2011 年度 多摩美術大学大学院美術研究科 修士論文 2011, Master Thesis, Graduate School of Art and Design, Tama Art University 押井守「フレーム理論」によって発生するリアリティの考察 及び その絵画への応用は可能か Title: The Consideration of Reality According to“The Theory of Frame”by Mamoru Oshii and the Possibility of its Application to Painting 加藤真史 Name: Masashi Kato 学籍番号 31012024 Student ID Number: 31012024 所属 博士前期(修士)課程 絵画専攻 油画領域 Field: Painting Course, Master Program 目次 序―――――2 第1章 フレーム理論―――――3 1.押井守 フレーム理論―――――3 2.フランシス・ベーコン―――――5 第2章 「内容」と「形式」(モチーフとフレーム)―――――6 1.もうひとつのフレーム理論―――――6 2.フレームは複数存在する―――――7 3.野口里佳―――――7 4.エリザベス・ペイトン―――――8 第3章 「作品」 「作者」 「観客」―――――9 1.「作品」「作者」 「観客」の三角関係―――――9 2.「作者」=現代人のリアリティ、 「観客」=批評性―――――9 結び―――――10 注―――――12 参考文献一覧―――――13 1 序 視覚メディアが発達を続ける現在、現代美術というジャンルのなかに、生産量も速度も 遅く時代遅れの感もつきまとう視覚メディアである「絵画」に残された領域はあるのだろ うか。あるとすれば具体的にどのような領域なのか、という疑問が、美術を始めた頃から 私の頭を離れたことがない。それはつまり、今自分が描いている絵画が自分以外の人間に とって「リアル」になりうるか、という疑問である。 現代美術の「現代」は英語で「contemporary」である。この形容詞には「現代の、当代 の」という意味のほかに、 「 〈人・作品などが〉同時代に存在する; 〔…と〕同時代の」1と いう意味もある。同時代の美術作品として、その表現に「リアリティ」を感じとれるかど うか。それこそが現代美術作品の鑑賞の基準となるべき点である。 はたして今現在、絵画は同時代の美術作品として「リアル」になりうるのだろうか。 2011 年 5 月、非常に興味深い作品が「発表」された。アーティスト集団 Chim↑Pom の『LEVEL 7 feat.「明日の神話」 』である。これは井の頭線渋谷駅前にある岡本太郎の巨大壁画『明 日の神話』の右隅に、岡本太郎風のイメージで四機の福島原発を描いた板を付け足したと いうものだ。この作品のポイントは三つ。まず一つは去る 2011 年 3 月 11 日の東日本大震 災による津波被害で水素爆発を起こした福島原発をモチーフにして、 『明日の神話』に描 かれている日本の被爆のクロニクルという文脈を更新して同時代的「リアリティ」を獲得 した点。次の一つは音楽では当たり前のものである、 「featuring」という概念を美術に持 ち込んだ点(cut-up とも remix とも sampling とも異なる)。そして最も驚異的な点が、こ の作品が絵画作品だということである。現在において、それが絵画作品であっても、やり ようによってあれだけの「リアリティ」が獲得できるのだという事実に、私は眼が開かれ る思いがした。 ※cut-up、remix 、sampling…批評家・椹木野衣が『シミュレーショニズム』のなかで定義した手 法。「切り刻むこと」を意味するカットアップは、単一の作品のなかに複数の要素を混在させて異 化効果を生み出すことを、リミックスは同一表現の徹底的な反復を、サンプリングは既存のイメー ジの暴力的・自己言及的な流用をそれぞれ意味している。2 話をもどす。はたして今現在、絵画は同時代の美術作品として「リアル」になりうるの だろうか。