空海と朱を結ぶもの (その 1)

No2013-1-11Za
空海と朱を結ぶもの
(その 1)
高僧像(石山寺観祐筆):大東急記念文庫ヨリ転載
日本の古代に於いて、朱が青銅/鉄の軌跡に見え隠れしているように、朱(水銀)は空海の軌跡
にも見え隠れしています。
にゅうじょう
62 歳になって死期を悟った空海は 3 月 21 日の 入 定 を前に弟子に『濁乱濁世不違吾誓願可涌
E A
湧水金(だくらんだくせわがせいがんにたがわざればすいきんをわかすべし)』の言葉を残した
とされていますが、この言葉の意味については『後世いかなる世でも水金(水銀)の存在をわす
れるな』の意と解釈されています。水金が水銀を指しているとすれば、空海が即身仏になるべ
く岩屋に入る最後にあたり、朱(水銀)について言及している事は、実に興味深い事ですが、空
海が密教の聖地と求めた高野山が朱(水銀)の産地であること、そして、四国 88 ヶ所の寺々に限
らず真言宗の寺の所在地が不思議と産地に重なる事、それにも増して、空海の歩んだ跡に朱(水
銀)が重なる事が多い事実は、私だけでなく多くの人が指摘している事柄です。とすれば、空海
と朱(水銀)を繋ぐ何があったのか、それは何故なのか、又、空海が求め辿りつこうとした“地
平”と朱(水銀)がどう係わるのか、そして、空海の生き様はどのような歴史的背景から生まれ
てきているのか、
、実に気になる処です。
さて、宮坂宥勝氏は、著書『空海』で空海を下記のように紹介しています。
じょう が ん じ
いん
「寛平 7 年(895 年)3 月 10 日の年記のある 貞 観寺 座主の『贈大僧正空海和上伝記』には“去
しんぜい
じ宝亀 5 年(774 年)甲寅誕生す”とある。
」と空海の生年を述べ、又、
「空海の弟子の 真済 が書
そ う ず
わじょう
もと
いみな
かん
いたとされる『空海 僧都 伝』には次のようにある。(段替)和上 、故 の大僧都、諱 は空海、潅
じょう
へんじょう こ ん ご う
さ え き の あたい
たどのごおり
頂 の号を 遍照 金剛 という。俗称は 佐伯 直 、讃岐国 多度郡 の人なり。その源は天尊より出づ。
やまとたけるのみこと
え み し
よ
すなわ
次の祖は昔、日本武尊 に従って、毛人 を征して功あり。因 って土地を給う。便 ち、これに家
す。
」と書いています。これに対し、松本清張氏は『密教の水源をみる』の中で、空海の祖父が
お たり
“男 足 ”と云うのは「タラシ」の転訛とし、百済系渡来人の系譜であったろうとしています。
空海が生まれ活躍した 8 世紀の第 4 四半期から 9 世紀半ばという時代は、人々が無意識的に
せよ意識的にもせよ、自分の生きる所が“日本”と云う国だと広く意識しだした時代で、讃岐
たどのごおり
国 多度郡 に生まれた空海もその潮流の中にあったはずです。
当時の讃岐はと云えば、その国府は坂出市府中町にあったとされており、又、国分僧寺/国分
尼寺はそこから 3KM 程離れた高松市(旧綾歌郡)の国分寺町にありました。讃岐国分寺は天平勝
宝 8 年(756 年)には建立されていた記録が続日本紀にありますから、空海の生まれる 20 年ほど
前の出来事です。この讃岐国分寺の広さは東西 220m、南北に 240m と各地の国分寺と同じ規模で
すが、敷地の西半分を使って奈良の大寺院に匹敵する大官大寺形式の大寺院を建立しただけで
なく、七重の塔を建てたり、他の国分寺には見られない大き
な僧坊を作りました。その事は当時の讃岐の豊かさを想起さ
せますが、その源について、金達寿氏は『日本の中の朝鮮
文化』の阿波・土佐・伊予・讃岐編の中で、各地の遺跡を
あや
あや
見ていくと東讃岐は秦氏(新羅/加耶系)、中讃岐は 綾 (漢 /
安耶)氏、そして西讃岐は忌部氏が主体となって各地を開拓
した事がわかると指摘していますので、その指摘に従えば、
1
讃岐国分寺の僧坊跡礎石
あや
国分寺は中讃岐に位置する事から 漢 氏が建立の中心になっ
たであろう事が推測出来ます。
729~749 年
ちなみに、天平期 までに讃岐で建立された寺で今残って
し
ど
じ
いる寺は、国分寺の他に、志度寺 (7 世紀推古時代/さぬき市
いちの み や じ
志度町)を初め、一 宮寺 (701~4 年/高松市)や観音寺(703 年/
たどのごおり
観音寺市)等7寺程があります。その他にも 多度郡 では仲村廃寺
現在の善通寺/大師堂
645~710 年
跡が見つかっており、そこで発掘された瓦は 白鳳期 のものとされていますし、同じく善通寺市
よ さ か
吉原町にある曼荼羅寺では、寺伝で佐伯氏の氏寺として推古時代の 596 年に「世坂 寺」として
創建されたと伝えられていますから、それが事実であれば、当時の新しい息吹である仏教が多
度郡にも早くから伝わっていた事がわかります。そして、それは空海が生まれる 150 年以上も
前の事でした。
(ちなみに、空海の生地に建てられたとされる善通寺の創建年は 813 年と伝えら
れ、仲村寺が条里制の施工等の事由で廃寺となって善通寺が建てられたと見られています。)
当時、多度郡は 7 つの郷から成り、その範囲は瀬戸内海に面する多度津の港を表玄関として、
大麻山系の丘陵地を背に東に金倉川、中央に桜川、西に弘田川に囲まれた区域で、丸亀平野の
西端に位置しており、それは、今の仲多度郡多度津町及び善通寺市一帯に重なります。空海の
生まれた場所がどこかについては諸説があるようですが、多度郡で郡衛があったとされている
くにのみやつこ
あたい た
きみ
のは善通寺市の仲村郷で、 国 造 の家柄とされる父佐伯 直 田 公 が郡司として居を構えたとす
れば仲村郷でしょうから、従って空海は仲村郷で生まれたとするのが無理のない処です。
ところで、丸亀平野の東に位置する讃岐平野には旧石器時代の遺跡
き や ま
が残されており、国府が置かれたとされる坂出市府中町にある 城山
一帯はサヌカイトを産出した事で有名です。又、そのサヌカイトは
縄文時代は瀬戸内海が地続きだった事もあり中国地方に運ばれた事
がわかっています。その城山がある府中町に国分寺や国分尼寺が設け
られている事は、サヌカイトを産して以降、太古からここが讃岐の
中心として発展してきたであろう事を想起させます。事実、この付近
は縄文時代から弥生時代にかけての遺跡も数多く残り、綾歌郡綾川町
や多度津町の弥生遺跡から炭化米が出土している事は古くから讃岐で
稲作が行われていた事を示しています。
善通寺市立郷土館を訪ねると、城山から 10KM 程離れた所にある
たどのごおり
多度郡 も同じく、旧石器の遺跡や縄文遺跡がある事が理解できます
AE
が、眼を打つのは弥生期から古墳時代にかけて発掘された出土品で
す。例えば、今は東京国立博物館に常設展示されている国宝の銅鐸で
すが、その銅鐸は「伝香川県」と伝えられており、そこに描かれてい
る虫を採る蜘蛛やカマキリやイモリ等、高床式倉庫、稲作を示す
脱穀の様子等の絵柄は教科書でおなじみの描画です。又、弥生時代
の讃岐の人々の暮らしの一端をより具体的にイメージ化させてくれ
2
銅鐸(伝香川県);東京国立博物館
る展示として、善通寺西側の古代の灌漑用水路から発掘された大き
な“櫂”があり、当時は弘田川等の河川が主要な交通手段となって
いた事がわかります。先のサヌカイトで見たように、讃岐は石器時
代の昔から瀬戸内海を越えて少なくとも吉備地方に繋がっていた訳
ですが、弥生期の仲村郷も河川を通して九州・畿内まで行き来して
いた事がわかっています。
さて、もっと具体的な弥生期の仲村郷のイメージを与えてくれる
興味深い記事は、香川県埋蔵文化財センターのホームページ『香川の弥生
時代研究最前線』の“
(善通寺市)旧練兵場遺跡の調査報告”です。
善通寺市立郷土館掲示写真
それに依れば、この遺跡は「50 万平方 M に及ぶ面積や、500 棟以
上の堅穴住居跡と銅鐸・銅鏃などの稀少品の出土に見るように、
香川県下随一の内容を誇る弥生遺跡」で、ここから、「弥生時代後期
やじり
(約 1,900 年前)の鍛冶炉が見つかり、生産された 鏃 ・斧・万能ナイ
AE
EA
と う す
フである 刀子 が多量に出土」している他、銅鏃が発掘され、ベンガ
ラ、そして、朱が出土しています。
この鍛冶炉については、前回のレポート『阿波徳島と朱』で
発掘現場の説明会(写真/文は記事より)
見たように、お隣の徳島でも矢野遺跡や庄遺跡で弥生時代の鍛冶
炉が見つかっています。この弥生期の鍛冶炉については、村上
恭通氏が『倭人と鉄の考古学』の中で、
「(弥生)中期末以降、
九州以外の地域でも、中国、四国、関西、関東の各地域で鍛冶遺構
が散見される、
、
、」と述べて鍛冶が北部九州から伝えられた事が想起
できるとしています。又、併せて、
「弥生時代における鉄の技術は
直接的には朝鮮半島から伝えられた」と総括し、それが稲作技術と
共に伝わった事を指摘し、その時期は「朝鮮半島では技術のみでな
旧練兵場出土の銅鏃(ホームページより)
く紀元前 1 世紀の段階ですでに鍛冶工人の存在形態にも重層性が認
められた。
」としています。
善通寺市旧練兵場遺跡の調査報告には、ベンガラについては吉備
地方から持ち込まれた高杯に塗られている事、朱については『把手
付広片口皿の内面に付いた状態を確認しました。把手付広片口皿と
しんしゃ
は、石杵や石臼ですりつぶして 辰砂 を液状に溶いたものを受ける器
であり、旧練兵場遺跡で朱を使用したことを裏付けます。』とあり
旧練兵場遺跡出土の片口皿(同上)
ます。
こうした事から、今の善通寺市が形成された多度郡は、弥生期の
讃岐の一大先進地の一つで、大きな集落があり、そこでは鍛冶炉で
作った青銅や鉄の農耕具をも作れる技術力を有した人々の集団が、
稲作を伴った生活を営んでいた事が解ります。
片口皿に付着している朱(同上)
3
では何故にこの地である善通寺に自ずと人が集まり発展していったかと云う事になりますが、
それについては、善通寺周辺は昔から湧水が豊富な土地柄(善通寺市立郷土館長談)で、しかも、
微高地で河川の氾濫に対処しやすかったといった地形の利もその栄えさせた要因の一つだった
と思われます。
次に、興味深いのは王墓山古墳から出土した金メッキの(青)銅製冠
帽で、帽子を縁取る立飾り等の装飾はその精巧さで市の指定文化財に
なっています。その古墳からは銀象眼入鉄刀が併せて出土しています
が、これに類似した冠が朝鮮半島で出土している事からその関連が指
摘されています。
その理解を助けるものとして、
『日本の神々』山陽・四国編に
お お さ
、
、
、
、
掲載されている津森明氏の「大麻 神社」の項を見てみますと、
王墓山古墳/金銅製冠帽:郷土博物館
が は い し
『ところで、大麻山一帯には、大麻山とその北側の 我拝師 山(481M)とにはさまれた善通寺市
善通寺町地区を中心に多数の遺跡が密集する。まず、我拝師山の北側中腹からは昭和 41 年に総
高 29.4cm の流水文銅鐸が発掘されたが、これと同范のものが大阪市豊中市桜塚の原田神社にあ
り、しかも鋳型が大阪茨木市の東奈良遺跡で発掘され、鋳型と配布の研究に一石を投じること
になった。また同じ北側山腹からは青銅の平形銅剣 5 口が出土している。さらに我拝師山東麓
た い ま
の北原から銅鐸 2 口、そこから大池(当時最大の溜池)をへだてた 大麻 山北東麓の瓦谷からは平
形銅剣 2 口、細形銅剣 5 口、狭鉾銅鉾 1 口の計 8 口が 1 束になって出土し、善通寺与北町の陣
は が た
山からも平形銅剣 3 口が出土している。高瀬町の 羽方 遺跡のように銅鐸・銅剣が同伴して出土
した例は今のところないが、弥生時代中・後期の讃岐が瀬戸内海を隔てた東西文化の接点にな
っていた状況が、ここにも端的に見いだせるだろう。
』とあり、多度郡仲村郷近郊が瀬戸内海に
面し広域に繋がった要所で、銅製品等が作られおり、早くから拓けていた事を示唆しています。
次に 4 世紀以降の古墳時代の善通寺地域について、
古墳時代の項を続いて読んでみますと、、
、、
『また、この地域には古墳も多く、松本豊胤氏によれば、前方後円墳に限ってみても、「まず、
大麻山の標高 400M の地点に、後円部が積石で前方部が土盛りになる全長 45M の野田院前方後円
墳が築かれているのをはじめとして、大池の堤の直下に菊塚、大池の北西部に北原古墳、大池
から流れ出る水路を 300M ほど降った地点の小丘に王墓山古墳、その東約 500M に北向八幡山古
すりうすやま
墳、その東に鶴ヶ峰 1,2 号古墳、刳抜舟形石棺を出した 磨臼山 古墳といったように、この狭
い谷水田地帯に 8 基の前方後円墳が築造された」
(日本古代文化の探求『池』
)。、
、
、
、
、こうした
ぐん が
状況からみて、このあたりは多度郡の 郡 衛 の所在地でなかったかと推定される。なお、右の 8
基のうち大麻神社に最も近い磨臼山古墳の舟形石棺は造りつけの石枕をもっており、また王墓
山古墳からは金銅製冠帽、鉄地金銅張f字形鏡板や桂甲、馬鈴などの馬具類が出土した。大麻
山北側中腹にはもう 1 基、積石塚前方後円墳がある。さらに注目すべきは、同じ山系に、両袖
式横穴石室人物や舟や馬を線刻した宮が尾古墳があり、外来集団の当地への移住を示唆してい
る。
』とあります。
4
つまり、弥生時代“讃岐随一”の集落があった今の善通寺市
の旧練兵場遺跡周辺を中心に、
“外来集団の当地への移住”が
4 世紀から 6 世紀にかけての 300~400 年の間にも弥生期に引き
続いて何度もあって、それに伴い発展していったと推定できる
すりうすやま
わけですが、津森氏が述べた各古墳については、1)磨臼山 古墳
は 4 世紀後半の築造とみられ、版築技法と云われる技法で作ら
れている事、次に、2)積石塚前方後円墳とあるのは丸山古墳の
事で、5 世紀中葉の築造と見られ、阿蘇の溶結凝灰岩が使われ
ているのが知られており、この石を積み重ねて作る墳墓形式は
高句麗が発祥とされている事、そして、3)王墓山古墳や宮が尾
古墳は 6 世紀中葉から後半の築造と見なされ、王墓山古墳の
馬具類や金銅製冠帽の埋葬品が豊富に出土している事、又、
7 世紀初頭とされる宮が尾古墳は右写真のような線で大勢の人が
善通寺市立郷土館掲示図絵
漕ぐ幾つもの舟が描かれ、馬に乗った人物やその当人と思われる人物が埋葬される様子が墳石
に描かれている事等が、そのような推測が妥当であろう事を裏付けています。
この“外来集団の当地への移住”は俗にいう江上波夫氏の“騎馬民族説”を想起させますが、
江上氏は『日本民族の源流』の中でその騎馬民族説を次のようにまとめています。
『満州(中国東北地区)の夫余、高句麗とは恐らく直接の関係があって、元来は半猟半農的な
種族で、それに熱河方面の鮮卑や烏桓あるいは蒙古・長城地帯方面の匈奴等のいわゆる遊牧騎
馬民族の文化、さらに中国の漢民族の文化的影響も受けた、一種の半猟・半牧・半農的騎馬民
族――後世の満州族などに近い種族が朝鮮半島に南下して、南朝鮮の韓人・倭人の地に一時根
拠をつくり、さらにその主流が日本列島に渡来して日本の倭人を征服して、その中心地たる大
和地方に建国した、という騎馬民族征服王朝説を語ったのである。』
『すなわち、4 世紀前半、朝
鮮半島中部に初めて東北アジアの夫余系騎馬民族出身の辰(秦)王朝が成立し、韓人諸国(馬韓・
弁韓・辰韓など)の大半を支配した。その中心が最初は馬韓(百済)にあったが、後に弁韓に移り、
最後に筑紫(北九州)に上陸した。
“古事記”や“日本書紀”に記された天孫降臨はこれを指すも
は つ く に しらすすめらみこと
のと考えられ、御肇 国 天 皇 といわれた崇神天皇がこの最初の建国の主人公であろう。当時は
