性表現と表現の自由

183
性表現と表現の自由
判例にみるわいせつ概念と
―
わいせつ規制の在り方に対する考察―
谷 明紀
(山元研究会 4 年)
Ⅰ はじめに
Ⅱ 判例にみるわいせつ概念
1 「チャタレー夫人の恋人」事件
2 「悪徳の栄え」事件
3 「日活ロマンポルノ」事件
4 「四畳半襖の下張」事件
5 「愛のコリーダ」事件
6 「サス企画」事件
Ⅲ わいせつ該当性の判断基準
1 問題の検討
2 小 括
Ⅳ わいせつ表現の規制根拠
1 性秩序・性道徳の維持
2 性風俗の維持
3 わいせつ表現は性犯罪を誘発するため
4 わいせつ表現は女性差別表現であるため
5 性の商品化
6 見たくない人の性的感情の保護
7 青少年保護
8 小 括
Ⅴ これからのわいせつ規制
Ⅵ おわりに
184 法律学研究48号(2012)
Ⅰ はじめに
刑法175条は、「わいせつな文書、図画、電磁的記録に係る記録媒体その他の物
を頒布し、又は公然と陳列した者は、 2 年以下の懲役又は250万円以下の罰金若
しくは科料に処し、又は懲役及び罰金を併科する。電気通信の送信によりわいせ
つな電磁的記録その他の記録を頒布した者も、同様とする」と定め、わいせつ文
書等を規制している。わいせつ物に対する規制は、場所・表現方法を規制する表
現中立規制ではなく、表現内容そのものを制限する規制である。よって、その規
制は、慎重になされなければならないし、規制の在り方に対して、充分な議論が
なされなければならない。しかし、性表現規制は、表立って反対しにくい性質を
持ち、心情的に議論がなかなかしにくい状況にある。さらに、昨今は、性表現規
制に関して、理論よりも社会的感情が優先され、その規制に対する検討が加えに
くくなっているように感じる。本稿では、判例におけるわいせつ概念、それにつ
いての学説、わいせつ規制の根拠等を整理し、わいせつ規制の在り方に対する考
察を行うことで、性表現規制に関する議論の発展に貢献したい。
Ⅱ 判例にみるわいせつ概念
刑法175条は、わいせつな文書等の頒布、販売、陳列を禁止しているが、「わい
せつな」文書とはいかなるものを指すのか教えてくれない。裁判所は、この「わ
いせつ」という概念をどのように確定させているのか、代表的な裁判例から、明
らかにしていきたい。
1 「チャタレー夫人の恋人」事件1)
「チャタレー夫人の恋人」事件判決は、わいせつ物規制判決のリーディングケー
スとなった。
この事件では、イギリス人作家 D. H. ローレンスの作品『チャタレー夫人の恋
人』がわいせつ物にあたるかどうかが争点となった。というのも、この作品は、
直接的な性描写があるにもかかわらず、文学作品としての評価が高かったからで
ある。
判決では、わいせつ文書および図画その他の物を、「徒に性欲を興奮又は刺戟
185
せしめ、且つ普通人の性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するもの」と
定義し、そのわいせつ文書は、「性欲を興奮、刺戟し、人間をしてその動物的存
在の面を明瞭に意識させるから、羞恥の感情を抱かしめる。そしてそれは人間の
性に関する良心を麻痺させ、理性による制限を度外視し、奔放、無制限に振る舞
い、性道徳、性秩序を無視することを誘発する危険を包蔵」する、と捉えた。そ
して、
「著作自体が刑法175条の猥褻文書にあたるかどうかの判断は、当該著作に
ついてなされる事実認定の問題でなく、法解釈の問題である、問題の著作は現存
しており、裁判所はただ法の解釈、適用をすればよいのである。このことは刑法
各本条の個々の犯罪の構成要件に関する規定の解釈の場合と異るところがない。
この故にこの著作が一般読者に与える興奮、刺戟や読者のいだく羞恥感情の程度
といえども、裁判所が判断すべきものである。そして裁判所が右の判断をなす場
合の規準は、一般社会において行われている良識すなわち社会通念である。この
社会通念は、
『個々人の認識の集合又はその平均値でなく、これを超えた集団意
識であり、個々人がこれに反する認識をもつことによつて否定するものでない』
こと原判決が判示しているごとくである。かような社会通念が如何なるものであ
るかの判断は、現制度の下においては裁判官に委ねられているのである。
」とし、
当該文書が、わいせつ文書にあたるかどうかは、社会通念に基づいて判断し、そ
の社会通念がいかなるものかは、裁判官が判断するとした。
また、判決は、羞恥心に関して、「およそ人間が人種、風土、歴史、文明の程
度の差にかかわらず羞恥感情を有することは、人間を動物と区別するところの本
質的特徴の一つである。羞恥は同情および畏敬とともに人間の具備する最も本源
的な感情である。……人間に関する限り、性行為の非公然性は、人間性に由来す
るところの羞恥感情の当然の発露である。
」と述べた。そして、
「性に関するかよ
うな社会通念の変化が存在しまた現在かような変化が行われつつあるにかかわら
ず、超ゆべからざる限界としていずれの社会においても認められまた一般的に守
られている規範が存在することも否定できない。それは前に述べた性行為の非公
然性の原則である。この点に関する限り、以前に猥褻とされていたものが今日で
はもはや一般に猥褻と認められなくなつたといえるほど著るしい社会通念の変化
は認められないのである。」とし、性行為非公然性の原則は、社会通念が変化し
ても、変わらない原則であると述べた。
「芸術性と猥褻性とは別異の次元に属する概念であり、両立し得ないもの
186 法律学研究48号(2012)
ではない。……いわゆる春本の類はおおむねかような芸術性を欠いているか
ら、芸術性を備えている本件訳書はこれを春本と認めることができないこと
第一審以来判定されてきたところである。しかしそれが春本ではなく芸術的
作品であるという理由からその猥褻性を否定することはできない。何となれ
ば芸術的面においてすぐれた作品であつても、これと次元を異にする道徳的、
法的面において猥褻性をもつているものと評価されることは不可能ではない
からである。」
「猥褻性の存否は純客観的に、つまり作品自体からして判断さ
れなければならず、作者の主観的意図によつて影響さるべきものではない。」
本判決は、芸術的、文学的価値のある作品であってもわいせつ性は否定されず、
作者の主観的意図もわいせつ性を否定する根拠とはならないとした。
2 「悪徳の栄え」事件2)
この事件では、マルキ・ド・サド作『悪徳の栄え』の翻訳本がわいせつ物にあ
たるか争われた。判決では、芸術的、思想的価値のある文書とわいせつ性の関係
が問題にされた。
「芸術的・思想的価値のある文書であつても、これを猥褻性を有するもの
とすることはなんらさしつかえのないものと解せられる。もとより、文書が
もつ芸術性・思想性が、文書の内容である性的描写による性的刺激を減少・
緩和させて、刑法が処罰の対象とする程度以下に猥褻性を解消させる場合が
あることは考えられるが、右のような程度に猥褻性が解消されないかぎり、
芸術的・思想的価値のある文書であつても、猥褻の文書としての取扱いを免
れることはできない。当裁判所は、文書の芸術性・思想性を強調して、芸術
的・思想的価値のある文書は猥褻の文書として処罰の対象とすることができ
ないとか、名誉毀損罪に関する法理と同じく、文書のもつ猥褻性によつて侵
害される法益と芸術的・思想的文書としてもつ公益性とを比較衡量して、猥
褻罪の成否を決すべしとするような主張は、採用することができない。
」
「文書の個々の章句の部分は、全体としての文書の一部として意味をもつ
ものであるから、その章句の部分の猥褻性の有無は、文書全体との関連にお
いて判断されなければならないものである。したがつて、特定の章句の部分
を取り出し、全体から切り離して、その部分だけについて猥褻性の有無を判
187
断するのは相当でないが、特定の章句の部分について猥褻性の有無が判断さ
れている場合でも、その判断が文書全体との関連においてなされている以上、
これを不当とする理由は存在しない。したがつて、原判決が、文書全体との
関連において猥褻性の有無を判断すべきものとしながら、特定の章句の部分
について猥褻性を肯定したからといつて、論理の矛盾であるということはで
きない。
」
以上のように、裁判所は、この判決で、文書の持つ芸術性・思想性が、性的描
写による性的刺激を減少・緩和させて、処罰の対象とする程度以下にわいせつ性
を減少させる場合があり、文書の個々の章句の部分は、全体として文書の一部と
して意味を持つものであるから、その章句の部分のわいせつ性の有無は、文章全
体との関連において判断されるべきであることを明らかにした。
このように、
「チャタレー夫人の恋人」事件判決よりも「悪徳の栄え」事件判
決では、わいせつ概念の精緻化が図られた。しかし、具体的な処罰をめぐっては、
芸術性との関係で学説の批判が強い3)。また、わいせつ性の判断基準が曖昧であ
