シャッター史 1章

第一章
第一章
シャッターのパイオニアたち
シャッターのパイオニアたち
1. 日 本 最 初 の シ ャ ッ タ ー
シャッターを初めて見た日本人
わが国最初のシャッターが,いつ,どこで,誰によって設計され,施工されたか,はっき
りとした記録は残っていない。関東大震災,太平洋戦争の二大災禍を経た今日,その資料は
あまりにも少ないといわざるを得ない。しかし,数少ない関連資料から判断する所,明治
29(1896)年 2 月に完成した日本銀行本店のものが,日本で最初に取付けられたシャッター
であることは確かなようだ。数次の改修によって,このシャッターの実物は現存していない
が,設計に当った辰野金吾(注 1)の伝記には,次のように記してある。
「日本銀行本店建築は,博士(辰野金吾)の率先輸入せる新建築材料あり特に始めて採用せる
欧米の或種の構造あり,又構造には,博士の創意に成りたるものもあり。されど今日に於い
ては之を敢て珍しとせず,尋常一様のものとして,広く一般に用ひられ,博士の当時の苦心
を知るもの少なきように思う故に,其実物2,3を紹介してみたい。日く石造の全館,日く
建坪約 1 千坪地中階附3階造の大建築,日く鉄枠鉄障子の窓入口,日く全館畳込防火鉄戸の
設備,日く鉄骨銅板張の軒蛇腹,及軒上扶欄,日く防火的通風鋳鉄物,日く金庫室の構造,
日く白色薬掛
瓦,日く甲,日く乙と其の前例なき許多の範を遺されたるは吾人の深謝せざ
るを得ざる所である。」(『工学博士・辰野金吾伝』大正 15 年刊)
いま(大正末期)は何気なく使っている建築材料の数は多いが,それは建築界の先輩である
辰野博士など諸先達の努力や苦心の結果ですぞといった筆者の口吻が伝わってきそうな筆致
である。ここにいう様々な 新建築材料 は,この伝記
が書かれた大正の末には,すっかりありふれたものに
なっていたことは想像に難くない。
この中で触れられている「畳込防火鉄戸」が,イギ
リ ス の ク ラ ー ク ・ バ ー ネ ッ ト 社 (Clark & Bernnet
Company)製の鋼製シャッターであったことは確かな
ようだ。その畳込防火鉄戸が,洋式建築の泰斗といわ
れる辰野金吾によって「其の前例なく許多」の建築材
料のひとつとして採用されたわけである。わが国初の
シャッターが,こうして,日本の建築物に取付けられ
ることとなった。
日本銀行の竣工は,先にも述べたように,明治 29
年 2 月だが,その完成までには 2 年余の歳月を要し
ている。
クラーク・バーネット社のシャッターが,わが国最
初のサッシ,「鉄枠鉄障子鉄戸の窓入口」と共に海を
渡って来たのは,その前年の明治 28 年頃のことと推
クラーク・バーネット社の木片綴り合せシャッターと鋼
製シャッター
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第一章
シャッターのパイオニアたち
測できる。
この鉄製シャッター(スチールシャッターと呼んでいた)のルーツは,1837(天保 8)年,イ
ギリスにおいて,木片を綴り合せにしたものが最初であった。この木片綴り合せシャッター
は,Self-Coiling Wood Shutter といわれ,主として防犯防盗を目的としたもので,時にブライ
ンド代りにも用いられていたようだ。1862(文久 3)年のロンドン大博覧会に出品されて一
般市民の注目を浴び,博覧会賞を受けるとともに,当時のヨーロッパ各国の建築界にも相当
の影響を与えるものとなった。
木片綴り合せシャッターは,その後引き続いて行なわれたパリ(1867 年),モスクワ
(1872 年),ウィーン(1873 年)等の各博覧会においても好評を得,
「建築物の窓には木片シ
ャッター」という考えが一般に認識されるようになった。
この木片シャッターが初めて注目を浴びた 1862 年のロンドン大博覧会には,幕府の命を
受けた使節団が,裃,チョンマゲスタイルで参加し「宇内の名産奇品備わるざる無き」(使節
団員の一人淵辺の『欧行日記』) さまに,感嘆の声を上げ,彼我の文明の差に強いショック
を受けている。日本で最初にシャッターの現物を見たのは,淵辺などの使節団に違いないが,
彼等の眼は,蒸気で動く様々な工作機械や強力な破壊力を持つアームストロング砲に吸い寄
せられていて,彼等の克明な渡欧日記にもシャッターの シ の字の記述も見当らない。ロン
ドン博に刺激を受けた幕府は,その 5 年後のパリ万博に,徳川昭武を代表として正式参加,
当時ヨーロッパに流行し始めていた東方趣味を大いに刺激することになるが,ここでも評判
