2010年12月までのブログはここで見られます。

2010 年 12 月 27 日
今年も後一週間になりました。このころからなんとなく行く年を惜しみ来る年に期
待を抱いて、これが実現できた、あれが実現できなかったと反省したり夢を抱いた
りしてすごします。
今年こそはこれをやろうなどというのも三日坊主でこそないのですが、なかなか実
現できません。100回読もうなどと決めた本も実は毎年途中で沈没しています。
私は自分の事に関しては比較的楽観的にできていますから、あまり今年はこういう
欠点を直そうな度と決めることは少ないのです。というか、私たちの欠点というの
は、たいてい私たちの長所につながっていることが多いのですよね。その上私たち
を愛している人にとってはたいてい私たちの欠点は愛すべき点でもあることが多い
ですね。
いずれにせよ見ていると、人というものはそんなに簡単に変わるものではありませ
んね。本質的な点においては、きっと私たちは一生変わらないのではないでしょう
か?
子供たちも自分の本質の奥底深くに潜んでいる自分というものを直感的に捕らえて
それに自信を持ってそれを育ててゆかれるようでありたいですね。それには愛情と
理解に満ちた家族や先生に囲まれて育ってきたということが大切でしょうね。
それが親であれ先生であれ友人であれ恋人であれ或いは神様であれ、自分以外の何
らかの存在に自分が認められ愛されているという感じが心の中にあって人が生きて
ゆくということは、私たちの人生にとって本質的なことですね。
それは私たちは人生の終わりにゲーテのように、
Pourtant la vie était belle.
色々とあったけど、人生は美しい。
こういって人生を去ってゆける幸せを得るために大切なことですね。
2010 年 12 月 26 日
12月になってから何回か大雪があってそのたびに飛行機の便がキャンセルされて
空港が大混乱しました。報道では数千人に人が空港でごろ寝したというからすごい
ですね。
そうしたら、今日エコロジー・運輸大臣が飛行機の解凍剤の納入についての調査委
員会を作って調査すると発表していました。もちろん飛行機が飛ばなかったのは問
題なのですが、飛行機がキャンセルされたことと、その後の乗客に混乱には直接の
因果関係はないんですよね。
便がキャンセルされても、その後の荷物や乗客の対応がきちんとできていたらあん
な混乱は起こらなかったのですよ。
逆に言えば、その点を解決せずに解凍剤の納入問題を解決しても、次にテロにせよ
燃料にせよ他の問題でキャンセルがあれば同じように空港で乗客の混乱が起こるわ
けです。その辺の対応システムを考えずに目に見えるところだけ対応していたら、
企業にせよ国にせよ組織を経営管理している人としては失格だと思います。
今日はクリスマス。
2010 年 12 月 24 日
行く年を惜しみつつゆっくり何とはなしに過去に集めたノートを読み直してい
てこんな話をみてはっとしてしまいました。
世界から不幸が少しでも減るようにと骨を折っている慈善団体で働いているおじさんが、まだ小学生
くらいの女の子が小さな赤ん坊を背負っているのを見て「お前は、大変な重荷を背負っているのだね
え」といったら、その小さな女の子がおじさんをじっと見て「おじさん、これは重荷ではないわよ。
私の弟」とこういったという話です。
本当に愛情があったら人というのは何があってもどんな苦労をしても決して重荷ではないんですよね。
あまりにも物質的な文化文明に私たち現代人は毒されすぎてしまって、そんな初等的な真理を忘れて
しまったのか、或いは自分以外の人に愛情を言うものを感じられなくなってしまったのでしょうか?
