0年間の布教伝道(上) 戦後 1 一一とくに終戦から教典公刊 の時期まで一一 畢井義次 j はじめに 0年間にめざましく伸展したことはよく 天理教の布教伝道が,第二次世界大戦後の 1 知られている。ここで考察しようとするのは,その戦後.10年間,すなわち,昭和 20年 6日(教祖七十年祭)までの期間における布教伝 1月 1月2 5日(終戦)から昭和 3 8月1 r 0年の期間における教内の信仰活動をみるとき, 天理教教 道に関してである。この 1 典」の公刊やおやさとやかたの普請をはじめ,実にさまざまな動きがみられる。その 間の布教伝道の伸展とその内的な要因について理解しようとするとき,その期間にお ける布教伝道の状況を 20年あるいは 30年ぐらいの教内の動きのなかに位置づけて,布 教伝道とその展開を把捉することが大切で、あろう。そのためには,その聞に推し進め られた具体的な布教伝道の内容を認識しておくことが肝心で、ある。そうした意味あい 0年間における天理教のおもな動きを把握するとともに,そ から,この小論は,戦後 1 の期間における布教伝道の方針と活動を整理しようとするものである。 0年のなかでも,最初の 4年間は,とくに戦災教会の復興や教規の改正などを 戦後 1 とおして,布教伝道の新たな体制が整備されるとともに,教祖の教えの原点に立ち戻 r るという,いわゆる「復元」の方針にもとづいて, 天理教教典 Jの公刊へ向けて,教 典の編纂が積極的に進められた時期である。言いかえれば,終戦から教典公刊の時期 までの 4年間は,時間的には,たしかに短い期間ではあるものの,天理教におけるそ の後の布教伝道の土台が築かれた時期に当たり,ひとつの重要な区切りをなしている と言えるであろう。そこで,今回は,とくに,終戦から教典公刊の時期までのおよそ 4年間に焦点を絞って,天理教におけるおもな動き,および,布教伝道の方針と活動 を取り上げたいと思う。 1 教内の動き一一終戦から教典公刊の時期まで一一 終戦から教典公刊の時期までのおもな動きをみるとき,戦災教会の復興,かぐら・ 十二下りのてをどりの復元,教典の公刊,三原典の下付,別席の再開と「誓いの言葉」 決定,教規の改正を挙げることができるであろう。ここでは,それらのことがらを中 心に,この期間における教内の動きをながめてみたいと思う。 -11- ( 1)戦災教会の復興 昭和2 0 年 8月1 5日,終戦の詔書について,諭達第1 5号が公示された。 8月2 6日には, 救援委員会が解消され,復興部が設置された。その後,戦災教会の復興が進められた。 終戦を迎えたとき,戦災した大教会が2 3カ所,分教会が 1 7 4 1カ所,布教所が 418カ所 にものぼった。昭和2 1年1 0月2 5日には,戦災教会決起大会が開催され, 1 0月2 7日には, 海外引揚者慰安激励大会が聞かれた。 昭和2 1年末になると,戦災した教会は,大体,復興の見通しがついたようで、ぁ 4 1 0 ) また,海外からの教会長や信者のヲ│き揚げにともない,日本各地で海外教会や戦災教 会の移転復興がおこなわれていった。 r ( 2 ) 復元」の提唱 終戦直後から,二代真柱様によって「復元」が提唱された。「復元」の意味について は,昭和2 1年 4月1 8日,天理教教義及史料集成部から出版された『復元 J 創刊号の「序」 において,二代真柱様は,つぎのように記されている。 復元と復旧とは決して同じ事を意味せないのであります。以前の姿に復し,又懐 旧の情に遊ぶのは決して復元ではありません。あくまでも,元を極め,根源をた づねる所に復元の意義があり復元の活力があると信ずるのであります。 また,昭和2 2 年 1月 5日の年頭会議では, 真の意義は教会設置前の元にかえる,即ち元一日の教祖様の御存命当時に,我々 の信仰態度をかえらしめることであります。 と述べられている。 昭和2 7 年,教祖七十年祭を迎えるにあたり,第1 4回教義講習会 ( 1 0月3 0日-11月 1 日)が聞かれたが,二代真柱様は,その教義講習会での「元をたずねる」と題する講 話においても.r復元」の意味あいについて説かれている。すなわち, かね.............