PDF版 - 岐阜県遊技業協同組合

岐 阜 県 遊 技 業 協 同 組 合 五 〇 年 史
岐阜県遊技業協同組合
五〇 年史
岐阜県遊技業協同組合
五〇年史
発刊のごあいさつ
岐阜県遊技業協同組合 理事長
大 野 春 光
年に岐阜県遊技業協同組合理事長に就任させていただいて以来、歴史
遊技機としての近代パチンコの起源を、正村竹一氏考案による正村ゲージに
置くならば、以降の歴史は射幸性と娯楽性を行きつ戻りつした歴史であります。
を置き、県内遊技業界の生きた歴史をこのたび編纂致しました。
史でもあります。残された年表には現れてこない﹁記憶としての組合史﹂に重き
組合の歴史は人の歴史であり、志の歴史であり、先人達の汗と涙と情熱の歴
回が最後の機会と考え、この五〇年史を企画いたしました。
立当初の当事者の皆様の言葉を交え、我が組合の歴史を記す事が可能なのは今
ある組合に、系統だった記録がないということを残念に思っておりました。設
平成
20
言い換えれば画期的アイデアとそれに対する規制の歴史。組合員ホールの栄枯
盛衰と業界の毀誉褒貶は、その両極間での出来事に過ぎません。
年に
年岐阜大衆遊技場組合、昭
22
組合を一本化する岐阜県大衆遊技場組合連合会、そして昭和
年には岐阜パチンコ組合、昭和
岐阜市徹明町に県内初のホールが開店したのは、未だ戦禍の残る昭和
遡ります。昭和
年には県内
27
楽性が業界の横軸ならば、組合設立以降の
年間一貫した二本の縦軸は、暴力
年前、先の見
50
年の未来を拓く岐阜県遊協の大いなる礎とならんことを、そしてまた遊技業
えぬ危機感を前に集まった、先人達の勇気と智恵の歴史に学ぶことで、次なる
ここ数年、我が業界は未曾有の苦境に立たされております。
り、我が業界は娯楽の雄として、一般大衆の期待に応えてきました。
対策と社会貢献でありました。この縦軸と横軸を遊技組合が織り成すことによ
50
和
26
16
年に現在の岐阜県遊技業協同組合が設立されました。先に述べた射幸性と娯
30
36
きます。
ることを期して、
﹃岐阜県遊技業協同組合五〇年史﹄発刊の言葉とさせていただ
を愛するすべての人々の期待に応え、社会に貢献する岐阜県遊協でありつづけ
50
祝 辞
衆 議 院 議 員 野
田 聖 子
岐阜県遊技業協同組合が創立 周年を迎えられ、ここに﹁岐阜県遊技業協同
組合 年史﹂
が発刊されますことに対し、心からお祝いを申し上げます。
50
﹁ にして天命を知る﹂と言う言葉がありますが、貴組合は 年に亘る
論語に
長い歴史の中で、大衆娯楽の殿堂として県民に広く親しまれ、レジャー産業の
50
50
月に、自民党、民主党など与野党の超党派による﹁国際観光産業振興議員連盟﹂が設立され、いよいよ
昨年
カジノ合法化へ向けての動きが具体化して参りました。国際観光産業の振興を図ることは、地域の個性を育み
さて、遊技業界をめぐる今後の動向としましては色々な問題があろうかと思いますが、その一つに﹁いわゆる
カジノ法案﹂をめぐる動きがございます。
その間、幾多もの紆余曲折があったかとお察しいたしますが、歴代の役員をはじめ会員の皆様方の英知とご
努力により今日を迎えられておりますことに対し、深く敬意と感謝を申し上げる次第であります。
れました。
一 翼 を 担 い、 経 済 的 な 地 位 の 向 上 と 合 わ せ て 幅 広 く 社 会 貢 献 を 図 ら れ る な ど 確 固 た る 社 会 的 基 盤 を 築 い て こ ら
50
終わりに、岐阜県遊技業協同組合が大野理事長様の下で、ますます絆を深められさらなるご躍進をされます
ことと、会員の皆様方のご健勝を心から祈念申し上げお祝いの言葉といたします。
私と致しましては、皆様のご意見、ご要望をお伺いいたしまして、長年お世話になっております皆様方業界
の発展のために、お役にたてますよう頑張って参りたい所存であります。
カジノ法案と合わせて、関連するパチンコ業法の問題もございますが、双方が共存共栄し国民の中で定着し
て行くことが一番望ましい姿ではないかと考えております。
ております。こうした国際情勢を鑑みると、日本においても早急な法整備が必要であります。
ます。カジノは120ヶ国以上で合法化され、現にアジアでもマカオやシンガポールが観光誘致に成功を収め
等の観光資源に新しい観光産業が加われば、観光立国の実現へ大きな起爆剤になるのではないかと考えており
地域で暮らす人々の雇用の場につながる大切な施策であります。さらに、日本の誇る自然、歴史、伝統、文化
4
祝 辞
このたび、岐阜県遊技業協同組合が創立
に喜ばしく心からお祝いを申し上げます。
岐 阜 県 知 事 古
田 肇
周年を迎えられましたことは、誠
組合におかれましては、昭和 年に設立されて以来、 年もの永きにわた
貴
り、組合員の経済的地位の向上と健全娯楽の育成に取り組んでこられました。
50
50
また、愛のともしび基金をはじめとする福祉事業等へのご寄付を通じて、県政推進に多大なご貢献を賜って
おり、厚くお礼申し上げます。さらに、この 周年を記念して情報科学芸術大学院大学及び国際情報科学芸術
これもひとえに、歴代の役職員及び組合員の皆様方のご尽力の賜物であり、深く敬意を表する次第であります。
36
年
岐阜県では、こうした時代の変化を正面から見据え、県が直面する課題を長期な視点から検討し、平成
月に﹁岐阜県長期構想﹂を策定したところであり、
﹁希望と誇りの持てるふるさと岐阜県づくり﹂に取り組んで
さて、我が国は、本格的な人口減少時代を迎え、これまでの右肩上がりの社会・経済モデルは通用しない時
代に入ってきております。
てまいります。
て欲しい﹂という組合員の皆様のご期待にお応えできるよう、地域や産業に貢献できる取り組み・研究に役立て
﹁地域を支える先端産業育成に役立て
アカデミーへご寄付をいただきました。改めてお礼申し上げるとともに、
50
21
皆様方におかれましては、人口減少や娯楽の多様化などにより市場規模が縮小していると伺っており、厳し
い環境が続くと思われますが、創立 周年という記念すべき節目を機に、今後もより一層団結を強固にされ、
組み、岐阜県の確かな未来づくりを一層推進してまいります。
子高齢化・人口減少を背景とした国内市場の縮小に加え、厳しい経済・雇用情勢が続く中で、環境や新エ
少
ネ ル ギ ー、 航 空 機 な ど 今 後 成 長 が 見 込 ま れ る 分 野 の 育 成 や 海 外 へ の 事 業 展 開 に 対 す る 支 援 な ど に 積 極 的 に 取 り
おります。
3
最
後になりましたが、岐阜県遊技業協同組合の益々のご発展と、組合員の皆様方のご多幸とご活躍を祈念し、
お祝いの言葉といたします。
代表的な娯楽であるパチンコの健全な発展と社会貢献活動にご尽力いただきますようお願い申し上げます。
50
祝 辞
岐阜県警察本部長 滝
澤 裕 昭
周年を迎えられたことを心からお祝い申し
昭和 年の創立以来、相互扶助の精神に基づき、健全娯楽に向けた啓蒙活動、
社会福祉活動をはじめ組合の統率による各種防犯活動を通じて地域の安全活動
岐阜県遊技業協同組合が、創立
上げます。
50
さて、県下の治安情勢は、平成 年をピークとした刑法犯の認知件数が 年連続減少し、ほぼ半減したとこ
ろ で あ り ま す が、 不 況 に 追 い 打 ち を か け る よ う に 高 齢 者 等 の 社 会 的 弱 者 を タ ー ゲ ッ ト に し た 振 り 込 め 詐 欺 を は
ることを切に望むものであります。
昨今の世界中を揺るがすような100年に一度の経済不況と先行き不透明な中にあって、業界を取り巻く環
境は非常に厳しいものがあると思いますが、今後も風適法の基に秩序ある健全営業に一丸となって取り組まれ
ります。
に尽力され、今日の基盤を築かれた関係者の皆様方のご苦労に対しまして、深く敬意と感謝を表する次第であ
36
7
最後になりましたが、岐阜県遊技業協同組合の益々のご発展と皆様方のご健勝、ご多幸を心からお祈りいた
しまして、お祝いの言葉とさせていただきます。
その中で、岐阜県遊技業協同組合の皆様方には、今後とも各種防犯及び暴排活動に協同して参画いただき地
域の活動の中核となっていただくことをお願いいたします。
識の高揚、防犯ボランティア活動への積極的支援などを推進しているところであります。
﹁安全・安心な岐阜県の実現﹂を基本指針として、全職
こうした治安情勢を踏まえ、岐阜県警としましては、
員が一丸となり、犯罪の予防、検挙はもとより、社会と一体となった暴力団排除活動や地域住民の自主防犯意
るなど、取り組むべき課題は山積している状況にあります。
じめ、悪質商法事件、ヤミ金融事件などが増加するとともに暴力団、不法滞在外国人等の組織犯罪が深刻化す
14
祝 辞
田
實
周年を迎えられましたことを、心からお祝い
全日本遊技事業協同組合連合会 理事長 原
岐阜県遊技業協同組合が設立
申し上げます。
36
平成
年から毎年100万円の寄付を行っており、また、平成 年から﹁あいぱちプロジェクト﹂と称し、定期
とりわけ、地域に対する貢献活動等を積極的に行われ、大変熱心に取り組んでいただいております。社会福
祉に向けた寄付活動として、県内の社会福祉施設等へ助成事業を行っている﹁岐阜県愛のともしび基金﹂に対し、
界発展のため多大のご尽力を賜り、心から敬意と謝意を表する次第であります。
組合におかれては、県内遊技場経営者の発展を目指して、昭和 年にホー
貴
ル営業者の任意団体として発足されて以来、全日遊連の中核として、ホール業
50
20
これも、ひとえに、大野理事長をはじめ、歴代の役員並びに会員の皆様方の御尽力の賜物であり、この記念
すべき 周年を期に、改めて、心から敬意と謝意を表する次第であります。
るなど、地域に密着した意欲的な活動を続けられております。
的に移動式のパチンコ島設備を老人福祉施設に持ち込み、今までに100回を超えるぱちんこ大会を開催され
12
周年を契機として一層の御発展を遂げられますととも
結 び に 当 た り ま し て、 岐 阜 県 遊 技 業 協 同 組 合 が 創 立
に、皆様方の御健勝と御繁栄を心からお祈りいたしまして、私のお祝いの言葉とさせていただきます。
おります。そうした中、貴組合の役割は大きく、また大変期待しているところであります。
中にひと時の潤いを提供するという崇高な理念を共有し、組織を挙げて諸施策に取り組んでいきたいと思って
後も、全日遊連では、私どもの基本理念である﹁身近で手軽な大衆娯楽の確立﹂に向けた取組みを行ってま
今
いります。私たちのパチンコ遊技が、真の意味で多くの国民の皆様のレクリエーションとなり、日々の生活の
50
50
祝 辞
谷 友 尋
周年を迎えられましたことを心からお慶び申
社団法人日本遊技関連事業協会 会長 深
岐阜県遊技業協同組合が創立
し上げます。
一言で 年といっても、戦後の草創期を経て、半世紀にわたる年月の間には、
50
今日、遊技産業は 数兆円の大きな産業に発展しましたが、様々な課題を抱えております。
民の方々に愛され続けてきた歴史そのものであり、まことに御同慶にたえません。
する次第です。半世紀にわたる歩みは、パチンコ遊技がまさに憩いの場を提供する大衆の娯楽として、岐阜県
先達のご努力により幾多の困難を乗り越えられ、今日の強固な基盤を築いてこられたものと、心から敬意を表
50
げます。
こうしたなかで、岐阜県遊技業協同組合が 周年の節目を迎えられましたことは、真に意義深いものがあり
ます。今後とも健全な大衆娯楽として、貴組合の皆様が一致団結され、さらにご発展されることを祈念申し上
かなければなりません。
つつ、﹁身近で手軽な大衆娯楽﹂を基軸として、今後とも中長期的な視点に立って遊技産業の将来を見据えてい
役割は、ますます大切なものとなりましょう。大衆娯楽の道を切り拓いてこられた先達のご労苦に思いをはせ
り ま す。 こ う し た 厳 し い 経 営 環 境 に お い て 協 同 組 合 な ど 業 界 団 体 が 手 を 携 え て 果 た し て 行 く べ き 社 会 的 責 任 と
の減少の一方で、低貸玉営業の普及・浸透などが続いており、産業構造そのものが大きな転換点に直面してお
長引く景気低迷下、レジャーの多様化のなかにあってパチンコ・パチスロのファン人口の伸び悩み、店舗数
20
50
祝 辞
原 高 明
周年を迎えられま
日本遊技機工業組合 理事長 市
岐阜県遊技業協同組合におかれましては、このたび創立
したことを心からお慶びを申し上げます。
よう業界あげて取り組まなければなりません。
貴
組合がこの節目を契機とされ、理事長を中心にさらに結束し、ますますご発展されますことを祈念いたし
まして、お祝いの言葉とさせていただきます。
業界が、大きな変革の時を迎え将来を見据えてのかじ取りが必要な今、いみじくも設立
したことは、まことに意義深いものがあります。
周年を迎えられま
め関係する多くの人々が、その責任と使命を果たし、真にファンに愛され親しまれる娯楽として発展し続ける
心して遊べるより健全な遊技環境を構築しなければ将来はありません。ホール営業者、遊技機製造業者をはじ
題は山積しておりますが、ぱちんこ遊技は、あくまでも﹁身近で手軽な健全娯楽﹂であり、業界あげて安全で安
われておりますが、実感としては乏しい状況にあります。経済情勢の悪化や健全化を阻害する要因も多く、問
多くのファンに支えられ、日常のレジャーとして親しまれ今日に至っておりますが、近年の遊技業界を取り
巻く情勢は誠に厳しいものがあります。ここ数年のファン及びホール営業所数の減少に歯止めがかかったと言
と考えています。
ぱちんこ遊技は、戦後復興の中で、庶民のささやかな時間消費型レジャーとして確立され、人々に潤いと娯
楽としての楽しみを提供してきた役割は誠に大きいものがあったと思いますし、今後もその使命は変わらない
実に事業を推進し、健全化に向けた成果を挙げてこられましたことに対し、深く敬意を表する次第であります。
大衆娯楽であるぱちんこ産業を支え、今日までめまぐるしく変化してきた時代の中にあって、一致団結して着
代の理事長をはじめ、役職員、関係者の皆さまのご尽力により、岐阜県下
歴
のホール営業所を経営する多くの組合員をまとめられ、半世紀の長きに亘り、
50
50
4
祝 辞
日本電動式遊技機工業協同組合 理事長 里
見 治
岐阜県遊技業協同組合が、このたび創立 周年をお迎えになりますことを、
心からお祝い申し上げます。
貴組合は、わが国が戦後の混乱からやっと抜け出し、明日への希望を抱き始
めた時に設立され、以後歴代理事長のご指導のもとに組合員一同団結されて、
今日の輝かしい隆盛を築かれました。ここに改めまして深く敬意を表する次第
でございます。
さて、昨今の国内情勢は、円高、株安、デフレと経済を取り巻く環境は大変厳しく、更には外交問題等をめ
ぐり政局も混沌としており、決して明るい状況にはございません。私達の遊技業界も同様に相変わらず低迷を
続けております。
中でもパチスロ業界の落ち込みはひどく、私達日電協はこれを少しでも好転させるべく、皆様のご協力を頂き、
回胴遊商と共催して、昨年 月に﹁なんとかしようよ パチスロ文化﹂と銘打ったファンの集いを、また、夏に
は﹁ 月 日はパチスロの日﹂と制定して記念キャンペーンを行うなど、再浮揚策を講じましたが際立った成果
を挙げるには至りませんでした。
遊技業界の復興は、皆様方のホールが元気を取り戻して頂いてこそ成し得るものと考え、私達は法令を遵守し、
知恵を絞り、技術力を最大限に駆使してレベルアップを図りましたが、皆様方のホールの客席を満席にするこ
とが出来ず、心苦しく思っております。
私達は、離れたファンを呼び戻し、業界が失った 万人の雇用を取り戻し、再び 兆円産業へと回復させる
必要があります。そのためにはパチスロ業界の再浮揚が不可欠と考えます。ファンにもっと喜ばれ、楽しんで
頂ける遊技機を作るには﹁規則の解釈基準﹂等の緩和が必要と思い、政府や行政にお願いを致しております。私
達の願いを家の建築に例えて申し上げますと、建坪を射幸性に見立てますれば、何れは建坪を広げて頂きたい
との思いはありますが、現在の建坪でも結構ですから、せめて部屋の間取りは私達に任せて頂けないかとの思
いから緩和のお願いをしているものでございます。
私達のパチスロ業界にも、ほんの僅かではございますが光が差し込んできたように思える今日、私達日電協
