第一章

第一章
混沌とした夢の中にいた。
どうやら、舞台を見ているようだ。役者は全員高校生だった。担任している二年四組の生徒た
ちであることがわかる。
た
うら
演目は、クルト・ヴァイルの『三文オペラ』らしい。バンドネオンが『モリタート』の旋律を
奏で始める。よく見ると、高校生たちには操り人形のような紐が付けられていた。ぎくしゃくと
舞台の上を動き回ってはいるが、どう見ても、自らの意志による行動ではない。
隣にはうら若い女性が座っていて、両手に花の状態だった。左側にいるのは、養護の田浦
じゅ両
んこ
みずおちさとこ
潤子教諭。右側にはスクールカウンセラーの水落聡子がいて、心配そうな顔で舞台を見守ってい
る。
高校生たちは、操られるままに整然と与えられた役割をこなしていたが、中に何人か、勝手な
動きをして芝居の流れを阻害している生徒たちがいた。
9 第一章
チョークを投げてみたが、いっこうに当たらない。それで、射的のゲームに
腹が立ったのでそ、
うてん
使うコルク弾を装填したライフルを撃ってみた。
一人、また一人と生徒に命中する。被弾した生徒は、影絵人形のように平べったくなって、舞
台から奈落へ転げ落ちていった。
客席から、どっと笑いが起きた。
射的の腕前を賞賛してくれるのではないかと期待して、二人の女性の方を見やったが、反応は
なかった。
られるので、ライフルを向ける。
さえぎ
いつのまにか、前の方の列で、ざわめきが起きていた。校長、教頭、主幹教諭などの、学校の
幹部連中だ。何が気に入らないのか、しきりに騒いでいる。
右往左往する彼らの影で、舞台が遮
数発撃ったところで、突然、視界が一変した。
大空を飛んでいる。
空を飛ぶ夢を見るのは、久しぶりだった。いつもなら、高く飛ぼうとすればするほど、強力に
大地に向かって引き戻され、せいぜい地上数センチを滑空するのが精一杯だった。だが、今は飛
んでいる。しかも、周囲の情景は、信じられないほどリアルだった。
まだ早朝のようだ。東の空には、朝焼けのなごりが見える。
数百メートルだろうか。多摩市と町田市を隔てる丘陵地帯が一望にできる。
お町の田じ市北部の上空し、
んこう
小野路城跡にある晨光学院町田高校が、ちょうど真下にあった。渡り廊下で結ばれて『コ』の字
10
ななくにやま
形に並んだ校舎と体育館、グラウンドが、後ろに飛び去っていく。
国山緑地へ向かう。さらに前方
そこでUターンして、南へと向かった。国道 号を横切り、七
には、団地群が姿を現していたが、急速に高度を落としていく。
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小さな民家が目の前に迫ってくる。かなり老朽化した平屋の日本建築で、屋根瓦の一部が脱落
しており、ブルーシートで恒久的に応急補修してあった。
これは、この家だ。半覚醒の状態で認識する。自分が寝ている家を、空から眺めている不自然
さも、たいして感じない。
視点は、ふわりと、庭の物干し台の上に降り立った。
はっと目が覚める。
カラスの鳴き声がした。
二度、三度。
の目覚まし時計を見た。まだ、五時過ぎである。
枕は元
すみ せいじ
実聖司は、大きく伸びをした。何が悲しくて、毎朝、こんな時間にたたき起こされなくては
蓮
ならないのかと思う。だが、経験上、我慢して寝ていても、カラスは鳴き止まないことがわかっ
ていた。毎朝きちんと起こしに来る律儀さは、ある意味、賞賛に値するほどだ。そして、カラス
の押し売りモーニング・コールは、こちらが起きたことを示すまでは、けっして終わらないのだ。
蓮実は、布団の上に起き上がると、両肩と首をぐるぐると回した。それから、縁側の方に行っ
11 第一章
57
いちべつ
て雨戸を開け、庭を一瞥した。
けんぞく
フギン
ムニン
いた。巨大なカラスが二羽たい、く物干し台に止まって、平然とこちらを見返している。
躯も態度も大きいが、おそらくは、その頂点に立つであろうボスガ
町田のカラスは、全体に体
ラスのペアだった。どういうわけか、蓮実が借りているこの朽ちかけた家がお気に入りらしく、
毎日やって来る。蓮実は、二羽を北欧神話の主神オーディンの眷属にちなみ、思考と記憶と名付
まばた
けていた。フギンは、ハシブトガラスとしては群を抜いて巨大であり、北海道のワタリガラスに
匹敵するサイズがある。ひと回り小さいムニンは、おそらく雌だろう。カラスは、瞬きするとき
まがまが
に瞬膜で目が真っ白になるが、ムニンの左眼は潰れているのか、ずっと白濁したままであり、外
らいの凄みがあった。
観にいっそうの禍々しさを加えていた。どちらも、一声鳴けば、野良犬などたちまち逃げ去るく
フギンとムニンは、悠然とこちらを見返している。蓮実が、こらっと叫んでも、いっこうに逃
げようとはしない。ものをつかんで投げるふりをしても、駄目である。
だが、蓮実が、鴨居の上に隠してある硬球をこっそり持ったとたん、ぱっと飛び立った。どう
聞いても阿呆と聞こえる捨て台詞を残して。毎朝のお約束とはいえ、こちらの作為を見抜く眼力
は、たいしたものだった。
歯を磨き、冷たい水で顔を洗っているうちに、徐々に頭がすっきりとしてきた。すると、かえ
って、さっきの夢が気になりだした。
前段はともかく、後半は、まるで自分の意識がカラスに同調したとしか思えないではないか。
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先月、この家に越してきて以来、何とかカラスを追い払おうと攻防戦を繰り広げるうちに、やつ
らが想像以上の智能を持っていることは痛感させられていたが、まさか、テレパシーのような能
力まで備えているとは思わなかった。鳥類は、恐竜の直系の子孫であるらしいが、ひそかに超能
力を磨いて、いつの日か、哺乳類から覇権を奪回するつもりなのかもしれない……。
もちろん、冷静に考えれば、そんなことがあるはずはない。すべては、夢に特有の時間感覚の
混乱のせいだろう。おそらく、カラスの最初の鳴き声を聞いたか、直前に何らかの気配を察知し
たとき、そこへ至るまでの物語が、頭の中に瞬時に形成されたに違いない。空から眺めた町田は、
とても自分の記憶から生まれたとは思えないくらい真に迫ったものだったが。
一人暮らしの気楽さで、家に帰ってくるとジャージーに着替え、寝るときも、そのままである。
これには、便利な点もあった。この時間に目覚めると、とりあえず、ジョギングぐらいしかやる
ことがないからだ。
蓮実は、いったん玄関に向かいかけてから思い出し、冷蔵庫からビニール袋を出すと、ウェス
トポーチに入れた。ナイキのランニングシューズを履き、玄関の引き戸を開ける。町田市は侵入
盗の件数が多いので、ちょっと一回りするだけでも施錠は欠かせない。
てきがいしん
家を出て走り始めたとたんに、激しい犬の吠え声に出迎えられた。二軒おいて隣の山崎家で飼
われている雑種犬、モモである。他の人間にはそれほど吠えないのだが、なぜか、初対面から、
モモは蓮実に対して敵愾心を燃やしているようだった。山崎家の前を通るたびに近所迷惑になる
ので気が引けるが、山崎家は大家さんなので、文句も言いにくい。
13 第一章
しかし、モモへの対策は、すでに準備してあった。
蓮実は、ウェストポーチからビニール袋を出すと、中に入っていたハンバーグをモモに投げ与
える。
モモは、吠えるのをやめてから、しばらく臭いを嗅いでいたが、やがて、夢中になってハンバ
ーグを食べ始めた。
「どうだ、モモ? うまいだろう?」
て なず
った国産牛の挽肉で作ったのだから、犬の餌にはもったいないような代物だ。とり
夕食用にわ買
いろ
あえず、賄賂は奏功したようだが、上目遣いにこちらを窺う様子からすると、完全に気を許して
はいない。あわてて手懐けようとするのは、やめた方が無難だろう。蓮実は、口笛を吹きながら
モモから離れ、再び走り始めた。
狭い坂道を軽快に走り抜け、七国山から民権の森を通り、野津田公園を一周して戻ってくる。
その間、マラソンランナー並みの速度をキープして走っていたため、ジャージーはすっかり汗び
っしょりになった。
家に戻ってくると、山崎家のご隠居が、玄関の前で自己流の変な体操をしていた。
「おや、蓮実さん。おはよう」
わざわざ、門の外に出てくる。髪も眉も真っ白だが、血色がよく、声にも張りがあった。
「おはようございます」
蓮実も、足を止めて挨拶する。
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「毎朝、よく続くと思ってねえ。感心しとるんですよ。やっぱり、あれですか。学校の先生って
いうのは、体力勝負ですか?」
「ええ。エネルギーをもてあましてる連中に、言うことを聞かせようと思うと、こっちも、負け
ないだけのパワーがないと」
山崎氏の後ろから、モモが顔を見せた。たちまち、さっきの恩も忘れて、低い声で唸る。
「こら、モモ。唸るんじゃない」
山崎氏は、モモを叱って庭の方へと追い返した。
「すみませんね。あんまり、他の人には、こういうことはないんだが……」
「まあ、人も犬も、相性がありますからね。それよりも、実は、毎朝カラスが鳴くんで、この時
間に起こされちゃうんですよ。何とかならないでしょうか?」
らち
山崎氏は、地元の自治会長も務めている。
「うーん。難しいですなあ。野鳥だから、勝手に駆除するわけにもいかんし、役所に言っても、
いっこうに埒があかんのですよ。せいぜい、ゴミ袋の色を、黄色から黄土色にしたぐらいですか
な。前から思っとるんですが、役人というのは、具体的な被害が出るまでは、何もせん習性があ
が冷えてきたので、蓮実は、山崎氏に会釈して家に戻る。ジャージーと下着を古
からだ
そんな子供だましで、あの狡賢いフギンとムニンを追い払えるわけがない。
ずるがしこ
る よ う で す な。 お 困 り で し た ら、 畑 で 使 っ て る カ ラ ス 除 け の 風 船 か 何 か、 借 り て き ま し ょ う
か?」
汗がひいて躯
15 第一章
ほとばし
い二槽式の洗濯機に放り込んで回すと、シャワーを浴びた。プロパンガスを使っているせいか、
最初の一分は水しか出なかったが、やがて熱い湯が迸り始めた。
まあ、カラスのことは、目覚まし代わりだと思えば、しばらくは我慢できる。
それより、すぐにでも解決しなければならない問題が、山積みになっている。蓮実は、目を閉
じて湯に打たれながら、自らの職場であり小さな王国でもある、学校のことを考え始めた。
朽ちかけた借家にも、三つのメリットがあった。家賃が安い。学校まで近い。そして、庭が広
くて車を置くスペースに困らないという三点である。
蓮実は、愛車であるダイハツ・ハイゼットに乗って、細い坂道を下っていった。町田の高校に
職を得たのは昨年のことだったが、その際、廃車寸前の軽トラックをタダ同然で買ったのだった。
当初は、引っ越しと当座の足に使えればいいくらいに思ったが、すぐに手放せなくなってしまっ
た。町田市は道路事情が悪く、頻繁に渋滞する上、学校は丘陵地帯を切り開いて造られているの
で、狭い農道にも平気で入っていける軽トラックが重宝するのだ。
先月までは、JRの町田駅に近い狭いアパートを借りていたが、駐車場代がかかるのが馬鹿ら
しいと思っていたので、現在の家が見つかったのは渡りに船だった。軽トラックは、意外に燃費
が悪いというネックもあったが、この冬からは、ガソリン代を節約する方法を試し始めている。
国道156号から、晨光学院町田高校、通称晨光町田のために造成された道を上がる。ついこ
の間までは、道に沿って植えてある桜が満開だったが、さすがに、もう全部散って葉桜になって
16
し な い
いた。大部分の生徒は、町田駅からバスに乗りついで通学してくるのだが、まだ七時前とあって、
生徒の姿はほとんどない。
刀袋をかついだ二人の女生徒に出くわ
と思ったら、校門まで三百メートルほどのところで、竹
した。二人は、エンジン音に気づいて振り返り、蓮実のハイゼットを見つけたようだった。
く
ぼ た
な
な
しらい
「ハスミーン!」
保田菜々と白井さとみが、笑顔で手を振っていた。二人とも、蓮実が担任の二年四組の生徒
久
だった。
「どうした? 早いじゃん」
蓮実は、ハイゼットを止めて訊ねた。 うしじま