__申しておることでありまするが,復元とは元へかえることなのでありま す。元へ復することなのであります。親神様からお教えいただきましたその元な る話,教えの根本に立ち戻ることなのであります。 動ともいたしますると,終戦後復元という言葉は,戦争前の姿に立ち戻ること を想像されがちであったのであります。教会は焼けた,復元とは教会の姿を元へ 戻すことである。信者が散り.......---.....ーばら.......---.....、になった。生活が破壊された,復元と は信徒を整え生活の順序を立てることである。ーにもこにも戦争という事柄を中 心に致しまして,復元とはその以前に戻すことである。このように簡単に考えら れた向があるのであります。……復元の意味は必ずしも戦争を境と致して,姿を その前に戻すということではないのであります。 教えの気持から申しまするならば,教祖様にお取次ぎいただいた,親神様の思 -12- 召しの,教えの元に返すことなのであります。 1月 1日に発布された「諭達」第 1号に 4回教義講習会の最終日である 1 そして,第 1 r おいては, 復元とは元へかえる事である。元へ復する事である。親神から仰せいただ いた教の元へ立ちかえるのである。」と述べられ,r復元」に込められた意味を明確に示 されている。 )かぐら・十ニ下りのてをどりの復元 3 ( 6日,秋季大祭において, 0月2 0年 1 二代真柱様による「復元」の提唱を承けて,昭和 2 真座のかぐら・十二下りのてをどりが復元された。かぐら面をつけての本づとめがつ とめられ,てをどりも,差し止められていたよろづよ八首,三下り目,五下り目を加 2回教 1日までは,第 1 9日から 3 0月2 えて,十二下りのてをどりがつとめられた。同年 1 義講習会すなわち復元講習会が開催された。 ,諸井慶五郎先生の「戦後の本教 その講習会では,二代真柱様の「今後のっとめ方 J r 復興問題」などの講話がおこなわれ, 復元」にもとづく方針が示された。そして,昭 8日まで,教祖六十年祭がつとめられ,全教会にたいして記 6日から 2月 1 1年 l月2 和2 0日には,天理教 念品として,復元された「みかぐらうた」が下付された。同年 4月2 1日には,天理教青年会復元披露会が聞かれた。 婦人会復元披露会が聞かれ,翌日の 2 別席の再開と「誓いの言葉」決定 ) 4 ( 6年 4月 1日から,戦時中,ず、っと中止され 宗教団体法が施行されたために,昭和 1 3年 1日に再開され,現在のようになった。また,昭和 2 1年 1月 1 ていた別席が,昭和 2 1月 5日の年頭会議において,別席の「誓いの言葉」が決定された。それまでは,別 )に決められて,身 0 9 8 1 3年 ( 席制度の確立にともない,いわゆる「初試験」が,明治 2 の内十全のご守護の説き分け話と八つのほこりに関する試験が,別席の話を聞くまえ に行なわれていた。その「初試験」に代わって,別席の「誓いの言葉」が用いられる 3年 1 ようになった。「誓いの言葉」が決定された経緯について,二代真柱様は,昭和 2 月 5日の年頭会議において,つぎのように述べられている。 十柱の神,八つの挨など列挙することはひとまずあとにして,親神様の思召,教 祖様の立場,入信の経路,陽気暮しの道をたどる自己の決心,等を申し述べる事 により初席にか〉りたいと思うのでありまして,試験よりもむしろ入信の誓と申 した方が早く,これによって別席に進む方法をとりたいのであります。 r 3回教義 畢為次先生は,第 1 また, 初試験」から「誓いの言葉」への変更について,山 j 8日-30日)において, 0月2 3年 1 講習会(昭和 2 従来は別席を運ばれる方の初試験の時に,十柱の神様のお名前とその御守護を言 わしておったのでありますが,人々の中にはその理をはっきりと心におさめて仰 有らずに,どうかすると丸暗記的な,然も丸暗記するのみならず今申しましたよ -13一 うに,それ~独立した十柱でおられるのだというような考え違いをする向きも ありますので,真柱様の深い思召によりまして,最近の初試験にはそれらは撤廃 されておるのであります。