り、裁判官の主観的評価が混入する危険性が高いとする批判も学説では強かっ
た4)。このような学説の批判を受け、最高裁は、「四畳半襖の下張」事件判決で、
再びわいせつ概念の精緻化を試みた(後述)。
3 「日活ロマンポルノ」事件
「チャタレー」事件最高裁判決でも、社会通念が変遷し得ることは認められて
いた。しかしそこでは、性行為非公然性の原則を中核とするハードな社会通念が
採用されていた。ところが、「日活ロマンポルノ」事件では、映倫審査の通過と
いう事実を社会通念判断の重要な資料として使用するという新しい方向を示した。
以下、それをみていく。
「日活ロマンポルノ」第一審判決は5)、わいせつ概念が社会通念によって決まり、
社会通念は、変遷するものであるとの前提に立ったうえで、「本件起訴の対象と
なったビデオテープがわいせつ物に該たるかどうか判断するに当たっては、まず
これらが制作・販売された昭和46年頃から現在に至るまでの間における一般市民
の意識、感情をとらえなければならないわけであるが、これを直接に把握するこ
とは不可能に近いので……衖間で公然といかなる内容の成人映画が上映されてい
るか、また一般書店でどのような内容のポルノ雑誌や官能小説が陳列販売されて
188 法律学研究48号(2012)
いるか見ることが確実な方法である。」と判示した、そして、取り締まり、訴追
の対象にならなかった同種のものと、本件ビデオテープが、違法性の面において
質的、量的に著しい相違があるとは認められないと説示し、
「公然と上映された
り、一般書店で販売されているからと云ってそれがわいせつ物とならないわけで
はない。しかしそれが数多くあって、長い期間取り締まりの対象とならず、一般
大衆が特段の抵抗も感じないで観覧、または閲覧しているという状況があればそ
れはもはやわいせつ物とみることはできない」とした。
これに対し、控訴審判決6)は、第一審とは対照的な判決を下した。「猥せつ性
の判断基準としては、チャタレー事件の最高裁判決が述べているように、一般社
会において行われている普通人の社会通念であること、この社会通念は個々人の
認識の集合または平均値ではなく、これを超えた集団意識であること、社会通念
は時代的・場所的の事情によって変化することを是認しなければならないのであ
る。このことは、すなわち、猥せつ性の判断規準たる一般社会における社会通念
と規範的概念といわねばならないことに帰着する。従って、これは、一定時期に
おける、一般人の猥せつ性に関する意識を統計的に集積調査して、数量的に得ら
れたもの(正確にして完全なものを把握することは不可能であるけれども)自体とは
異なるもので……原判決は『長い間取締りの対象にならずに、一般大衆が特段の
抵抗も感じないで観覧又は閲覧しているという状況』そのものを目して『一般人
の意識、感情』と解しているらしく、厳密にいえば、右の状況に対して特に価値
判断を加えていないといえる。(或いは、原判決は右の現実そのものは単なる事実の
域を脱し、社会通念として一種の規範化されたものと解しているのであろうか)
。従っ
て、ここにいう『一般市民の意識、感情』というものも、帰するところ、右の一
定の状況ないし事実そのものであるから、これは、いわゆる規範的概念たる『良
識』
『社会通念』とは必ずしも合致しない」
。
4 「四畳半襖の下張」事件7)
この事件では、永井荷風作といわれる男女の情交を描写した戯作『四畳半襖の
下張』がわいせつ文書にあたるかが問題となった。この判決でも、「チャタレー
夫人の恋人」事件判決を維持し、次のように説示した。
「文書のわいせつ性の判断にあたつては、当該文書の性に関する露骨で詳
細な描写叙述の程度とその手法、右描写叙述の文書全体に占める比重、文書
189
に表現された思想等と右描写叙述との関連性、文書の構成や展開、さらには
芸術性・思想性等による性的刺激の緩和の程度、これらの観点から該文書を
全体としてみたときに、主として、読者の好色的興味にうつたえるものと認
められるか否かなどの諸点を検討することが必要であり、これらの事情を総
合し、その時代の健全な社会通念に照らして、それが『徒らに性欲を興奮又
は刺激せしめ、かつ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観
念に反するもの』といえるか否かを決すべきである。本件についてこれをみ
ると、本件『四畳半襖の下張』は、男女の性的交渉の情景を扇情的な筆致で
露骨、詳細かつ具体的に描写した部分が量的質的に文書の中枢を占めており、
その構成や展開、さらには文芸的、思想的価値などを考慮に容れても、主と
して読者の好色的興味にうつたえるものと認められるから、以上の諸点を総
合検討したうえ、本件文書が刑法175条にいう『わいせつの文書』にあたる
と認めた原判断は、正当である。」
本判決の意義は、全体的考察方法の内容を明らかにしようとした点に認めるこ
とができるが、特にわいせつ性の判断に際して考慮すべき要素として 6 つの判断
要素8)をあげているところに、この判決の「あたらしさ」がある9)。ただこれら
の要素を、「社会通念に照らして」総合的に判断するとしていることに注意する
必要がある。社会通念が重要な要素として機能するならば、本判決は、わいせつ
の判断基準の内容を大きく変えるほどの進展をみせていない、と評価することも
可能である10)。
5 「愛のコリーダ」事件
「愛のコリーダ」事件の第一審判決11)は、わいせつの定義自体については、従
来の最高裁の定義に従うが、判断規準に関してはより具体的なものの設定が有用
であるとしている。要約すると、わいせつ物であると評価されるためには、①当
該文書、図画中に過度に性欲を興奮、刺激させるに足る扇情的手法により、性器、
性交ないし性戯に関する露骨、詳細、かつ具体的な描写があり、②その描写の存
在により、当該文書、図画が全体として、好色的興味をそそるもので普通人の性
的羞恥心を害する程度に卑わいであると評価されることを要するが、この二要件
の存在を肯定するためには、社会通念に従うべきである、というものである。判
断規準の具体化という手法そのものに、あたらしさはない。それよりも注目すべ
190 法律学研究48号(2012)
きなのは、社会通念についての説示部分であろう。判決は、社会通念は可変的で
あるという前提に立って、近年の性表現物が多く流布するようになった社会状況
を指摘し、国民の多くがそれに触れ、しかもそれが取り締まりの対象にされず、
放置されている事実に触れたうえで次のように言う。「このような放任の状況は
前記普通人の意識において漸次肯定され受け容れられるに至っている性表現の程
度を反映すると共に、その種の性表現の程度が一般に性秩序や性風俗に対する脅
威とは感ぜられなくなったことを推測させるものと考えられる。さて、以上のよ
うな性表現流布のもたらした普通人の意思の変化は、普通人の間に存在する良
識・社会通念にも影響を及ぼさざるを得ない。もとより、その場合、社会通念は
前記のとおり集団意識であり規範的概念であるところ、右のような性表現流布に
よって現時点までに普通人が到達した前記『馴れ』『受容』及び捜査機関等によ
る『放任』の程度を重要な資料としたうえで、一面、性表現による前記各種領域
における社会的諸価値実現の要請をふまえ、多面、性表現が性に関する生活の秩
序ないし健全な性風俗維持の要請に対して与える脅威の程度を測り、この両者の
接点において、社会通念における性表現程度許容の目安を見出すのが妥当であ
る。
」
これに対して、検察側が控訴して、争われたが、東京高裁は以下のように判示
した12)。「社会通念がいかなるものであるかの判断は、判例上、事実認定の問題
ではなく法的評価の問題であって裁判所に委ねられているところであるが、それ
が所によっては必ずしも同一でなく、また同一の社会においても時の経過により
変遷することがある以上、その判断を委ねられた裁判所が性表現に対する普通人
の意識を重要な資料のひとつとすることは決して不都合なことではない。もとよ
り、普通人の性表現に対する馴れ、受容の程度を的確に把握することはきわめて
困難であるばかりか、衖間に流布されている性表現物のすべてが普通人に受容さ
れているとは限らないのであって、これを性表現程度許容の唯一の目安とするよ
うなことは、わいせつ性の判断が捜査官憲の取り締まりの実情に左右されるとい
う不合理な結果を招来し、とうてい許されるべきでないことは論をまたないとこ
ろである。しかしながら、原判決の『馴れ』、
『受容』及び捜査機関による『放任』
の程度を性表現程度許容の目安を見出すにあたっての重要な資料とするとの趣意
が決して右のような趣旨にでたものでないことは、原判決がこれらを重要な資料
としたうえで、一面、性表現による様々な領域での社会的価値実現の要請をふま
え、他面、性表現が性に関する生活の秩序ないし健全な性風俗維持の要請に対し
191