まだ朝鮮南部の伽耶に本拠地を置いていて、九州の筑紫までを支配する倭韓連合王国であった。
これがそもそも“日本”の始まりと考えられる。そして 5 世紀になると、応神天皇が伽耶から
北九州に渡り、勢力を増して畿内に東征した。さらに雄略天皇の代になると奈良に都を移し、
かの地の豪族たちと連合して大和朝廷をつくり、関東から九州までの日本列島の大部分を統治
するようになったのである。
』
このように、3 世紀ごろから 5 世紀ごろにかけての東・東北アジアは、中国に於いては、鮮卑、
匈奴等の南遷に依って、又、東北アジアに於いては高句麗、扶余等のアクティブ化に依って、
激動の時代を迎えており、日本列島もその渦中にあって、数次に亘る渡来の波を受ける中、
“日
本”という枠組みすら芽生えていないその時代、おそらく倭人と韓人の違いは地域差に依る位
のものだったはずです。そして、四国に於いてもその例外では無く、都度、新たなインパクト
を受容しつつ融合して発展していった事を遺跡や古墳は語っています。
5
つまり、讃岐随一の規模と云われた善通寺の弥生遺跡の近辺に、何世紀にも亘って、都度、
渡来の民がやってきて、各所に稲作を中心とする村落を形成していったと思われますが、村落
を形成すると、次にその集団の精神の拠り所として祖先を祀る場を村落内の重要な場所に設け、
共同体のシンボルとして崇めますが今に残る神社だったはずです。そうした視点から改めて善
通寺市近辺を見てみますと、次の様な神社が見受けられます。
例えば、善通寺市大麻町に鎮座する大麻神社は西讃を代表する神社の一つです。その祭神と
あめの ふ と だまのみこと
あ ま つ ひ こ ひ こ ほ の に に ぎ の みこと
して 天 太 玉 命 、配祀として 天津彦彦火瓊々 尊 等を祀っています。この天太玉命は言うまで
おおあさひ こ
もなく忌部氏の祖で、隣の徳島県鳴門市には同じ忌部氏を祀る 大麻比 古 神社があり、又、善通
あ わ い
寺市西隣の観音寺市の 粟井 神社も天太玉命を祀っており、忌部氏は阿波から讃岐に亘って大き
な勢力をもっていた事が辿れます。記紀に依れば、天太玉命は天孫降臨の際に随った五神中の
くしなし
し ら ぎ
一神です。この他、讃岐開闢の祖と言われる神櫛王を祀る 櫛 梨 神社、素戔鳴神を祀る 新羅 神
いい
社等をあげる事ができます。又、北隣の丸亀市にある 飯 神社については、『日本の神々』で津
う
だ
いいよりひ こ
“古事記”の伊
森明氏は『
“延喜式”神名帳に 鶏 足 郡所属の小社とあり、祭神は 飯依比 古 命。
邪那岐・伊邪那美二神が国土を生む条に、
「次に伊予の二名島を生む。この島は身一つにして面
四つあり、
、、讃岐国を飯依比古という」とあり、この神が讃岐の国魂とされていることが知ら
れる。、、
、祭神は他に少彦名命があり、さらに倉稲魂命と大年神も合祀されている。、、、この飯
神社一帯も穀倉地帯で、南方 15 キロの綾上町の末則古墳の近くで発掘された弥生遺跡から米の
圧痕のついた土器が、さらに西方の多度津町の三井遺跡からも炭化米が出土し、古くからこの
地に稲作が行われていたことを証明している。』と書いています。
では、空海の生まれ育ったとされる仲村郷ではどうでしょう
き
ぐ ま の
か。その氏神には 木 熊野 神社があり、同郷内の生野町と仲村町
い
ざ
な み の みこと
は や た ま お の みこと
に 2 社鎮座しています。その祭神は 伊邪那 美 命 や 速 玉男 命 等
で、生野町にある神社の石碑には“紀の熊野の大神はしも佐伯
の遠祖大伴家の斉き奉り、
、
”云々とあり、紀州の熊野本宮大社
から空海が勧請したとの伝承があるようです。その伝承がどこ
まで定かであるかどうかはさておき、興味深いのは、同名の木
み と よ
さ い た
熊野神社が善通寺から南に約 8 キロ行った処の 三豊 市 財田 町
木熊野神社:善通寺市生野町
財田上にある事です。
土讃線の讃岐財田駅から見渡すと、緩やかな山々に囲まれて
静かさと日差しに満ちた、住んでみたくなるような財田上の
小さな村落が目に飛び込んできますが、木熊野神社はその中央
に位置するこんもりした杜に囲まれた小さな神社です。そこの
土は幾分赤く、ベンガラが含まれる土地に見受けられます。
興味深い事に、香取秀真氏は『日本金工史』で、この財田町
の古墳で鍛治工具が見つかっている事を指摘しており、香取氏
のみ
は『鋼鉄を鍛錬して 鑿 の如き小機具を作る事は割合に簡単である。
6
木熊野神社:三豊寺財田町
かなしき
かなづち
かなはし
ろ
然るに古墳発掘の鎧兜などに至っては 鉄 床 、鉄槌 、鉄鉗 等の鍛治工具から、仕上げには鑿、罏
も備わらねばならない。』と書いて、その古墳の主が“鉄鍛冶であったのであろう”と推測して
います。又、三豊市は善通寺市の西隣に位置し、かって三野郡と呼ばれ、多度郡と共に西讃岐
と呼ばれ、ここでも銅剣や銅鐸が多数出土しています。
とすれば、財田上の木熊野神社の主が“鉄鍛冶の王”であったのなら、善通寺の木熊野神社
を奉斉した人々もそことの関連が考えられ、弥生期の遺跡である旧練兵場跡地で鍛冶遺跡が見
つかっている事はそれを示唆しているように思えます。
この鍛冶遺跡に関する論考として、谷川健一氏は『白鳥伝説』で次のように述べています。
み
の
あ
と
『讃岐の 三野 郡は三野物部の発祥地とみなされ、三野郡には 阿 刀 連もみえる。讃岐国の東部
あ わ の くに
から 阿波 国 北部にわたっては、物部の同族が羅列している。(段替)このように物部氏の同族が
ふ
つ ぬし
伊予、讃岐に多いところから、太田亮は物部氏が四国の北部を通って、経津 主 神を奉じながら、
畿内に入ったと推定している。
、、、
、大場磐雄は『考古学上から見た古氏族の研究』に収められ
ひらがた
た「物部氏とその東方移住」という短い論文の中で、平形 銅剣が讃岐と伊予に多いことを指摘
している。
』と、太田亮氏の指摘を援用しながら物部氏の北部九州から機内への東遷の過程に北
四国ルートを通った事を述べ、その金属工人集団を率いた物部氏の機内への東遷の時期は、
『倭
国が大乱に見舞われた弥生中期後半頃と考えるのがもっとも妥当である』と書き、次に、3 世紀
中国の魏と呉の緊張が邪馬台国に及ぼしていた事実を言及し、日本列島の歴史が東アジアの激
動に直結していた事を指摘した上で、その流れが、
『ミマキイリヒコ(崇神天皇)が 4 世紀初頭に
つ く し
み
わ
、
』事を招いたとしています。
筑紫 平野の邪馬台国から大和の 三輪 山さんのふもとに東遷した、
そして、
『
(当の東遷した軍隊は)
、伊予、讃岐、阿波など四国の北岸はその前に東遷した物部
氏の通過したところでその勢力がのこっていたので、ことさら四国の北岸を避けて通ったと思
われる。
』と書いています。ちなみに、谷川氏は物部氏が“外来集団”かどうかについては、氏
に ぎ は や ひ の みこと
の書作の中では直接述べていませんが、記紀にある、物部氏が奉斎する 饒速比 命 が神武帝に
あまのはは や
かちゆき
天羽羽 矢 と 歩靫 を見せて天つ神の子としての聖器の表徴を見せ合っている記述をもって同類
としています。
金達寿氏が『日本の中の朝鮮文化』の阿波・土佐・伊予・讃岐編で、東讃岐は秦氏(新羅・加
あや
あや
耶系)、中讃岐は 綾 (漢 ・安耶)氏、そして西讃岐は忌部氏が主体となって各地を開拓したと指
あや
あやは と り
くれは
とり
摘していた事は既に紹介しましたが、その 漢 氏については、漢 織 や 呉 (句麗)織 を伝えたと
やまとのあや
やまとのあやのあたい
あ
ち
お
み
「日本書紀」の応神期 20 年には、
『 倭 漢 直 の先祖、阿 知使 主 が
される 倭 漢 氏が有名で、
つ
か
お
み
』との記述が、同 14
その子の 都 加使 主 、並びに 17 県の自分のともがらを率いてやってきた。
ゆ つきの き み
「古事記」では漢直は
年に百済の 弓 月 君 が百二十県の人民を率いて来た事と共にあり、一方、
はた し
秦 氏 の祖で酒醸に優れていたとしていますが、その渡来は 4~5 世紀の事とされています。
いずれにせよ、このように見ていくと、善通寺市近辺にいろいろな神社がある事は、仲村郷
を中心とする多度郡一帯は、弥生時代以降 7 世紀に至るまで、時代と共にいろいろな技術や職
能や文化や習慣をもって移ってきた人々を受容しつつ、混じり合い、又、ある時にはその人々
が為政者になり、郡衙のある西讃の中心地となって栄えていった事がわかります。そうした中
7
で、そうした氏族単位の信仰を超えて、郷や国、或いは“日本”といった Unify 化が必要とな
った時、人々が一つにまとまれる新たな精神的支柱として仏教が求められる事になります。そ
うした背景が、中村郷に於いての仲村寺や曼荼羅寺の建立に繋がっていきます。
ところで、旧練兵場遺跡で見つかった朱とは、古代の日本列島の人々にとってどのようなも
のだったのでしょうか?又、朱(水銀)はどのような意味をもち、どのような使われ方をされて
いたのでしょうか?
朱は鮮やかな赤色をした水銀と硫黄の化合物(HgS)の事で、その朱に
ついて、松田壽男氏は『古代の朱』の中で、
『、、
、水銀は、縄文土器の
時期いらい日本人の生活と密着していた。おそらく朱(硫化水銀)と砂
金とは日本の石器人が最初に手にした金属だったといえる。
』と書き、
『黄金や朱砂の産地では、今日から考えるとウソのように、あちら
こちらに露頭があった。山奥の露頭部が流水のために削られ、それら
が川に運びおろされ、川床の水速がゆるむ部分に堆積する。、
、、われ
われの祖先の目をひかなかったはずはないであろう。』と述べ、『日本
という島は、まったく水銀鉱床の上に乗っているのではないか、、
、
古代の朱産地と確かめた諸地点は青森県から鹿児島県にわたり、全国
亀ヶ岡遺跡:(朱塗布)
的な分布を示す、
、
』と指摘しています。
土器や弓矢に赤/黒漆で塗った縄文期の遺物が日本列島の各地で発掘
国立歴史民俗博物館
されていますが、その赤色は朱かベンガラ(酸化第二鉄 Fe 2 O 3 )が使われました。土器や藍胎漆器
に朱を塗る事例は縄文後期頃から見られるようになってきますが、土偶に朱が塗布されて出土
する事例もよく見られます。
弥生期については、誰もが一度は手にした事がある『魏志倭人伝』に“丹”に関する記述が
何ヶ所か有り、興味深い記述ですのでそれを見てみますと、、
、
その一つ目は「狗奴国」について述べたもので『、
、、男子無大小
皆黥面文身、
、断髪文身以避蛟龍之害、、後稍以為飾諸国文身各異或
左或右或大或小尊卑有差、
、
、(男子は大人小供も皆が身体に入れ墨を
しており、髪は短くし入れ墨をして危険な魚[蛟龍]の害を避けたが、
、
、
、今は、飾る目的の為と変り、各国の入れ墨の紋様は異なり、
左右・大小・貴賎に依っても異なっている)、
、、』との記述、二つ目
は、
『、
、
、倭地温暖冬夏食生菜皆徒跣有屋室父母兄弟臥息異處以朱
丹塗其身體体如中国用粉也食飲用籩豆手食、、
、(倭地は温暖で、冬
は
だし
夏[中]、食生菜を食べる。皆 徒 跣 で、屋室が有る[生活をしている]。
父母兄弟は臥息[寝]る所を別にし、朱丹を以って其の身體に塗るが、
おしろい
へん
それは、中国での粉[白粉 ]の用い方の如くである。食飲には 籩
[竹籠製高杯]を用い豆を手で食す)、
、、』との記述で、三つ目が、
『、
、
、其山丹有(そこ[邪馬台国の山]には丹が有る)、
、
、
』の記述です。
旧練兵場遺跡の石棺蓋絵
:善通寺市立郷土館
8
この『魏志倭人伝』は言うまでもなく中国の史伝で、中国語の“丹”の意味は本草備要に見
おしろい
るようにベンガラでは無く朱(水銀朱)を指していますが、「中国では 白粉 を塗るのに、倭人は”
朱丹“を塗る」とわざわざ書いているのは朱及びベンガラを塗っていると使用材料を特定して記
録に留めておきたいが故と読み取れます。
ところで、貴賎等を識別する「社会ルール」の表現手段として“文身”に使われた朱やベンガ
おしろい
ラですが、白粉 のように使用するとの指摘は、単に顔料として使用されただけでなく、もっと
広い意味で使用されていたと思います。何故なら、倭人伝には文身して危険な魚からの害を避
けたとありますが、これは紋様を身体に赤色で描く事で危険を視覚的に避けただけでなく、魚
の み しらみ
や獣が朱を嫌った事の体験がベースにあって文身したと思えるからです。朱には 鑿 虱 から蚊
や毒虫に至る虫除け等に有用でした。これに類する事例は、松田壽男氏が『古代の朱』で指摘
に
ほ
つ
ひ
め
お きながたら し ひ め
する『播磨風土記』逸文の話で、それは 爾保都比売 が 息 長帯 日女 命に差し出した赤土(朱砂)
を鉾や船に塗ったり、兵士の着衣を染めたり、海に撒きながら渡航したので、「底潜る魚、また
ゆ き かよわ
高飛ぶ鳥ども 往 来 ず、
前を遮らざりき」の状態で安全に航海できたと云う話です。
このように、
朱の“効用”が古代の人々にとってどのように理解され利用されていたかが解りますが、古代
の生活に於いて、草木に遮られた道を歩いての引っ掻き傷の化膿防止や虫除け等、当時に於い
ては朱は身近に得られた鉱物で、重宝されたはずです。
もちろん、富士川游氏が『日本医学史』の「太古時代の医術」の項で『佐藤方定は仁古太(人
ぶ
す
こうぼく
に
す
な
参)・於宇(附子 =トリカブト)・保寶加志波(厚朴 =ホウノキ)・阿満紀(甘草)・依毘須加良美(胡椒)・爾須那
は
ず
(丹砂)・伊奴万面(巴 豆 )・飫天師(大黄)の八薬を挙げ、この八薬は我が邦神代より既に存せしも
のなりことを詳述せり。その説の基づくところは、延喜式に此等の薬物を毎年貢物に添えて奉
れり、当時これを添物と称して人皇初代より仕来り恒例なればなりと言うにあり。この説は猶
ほ深く攷ふべきことなり。』と書いているように、丹砂=朱のみが有用薬物として使われていた
つの
あい
訳では無く、この他にも鹿 角 や 藍 等、古代の人々は自然界の有用動植物及び鉱物を識ってい
ましたが、しかし、朱は、今からでは想像できないほど多用途に使われていました。
例えば、朱は銅鏡等の研磨剤として使われたと言われていますし、又、朱(そしてベンガラ)
は、古代の人にとって青銅や鉄を作る際に重要な役割を果たしていたと思われます。と云うの
は、先のレポートで見たように、善通寺市の旧練兵場遺跡や徳島市の矢野遺跡や庄遺跡の弥生
時代の鍛冶炉跡で朱が見つかっているからです。谷川健一氏は著作の中で古代の銅/鉄などの精
錬遺跡に朱/水銀が見いだされている事に注意を払っていますがその指摘しているだけで、それ
が何故かの確たる理由を氏は書いていません。が、それはおそらく、水銀の金等の金属と合金
を作る性質、つまり逆には、原石中の不純物を除去できる特性と、又、水銀が 350℃の低温で蒸
発する特性を利用しての金属精錬に使用した故と思われるのですが、定かではありません。更
かむやまといわれびこ
には、日本書紀の 神 日本磐余彦 天皇(神武天皇)の東征の項には朱/水銀を使用したと思われる
に
し き と
べ
話が載っていますが、それは“熊野で女賊の 丹 敷戸 畔 を誅した時に、(女賊の)神が毒気を吐
おとろ
“宇
いて人々(兵卒)を 萎 えさせた”[宇治谷猛『日本書紀』講談社学術文庫]と云う話、及び、
や
そ た け る
陀の国見丘の 八十 梟師 が軍を率い、墨坂で炭をおこして神武軍を待ち受けたので進軍できない
でいたが計って川の水で炭を消して打ち破った”との話で、これらの話は女賊の名前に“丹”
9
は入っている事や宇陀が朱産地であった事を考慮すれば、水銀蒸気を発生させて“肺壊疽”を
