第1節 古代東国集落の成立とその背景

第1節
第1節
古代東国集落の成立とその背景
古代東国集落の成立とその背景
東国における古代景観を、これまでの発掘調査の成果から概観すると、低地に広がる条
里、台地に立地する集落と、その背景にある官衙や寺院が代表的なものであろう。このよ
うな景観が形成される以前の古墳時代後期には、低地には竪穴住居から構成される集落が
展開し、台地には古墳群が築造されていた。それではこの集落立地が変化した要因はどこ
にあり、官衙や条里とどのような関係にあったかなど、背景にあるものについて検討して
いきたい。本節では、利根川右岸に広がる妻沼低地で展開した、飛鳥時代から奈良・平安
時代にかけての土地利用の変遷をケーススタディーとして、律令国家成立期における地方
支配の一端を解明していきたい。
1
集落立地変遷からの視点
「低地の遺跡」というと、泥炭層遺跡や条里・水田といった特別な遺跡を指す事が多か
ったが、現在水田となっているような低地内で、丘陵や台地と同じように、集落・古墳な
どが数多く調査されるようになった。今後、確認の困難な低地内の自然堤防や沖積微高地
などの遺跡(以下低地性遺跡とする)の調査技術向上により、その数は、さらに増加して
いくであろう事は充分予想される。これまでは、発見が容易な事もあって、台地上の遺跡
に関心が偏っていたが、低地性遺跡の調査例の増加は、台地の遺跡だけでは得られなかっ
た多くの情報を我々に与えてくれる。
低地性遺跡を概観すると、台地の遺跡のように全時代を通じて満遍無く存在するのでは
なく、低地を指向する時代が断続的にあることがわかる。関東地方に限ると、その時代は
縄文時代後・晩期、弥生時代中期前半、古墳時代後期、平安時代後半~中世などである。
これ以外の時代には、遺跡が無いというのではなく、例えば縄文時代中期や弥生時代後期
のように、前述の時代と比較すると遺跡数は極端に少なく、台地上の遺跡と比して時代に
よる盛衰が激しかったといえる。
台地と低地の住環境を比較した場合、前者が良好である点については、今も昔もそう大
きな違いがあるとは思われない。まして、治水が現在のように進んでいない時代において
は尚更であろう。それにも関わらず、低地に集落を形成した理由、あるいは逆に低地の集
落を棄てて台地へ移らなければならなかった理由は、どこに求められるのであろうか。そ
の回答としては、自然環境の変化、生業の変化、社会・政治情勢の変化などが考えられる
が、ここでは、古墳時代後期から奈良時代における集落立地の変遷を対象とし、その背景
にあったものを検討してみたい。なお、検討対象として地形区分が明瞭で、遺跡分布も濃
密な武蔵国北部の児玉・大里郡域を選んだ。
児玉・大里地方の地形を東から概観すると、利根川、妻沼・熊谷低地、本庄・櫛引台地、
松久丘陵、関東山地と続く(図Ⅰ-1)。さらに、低地内には多くの自然堤防が点在し、本
庄台地と櫛引台地の間の身馴川流域には生野山・浅見山・山崎山の三残丘が所在する。ま
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第Ⅰ章
古代東国集落の特質
た、熊谷低地の西には江南台地や比企丘陵が連なり、河川を含めて起伏に富んだ地形を成
している。
古墳時代から奈良時代の土地利用を上記の地形に当てはめると、低地に水田、台地に集
落と古墳、丘陵と残丘に古墳群・集落、であろうと一般的に考えられてきた。しかし、1980
年代後半以降の低地内の調査では、古墳時代後期を中心とした遺跡が数多く発見されてお
り、これら低地の遺跡と台地の遺跡の関係が大きな問題となってきた。特に妻沼低地では
本庄台地・櫛引台地と利根川との距離が短く、数百メートル先に台地が広がっているにも
かかわらず、現在水田となっている自然堤防などの微高地で多くの遺跡が調査されている。
このような低地性遺跡の時期をみると、上敷免遺跡(沢出 1985)
・砂田前遺跡(岩瀬 1991)
・
新屋敷東道跡(田中 1992)など古墳時代後期(鬼高期)を中心とした遺跡が多い。これら
の遺跡と対峙する同時期の台地上には、原ヶ谷戸古墳群・四十坂古墳群・白山古墳群・木
の本古墳群などが分布しており、鬼高期の集落は見られない。これが7世紀後半以降から
奈良時代になると、低地内の集落は減少し、熊野遺跡(鳥羽 2001 他)
・内出遺跡(飛田野
他 1986)
(註1)や白山遺跡(中村 1989)などの集落がこれまで古墳群に独占されていた
台地上に進出する(図Ⅰ-9)。さらには、榛沢郡正倉である中宿遺跡が台地縁辺に建設さ
れ、中宿遺跡から熊野遺跡にかけては榛沢郡家政庁域や評家の存在が想定される(鳥羽
1995 他)。そして低地には、岡部条里が展開し(宮本 1998)、一ノ坪・深町・八反などの
条里と関連の深い地名が確認されるようになる。
以上の櫛引台地と妻沼低地の遺跡群の動向と同様な現象は他の地域でも見られ、例えば、
女堀条里内の後張遺跡(立石 1983)
・川越田遺跡(富田他 1985)では、古墳時代の集落は
7世紀前半までに消滅し、代って1km ほど北の本庄台地に、今井遺跡群、八幡太神南遺
跡(富田他 1985)や将監塚・古井戸遺跡(井上 1986)といった7世紀後半から8世紀初
頭を初現とする集落が出現している。将監塚・古井戸遺跡の南東に広がる児玉条里遺跡に
おいても(鈴木 1991)、台地の集落造営と低地の開発は位置的な関連だけではなく、時期
的にも関わりが窺える。
このような7世紀後半を中心とした集落立地の変化は、古墳に対する意識や低地内の開
発の問題とも大きく関わり、古墳時代後期から奈良時代への転換期における政治的な動態
の中でこそ理解できる問題だと考えている。この問題を検討するには、集落立地変遷の画
期を求める事が必要である。そこで、次に時間軸設定のため、これまで丸底内屈口縁形態
の坏(鈴木 1984)あるいは口縁端部に傾斜する面をもつ丸底の坏(西 1974)と表現され
ていた北武蔵型土師器坏の編年と、この坏と入れ換えに衰退していく鬼高系の有稜坏を対
比してみた。これによって得られた年代観を基に、低地から台地へと集落が移動する時期
を求め、これに古墳群や条里の分布の問題も加えて、低地性の集落が衰退していく背景を
検討していきたい。
2
模倣坏の分類と編年
(1)模倣坏の分類
中田遺跡において真間I類の標式として、内曲する扁平な土師器坏をあげているが(岡
田他 1968)、これは後に福田健二によって提唱された北武蔵型坏を指すものである(福田
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第1節
古代東国集落の成立とその背景
1978)。その後、中村倉司(中村 1984)や鈴木徳雄(鈴木 1984)によって北武蔵型坏の
検討が行われたが、その出現についてはともに、「須恵器模倣の土師器坏を止揚して出現」
あるいは「鬼高系の有稜坏の模倣を揚棄して成立」という理解をされている。このような
北武蔵型坏の出現の問題については、別系統の坏、新興の坏(井上 1979)(比田井 1985)
など表現は違っても大方の理解は一致している。鶴間正昭は近年の研究で、北武蔵型坏な
どについて「新型土師器坏」と表現し、新型坏類は奈良国立文化財研究所分類土師器坏C
(西他 1976 他)
(図Ⅰ-2)を模倣あるいは影響を受けているが、畿内産土師器との類似
性は低い(鶴間 2004・2006)とし、富田和夫は在地的な土器様式の変革期の土器として
位置付けつつ、祖形は不明としている(富田 2009)。
また、分布についても、北武蔵型という南武蔵型坏に対比させた名称から、非常に限定
された範囲を想定してしまう。しかし、5世紀以来須恵器を模倣し、さらに8世紀以後も
常にその影響を受けている土師器坏が、7世紀代にだけ独自の形態を成立させたと考える
根拠は乏しいと言える。分布範囲は、後述するように関東地方はもちろん東北地方から中
部地方まで及んでおり、鬼高式土器と差ほど大きな違いはないのである。そこで、この坏
も須恵器を模倣したものではないかという疑問を出発点として、北武蔵型坏を再検討した
い。これに加えて従来の鬼高系の模倣坏も並列し、陶邑Ⅰ型式(中村 1978 他)の坏を模
倣した土師器坏をA類、陶邑Ⅱ型式第4段階を中心とした坏を模倣した土師器坏をB類と
した。そして陶邑Ⅱ型式第6段階を模倣した土師器坏をC類つまり北武蔵型坏とし、A類
からC類ごとに6世紀末から8世紀初頭を中心とした編年を試みたい(註2)。A類からC
類までの土器群を横の軸として並列させ、6世紀末葉から8世紀初頭までをI段階からX
段階に区分して縦の軸=時間軸として、各類毎に論を進めたい(図Ⅰ-3)。
模倣坏A類
模倣坏A類は、鬼高式土器を代表する土器であり、陶邑Ⅰ型式の坏を模倣したもので、
有稜坏、有段坏と表現されるように、直立あるいは外反する口縁部と体部との境に稜を持
っている。5世紀後半のある段階で陶邑Ⅰ型式の坏あるいは蓋を模倣して以来、7世紀前
半までは連続的・一系的な変遷を辿り、その系譜としては8世紀前半頃まで残存する。
これまで、A類で最も古い様相を示すものは諏訪遺跡(小久保 1979)48 号竪穴住居出
土の一群であり、諏訪遺跡 49 号竪穴住居は模倣坏を伴わないが、陶邑TK208 型式~陶
邑TK23 型式(田辺 1966)の無蓋高坏を出土している。またこれも模倣坏ではないが、
諏訪遺跡 49 号竪穴住居に近い古井戸遺跡 H3号竪穴住居(井上 1986)では、陶邑TK216
型式~陶邑TK208 型式並行の𤭯が発見されている。後張遺跡の編年(立石 1983)では一
般的に初期須恵器が伴うのは後張V期からで、諏訪遺跡・古井戸遺跡もその例に漏れない。
しかし、陶邑Ⅰ型式第1段階~第4段階(田辺編年ではTK73 型式~TK23 型式に相当)
までの須恵器の編年と、有稜坏の有無を目安とした土師器の編年観は必ずしも一致する訳
ではない。この現象は陶邑Ⅰ型式末葉には解消するが、在地窯出現までの須恵器と土師器
に対する所有意識・所有時間の違いからくるものと思われる。5世紀後半に出現したA類
は、基本的な特徴を残しつついくつかのタイプを派生させ、極めて画一的で単純な変化を
している。ここでA類を諏訪遺跡 48 号竪穴住居出土の坏を初現とし、そこから派生した
タイプを小分類してその変遷を編年図(図Ⅰ-3)に沿ってみていきたい。小分類は最小
限に止め、A-1~A-3までの3分類とした。
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第Ⅰ章
古代東国集落の特質
A-1類は、口縁が直立あるいはやや外傾気味に外反しつつ開く基本的なタイプであり、
A類の出現から消滅までの全期間を通じて存在する。A-2類は境の稜の他に口縁に1~
3の段を有するもので、複数段口縁などと呼ばれることもある。その他の形態はA-1類
と同一であり、6世紀後半から7世紀前半までの短期間見られる。A-3類は口縁が外反
しつつ大きく開くもので、皿に近い形態を示す。6世紀後半に出現し、その後系譜は一時
途絶えるが、7世紀中葉ごろから8世紀前半にかけて再びA類の一角をなすようになる。
しかし、この両者が同一線上で把えられるかは疑問であり、後者出現に際しては新たな要
素を考えた方が妥当かもしれない。ここでは、とりあえず形態が類似しているという点か
らA-3類という形で一括して扱った。
A-1類
Ⅰ段階もそれ以前とは大きな差はないが、Ⅱ段階以降は口径が大きく扁平なも
のはなくなる。全体的な流れとしては、漸次変遷している様子が見られ、大形から次第に
小形化している。特にV段階を境として小形化は極端で、実用器としては限界とも言える
口径 10cm 以下のものも作られている。しかし、形態上の変化は少なく、稜が若干弱くな
る程度で、法量だけを小さくしているようである。
A-2類
若宮台遺跡(大和 1983)55 号竪穴住居や飯塚南遺跡(駒宮他 1981)18 号竪
穴住居をI段階とし、その初現はこれを大きく遡らない。この坏の出自については不明で
あるが、I~Ⅱ段階位までは口縁の段を除くとA-1類との大きな差は見出せない。これ
がⅢ段階以後にはA-1類に比して体部、底部の丸味が徐々に消失していく様子が窺える。