は自らの襟を正しつつ、皆様方と緊密なる連携のもと、ファンに喜ばれ、愛される遊技機作りに邁進すると共に、
社会貢献活動等を通じて﹁信認される日電協﹂を目指して努力を続けて参ります。皆様方の更なるご協力・ご支
援をお願い申し上げます。
岐阜県遊技業協同組合の益々のご隆盛と、加盟組合員様企業のご発展を心からご祈念申し上げまして、お祝
いの詞とさせていただきます。
創立 周年 誠におめでとうございました。
8
50
2
10
50
30
年のあゆみ
一、岐阜の出発点は「戦後」 …
………………………………………………………………
第一章 県遊協 …
…………………………………………………………
14
……………………………………………………………
五、
「社会貢献」催しや寄贈 ……
四、スリリングな暴力団排除 …
……………………………………………………………
三、順風の中、県遊協誕生
55
44
39
32
九、低落と競合の時代
…
……………………………………………………………………
兆円市場をピークに …
………………………………………………………………
…
………………………………………………………………
七、パチンコ台、どう変遷
十、自由競争という〝黒船〟 …
………………………………………………………………
十一、
《座談》 県遊協を語る …
……………………………………………………………
72
68
64
58
編集後記
八、
…
…………………………………………………………………………………………
77
六、プリペイドカードという激震
…
………………………………………………………
…
………………………………………………………………
二、パチンコはどう生まれたか
24
50
83
30
第一章
県遊協50年のあゆみ
一、岐阜の出発点は「戦後」
5
(略 称・ 県 遊 協)は 今 年、 周 年 を 迎 え る が、 そ の 起 点 を 昭 和 年
「岐 阜 県 遊 技 業 協 同 組 合」
(1961)
の
「県遊協」
創設の時に置いている。 年間の歴史プラスその助走期間を加えると、や
岐阜のパチンコの歴史は、復活した戦後が実質のスタートと言ってよいだろう。
し た。
さ れ て い る が、 業 態 は さ だ か で な か っ た。 第 二 次 世 界 大 戦 中 は 全 面 禁 止 に な り、 終 戦 後 に 復 活
のことだ。愛知県
パチンコという遊技が、店舗として最初に開店したのは昭和 年(1930)
警の記録に平野はま
(はまの)
さんに許可を出した昭和 年以前、京都、大阪で営業されていたと
5
50
36
が人気を博した昭和 年
(1977)に、「全国遊技業組合連合会」
(略称・
歌手「ピンクレディー」
全遊連)
、
「全国遊技業協同組合連合会」
(略称・全遊協)
の連名で発行された記念誌だ。
『全遊連
(協)
二十五年史』
(略称・
『二十五年史』
)
が手元にある。
戦後間もないころの岐阜の業界のことを語れる人材は、もはや数少ない。勢いわずかな資料や
文献に頼らざるを得ない―。
追って紹介することにして、まずは
「戦後の岐阜パチンコ業界」
のことから話を始めたい。
はり〝戦後がスタート〟
となる。戦前のパチンコ機器誕生の話や、全国的な業界の動きについては、
50
刊されている貴重な資料だ。
「全遊連」
が昭和 年
(1951)
に最初に組織され、やがて 年
(1966)
に
業界の全国組織は
なって「全遊協」
という組織にすべての加入団体が順次移行を終えた。この記念誌は両組織名で発
52
41
(1989)
に発足した
「全日本遊技事業協同組合連合会」
ちなみに、この二つの団体は平成元年
26
14
第一章 県遊協 50年のあゆみ
(略称・全日遊連)
につながり、県遊協もこれに加盟している。
この中に岐阜県の項目が ページにわたってある。
789ページとボリューム満点のつくりで、
役員の紹介がされ、
「岐阜県遊協の主な出来事」
とタイトルが付けられている。ここから、岐阜の
◆ 徹明町に名古屋の人が出店
時系列で話を進めたい。
(1947)
から翌 年ごろ〉 〈昭和 年
(故人、岐阜地区)が終戦から
時の副理事長である安藤満雄さん
岐阜市長住町で
「赤玉」
という店を出していた。
われるパチンコ機でした。私も
、
年ごろ
パチンコは大衆娯楽の王様だが、戦後、
「飢餓」「闇市」
「買い出し」
「進駐軍」など
のフレーズが並ぶ時代状況の中で、
「焦土
の中の一灯」ともいえる存在としてパチン
個
コ が 登 場 し た。 人 々 は、 店 内 に 流 れ る 流
行歌「リンゴの唄」を聞きながら、玉
1
ずつを挿入口から入れて、バネを弾いた。
25
年後の証言をしている。
7
5
3
店開業しました」
4
20
台ぐらいのホールを
「小物」 パチンコ博物館蔵
25
「岐阜市内の最初のパチンコ店は、徹明町に出来た約 台のホールだった。名古屋の人が出店
しました。その後、映画館
『岐阜劇場』
前に二つのホールがオープン。『 ・ ・ 』
など小物とい
、
実情を拾ってみる。なお、一部ではあるが貴重な話が聞けたので、それも合わせて紹介する。
11
3
23
24
タ バ コ な ど は い ま だ 統 制 下 だ っ た が、 景
15
2
22
・
・
3
」
というのは、玉が入
3
」の「オール物」が現れる。なお、パチンコ業界では店舗のこと
2
品のタバコや甘い菓子は、大きな魅力だった。証言に出てくる「
5
、 個しか出ない機器もあっ
7
る場所によって 個、 個、 個と出玉数が違う機器をいう。玉が
」
「オール
を「ホール」
と呼んでいる。
た。やがて「オール
3
「風俗営業取締法」
昭和 年にパチンコ業界にとって、画期的な法令が施行されることになる。
だ。風営法というと、取り締まりの意味合いが前面に出てしまうが、その逆。
「許可制」
という国
15
5
10
7
個 銭から 銭と、値幅が
1
20
50
あったものが 円に統一された。なお、パチンコ玉は業界では「貸し玉」と呼んでいる。
けだ。ただ
「遊技場」
の表示が義務付けられ、パチンコ玉の値段が、
客に射幸心をそそる恐れのある営業」とあり、
「その他の施設」にパチンコ店が含まれるというわ
による認知が得られたのだった。法令文には
「玉突き場、マージャン店、その他の施設を設けて、
23
(1949)
から翌 年〉
〈昭和 年
同じく理事の篠田英さん
(故人、岐阜地区)
が、ホール内の雰囲気を証言している。
1
25
を出すことが度々。正村式のオール
店ほどありました」
年の
24
が、このころ岐阜に登場し、所蔵台数
ケタ違いの
万
4
25
台前後のホールが
20
8
千452店を記録している
(警視庁調べ)
。
3
4
1
24
そして 年
(1953)
には
28
という言葉があるが、まさにその言葉通りパチンコ店が全国規模で
「雨後のタケノコのように」
姿を現した。昭和 年
(1949)
に 千818店だったのが、
翌 年には倍増の 千450店に。
10
「照明は裸電球。客受けするように、遊技機の丸いブリキに竜やトラ、ミッキー、ベティなど
思い思いの絵を描きました。パチンコ機器はまだ粗雑で、玉の出が悪く、裏から台をたたいて玉
24
◆ 長時間労働に支えられて
10
16
第一章 県遊協 50年のあゆみ
このころのパチンコ店の規模は、 店あたり平均 台から 台が普通。店を切り盛りする苦労
は大変で、朝 時から夜 時までの交代なしの長時間労働。タバコの灰などの掃除、機器裏での
11
1
20
30
26
だった。
〈昭和
年
(1950)
から翌 年にかけて〉
ソーダや粉せっけんを一緒に入れ、イモを洗うように洗った。家族の応援なしには出来ない仕事
た る お け
玉詰めなど雑用の連続だった。閉店後には
「玉洗い」
が待っていた。味噌たまりに使う樽桶に苛性
8
(1952)
に創設される「岐阜大衆遊技場組合」の初代組合長・牧野甚市さん
(故
翌々昭和 年
人、岐阜地区)
が次のように証言している。
牧野さんは昭和 年
(1961)に組織替えとなった
「岐
25
36
どを置き、バールで機械をこねたりしたこともありました。昭和
年
20
30
月には、
『けいりん』
(石
32
5
川政雄さん経営)
、 月には
『フジヤ会館』
(堀井勝太郎さん経営)が開店しました。フジヤ会館は
26
「岐阜市で 店目の
『ダイヤ』
(現
『アロハ』
)
を開店しました。台数は 台と、当時 台から 台
が多いホールの中で最大規模。出玉を調整するために、台の裏には貸し玉、レンガ、漬け物石な
阜県遊技業協同組合」
の初代理事長でもある。
27
13
年に廃業しています」
8
このころになると、全国を舞台に遊技場業者の団結を呼びかける声が大きくなり、昭和 年
(1951)
に、熱海に集まった各地代表によって
「全遊連」が誕生している。初代会長には愛知県
26
年に全遊連
27
県でつくられ、全
代表の西本熊蔵さんが選ばれた。ここへは岐阜から代表を送り込んでいないが、翌
の東海地区組織である
「全遊連東海地区協議会」
が愛知、静岡、三重、岐阜の
4
遊連の傘下に加わっている。地区協議会の会長も全国組織同様、西本さんに決まった。
17
45
◆ 氷柱に代わって扇風機
(1951)
から翌 年にかけて〉
〈昭和 年
27
27
10
歳になっておられ、
最近は外出も極めて少ないという。
80
台ほどの台を保有し、規模としては大きい方でした。私はまだ
代でした。ところが、新しく
(与六さん)だが、商売がうまくいかず、地域の有力者の勧めと
「元々、モチ屋をやっていた父
資金援助でパチンコ店を出店しました。
場所は岐阜市の金宝町、
円徳寺の近くで、
名前は
『甲子園』
。
うかがった内容を紹介する。阿曽さんは齢
(岐阜地区)
の証言も見られるが、はからずもご本人と会
この記述個所には理事の阿曽博次さん
うことが出来た。記述された文章は、残念なことに間違いがいっぱいとのこと。その訂正を兼ねて
をとったもの。氷柱に代わって、ぼつぼつ天井に扇風機がつくホールが出始めました」
ろです。ホールの冷暖房は、夏は氷柱、冬は火鉢や練炭。通路の所々に囲炉裏を掘って炭火で暖
15
26
ル』など小規模のホールが増え、その数全部で120店。オール
の機器が出始めたのもこのこ
「戦後間もなく流行したビンゴゲームのホールを開業した仲間が、岐阜市内に 店ありました。
しかし昭和 年秋ごろには、パチンコに転業したようです。翌 年には『宝玉会館』
『新岐阜ホー
(故人、岐阜地区)
の証言。
監事の河合善英さん
26
10
歳になったころです。店の切り盛りで難儀をした覚えは
40
業界は昭和 年
(1951)
のこのころを
「第一次パチンコブーム」と規定しているが、まさにそ
のころの話だ。
した。父は平然と応対していましたから、驚きでした」
あまりないのですが、店へ暴力団が度々やって来て
『面倒を見てやる』と脅すのには肝を冷やしま
よそに出たため私が後を継ぎました。
は長良橋通りの県総合庁舎近く。最初、兄がパチンコの仕事を継いだのですが、気性が激しくて
つくる道路に店がかかって、強制執行にあってしまいます。やむなく移転するのですが、移転先
30
26
18
第一章 県遊協 50年のあゆみ
◆ 県遊協組織にたどり着くまで
「岐阜県遊技業協同組合」
(県遊協)としてまとまっているが、そ
岐阜のパチンコ業界は現在、
れまでの組織事情をここで振り返ってみたい。
「雨後のタケノコのように出現した」
と紹介したが、その様態は岐阜の地で
戦後、パチンコ店が
も変わらない。先の先輩諸氏の証言を抜き書きすると
倍だ。
年
(1949)
………岐阜市内に 店
▽昭和
(1952)
………岐阜市内に120店
▽昭和 年
となる。単純に言うと
(1952) 月
当然、業界を統率するために組合という組織が必要になる。それが、昭和 年
に発足した
「岐阜大衆遊技場組合」
だ。組合長には、先に登場した牧野甚市さんが選ばれた。
この数字は、岐阜市内に限定したものだが、このころパチンコ店があったのは「都市部の岐阜
市内に限られていた」
と言ってもよく、またその増加率は全国をはるかに上回っていた。
4
10
うつわ
では、この辻さんを初代組合長として扱っている。
『二十五年史』
この後、岐阜の組織は名称を度々替えている。多分に組織実態に合わせて器を大きくしたのだ
ろう。
のポストを務められたようだ。
華劇場」を経営して県議の肩書きがあった有力者で、業界とは無縁ではあったが、名誉職的にこ
「岐阜パチンコ組合」
が存在した。正式な設立手続きが
実は、この岐阜大衆遊技場組合の前に、
取られず、業界間での自称組織とされていたようで、その代表は辻直吉さん(故人)
。柳ヶ瀬で
「金
27
(組織名替え、組合長が交代した時のみ)
。
その推移をまとめてみると次のようになる
19
30
27 24
年
(1953) 同
(1951)
「岐阜パチンコ組合」
(自称)
昭和 年
年
(1952)
「岐阜大衆遊技場組合」
同 同 同 組合長・辻直吉
組合長・牧野甚市
組合長・西尾茂秋
年
(1954) 同
組合長・市川敬一
年
(1955)
「岐阜県大衆遊技場組合連合会」 組合長・市川敬一
組合長・牧野甚市
代目の大野
59
同 年
(1958) 同
事長にバトンタッチされる。
39
書きとめておきたい。
『二十五年史』が作られた昭和 年
(1977)時点
参考までに、
に お け る「県 遊 協」の 役 員 体 制 が ま と ま っ た 形 で 残 っ て い る の で、
3
52
同 組合長・後藤喜久
理事長・牧野甚市
(1964)ま で 続 き、 こ こ か ら
牧野体制は同 年
正雄理事長の体制へと移行していくことになる。
2
大 野 さ ん を 理 事 長 と す る 執 行 部 体 制 は、 同 年 か ら 同 年
(1984)ま で の 長 期 に わ た り、 こ の 後、 代 目 の 若 松 昭 二 郎 理
39
ここに至って、やっと現在の組織名「岐阜県遊技業協同組合」と
なる。
年
(1960) 同
年
(1961)
「岐阜県遊技業協同組合」
「岐阜県大衆遊技場組合連合会」発足を伝える紙面
(岐阜タイムス 昭和30年1月18日)
同 同 36 35 33 30 29 28 27 26
20
第一章 県遊協 50年のあゆみ
【理 事 長】
(岐阜)
大野正雄
【副理事長】
(いずれも岐阜)
、宮向井常松
(多治見)
、山下清詞
(高山)
、
片桐安次、安藤満雄
(大垣)
若松昭二郎
【常務理事】
(岐阜)
、高山英雄
(大垣)
、福田善雄
(羽島)
、渡辺源一
(関)
小田勇
【理
事】 篠田英、大野春一、阿曽博次、後藤斌夫、徳原喜晴
(いずれも岐阜)
、崎山信夫、
大原久和
(ともに大垣)
、小池六郎、安藤桐夫
(ともに多治見)
、向井三樹夫
(高山)
、
村田好平
(羽島)
、河合良明、島村忠男
(ともに加茂)
、林鐘達(各務原)
、
戸田義寛
(中津川)
、西尾良一
(恵那)
、工藤為次
(美濃)、服部金三
(北方)
、
倉田市朗
(揖斐)
、田堀太市
(萩原)
、加藤英明
(垂井)、武藤政五郎
(八幡)
、
椰野一郎(海津)、河上弘(神岡)、江崎光雄(高富)
、橋本政雄
(御嵩)、田口喜代夫(古川)、
西柳ヶ瀬にあった以前の
「岐阜県・岐阜市遊技業協同組合」事務所
小木曽隆行
(岩村)
、新井畴錫
(養老)
、水野賢一(金山)
人
の )
【監 事】 河合善英、井上政雄
(ともに岐阜)
、
(大垣)
加藤尚
【事務局長】
河手義美…以上
(岐阜市柳ヶ瀬通り
事務局
22
※ 事 務 局 が あ っ た 場 所 は 西 柳 ヶ 瀬 で、 副 理 事 長・ 片 桐 安次
さ ん 所 有 の 建 物。 隣 に 片 桐 さ ん の 店 が あ っ た。 事 務 局 は
この後、現在の場所に建造されることになる。
21
4
43
◆ 人気の連発式に禁止令
組合の役員体制をめぐって、時代のコマを進め過ぎた。ここで話を再び昭和
ろに話を戻したい。
年
(1952)
ご
「第一次パチンコブーム」
が到来して業界が沸き立つのだが、 年
(1954)
に
昭和 年ごろ、
なると、一挙に冷水を浴びせられる事態を迎える。
「連発式パチンコ機の禁止令」
だ。
27
29
倍から 倍にスピードアップした。