私たちがどれくらい物質的な文化文明に毒されて、人間的な心や愛と言うことを忘れてしまったかは
エマイウスを作って私財をなげうって一生不幸な人たちのために尽くしたピエール神父の呼びかけを
聞きながら考えてみるとよいと思います。
2010 年 12 月 23 日
コートジボワールのローラン・バグボが大統領選挙で敗北したのにもかかわらずに居座ってしまい、
国際連合や西洋諸国が騒いでいます。フランス大統領に至っては先週はじめに「週末までに大統領職
をされ。さもなくば考えがある」と最後通牒を突きつけて脅かしていました。
しかし、フランス大統領自身も先日のリリアーヌ・ベタンクールにかんする政治献金問題では、大統
領の職権を利用してもみ消していました。側近のブリース・オルトフーにいたっては最近二度も有罪
の判決を受けたのにもかかわらずに、上告したから結審ではないということでやっぱり居座っていま
す。
要するに西洋文明というオブラートで包んではいますがやっていることは本質的にはアフリカのロー
ランバグボと変わらないのですよね。
「出処進退」ということが全然できていないのです。
ですから、フランス大統領の最後通牒を聞いたローラン・バグボが「ああ、おれもこんな恥ずかしい
生き方をしていてはいけないな。やめよう」と思うかといったら思いっこないですね。きっと、「お
前たちも同じように権力や地位にしがみついているくせに、えらそうな口を利くな」と思うくらいな
ものですよね。
これが、ドゴールやマルローが「やめろ」といっていたら、少し様子が違うと思うのです。かれらな
ら、ずっと高所大所からものを見、感じ、生きているから、言われるほうも、なるほどそうかといわ
れるほうも人間的な反省をする気になるのでしょうが、同じように権力や地位にしがみついている人
たちがものを言ってもいわれたほうは聞かないですよね。「目くそが鼻くそを笑う」と思うだけです
よね
2010 年 12 月 22 日
私が子供のころは両親はもちろん学校でもいろんな本でも、「罪を憎んで人を憎ま
ず」ということをよく言いました。
そう教えられてそんな雰囲気の中で成長してきたのです。
ところが現代は、政治家の発言を聞いていてもメディアの発言でも、まるで逆の印
象を受けるのです。まるで「人を憎んで、罪を憎まず」ですね。ですから「悪党」
を刑務所に入れたり死刑にしたり、メディアでたたいたりして満足しています。
これが暴力や強盗はもちろん銀行で投機をして問題を起こしたりしたときもそうで
すね。さらには最近の薬の問題や大雪での空港の混乱でもそうです。
「罪を犯した人」を社会やメディアや司法がたたいてそれで「罪を犯したひと」を
社会から抹殺して事が終わったと満足してしまっています。ですから、また新しい
人が出てきて「同じ罪」を繰り返します。
「罪を憎んで人を憎まず」と「人を憎んで罪を憎まず」の根本的な違いをよくよく
考えるべきではないでしょうか?
2010 年 12 月 21 日
もうずいぶん昔に引退したフランス国営放送の美人アナウンサー Denise Fabre が最近
本を出していました。
Au cœur des étoiles という表題で自伝のような本です。その中で彼女がピアフの有名
な歌のように Non, je ne regrette rien. と書いているのが印象的でした。
私たちが子供のころに習った「我わが身を三省す」を持ち出すまでもなく、人は常
に反省をするということは必要だと思います。でも、己の悔恨の情のために、己の
不幸は他人のため、社会のため等々と恨み言を言い続けるようでは困りますね。
恨み言を言うのは本人が幸福になれないばかりか周りにも迷惑をかける一番よくな
いことですね。やっぱり基本は、Non, je ne regrette rien. とピアフの歌を口ずさみな
がら人生を歩んでゆくのが幸福の秘訣かもしれません。それは己を幸福にし他人を
幸福にできる言葉ですね。
この Denise Fabre さん、ショウビジネスやメディアにありがちな浮いたうわさもなく
現役を終えて今は故郷のニースの市会議員もしています。若いころから旦那さんの
コックの Vandenhende さんと気の聞いたビストロを経営していました。もちろん彼
女の故郷のニース料理です。パリの17区でやっていて、それから7区の古くから
あった La Ferme Saint-Simon を買い取ってそこでやっていたのですが、数年前にそこ
も売って、引退してしまいました。
La Ferme Saint Simon
6, rue de Saint-Simon 75007 Paris
Tél.01-4548-3574
彼女たちとは関係ないのですが、ニース料理を食べたい人のためにニース料理の店
をあげておきます。
Le Petit Niçois
10, rue Amélie 75007 Paris
Tél.01-4551-8365
彼女たちが店に出ているわけではありませんので残念ですが、彼女たちがオーナーのレストランがあ
りますから上げておきます。
La Maison du Jardin
27, rue de Vaugirard 75006 Paris
Tél.01-4548-2231
ここはフランスの上院の近くでよいところですからお勧めします。
2010 年 12 月 19 日
今日はネットのニュースを読んでいて驚きました。中国が床屋さんで集めてきた髪
の毛からアミノ酸を抽出してしょうゆを作っていたらしいのです。まあ、それを禁
止したという話だったのですが。
いやあ中国製は、何が起こるかわからないと思ってぎょっとしたのです。中華食品
店へ行くと例の卵(ピータン)や豆腐を塩漬けにして発酵させたものとかたけのこ
を油付けなど結構酒の肴になるものがあって、時々買って楽しんでいたのです。
それがしょうゆのアミノ酸を補足するために床屋で集めてきた髪の毛を使ってアミ
ノ酸を抽出して使っていたとなると食欲なくしますね。
今度はどんな報道がなされるだろうと心配になってきます。
もうこれでここしばらくは中華の酒の肴は遠慮しますね。
韓国のほうがまだそういった点では信用できるようですね。
まあ日本も戦後の復興期の歴史を呼んでいるとずいぶん苦労はしているのはわかる