あるいは須恵器蓋を意識したと考えられる。A-2類もI段階には大形で扁平な器形もあ
るが、Ⅱ段階から徐々に小形化し、V段階を最後に姿を消す。中道遺跡(駒宮 1974)
25 号竪穴住居はA類とC類が伴う住居で、A-2類もこの住居を最終末とすることがで
きる。
A-3類
前述のように、I段階では川越田遺跡7号竪穴住居などで確認できるが、以後
V段階までは見られない。I段階のものは他のA類と同様に口縁部と体部との境が明瞭で
あるが、V段階以後のものは境が明瞭でなく、皿と表現する方が適切な形態である。V~
X段階までは形態上の変化はほとんどなく、やや小形化する程度である。
模倣坏B類
有稜坏である点ではA類と何ら異なる所はない。しかし、A類がⅠ型式の模倣で、以後
その内部での変化であるのに対して、B類は新たに陶邑Ⅰ型式第4段階を中心とする型式
の坏を模倣したものである。最大の違いは、A類の口縁は直立あるいは外反して比較的大
きな立ち上がりを示すが、B類は口縁部は小さくそして内傾している事である。目安とし
ては稜線を中心として口縁部の角度はA類が 90°以上、B類が 90°以下となる。
A類は、A類としてのその系統を残しつつ、再びタイプの違う須恵器を模倣した理由に
ついては、陶邑Ⅱ型式第2段階で蓋の稜が消失する事と関連すると考えられる。蓋の稜の
消失によって模倣するモデルの1つがなくなり、坏を模倣することにより強い関心を示し
た可能性がある。いずれにしろ、B類は陶邑Ⅰ型式第2段階以降の強い影響下の基に成立
し、その出現はこの時期を遡るものではない。出土例をみればA-2類と多くの部分で共
伴しており、時期的にもほぼ一致しているものと思われる。
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第1節
古代東国集落の成立とその背景
Ⅰ段階からⅡ段階にかけては、口径 15cm に近い大形のものもあり、口縁の屈曲角度も
小さく稜というより明瞭な段をもって、忠実に須恵器を模倣しようとする姿勢が見られる。
A類と同様漸次小形化して、口縁の屈曲角度も広くなり、V段階を最後に姿を消す。
模倣坏C類
これは北武蔵型坏と呼ばれるものを中心としたもので、V段階においてA-2類とB類
と重なるが、Ⅵ段階からは量的にA-1類を凌駕して、土師器坏の主要形態となる。C類
の基本的属性として、①丸底である②体部と底部の区別が明瞭でない③口縁部は小さく内
屈するか直立する④体部・底部は横位~斜位の箆削り⑤口縁は横ナデ⑥口径は 10cm を大
きく超えず概して小形である、などの点を列挙できる。しかし、中村倉司の指摘どおり、
10 世紀前半までの坏を北武蔵型と呼ぶなら(中村 1984)、上記の基準もやや変化する。即
ち、9世紀以後は平底化の萌しが窺え、口縁もやや外傾気味となる。しかし、ここでは8
世紀初頭以前の成立期を扱うもので、上記①から⑥までの属性はほぼ具備している。
このような特徴をもった北武蔵型坏は、形態からはA類、B類の系譜から求めることが
できず、V段階から突然出現し、Ⅵ段階には供膳器として主体的な位置を占めてしまう。
この坏を理解する時に、模倣坏を払拭して出現したと考えるのではなく、B類と同様に新
たに須恵器を模倣したと考えてはどうだろうか。モデルとなったのは飛鳥・藤原宮分類坏
H(西 1978)、白石太一郎の分類(白石 1982)でb類(図Ⅰ-4)の形態であり、陶邑編
年ではⅡ型式第6段階(註3)、白石編年では7世紀第2四半期となる。時期的にもⅥ段階
に属する八幡太神南遺跡A1号竪穴住居出土須恵器が7世紀第3四半期と考えられており
(富田他 1985)、大きな齟齬は感じられない。
では具体的に両者の形態・法量を比較・検討し、北武蔵型坏を模倣坏として取扱うこと
が適当かどうかを述べてみたい。図Ⅰ-5は、上から須恵器、須恵器坏の蓋受を除いたも
の、土師器の順に3者の形態を比較したもので、モデルは須恵器が陶邑Ⅱ型式第6段階に
相当する陶邑TG32 号窯(中村 1978)出土土器、土師器は八幡太神南遺跡A1号竪穴住
居(図Ⅰ-6)、今井遺跡群G2号竪穴住居出土土器である。これをみると両者の形態上の
差は蓋受だけであることがわかり、蓋受を除去したモデルと土師器との大きな差を見出す
ことはできない。つまり、模倣坏C類は陶邑Ⅱ型式第6段階の坏の蓋受を省略して模倣し
たものと言え、省略した理由としては、内傾する小さな口縁部とその直下から張出すよう
に巡る蓋受を土師器では表現できなかった点が考えられる。そのため、内傾する口縁部の
みを表わすことによって、須恵器との互換性を保ちつつ新たな器種を生みだす結果に至っ
たのであろう。
(2)C類土師器坏の法量と分布
次に法量について比較してみる。比較の方法としては、高さ・口径・底径の着目する部
分の組み合わせがあるが、今回は直接的な容量と口径の組み合わせを採用した。口径は坏
を中心にした供膳器の特徴や変化を反映するもので、容量については特に丸底の土器を扱
うため、底径や高さより直接的な器の大小を表すものと考えた(註4)。また、容量は胎土
の厚さに左右されないよう、外面のラインから測定し、厚さは0として計算したので、実
際の容量とは異なるが、両者の比較という点では有効であると考えた。X軸が容量・Y軸
が口径である。表Ⅰ-1は、陶邑Ⅱ型式第5段階と第6段階の坏を表わしたものである。
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第Ⅰ章
古代東国集落の特質
陶邑TG41-I型式とMT5-Ⅲ型式が第5段階で、陶邑TG11-Ⅱ型式が第5段階と第
6段階の両者を含み、陶邑TG32 型式と陶邑TG30-Ⅱ型式が第6段階である。第5段階
と第6段階の違いはほぼ口径 10cm、容量 200 ㎤を境に明瞭な差が見られ、両者が混在す
る陶邑TG11-Ⅱ型式をみるとその違いがはっきりとわかる。点線で囲んだ2点が第5段
階である。
表Ⅰ-2は土師器坏のグラフで、上敷免遺跡A-2号竪穴住居がⅣ段階、八幡太神南遺
跡A1号竪穴住居と今井遺跡群G2号竪穴住居がⅥ段階、立野南遺跡2号竪穴住居がⅨ段
階である。土師器の場合も須恵器と同様に上敷免遺跡のA類、B類が口径 13cm、容量 420
㎤程を平均としているのに対し、他の3遺跡のC類(点線内)は明らかに小形化している
ことがわかる。報告書の実測図中の供膳器を全て対象としたため、かなりのばらつきが見
られるが、たとえば立野南遺跡の1点鎖線内はA-3類というように、器種形態の差もグ
ラフに表われている。須恵器と較べると、第6段階とⅥ段階ではかなりの部分で一致し、
Ⅸ段階では逆に大形になっている。これは、実用の器としては限界に近い程小形化したた
めの反動で、以降安定していくのであろう。
このように、容量的にも若干の個体差を除いて須恵器と土師器坏に違いはなく、西弘海
の指摘どおり正に須恵器と土師器の互換性をみることができるのである(西 1974)。
須恵器供膳器の小形化に伴って土師器も同様な変遷をし、須恵器がそのピークに達した
のが陶邑Ⅱ型式6段階である。次の陶邑Ⅲ型式になると所謂逆転期を迎え、供膳器の様相
は大きく変化する。八幡太神南遺跡A1号竪穴住居のように、C類でも古い部分では、逆
転期以後の飛鳥・藤原宮編年Ⅲ期と併行することが多いが、宝珠つまみとかえりをもつ蓋
と、平底あるいは高台付坏の存在を知りつつ、それ以前の形態を模倣している点は興味深
い。
この坏は、北武蔵地域あるいは上野地域南部では9世紀、10 世紀まで残るが、他の地域
では8世紀前半という早い時期に姿を消してしまう。この問題は次に述べる分布の問題と
も大きく関わるが、盤状坏などのロクロ使用土師器が登場する地域では、C類の系譜は途
絶えてしまい、ロクロ使用土師器がC類の終焉と強い関連を持つものと思われる。北武蔵
を中心とした地域では、土師器製作にロクロが使用されるのが遅れたため、C類が根強く
残り、これが北武蔵型と呼ばれるようになった所以であろう。
北武蔵型という名称のため、この坏の分布については限定された地域を想定してしまう
ことが多い。しかし、これが模倣坏であるなら、北武蔵に限定して考える必要はない。そ
こで次に、前述した基本的属性を備えた土器を他地方に求められるかを検討する。
北から順次述べていくと、宮城県御駒堂遺跡(小井川他 1982)6号・12 号竪穴住居に
類似したものがある。12 号竪穴住居出土土器は報告書では第1群土器に含められ、7世紀
末から8世紀初頭に位置付けられている。報告書によると、段によって区切られた短い内
湾(Ⅲ2b類)、もしくは内傾(Ⅲ2c類)する口縁をもつ坏とされ、真間式系とされてい
る。6号竪穴住居出土土器は第2群土器=8世紀前半に位置付けられており、この第2群
土器には関東系の土器がかなり含まれている。御駒堂遺跡6号竪穴住居出土と同形態の坏
は仙台市郡山遺跡でも出土しており、Ⅱ期官衙=8世紀初頭の遺構出土とされている。こ
の坏は北武蔵型坏そのものとは言えないが、やや厚手であるなど以外は多くの点で一致す
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第1節
古代東国集落の成立とその背景
る。これらの北武蔵型坏と非常に近い土器群は、栗囲Ⅱ式あるいは国分寺下層式土器に伴
うもので、北武蔵に比してやや後出といえる。
関東北部では、栃木県多功南原遺跡(前沢他 1985)I期の土師器坏 C-1-a類に近く、
他に茨城県長峰遺跡(塚谷他 1973)や幸田遺跡(間宮 1995)などでも出土している。群
馬県では中尾遺跡(坂口他 1984)を始め数多く発見されている。南武蔵地域では武蔵国府
を中心として(山口他 1985)、編年的位置付けも試みられている。その他、真間I類の標
式とされた中田遺跡や千葉県市営総合運動場内遺跡(宮内 1983)、神奈川県長井町内原遺
跡の坏H類がこれに近い。また、中部地方では、山梨県北堀遺跡(長沢他 1985)で、北堀
I期とした時期に北武蔵型そのものと言える坏が出土している。北堀Ⅰ期は7世紀末~8
世紀初頭に位置付けられている(図Ⅰ-7)。
以上のように、北武蔵型及び、かなり類似した坏は東北地方から関東のほぼ全域そして
中部地方にまで及んでいる。しかし、その出現時期は、上野地域南部を除くと7世紀末か
ら8世紀初頭と北武蔵地域よりやや遅れている(坂口・三浦 1986)。上野地域南部につい
ては、ほぼ北武蔵地域と地域的にも一括して考えてよいであろう。出現と共に終末につい
ても上野地域南部以外は8世紀代には姿を消し、その後の系譜も途絶え、比較的短命に終
わる。この坏の終焉にはロクロ使用土師器の出現が大きく関与していると思われるが、こ
の点についてはここでは見通しを述べるにとどめ、分布論を含め改めて検討する必要があ
る。
これまで見てきたように、C類坏は模倣坏である可能性が高く、その出現は陶邑Ⅱ型式
第6段階の時期を遡ることがないことが明らかになった。V段階でC類の出現が確認でき
たが、次のⅥ段階は(富田・赤熊 1985)や酒井清治の年代観(酒井 1986)からも7世紀
第3四半期とする事ができる。V段階もⅥ段階と四半世紀の年代差を設定できる程の時間
差はなく、7世紀中葉としたい。なお、林部均はⅥ段階の八幡太神南遺跡A1号竪穴住居
やX段階の立野南遺跡2号竪穴住居出土の畿内産土師器を平城宮編年I期(西他 1976)に
位置付けているが(林部 1986)、立野南遺跡例は別として、八幡太神南遺跡例を平城Ⅰ期
とすると、共伴土器から本節の年代観とは差が生じることになる。畿内産土師器は覆土中
出土であるが、他の土器も概ね同様な状況下にあり、これらの土器群は一括して扱ってよ
いと思われ、これまで述べられているごとく(赤熊他 1988)、飛鳥Ⅲ期に近い時期と考え
られる。近年の調査では、熊野遺跡 131 次調査(鳥羽 2001)、47 次調査(鳥羽 2004)で
畿内産土師器が出土しており(図Ⅰ-6)、これらの詳細な分析から八幡太神南遺跡A1号
竪穴住居出土土器群は、飛鳥Ⅲ期~Ⅳ期とされ(富田 2009)(鳥羽 2004・2011)、670 年
を挟んだ年代が想定されている。
このように、北武蔵型坏であるC類の最古例を7世紀中葉のV段階に求め、Ⅵ段階から
量的にも増加し、ここを7世紀第3四半期とし、立野南遺跡2号竪穴住居と将監塚・古井