を呼んでいた木片シャッターは,代表団の眼には入っていないようだ。このパリ万博には,
摩藩が「独立国」として参加,幕府と張り合ったことは有名だが,開明派の
摩隼人の中
には,木片シャッターをじっと見つめていた者
がいたかもしれない。あるいは,石造りのヨー
ロッパの建築物にこそ最もふさわしいシャッ
ターは,興味の対象にもならなかったろうか。
いずれにせよ,技術の先進地域であったヨー
ロッパにおいて,シャッターが初めて考案され,
社会の注目を浴びていたまさにその場所に,日
本人が大挙して居合わせたことは興味深い。科
学技術の上では,天と地ほどの聞きがあった当
時のヨーロッパと日本ではあったが,シャッタ
ーに限っていえば,ヨーロッパもまだまだ生ま
れたばかりで未完成の領域にあったわけであ
る。
クラークバーネット社のカタログに掲載された当時のシャッター
鋼製シャッターの登場
ヨーロッパ各都市の博覧会で好評を得たこの木片シャッターを,鉄製のシャッターに最初
に変えたのが,クラーク・バーネット社である。イギリスの特許公報の 1872(明治 5)年の
項には,出願者クラーク・バーネットの名で,木片の代わりにスチール(鉄)を使用したシャ
ッターが掲載されているが,一般に流通し使用されるようになったのは,これから 7,8 年
あとの 1880 年頃のことといわれている。したがって,辰野金吾によって日銀に採用された
のは,ヨーロッパの実用化から 17,8 年後のことになる。辰野は,1879 年,工部大学校(現
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第一章
シャッターのパイオニアたち
東京大学)を卒業してすぐにイギリスに留学しているから,彼の地においても,実用化の途上
にあったスチールシャッターを見ているに違いない。日本人の建築家として,専門家の眼で
シャッターに注目した辰野が,日本で最初に採用したのもうなずけるわけである。
もちろん,ヨーロッパにおいて実用化段階に入ってから,日銀に取付けられるまでには 10
数年の月日が流れており,シャッターそのものにもかなりの改良が加えられていたものと考
えられる。それにしても,世界で、最初のスチールシャッターが実用化された
か 15,6
年後に,日本人の手になる洋式建築物にシャッターを採り入れたスピードは,かなり早いと
いわなければならない。「和魂洋才」といい,「智識ヲ世界ニ求メ,大ニ皇基ヲ振起スヘシ」
といった時代だけに,先人達の「欧米に追いつき追いこせ」といった風潮は,シャッターの
世界でもはっきりと読み取ることができる。辰野金吾と,その師にあたるコンドル(英)が明
治の建築界に残した役割には瞠目すべきものがあるが,シャッターもまたその恵に浴してい
ることになる。
ところで,日銀に取付けられた日本で最初のシャッターとなったクラーク・バーネット社製の
スチールシャッターが実際どのようなものだったのか。資料としては後年発行されたカタログ
しかないが,スラットは,
「其戸板の型には,偏平なるものあり,両端が反対の方向に曲って
いる(Rectilinear)のものあり,又両端の曲りが深大なるもの(Corvilinear)」があった(注 2)といわ
れている。インターロッキング式(差込み式)のスラットは,後年,アメリカのキネヤ社(Kinnear
Company)の創製まで待たなければならないから,同社のカタログに見る3つのうちのいずれ
かであったにちがいない。また,別の表現によると,
「スラットは鎧型で,丁度鎧のように掘
られた扉である。縦シャフトを用い,ハンドルを開閉する型式のもの」(注 3)で、あったとい
う。後年,日銀へのシャッター納品は,大野シャッターの特命になるが,大野シャッターの
U字鋲綴りの自動自重降下のシャッターと共通する形態であるのは興味深い。
いずれにせよ,日本のシャッターの歴史は,明治 29 年の日銀の竣工とともに始まる(注 4)。
それまでにも日本人建築家の手になる本格的な洋式建築がなかった
わけではないが,如何せん絶対の数が少なかった。明治 36 年,国
産第一号のシャッターが製作された時でも,シャッターを必要とす
る建築物は非常に少なかったということができる。
ここで,辰野やコンドルの活躍した日本の洋式建築のあけぼの時
代について概観してみたい。シャッターにしても,スチールサッシ
にしても,いずれも「辰野金吾博士の指導よろしきを得て」国産化
が実現してゆく経緯があるからだが,シャッター界の先達と明治の
洋式建築及び建築家がどのような関わりを持っていたかの参考にも
なるはずである。