のですが、中国のことなど言えないですね。窒素の水俣病などもはっきりと向上の
垂れ流しが原因と認めるまでに何十年とかかっているのですね。あのころにすでに
現在のような厳格な公害規制があったら日本は今頃まだ東南アジアの低開発国にひ
とつだったのかもしれませんね。そういう犠牲の上にわれわれの人生が成り立って
いるということはゆめゆめ忘れるべきではありませんね。
2010 年 12 月 9 日
大雪が降ってパリ地区をはじめとしてフランスの各地で車を運転していた人たちが雪の降る路上で閉
じ込められていました。政府に対する批判が湧き上がったら FILLON が政府はやるべきことをやって
いる、悪いのはきちんと大雪を予測できなかった天気予報だと叫んでいました。
べつに SARKOZY にすべての責任があるとは言いませんが、上に立つものがそれだけの人間的な器が
ないと集まってくるものも凡庸になるのかと、論語の「己を修むるに敬をもってせよ」ということば
の大切さをつくづくと思いました。
この人たちは「己を修めてもって百姓を安んずる」などということは、この人たちの頭の中にぜんぜ
んなのだろうなという印象を受けて、ああ、私は日本に生まれてよかったと思ったのでした。
こういうのを見ていると、どうも国の政治というのは不思議だなと思わざるを得ません。
会社で何か問題が起こったときに、経営陣がいやあれは営業がわるいだの工場が悪いだのといって自
分たちを正当化していたら「ばっかじゃなかろうか」と笑われますよね。
2010 年 12 月 6 日
SARKOZY と FILLON が国政の基本ともうべき議会を無視して、俺たちがいて初めて国建て直しの緊
縮財政や改革が断行できるのだといわんばかりに啖呵をきっているのをみると、この人たちは自分の
やっていることがわかっているのかと思ってしまう。
偶然、象牙海岸では選挙に負けた前大統領のバグボが居座って大統領が二人いるという珍奇なことが
起こっています。
権力の毒ということはよく言われるけれども、21 世紀になってもこんな姿を自分の眼前に見ることが
できるとは思っていませんでした。しかも、フランスのように文化文明の伝統の古い国でです。
どこかで経営学者として有名なドラッカーが「停年の必要は実際のところ、年老いたということでは
ない。主な理由は『若者たちに道を明けなければならない』ということである。でなければ若者たち
は就職もしなければ定着もしない」といっていました。
そして現在起こっていることは、若者たちの失業、失業というよりも失業前の就職難ですよね、も国
家財政の赤字も解決できなくて、国家財政の赤字解消に停年の先送りは必須、その困難な改革を断行
する俺たちの勇気を見ろと啖呵を切っているわけです。
こんなのは国を任せられている政府の経営管理能力ゼロということの証でしかないのですから、企業
の経営陣でしたらとっくの昔に首になっていますよね。それを自覚せずして「俺たちを見ろ」と啖呵
を切るところが、権力闘争の不思議なところでしょうか?
2010 年 11 月 29 日
今日はやっぱり私には理解不可能なニュースが二つありました。ひとつは今日の 14 時 30 分にショッ
ピングセンターの入り口で 78 歳になるホームレスの老人が寒さのために死んでいたというのです。
14 時 30 分ですから、人がいないわけはありませんよね。通行人は零下の寒空の下で 78 歳の老人が
死にかかっていても関心も示さないということでしょうか。
もうひとつはピカソが晩年に電気工事のおじさんにデッサンをあげたらしいのですが、ピカソの孫だ
か子供だかがその電気工事のおじさんを「ドロボー」として警察に告訴したというのです。こうなる
と、品位も品性もないですね。ピカソの子孫くらいでは仕方がないかという気はしますが、憂うべき
は私たちの時代の一般的風潮がそうだということですね。
金や権力にうはうはして生命というものの尊厳や人の心というものに対する尊敬の念がぜんぜん感じ
られないですね。
それは銀行や金融機関が投機にうかれて国民の生活を無視していることにも現れていますね。
企業の社会的義務は何かというインタビューをしていたら、結構みながうーんと考え込んでいました。
時々答えている人は公害を気をつけることというのが多かったですね。即座に「社員の人生や生活を
保障する事」と答えた人は一人もいませんでした。現代の社長連中はもちろん社員の中にもそんな考
え方をする人は一人もいないということですかねえ。
2010 年 11 月 27 日
新聞にこんなことが書いてありました。日本人女性と結婚したフランス人男性が離婚したら子供に会
えなくなって絶望して自殺したらしいのです。フランスの新聞ですから、日本は後進国だ、民法を改
良するべきだといわんばかりの書き方がしてあるのです。
何が子供のため或いは夫や妻のためによいかというのは大変難しいことですからここでは論じないこ
とにしましょう。
すると日本人にとって或いは日本の文化文明にとってお母さんが子供を育てるということはものすご
く大切なことですよね。その日本の文化文明を無視して、まるで日本の文化文明が遅れているから改
善するべきだといわんばかりの書き方をするのは愚もはなはだしい中華思想ですよね。
自分たちの文化がユニバーサルでそこには何の疑問の余地もないと思っている節があるのは恐ろしい
ことですね。そういう考え方でいるからフランス共和国ではイスラムのスカーフは許されないなどと
いう立法をするのですよね。
そういう国民が日本人と結婚して日本の風俗習慣が自分にぞぐわないというので自殺する人ができ、
それに対してフランス大使が日本に抗議をするなどというのは何かお門違いという気がしないでもあ
りません。
それよりも大使のやるべきことは、日本では母親による子供の教育ということを大変大切にするから
離婚したときに親権が父親に来ることはほとんどないから、それを覚悟して結婚しなさいと、フラン
ス人男性に教え諭すことではないでしょうか? それをやらずして日本に抗議するフランス大使は、
相変わらず普遍的なフランス文化を世界に広げるのがフランスの使命だと勘違いしているのではない
でしょうか?