戸遺跡Ⅰ期の年代観から、Ⅸ段階に 700 年を挾んだその前後の年代を与えたい。また、B
類出現の問題からI段階とⅡ段階の境に 600 年頃を、Ⅲ段階は7世紀第1四半期と考えた
い。
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第Ⅰ章
3
古代東国集落の特質
低地の集落・台地の集落そして古墳群
前項までは模倣坏、特に北武蔵型坏を中心として、その編年と年代的位置付けを試みた。
ここでは、それによって得られた年代観を基にして、時期による集落立地の違いを検討し
てみたい。分布図作成に当っては、遺跡地図などでは「古墳時代後期~奈良・平安時代」
あるいは「土師器」などと記され、細かな時期を対象とすることは不可能なので、発掘調
査、試掘調査などで時期の判断ができるものを抽出した。
古墳時代後期から奈良時代の集落に古墳群・条里を加えたのが図Ⅰ-1である。最初に
低地の集落をみると、小山川を挾んだ身馴川低地に多く分布しており、神流川右岸の低地
内の帯刀周辺にも集中している。また、小山川以北にはないが、小山川と櫛引台地の間に
は、自然堤防に沿って点々と連なっている。次に台地の集落では本庄台地の縁辺部を中心
に分布が見られ、台地奥部の集落も微地形に規制されて、河川や谷に沿っていることが分
かる。櫛引台地は本庄台地に比すと密度は薄く、縁辺部に見られるが、大集落あるいは官
衙に関連する遺跡がいくつかある。特に榛沢郡家の中宿遺跡(鳥羽 1995)や熊野遺跡(鳥
羽 2001 他)、幡羅郡家の幡羅遺跡(青木 2001)及び西別府廃寺(吉野 1992 他)・西別府
祭祀遺跡(吉野他 2000)など、櫛引台地縁辺には7世紀後半から評家・郡家とその周辺遺
跡群が建設されるようになる。
古墳群の分布は、本庄台地の神流川・利根川に面した縁辺部と櫛引台地も同じく北辺部
に多く見られる。その他には、山崎山などの残丘と身馴川低地の自然堤防に点在し、妻沼
低地・熊谷低地では周囲に台地・丘陵がないため、集落と重なるようにして自然堤防に分
布する。また、条里については、調査や地名から位置を示してみた。
以上、地形毎に遺跡の分布を概観したが、次に時期によりどのような移動が見られるか
を見てみたい。
身馴川低地では、後張遺跡と川越田・梅沢遺跡(富田他 1985)が代表的な例である。こ
れらの遺跡は名称こそ違うが、女堀川右岸の自然堤防上に立地する同一遺跡と考えられる。
後張遺跡自体は五領期から鬼高Ⅱ期まで続く大集落であるが、その後の川越田遺跡などの
調査で7世紀代まで続くことが判明した。後張遺跡は後張Ⅶ期、つまり6世紀中頃が終末
期であるとされてきたが、川越田遺跡では3号竪穴住居出土土器のようにⅣ段階=7世紀
第2四半期までの土器群が確認されている。後張遺跡と大久保山、小山川を挟んだ村後遺
跡(利根川他 1984)も五領期と鬼高期を中心とした集落跡で、1号竪穴住居と 14 号竪穴
住居のⅣ段階を最後として集落は跡絶える。これは後張遺跡と同じ時期である。
神流川右岸の神流川低地では、天神林遺跡・高野谷戸遺跡(昼間他 1983)・東猿見堂遺
跡・若宮台遺跡(大和他 1983)など鬼高期の集落が帯刀・五明地区周辺に集中している。
ここでも、若宮台遺跡が8世紀~9世紀と続く以外は、7世紀代に終末を迎える。高野谷
戸遺跡1号竪穴住居がⅡ段階、天神林遺跡5号竪穴住居がⅣ段階、そして天神林遺跡 21
号竪穴住居が最も新しい土器を出土している。
妻沼低地では、砂田前遺跡(岩瀬 1991・佐藤 1998)・新屋敷東遺跡(田中 1992)そし
て上敷免遺跡と台地からやや離れるが、道ヶ谷戸遺跡・飯塚南遺跡などがある。砂田前遺
跡の周辺は、これまで遺跡の存在が全く知られていなかった場所で、1987 年以来の調査で
鬼高期の集落が確認された。岡部条里遺跡など、隣接する同一遺跡を含めると 220 軒を超
- 18 -
第1節
古代東国集落の成立とその背景
える竪穴住居が狭い自然堤防上で激しく重複をしている。この集落も5世紀末~6世紀初
頭から始まり、7世紀前半代まで続くことが知られている。新屋敷東遺跡は鬼高期を中心
とした約 200 軒の竪穴住居が発見されており、上敷免遺跡(蛭間他 1978 他)も鬼高期~
国分期の竪穴住居 270 軒程が調査され、これまでの調査を含めると 300 軒に近い数となる。
上敷免遺跡も中心は鬼高期である。福川流域の道ヶ谷戸遺跡では鬼高期の竪穴住居 13 軒、
飯塚南遺跡では8世紀初頭を含めて 22 軒の竪穴住居が調査されている。
各低地内の集落の終末を中心に述べてきたが、では同じ地域で7世紀後半以降はどのよ
うな土地利用がなされているかを考えてみたい。身馴川低地の後張遺跡・川越田遺跡は、
後張遺跡の当初の調査対象でもあった女堀条里(児玉条里)となり、村後遺跡の南方を中
心とした地域も十条条里となっている。そして、後張遺跡の西方2km の本庄台地東端部
には、八幡太神南遺跡や8世紀初頭に出現する大集落将監塚・古井戸遺跡(井上 1986)が
知られている。この地域では、集落のあった位置が条里となり、これまで開発の手が及ん
でいなかった台地に新たな集落が築かれていることが分かる。
神流川低地も若宮台遺跡以外の集落は消え、8世紀前半には五明廃寺が建設される。ま
た、南3キロメートルの本庄台地奥部に、これも8世紀初頭から始まる大集落である皂樹
原・檜下遺跡(篠崎他 1987)が出現する。これまでのところ、上里・神川地区の条里は新
里条里が知られているが、神流川流域にも条里があった可能性は高い。
妻沼低地の砂田前遺跡は、深町や八反などの条里関連の小字名が周辺に残っており、西
の滝下遺跡、原ヶ谷戸遺跡では浅間山B軽石下から水田が発見されている。この水田自体
は 10 世紀代であるが、この南東地点から古墳時代後期の集落内を竪穴住居を破壊しなが
ら通過する 109m間隔の溝が調査されている。中世・近世の溝も混じり条里型地割が長期
間踏襲されていたことが分かっているが(宮本 1998)、8~9世紀の土器も出土しており、
確実に古代に遡る岡部条里の坪境溝も存在する。砂田前遺跡を眼下に望む櫛引台地縁辺部
は、白山古墳群や寅稲荷古墳があり、古墳時代には墓域として独占されていたが、7世紀
後半からは内出遺跡・白山遺跡などの集落と、中宿遺跡や熊野遺跡のような官衙の進出が
認められる。
新屋敷東遺跡・上敷免遺跡のある地域は別府条里の東端にあたり、眼前の櫛引台地には
木の本古墳群が縁辺に沿って広がっている。この台地では、幡羅評家・郡家に関わる、幡
羅遺跡群が台地上だけではなく低地の一部も利用して展開しており、7世紀後半以降の土
地利用は大きく変化する。上敷免遺跡はA2号竪穴住居がⅣ段階で、これを終末とすると
考えていたが、最近の成果ではそれ以後も確認されているようであり、この問題について
は後述したい。次に道ヶ谷戸遺跡・飯塚南遺跡であるが、ここから東の低地は台地からの
距離も遠く、限られた微高地を最大限に利用する姿が見られる。道ヶ谷戸遺跡は、広義の
別府条里となり、条里域から外れた飯塚南遺跡からは 22 号竪穴住居のように8世紀初頭
の土器が発見されている。
参考として、比企丘陵北端と荒川右岸を中心とした地域を加えておきたい。旧江南町・
旧大里町及び熊谷市にかかる地域で、丘陵端部には、野原古墳群・瀬戸山古墳群・静開院
古墳群などが並び、旧大里町津田地区の低地には大里条里の存在が予想されている(森田
1983)。台地や丘陵上には荒神脇遺跡・熊野遺跡(中島他 1974)、立正大学熊谷校地遺跡
(野村 1979)といった奈良・平安時代の集落が点在しており、特に荒神脇遺跡 16 号・23
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第Ⅰ章
古代東国集落の特質
号竪穴住居、立正大学熊谷校地遺跡A地点 1 号・2号竪穴住居は8世紀初頭に位置付ける
ことができる。これまで、この低地内の調査は少なかったが、条里の存在や古墳群のある
台地への集落の進出時期など、本庄・櫛引台地と同様な様相が見られ、下田町遺跡(赤熊
2004 他)のような古墳時代後期から平安時代の大規模な遺跡も発見されるようになり、荒
川低地内の土地利用も判明しつつある。
4
集落立地変遷の背景
(1)低地性集落と条里
これまでの検討で、集落立地変遷の画期は土器型式上の画期と一致し、その時期はV~
Ⅵ段階、7世紀中葉から第3四半期であることが分かった。そして、この画期を集落の面
からみると、7世紀前半までは墓域あるいは未開発であった台地に大規模な集落が進出し、
逆に集落域であった低地には条里の痕跡が認められるようになる。土器の面からは、正に
律令的土器様式の成立時期(西 1974)と一致し、これらから導き出されることは、「真間
式の成立は東国支配の進展とそれに伴う様々な政治的動きを反映し、律令制古代国家体制
の中に一地方として包括されたことを示す」という西弘海の指摘と符合し、7世紀中葉を
中心とした集落の動向は古墳時代的社会から律令的社会への転換の中で位置付けられるの
である(註5)。古墳時代における画期については、利根川章彦が6世紀第2四半期~第3
四半期と、7世紀第2四半期~第3四半期の2つの画期を集落の動向から指摘している。
前者は群集墳形成に伴う集落群の偏在的集村化傾向とし、後者については律令国家形成期
の国郡里制による 50 戸1里再編成としている(利根川 1982)。後者の指摘については、
画期の原因は異なるが時期的には重複するもので、次に画期となった背景を低地性集落衰
退の側面から述べてみたい。
第1に白山古墳群と砂田前遺跡のように、7世紀前半までは台地上の墓域と低地の居住
域・生産域という秩序が、後半以降になり集落の台地への進出によって崩れることが上げ
られる(註6)。つまり、古墳群という地域首長層の墓域に対する制約を払拭したか、ある
いは古墳に対する認識が大きく変わったかである。いずれにしろ、台地への集落進出には
古墳被葬者を上回る大きな政治権力が介入したことを物語っている。第2に集落を低地か
ら台地へ変える必要性である。これまで述べてきたように、低地内の集落と後の条里は重
複することが多く、低地性集落の移動には条里が大きく関わっている可能性が考えられる。
つまり、条里を施工(註7)するため水田可耕地である低地性集落を除去し、より大きな
水田を確保しようとしたのではないかという点である。第1の理由も条里施工の結果とし
て起こった現象であり、律令国家の根幹をなす班田制に伴う条里の施工という土地政策と
同様の動きが7世紀後半にあったのである。また、未開発であった本庄台地東側から奥部
にかけての大規模集落の出現も、条里施工に伴う各種開発の進行や、後の三世一身法・墾
田永年私財法などの土地政策と関連付けることにより理解できるのではなかろうか。ある
意味では、7世紀後半から8世紀前半にかけての集落の多くが計画村落であったともいえ
るのである。
計画村落については、直木孝次郎が「-公権力-によって計画された村」(直木 1965)
と規定し、律令体制社会を最もよく代表する村落とした。この計画村落の考え方を、高橋
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第1節
古代東国集落の成立とその背景
一夫は発掘調査で確認される集落遺跡に対応させ、
「突如出現し消滅する大集落」に相当さ
せた(高橋 1979)。計画村落の語は米倉二郎によって、条里に伴う宅地割との関わりで論
じられており、
「条里制村落」を条里と結びついた計画的村落の意味とした。また、平野の
村落を条里的計画性の村落とし、山麓傾斜変換線付近の自然的村落と対比させた(米倉
1960)。計画村落と集落遺跡の対比のように、考古学的な成果を律令国家の制度や政治動
向の中で検討する方法は、現象を理解する視点として注目できるが異論も少なくない(宮
瀧 1989)。また、大町健は王権・国家・在地首長による計画村落は存在しないとしている
(大町 1986)。しかし、少なくとも本節で論じている地域においては、官衙造営・条里施
工・集落建設などは一連の計画性の中で理解でき、集落の移動についてもこれらの地域再
編成の一環であると考えている。なお、7世紀後半における地域社会の再編は、国家によ