クラーク・バーネット社の
窓用シャッター
明治洋式建築の成り立ち
洋式建築の歴史は,いわゆる お雇い外国人 とともに始まる。幕末の頃にはすでに開港場
として指定された横浜,神戸,長崎などの外国人居留地にレンガ造りや石造りの洋館が並ん
でいた。本格的な洋式建築は,文久元(1861,明治維新の 7 年前)年に落成した長崎製鉄所(造
船所)がその嚆矢だといわれる(注 5)。浦賀沖の黒船に太平の眠りを覚まされて以来,外国船の
偉力に驚嘆した幕府は,まず外国製の船を買い入れ,その修理のために必要なドック(造船の
機能はもちろん果たせない)を造ったわけである。長崎製作所の設計は,すべて お雇い外国
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第一章
シャッターのパイオニアたち
人 の手になるものだが,工事にあたった日本人作業員は洋式建築の何たるかも分らないまま,
レンガや石を積み上げていた。4年後,今度は横須賀に製鉄所(造船所)が落成する。これも
また設計から建築資材まですべて外国製のものである。今でいうプラント輸入になるわけだ。
幕末から明治中頃までのお雇い外国人は,総勢 2300 名にものぼるとされるが,建築土木
関係者は,そのうちの1割にも満たない 146 名である。この 146 名のうち,大半は鉄道敷
設関係者だったから,純然たる建築家の数はそう多くはなかった。これらの数少ない お雇い
建築家 (といっても,今日われわれがイメージする建築家とはほど遠い)は,長崎や横須賀の
造船所をはじめ,工場,兵舎など,近代国家への急速な転換を図っていた当時の日本の,文
字通り富国強兵,殖産興業に相応しい建造物を,いささか荒っぽいやり方でつくり続けてい
たわけである。
外国人建築家の中では,トーマス・ウォーターズ(ウォートルス,Thomas James Waters)の令
名がつとに高いが,彼は大阪造幣寮(造幣局の前身・明治 4 年竣工),竹橋陣営(近衛兵営・4
年),銀座地区の復興(5 年),有恒社製紙工場(7 年)などに辣腕をふるい,明治政府の信任著
しかったといわれる。その業績は,建築史の上で,明治初期が ウォートルスの時代 と呼ば
れていることからもわかるように輝かしいものであったようだ。
しかし,時代は,造船所や兵営,工場といった機能最優先の建造物から,官公庁の本格的
な洋式建築,博物館,要人の大邸宅など,いわば「文化」の香り高い建築物を必要とし始め
ていた。ここに登場するのが,辰野金吾や曽
達蔵など,日本の洋式建築の泰斗の師となる
コンドルである。
コンドル(Josiah Conder)は,それまで工場や兵舎をつくっていたお雇い 建築家 たちと違い,
ロンドン大学の建築科を正式に卒業し,王立建築家協会主催の設計コンペにも優勝した英建
築界でも生えぬきのエリートといってよかった。彼がどのような理由で,当時の開発途上国
である極東の島国にやってきたのか明らかではないが,明治政府は,初めて建築家らしい建
築家を招くことに成功したことになる。
明治 10(1878)年,ウォーターズと交代するように来日したコンドルは,すぐさま工部大
学造家学科(明治 14 年に帝国大学工科大学,のち東京帝国大学建築学科)の教授に迎えられ
る。弱冠 25 歳の時である。コンドルは,その生涯に 200 件に及ぶ建築設計をしたといわ
れるが,特に知られるものに,開拓使物産売捌所(明治 13 年),帝室博物館(15 年),ニコラ
イ聖堂(24 年),のちの丸の内ビジネス街の発端となった三菱1号館(27 年),本郷・岩崎邸
(29 年),駒込・古河邸(大正 6 年)などがある。
コンドルの建築設計は,その一つひとつが,洋式建築史を画するものといっていいが,も
う一つ,先にも述べたように,のちの建築界を担う若き俊英たちを,手とり足とり育てた功
績がある。
コンドルが赴任した当時の工部大学校造家学科の学生は,わずか4名にすぎなかったが,
この4人が,20 年代以降の洋式建築界を背負って立つことになる。曽
達蔵,片山東熊,
辰野金吾,佐竹七次郎の,24 歳から 21 歳の若者たちは,わずかしか年の離れていないコ
ンドル先生の下で,初めて体系的な 建築学 を学び,12 年の 11 月に,名誉ある第1回卒業
生として巣立っていくわけである。明治 18 年の第7回の卒業生まで,約 20 名の建築専門
家がコンドルの下から輩出する。お雇い外国人ではない,自国の建築家の一群が,政府や施
主の意向を受けて,立派な洋式建築を建て始めるようになる。帝室博物館,鹿鳴館等々,明