「機関銃」
ともいわれる連射式のパチンコ。これまで、左手で 個ずつ
連発式というのは、通称
挿入口から玉を入れていた単発式が、この機関銃式なら右手 本で打て、しかも発射スピードは
26
5
1
1
に全国に広まったといわれる。
1
48
ご
当然ながら、風船がしぼむ
ようにパチンコ業界は大打撃
はなかった。
れたが、それを止める手立て
す よ う な も の だ」の 声 も 聞 か
か
は、自動車を駕篭の時代に戻
楽を役人の発想で禁止するの
し ま う。 業 界 か ら は「大 衆 娯
国に行きわたることになって
年(1955)には禁止令は全
「著しく射幸心をあおる」
と、都の業界に禁止令を発したのを契機に、翌
東京都公安委員会が
パチンコに関する制限強化を伝える紙面
(東海夕刊 昭和30年1月11日)
30
に考案された
これにとどまることなく、さらに驚くべき機器が登場した。昭和 年(1973)
「電動式パチンコ」
だ。 分間に200発以上の玉が弾けたという。これらの新機器は関西を拠点
3
22
第一章 県遊協 50年のあゆみ
を 受 け て し ま う。 ち な み に、
千店は、禁止以降
万
禁止の直前にあったホール
万
1
一つの産業が、 年も満た
ないうちに半減してしまった
なってしまった。
近 く が、 路 頭 に 迷 う こ と に
るパチンコ産業関係者の半数
う。全国500万人といわれ
店を割ることになってしま
5
店 に 激 減 し た。 ス マ ー ト
業ホールが続出。120店が
『二 十 五 年 史』に よ る と、
「廃
岐阜の業界も当然ながら全
国 同 様 の 事 態 だ っ た。 先 の
いう。
という歴史は珍しいことだと
1
ボールに切り替えるホールも
あったが、やはりダメで、ま
た元の単発式に戻す店が多
か っ た」と い う 記 述 が 残 っ て
いる。
23
4
35
単発式機械の展示会を伝える紙面
(岐阜タイムス 昭和30年5月11日)
連発式パチンコ禁止で
県税減を伝える紙面
(岐阜タイムス 昭和30年6月11日)
二、パチンコはどう生まれたか
「チューリップ」
と称される新機種の登場などがあって、立ち直ってい
パチンコ業界は、その後
くのだが、ここでは戦前、そして戦後しばらくの足取り、
「連発式禁止」
にたどり着くまでを、さ
らに時代をさかのぼって振り返ってみたい。いわば岐阜の業界人が経験したことのない「パチン
コ史の助走期」
に当たる。
昭和の時代に入ってのことのようだ。
後の
「パチンコ店」
パチンコが庶民の前に姿を現したのは、
という形ではなく、露店として露天商が数台を車に積んで縁日などで店開きした。営業許可が必
要で、露天商が許可の下りやすい府県を選んで移動したらしい。時には客集めのデパートが、子
〝使い勝手よく〟
しかし、それを
日本流に応用することは得意とす
妥当だ。
陣の欧米機器に学んだと見るのが
イコロや花札と規模が小さい。先
い。賭博に限っても、日本ではサ
ロッパの方が明らかに歴史が古
に 至 る ま で 遊 び の 歴 史 は、 ヨ ー
とされる。遊技や娯楽、スポーツ
では、パチンコの機械はどのように造られたのか。そのルーツとされるのは欧米のマシーンだ
供や家族連れに向けて景品コーナーを設けたケースも見られた。
1 銭硬貨を投入すると玉が打て、
入賞すると硬貨が払い出される、
パチンコの始祖的な遊技機
(パチンコ博物館蔵)
24
第一章 県遊協 50年のあゆみ
るところだ。大正時代の中ごろに、大阪の貿易会社や商社などが欧米の機器を日本向けに改造し
た。これが露店などに姿を現したのだ。
ただ、こうした機器が現在のようなパチンコの形態に近づくには、まだまだ時間を要した。昭
和 年(1930)
ごろ、
〝パチンコ玉〟
は今のように小さな鋼球ではない。
「一銭パチンコ」
と称さ
れて、硬貨を投入すると玉が出て、はじいたその玉が穴に入ると硬貨が出てきた。やがて硬貨が
現金授受になるとして、真鍮メダルに取って替わった。
「メタル
(メダル)
パチンコ」
と呼ばれるも
のだ。
(は
日本で最初の屋内パチンコ場の営業許可を取ったのは、名古屋・大須観音近くの平野はま
まの)さんだと言われる。当時、大須が名古屋一の繁華街であることから、専用の店を開いても
「やっていける」
という算段が出来たのだろう。
この時のパチンコ機器はどんなものか、
記録が残っ
ていないらしいが、おそらく
「一銭パチンコ」
と見られる。
◆「パチパチ」
「パッチン」
ところで、
「パチンコ」
という名称は、どこから命名されたのか ― 。
正村竹一』の著作がある鈴木笑子さんは、
『愛知県遊
『天の釘 ― 現代パチンコをつくった男
の著述の中で、こんな見解を展開しておられる。
技業協同組合 年史』
「言い得て妙」
な表
要するに、機器から発せられる擬音が基本。大衆娯楽として親近感を覚える
現だ。
『パチン』
に
『こ』
をつけた説もある」
と。
「関西では『パチパチ』
『パッチン』
、関東では『ガチャン』
『ガチャンコ』と呼ばれていて、それ
が一つになった。あるいは、北陸や東北で
『雪んこ』
『あまっこ』と語尾に
『こ』
をつけることから、
40
「一銭パチンコ」
の景品は
『二十五年史』
によると、ある商会のカタログにこんなふうに記載され
25
5
銭のキャラメル
ていた、と紹介している。
枚にいたる時は、
個
5
2
1
1
「響」
(同) 個、またはチョコレート
枚にいたる時は、 銭の
銭の
「バット」
(タバコ) 個
1
個
1
年
(1936)
ごろのことだという。
11
(1937)
にパチンコ店の新規営業は許可されなくなり、 、 年にはコメ、
味噌、
しょ
昭和 年
う油、マッチなどが配給制になっていく中、機器の製造禁止、 年にはついに
「非国民的遊技」
の
娯楽の定番として、
着々とその座を固めつつあったパチンコだったが、
戦争という
「耐乏の時代」
を迎えて、撤退を余儀なくさせられていった。
「パチンコ王」
とも
「パチンコの生みの親」
とも言われる人だが、詳しい説明は
正村さんは、後に
後に譲るとして、ここに
〝パチンコの原型〟
が姿を現したのだ。
前は鋼球にちなんで、その名も
「スピード野球ボール」
。
の機器を並べたパチンコ店を出したのが名古屋市西区弁天通りの正村竹一さんだという。店の名
名古屋に藤井正一という人がいて、「コリントゲーム」
の
〝玉方式〟
先の鈴木笑子さんの見解では、
に学んで、パチンコ玉を考案。機器の商品名は
「スチールボール野球器」
と名付けた。そして、こ
鋼球という丸い玉が登場するのは、昭和
このころ、特急「つばめ」が東京 ― 神戸間を走りだし、時代はいまだ牧歌的な雰囲気を漂わせ
ていた。
1
枚にいたる時は、
個
10 7
銭のキャラメル
2
枚にいたる時は、
5
10 7
17
この後 年間、パチンコは世の中から完全に封印されたのだった。
レッテルが張られて、全面禁止となってしまった。
12
4
14
15
26
第一章 県遊協 50年のあゆみ
◆ 景品を調達して営業
じょう し ん
(1946)のことになる。
パチンコが息を吹き返すのは、終戦の翌年、昭和 年
心遊技場」だ。戦前の「スピード野球
先の正村竹一さんが名古屋市西区江川横町に出店した「浄
ボール」を引き継ぐ鋼球式の機器 台が、店内にズラリと並んだ。物資不足の中、景品を調達し
21
こうして、翌
年
(1947)
には名古屋市内でパチンコ店は
店を数えた。
パチンコの営業は、だれでも出来たわけではない。戦争引き揚げ者や戦争未亡人らに生活救済
措置として営業許可を与えたようだが、正村さんは戦前からの既得権がモノをいった。
えるという現実に人が群がった。
ての営業で、景品がなくなると
「これにて閉店」
ということだったが、娯楽の楽しさと景品がもら
20
11
『二 十 五 年 史』の 記 載 か ら、 岐 阜 の 業 界 の 実 情 を 拾 っ て 紹 介 し 始 め、 昭 和 年
本 書 は 冒 頭、
(1947)
から翌 年ごろにかけての話として、時の副理事長である安藤満雄さんの証言を記載
22
した。そこに出てくるのが
「岐阜市内の最初のパチンコ店は、徹明町に出来た約
22
台のホールだっ
20
23
・
・
』
というパチンコ機でした」
のくだりだ。
た。 名 古 屋 の 人 が 出 店 し ま し た。 そ の 後、 映 画 館「岐 阜 劇 場」前 に 二 つ の ホ ー ル が オ ー プ ン。
『
3
「
『 ・ ・ 』
というのは、玉が入る場所によって 個、 個、
さらに、こう説明を加えている。
個と出玉数が違う機器をいう。玉が 、 個しか出ない機器もあった。やがてオール 、オー
5
ル
、のオール物が現れる」
と。
3
7
5
3
2
7
10
5
くつわ
を
ここに至って、名古屋の業界人が岐阜にも進出し、岐阜のパチンコ史は、名古屋の歴史に轡
並べる事態を迎えることになった。
27
7
3
15
◆ 正村ゲージという発明
に至るまでの、パチンコ業界の隆盛は〝パチンコどころ名古屋〟
の
戦後「第一次パチンコブーム」
功績に負うところが大きい。中でも、正村さんの手による
「正村ゲージ」
と呼ばれる
〝現代パチンコ
機器の原点〟
に大きな恩恵を受けている。
について説明しよう。
まず「正村ゲージとは何か?」
ともいうべき、現在のパチンコメカを普通に感じている若者には、こんな説明
〝電子パチンコ〟
が通じるかどうか不安だが、ともかく説
明するしかない。当初のパチンコは、一
発打つと、玉が盤面の中を「ぐるーん」と
回って、穴に入るか、ハズレとして下に
落ち、
回収されるという仕組みだ。
「小物」
という機器になっても、早打ちをしても、
せいぜい盤面を躍る玉は数個にすぎな
い。これでは、躍動感がないし勝負が遅
い。客にとっては腕の振るいようがない。
正村さんは、これを改善できないかと
工夫に工夫を重ねた。改良点の主なもの
点 だ っ た。 こ れ に よ っ
は、「釘打ちの配列」と玉を躍らす「ブリ
キ 製 の 風 車」の
しい生き物のように変貌した。
き物のように盤面を躍り、パチンコは新
て、釘の誘導と風車にはねられ玉は、生
2
「正村ゲージ オール10」
竹内製作所、昭和25年
(パチンコ博物館蔵)
「正村ゲージ オール15」
竹内製作所、昭和25年
(パチンコ博物館蔵)
28
第一章 県遊協 50年のあゆみ
(1948)
に
「正村ゲージ」
の基本スタイルが完成、その 年後には、どの穴
こうして昭和 年
に入っても 個の玉が出る「正村ゲージオール 」
、さらに「正村ゲージオール 」が完成したの
10
2
15
ている。 歳の時に口減らしのために、
遠縁にあたる指し物職人の長崎五三郎の家にもらわれた。
彼のことにも詳しい先の鈴木笑子さんの調べを引用させていただく。実は彼は、岐阜市の生ま
れだ。詳しくは岐阜市茜部寺屋敷
(当時、稲葉郡茜部村)
の小作農の九人兄弟の三男として出生し
天衣無縫とも思えるこの正村竹一さん。何者なのか ―。
◆ 正村さんは岐阜市生まれ
め、発明の特許出願もしなかった。
「パチンコは儲かるぞ」
。会う人ごとにパチンコ経営を勧めたという。自分が
正村さんの口癖は
開発した機器についても
「皆で仲よう使や、エエがや」
という相互扶助精神だったという。そのた
だった。機器裏の上部タンクには200個の玉をため置き、いちいち補給の必要がなくなった。
23
ここで見よう見まねで、指し物の技術を覚え、さらに宮大工をしている母親の生家で修業してい
る。ここでの修業が、後にパチンコの釘打ちに役立ったという。この後、酒問屋の従業員として
働き、商売の基本を身につけ、名古屋へ出て、西区浄心でガラス商として独立した。
店の貸家を
日間遺体と一緒に放置され
人の 倍働くことをモットーに、 時間の睡眠で働き通したという。本業以外に
持ち、アイスキャンデー屋、喫茶店を経営。パチンコ屋も経営の一つだった。
戦時、徴用工として勤務した愛知航空機船方工場で爆撃にあい、
る、という九死に一生を得る難事を経て生還した。
3
酒問屋の従業員だったのは、岐阜市のお隣、羽島郡笠松町の「高木酒店」
だった。笠松は江戸時
代に「美濃郡代」
が置かれ、
明治維新になって
「岐阜県」
の前身
「笠松県」
の県庁所在地となるのだが、
5
3
その敷地に隣接する場所に酒店はあった。
29
10
10
3
升ビン
店は現在も続いており、正村さんの雇用主である高木重太郎・やすさんの息子嫁にあたる高木
清子さん
( 歳)
に当時の話が聞けた。それによると、従業員は全部で 人ほどいたが、とにかく
よく働く人で頭がよかった。すでに妻帯し住み込みの形だったという。回収した空きの
10
本をケースに入れて、一度に洗えるように工夫していたのが印象に残っているという。このこ
1
89
やすいと、土中に埋められるなど大事に保存されてきた。鋼球は、名古屋のトラックやミシンな
29
3
ガラスは渥美など温室栽培に使われた温室用ガラスで、このガラスが光って、B
の標的になり
その物資とは、ベニヤ、ガラス、鋼球の 点を指す。名古屋は江戸時代から木曽材の集積地。
それもあって戦前、木材商が軒を連ねた堀川沿いを中心にベニヤが盛んに取り引きされていた。
名古屋が戦後
〝パチンコのメッカ〟
となり得たのは、正村さんのような
「人材」
のほかに、
「物資」
に恵まれていたことによる。
◆ 名古屋で進化したわけ
コ機器を
「皆で仲よう使や、エエがや」
といった相互扶助精神が、ここからも感じ取れる。
報恩の気持ちを忘れないところに、正村さんの性格の良さが如実に表れている。開発したパチン
重太郎さん亡きあと、キリンビールの岐阜県内の販売権を買い取って、旧主家に贈呈したとか。
く ん と う
の成功の源はすべて、重太郎翁の薫陶によるもの」と記されているという。パチンコで成功し、
戦争のかげが濃くなるころ、酒屋をやめて名古屋に出て自らの店を構えたのだが、貧しい中か
ら酒屋として成功した重太郎さんには深い感謝の念を抱いていたようだ。自叙伝の中には「現在
返る。
ヘビースモーカーで、病気になって禁煙を医者に申し渡された時も、奥さんに隠れてタバコを
吸ってたしなめられていたとか。「あの人、肺がんで亡くなったと違うかな」と清子さんは振り
へ ん り ん
ろからアイデアマンの片鱗が見られたということだ。
10
30
第一章 県遊協 50年のあゆみ
どの機械類の軸受けボールベアリングが、そのまま転用できた。
「人」
と
正村さん自身もガラスを商っていたのだから、お手の物だったに違いない。要するに、
「物」という車の両輪が、名古屋にはあったというわけだ。
(2010) 月、新聞各紙は
「正村商会
(名古屋市西区)
が事業停止」
と、事実上の倒産
平成 年
を報じた。
ピークの平成 年
(2005)
には売上高
億
す
6
と
16
千700万円を計上した。しかし、大手パチンコ
9
11
36
ろ っ
「負債総額は約 億 千400万円。創業は昭和 年
(1941)
。本社ビ
その報道によると、
を経営しているほか、
観光ホテルも手掛け、
ルで『パチンコマサムラ』
とスロット店
『正村寿呂斗館』
6
『千成タクシー』や赤倉温泉
(新潟)
の『ホテル太閤』を開業するなど時代を先取り
別の新聞では「
した多角経営で巨万の富を築いた」
とある。
チェーンの攻勢で客足が落ち込んでいた」
という。
17
〝一つの時代が姿を消した〟
というべきだろうか。
パチンコ業界の
31
22
三、順風の中、県遊協誕生
「連発式禁止」
に至るまでを振り返った。ここからは、展開を岐
ここまで、戦前と戦後、そして
阜中心に戻すことにする。
(1956)
の経済白書は
「もはや戦後ではない」と〝脱戦後〟を宣言。朝鮮戦争による特
昭和 年
需で、「家庭電化時代」の言葉に代表されるように、市民生活は大きく貧困ムードから脱却。
「技
ち
(1959)
の伊勢湾台風という
〝ブレーキ〟
がかかったものの、パチンコ人気は確実に
昭和 年
回復していった。
ば く
「連発式禁止」
の反省をもいかして、機器の改善やホールの環境整備が
博打性から健全娯楽へ、と
急がれた。
「ただ今、
冷房中」「涼しく遊べる」
といったのぼりが店先にはためいたのもこのころだ。
す う せ い
皇太子ご成婚もあって、受信契約をしたテレビ数は300万台を突破。遊技業界も例外ではな