2010 年 11 月 25 日
今日から気温がぐっと落ちるというので、ホームレスの人対策をメディアが大きく報道している。
11 月から 3 月までは trêve hivernale といって法律で借家人を強制退去できないようになっています
から、うまくこの期間に入った人は助かっているのですよね。運悪くその前に強制退去させられた人
は、零下の空の下パリの路上で毎年死にかかる人や実際に死んでゆく人がいます。
世の中や人生ってそんなものだといってしまえばそれまでですが。 たとえばおぼれかかっている人
を見捨てて何もしなかったとか、危険にあっている人を助けないと non assistance à la personne en
danger ということで刑法に触れるのです。ところがホームレスが路上で凍え死にしそうになってい
るのは、私たちも国もちゃんと知っているのです。でも、国も私たちも刑法で追及されることなく安
楽に生きているのですよね。
法律や役人のやることはどうしてもそういう側面がありますから、社会を少しずつでもよくしようと
思ったら、私たちの一人ひとりが自覚して何らかの努力をしないといけないのでしょうね。
2010 年 11 月 24 日
久しぶりに漱石の『虞美人草』を読み直した。河野さんと宗近君の会話で、
「お互いは第何義くらいだろう」
「お互いになると、これで人間が上等だから、第二義、第三義以下にはでないね」
「これでかい」
「云う事はたわいがなくっても、そこに面白みがある」
「有難いな。第一義となると、どんな活動だね」
「第一義か。第一義は血を見ないと出て来ない」
「それこそ危険だ」
「血で以ってふざけた了見を洗ったときに、第一義が躍然とあらわれる。人間はそれ程軽薄なものな
んだよ」
というところがあります。そして血を見ることによって、最後はすべての登場人物が襟を正しました。
マルローの回顧録で、
Il m'est arrvé d'entendre bien des bêtises au sujet du suicide, disait mon père; mais devant un homme
qui s'est tué fermement, je n'ai jamais eu un autre sentiment que le respect. Savoir si le suicide est un
acte de courage ou non ne se pose que devant ceux qui ne se sont pas tués.
というところがあるのです。
政治家でもギャングでもホームレスでもルンペンでもあるいは世の中の片隅で名もなく静かに生きて
いる人でも、己の命を懸けて生きている人の姿には真実があり美しいと持っていましたし、今も思っ
ています。
ただ大学生のころと違い、あれからいろんな経験をしいろんなものを見てきました。そして、血を見
ることによっても襟を正さない人がたくさんいることも見てきました。そうなのです。人の死を見て
も襟を正すということをしなくなってしまったのです。生命というものの重みがわからなくなってし
まった人が多くなったようです。そればかりか己の死に臨んでも襟を正すということがわからなくな
ってしまったのではないかという印象を受けることがあります。
私は日本の普通の教育を受けましたから西洋文明のアリストテレスの論理をベースにして突き詰める
ということを教えられ訓練されました。でも心は日本の心ですから、イスラエル人のように戦後 60
年以上もたった今もナチスの戦犯を追い求めるというようなところはないのですよね。もっともあれ
は憎しみというよりも、西洋的な宗教・モラル・イデオロギーのようにわれわれにはない感覚なので
すよね。
ああいうものがないから日本の文化文明は普遍性を持つことができずにローカルなままだといってい
た人がいました。
私も昔はそう思っていたのですが、最近はそんなこともないのではないかと思い始めたのです。
ここ数千年、特に近代科学の発展はアリストテレス以来の論理学をベースに発展してきたために日本
の文化文明がローカルに見えました。でもこれからはもっとホーリスティツクなものが文化文明に組
み込まれてゆくことでしよう。
そうすれば私たちは私たちの本性を大切にしたまま次代の文化文明を育ててゆかれるのではないのか
という気がしています。
2010 年 11 月 21 日
今日は素敵な話を読みました。 フランスのルイフィリップの時代にロシアからの手紙が届いたのだ
が、その宛名書きに「フランスのもっとも偉大な詩人」とだけ書いてあったらしいのです。
郵便局が気を利かせて、その封筒をラマルティーヌのところへ持っていったら、ラマルティーヌが宛
名書きを見て、「これはビクトール・ユーゴー宛の手紙だから、彼のところへ配達しなさい」といっ
たらしいのです。
それで郵便配達夫が、その封筒をビクトール・ユーゴーのところへ持ってゆくと、ユーゴーが宛名書