生じさせた“化学戦”だったと理解すると肯える話になります。ともあれ、朱/水銀は古代に於
おしろい
いて誰もが“白粉 ”として使うくらい身近な存在で、いろんな用途に用いる、有用で“万能の
価値を持つ粉”でした。それは、松田氏が指摘する『日本という島は、まったく水銀鉱床の上
に乗っている』という背景がそれを可能にしていたのです。
さて、先に(善通寺市)旧練兵場遺跡で朱と鍛冶遺跡がセットで発掘されたり、又、善通寺の
旧練兵場遺跡で皿の内面に朱が付いていた事は既述の通りです。
こうした皿に朱が付着した出土事例について、本田光子氏は“弥生時代の二つの赤色“(『西
日本文化』No.426 号)及び“
「朱」から見た弥生時代の文化交流-博多湾沿岸地域に残された辰
砂の謎-”
(
『日本文化財科学会会報』第 46 号)の中で、次のように指摘しています。
すなわち、近畿地方と北部九州の葬送に於いて、弥生時代の始まりとともに朱(硫化水銀)が
使われはじめ、弥生時代後期からはベンガラ(酸化第二鉄)も使われ、6 世紀半ば頃の古墳時代ま
で朱やベンガラが葬送に使用された事を述べ、朱やベンガラが
葬送に用いられた事は“汎世界的な事実”で、日本ではその当時、
朱及びベンガラが北海道から九州まで全国で使われた事を指摘し、
そして、善通寺に出土した「把手付広片口皿」のように朱の付着
した“内面朱付着土器”が近畿、瀬戸内を巡る地域、山陰、北部
九州で“石杵”と共に出土していると述べ、
『内面には必ず朱が
付着し、外面は煤で黒くなっているので、この土器に朱を入
れて火にかけたことも想定される。朱は熱すると黒くなり、
内面朱付着土器(『西日本文化』ヨリ転載)
さらに高温になれば昇華し水銀になる。
』と述べて、弥生期に於いて既に水銀を得ていた可能性
が大きい事を示唆し、又、その用途については、葬送に用いられた事に加え、漆器等の顔料、
そして、
『実利的な仙薬の効力あるいは神仙思想の象徴』として使わ
れたと述べ、既に中国の水銀の利用法が弥生時代の倭人の世界に伝え
られ共有されていた事を推定しています。しかし、残念ながら鍛冶遺跡
との関連についての言及はありません。
ところで、古墳時代には、奈良の桜井茶臼山古墳で石室に朱が全体に
塗られていた事例が 2009 年に公開されたように、古墳に朱(そしてベン
ガラ)が撒かれている事例が少なからず全国規模で発掘されています。
そして、残念な事に、その朱の塗布に事由について、“魔除け”や
“死者の再生”として使われたとする「呪術」としての用途として解釈
されているのが一般です。しかし、朱には、先に述べたように防腐効果
もがり
があり、死者を悼む 殯 を営むにあたり、腐敗を少しでも遅らせたい、
奈良・桜井茶臼山古墳
原形を留めたいと思う残された人々の発露の故から石室内に眠る遺体に直接撒くと共に、そう
した身近な“万能粉”を少しでも多く死出の旅路に持って行ってもらう事が、その旅路を安全
にし、又、死後の世界での生活を安らかにと願う弔いの気持ちがあって、朱をそばに置いたと
考えるのは私の独りよがりの見方でしょうか。
10
ともあれ、そうした古代の人々の知恵や合理性、そして畏敬や沈思の念を見ずに、唯、
「呪術
の朱」として解説し理解しようとする昨今の新聞記事等の論調に危惧と憤りを覚えます。
さて、弥生時代の水銀の採取法とされる「把手付広片口皿」を見ましたが、シャルロッテ・フ
ォン・ヴェアシュア氏は『唐・宋における日本蓬莱観と水銀輸入について』(「唽江工商大学日
本文化研究所」及び『アジア遊学 No.3』所収)の中で、次のような示唆に富む指摘をしています。
『錬金術は紀元前から中国で知られ、北魏時代からもっとも栄えていた。ニーダムは 5 世紀
から 8 世紀末までの時期を「錬金術の黄金時代」とよんでいる。、
、、日本にはおそくても遣隋使
時代に中国の医学と錬金術が伝わり、丹薬は平安初期に嵯峨天皇と仁明天皇をはじめ、藤原忠
平等貴族に愛好された。
』と述べ、『唐時代に朱と水銀は丹薬のなかでも特に重要な位置を占め
るようになった。
「太清丹経」で記されている丹薬 27 種の内 21 種は朱を、11・2 種は水銀を含め
る』と書き、次の様に書き進めます。
『朱砂からの精錬水銀と自然水銀との質は異なる。朱砂(辰砂)は赤色でありながらその精錬
水銀は色が変わり、現在の体温計で見れるような銀灰色になり、比重は 8.1 である。それに対
して自然水銀はピンク色であり、比重は 13.6 である。言うまでもなく、自然水銀は一番純度が
2 65 ~4 20
高い上質物であった。』と述べ、中国の唐宋時代について、『昔、晋の 葛哄の時に広西の容州の
丹砂鉱山は一番良質とされていたが、「本草」によると湖南の辰州が最高である。、
、、しかし宣州
と辰州の丹砂が良質でありながら仙薬製造にはたりない。、、、帰徳州大秀の鉱山でとれる丹砂か
らは真の仙薬に使える水銀を得られる。その丹砂の内の鮮血のような色の部分は一番適してい
る。
、
、
、真汞は帰徳州のある道墟で二、三寸の穴を掘ると自然に摘出するが一回に付き半両ぐら
いしか得られない。真汞は色が紅粉のようで、丹砂から得た水銀の白青色ととても異なる。
、
、、
』
と書いて、中国で自然水銀が良質の仙薬であったものの需要に対し供給が足りなくなっていた
事に注意喚起しています。
そして、更に、氏は朱から水銀を得る方法の日本列島への伝来については、次のように書き
ます。
『水銀を次の方法でとることが出来る。朱砂を加熱して水銀を
気化させ、その蒸気を水中に導き、水銀は水中に粒状液になる。
この方法は明時代の「天工開物」で詳しくのべてあるが、中国で
早くても紀元後 3 世紀から知られていた。日本には 6 世紀前後に
何らかの精錬技術が伝来し、9 世紀以後に中国古典から習って、
「本草和名」
「大同類聚方」
「和名類聚鈔」等で簡単な記述がみら
れるようになる。
、
、
、日本では古代に辰砂の鉱床が全国に分布して
いた。
、
、
』
これに関連する記述は松田壽男氏の『丹生の研究』で、道明寺
ホームページ『天工開物』ヨリ転載
古墳(大阪府南河内郡美陵町)で採取された朱の分析結果が『水銀 82.5%、遊離硫黄 0.6%』で、
この遊離硫黄の混在から人工朱であると断定された事が書かれています。尚、道明寺古墳は藤
井寺市道明寺付近一般の古墳を指し年代が特定出来ないのですが、同文中に道明寺古墳は天神
山古墳より年代的に古いと書いてあり、天神山古墳の築造は 3 世紀末以降ですから、とすれば、
弥生時代の 3 世紀後半以前には人工朱の製造は始まっていた事になります。
11
たかいちぐん あ す か む ら お か
視点を変えて、次に見ておきたいのは、高市郡 明日香村 岡 にある『酒船石遺跡』です。酒船
石遺跡は丘陵上に座する“酒船石”と丘陵北裾の谷に設けら
れた“亀形・小判形石造物の導水施設及び湧水施設”の呼称で、
一般に祭祀遺跡と評価され調査が続けられています。
酒船石がある丘陵を上って行くと、羊歯の“ヘビノネコザ”
(金属鉱床地帯の指標植物)がたくさん見受けられますので、
ここに酒船石がある事は“朱”だけに留まらず、ここ明日香
(飛鳥)が何らかの金属に関連があり、そうであればこそ、
ここに酒船石が置かれた推測してもおかしくない場所にあり
ます。
酒船石&
ヘビノネコザ
ところで、この“酒船石”について、象形を施されて祭祀
用に用いられた巨石としてでは無く、
「朱造石」と位置づける問題提起をしたのは市毛勲氏です。
氏は酒船石を朱の原石である辰砂を砕いた粉末辰砂を酒船石に刻まれた高低差のある溝に水と
共に流す事で比重差から選り分けて朱を得た“選別装置”とする論考を『朱の考古学』の中で
詳述しています。が、それは残念ながら、定説として認められるには至っておらず、祭祀遺跡
と見る見方が一般です。
しかし、市毛氏に留まらず、明日香村岡の“酒船石”を朱の遺跡として見る人に佐藤任氏が
おり、氏は『空海のミステリー』の中で日本列島の古代に於ける朱関連遺跡を以下のように述
べて、
“日本列島に於ける朱造の発展の様”を鮮やかに描き出しています。
氏は、まず、縄文晩期-弥生の複合遺跡である三重県勢和村(現;多気郡多気町)丹生の“池
の谷遺跡”の出土品に石盤等と共に壺があり、その中に入っていた辰砂粉末は、分析結果から
それが現地産で、しかも、その遺跡の傍には抗跡が 300 程ある事を指摘した上で、次に、酒船
石について以下の様に書いています。
『石盤の一つを地元の人が保蔵しているが、それは縦 73cm、横 55cm、厚さ 20cm の扁平形で、
表面に穴=池がいくつか彫られており、穴と穴は溝で結ばれている。穴の大きさは直径 6cm、深
さ 3cm 余で裏面にも同じように彫られている。
「段替」石盤以外の同様な用具が、当地の河川工
事のときに大量に出土した。自然石を利用した臼と杵は、辰砂を磨り潰すための道具であるこ
とは明らかであり、石盤は辰砂粉末を水と一緒に流して、穴に溜まった比重の重い辰砂を取り
出す選別装置と判断された。』と書き、この丹生の地に空海ゆかりの丹生大師=神宮寺がある事
を注意喚起して、次の様に続けます。『
(この)丹生の辰砂比重選別装置と同じものが奈良の明
日香にある。いわゆる酒船石がそれである。丹生の石盤と比較して遥かに巨大である。、、
、酒船
石は 7 世紀の物だといわれている。しかし実際はもっと古いだろう。、
、、、
』
朱の採取が行われたと推測される縄文晩期以降の遺跡は、佐藤氏が指摘する池の谷遺跡だけ
でなく、前回のレポート『古代・北東北の朱と漆』で見たように、日本列島に於いて東北北海道
を含めかなり広範に行われていたと推測できますが、その代表的な遺跡は徳島県阿南市の若杉
山遺跡です。この遺跡は出土土器から判断して弥生時代後期から古墳時代初めにかけての遺跡
12
と見られており、右写真がその石皿/石臼です。見比べると、酒船石
のような比重選別装置が“丹生”地名が残る所で発掘されている事
は、採取量を増やそうとした“技術革新”の渡来/導入があったはず
で、明日香村に残る酒船石が三重県多気郡多気町丹生の石盤より
はるかに大きい比重選別装置である事は、7 世紀に至る何百年の
流れの中でその改良と技術革新があった事を物語っています。
そして、先に見た“内面朱付着土器”が弥生期に見られる事は、
石皿/石臼:徳島県立博物館
水銀の需要が弥生時代から既にあって、その水銀が人工的に作ら
れていた可能性も否定できない程、そのニーズと技術革新があった事になります。
さて、
“酒船石”及び“酒船石遺跡”と隣接する丘陵上にある
“飛鳥池工房遺跡”は、酒船石を祭祀遺跡と見る為か、関連の
無い別の遺跡として扱われているように見受けられますが、
酒船石を比重選別装置として見るなら、これらの遺跡は一連の
遺跡と見た方が妥当です。
すなわち、辰砂等の原石を比重選別して選鉱した装置が
“酒船石”で、その単一の選別装置を著しく革新し発展させ、
複数の作業集団が同時に作業できる機能と能率を UP させた施設
が“酒船石遺跡”で、単なる「亀形・小判形石造物の導水施設
及び湧水施設」と見れなくも有りませんが、何故に工房の隣に
導水&湧水施設を設ける必要があったかと云えば、湧水する
水を利用して高能率の選鉱ができるよう導水設備を備えた
選鉱場と解釈する方が“酒船石遺跡”を合理的に捉えられる
酒船石遺跡:亀形・小判形石造物
:明日香村教育委員会調査資料ヨリ転載
と思います。
飛鳥池工房遺構図及び発掘調査写真:
奈良県立万葉博物館パンフ資料ヨリ転載
13
そして、その選鉱された金属原材料を用いて溶かし、いろいろな金属製品を加工した工場が、
酒船石遺跡の谷を北に上がった丘陵隣の丘陵に設けられた“飛鳥池工房”でした。
この“飛鳥池工房遺跡”には炉跡が 300 基も残っており、金属・ガラス・瓦・漆等を作り、鋳造
ふ ほ ん せん
貨幣「富本 銭 」を始め建築金物や工具、武具、仏具を生産した 7 世紀後半から 8 世紀初めにか
けての生産工房遺跡です。ここでは、銅銭や金・銀のメッキも行っており、仏像鋳型も発掘され
ていますから、メッキ工程のアマルガム等で水銀が使われたはずです。(ヴェアシュア氏は『大
日本古文書』に 734 年造仏所で「小 11 斤 17 分 3 銖」の水銀が使われた記録がある事等を指摘
しています。)
くらのつくりの と
り
飛鳥時代を代表する仏像としては、飛鳥寺にある 鞍 作 止利 が 606 年に完成させたと云われ
る金銅仏の釈迦如来像が有名ですが、金銅仏は銅の鋳型に金メッキを施した仏像です。この釈
迦如来像が工房で作られたとする記録はありませんが、飛鳥寺はこの工房遺跡に隣接した所に
あ す か きよみ は ら の み や
あり、この工房で作られたとしてもおかしくはありません。又、この工房遺跡は 飛鳥 浄 御原宮
から 300-400m の処にあり、奈良文化財研究所は飛鳥池工房を“古代の技術を集積したコンビナ
ート”と位置づけしていますが、このように、飛鳥時代に入るとそれ以前の古墳時代の質を数
段凌駕した技術をもって“国造り”を始めたとの印象を持ちますが、この時代を作った人々と
は、日本書紀が飛鳥寺の建造にあたって百済の技術者を招聘したと述べているように、その担
い手は渡来人に依ったとしか考えようがありません。
ところで、日本列島の古代に於いて画期的な意義をもつものの一つは、奈良の大仏の建立です。
当時、世界でも類をみない高さ 16M もの青銅製の仏像が東アジアの辺境に位置する奈良に建てら
れました。
この東大寺の大仏の建立は、空海の生まれる約 40 年前の 743 年の
聖武天皇の「盧舎那仏造営の詔」に始まるとされますが、松本清張
げんじん
氏は『眩人 』の中で、次の様な興味深い指摘をしています。
それは、仏教が信仰によって民心を統一する手段として利用され、
前秦/後秦/北魏等の胡族の国々が仏教を庇護し、隋も踏襲する訳です
が、唐朝に於いては則天武后によって道教から仏教に国教が変わり、
金光明最勝王教をもって国家鎮護の経綸となったと書いています。
そして、国家安泰の道具として、仏教を道教と同列として扱うよう
“道観”(道教の寺)と“寺”を一州毎に建て、大雲経寺という名の
官寺を作った他、慮遮那仏の大像を造らせようとした事を指摘して
います。又、清張氏は、併せて、日本での国分寺/国分尼寺の建立
奈良の大仏
及び東大寺での大仏の造営は、聖武天皇の后であった光明子(藤原
不比等の娘)が影の推進者であったとし、それは唐の則天武后の影響が背景にあったであろう事
を説得力ある筆致で記しています。
それはともかく、大仏の造営にあたっては、
『東大寺要録』によれば、寄進者 42 余万人、作業
に ぎ あかがね
し ろ め
者延べ約 216 万人もの人が関わり、用いた材料は、熟 銅 が 739,560 斤((168 トン)、白鑞 [鉛
こながね
しろがね
と錫との合金]が 12,168 斤(2.8 トン)、錬 金 が 10,436 両(148kg)、水銀 が 58,620 両(831kg)と
14
記録され、747 年から 749 年までに 8 回もの鋳造を行って完成し、本体の鋳造から塗金完了まで
約 10 年、大仏殿の建設が約 4 年など、延べ 26 年という長い年月を費やしたとあります。[Kg 換
算はホームページ『農業科学博物館』の Kg 換算表示:1 両=14.18g に基づく] ちなみに、Kg 換算に
ついては諸説があり、例えば、石野亮氏は『奈良の大仏をつくる』の中で『仏体に現在残ってい
る塗金の厚さをはかってみましたら 5 ミクロンほどで、記録に残っている金と水銀の使用量から
の計算とだいたい一致します。
』として、小両=12.5gとしての記録であったと見た方が妥当とし