「剣道部の朝練。夏の都大会に向けて、牛島が、馬鹿みたいに張り切っちゃってて」
菜々が言うと、さとみも、「ほんと、一人で盛り上がってて、馬っ鹿みたいだから」と口を揃
える。やる気のないような口ぶりながら、二人とも剣道は二段であり、都の個人戦では優勝候補
と目されていた。
「おいおい。顧問の先生を、馬鹿はないだろう?」
たしなめる蓮実の言葉は、ほとんど耳に入っていないらしく、さとみは、しげしげと、傷だら
けの軽トラックを眺める。
「やっぱり、ハスミン、これはないわー。こんなのに乗ってるから、三十二にもなって、恋人も
できないのよ」
17 第一章
「先生の恋人は、おまえたち、全員だ」
「げっ。何、それ? ひくー!」
「ねえ、ハスミン。学校まで乗せてってよ」
菜々が、荷台に手をかけてせがむ。
「だめだ。教頭に怒られるからな」
「いいじゃん。ケチ」
「君たち。朝練なんだから、しっかり足腰を鍛えなきゃな。むしろ、ここからは、ウサギ跳びで
行ってみたらどうだろう?」
さかい
ひろき
蓮実は、二人のブーイングを聞き流しながら、ハイゼットを発進させた。すでに開いている校
門をくぐり、教職員用の駐車スペースにハイゼットを止める。どんなに早く来ても、一番乗りの
栄誉が得られたことはなかった。酒井宏樹教頭の銀色のレクサスISが、必ず先に、定位置に納
まっているからだ。
「蓮実先生」
ハイゼットを降りると、後ろから、鼻にかかった声が聞こえた。
「教頭先生。おはようございます」
蓮実は、内心とは裏腹に、笑顔で挨拶する。
「この汚い軽トラは……いいかげん、何とかならないの?」
「いや、これはこれで、けっこう重宝するんですよ。文化祭の準備の時なんか、いろいろ荷物も
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積めましたし」
さなだしゅんぺい
−
「まあ、ちゃらちゃらしたスポーツカーで学校に来られるよりは、まだしもだが」
「 で き る だ け、 私 の 車 か ら は 離 し て 止 め て ほ し い で す ね。 間 違 っ て も、擦ったりしないように
こす
田俊平教諭が乗っている黄色いマ
酒井教頭は、ゴルフ焼けした鼻の付け根にしわを寄せた。真
ツダRX 8を指していることは、言うまでもない。
ね」
冗談めかして明らかな本音を漏らしてから、酒井教頭は、真顔になった。
「それより、新年度早々から、二年四組ではいろいろ問題が起きてるみたいだけど、どうなんで
すか?」
タッチー
朝一番から、最も聞きたくない質問だった。新学期が始まり、わずか二週間ちょっとで、どう
してこうも問題ばかり持ち上がるのかと思う。
「どれも、ちょっと微妙な問題ですから、生徒から慎重に事情を聴取している段階です」
「しかし、早く手を打たないと、余計にこじれるんじゃないですか? 特に、いじめ関係なんか
は」
きよた
り
な
酒井教頭は、鼻が詰まっているような声で言う。
「そうですが、まあ、金銭が絡む話なんで、とりあえず証拠を押さえておきませんと」
「えっ金? 清田梨奈の父親は、金を取られたって言ってたの?」
酒井教頭は、色めき立つ。
19 第一章
「いや。それとは別口の、いじめの話です。清田梨奈が金を取られたという事実はないと思いま
す。そもそも、いじめ自体、ほとんど実態がないようですから」
しまったと思う。言わなくてもいいことを言ってしまった。
「別口? 二年四組は、他にもいじめ問題があるんですか? しかも、金が絡むとなると、これ
は厄介ですよ? 被害者は、誰なんですか?」
まえじままさひこ
「……前島雅彦です。ただ、これもまだ、真偽のほどを確認している段階です。本人は、金を脅
し取られたという事実を否認してますので」
「まったく、しっかりしてくださいよ」
酒井教頭は、鼻を鳴らした。
「蓮実先生の生徒の掌握力に全幅の信頼を置いて、担任を任せたんですから。そもそも、クラス
分けの時も、あれだけ問題児をたくさん抱え込んで、だいじょうぶなのかっていう声は、かなり
ありましたしね」
「ご心配には及びません。事実関係が確認できたら、自ずから解決への道筋も見えてくるはずで
す」
蓮実は、あくまでも低姿勢に徹する。
「……そうですか。まあ、その件に関してはお任せしますよ。蓮実先生は、生徒の人気は抜群な
ようですからね」
酒井教頭は、急に猫撫で声を出し始める。何となく、嫌な予感がした。
20
しゅったい
「……実は、もう一つ、二年四組絡みで、大きな問題が出来しましてね。昨日の晩ですが、私の
ところに電話があったんですよ」
「電話? 誰からですか?」
なるせしゅうへい
「鳴瀬修平の父親からです。ご存じだろうとは思いますが、日本でも五指に入る大手の、ダウン
そのだ
タウン法律事務所に勤める弁護士です。専門は、企業法務らしいんだが」
「鳴瀬修平……というと、この間の体育の授業中、園田先生に殴られて流血したっていう一件で
すか?」
癖がある。うまくいなして頭を冷やさせれば、
鳴瀬には、しばしば教師に対して反抗的にないる
さお
それほど手こずる生徒ではないのだが、園田勲のような昔気質の体育会系教師には、歯向かわれ
たこと自体、我慢ならなかったらしい。
「そうです。教師が、感情にまかせて生徒に体罰を加えることが、許されているのかと。こちら
の対応次第では、新たな手段を取らざるを得ないとおっしゃってました」
「……それは、教育委員会に訴えるということですか?」
「いや、どうも、いきなり、刑事および民事で告訴するということのようなんですよ」
酒井教頭は、苦慮の表情を見せた。
「園田先生は、訴訟保険には加入されてないんですか?」
正式名称は、教職員賠償責任保険。二〇〇〇年頃から損害保険会社各社が売り出した、教師が
保護者らから訴えられた際に、訴訟費用や賠償金をまかなう保険だった。
21 第一章
「そういう問題じゃない。訴えを起こされること自体が、学校にとっては、たいへんなイメージ
ダウンなんです」
酒井教頭は、もはや苛立ちを隠せなくなっていた。
「わかりました。しかし、この問題を収めるためには、まず園田先生から、きちんとした謝罪を
することが前提だと思います」
蓮実は、正論を吐く。
「とりあえず、教頭から園田先生に、謝るようおっしゃっていただかないと。その上で、まだ先
方が納得がいかないということであれば、説得のしようもあります」
「うん……。それはそうなんだが、物事は、そう単純に行かないんですよ」
「どういうことですか?」
むち
「園田先生にも、教育者としての信念といいますか、プライドがあるということなんでね。生徒
には時には愛の鞭も必要だ。自らそれを否定することはできない。どうしても謝れと言うのなら
職を辞すと、こうおっしゃってるんですよ」
「だとしたら、辞職していただくよりないんじゃないですか? それで、問題は一件落着します
よ」
「そんなわけにいかんでしょう? 蓮実先生はご存じないでしょうが、うちの学校にも、公立校
並みに荒れかけてた時期があるんです。そのとき、校内の秩序を回復するのに最も力を発揮して
くれたのが、園田先生なんですよ」
22
「しかし、以前にどんな功績があったとしても……」
「問題は、過去じゃない。未来です」
酒井教頭は、眉間に深いしわを刻んで言う。
こわもて
「いいですか? うちクラスの私学では、生徒の質は、どうしても玉石混淆になります。中には、
すき
授業について行けなくなって、隙あらば暴れようという生徒が、必ず出てくる。そういうとき、
校内の秩序を維持するためには、どうしたって、強面の体育教師が必要になるんですよ」
「まあ、かりにそうだとしても、何も、余人をもって代え難いということは、ないんじゃないで
すか?」
「園田先生は、余人をもって代え難い人材なんです。他にも怖い先生はいますが、武道の達人と
いうことで、生徒から畏怖と尊敬を勝ち得ているのは、園田先生だけでしょう? いくら怖い先
しばはら
生が必要だと言ったって、柴原先生のような方にばかり頼るわけにはいかないんですよ」
それはそうだろうてつなろうと、蓮実も思った。同じ体育教師でも、ちんぴらやくざが間違って教職に
就いたような柴原徹朗教諭と、生徒にも厳しいが自分はさらに厳しく律している、園田勲教諭の
ような武道家とでは、自ずから生徒の見る目も違うはずだ。
「おっしゃることはわかりましたが、私にどうしろと?」
ささや
「鳴瀬修平を、説得してください」
酒井教頭は、囁くように言う。
「本人から父親に言って、訴えるのをやめるように」
23 第一章
「それは無理ですよ。いくら、本人を説得しても……」
「おはようございまーす」
久保田菜々と白井さとみが、ようやく追いついて、校門に現れた。
「ああ。おはようございます!……じゃあ、蓮実先生。今の件、くれぐれも、お願いしますよ」
酒井教頭は、そう言うと、ふんと鼻を鳴らして、きびすを返した。
蓮実は、朝の校門指導を終えると、職員室に戻ってきた。教師には、担任するクラスと担当教
科以外に、校務分掌という役割分担があり、蓮実の場合、それは、生徒指導および生活指導だっ
た。ときには生徒たちを締め付けなければならない損な役回りだが、蓮実は、あえて、嫌われ役
を買って出ていた。
それによって、校長や教頭の信頼を勝ち得ることができるし、生徒たちの情報が自然に集まっ
てくるというメリットもある。
蓮実には、少々厳しい指導をしたくらいでほこはさき、生徒間に築いてきた絶大な人気が揺らぐことは
ないという自信があったし、生徒の不満の矛先は、粗暴な柴原教諭や厳格な園田教諭に集まるは
ずだから、比較の上では、善玉に見られるだろうという計算もあった。
そうか、と思う。やはり、園田教諭というのは必要な存在かもしれない。だとすれば、ここは、
辞職を思いとどまらせた方が得策だろう。
「蓮実先生。どうしたんですか? 朝から難しい顔して」
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たかつかようじ
声をかけてきたのは、同じ英語科の高塚陽二教諭だった。かなり肥満しているために、酒井教
頭からはダイエットするよう厳命を受けているが、いっこうに痩せる兆しはない。ちなみに、生
徒が付けた渾名はヘビメタで、本人は、昔ロックをやっていたと話したのを生徒たちが覚えてい
てくれたと喜んでいるが、本当は、ヘビー・メタボリックの略である。
「いや。うちのクラスは、問題続出なんですよ」
蓮実は、こぼした。
「生徒同士の問題だけだって手に余るのに、あそこまで正々堂々と体罰を加えてくれるとねえ
……」
後半は、園田教諭に聞こえないよう、小声になる。
「まあ、しかたがないですよ。園田先生は、武闘派だから。それに、ああいう怖い先生がいてく
れるから、僕らは助かってる面もあるし」
高塚教諭も、大きな身をかがめて、ひそひそ話に付き合う。
「だいたい、蓮実先生のクラスに、問題のある子が集中しすぎなんですよ。うちの学校の生徒は、
公立なんかに比べると大人しい子が多いけど、一年の時に事件を起こした子を、ほとんど一手に
引き受けてるじゃないですか?」
そこには、ある種の取引というか、大人の事情があるのだが。
「たしかにそうですが、うちレベルだと、どの生徒も可愛いものですよ。まあ、若干名は、取扱
注意の札を貼っとかなきゃなりませんが」
25 第一章
「いや……でも、しゃれにならないのが、一人いますよね?」
まさひろ
高たで塚ぬま教諭は、ますます声を潜めて言う。
「蓼沼のことですか?」
大は、現在の二学年を仕切るボスだった。体格がさほど大きいわけではないが、ボクシ
蓼沼将
ングの経験があり、不敵な面構えをしている。一年生のとき、壮絶な殴り合いの末、手の付けら
れない乱暴者だった二年生を叩きのめして一躍勇名を馳せたほか、他校の生徒との小競り合いな
どは数知れず、すでに数回の停学処分を受けている。にもかかわらず、退学にならなかったのは、
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当時、町田駅周辺で、晨光学院町田高校の生徒が他校の不良に恐喝を受けるという事件が続発し
このところ、大人しくしてたんですがね」
ていたのが、蓼沼の入学によって影を潜めたという事情によるところが大きい。いわば、高度な
政治的判断である。
「あいつが、また、何かやったんですか?