る地方支配として計画的に実施されたが、地方支配の拠点である評家の設置を大きな契機
とすることから、米田雄介の分析のように「評の成立を律令国家的地方支配体制の成立」
とみて(米田 1976)、律令国家成立直前における支配の主体については、律令国家的地方
支配と表現しておく。
(2)条里型地割の施工
条里については、これまで多くの研究があり、米倉二郎は先の著書で「条里制は班田収
受法のために施行されたもので、わが国土開発史に一期を画する大事業」と位置付け、そ
の起源を大化改新における班田制の採用後とし、彌永貞三も大化改新以降説(彌永 1980)
をとり、渡辺久雄も土地制度そのものを問題とすれば同様な見解である(渡辺 1968)。ま
た、栗原治夫は伊賀国の検討から壬申の乱以後ではないかとしている(栗原 1962)。金田
章裕は条里の研究史を整理するとともに、班田収授法などの律令諸制度と条里地割・条里
呼称法を切り離して、一町方格の地割と区画の呼称法に「条里プラン」の語をあてており
(金田 1985)、律令期の土地計画を特徴付けたのが方格プランであるとしている。発掘調
査で確認された古代の条里型地割について、制度としての条里制に基づくものばかりでは
ない可能性を考慮すれば、まさに「条里プラン」と呼ぶべきものである。本論では正方位
でない一町四方の地割や時期の確定できない地割などを含めて、
「条里型地割」
(鈴木 1991
他)と理解し、7世紀後半における条里施工は条里型地割の工事を指すものとする。
集落移動の要因として挙げた条里施工については、前項でも触れたように近年の調査に
よって、櫛引台地や本庄台地を望む沖積地で新たな条里型地割が発見されており、これら
の性格や時期を検討する必要がある。これまで実際の発掘調査で発見された水田は、天仁
元年(1108)の浅間山噴火で降下した浅間山 B 軽石によって埋没したものなど、平安時代
でも比較的新しい時期のものが中心であった。これは浅間山 B 軽石のように、時期の指標
となる資料が確認されていることにもよるが、児玉条里の調査では浅間山 B 軽石下層の畦
畔遺構から、図Ⅰ-8のような土師器坏が2点出土している。図Ⅰ-8の1と2は重なっ
て発見されたことから混入の可能性は少なく、畦畔の時期を決定する良好な資料といえる。
児玉条里の西側台地上に展開する将監塚・古井戸遺跡の編年(赤熊 1988)に該当する時期
としては4期に相当し、本節編年ではⅨ段階、7世紀末~8世紀初頭にあたる。また、中
宿遺跡・熊野遺跡が所在する台地下に一町四方の溝が発見されており(図Ⅰ-9)、これま
での岡部条里の調査では東西 14 町、南北3町の範囲が確認されている(宮本 1998)。岡
- 21 -
第Ⅰ章
古代東国集落の特質
部条里の時期を考える資料としては、中宿遺跡直下の大溝(滝下遺跡)出土遺物がある。
この大溝は、崖線下の旧河川を7世紀後半に再掘削し、榛沢郡正倉である中宿遺跡の水上
交通路として、さらに条里型地割への灌漑用水路として用いられた。大溝から分水路を経
て溜池状遺構に引水し、さらに条里型地割へ導水しており、大溝と分水路間には堰が検出
されている。この大溝からは多くの遺物が出土しており、北武蔵型坏Ⅷ段階のものも含ま
れていることから(図Ⅰ-10)、7世紀第4四半期には大溝の掘削と条里型地割への導水
が行われていたと考えることができる。
これらのことから導き出されるのは、北武蔵地域の低地帯では7世紀第4四半期の段階
には導水施設や条里型地割が完成し、八幡太神南遺跡や熊野遺跡・中宿遺跡の出現時期か
らは、条里型地割にやや先行して台地上への官衙的施設と周辺集落の開発が始まるという
点である。櫛引台地南端の幡羅遺跡も7世紀後半には建設が始まり、眼下には別府条里が
広がる、児玉条里・岡部条里と同様な景観であるが、これまでの調査では別府条里からの
出土遺物は少なく、9世紀代の須恵器坏片が確認できる程度である(小沢 1971)。報告者
は周辺遺跡の分布や時期などから、
「条里の施行は奈良時代末葉から平安時代初頭」と考察
している。しかし、幡羅遺跡と周辺遺跡群の様相が確認できる以前の指摘であり、児玉条
里・岡部条里より広大な沖積地を控えている点、7世紀後半には湧水点で滑石製模造品に
よる祭祀を行っている西別府祭祀遺跡が存在する点などを含めて考えれば、別府条里が児
玉条里・岡部条里より後出である理由は見当たらない。7世紀末の正倉建設と近接した時
期には、幡羅郡域最大の水田地帯となる別府に、条里が施工されていたと考えられる。
(3)低地性集落復活の意味
条里は史料や班田図からは7・8世紀までは遡るとされ(八賀 1984)、相当以上に徹底
的に全国的に施行された(吉田 1980)とも指摘されている。栁田敏司は埼玉周辺の条里と
遺跡を検討する中で、「条里制的開拓は古墳時代後期からの従来の耕地を利用した」(栁田
1963)とする見解を発表している。しかし、古墳時代の集落をも撤去して耕地を整備する
徹底さは、従来の水田を利用したとするレベルとは異なる開発である。このような大規模
な水田開発と集落移動などは、表裏の関係にあることは前述してきたとおりである。そこ
で、次に施行が徹底されたとされる条里の衰退と、衰退後の土地利用の変化及びその背景
を考えてみる。これにより、集落と条里の関係を別の視覚と時点から整理してみたい。
後張遺跡・西浦北遺跡(佐藤他 1979)、道ヶ谷戸遺跡・砂田前遺跡・新屋敷東遺跡をは
じめとした多くの低地性集落では、7世紀前半で一時集落が絶えた後、9世紀以後再び集
落が復活するという共通した特徴を有している。これらの9・10 世紀代の集落は前代に比
して小規模であり、水田も確認されている。岡部条里では、7世紀第4四半期には条里型
地割が施工されるとしたが、坪境溝には9世紀後半に埋没しているものがあり(宮本 1997)、
条里地割内の砂田前遺跡では9世紀代から集落が再建されるようになる。さらに、岡部条
里西側の滝下遺跡では、浅間山 B 軽石直下から方格地割と方位が異なった小区画の水田が
発見されており、また、条里西端部の原ヶ谷戸遺跡でも砂礫層下で発見された水田から 10
世紀代の台付甕が出土している(村田章人 1993)。これらの点からは、9世紀以降 10 世
紀代には条里として機能しない部分が存在し、一町四方の方格地割のルールと秩序が崩れ
- 22 -
第1節
古代東国集落の成立とその背景
てきたことを示している。9世紀後半には、条里地割の荒廃と集落域の拡散がみられ、官
衙と条里を中心にした景観に新たな変化が現れるのである。
班田制の終末について、森田悌は上野国では仁和元年(885)に最後の班田図が、昌泰
三年(900)に最後の校田図が作られ、武蔵国においても9世紀末を最後に班田実施が途
絶えた可能性を指摘している(森田 1983)。また、停滞した班田制を進めるため、6年一
班を 12 年一班としたが延喜二年(902)の班田令が最後となり、10 世紀には班田は行な
われなくなることも知られている。これらのことから、班田制、条里制の規制が弱まり始
めた時期と再び低地に集落が戻る時期が符合していることが分かる。
以上のように、9・10 世紀代の低地への集落進出という逆の面からみた場合にも、条里
との関わりは大きく、律令国家の土地政策と集落立地の変化は連動しているのである。
7世紀後半における土地利用の変化は、端的に表現すれば首長的土地所有を否定し、国
家的土地所有へと移っていった(吉田 1980)との指摘に符合し、国家主導のもとに首長的
秩序の再編成が行われたといえるのである。また、柿沼幹夫は大規模な土木工事を基礎に
した班田制の実施とともに、イデオロギー的支配のための神社の存在が重要であると指摘
している(柿沼 1978)。櫛引台地縁辺の島護産泰神社・楡山神社・湯殿神社は白山古墳群・
木の木古墳群・森吉古墳群と位置的にも対応し、それぞれ岡部条里から別府条里にかけて
の沖積地を望む位置に立地しており、水田開発との関わりも考えられる。
最後に低地内にあるにも関わらず、古墳時代後期から奈良時代へと連続する集落につい
て付け加えておきたい。若宮台遺跡・六反田遺跡(石岡他 1981)・上敷免遺跡などがそれ
であるが、若宮台遺跡は五明廃寺や式内社天神社に隣接し、宗教色の強い地域にある。六
反田遺跡は巡方が出土しており、上敷免遺跡は8世紀代の土師器窯が調査されている(蛭
間他 1978)。このように、8世紀に至っても低地内に所在する集落にはいくつかの特徴が
見られる。また、熊谷低地に所在する、北島遺跡(田中 2004)や小敷田遺跡(吉田 1991)
は古墳時代後期から奈良~平安時代へと続く集落であるが、官衙的色彩の強い遺跡である。
これらをまとめると、いずれも郷や郡の中心となるような、あるいは宗教・生産関連の遺
跡であり、条里内に組み込まれつつ低地内に存続し、機能した特別な意味を持った集落で
はなかったかと考えられる。
本庄台地・櫛引台地と東側に広がる低地には、7世紀前半までは低地の自然堤防上に集
落が展開しており、台地には縁辺部を中心に古墳群が造営されていた。古墳群と集落は台
地上で交差することはなく、低地の生活域・生産域から台地の墓域を見上げる構図が形成
されていた。7世紀後半以降になると、本庄台地南端部に八幡太神南遺跡など官衙的遺物
を出土する遺跡群と集落が出現し、低地には児玉条里・女堀条里が施工される。櫛引台地
北端には、榛沢郡正倉の中宿遺跡やその前代の官衙とみられる熊野遺跡と、塚東遺跡(鳥
羽 2004)など周辺集落が小山川との間の低地には岡部条里が展開するようになる。さらに
櫛引台地南端には幡羅評家・郡家の幡羅遺跡とその周辺集落である下郷遺跡(知久 2010
他)が造営され、妻沼低地には別府条里が施工される。官衙施設だけではなく、周辺集落
にも掘立柱建物が建設され、立地の変化に加え竪穴住居で構成されていた集落景観にも大
きな変化が現れた。このような7世紀後半に形成された景観は、9世紀後半になると埋没
- 23 -
第Ⅰ章
古代東国集落の特質
する条里と条里ラインに沿わない小区画水田が出現し、低地内に小規模な集落が進出する
など、整然とした土地利用に新たな変化が窺えるようになる。
以上のような7世紀前半と後半にみられる土地利用の大きな変化は、官衙建設と条里施
工という支配拠点整備を要因とするが、集落からの視点では 200 年近くにわたり維持され
てきた古墳群との棲み分けという秩序が崩壊し、生活域・生産域そして集落構造にまで変
化が及んだのである。古代東国社会における大きな画期といえる(註8)。
このような現象は、多少の時期差はあっても東国各地で発見されている評家の出現時期
を考えると、7世紀後半から進行していたと考えられ、鳥羽政之もこれらの動向を一連の
ものとして捉えつつ、特定の地域の現象としている(鳥羽 2011)。しかし、官衙建設のた
めの労働力確保・物資調達そして何より正倉に納めるべき稲の生産のため、官衙造営・集
落建設・交通網整備・条里施工は一体的に総合的な計画の基で実施されたと考えられる。
さらに、幡羅遺跡と熊野・中宿遺跡のように、10km 圏内で時期的に重複して建設が始ま
る場合、必要となる膨大な労働力や建設資材確保を考えればより大きな権力の統制と計画
性が前提となる。これらは評・郡といった単位での整備ではなく、国家による地方支配に
関わる事業として位置付けることができるであろう。これらの諸計画が実施され、新たな
古代景観が形成された時期こそ、東国における古代集落の成立時期ということができる。
本節の分析は、集落立地の変遷や土地利用の変化から律令国家的な地方支配の一端を読
み解いたものであるが、これらの現象が確認可能であったのは、今回対象とした武蔵地域
北部が低地と台地のような地形が明瞭に区分でき、集落と古墳群の占地が分かりやすかっ
たことと、官衙群の発見・条里型地割の時期推定資料の出土などによる。今後他地域での
調査や検討により、土地利用の地域差や開発の時期差などが明らかになれば、律令国家形
成期における地域社会の動向の一端を解明できるであろう。
(註1)遺構の連続や地形の同一性から、内出遺跡は熊野遺跡の範囲として捉えられてい
る(鳥羽 2001 他)。
(註2)最近の陶邑編年については、
『陶邑Ⅷ』
(宮崎他 1995)、
『和泉陶邑窯出土須恵器の