治を代表する洋式建築の殆んどすべては,これらコンドルの弟子たちの手になるものである。
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第一章
シャッターのパイオニアたち
このような中にあって,明治 12 年,造家学科の第1回卒業生の一人である辰野金吾は4
年間のイギリス留学を終えて帰国するや,29 歳の若さで,母校の教授に迎えられる。そし
てコンドルが自分を指導したのと同じように後進を育成しながら,東京銀行集会所(17 年),
渋沢栄一邸(21 年),工科大学本館(21 年)を設計・監督し,29 年完成の日銀本店の設計に
至るのである。
2. 国 産 第 1 号 の シ ャ ッ タ ー
特許第 6183 号
すでに明治建築界の押しも押されもしない権威となっていた辰野金吾と,「建築金物商会」
の鈴木富太郎が,いつの頃から交流を始めていたかは明らかでない。のち鈴木シヤタア工業
株式会社となる建築金物商会の創立は,明治 36 年だから,おそらくその前後のことになる
ものと思われる。
前述のように,日本の洋式建築は,明治 20 年頃を境にして,徐々に日本人建築家の設計
によるものが増えつつあった。しかし 29 年の日銀本館建設に,設計者である辰野が,
「其の
前例なき許多」の新建築材料を,率先輸入 していたという辰野金吾伝の記述のすぐあとには,
「此時まで,セメントは我国建築家の深く注意せざりしものであった。建築家にして厳重に
これが品質を試験し始めたるは博士にして,其建築場所は日本銀行である。此試験は一方建
築家をして重要なる建築には必ず試験を経たる好先例となり,他方セメント製造業者を深く
戒飭した」とある。つまりは,セメントさえ当時は輸入していたわけである。他の建築材料
はおして知るべしであろう。明治の 30 年代半ばになっても,洋式建築の建築材料の殆んど
全ては輸入品に頼らざるを得なかった。
建築金物商会は,こうした建築材料の輸入販売業者のひとつだった。同商会は,主として,
アメリカの有名メーカーから様々な洋式建築の金物,たとえば,箱錠,丁番,軸釣,上落し,
上下窓車,上下窓締金物,引戸車,レール,釣戸車,ドアーチェック,塗料などを輸入し,
販売していた。需要は決して多くはなかったに違いないが,増えつつある洋式建築の先行き
を考えれば,時代を先取りする商売であったろう。こうした建築金物の輸入販売業者は,当
時でも 5,6 社はあったという。日本橋の伊藤常太郎商店,新橋の高田商会などは,建築家
の間ではかなり知られた名前だった。こうした背景もあってか,日本で最初のシャッターの
特許は,伊藤常太郎が持つことになった。特許番号 6183 号がそれである。
このシャッターの特許の出願日は,明治 36 年 2 月 6 日,その2カ月後の 4 月 20 日に
特許が下りている。特許の明細書には次のようにある。いささか読みづらいが,原文をその
まま引用してみる。
「第六一八三号明細書
込
戸
本発明ハ数多連続シテ成ル組戸ヲ 附スヘキ 軸ノ一方ニ設ケタル滑車ト枠ニ テル長孔ニ附
設セル摩擦輪ト相接触スヘクナシ歯輪連動装置ニ依リテ 込ムヘクナシタル 込戸ニ係リ其ノ
目的トスル所ハ簡易ノ構成ニ依リ戸ヲシテ一旦 キ上ケタル後ハ猥ニ下降スルコトナカラシム
ル様自動的ニ調節セシメテ随テ戸及窓等ヲ損セシメサルニアリ
別紙図面ニ於テ本発明ノ構造ヲ示ス(後略) 」
とあって,図が示されている。そして最後に,特許法に依って,特許を請求する範囲を次
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第一章
シャッターのパイオニアたち
のように記している。
「前記ノ目的ヲ達スル為メ本書ニ詳記シ別紙図面ニ示スカ如ク数多連続シタル組戸ヲ
スヘキ
軸(ニ)ト該
附
軸(ニ)ニ定着セル滑車(へ)ト滑車(へ)ノ中心点及長孔(ツ)ノ下縁ヲ連接
セル線ニ対シ鈍角ヲナサシメタル長孔(ツ)ヲ
(カ)ノ長孔(ツ)内ニ嵌合セル摩擦輪(ワ)ト
チ螺旋杆(タ)ニ依リ移動セシムヘキ枠(カ)ト枠
軸ヲ回転セシムヘキ連動装置トヨリ成ル
込戸」
一見して分かるように,これは 70 年後の今日でも立派に通用する完璧なシャッターであ
る。逆にいえば,技術の進歩した今日のシャッターといえども,原理的には,この伊藤常太
郎名による特許に書かれた機能と殆んど差がない。
そのうえ図を見てもわかるように,
スラットの嵌合は,当時の日本の技術
では不可能に近かったインターロッキ
ング方式(キネヤ式)になっている。
後にも述べるように差込部にRをつ
ける技術はもちろん,ヒビ割れしない