か
とうたくと
さ
さ
き
「表だって、事件を起こしたということじゃないんですがね。教師によって、授業態度が極端に
変わるみたいなんですよ。蓮実先生の授業では、静かにしてるんでしょう?」
つりい
蓮実は、授業中の蓼沼の態度を思い出そうとした。ほとんど記憶に残っていない。
「そうですね。英語は不得意科目の最たるものだし、借りてきた猫みたいな感じですね」
りょうた
「それが、数学の釣井先生の授業では、態度が一変するんだそうです。子分の加藤拓人や佐々木
涼太も尻馬に乗るらしくて、私語やヤジが飛び交って、かなりひどい状態らしいですよ」
「……本当ですか?」
26
蓮実は、眉をひそめた。問題児ではあっても、そんなに裏表のある生徒という認識はなかった
のだが。
「釣井先生は、一年生の時は、蓼沼の担任だったじゃないですか? 何があったのかは知りませ
んが、蓼沼は、そのときのことを相当根に持っているみたいで、ねちねちと嫌がらせをしてるん
だそうです」
だった。二年四組のことは、すでに把握しつつあると思っていたのに、この
高塚の話は、衝か撃
や
件に関しては、蚊帳の外に置かれていたのだから。
「高塚先生は、なぜ、ご存じなんですか?」
「釣井先生から聞いたんです」
「何だろうなー。直接、担任の私に言ってくれればいいのに」
「釣井先生は、どうも、蓮実先生に対して妙な対抗意識があるみたいですね。この話も、僕から
まさのぶ
蓮実先生に伝えておいてくれってことだと受け取りましたけど」
信教諭は、五十代半ばのベテラン教諭だが、昨年、一年生を担任しているときに体調を
釣井正
崩したということで、しばらく休職していたという経緯があった。
「これは余計なことかもしれませんけど、あの先生、いろいろと裏工作が得意みたいじゃないで
すか? 蓮実先生も、気をつけた方がいいですよ。下手に恨みを買ったりすると、しっぺ返しが
来るって噂だから」
その点は、言われるまでもなかった。釣井教諭は、教師としては無能でも、危険な存在である
27 第一章
ショート・ホーム・ルーム
可能性がある。くれぐれも対応を誤ってはならない。
ばんそうこう
H R の時間に、今まで以上に注意してクラスを観察してみたが、特に変わ
蓮実は、朝の S
った点は見られなかった。蓼沼将大は、退屈そうな表情で腕を組んで座っているだけだし、鳴瀬
修平は、まだ目尻に絆創膏を貼っていたが、隣の生徒と私語を交わす際は笑顔を見せている。清
田梨奈は、まじめに伝達事項をノートに取っており、前島雅彦も、うつむき加減ではあるが、た
ぶん寝不足なだけだろう。
SHRを終えて、一限目の授業に向かおうとしたとき、蓮実を呼び止めたのは、意外な生徒だ
った。
かたぎりれいか
「先生。ちょっと、相談したいことがあるんですけど」
桐怜花だった。大きな目が、まっすぐにこちらを見つめてくる。額が広く、顎は細い。全体
片
に小作りで可愛らしい顔立ちだが、なぜか、自分に接するときは、いつも緊張しているような気
がする。
「いいよ。何?」
蓮実は、笑顔で応じた。クラスには、何を考えているのかよく読めない子が数人はいて、この
子はその一人だった。
「ちょっと複雑な話なんですけど、時間を取ってもらえませんか?」
「そうか。じゃあ、昼休みに生徒相談室に来てくれる?」
「わかりました」
28
み
さき
さ
とうま
ゆ
み
部美咲、佐藤真優、三
あ べ
怜花は、一礼して去っていった。今までは距離を置いていた生徒が、急に相談を持ちかけてき
たのだから、どんな内容か興味は引かれるが、これだけ難題が山積している中では、新たな厄介
ごとを持ち込まれるのは勘弁してもらいたいという気もする。
「ハスミーン!」
がいなくなるまで待っていたらしく、三人の女子がやってきた。阿
た怜あ花
やね
S
S
田彩音である。クラスの中で最も蓮実に忠実な、いわば親衛隊だった。
「何なの、あの子? 何の用?」
「別に、何でもないよ」
蓮実は、親衛隊を手招きして、廊下に出た。
「それより、教えてくれよ。うちのクラスって、釣井先生の授業の時は荒れてるの?」
三人は、困ったように顔を見合わせた。
「まあ、荒れてるっていうか……特定の人たちが、授業を妨害してるっていうか」
代表して、阿部美咲が答える。
「蓼沼たちか?」
「まあね」
「そういうこと、何で、俺に教えてくれないんだよ?」
三人は、しゅんとした。
「だって……ハスミンに迷惑がかかると思ったし、みんな、釣井のことなんか、どうでもいいっ
29 第一章
て思ってるし」
「そうか。わかったわかった。俺のことを、心配してくれたんだよな?」
蓮実は、三人の頭を軽く叩いた。今の子供たちは異常に傷つきやすいので、ほんの少しでも叱
った後は、必ずフォローを入れてやらなければならない。
「でもさあ、授業がちゃんと聞けないんじゃ、みんな、困るだろう?」
「別に」
佐藤真優が、吐き捨てた。
「どうせ、釣井の授業なんて、誰も聞いてないもん」
「そうなのか?」
「だって、何言ってるか全然わかんないし」
「こっちが理解してるかなんて、釣井は、全然無視だし」
「みんな、最初っから、自習してるから」
三人は、異口同音に、釣井教諭の授業に対する不満をぶちまけだした。
聞きながら、蓮実は、ただ唖然とするしかなかった。釣井教諭は、教員の大量採用が行われた
年代の末に教師になっている。この年代には、でもしか教師という言葉が示すように、教育に
それにしても、釣井教諭の授業は、あまりにもひどいようだ。職員室でも、裏に何かあるとい
う噂が多い教師ではあるが、私立校で、なぜ、こんな教師がクビにもならず通用しているのか、
対して情熱も責任感も皆無の教師が相当数含まれているのは周知の事実だった。
70
30
確認する必要があると思った。
Mr. Aoyagi訳
! してみよう」
「わかった! 教えてくれて、ありがとうな。やっぱり、おまえたちが頼りだよ」
S
S
衛隊の髪をくしゃくしゃにしてやると、一限目の授業に向かった。
OK. Great
! じゃあ、次の文は、
蓮実は、両手で親
「
蓮実は、たたみかけるようなリズムで、授業を進めていった。近頃の生徒は根気がない、集中
力に欠けると非難する教師は多いが、聞き取れないようなぼそぼそとした声や、お経のように単
調なリズムで授業をやられたら、誰でも眠気を催すことだろう。要は、生徒に退屈する暇を与え
ないことである。
蓮実は、五十分の授業中は、必ず高いテンションをキープし続けた。そのための最大の武器は、
歌手や俳優の卵を対象にしたボイス・トレーニングのスタジオに通って鍛えた声である。緩急を
付けつつ、生徒に受けのいいネイティブのような発音で英文を読み聞かせ、退屈な文法の解説に
も、適度にジョークを交えて興味をつなぎ、正しい解答には賞賛を惜しまない。
「国境なき医師団がフランスで設立されたのは、1971年で、それ以降、人種、宗教、……え
えと、政治的な意見にかかわらず、医学的な助力を与えてきました」
」!
「 Good ! Good
二年一組の授業は、さくさくと進んだ。担任する四組と比べると、平均点はさほど変わらない
が、問題のある生徒が少なく、教師としては比較的楽なクラスだった。
31 第一章
「ここまでで、何か質問はありますか?」
「はい」
手が挙がった。ここで質問が出るのも、四組では、あまりないことだった。
「テキストとは関係ないんですけど、評価の規準を教えてください」
川伸行だった。成績は中位だが、授業態度は最も熱心な生徒の一人である。
まるかわのぶゆき
質問したのは、丸
が知りたいのは、具体的にはどういうことです
「 All right.
評価の規準とは? Mr. Marukawa
か?」
」!
Good question
Great秀
! 逸 な 答 え な ら、
「先生は、 Goodと
! か Greatと
! か Excellentと
! か言いますけど、その違いっていうか……どれ
がいいのか、よくわからないんですが」
「
笑い声が上がった。
「 ま ず、 順 番 を 説 明 し ま し ょ う。 正 解 な ら、 Goodさ
! らに良ければ
Excellentそ
! れよりまだ上があります。これはめったに言わないけど、心底感動するくらい素晴
」!
らしい場合には、 Magnificent
蓮実は、勢いよく、スペルを板書した。
「この言葉の意味は、わかりますか? Mr. Hayami」?
はやみ けいすけ
水圭介を指名した。成績は上位グループだが、どこか斜に構
蓮実は、一番後ろの席にいる、早
えている印象がある。担任の生徒ではないので詳しくは知らないが、一年生の時は、しばしば家
32
う さん
出を繰り返し、最近では、渋谷のクラブにも出入りしているという話を聞いたことがあった。
散臭そうな目をホワイトボードに向ける。
早水圭介は、大儀そうに長身を起こすと、胡
「壮大な……とか、荘厳な? そこから、素晴らしいという意味に変わったんだと思いますけ
ど」
ご
い
は、拡大する。もともとは、その形容
「 Excellentそ
! の通りです。覚えていますか? Magnify
詞形ですが、大学入試では、素晴らしい、美しい、印象的という意味を覚えておけばいいでしょ
う」
彙を増やすために、蓮実は、事あるごとに、派生語を耳から覚えさせるよう
少しでも生徒の語
にしていた。CMのように何度も聞かされていれば、何パーセントかは記憶に残るものである。
「さっきの話ですが、たとえば、点数評価にすれば、もっとわかりやすいかもしれない。しかし、
トリプルA
ダブルB
毎回、百点満点で点数を付けるのは無理です。だったら、五段階評価か、企業の格付けのように、
AAAとか、BBなんかの方がいいですか?」
はるみ
今の子供たちは、洪水のような情報にさらされているため、速射砲のような早口でも、充分、
ついてこられる。だめなのはむしろ、スローすぎる話し方や、熱意やエネルギーの感じられない
態度だった。
みつだ
「なんか、そんなの嫌かも」
田晴美という女生徒が、ぽつりと言う。
最前列に座っている、光
「そう。 Miss Mitsuda.その嫌という感覚を、大事にしてください。人間は機械じゃない。数字
33 第一章
言葉は、長い歴史の中で育まれた文化遺産、
な評価規準は、客観的です。でも、それでは、あまりにも無味乾燥
Linear
でしょう。英語にしても日本語にしても、コンピューター言語じゃありません。無駄や余剰があ
やABCの直線的、
ってこそ、人間の言葉だという気がしませんか?
0
0
を一律に残そうとするより、取捨選別が必要なこともあると思うんですが」
0
です。私たちは、それを承継し、守っていく義務があるんです」
Heritage
「……でも、言葉によっては、ふるいにかけられていくものもあるんじゃないですか? すべて
早水圭介が、反論した。口が達者で、難しい質問で教師を立ち往生させるのを趣味にしている
ようだが、アメリカの大学でディベートの能力を磨いた蓮実からすれば、黙っていられるより、
すた
コミュニケーションがとれるだけ歓迎である。
「たしかに、言葉は、時代によって廃れ、新しい言葉に移り変わっていきます。しかし、それは、
あくまでも自然な流れに任せるべきで、特定の意図の元に行うのは、問題があると思います」
「それ、もしかしたら、言葉狩りのことですか?」
早水圭介が、唇に妙な薄笑いを浮かべて、訊ねる。
ということが言われるようになって、たとえば、消防
「そう。英語でも、
Political
Correctness
と い う 言 葉 が Firefighter
に、 Businessman
が Businessperson
に言い換えられる
Fireman
士、
というのも、 Vertically challenged
、垂直に挑戦さ
ようになりました。また、背が低い、 Short
れたなんていう、わけのわからない表現に変えられたりしています。しかし、言葉狩りとは、文
化に対する最悪の蛮行です。たとえば、ある言葉が差別語かどうかは、そこに込められた人間の
34
な話です。
Outrageous
テキストに戻って……」
OK.