型式編年』(中村 2001)を参考にした。
(註3)
『年代のものさし-陶邑の須恵器』
(宮崎他 2006)では、Ⅱ型式第6段階を古・新
に分け、暦年代では 616~641 年を当てている。
(註4)註3『年代のものさし-陶邑の須恵器』中の「坏の変遷」(宮崎他 2006)では、
容量を計測して各型式の特徴を説明しているが、本節では小形化の特徴を引き出すため、
口径との組み合わせで土器の変化を表現したものである。
(註5)鳥羽政之は、本節で対象とした地域の評家成立期の分析から、7世紀第3四半期
から第4四半期に集落と一体となりながら台地上に官衙が進出する現象を、評制整備の大
きな画期と位置付けている(鳥羽 2011)。
(註6)白山遺跡の調査では、集落は9世紀後半には白山古墳群内に進出するが、それ以
前は至近距離まで近接してはいても、一線を画したように混在はしない。集落は古墳群よ
り台地奥部に位置し(図Ⅰ-9参照)、古墳群を削平して台地縁辺部の開発は行っていない
など、古墳への意識を完全に払拭したわけではない。
- 24 -
第1節
古代東国集落の成立とその背景
白山古墳群と低地内の砂田前遺跡は、6世紀初頭にほぼ同時に出現しており、7世紀前
半までは砂田前遺跡の墓域であった可能性は大きい。砂田前集落の墓域が白山古墳群で、
7世紀後半に低地の開発のため墓域近くの台地に集落を移動し、主体的労働力となって自
らの集落跡地に条里型地割を施工した。また、中宿遺跡などの官衙施設の建設を担ったの
も砂田前遺跡から移動した白山の集落であったと考えられる。白山遺跡の集落構造につい
ては本章第2節で分析する。
(註7)ここでは基本的に、実際の土木工事として着手することを重視して、敢えて「施
工」を用いている。引用文や法的な実施を意味する場合のみ「施行」を使用している。
(註8)7世紀後半は東国集落の大きなか画期として捉えられるが、畿内集落の再編成の
画期として、6世紀末~7世紀初頭が指摘され(広瀬 1989)、沖積平野と洪積段丘の計画
的開発が実施されたとされている。
- 25 -
第Ⅰ章
古代東国集落の特質
図Ⅰ-1
妻沼低地周辺の古墳時代後期~古代遺跡分布図
- 26 -
第1節
図Ⅰ-2
坏 C の編年図
- 27 -
古代東国集落の成立とその背景
第Ⅰ章
古代東国集落の特質
図Ⅰ-3
模倣坏編年表1
- 28 -
第1節
図Ⅰ-3
模倣坏編年表2
- 29 -
古代東国集落の成立とその背景
第Ⅰ章
古代東国集落の特質
図Ⅰ-4
図Ⅰ-5
坏H(白石分類坏b)
須恵器坏と土師器坏
- 30 -
第1節
図Ⅰ-6
古代東国集落の成立とその背景
八幡太神南遺跡・熊野遺跡出土土器
- 31 -
第Ⅰ章
古代東国集落の特質
1
2
3
4
図Ⅰ-7
5
他地域出土北武蔵型土師器坏
1・2=宮城県御駒堂遺跡 6 号竪穴住居出土 3=茨城県幸田遺跡 10 号竪穴住居出土
4=山梨県北堀遺跡 23 号竪穴住居出土 5=神奈川県長井町内原遺跡E3号竪穴住居出土
図Ⅰ-8
図Ⅰ-10
児玉条里出土土師器
- 32 -
滝下遺跡出土土師器
第1節
古代東国集落の成立とその背景
平安時代小区画水田
平安時代集落
榛沢郡家正倉
滝下大溝
古墳時代後期集落
条里型地割
島護産泰神社
古墳時代後期集落
岡廃寺
評家・郡家関連集落
塚東遺跡(奈良・平安時代集落)
白山古墳群
内出八幡古墳
奈良・平安時代集落
図Ⅰ-9
熊野遺跡・中宿遺跡と岡部条里(網掛けが古墳時代後期)
- 33 -
第Ⅰ章
古代東国集落の特質
表Ⅰ-1
表Ⅰ-2
須恵器坏容量表
土師器坏容量表
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第2節
第2節
古代東国集落の構造
古代東国集落の構造
古代東国の集落像は時期や地域、あるいは立地や周辺の歴史的環境によって規模・構
造は多様である。第1節では、7世紀後半における東国集落の成立とその背景にあるも
のを検討したが、本節では古代集落と郡家などの構造の区別化を図り、それぞれの属性
や特質を明らかにするため、遺構や出土遺物から多様な構造をもつ東国集落の特徴を抽
出したい。集落には居住施設としての住居の集合だけではなく、農業以外の生産あるい
は流通などの一翼を担った機能を備える集落も存在し、また寺院や官衙に近接している
集落では遺構・遺物もその影響を受け、多様な姿をみることができる。集落の概念とし
ては、序章第1節「研究の視点」で第1次産業の中でも主に農業に依拠するものとした
が、本節でもこれを一般集落の基本概念としておく。
1
古代東国集落の構成要素
埼玉県史では、律令期の集落を「7世紀後半から8世紀にかけての集落構成は、古墳
時代中頃とあまり変化がなく、中央に広場をもつ7~8軒の集まりであるが・・・9世
紀以降の集落は、概ね小さな住居跡5~6軒に中位の住居跡2~3軒、それに大形の住
居跡1軒と2×3間あるいは3×4間の倉庫跡1~2棟を基本単位として構成される」
としている(埼玉県 1984)。下総国の古代集落を分析した藤岡孝司は、8世紀中葉に成
立する千葉県白幡前遺跡について、8世紀後半から末にかけて村落寺院が造営され集落
規模は拡大し、集落内の中心的施設として存在するが、9世紀第3四半期の村落寺院廃
絶と共に集落も衰退すると指摘した。掘立柱建物については、9世紀中頃に急激に増加
するとしている(藤岡 1996)。大上周三による相模国集落の検討では、7世紀末に出現
する原口遺跡・向原遺跡は、当初から掘立柱建物群を伴う集落の中心が時期により移動
を繰り返すとし(大上 2001)、掘立柱建物の集落内における中心性を指摘している。ま
た、鳥羽政之は掘立柱建物の出現率の高い北武蔵地域の古代集落を分析して、掘立柱建
物と竪穴住居がL字あるいはコ字状に配置される遺跡を「皂樹原・檜下型集落構成」と
し、規則的遺構配置の遺跡を8世紀後半から9世紀に新興勢力によって形成されたと理
解した(鳥羽 1997)。
これら東国の集落分析で示されていることは、竪穴住居と掘立柱建物によって集落が
構成されている点で、掘立柱建物が集落の中心的役割を果たしていたり、集落の動向を
左右する遺構として評価されている点である。しかし、鳥羽政之が指摘しているように、
一集落内においても時間的変遷の中で様々な局面があり、白幡前遺跡では、集落の一時
期に村落寺院のような施設が存在する期間を有する集落もある。埼玉県史では当時の一
般的な認識などから、大小の竪穴住居8~10 軒と4×3間を含む倉庫跡2~3棟が集落
の基本単位としているが、4×3間の倉庫跡は官衙の正倉などで発見される規模であり、
現在ではこのような構成が集落の一般的な単位とは考えられない。また、鳥羽政之の分
類による「皂樹原・檜下型集落構成」は、整然とした建物配置や区画施設、あるいは硯・
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第Ⅰ章 古代東国集落の特質
「厨」墨書土器など官衙的な遺物を出土する場合もあり、行政機能を具備した施設が集
落に含まれている可能性がある。
藤岡孝司は先述した下総国の集落分析から、中核集落と衛星集落という概念を提示し、
両者の集合によって村落が形成され、集落遺跡の中には主導的・先駆的集落とそれに付
随し規制される集落が存在すると指摘した。中核集落と衛星集落は、結果として存続期
間や規模に反映されることが多いとしているが、中核集落に対比できるような規模の大
きな集落でも、桁行5間を越える大形建物や総柱建物が規則的に配置されることはない。
中核集落ではあっても竪穴住居と側柱建物を中心に構成される集落と、大形建物群が並
ぶ官衙的色彩の強い遺跡とは、景観的にも明らかな違いがある。また、出土遺物からは、
官衙施設名・役職名などが記された文字資料や、三彩などの希少遺物が出土する遺跡と、
土師器・須恵器類と鎌などの鉄製品を主な出土遺物とする遺跡の違いは、遺跡景観の差
に比例するものである。
多様な姿を見せる集落を構成する大きな要素としては、集落規模に関わらず竪穴住居
のみあるいは竪穴住居と掘立柱建物が混在した建物群によって構成される点を挙げるこ
とができ、官衙や寺院のような整然とした区画施設や総柱の大形建物群、あるいは瓦葺
の建物などは存在しない。以下に具体的な集落の例を紹介し分析を進める。
2
集落遺跡の構造
古代集落の調査例は多いが、集落規模がおおむね理解できる程度の面的な調査が実施
され、時期区分の判明している遺跡を取り上げ、規模や構造から集落の構成や変遷の在
り方を考えてみたい。ここで例示したのは、上野国と武蔵国の奈良時代の集落と平安時
代集落、及び奈良時代から平安時代へと継続する集落で、各遺跡の立地や時代の特徴を
抽出し、竪穴住居と掘立柱建物の関係を中心にした集落の類型化を図る。
(1)奈良時代
群馬県有馬条里遺跡
利根川右岸の東へ緩傾斜する河岸段丘面に位置する有馬条里遺跡は、古墳時代から平
安時代に及ぶ集落遺跡であり、奈良時代の竪穴住居6軒と掘立柱建物2棟及び平安時代
の竪穴住居 46 軒などが発見されている(大塚 1983)。平安時代の集落とは時期的に継続
性がなく、断絶があるため時代毎に扱うこととした。奈良時代の遺構は、調査区南西部
に分布しており、集落範囲もこの地点が南西端部と考えられている。
出土遺物は少なく、NH6号竪穴住居から8世紀第2四半期~中頃の須恵器が出土し
ている程度であるが、遺構確認層位から8世紀代の遺構群である。竪穴住居に重複関係
があることから時期差があり、先述のNH6号竪穴住居が2軒を切っていることから、
8世紀初頭を初源とする集落と考えられる。各竪穴住居の主軸方向と竈設置位置は共通
しており、ほぼ東を指向している。また、掘立柱建物は2×1間と2×2間の2棟であ
るが、柱穴規模も小さく円形で、主軸は南北方向を指している(図Ⅰ-11)。竪穴住居群
と掘立柱建物との間には5m程の距離があり、2棟は桁行を接近させていることから時
期差があると考えられる。調査範囲がほぼ遺跡の広がりに近く、竪穴住居数軒とやや距
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第2節
古代東国集落の構造
離を置いて掘立柱建物1棟の組み合わせであったことが想定でき、8世紀初頭から中頃
にかけての小規模集落である。
最大規模のNH1号竪穴住居でも長辺4mに及ばず、出土遺物も土師器・須恵器と編
物石と考えられる石であり、出土量も少ない。
東京都木曽森野遺跡
遺跡は相模湾に注ぐ境川左岸の相模野台地上に位置し、北には多摩丘陵が広がってい
るが、多摩丘陵の遺跡のように地形的な制約を受けず、平坦な台地上に立地をしている。
竪穴住居 29 軒と掘立柱建物 11 棟及び土坑などが発見されているが、中心となるのは奈
良時代前半の集落である。図Ⅰ-12 のように3時期に分かれ、第1期は8世紀第1四半
期前半、第2期は8世紀第1四半期から第2四半期、第3期は8世紀第2四半期であり、
3期の 12 軒が最盛期であり終末期である。8世紀前半代に限定される短期間営まれた集
落とされるが、第1節の編年ではⅥ段階~Ⅶ段階のA類坏が一部出土しており、7世紀
に遡る可能性もある。
11 棟の掘立柱建物の内訳は、2×2間が6棟、3×2間4棟、3×3間1棟で、何れ
も柱穴規模も円形で小形であり、3×3間の建物も柱間距離が小さく変則的な構造であ
る。主軸方向は南北を基本に、集落の東西に集中している。報告者は主軸方向と出入口
との関係から、竪穴住居1+掘立柱建物1のセットで構成されるグループが数ヶ所存在
すると想定し(前田 1989)、
「7~10 軒程度の小集落が奈良時代前半の景観」と指摘して
いる。竪穴住居の時期と主軸方向を一致させる掘立柱建物の分布からは、東側に第1期
の集落が、南側に第2期北に第3期がまとまりを見せ、短期間に時計回りに集落を移動
させていたことが想定できる。報告のように、1時期に7~10 軒の竪穴住居に3棟以上
の掘立柱建物を伴う集落として捉えられるであろう。
土師器・須恵器の他に鎌・斧の鉄製品と、石製品では砥石・紡錘車及び不明銅製品が
出土している。また、破片であるが鞴の羽口が検出されている。須恵器には南比企産の
蓋が含まれ、土師器では盤状坏が検出されており、出土遺物は豊富である。
(2)平安時代
