上原記念生命科学財団研究報告集, 23(2009) 48. 授乳婦の食事内容による母乳成分の変化と乳児の嗜好性への影響 廣瀬 潤子 Key words:母乳,乳児,匂い,食傾向,嗜好性 *滋賀県立大学 人間文化学部 生活文化 学科 緒 言 厚生労働省の行った平成 17 年度乳幼児栄養調査結果では,96%の母親が母乳哺育をしたいと望んでいるが,生後 1 か月 時点で母乳のみを与える母乳栄養の割合は 42%と低値であり,約 70%の母親は授乳に関してなんらかの悩みを抱えている状 況にある1).乳児の母乳への嗜好性評価を含め,授乳がうまく行われているかを観察によって評価する方法はいまだに確立され ておらず,混乱している状況である.母乳哺育を推進するためには評価方法の検討が急務であると考えられる. また,乳児への母乳の提供と母体の回復という点で,授乳婦の食生活は重要な位置を占めている.さらに,母親の食事内容 によっては乳児の乳房への吸い付きが悪くなるという現象はしばしば観察され,妊娠・授乳期の母親の食事が乳児の離乳食の嗜 好性に影響を与えるとの報告もある2). したがって,母親の食事摂取状況と母乳中の成分,特に母乳の匂い成分との関連性 を明らかにすることは,母子間の精神的な相互作用や乳児の嗜好性確立過程を考える上で極めて重要であると思われる. 方 法 本研究は滋賀県立大学ヒトを対象とした研究に関する倫理審査委員会による承認を受けて実施した.対象は,主旨について 文書で説明し参加同意の得られた,京都府 M 市の助産院に母乳育児指導を受けに来院している乳腺炎などの乳房トラブルの ない授乳婦(平均年齢±標準偏差:32.3±3.5 歳)とその児(男児 8 名,女児 8 名,6.3±4.3 か月)16 組である. 食事調査は母親の食事について,試験日前3日間について思い出し法により実施した.調査結果の処理および栄養価計算 は,「エクセル栄養君 Ver.4.0」(株式会社建帛社,東京)を用いて管理栄養士が行った.調査した 3 日間の食事は,指示 のない場合は普段と大きく変えないように依頼した.試験日の昼食には,3か月以上対象者全員が摂取していなかったカレーラ イス(市販レトルト野菜カレー,パック入りごはん,ミネラルウォーター)を提供した. 母乳の採取は,前回の授乳との間隔を 2 時間以上あけて,用手で約5 ml 採取した.授乳の前後には児の体重を計測し, その体重差を哺乳量とした.母乳の成分解析では,母乳中の主要栄養素(たんぱく質,脂質,糖質)の定量を行った. 母乳の匂いの解析には,ヒトの嗅覚機構を模倣した「島津におい識別装置 FF-2A」を用い,得られたデータは匂いをパター ン化して表現する絶対値表現ソフト Asmell2 および多変量解析により解析した.試験食摂取前後の母乳の匂い変化は,試験 食摂取 2 時間後から試験食摂取前の測定値を引いたもので表した. さらに,ビデオ撮影により授乳の様子をモニタリングし,乳児の表情・行動解析を試みた.モニタリングにさきがけて乳児を撮影 環境に慣れさせるために,母親と乳児は試験日の前に2度,母親の昼食以外は試験日と同様の環境および日程で過ごした. 乳児の表情解析では FACS(Facial Action Coding System)を参考にし 3),特に眉,目,鼻付近の動きに注目した.同 時に児の吸い付きの評価にはアンケートによる母親の主観的評価も行った. 結果および考察 母児の基礎データ(母親の年齢,体格指数,児の月齢)と,母乳中の主要栄養成分,母乳の左右,哺乳量,母乳の匂い パターンの間には規則だった傾向は認められなかった.母親の摂取栄養素量と母乳の匂いパターンにも一定の関連性は認めら *現所属:滋賀県立大学 人間文化学部生活栄養学科 1 れなかった.