て与える脅威の程度を測り、この両者の接点において、社会通念における性表現
程度許容の目安を見出すのが妥当としているところからも明らかであり、原判決
の右判断自体が、本来、社会通念に関する資料としてとりあげてはならないもの
を判断対象として非難するのはあたらない。」
6 「サス企画」事件13)
判断基準をいかに精緻化しようと、わいせつ概念が明確になっていなければ、
その判断基準の精緻化は無意味なものとなりかねない14)。
「サス企画」事件の判
決における伊藤正己裁判官の補足意見は、わいせつ表現を限定する取り組みとし
てよく知られている。
この事件では、男女の絡み合う裸体写真の性器及び周辺部分を黒く塗りつぶし
て、修正して掲載した写真誌が、わいせつ物にあたる否かが問題となった。判決
では、修正が不十分で、物語性や芸術性・思想性など性的刺激を緩和させるよう
な要素がみあたらないとして被告人を有罪とした。
この判決の補足意見で、伊藤裁判官によって、「ハード・コア・ポルノ」論が
展開された。
「(ハード・コア・ポルノを)あえて定義するとすれば、性器または性交を具
体的に露骨かつ詳細な方法で描写叙述し、その文書図画を全体としてみたと
きにその支配的効果がもつぱら受け手の好色的興味に感覚的官能的に訴える
ものであつて、その時代の社会通念によつていやらしいと評価されるものが
それにあたるということができる。このようなハード・コア・ポルノは、特
定の思想や意見を伝達するものとはいえず、社会的価値を欠いているか、ま
たは法的に評価できる価値をほとんどもつものではないと思われる。したが
つて、およそあらゆる表現について禁止されていると解される検閲は、この
ようなハード・コア・ポルノに対しても排除されるけれども、事後の処罰や
制裁については、それは憲法21条 1 項の保護の範囲外にあり、これに法的規
制を加えることがあつても、表現の自由に関する憲法的保障の問題は生じな
い」。
「(準ハード・コア・ポルノを定義すれば)性器または性交の直接の具体的描
写ではないが、その描写から容易に性器や性交を連想させ、その支配的効果
がもつぱら又は主として好色的興味をそそるものであつて、社会通念に照ら
192 法律学研究48号(2012)
して、ハード・コア・ポルノに準ずるいやらしさをもつ文書図画がそれにあ
たるということができよう。これらの文書図画のうちには、芸術性や思想性
の要素を含み、ある程度の社会的価値をもつものがありうるから、それらは
憲法上の表現の自由の保障の範囲外であるということはできない。
」「準ハー
ド・コア・ポルノを刑法の規制の対象とするときは、……憲法で保障された
表現の自由との抵触の問題が生じうるのであるから、ある性表現物が『猥褻
ノ文書、図画』にあたるかどうかの判断にあたつては、当該性表現によつて
もたらされる害悪の程度と右作品の有する社会的価値との利益較量が不可欠
となる」。
「利益較量にあたつては、とくに、次の 2 点に注意する必要がある。その
第 1 点は、当該作品が単に娯楽的価値を有するにすぎない場合はともかく、
それが、政治的言論を含んでいたり、学問的・芸術的価値を有する場合には、
右の利益較量がとくに慎重になされるべきであるということである。……第
2 点は、『猥褻性』(とくに、当該性表現の『いやらしさ』)の判断の前提となる
社会通念の捉え方の問題である。……裁判所が硬直した社会通念をたてにと
り、抽象的な性行為非公然性の原則に基づいて社会を道徳的頽廃から救うと
いう態度をとることは適当ではなく、むしろ社会の実態が流動的であること
を認め……ることが求められよう。
」
このような主張の意図は、わいせつ概念をより厳密かつ限定的に考えていこう
とするものである。しかし、ハード・コア・ポルノは、憲法21条 1 項の保護を受
けないとされるが、裁判所が憲法上無価値と判断する表現は、それが社会に及ぼ
す具体的な危険の有無にかかわりなく撲滅の対象とされてよいのか、疑問である、
との評価も可能である15)。
伊藤裁判官補足意見のハード・コア・ポルノ論の特徴は、社会的価値のないも
の、ほとんどみるべき価値をもたないものは、憲法上保障をうけないとすること
にあり、それは、
「憲法上無価値な表現物」は憲法に無関係であるから抑圧して
構わない、という理論を現代的に表現しているにすぎない、との評価も可能であ
る16)。また、娯楽的価値を追求する性表現物の氾濫、という現代文化の特徴に着
目するならば、伊藤裁判官補足意見は、古い文化観の持ち主による新しい文化観
や娯楽観の裁判を意味し、非伝統的な言論抑圧の危険性をふくむ、との評価も可
能である17)。
193
Ⅲ わいせつ該当性の判断基準
「チャタレー」事件判決において、最高裁は、わいせつ物を「徒に性欲を興奮
又は刺戟せしめ、且つ普通人の性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反する
もの」と定義し、わいせつ物にあたるかどうかは、「社会通念」に基づいて判断
するとした。この章では、この「社会通念」について検討していくこととする。
1 問題の検討
「チャタレー」事件最高裁判決では、社会通念は、個々人の認識またはその平
均値でなくそれを超える集団的意識であり、時と場所によって同一ではなく、同
一の社会でも変遷があるとされていた。しかし、同時に裁判所は、社会通念の内
容を判断するのは裁判所であり、その判断は事実認定ではなく法解釈の問題であ
るとしている。社会通念を「チャタレー」事件最高裁判決の示すように援用した
場合、裁判官の主観的要素は混入しないのであろうか。
これについて、
「悪徳の栄え」事件最高裁判決によれば、「文書がわいせつ性を
もつかどうかは、裁判官が社会通念にしたがい判断するところに任されているの
であるから、裁判官が、社会通念がいかなるものであるかを知るために、一般人
の読後感を知ることは好ましいことではあるが、それは、あくまでも参考として
の意味をもつに過ぎないのである」としている。しかし、一般人の読後感を参考
にして行われる裁判官の評価をチェックするシステムが存在するのだろうか。
「チャタレー」事件最高裁判決について、加藤久雄教授は、
「この判決からは、
『社
会通念』、
『集団意識』とは何か、またその基礎となる一般人、普通人、通常人の
実態は何かという点について何一つ具体的な内容を知りえず、裁判官を結局は信
用し、その判断に任せなさい、という主張しか出てこないのである」18)と述べて
いる。
「性行為非公然性の原則」にも目を向ける。
「チャタレー」事件最高裁判決によ
ると、「性に関するかような社会通念の変化が存在しまた現在かような変化が行
われつつあるにかかわらず、超ゆべからざる限界としていずれの社会においても
認められまた一般的に守られている規範が存在することも否定できない。それは
前に述べた性行為の非公然性の原則である。この点に関する限り、以前に猥褻と
されていたものが今日ではもはや一般に猥褻と認められなくなつたといえるほど
194 法律学研究48号(2012)
著るしい社会通念の変化は認められないのである。」として、社会通念の超ゆべ
からざる存在として、性行為非公然性の原則を挙げている。この性行為非公然性
の原則とはいかなるものか、意義は必ずしも明確ではない。以下に検討してい
こう。
性行為非公然性の原則に反するということが、性行為を公然と実行することで
あると理解するならば、性行為非公然性の原則に反する行為形態の処罰規定は、
刑法174条でなければならない。そうではなく、性行為非公然性の原則は、その
ような性行為の公然とした実行だけでなく、その性行為の表現にも及ぶという見
解もあり得るだろう。具体的には、
「最高裁裁判所のいう性行為非公然性の原則
は単に現実の性行為に関する原則に止まらず、文書による性行為の表現について
認められなくてはならぬ原則である。論旨は、行為とその表現とは本質的差異が
あり、行為に関する原則はそのまま表現に関し適用さるべきでないというが、文
書による性行為の表現は、その表現の仕方によっては、現実の性的行為が公然と
行われたと同様、あるいはそれ以上の心理的影響を見るものに与え、更に、文書
の性質上、現実の性行為によるものより、影響が広範囲にわたるおそれがあるこ
とを考えれば、文書による性行為の表現にも、現実の性行為と同じく、性行為非
公然性の原則の適用がある」19)とした「悪徳の栄え」事件控訴審判決があげられ
る。このような見解に対しては、「確かに、社会は、性行為を公然となすことを
禁止し得るとしても(刑法174条の公然猥褻罪参照)、しかし、その趣旨を文書によ
る表現の領域に及ぼすことにはやはり一種の飛躍があるといわざるをえない。
」20)
との批判がある。このような批判は基本的に妥当であろう。
以上検討してきたが、これまでの経緯をまとめると、①社会通念はわいせつ判
断で極めて重要な役割を果たすものの、裁判官の主観的・恣意的チェックをする