群馬県有馬条里遺跡
有馬条里遺跡については奈良時代の項で紹介したが、平安時代の竪穴住居 46 軒が奈良
時代集落の上面で確認されている。狭い範囲で重複しながら、竪穴住居の他に土坑・溝・
井戸と製鉄関連の遺構が検出されているが、掘立柱建物は発見されていない。46 軒中 33
軒の竪穴住居で竈が確認できたが、内 30 軒は東壁に設置されており集落全体も東西方向
に直線的に並んでいる。9世紀後半から 11 世紀にかけて継続的に営まれた集落であり、
図Ⅰ-13 のように時期区分すると1時期においては必ずしも東西を指向しておらず、結
果として東西に配された形となっている。しかし、奈良時代の集落と同様に、集落の南
西の限界であり、この範囲を意識したことでこのような配置になったと考えられる。報
告書では条里の単位との関わりを指摘している。
出土遺物には土器類の他に緑釉陶器と鎌・釘・紡錘車などの鉄製品、及び砥石・紡錘
車などの石製品がある。緑釉陶器は 10 世紀後半以降の猿投窯産と考えられ、7点が出土
している。製鉄関連としては、製鉄炉3基と小鍛冶遺構1基、羽口・椀形滓・炉壁・鉄
塊などが発見され、9世紀後半から 11 世紀中葉にかけての時期とされている。
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第Ⅰ章 古代東国集落の特質
掘立柱建物は発見されていないが、後述するように埼玉県大山遺跡や台耕地遺跡のよ
うな製鉄関連遺跡では、掘立柱建物が検出されないか検出率が低い遺跡が多く、有馬条
里遺跡にもこれに該当する。
埼玉県樋ノ下遺跡
秩父山地から東流する荒川が大きく蛇行する左岸に位置し、南に張り出した舌状の段
丘上に立地する。この台地には古墳群も分布しているが、墳丘を避けて西側に集落を形
成している。竪穴住居 19 軒・掘立柱建物2棟・土坑などが確認され、9世紀後半から
10 世紀前半の短期間に営まれた集落である(岩田 1994)。竪穴住居・掘立柱建物は重複
せずに分布し、主軸は基本的に斜面と並行する東西方向を向いている。9世紀後半の竪
穴住居1軒が西竈である他、竈は東壁に構築されている(図Ⅰ-14)。2×2間の掘立柱
建物2棟は接近して東西に縦列しており、報告者は間仕切りのある1棟の可能性を指摘
しているが、桁行柱間距離もやや異なることから、平行に並ぶ2棟と考えられよう。こ
の2棟は集落の東端部に位置し、ここから東側には古墳群が広がっており、集落の東の
限界にも相当する。集落は段丘面の上位と下位の両面に広がるが、中心は下位面にあり
掘立柱建物も下位に建設されている。さらに西側に集落は広がると考えられるが、現状
から竪穴住居と掘立柱建物が混在するような状況ではなく、集落の限界点に建てられる
という特徴がある。
遺物は羽釜を含む土器類の他に、鎌などの鉄製品と土製・石製紡錘車、砥石・磨石な
どの石製品がある。須恵器は距離的な関係からも大部分が末野窯跡群産である。
(3)奈良時代~平安時代
埼玉県桑原遺跡
荒川の支流である高麗川と越辺川に挟まれた毛呂台地に位置し、平坦な沖積台地であ
る毛呂台地上には稲荷前遺跡・足洗遺跡などの同時期の集落が展開しており、越辺川対
岸には南比企窯跡群が広がっている。律令期の桑原遺跡は、24 軒の竪穴住居と掘立柱建
物5棟及び井戸・土坑と溝で構成され、8世紀中葉から 10 世紀初頭まで継続的に営まれ
た集落である(村田 1992)。
報告書では7期に区分しており、1時期に数軒単位の集落を想定しているが、桑原遺
跡で特徴的なのは、集落の南北を区画する東西に走る溝の存在である(図Ⅰ-15)。この
溝は全時期に機能していたものではなく、ほぼ8世紀代に限定され集落初現期の8世紀
中葉と終末期のみ区画外に遺構が存在する。このことから、溝が埋没して機能しなくな
って以降も、区画を意識した遺構配置をしており、垣として存在したのではないかと指
摘されている。
掘立柱建物は3×2間の4棟と4×2間総柱としているが、後者は柱穴配置や規模か
ら4×1間西庇と考えられ、これに東桁行に柵状の小ピット列が伴う。時期による変遷
をみると(図Ⅰ-15-2・4)、集落出現当初には竪穴住居と掘立柱建物が区画溝内に配
置されているが、8世紀末には竪穴住居のみで構成され9世紀第2四半期に再び1棟の
掘立柱建物が造られる。区画溝を意識し、建物方向などが規制されているのは8世紀中
葉の出現期であり、掘立柱建物を中心に3軒の竪穴住居が軸を揃えて並び、竈は北か東
壁に設置されている。8世紀代には、概ねこの遺構群の位置を継承して竪穴住居などが
建設されていることから、標高の高い平坦地を集落の中心としたと考えられる。
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第2節
古代東国集落の構造
出土遺物には土器類の他に鎌などの鉄製品と紡錘車があり、最終段階の時期には灰釉
陶器・緑釉陶器の椀や須恵器耳皿が伴っている。
埼玉県白山遺跡
第1節で検討した櫛引台地北端の遺跡群の1つで(図Ⅰ-9)、榛沢評家・郡家の熊野
遺跡・中宿遺跡の南東に展開し、台地下には岡部条里が広がる。また、白山遺跡に隣接
した北の台地縁辺には白山古墳群が分布しており、これまで 23 基の円墳と帆立貝式古墳
1 基が発見されている。白山遺跡では 80 軒の竪穴住居と掘立柱建物4棟が調査され(図
Ⅰ-16)、第1節の編年ではⅦ段階(7世紀第4四半期前半)を出現期として9世紀後半
まで継続するが、9世紀後半の終末期まで集落は古墳群内に入り込んでいない(中村
1989)。白山古墳群は、台地下の妻沼低地に所在する古墳時代後期の大集落である砂田前
遺跡の墓域と考えられることは第1節で述べたが、白山遺跡も出現時期や位置・古墳群
と混在しない関係などから、砂田前遺跡の後継集落である可能性が高い。
白山遺跡では、集落の南端で3×2間の掘立柱建物が重複しながら4棟集中している
が、出土遺物はなく竪穴住居との前後関係も不明である。4棟の掘立柱建物の主軸方向
からは、1号掘立柱建物と3号掘立柱建物が桁行方向に直線的に並び、2号掘立柱建物
と4号掘立柱建物がL字状に直角に並ぶ。周辺には各時期の竪穴住居が分布しており、
掘立柱建物との距離や竈の位置から想定した変遷は図Ⅰ-18 のようである。掘立柱建物
は直線的に並ぶ2棟がⅠ期を中心にし、L字状の2棟はⅡ期を主体として、Ⅲ期には竪
穴住居との接触部があるためⅢ期の一部にまで及ぶことも考えられる。白山遺跡の掘立
柱建物群は、北側には広場のような空間を有し、位置を移動せずに長期間存続したこと
が窺える。
白山遺跡からは、銙帯(鉸具)や暗文のある土師器坏類・
「東」墨書土器など、西に近
接する熊野遺跡の影響を受けた出土遺物も検出されているが、土器類や鎌・砥石・紡錘
車・管状土錘など生活・生産道具が主体である。
(4)集落遺跡の類型化
各時期・各地域の集落を紹介したが、掘立柱建物の存在・配置の視点から集落をみる
と、有馬条里遺跡(平安時代)のような掘立柱建物を伴わない集落や、木曽森野遺跡で
は竪穴住居と掘立柱建物がセットとなってグループを構成する集落、あるいは白山遺跡
のように、竪穴住居と掘立柱建物が混在せず距離を置く集落などが存在する。また、桑
原遺跡では庇を持つ掘立柱建物が主屋的な位置を占めるなど、掘立柱建物はその有無を
含めて東国集落で多様な在り方を見せ、ここでは集落内における掘立柱建物の位置や竪
穴住居との関わりを基本にして、以下のように集落の構造を分類した。各類はさらに細
分可能であるが、集落規模や調査規模によって大きく左右されるため、基本的な分類の
みとした。
なお、特別な例以外掘立柱建物からの出土遺物は少なく、時期を判定する資料は限定
されるため、竪穴住居などの遺構との重複関係や主軸方向から集落内における同時期性
を抽出した。
Ⅰ類
竪穴住居と掘立柱建物が1~数軒・数棟でセットになって構成されている集落で、木
曽森野遺跡(図Ⅰ-17)や神奈川県草山遺跡(大上 1990・1991)・栃木県多功南原遺跡
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第Ⅰ章 古代東国集落の特質
(山口 1999)などが本類に区分できる(註1)。1軒・1棟といった最小単位から、宅
地あるいは屋敷地を想定できるような規模や、掘立柱建物群を中心にした企画性のある
単位も存在する。また、木曽森野遺跡をはじめとして、単数の単位では成立しておらず、
1~数軒・数棟の基本単位が複数集合・結合することで集落を構成している。有庇の建
物や総柱建物が単位内に含まれることもあることから、規模や組合せによっていくつか
のタイプが見られる。
木曽森野遺跡は期間の限定された集落であるが、草山遺跡や多功南原遺跡は数時期に
及ぶ遺跡で、存続期間に左右されずに存在する。基本単位が結合することで集落の拡大
を図れ、単位間には規模などに格差をみることもでき、地域の中核となる集落の類型で
ある。
Ⅱ類
竪穴住居と掘立柱建物が混在せず、Ⅰ類のように特定竪穴住居と結びつくことはなく、
集落内の一定の土地に固執している。掘立柱建物が特定の位置に長期間建てられ続けて
いる白山遺跡(図Ⅰ-16・18)と、短期間であるが竪穴住居群とは一定の距離を置く有
馬条里遺跡(奈良時代)などが該当する。埼玉県白草遺跡では集落内の3ヶ所に掘立柱
建物が建設されており(磯崎 1992)、重複していると報告されているが、主軸方向や桁
行を一致させている建物もあり、建て替えの可能性が高い。近接した3ヶ所に7~8棟
の掘立柱建物が繰り返し建設されていることから、占地に重要な意味があったと考えら
れる。
Ⅲ類
掘立柱建物が集落の中心的な位置を占め、庇を持つなど規模的にも竪穴住居を凌駕し、
竪穴住居とは主屋的な関係が認められる桑原遺跡(図Ⅰ-15)などがある。埼玉県如意
南遺跡(栗岡 2000)では、調査面積は限定されるが、2×2間西庇の掘立柱建物の庇ラ
インに沿った南に2軒の竪穴住居が並び、掘立柱建物と竪穴住居がL字状に配置されて
いる。神奈川県峯ヶ谷戸遺跡でも、3×2間東庇の建物の桁行に主軸を揃えた掘立柱建
物と竪穴住居が配されている(大上 2008)。如意南遺跡は9世紀中頃、峯ヶ谷戸遺跡は
9世紀後半で、桑原遺跡は8世紀から継続する集落であり、特定時期に限定される類型
ではない。Ⅲ類集落は、多功南原遺跡のようにⅠ類集落の中の一つの単位として存在す
る例(図Ⅰ-19)と同型であるが、Ⅲ類は集落内の一区画で構成されるのではなく、単
独で存在することを基本とする。
Ⅳ類
掘立柱建物が集落内に存在しないか、竪穴住居数に比して極端に少ない集落である。
有馬条里遺跡(平安時代)や埼玉県大山遺跡(高橋他 1979)、あるいは多摩ニュータウ
ン№769 遺跡(丹野 1985)などでは、数 10 軒単位の竪穴住居が発見されているが、掘立
柱建物は発見されていない。東国の古代集落では、掘立柱建物は集落の重要な構成要素
であり、竪穴住居のみで構成される集落は、景観的にも他集落とは大きな相違がある。
有馬条里遺跡(平安時代)や大山遺跡では製鉄炉が発見されており、製鉄遺跡との関わ
りと本類の関係を窺うことができ、後述したい。
掘立柱建物の集落内における位置付けから以上のように集落のタイプを分類したが、
すべての類型が各時期に確認でき、時期による類型差はない。木曽森野遺跡のごとく竪
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第2節
古代東国集落の構造
穴住居と掘立柱建物の基本単位が複数集合することで構成される集落や、中にⅢ類タイ
プの集落を取り込んで大きな集落となる例も見られ、Ⅰ類は集落拡大の基本となり地域
の中核的集落となる類型といえる。これまでみてきたⅠ類からⅢ類までの集落の掘立柱
建物は、竪穴住居との位置関係や規模などから居住施設と考えるのが妥当であり、集落
としては掘立柱建物のみで構成される遺跡はないことから、竪穴住居との組み合わせが
基本単位となっている。Ⅱ類・Ⅲ類の場合は、掘立柱建物が集落内で中心的な位置を占
めているが、竪穴住居との組み合わせという点ではⅠ類と同様で、Ⅳ類を含めてその性
格などについては後述したい。
白幡前遺跡では集落+村落寺院、有馬条里遺跡は集落+製鉄遺跡のように、先行して