……でございますから皆様方が信者さんに別席を運ば す時は,そういう根本の主旨を御理解の上,唯の丸暗記にならないよう,その意 のあるところを十分にお教え頂きお導き頂きたいのでございます。前のように, 神様のお名前を覚えなくとも楽になったんだというような簡単な考えでおって頂 いては,本当の理のあるところをおのみこみ頂けません。 と説明されている。 r ( 5 ) 天理教教典Jの公刊と三原典の下付 二代真柱様による「復元」の提唱を承けて,各方面の復元が進められるなかにあっ て,三原典に基づいた新しい『天理教教典 Jの編纂がおこなわれ,昭和 24年 1 0月26日 r に , 天理教教典 Jが公刊された。同日,発布された諭達第 1号によれば,新しい教典 は「広く深い思召を誤りなく承けて,真意を正しく伝える教義書の公刊」であり,1日 夜これに親んで教義の正しい理解に努め,又,その精神を日々の生活に織り込んで, 信仰の喜びの糧とし,如実にたすけー僚の上に,これを活かしてこそ,親神の思召を 真によく顕揚することが出来る。」と記されている。 『天理教教典」の公刊に先立つては,昭和 23年 1 0月28日から 30日まで,第 1 3回教義 r r (みちのとも Jの特別号として刊行された)をテキスト として開催された。これを承けて,翌年には,新教典の普及徹底をはかるために, r 天 講習会が, 天理教教典稿案Jl 理教教典稿案Jによって,各地で教典講習会が聞かれた。 三原典については,まずはじめに,1みかぐらうた」が,差し止められていたよろづ よ入首,三下り目,五下り目を加えて復元され,昭和 2 1年 1月26日に全教会にたいし て,教祖六十年祭の記念品として下付された。「おふでさき」は,その普及のために, 昭和 2 1年 9月からの『みちのとも Jに , おふでさき」が掲載された。そして,昭和 2 3 r 年1 0月26日に, r おふでさき J(付注釈)が, r おさしづ」巻 lとともに下付された。「お さしづ」は,その後,昭和 24年 9月2 6日に巻 8が下附されたのを最後に, r おさしづ」 全 8巻が下付された。 ( 6 ) 教規の改正 昭和 20年 1 1月 1日,宗教団体法の廃止にともない,教規修正準備委員会が組織され た。そして,昭和 20年 1 2月28日,新たに宗教法人令が公布された。そこで,昭和 2 1年 4月18日,新教規および諸規程が施行された。終戦後は,政府からの圧迫はなくなっ たが,それに代わって, GHQ( G e n e r a lH e a d q u a r t e r s連合国最高司令官総司令部) の推し進める宗教政策に従わなければならず,教規の施行にも,少なからず制約がみ られた。新しい教規では,願書などにおいて,従来の「管長」の呼称が「真柱J ,教庁 -14一 1日には,教規および諸規程の改正が 2月3 が「教務庁」などと改称された。昭和 22年 1 公示され,祭儀・信仰面と行政面を分離する体制がとられるようになり,翌年 3月 1 日から施行された。それによれば,祭儀と信条面は「真柱」が司るのにたいして,教 務庁に置かれる「教務総長 J(一般教師より公選)が行政面を司るというものであっ た。また,教会本部には「詰番」が置かれることになった。詰番は,詰香推薦委員会 r で推挙され,教会本部を主管するというものであった。さらに, 教議会J(集会の延 長・強化されたもの)が開設されることになった。 r こうした教規改正について,初代教務総長になられた諸井慶五郎先生は, 教規改正 の眼目は,本教の統轄上,祭儀,信条に属する部門と行政部門とを裁然区別して,今 日まで管長の名で併せ統轄せられたものを,行政面は切り離して,純然たる精神的分 野に立たれる真柱をぢばの理に即応し,四方正面,曇りなき鏡やしきの龍頭と仰ぎ, r 全教徒をあげて,信仰活動の象徴であって頂きたいという翼いにある」。また, 新憲法 4条第 1項『すべて国民は法の下に平等で、あって…… Jと規定せられた精神に副 の第 1 わんとするもの」であると説明されている。この教規および規程の改正については, 2月20日,連合軍総司令部当局と連絡をとって,r宗教部長パーン 2年 1 天理教は,昭和 2 ズ博士と面会し,大綱について説明してその諒解を得た」。