確実に言えることがある。現代の絵画は、とてつもなく発達をし続けている現 代の視覚メディアの質、量、速度に慣れてしまった現代人の視覚を意識して作られなけれ ばならないということだ。そこで私は映画監督・押井守の唱える「フレーム理論」に注目 した。 2 第1章 フレーム理論 1.押井守 フレーム理論 まず映画監督・押井守について簡単にふれておく。1951 年生まれ。代表作は『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』(1995) 、 『イノセンス』(2003)、 『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』 (2008)など、アニメーション監督のイメージが強いが、 『紅い眼鏡』(1987)、 『アヴァロン AVARON』(2001)など、実写作品も撮る。先述した「フレーム理論」とは私が個人的につけ た仮称で、押井がその著作『イノセンス創作ノート』のなかで、 「みずからのアニメ技法 論を、想像とリアリティに関わる一般理論として構築しようと試みた」3 理論である。 『イノセンス創作ノート』のなかで、押井はアニメーションを「現実などカケラも存在 しない」4、 「現実から想を得て二次元上に再構成された妄想」5 と定義し、一方で「情報の 総量からいって現実に勝るものがある筈もない」6 と、視覚メディアに対する現実の情報 量の優位を説いている。つまり現実の方がリアルだと言っているのだ(当たり前の話だが)。 現実に勝るほどリアルなものはない。その前提の上で、二次元のイメージに理論的にリ アリティを持たせるにはどうすればいいか。押井が出した結論は レイアウトを近景、中景、遠景の三つの領域に分け、 物語と世界観とキャラクターという映画の三要素に対応させる 7 というものであった。 ひとつずつ解説していくと、まず押井はレイアウトをこのように定義している。 レイアウト ――画面構成という作業は一般に、見易く、見栄えのする、迫力の ある、カッコイイ絵を作る――構図を取る作業である、とそう思われているよ うです。…果たしてそれだけでしょうか。…それは要するに演出された、演出 家の意図に沿って効果的に実現された構図のことに他なりません 8。 さらに押井はレイアウトを長編アニメ制作という長期戦の戦略構想の、局面における具体 的提示としている。 何のために、どのような意図を込めて、どんなアングルで、レンズで、カメラ ワークで構図を決定するか。そのシークエンスに物語からするといかなる意味 があり、その意味を実現するためにどのような構図を並べるか――9 3 これらの記述から、レイアウトとは隅々まで理詰めに計算され尽くした、作品の設計図の ようなものだと言える。絵画に置き換えると、モチーフの選択または構図の意図、文脈、 その作品から想起される諸々の事物ということになる。 「理詰めに計算され尽くした設計図を絵画に置き換える」などと書くと反論をまねきそ うだが、私は「感覚だのイメージだのといった世界にはいつでも復帰できる」10 という押 井の意見に賛成する。 「理屈を貼りつけられそうなところには、とりあえず貼って回るの がスジ」11 であり、感覚の世界に戻るのはその後でも遅くはない。一度理屈を通過させた 方が作品が複雑になり、重層的になるとも思う。 次に近景、中景、遠景という三領域についてだが、これらの物語、世界観、キャラクタ ーという映画の三要素への対応については、精神分析医・斎藤環による押井の著作につい ての見事な解説から引用する。 押井は、レイアウトを近景、中景、遠景の三領域に分ける。近景はキャラクタ ーの領域であり、ここで目的論的に物語が進行させられる。中景には世界観が 反映され、演出家の目的意識がもっとも支配的な真実の領域である。真実が語 られるとき、キャラクターの領域は不在となり、台詞はオフでこの領域に重ね られる。多くの場合、建築の内部空間がこれに充当されることになる。遠景は 監督の秘められた物語が展開されるがゆえに、もっとも抽象度が高い無意識の 領域であり、 「鳥や飛行機が飛んだりする世界」ということになる。