良質の鉄板さえ入手困難な時代である。
もしこれが伊藤常太郎独自の発明だと
したら,括目すべきものといわざるを
得ない。
当時の可能性はさておき,特許は純粋
なアイディアだから,不思議がるほどの
ことではないという見方があるにして
も,のっけからこのように完璧な形をし
たシャッターが登場するのは意外であ
る。
だが,ことの真相は簡単なようだ。
明治も 30 年代の半ばごろになると,
辰野の日本銀行のシャッターの例にな
明治 36 年 2 月,伊藤常太郎から特許出願された日本初のシャッター
らうように,有名建築物にはシャッタ
ーやサッシが好んで用いられ始め,前記輸入建築材料の専門会社も十分活動できるまで市場
は拡大していた。伊藤常太郎商店もそのひとつだが,当然外国(特にイギリスやアメリカ)か
らは,様々な建築金物が輸入されるのにともなって,その仕様書,使用説明書,カタログ,
パンフレットなども送附されてくる。これらのカタログを翻訳して特許申請したのがこの
「6183 号」にちがいない。関係者の話を総合すると,そういうことになる。
伊藤常太郎なら,そうしたカタログに接する機会も多く,特許申請が最も容易にできる立
場にいたというわけである。シャッターの輝かしき第1号の特許は,どう見ても,当時のキ
ネヤ社のカタログそのものである。ことの真偽はともかく,シャッターの第1号特許が出さ
れた明治 36 年という年は,さまざまな意味で記憶されるべき年である。少なくとも,現在
のシャッター業界を語るうえで起点となる年ということができる。
ちなみに伊藤常太郎名によるシャッターの納入工事は,大正の半ば過ぎまでなされていた。
輸入シャッター業者としての伊藤の名は,その第一号特許とともに,忘れてはならない名前
の一人であろう。
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第一章
シャッターのパイオニアたち
シャッター界の3人の先達
さてここで私たちは,シャッターを今日まで押上げるに至った優れた2人の先達について
語らなければならない。いうまでもなく鈴木富太郎(鈴木シヤタアの創設者)と大野正(大野
シャッターの創立者)の意欲的で創意に富んだ明治人の典型のような人物である。明治末期
から大正を経て昭和初期に至るシャッターの歴史は,大きく見て,この2人と,のち東京建
鉄の創立者となる田島壱号を加えた3人によって形成されるといっても言いすぎではない。
3人のそれぞれの個性が,第2次大戦前のシャッター史を動かしていくことになる。
明治 36 年 4 月 3 日,伊藤常太郎の特許が下りる2週間ほど前,鈴木
富太郎は京橋区西紺屋町 21 番地(現数寄屋橋際の銀座メソジスト教会の
ある所)に,洋式建築金物の輸入販売を行なう建築金物商会を創立した。
40 歳の時である。当時も教会はあったがいまよりもずっと小さく,教会
の敷地内に洋館の店舗があって,アメリカ人のピアソンなる人物が,屋
根材料の輸入販売をしていたが,建築金物商会は,そっくりそれを譲り
受けたわけである。
鈴木が建築金物商会を設立するにいたる詳しい経緯は省くが,その
年譜を
ると,海外雄飛を図った気骨ある明治青年の像が浮かび上が
ってくる。
鈴木富太郎氏
〈鈴木富太郎年譜〉
元治元(1864)年江戸に生まれる。
明治 7(1874)年 11 歳で正院(明治政府大政官府に設けられた庶務係)の小舎人(今の給仕か)
になる。
明治 11(1878)年正院を辞し,義兄・隈川宗悦の医師宅に寄寓。
明治 15(1882)年医学修業のため,アメリカ・サンフランシスコへ留学。5 年余を過ごす。
明治 21(1888)年医学を断念帰国,福地桜痴の紹介で北海道開拓事業へ。
明治 24(1891)年開拓の夢破れたが日本郵船社長吉川泰次郎の懇請により,その海外経験を
買われ豪州移民団の総監督となる。
明治 29(1896)年 6 年間の豪州生活を終え帰国する。33 歳の時である。
鈴木はこのあと,貿易会社を起こしたり,三井呉服店や野沢屋に入店したりするが,米国
留学中の恩師ミス・プリンスの紹介によって,先の建築金物商会を創立するに至る。鈴木に
とっては,外国との取引を業とすることについては,その永い海外生活もあって,大して苦
にならなかったにちがいない。建築金物商会の営業範囲は「欧米建築金物諸会社日本代理店,
建築金物直輸入及び製造」であった。当然,先のような様々な建築金物の外に,注文があれ
ば,アメリカのへンリー・ホープ社製のスチールサッシやクラーク・バーネット社製のシャ