ています。ともあれ、大仏様の鍍金に水銀を 831Kg 使用したとすれば、その水銀量は水銀比重が
8.1 として 1L の牛乳パックで約 100 箱強が使われた事になります。鍍金作業は右下絵のように、
櫓を組んで、塗りつけては火で暖めて乾かし次に進むという作業で 5 年をかけて鍍金したと記録
は伝えています。
う め ず
あぶら
石野亨氏は、そのアマルガムのやり方について、1)表面を 梅酢 で塗り、手あかや 脂 を落とす、
2)水銀に小金塊を入れゆっくり加熱し、銀白色のペーストにする(アマルガム)
3)鉄べらでアマ
ルガムを塗りつけ、和紙やわらで束ねたたぼで
こすりつける、(銀白色に輝く)、4)350℃以上に
加熱し水銀を蒸発させる、5)布等でみがき黄金
色に仕上げる。と書いています。
歯科技工士の鈴木悦彦氏によれば、2-30 年程
前までは虫歯で出来た小さな穴は水銀で埋める
治療をよく行ったとの事で、その時の水銀と金
(銀)の割合は 1:1 だったとの事ですので、この
アマルガムの割合は、石野氏が同本で『使用材料
の記録から当時の金と水銀の割合を計算すると
1:5 くらいになります。この配合ですと非常に
香取忠彦氏(絵/穂積和夫氏)『奈良の大仏』ヨリ転載)
やわらかいペーストができ、ぬるのもかんたんです。』との記述に重なります。
ところで、この水銀を蒸発させる作業は非常に危険で、山本斌曠氏は『はるかなる水銀の旅』で、
え
そ
水銀蒸気を多量に吸うと肺 壊疽 となる事を指摘しています。そして、記録には書かれていないも
のの、この鍍金作業で水銀中毒にかかった作業者が多数出たであろう事を推測する一方で、絵のよ
うな外からの熱し方でなく、青銅の仏像の内面にまき/炭を積んで燃やして蒸発させたのではと書
いています。この見解は矢嶋澄策氏も同じで『日本水銀鉱床の史的考察』に内側で木炭を燃やして
水銀を蒸発させたと書いていますが、ともあれ、鍍金を始めた前年に大仏殿は出来ており、堂内に
水銀蒸気が満ちた状態で、5 年以上かけて鍍金作業を行ったとあるので、一体何人もの人がこの作
ははき ぎ ほ ー せ い
業で病に倒れたりしたのかは想像だにできません。帚 木 蓬生 氏の小説『国銅』には長門国奈良登
さおどう
りで銅鉱石を採取し 棹 銅 に吹き、その銅を溶かし鋳造し、鍍金して大仏を完成させるまでの過程
を一人の男を通して描いている力作で、その中に水銀蒸気を吸って廃人となった工人の描写があり
ますが、痛ましいものです。尚、一説にその被害がすごすぎて奈良から京都に遷都されたとの説が
あるほどですが、作業従事者の水銀中毒のあり様は、当事者の苦しみに加え、大仏様建立の関係者
の心をも深く苦しめたに違いありません。
15
す く ね いま え み し
尚、空海の身辺に沿った朱の話になりますと、空海の叔父である佐伯 宿禰 今 毛人 は、造東大寺
司の長官にまでなった人でしたので、空海は家族から叔父さんの話として東大寺造営の事が出た際
に鍍金の話に及び、そこで朱に関する話を聞いたとしてもおかしくありません。又、大仏の造営に
すず
あたり讃岐の西隣の伊予から水銀並びに 錫 が供出されたとの記録が続日本紀にありますし、金鐘
寺(後の東大寺)自体が讃岐国分寺を含む地方国分寺の総寺として位置づけられ建立された事を思
えば、讃岐国分寺国分尼寺の建設の際にも、朱及び水銀が使われた事は大いにありえる事柄です。
このように、空海が育ったその時代、朱(辰砂)及び水銀は特異なものでは無く、身近な話題の端々
で間接的直接的に朱や水銀に関する話が出て聞き知るものであったはずです。
ここまでは空海を辿るより、空海が生まれる 8 世紀までの日本列島に於ける人々と朱の係わ
りについて縄文期から見てきた訳ですが、それを踏まえた上で、以後、空海の軌跡を辿ってい
く事とします。空海の周りには朱/水銀との係わりが不思議なくらい密接に浮かんでいるのです。
まず、空海は 15 歳になって勉学の為に母方の叔父の阿刀大足を頼って故郷の讃岐・多度郡か
ら都に出たとされています。
そして叔父の元で勉学に励み 18 歳になって大学寮に入るのですが、
さんごうしいき
せっけい
な
とりひし
24 歳の時に書いた『三教指帰 』の中で、空海はその時の勉学を『雪 蛍 を 猶 お怠るに 拉 ぎ、
じょう す い
縄 錐 の勤めざるに怒る。』と記したように猛勉強したと回想しています。確かに、三教指帰を
読むと中国の文献の言及にいとまなく、その博識には驚かされ、空海の感慨はさもあらんと思
ぐ も ん じ
います。しかし、空海は大学寮に於ける儒教の勉学の道に入って程なくして、虚空蔵菩薩 求聞持
法教をある沙門に教えられ、又、儒教の勉学に興味を失ったと記しています。そして、三教指
帰の序章に空海が書いているように、その修行に際し阿波の
寒谷(かんだに)
だいりょう
大滝 嶽や土佐の室戸崎で“勤念”する生き方を選び
EA
ます。その生き方は、渡辺照宏/宮坂宥勝氏の『沙門
空海』に依れば、
『一沙門より求聞持法を授って阿波の
大滝岳や土佐の室戸崎[三教指帰]、あるいは石槌山や
ろ う こ
石峰山[聾瞽 指帰]など、主として四国の山地をめぐり
歩いて、言語に絶した修行をかさねた。
「御遺告」に
よると、それは二十歳のころまでつづけられたようで
ある。
』とあるように、
『名山絶巘の処、石壁独岸の奥、
=沙門空海=』の地で修行するのですが、三教指帰の中
で書かれている上記の場所は、実に興味深い事に、朱
産地或いは金属に関連ある所です。
まず「阿波の大滝嶽」ですが、これは徳島県阿南市
た いりゅうじ
水井町にある 太 竜寺 の地とされています。この太竜寺
から直線距離で 2KM も離れてない所に若杉山遺跡と
水井水銀鉱山があるのは良く知られた事実です。この
山本斌曠氏『はるかなる水銀の旅』ヨリ転載
若杉山遺跡は、以前のレポート『阿波徳島と朱』で見たように、弥生時代末から古墳時代初め
をピークに朱の原石である辰砂を採掘してそれを石杵及び石臼を使って砕き精製して朱(水銀
朱)を採取した遺跡として有名です。この地は、弥生や古墳時代だけでなく、江戸時代に於いて
16
も水銀の産出地として有名でした。江戸時代末期に佐藤信淵氏が書いた『経済要覧』に水銀産
に
う
地の一つとして“阿州の丹生谷”をあげていますが、この丹生谷は今の徳島県那賀郡那珂町 仁宇
を中心とする地域で、太竜寺から那賀川沿いに 5kM も遡らない場所で目と鼻の先です。
又、ホームページ『ダディの引き出し』の「水井鉱山と辰砂」に依れ
ば、
『ここの水銀鉱床は、秩父帯の醍醐層群(石炭紀)と若杉山層群
(ペルム紀)に属する石灰石やチャートまたは輝緑凝灰岩中の裂け目
に貫入した鉱脈である、と加茂谷水銀鉱脈調査報告書(昭和 31 年
刊行)に記されている。かって若杉山周辺には辰砂の露頭がいくつ
もあり、この鉱石から朱を得ていたことが先人達の研究からわかっ
ている。』とあるように太滝寺一帯は辰砂の鉱脈で、明治 20 年代に
なって本格的に採掘された水井水銀鉱山では、累計 2 トン強の水銀
生産をおこなったと徳島県由岐水銀鉱山水銀鉱床調査報告(昭和 30
年)にある事が書かれています。
今、この朱(辰砂)の跡を辿りその痕跡を確認するには、まず、
太竜寺の参道をロープウエイから反対の方向から登って来ると参道
の崖沿いに辰砂帯と思われる赤い層が 2 層露出している所が注意
して見るとある事と若杉山遺跡の小さな沢に赤い辰砂を含有すると
辰砂層が見れる太竜寺参道
思われる石脈を見る事が出来ます。
若杉山遺跡で辰砂が採取された「弥生時代終末から古墳時代初め」と
は 3 世紀後半から 4 世紀初めの時代を指し、空海が生きた 8~9 世紀
から見ると 500 年程の開きがあり、一見、空海とは関係ないように
見えますが、この一帯は「石灰岩・輝緑凝灰岩中の断層に沿う鉱染
状鉱床」(同報告より)上にあり、そして、その山稜を空海は“勤念”
しながら巡り修行したのでしょうから、とすればその際に鮮やかな
赤い色をした辰砂の鉱脈を見たとしてもおかしくはありません。
辰砂の結晶 =中国/湖南産=
ホームページ『四国八十八ヶ所霊場会』の太龍寺の処には、寺の境内
から 6M と離れていない「舎心獄」と呼ばれる岩上でその修業をした
との言い伝えがあるそうですから、とすれば、その場所と赤い地層
は目と鼻の先です。
又、前頁上地図にあるように、那賀川上流には丹生神社(現在八幡
神社と合祀され“八幡神社”の呼称)が祀られていますので、朱を
採取する事を生業とする人々と空海との間で何らかの交流があった
としても意外ではありません。
朱
さて、辰砂は中国/湖南省事例(写真右)のように結晶状にもなりますが、山本氏が『はるかな
る水銀の旅』の中で『辰砂は石灰岩やチャートの中に数 mm から数 cm の幅で帯状に挟まってい
る。
』と書いているように、辰砂は石灰岩に付着しています。そして、その原石を砕いて辰砂を
17
採り摺りつぶし精選すると朱になる訳ですが、若杉山遺跡では辰砂を摺りつぶした石杵/石臼が
発掘され、ここで精製が行われた事が確認された遺跡として有名です。
ともあれ、空海が太竜寺に於ける勤念でどのくらいの月日をここで費やしたかは定かではあ
りません。が、その修行の間に、辰砂についての見聞を広め、朱/水銀に関する知識を深めただ
けでなく、採取・精製する人々及びと交流を深め、且つ、精製した朱/水銀を商う人々との繋が
りを得た可能性は大いにあり得ます。
次は室戸です。三教指帰に『土州室戸の崎に勤念す。谷響きを
惜しまず、明星来影す。
』と空海が“啓示”を体現した場所です。
そこを訪ねると、おだやかな日はともかく、雨風が吹くと室戸
の岬は黒潮の流れを横切るように突出している地形からか黒潮の
波涛が岩礁を叩きつける響きが絶え間なく吠えるかのように耳に
大きくこだまする所で、そこに空海が勤念したとされる
み
ろ
く
ど
ほ つ み さ き じ
「御厨人窟 」があり、岬の先端には 最御崎寺 が建っています。
この室戸岬の勤念の地は朱や水銀が見いだされる中央構造線地帯
室戸:御厨人窟
からは外れており、朱に関する土地とは無縁のように一見思われます。が、しかし、室戸市佐
さ
きのはま
喜浜町は、昔、佐 貴 浜 庄があった所です。その佐喜浜町は御厨人窟から北に 15 キロ程の所に
いる ぎ
に っ た
ありますが、その佐喜浜に 入 木 集落が国道 55 線沿いにあり、ここに古社として 新田 神社が鎮
座しています。そして、この神社は、
「日本歴史地名大系」に依れば、
『仁井田明神』と 1589 年
(天正 17 年)の地検帳に書かれていた神社です。とすれば、
“仁井田”は丹生につながる地名で
すから朱との関連を示唆しており、又、地名の“入木”には“入”字が入っており、入は“丹
生”に繋がりますから、室戸も朱との繋がりがある事を知って空海が勤念の地に選んだと推測
出来なくもない所です。
このように、空海が訪れた室戸も朱にまつわる土地柄ですが、興味深い事に、室戸市の西隣
い
お
き
の安芸市 伊 尾木 字切畑山で銅鐸が 2 ヶ出土しています。この地“伊尾木”は、その昔、丹生郷
い
お
き
い ふく
と呼ばれた所で、
“伊尾木”は“五十 木 ・伊 福 ”に繋がる地名です。谷川健一氏が『青銅の神
の足跡』で伊福部氏を“銅を鋳造する人びと”と書いているように伊福部は金属に携わった民
である事を意味しており、日本列島の古代に於いて銅や鉄の“軌跡”には必ずと言ってよいほ
ど朱が見え隠れしているのが不思議です。
ところで、今、室戸にある 24 番札所の最御崎寺、25 番札所の
し んしょうじ
こんごうちょうじ
津 照寺 、26 番札所の 金剛 頂寺 の創建年はいずれも 807 年(大同 2 年)
AE
AE
AE
AE
AE
と伝えられており、とすれば、空海が日本に戻ったのが 806 年です
から、それに従えば、空海が室戸に滞在した時にはそれらの寺は
無く、従って、室戸滞在時、室戸から西に 20~30km 先にある 27 番
こうの み ね じ
札所の 神 峯寺 を訪ねたであろう事は大いにありえる話です。何故
なら、神峯寺は空海が先達と仰いだはずの行基が 730 年(天平 2 年)
に十一面観音像を祀ったとされる寺で、そこには縁起の古さは屈指
18
安芸郡安田町:神峯神社
と言われる神峯神社もあるように、この地は古くからこの地域”安芸“の中心でした。
その安芸郡にある神峯寺及び神峯神社ですが、残念ながら、
“朱”に関連するとの言い伝えや
記述は見いだせません。が、しかし、神峯山は朱・水銀があってもおかしくない所です。と云う
のは、訪ねてみると、神峯寺が建っている場所には朱産地を示唆する赤土が見受けられるから
も の べ がわ
ですが、その是非はともあれ、室戸及び安芸の“朱”は安芸市から一山越えた 物部 川 沿いの香
に
ろ う の
美町 韮 生野 (丹生地名)があり、ここには水銀鉱山がかってありましたから、朱に繋がる土地で
あった事は間違いありません。更に、その物部川を上流に辿れば、峠を境に那賀川の上流に接
し、そして、その那賀川を下れば太竜寺のある“丹生谷”に至ります。つまり、空海が太竜寺
で丹生谷の人々と係わりがあったのであれば、安芸・室戸地域は太龍寺に連なる朱産地として
聞き知っていたはずで、空海にとって、中央構造線沿いの“四国の朱ランド”の一環として、
勤念を実践しつつ、少なくとも一度は訪ねたに違いない場所だったはずです。
その行基との関連で云えば、空海は行基をどのように捉えていたのでしょうか。行基は空海
より 50 年程先に生きた人で、三重県度会郡二見町には空海が室戸岬で得た“啓示”を行基が二
見町で得たとする言い伝えが残っているように、人々に二人の伝承が重なっているのは、二人
の行いが人々の心に強く残ったが故で、空海の讃岐/満濃池事例に代表されるような水害日照り
に苦悩する人々を救ったり、行基の橋を作ったりと云った両者の実践の数々が、当時の人々の
絶大の信頼を生んだからでした。ところで、時には国家権力に布教を禁じられてもそれに抗し
民衆と共に歩んだとされる行基の決断力/行動力は、無名で在野僧としてあった若き空海にはあ
るべき先達の一つの姿として映ったでしょうし、実際、その決断力/行動力のバイタリティに於
いて空海に行基と似たものを感じます。又、その行基が東大寺大仏造立の際には責任者に招聘
された程の社会的影響力を持った事と、唐から帰国後の空海が朝廷と繋がり東寺を賜り、最後
は大僧都に任じられる軌跡にも二人の似た処を感じます。ともあれ、二人の「済生利民(衆生を
済度して人民を利益する)『沙門空海』」の実践に生きた姿勢が、今日に至るまで、人々の心に空
海及び行基の姿を記憶させている事は確かです。
ろ う こ
次に空海が 聾瞽 指帰で言及した石槌山ですが、石槌山は標高
2000M 近くの四国を代表する山で四国山地の霊峰です。三教指帰
にはその時の様を述べたものか、
『或るときは石峰に跨り、以て
糧を断って轗軻(苦行練行)たり』と書き、又、別のヶ所で
にがな
そえもの
『その食事といえば、どんぐりを主食とし、茶 の 菜 という
粗末さで、それも十日間ろくに食べられない事もありましたし、
どてら
きもの
その着物といえば、紙で作った 袍 や、葛のつたで織った 褞 と
いう粗末なもので、それも両肩を十分にかくせないほどのもの
でした。』と記しています。四国を代表する山には他にも剣山等
がある訳ですが、空海が何故に石槌山を訪ねたかと云えば、
よこ み ね じ
近くに 651 年(白雉 2 年)創建と言い伝えのある 横 峰寺 があり、
古くからの山岳信仰の霊場として尊ばれてきましたので、
この地を勤念の地に選んだと思われます。
日本の変成帯:『金属をさがす』ヨリ転載