く、こうした時代の趨勢に乗り遅れるな、と掛け声がかかった。
術革新が今後の日本経済を伸長させる」
と期待された。
31
(1960)
には、パチンコ台の製造にかかわる遊技機メーカーの組織化も進み、メー
昭和 年
受け、大きく商品流通の道を開いた。
「ヤクモノ師」
と言ったが、チューリップを考案
こうしたパチンコ台の仕掛けを担当した人間を
したのは大阪の鳴尾辰三と名乗る人だったと言われる。しかし、名古屋のメーカーが権利を譲り
こへ玉を集中させ、歓声を上げた。これが人気につながった。
く花びらを開き、玉をキャッチしやすく工夫したものだ。花が開くと客は、この時とばかりにこ
「チューリップ」
と呼ばれる新機種の登場だった。正村ゲージ
人気回復に大きく貢献したのは、
と並んで二大発明ともいわれるチューリップ。チューリップを模した受け穴の装飾が、時々大き
34
35
32
第一章 県遊協 50年のあゆみ
カー
社によって「日本遊技機工業協同組合」
(略称・日工組)の前身組織が設立され、その
年
3
(1951)
に「岐阜パチンコ組合」
(辻直吉組合長)
が名乗りを上げ、翌 年に「岐阜大
昭和 年
衆遊技場組合」
(牧野甚市組合長)
の名のもとに正式に誕生。この「岐阜大衆遊技場組合」
は、昭和
「岐阜の業界」
の実情をおさらいすると―。
このころの
後には正式に産声を上げた。この
「日工組」
本部は業界をリードしていた名古屋市に置かれた。 60
年(1959)
に
「岐阜市遊技業組合」
(略称・市遊組)
に組織替えする。
26
27
創立総会で発表される新役員
(1956)になると「岐阜県大衆遊 技 場 組 合 連 合 会」(市川敬一組合長)が結成され、
昭和 年
さらに 年
(1961)
に
「岐阜県遊技業協同組合」
(牧野甚市理事長)として組織替えした。これ
岐阜県遊技業協同組合創立総会 昭和36年4月 岐阜信用金庫美江寺支店にて
36 31
が 現 在 に続く「県遊協」だ。
33
34
◆ 正村さんがワーゲンで
「チューリップ」
登場のころの岐阜は、
「県遊協」
誕生直後ということになる。
新機種
このころの首脳陣は、先に述べたように、軒並み亡くなっておられて事情通は少ない。そんな
中 で、 後 に 第 代 理 事 長 に な ら れ る 大 野 春 一 さ ん
( 歳)
(岐阜市加納)が健在で、当時のことを
80
だった。昭和 年
(1959)
のことだ。
れも「労多くして収益少なく」
、頭を抱える事態。そこに舞い込んだのが、パチンコ業という光明
「加納の傘」の取り扱いだった。全国行脚しての
彼のもともとの仕事は、先代から続く地場産業
外商活動も時代に逆らうことが難しく、地元で小さな百貨店や映画館を手掛けることとなる。そ
やにわに、春一さんの話に入ってしまうが―。
ある。
この後の、岐阜市をはじめ県内の様子がたどれるのは、春一さんの記憶によるところが大きい。
春一さん自身のパチンコ業への足取りは、いわば
「岐阜パチンコの王道」
を歩んできた人の証言で
鮮明に覚えておられる。現理事長大野春光さんのお父さんだ。
4
歳の若さだった。
35
それではと、岐阜市内のパチンコ店の機器を偵察し、
「大一商会」
(名古屋市)が多いことを知
りコンタクト。大一商会を訪れると、この地域の 割をここで生産していることを知った。機器
正村竹一さん本人が、ワーゲンを飛ばして加納までやって来てくれた。しかし、繁華街ではな
いことがわかると
「ここでは無理だね」
とコメントを残して名古屋へトンボ帰り。
憶せずに電話するところが行動派の春一さんらしい。この時、まだ
の「正村商会」に電話をかけた。
「正村ゲージ」の正村商会。畑違いの春一さんもよく知っていた。
顔見知りの男性が
「パチンコ店をやりたいので、映画館の駐車場を貸してくれませんか」
と言っ
たひと言がヒントだった。
「これは勉強してみる価値がある」と思い、早速聞き覚えのある名古屋
34
メーカーとはいっても、仕事場は住まいの一角。同年代の社長は奥さんが竹鼻
(現・羽島市)
出身
8
34
第一章 県遊協 50年のあゆみ
ということもあって打ち解け、加納まで来て
「大丈夫だよ」
と太鼓判を押してくれた。
パチンコのことは、まったくの素人の春一さんは、大一商会の紹介で中村区の直営店で
の見習いをさせてもらっている。
日間
10
「パチンコ台が120台という比較的大きな店ではあったが、 日の売り上げが 万円。粗利
益 万円だから月に換算すると150万円。自分の映画館のもうけが月 万円もあれば御の字
だったから、これはすごいと思った」
7
15
開けてみれば大入り。天満宮の天神まつりの後、わずか
「しかし、
3
先に紹介したように、この翌年の昭和 年
(1961)は「県遊協」が誕生した組合にとってエ
ポックになる年だ。大野春一さんの業界参入に見られるように順風が吹き、岐阜のパチンコ業界
◆ 瑞浪の肝っ玉母さん
日間で元が取れてしまった」
加納出店は翌 年に実現した。 アールの土地に簡単な造作の店構え。それでも120台の機
器を揃えた。ただ、名古屋市とは条件が違う加納という地域性だけが不安に残った。
念を入れて、名古屋駅前の店にもぐりで短期就職してノウハウを磨いた。
1
10
35
だった。
「高度成長期」
に入っていた。通勤や買い物はマイカー、出張は新幹線、東京五輪に続
時代は、
いて「岐阜国体」
に岐阜の街は沸いた。パチンコという娯楽が生活感覚にぴったり合う時代の到来
が大々的に展開を始めた時だったといえる。従って、業界の下部組織の整備が大きく進んだ。
36
『二十五年史』
に見ると―。
このころの組織状況を
昭和 年
(1961)
の個所には、こう記載が見られる。
「県下の遊技業者は、全部で約180店ある。新たに創立された県遊協に地域をあげて加入し
35
5
36
よう。また警察署管内ごとに任意組合をつくることにしよう」と。
27
4
人500個以内にしよう。月
回は休業しよう」
などとある。このころは県内
「
(岐阜市の支部は)業者 人で発足。理事
ただ岐阜市だけは、組織実態が進んでいたようで、
人と監事 人を決めた。機器台数は全部で 千998台」
。協定という申し合わせもしており、
それには
「出玉を
2
2
「県遊協への地域加入を呼びかけた結果、次の 地区が応じてくれた。大垣、
翌 年になると、
高山、多治見、中津川、恵那、関、美濃、美濃加茂、八幡、萩原、岩村。その総員は岐阜市も含
組織とはいえ、パチンコ店の普及が進む岐阜市が、様々な面で先行していた。
1
9
11
「現状の理事 人枠を『 人から 人』と規約改正。賞品単価を300円に引き上げ。賞品持ち
帰り運動を進めるための垂れ幕、そして防犯標語入りマッチ100万個を全店配布する。創立
めて124人」
。県遊協の協議も行われ、こんなことが決まっている。
37
19
22
1
周年を記念して633人の従業員表彰。養老院を慰問、養護施設の児童300人をプロ野球の試
9
年
(1963)
になると、県遊協への地域加入は、新たに羽島、稲羽
(現・各務原)
、揖斐
地域が報告され、全加入者は133人となった。
翌々
合に招待しよう」
の
38
先の昭和 年
(1977)
当時の県遊協役員の理事の中に、小池六郎さん(可児)
ともども多治見
支部の代表理事として名前を連ねているが現在、 歳と高齢。平成 年(2001)
まで理事を務
「多治見」
支部。その中心的存在だった安藤桐夫さん
(瑞浪)
県遊協加入の呼びかけに即刻応じた
に会って、当時の
「東濃の実情」
の一端が聞けた。
3
84
13
められ、 年
(2005)
には瑞浪市の道路拡幅でホールの立ち退きを迫られたこともあり、パチ
52
終戦の引き揚げ者として、ふるさとの土岐市でホール「ミカク」( 台)を開店。同じ引き揚げ
者の兄の甫さんと共同経営の形だったという。やがて住まいを現在の瑞浪に移して独立。
「ニュー
ンコ業から撤退している。
17
80
36
第一章 県遊協 50年のあゆみ
パレス」など機器200台の店など複数店を出す一方、多治見市の駅前にも「ナンバーワン
(後に
アイン)
」
(350台)
を出店している。
に誠実に対応。奥
安藤さんは実直タイプの人で、支部長として県遊協の取り決めの「出玉規制」
さんの志げ子さんの話では、店の客が規制以上の玉を出し、
「玉入れ箱」をいくつも積んでいると、
部下の店長を
「交換してもらわんと、いかんだろう」
と叱りつけたとか。
〝肝っ玉母さん〟
の志げ子さんは、
「ダ
暴力団などの嫌がらせがひどく、安藤さんを前面に出さぬ
ンナを出せ」
と胸ぐらをつかまれることも度々。九州から雇用した従業員の多くが客とつるんで、
裏で出玉を操作する悪事をされ、ホールがなかなか黒字にならなかったことも経験したという。
◆ 柳ヶ瀬にホールがずらり
(1960)
に加納出店に成功した大野春一さんは、これを契機にパチンコ事業に邁進
昭和 年
することになる。加納の店
「加納園」
に続いて、すぐに
「梅林会館」(岐阜市梅林、220台)
、翌々
年(1962)
に
「忠節センター」
(同忠節、300台)
、
「華陽会館」
(同竜田町、200台)
をオー
35
プンしている。
「福
このころ、岐阜市内にどんなパチンコ店があったか、県遊協が保管している昭和 年からの
祉協力会関係者書類綴」の中に柳ヶ瀬と長住町周辺のパチンコ店と景品買取所を記した地図があ
る。それが次の図だ。
37
37
37
至 長良
小柳町通り
丸喜
満映
太陽
劇場通り
第八出張所
玉大関
至 岐阜駅
岐阜会館
218台
77台
電停
柳ヶ瀬
鈴富
平和通り
第七出張所
乃んき
192台 153台
神室町通り
三越
宝玉
アロハ
一億
後楽園
243台
髙野町通り
名店街
日之出
第六出張所
262台 310台
日之出町通り
第一出張所
銀座
至 長良
魚繁
ニュー光
日の丸
赤玉
会館
新不夜城
長住町3丁目
新岐阜
ホール
金華橋通り
︵平和通り︶
至 岐阜駅
アルプス
住田町1丁目
30台
第四
出張所
259台
昭和37年ごろのパチンコ店と景品買取所
(柳ヶ瀬)
昭和37年ごろのパチンコ店と景品買取所
(長住町周辺)
のメロディー。最盛期の柳ヶ瀬を支えた業種の一つだった。
「ここでバネを切ったものだ」と、居並
年配者にとっては「ああ、ここに○○の店があったな」
ぶ店名が郷愁を誘ってやまない。
店頭を賑わす自転車の波。
そしてホールから流れる
「軍艦マーチ」
161台
本部
弥生町通り
291台
第三
出張所
272台
柳ヶ瀬通り
158台
342台
第二
出張所
201台
38
第一章 県遊協 50年のあゆみ
四、スリリングな暴力団排除
進境著しい大野春一さんは、やがて「岐阜市遊技業組合」(略称・市遊組)の理事に選ばれる。
同組合は昭和 年
(1975)
に
「岐阜市娯楽遊技業振興協同組合」(前組織同様に
「市遊組」
と呼称)
年代なかばになり振興協同組合にほぼ
一 本 化 さ れ た が、 そ の 後 も 二 つ の 名 称 は し ば ら
代目の理事長
く の 間 使 用 さ れ た。 ち な み に 春 一 さ ん は 昭 和
年
(1984)か ら こ の 市 遊 組 の
を務めている。
59
「市遊組」 代目の組 合長は、岐阜市議の片桐
安 次 さ ん で、 片 桐 さ ん を 先 頭 に 立 て て 安 藤 満 雄
3
人 の 副 理 事 長、 そ し て 若 手 の 春 一 さ ん
交換」の権益を握っていた暴力団のふところをも
ンコブームで収益が伸びるということは、
「景品
こ の こ ろ、 パ チ ン コ 業 界 と し て、 大 き な 課 題
になっていたのは「暴力団の一掃」だった。パチ
ていた。
ン バ ー が、 県 遊 協 を リ ー ド す る か の よ う に 動 い
遊協」だが、店舗の質量に勝る「市遊組」とそのメ
がいた。県内を統括する立場は、誕生間近い「県
さんら
3
潤 す こ と を 意 味 し て い た。 権 益 が 大 き け れ ば 暴
39
が創設され、二つの組合が存在することになった。昭和
「暴力追放決起大会」 昭和61年
50
2
50
力団がのさばるのは当然だ。
〝闇の世界の仕事〟
あるいは、
〝必
こうした事態を、それまでも「是」としてきたのではないが、
要悪〟といった雰囲気で見逃さざるを得なかった。
「県迷惑防止条例」を制定して、街頭での
これは岐阜だけの問題ではなく全国一律。愛知県でも
景品買いを禁止するなど、暴力団排除に乗り出した。動きは、岐阜と愛知が全国の先頭を切った、
といってもよい。
を昭和 年
(1965)
に控えて、
岐阜市を〝健全な都市〟
にアピー
岐阜県では県警が、「岐阜国体」
ルしたいという意向を強く持っていたことも、事態を有利に動かした。
◆ いっせいに同盟休業
たとの話も聞かれる。
こ
ターンせざるを得なかった。ただ岐阜近辺では発砲事件が頻発。民間人を含めて数人の死者が出
検問所を設けた。これには両暴力団ともお手上げで、銃刀類をさし出して武装解除し、東西にU
対して山口組が武装して大阪を出たとの情報。
東の稲川組が観光バス何台かで岐阜に向かった。
このため岐阜県警機動隊が東に向けて木曽川橋のたもとで待機。西に向けては、関ヶ原の国道で
となったのだ。
一触即発の事態となった。
このため、
暴力団の
〝東西の雄〟
が
「すわ! 岐阜で激突か」
ば っ
クザの「菊田組」
「瀬古安会」が跋扈し、対抗して稲川組が名古屋から新勢力を送り込んだため、
「景品交換」
の権益がいかに重要だったかを知らしめる「縄張り抗争事件」
が岐
暴力団にとって、
阜を舞台にあった。当時、柳ヶ瀬の景品交換の権益争いは熾烈で、山口組の息がかかった新興ヤ
40
「暴力団排除が急務」
と、市遊組の役員は腹を固めることになる。同組合に加入
ここに至っては
する市内 店舗が
「暴力団はパチンコ業界から手を引け」
と叫んで、 日間のいっせい同盟休業に
32
10
40
第一章 県遊協 50年のあゆみ
踏み切ったのだ。一方、警察が梅林や千手堂地区など
日間の休業は
〝身
か所の景品買い取り所に踏み込んで、組
員を検挙する策に出た。いわば両者による挟み打ちの作戦だ。
と言う大野春一さんだが、業界にとって
「これには暴力団も参ったと思うよ」
を切る行為〟
でもあった。
「撤退をめぐる」
交渉に
かくして、暴力団各勢力の横綱格だった菊田組と瀬古安会の組長らとの
なった。場所は、西柳ヶ瀬にあった組合事務所の 階。以下は春一さんの回顧談だ。
10
3
「組長は一見柔和な表情だった。撤退を拒めばパチンコ店全店の手入れが待っているのだから、
内心は観念しているところがあったのではないのかな。しかし、銃をフトコロにした無鉄砲な子
分が階下にいて、何が起きるかわからないという緊張感でピリピリ」
千万円は各組に細分されたと思う」
ただ解決をめざすには、業界側もそれ相当の傷みも覚悟しなければならない。
「当 局 に は 内 緒 だ っ た が、 更 生 資 金 の 名 目 で、 手 切 れ 金 を 払 い 相 手 を 納 得 さ せ た。 と は い え
千万円。先方にとっては、景品交換で 年かけて儲ける金額に相当する額だから巨額だよ。双
もしれないが、そうではないのだ。
そこで登場したのが岐阜独自のスタイルだった。今では、当然のように行われている「福祉事
業協力会による運営」がそれに相当する。岐阜の人は、これが全国共通の方式、と思っているか
暴力団一掃は、こうして実現したのだが、
「景品交換」
というスタイルは、現金を欲するパチン
コ客には無くせない行為だ。ではだれが景品交換を行うのか。
◆「福祉」
という岐阜方式
方で確認しあったのは退職金という名目だった。
1
「収益をこの際、福祉の資金に使えないか」というものだった。しかし、岐
当時、発想の発端は
阜以外にこの方式が定着しなかったのは、暴力団の嫌がらせに対峙して、跳ね返すだけの自信が
41
2
8
8
なかったからだ。
本部長、北原さんは軍部内の部落差別に怒って天皇直訴に及んだ全国水平社の幹部だ。いずれも
その点、岐阜の手法は秀でていた。福祉事業協力会という〝組織の顔〟を上手に選んだからだ。
その顔ぶれは専務理事を頼んだ奥村京一さんと、北原泰作さんの 人。奥村さんは元岐阜市警の
2
残 念 な こ と に 先 に 述 べ た よ う に、 岐 阜
県 下 を 統 一 す る こ と に な る。 し か し、