しかしながら,普段の食事傾向(3 日間の思い出し法による食事調査の 1 日平均摂取量)が脂質の多い場合と 少ない場合では,長期間摂取していなかった試験食のカレーを摂取した前後の有機酸系の匂い類似度(匂いの質の尺度)の 変化の様子が異なることが観察された(図1).また,母親の 1 日の平均摂取食品数が多い場合には,試験食摂取前後の臭 気指数(匂いの強さの尺度)の変化が小さい傾向にあった.これらのことから,普段の食傾向や摂取食品のバラエティが,普 段と異なる食事を摂取した時の母乳のにおい変化に影響を与えると推測される. 図 1. 母親の脂質摂取平均量(A)と試験食摂取前後での母乳の匂い変化(B). A.母親の摂取量は試験食摂取前 3 日間について思い出し法により求めた. B.母乳の匂いは島津におい識別装置 FF-2A により測定し,得られたデータは多変量解析および絶対値表現ソフト Asmell2 により解析した.母乳の有機酸系類似度変化は,試験食摂取 2 時間後から試験食摂取前の測定値を差し引 いたものである. グラフ A および B で同じ色のバーは同一被験者の結果である. 乳児の嗜好性評価方法の検討では,直接肌に触れる機器の装着は乳児の関心が機器へ向いてしまうため,通常感じている 母乳の匂いなどの微細な変化に対する反応に影響を与えると考えられる.したがって,児への直接的な刺激のない方法で嗜好 性の調査を行うことが理想である.ところが各種出されている母乳の飲み方(飲みっぷり)の評価指標は根拠の示されているも のがほとんどなく作成者によって着眼ポイントがまちまちであったり,同じ観察視点でも解釈が異なる場合があった.本実験では 哺乳量,授乳時間・哺乳行動時間での関連性をみたが,試験前の哺乳との時間的間隔や比較的安静に過ごしてもらうなどの行 動をそろえても,母親の主観的評価などとも一致せず,哺乳量などの因子のみで乳児の嗜好性を評価することは困難であった. さらに,乳児の表情をビデオ撮影し,FACS を参考に表情観察を行ったところ,試験食摂取の後の授乳において嫌悪感を表 す眉と上まぶたを下げる動きが観察され,母親の主観的評価についても乳房への吸い付きが悪いとされた児 B2 と B4 では,母 乳の匂いの類似度変化パターンが表情変化の観察されなかった群と比べ硫化水素の変化が小さく,アルデヒド系の変化が大き かった(図 2a:母乳の匂い変化,図 2b:試験食摂取後授乳時の乳児の表情) .FACS での感情判定には口元の筋肉の動き が重要視されているが哺乳時には口元の動きは利用できないため,より詳細な解析を行うためには,観察のポイントとして他の 表情筋を用いる,あるいは手足の動きなどとの複数の指標での検討が必要だと思われる. 2 図 2a. 試験食摂取前後での母乳の匂い変化. 母乳の匂いは島津におい識別装置 FF-2A により測定し,得られたデータは多変量解析および絶対値表現ソフト Asmell2 により解析した.母乳の匂い変化は,試験食摂取 2 時間後から試験食摂取前の測定値を差し引いたものである. 図 2b. 哺乳時の乳児の表情. 試験食摂取 2 時間後の哺乳時の乳児の表情(被験者 B2). 本研究の共同研究者は,長尾助産院 長尾早枝子院長,京都女子大学家政学部 成田宏史教授である. また本研究を援助くださいました上原記念生命科学財団に深謝いたします. 文 献 1) 厚生労働省 平成 17 年度乳幼児栄養調査結果の概要 2006. 2) Mennella, J. A., Jagnow, C. P. & Beauchamp, G. K. : Prenatal and postnatal flavor learning by human infant. Pediatrics, 107(6) : E88, 2001. 3) エクマン, P. & フリーセン, W. V., 工藤 力訳 : 表情分析入門, 誠信書房, 東京, 87- 99, 2005. 3
© Copyright 2024 Paperzz