きを見て即座に「これはラマルティーヌ宛の手紙だ」と言って受け取るのを拒否したと言うことです。
二人とも政治に活発に参加していたのですが、今のフランスの政治を見ていると、まさに「去年の雪
いずこ」、隔世の感がありますね。人間的なスケールがぜんぜん違うと言う気がしますね。
「フランス一おろかな男(Au plus con des Français)」と封筒に書いて出してみようかなと、いたずら
っ気を出してみたのですが、SARKOZY のところへ届くと、反スパイ組織まで使って捜査して、逮捕
されかねないので、うつとおしいのでやめました。冗談のわからない人たちと言うのはいやですねえ。
ユーゴーとラマルティーヌの話には続きがあります。
困った郵便局が封筒を開封すると、シャンペン好きなロシアの王子様からの手紙で、シャンペンの
Lemercier に対する賛辞がたくさん書いてあったと言うことです。
その話がメディアにもれて、意地悪なメディアがからかってその手紙は当時のアカデミーの会員であ
った Népomucène Lemercier 宛だと書きたてたらしいのです。この Népomucène Lemercier はアカ
デミーの会員ではあったのですが、凡庸な詩人らしかったらしいです。
でも、歴史と言うのはなかなか不思議なところもあって、数年後にはアカデミーでこの Népomucène
Lemercier のあとを継いだのは、実はビクトール・ユーゴーなのです。
2010 年 11 月 18 日
フランスの社会党の重鎮で IMF の理事長をしているストロース・カーンが大統領官邸で会談をして出
てきた時の写真が新聞に出ていたのです。DSK がポケットに左手を入れたままサルコジーと握手をし
ているのです。
アメリカでも考えられないと思うのです。それをあえてやる DSK の真意はどこにあるのだろうと考
えてしまいました。意識的な芝居か、無意識がそうさせたのか、あるいはごく単純に DSK は行儀の
悪い男だというだけで深い意味はないのでしょうか?
2010 年11月4日
年11月4日
今日は経済学者の書いた本を読んでいたらこんなことが書いてありました。
マルクスは経済が社会の土台であると考えるが、私は人間が土台だと考える。経済は人間という土台
の上に立てられた上部構造に過ぎない。
要するに人間が土台であるものを、その上部構造に過ぎない経済を土台と考えるからいろんな問題が
起きてくるのだということをいいたいのだと思います。
でもそうでしょうか?
その土台である人間が実はできていなくて愚なことをやるから世界中でいろんな問題が起きているの
ではないのでしょうか?
2010 年 11 月 1 日
今日は万聖節の休日で、日本で言えばお盆に当たります。ご先祖様のお墓参りに行くフランス人もた
くさんいます。お墓を掃除してお花を添えるというのはフランスでも同じです。
最近はフランスでも火葬にする人が多くなったといっていました。
死者のことを話題にした記事が多かったのですが、その中に平均寿命が出ていました。
モロッコ人 69 歳、アルジェリア人 70 歳、トーゴー人 60 歳、ベナン人 60 歳、ガボン人 59 歳、コー
トジボワール人 56 歳、ガーナ人55歳、セネガル人54歳
これを見ていたら考え込んでしまいました。
ここしばらく、老齢年金制度の改正でだいぶ騒がしかったのです。結局通常の定年が62歳、労働期
間の足らない人が満期で定年になるのは67歳です。
まあアラブ系の移民のモロッコやアルジェリアは少々定年が楽しめます。ところが、いわゆるブラッ
ク・アフリカからの移民の人は一生はたらいて老齢年金積み立てを強制的に天引きされて定年前に死
んでしまうわけです。
生きている間は散々人種差別をされます。少ない給料の中から天引きされる積み立ては自分の死後、
生前自分を散々人種差別したフランス人の老後のために使われる。これは明らかに不正義といえるの
ではないでしょうか。
2010 年 10 月 26 日
老齢年金制度改正反対のデモやストがにぎやかに行われた割には要所要所では異常な警察の弾圧など
で適当に抑えられてしまっていました。
Woerth-Bettencourt 事件で SARKOZY にとって致命的にもなりかねないことが起こった時には、
SARKOZY の側近の検事の Courroye が世間や司法の常識を破って担当を続けるということが起こっ
ているときも、対して反旗を翻す者もいませんでした。
それらをこうしてフランスという国の中で身近に見ていたら、何か第二次大戦のドゴールの回顧録を
読んで感動してフランス・フアンになっていたので、何かフランス人に裏切られたような気になって
いるこの頃です。
第二次大戦の時にナチスドイツに簡単に占領されてユダヤ人排斥のビシー政権を簡単に作ってしまっ
たフランスは、あれはハプニングではなくてフランスの文化文明に深く根を張った当然起こるべくし