19
この石槌山を代表とする石槌山脈は別子銅山で有名な別子山を擁する四国を横断する山脈で、
中央構造線に重なります。この四国のほぼ中央をまたぐ中央構造線沿いに変成帯が走っており、
東は秩父から西は大分まで 700Km に達しています。石槌山脈は 1 億年位前の造山活動時の圧力
や温度の変化を受けて出来た変成帯から成り、この変成帯が出来る過程に岩石中の金属鉱物が
集まり変成鉱床を生みますが、別子山一帯は「層状含銅硫化物鉱床」と呼ばれる大規模な鉱床
があり世界的に有名です。
(尚、別子銅山は江戸時代の 1690 年(元禄 3 年)に別子山の山頂近く
で銅鉱石の露頭が発見されて開発されたもので、露頭の発見は鉱業従事者にとって鉱床発見の
必須で有効な方法でした。
)
さて、前頁図は、山田敬一氏の『水銀のはなし③』(日本地質学会発行)に掲載された「四国
地方の水銀鉱床」ですが、石槌山の近くに成方水銀鉱山があり、そこは石槌山から西に 20KM 程
行った上浮穴郡久方高原町ですから、石槌山も朱と接点が無かったとは言いきれない場所柄で
した。
山田敬一氏『水銀のはなし③』
「四国の水銀鉱床」ヨリ転載に丹生地名等(赤字)書込
《室戸事例や丹生地名等のように、朱/水銀が採れた過去や伝承/記録が上記鉱床
脈上だけに留まらず幅広くある事に留意する必要があると思います。(川添)》
20
ホームページ『四国八十八ケ所霊場』ヨリ転載
次に、空海がこうした勤行をする動機となった“ある沙門に依る虚空蔵聞持法の教示”です
ごんそう
が、その沙門が 勤 操 だったかどうかで賛否両論があるとは言え、師であった事は確かです。
勤操は大和高市郡の秦氏の出で、大安寺で信霊・善議に三論教学を学んだ高僧ですが、朱/水銀
に深くかかわりのあると思われる人です。何故なら、勤操が住んでいた岩淵寺は春日山裏手の
たかまどやま
高円山 中腹にあったのですが、この高円山から松田壽男氏は水銀を検出した事を『丹生の研究』
の中で書いている他、高円山から東に約 10 キロ行った所は丹生町で丹生神社があって、この一
帯は“丹生”の地でした。又、女人高野/丹生大師で知られる三重県の神宮寺は丹生大神宮の神
託から 774 年(宝亀 5 年)に開基された寺とされているのですが、それは勤操僧正に依って開か
れています。往事、ここ高円山に住んだ勤操を空海はおりに触れて訪ねたとされていますが何
を見聞きして何を得たかは興味深い事柄です。
ところで、
この 15 歳から 24 歳までの在京の間に空海が仙薬について学んだと思われるのは、
い ん じ
空海が三教指帰の中で道教の 陰士 に『、、醴泉を飲み、地下を掘って玉石を探り出し服用する。
そう し
にく し
ぶくりょう
い
き
草 芝 ・肉 芝 などの仙薬は朝の空腹を休めてくれるし、伏苓 ・威僖 などの仙薬は夕べのつかれ
をいやしてくれる。こうして扇仙道に到達すれば種々の不思議な能力が身についてくる。
』と仙
はくきん
こうきん
けんこん
しいせい
しんたん
れんたん
人となる道を語らせているからです。この他にも『白金 ・黄金 は 乾坤 の 至 精 、神 丹 ・練 丹
やくちゅう
れいぶつ
ふ く じ
がつそう
ことぶき
は 薬中 の 霊物 なり。服餌 する方あり、合造 するに術あり。
』と書き、又、別のヶ所で、
『寿 を
しんたん
いえど
き こ う ひゃくこく
た
魂を返す 奇香 百斛 ことごとく 燃 くとも、何ぞ片時を留めん、、』
延ぶる 神 丹 千両服すと 雖 も、
と書いています。この神丹(練丹と)は、朱や水銀を用いた仙薬の事
高円山
ですから、空海が道教の理解を深めるにあたり、不老
長寿の貴薬とされた朱・水銀に関心を抱き、それが
何たるかを探求したであろう事は大いにありえる事です。
ちなみに、仙薬の採取や処方についても空海が書いて
いるように、山岳信仰と繋がる道教は仙人となる道と
して、修験者は“玉石”を求めるのも修行の一つとした
はずです。その中でも朱(丹砂)は、唐朝の『新修本草』
で玉石部の上品(第 1 級品)で、水銀はその中品(第 2 級
品)でした。(松田壽男氏『古代の朱』)
そして、高円山だけでなく、大和奈良はまさに朱の主
産地でした。 右図は、松田壽男氏の『丹生の研究』の
第 1 章「大和の丹生」にある丹生地名、丹生神社(含む
ニウヅヒメを祀る神社)、及び水銀鉱山を示したもので
す。
赤丸はその地名と神社、茶色の X は水銀鉱山で加筆し
て示しましたが、この図から、奈良東部及び東南部の
う
だ
いにしえ
宇陀 ・吉野・飛鳥に至る丘陵/山間部一帯が、 古 には、
AE
A
E
E
A
まさに“朱産地”であった事が理解出来ると思います。
松田壽男氏『丹生の研究』ヨリ補記転載
21
この事について、松田氏は、次のように書いています。
『、
、大和路や伊勢路を歩き、
、私の心をいたく惹いたのは“丹生”という地名であり、
“丹生”
の名を帯びる神社であった。』と氏の丹生に関する研究の動機を述べ、吉野の丹生関連地名/神
む
だ
社を列記した後、『吉野山の麓、吉野川の流れ近くの 六田 には丹生神社が残っていた。ここか
ら河について熊野への道を行けば、川上村の追部落でもうひとつ丹生川上社に接した。途次こ
あたらし
わ し か ぐち
の吉野川の本流と 新子 で別れて、高見川にそって、それを遡って行くと、鷲家 口 の附近にま
たしても丹生川上神社があり、それと並んで丹生神社が鎮座していた。(段替)吉野川水系の北
くになか
壁となっている山々を超えて大和の 国中 の部分に出ると、同じ山のふところに、宇陀郡の入谷
(丹生谷)や高市郡の丹生谷があり、両地とも丹生神社を残していた。、、
、』と丹生地名及び丹生
神社が中央構造線に沿ってこの一帯にあり、東の伊勢の丹生から四国の中央を横切り西の豊後
の丹生まで“丹生通り”を形成していると指摘し、そして、
“丹生”の呼び名が朱砂を産出する
土地の意味である事を力説しています。そして先に述べた女人高野の神宮寺が、松田氏が述べ
る“(丹生通り)東の伊勢の丹生”である事は言うまでもありません。
さて、虚空蔵聞持法を教わり 797 年に三教指帰を書いた後から 804 年に遣唐使船に乗るまで
の 7 年は「空海、空白の七年」と一般に呼ばれ、空海の消息は定かではありません。しかし、
その空白の 7 年間については、渡唐後わずか1年余の長安での滞在の間に空海が行ったとされ
る事々があまりにも超人的な事から、その空白の 7 年についていろいろな“謎解き”がされて
います。それは、例えば、空海の語学力一つをとっても、密教の極意を中国語及び梵語で師が
語ったのを長安に来て 3~4 か月程の空海がどうして理解出来たのかのかと云った疑問を始め、
天の僥倖と云えるほどに密教の第七祖・恵果に“偶然”出会い、次に、又 3 ヶ月程の間に恵果
より金剛界及び胎蔵界の灌頂を、そして阿闍梨位の伝法灌頂を授かり、恵果の“正系の付法者”
になった事柄からして普通では考えられない出来事ですが、それ以前の素朴な疑問として、ど
うやって私度僧であったと言われる空海が国の留学僧に選ばれたのか、在唐間に要した生活資
金はどのように調達したのかと云った、空海の軌跡を理解する限り避けて通れない疑問が次々
と出てきます。しかし、そうした疑問は“空白の七年”中に何かが“あった/行われた”故にそ
れが可能になった、と見るとそれらの疑問が氷塊してきます。
まず、空海がいつどうやって語学を学んだかについては、空海の天才的な頭脳からして外国
語を短期間でマスターする事は何でも無いという説はともかく、空海が外国語に接し学んだ機
だいあんじ
会について、松本清張氏は『密教の水源を歩く』で『想像に浮かんでくるのは、大安寺 である。
く だ ら おおでら
だいかん だ い じ
ど う じ
大安寺は、百済 大寺 、大官 大寺 と名を経てきたが、重要な官寺である。この寺は 道慈 が平城
京に移築した。道慈は大宝 2 年(702)に入唐して長安の西明寺に 16 年間住み、養老 2 年(718)に
どうせん
帰国した。中国から帰化した 道璿 (702-760)も住んでいた。大仏開眼会に導師を務めたインド
だいせんな
僧 提僊那 (ボディセ-ナ、704-760)もいた。大安寺は伽藍配置が大安寺式といわれるように、僧
房(棟割長屋の個室)が内と外の二重になっている。外国僧を多く滞在させた。その意味では“外
国僧会館”の観があった。[段替]、
、、
“東大寺別当次第”大法師空海の条には“元大安寺僧”と
明記してあるからだ。
』と書いて、海外から来た僧から学んだのではないかと推測していますが、
それが事実としてあったとしても、もっと違う実践的な方途で習得したのではないでしょうか。
22
さて、空海が遣唐使留学生となって渡航する前の
798 年
803 年
「空白の七年」、それは空海が 25歳 から 31歳 までの青年
7 9 4 年
期で奈良から京都への 遷都 後の時期ですが、この時代、
遣唐使船の往路帰路での数々の遭難の出来事に加え、
630 年から 894 年までの約 250 年の間に実質 15 回しか
行われなかった言われる遣唐使派遣の回数を聞くと、
当時の日本が東アジアから孤立していたイメージが
ありますが、実際は朝鮮半島や渤海を含めた頻繁な
東アジアへの海外交流がありました。例えば、シャル
ロッテ・フォン・ヴェアシュア氏は『モノが語る日本
対外交易史 7-16 世紀』の中で、右表/図のような公的
な“外交使節往来回数”を示し、そして、それは実質
には交易であった事を指摘した上で、『水銀と虎の皮』
(『古代日本と渤海』所収)で、次の様に書きます。
『八世紀の日本は唐や新羅と渤海に対して、ほぼ同数
の使節を派遣していました。また、日本に来航した使節
の回数は、新羅のほうが渤海より多かったのです。つま
り、八世紀には日本と新羅の交流は拡大していたのです。
対照的に、九世紀には渤海との交流が活発になっていま
した。実際、九世紀には、唐との公式使節の交流は三回
だけになり、朝鮮とも九回だけなのですが、渤海とは二
〇回も往来があります。二〇回の往来といっても一九回
が渤海からの使節で、日本からは一回でしたが、唐や新
羅と比べると圧倒的に多いことがわかります。つまり、
渤海が日本の主要な外交パートナーになっていたのです。
このことは、日本の古代対外外交交渉史にとって特筆す
べきことです。つまり日本の外交史では、九世紀は
「渤海の世紀」だったといえるのではないでしょうか。
』
この他、ヴェアシュア氏は上記のような公的使節だけ
でなく私的な交易も頻繁に行われ、それに伴い、人物の
ヴェアシュア氏『、、日本対外交易史、
、
』ヨリ転載
往来も当然頻繁にあった事を指摘しています。
え が く
このような交易を踏まえれば、例えば、陳舜臣氏が 恵萼 という僧が遣唐使の随員とならず、
私的に 4 回程唐に行った 9 世紀の事例について言及し、大陸との往来が当時盛んにあった事に
注意喚起しているのですが、このような事は例外でなかったであろう事が理解出来てきます。
ところで、先に引用した『空海のミステリー』を書いた佐藤任氏は『密教と錬金術』
『空海と
錬金術』等の著作があり“空海二度渡唐説”を唱えて僧職の方です。氏は同本で、空海が遣唐
使の一行として派遣される前に、空海の軌跡がはっきりしない所謂「空白の七年」の間に唐に
23
渡ったとする松下降洪氏の“弘法大師「二度渡航説」
”を援用しつつ、727 年から 919 年にかけ
て繁盛に往来・交渉した渤海使が外交目的を掲げながら実態は交易に他ならなかった事を指摘
した上で、当時の渤海ルートが「日本と唐とのバイパスルート」であったとしてその渤海ルー
トで空白の七年に行った可能性が多いにある事を指摘する他、次の様な説得力ある説を唱えて
います。
『恵果は、
「先より汝がくることを知りて、相待つこと久し」と空海に言った。松下降洪氏は、
「待つこと久し」と言う対面の言葉は、初対面の時の言葉でなく、すでに見知った人の言葉だ
と言う。それはもっともな推理である。
(段替)この推理をさらにすすめると、空海は既に長安
に来て勉強し、恵果からいろいろと教わり、恵果は空海が密教を伝授するのにふさわしい人物
と考えた。そこで恵果は空海に日本に帰って、再度、日本の正式の使節の一員として来るよう
にうながしたのではなかろうか。空海は中国語の才能があり、梵語の知識もあった。このこと
は日本での勉強もあるが、中国に一度渡っていたから中国語が喋れたと思われる、経典や文物
最初の留学の時に集め、保管していたとも考えられる。
』と説得力ある見解を記しています。
このように“空白の七年”の間に、佐藤氏が推測するように空海が唐に行っていたとすれば、
へんじょう こ ん ご う
語学の問題に限らず、短期間で恵果から 遍照 金剛 の灌頂を授かると云った通常ではありえない
事等が無理なく出来たであろう事に合点がいくのは私一人ではないと思います。何故なら、空
海の軌跡の理解に於いて無理なく理解出来てくるからです。ちなみに、氏は空海の渡唐の理由
について、
『直観的で想像的な私の推理を言えば、錬金術書“大日教”を知った空海は、山々を
駆けめぐり、鉱山を探り訪ねて、やがて中国に渡り、長安で恵果に学び、一度帰国した。そし
て公式の遣唐使船に乗って、国の留学僧として長安に入り、恵果に師事して密教を伝授され、
公人として密教を日本へ伝来した、
、
、』と宗教及び錬金術を含めた包括的視野に立った傾聴に値
する推論を展開しています。
次に、空海が渡唐に要した資金をどのように賄ったかと云う疑問についてですが、それにつ
いては、朱/水銀をもってその原資を賄ったと考える人に佐藤任氏や寺林峻氏等があり、渡唐そ
して帰国後の空海の歩んだ軌跡に於いての水銀/朱との係わりを、以後、見ていきますが、先に
引用したヴェアシュア氏が『唐・宋における日本蓬莱観と水銀輸入について』の中で、唐と日
本での水銀/朱の需要及びその価値関係について以下の興味深い指摘をしており、その指摘はそ
の“空海の原資についての推論”を補完していますので、ヴェアシュア氏の以下の引用をもっ
て、その検討をしていきたいと考えます。
『水銀の値段については 762 年と 1085 年の 2 回にわたって、些細な記載がある。それを見る
と水銀は銀の十分の一以下、金の百分の一以下の価値になり、そして熟銅の 2 倍前後となる。
いずれにしても水銀が安く評価されたのである。それは水銀が銅につぐ国内生産量の多い、供
給の豊富な鉱物であったのではないかと思う。』と指摘する一方で、『唐においては水銀を原料
にする錬金術はたいへん盛んで唐国の隅々まで流行していたようだ。水銀の需要が多量に及ん
だことは想像し得るではないか。そういう事情を背景に日本の輸出がはじまったと推測でき
る。
』と記して、奈良・平安時代の文献に、唐や周辺国での水銀重要に呼応する形で日本産水銀
が求められ、日本から大陸に輸出された事例が文献記録として 10 数例ある事を指摘します。
24
例えば、1) 777 年に渤海使が返貢物として
求めた物の中に水銀があり大 100 両(約 5kg)
を求めた記載が『続日本紀』にある事、2)
879 年に太宰府は来日商客に与えた砂金 633
両(9Kg)と水銀 175 斤(39.7Kg)を記録した事、
じょう じ ゅ
3)1072 年に入宋した 成 尋 という僧が渡海
E AE
AE
乗船料として絹・金・鉄等とならんで水銀
180 両(2.9kg)を支払い、そして別に少なく
とも 100 両(1.6kg)を持参し杭州で宋銭に換
えた事、4-1)1072 年に宋に水銀 5 千両(80kg)、
4-2)1087 年に高麗に水銀 250 斤(64kg)貢進