ッター,そして創立の8年前、明治 28(1895)年に創製されたアメリカ・キネヤ社製のイン
ターロッキング式のシャッターなども輸入していたようだ。
国産シャッター第1号
鈴木は,輸入金物の拡販を考えるかたわら,その製造を考えた。お手本はすべて外国製の
ものばかりだから,最初はすべて 同じような製品 をつくることに全力が注がれた。シャッ
ターもまたそのうちの一つだった。技術レベルが違い,満足な材料がなかなか見つからない
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第一章
シャッターのパイオニアたち
中での製品づくりである。思うようにいかなかったとしても不思議はない。事実,最初の頃
はかなり苦心に苦心を重ねていたようだ。
鈴木の意を受けて,これらの建築材料を実際に製造していたのが,横浜の本牧にあった梅
川鉄工所(梅川紋四郎経営)である。梅川鉄工所では,建築金物商会の外にも,同じ横浜市南
太田町(現南区南太田町)の月野猪八郎の依頼を受け,英国式の(クラーク・バーネット社風の)
鎧型シャッターを造っていた。月野式シャッターと呼ばれるものがこれである。
建築金物商会がキネヤ式のシャッターの製作を依頼に行ったとき(明治 36 年)に梅川鉄工
所ではすでに,月野式シャッターをつくっていたというから,おそらく国産第1号のシャッ
ターは,この月野式ではないかと思われる。月野式がいつのころから製作されていたかは,
月野式が大正期に姿を消したこともあって,今では確認のしようがないが,月野猪八郎名に
よる特許(登録実用新案第 20948 号・月野式門扉)は,これより下ること8年,明治 43 年
に出願,明治 44 年に登録されている。
明治 36 年,伊藤常太郎のシャッター第1号の特許が下りてから,月野の特許が下りる 44
年までの8年間にシャッター関連の主な特許だけでも五指を超える。これはシャッターが当
時かなり注目され始めていた証拠と受け取ってよい。中でも特筆すべきは,明治 37 年 8 月
の大野正考案になる「防火戸」の特許(第 7935 号)であろう。この特許を機にその後の国
産シャッターは,建築金物商会のインターロッキング式,大野製作所の鎧型環綴り式の2つ
の流れを形成してゆくのである。
発明家・大野正
大野製作所の創設者・大野正は明治 5(1872)年 6 月新潟県の高田で旧高田藩士の次男と
して生まれている。牧野輝智著『現代発明家伝』(明治 44 年 10 月刊,発行所・帝国発明協
会)によると,大野が発明家になった経緯は次のようであった。
「父君の家業は機屋であった。故に君(大野正−筆者注)も長じて機屋を業とし,其の規模も
相当に大きく,22,3 歳の頃には機屋の若主人として,300∼400 人の職工を使用していた
程であった。乍併当時機業の経営なるものは甚だ困難であって該業の為,年々父祖伝来の家
産を減少するものは多々あれども,為に資産を増殖した人は殆どないと云ふ有様であった。
君は此の状勢を洞察して機業の前途に慊焉たらず,且つ自己の天才が事業の経営よりも工夫
考案に従事するにあるを悟り,断然家業を廃罷して東京に出でた,さなきだに折にふれ物に
ふれ種々の新案を出したる君である」
若くして機屋(生地メーカー)の経営者となった大野は,折からの糸へん不況に勝てず「300
∼400 人」もの会社を畳んで,自らの発明の才を試すべく東京に出てきたというわけである。
ここには,大野が何年頃に東京に出てきたか明らかになっていないが,
おそらく明治 30 年(25 歳)頃のことではないかと考えられる。
こうして,東京・本郷区弓町に住居兼事務所を構えた大野正は,最初
家業で使っていた織機の改良・研究に取り組んでいたようだ。前掲書に
よると,大野の研究の中枢は「フリクション(摩擦)である」という。特
に軸頚の摩擦は,高田時代からの研究課題であった。回転軸の動力エネ
ルギーをいかに摩擦を少なくして次に伝えるか,それが生涯を通じ大野
の熱中してやまなかった課題であった。『現代発明家伝』は,明治時代
のすぐれた発明家 27 人について書かれた本だが,この中で大野は,ベ
大野正氏
8
第一章
シャッターのパイオニアたち
アリングの発明者として最大級の讃辞をもって紹介されている。
「斯の最近に完成したるベアリングが如何に偉大なる世界的発明であるかを解する人は甚
だ稀ではないかと思ふ」「斯の如き大発見及び大発明は公共の為速に欧州の機械学会に報告
し世界の機械界に其の効果を分つべきで,(中略)実に君の発明は根本的に機械界を革新すべ
き大発明である。」
大野の発明が,同時代人にこのような高い評価を受けていたことは,記憶しておいていい。