思いによって決まるはずですよね。大切な文化遺産である言葉を、一部の人間の勝手な思い込み
で抹殺するというのは、とんでもない、
つい勢いで脱線したのだが、これが新たなトラブルの火種になることまでは、蓮実も、予想で
きなかった。
午前中に三コマの授業をこなし、蓮実は、北校舎のカフェテリアで昼食を済ました。四時限目
が空きの場合は、時間差で来られるのだが、そうでない場合は、否応なしに大混雑に巻き込まれ
る。蓮実の周りには、自然に生徒で人だかりができるので、適当に相手をしながら、さっさと抜
け出すことにしていた。
昼休みが始まってから、まだ十二、三分しかたっていないので、片桐怜花は、まだ来ていない
だろう。
蓮実は、短い時間も無駄にすることなく、校内の死角になっている場所を見て回った。生徒指
導の観点からは、問題の芽は、少しでも早く見つけて摘んでおいた方がいい。
校舎や体育館の裏を見たが、どこにも生徒の姿はなく、吸い殻なども落ちていなかった。そろ
そろ生徒相談室へ行こうかと思ったが、最後に本館の屋上を確認しておくことにした。晨光町田
では一番古い校舎である本館は、屋上に何の施設もないために、広い空間をただ遊ばせてある。
それだけならまだいいが、問題は、施錠ができなくなっていることだった。二、三ヶ月前に誰か
が鍵穴にガムを詰め込んだために、鍵を差し込むことができないのだ。ただし、ガムはシリンダ
35 第一章
ーまで固定してはいないので、屋上側からは、サムターンを回せば鍵がかけられるという、管理
上、非常にまずい状態が続いていた。
生徒指導部としては、すぐに施錠ができる状態に復旧するよう学校に要望し、さっそく新しい
いたち
鍵が取り付けられたが、今度もまた、すぐにガムを詰め込まれてしまう有様だった。これでは鼬
ごっこであり、いくら鍵に予算を割いても足りないだろう。
再度鍵を取り替えて、すぐに施錠するという案も出たが、そのまま固められてしまうと、それ
もまた不便なことになる。さいわいというべきか、屋上から飛び降りるような生徒はおらず、そ
の他の非行の事実も発見できなかったため、職員会議では、当分の間は様子を見るという生ぬる
い結論しか出せなかった。
蓮実は、東階段を上って屋上へと通じるドアを開けようとしたが、ドアは動かない。
蓮実は、苦笑した。おそらく、生徒のカップルが、自分たちだけの時間を満喫しているのだろ
う。ガムで鍵穴を固めたのも、それが目的に違いない。教師に発見された場合は、一時的にせよ
籠城できれば、身繕いなどの時間が稼げるし、隙を見て逃げられるかもしれないからだ。
だが、こうして発見した以上、見過ごすわけにはいかない。
「おい、開けろ!」
蓮実は、鉄製のドアを叩いた。
「鍵をかけてるのは、誰だ? 今すぐに開けなさい」
しばらく、間があった。やがて、サムターンを回す音がする。
36
そこに立っていたのは、四組の佐々木涼太だった。
「おいおい。いったい、何をやってたんだ?」
「別に……」
蓮実は、そっぽを向いたまま立ちはだかろうとする佐々木を押しのけて、屋上に出た。女の子
がいるのではないかという予想は、裏切られた。
佐々木の他に屋上にいたのは、二人の男子生徒だった。蓼沼将大は、一瞬だけ、蓮実に鋭い目
を向けたが、後は無視の構えだった。前島雅彦は、ずっと、うつむいたままである。
蓮実は、顔をしかめた。これは、いじめの現場なのだろうか。
蓼沼は、佐々木に向かって顎をしゃくると、早々に屋上から退場しようとした。
「なあ。鍵をかけて、ここで何をやってた?」
蓮実が問いかけると、立ち止まりはしたものの、無言のままである。
「先生。それ、自然にかかっちゃったんじゃないかなあ」
佐々木が、おちゃらけるように言う。
つま
「いいかげんなことを言うな。鍵は、その摘みを回さなければ、かからないだろう!」
蓮実が、厳しい声を出すと、鼻白む。
「それ……僕がかけたんです」
前島が、か細い声で言った。
「本当か? いったい何のために、かけたんだ?」
37 第一章
「何となく……家での習慣で、ついかけちゃったんです。意味はありません」
蓮実の注意が前島に向いている間に、蓼沼は姿を消す。佐々木も、すぐに後を追った。
「前島。ちょっといいかな?」
「まだ、昼飯を食べてないんで……行ってもいいですか?」
蓮実は、前島の様子を観察した。身体が小さくて線が細く、女の子のような優しい顔をしてい
る。いかにもいじめられそうなキャラクターではあるが、特に暴力を受けたような形跡はない。
「わかった。いいよ」
前島の後ろ姿に向かって、呼びかける。
「なあ、もし相談したくなったら、いつでも来てくれ。何でも、自分一人で抱え込むことはない
んだぞ」
返事はなかった。
蓮実が、東側の階段を一気に駆け下り、一階を急ぎ足に行くと、ちょうど保健室から養護の田
浦潤子教諭が出てきたところだった。
「あら。さっきから、片桐さんが、相談室でお待ちかねよ」
蓮実とは同い年なので、最初からタメ口で話せる気安さがあった。大きな目は、いつも少し潤
んでいて、目元には泣きぼくろがある。ウェーブのかかった豊かなロングヘアは、仕事中はアッ
プにしているが、ナチュラルメイクで白衣を着ていても、匂うような色香を発散していた。にも
38
かかわらず、生徒たちからは母性的なイメージで見られているのが不思議だった。
「うん。ちょっと、生徒の指導で遅くなった」
つぼうち
それから、思いついて訊ねる。
「二年四組の前島雅彦だけど、最近、保健室に来たことはあるかな?」
たくみ
「ないわね。四組だと、坪内君は常連だけど」
は、一年生の時、半分不登校になりかけていた生徒だった。二年生になってから、登校
坪内匠
し始めてはいるが、何かがあると身体の不調を訴えて、保健室に逃げ込むのが常だった。
「そういえば、坪内も、きっかけは、いじめだったよな?」
「ええ。全部、蓮実先生のせいよ」
上目遣いに睨むまねをする。
「え? どうして?」
「クラス分けの時に、いじめっ子といじめられっ子を、両方抱え込むんですもの。やっと、蓼沼
君たちと違うクラスになれると思ったのに、また同じじゃ、坪内君だって、がっくりくるでしょ
う。しかも、今度は、卒業まで一緒なんだから」
「そうか……悪いことをしたかな」
「嘘。全然、そんなこと思ってないくせに。あの不自然なクラス分けは、どう見たって、確信犯
だわ」
「誤解だよ。あれは、様々な政治的駆け引きと妥協の産物なんだ」
39 第一章
「それにしても、片桐さんが相談に来るなんて、珍しいわね」
田浦教諭は、意味ありげな笑みそとをづら浮かべる。
「あの子は、蓮実先生の優しい外面に騙されていない、数少ない生徒の一人だと思ってたのに」
「何を、人聞きが悪い……」
蓮実は、苦笑しながら、保健室の隣にある生徒相談室のドアを開けた。
「ごめんな。ちょっと遅くなった」
背筋をぴんと伸ばし、ソファにき浅く腰掛けて待っていた片桐怜花は、「いいえ」とだけ答えた。
「時間がないから、単刀直入に訊くよ? 相談したいことっていうのは、何?」
彼女の正面に腰を下ろして、力づけるような笑顔で言う。
怜花は、ちらりと蓮実を見て、すぐに視線を外した。
「このことは、わたしから聞いたっていうのは、絶対、秘密にしてほしいんですけど」
ずっと胸に溜めていたことを吐き出そうとしているらしく、かすかに声が震える。
「わかった。片桐から聞いたとは、誰にも言わない。約束するよ」
どうやら、相談したいのは、自分のことではないらしい。怜花は、膝の上で、ぎゅっと拳を握
りしめた。
「クラスの女子の一人が、セクハラを受けてるんです」
蓮実は、げっそりした。どうやら、かなり深刻な問題らしい。しかも、セクハラという言い方
からすれば、おそらく、加害者は男子生徒ではないだろう。
40
「……俺を信頼して、何もかも、ぶっちゃけてくれないかな? 女子の一人っていうのは、誰の
こと? それから、誰がセクハラをしてるの?」
怜花は、目を閉じた。
やすはらみ や
「……被害に遭っているのは、安原美彌さんです」
意外な名前に、蓮実は、考え込んだ。安原美彌は、たしかに相当な美少女の部類に入るだろう
し、男子には(特に他のクラスには)、相当数の隠れファンがいるはずだ。いや、教師の中にも、
彼女をそういう目で見ている連中は、たしかに存在する。
だが、彼女がセクハラの被害者というのは、どうも合点がいかない。
「しかし、安原は、ああいう性格だろう? 黙って、セクハラを受けてるっていうのは、ちょっ
と想像ができないな」
二年四組で、気の強い安原美彌に逆らう女子は一人もいないし、大部分の男子からも、怖がら
れていた。あの蓼沼ですら、美彌には一目置いているほどだ。
「でも、嘘じゃありません!」
怜花は、気色ばんだ。
「うん。嘘だなんて思ってないよ。で、誰が加害者?」
「体育の、柴原先生です」
「柴原……?」
ほとんど接点もないのにと言いかけてから、思い出した。園田教諭の鳴瀬修平への体罰事件以
41 第一章
降、体育の授業は、一時的に入れ替えられている。ここしばらく、四組の体育は、柴原徹朗教諭
が受け持っているのだ。
「……それで、柴原先生は、具体的に、どんなことをしてるの?」
言ってしまってから、この質問自体が、新たなセクハラになりかねないことに気づく。怜花の
方は、さいわい、そんな意識はないようだった。
「わかりません。現場を見たわけじゃありませんから。でも、倉庫から何かを持って来なきゃな
らないからって、いつも安原さんばかりを指名するんです。それで、二人で行って戻ってくると、
安原さんの様子がおかしいんです。……あと、柴原先生が、みんなの前で、安原さんに向かって、
変なことばかり言うんです。それを聞いた安原さんは、たいてい、耳まで真っ赤になって」
「わかった。もういいよ」
蓮実は、怜花の言葉を押しとどめた。そういった部分の観察力は、女の子は、男の百倍優れて
いる。まして、この子は、異様なくらい勘が鋭い子だ。柴原教諭によるセクハラは、おそらく、
事実と見ていいだろう。
「片桐の言うことは、本当だと思う。信じるよ。きちんと調べた上で、厳正に対処する。これ以
上、安原が傷つかなくてもいいようにね」
怜花は、深く一礼して、立ち上がった。
「でも、片桐が、安原と親しかったなんて、全然知らなかったな」
蓮実の言葉に、怜花は、ふっと笑みを漏らした。
42
「親しくなんか、ありません」
「そうなのか? ……しかし」
「わたし、安原さんから、いじめを受けたこともあるんです。でも、こんなこと、絶対に許せな
いんです。だって、教師が、生徒にセクハラをするなんて……!」
「そうだな。……だけど、俺を信頼してくれたのは、嬉しいよ」
「それも、違います」
怜花は、静かに言い放った。
「わたし、先生を信頼しているわけじゃないんです。ただ、先生なら、こういう問題に、逃げず
に向き合ってくれるって思ったから」
ひょうきん
「そういうのを、日本語で、信頼と言うんじゃないのかな?」
軽に言ったつもりだったが、怜花の表情は崩れなかった。
蓮実は、あえて剽
「違うと思います。蓮実先生なら、相手が柴原先生でも負けないでしょう。きちんと筋を通して
くれるとも思います。でも、本当のことを言うと、わたし、柴原先生より、先生のことが怖いん
です」
「怖い? どうして……」
「失礼します」
怜花は、もう一度一礼すると、足早に生徒相談室を出て行った。
43 第一章
午後の授業二コマのうち、最後の一コマは空きだった。最初は、明日の授業の準備をする予定