て起こった現象なのではないのかと思い始めたのです。
そういうことはよくありますよね。
堺屋太一だかがどこかで、日本で浪花節的な歌謡曲が流行り、仁義や忠誠の権化のような「忠臣蔵」
がもてはやされるのは、日本人がそういう心を持っているのではなくて、そういう心にあこがれてい
るからというだけだ、というようなことを言っていたと思います。
フランス人も、自由・独立などと賑々しく言っていてもその実、権力というものには相当弱い国民な
のではということです。
たとえば、有名なディユマの小説「三銃士」の豪傑のダルタニャンは、個人的な決闘はたくさんして、
なるほど勇気があるのです。ところが権力には全然抵抗していないんですよね。有名なフーケがルイ
14世の不興を買ってバスティーユへ投獄されるときなどは、ダルタニャンが命令に従って罪のない
(?)フーケを捕まえてバスティーユへ投獄してしまい、全然助けようなどとはしないのですよね。
そんなことを考えて、SARKOZY をめぐって起きている現在のフランスでの出来事を見ていたら、何
か根は深いぞという気がしてきて、フランスの将来が心配になってきました。
2010 年 10 月 25 日
老齢年金制度改正反対のデモやストが続き、高校生もそれに参加し始めていて、所によってはデモ隊
と警官隊の衝突が起こっていました。
そうしたら、まあデモの折に店舗に火をつけたらしいのですが、高校生が 6 か月だかの実刑を受けて
いました。
そして SARKOZY 一派の HORTEFEUX がチンピラは断固罰すると見えを切っていました。
まあ、老後の自分たちの生活の安全を心配するお年寄りの票田を確保するのには役に立つかもしれま
せんが、これではフランスの社会の将来のためにはなりませんよね。
私たち人間は健全で幸福な意味ある人生を送るためには次の三つのことが基本的でしょう。
その一つは人生の意義でしょう。自分の存在や生活に何らかの意味を感じるということなくして人生
などありえないでしょう。
二つ目は、人は孤独や疎外の中で生きることは、耐え難いことでしょう。家庭や職場あるいは社会の
中で自分の周囲から愛惜や敬意や容認を得られなければ、やはり人生の生きがいというものが感じら
れないでしょう。
そして最後に、人というのは自分の小さな殻から抜け出して人生の少しでも高く大いなる目的や理想
あるいは信仰に精進しようという雰囲気が生きるためには必要でしょう。
いまの SARKOZY 政権は郊外の問題地区の青少年からこの人生の三つの基本的なことを奪ってしまっ
て青少年たちを出口なしの人生に追い込んでおいて(その責任は為政者にあるのですから)それで、
問題の根本を考えることなく、弾圧を繰り返し啖呵を切るなどは愚の骨頂でしかないでしょう。
2010 年 10 月 24 日
先日 TIME の記事に興味深いことが書いてありました。私たちの性格が生まれてから 3 歳までに形成
されるということはよく言われることです。ところが、その記事によると妊娠中の 9 か月間、お母さ
んのおなかの中にいる間に、外界の影響はもちろんお母さんの身体的心理的状況の影響を受けていて、
それらが私たちのその後の人生での肉体的心理的存在を大きく決めてしまうというのです。
それを読んでいて、私たちは私たちが独立して自分の人生を歩み始めるころには、自分がお母さんの
おなかの中にいた時や子供の頃に教えてもらったり覚えたりした生き方の社会とは違う社会の中で生
きて行かなければならないという大きな矛盾を背負っているのだなと思って考え込んでしまいました。
親子の相互無理解の中で子供が親を惨殺したり、親が子供を殺してしまうという悲劇も、親が自分の
生きている現代はあるいは子供が生きている世界は、自分が子供の頃に教えられた生き方とは違う世
界なのだという自覚に欠けることが一つの原因なのではないでしょうか。
「昔はよかった」という回顧におぼれていても私たち本人のためにならないばかりか、周りにとって
も迷惑なだけのことが多いですね。20 代前半の人がすでに世代のギャップを感じて「昔はよかった」
などというようになってしまったのも、自分の中に形成された生き方や社会というものに対する感性
が、社会や文化文明の変化が激しい現代では、それについてゆけないという自覚が持てなくてそれに
きちんと対処してゆけないからでしょうね。
2010 年 10 月 20 日
老齢年金制度改正に端を発して政府と多くの国民が対立して各地でデモやストが続いています。
SARKOZY 政権の性格に依存する問題でもあるのでしょうが、フランスの文化文明に依存することで
もあって私たち日本人のように子供のころから「和」ということを大切な「徳」として教え込まれて
きた人間にはきっと感覚的にはとらえきれていないフランス人特有の情念やら心の動きがあるのでし
ょうね。
逆に言えば話し合いよりも対立が続く社会の世相を日本的な感覚でとらえてしまうとフランス人たち
の心の底にあるフランス人にとっての真実というものをとらえきれないのかもしれませんね。