こ の 福 祉 協 力 会 に よ る 運 営 方 式 は、
大 垣 や 多 治 見 な ど に 波 及 し、 や が て 全
関係に使われる意味は限りなく大きい。
る勘定だ。これが暴力団に流れず、福祉
こ の 方 式 に 切 り 替 わ っ て、 今 ま で に
福祉に寄付された金額は数百億円にな
方で準備された。
立 ち 上 げ た の だ が、 そ の 資 金 は 組 合 の
事業協力会」という財団法人名で組織を
人 だ っ た。 し ば し 後 に、
「岐 阜 社 会 福 祉
ん な 脅 し に 屈 し な い、 お め が ね 通 り の
心 配 し た 通 り、 奥 村 さ ん 宅 へ 暴 力 団
が 拳 銃 を 打 ち 込 む 事 件 が 起 き た が、 そ
この上ない腹の据わった人物だ。それに加え理事長は、鬼検事から弁護士に転身していた沢登定
雄さんだった。
昭和 年の資料にある
「景品のルート」
暴力団の関与を排除する方向を示している
37
42
第一章 県遊協 50年のあゆみ
県警あてに出された嘆願書。冒頭に暴力団との絶縁を記している
方 式 は 一 部 の 大 阪 を 除 い て、 他 府 県 で
はあまり日の目を見なかった。
例 え ば 愛 知 な ど では「三点方式」と呼
ばれるやり方で行われている。客はホー
ル で 玉 と 交 換 し た 景 品 を「交 換 所
(買
場)
」で 売 り、「商 社
(問 屋)
」が そ れ を 仕
か所を通過
入 れ て、 ア ト ラ ン ダ ム に「ホ ー ル」に 卸
す と い う 方 式 だ。 景 品 が
す る こ と か ら、 こ の 名 称 で 呼 ば れ る。
ホールが直接かかわっていないという
ことで、法に抵触しないとされている。
「財団
岐 阜 と よ く 似 た 方式の大阪は、
法人大阪身障者未亡人社会福祉事業協
会」が、景品の買い取り業務を一括して
引 き 受 け、 景 品 加 工、 卸、 運 送 業 務 を
一元化して運営しているという。
参 考 ま で に、 現 在 パ チ ン コ 景 品 交 換
に よ る 収 益 は、 歴 代 の 岐 阜 市 長 を 議 長
1
に し た「配 分 委 員 会」で福祉関係に配分
が 決 ま っ て い る。 業 界 か ら は、 委 員
人が加わっている。
43
3
五、「社会貢献」催しや寄贈
「全国」
「岐阜県」
の二つの組織状態を紹介しておきたい。
ここで、パチンコ業界の
では、これまでの組織
「全国遊技業組合連合会」
(全遊連)が昭和 年
(1966)
に、
「全
「全国」
国遊技業協同組合連合会」
(全遊協)
に名称変えしている。事務局が置かれたお膝元の東京で、分
期にわたって会長職を務めてきた水島年得さんが選ばれた。
などに心新たに取り組むことをねらっての組織替えだった。全遊協の初代理事長には、全遊連を
裂状態だった都連組織が一つにまとまるなど全遊連の組織がまとまる一方、暴力排除、環境浄化
41
34
年
(1964)
に死去されている。
39
36
3
代目理事長に大野正雄さんを選任して大野体制へと移行している。
2
年には124人に増えた」とあり、さらに「
年には145人」
「
36
39
年には神岡、古川、金山、
27
地区が加入して組合員は168人になった」とある。全国の状況そ
さらに年を追って記載を続けると、
のままに、順調に組織化が進んでいることがわかる。
7
「
3
41
38
垂井、北方、高富、御嵩の
40
(1963)の個所に「羽島、稲羽
(現・各務原)
、揖斐の 地区が新加入し、組合員は
昭和 年
全 部 で133人になった」とある。先に紹介した同記載には「 年に 岐 阜 市内業者 人で発足」
『二十五年史』
から転載すると―。
この当時の岐阜県の組織状況を、
(1964)
に、
(県遊協)
が初代理事長として牧野
「岐阜県」の方は、先に現在の組織「岐阜県遊技業協同組合」
甚市さんを選んで昭和 年
(1961)に ス タ ー ト し た こ と を 紹 介 し た が、 そ の 年 後 の 年
行を前に、
「東京五輪」
の年の昭和
娯楽産業としての地位を得た業界には、政治家からのサポート体制も確立され、岐阜を代表す
る政治家大野伴睦さんも顧問として迎えられた。昭和 年
(1959)の就任だが、全遊協への移
8
37
44
第一章 県遊協 50年のあゆみ
万
(1967) 高根
(飛騨)
が加入
昭和 年
年
(1968) 赤坂
(大垣)
が加入。店数205店。パチンコ台数は 万 千882台
同 (1969) 久々野
(飛騨)
、墨俣の 地区が加入。これによって加盟店は全部で
同 年
191店。台数は
2
千 台
2
9
97
43
2
2
8
8
2
9
4
大野さんは議長を 期にわたって務めた大ベテランとして、その名を岐阜市政に残している。
パチンコ経営者の多くが町の有力者だった証しということが出来る。大野正雄理事長はパチンコ
桐安次が立候補。大野が連続
回、片桐が連続の当選を果たした」
とある。
を見ると、このころはパチンコ組合の上層部を岐阜市の市会議員が務めていたこ
『二十五年史』
とがわかる。昭和 年
(1967)の記載には「岐阜市議会選挙に理事長大野正雄、副理事長の片
◆ 理事長は市議の重鎮
(1970) 加盟店は184店、台数 万 千774台
同 年
年
(1971) 加盟店は178店、台数 万 千941台
同 こうして見ると、 、 年ごろが一つのピークに達した感がある。
42
42
40
年
(1971)には、県の接客業防犯組合連
46
合会と一体になって、県内警察各所の管轄地ごとに暴力追放の総決起大会を実施している。
ンを起こしている。自らの業界にとどまらず、昭和
(昭 和 年・
パ チ ン コ 業 界 か ら 暴 力 団 を 一 掃 す る 試 み は、 先 に 岐 阜 市 の 組 織 が「岐 阜 国 体」
1965)を前にして、取り組んだことを紹介したが、県遊協でもその動きに連動してアクショ
て有名だった。
経営にとどまらず、西柳ヶ瀬の
「コマスタジアム」
などを経営し岐阜市の観光事業の顔的存在とし
8
岐阜市の取り組みの代表には大野正雄理事長が就任。飲食業やボウリング協会、旅館組合、商
店街などから成る全体のまとめ役を、パチンコ業界の代表が担ったのだった。
45
44 43 42
46 45
りょう
この五〇年史は県遊協に立脚した記録ではあるが、ともすれば県の組織と並列するように岐阜
市の組織が見え隠れする。パチンコはいずこも都市部から始まっており、県組織を市組織が凌駕
※今に続く
「岐阜県遊技業協同組合」創設
(初代理事長牧野甚市)
「岐阜県大衆遊技場組合連合会」
(初代理事長市川敬一)
県 組 織
※昭和 年代なかばに岐阜市娯楽遊技業
振興協同組合と一本化
「岐阜市遊技業協同組合」創設
(初代組合長牧野甚市)
「岐阜大衆遊技場組合」創設
(初代組合長牧野甚市)
市 組 織
している事態もあった。そこで頭の整理を兼ねて、両組織の推移を時系列の年表として図示して
年
(1959)
年
(1956)
年
(1952)
みたい。
昭和
昭和
昭和
年
(1975)
昭和 年
(1961)
昭和
年
(2009)
「岐阜市娯楽遊技業振興協同組合」
創設(初代理事長林士郎)
「岐阜市娯楽遊技業振興協同組合」
解散(解散時の理事長大野春光)
21
感を示していた。
それが今のように、県遊協一本に絞られるのは、市遊組が解散する平成
年
(2009)
に至っ
「岐阜県遊技業協同組合」
(県遊協)
が誕生する前に「岐阜大衆遊技場組合」が存在
このように、
していたし、
「岐阜市娯楽遊技業振興協同組合」
と名前が変わっても、県遊協と名前を並べて存在
平成
50
27
30
34
36
50
21
が
46
第一章 県遊協 50年のあゆみ
てからだ。これを象徴していたのは、現在の事務局がある「岐阜県遊技会館」
(岐阜市江添)に両
組織が仲良く同居していた事実だ。もっと言えば、同会館建造は市遊組がイニシアチブを取って
千500万円。解散に伴い、すべての資産は市遊組の加盟店
実施、市遊組の解散に伴って、その財産権を県遊協が買い取る形で〝県遊協への一本化〟
が成った
のだった。その際の買い取り額は
店舗に分配された。
年)
年)
20 10 59
代 片桐安次
2
12 8
53
~
4
初代 牧野甚市 代 後藤喜久 「岐阜市娯楽遊技業振興協同組合」
の理事長名
8
3
代 安藤満雄
(昭和
代 阿曽博次
(平成
~
参考までに、市遊組の歴代の理事長名を、まとめてここに記載しておく。
「岐阜市遊技業組合」
の理事長名
8
(昭和 ~ 年) 初代 林士郎
(昭和 ~平成 年) 代 大野春一
53
2
50
20 10 59
(平成 ~ 年)
(平成 ~ 年)
代 安藤修三
代 岩本榮植
代 大野春光
(平成 ~ 年)
牧野甚市、大野春一、岩本榮植、大野春光の各理事長は、少し間を置いて県遊協の理事長職を
も務めている。それだけの実績があっての就任ということだろう。
3
5
21 12
6
(昭和 年)といえば、石油危機を発端にして、トイレットペーパー売
「第一次石油ショック」
り場などに主婦が殺到した風景が今も鮮明に思い出される。
◆ 郊外型の大型店めだつ
7
48
省エネの敵にされそうな華やかなパチンコホール。娯楽へ回せる小遣いが減るのではと、数々
の心配の向きはあったが、そんな逆風もものともせず、昭和 年代のパチンコ人気にかげりは見
られなかった。
47
60
50
(1975)の 全 国 的 な 動 き の 記 載 事 項 に は、「全 国 の パ チ ン コ 店 が
『二 十 五 年 史』の 昭 和 年
万店を突破。本格的な過当競争の時代へ」
とあり、その前年 年には
「ボウリング場をパチンコ
50
49
49
31
50
48
19
1
52
38
10
万
8
4
9
8
万
千853台
千324台
万704台
万
千545台
(平湯、白川加入)
年
(1972) 172店、
2
千208台
年
(1973) 177店、
年
(1974) 202店、
2
万
年
(1975) 221店、
年
(1976) 229店、
3
数値を追ってみたい。
昭和
同 同
同
同
ち な み に、 昭 和
1
年
(1977)の 岐 阜 県 内 の 店 数231店 に、 都 道 府 県 数 の
を乗じると
47
4
万810店となり、岐阜が全国の平均に近いことがわかる。
9
3
46
1
年
(1977) 231店、 万 千203台
同
以 上 が『二 十 五 年 史』の 数 字 だ が、 こ の 後 の 推 移 を 見 て い く と 店 数 は 順 次 増 え、 平 成
(1997)
に360店と最大店数を記録している。
52 51 50 49 48 47
42
4
52
年
とあったが、県内ではどうなのか。
『二十五年史』
でそれをた
「全国のパチンコ店が 万店突破」
どってみる。先に昭和 年
(1967)
から 年
(1971)
までの数字を紹介済みだが、その後の
店……とある。
の昭和 年
(1973)
には、「郊外パチンコ進出 店」
それを裏付けるように、「県遊協の出来事」
と記載があり、続いて 年
(1974) 店、 年
(1975) 店、 年おいて 年
(1977)
店に改装した郊外型の大型店が各地に出来る」
との表記が見られる。
1
1
48
第一章 県遊協 50年のあゆみ
◆「余り玉、施設の子喜ばす」
パチンコブームを支えたのは、常に新しい機種の登場だった。
という大逆風も、これを乗り越えられたのは俗に
「フィーバー機」
と言われる新
「石油ショック」
機種だった。
「フィーバーして大儲けしたぞ」
と、笑顔で吹聴するパチンコ客を、街でよく見かけ
たものだ。
フィーバー機「フィーバー2号機」
SANKYO、昭和56年(パチンコ博物館蔵)
パチンコを変えたパチンコと言われる
ち く
たのだ。
万台が出荷されるとい
国に向けて遵法営業の徹底に乗り出し
が「健全経営推進委員会」を設置し、全
主規制の動きとなった。中央の全遊協
発 機 の 時 の 二 の 舞 は ご め ん だ」と、 自
「射幸性が高すぎる」
と批判が噴出。
「連
し か し、 良 い こ と づ く め で は な い。
勝負の偶然性が高いフィーバー機は
く
感が走った。しかし結局は、フィーバー機がインベーダーを駆逐することになった。
「インベーダーゲーム」
が登場、喜々
フィーバー機と前後して、街のゲームセンターや喫茶店に
としてゲーム機に向かう若者たちの姿に、
「このままでは、パチンコ客が奪われる」
と業界に危機
万円に跳ね上がったという。
か月間で
(1980)
のことだった。
玉が入るとドラムが回転し、「777」
フィーバー機の登場は昭和 年
が揃うと
「大入賞口」
という受け口が 秒間開きっ放しになる仕組み。当時 もの種類が出回った。
多くがデジタル表示となったため
「デジパチ」
とも呼ばれた。
30
う人気機種のため、需要に供給が追い付かず、売り値が倍の
30 17
しかし、業界や業界周辺からは、か
んばしくない出来事がたくさん起き
49
10 3
55
た。例えば、脱税が多い業種の筆頭にホール経営者が名を連ねたり、パチンコで大負けした愛好
家がサラ金漬けになったり……。パチンコのイメージを
〝健全娯楽〟
という看板で払拭することが
求められた。
あ ま
(1982)
、NHK名古屋が制作した銀河テレビ小説「本日開店」
という名古屋
そんな昭和 年
のパチンコ店を舞台にしたドラマが全国放映された。主人公は「天ちん」こと天野鎮雄さん。復員
「善意の箱」
と名付けられた取り組みで、昭和 年(1974)
から岐阜の
その中で目立ったのは
全県内 組合が参加した。ホールにお客さんから、出玉の端数を寄付してもらう箱を置いた。
業界自身も、手をこまねいていたわけではない。パチンコのイメージアップのため、あの手こ
の手を繰り出した。いわゆる
「社会還元」
「社会貢献」
だ。
追い風となった。
これに見られるように、パチンコは決して反社会的ではない。マスメディアまでが「大衆娯楽
の王様」という位置づけをし、ドラマの舞台にパチンコを設定してくれた。業界にとっては強い
のヒーローを軸に多様な人間ドラマが展開された。
57
49
1
円に達した。
6
千341万 千
翌年には総計 千258万647円、翌々年には 千162万
て、コンスタントに 千万円を寄付し続けたのだからすごい。
千626円、さらに毎年続け
年後に集計され、組合ごとに地元の市町村や社会福祉施設などに寄付されたが、県内の総計額は
24
善意の箱 周年に当たる昭和 年
(1979)
、岐阜市での〝善意の催し〟を報じる新聞各紙の記
事が残っている。その見出しにいわく
「余り玉、施設の子喜ばす」「善意の箱に400万円、岐阜
1
1
1
7
1
1
54
岐阜市民会館でのバラエティーショーに、市内の福祉施設の子ら800人を招待。歌手の藤島
市のパチンコ屋さん」
。
5
50
第一章 県遊協 50年のあゆみ
桓 夫、 地 元 出 身 の し い の 実 が 出 演 し て
子 供 ら を 喜 ば せ て い る。 ま た 日 を 改 め
の施設や団体にプレ
て、 洗 濯 機 や ベ ッ ド な ど400万 円 相
当の品々が市内
(1984)の
その 年後の昭和 年
切り抜き記事には、岐阜市文化センター
ゼントされている。
22
59
建設に伴って再整備が進む「金公園」内
に「ハープをひく子
・
供たち」と題したブ
ロンズ像
(高 さ
メ ー ト ル、 幅
1
子 供 心 を 表 現。 総
わせて遊ぶ純真な
作 品 で、 音 楽 に 合
久保田俶通さんの
市在住の日展会員
い る。 千 葉 県 市 川
センチ)を寄贈して
45
費用は400万円。
「善意の箱5周年記念バラエティーショー」 昭和54年
5
当 時、 市 遊 組 理
事長を務める大野
51
85
春一さんが役員
人 が 見 守 る 中、 蒔 田 浩 市 長 ら と 除 幕 を し て い
さん筆の「岐阜城図」で、幅
(1988)には、市民
岐阜市制100周年にあたる昭和 年
会館大ホールの特製どん帳を寄付している。日本画家杉山祥司
円相当)
を、市を通して施設に寄付した。
学 園 の 園 児 を 招 く 一 方、 カ ラ ー テ レ ビ な ど163点