システムが存在しない、②性行為非公然性の原則は社会通念の核というべきもの
であるが、その意義は不明確で、さらにそれを刑法175条で処理するという議論
は説得力を欠く21)、となるであろう。
判例の中に、社会通念を事実に還元して説明しようとする試みがある。次に、
これを検討してみよう。
「日活ポルノ」事件第一審判決では、「公然と上映されたり、一般書店で販売さ
れているからと云ってそれがわいせつ物とならないわけではない。しかしそれが
数多くあって、長い期間取り締まりの対象とならず、一般大衆が特段の抵抗も感
じないで観覧、または閲覧しているという状況があればそれはもはやわいせつ物
195
とみることはできない」とした。この判決は、高裁判決によって、
「原判決は『長
い間取締りの対象にならずに、一般大衆が特段の抵抗も感じないで観覧又は閲覧
しているという状況』そのものを目して『一般人の意識、感情』と解しているら
しく、厳密にいえば、右の状況に対して特に価値判断を加えていないといえる。
(或いは、原判決は右の現実そのものは単なる事実の域を脱し、社会通念として一種の
規範化されたものと解しているのであろうか)。従って、ここにいう『一般市民の意
識、感情』というものも、帰するところ、右の一定の状況ないし事実そのもので
あるから、これは、いわゆる規範的概念たる『良識』『社会通念』とは必ずしも
合致しない」として批判されたが、このような取り組み自体は注目する必要があ
る。そして、この点につてさらに明確にしたのが、
「愛のコリーダ」事件第一審
判決であった。判決は、大要にして以下のようなことを述べる。「大量に出回る
ようになった現在においては、普通人の意識が大胆な表現を受容するように変化
している。さらに、それらの性表現物の多くは、捜査機関などの官憲によって放
置されているという状況は、一定の表現物について処罰から解放されるというこ
とを推認させる。このような普通人の『馴れ』『受容』と捜査機関による『放任』
の程度を重要な資料とし、一方では性表現による社会的価値の実現の要請、他方
では性表現の性風俗への脅威の程度、この両者の接点で性表現許容の程度の目安
をみいだすことが妥当である」
。
このような取り組みについて、どのような評価を下すべきか。これについて、
奥平教授は、
「本件判決(引用注―「愛のコリーダ」事件第一審判決をさす―)の最
大の特徴は、
『社会通念』に照らして、性表現の許容度を判定することにある。
結論的に問題点を指摘すれば、本判決にみられる手法は、その時々の比較衡量と
いう方法と非常に似てはいまいかということである。すなわち、ある文書、ある
フィルムがわいせつか否かを『社会通念』から判断するという場合、具体的判定
は、結局のところ『裁判官まかせ』になってしまう、ということである。特にフ
ローティング・システムをとった場合、『社会通念』が変化し、性表現は自由化
しているということを認めても、ではどの程度自由化しているのか、つまり、フ
ロートしている(浮いている)部分が、どの程度なのかは、客観化されないので
ある。その判断は、裁判官にまかされているため、このような方法は、憲法論の
立場から言えば、デュー・プロセスの原則に反し、むしろ好ましくないと思われ
る。せっかく具体的基準を出したにもかかわらず、その具体的基準の具体化、客
観化の適用方法によって、客観性を保障する、明確性を担保する、ということに
196 法律学研究48号(2012)
ならず、裁判官の主観的な判断にウェートをかけてしまうことになりかねな
い。
」22)と批判する。この批判は妥当であろう。結局、社会通念を判断基準に据
える以上、裁判官の恣意性は排除できないのである。
2 小 括
以上検討してきた通り、社会通念は客観的に補足可能か、という問いには、否
と答えざるを得ないだろう。現制度下では、結局のところ、社会通念はいかなる
ものであるか、という判断は、裁判官に委ねられる。裁判官の恣意的判断を防止
するシステムが存在せず、社会通念を客観的把握できないのなら、社会通念をわ
いせつ該当性の判断基準とすることは妥当ではない。
さらに、社会通念について、戸松教授は、「多くの判決が、種々の難点をして
きせられているにも関わらず、何故、その社会通念をわいせつ判断基準の中核的
要素としているのかということである。その最も基本的理由は、その概念が何で
あるにせよとにかくわいせつ物を取り締まるべしという前提にあるようだ。その
前提を実現させるには、社会通念を基準とせざるをえないという理由である。わ
いせつ物とは何かについて客観的かつ明確な定義ができないこと、わいせつ物だ
から不快に感じる感じ方は人によって異なり、あるいはそのような感じは社会や
時代によっても異なる等のことから、社会通念といった概念で判断することは柔
軟性があって、一定のわいせつ物は取り締まるべしとする社会の約束ごとを実現
23)
する目的にはかなうものだということができる。」
としている。
判例が、社会通念を判断基準に据えなければいけないのは、結局のところ、取
り締まるべきわいせつ物がはっきりしないということが原因にある。なぜ、取り
締まるわいせつ物がはっきりしないのかというと、わいせつ表現の規制根拠が明
らかになっていないからであろう。裁判官の恣意的要素を排除するためには、客
観的なわいせつ概念を設定する必要があるが、わいせつ規制の根拠が明らかに
なっていなければ、このようなものは設定できない。次章では、わいせつ表現の
規制根拠について検討する。
Ⅳ わいせつ表現の規制根拠
一般に何かしらの行為が規制される場合、規制根拠として、その行為が他者の
権利や社会的利益(刑法的には保護法益)を害するといった害悪をもたらすもの
197
である必要がある。それでは、わいせつ規制の規制根拠はどのようなものであろ
うか。この点を明らかにしない限り、その利益を害する文書・図画がどのような
ものであるかの画定ができない。本章では、わいせつ物の根拠について考察する。
1 性秩序・性道徳の維持
「チャタレー夫人の恋人」事件判決では、「法は単に社会秩序の維持に関し重要
な意義をもつ道徳すなわち『最少限度の道徳』だけを自己の中に取り入れ、それ
が実現を企図するのである。刑法各本条が犯罪として掲げているところのものは
要するにかような最少限度の道徳に違反した行為だと認められる種類のものであ
る。性道徳に関しても法はその最少限度を維持することを任務とする。そして刑
法175条が猥褻文書の頒布販売を犯罪として禁止しているのも、かような趣旨に
出ているのである。」として、わいせつ規制の根拠として、「性道徳の最小限度の
維持」を挙げている。また、同判決において、裁判所の使命として、
「相当多数
の国民層の倫理的感覚が麻痺しており、真に猥褻なものを猥褻と認めないとして
も、裁判所は良識をそなえた健全な人間の観念である社会通念の規範に従つて、
社会を道徳的頽廃から守らなければならない。けだし法と裁判とは社会的現実を
必ずしも常に肯定するものではなく、病弊堕落に対して批判的態度を以て臨み、
臨床医的役割を演じなければならぬのである。」とも述べている。
国家が、性道徳の維持を根拠にわいせつ表現の禁止を正当化することはできる
であろうか。
問題点として、守るべき「性道徳」とは、どのようなものか、明らかになって
いないということが挙げられる。人々が考える性道徳・性秩序というのは、世代・
地域・その人の性格や考え方によって千差万別であり、必ずしも社会全体として
のコンセンサスを得ることができていない。性道徳が人によって異なる以上、
どんなものをわいせつ物として取り締まれるか確定できない。人によって変わる
曖昧なものを規制根拠とすることには、疑問を感じる。
また、最低限の性道徳を害するがゆえに禁止される表現であるという判断は、
最終的に裁判所によってなされる。これも、問題であろう。すなわち、国家機関
が反道徳的と考えられる表現を禁止することは、表現の自由の基礎にある考え方
と鋭く対立する24)。表現の自由の保障は、間違った思想や悪質な思想等を伝える
表現活動に対しても、公権力によるその表現の排除ではなく、あくまで表現活動
によって対抗すべきであり、悪質な思想・間違った思想は、表現によって駆逐す
198 法律学研究48号(2012)
べきであるし、また駆逐できるという考え方に立っているからである(対抗言論
の原則)
。表現内容が良いか悪いかは、公権力によって判断されるのではなく、
市民によって判断されるものだ。こうした、表現の自由の保障の基礎にある考え
方からすれば、反道徳的内容の性表現物であっても、それが反道徳的であること
を理由に、公権力が禁止できないことが原則であるはずである。それにもかかわ
らず禁止できるというためには、なぜこの場合には市民任せの表現活動では不十
分であるのかを、すなわち、市民による表現活動の対抗を待っていては、取り返