いずれにせよ,回転軸によって,スラットを巻き取るシャッターの基本構造そのものは,大
野の研究課題のすぐ近くにあった。大野の心は,当時まだ珍しかった外国製の鋼製建具に向
いてゆく。明治 30 年代も初めの頃である。こうした意味では,伊藤常太郎や鈴木富太郎な
どより,鋼製建具や建築金物に対する取組みはかなり早いといえるかもしれない(注 6)。
明治 34 年 5 月,大野正は彼にとっては最初の,そして後の人生を決めるであろう鋼製建
具の特許出願をする。これが特許第 4808 号となる「自動防火鎖扉装置」である。続いて翌
年 5 月,「自動防火扉」(特許第 5789 号)の特許出願をし,10 月にはこの特許を獲得して
いる。前者は観音開きの普通の鉄扉の開閉装置,後者は片開きの鉄の防火扉である。いずれ
にせよ,発明家の面白躍如,矢継ぎ早の特許申請といっていいだろう。
現在では,
「発明」による特許は,よほどのものでないかぎり考えられないほど科学技術の
レベルが高度化しているが,当時はまだ「発明家」たちが活躍する舞台が数多くあったとい
えよう。紙と鉛筆と頭脳さえあれば,発明家として通った部分がなかったわけではないが,
また事実,そうした発明家が多かったこともあるが,問題はその頭脳であった。牧野輝智の
最大級の讃辞が妥当かどうかは別にしても,大野正が当時の学界にも高く評価された存在で
あったことは確かなようだ。大野は,発明を試みるにあたっての心構えとして,次のような
ことを語っている。
「どう言ふ工合にして考案を試みたならば新規有益の発明を為し遂げる事が出来ませうか,
発明家を以て自任している人の数は随分多く,従って其の考案法も十人十色と言ふ有様です
が,私は
ふ言ふ工合で考案を試みます。こんなものを一つ発明したいと思ふ題目が定まっ
たならば,先ずそれに関する書物を出来るだけ沢山集め,其の題目に関し既に知られたる事
項を充分に研究するのです。例えば私の研究しているベアリング,私はあれを考へますには
いろんな本を集め,ベアリングに関する所のみを精細に研究しました。広く深く研究すると
言ふことは並大抵の事ではないけれども,狭く深く研究するのは大した事でもありません。
(中略)
々書物の上の研究が成就したならば,今度は其の道の学者や経験者と近づきになり
疑は質し知らぬ事は習ふのです。斯して後
々独創的考案の舞台に移り自己の頭脳を本位と
して研究を逞ふするのです。私の経験では
ふ言ふ順序でやるのが一番いいと思ひます」
明治 37 年 8 月 14 日,大野はそれまでの防火扉や自動開閉装置などの研究成果をシャッ
ターとして集大成した「防火戸」(特許第 7935 号)の特許申請をする。この特許は,10 月
29 日には認可されているが,この時点で伊藤常太郎のインターロッキング式シャッター,
すでに製造販売されていた月野式シャッター,建築金物商会のシャッター,大野の防火戸の
4者が
うことになる。本格的な国産シャッターの時代が始まろうとしていたわけである。
むろん,とはいえ,伊藤,大野ともにまだ紙の上にすぎず,月野と建築金物商会の丁番綴
りの波型シャッターの製造が緒についたばかりだから,実際の要に附される殆どのシャッタ
ーは外国製の輸入品に頼らざるを得なかった。
「上等舶来」といわれたように,輸入品の時代
はまだまだ当分続きそうな気配にあった。
9
第一章
シャッターのパイオニアたち
日本のシャッターが産声をあげた明治 37 年という年は,2 月 10 日に日露戦争が勃発し,
旅順港の閉鎖作戦に国民1人1人が一喜一憂していた年である。文字通り物情騒然,戦争の
真只中で,平和産業たるシャッターが呱々の声をあげつつあったというのは,歴史の皮肉と
いってよいかもしれない。
自動自重降下の防火戸
ここで,大野正の発明になる防火戸について説明を加えなければなるまい。
それまでのシャッター(輸入品をもちろん含め)に比べ大野の防火戸の新しさはどこにあっ
たのだろうか。
当時のシャッターは,スラットの形からいえば,クラーク・バーネット社に代表される英
国型(鉄板の断面の上下にRをつけ,それを丁番で重ね合わせるもの)と,キネヤ社に代表さ
れるアメリカ型(インターロッキング式)の二つがあった。すでに製作を始めていた月野式も
建築金物商会のいずれも英国型に近かったと言っていいだろう。
また
上げ装置は,いずれも
こに鎖をかけ,手で
軸のシャフトに直結した数段の歯車から鎖車に連結し,そ
上げたり降下させたりするものであった。伊藤常太郎の特許は,いわ
ばこの完全なコピーということができ,月野式は,
