を表し、
。
と名所図、それに都市図を一定の方法で組み合
廠図」の特徴は、中心部を拡大して描くことに
本市観光の資ともなれば誠に幸甚である」と結
。
あり、描くべき場所についてはその拡大率を変
んでいる。
わせたところにあるという
え、極端にデフォルメしている。また、決して
本図の構成を見ると、手前に瀬戸内海、市街
Copyright(C) 伊丹市文化財保存協会
B6
センチメートル
見えるはずもない場所も構図に取り入れている
-11 ー
ら一冊の観光案内が 発 刊 さ れ た 。
75
で、表紙を開けると 色 刷 り 横 長 の 「 伊 丹 市 鳥 服
図」が広がる。その長さ
この図左下隅には、 「 著 作 権 者 京 都 祇 闘 吉
並みを描いて市域の範囲をあらわしている。鉄
地の両側に猪名川・武庫川を、背後に北摂の山
さて、「伊丹市鳥服図」を見てみよう。この
道沿線を描くことを得意とする彼らしく、下方
ところは面白い。
作品は、伊丹を文化田 園都市として市内外にア
に阪神・阪急神戸線、両側に阪急宝塚線と今津
吉田
三郎に依
。
図画家、生涯において数千枚の鳥蹴図を作成し
ピールするため、伊丹市役所が吉田初
田初三郎版権所有者 観 光 社 」 と あ る
たといわれる第一人 者 、 そ の 画 風 は 彼 独 特 の も
線を糧色であらわし、山陽本線・福知山線は地
本図が掲載された観光案内
頼したものである
。
ので「初 三 郎式鳥蹴図」とも称されている。
図表記のとおり、黒白で描いている。市役所や
三 管区総監部と称してい
消防署、当時保安隊第
市内の観
また観光名所はその名
ときに父を亡くしたため、母方の姓の吉田を名
。
。
地形や建物をデフォルメしながらも、建物の外
もほぼ誤りがないものと思われる。このように
リウム会社、住友電気工業会社などの建物配置
小中学校はその所在地に校舎を描き、東洋リノ
陽寺の建物配置もほぼ忠実に再現されている。
公園、昆陽寺の四カ所である。猪名野神社や昆
光名所は、伊丹国際空港、猪名野神社、緑ケ丘
称を赤く塗ってわかり易くしている
ところはリアルである
た自衛隊の公共建物は外観を忠実に描いている
二十五歳のとき洋画家鹿子木孟朗(かのこぎ
たけしろう)のもとで油絵を学ぶが、鹿子木か
伊丹市観光案内
のっている。十歳で 友 禅 図 案 師 に 丁 稚 奉 公 し 、
彼は、明治十七年 に 京 都 で 生 ま れ た 。 一 歳 の
二郎は、大正から昭和にかけて活躍した鳥搬
初一
昭和 28 年
の冒頭には、当時の坂上 善 穂市長の製作依頼の
。
ら図案絵師、つまり 商 業 画 家 の 道 を 勧 め ら れ た
(
昭和天 皇) の目にとま
大正から昭和にか け て は 各 地 に 鉄 道 が 整 備 さ
蹴図画家としての道に迷いがなくなったという。
産として持ち帰りた い 」 と 絶 賛 さ れ 、 以 後 、 鳥
り、「これは締麗で わ か り や す い 、 学 友 の お 土
絵」が時の皇太子殿下
大正 二一
年、彼が描いた「京阪電車沿線名所図
伊丹・ ff
俊
t軒
申
丹
1
1
0
第35号
絲海
る理由は、彼が製作
たと聞いたことがあるので、あるいはそれかと
き
観や構成を忠実に表現で
も思う。昭和 二十八年 当時 の伊丹の様子がうか
鳥服図は空を飛ぶ鳥の目線
贈を受けた
。
周年にあたり、それを記
年のあゆみ」と題する企画
70
三郎に制作を依頼したものである
70
ら 伊丹市観光案内の寄
この原図があればと思っていたと
展の準備中に市民の方か
念した「伊丹市
今年は、市制施行
たり、吉田初
本図は伊丹市役所が観光案内を発刊するにあ
n
に取りかかる前に現地に赴き、描くべき施設・