しのつかない大きな損害が生ずるので、わいせつ表現をほぼ全面的に禁止する必
要があるということを、説明する必要があるであろう。
この点について、最高裁は、「チャタレー夫人の恋人」事件判決において、わ
いせつ表現物は、「人間の性に関する良心を麻痺させ、理性による制限を度外視
し、奔放、無制限に振る舞い、道徳性、秩序を無視することを誘発する危険を有
している」と述べているが、これは、わいせつ表現の受け手が性道徳を無視する
可能性を抽象的に指摘したにとどまり、わいせつ表現を全面的に禁止できる例外
的な事情を説明したものとは言えない25)。
2 性風俗の維持
「ダゲール」事件26)において、団藤裁判官が補足意見で、わいせつ規制の根拠
として、性風俗の維持を挙げている。すなわち、「憲法31条の関係で、さらに溯
つて検討されなければならないのは、刑法175条の罪の処罰根拠ないし保護法益、
およびこれに関連して罪刑の均衡の問題である。
ひとつの議論は、猥褻文書図画の頒布販売等によつて性犯罪その他の犯罪が誘
発されるということは実証されないから、性風俗の維持を同罪の処罰根拠とする
ことはできないとする。その代表的なものは、アメリカ合衆国の『猥褻および猥
褻文書図画(ポーノグラフイー)に関する大統領諮問委員会』の報告書(1970年)
である。
しかし、性風俗を維持するということは、なにも強姦のような性犯罪やその他
の犯罪の防止を主眼とするものではない。むしろ、端的に、社会環境としての性
風俗を清潔に保つことじたいを本来の目的とするものである。社会環境には物心
両面にわたつて種々のものがあるが、たとえば市街等の美観風致を保持するため
に広告物等の制限や一定地区内における建築物の制限などが刑罰の制裁のもとに
みとめられていることを考えるとき(屋外広告物法、建築基準法)、このような物
199
理的・視覚的な美観にかぎらず、風俗的にいかがわしい商品等が世上に氾濫する
ことのないようにして、いわば精神的社会環境ともいうべきものを保護すること
が許されないはずはないであろう。もちろん、これについては、表現の自由との
関係で重大な問題があることは前記のとおりであるが、それは前段において論じ
た問題であつて、ここではその点をしばらく措いて、性風俗の維持そのものが刑
法上の保護法益でありうることを論じているのである。
」と述べている。
この「社会環境保全」論は妥当であろうか。
ここで語られる「環境」とは、団藤裁判官補足意見でも、
「いわば精神的社会
環境」と言い直されているように、思想や観念など総じて精神にかかわらざるを
得ないものである。それは、大気、水質、音、日照などのように人間にとっての
外形的・物理的な条件とは、異なるものであり、市街地の風致美観といった、物
理的・視覚的な状態とさえとも異なる。「社会環境」の実体は、
「善良な道徳」と
いわれるものとほとんど同じものであって、それは、主観的・精神的なものに他
ならない27)。
「社会環境」の実体が、「善良な道徳」とほとんど同じことが判明した以上、前
節でした 2 つの批判が、
「社会環境保全」論にもあてはまる。すなわち、( 1 )こ
の理由づけからは、いかなる文書を取り締まるべきか、一向に見えてこない、
( 2 )性表現に関しては、原則的に、対抗言論の原則に任せるべきで、公権力が
規制に乗り出すには、市民に取り返しのつかない重大な損害が生じる例外的な事
情が発生する危険があることを説明する必要があるが、
「社会環境保全」論者か
らは、その説明がなされていないということである。
外形的・物理的な「環境」の保全の場合には、ゾーニング規制などによって害
悪をある地域に封じ込めてしまうことが考えられるが、
「精神的社会環境保全」
論者の場合、そういう発想が成立する余地がない。わいせつ規制の規制根拠を、
性風俗の維持に求めることは、妥当ではない。
3 わいせつ表現は性犯罪を誘発するため
わいせつ規制の根拠を、わいせつ表現物が強姦や強制わいせつを誘発するとい
う理由に求める見解はどうであろうか。性表現に表現の自由の保障が及ぶという
見解に立てば、一般人が、わいせつ物が性犯罪を誘発する可能性が高いと考えて
いるだけでは、禁止を正当化できない。正当化のためには、それが科学的に証明
される必要がある。では、実際、科学的調査によって、わいせつ物が性犯罪を誘
200 法律学研究48号(2012)
発すると証明されているのだろうか。もし、わいせつ物が性犯罪を誘発するなら
ば、わいせつ規制に関する議論はもっと単純なものとなるだろう。
わいせつ物と性犯罪に関する科学的調査の 1 つとして、アメリカでは、ジョン
ソン大統領の時代に設けられた大統領特別諮問委員会による調査がある28)。この
調査については、団藤裁判官も「ダゲール」事件の補足意見において触れている。
この諮問委員会は、19名の委員と20名のスタッフからなり、 2 年間の時間と200
万ドルの予算をかけて、報告書をまとめた。その報告書では、性表現と反社会的
行為の関連性は証明されない、と述べている。
また、別の調査として、1979年に発表された、イギリスの「わいせつ性および
映画検閲制に関する」内務省委員会の報告書29)も両者の関係について消極的見
解を示した。すなわち、イギリスや諸外国でなされたわいせつ物と性犯罪に関す
る調査研究を検討した結果によれば、わいせつ出版物と性犯罪との関連性は、非
常に乏しいとの結論を得た、とのことである。
現在のところ、わいせつ表現と性犯罪とを結びつける有力なデータはなく、否
定する見解が多い。
「わいせつ物が性犯罪を誘発する」という理由づけによるわ
いせつ規制は、慎まれるべきであろう。
4 わいせつ表現は女性差別表現であるため
わいせつ規制の根拠を、わいせつ表現が女性差別表現であることを根拠にする
見解がある。この主張は、アメリカにおいて盛んであった。以下、アメリカでの
事例を参考に30)、わいせつ規制の根拠としての女性差別表現について考察してみ
たい。
( 1 ) フェミニズムによるポルノ批判
フェミニストたちは、ポルノをモラルの問題ではなく、害悪の問題であると考
えた。フェミニストによれば、ポルノは、女性に対する様々な暴行・虐待を誘発
し、あるいは、女性の蔑視、
「物」視を蔓延させるなどの「害悪」を生み出して
いるので、法的に規制する必要があるというものである。ここでは、それを主張
したポルノ規制論者の中でも代表的な、キャサリン・マッキノンの主張を見てい
くことにする。
マッキノンのポルノ批判を理解するには、彼女のフェミニズム論の基本部分を
理解する必要がある。彼女自身によると、次の 3 つの命題にまとめることができ
201
るとしている31)。第 1 に、両性間の社会関係は、男が支配し女は服従するという
関係へと組織されており、かつ、この関係は性的なもの、実際の性そのものと
なっていること。第 2 に、ジェンダー(gender) というものは、ヒエラルキー
(hierarchy) であって、性差(difference) といったものではないということ。第
3 に、ポルノグラフィーは、これらの 2 つの動力を性において実動させる中心的
手段であるということ。ポルノは、両性の不平等関係をセクシャリティーへと変
え、男の支配を性差へと変える。
マッキノンは、男と女の不平等関係を成立させ、再生産し、維持しているメカ
ニズムとしてポルノに注目した。ポルノこそが、男女間の不平等関係、ヒエラル
キー構造という社会的事実を形成する役割を果たしていると説明する。
マッキノンのポルノ批判は、ポルノがモラルに反することを問題にしているの
ではない。ポルノが実際に女性に対して害悪(harm)をもたらしているから問題
なのである。ポルノが女性を、虐待され、暴行され、支配されるもの、そして、
そのことに喜びを感じるものとして描くことによって、女性を差別していること
を問題としているのである。
男の権力が、セクシャリティーを規定する力にあり、ポルノがセクシャリ
ティーを規定する核心的役割を果たすとすれば、ポルノは男の権力であり、女性
は、それに対抗する力を持たなければならない、として、マッキノンは、ポルノ
を規制する条例の制定運動を繰り広げた。
( 2 ) ポルノ規制条例
マッキノンは、最初、1989年にアンドリア・ドォーキンと協力して、ミネアポ
リス市のために、ポルノ規制条例を立案する。しかし、これは、市議会は通過し
たが、市長による拒否権の発動により、成立しなかった。次に、マッキノンと
ドォーキンは、インディアナポリス市のポルノ規制条例を立案し、成立させた。
このインディアナポリス市の条例を見てみることにする32)。
インディアナ市の条例は以下のようにうたっていた。
「ポルノは、性に基づく差別的実践であって、女性に対して社会における
平等な機会を否定するものである。ポルノは、差別の基礎として性を作り出
し維持するのに中心的な[役割を果たす]ものである。ポルノは、性に基づ