建設される集落内に新たに施設が設置される場合もあり、これらの存在によって集落の
機能・性格も変化している。集落の分析は時期の特定、特に掘立柱建物と竪穴住居の組
合せと集落に内包されるような施設の抽出を厳密にする必要がある。
3
掘立柱建物の分析
古墳時代後期までは、集落を構成する建物は竪穴住居が主体的であったが、7世紀後
半以降掘立柱建物が東国集落に急速に波及し、掘立柱建物の分析は集落研究でも重要な
位置を占めるようになった。1980 年代までは、掘立柱建物が住居であるか倉であるの認
識に差があり、松村恵司は「単に建築学的な意見の相違だけでなく、農業生産構造や社
会関係といった集落研究の根幹にかかわる」(松村 1983)とし、掘立柱建物に対する認
識の混乱を指摘している。松村の論文は、具体的な倉遺構の認定法を求めることにより、
掘立柱住居と倉を区別しようとするもので、掘立柱建物の共通理解を示そうとした点で
画期的である。また、報告書においても、山田水呑遺跡(石田他 1977)や向原遺跡(中
田他 1983)では、掘立柱建物の機能などを集落景観の復原を含めて分析し、掘立柱建物
を包括した集落研究の転機となった。
ここでは集落遺跡で検出される基本的な掘立柱建物型式である側柱の建物について、
その規模や機能を検討し、加えて掘立柱建物が発見されないⅣ類集落にも焦点を当て、
その性格などを考えてみたい。
(1)掘立柱建物の規模と機能
東国集落の掘立柱建物は、竪穴住居と混在しながら集落を構成するが、これまでみて
きた各類集落の掘立柱建物は竪穴住居の数を凌駕することはなく、Ⅰ類集落の木曽森野
遺跡では、1~数棟の掘立柱建物と竪穴住居数軒が1単位となって、限定された範囲内
を掘立柱建物と竪穴住居の組合せが短期間で移動している。また、単位の結合により大
きな集落を構成する例も見られる。Ⅱ類の有馬条里遺跡(奈良時代)や樋ノ下遺跡の掘
立柱建物は、集落の端部で発見されており、集落の出入口に関わるような限界位置での
建設に意味が存在したと考えられる。これに対して同じⅡ類の白山遺跡では、広場に面
した2棟の掘立柱建物が、集落存続期間のかなりの期間建替えながら同一位置にあり、
集落の中心的な建物として存在している。Ⅲ類の桑原遺跡のように長期間継続する集落
では、最初に建設された掘立柱建物の位置を掘立柱建物あるいは大形竪穴住居が継承す
る場合があり、これも集落の中心として意識されていたと考えることができる。
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第Ⅰ章 古代東国集落の特質
ここで集落遺跡の掘立柱建物規模を確認するため、木曽森野遺跡の掘立柱建物の規模
をグラフにしてみた(表Ⅰ-3)。2×2間から3×3間までの側柱建物 11 棟が発見さ
れているが、規模的には桁行・梁行の間数に差ほど大きく左右されていない。3×2間
の掘立柱建物B8は、3×3間の掘立柱建物B6の桁行では倍の規模であり、面積的に
は3倍近い差となっている。Ⅰ類集落の単位とした図Ⅰ-17 は、8 世紀前半の竪穴住居
2軒と3×2間の掘立柱建物1棟が長軸と桁行を揃えて並ぶもので、竪穴住居出土土器
からは竪穴住居H25 がやや古相を示すことから、当初は掘立柱建物B4と竪穴住居H25
が並行に並んでいたものである。規模的には2軒の竪穴住居よりも掘立柱建物が勝って
おり、他の単位でも同様である。竪穴住居が表Ⅰ-4のように正方形に近い平面プラン
なのに対して、掘立柱建物は桁行と梁行の差が表れ桁行側が長い長方形プランとなって
いる。掘立柱建物では桁行が5mを超えるものが約半数であるが、竪穴住居の場合はほ
とんどが長辺5m以内に納まり、両者の規模の差は明らかである。Ⅱ類・Ⅲ類集落にお
いても、竪穴住居に対する掘立柱建物の規模は大きな傾向にあり、集落内における規模
的な優位性を示している。しかし、官衙建物で確認されるような方形あるいは長方形の
柱穴平面プランや、布掘り・溝持ち構造の柱穴はない。
このような掘立柱建物の規模・構造からは、いくつかの機能を想定できるが、埼玉県
光山遺跡群(井上 1994)の8世紀代の掘立柱建物検出例からその性格を考えたい。光山
遺跡群では、後世の開発・開墾などが少なく調査条件が良好であったため、関東ローム
層上層の暗褐色土層で遺構・遺物が確認でき、遺物の分布を計測しながら遺構確認が可
能であった。この結果、図Ⅰ-20 のように掘立柱建物内や柱穴を中心に多くの遺物が出
土し、さらに掘立柱建物SB9内の南西コーナーから長径 1.6mの炉跡が発見されてい
る。硬化面の確認までは至らなかったが、炉の存在や土器の分布は、掘立柱建物におけ
る生活痕跡として認識することができ、地床炉であることから内土間式の住居であった
可能性が高い。作業場的・物置的機能も想定できるが、基本的性格としては住居であり、
他の機能は二次的なものと考えておく。
桑原遺跡のようなⅢ類集落における有庇掘立柱建物についても、居住施設であるとと
もに他の掘立柱建物との規模・構造上の差を設けることで、集落内での優位性を具現す
るもので、主屋的建物として位置付けることができよう。
7世紀後半以降東国社会に波及した掘立柱建物は、官衙などで採用されただけではな
く集落の住居様式としても浸透し、古墳時代以来の竪穴住居に対して数では少数ながら
位置関係や規模の面で優位性を持っていた。しかし、竪穴という様式は放棄せず、新た
な住居様式とともに並立して建設し続けたのである。
(2)掘立柱建物を持たない集落
掘立柱建物を有する集落を中心に述べてきたが、ここでは、逆に掘立柱建物を持たな
いⅣ類集落に目を向け、その性格を考える事で別の視角から掘立柱建物を考えてみたい。
各地の遺跡で、掘立柱建物の位置付けや機能の検討がされはじめた時期、鈴木仁子は「掘
立柱建物を検出しない遺跡には、大山のように、製鉄遺跡や窯跡などの工房跡が顕著で
ある」と指摘している(鈴木 1982)。ここであらためてその指摘を検証するため、掘立
柱建物を持たない集落について検討を加えておきたい。
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第2節
古代東国集落の構造
掘立柱建物を基本にした東国集落については、3分類してその性格などについて論じ
てきた。しかし、竪穴住居が数 10 軒を数える集落にも関わらず、掘立柱建物が全く発
見されていないか、竪穴住居数に比して極端に少ないⅣ類集落が存在することも知られ
ている。特に北武蔵地域で、竪穴住居が 40 軒以上検出されていながら掘立柱建物が発
見されていない遺跡には、大山遺跡の他に雷電下遺跡(駒宮他 1979)・台耕地遺跡(酒
井 1984)・水深遺跡(栗原他 1972)などがある。また、約 50 軒の竪穴住居に対して掘
立柱建物が1棟だけという西浦北遺跡(佐藤他 1979・1983)もある。これらの遺跡の
うち、雷電下遺跡を除いて看過できない共通点がある。それは水深遺跡以外、鍛冶炉な
ど製鉄関係の遺構や羽口などの遺物が発見されている点で、さらに水深遺跡についても
65 基の土師器窯が調査されており、いずれも生産に強く関連している点である。
竪穴住居内の小鍛冶ではなく、製錬炉や鍛冶炉を持つ製鉄関係の遺跡には、先述の遺
跡の他に、熊野遺跡(中島他 1974)・浜川戸遺跡・黒浜椿山遺跡(埼玉県 1984)・猿貝
北遺跡(山本 1985)
・宮ノ脇遺跡(橋本他 1990)などが知られている。また、土師器窯
の発見された遺跡には水深遺跡以下、和田北遺跡・上敷免遺跡(蛭間他 1978)・新井遺
跡(栗原 1976)などがある。これらの遺跡で掘立柱建物が検出されたのは、西浦北遺跡
と 30 軒以上の竪穴住居が確認されている宮ノ脇遺跡の各1棟だけであり、その他の遺
跡では集落規模に関わりなく1棟も検出されていない。このような傾向は、鍛冶遺構が
発見されている有馬条里遺跡(平安時代)でも確認できることから、北武蔵地域におけ
る特殊な事象ではない。須恵器窯では窯と集落の関係が明確になっている例が少なく、
鳩山窯跡群では多くの竪穴住居と工房が発見されているが、掘立柱建物は「管理型」と
される小形建物が少数発見されている(渡辺 1992)。このように、製鉄・窯業といった
生産に関係する遺跡では、掘立柱建物が全く無いか集落規模に比して極端に少ないとい
う傾向は明らかである。ただし、製鉄遺構に関しては大山遺跡や台耕地遺跡のような製
錬炉や鍛冶炉が発見されている遺跡の場合と、竪穴住居内の簡単な施設と同等に扱うこ
とはできないので、ここでは台耕地遺跡・大山遺跡といった主に製鉄を生業とする集落
をイメージしておきたい。
出土遺物の点から、掘立柱建物を持つ集落と持たない生産に関係する集落を比較して
みると、水深遺跡の銙帯・西浦北遺跡の緑釉陶器などはⅠ類~Ⅲ類集落に劣るものでは
なく、これらを所有していたのは特定階層の者であり、彼らは竪穴住居にも居住してい
たのである。Ⅰ類~Ⅲ類集落における掘立柱建物の位置や規模の優位性については述べ
たが、Ⅳ類集落については出土遺物からは両者の格付けは適切ではないし、掘立柱建物
が竪穴住居に優越するという考えも一概にはあてはまらないであろう。
大山遺跡や水深遺跡クラスの集落において、掘立柱建物を1棟も持たない姿は、おそ
らく当時でもその景観は他の同クラスの集落に比べて大きな差があったであろうし、外
見上の違いは、この場合集落の性格に結びつくものである。先の出土遺物の点からも製
鉄や土器生産に携わる人々の社会的地位は他類型の集落と比べて何ら遜色はない。それ
にも関わらず住居形態に大きな差があったのであり、これらの遺跡における掘立柱建物
建設への強い規制を感じることができる。
製鉄などに関わる集落における掘立柱建物の検出率の少なさを確認してきたが、鶴間
正昭は「丘陵地では竪穴のみで構成される集落が多い」と別の視点からⅣ類集落につい
て言及している(鶴間 2012)。鶴間が丘陵地の集落の典型とする多摩ニュータウン№769
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第Ⅰ章 古代東国集落の特質
遺跡(丹野 1985)では、テラス状になった緩傾斜地に 28 軒の竪穴住居が集中している
が、掘立柱建物は検出されていない。地形的に類似しているⅡ類集落の樋ノ下遺跡でも、
19 軒の竪穴住居数に対して2棟の掘立柱建物と発見数は少なく、多摩丘陵との共通性が
窺える。さらに傾斜の強い比企丘陵の集落をみると、滑川右岸の大沼遺跡(福田 1993)
では第1節の編年でⅧ段階を出現期とする 17 軒の竪穴住居が、対岸の丘陵奥部の蟹沢遺
跡(川口他 1992)をはじめ5遺跡から 31 軒の竪穴住居が検出されているが、掘立柱建
物は1棟も発見されていない。この他にも丘陵地における同様な例を散見することがで
き、丘陵地帯における掘立柱建物の少なさも明らかである。傾斜面に掘立柱建物を建設
するには、地面の流出防止や柱穴を垂直に掘削する労力と、床を水平にするための工事
が必要になる。このような地形的な制約から、斜面地における掘立柱建物建設は積極的
に行われなかったとも考えられる。しかし、光山遺跡群では斜度5°の斜面に掘立柱建
物を建設するため、桁行を等高線と並行にして桁行柱間距離を短くするなどの工夫をし
ている。また、大沼遺跡などと同様に比企丘陵の急傾斜面にある柳沢A遺跡(植木 1997)
では、3×2間と3×2間四面庇の建物が造られている(図Ⅲ-4)。2遺跡の例からは、
斜面地における建設の困難さを第 1 の要因として挙げておくが、丘陵地・斜面地におけ
る掘立柱建物建設の必要性や規制を次の要因として考えておく必要がある。つまり、先
の製鉄関連遺跡や土師器生産遺跡でⅣ類集落が顕著である事例からは、丘陵地における
生業の問題との関わりである。斜面地にも関わらず、掘立柱建物を建設している光山遺
跡群は営農を基本とする集落であり、農業と掘立柱建物の関連性を、柳沢A遺跡は村落
寺院と考えることができることから、宗教施設における掘立柱建物の必要性が窺える。
4
古代東国集落の特徴
掘立柱建物の視点から集落の類型化を試み、掘立柱建物の存在しないⅣ類を含めて検
討してきたが、各類の特徴や周辺遺跡との関連などから、以下にそれぞれの性格につい