だったが、なぜか、職員室にいるとろくなことがなさそうだという第六感が働く。とはいえ、も
し酒井教頭が自分を探しているのなら、英語科の準備室に避難したところで、すぐに見つかって
しまうだろう。
こういう場合の隠れ場所は、決まっていた。
ひとけ
蓮実は、本館から北校舎に向かう。本館と北校舎とは各階で繋がっているわけではなく、移動
には地面にコンクリートを流して屋根を付けただけの渡り廊下を通るしかなかった。授業中とあ
って、人気はない。二階の生物準備室に入ると、昼なお薄暗く、妖気が漂っているような感じが
する。部屋の主は、白衣を着て机に向かい、猫背になって、なにやら細かい作業に没頭していた。
ねこやま
たかし
「猫山先生。ちょっと、お邪魔してもいいですか?」
というのは本名で、本人のキャラクターと字面から、生徒に
ねこふたたざけた名前のようだが、猫山崇
猫祟りという渾名を付けられていた。生物の専任教員は猫山一人だが、生物準備室自体、晨光町
田では一種の都市伝説と化しており、生徒も教員も気味悪がって、誰一人近づこうとはしない。
「……蓮実先生。これ、見てください。見事でしょう?」
猫山教諭の前には、頭が黒く尾が長い、鳥の死骸があった。
「何ですか、これ?」
「オナガです。死因はわかりませんが、朝、見つけたんです」
猫山教諭は、うっとりと言う。
44
「珍しい鳥じゃありませんが、めったなことでは、こんな標本は入手できませんからね。うふふ
……ひひひひひひ」
不気味な声や、物腰態度とは裏腹に、猫山教諭は、二枚目俳優のような整ったマスクの持ち主
だった。その落差が、よけいに生徒を怯えさせるのである。
「……その、ここで、解剖をするんですか?」
蓮実は、少したじろいだ。
「いやいや、解剖なんてしませーん。私は、内臓好きの変態連中とは違いますから」
猫山教諭は、首を振った。
「私は、ただ、完璧な骨格標本を作りたいだけなんです。骨は……本当に美しいですからねえ」
生物準備室の壁の棚は、数十体の小動物の骨格標本で埋め尽くされていた。
「じゃあ、これ、どうするんですか?」
いが、蓮実は、我知らず、鼻と口を押さえていた。
異臭がするわけではむな
し
「うん。羽根を全部毟り、内臓や筋肉もできるだけ取り去って、薬品に漬けとくんです。骨にこ
びりついた組織を溶かすためにね」
やっぱり解剖するんじゃないかと思い、蓮実は、げっそりした。
「地面に埋めといてもいいんですけど、時間がかかるし、どうしても仕上がりが汚くなるんです
よ。重曹で煮るのはいい方法だけど、煮すぎちゃうと、骨が傷むんでね。それで、今まで、水酸
化ナトリウムの希薄溶液とかトイレ用洗剤とか、いろいろ試したんだけど、ピカ一は、やっぱ、
45 第一章
これでしょう」
猫山教諭が誇らしげに掲げたのは、入れ歯の洗浄剤だった。
「これが、一番、骨を傷めず、きれいに肉を除去できるんです。タンパク質除去酵素入りなのが
いいようですねえ。とはいえ、これまでに試したのは雀が主で、このサイズの鳥は初めてなんで
す。けっこう、どきどきしてますよ」
「たしかに、オナガっていうのは、こうして見ると、わりに大きな鳥ですね」
「カラスの仲間ですから」
蓮実は、フギンとムニンのことを思い出した。
「 そ う い え ば、 毎 朝、 カ ラ ス に 悩 ま さ れ て る ん で す よ。 何 と か、 追 っ 払 う 方 法 は な い で す か
ね?」
「それは無理」
猫山教諭は、楽しそうにオナガの尾羽根を引き抜きながら、答える。
「あいつら、頭いいから。しかも、法律で保護されてるし」
「頭がいいのは知ってますが、たかが鳥でしょう?」
「動物用の智能テストをやってみると、問題によっては、霊長類より上の得点を取るんですよ。
ニューカレドニアカラスのウエクなんか、状況に応じて、小枝なんかの道具を使い分けますし
ね」
日本産のカラスも、それに近い智能があるとすれば、騙したり脅したりして近づけないように
46
するのは、まず無理だろう。
「これをあげますよ。使ってみたら?」
は
めた手で、引き抜いたばかりのオナガの尾羽根を数
猫山教諭は、ビニールの使い捨て手袋を嵌
本蓮実に向かって差し出した。あまり触りたくはなかったが、しかたなく受け取る。
「これをどうするんですか?」
「カラスが来る場所に差しとくんです。黒いゴミ袋なんかでカラスの死骸に見せかけたら、もっ
といいかも。カラスは警戒心が強いですからね、しばらくは近づかないかもしれない。……まあ、
たぶん、二、三日しかもちませんけどね」
猫山教諭は、ぴかぴか光るメスを出すと、今にも解剖を始めそうになったので、蓮実は退去す
ることにした。
「貴重なものを、ありがとうございます。ためしてみますよ。それじゃ、私はこれで」
「……あと、カラスが侵入してくるルートに、テグスを張っておくと、けっこう嫌がりますよ。
まあ、ベランダならともかく、庭の上空を全部覆うのは無理でしょうが」
「いっそのこと、ワイヤーを張って電流を流したら、どうですかね? どこかの農家が、イノシ
シよけに使っていたような気がするんですが」
蓮実は、ふと思いついて訊ねた。イノシシに効くのであれば、カラスにも有効ではないだろう
か。
「意味ありませーん。蓮実先生は、物理は苦手だったみたいですねえ」
47 第一章
笑いを漏らした。
猫山教諭は、チェシャ猫のような含あみ
し
「イノシシが感電するのは、電流が肢を伝って地面に流れるからですよ。鳥は、高圧線に止まっ
ても、どこにも電流の逃げ場がないので、感電しませーん」
そうだったかと思い、蓮実は、がっかりした。
「まあ、カラスだって、二本の裸電線に同時に触れたりしたら、バチッと来るでしょうけどね。
でも、そんなことしたらだめですよー。万一死んだら、鳥獣保護法違反になります。野鳥はねえ、
慈しんでやらないと」
そう言いながら、猫山教諭は、オナガの腹に、ざっくりとメスを入れた。
生物準備室から逃げ出すと、蓮実は、体育の準備室へと向かった。誰もいなかったので、体育
館を覗いてみると、黒いジャージーを着た園田勲教諭が、腕組みをして立っていた。体育の授業
で、一年生のバレーボールの監督をしているようだ。
「園田先生」
蓮実が声をかけると、振り向く。同じ生徒指導部にいるので、一応の人間関係はできている。
「ああ、蓮実先生。どうしたんですか?」
園田教諭は、腹から響く野太い声で応じた。身長は180センチほどだから、蓮実より3セン
チほど高いだけだが、体重はあきらかにヘビー級で、ミドル級の体格である蓮実とは身体の厚み
が違う。ジャージーの上からでもわかる肩から広背筋にかけての筋肉の盛り上がりは、格闘家に
48
特有のものだった。
「ん? それは、何ですか?」
蓮実の持っていたオナガの尾羽根を見て、濃い眉の下にある、園田教諭の大きな目が、ぎょろ
りと動く。
「いや、これは、別に何でもないんです……。実はですね、今晩、ちょっと、お付き合いいただ
けないかと思って。ご相談したいことがあるんですよ」
何の話なのか察したのだろう。園田教諭は、うなずいた。
「かまいませんよ。では、部活があるんで、七時以降でもいいですか?」
「もちろん。私も、ESSがありますから。……それじゃあ、七時半くらいに、ラビットパンチ
で」
ラビットパンチは、町田の駅前にある居酒屋で、なぜか、晨光町田の教師たちの溜まり場にな
っていた。
職員室に戻りながら、蓮実は、頭の中で懸案事項を整理していた。とりあえず、緊急を要する
ものから順に片付けていくしかない。鳴瀬修平の一件は、今晩の園田教諭との話し合いの結果如
何にかかっている。だが、それ以上に、早く手を打たなくてはならないのは、安原美彌のセクハ
ラ問題だろう。
偶然とはいえ、どちらも体育教師絡みだった。いっそのこと、二人が戦って、相討ちにでもな
ってくれれば、二つの問題は一挙に解決するのにと思う。
49 第一章
どうじまち
づ
こ
職員室に入り、自分の机の前に座ったと思ったら、国語科の堂島智津子教諭が、血相を変えて
やって来た。
「蓮実先生。あなたは、生徒に何をおっしゃったんですか?」
いきなり喧嘩腰で言われ、蓮実は、面食らった。
「何をといいますと……?」
「とぼけないでください! 一組の国語が、わたしが担当だということもご存じだったんでしょ
う? 今日の六限目が、わたしの授業だとわかってて、わざと、生徒を焚き付けるようなことを
おっしゃったんですか?」
「ちょ、ちょっと、待ってください」
蓮実は、両手を前に出して、堂島教諭を押しとどめようとする仕草をしたが、右手には、オナ
ガの尾羽根を持ったままであることを忘れていた。突然、目の前に真っ黒な鳥の羽根を突き出さ
れ、堂島教諭は、悲鳴を上げてよろめいた。
「きゃあ!」
になった。もしこれが、養護の田浦潤
小太りの堂島教諭は、のけぞって、仰向けに転倒しそこばう
やしま ゆみ
子教諭や、スクールカウンセラーの水落聡子、音楽の小林真弓教諭などだったら、蓮実は、持ち
前の鋭い反射神経を発揮して、すばやく飛び出し、抱きかかえて急を救ったことだろう。今回は、
身体がまったく反応せず、見ていただけだった。
ところが、もはや死に体かと思われた堂島教諭は、意外な粘り腰を見せ、自力で体勢を立て直
50
すのに成功する。
「は、蓮実先生……。何? ぼ、暴力をふるうなんて」
堂島教諭は、分厚い唇を震わせ、眼鏡の奥で、細い目を茫然と見開いていた。
「違います……誤解ですよ。これは、ただの鳥の羽根です。落ち着いてください」
堂島教諭がショック状態から回復するまでには、たっぷり五分以上はかかった。無駄な時間を
使わされたことにはうんざりするが、ヒステリックな攻撃の出鼻を叩いたのと同じ効果はあった
ようだ。
めるための微笑を浮かべながら、訊ねる。
なだ
「……それで、私が、生徒に何か言ったというのは、どういうことでしょうか?」
蓮実は、相手を宥
か
わ
げ
「どういうも何も。あなたの煽動のおかげで、授業にならなくなったんです! だいたい、一組
の生徒は、表面は大人しいけど、教師を見下してるような子が多いのよ。特にあの、早水ってい
う子は、本当に可愛い気がない……!」
蓮実は、おかしなことに気がついた。
「そう言えば、堂島先生は、今は授業時間中じゃないんですか?」
0
0
0
0
0
「そうですよ! それが、あんなことになったんで、自習にしてきたんです!」
だから、その、あんなことって何だよ。蓮実は、こっそり溜め息をついた。
何にせおおよごと、勝手にこちらまで巻き込まないでほしい。その上、授業放棄までされたのでは、ま
すます大事になってしまうではないか。今にして思うと、職員室にいない方がいいという第六感
51 第一章
が働いたのは、このためだったらしい。
「わたしは、無垢な生徒たちが、男社会の偏見で毒されてしまう前に、正しいジェンダー教育を
実践しようと、懸命に努力してきたんですよ。あなたは、『言葉狩り』なんていうレッテルを貼
って、そのすべてを否定するんですか?」
「ちょっと、待ってください。私は、堂島先生の授業についてなんて、一言も触れてませんよ」
それに、あなたはジェンダー科ではなく国語科の教員でしょう、という言葉は、喉元まで出た
が、呑み込んだ。
昔からあるっていうだけの理由で、そのまま残すべ
「……ただ、言葉は大切な文化遺産ですから、大切にして継承していかなければならないと、そ
う生徒たちに教えただけです」
「はあ? あなた、何言ってるんですか?