け,
軸のシャフトに歯車による摩擦盤を設
戸の降下速度を調整し,床上の近い部所にワイヤーロープの
にハンドルを取付け,
取ドラムを設け,それ
上げ降下を行なっていた。月野式はワイヤーロープの元祖というこ
とができるだろう。建築金物商会の
上げ装置は
軸に縦シャフトとベベル・ギヤーを連結
して減速させ,開閉するものであった。
大野の防火戸を特許明細書(特許第 7935 号)によって見てみよう。
その目的とするところは,
「第一,建築物ニ用ユル防火戸ヲ重量ニ依リ降下閉鎖セシメントスルニ当リ随意ニ其速度ヲ
制限シテ急激ナラシメサル事
第二,前記防火戸ヲ火災ノ際ハ毫モ人手ヲ用ユル事ナクシテ自動閉鎖セシメ又
キ上ケニ
用ユル小ブタヲ上向キニスルコトニヨリ何時ニテモ随意ニ閉鎖シ得ル事
第三,前記防火戸ニ用ユル把手ヲ簡易ノ手数ヲ以テ所要ノ際ハ壁面ニ抽出シ不用ノ際ハ壁中
ニ措納シ得ル事」
であった。この目的に述べられていることを要約すると,人間の手を借りずにシャッター自
体の重さで閉鎖する,火災の場合は,人間が操作しないでもシャッターが閉まる,の二点に
なる。
前者のためには,遠心力によって拡がるガバナーを設け,摩擦盤を押して制動する方法を
考え,後者のためには「 ビスマス 合金ノ如キ低度ノ熱ニ依テ融解スル金属(今のヒューズメ
タル)ヲ支柱トスル停坐ヲ」設けた。この二つの点において,大野の発明は,当時の外国製の
ものを含めたあらゆるシャッターの中で,全く新しく合理的で秀れたものとの評価を得たの
であった。
この発明においては,この外にも丁番止めにU字鋲を使うなどの新しい工夫が見られ,第
一級のものであったことは否定できない。
その後の評価が語るように,大野の防火シャッターは,当時のシャッター界(といっても殆
んど無きに等しいが)の動きのなかで,極めてエポック・メイキングな出来事だった。もちろ
ん,この発明が製品として世に出るまでには数年を要するが,シャッター界の一方の雄が誕
生したことは確かである。
10
第一章
(注 1) 辰野金吾(1854∼1919 年)
シャッターのパイオニアたち
日本近代建築の先覚者,開拓者。長崎県出身。東京の工部大学校造家
学科(のちの建築学科)で,イギリス人建築家 J・コンダー(コンドル)の教えを受けた第一回の卒業生
(1879 年)。イギリスに留学し,主としてバージェス(バルジス−W.Burges)のもとで設計を修業し,帰
国後,東京帝国大学(現東京大学),及び工科大学教授となり,学位を得た。その門弟に伊東忠太,塚
本靖,関野貞,佐野利器,大熊喜邦らを出した。工科大学長を経てのち,東京に辰野
西建築事務所,
大阪に辰野片岡建築事務所(いずれも弟子であるパートナーの名をつけている)を開設して設計監理に
専心,主作品 228 に及んだが,代表作は,日本銀行本店,東京中央停車場(東京駅――共同設計)
などである。なおフランス文学者辰野隆は彼の子である。(平凡社,『大百科事典』より)
(注 2) 山本貞吉
『図解・建築金物材料』,成光館書店刊,昭和 12 年 5 月 23 日刊。176 ページ。
(注 3) 鈴木シヤタア工業株式会社刊。
『50 年を顧みて』,昭和 29 年 4 月刊。
(注 4) これには異説があって,シャッターは「すでに明治 22 年頃に輸入が開始され,大阪北浜附近や堂島
附近の古い建物,三菱銀行今橋支店旧館,東洋紡績旧館,アメリカ銀行,明治生命の建物などにその
面影が残っていた」という。(『トーヨーニュース』,不詳年,筆者不詳),文中明治 22 年頃とあるの
は,明治 32 年の誤りか。
(注 5) 村松貞次郎著『日本近代建築の歴史』NHKブックス,65 ページ。
(注 6) 横河工務所の中村伝治(代表取締役会長,昭和 36 年当時)は,日刊建設新聞の『大野シャッター60 年
記念』に次のような談話を寄せている。
「大野式防火シャッターの発明者である故大野正君を知ったの
は,明治 35,6 年のことで,私がまだ大学に在学のころ,東京大学の運動場で同君のシャッターの防
火試験を中村達太郎教授が行なったのを見学した時のことである。その後大野君は一連の研究を完成
して営業を始めたが,(後略・傍点筆者)」中村のこの記憶が正しいとすると,大野はすでに,特許出
願(明治 37 年 8 月)前に試作品を完成し,東大で防火試験(どの程度のものか不明だが)を行なってい
ることになり,月野式や鈴木式よりも早くなる。国産第一号は大野の製作したシャッターということ
になる。
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