さらに押井 は、 「この三つの領域はアニメの物語構造の反映であり、さらにいうなら人間の 意識構造にも照応している」として、別個の次元を重ね合わせることによって、 世界を生成し、物語を胚胎する、その形式こそがアニメの本質」とみなす 12。 私自身の解釈としては、近景はキャラクターの内面の領域であり「葛藤」や「苦悩」 、 「ホ レタハレタ」などが起こる。中景は世界観や関係性の領域であり「水没した近未来のアジ アの某都市」や「曇天が多いヨーロッパのとある片田舎の軍用基地」という具体的世界観 のなかで、キャラクターが出会ったり、別れたり、じゃれ合ったり、ドライブしたり、殺 し合ったり、一緒に食事したりして関係性を作ったり壊したりする。遠景は大空や深海が 一望できるスケールの領域で、そこではキャラクターは豆粒程度のもので、「神」や「生 と死」、 「無意識」などといった概念と結びつきやすい。そしてこれらの近景、中景、遠景 のフレームが切り替わるその瞬間に、リアリティが発生する。 押井守の 2008 年の作品『スカイ・クロラ』で具体例を挙げてみる。まずこの映画の世 界観は大きく二つに分かれている。戦闘機のパイロットである主人公たちがほとんど変化 のない日常を過ごす地上の世界と、戦闘機に乗って敵と闘う舞台となる上空の世界である。 パイロットたちの生死が一瞬で交錯する上空の世界は明らかに「遠景」にあたり、映像と してもフルCGで表現されている。戦闘機が激しく飛び交い機関銃が火を噴く、映像とし 4 ても華々しい戦闘のなかで、敵の戦闘機に後ろをとられて恐怖に怯えるパイロットの様子 が一瞬挿入されるシーンがあるのだが、まさにその瞬間に、華麗ともいえる「遠景」から パイロットの恐怖の内面を伝える「近景」にフレームが切り替わっており、リアリティが 発生しているのだ。 2.フランシス・ベーコン これまで述べてきた「フレーム理論」を映像ではなく絵画に応用することは可能だろう か。具体的に画家を例にして当てはめてみようと思う。 アイルランド出身の画家フランシス・ベーコンは人間の身体を元にして「物語や説明 と結びつくことなく純粋に視覚を刺激することを目的とした『強烈な視覚的イメージ』 」13 を作り出そうとした画家だ。その人体表現に対する異常ともいえる執着は数々のインタヴ ューや発言が裏付けている。彼に対して、精神分析医・斎藤環が興味深い分析を述べてい る。 まず斎藤は「 『人のかたち』を描くこと、それはほとんど人を、その自覚なしに記号の 営みへと拉致することにほかならない」14 とし、 「人のかたち」とは本来「関係の記号」で あり「心理の記号」であると述べている。 「関係の記号」としての「人のかたち」とは、例えば交通標識やトイレの表示のことで、 見る者と場所との関係性を規定している。押井守のフレーム理論にあてはめると、 「中景」 に属する記号だ。 「心理の記号」としての「人のかたち」とは、例えば漫画やアニメに描 かれるそれのことで、 「しばしば内面の投影された記号として機能する」15。こちらをフレ ーム理論にあてはめた場合、「近景」に属する。そして斎藤は「複数の人型を描いてしま うと、そこに『内面』と『関係』の相互作用が生まれ、…ベーコンが忌み嫌う『物語』が 自動的に発生してしまう」16 と分析する。ベーコンにとって画中の「物語性」は「純粋に 視覚を刺激する強烈なイメージ」を作るという目的の邪魔にしかならない。 つまりこういうことだろう。人間が根源的に「人のかたち」に執着してしまうという性 質( 「遠景」 )に着目していたベーコンは「純粋に視覚を刺激する強烈なイメージ」として の人体を表現しようとした。イードウィアード・マイブリッジの身体動作の写真や『戦艦 さい ポチョムキン』の叫ぶ老婆の写真や犀などの動物写真を参照してそれに強度を持たせ、そ して邪魔な「物語性」の発生を避けるため「内面(近景)」と「関係(中景)」の双方を画 面から徹底的に排除した。その結果、限りなく薄く無意味になった「近景」「中景」の層 を通して、観客の視覚を強烈に刺激する強度を備えた「遠景」が立ち上がってくる画面を 構築しようとしたのだ。