写真 資料が残って
別の鳥雌図のことであるが、今でも彼が鳥
がわれて実に楽しい
。
名勝の然るべき取材 調 査 を 行 っ て い る こ と で あ
る
。
雌図作成にあたって取材した
いるという
。
「初三郎式鳥服 図 」 の 特 般 の 一 つ は 、 遠 方 の
景 色の導入である
ズ・ア イ ・ ビ ュ ー で あ る か ら 、 か
201
来館お
センチメートル
。
日(日)
。
。
Copyright(C) 伊丹市文化財保存協会
l
センチメートル、横
5
-1
2-
で描く、パ
57
原図は傷みが激しく、色落ちもしているが、縦
ころ、本館収蔵庫に保管されていることがわか
方角で
(
なり遠方の景色まで取り入れることができるが、
本図の右端
った。「灯台もと暗し」とはこのことであろう
。
彼の鳥服図にはとてもそこまでは見えないだろ
う景色まで描かれている
は東 ) には、淀川をはさんで大阪城があるのは
夏季企画展で展示いたします
の大作
。
(
伊丹市立博物館長 )
伊丹市立博物館
7
月刊日(土)19月
ー伊丹市の七 O 年|
市制施行七 O 周年記念
企画展
博物館からのお知らせ
夏季
。
当然としても、その上方には京都が、さらにそ
待ちしています
。
。
く
箕
(
方角では西 ) では神戸と淡路島と思
の上には大津と琵琶湖、そして背後の山々まで、
本図左側
われる島までが描かれている
一角がある 。箕 面公園である
北摂の山並みの中 に あ っ て 一 際 鮮 や か に 、 詳
細に描かれた
。箕 面といえばも
面の滝、寺院の伽藍、そして燃えるように赤
描かれたもみじの紅葉である
みじの紅葉、本図の 中 で 唯 一 季 節 が 表 現 さ れ た
場所といえよう。
この「伊丹市鳥服 図 」 を 載 せ た 伊 丹 観 光 案 内
。
先
には、伊丹の名所の 写真 と説明 書 きもある
間
「寄
っみ」と題する制服の女子学生がイチ ゴを摘む
所
の四カ所の観光名所 に 加 え 、 宮 前 商 店 街 や
棟子の 写真 もある。とくに説明がないが、市内
期
の下河原や西野地域 で は イ チ ゴ 栽 培 が 盛 ん だ っ
場
第35号
絲海
月幻自に 平 成幻年 度総 会
平成二十二年度の
事業計画決まる
5
が伊丹市 立 総 合教育 センター
各 会 計決 詐報告 が承
・
推進する
。
講 座の開催
①「 万葉を読
ら
9
7
月
回実 施 )
・現地
む 」 講座
-文化財に関する事業
ω
(6月か
講 座を含め全
(9 月 1m 月会
5
回実施)
① 「古代民俗 講座」
」
l
i
」
講座
現 地講 座
文化財愛 護 少年団活動の
役員研修の実施
は会員の増強
ω
4
一部支援
各種関係団 体と の連携
平成二十二年度
協会役員人事
平成幻年度総会において、
れました
。
今後
村
年間、協会
上敏展
副会長
事
事務局長木年三
山紀子
陸夫
雅
精芳
克己
純子
喜輿士
裕子
美恵
義理
道子
退任されました豊田正
事務職貝村ひで子
事、藤下明子理事、岡井
、協 会運営に
子理事、山本俊夫監事には長
年、役員として
協力を賜
心より感謝申
多大なるご尽力、ご
りましたことを
し上げます。
本 当 に有難うご、ざいました。
平成二十一年度
事業の回顧
"万葉講座を開催“
毎年、ご好評をいただいて
6
ル
月刊円から
l
階大
月目
し
3
回開催しま
8
います「万葉を読む」講座を、
日
幻年度も
6
の期間に伊丹ホ
会議室等で全
所代
参加
「万 葉
マに
、
た 。講 師は古代民俗研究
l
者叫名で学びました。
をテ
表の 大森 亮 尚先生で
。
j在木検村内佐
小西新右衛門
ます
事
の旅と風 七」
2