(600万
る。この時も会場を市民会館に移して、ステージショーに恵光
30
63
メートル、高さ ・ メートル、重
19
3
岐阜市民会館にどん帳資金寄付を伝える紙面(岐阜日日新聞 昭和
年 月
3
日)
さ900キロというヘビー級。信長が「天下布武」を心にした当
8
62
20
岐阜市民会館にどん帳を寄付 昭和63年
52
第一章 県遊協 50年のあゆみ
時の城と城下の様子を描いた岐阜市にうってつけの絵図だ。京都の織工が半年がかりの手作業で
織り上げ、製作費は 千500万円という。
パチンコ業界の社会貢献は、岐阜以外にも進んでいた。お隣愛知では芸術家や文化活動グルー
プを支援する
「パチンコ大衆文化賞」
の制度を創設している。社会情勢は
「バブル景気」
の後半にさ
落成式を迎えた「岐阜県遊技会館」 昭和60年
しかかった時で、
一般企業も芸術文化活動を競って支援する
「企業メセナ」
に注目が集まっていた。
◆ 現在の組合会館が完成
年には何と
「
兆円」だった
フィーバー機の登場やバブル景気の後押しを
受け、パチンコ業界は好況感でいっぱい。昭和
年後の
年
(1981)
、全国の売上額「
ものが、
兆円」
を記録。
年(1985) 月 に、 県 遊
60 61
勢を反映したあいさつを行った。
落 成 披 露 に は130人 の 関 係 者 が 集 ま っ た。
若 松 昭 二 郎 理 事 長 が、 当 時 の 業 界 を 取 り 巻 く 情
同居することになる。
先 に ふ れ た よ う に、 建 造 に 際 し て は 市 遊 組 が
財政的な負担を背負い、市遊組が解散するまで
市江添)
が完成した。これが現在の組合会館だ。
協の新たな拠点となる「岐阜県遊技会館」
(岐阜
そんな最中の昭和
10 3
4
5
56
「戦後、パチンコが一刻の憩いの場として親し
まれるようになり 年、いくどかの困難に遭遇
53
2
40
カウント機に入れ替え、業界も一大転機を迎
してきました。ご当局の指導、多くのファンに支えられ、かつ組合員の団結・協調により発展の
道を辿ってまいりました。新風営法が施行され、
若松さんは 代理事長。会場には、初代の牧野甚市さん、
れの日を祝った。
代の大野正雄さんも顔を揃えて晴
設を機にパチンコを大衆娯楽として確立していこうと考えています」
えています。フィーバーブームの反省をふまえ、健全営業を確立しなければなりません。会館建
10
2
総工費は 億円を要した。
県庁から東に500メートルという敷地面積786平方メートルの場所。 階建てで、 階に
事務室、理事室、認定室、小会議室の中枢部分、 階に大会議室、 階には駐車場が整っている。
(現・衆院議員)
、木村建県議会議長、蒔田浩岐阜市長、
来賓には古屋亨自治大臣の子息圭司さん
石原滝雄県警防犯部長ら多彩な顔ぶれが揃った。
3
3
1
3
2
店300台に抑制する運動を警察と一緒に進めた。
1
「広告の自粛も同様の趣旨で取り組んだ。しかし、
これもやがて自粛の約束が破られていった」
。
今では大手を振る新聞折り込みやテレビを使った宣伝の話だ。
いった」
こ れ は 全 国 に 先 駆 け た 活 動 だ っ た が、 私 が ト ッ プ の 座 を 去 る と そ の 自 主 規 制 の 運 動 も 消 え て
なホールは地域の風紀によくないと思い、
当時のパチンコ業界の社会的アクションについて、大野春一さんは証言する。
「大衆娯楽として認知が進んだが故に、それに甘えて、いけいけドンドンの風潮もあった。し
かし私は慎重だった。パチンコ店が大手を振ってはいけない、と常に考えていた。あまりに大き
2
54
第一章 県遊協 50年のあゆみ
六、プリペイドカードという激震
〝大きな事件〟が起きた。
「プリペ
昭和の時代が終わりを告げるころ、パチンコ業界を揺さぶる
イドカード」
と、その導入に伴う全国組織の刷新だった。
(1988)
に発表した全国共通のプリペイドカード構想だった。相
発端は、警察庁が昭和 年
次ぐ「脱税」
や
「暴力団」
にからむ問題の基層には
「経理の不透明さ」があり、全国共通のプリペイド
カードを使えば、それを阻止しやすいというのが構想実施に踏み切る理由だった。導入によって
「業界の健全化」
が促進されるというのだ。
この構想を推進したのは現在は衆院議員の平沢勝栄氏で、当時の警察庁保安課長だった。
しかし、これには業界の全国組織「全国遊技業協同組合連合会」(略称・全遊協)が猛反発する
ことになる。
当時の毎日新聞の記事によれば
「頼んでもいないのに、
警察による導入推進は不可解」
と、そのコメントを伝えている。
(略称・日工組)
、
「日本電動式遊技機工業協同組合」
(略称・日電協)
、
「遊
「日本遊技機工業組合」
技場メダル自動補給装置工業会」
(略称・自工会)
の 団体が賛意を示す中で、全遊協のみが賛意
の姿勢を示さず、全遊協内部でも導入をめぐって亀裂が入ることになる。
3
平沢課長は
「導入を受け入れるか否かは、全遊協の自由」
と強気を崩さず、カード導入に関係す
る三菱商事やNTTが、警察庁のバックアップを受けて
「日本レジャーカードシステム」
を設立し
ている。
大野春一さんは、当時をこんなふうに振り返る。
55
63
「導入の理由を私たちは、納税の適正化と聞いた。しかし導入にあたっては各パチンコ店に新
たな機器を置くなどしなければならず 、 千万円もの設備投資が必要になった。私どもにとっ
て、これではね……」
5
6
、
千万円もの設備投資」
というのは、カード導入に際して
「
(シーアール)
機」
が必要に
それに、こうした動きの背後には、警察側の天下り先をつくろうという作為を感じたからだと
も言う。
「
6
C
R
C
R
遊技事業協同組合連合会」
(全日遊連)
を結成し、翌
年には関東圏
1
7
店で導入店が営業を開始し
7
(1990)
の 月、プリペイド導入に抗し切れず全遊協は解散の憂き目を迎えることに
翌 年
なる。臨時総会で
「 半世紀の歴史にさよなら」
を決めたのだ。その前身である全遊連の時代まで
ている。マスメディアも
「パチンコ台の変化」
「業界の分裂」に興味津々で、大きく報道している。
2
時代が平成に移ると、全遊協はこうしたプリペイドをめぐって内部激論を交わしながらも、
「導
入を是とする」
方向へ傾斜していくことになる。平成元年
(1989)に 都 県の組合が
「全日本
◆ 先陣を切るのは嫌
れて出てくる工夫もされた。
る。これが不便で現在では紙幣を差し込み口に入れ、残高がある場合には
「ICカード」
に記録さ
とになる。残高が無くなるとカード購入のため、その都度席を離れて販売機の前に並ぶことにな
ついでながらCR機導入後、パチンコ客はどういう手順を取らなければならなかったかという
と、まずカードをホール内の販売機で購入、次にパチンコ台横の差し込み口にカードを入れるこ
「
(カードリーダー)」の略だというのが定説で、
なることを意味した。
「
」
の語源は
「 Card Reader
機」
とは
「プリペイドカードに対応した遊技機」
のことを指す。
5
C
R
4
11
含めると実に 年間という風雪だった。
2
40
56
第一章 県遊協 50年のあゆみ
(代行)
のあいさつに、この間の苦悩が如実に語られている。
この際の理事長
「一昨年来、マスコミの報道や国会での集中審理など、未曾有の混乱を呈しました。昨年、全
日遊連が生まれ、 都 県が参加するに至っています。全遊協はいまだ 県が加盟している状態
43
「警察庁は『全遊協は相手にせず』の姿勢だった。岐阜にも同調するように求めてきたが、先陣
を切るのだけは嫌でね。
『全国で 番目としてならOKしましょう』
と言ったものです」
岐阜の大野春一さんはこう語る。
た結果、全日遊連の下に一本化して団結していくことを決めました」
ですが、こうした分裂によって業界が得られるものはありません。双方の代表が何度も話し合っ
36
30
結局、県遊協が全日遊連に加盟したのは、全遊協が解散した直後のことだった。全遊協が消滅
した以上仕方がない。
57
1
七、パチンコ台、どう変遷
パチンコの歴史は、ある意味でパチンコ台の歴史である。
「パチンコを楽しむ庶民」
であり、決してパチンコを経営する業界
なぜならパチンコの主人公は
のものではない。愛好家にとって興味があるのはパチンコ台であって、業界ではない。パチンコ
台が勝負に挑む直接の相手にほかならない。だから、
「パチンコの歴史はパチンコ台の歴史」
とい
うわけだ。現に業界の収益は、パチンコ台の変遷に大きく揺り動かされてきた。
もっとシビアに言うと、愛好家にとっては「出る機器」が「よい機器」だと規定できなくもない。
やはり「射幸性」
とは無縁でいられない。
「パチンコ台の歴史」
は、射幸性を追い求めるユーザーと、それを取り締まろうと
そうすると、
する当局との
「せめぎ合いの歴史だった」
とも言える。
対
」
の機器の比率
ということになるが、その双方の間に入って、どうバ
「それでは業界は、どういう立場なんだ」
ランスを取ってパチンコ産業を隆盛させるか、の歴史だったのではないのか。
◆「
3
ここでは
「パチンコ台」
「パチンコ機」
「遊技機」
と、使い分けをして話を進めていきたい。
ふさわしくない。従って、両者を呼称するのには「遊技機」というのがふさわしいかもしれない。
断らなければならないが、
「パチンコ台」
という表現は適切ではないのかもしれない。旧来のパ
チンコに加えて、スロットマシーンである
「パチスロ」
が登場し、その形態はパチンコ台と呼ぶに
かくして、ここではパチンコ台がいかなる進化を遂げ、現在に至ったのかをまとめてみること
にする。
7
58
第一章 県遊協 50年のあゆみ
ところで現在、遊技機はとてつもなく進化し、ホールに頻繁に出入りする愛好家にしかその細
部は理解できないのではないだろうか。業界に関係する資料を読んでも、業界用語が羅列され、
遊技機にいたっては
「○○メーカー」
の
「○○」
、あるいはやにわに
「○○」と、商品名が飛び交って
チンプンカンプンだ。
冊〟
でありたいから。
は当然、岐阜県の業界関係者向けの記念誌には違いない
この『岐阜県遊技業協同組合五〇年史』
が、パチンコの実態に不案内な人が読んでも、その歴史がわかる本にしたい。パチンコ同様に
〝エ
ンターテイメント
(娯楽)
の
「そんなことは、当たり前のことだ」
と、思われることもかみ砕いて記述するこ
業界人にとって
とにする。
羽根物「ゼロタイガー」
平和、昭和56年(パチンコ博物館蔵)
羽根物機種の元祖として有名
まずは今、初心者がパチンコホールに入り、遊技機をどう選び、どう遊んだらいいのか、その
入門部分の説明から話を始めたい。
遊技機は二つに大別できる。
そのうちの一つは、丸いパチンコ玉を
打ち込んで、釘が並ぶ盤面に玉を泳がせ、
「当たり口」
に命中させる機種だ。そのう
ちの「パチンコ羽根物」
は、古いタイプの
もので、命中口に玉が入ると中央部の羽
根が左右に開いて、どんどんと玉を受け
入れ、客を喜ばせる仕組みの機種。いわ
ゆるパチンコだ。
も う 一 つ は 回 胴 式 の 遊 技 機 で、 一 般
59
1
枚 ず つ 投 入 し、 三 つ の ボ タ ン を 順 次 押 し て、 眼 前 の 三 つ の
に「パチスロ」と呼ばれる。ラスベガスなどの「カジノ」のシーンによく出てくる「スロットゲー
ム」の 機 器 で、 購 入 し た メ ダ ル を
絵柄が揃うと当たり。絵柄によってもらえるメダル数が異なる。
3
(平成 年)だという。 年前
ある統計資料によると、パチンコとパチスロの比率は「 対 」
には、その比率が
「 対 」
だったというから、もっかパチスロがパチンコに押されて、劣勢のよ
4
うだ。詳しくは、後の方で紹介する。
6
7
3
15
18
5
2
ぶった感がないでもない。これに合致するものとして出現したのが「
2
平成 年
(1996)
まで右肩上がりできたパチンコ業界が、今後どういうかじ取りをするのか、
ここに表れている気がする。
だった。それについても後に触れることにする。
円パチンコ」というもの
「遊パチ」
の定義は、
「およそ 千円で 時間以上遊べる遊技機」
を指すという。し
それによると
かし「 千円で 時間以上」という現実をクリアできる機器は数少ないのが実態だ。やや良い子
えれば、ユーザー向け
「パチンコのコンセプト」
を明らかにしたのだ。
遊 技 機 の 当 た り 外 れ に よ っ て、 浮 き 沈 み が あ る パ チ ン コ 業 界 だ が、 業 界 団 体 は 平 成 年
(2006)
に
「遊パチ」
と呼ぶ
「手軽に遊べるパチンコ・パチスロの愛称」
を発表した。言い方を換
20
1
5
か く へ ん
プリペイドカードを使う機種として「CR機」が登場したのが激変の震源だった。CR機には、
という
〝ボー
現金機にサヨナラさせるために、
ユーザーの関心を引くための工夫として
「確変機能」
パチンコ、パチスロという遊技機は、平成の世に入って劇的な変化を遂げた。変化のきっかけ
をつくったのは先の
「プリペイドカードシステムの導入」
という業界事情からだ。
◆ 良くも悪くも
「CR機」
8
60
第一章 県遊協 50年のあゆみ
ナス措置〟が付加された。
「確 変」と は「確 率 変 動」の 略 語 で、
簡単に言えば「次の大当たりを容易に
得ることを可能にするシステム」と呼
ばれている。要するに「大当たりの確
率を高めてあげましょう」ということ
だ。
この機種として有名なのは「CR花
満 開」
(「西 陣」製 品)で、 万 台 以 上
年
5
「平和」
本社を
「風俗営業取締法」
の疑いで捜索し、社員 人を逮捕し
埼玉県警が機器メーカーの
たのだ。理由は
「法律が定めた基準に反した遊技機をつくった」
というもので、現金機の
「当たり」
こ れ に 業 を 煮 や し た の だ ろ う か。 当 局 が 強 権 を 発 動 す る「ダ ー ビ ー 物 語 事 件」が 平 成
(1993)
に起きている。
しかし当局の思惑とは違って、CR機への全面切り替えまでには至らなかった。現金機は「当
たり」の確立が高く、投入金額を抑えることが出来たこともあり、根強い人気を保っていたのだ。
のヒット商品になったと言われる。
5
昭和の末には、いずれもデジタル機能に切り替わっていて、一般に「デジパチ」
と総称されている。
れ ん ちゃん
がその違法に相当する、というものだった。説明が遅れたが、パチンコ機の性能は
の一つ「連荘」
3
「回胴式の遊技機」
(パチスロ機)
へ話を移す―。
次に、パチンコ機と肩を並べるまでに成長した
スロットゲームのスロット台が日本にきたのは、昭和 年代の沖縄だとされるから、パチンコ
機の歴史よりもかなり遅い。これに日本式の味付けがされ、パチスロ機へと進化するわけだが、
61
CR機
「CR花満開」
西陣、平成 5 年
(パチンコ博物館蔵)
30
昭和
年
(1985)
にスロット機への法律が定められ、パチスロの
「一号機」
が誕生する。その代
(1988)
に「二号機」が誕生。二号機は、客を喜ばす多彩な機能が付加され、
続いて昭和 年
「ゲーム性を広げた」
と言われている。
「ゼロ号機」
と呼称され、区別されている。
従って、ここまでの機器が
表機器は
「ニューペガサス」
(
「パル工業」
製品)
。
60
(1990)
に
「三号機」
が、翌 年には「四号機」が立て続けにデビューし
平成に入って、同 年
ている。平成 年といえば、パチンコ
「プリペイドカード導入」
がなされた年。魅力満載を売り物
63
2
3
(1995)
に
「五号機」
が誕生するのだが、それまで四号機の時代が続き、この間の表
平成 年
現として
「四号機時代」
という言葉が使われている。この時のヒット機器として名をとどめている
える。
に登場した「CR機」で話題騒然の時期だから、パチンコ機とパチスロ機が〝華を競った時〟と言
2
まず貸し玉料金だが、終戦直後には 円と 円の両建て。昭和 年(1949)
に 円に統一さ
れ、 円 時 代 が 同 年
(1972)まで、ずっと 年間も続くことになる。この年に 円になり、
みよう。
話は遊技機から少しはずれるが、パチンコを楽しむには
「パチンコ玉(貸し玉)
」
の値段、そして
玉を成果に換える
「景品」