く従属の体系的な実践であって、女性に差別的に害を与えるものである。そ
202 法律学研究48号(2012)
れが促進するがんこな偏見や侮辱によって、それがはぐくむ攻撃の行動と相
まって、つぎのような効果がもたらされる。[第 1 に、]雇用、教育、公共施
設の利用および不動産の取得に関して、女性の権利の平等の機会が奪われる。
[第 2 に、]強姦、殴打、児童虐待、誘拐および売春を促し、そのような行為
に対する法の適正な執行が妨げられる。そして[第 3 に、]とくに市民権の
完全な行使や、地域生活を含め公的生活への参加を女性に対して制限するこ
とに重大な形で貢献される。
」
「ポルノを通じて行われる性的な従属や不平等のあらゆる差別的な実践を防ぎ、
禁止すること」は、「この条例の目的」をなす。
条例は、ポルノを次のように定義している。
「ポルノグラフィーとは、女性の従属を画像であれ言葉であれ写実的かつ性
的にあからさまに描いたもので、次のうちの 1 つ以上を含むものをいう。
①女性が苦痛または屈辱を楽しむ性的喜びを感ずる対象物として提示され
ている。
②女性がレイプされることに性的喜びを感ずる性的対象物として提示され
ている。
③女性が縛られ、切られ、手足をもぎ取られ、あざをつけられ、あるいは
肉体的に痛めつけられる性的対象物として、または、手足を切断され、頭部
を切り取られ、断片化され、あるいは身体の諸部分へと切断された形で提示
されている。
④女性が物体または動物により侵入された形で提示されている。
⑤女性が堕落、傷害、虐待、拷問の筋書きの中で、きたなく下等なものと
して示され、それらの状況を性的なものとする文脈の中で血を流し、あざを
つけられ、あるいは傷つけられた形で提示されている。
⑥女性が支配、征服、暴行、搾取、所有または使用の性的対象物として、
または、隷属、服従あるいは陳列の姿態あるいは姿勢を通して提示されてい
る。」
さらに、「
[ここにいう]女性のかわりにあるものとして、男性、子どもや、性
転換した者を用いること」も、ポルノとみなされている。
203
以上の定義を前提として、条例は、次の行為を「差別的行為」(discriminatory
practices)であるとして禁止している。
(a)ポルノを制作、販売、陳列、頒布す
ること。(b)強制、脅迫あるいは詐欺によりポルノに出演させること。(c)職場、
教育現場、家庭あるいは公の場でポルノを人に強制すること。(d)特定のポル
ノに直接的に影響されて女性や子どもなどを襲うこと。
そして、そのサンクション
として、(ⅰ)これらの差別的行為により被害を受けた者、あるいは、これらの
違反行為が発生したと信ずるに足る合理的な理由をもった担当官は、
(a)
(b)
(d)
については行為者、制作者、販売者、陳列者あるいは頒布者を相手に、(c)につ
いては行為者あるいはその場の管理者を相手に、当局に苦情を申し立てうる。
(ⅱ)(d)については、一定の例外を除いて、ポルノ制作者、頒布者、販売者、
陳列者に対して損害賠償を命ずることができる。
この条例には、マッキノンの考えが顕著に表れている。すなわち、ポルノを害
悪と捉え、それを女性に対する差別として「市民権法」のアプローチで構成し、
女性に差別と闘う権力を与えようとした点である。このマッキノンによって立案
された条例は、裁判所によって違憲と判断された。次にその判決を見てみる。
( 3 ) 連邦高裁による違憲判決
事件は、まず連邦地裁によって審査され、違憲の判断が下される。そして、そ
の後、控訴審である連邦高裁(第 7 回)で争われ、イースタールブック判事によっ
て違憲との判決が下された。以下でそれを紹介する33)。
「女性を『従属』させる表現や、また、例えば女性を苦痛、屈辱もしくは
レイプを楽しむものとして提示する表現も、あるいは単に女性を『隷属もし
くは服従もしくは陳列の姿勢』において提示するだけの表現でさえ、その作
品全体として見た場合の文学的あるいは政治的価値がいかに大きくとも、禁
止される。女性を平等の姿勢において描いた表現は、性的内容がいかに写実
的でも合法である。これは思想統制だ。それは女性の『是認された』見方、
女性が性的状況にどう反応するか、両性が互いにどう関係するかに関する
「是認された」見方、を樹立するものである。是認された見方を受け入れる
者は性的イメージを用いてもよいが、そうでない者は用いてはならないので
ある。」
204 法律学研究48号(2012)
要するに、この判決では、条例のポルノの定義が、表現内容の「観点」を基礎
にしていると理解した。観点を基礎とした表現規制はこれまでほとんど違憲とさ
れており、違憲の判決を免れるのは困難である。しかしながら、条例の表現規制
の根拠となっているのは、ポルノのもたらす実際の害悪であった。この点につい
て、連邦高裁は、どう答えたか。判決文は、
「我々はこの立法の前提を受け入れる。
従属の描写は従属を永続化させる傾向をもつ。女性の従属的地位が、次いで、労
働における侮辱と低賃金、家庭における侮辱と傷害、街路における殴打とレイプ
に結びつく」と述べ、
「害悪」の主張を基本的には認めている。しかし、それは、
あくまでその「表現」の害悪として、である。したがって、ある「観点」に基づ
いて表現した場合、それが害悪をもたらすのならば、それはまさしく表現が本来
的に期待されている効果ではなかろうか。よって、ポルノがこのような害悪をも
たらすのならば、「このことは、単にポルノの表現としての力を証明しているに
すぎない。これらの不幸な効果のすべては、精神の媒介に依存している。ポルノ
は人々が世界や、仲間や、社会関係をどのようにみるかに影響を与える。もしポ
ルノとはポルノが為すところのものだとすれば、他の表現についても同じである。
ヒトラーの演説は幾人かのドイツ人がユダヤ人をどのように見るかに影響を与え
た。共産主義は 1 つの世界観であり、単にマルクスとエンゲルスによる『宣言』
なのではない。合衆国において共産主義者の言論を抑圧する努力は、そのような
考えの公衆による受容は全体主義的政府の可能性を増大させるだろうという信念
に基づいていたのである。」「もし、言論は条件づけの過程で一定の役割を果たす
という事実が、政府による規制を許容するに十分だというのなら、それで表現の
自由は終わりとなろう。」
高裁判決は、条例のポルノ規制を表現の「観点」規制だと捉えて、違憲判断を
下した。そして、連邦最高裁も理由を付すことなくこれを是認した。
( 4 ) 考 察
以上に、わいせつ表現と女性差別に関するアメリカの事例を見てきた。この問
題は、日本において、どう考えていくべきであろうか。以下に考察していきたい。
フェミニストたちは、女性を性的に搾取されるべき対象としておとしめるよう
な仕方で描いたポルノは、女性を「物」視し、女性差別をもたらすので規制され
るべきだと主張する。これについて、連邦高裁裁判所の見解を支持する。すなわ
ち、
「観点」に基づく表現規制は許されないとの見解をとる。もし、女性が従属
205
的な描かれ方をしたポルノを禁止するとしたら、それは、「女性を従属的に捉え
ることは悪いことだ」という「是認された価値観」を樹立するための、思想統制
にすぎないだろう。闘う民主主義を標榜するドイツ憲法下ではこのような表現規
制は許されるかもしれない。しかし、日本国憲法は、闘う民主主義を採用してお
らず、このような規制は憲法21条に反する。女性差別言論には、同じ表現で対抗
するべきであろう。
だが、女性差別言論には、対抗言論を用いるべきとの見解に疑問を呈している
研究者もいる。笹沼弘志教授は、以下のように述べる34)。
「ポルノグラフィ反対の方法として、法的規制ではなく、対抗言論を用い
るべきだという見解について問題となるのは、強力なメディアおよびポルノ
産業と女性との不平等である。この資源の不平等を放置したまま言論による
対抗を迫るのは不公平ではないか。自由に言論で対抗できる前提として、資
源が平等に配分されていることが要請されているはずである。一方がより多
くの資源を有しており、他方が圧倒的に少ない資源しか有していないのであ
れば、対抗は極めて困難となる。奥平康弘は『表現手段・表現する場所、そ
の他要するに表現する「機会」なしに「表現の自由」を語ることは、無意味
なこと』であり、『表現の自由』を意味あらわしめるためこうした『「機会」
を創出し人々に供給する』仕事を国家が担わねばならないと述べている。対
抗言論を言うのであれば、圧倒的な表現手段を保有するメディアや巨大なポ
ルノ産業と、ポルノショップへの直接行動をとる以上の手段を持たない反ポ
ルノの言論との資源の不平等を問題とせざるを得ないはずである。」
具体的に、どのように女性とポルノ産業との間に不平等があるのか、笹沼教授
は明らかにしてくれない。本当に、ポルノ産業と女性との間は、女性が対抗言論
を行使できないほどの不平等があるのか、疑問である。今の時代は、インター