遣唐使船の船倉内部:『飛鳥・藤原京展』ヨリ転載
ヴェアシュア氏は 10-12C の貿易船で約千箱積めたと指摘
した記録がある事、5)1298 年には五島列島で
元行きの船でどろぼうに金・絹の他、水銀 2 樽と水銀 17 筒が盗まれた事等を記して、海外交易
に際し少なからず使われたであろう事を推測しています[kg 換算は川添]。
そして、氏は平安以降の交易物としての水銀の推移及び唐宋の水銀・朱砂の推移を概観した
上で、結論として次のように続けます。
『古代日本において、朱砂の鉱山が国内にわりと多く分布し、6 世紀前後に朱砂から水銀を
マ
マ
マ
マ
製産 する 製錬 術が伝来された。それ以外に伊勢や宇陀等で純粋な自然水銀がとれた。水銀は供
給が豊富で値段が比較的安かった。朱砂と水銀を工芸に利用し、わずかな量だけ製薬に使った。
そして 8 世紀ごろに水銀の輸出がはじまった。遣唐使時代としては文献上では一例しか記され
ていない。しかもこれが唐宛ではなく、渤海宛である。しかしこれが、史料の都合上の事情で
あると理解したい。遣唐使時代の二百年を通じて一般的に国信物の中味を知る史料は稀である。
別貢についてはなおさらであろう。つまり、水銀輸出が 8 世紀から 11 世紀まで盛んに行われ、
その後に衰え、14 世紀にその例は見られなくなる。(段替) 一方、中国の唐宋では錬丹術が盛
んであり、朱砂と水銀の需要が大きかった。しかし、国内産出の朱砂の一部だけが錬丹の条件
をみたし、一番適当とされていた自然水銀の採掘は不十分であった。そこで、日本からの自然
水銀を要求し、その需要が増加し、渤海と新羅・高麗まで広がった。その後、宋末になると錬
丹術の衰退とともに、日本からの輸入も減少した。
、
、
、
』
このように、空海が渡唐した 9 世紀初頭、日本国内で豊富に得られた水銀/朱は大陸に輸出さ
ぐ も ん じ
れていたのです。そして、太竜寺に代表される虚空蔵 求聞持 法の一連の修行の過程の中で何ら
かの方途で水銀/朱を入手する手段を得た事が、ヴェアシュア氏が指摘する「日本の水銀/朱の
価値より唐の方が高く扱われた」貴金属交換レートの違いから得られる差益を享受する事を可
能にしたと考えると、空海が渡唐時に仏典や曼荼羅図/仏具を購入した財源や、灌頂を受けた際
に大勢の人を供宴できた潤沢な資金の出処がさもあらんと理解出来てきます。
さて、遣唐使の派遣僧に選ばれた空海が朱/水銀を船に運び込むとして、当時の運び方で一般
的なのは酒を入れたりする樽や壺です。ヴェアシュア氏の事例に 1298 年のどろぼうが船に積ん
であった水銀 2 樽と水銀 17 筒を盗んだ話がありましたが、木樽の方が壺より軽いので一般的だ
ったのかもしれません。さて、その樽が次々頁写真のような 1 斗樽だったらどうでしょうか。
25
1 斗は 10 升で、1 升 =1.8L(尚、周代では 1.9L)ですから、それに比重 13.6 の赤色の自然水銀を
入れたら、その重さは 1.8kg x10 升 x13.6 比重 =244.8kg(銀色の普通水銀であれば比重 8.1 で
146kg)となります。しかし、樽の重さが 244.8kg となればさすがに重すぎますから、処方とし
ては数樽に分けて船に持ち込んだとして考え、話を進めます。ところで、この仮定はあくまで
仮定として、その 1 斗樽分の自然水銀を空海が持参したとすれば、それは当時、どれ位の価値
があったのでしょうか。[注;この量 245 ㎏は、後記(その 6)で見るように徳島/加茂谷村での明
治期の年間生産量は1~3 トンですから、それから推しはかると、当時、村民の空海への支援が
あったのなら、あながち的外れで不可能な量ではなくありません。]
その価値を推し量るのに格好の資料がヴェアシュア氏『唐・宋における日本蓬莱観と水銀輸
入について』中の史料 3“水銀の沽価比較表”です。下表はそのデータに各金属換算値を加えた
ものです。(当時の日本の度量衡については農業科学博物館のホームページから引用)
まず、水銀 1 斗樽の当時の日本での金額については、空海が渡唐した時より 40 年程前の下記
に引用しているデータですが、それに依ると水銀 1 両(14.18g)= 6 文となると云うのですから、
計算すると 1 斗(244,800g)÷1 両(14.18g)x 6 文= 103,582 文となり、103.6 貫文のお金になる
事になります。
では次に、日本と唐との“貴金属/非鉄金属類の兌換価値”の違いはどのようなものだったで
しょうか。その手掛かりは円仁の『入唐求法巡礼行記』です。この旅行記は空海渡唐の約 30 年
794-864
後の 17 次遣唐使派遣の際に唐に渡った 円仁 が 837 年から 847 年の足掛け 10 年間の在唐生活を
日記の形で記録したもので、838 年 10 月 14 日、及び、8 月 26 日に沙金をお金に替えた際の仔
細を次の様に書き残しています。
『砂金大 2 両を市頭に於いて交易せしむ。市頭の評定は 1 大両7銭にて、7銭は大二分半
に准当し、価は 9 貫 4 百文なり。更に、白絹 2 疋[1 疋は 4 丈=21.9M]を買うに価は 2 貫なり。』
『円仁は寺僧の供養をする為に寺の庫司僧令端を喚んで、寺僧の数を問う。都べて 1 百僧
あり。即ち沙金小 2 両設供の料に宛つ。円載も亦 2 両出す。計小 4 両。以って、寺衙に送る。
26
綱維、監寺の僧等共に一処に集まりて評して大 1 両 2 分半と定む。』(『入唐求法巡礼行記』東
洋文庫 P.62&41)
当時の唐での兌換価値は上記の日記から知る事が出来るのですが、まず留意しておかなくて
ならない事は、日本と唐の度量衡が違うと云う事です。円仁は沙金を日本から持参した訳です
がこの日記に記す“沙金 2 両”は日本では既に見た様に(小)1 両が 14.18g ですが、唐では(小)1
両は 37.3g でした。(ちなみに、円仁が日記に記した度量衡は唐の単位で書かれています。)
では、10 月 14 日の項をどう理解するかです。円仁は“沙金大 2 両(小 6 両)”
、即ち、
‘大 2 両
(小 3 両 x2=24 銖 x[3x2]=144 銖)の重さの砂金’を市中の両替屋に行ってお金に替えようとした
訳ですが、その際、両替屋はそれを“1 大両7銭”、即ち、‘1 大両7銭=1 大両(小 3 両=24
銖 x[3x1]=72 銖)+大 7 銭(大 1 銭=7.2 銖 x7=50.4 銖)=122.4 銖の金(塊)の重さ’として換算した
訳です。つまり、砂金は金(塊)の約 85%として市中で扱われていた事がこれで解ります。
次に、“7銭は大二分半に准当”とあるのは、‘(大)7 銭=50.4 銖の重さの金(塊)’は“大
2 分半”のお金に評価されるのが市中レートである事を説明しており、“大 2 分半”は‘大
1 両=大 4 分から 0.25(大)両 x2.5=0.625(大)両’を意味する事から、重さ 1 銖(37.3g/24 銖
=1.554g)の金(塊)は、0.625(大)両/50.4 銖=0.0124(大)両=0.0372(小)両のお金に換算され
ていた事になります。さて、重さ大 2 両の砂金は、金(塊) 1 大両7銭(122.4 銖)の重さ分に
評価し直されて、それが 9 貫 4 百文(9,400 文)のお金に両替された訳ですから、“重さ 1 大
両=72 銖の金(塊)”は、1 大両金(塊)[111.88g]は 9,400 文/122.4 銖 x72 銖=5,529 文で、1
小両金(塊)[37.296g]は 5,529 文/3=1,843 文が当時の価値換算だった事がこの記録から解り、
1 銖(1.554g)は 1,843 文/24 銖=76.79 文で、グラム換算では金(塊)1g=49.42 文となります。
ちなみに、8 月 26 日の項はどう理解するかですが、
“沙金小 4 両”は‘24 銖 x4=96 銖“とな
り、次に、
“大 1 両 2 分半”は‘大 1 両(大)2 分半’分の金(塊)と評価されたと読むのが妥当
だと思いますが、そうすると‘大 1.625 両=24 銖 x3x1.625 両=117 銖’となって却って重く
値踏みされた事になりますが、この場合、‘大 1 両(小)2 分半’分の金(塊)と読むと‘24
銖 x3+24 銖 x0.625 両=87 銖’となり、10 月 14 日のように沙金が金(塊)の約 0.85 で見られ
た事に近似し、‘大 1 両(小)2 分半’分の金(塊)分と寺僧が値踏みしたと読んだ方が無理の
ない理解になります。
さて、円仁の旅行記から 9 世紀初頭の唐/杭州の金交換レートは 1g=49.42 文だった事が判り
ましたので、日本の価値と比較しますと、26 頁のヴェアシュア氏の『史料 3:水銀の沽価比較表
から、日本では‘1 両(重さ)金=5 両(重さ)銀で、1 銀は 80 文が 762 年の資料から得られる’と
あるので、1 両=14.18g=5x80 文となり、1g=5x80 文/14.18g=28.2 文となります。従って、これ
から唐の金価値は日本の約 2 倍弱だった事が解ります。尚、参考までに、
『入唐求法巡礼行記』
には 1.玄米 1 斗(4.7kg)100 文、2.白絹(1m 当)93 文、3.川渡り船賃 1 人 5 文、4.僧 1 人の斎
代 93~100 文、5.僧の上法衣の縫賃 400 文等の記載があり、当時の物価水準が解ります。
では、次に、水銀の価値はどうだったのでしょうか。これについては、時代は下って 11 世紀
じょう じ ん
になりますが、僧 成 尋 が渡宋した際に残した記録が『参天台五台山記』があり、その中の 4
月 22 日の項に『、
、
、家主張三来、為四銭沙金三小両水銀百両渡家主了、、、
』とあり、5 月 3 日の
項に『、
、
、張三郎、亦水銀沙金直銭十三貫将来、、
、
』とあり、沙金小 3 両と水銀百両を替えて 13
貫文を得たとの記録からこれから水銀の価値を導き出す事が可能です。この記録も当時の宋代
27
の度量衡で書かれており、宋代の度量衡単位は唐と変わらないとされていますし、物価も‘僧
の斎代が 100 文’
、
‘米五斗で四百文’と大きな違いはみられませんので、空海/円仁の時代と大
差はなかったとして、水銀の価値を求めてみます。
さて、
‘沙金小 3 両(72 銖=111.88g)’は、円仁事例で砂金は金(塊)の約 85%での再評価で金
金(塊)61.2
(塊)61.2 銖分として取引されたのですから、
金(塊)1 銖=76.72 文から沙金小 3 両は、
銖分=61.2 銖 x76.72 文=4.695 文となります。これから、水銀百(小)両(2,400 銖=3,730g)=13
貫文-4,695 文=8,305 文となり、水銀唐 1 両(24 銖、37.3g)の価値は 83.05 文(1g=2.23 文)
と云うことになります。これに対し日本では、37.3g 分の水銀は、日本の(小)両で 2.63 両
(1 小両=14.18g)の重さに相当し、水銀日本 1 両(14.18g)は 6 文(1g=0.42 文)のレート価値か
ら、6 文 x2.63 倍=15.78 文です。つまり、片や唐・宋で 82.65 文、他方日本では 15.78 文が
“水銀 37.3g”(唐での 1 小両)の価値です。故に、82.65 文:15.78 文、1:5.24、つまり、
日本での水銀価値は唐・宋より約 5.24 倍安く見られていた事がこの計算結果は示していて、
ヴェアシュア氏が『唐・宋における日本蓬莱観と水銀輸入について』で述べる“唐に比し日本
は水銀が安く評価された”との指摘はまさにこの事に他なりません。
さて、では次に、当時の唐の“1 文”とは今で云えばどの位の価値に相当したのでしょうか。
そのヒントになるのは、普通、当時及び現代日本の金価値の差ですが、これで比較しようとす
ると、実に悩ましい事に、2001 年には 1g=1,000 円程だったのが 2013 年では 1g=4,500 円以上に
上昇していて比較が難しすぎるのですが、金価値から当時の 1 文の価値を推し量ると、唐が
1g=49.42 文だった訳ですから、現代のお金の感覚で云えば大体 1 文=10~50 円でしょうか。又、
先に見た、米 1 斗(4.7kg)で 100 文及び、僧 1 人の斎代 100 文は、現代で 5 ㎏入り精米が 2,000
~3,000 円、法会での精進料理代が酒不含み 1 人前 5,000 円と見るなら、やはり 1 文=50 円
で換算してもそう的外れではないと思えます。
さて、ここで以上の価値換算結果を踏まえ再び空海の話に戻します。
1 升 x10=18Lx 1 4 比
重 =245kg
空海が 1斗 樽分 の 自然 水銀 を遣唐使船に持ち込んだと仮定してみると、
自然水銀 245 ㎏は、日本では 1g=0.42 文で 0.42 文 x245,000g=102,900 文
ですが、唐では 1g=2.22 文で 2.22 文 x245,000g=543,900 文の価値だった
訳で、つまり、今の時代に例えて云えば、海外旅行に際し 500 万円持って
出国して現地では 2,720 万の価値分の買い物が出来た事と同じです。
即ち、空海は日本と唐との約 5 倍強の水銀換金格差を十分に享受した事に
なり、まさに、ヴェアシュア氏は宋時代の周去非が記した言葉『嗟もし
学仙が真汞を得れば、其が至宝になろう!』との言葉を紹介しています
が、当時の唐宋はまさに水銀が他の貴金属に比して、その需要から高く
取引されていた世界だったのです。
尚、ちなみに、水銀で無く朱を同じく 1 斗樽で唐に持参していたと
仮定すれば、それはどのくらいの価値だったのでしょうか。まず、
1 斗柄樽:「中万」(府中)にて
朱は比重 8 ですから 1 斗樽分の重さは 1.8kg x10 升 x8 比重 =144kg になり、神社によく奉納
してある 4 斗樽酒の 2 倍の重さとなり、満杯では重すぎますが、それはともかく、1 斗樽分を持
28
参したとしてみます。その 1 斗分の朱が実際にどの位の価値だったのかについては、、
、
、
、
、ヴェ
アシュア氏も言及しておらず仮定の域を出ませんが、しかし、
『はるかなる水銀の旅』の著者で
ある山本斌曠氏の教示に依れば、理論上、不純物の混じっていない硫化水銀(朱)1kg から水銀
862.2g が出来る関係性があるとの事ですから、朱から水銀を作れば 15%程少なく出来る訳です
が、しかし、松田壽男氏は『古代の朱』で『、、、
、唐朝のときに「新修本草」が勅修されたとき
には、主筆であった蘇敬らは丹砂を玉石部の上品[第 1 級品]とし、水銀をその中品[第 2 級品]
に加えた。
、、、
』と書いていますから、大まかに見て、朱と水銀は同価値程度で市場に流通して
いたと見て良いと思われます。
空海が水銀/朱を持ち込んだかどうかは仮定でしか無いのですが、しかし、では空海が「(恵
でんぽうあじゃ り
い
、500 人の僧がこの盛儀に列した」法会代、
「胎蔵・金剛
果から)伝法阿闍 梨 位 の灌頂を受け、、
さいじょうじょう み つ ぞ う
界の大曼荼羅 10 舗を描かせ」たり「20 余人の写経生を集めて『金剛頂教』などの 最 上 乗 密蔵
きょう
教 を書写」させた画書写代、及び、「鋳博士の越呉に道具 15 を新しく鋳造」した鋳造代(『生命の
海』
(角川ソフィア文庫 P35)等を賄った資金の出処はどこに求められるかを問い、
空海の軌跡を辿り、
そのキーを水銀/朱に求めると数々の疑問が氷解するのは云うまでもありません。そしてそれに
加えて、空白の 7 年間に一度渡唐して語学を習得し、そしてその時に恵果の知遇を得ていたと