民主主義というのも私たちは話し合いの世界のように思っていますが、フランス人にとっては「反抗
するのも民主主義に生きる人間の義務」と思っているようですし、さらにフランス文化の基本がキリ
スト教にあるように、彼らにとって自分たちの文化文明の基礎はアダムとイブが神様の命令に反抗し
てそむいたことから始まったという、「反抗こそは誇り」と思っているわけですから。そしてその反
抗のために楽園から追放されるという大きな犠牲をはらって自分たちは普遍的な文化文明を築いたの
だという確固たる信念を持っているのですよね。
この辺のことはミルトンの「失楽園」に感動的にも美しく歌われていますよね。
2010 年 10 月 16 日
老齢年金制度改正反対でデモやストが続いているのですが新聞にこんな投稿が出ていました。
「僕は中学しか出ていないけど、今ポルシェで時速 200 キロで乗り回している。このストやデモが終
わってもやっぱり時速 200 キロで自由に走り回るのだ。働かないやつが悪いのだ。ストやデモをやっ
ている奴等は、大騒ぎして木をがさがさゆすって実が落ちてくるのを待っている待っている怠け者だ」
この人はきっと自分も一生懸命はたらいたのでしょうが、運もよかったのでしょうね。
この人のためにそれは大変結構なことなのですが、同じ学歴がなくて出世した松下幸之助さんの言動
を読んでいると、私のように高学歴の人間よりもはるかにスケールの大きな物の見方ができた人だと
いう印象を受けるのですよね。
そういう差はどこからできてくるのでしょうね?
経営評論家のドラッカーがどこかで「経営者がなさねばならぬ仕事は学ぶことができる。しかし、経
営者が学びえないが、どうしても身に着けていなければならない資質が一つある。それは天才的な才
能ではなくて、実は、その人の品性なのである」と言っていました。
これは経営者というか国や会社などの組織あるいは家庭にいたるまで、組織やグループで人の上に立
つ人のすべてに言えることでしょうね。
西郷隆盛がその遺訓の中で「国に功労あるものには賞を与えよ。功労あるからと言って地位を与えて
はならない。地位を与えるには、自ずとその地位に相ふさわしい見識がなければならない。功労ある
からと言って見識なき者に地位を与えると国家崩壊の原因になる」と言っています。
松下幸之助が人の上に立つものが必ず身に着けていなければならない資質を挙げています。
第一に「使命感」、第二に「無私」、第三に「詩心」、第四に「現実処理能力」
SARKOZY のグループのおかげで、今私があこがれてきたフランスの偉大さというものが今では全然
感じられなくなってしまいました。社会がどんどんとすさんでしまい若い人たちがかわいそうですら
あります。
河合栄治郎がどこかでいっていた。
「打ち消しがたきは他人のために全部犠牲となしえざる自己の存在である。たとえ、社会が進化しよ
うとも、理想の社会に到達せざる限りにおいて、自己のためと社会のためとは渾然として一体たりえ
ない。
全体の自己を包摂しうるほどに社会は完成していないからである。したがって、社会が完成し、同時
に自己が完成せざる限りにおいて、他の為と自己の為とは全部の対立を消失するに至らない。
いかに熱心なる社会改革者もこの対立を意識するであろう。
階級闘争の当事者である労働者も、自己と階級との間に毫末も間隙がないとは感じまい。階級の解放
運動をなすことは、ある場合に自己の境遇を改善することにはなるとしても、多くの場合に自己の利
益を犠牲とせねばならない。
その時、彼は階級に吸収し尽くされざる自己を見出すであろう」
こうした現実社会や人間存在の不条理に鈍感になったり無関心になることなく、いつまでも心の片隅
にこうした問いかけや悩みを持ち続けるという心の若々しさや新鮮さを指導者が失ってしまった社会
というのは不幸といえるのではないでしょうか?
2010 年 10 月 13 日
8 月 5 日以来坑内に閉じ込められていたチリの坑夫が世界中のからの技術やノウハウの援助のおかげ
で今日とうとう助けられたという明るいニュースが報じられていました。
その時にニュースでチリ大統領の世論調査での人気が瞬時に10%上がったと言っていました。
それを聞いて考え込んでしまいました。
チリの大統領がどれくらい骨折ったのかよくニュースを見ていませんでしたから何も言えないのです
が、こうして感動的な事件があるとぱっと大統領の人気が上がるのかなと思ったら、世論調査に限ら
ず流された報道を(それはすでに流す側で調理してあるものですが)自分の頭の中できちんと理解す
ることはまあなんと難しいことだろうと考え込んでしまいました。
きっと SARKOZY の人気が最低で30%などといっていても、何かあれば瞬時に10%や20%は上
がってしまうのかなと思います。
そうなるとこういった情報が信用できないのはメディアの責任ではなくて、むしろ大衆の言動のパタ
ーンに問題があるのでしょうか?