ネットで誰でも意見を発信できる時代である。また、テレビや新聞等のメディア
でも多くのフェミニストたちが活躍しているし、フェミニストたちの発言は、裁
判所や研究者の間でも注目を集めているところである。以上のような状況を考え
ると、そのような対抗言論が行使できないほどの不平等があるとは言えないだ
ろう。
以上述べてきた通り、わいせつ規制の根拠に、女性差別を持ち出すのは妥当で
206 法律学研究48号(2012)
はない。
5 性の商品化
わいせつ規制の根拠として、「性の商品化」を挙げる見解はどうであろうか。
すなわち、人の好色的趣味につけこんで性表現物を販売すること(パンダリング
論)が規制根拠となるという見解である 。性の商品化について、刑事法学者の
35)
加藤久雄氏は以下のように言う36)。
「この機会にと思い各種コミック雑誌の何冊かを買い求めて通覧したが、
これが16歳以下の少年少女たちによって回し読みされていたかと思うと、驚
くとともに商業・営利主義に毒された作者・出版関係者、印刷関係者などの
『金儲けのためには手段・方法・対象者』を選ばない心の貧しさに、経済優
先を目標にしてきた日本社会の病理現象の一端を見る思いがした。子どもを
食い物にする者には、憲法の基本権を主張する資格は、法理論・法解釈のど
こを捜しても存在しないはずである。こうした恥も外聞もなく『チャイル
ド・ポルノ、コミック雑誌、写真』などを営利目的のために産出している者
にかぎって、作品の芸術性だとか、『営業の自由』、『出版、表現の自由』を
錦の御旗にしているようであるが、憲法のどこを読んでもこうした者に対す
る独断と手前勝手な法解釈による基本権は保障されていないのである。
」
このような行為に対する個人的好き嫌いは置いておくとして、金儲けばかりを
考えている心貧しい者には基本的人権など存在しないとするのは問題であろう。
また、好色的趣味につけこんで、商売するのが処罰されるのであれば、どんなも
のを売っても処罰されることになるだろう。この性の商品化に関する議論を突き
詰めると、
「いけない文書を売るから、いけないのだというところへ、追いつめ
られるのではなかろうか。そうすると問題は、商行為だからいけないのではなく
て、商品がいけないのだということに帰着する。つまり、文書の中身がいけない
というわけだ37)。
」となる。このように理解し、パンダリング論を突き詰めると、
わいせつ物をなぜ規制するのか、というそもそもの争点に戻ってしまう。よって、
性の商品化をわいせつ規制の根拠とするのは妥当ではない。
207
6 見たくない人の性的感情の保護
見たくもない人に、露骨な性表現を押し付け、その性的羞恥心を害することを
わいせつ規制の根拠とすることはどうか。たとえば、不特定多数の人が集まった
り、通行したりする場所で、一定の性表現物が提示されるケースを想定する。
このような場合、性的表現物を嫌悪する者にとっては、意図せず、性欲を興奮
または刺激され、性的羞恥心を害されることとなる。誰にも、「意図せず性欲を
刺激され、性的羞恥心を害されたくない」と思う人に対して、無理やり性的表現
物をみせる権利はないはずである。よって、見たくない人の性的感情を規制根拠
とするのは妥当であると思われる。
このような性的感情を規制根拠とする場合、わいせつ表現物を全面的に禁止す
る必要はない。見たくない人の性的感情を保護するという目的を達成するために
は、表現の時、場所、方法を規制し、見たくない人の目に触れさせないようにす
るだけで十分であり、それ以上の規制は許されない。優越的地位を持つ表現の自
由を規制するにあたっては、必要最小限度の規制手段を選択せねばならない。
7 青少年保護
わいせつ表現の規制根拠として、わいせつ物が青少年にとって有害であるから、
ということを挙げるのは妥当だろうか。ここに言う「有害」とは、わいせつ物を
見ることによって、具体的性犯罪にはしるという意味ではなく38)、青少年の精神
の発達・人格の形成に悪影響を与えるという意味だと捉える。
この件に関して、青少年保護条例が問題となったケースではあるが、最高裁平
成元年 9 月19日第三小法廷判決(刑集43巻 8 号785頁)の伊藤裁判官による補足意
見が参考になる。
「青少年は、一般的にみて、精神的に未熟であって、右の選別能力を十全
には有しておらず、その受ける知識や情報の影響をうけることが大きいとみ
られるから、成人と同等の知る自由を保障される前提を欠くものであり、し
たがつて青少年のもつ知る自由は一定の制約をうけ、その制約を通じて青少
年の精神的未熟さに由来する害悪から保護される必要があるといわねばなら
ない。もとよりこの保護を行うのは、第一次的には親権者その他青少年の保
護に当たる者の任務であるが、それが十分に機能しない場合も少なくないか
208 法律学研究48号(2012)
ら、公的な立場からその保護のために関与が行われることも認めねばならな
いと思われる。」
「青少年保護のための有害図書の規制について、それを支持するための立
法事実として、それが青少年非行を誘発するおそれがあるとか青少年の精神
的成熟を害するおそれのあることがあげられるが、そのような事実について
科学的証明がされていないといわれることが多い。たしかに青少年が有害図
書に接することから、非行を生ずる明白かつ現在の危険があるといえないこ
とはもとより、科学的にその関係が論証されているとはいえないかもしれな
い。しかし、青少年保護のための有害図書の規制が合憲であるためには、青
少年非行などの害悪を生ずる相当の蓋然性のあることをもって足りると解し
てよいと思われる。もっとも、青少年の保護という立法目的が一般に是認さ
れ、規制の必要性が重視されているために、その規制の手段方法についても、
容易に肯認される可能性があるが、もとより表現の自由の制限を伴うもので
ある以上、安易に相当の蓋然性があると考えるべきでなく、必要限度をこえ
ることは許されない。しかし、有害図書が青少年の非行を誘発したり、その
他の害悪を生ずることの厳密な科学的証明を欠くからといって、その制約が
直ちに知る自由への制限として違憲なものとなるとすることは相当でない。」
わいせつ物が青少年の人格形成、精神発達に悪影響を与えるとした客観的デー
タはない。しかし、国家が、精神・肉体が未発達な青少年に対して、パターナリ
ズムによってわいせつ表現から遠ざけることは認められる。酒やたばこなどによ
る害は証明できても、わいせつ表現の精神に対する影響は客観的に画定しにくい
ものである。そのような性質をもつわいせつ表現に関して、青少年の場合まで規
制するのに厳密な科学的データを要求するのは妥当ではなく、青少年の場合は、
経験則に基づく「薄い」証明で足りるだろう。
また、青少年保護のためということで、わいせつ表現を全面的に禁止するとい
うのは、ゆきすぎた規制である。青少年の保護のためであれば、わいせつ表現を
全面的に禁止するのではなく、青少年の目に触れないようにし、青少年が手に入
れられないようにするための、時、場所、方法の規制にとどめなければならない。
青少年保護を理由としたわいせつ規制は許される。
209
8 小 括
以上検討してきたように、わいせつ表現の規制根拠としては、見たくない人の
性的感情の保護・青少年保護に限られる。そういう見解に立つと、わいせつ表現
を全面的禁止する刑法175条は、目的達成のためには、必要最小限度の規制を超
えて、規制をしている。よって、憲法21条に反して違憲無効となるだろう。
Ⅴ これからのわいせつ規制
これまでの検討から、①わいせつ規制のための条項は、客観的な概念を用いる
べきである、②わいせつ規制の根拠は、青少年保護と見たくない者の性的感情の
保護に限られる、という結論を得ることができた。それでは、これからはどのよ
うなわいせつ物概念の設定をするべきであろうか。
具体的なモデルを提案する力は、筆者にはないが、大阪府青少年健全育成条例
が客観的わいせつ概念設定のヒントとなるだろう。
この条例は、13条 1 項において以下のようなことを定める。
(有害な図書類の指定)
第13条 知事は、図書類の内容の全部又は一部が次の各号のいずれかに該当
すると認めるときは、当該図書類を青少年に有害な図書類として指定する
ことができる。
(1)
青少年の性的感情を著しく刺激し、青少年の健全な成長を阻害するも
ので、次に掲げる基準に該当するもの
イ 陰部、陰毛若しくはでん部を露出しているもの(これらが露出と同程
度の状態であるものを含む。
)又はこれらを強調しているもので、青少年
に対し卑わいな、又は扇情的な感じを与えるものであること。
ロ 全裸、半裸若しくはこれらに近い状態での自慰の姿態又はこれらの状
態での女性の排せつの姿態を露骨に表現するもので、青少年に対し卑わ
いな、又は扇情的な感じを与えるものであること。
ハ 異性間若しくは同性間の性行為若しくはわいせつな行為を露骨に表現
するもの又はこれらの行為を容易に連想させるもので、青少年に対し卑