そのときのバーンズ博士の コメントは,r天理教の教規が変更されてデモクラティックに運営されることは淘に結 構であるが,自分としては実際面の運営がどんなに変化するかということに大きな関 0日,第 1回教議員選挙が行な 3年 2月1 心を持っている。」というものであった。昭和 2 7日から 3日間,第 名が選出され, 2月2 われ,教会本部地区から 7名,各教区から 84 1回教議会が開催された。また, 3月 1日には,諸井慶五郎先生が初代教務総長に就 0日には全国各教区長選挙がおこなわれた。 任され, 3月1 6年 4月 3日,宗教法人法が公布されたために,新教規および諸規程 その後,昭和 2 7年 5月26日に施行され,それまでの詰番を内統領,教務総長を表統領,総務 が昭和 2 を常詰と改称した。また,教務庁が教会本部に吸収されることになった。 2 布教伝道の方針と活動 布教伝道の方針 ) 1 ( このような教内の動きのなかで,どのような布教伝道が具体的に推し進められたの かについて考察することにしたいと思う。 r 6日,立教 1年 7月2 終戦直後から, 復元」への歩みが進められていくなかに,昭和 2 0月)が決定さ 年1 1年 9月一昭和 22 百十年祭(昭和 22年)へ向けて,布教方針(昭和 2 r 6号によれば, たんのふとひのきしんと 1年 7月26日に公布された諭達第 1 れた。昭和 2 を体現するものこそ,日本を救済し世界平和に寄与する所以たるを確信す。」と記され -15一 r 1教会から新初席者を 1ヶ月 1名以上 運ばせて頂く j,r各教会それ~1 名以上布教師補命者を作らせて頂く j , r 戦災孤児の ている。そのときに決定された布教の方針は, 保育j,rひのきしんの昂揚」であった。 終戦 1周年に際して,昭和 2 1年 8月 1 5日,教会本部と地方の各教会では,r世界平和 r と五穀豊鏡」の祈願祭がおこなわれた。その祈願祭をおこなうことについて, 天理時 報 j (昭和 2 1年 8月 4日)には,つぎのように記されている。「敗戦後人々の心は打ひ しがれ潤ひが抜け生活に端いでゐる,いは?祈りを忘れた世界である,又食糧問題は 寒にゆ、しき事態に直面して をりかかる意味において来る 八月十五日「世界平和と五 穀豊穣」の祈願祭を本部にお いて勤めさせて頂くことにな った,地方においてもこの 日同じくこの祈願祭を執行せられたい」。そして J天理時報 j (昭和 2 1年 8月2 5日)に r は , 厳粛に祈願祭執行」との記事があり,r世界平和と五穀豊鏡を祈念」したことが記 されている。 昭和 2 2年 1月 5日の年頭会議において,二代真柱様は「信仰の復元」へ向けて J救 け人衆」の養成,r戦災者及び引揚者」のための援護,r教内の学制改革」を打ち出され た。それを承けて, 2月 3日に天理総合大学案が文教部 から発表された。また,布教 活動を積極的に推進するために,r部門別布教懇談会Jが,昭和 2 2年 4月24日 , 2 6日 , 2 7日の 3日間にわたって行なわれた。「部門別」とは農村布教,山間村布教,漁村布教, 都市布教,工場布教のことである。 同年 7月2 5日には,第 1回「布教委員会j (仮称)が開催され,r布教具体策」が協 議されたが,それは,つぎのような内容であった。 一,教内信仰充実策 復元教理の徹底,教義書の刊 行,講習会の開催,通俗教義 書の刊行,授 訓者総動員 囲内新規伝道策 調査研究(当局の方針,他教宗派の情況),放送講演及対外講演,教義刊 行物の頒布(文書伝道),学校に対する宗教情操教育 一,在日外人に対する本教紹介策 各国語の教義書刊行,英・中 ・鮮語新聞の発刊,調査渉外 及連絡 海外布教準備策 各伝道庁の連絡,人材育成 文化運動促進策 映画,演劇,歌謡,音楽,ポスターその他本教文化運動に関するもの その他企画に関する一切 昭和 2 3年 5月2 7日,r三大方策」が第 2回教議会において,諸井慶五郎教務総長から 1 6一 発表された。すなわち, 布教意欲の昂揚 文教施設及態勢の拡充と確立 文化乃至社会施設の地方普及 まず,[布教意欲の昂揚」のために.1匂いがけ運動」が展開されることになる。