仮定するなら、空海の在唐時の超人的なエピソードは無理なく理解出来てきます。又、空海の
乗った遣唐使船に通訳が乗船していなかったと指摘される事々も同様です。
そして、百済が滅亡して朝鮮半島が新羅に統一された 7 世紀以降、唐だけでなく新羅渤海等
を含めた大陸との交易が広く行われていた事を視野に入れ、貴金属/非鉄金属類の価値が大陸と
日本で異なっていた事を勘案するなら、水銀及び朱を持参した事が空海のバックボーンだった
との仮定は、消去法でいけば一番現実味ある話になってくるのでは無いでしょうか。
“空海と朱”の関連に気付き興味を持ったのはいつごろからだったでしょうか、、
、それを実
際に手がけだして早いもので 3 年が経ちました。仕事があり日々の生活があって、思うように
時間が取れず今日まで少しずつ歩んできましたが、このレポートのメインテーマとなる“空海
が探求した世界とはどのようなものだったのか”は全く手つかずで、それ以前の空海の渡航前
の軌跡を辿るだけで 3 年経った次第です。
空海の探求した世界、それを問う事は“現代社会の混沌”を超えた
地平を持っていた空海の世界観を映し出す事にほかなりません。
すなわち、私達は近代社会の延長の中に生きており、その近代社会
とは何かと云えば、それは 16 世紀以降の西欧での産業資本の登場と
それに伴う産業革命に象徴される産業の発達と共に体現されてきた
社会構造です。この近代社会は、近代科学観に支えられて、産業の
振興は人々により豊かで幸せをもたらす糧と信じられ、発明や進歩は
無前提に善と同義語と位置づけられて 19 世紀終わりまで来ましたが、
その豊かで幸せをもたらすはずだった近代社会は、近代兵器に依る
悲惨な戦争や公害等の環境破壊を招く一方で、それに伴うかのように
人々の精神面の負荷を招致させています。そして、近代
朱で赤く補色された『獣頭人身像(寅)』
29
キトラ古墳(7C 末~8C 初):飛鳥村展示室写真
社会の延長にある 21 世紀初頭の現代を生きる私達は、臓器移植に依る延命やクローン生物の創
出など“神”の領域まで踏み込んでもそれを非としない今の社会/世界の在り様をして“プラス・
正・進歩”の座標軸に向って”進んで“いるのか、或いは“マイナス・負・退行”の座標軸に
向って”退行している“のかを確固たる信念をもって言いきれない混沌の中に”生きて在り“、
その解決の糸口を見出し得てはいません。そうした中、8 世紀後半に生まれ 9 世紀に生きた空海
を視ると、その“空海の探求した世界”には“近代科学”を超え相対論的宇宙観を包含する地
平があり、“現代の混沌”を超える示唆を与えてくれる視野を持っているように見えます。そ
れを探求し私達の視座に取り入れる事の必要性を切に感じるのですが、そのように空海を捉え
考える人は私だけでは無いと思います。ともあれ、その“探求”を私自身のライフワークと自
覚し、少しずつ書き進めていきたいと思います。
〔記:2013 年 2 月吉日〕川添 洋
後記(その 1):宮坂宥勝氏は著書『空海』で空海の出自について次の様に書いています。
くにのみやつこ
佐伯部は本来、
『空海の出身の佐伯直は佐伯部に属している。讃岐の 国 造 の家柄であるが、
え
ぞ
りょしゅう
6、7 世紀ころ 蝦夷 の 虜囚 をさしていったのであり、かれらを管理していた国造もいつしか佐
伯部とよばれるようになったものである。(段替)中央にあって地方の佐伯部を支配していた佐伯
むらじ
連 は大伴氏を出自とするのであって、したがって、佐伯直と佐伯連とはおのずから家系を異に
していた。
』又、『沙門空海』では、
『佐伯部は、今日の学界で明らかにされているように、五、
六世紀ころ、大和朝廷の征服によって捕虜となった蝦夷であった。当時、佐伯部は隷民として
播磨・讃岐・阿波・安芸などに配属されて、その地方の国造の支配下にあったのである。そし
て、それらの佐伯部とよばれる集団的蝦夷を支配していた地方の国造は佐伯直の姓を称してい
たのである。実に空海は佐伯直の出身だったわけである。』と記しています。つまり、空海は讃
岐国造を輩出する佐伯直の出で、蝦夷の佐伯部を管掌していたのが“いつしか佐伯部とよばれ
るようになった”として、蝦夷の出自では無いと宮坂氏は纏めていますが、その説と同じく、、
さ え ぎ
佐藤任氏も『空海と錬金術』で、
『太田亮「氏姓家系総覧」によれば、佐伯 は種族名で蝦夷族の
ひ た ち
一種で、これは 常陸 の佐伯のことである。「日本書紀」に記された日本武尊に討たれたエゾが
くにのみやつこ
播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波の五か国に配置され、そこの 国 造 に服属されられた異人部族がサ
エギ部の祖で、その地のサエギ(塞ぎ)の任に当たせられた。空海の出自の佐伯氏は、この讃岐佐
とものみやつこ
あたい た
きみ
伯部の 伴 造 (部民の掌握した中下層豪族)で、佐伯国造(大和朝廷の地方官)の族の佐伯 直 田 公
の子が空海である。つまり、空海は常陸国のエゾ(佐伯部)を掌握した下級官吏の系譜を引く人物
を父とした。
』と纏めています。
こうした佐伯姓に基づいた見解に対し、松本清張氏は『密教の水源をみる』の中で全く異な
る視点から次の様な説得力ある推論を展開します。
『空海の生誕地は讃岐国多度郡善通寺とされ
ている。俗姓は佐伯直というから佐伯直何某が父親だったらしい。続紀が名を明記していない
ところをみると低い家柄だったようである。、
、
“直”は身分の称で、これは帰化人に多い、、
。さ
あ と のおおたり
すれば空海の遠祖は朝鮮渡来人であったかもしれない。、
、、叔父の 阿 刀 大足 にしても五位下と
お たり
いう高からぬ官位である。なお、空海の祖父という“男 足 ”にしても、叔父“大足”にしても、
タリは、タラシの転訛であろう。記紀の景行・成務・仲哀・神功(皇后)の諸天皇に「タラシ」が
ついているのは、これらが百済と密接な関係があった、云いかえれば、その実効性はうすくと
30
も、朝鮮渡来人が首長であったことの記憶が残っていたからであろう。なお、中臣(藤原)鎌足
も渡来系であろうとわたしは書いたことがある、、
。
』と、日本古代史をアジア及び世界の視点で
鳥瞰して理解しようとする氏独自の卓越した見解を述べています。
尚、
“佐伯”が蝦夷出自である事を意味しているか、或いは蝦夷を管掌する側に立って蝦夷を
身近に知る人(族)であれば、アテルイが坂上田村麻呂に捉えられて京に連行され処刑された事、
それは空海が遣唐使船で唐に旅立つ 2 年前の 802 年の出来事で、空海が 28 歳の時で“空白の 7
年”の時期に在った事であり、それは空海が生まれた頃から足掛け 30 年近く奥州で続いていた
朝廷への叛旗がついに絶たれた事を意味しており、アテルイの処刑は空海にとって無関心では
いられなかったはずの出来事です。しかし、
『性霊集』中に蝦夷を指して「旃陀羅悪人、仏法国
家の大賊」と突き放した書き方をしている事を知ると、蝦夷が置かれた当時の有り様がどのよ
うなものだったかが空海を通して垣間見え、蝦夷に対する親近性や共感といったものはその文
章からは伺えません。
唯、善通寺に住んだ空海出自の佐伯直家と蝦夷と接点があるかも知れないと思われるものに、
柴田弘武氏の『全国別所地名事典』があり、この中に善通寺市粟井町に‘小字別所’地名で“別
所”地名がある事を記しています。日本書紀には景行天皇の所で蝦夷を伊勢神宮から讃岐等に
再配置した事が書かれ、これが“佐伯部の祖”と書かれていますので、何らかの形の接点は在
ったのかも知れません。
後記(その 2):小林行雄氏は『古代の技術』の中で、興味深い指摘をしています。それは、、、
『中国では朱漆が漢以前からさかんに使用されていたから、日本で縄文式時代に朱漆の実例が
見られるとしても、さほど不思議なことではないといえよう。しかし、その朱漆が、古墳時代
から奈良時代につづいて、日本で使用された形跡がないということは、大いに注目すべき事実
である。
』との言及で、古墳時代に黒色(第二酸化鉄)の漆塗りは行われていても、朱塗りの事例
が見つかっていないとの指摘です。興味深い留意しておきたい指摘です。
後記(その 3):
「古事記」の神武天皇の東征の項で、宇陀及び吉野で朱/水銀に従事した人々に
ついて述べた既述があり、それについて松田壽男氏は引用した後で、次のような興味深い解釈
をしています。
そ
こ
い
お
あ
ゐ
『、
、
、
、
。其地 より 幸 行でませば、尾 生 ある人、井 より出で来たりき。その井に光ありき。
あ
ゐ
ひ
か
(こ
ここに「汝は誰ぞ。
」と問いたまへば、
「僕 は國つ神、名は 井 氷 鹿 と謂う。」と答え曰しき。
は吉野首等の祖なり。)すなはちその山に入りたまへば、また尾
あ
いはほ
生 る人に遇いたまひき。この人 巌
いはおしわく
を押し分けて出て来たりき。ここに「汝は誰ぞ。」と問いたまへば、
「僕は國つ神、名は 石押分 の
うか
(こは吉野國巣の祖。
)其地より踏み 穿 ち超えて、宇陀に幸でましき、
子と謂う。
、
、
、
」と答え曰しき。
故、宇陀の穿と曰う。
』とあるのがその項です。
この記述について、松田壽男氏は『吉野川の本流すじが吉野族の、また高見川すじが国巣族
の拠っていた部分と見なされよう。
、
、
、吉野に住む人たちは、、
、山仕事や狩猟に従い、あるいは
やや山の傾斜のゆるやかな部分にアワなどを耕作していた。外界との交渉をつかさどる特殊な
産物としては、鉱物の採取が行われる。それを、井戸のなかから出てきた人とか、岩を押しわ
31
けて出るとか形容したのであって、前者は鉱山の竪坑、後者は同じく横坑であったにちがいな
い。
、
、
、問題を朱砂にしぼっていうならば、吉野首は光のある井戸からあらわれている。これは
朱砂を採取する竪坑であろう。
、、、
』と書き、古代から日本列島に於いて朱砂の採掘が行われて
いた事を示す証左とする他、自然水銀を採取する人々と辰砂(朱)を採取する人々が居た事を示
唆しています。(尚、矢嶋澄策氏は『日本水銀鉱床の史的考察』で横坑は銅鉱堀りとしています。)
処で、これに関連すると思われる興味深い事は、記紀の中に“毒”に関する記事が熊野・吉
た
し き と
べ
野に見られる事です。例えば、
『(神武)天皇は、、熊野の荒坂の津で、
、丹 敷戸 畔 という女賊を
誅された。そのとき神が毒気を吐いて人々を委えさせた。このため皇軍はまた振るわなかっ
た。
、
、
、
。そのときに天皇はよく眠っておられたが、にわかに目覚めていわれるのに、
「自分はど
うしてこんなに長く眠ったのだろう」と。ついでに毒気に当っていた兵卒どもも、みな目覚め
や
そ た け る
、又、
『、
、
、宇陀の、、
、国見丘の上に、八十 梟師 がいた。女坂には女軍を置き、
て起き上がった。
』
男坂には男軍を置き、墨坂にはおこし炭をおいていた。、、、』、又、『、、、天の香久山の赤土をと
い つ へ
お み き か め
お み き か め
って、
、
、厳瓮 (御神酒瓷 )などを造り、天皇は神意を占って、、
「、
、、今 御神酒瓷 を、丹生の川
、
、
に沈めよう。もし、魚が大小となく全部酔って流れるのが、ちょうど まき の葉の浮き流れるよ
うであれば、自分はきっとこの国を平定するだろう。、、、
」と。そして瓷を川に沈めた。、、、しば
らくすると魚は皆浮き上がって口をパクパク開いた。、、、』(宇治谷孟氏『日本書紀』講談社学術文庫)
等のヶ所ですが、これらは、朱/水銀を採取していたと思われる丹敷戸畔や八十梟師が採った戦
法は朱/水銀を炭火等で熱して“毒”ガスを以って敵をかく乱/戦意喪失させる戦法と理解でき、
又、神武天皇軍の神意占いの際に魚がパクパクしたのは瓷の酒の効果と云うより、ここでも、
朱を使った事で大小全ての魚がマヒ状態に陥ったからと読み取れるように、当時の人々の共通
認識には朱/水銀が“毒”になるとの認識があり、更に、朱/水銀が“毒ガス”として戦いに使
われた事を日本書紀は語っていると考えると思うのですが、皆さんはどう思われるでしょうか。
参考までに、畑井弘氏はこの毒気を“水銀朱の蒸気を吸うことによって起こる幻覚発作や心神
喪失状態を、銅神の吐く「毒気」
”(『天皇と鍛冶王の伝承』P.271)として、丹敷戸畔が奉る鍛冶神の
呪力と捉えている事を補記します。
え
そ
ちなみに、山本斌曠氏の『はるかなる水銀の旅』の中には、水銀蒸気を多量に吸うと肺 壊疽
になる事が書かれていますし、古泉秀夫氏のホームページ『医薬品情報 21』には、
『水銀の蒸気を吸
うと、神経障害を起こす。
』と書かれていて、症状としては『、、
、肺で 70-80%が吸収され、肺に
高濃度で沈着する。金属水銀吸入時には悪寒、発熱、頭痛、痙攣、気管支刺激症状、数時間で
呼吸困難、やがて肺炎、間質性肺炎、肺水腫を来す。』とあり、日本書紀に記されている症状と
重なります。
後記(その 4):石野亨氏は『奈良の大仏をつくる』の中で、人類の金属との係わりを次の様に
纏めています。
『人の金属との出会いは、紀元前 5000 年頃で、天然に産出した金や銀を打ちたたいて装身具
などに加工し使用したのが最初である。(段替)3500 年頃になると、溶かした金属を鋳型に流し
込んで鋳物をつくる技術をしるようになった。(段替)メソポタミア地方ではじまったこの鋳物
つくりの技術は中央アジアの西南部から、のちにシルクロードと呼ばれる地方を通って東アジ
前 16 世紀 ~ 前 11 世紀
アに拡がっていった。(段替)中国では 商代 に つく られたと推定される精緻な青銅鋳物の酒器
32
などが数多く発掘されているが、これらを見ると当時の高い水準の鋳造技術がしのばれる。(段
前 300 年~ 3 0 0 年
替)この中国の技術が朝鮮半島を経てわが国に伝わったのは、弥生 時代 に入ってからで、最初
は中国や朝鮮でつくられた青銅製の銅剣や銅矛・銅戈の模倣にはじまり、やがて独特の形状を
どう
した巴型土器や銅鐸、
さらにそれまでの石製や木製に代って簡単な農耕具や生活用品、
例えば 銅
えつ
どうさがり
鉞 や 銅鍑 (大釜)などがつくられるようになった。(段替)こうして金属が武器・祭器・生活の道
具として取り入れられるようになると、それまでの原始的集団生活が飛躍的に向上し、社会機
たまつくりべ
かがみつくり
構が充実し、共同社会としての体制が整うに至った。(段替)古墳時代に入り、玉作部 ・ 鏡 作
か ぬ ち
たてぬい
ゆ
げ
や は ぎ
は
じ
くらつくり
部・鍛冶 部・ 楯 部・弓削 部・矢作 部・土 師 部・鞍作 部など、それぞれの職業名を冠した技
術者集団・生産者集団が生まれたのも、こういった社会体制の変化に応じた結果であろう。(段
かがみつくり
替)これら技術集団のうち金属・鋳造に関係の深いのは、 鏡 作 部・
か ぬ ち
くらつくり
鍛冶 部・ 鞍作 部である。初期の銅剣などの摸作、巴型銅器や
AE
AE
EA
ちゅうどうきょう
銅鐸の鋳造についで 鋳 銅鏡 の製作がはじまったが、これを
つかさどったのが鏡作部で、4 世紀中頃から奈良県田原本町
い し こ り どめのみこと
の鏡作神社付近を中心に黒田郷地域に居住し、石凝 姥 命 を
遠祖とする秦系の鋳造集団である。(段替)鍛冶部は敏達天皇
から か ぬ ち
の頃(6 世紀後半)新羅から渡来した 韓 鍛冶 の末裔で、主に鉄
地金を打ちたたいてつくる刃物鍛冶をつかさどった。(段替)
くらつくり
かたしき
鞍作 部は鞍作 堅 貴 の渡来が雄略朝の頃とされているように、
EA
AE
AE
AE
やまとのあや
わが国に渡来したのはかなり古く、百済系渡来人 東 漢 氏の