背景をオレンジやグリーンなどの鮮やかな単色で塗りつぶすこと も、人体を際立たせるという意味で「中景」の排除に一役買っている。また「顔によく似 ていながら、サハラ砂漠のような広がりがあるように見える肖像画を描きたくなるので 5 す。 」17 というベーコンの発言からも、いかに「近・中景」を通過して見えてくる「遠景」 を意識していたかがわかる。 「私が思うに、芸術とは生き物に対するこだわりであり、結局、私たちは人間ですから 最もこだわるのは人間ということになります。 」18 とベーコン自身も発言している通り、私 たち人間は確かに根源的なレベルで「人のかたち」に執着してしまう。たとえば人ごみの 中にあっても好みのタイプの異性は自然に目が捉えてしまうし、知人やそれに似た風貌の 人間を感知する能力は誰にでも備わっている。私たちがベーコンの描くねじまげられた人 体をただの肖像画を見るときとは異なった視点でもって見るとき、つまり人間が根源的に 備えている「人のかたち」に対する執着という「遠景」でもって見るとき、ただの特定の 人物の肖像という「近景」が人間の本能とでもいうべき「遠景」のフレームに切り替り、 リアリティが発生するのだ。 第2章 「内容」と「形式」(モチーフとフレーム) 1.もうひとつのフレーム理論 ここまで私は押井守の「フレーム理論」について記述してきたが、これはいかにして「内 容」にリアリティを持たせるかという、作品の「内容」に関する理論であった。そこでこ の章では「内容」を規定する「形式」をも対象に含めた、もうひとつの「フレーム理論」 とでもいうべき理論に注目したい。まずは第1章でもたびたび引用した精神科医・斎藤環 による文章を引用する。 フレームと内容とは、つねに相互に規定しあうような関係におかれている…。 フレーム抜きでは内容は意味づけられない。しかし内容を欠いた自律的フレー ムなるものはそもそも存在しえない。 たとえば画家にとっては、絵画という形式がフレームであり、描かれた人物 なり風景なりが内容ということになるだろう。しかし、この関係に安住しつづ けるかぎり、表現はリアリティから遠ざかることになる。それがリアルである ためには、フレームが不断に乗り越えられる必要がある。乗り越えとは端的に いえば、 「これは絵なのだろうか?」という決定不能な問いの連鎖にほかならな い 19。 これによれば、「内容」が「形式」の枠組みのなかに安定して収まってしまっている作 品はリアルにはなりえない。逆に、例えば絵画という「形式」を用いながらも描かれた「内 容」が非常に映像的である場合や、子供のころどこかで見た、記憶の中の風景が具現化さ れたような強烈な既視感を感じさせる写真などは、 「(形式の)リアリティ・システムの所 6 在をつきとめながら、それに反駁するのみならず、システムそのものを出しぬき、あるい は書き換えようともくろむ」20 作品である。つまり「内容」の強度が「形式」の枠を透過 し(フレームが乗り越えられ) 、「絵画」 「写真」などのカテゴリーの狭間へ浸透し出した リアルな作品であるといえる。 2.フレームは複数存在する ここで現在私たちがどれだけ多くの「形式」というフレームに視覚的に関わっているか についてふれておきたい。以下は斎藤環の著書『フレーム憑き』 (青土社)の「第Ⅰ部、 身体・フレーム・リアリティ─押井守『イノセンス』」を大幅に参考にした私なりの解釈 である。 現在は多くの視覚メディアが存在し、同じ数だけ多くの世界が存在する。現在 の視覚メディアの普及・発達は直接現実世界を見ることの優位性を失わせただ けでなく、視覚は常に間接的である他はないということをはっきりさせた。か といってテレビも映画も写真も存在しなかった時代の人間は直接肉眼で見るこ とのできる唯一の真実の世界を持っていた(見ていた)わけではなく、たんに 現実というフレームを直接見る機会しかなかったというだけだ。人間の視覚の 不完全さは昔も今も変わらない。人間が視覚によって世界と関わっている以上、 実写映像、アニメ映像、CG、写真、絵画、さらには記憶、夢の中、そしても ちろん現実…世界はこれらの複数のフレームで成り立っている。