て考え、また出土遺物をとおして東国集落の特徴を抽出してみたい。
(1) 各類型集落の性格
・Ⅰ類集落は、竪穴住居1軒・掘立柱建物1棟の最小単位から、Ⅲ類に近い規模の単位
がコンパクトにまとまり、それらが細胞のように集合して大規模な集落へ拡大していく
基本類型である。木曽森野遺跡では、そういった単位が時期によって竈方位を反転させ
るなどしながら移動し変遷しているが、第3期の竪穴住居H1と掘立柱建物B10 を中心
にした、竪穴住居2軒と掘立柱建物2棟の単位が目立つ程度で、各単位に大きな差は見
られない。しかし、草山遺跡では小規模単位に加えて、大形竪穴住居と大形掘立柱建物・
総柱建物が配置される単位があり、Ⅰ類集落内での単位間の格差や有力者層の存在を確
認できる遺跡もある。
Ⅰ類集落は小単位の結合によって構成される構造上、規模や構成に多様性・柔軟性を
持つが、集落立地の計画性と拡張性が必要であり、充分な集落建設用地を確保しなけれ
ばならない。これらを可能にするためには、集落レベルでの意思ではなくより広域な地
域開発に歩調を合わせた計画が必要であり、官衙造営や条里施工と同様に新たな土地利
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第2節
古代東国集落の構造
用の中でこそ理解できる類型である。有力単位を中心に集落は構成されるが、時期によ
る移動も見られることから、自主的な集落の結合関係ではない新たな集落構造といえる。
・Ⅱ類集落とした白山遺跡は、低地内にある古墳時代後期の大集落である砂田前遺跡の
後継集落で、白山遺跡と隣接する白山古墳群を砂田前遺跡の墓域であると本章第1節で
指摘した。また、西から北西方向には、榛沢郡家を中心とする熊野遺跡・中宿遺跡が展
開しており、出土遺物からもその影響を若干窺うことができる。しかし、熊野遺跡でみ
られる大形掘立柱建物群や石組井戸、円面硯や唐三彩あるいは多くの畿内産土師器など
と比べると、時期的には並行するにも関わらず、遺構・遺物ともにその差は歴然として
いる。
白山遺跡の集落南端に、広場を配して建設された掘立柱建物群は、周辺の竪穴住居を
取り込みながら同位置で建て替えを行っており、数時期にわたって土地に固執している。
掘立柱建物群の存在と集落内での位置、南に接する竪穴住居から鉸具が出土しているこ
となどから、この掘立柱建物群が白山遺跡の中心施設であり、砂田前遺跡の後継集落を
強調すれば、首長層の系譜を引く住居群と考えておきたい(註2)。Ⅱ類集落もⅠ類集落
と同様に再編成された集落であるが、Ⅱ類集落は古墳時代以来の集団関係の維持を反映
した、伝統的な集落構造といえるであろう。
・Ⅲ類集落の桑原遺跡の出現期では、掘立柱建物と竪穴住居は主軸を揃えているか直角
に近く配置されており、このような建物配置は、時期や地域に限定されることなく確認
できるもので、占有する宅地や出入口方向を意識してのことと考えられる。また、掘立
柱建物の規模は3×2間・2×2間が主体となり、柱穴は円形の平面プランを基本とし、
出現期では最大規模の7号掘立柱建物でも図Ⅰ-15-3のような小規模な柱穴である。
遺構数ではⅠ類の単位と差のない場合もあるが、展開範囲が広くⅢ類は単独で成立する
ものである。
掘立柱建物は集落内で移動をしながら主屋的な位置を占め続けており、Ⅱ類のように
土地に固定するような継続の仕方はしていない。また、桑原遺跡では出現期から主屋と
なる掘立柱建物が存在するが、峯ヶ谷戸遺跡では有庇建物は9世紀後半に出現しており、
集落構成員の成長を示すものであろう。Ⅱ類の掘立柱建物が集落を代表する施設とする
なら、Ⅲ類の掘立柱建物はⅡ類よりは小さな集団を代表するものであり、Ⅰ類の 1 単位
に比べるとより自立した集落といえるであろう。
・Ⅳ類集落についてはすでに述べてきたように、製鉄遺跡などの生産に関わる集落と丘
陵地に特徴的な類型であるとした。この2者は集落景観からは細分すべき相違があるが、
掘立柱建物の存在意義や生業の面からみると密接な関連を想定することができる。Ⅳ類
集落の大沼遺跡からは、兵庫鎖・計量器であるコップ形須恵器あるいは線刻のある棹秤
の権などが出土しており、第3次産業的な様相をみることができ、丘陵地帯での生業の
一端を示している。また、村落寺院である柳沢A遺跡の場合は、丘陵地での掘立柱建物
建設の制約を受けずに、丘陵斜面に四面庇の建物が建設されている。
これらのことから、Ⅳ類集落は製鉄や窯業に関わる遺跡と、丘陵地の流通などに関連
する遺跡に顕著であると指摘でき、農業を主とする集落との生業の差を反映した集落景
観を形成している。逆説的には、掘立柱建物の存在する集落は、条里を望む台地上の集
落を基本としており、水田経営と掘立柱建物の密接な関係が窺えるのである。
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第Ⅰ章 古代東国集落の特質
(2)出土遺物からみた集落の特徴
これまでみてきた各類型の集落からの出土遺物は、土器類の他鎌などの鉄製品や砥
石・紡錘車といった石製品が主体であり、奢侈的な消費物ではなく生活や生産の道具類
が中心である。土器類では、土師器と須恵器の出土比率は時期や生産地との距離などに
影響され、須恵器は時期により生産地別の増減も確認できる。官衙や官衙的遺跡では暗
文のあるような畿内産土師器などが出土するが、東国集落においては北武蔵型坏・相模
型坏や武蔵型甕・常陸型甕など在地産の土師器を基本に流通している。有馬条里遺跡(平
安時代)と桑原遺跡では灰釉陶器・緑釉陶器が検出されているが、10 世紀~11 世紀と時
期的にも新しく、東国の一般集落でも陶器が流通する時期ともいえる。
木曽森野遺跡・有馬条里遺跡(平安時代)
・樋ノ下遺跡では羽口など鉄生産に関わる遺
物が出土しており、有馬条里遺跡では製鉄炉と鍛冶跡も発見されている。有馬条里遺跡
のような製鉄炉はなくとも、集落では鎌・斧・紡錘車など農工具を中心とした鉄製品が
多く出土しているが、小鍛冶などを集落内で行っている場合も多い。鉄製品の出土はな
くとも、砥石の出土によって存在を裏付けることも可能で、集落で鉄製農工具の占める
位置は大きい。材質ではなく用途からは、紡錘車も集落で検出されることの多い遺物で、
鉄製・石製・土製の紡錘車で撚られた糸は、主に租税用の布として織られたのであろう。
このような各種素材の農工具は、生産・製造の最先端の部分で使用されたもので、集落
出土遺物の特徴といえるものである。
官衙遺跡の出土遺物については、『古代の官衙遺跡Ⅱ遺物・遺跡編』(奈良文化財研究
所 2004)で、①文字関係資料
②瓦類
③腰帯具・銭貨・印章
④武器・武具
⑤祭祀
具、及び陶製枡・油杯を含む土器などに分類している。特に、文字関係資料については、
木簡・墨書土器・文字瓦・漆紙文書・硯などがあり、官衙と文字との強い関連を窺うこ
とができる。集落遺跡からも墨書土器が出土する例は多く、白山遺跡では「東」墨書土
器が2点出土しているが、白山遺跡はまさに中宿遺跡・熊野遺跡の「東」に相当し、官
衙などの施設との位置関係を示している。同様な例としては、幡羅郡家の東 1.5km に位
置する天神下遺跡(寺社下 1984)でも「東」墨書土器が検出されており、官衙などを基
準にした方位などの墨書土器は、集落出土墨書土器の特徴の一つでもある。多摩ニュー
タウン№769 遺跡では「庄」「倉」「天」「西」などが出土しており、「庄」は 8 世紀から
9世紀後半までの竪穴住居から5点出土し、
「倉」
・
「西」は9世紀後半の土器に記されて
いる。特に「庄」
「倉」は注目され、庄園や倉庫との関わりが考えられ、白山遺跡や天神
下遺跡の例からは「西」の意味も想定できる。墨書土器は集落の性格を分析できる資料
であるが、一文字が多く官衙や寺院出土墨書土器のように施設名を表わす例も少ない。
官衙遺跡に準ずるような遺構配置や出土遺物が見られる埼玉県百済木遺跡(村松 2003)
では、墨書土器「店寺」「宮足」や転用硯など文字関係資料の他、銙帯(鉈尾)・灰釉陶
器・羽口・銅鈴・貨泉などと、鎌・鏃・刀子・釘など鉄製品が出土している。これら出
土遺物を総体で考えると、一般的な集落出土遺物とは様相を異にする。しかし、円面硯
ではなく転用硯であったり、鎌や管状土錘のような農業・漁業と直結するような道具も
出土しており、郡家などの出土遺物との差をみることもできる。このような官衙と集落
の中間に位置する遺跡をどのように評価するか、古代東国社会解明にとって重要な視点
である。
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第2節
古代東国集落の構造
東国社会における掘立柱建物の積極的な導入・建設は、官衙とその周辺から進みその
後急速に周辺部に広がったと考えられる。Ⅳ類の存在を加味すると掘立柱建物の分布は
営農集落を中心としており、その波及経路としては官衙建設・条里施工そして水田経営
に伴って採用された可能性が高い(註3)。また、各類集落の構造上の相違には、集落の
出自を示す例も見られる。官衙建設・条里施工などの律令国家的な地方支配が進む中、
そして台地への集落移動や掘立柱建物の採用を受け入れながら、東国社会では伝統的な
集団関係を反映した集落構造を保持し続ける部分も存在したのである。
(註1)多功南原遺跡では8世紀後半に、掘立柱建物群がコ字状に配置される一画があ
るが、一方で竪穴住居を中心に構成される単位もあることから、Ⅰ類集落内に中核的な
特定の単位を含む例として挙げておく。
(註2)白山遺跡については、本章第1節でも砂田前遺跡を引き継いだ、再編された古
墳時代以来の集落ではないかと述べた。また、本節で指摘したように、熊野遺跡との構
造や出土遺物には大きな差があり、白山古墳群の造営主体と評家・郡家の建設主体を考
えるとき、白山遺跡と熊野遺跡の関係をどのように理解するか、今後の重要な課題とし
て残る。しかし、砂田前遺跡をはじめ、古墳時代後期集落の首長層の居宅などについて
は、確認されていない。
(註3)掘立柱建物の理解に関しては大上周三が簡潔にまとめているが(大上 2006)、
その中で東国集落における掘立柱建物の出現と普遍化について、「律令体制形成期の評
(郡)衙の成立と共に、一般集落にも導入・普及」と述べており、本節の見解とほぼ一
致するものである。
- 47 -
第Ⅰ章 古代東国集落の特質
図Ⅰ-11
図Ⅰ-12
木曽森野遺跡
- 48 -
有馬条里遺跡(奈良時代)
第2節
図Ⅰ-13
古代東国集落の構造
有馬条里遺跡(平安時代)
図Ⅰ-14
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樋ノ下遺跡
第Ⅰ章 古代東国集落の特質
図Ⅰ-15-1
図Ⅰ-15-2
桑原遺跡全体図
桑原遺跡出現期集落
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図Ⅰ-15-3
桑原遺跡7号掘立柱建物
第2節
図Ⅰ-15-4
桑原遺跡時期別遺構分布図
- 51 -
古代東国集落の構造
第Ⅰ章 古代東国集落の特質
白山古墳群
白山遺跡
広場
掘立柱建物群
図Ⅰ-16
白山遺跡全体図
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第2節
図Ⅰ-17
古代東国集落の構造
木曽森野遺跡部分拡大図(Ⅰ類集落の単位)
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
7世紀末~8 世紀前半
▲9 世紀後半
8 世紀後半~9 世紀前半
9 世紀後半
図Ⅰ-18
白山遺跡掘立柱建物群周辺変遷図(Ⅱ類集落)
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第Ⅰ章 古代東国集落の特質
図Ⅰ-19
多功南原遺跡部分拡大図(左はⅠ類集落の単位・右はⅢ類と同型集落)
炉跡
図Ⅰ-20
光山遺跡群掘立柱建物遺物出土状況(ドットが土器出土ポイント)
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第2節
表Ⅰ-3
木曽森野遺跡掘立柱建物規模
表Ⅰ-4
- 55 -
古代東国集落の構造
木曽森野遺跡竪穴住居規模