支配下の工人達が中心で蝋型鋳造・塗金・象嵌などの多彩な
工芸技術をもち、馬具類の製作だけでなく、とくに古墳時代
5 3 8 年
後期の 宣化 3 年百済の聖明王が仏像と経論をおくるなど、
いわゆる仏教公伝の頃から、主に蝋型鋳造の技術を駆使し、
飛鳥大仏:鋳銅像に金メッキ
かなり活発に仏教に関係した舎利容器・仏像・香炉・灯篭
5 2 2 年
などの鋳造にたずさわった。(段替)継体 天皇 16 年渡来し、大和高市郡坂田原に居を構えた司馬
くらつくりの と り
と
り
達等の孫、多須奈の子で、飛鳥大仏や法隆寺釈迦三尊像の作者として著名な 鞍 作 鳥 (止 利
ぶ っ し
仏師 )はこの鞍作部の出身で、鞍作鳥を頂点とする止利派の人々の技術は現在でも高く評価され
いそのかみ
ている。(段替)こうした技術集団は大和の下田・石上 ・三輪・五位堂など畿内各地に分散移住
ゆ め たがい
かくりん
せい
し、先に述べた法隆寺釈迦三尊像をはじめ、夢 達 観音像、鶴 林 寺の 聖 観音像、薬師寺の薬師
ひ ぶくろ
おんじょう
三尊像、東大寺の八角灯篭 火 袋 の 音声 菩薩像など、主に蝋型鋳造による数々の名品を現在に
残している。』と書いて、金属の鋳造/鍛造技術が日本列島に伝播した流れのエポックが古墳時
代後期の 6 世紀にあったとしています。
後記(その 5):ところで、徳島県立博物館の若杉山遺跡の展示品を見ると、「鉱山のくらし」
と題して貝類が展示されています。その説明には鉱山での暮らしに山の幸だけではなく海の幸
を求めた故との解説がありますが、海から直線距離で 10Km も入った山間の暮らしに蛋白質を求
めたのなら、軽く持ち運びが容易な魚であれば充分で、貝が豊富に在るのは何か特別の理由が
あったように思えます。
それに示唆を与えるのが、山本氏の引用する「加茂谷村誌」です。その記録には『煉瓦の窯
33
釜の一方に火口があって、燃料を入れて燃やすようになっています。側方には 2 つの口があっ
て、そこから内部のレトルトへ辰砂の粉末と生石灰を混ぜて入れて約 10 時間余り強熱すると、
水銀が蒸発し、その蒸気を 1 本の鉄管で溜水中に導いて冷却すると、凝結して純粋の水銀が得
られるとあります。
』と紹介しています。この精錬炉は明治
時代に使われたものですが、水銀を精錬するのに生石灰を
入れるのは、岸本文夫氏の『水銀のはなし④』(地質
ニュース)によれば、炉内には水銀だけでなく、まだ少な
からず水銀を含有したスート(煤状の物質)が出来るので、
そのスートから水銀を選り出すのに石灰を使用するとあり、
現代でも使われる有用な方法です。とすれば、若杉山遺跡
で貝が出土してという事は、単に、辰砂鉱石から朱を精製
していただけでなく、弥生-古墳初期の時代に既に水銀を
精錬していたのではとまで想像をたくましくさせる事柄
山本斌曠氏『はるかなる水銀の旅』ヨリ転載
ですが、先にあげたヴェアシュア氏は“朱砂から水銀を生産する精錬術が伝来されるのは 6 世
紀前後”としており、炉の使用による当時の若杉山での精錬自体には山本氏も否定的です。し
かし、炉の使用は無くとも、どのような形かでの貝を伴った水銀の取得が若杉山であったので
はとの推測を捨てきれないのですが、その推測が的を射たものであるかどうかは、今後の発掘
の成果を待つしかありません。
後記(その 6):ヴェアシュア氏は『唐・宋における日本蓬莱観と水銀輸入について』の註 18 に興
味深い記事を載せています。
『日本についても一つ興味深いレポートがある。Emile Labroue,『 Le Japaon contemporain』,
Limoges, Marc Barbou 1901. P272 によると、当時朱砂の一番大きい鉱山は Komodani という所にあ
り、年間三、○○○キロが産出されると言う。、、
、』の記載です。この“Komodani”という所がどこを
指しているのか非常に興味ある事柄ですが、それに呼応する記載を山本斌曠氏『はるかなる水銀の
旅』にみる事ができます。『、、、。この前の谷を寒谷(かんだに)と言うんですが、寒谷が下の那賀川
にそそぐ付近に製錬所があったんですが、今は建物は残っていません。でも製錬所のあった所を掘る
と今でもときどき水銀粒が見つかることがあります。
』との一文です。
この“寒谷”と “Komodani”が同じ場所だとすれば、徳島県阿南市水井町の那賀川流域の丹生谷
は世界に誇れる朱/水銀の産出地です。(ちなみに、
“丹生谷”名は那賀川沿いに高知県との県境まで
呼称されています)。又、この寒谷から那賀川沿いを下り山一つ越えた所は加茂町西加茂で、ここに
か
も だに
石灰石をつい最近まで採掘していた工場跡がありますが、そこを地元の人は今でも“加茂 谷 ”と呼
か
も だにそん
んでいますし、1955 年まで 加茂 谷村 で、これらの“Kamodani”音は“Komodani”の音に重なります。
ともあれ、山本氏に依れば、『明治 44 年の「(加茂谷)村誌」の記録によれば、、
、年間、、
、水銀は
1701 斤(1021kg)、価格して 255 万円、、、
』とあり、明治 44 年に至っても年間に約 1,000kg(牛乳1L
箱 123 箱分;比重 8.1)の採取を見ています。Labroue 氏が記した“Komodani”鉱山は明治 20~30 年
代頃の事で、その平均年間生産量は 3 トン、そして、本文中に記したように明治 28 年には年間 2 ト
ンだったのですから、この丹生谷の朱/水銀資源の豊富さには驚かされます。そして、人々はこの丹
生谷でその朱/水銀を縄文時代から弥生-古墳期の若杉山遺跡を経て現在に至るまで、採ったり採らな
34
かったりの中断が時代に依ってあったようですが、しかし、連綿と採取してきた事はまさに世界的な
出来事で世界遺産に値する事柄です。そして言うまでも無く、朱そして無機水銀は人々の暮らしに大
いに有益であった故に採取されてきたのです、、それがアセトアルデヒド等の働きで無機水銀から有
機水銀に変化し人に悲惨な危害を与えた事例が生じていたとしても、
、それを超える恩恵を人々にも
たらす価値が、かっては、あったのです。
後記(その 7):歯科技工士の鈴木悦彦氏は虫歯の治療をした際の水銀アマルガムの骨子につい
て、水俣病で水銀が怖いというイメージが広がる前までは虫歯の治療に水銀アマルガム法が普
通に使われた。水銀は無機水銀を使い、銀粉と水銀を 1 対 1 の割合で用いた。薬鉢に銀粉と水
銀を入れて 5 分ほど摺りつぶすように混ぜる。その後、その液体を鹿皮で濾して水銀を取り除
くと流体の銀が得られる。その銀の流体を歯につめる。銀流体は数時間で固まる。この水銀ア
マルガムは虫歯が大きいと固まる前に流体が流れてしまうので、小さい穴の虫歯に使った。水
銀は一度使うと、その都度、捨てた、と自分の体験を語っていただいています。
後記(その 8):このレポートで言及した高知県香美郡香北町
に
ろ う の
韮 生野 大字大宮にある正一位大川上美良布神社は現在の社殿は
AE
AE
明治 2 年に作られた比較的新しい神社ですが、その境内は広く、
かっての盛大さをしのばせる風格ある神社です。主祭神は大田
々称古命で、それに陶津耳命/美良比売命/活玉依比売命等を合祀
し、創建年代は定かではありませんが、雄略天皇の千五百年前
と社伝略記とあります。韮生野地名は朱を意味する“丹生”
地名で、20 頁に掲げた「四国の水銀鉱床」にかって水銀鉱山が
大川上美良布神社
あった事が記されています。この神社について、谷川健一氏は『青銅の神の足跡』の中で次の
様に書いています。
い お ろ い
『高知県香美郡香北町(現南国市)の 五百蔵 から銅鐸が出土しており、その対岸の美良布神社
に伝来されてきた。五百蔵はもしかしたら五百木の転訛で、伊福と縁由をもつかも知れない。
この祭神の美良姫はスサノオ八世の孫と婚して一子オオタタネコを生んだと「旧事紀」は伝え
るが、
「地名辞書」は物部川の川上の神霊を祀ったものとしている。
』
後記(その 9):太竜寺山の北 2 キロ程下った所に若杉山遺跡があって、そこから又 1 キロ程下
ひ る こ
った那賀川沿いに小さな集落があり、そこに 蛭子 神社が鎮座しています。この蛭子神社は何を
ことしろぬし
祀る神社なのでしょうか。一般には、事 白 主 或いはえびす神を
祀る神社とされているようですが、各蛭子神社の祀る神は様々
で、蛭子神社と名の付く神社を見ると南の方から来た神様の
ような感じもある神様です。さて、よく調べた訳ではありま
せんが、蛭子神社が水銀産地と重なっている所がいくつかある
のです。これは何か意味しているのでしょうか。無機水銀は
ガス化して人が吸引しない限り無害なはずで、無機水銀が有機
水銀に自然変化した事で、流産とか声が出ない人が生まれた故
35
水井町;蛭子神社
なのかどうか、実に気になる事柄です。
後記(その 10):岸本文男氏の『水銀の話⑩』に「朝鮮の水銀」として次の様な興味深い事が
書かれています。
『朝鮮の水銀鉱床は、平安南道の孟山郡・徳川郡と中和郡・黄海道遂安郡の 2 地域および黄
海道金川郡に比較的集中していて、散在する幾つかの鉱床はいずれも関心を呼んでいません(第
9 図)。そのうちで歴史も古く産額も朝鮮としては大きい徳山鉱山は、、、鉱床は石灰岩中に胚胎
された辰砂・炭酸塩鉱物脈と含辰砂褐鉄鉱脈・含辰砂粘土脈および石灰岩空洞を充填した含む
辰砂粘土で構成されています。辰砂・炭酸塩鉱物脈の通幅は 5~10cm という薄いものですが、
いわゆる褐鉄鉱通と粘土通は 50cm から 2m におよび 深さ 20m ないし 50m 程度の規模を示して 10
数条が確認されています。
、、、』とあり、褐鉄鉱に辰砂が含まれている鉱脈が朝鮮にある事が書
いてあります。
こうした事例は徳上鉱山だけでなく、中和鉱山等でも同様の含
辰砂褐鉄鉱網条脈がある事が記されています。平安南道で古代に
於いて朱/水銀の採掘があったかどうかは定かではありませんが、
高句麗の壁画に鮮やかな赤色が描かれている事は朝鮮の古代人が
採掘をして利用した可能性がある事を示唆しています。
だとしたら、褐鉄鉱や赤鉄鉱は黄鉄鉱等と異なり鞴を使用せず
とも縄文土器を焼く野焼の 1000 度以下の温度で溶解しますので、
古代の金属精錬に従事した人々が鉄作りに臨んだ際に、併せて
辰砂と水銀の関連に気付き応用したであろう事は大いにありえる
事柄ですし、逆に最初の採掘目的は辰砂でそれから褐鉄鉱を知った
と云うのが時間的な流れなのかも知れません。ともあれ、そうした
人々が日本列島に渡来した事が、弥生期での鉄と辰砂の混在発掘
事例と何らかの形で繋がると思われるのですが、この朝鮮半島での
辰砂と褐鉄鉱が混在する鉱脈があるとのレポートを皆さんはどう
読まれるのでしょうか。尚、この資料には韓国地域での朱産地の
言及はありませんが、南朝鮮地域でも水銀/朱が採れた所があった
『水銀の話⑩』ヨリ転載
可能性は無いとは思wれないのですが、、
、。
又、この事に関連し気になるのは、
「資源地質 59(1)」の島崎英彦氏の『古代辰砂の故郷』の記
事です。その中に『ソウル大学の李 ミンセイさんによれば、韓半島には多くの古墳が知られて
いるが、これらを発掘しても施朱の風習というものは全く見られないのだそうだ、、、、』の記載
があります。が、もしそうだとしたら上記の水銀/辰砂鉱脈と李先生の指摘をどう捉えればよい
のでしょうか。韓国の地に於いても、朱・水銀の文化は確実に在ったはずで、施朱の風習もと
うぜんあったはずですが、
、
、
。
後記(その 11):石田行雄氏の『不老不死と薬』
(P32)は、硫化水銀の“酸化”が生物にとっ
て危険な存在になる事を教えています。
36
かんこう
『辰砂は硫化水銀であり、これは酸化されて黒くなる。第一塩化水銀(甘汞 )は薬として貴重
しょうこう
、、美しい変形しな
であるが、自然に酸化されてきわめて有害な第二塩化水銀(昇汞 )となる。、、
い金に比較して、変化にとみさまざまな様相を示し、薬にも毒にもなる水銀は西洋やインドに
おいても錬金術のもっとも重要な材料である。』
後記(その 12):ポンペイは AD62 年に大地震に遭遇し、又、引き続き AD79 年にベスビオウス
山の大噴火で灰に覆われ。姿を消しました。ポンペイの歴史については、紀元前 8C 頃にイタリ
ア先住民の一種族オスクが建設し、その後、ギリシャ・エトルスキ・サムニウス族によって順
次征服され、BC310 にローマの植民地になった経過をもっています。そのポンペイには壁画が数
多く残っていますが、この漆喰画の赤には朱が使われており、その朱は地中海をはさんだ対岸
のアルジェリアのラス・エル・マ等で採取されたものとされています。ラス・エル・マには現
在も大きなセメント工場があって石灰石を採掘しており、ここでも石灰石と朱との相関関係を
確認できます。
ところで、岸本文男氏に依れば、イタリアは世界第二の
水銀生産国(『水銀の話⑤』)でトスカーナ地方がその主要な
鉱床及び産地です。とすれば、そのトスカーナから朱・水銀
を持ってきてもよさそうなものですが、アルジェリアから
わざわざ得ていたとすればそのしかるべき理由があったはず
で、折りを見て調べてみたい事柄です。
後記(その 12):山本斌曠氏の『はるかなる水銀の旅』
(P83-84)に、是非、記録しておきたい次の様な
『ポンペイ 今日と 2000 年前の姿』ヨリ転載
意味深い文章が書かれています。
『僕は神様とか仏様というのはどうも、つくりもののような気がしてなじめないんですが、
しかし、この宇宙には、何かしら我々を支配する大きな力が存在しているのではないかなあと、
日頃考えているんですが』(段替)『その大きな力を自分以外のものの中に見い出すのが西欧の
宗教ですが、東洋の宗教や哲学は、例外なく自分自身の中に見い出すんです。本来自由である
べき人間がなぜ苦しまなければならないのかというと、人間は自分で自分を束縛しているから
だというのがインド的世界観であり、人間が人間の本当の姿を理解し、真実の姿に目覚めれば、
人間は自由にして解放的な人生が送れると説いているんです。お釈迦様はそれを涅槃(ねはん)
とか解脱(げだつ)と言っているんです。人間は富だ名誉だ権力だなどと、外の事ばかり気にし
てる間に、静かに自分の内面を省察し、人間のありのままの姿や在るべき姿を鋭く見つめ、深
く掘り下げることを忘れてしまったわけです。』(段替)『自分自身を探求するという人間の英知
を今一度取りもどさなくてはいけませんね。その実践的な方法がヨーガなんですね。』(段替)『そ
うです。インドでは紀元前 1500 年頃からヴェーダという宗教が生まれ、精神統一のためにいろ
いろな方法が確立されたんです。そして紀元 5 世紀頃、ヨーガスートラという経典に集大成さ
れたものが基本となって、現代に受け継がれているんです。この経典によって解脱のための理
論だけでなく、その具体的実践の方法を学ぶことができるんです。
』
37
後記(その 13):表紙の空海像は石山寺の僧:観祐が 1163 年(長寛元年)に描いた『高僧図像』中
の空海像です。従って、空海が生きた時代から約 350 年後に描かれた空海像になり、実際の肖
像画では無いと言う事になります。しかし、この高僧像は、表紙の空海像だけでなく義操や玄
越像等が描かれているのですが、まるでその人となりを描いた巧みな筆使いは、まるでその人
その人が生きていて今にも絵から出てきて各々語り出すようなヴィビッドな生命力があり、そ
れは:観祐氏がその人物を前に実際に活写した故にこそ、と思えるようなリアリティがあります。
実際とは違っているかも知れませんが、もっと知られてよい、一つの空海像と考えます。
38