次の 方々が協会役員に選出さ
の巡営をお願いし
理
監
中西幸造
顧問藤原保幸
ム品
一 長
田郷藤
出村
田原本
で開催され、平成幻年度の事
業 報告
事業計
いて
③ 伊丹ロマン 事業
1
回文学碑をた
1
回リレ
(文化 財強調 月間 )
4
4
ー紛海学
O 「第
@「 第
ずねて
文 化財講演会の開催
史跡めぐりパスツアー
の 実 施(日月中旬)
文化財 整 備に協力
・旧
伊丹郷 町館の監視・案
内 業 務(旧阿国家
石 橋家 住 宅)
文 化 遺産 の保護・顕彰
文 化遺 産 の 保護・顕彰
文化財パトロールの実
施
各 文化財保存団体との
連携
組織の 強化・拡充等
5
ペシ
イシ
。
ク
タ
タ'
山
田
目黒森
認された後、本年度の
ω
ω
ω
ω
2
ω
ω
ω
3
市文化財保 存協会
ハリ役員の担 当 制
は伊丹
ホームページの内容充実
(6月下旬)
9
月
9
を読
「奈良県下 法降
日には、「万 葉
む」現地講座
寺方 面 」を実施。 講 師の大森
臨 田大
土口備内
ねての万 葉 の旅
・
、
亮 尚先生を 案 内人として参加
を訪
社、法隆寺 、長 屋王
者お名 で、 河内大 橋
親 王幕等
でした。
Copyright(C) 伊丹市文化財保存協会
画案 ・各会計 予算案につ
。
の発行
機関誌「紙海(日号こ
-13-
も原 案 どおり可決されました。
育 委員
主な事業計 画は次の通りです。
"
現地
綿海 学
1
」を企 画実 施、好評を
j
当 協会事 業
講座
、
事業 H に
歴 史 ・文化が
昨年度は、伊丹市教
会の提唱する
り
醸 し出す伊丹ロマン
積極的に係わ
l
1
」、 「文学 碑を訪ねて
として「リレ
1
講座
郷 町 館の監視
博したところである。
本年度も伊灯
案内 業 務 に係わり伊丹郷町
.
の歴史 ・文化の顕 彰に参画 す
るとともに、訪れる市内外の
人々に伊丹の 際 史を尖感して
担
」の
一興 を少しでも
もらい、「伊 丹ブランド
全国発信の
-部支
ってまいりたい。あわせて文
化財愛 護少 年 間活動の
援に努力を 傾 けてまいるとと
る
を 恒き
こ
ら受 け縦
もに、各 種関 係同体との辿携
を更に深め、過去か
半 業に 重点
イシ
。
いだ伊 丹 の 文化造 住 を未来永
のため次の
劫、 継承 と保 護に 努め
(
3
)
第35号
絲海
マに講師
回開催し
月初日から
5
l
現地講座j 」
4 年の
当協 会 が昭和計
i
「文学碑 を 訪 ね て
市内には、
がある
。
その中で伊丹郷町内
聞に設置した ω 北もの文 学 碑
年から昭和的年ま で の
"古代民俗講座を開催“
9
旧阿国家住宅酒蔵において
古代民俗講座を
同月日日の聞に 全
中ま・しれ。~
「妖怪考」をテ
、事
一帝に設置した文学碑日基を
判り易い解説告を配布し
。当 協会
。
に一白
一り、リレ
中
司法講座を
1
方式で笑施、
文化の
・
受 講する ことによ
って更に伊丹の暦史
)
マ山
。
泌さを受講者総数八十四名も
日目
l
4
・
1ムハ
「映像でつづる伊
・円 U }FD-nU
U
唱i-qu
日月幻日(土)
の市民に知って頂いた
(1
テ
O 開催日時
O
丹の昭和史」
講師伊丹市立博物館
寿 蔵」
館長小長谷正治氏
-
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F3
・
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nv
(日 )
二階ギャラリー
所小西酒造「長
,
・ハ U
ノ日月ロ日
A守
nv
1A
マ② 反 骨の絵師
出川
(3日目)
l
ー