きだっていうんですか? つまり、過去の因習と差別の歴史も、何もかも、全肯定しろと?」
「そんなことは言ってないじゃないですか」
蓮実は、思わず天を仰ぎたくなった。堂島智津子教諭は、四十代後半のベテラン教師だが、先
鋭的なジェンダーフリー論者で、事あるごとに職員室で物議を醸してきた。学校の出席番号は男
女共通にすべきというのはまだしも、『男女混合リレー』の『男女』という言葉は『女男』に改
めろなどという変な主張を、職員会議の席上で延々とまくし立てる。反論などしようものなら、
何倍にもなって返ってくるので、最後は酒井教頭さえ沈黙してしまい、みな、嵐が過ぎ去るのを
待つしかなかった。
52
この学校の教師は、総じて、何らひろかせのせいコぞうネによって採用されていることが多いのだが、後にな
って、高塚教諭から、堂島教諭は広瀬清造理事長の遠縁に当たるらしいと聞いて、ようやく合点
がいったものである。
蓮実は、堂島教諭のねちねちとした怒りの舌鋒にさらされている間に、何が起きたのか、だい
たい想像がついた。早水圭介だ。あの性格で、堂島教諭に反発を覚えないはずがない。いつかや
げんち
っつけてやろうと、機会を窺っていたのだろう。それが、今日の英語の授業で、たまたま、蓮実
が言葉狩りに反対だという言質が取れたので、これ幸いと利用したに違いない。堂島教諭に対す
る攻撃を、すべて蓮実の言葉として述べることで、まるで、蓮実が堂島教諭の方針に真っ向から
反対しているかのように、印象づけたのだろう。
「堂島先生。私は、事実、そんなことは一切言ってないんです。それどころか、以前から、先生
の先進的な取り組みには、敬服してたんですよ」
蓮実は、心にもないことを言った。
「本当ですか?」
堂島教諭は、疑わしげな声を出した。
「もちろんです。いやあ、私たちは、二人とも、早水にしてやられたみたいですね」
蓮実は、明るく言う。どうなるのかと、はらはらして見ていたらしい職員室の雰囲気が、それ
でやわらいだ。
結局、最後のコマの時間は完全に潰れてしまったが、何とか、堂島教諭の矛先をかわすことは
53 第一章
へきえき
できた。それにしても、堂島教諭には、つくづく辟易させられる。唯一、同感だと思ったのは、
早水圭介が、まったく可愛い気のない生徒だということぐらいだった。
ショート・ホーム・ルーム
H R が終わると、蓮実は、安原美彌を呼び止めた。遠くで片桐怜花が、ちらり
帰宅前の S
とこちらに視線を向けたのが見える。
「何、ハスミン?」
美彌は、何となく不安そうな表情だった。怜花と同じくらいの小顔をした美少女だが、眉が上
がっていて目力があり、ふだんは、みなぎる自信と負けん気を感じさせる。それが、なぜか、今
日は影を潜めていた。
「ちょっと、いいかな。話したいことがあるんだ」
あえて、聞きたいではなく、話したいと言う。
「いいけど……」
美彌は、以前から蓮実に対しては従順だったが、それにしても、この元気のなさは気になる。
蓮実は、美彌を、生徒相談室に誘った。ソファの向かい側に座って、もじもじしている美彌を
見ながら、瞬時に、話を引き出すためのプランを組み立てた。
「……なあ、美彌。俺のこと、どう思ってる?」
意外な質問だったのだろう。美彌は、顔を上げた。
こく
「どうって? 何、どういうこと? ハスミン、わたしに告ってるの?」
54
「馬鹿。違うよ」
蓮実は、苦笑して見せた。
「そうじゃなくて、俺のこと、信頼してるかってこと」
「そりゃ、そうだよ。担任だし、ほかの先生とは、全然違うし……」
美彌は、また、目を伏せた。
「じゃあ、俺を信用して、何でも打ち明けてくれるか?」
美彌は、顔を上げた。瞳に、かすかな希望の光がともっているようだった。
「俺は、美彌の味方だよ。それだけは信じてくれ」
「うん……わかった」
美彌は、うなずく。
「今、美彌を苦しめてるやつがいるよな?」
美彌は、一瞬、目をそらしかけたが、ゆっくりとうなずいた。
「柴原か?」
「どうして、知ってるの?」
「俺にチクってくれた生徒がいた」
「誰?」
「それは、誰でもいいだろう? おまえのことを心配したから、わざわざ言いに来てくれたん
だ」
55 第一章
美彌は、下唇を噛んだ。
「とにかく、これ以上、俺の可愛い生徒にふざけたまねはさせない。柴原には、きっちり、やっ
たことの責任を取らせてやる」
「嬉しいけど……それはやめて」
美彌は、首を振った。
「どうして?」
「困るから」
「何か、やつに、弱みを握られてるのか?」
せ
いっしゃせんり
美彌は無言だったが、肯定したのと同じことだった。
「何があったんだ。教えてくれ。約束するから。絶対に誰にも言わないよ」
き止めていた心理的抵抗が取り除ければ、後は一瀉千里だった。美彌は、落ち
最初の言葉を堰
てんまつ
着いた態度で、ことの顛末を語った。
み
とが
きっかけは、美彌が、町田駅前のドラッグストアで、化粧品を万引きしたことだった。ほんの
出来心だったということだが、実際は、常習だったんだろうと、蓮実は睨んだ。
咎められることもなく、美彌は、平然と店を出た。ところが、
ともあれ、万引きは、店員に見
後ろから肩を叩かれ、飛び上がることになる。警備員に見られていたのかと思ったが、振り返る
と、そこにいたのは体育科の柴原徹朗教諭だったのだ。
「柴原は、最初は、優しかったんだ。わたしを喫茶店に連れてって、とにかく、やったことは、
56
やったことだ。全部話せって言うから……たぶん説教くらいで許してもらえそうな雰囲気だった
りゅうび
んで、正直に、万引きしたことを話したんだよ。そしたら、それを、勝手に録音されてて」
眉を逆立てた。
美彌は、柳
「それで、これを学校にばらしたら、おまえは退学になるぞって」
「それを信じたのか?」
セ
イ
シ
蓮実は、眉間にしわを寄せる。
「それぐらいじゃ、普通、退学にまではならないだろう?」
「でも、生徒指導の教師にそう言われたら、もしかしたら、そうなるかもって。それに、騒ぎに
なるだけでも困るんだよ。……うち、両親が離婚してから、母親が鬱になっちゃってて。今、そ
んな話聞かされたら、どうなっちゃうかわかんないから」
美彌は、悔し涙をにじませた。
「わかった」
蓮実は、立ち上がる。
「行こう」
「えっ? どこ?」
「おまえが万引きした、そのお店だよ。俺が一緒に行って、謝ってやる」
「今すぐ?」
「早く決着を付けないと、気分が悪いだろう? ほら、行くぞ」
57 第一章
美彌は、ほっとしたようにうなずく。
蓮実は、まず職員室へ寄ると、高塚教諭をつかまえた。
「高塚先生。ちょっと、生徒指導で用事ができちゃったんですよ。今日のESS、代わりに監督
してもらえませんか?」
「え? いいですけど、生徒たち、がっかりするんじゃないかなあ……全員、蓮実先生のファン
だから」
「恩に着ます」
断られないように、手を合わせて何度も拝んでから、蓮実は、駐車スペースに行った。美彌は、
先に行かせてあった。物珍しそうに、傷だらけの軽トラックを撫でさすっている。
「ほら、何してる。乗って」
「うん」
美彌は、嬉しそうに助手席に乗り込んだ。
「中は、けっこう広いね」
「まあ、ハイゼットだからな」
美彌は、噴き出した。
「馬鹿みたい。こんな軽トラ、自慢してるー!」
「こんな軽トラで、悪かったな。教頭にも言われたよ」
蓮実は、ハイゼットを発進させた。めざとく見つけた女子が数人、ずるいというように、抗議
58
の声を上げる。美彌は、満面の笑みで、助手席からピースサインを送っていた。
「こらこら、何やってんだ? これから、おまえのしたことで謝罪に行くんだぞ?」
「前から、一度、乗ってみたかったんだ」
「こんな軽トラなのにか?」
「うん」
こく
美彌は、助手席の窓に腕を沿わせて、顎を載せた。セミロングの髪が、風になびく。
「わたしが、ハスミンのこと好きになったの、いつからか知ってる?」
「おいおい。告ってるのか?」
蓮実は、冗談めかして言ったが、美彌は、笑わなかった。
「一年生の時、うちのクラスで、犬を飼ってたでしょう? ショコラって名前の」
「ああ。学校の許可も得ないで、勝手にな」
「頼んだって、許可なんて下りるわけないもん」
美彌は、口を尖らせて、蓮実を見た。
「でも、ほっとくと、ショコラは保健所に捕まっちゃうから、こっそり学校にかくまって、餌を
やってたんだ。そしたら、誰かがチクりやがった。たぶん、生徒じゃないと思うけど」
「ああ、柴原だ」
「本当?」
「まちがいないよ。後で聞いたから」
59 第一章
管理職の間で自分の評判が良くないのは、自覚していたのだろう。柴原教諭は、それで点数稼
ぎをしたつもりだったに違いない。
「そうだったんだ。あいつ……!」
美彌の瞳は、新たな怒りに燃えた。
「そのせいで、学校に保健所が来て、ショコラは、連れて行かれちゃったんだよ。みんな泣いた
のに、誰も助けてくれなかった。……ハスミン以外は」
蓮実は、黙って聞いていた。
「ハスミンは、たまたま通りかかって、ウチらが泣いてるのを見て、どうしたんだって訊いたじ
ゃない? それで事情がわかったら、すぐ、この軽トラに乗って飛び出してった。……そして、
しばらくすると、ショコラを連れて戻ってくれた」
美彌の声は、少し潤んでいた。
「あのときから、ウチらはみんな、ハスミンの大ファンになったんだよ。親衛隊とかESSの子
だけじゃない。学年の女子全員」
約一名、なぜだか、怖がっている子はいるのだが。
「……ショコラ、今、どうしてるんだろうなー。元気かな?」
「帰りに、会ってくか?」
「本当? どこにいるの?」
美彌の声音に、喜びがはじける。
60
「竹田さんっていう、事務員さんの家だ。先月定年退職したんだけど、あの頃、ちょうど、番犬
がほしいって言ってたんだよ。……でも、言っとくけど、今はショコラっていう名前じゃないか
らな」
「ええー? 何て名前?」
「ゴン」
「嘘。……ださ」
美彌は、顔をしかめ、ピンクの長い舌を出した。
ドラッグストアの店長は、二人の突然の来訪に驚いたようだった。万引きと聞いた後、一瞬、
表情が険しくなる。だが、美彌が自分から後悔して謝りに来たという話を聞いて、さらに、蓮実
が、代金を支払った上で平謝りに謝ると、すっかり温顔になった。頭が薄いこともあり、まるで
仏様のように見える。
「うん、わかりました。じゃあ、もう、このことは、なかったことにしましょう」
店長は、しおらしく目を伏せている美彌に、優しい声をかけた。
「でも、もう、二度とやらないでね。最近は、万引きの被害がひどくてね、うちみたいな小さな
店は、それだけで利益が飛んじゃうの」
「ごめんなさい。もう、絶対しません」
「本当に、申し訳ありません。今後は、厳しく監督いたしますので」
61 第一章
蓮実も、横で頭を下げる。
「それにしても、蓮実先生みたいないい先生が担任で、あなたも、よかったね」
帰り際に、店長は、出口まで送ってくれながら言った。
「はい。そう思います」
美彌は、殊勝に答える。
「うちの娘も、来年受験なんです。できたら、晨光町田に行かせようかな。偏差値的には、もう
ちょっと頑張らないと厳しいんですけどね」
「是非、来てください。お待ちしてますよ」
ドラッグストアを出ると、蓮実は、美彌に言った。
「店長さんがいい人で、良かったな」
「うん。もう、二度とやらないっていうのは、本当だよ。……絶対、あの店ではね」
蓮実は、深く溜め息をついた。
帰りに竹田さんの家に寄り、ショコラ改めゴンと遊んで、美彌は、すっかり明るさを取り戻し
たようだった。竹田さんも、いつでも遊びに来てと言ってくれたが、はいと元気に答える美彌は、
幼い少女に戻ったように見えた。
蓮実は、美彌を町田駅の改札まで送ってやった。
「いいか。これで、脅迫されるようなネタはなくなった。あの店長さんも、美彌の味方になって
くれるよ。だから、もう、柴原なんか、全然怖がる必要はないからな」
62
「テープは?」
「冗談だったと言えばいい。万引きの実態がないんだから、もはや無意味だ」
「じゃあ、もし柴原が、また何か言ってきたら、どうしたらいい?」
「すぐに、俺に言うんだ。話を付けてやる。……だけど、どうする? 美彌は被害に遭ってるわ