のよしあしが気にかかることだ。その両方について、時代の変遷を見て
◆「貸し玉」
と
「景品」
の関係
した。
のが「ニューパルサー」
(
「山佐」製品)
。四号機時代、大量の出玉で「爆裂」という表現まで飛び出
7
47
年(1978)
になって
1
2
3
2
23
円へと推移している。
4
2
24
「一玉一円」
といった「低貸し玉」
の営業が目立ってき
最近になって、価格破壊の傾向も手伝って
53
62
第一章 県遊協 50年のあゆみ
た。「一玉一円」
は俗に
「一パチ」
と称されている。
、実は法律には違反していない。 円、 円、 円、 円と順次玉の値段が上がっ
この「一パチ」
てきたが、
これは
「○円以内」
を省略した言い方だ。従って現在の 円は「 円以内」
ということで、
この定義に従えば
「一玉一円」
は法に抵触していない。
1
4
4
3
年(1973)に
千 円、
年
(1990)
には一挙に
4
年
(1980) 千500円、
2
年
60
43
万円に値を上げている。
ブランドグッ
年
(1977) 千500円、
(1985) 千円ときて、
平成
ズの小品も景品に加わることが可能になったのだ。
55
。景品 品における単価の上限を意味しているが、貸し玉料金と比較して
次に「景品の上限額」
急上昇ぶりが目立つ。昭和 年
(1950)
に100円だったものが、 年(1968)
に500円、
2
1
1
1
52 25
2
1
カタログの中からお目当ての景品が選べる
「カタログ方式」
も導入された。後日、
平成に入って、
景品が宅送されるのだ。ホールにとっては、カウンターに多種類で大量の景品を並べる必要がな
くなった。
63
3
48
八、
兆円市場をピークに
3
兆
千700万円となった」
と発表。さらに、その
兆円に達した」
と発表して、世の耳目を集めた。
年後の
5
年(1996)
には
「年間事業収入
8
「ホールの近代化が大きい。内外装がおしゃれになり、従業員の接客態度もホテルなどに学ん
でスマートに。初心者や女性客への敷居が低くなった」
(
「遊技日本」2010年 月号)
「いけいけドンドン」
の時代風潮のことに触れておこう。
しかしここでは、まずは
パチンコ業界の急成長の要因について、業界誌は、こんな一因を挙げている。
と噴き出してくることになるのだ。
ことになる。そして
「大きいことばかりが結構とは言えない」こと、すなわち大型化の歪みが次々
先に紹介した様々な人気遊技機の登場が、ユーザーをホールに駆り立てたのだ。まさに「パチ
ンコの黄金期」の到来だった。しかし後年、これが業界のピークを意味していたことが判明する
が
2
全日遊連への組織替えで揺れた業界も、平成の世が進むに従っ
プリペイドカード導入に始まり、
て 落 ち 着 き を 取 り 戻 す こ と に な る。 総 務 省 が 平 成 年
(1991)に「パ チ ン コ 市 場 規 模 が
30
15
30
業界の社会環境に適合しようという努力も見逃せない。
平成元年
(1989)
に名古屋市で開かれた
「世界デザイン博覧会」に、愛知県遊技業協同組合連
合会(略称・愛遊連)
が
「パチンコ・パチスロおもしろデザイン館」
を名古屋城会場に開設。その愛
10
人は
「パチンコが大好きになった。また来たい」
と、軽妙な
知で平成 年
(1992)
、日本中の人に愛された百歳姉妹のきんさん・ぎんさんが新規開店ホー
ルに招かれて、パチンコに初挑戦。
受け答えでアピールしてくれた。
2
4
64
第一章 県遊協 50年のあゆみ
(1995)
には
「阪神淡路大震災」
が阪神地方を襲い、 千人を超える死者を出したが、
平成 年
その復興に業界も大きく尽力した。営業を自粛し、ホールを避難所に提供。全国の業界関係者か
らは
億
千万円の義援金が寄せられた。
5
(1983)に207店を記録。 年(1988)までの 年間、
まず店舗数だが、昭和末の 年
251店、244店、245店、280店、297店と連年200店代をキープ。これが平成の
このころの岐阜県内の業界事情を数字で見てみると―。
8
5
年
(2005)までの長い間続いている。そして、
年
(1997)
の364店となっている。
時代に入ると300店代が連続し、それは同
最多店数のピークは平成
17
58
台だ。
状態〟を
8
8
年
(1998)の
8
4
7
年
(2007)まで続けている。ちなみに台数のピークは
万486
(1992)
に 万台に突入すると、平成 年
(1996)
ま
一方の遊技機の台数だが、平成 年
でそれが連続。続く 年
(1997)
からは、一部の「ヘコミ」はあるものの、 万台という
〝高原
9
63
10
9
30
1
2
8
ず う た い
しかし、こうした順風満帆とも思える業態も、裏に回れば大きな矛盾に包まれていた。肥大化
した図体は、両刃の剣の弱さを持っていたのだ。
◆ 悪質なカードの偽造
態と符合している。
「年間事業収入が 兆円に達した」
と発表したのが平成 年(1996)
だったから、岐
総務省が
阜の業界の
「店舗数のピーク」
も
「台数のピーク」
も、 、 年のギャップはあるものの、全国の実
19
「プリペイドカードの偽造」
だった。平成 年
(1995)
ごろになると、外国人の犯罪組
一つは
織が集団で偽造カードを使用するようになる。手口が巧妙なうえに、100人規模でホールを襲
65
7
4
7
う事態も生まれ、社会問題化した。
5
カード会社も対策を講じたが決め手がなく、翌 年にはそれまで使用していた 千円カード、
万円カードの高額券の使用をストップする方針を打ち出し、沈静化に努めたりもした。
8
40
1
4
1
現在ではカード会社が増えたことと、磁気カードはほぼ姿を消しICカード化している。
もう一つは
「射幸性の高い遊技機への風当たり」
だ。
このころ、駐車場の車内に放置されていた幼児が、熱射病にかかって死亡する事件が起きてい
る。子供を顧みず、射幸性の高いパチンコにのめり込む親が非難された。また、パチンコにおぼ
になった。
いは、そうした裏事情があったのだ。当然のことのように
「射幸性」
という問題点が浮上すること
「CR機」
は、プリペイドカード導入を義務付けするために人気機
プリペイドカードを使う機種
種であることが求められた。
「確変」
というボーナス機能を盛り込むなどユーザー向け大盤振る舞
◆ 不適合機を自主撤去
売上金が振り込まれる仕組みだ。要するに、この仕組みを悪用したのだ。
上げがあったか詳細がわかるようになっていた。店は、その売り上げに応じて、カード会社から
このやり口は、プリペイドカードによる運営方式を解説しないと理解できないかもしれない。
CR機で客が遊技すると、その情報がいったんカード会社に集められ、どの店でどれだけの売り
犯行は外国人グループや暴力団が多かったが、中にはホールの店長が営業時間後に、変造カー
ドを使って売り上げを増やしていた事件も見受けられた。
いう。
警察庁の発表によると、このころ 年 か月間に摘発されたカード変造事件は 千200件、
変造カードは 万枚にのぼった。カード会社が被った被害額は、一説では630億円になったと
1
66
第一章 県遊協 50年のあゆみ
れてサラ金地獄にはまる人、パチンコ代欲しさに売春に走る主婦が現れるなど、その原因の源と
なっているパチンコ業界のあり様も矢面に立たされた。
(1996)に国政の場での「パチンコに関する諸問題に
こうした業界バッシングは、平成 年
ついて」
の議論で、ピークに達した。
団体連絡会
4
いった。
うことだ。中でも
「社会的不適合機の自主撤去」
が、実践課題として大きくクローズアップされて
カーの組合で、要するにパチンコ遊技機に関係するすべての企業が危機感を持って集まったとい
「全日遊連」とはパチンコホール組合の協同組合連合会組織、「日遊協」はパチンコやパチスロ
にかかわる様々な企業、
「日工組」とはパチンコ機メーカーの組合、
「日電協」はパチスロ機メー
会宣言がなされた。
共催の「遊技業界健全営業推進全五区大会」
が開かれ、その場でこれらのことの改善を志向する大
「ホール周辺での管理強化」
などだ。この年、全日遊連、日遊協、日工組、日電協の
策 と し て 浮 上 し た の が「射 幸 性 が 高 い と 思 わ れ る 遊 技 機 の 自 主 撤 去」
「不 正 カ ー ド 使 用 の 排 除」
(略称・日遊協)
幹部らが参考人として招致され、業界内に危機
国会に、日本遊技関連事業協会
感が生まれたのは自然の成り行きだった。焦点はパチンコホールの健全営業だったが、その打開
8
自主撤去は、 年後の平成 年
(1998)まで 次にわた って実施。撤去は空前とも言える
万台におよび、率にしてその ・ %に達した。
10
94
5
4
など一部の機器しか
不適合機の選定基準については注目が集まったが、CR機は「CR花満開」
リストに含まれず、その多くは人気現金機を中心にしたものだった。それに対する批判に答え、
2
全日遊連理事長は「CRに問題があることは承知しているが、まずはこのリストで……」と弁明
した。
67
80
九、低落と競合の時代
「低落と競合の時代」
だと言える。
パチンコ業界の現状を、ひと言で表現すると
低落の引き金は、自主撤去だった。
「ホール数」
は、ピーク時の平成 年(1995) 万 千244店だっ
警察白書によると全国の
たものが、自主撤去が顕在化した翌年から減少に転じ、 年(1998)
には 万 千426店に
年には
千980万人に急落している。
千台
「遊技機数」
の推移は
パチンコ、パチスロ両方の
それを具体的に見ていくと ―。
「低落傾向は依然として進み、底打ち感はあるもの
それ以後の数字を最近の統計から拾うと、
の改善要素が見つけにくい」
と結論づけることが出来る。
千900万人
年に
7
8
2
1
1
7
7
10
下落。一方、レジャー白書による
「ファン人口」
は、ホール数ピークの平成
を数えていたが、
1
自主撤去騒ぎによって、いかにユーザー離れが進んだかがわかる。
10
千台
年
(2007) 459万台
年
(2008) 452万 千台
年
(2009) 446万 千台 (注)いずれも100以下切り捨て
年
(2005) 489万
平成
年
(2006) 493万
同
同
9
7
5
7
同 同 21 20 19 18 17
68
第一章 県遊協 50年のあゆみ
5
◆ 岐阜県も傾向は同じ
万
千585店
千937店
年
(2005)
の311店が、
5
規模こそ違え、全国同様の減少傾向は変わらない。
「ホール数」
では、平成
が減っている。
千426店だったから、この
年間で
店
年
(2009)に は
年(2009)
には232店となり
これを、岐阜県に符合させて見てみると―。
(2005) 万 千154台 だ っ た の が、
「遊 技 機 数」は、 平 成 年
万 千957台と、 千台以上が減少。
万
「ホールの数」
で見てみても
数値は大きくではないが、減少が続いていることがわかる。これを
同様な結果となる。
4
万
千165店
3
同 万
2
千674店
2
万
年
(2005) 平成
年
(2006) 同 1
同 年
(2007) 年
(2008) 1
年
(2009)
万 千652店
同 (1998)
の数字が
先の警察白書による平成 年
千774店が姿を消したことになる。
21 20 19 18 17
「余暇関連サービス産業」
の売上高を物語る数値だ。産
もう一つの数字がある。パチンコを含む
業別の事業所単位の年間売上高では 億円と、 位の旅行業の 億円を抑えていて、総取扱高で
21
8
10
1
5
15
2
13
位。
はトップ。しかしながら、この中で
「競合激化」
すなわち、
「業界内の競争の激しさを争う事業」
で
は、ゴルフ場にきわどく並んで
69
79
7
1
10
17
9
17
21
1
1
4
7
2
ということは、厳しい経営を強いられている証しだ。ホールの数が減っている現実が、ここか
らも読み取れる。
こうした難局に対して、業界が手をこまねいているわけではなく、事態好転への道を探ってい
る。岐阜県遊技業協同組合
(県遊協)
の平成 年度
(2009)事業計画を見ると、こんなふうに対
応策を述べている。
県が
6
なお「遊技機数」
の減少を数字で見てきたが、参考としてパチンコ、パチスロに分別した数字と、
そこから分析できる傾向を示しておこう。
◆ パチスロ劣勢、大型店舗化
改善を図るなど、組合の連帯を背景に組織的な対応を推進する」
連携してメーカー及び遊商関係者らと定期協議を行い、不公正販売の実情を反映して、是正と
関係団体との協議を継続的に行うが、県レベルでの協議では効果が薄いとしても、中部
〈高コスト体質からの脱却策として〉
「遊技機の低価格化、長期使用できる遊技機開発、不公正販売の是正に向けて、全日遊連では
ル自身も同遊技機の導入を推進していく」
換を図るため、全日遊連ではメーカーに対して、手軽に安く遊べる遊技機の開発を促すが、ホー
〈遊技人口の回復策として〉 「一度離れたファンの呼び戻しと、新たなファン獲得を目指し、低射幸性営業へのさらなる転
21
「遊技機数に占めるパチスロの比率」
を示す。
先に遊技機数を示したので、ここでは
(2005) %
平成 年
年
(2006) %
同 18 17
41 39
70
第一章 県遊協 50年のあゆみ
(2007) %
同 年
年
(2008) %
同 年
(2009) % 同 同
同
同
平成
(注)小数点以下四捨五入
年
(2005) 323台
次に「一店舗当たりの遊技機数」は、
どうか。
ある。
パチスロに対してパチンコが優位を
保っており、その両者の差は開きつつ
同 30 32 36
年
(2006) 337台
年
(2007) 338台
年
(2008) 350台
年
(2009) 353台
徐々にかもしれないが、大型店舗化
の傾向がわかる。
パチンコ店の郊外大型化を伝える紙面(岐阜新聞 平成
年
月 日)
71
21 20 19
21 20 19 18 17
5
1
23
十、自由競争という
〝黒船〟
「低落と競合の時代」
と規定し、遊技機数やパチンコホール数などの変遷を見てき
業界の現状を
たが、〝数値に表れた実情〟以上に業界は今、
激震の中にある。
「低落と競合の時代」
のうちの
「競合」
の部分に相当する激震だ。
日本の産業は近年、どの業界においても「効率」や「サービス」「安価」を前面にした経済活動の
競い合いといってもよい。
〝規制という障壁〟
に挑む
「自由競争」を「是」とする資本戦争だと見る向
きもある。
「黒船が来た」
という形容は、強
こうした動きは、パチンコ業界にとっても例外ではなかった。
固な規制に守られてきた業界にとって、あながちオーバーな表現ではない。
いま一度、これまでの
「パチンコ業界組織の構造」
を見てみよう。
◆ 既得権益を支える三要素
点に守られた現実をいう。
〈大きな既得権益に守られた組織〉
だった、ということが出来る。
その構造は、簡潔に言い切ると
県遊協を念頭に置いて、考えてもらっても結構だ。
「大きな既得権益」
というのは①加入 ②換金 ③AMマーク の
(買い場)
」で売り、
「商社
(問屋)
」がそれを仕入れて、
「ホール」に卸すという方式だ。ホールが直
。パチンコは景品に換えるのが原則だが、ユーザーにとっての魅力は当然「現金」
。
次に「換金」
一般に「三点方式」と呼ばれるやり方で行われている。客はホールで玉と交換した景品を「交換所
。パチンコ店を開店するには、地域の遊技業組合に加入しないと営業が認められな
まず「加入」
い。そして、パチンコ台数に応じての納付金が必要になる。
3
72
第一章 県遊協 50年のあゆみ
接にかかわっていないということで、法に抵触しないとされている。
「岐阜社会福祉事業協力会」
による運営方式がとられている。要するに
岐阜では全国にも珍しい
組織に入らないと、換金システムを利用できない。
。AMマークとは、地域の防犯協会が発行するパチンコ機器に張る「OK
さらに「AMマーク」
マーク」
のシール。これを張れば、機器の検査は不要というわけだ。
パチンコ経営をめざす人は、これら三つをクリアしないと事実上、出店できなかった。逆にい
えば、地域の業界組織は
〝規制という障壁〟
に守られて、その力を保持してきた。