すな わち,布教委員会(昭和 2 3年 8月2 5日)において,布教意欲の昂揚策の一環として, I 匂 いがけ運動」の実施が可決された。そこで,1第 1回匂いがけ運動Jが昭和 2 3年 1 0月2 6 日から昭和 24年 1月2 6日まで全国的に行なわれた。「第 2回匂いがけ運動」は,昭和 24 年 7月から 9月にかけて行なわれた。こうした「匂いがけ運動」とともに,教内の布 教意欲を高めるために,すでに述べたように,教典稿案をテキストとして教義講習会 や教典講習会が聞かれるなど, I 教典稿案の精神の普及」への歩みも積極的に行なわれ た 。 「文教施設及態勢の拡充と確立」のためには,[学校派遣布教師の増強」とともに, 管内学校において,全面的に男女共学が昭和 2 3年秋から実施された。昭和 24 年 4月に は,天理大学が創立された。そのことについて J天理時報 j (昭和 24年 2月24日)に は,1本教精神に基く最高教育施設の自覚の下に精神文化に貢献する信仰的人材と世界 布教の用木養成に遁進することが各方面から強く要望されている」と記されている。 「文化乃至社会施設の地方普及」については,諸井慶五郎教務総長は「各地にその気 運が醸成されっ、あり,なかんずく教区においては愛知福岡は既に実動に入札大阪 もようやく整備を終らんとしており 北海道岡山等も又着々計画を進めっ、ありま す。」と述べている。 ( 2 ) 布教活動の推進 教会本部から打ち出される布教の方針を受けて,国々所々では,布教活動が推し進 められた。おもに個人から個人への布教が中心で、あった。教祖から直接,教えを聞い た直弟子の方がた,また,そうした人びとの仕込みを受けた布教師たちをはじめ,確 固たる信仰をもった多くの布教師たちが,にをいがけ・おたすけに奔走し,布教の第 一線で活躍していた。 地域社会に対する積極的な働きかけとして,活発に推進されたのは「ひのきしん」 である。昭和 2 1年 5月1 8日には, I 全国一斉ひのきしんデー」が復活され,全国的に展 開された。街頭で教えを説く路傍講演は,昭和 1 3年以来行なわれなかったが,昭和 2 2 年 8月1 8日,1全国一斉路傍講演デー」が復活された。ちなみに,それより少しまえの 昭和 22年 6月2 1日,1新日本建設国民運動」に関する 7項目の政府案(①勤労意欲の高 揚,②友愛協力の発揮,③自立精神の養成,④社会正義の実現,⑤合理的民主的な生 活慣習の確立,⑤芸術,宗教およびスポーツの重視,⑦平和運動の推進)が発表され -17一 ていた。その政府案に対して, 7月23日に,政府から天理教に対して協力要請があっ た。そこで,天理教では,1全国一斉路傍講演」において,政府案の主旨を強調すると いう独自の方法でもって,政府に協力することになった。 信仰の手引きとなる教義書の出版とともに,布教用の出版物も刊行された。道友社 r t r光を求めて J,r 幸福について』などの「天理シリーズ」が 出版され,青年会からは布教用パンフレットが出版された。また, r 天理時報特別号』 からは, 捧げ合いの生活 が昭和 23年 1 0月2 6日から,道友社から発行されるようになった。また,昭和 24 年 5月 1 0日には,養徳社から『陽気 Jが創刊されている。ところで,明治 24年 8月 4日,雑 誌発行について,おさしづを伺ったということから,道友社は,昭和 25年に 8月 4日 を「文書布教の日」と定め,全教の文書布教躍進を提唱した。 さらに,天理教館が改装され,映画演劇音楽などの活動が活発になった。社会文化 施設をとおした布教伝道も展開された。「戦災者保護と少年教育」に重点が置かれ,教 内の「公益施設」が増加した。「教内優良公益施設」にたいしては,教会本部から奨励 費が出された。昭和 2 1年度には「農繁期の単期季節保育所」が全国で 1 3 0カ所あった。 また, 18カ所の保育園や幼稚園などが「教内優良公益施設」とされた。昭和 24年 4月 20日には,全国の教内の社会施設の代表者を招いて,社会救済精神高揚大会が聞かれ た 。 r こうした布教活動が推進されるなか,昭和 20年以降,新設教会数が激増し, 初席人J , 「お授人 J ,それに「教師」の人数が大きく増加した。