けだし、あいつを学校から追い出すことだってできるんだぞ?」
「でも、そこまではしたくない。うちの母親に、心配かけたくないし。最初に、わたしが万引き
したのが、いけないんだし」
美彌は、すっかり解放されたような表情になっていた。
「……ねえ、わたし、柴原なんかに、汚されてないからね」
「え?」
「体操服の上から触られただけだから。本当。キスだって、させなかったし」
「わかった。……それ以上、言わなくてもいい」
蓮実は、片手で、美彌の頭をくしゃくしゃにした。
「もう、やめてよー。知ってる? それ、女子の間で、どん引きなんだよ?」
「だからやってるんだよ。俺だってなあ、少しはストレス解消の手段が必要なんだよ!」
蓮実は、両手で、美彌の頭をシャンプーするように、もみくちゃにしてやった。
美彌が手を振りながら見えなくなると、蓮実は、コインパーキングに止めてあったハイゼット
のところに戻った。ラビットパンチはすぐそばだが、約束の時間にはまだ早いし、ずっとここに
63 第一章
止めておくと、費用がかさむ。そのため、いったん家に帰ることにしたが、途中で思いついて、
ホームセンターに立ち寄った。
まず、頭の中で完成図を思い浮かべる。
支柱は、庭の物干し台を使えばいいので、それ以外に必要な資材を物色する。最初に、直径
3・2センチのステンレスパイプを、長さ センチずつ、二本切り出してもらう。次いで、直径
2・5センチの竹材を、長さ
センチに、同じく直径6センチの竹材を長さ100センチにカッ
10
トしてもらった。それから、釘、針金、接着剤、ゴムシート、ハンダ付けのセット、 メートル
30
ひ
ふく
に放り込み、蓮実は、家に帰った。
購入した物品をハイゼットの荷な台
た
で切れ目を入れると、細い竹材の中央部を挟み込んで、釘と接
最初に、太い方の竹材の端に鉈
着剤、針金を使って、しっかりと固定する。これで縦が100センチ、横が センチの、T字形
買い物をしながら、我知らず、口笛を吹いていた。『三文オペラ』の『モリタート』のメロデ
ィだった。
の電源コード、スイッチをカゴに入れる。これはないかと思っていた小型の変圧器も見つかった。
15
いよいよ、これで物干し台への取り付けを残すのみだったが、待ち合わせの時間が迫ってきた
ので、作業を切り上げ、再び町田駅前に向かう。行ったり来たりの一日になったが、最後は、
らステンレスのパイプをすっぽりと被せた。
ンレスパイプの内側にハンダ付けする。最後に、T字の横棒にゴムシートを巻き付けると、上か
をした止まり木ができた。今度は、電源コードの先を二つに分割して被覆を剥き、それぞれステ
30
64
C 用のマウンテンバイクでの出陣だった。道路交通法上は、自転車でも飲酒運転になる
クロス・カントリー
X
が、町なかは押して歩けば、捕まることはない。
専用駐車場にマウンテンバイクを止めて、ラビットパンチに入ると、客は全員見知った顔ばか
りだったので、思わず苦笑する。
「あらあ、蓮実先生。こっちにいらっしゃいよ」
田浦潤子教諭は、早くも出来上がっているらしく、湯上がりのように上気した顔で誘う。ボッ
クス席の隣に座っているのは、数学科の真田俊平教諭である。
「いいよ。お邪魔だろうから」
「何よお。お邪魔だなんて、水臭いわねえ。……わたしたちの仲で」
あお
「田浦先生、今晩は、ご機嫌みたいですね。真田先生と一緒だからかな?」
蓮実は、真田教諭に向かって言う。
「いやあ……そんな」
った。現在二十八歳で、晨光町田では最年少
真田教諭は、頭を掻きながら、焼酎のグラスを呷
の教師である。一人も落ちこぼれを作らないというのがモットーで、授業についていけない生徒
には補習をしてやっていた。軟式テニス部の顧問でもあり、スリムな長身で、少年っぽい甘い顔
立ちをしているせいか、生徒の人気投票では、蓮実に次ぐ不動の二番手だった。
「もう。立ってないで、さっさと座って」
田浦教諭に腕を引かれて、蓮実は、座る。三人掛けにはやや狭い席なので、身体が軽く触れ合
65 第一章
った。
何も言わないのに、店員が、クラッシュアイスを入れたグラスとお絞りを持ってくると、田浦
教諭は、芋焼酎を注ぎ、蓮実の分の氷割りを作った。
「乾杯!」
あ だ
三人は、グラスを触れ合わせる。
「両手に花ね……もう、最高に、いい気分」
娜っぽい吐息を漏らす。
とても教師とは思えないような、婀
「あんまり呑んで帰ると、ご主人に叱られるんじゃない?」
蓮実が言うと、眉根を寄せる。
「いいのよ。どうせ、向こうだって、さんざん呑んでくるんだから」
田浦教諭の夫は、十五歳年上で、大企業の部長職だった。子供はいない。
「そうですよ……今晩は、呑みましょう!」
真田教諭も、いつになく、酔っぱらっているようだが、それだけではない。どことなく様子が
おかしかった。
「どうしたの? 何か、あったんですか?」
蓮実は、まるで生徒に対するように訊ねた。
「どうしたも何も、うちの学校っていうのは、最低ですよ。教師どころか、人間の資格もないク
ズ野郎が、堂々と教壇に立ってるんだから……蓮実先生は、そう思いませんか?」
66
これは、はなから穏やかではない。相当に荒れているようだ。
「まあ、真田先生の言うことも、わからないではないけど」
柴原のことを思い浮かべながら、応じる。
「同じ教科としてね、僕は、恥ずかしいんすよ」
「同じ教科?」
おおすみやすふみ
隅康文教諭は、我が校
柴原ではないらしい。数学科の面々を、順に思い出してみる。主幹の大
では最も人格者と言われている人だし、それ以外にも、それほど問題のありそうな教員は……。
眼朦朧とした顔を上げた。
すいがんもうろう
「もしかして、釣井先生のことを言ってるんですか?」
真田は、酔
「そうです! 蓮実先生も、何か、聞かれてますか?」
「いや。うちのクラスでね、ちょっと、授業が荒れてるみたいなんですよ」
蓮実は、蓼沼らが授業妨害をしていることを話した。
「そうですか。なるほど……。いや、当然ですよ。その件に関しては、蓼沼が悪いんじゃないっ
て思いますね」
「ちょっとお、わたしを挟んで、どうして、そんな殺伐とした話ばっかりするのよ?」
田浦教諭が、抗議する。
「いや、ごめん。しかし、ちょっと、聞き捨てにはできないっていうか。……たしかに、釣井先
生の授業はひどいらしいね。でも、いくら何でも、人間の資格がないクズ野郎は、ないんじゃな
67 第一章
いですか?」
「授業のことだけなら、僕だって、そこまで言いませんよ。デモしか連中は、みんなそうじゃな
いですか?」
蓮実は、ラビットパンチの店内に、何人か団塊の世代の教師がいることに気がついて、ひやひ
やした。
「……しかし、業者からリベートを受け取ってるような教師は、糾弾されるべきだと思うんです
よ!」
「リベート? 何の業者?」
「はいはい。そんな話は、もうやめましょう。お酒は、楽しく呑むものよ」
田浦教諭が、やんわりと遮ったが、怒りモードに火がついたらしく、真田教諭は、止まらなか
った。
「そんな悪徳教師が、どうしてクビにならないか、ご存じですか? 今日、初めて知ったんです
けど、釣井は、校長の弱みを握って、脅迫してるんですよ」
「脅迫?」
蓮実は、呆気にとられた。
「どういうことですか? 校長の弱みって?」
「それは、わかりません。しかし、二人の会話を、偶然、立ち聞きしちゃったんですよ。釣井は、
何かを明るみに出すと言って、校長を脅迫してたんです。しかも、その要求が、蓮実先生に関す
68
ることだったんですよ」
蓮実は、持ち上げかけたグラスを、テーブルに置いた。
「……もうちょっと、詳しく教えてくれませんか?」
こう
「はっきりとはわからないんですけど、蓮実先生のクラスをどうにかしろということみたいです。
てつ
今、授業が荒れてるって聞いて、腑に落ちました。……それで、場合によっては、蓮実先生を更
迭しろとまで言ってたんです。さすがに、それはできないと、校長が拒否してましたけど」
水面下では、知らないうちに、そんな話が出ていたのか。蓮実は、首筋に冷たいものを感じた。
「はっきり言いますけど、うちの学校で、まともな教師は、蓮実先生と僕だけじゃないですか?
これで、蓮実先生がいなくなったら、いったいどうすれば」
「あら。残念だわ。わたしは、真田先生の中では、まともな教師のうちにカウントされてないん
ですね」
田浦教諭が、じんわりと真田教諭を睨む。
「いや、そういう意味じゃなくて。そりゃあ、田浦先生だって、大隅主幹も、橋口先生も、ちゃ
んとした先生は、何人もいますよ。でも、つまり、改革を行う熱意とか……」
真田教諭は、しどろもどろになった。
そのとき、急に、沈黙が訪れた。見ると、園田教諭が、入り口から店内を見回している。学校
と同じ黒いジャージー姿だったが、立っているだけで、周囲を圧するような存在感があった。
「園田先生!」
69 第一章
蓮実は、立ち上がった。
「真田先生。今の話、今度また、ゆっくり聞かせてくれませんか?」
「わかりました」
蓮実は、園田教諭を奥の席へと誘った。真田教諭の話は衝撃だったが、今はとりあえず、こち
らに注力しなくてはならない。
「すみません。いきなり、お呼び立てしたりして。空手部の指導で、お忙しかったんじゃないで
すか?」
「いや、たいしたことはありません。今の時期は、まだ、基本練習を反復させているだけですか
ら」
園田教諭は、体育大学の学生時代、空手の全国大会で優勝の経験があり、空手部の顧問をして
いた。
「そうですか。……あっ。何をお呑みになりますか?」
蓮実は、いきなり本題に入るより、しばらく酒を飲まラせポてー、ル相手の警戒心を取り除いた方がい
いだろうと判断した。まずは、心理学で言うところの信頼関係を構築しなければならない。
「……園田先生は、総合格闘技での戦績は、最強の証明になると思われますか?」
しばらく話すうちに、格闘技の話が、互いの興味の接点であり、最も盛り上がることがわかっ
た。
「参考にはなるが、証明には全然ならんでしょう」
70
き
水のように呑みながら言う。グラスを握る手は
園田教諭は、馬刺しをほおばると、生の焼酎けを
んだ こ
体格に比べても巨大で、節くれ立ち、分厚い拳腁胝ができていた。
「そもそも、何が最強かなんて、決められるわけがない。小さな得物が一つあるだけで、形勢は
百八十度変わってしまう」
「それは、そうですね」
「第一、相手が複数になった瞬間に、あらゆる寝技は、まったく無意味になる。つまり、総合格
闘技というのは、ボクシングや柔道と同じで、ルールの中での最強を競っているにすぎないん
だ」
園田教諭は、いつになく熱弁をふるう。
「それに、最近の総合格闘技は、打撃系にのみ禁じ技が多すぎるでしょう。初期のバーリトゥー
ド・ルールのように、禁じ手は、噛みつきと金的攻撃、目潰しくらいでいいんだ。グラウンドで
の垂直の肘打ちや、顔面へのキックまで駄目だというのは、おかしいですよ。だいたい、最強の
打撃技である頭突きがOKなら、もっと早くKO決着するはずだ」
「そんな無茶な……死人が出ますよ」
ひね
蓮実は、柔らかく反論を試みる。
「それに、園田先生は、打撃系が割を食ってるとおっしゃいますが、寝技系も、けっこう禁止技
ねじ
は多いじゃないですか。たとえば、足関節を取られた場合なんかは、捻られたら、ひとたまりも
ないはずです。ところが、膝や首を捻ったりするのは、たいてい反則になりますし」
71 第一章
「ほう……詳しいね。蓮実先生は、格闘技の経験があるんじゃないですか?」
どうもう
「とんでもない。見るのは好きですが、やる根性はありませんよ」
「そうですか? 細いようで、けっこう獰猛な体つきだと思ってたんですが」
「そんな目で見るのは、勘弁してください。私は、根っからの平和主義者ですから」
蓮実は、両手を広げて、戦意がないことをアピールした。
「そうですか。……まあいい。私が言いたいのは、手前味噌と思われるかもしれませんが、空手
こそ最強の格闘技だということです。K1にせよUFCにせよ、選手の健康を重視したルールの
中では、その強さはわからないかもしれない。だが、本当に殺すか殺されるかという極限状況に