わいな、又は扇情的な感じを与えるものであること。
210 法律学研究48号(2012)
二 変態性欲に基づく行為又は近親相かん、乱交等の背徳的な性行為を露
骨に表現するものであること。
ホ 強姦その他のりょう辱行為を表現するもので、青少年に対し卑わいな、
又は扇情的な感じを与えるものであること。
また、 2 項においては、以下のように定める。
2 前項の規定にかかわらず、次に掲げるものは、青少年に有害な図書類と
する。ただし、その内容が主として読者又は視聴者の性的感情を刺激する
ものでないと認められるものについては、この限りでない。
( 1 ) 書籍、雑誌、コンパクトディスク、デジタルバーサタイルディスクそ
の他これらに類するもの(以下「書籍等」という。)であって、次に掲げる
ものを描写し、又は撮影した図画、写真等を掲載し、又は記録するページ
(表紙を含む。以下同じ。
)等の数が当該書籍等のページ等の総数の10分の 1
又は合わせて10ページ以上を占めるもの
イ 全裸又は半裸での卑わいな姿態で、次に掲げるもの(陰部又は陰毛を
覆い、ぼかし、又は塗りつぶしている場合を含む。
)
⑴ 陰部又は陰毛を露出し、又は強調した姿態
⑵ でん部を露出し、又は強調した姿態
⑶ 自慰の姿態
⑷ 女性の排せつの姿態
⑸ 陰部、胸部又はでん部へのせっぷん又はこれらへの愛ぶの姿態
ロ 性交又はこれに類する性行為で、次に掲げるもの(陰部又は陰毛を覆い、
ぼかし、又は塗りつぶしている場合を含む。
)
⑴ 性交又は性交を明らかに連想させる行為
⑵ サディズム又はマゾヒズムによる性行為
⑶ 強姦若しくは強姦を明らかに連想させる行為又は強制わいせつ行為
( 2 ) ビデオテープ、ビデオディスク、コンパクトディスク、デジタルバー
サタイルディスクその他これらに類するものであって、前号イ又はロに掲
げるものを描写した場面が合わせて 3 分を超えるもの
( 3 ) 図書類の製作又は販売を行う者の組織する団体で、規則で定めるとこ
ろにより知事が指定するものが審査し、前項各号のいずれかに該当すると
211
して青少年の閲覧、視聴又は聴取を不適当と認めたもの
この条例は、有害(わいせつ)となる具体的表現を詳細に挙げているので、裁
判官の裁量が入る余地が少ないという特徴がある39)。このように、どのような表
現が「わいせつ」となるか、詳細・具体的に定め、裁判官の主観的要素を排除し、
規制対象を明確にしようとする姿勢は、基本的に正しい。これからのわいせつ規
制においては、わいせつ物の定義規定を詳細・具体的に記述し、裁判官の主観的
要素の介在を少なくしていくべきであろう。
また、規制方法についても、青少年保護、見たくない人の感情の保護という規
制目的を達成するための最小限度の手段ではなければならない。具体的には、場
所・時・方法の制限に限られるべきである40)。
Ⅵ おわりに
現在、衖には、刑法175条があるのにもかかわらず、アダルトビデオやアダル
ト写真集が数多く流通している。これらについては、性器の部分にモザイクが入
ることによって、「わいせつ物」ではない、と行政上取り扱い、摘発の対象とは
なっていない。しかし、「わいせつ物」ではないが、青少年には有害なので、青
少年保護法によって販売方法が規制されている。よって、我々の生活に直接的に
関係するのは、青少年保護法であって、刑法175条の有無は、モザイクの有無で
しかないのかもしれない。このような現状では、刑法175条について議論する必
要性は低いのかもしれない。
だが、刑法175条は国法として、未だに存在している。法律が現状に合わなく
なったので、行政上の運営で法を形骸化していくという姿勢には賛成できない。
それは、立憲主義をないがしろにする考えである。法律が現状に合わなくなった
ら、しっかり議論してその法律を現状に適合した形に変えていくべきであろう。
刑法175条は、現状に合わない条文である。だから、今一度、わいせつ規制に
ついて正面から問いなおし、活発に議論していく必要がある。
1 ) 最高裁昭和32年 3 月13日大法廷判決 刑集11巻 3 号99頁。
2 ) 最高裁昭和44年10月15日大法廷判決 刑集23巻10号1239頁。
3 ) 加藤隆之『性表現規制の限界「わいせつ」概念とその規制根拠』69頁(ミネルヴァ
212 法律学研究48号(2012)
書房、2008年)
。
4 ) 田中久智「文学とわいせつ―サド「悪徳の栄え」事件―」別冊ジュリストマス
コミ判例百選、1971年34頁、36頁。
5 ) 東京地裁昭和50年11月26日判決 刑集33巻 7 号802頁。
6 ) 東京高裁昭和53年 3 月 2 日判決 刑集33巻 7 号817頁。
7 ) 最高裁昭和55年11月28日第二小法廷判決 刑集34巻 6 号433頁。
8 ) ①性に関する露骨で詳細な描写叙述の程度とその手法
②同描写叙述の文書全体に占める比重
③文書に表現された思想等と同描写叙述との関連性
④文書の構成や展開
⑤芸術性・思想性等による性的刺激の緩和の程度
⑥これらの観点から当該文書を全体としてみたときに、読者の好色的趣味に訴
えるものと認められること
以上の 6 つ。
9 ) 戸松秀典「最高裁判所のわいせつ判断基準」法学セミナー、1981年 3 月号30頁。
10) 同32頁。
11) 東京地裁昭和54年10月19日判決 判例時報945号15頁。
12) 東京高裁昭和57年 6 月 8 日判決 判例タイムズ473号64頁。
13) 最高裁昭和58年 3 月 8 日第三小法廷判決 刑集37巻 2 号15頁。
14) 戸松・前掲 9 )28頁、34頁。
15) 江橋崇「ポルノ写真と表現の自由」ジュリスト、昭和58年度重要判例解説27頁。
16) 同27頁。
17) 加藤・前掲 3 )43頁。
18) 加藤久雄「刑法と性表現」
『現代刑法第五巻』254頁(成文堂、1982年)
。
19) 東京高裁昭和38年11月21日判決 高刑16巻 8 号573頁。
20) 佐藤幸治『憲法(第三版)
』528頁(青林書院、1995年)。
21) 加藤・前掲 3 )58頁。
22) 奥平康弘「わいせつと『社会通念』
」法学セミナー、1979年12月号 5 頁。
23) 戸松・前掲 9 )33頁。
24) 市川正人「表現の自由とわいせつ―加納典明逮捕事件―」
『ケースメソッド憲法
第二版』125頁(日本評論社、2009年)
。
25) 同126頁。
26) 最高裁昭和58年10月27日第一小法廷判決 刑集37巻 8 号129頁。
27) 奥平康弘「性表現の自由になぜこだわるか」奥平康弘・環昌一・吉行淳之介著
『性表現の自由』139頁(有斐閣、1986年)
。
28) 同上134頁参照。
29) 同上134頁参照。
30) 高橋和之「ポルノグラフィーと性支配」岩村正彦・磯井光明・江藤崇など編『岩
213
波講座現代の法11 ジェンダーと法』226-242頁(岩波書店、1997年)。
31) Catharine A. Mackinnon. (1987). Feminism Unmodified: Discourses on Life and
Law. Cambridge, Massachusetts, and London, England. HARVARD UNIVERSITY
PRESS. pp. 3, 163-168.
32) 内野正幸『差別的表現』189-192頁(有斐閣、1990年)
、高橋・前掲30)231頁、
232頁を参照。
33) 高橋・前掲30)235頁以下を参照。
34) 笹沼弘志「自由への対抗―『表現の自由』をめぐる相克(人権の臨界―路上の
呼び声を聴く11)―」法学セミナー、2008年 2 月号93頁。
35) 町野朔「わいせつはなぜ悪い」法学教室、1994年 7 月号76頁。
36) 加藤久雄「青少年向け『有害』出版物等規制に関する問題点( 1 )―とくに少
年少女向け『コミック雑誌』の販売規制を中心にして―」警察研究、62巻11号 4 頁。
37) 奥平・前掲27)114頁。
38) 成人同様、わいせつ表現と性犯罪の因果関係を証明する客観的データは存在し
ておらず、これを否定すべきである。
39) とはいうものの、この定義も詳細に検討すれば、まだまだ問題がある。例えば、
「少年に対し卑わいな、又は扇情的な感じを与えるものであること」とはどうい
うことか、結局は裁判官に任せざるを得ない。このような定め方よりも、 2 項の
ような、「文書全体の中で~の行為の描写が、ある一定程度を超えたらわいせつ
物とする」とした定義の方が、裁判官の主観的要素の介入が少なくて良いだろう。
40) 例えば、わいせつ物を陳列・頒布・販売する場所には、①18歳以下の青少年を
立ち入らせない、②その場所に近づいたら、接近していることを表す、警告マー
クの設置を義務付ける、③そのような場所を見えないように隠すための仕切りの
設置を義務付ける、といった制限が考えられる。