「当局
(警察)
」
という存在が大きな要因を持つ。
さらにこの三点に加えて、
という性格から、パチンコは常に当局の指導を受け
〝ギャンブル性と隣り合わせのゲーム娯楽〟
てきたからだ。現に県遊協も、県内組織を警察管轄地に合わせてエリア分けしてきた。組織内部
では「当局に守られているから大丈夫」
という発言が、当たり前のようにされてきた。
「自由経済競争の波」
にのみ込まれていくことになる。大手のパチンコ
しかし、この業界運営も
資本が、こうした規制をものともせずに事業活動を展開し始めたのだ。
兆円以上
(平成
1
4
2
年)
。ダイナムは沖縄を除く都道府県に332店を出店し、売上高は
兆円
現在、その最たる存在として最大手チェーン店
「マルハン」(本社・京都市)
や、業界 位の
「ダ
イナム」
(同・東京都)
がある。マルハンは西日本の 県を除く全国に244店舗を展開。売上高
は
以上(平成 年)
になる。
21
えるという。
マルハンの244店舗・ 万台が、岐阜の県遊協に加入する店の総トータル数を上回るわけだ
から、その驚異ぶりがわかるというものだ。また、こうした大型チェーン店は、全国で 社を数
17
15
20
「パチン
ダイナムのホームページをのぞくと、自社の「チェーンストア戦略」を紹介している。
コ業界に、チェーンストア戦略を導入したのは、わが企業が初」
とし、その象徴として
「木造ロー
73
2
コスト標準店舗」
の考えを披露、
「コストダウンを図ると同時に、住宅街にあっても違和感のない
要素について紹介したが、こうしたパチンコ新興勢力の前
環境に配慮した店舗。宮殿のようなホールのイメージとは正反対の発想」
と、解説している。
◆ 独占禁止法に違反では…
〝保障〟
した
地域の業界既得権益を
には、権益はあまりに無力だった。
こうした新興勢力が勢いをつけ出したのは、いつごろだったのか。
てくる、という
〝ウルトラ合法手段〟
が取られた。
態が明らかにされてしまった。一方の
「換金」
については、権利を持つ仲介業者を他府県から連れ
「別にあなたの地域組織に加入することは考えません。勝手に出店します
「加入」については、
から」となり、防犯協会が出す「AMマーク」は、組織加入が前提というほどの
〝しばり〟
がない実
れを受けて、新興業者が裁判に訴える事態までに至った。
「もっともなこと」
と同意せざるを得ない。法律に基づか
これには、業界の指導に当たる当局も
ない指導はあり得ないからだ。現に、公正取引委員会からは
「排除命令」が出て、ほかの県ではそ
な拘束を排除することを目的とする」
とうたっている。
結合、協定等の方法による生産、販売、価格、技術等の不当な制限その他一切の事業活動の不当
「あなたたちのやり方は、独占禁止法に違反しているよ」
というも
新興勢力の言い分はこうだ。
のだ。確かに同法の主旨を、その一条に
「
(この法律は)
……事業支配力の過度の集中を防止して、
3
(1995)
に、全国のホール数がピークを記録、
それは、平成に入ってからのようだ。平成 年
翌 年にはパチンコ市場が
「 兆円規模」
。それを境に業界は下降線を描いていくことになる。パ
30
チンコ台の不適合機の撤去が始まって、平成
年
(1998)
にそれが完了。
7
10
8
74
第一章 県遊協 50年のあゆみ
(2000)
、
各地の代表が顔を揃える全日遊連の年賀の集まりで、
そんな動きを受けて平成 年
警察庁保安課長から
〝パチンコ自由化発言〟が飛び出す。発言は〈もう業界組織を特別扱いしませ
ない。
13
(1997)
、県遊協の組織内に
「研究委員会」
が誕生する。こうした
〝外からの風〟
に敏
平成 年
感な若手役員らが「このままでは……」と危機感に突き動かされてアクションを始めたのだった。
「マルハン」
が全国に店舗100店を実現させたのは翌
ちなみに、最大手
年のことだ。
「流通革命」という社会情勢が後押しをしていた。
「このままでは、守旧勢力と
その背後には、
いうレッテルを貼られてしまいかねない」と、勝ち馬に遠慮する思惑が支配し出したのかもしれ
いうのが現実だった。
んよ〉という態度表明だった。
「独禁法に違反」の文言の前には、当局としても
〈なす術がない〉と
12
最初「青年部」
組織を作ろうとするのだが、
幹部の
「お遊びの集まりに誤解されてしまうぞ」
の声に、
名称を研究委員会と称することにした。
この時のメンバーが、現在の県遊協の大野春光理事長ら幹部だ。遊びどころか、
「今後、県遊
協の生き延びる道は」と、情報を集めて勉強会を開き、時代にマッチした組織のあり方を模索し
始めた。
業界をめぐる現状認識で食い違いを見せ、
衝突することが度々
しかし親組織の県遊協幹部とは、
だった。
(第 代)
から星山恵一さん
(同 代)
、岩本榮植
平成に入って、県遊協の理事長は大野春一さん
さん(同 代)
と継承され、現在の大野春光さん
(同 代)
に至るのだが、この間は、業界の根底を
4
7
5
揺るがすそんな
〝外圧〟
にどう対応するのか、そして組合の実態を保つためにどんな手があるのか
を探る「模索の時」
でもあった。
75
9
6
「最初は頑迷だった上層部も、やがて押し寄せる現実の前に、理解を
大野春光理事長は言う。
示してくれるようになった」
と。
◆ カジノ法案が浮上して
パチンコ業界を取り巻く環境は、資本戦争をめぐる激変のみか、パチンコの持つその賭博性か
ら、「いっそ
『カジノ』
をつくったらどうか」
という論議にまでなっている。
「国際観光産業振興議員連盟」
の古賀一成会長
(民主党)
が昨年、私案として
超党派議員でつくる
出してきた
「カジノ法案」
だ。その狙いとして、観光産業の育成や税収効果、地方経済の振興など
が挙げられている。
「パチンコについても、カジノ法案と同じ仕組みで立法化できな
カジノ法案の論議の中には、
いか」という方針が盛り込まれている。
「カジノが合法化されれば、
パチンコは賭博ではないのか」
となり、
「パチンコによる換金も行政の監視下に置いてしまえ」
という筋書きだ。
ここには、パチンコについて回る
〝換金システムという矛盾〟
が、如実に表れている。ホールは
現在、「風俗営業等の規則及び業務の適正化等に関する法律」(略称・風適法)
で「遊技場」と位置
づけされ、獲得した玉は日用品などに交換することになっている。しかし実態は、特殊景品に交
換し、店の外にある交換所で現金化されることが多い。この現金化は
〝事実上の賭博〟
にあたるわ
けだが、当局の裁量で
〝黙認〟
されている。このグレーゾーンの存在が、矛盾というわけだ。
「その矛盾を解消してくれる」
と言っている。カジノの運営は、国や
議員連盟は、カジノ法案は
地方公共団体の管理の下に実施され、刑法が禁じる賭博をその「例外扱い」
にしようというものだ
が、「パチンコも、そこに含めたらどうか」
というわけだ。
76
第一章 県遊協 50年のあゆみ
十一、《座談》
県遊協を語る
この記念誌の最後は、現在の県遊協幹部有志による座談で締めることにする。パチンコ業界を
めぐる岐阜県内外の現状、今後の展望を中心に活発に話してもらった。
《参加者=大野春光理事長
(岐阜)
、副理事長の玉川健次
(各務原)
、金杉政知
(大垣)
、
年
(1997)
、県遊協の組織内に若手による「研究委員会」が誕生するのですが、
それがここにお集まりの皆さんだったわけです。危機感があったと思うのですが、当時
平成
(海津)
、中谷和彦
(高山)
の皆さん》
松本浩義
―
どんな思いを抱いておられたのでしょうか。
A 当時、業界が黒船の脅威にさらされていたのですね。今ならば、明確にその認識の上に立っ
て、アクションを起こすのですが、まだそこまでは私たちもよくわからない。開国だ尊王攘
夷だといった明確な指針まではムリですが、
「外に流れる空気から察して、現状変革に取り
組まなければダメではないのか」
という危機意識がありました。
C パチンコ台の廃棄、景品の換金問題など当面することから、論議になったのですが、勉強を
深めていく過程でいろいろなことがわかってきました。
E 組織実態が旧態依然だった。
「これまでのやり方を引き継いでいけばよい」
という感じで、理
事長らが大きな実権を握っていました。金も名誉も。今の私らはボランティア同然だから大
きな違いだ
(笑い)
。
「大型店」
という具体的な姿と、自由経済に基づく自由競争という
「時代の潮流」
とい
B 黒船とは
77
9
う形で押し寄せてきました。それに対して組合
(県遊協)は鈍感で、「当局の指導に従ってお
ればいい。当局が業界を守ってくれる」
と、業界存続を約束してくれるだろうことを理由に、
もっかの課題であるパチンコ台台数の自己規制に懸命。岐阜の場合は「 ホールに300台
以内ならOK」
というものでした。
かろう」
との意見もあったとか。いずれも私たちに対して、ボロかすでした。
B 一時、幹部の間では
「若手らが300台規制を破る相談をしている。けしからん」
の声が出て
いたというからね
(笑い)
。また「300台規制をしている中へ、大型店が出て来るわけがな
りました。
まり、幹部との距離も縮まりました。やがて、台数規制問題にも耳を貸してくれるようにな
D 当時、
「産廃」
が脚光を浴び、パチンコ台の廃棄も問題に。萩原の山間部に廃棄材が大量に見
つかり、研究会としてリサイクル活動を視点に取り組みました。これによって会の結束が深
合ってもらえなかった。
台数規制をやっている場合ではないのでは」と注進しても、
「岐阜は大丈夫だ」と当初、取り
B それが、公取委からの
「独禁法に違反」
という
「排除命令」
が出るし、他府県では裁判にもなり
ました。
幹部に
「全国ではこんな動きが出てきている。
大型店が進出してくる現実を前にして、
A 関係者による
「大きな既得権益」
主義、これは言ってみれば
「護送船団」という方式です。県遊
協もそこに組み込まれていたのです。
C こうした方式を守っていけば、組織は安泰という安心感に包まれていたんですよ。
1
年
(2004)
までで規制は撤廃となりました。各地よ
早めの撤廃は、どんな効果になって現れたのですか?
A 結局、私たちの声が反映して、平成
りも早い措置でした。
―
16
78
第一章 県遊協 50年のあゆみ
A 後になって聞いたのですが、大型店の関係者が
「岐阜にはパチンコ店がないぞ」
と言っていた
とか。それは、私たちが規制をしていた300台のホールというのは、パチンコ店ではない、
と思っていたということですよ。規制をはずして、やがて500台のホールが現れたのです
が、これによって「岐阜にはライバル店が存在するぞ」と、二の足を踏ませることになるの
です。
D 「他山の石」
ではありませんが、自己規制という呪縛に固執したために、大型店の草刈り場に
なった地方もあると聞きます。
岩本榮植さんと理事長ポストが推移し、現在の大野春光さんに至るのですが、この間、
もう一度戻って、県遊協の体制についてうかがいます。大野春一さんから星山恵一さん、
ています。
A 岐阜には
「平成観光」
という岐阜生まれの大手資本があります。専務は東野昌一さんで、私た
ちの仲間
(副理事長)
です。県遊協にも協力的で大型店の情報にも通じており、大いに助かっ
―
新旧の軋轢は続いたのですか?
A 星山さんの代になって、若手が執行部に登用されはじめ、岩本さんの代では新旧の若返りが
図られた。平均年齢にして 歳は若返ったのではないでしょうか。同時にさっきも言ったよ
うに名誉職の色合いはなくなりました。
D パチンコ店を経営する親子が役員同士というケースも出てきましたが、その親子で、方針を
めぐって言い争いになることもあったよね。
C 組織形態としては、それまで警察所轄の地域割りに従って「単独の組合(単組)
」
による活動を
軸にしてきました。しかし今では岐阜、各務原、北方、大垣、関の五つは県遊協の直轄支部
79
15
とすることにしています。指導にあたる警察機構が、地域署から県警本部一本となった今、
末端機構では応対できない実情となったのです。それにしても岐阜の支部化は困難を極めま
しかし、いかなる過去があるにせよ、旧の県遊協幹部に対する評価は大きいものがある
した。
―
のでは?
E もちろんです。全体に見て、上層部は割合私たちの意見を聞いてくれたと思う。それが、現
在につながっています。
今後の展望は?
私たちも見習わなければなりません。
A 岐阜の地場に根をおろして培ってきた実力は相当なもの。地域への社会貢献もすばらしく、
―
C 年先が読み取れない状態ですから、正直難しい。ただ、アンテナを高く掲げ、情報収集に
心がけ、それを発信していくことは引き続き必要なことです。情報があってこそ、次なる行
B 中部 県の中で、情報量は一番多いのではないですかね。全国各地も岐阜の動きに注目して
います。
動に移せるのですから。
5
A 組織強化にも力点を置く必要がありますね。こぢんまりした地方のパチンコ屋さんがつぶれ
てはいけない。強い組織はやはり自分たちの身を守ることになるのですから。
6
80
第一章 県遊協 50年のあゆみ
―
カジノ法案が出来、次に遊技業法が出来るとなると、業界にとっては大きな転換期にも
なりかねないと思うのですが?
A 確かに大転換の要素を含んでいます。まず、実現性は別として管轄官庁が警察庁と通産省の
両省庁に及ぶといわれています。パチンコ玉は商品ではなく、有価証券の扱いとなり、風営
法に基づいて行われていた
「景品換え」
に消費税が生じます。ざっと考えるだけで、こんな変
化が出てきそうです。
C いずれにしても
「パチンコ業界の明日」
は
〈困難な道〉
に相違ありません。粘り強くやっていく
だけです。
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編集後記
岐阜県遊技業協同組合では過去に史書なく、創立 年を迎える節目に五〇年史発刊の機会を逃せば、史
書は残らないと思いつつ、首をすくめていたところ、1年前、理事長から「今回が最後の機会。準備にか
かれ」
と下命を受けました。
とりわけ 代目の理事長大野春一さんには、本編「県遊協 年のあゆみ」の大半の記事を委ねたことで、
リアルな体験談も多く、生々しい情景を思い起こす組合員も多かろうと思います。
氏が担当、昔を知る関係者への取材に奔走していただきました。
私には最も不得手な分野でしたが、理事長は大手広告社勤務の経験があり、細部にわたり指示を受けな
がら、保管資料を揃えました。その編集は、岐阜新聞情報センターに委託し、ライターはプロの高橋恒美
50
50
本編の編集作業がほぼ終わった 月 日、マグニチュード という巨大地震が発生し、東北から関東に
かけての太平洋岸に甚大な被害が出ています。原子力発電所も被災し国内外に不安が高まっています。
発刊にあたり、ご丁重なご祝辞や、貴重な資料を提供いただきました皆様には、厚く御礼を申し上げます。
出来上がってみれば、単組に残された資料が不十分でバランスを欠いた点は否めませんが、力不足をお
許し願いながら、本書を通じて岐阜県遊技業協同組合の歴史の一端を知って頂ければ幸甚であります。
過去の遊技業界関連記事は、主に岐阜新聞データベース検索で引き出し、粗案の点検には、野々村事務
員が自前のメモで加除修正に努めてくれました。
4
11
9
に敬意を表します。
過去、日本は幾多の困難を乗り越えてきました。そして、今回の大災害も必ずや克服しなければなりま
せん。被災者の方々に心よりお見舞いを申し上げます。また救援・復興に全力を傾注しているすべての方々
3
健二
月 岐阜県遊技業協同組合五〇年史編集委員会 長尾
私たちの業界も一体となってご支援をさせていただきます。日本が一丸となりこの難局を乗り切ること
を確信し、結びといたします。
2011年
3
岐阜県遊技業協同組合 50年史
平成23年 5 月20日 発行
企画・発行
岐阜県遊技業協同組合
編 集
岐阜新聞情報センター出版室
岐阜県岐阜市今沢町12 番地
印 刷
ヨツハシ株式会社
岐阜県岐阜市黒野南1- 90
本誌に使用掲載の写真および記事の無断転載・複製を禁じます。
岐 阜 県 遊 技 業 協 同 組 合 五 〇 年 史
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五〇 年史