至り、空手は、初めてその真価を発揮するんだ。空手とは、単に肉体の技術を高めるだけではな
く、強靱な心を鍛え上げる武道だからです」
いつしか、静かになったラビットパンチの店内に、園田教諭の言葉だけが響いていた。格闘技
談義は、しだいに教育論へと発展していく。
「……どんな困難に直面しようとも、絶対に折れない、挫けない心。それこそが、厳しい練習を
通じて、私が生徒に与えたいものなんです」
周囲で聞き入っていた教師たちは、みな、大なり小なり感銘を受けているようだった。もう少
しで拍手が出そうな雰囲気である。だが、一人、蓮実だけは、醒めていた。
すべての武道、格闘技は、つまるところ、相かん手ようを殺すか戦闘能力を奪うための技術ではないの
か。それがなぜ、教育現場では常に人間性の涵養にすり替えられるのか、まったく理解不能だっ
72
た。
とはいえ、もちろん、ここで、そんなことは言えないし、言うつもりもない。
「園田先生。お話をうかがえて、本当によかったと思います。先生は、やはり、我が校に必要な
方だという確信が持てました」
園田教諭は、焼酎のグラスを置くと、大きな目で蓮実を見た。
「蓮実先生の言いたいことは、よくわかってます。そのために、本日は、こうしてお誘いいただ
いたわけだ。……だが、私は、自分の信念に反し、体罰を加えて申し訳ないなどと謝罪すること
はできない!」
「もちろんです」
蓮実は、間髪を入れず答えた。
「ん? どういうことです?」
園田教諭は、狐につままれたような顔になった。
「ですから、先生が鳴瀬を殴ったことに対して謝罪される必要など、一切ないということです。
たしかに、建前では、体罰はすべて禁止されています。しかし、今の子供たちが、それで言うこ
とを聞きますか? 一時的な感情の発露ではなく、心底、子供たちのことを案じて加える体罰は、
愛の鞭です。子供たちが道を踏み外しそうになったとき、愛の鞭によって立ち直ることができれ
ば、将来、必ず感謝するはずです」
園田教諭は、大きくうなずいた。
73 第一章
「蓮実先生が、そういうお考えだとは知りませんでした。……いや、我が意を得た思いです」
向こうで、田浦教諭が、ぽかんと口を開けているのが見えた。蓮実がふだん生徒たちに言って
いることとは、百八十度違う話だからだろう。
「私たち一般の教師は、必要な体罰を一部の先生に肩代わりしてもらって、自分たちは、のうの
うと体罰には反対のような顔をしていたんじゃないか……私自身、反省が必要だと思ってるんで
すよ」
ろ
れつ
「ひかし、ほれはですね……蓮実先生」
律の回らない舌で何かを言いかけたが、田浦教諭に手で口を塞がれた。
真田教諭が、呂
「いや、よくわかりました。私も、今日は、蓮実先生のお考えを知ることができたのは、良かっ
たと思います。ですが、だったら、この一件は、どう処理するおつもりですか? 鳴瀬の親はか
なり強硬だと、教頭から聞きましたが」
「ええ。ですから、園田先生には、謝罪していただかなければなりません」
「何だと……?」
園田教諭の目が、ぎらりと剣呑な光を帯びた。
「今、謝罪は必要ないと言ったばかりだろう?」
二人を除く全員が、凍り付く。ラビットパンチの店内は、一気に気温が十度ほど下がったよう
だった。
「はい。先生が鳴瀬を殴ったことに対しては、謝罪の必要はないと思います。……しかし、怪我
74
を負わせたことについては、話は別です」
蓮実は、平静な調子で答える。
「怒りにまかせてではなく、冷静に生徒を導こうとして加えた体罰なら、怪我をさせないような
配慮は、当然、あってしかるべきでしょう。……失礼を承知で言いますが、目尻を切って流血さ
せるというのは、プロの教師としてどうなのか。まして、園田先生のような空手の達人が、どう
してそんな下手糞な殴り方をしたのか、今でも不思議でしょうがないんですよ」
唾を呑んで、成り行きを見守っ
か た ず
しばらくの間、重苦しい沈黙が続いた。周囲にいる誰もが、固
ている。
「……素人に下手糞呼ばわりされるのは不本意だが、まあ、そのとおりだからしかたがないな」
わざ
ようやく園田教諭が発した声は、笑いを含んでいかわたので、全員が、ほっと胸をなで下ろした。
「平手で頭を叩こうとしたら、その瞬間、鳴瀬が躱そうとしたのか、頭をそらしたんで、目の横
に当たってしまったんですよ。まあ、その程度の動きも読めなかった私の未熟さのなせる 業で
す」
たいとう
「ふつう、頭を叩かれそうになったら、下げるだろうにね。逆にのけぞるとは、今の子のやるこ
いはらひさし
とはわからないなあ……」
そばにいた古典の井原恒教諭が、感想を漏らす。授業と同じ春風駘蕩といった調子に、場が和
んだ。
「……いや、わかりました。鳴瀬に怪我を負わせたことについては、謝罪しましょう」
75 第一章
園田教諭の態度は、武道家らしく、見ていて潔いものだった。
「ただし、体罰そのものの是非については、信念を曲げるつもりはありません」
「ありがとうございます!」
蓮実は、深々と頭を下げた。
「うちの体育の授業も、早く、園田先生に復帰してもらいたいんですよ。今、ちょっと、いろい
ろありまして」
問題が起きていることを臭わせると、園田教諭は、太い眉を上げた。
「柴原ですか?」
「ええ。まあ、ここで申し上げるような話でもないんですが」
「そうか。そういうことなら、この問題は、早く片付けなきゃなりませんな」
園田教諭は、大きな手でグラスを握りしめて言う。
蓮実は、やれやれと思う。これで、何とか、和解のための道筋はできた。すっかり薄くなった
焼酎のオンザロックを呑み干すと、急に空腹を感じた。
翌日、蓮実は、酒井教頭と園田教諭の三人で丸の内にあるダウンタウン弁護士事務所に出向き、
鳴瀬修平の父親と会った。
鳴瀬明男弁護士ただは、小柄で、高級そうな背広に身を包み、ちょっとウッディ・アレンに似てい
た。学校の非を糾す際も、語り口調は事務的だったが、いかにも頭脳明晰らしく、言葉にまった
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く無駄がない。
時間を無駄にすることを最も嫌うタイプだろうと、蓮実は見て取った。教師の給与からすると
想像もつかないような時間給で動いているため、まさにタイム・イズ・マネーで、つまらない問
題に必要以上にかかずらうことを恐れている。つまり、難敵ではあっても、クレーマーとは正反
対に、早期の決着を図りやすい相手でもある。
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蓮実は、無駄な前置きは排して、まず、担任としての謝罪を行った。バトンタッチした園田教
諭は、鳴瀬修平に怪我をさせてしまったことを率直に詫びる。さらに酒井教頭が、あらためて学
校としての遺憾の意を表し、二度とこのようなことは起こさないと誓うと、医療費を含めた賠償
を申し出た。事前に打ち合わせたとおり、弁解は一切しなかった。
鳴瀬弁護士は、表情こそ変わらなかったものの、こちらの対応に満足したようだった。少なく
とも、これ以上圧力をかけても、たいして得られるものはないと考えたのだろう。二、三度うな
ずくと、わかりました今後ともよろしくお願いしますと言い、それで会見はお開きになった。
事務所を出るときに時計を見ると、来所してから十五分しかたっていなかった。
酒井教頭から指示されたように、鳴瀬本人を説得して親を懐柔しようなどと考えていたら、ま
ずいことになっていたかもしれないと、蓮実は思う。やり手らしいあの弁護士を、本気で怒らせ
てしまったかもしれないのだ。
やはり、当初、難物と思えた園田教諭の方を説得にかかったのは、正解だったらしい。
酒井教頭が、蓮実の背中をぽんと叩く。どうやら、よくやったという意味らしい。
77 第一章
園田教諭も、こちらを見てうなずいた。辞職の可能性もあったところを、結局、口頭の厳重注
意だけですんだのだから、感謝のまなざしも当然のことだろう。
蓮実は、目を開けた。
カラスの鳴き声だ。
猫のようなしなやかさで身を起こすと、そっと、庭の方へ行く。雨戸は、外が見えるように、
隙間が空けてあった。
そっと目を近づけて、外の様子を窺う。
いた。巨大なカラスが、二羽、物干し台に止まっている。
蓮実が特製の止まり木を作ってから、四日がたっていた。カラスは警戒心が強いため、新しい
ものがあると、しばらくは敬遠して近づかない。特に、フギンとムニンは、智能が高く、こちら
の意図を見抜く能力は図抜けていた。
しかし、だからこそ、それを逆用することができるのだ。
蓮実は、止まり木のすぐそばに、オナガの尾羽根を差しておいた。カラスと比べると、オナガ
はずっと小さいが、文字通り尾が長く センチ以上あるので、見た目のインパクトは大きい。
ようだった。徐々にそばにやってくるようになり、ついには同族ではないと見切ったのか、オナ
フギンとムニンも、二日ほどは、尾羽根のある周辺を忌避していた。カラスは、何より同族の
死骸に関心を持ち、恐れるという習性がある。しかし、三日目になると、こちらの意図を察した
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ガの尾羽根を引き抜いて捨ててしまう。そして、それと同時に警戒心も捨て去ってしまったよう
だった。
フギンは、今、蓮実の作ったT字形の止まり木にいる。止まり木は物干し台の支柱に針金で縛
り付けて一段高くしてあるのだが、フギンは、ここは俺の指定席だと言わんばかりの態度だった。
直径3・2センチのステンレスパイプは、カラスにとって、ちょうどよい太さなのだろう。
止まり木の中央部には、T字の縦棒にあたる竹が出っ張っているので、フギンの二本の肢は、
左右で、別々のステンレスパイプをつかんでいた。二本のパイプは、ゴムシートと竹材によって、
電気的に絶縁されている。
ステンレスパイプから延びている電線は、合わさって一本のコードとなり、雨戸の隙間から部
屋の中へ導かれていた。さらに、100Vを200Vに昇圧する変圧器を通って、最終的には壁
攣している。驚いたムニン
けいれん
のコンセントに接続されている。コードの途中には、スイッチが取り付けてあった。
蓮実は、フギンの様子を窺いながら、スイッチを入れた。
結果は、激烈なものだった。
フギンは、大きく口を開け、半ば羽根を開いた状態で固まって、痙
は、一声大きく鳴くと、飛び立っていった。
フギンも、鳴き声を発しかけたが、どうしても声が出せないようだった。両方の目が、瞬膜で
真っ白になっている。
鳥は、一本の高圧線に止まっても感電しないが、別に、人や獣より絶縁性が高いわけではない
79 第一章
らしい。左右の肢の間に電圧をかけてやれば、ひとたまりもないのだ。さぞ、止まり木を放して
逃げたいことだろうが、感電すると筋肉が収縮するために、自らの意思では握った両肢を開くこ
とができないのだろう。
やがて、フギンは、全身の羽毛を逆立てて膨らんだ状態で動かなくなると、コウモリのように、
止まり木から逆さまにぶら下がった。すでに絶命しているのは明らかだった。
蓮実は、電気止まり木のスイッチをオフにすると、雨戸を開けて庭に出た。
カラスの死骸が、どさりと地面に落下する。
やれやれと思う。こうして見ると、実に大きい。オナガなど比べものにならなかった。これほ
どかさばる物体を、いったい、どうやって処理したらいいのか。燃えるゴミとして黄土色のゴミ
袋に入れて出したら、きっと、すぐに見咎められることだろう。
ネットで調べると、カラスを材料にしたパイやシチューの作り方が出ていたが、とても食べる
気にはなれない。モモの餌にすれば家計の節約になるが、与えるのはハンバーグでなくては意味
がないので、いったんカラスの挽肉を作らなくてはならず、それも、あまりぞっとしない話だっ
た。
蓮実は、自分が無意識に口笛を吹いているのに気づいた。癖というのは、なかなか直らないも
のらしい。
メロディは、『三文オペラ』の『モリタート』だった。
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