「唯一の真実」 は存在しない。もともと存在しなかったのだ。世界にはどれもが真実ではなく、 かといって虚構でもない複数のフレームが存在する。そのフレームが切り替わ った瞬間に、つまり複数ある真実でも虚構でもない世界の存在を実感したとき に私たちはリアリティを感じるのだ。 例えば映画監督・北野武は、現実というフレームの地味で唐突な暴力表現を実写映像と いうフレームに移植して、新鮮なリアリティを生み出すことを得意としている。それは観 客にこれみよがしに突きつけるような、派手で「お約束」的な、映像というフレームのな かの暴力に対するアンチテーゼにも見える。 3.野口里佳 前述した複数のフレーム間を横断する作家として、写真家・野口里佳を挙げたい。野口 の写真はとめどなく消費されていくイメージとしての写真とは一線を画す。 7 人間が記憶をさかのぼれる限界の地点は3歳頃といわれているが、野口の写真はその頃 の霞がかったような、曖昧なようで鮮明な記憶のイメージを想い起こさせる。 「見る者の 心の深層に横たわる古い記憶」21 のイメージである自分の写真を、1とその数字自身でし か割切ることのできない数、「素数」のような風景と表現する野口の感覚は、全くもって うなずける。野口は写真というフレームを用いながら「素数のような風景」、つまり人間 の「記憶」の起源のイメージを表そうとする。野口の写真を見て「この風景を昔どこかで 見た気がする」と思ったまさにその瞬間に、「写真」のフレームが「記憶」のフレームに 切り替り、リアリティが発生しているのだ。 さらに特筆すべきは、野口の写真は観るたびに作品の印象が変化する幅の広さを備えて いることだ。富士山、種子島の宇宙センター、アラブ首長国連邦の砂漠など、特殊ともい える場所の固有性を残しつつも、まるで近所で見かけた場所のような日常的な空気をまと ったイメージ。野口は写真という「形式」を飛びこえる変幻自在のイメージを作り出す。 この自在さは野口のいう「素数のような風景」が、編集者・後藤繁雄のいう「起源の写真」 と結びつくことによって発生している。後藤によれば、 「起源の写真」とは、 「写真機が発 明される以前から…すでに人々のうちに潜在的に存在していたもの」22 であり、 「潜在的に 時代の無意識として存在するもの」23 だ。つまり人間の視覚の根源に関わるもののことで ある。この結びつきによって野口の作品は「写真」、 「記憶」、 「ありふれた日常風景(現実)」 、 「昔見た映画のワンシーン(映像) 」など、見るたびにフレームが切り替わり、鑑賞者の リアリティが更新されることになる。 こうしてみると、野口の次のような一文は極めて示唆的であるといえるだろう。 光速に近いスピードで宇宙を進んでいくと、前方の星のまわりに虹が見えると いわれている。その虹を見てみたいと思った 24。 これは、確かに存在するが未だ誰も見たことのない「起源」のイメージへの野口の 憧れと欲望を表していると私は感じるのである。 4.エリザベス・ペイトン 内容が形式というフレームを乗り越えている画家としては、エリザベス・ペイトンがい る。ペイトンの作品の形式は絵画である。ジャンルでいえば肖像画にあたる。しかしペイ トンの絵画が旧来の肖像画と決定的に異なる点は、その人物表現が画中の人物の内面を表 出するのではなく、作者であるペイトンの内面、つまりペイトンの画中の人物への思い入 れを表すための媒体となっていることだ。では具体的にどのような内面を表しているのか。 それは「親密で一方通行な愛情」である。私は、ペイトンの絵画は「会ったこともない写 真の中の人物に恋をしてしまった者の視点」を備えていると感じる。例えば、写真やテレ 8 ビの中のロック・スターに同一化したいと願う思春期の少女のように。つまりペイトンの 作品には「モデルに対するペイトン個人の愛情や憧れ(ペイトンの現実) 」というフレー ムが分かちがたく貼りついているのだ。それは特定のある人からある人への時とともに変 化する愛情や憧れなので、当然一定ではなく、むしろとんでもなく流動的な性質を持って いる。 