小西酒造 「長与政 」
二 階ギャラリ
・
・
・
円U
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jlRJV ・
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‘,Aqa
日月幻日 (月 )
14
4
会長
伊丹郷町ロマンその弐
マ叫 摂津 の 「へそ」
O 開催日時
O テ
講師協会
村上敏展氏
小西 泊造「長寿蔵 」
二階ギャラリー
"
史跡めぐり
パスツア
670
l
‘ の実施
は、 日月凶
日
、
楽しい一日を過ご
雪 蔵ま
、
」
(水)
年開校の日本で一
l
平成二 十一年度の史跡めぐ
1
りパスツア
に
番古い庶民の学校と知られて
いる岡山県の「旧閑谷学校
や法華宗の古利で本堂・中門
が国の 前一
要文化財になってい
る本連寺、そして最後にエー
ゲ海ならぬ穏やかな瀬戸内海
を散策し
が一望できる牛窓オリーブ刷聞
。
しました。なお、参加者認名
で 実 施 しました
平成幻年度も、「白
つり 」、「冬の元気まつり 」
Copyright(C) 伊丹市文化財保存協会
前研修に取り組んだ
た
(日 )
ハU
(2日目)
l
O 開催日時
O テ
「岩佐又兵衛」
州事
畳 間正義氏
講 師協会
-14-
古 代 民 俗 研 究 所 代 表 の大森亮
。
日
・ハ UFO-nU
J1
ム
8
て巡っ
役 H の説明のもと、参加者を
-一
グ ループに分け
/ 日月
1 ム勺
ス
問
町り
l
」
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所
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3
主 つの講座を
館
場
場
O 開催日時
マとした
第
七
回
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伊な
丹か
郷ざ
0
。
O 開催場所 / 伊丹郷町コ
紙海学
j
O 参加者数 〆 口名 (印
名公 募)
j
② 「リレ l講座
l
伊丹の時史、 文 化 の 主 た る
をテ
協会役 員 を講師とし、
。
尚先生の講義を受講生白名で
楽しく学びました
員会
第三回「歴史・文化
が醸し出す伊丹 ロ マ ン
事業」の実施
伊 丹 市 ・ 伊 丹 市 教 育委
が 提 唱 し 、 文 化 財 関 係団体で
事業
構 成 す る 伊 丹 ロ マ ン 事業実行
委貝会を中心として各種
が繰り広げられ、当協会も次
の こ つ の 卒 業 を展開 し 、 多 く
。
の市民の皆様方の参加のもと
実 施 した
場
第35号
絲海
月
6 円
と辿 携
での初日間と
2
「 一日だけのバレンタインカ
フ ェ 」 等 々のイベント
ま
家 住宅において明
7 日
を図り、開催期間を
から3月
し、旧岡田
、
酒蔵 大画
治から昭和までのひな飾りや
カルタ・すごろく、
即 売会を 実 施い
映
面ビデオ放映「テレビで紹介
南京桃の展示
。
体 は市教育委
、
を見 守
っ
ヂを巡り研
きた て 粂減
ま
、
京都
した
。
して 四 本願
修 いたし
市 の 考 古資料館そ
月初日旧岡町 家 住 宅 酒蔵
平成二十一年 度 伊 丹 市
文化財愛護少年団入図式
5
。
護者 、指導者
で入団式を行いました
団 員 幻名、保
。
等 幻名の計 ω 名 参 加のもと入
図式が 挙 行された
橋本
遠藤
{第 三 位
稲野小4年
)
稲野 小1年 )
)
5
5
年)
年)
旗 人(花田ぃ小5年 )
波 部穂高(花県小
すごろく大会
・
。 愛 護 少年団
(かるた