たとえば,教祖60年祭の期間中 には, 5 0 余カ所の教会が新設された。また,昭和 22年 4月 1日から 9月末までの 6カ 月のあいだに,修養科への入学者は 6, 861名にもなった。『天理時報 J(昭和 23年1 1月 28日)によれば,昭和 23 年 10月には,中席者が 4万人であった。昭和 24年についてみ r れば,その年の 4月には, 授訓」者は五千余名,別席者(初席者と中席者)は 7 9,142 名であった。その数字を年令別にみると, 20 代が全体の 3分の 1, 30-40 代が 3分の l であり,女性が男性の 2倍であったが,青年層の人びとが多かったことは,とくに注 目に値する。また,修養科入学者は,昭和 24年 1月には 1600余名, 2月に 1200余名, 3 月に 1800余名, 4月に 1800余名, 5月には 1600余名であった。こうした教勢の伸びにつ r r いて, 天理時報 J(昭和 24年 5月1 5日)は, 第一回匂いがけ強調運動の結果が最近と みに表面化して来た」と報じている。 終戦後のこの時期には,人びとの心は打ちひしがれ,精神的な支えを失った状態で あったが,他方,戦争の終結とともに,従来の道徳や価値観が批判され,信教の自由 が保障されるようになった。宗教信仰に対する政府からの抑圧制限がなくなり,いま だ GHQによる制約が少なからずあったものの,天理教の信仰者たちは,にをいがけ ・おたすけの場面で,教祖から教えられた教えをだれはばかることなく説くことがで -18一 きるようになった。明治時代以後,どのように厳しい抑圧のなかも,先人たちが脈々 と継承してきた教祖の教えとその信仰は,1復元」への歩みのなかで,僚原の火のごと く,人びとへ伝えられていったのである。 註 (1) 二代真柱様は,昭和 2 2年 1月 5日,r年頭会議に於ける御訓話」において, 総教会数の一割七分にも及びました戦災教会も, 概ね復興の緒につき,直轄教会の奉告 祭は昨秋に至って益々多きを数えたのであります。云わば形の上に於ける応急の復興も 其の六七割の完成を見たと私は思うのであります。部下教会の方は梢々遅れるとは思い ますが,必らず立派に立ち上って下さることを信じ,此の陣容を以て立教百十年のっと めを果さして頂きたいと思うのであります。(中山正善「昭和二十二年年頭会議に於ける H 2年 1月 5日 真柱訓話集』第 7巻 , 5頁) 御訓話J(昭和 2 と述べられている。 r (2) 中山正善「序 J 復元J創刊号,天理教教義及史料集成部,昭和 2 1年 4月1 8日 。 r (3) 中山正善「昭和二十二年年頭会議に於ける御訓話J(昭和 2 2年 1月 5日) 真柱訓話集』第 7 巻 , 2頁 。 r (4) 中山正善「元をたずねる J( 第1 4回教義講習会講習録) みちのとも J(昭和 2 7年 1 2月号), 3 - 4頁 。 r (5) 中山正善「昭和二十三年年頭会議に於ける御訓話J(昭和 2 3年 1月 5日) 真柱訓話集J第 7 巻 ,4 9頁 。 (6) 山津為次「第四章 r 天理王命J 天理教教典稿案講習録J(天理教道友社,昭和 2 4年 , 146-14 7頁 。 r (7) 諸井慶五郎「新教規の上の真柱J みちのとも J昭和 2 3年 1月号。 (8) r 天理時報J昭和 2 3年 1月11日 。 r (9) 中山正普「昭和二十二年年頭会議に於ける御司Ii話J(昭和 2 2年 1月 5日) 真柱訓話集J第 7 巻 , 7-8頁 。 r ( 1 0 ) 詳細な内容については, 天理時報』昭和 2 2年 5月 4日 , 11日 ,1 8日 ,2 5日 , 6月 1日参照。 ( 1 1 ) r 天理時報』昭和 22年 8月 3日 。 r ( 1 2 ) 諸井慶五郎「世界救けの神意に沿わん J( 第 4回教議会挨拶要旨) みちのとも 1昭和 2 4年 5 月号, 2-5頁 。 ( 1 3 ) r 天理時報J昭和 2 2年 9月2 1日 。 QU
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