「描くのは写真やヴィデオを見ながら」25「モデルとは距離をおき、写真を見て思い出 すことが重要」26 という制作スタイルと、見られている対象として自分を捉えている写真 のなかのモデルたちのポーズが相まって、ペイトンの作品は本質的にはお気に入りのアイ ドルの写真やポスターに近いといえる。そして当然、それは物質的には絵画である。筆触 を残し、少ない手数で形を描く方法論からも、それが絵画であることを強く感じさせる。 さらにモチーフは有名なロック・スターや歴史上の人物である場合が多い。そのためイメ ージが鑑賞者自身の「記憶」のフレームに切り替わる可能性も生じる。 「写真」 「絵画」 「(鑑 賞者の)記憶」。これらのフレームに加えて、作品に貼りついた「ペイトン個人の愛情や 憧れ」というフレームがその流動的な性質ゆえにつねに切り替えを要求し、ペイトンの作 品のフレームが固定されることを許さないのだ。 第3章 「作品」「作者」 「観客」 1. 「作品」 「作者」「観客」の三角関係 「作品」と「作者」と「観客」の三角関係は重要であるとよく言われる。ここまで私は 二つの「フレーム理論」をとおして主に「作品」について述べてきたが、この章では残る 二つ、「作者」と「観客」についてふれたい。 2. 「作者」=現代人のリアリティ、「観客」=批評性 第2章の2で述べたとおり、現代は視覚メディアが非常に発達しており、私たちの周囲 には映像、写真、絵画、など複数のフレーム(視覚世界)が存在し、 「唯一の真実」のフ レームは存在しない。これは「作者」である私たち現代人のリアリティだ。これを相対化 するために岡本太郎の『縄文土器論』(1952)で述べられている縄文人のリアリティと対比 したい。 岡本は『縄文土器論』のなかでこう主張する。狩猟民である縄文人は獲物を狩るための 鋭敏な三次元的感覚(空間把握能力)に加えて、世界に起こることの全てを宗教・呪術に 由来するという、プラス一次元の「皮相な現実を超えた四次元的」感覚を持っていた。こ の四次元的感覚が、縄文土器のあの特異な形状に反映したのだと。対して現代人まで続く 9 弥生時代以降の農耕民の感覚を、「geo(土地)を metry(区切る、測量)すること」にな じんで、 「立体感、空間の感覚が萎非」した平面的、二次元的なものとしている。 縄文土器はアウトサイダー・アートの(知的障害者による)作品に似ていると思う。そ れは作家と作品の関係性が密着しすぎていて、作品に対して批評性が持てないという点に おいて似ているのだ。現代人である私たちは、世界には「唯一の真実」は存在せず、複数 の真実でも虚構でもないフレームが存在しているのだと気付くことができる批評性を手 に入れたが、かわりに縄文人の鋭敏な三次元的感覚(空間把握能力)や宗教観にもとづい た時間感覚は失った。縄文人はおそらく「唯一の真実」のなかにいたはずだ。知的障害者 の作家たちも「唯一の真実」のなかにいるはずだ。そのため作品に対して批評性を持つこ とはできないし、作家と作品の関係性が発展することはない(これは作品単体の良し悪し とは別の話だ)。 鋭敏な三次元的感覚を持った縄文人でもなく、生きることと制作することが純粋にシン クロしたアウトサイダーでもない私たちにとって重要なのは、「批評性」を持つことだ。 私たちは自覚的に批評性を働かせて、作者である自分と作品との関係性につねに気を配り ながら制作すべきなのではないだろうか。 結び ブルース・リーの映画の有名なセリフがある。 「考えるな、感じるんだ(Don’t think, feel!)」 。たしかにこのセリフのように芸術作品の意味など観客が好きに感じて、各々自 由に解釈すればいい。しかし仮にも美術を専門として修士課程まで進んだ学生がそれを口 にしてしまったら、少なくとも私には思考放棄の正当化に聞こえる。そして何より、美術 というジャンルのなかには文脈を把握しテキストを読まないと全く理解不能な作品が少 なくないのが事実なのだ。私が思うに、美術において考えることと感じることは相反する 事柄ではない。「感じる」ためのステップとして「考える」ことがあるのだ。 村上隆は『芸術起業論』の中で「現代美術にはプロスポーツのようにルールがある。