「かるた大会 」
年)
ズ」
4
|
小
6
(間
+小6年)
年)
(南小
l ウオ
使究(南
{優勝 } 「スタ
久保
渡辺彩花
沖野帆乃花
弥生
間以彩也存
児玉
美緒
(
南小
(
南小
(
南小
6
6
6
年)
年)
年)
{準優 勝 } 「
空」
石井
)
杉山健太(花里小
大国
)
会長盾 }
下回理央(稲野小5年)
文化 財保 存協 会
林有咲(稲野小5年
者 は
)
(稲野小5年
の 重要
室 で
日には
南 小5作
(
村上大樹
家住 宅
大 会を 開催
{土て国
愛 護 かるた
る 旧向同
つりの 実施
少年 団の 活 動
伊丹市文化財 愛護
月4口
川たなばたま
7
文 化財 で あ
ιれ
はき
「消 磁 」において訂 名参 加の
もと、
佐 の 鍛 に願 V事を
-
った 色
を 結びつけ、
せてい
とりどりの飾り
込んだ 短 冊や色紙で作
ま
に 設置 、行き
を楽 し
川 岡田家の玄関
交う人々の日
た。
ω 文化財
月 9
ル4附大和
1
は凶沖館 3階 集会主
新 春 恒 例のかるた大会を1
月7円に
l
で (
初組問人)、
いたみホ
。
(問 員 部名指 導貝 他は名)災
施した
。
市内小学生、文化財愛護少
った
。
(
伊丹小5 年 )
市長杯 }
。 阿世館 大 会 (かるた大会)
一
優勝
小久保 舞香
文栄
小久保 奈 於 (伊丹小 3 年)
佐勝
育長店 }
夏 希( 稲野小4年 )
{館優 勝教
乾
Copyright(C) 伊丹市文化財保存協会
された伊丹の暦史」の 上
たしま し た
なお、共催団
員会、市 立 博物館、柿術文 庫
文化財愛 護 少年間、南京桃ブ
。
日 を対象とし、参加
年同
。
ランド化 実 行委員 会 の五団体
の 実施
「北淡 瓜 災
お名、指 樽円以他
幻 日のl 泊
で、期間中、市内外から九千
キャンプ
月
合わ せて加入 で あ
l
員
18
紡呆 は次のとおり
はサマ
月別日
名の参加のもと
等 の見学をした
記念公 園」 や 「いざな ぎ神 宮 」
9
2円で、団
8
八 百 三 十九人もの多くの方々
の観覧があった
名で 実 施しました
。
,役員視察研修会を実施‘
8
3月日日に役員研修会を参
加者
今回は京都方面に足 を 伸 ば
し、日本の歴史の移り変わり
-1
5-
萌 住
第35号
絲海
5
年)
一つ位 } 「ドエル 」
(緑ケ丘小
5
年)
【第
安田康太
紙ヶ丘小
(
6
年)
斎藤浪
緑 ケ丘小
大 会」
米山拓也(
「すご ろ
小川化
文財愛
護少年団
卒業旅行の実施
月初 日に愛 護 少年団の卒
3
業旅行を犯名の参 加のもと神
き
新・伊丹史話
聞き 舟
「伊丹のくら
地域研究いたみ
し」
第ロ号千
第日号
千円
四百円
司白円
4
千 二百円
書
E
同百 円
B W
各七百五十円
伊丹城跡発掘調査報告
w-V
岡田五百円
同
有岡城跡発掘調査報告
総海お号をお届け
ロu
-日
言
しま す
ルエンザにより、会
。
5
場の
昨年の第灯回総会は新到イ
ンフ
る
使用 自粛 が要 請 され見送りと
な りましたが、今年は去
ク等を見学しま
戸市立博物館、神戸港震災メ
モリアルパ
三千円
五百円
月幻日に市立
伊丹市埋蔵文化財調査報告書
(
有岡城跡 )
五百円
第弘号一千円
-
(
御願塚古墳 )
l
伊丹の文化財
H
c
年)
」 四百円
した
3
I
【優勝 】 「チ l ム弘」
南小
(
「ス ケ
予定どおり開催され、
総 合教育 センタ
年)
チ集
3
有岡城跡
ッ
土問小
」四百円
広行
常陰
H
ーにて、
「スケッチ集
H
年)
当協会の事 業 計岨や予 算 等に
伊丹郷町
4
・ 2
一千五百円
分冊各四千円
第
1
発掘された伊丹の町六十円
北国遺跡
緑ケ丘遺跡第 三 次調査報 告 書
九百円
お次調査
・
千円
護の手 引き・
育委員会 事 務局生涯学習部社
。
会教育課において販売してお
ります
どしどしアクセスしてくだ
い、皆様の求める情報がギ
l
。
てい ますが
。
lL 等を今 年
。
日 の 皆様の
より
会員の皆様とともに頑張りま
すので、会
くお 願い申し上げ
一
今年度も協会の発展のため、
りお待ちしています
沢山 の 方 々のご参加を心よ
度も実施してまいります
めぐりパスツア
俗」講座の開催、また「史跡
「万葉を読む」や「古代民
きたいものです
対する知 識 と理解を深めてい
市民 の皆様 とともに文化財に
伊丹の文化財に 関 心をもち、
こんな時にこそ、古代からの
厳しい時代を迎え
現在、先行き不透明な大変
。
緑ケ丘遺跡五百円
ス内)において販売しています
物産協会 (JR 伊丹駅
」四百円
さ
リありますよ
ことが出来ました
酒の町・伊丹四百円
・
(
南小
石井祐綿
後
層 のご支援ご協力を 頃 きます
。
ようよろし
ます
、
-1
6-
集
つ いて、地 n様 のご浴車認を得る
以上の 骨 籍 類は、当協会事務
二 千円
伊丹の 文 化財
I
」 四百円
ツシ
【アド レス}
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- 刀\一
ミ
ミ
フえ万
ωヨ
昨
一 をささ・ω,。
Copyright(C) 伊丹市文化財保存協会
編
久保佐立
。
埋蔵文化財保
売 しています
所( 旧 岡田家住宅内 ) ・市立博
物館において販
」四百円
報告 書二
口酒井遺跡ロ
I
分布地図五百円
伊丹の文化財
「スケッチ集
」四百円
伊丹の文 化 財
五百円
チ集
H
以上の 書 籍類は、伊丹市教
E
。
「スケッチ集
文学碑をたずねて一千円
文 化財を訪ねて五百円
分布地図
八百円
ッ
チ集
既刊書あんない
伊丹の伝説
六百円
「スケ
ッ
I \,、
以上の書籍類は、伊丹市観光
友わら音頭
一千円
「スケ
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ル「蔵 (くら)
」(JR
、
コ ン コ ー
文 学 碑をたずねて
六百円
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伊丹の年中行 事
五百円
l
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23刊行\\ささ0
2・
0・
H
さ
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号館 一階 )
|設
六百円
2
ムし
べて
伊丹の仕ご
・ホ
チ集は
伊丹の酒造り道 具
五百円
において販売しています
伊丹駅前アリオ
ッ
文 化財 を訪ねて
四百円
四百円
以上のスケ
有馬道
ホ開
ωaωの『
dzgヨ F
ト
巡礼と街道
員
が
六百円
唄②
=
伊丹のわら べ 唄 号
と
A.
第35号
絲海
得、海 第 35 号
発行 日
平 成 22 年 6 月 25 日
編集
伊 汁 ïli 文 化財 保存協会
〒 664心895 伊丹市宮ノ前2丁目 5需 28号
市立伊汁郷町館( 111 岡田家住宅内)
泊訴 . F八 X 072・772・8830 (直通)
ホームページ
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oífice 包 i tami-bun k azai.jp
Copyright(C) 伊丹市文化財保存協会