そ のルールを踏まえていない作品は相手にされない」と述べていた。これを読んだ当時浪人 生だった私は少なからず衝撃を受けた。それ以来「現代美術のルール」について考え続け ているが、未だにはっきりと答えが出ない。それは野球やサッカーのルールのように成文 化されたものではなく、正当と違反の境界が曖昧で揺れ動いているものなのかもしれない。 この論文の中で私は二つの「フレーム理論」を、私が視覚メディアを鑑賞する際のルール として文章化したつもりだ。押井守の「フレーム理論」を知り、それを絵画に応用できな いだろうかと思い立ったときから、私は作品を鑑賞するときも制作するときも必ずこの理 論を対象に照らし合わせるようにしている。感覚的な視点の他に、このような理論的な醒 めた視点を自分のなかに設定しておくことで、少なくとも作品への理解を拡げるもしくは 深めるためのひとつの足がかりにはなっていると思う。この理論が目指すものはただひと 10 つ、リアリティである。作品の形式(フレーム)が見るたびに切り替わる作品、鑑賞者に とってのリアリティがつねに更新されるような作品を、つねに批評性を働かせ作品との関 係性に気を配りながら、この理論にのっとって作ることを、私は目指すべきなのではない だろうか。 11 注 1. 新村出編『広辞苑 第六版』岩波書店、2008 年 2. 暮沢剛巳、「カットアップ/リミックス/サンプリング」、 暮沢剛巳編『現代美術を知るクリティカル・ワーズ』 、フィルムアート社、pp.177-178、 2002 年 3. 斎藤環『フレーム憑き』青土社、P.49、2004 年 4. 押井守『イノセンス創作ノート』徳間書店、P.76、2004 年 5. 同上、P.78 6. 同上、P.78 7. 同上、P.89 8. 同上、PP.81-82 9. 同上、P.83 10. 同上、P.83 11. 同上、P.83 12. 斎藤環、前掲書、P.50、2004 年 13. デイヴィッド・シルヴェスター(小林等訳) 『肉への慈悲』筑摩書房、P.224、1996 年 14. 斎藤環『アーティストは境界線上で踊る』みすず書房、P.56、2008 年 15. 同上、P.56 16. 同上、P.56 17. デイヴィッド・シルヴェスター、前掲書、P.63、1996 年 18. 同上、P.69 19. 斎藤環、前掲書、P.7、2008 年 20. 同上、P.10 21. 南雄介「序文『光 松本陽子/野口里佳』展について」 、 『光 野口里佳』国立新美術館カタログ所収、P.11、2009 年 22. 後藤繁雄「起源の写真 野口里佳論」 、 『美術手帖』2004 年 8 月号 (No.853)所収、P.159 23. 同上、P.159 24. 野口里佳「光の思い出 未来の光」 、 『光 野口里佳』国立新美術館カタログ所収、P.89、2009 年 25. 藤森愛美「 [特集]新しい具象」 、『美術手帖』1998 年 11 月号 (No.763)所収、P.51 26. 同上、P.50 12 参考文献一覧(著者五十音順) ・押井守『イノセンス創作ノート』徳間書店、2004 年 ・暮沢剛巳編『現代美術を知るクリティカル・ワーズ』 、フィルムアート社、2002 年 ・後藤繁雄「起源の写真 野口里佳論」 、『美術手帖』2004 年 8 月号 (No.853) 所収 ・斎藤環『アーティストは境界線上で踊る』みすず書房、2008 年 ・斎藤環『フレーム憑き』青土社、2004 年 ・デイヴィッド・シルヴェスター(小林等訳) 『肉への慈悲』筑摩書房、1996 年 ・新村出編『広辞苑 第六版』岩波書店、2008 年 ・野口里佳「光の思い出 未来の光」、 『光 野口里佳』国立新美術館カタログ所収、2009 年 ・藤森愛美「 [特集]新しい具象」 、 『美術手帖』1998 年 11 月号 (No.763)所収 ・南雄介「序文『光 松本陽子/野口里佳』展について」、 『光 野口里佳』国立新美術館カタログ所収、2009 年 13
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