2010 年 10 月 8 日
私は卵が好きで、お酒を飲んだ時に最後に一口というのはお茶漬けではなくて卵かけご飯を食べます。
仕事で出張すれば、ホテルの朝ごはんは、フランス風にクロワサンとカフェオーレだけではなくて必
ずベーコンエッグかゆで卵を頼みます。
そんなですから、卵はコレステロールが増えると書いてあると気にしてはいるんですよね。
そうしたら先日新聞記事にこんなことが書いてありました。
卵はほかの食材ではなかなか取れないオメガ3などの要素がたくさん含まれているので大いに食べな
さい。毎日 1 個くらいは食べなさい。血液中のコレステロールは肝臓で作られるので、食材が血液中
のコレステロール値に与える影響はほとんどないことは今ではよく知られています。
しばらく前までは、これこれの食材はコレステロールが増えるとか言われていたんですよね。その当
時はきっと食材をいろいろと食べさせて、その人のコレステロール値を測って実験したと思うのです
が、それがひっくり返るというのはどういう実験をして結論を出したのだろうと不思議な気がするの
ですが・・・
世の中不思議なことばかり起こりますね。何年か前には金融危機とか言って投機をして潰れそうにな
った銀行を国が何千億だか何兆だかの金を出して救ったら数か月後には銀行が同じように投機を繰り
返して今度は大儲けをして踊り狂っていたとか。
こんなこともありましたよ。フランスの銀行 Société Générale のトレーダーが銀行に 5000 億だかの
損害を与えた時にやはり銀行の投機が世間で問題になった時に、銀行がほうかむりして「いや、あれ
はトレーダーが銀行の目を盗んで勝手にやったので銀行はそんな不埒なことはしない。銀行は国の経
済に大いに貢献している」と言っていたのです。
そうしたら、裁判所もそれに乗ってしまったのか裏取引があったのか知りませんが、最近の判決でそ
のトレーダー一人に罪を負わせて判決をして銀行の責任は問いませんでした。そして非常識の極みは
そのトレーダーにその銀行の損失の 5000 億を返済せよと判決したのです。
ところがです、非常識の極みはそこで終わらなかったのです。驚くことに、その銀行はそのトレーダ
ーの与えた損失を会計処理して 1000 億以上の金を税務署から返済させていながらそれを黙っていた
というのが新聞ですっぱ抜かれたのです。
判決が出て自分の罪がはっきりしたら上告して結審が出るまでは自分は無実と居座ってしまう大臣と
か、何か時代があまりにも唯物的になりすぎてしまったのではないでしょうか?
2010 年 10 月 5 日
何時だか忘れてしまったが Société Générale に勤めていたトレーダーの Jérôme Kerviel が数十億ユ
ーロの損害を与えた事件の判決が今日あった。当時は金融界のありかたがいろいろと批判されて、そ
の現代経済界における役割なども議論されていたと思うのだが、今日の判決は一方的な Kerviel の過
ちということで、金融界のあり方など議論にならなかった。
まあ、私たち感情のある人間の作っている社会だから、いろんな情実や個人的な事情が作用するのは
やむを得ないにしても、社会のいろんなキーポイントにいる人たちはもっと自分の責任ということを
自覚して行為しないと社会というものが疑惑の塊になって分解してしまうのではないだろうか?
すでに郊外の恵まれない地区に住んでいる青少年の心の中では社会などとっくの昔に社会など分解し
て存在しないのではないか。
2010 年 10 月 3 日
もうずいぶん前からなのだがフランスの電気・ガス会社がドルチェ・ビータとか言って、消費者の電
気やガスの消費を減らすための助言をするということで盛んに宣伝しているのだ。
こういうのを聞いていると、どこまで人をばかにしているのだろうと、何か社会が物質的になりきっ
て人の心や人生というものに対する尊敬の念がなさすぎるのではないかという気がする。
だってそうではないか、一つの会社が地球の将来を考えるために、自分の製造販売している製品を消
費者に買うな買うなと高い宣伝費を出して言っているわけだ。
そんな自分の首を絞めてくれ絞めてくれと言い続けたら(何の見返りもなしに・・・)やがては企業
がその存在を危うくされて今度は社員の解雇ということになるわけだ。
別に SARKOZY が大統領になってから、政界も実業界も腐ってきたという気はないのだが、フランス
という社会の雰囲気がすっかり悪くなり、フランスという国からその本質ともいえる寛大さや偉大さ
がなくなったというのは否定できない事実だろう。
2010 年 10 月 1 日
「多文化共生」ということが言われ始めてから久しい。大戦に打ちのめされた中から復興して日本が
破竹の勢いで発展していたころアメリカなどでは日本の経済や経営方式が盛んに研究された。
そんな頃にフランスの政治家で思索家でもあるジャン・ジャック・セルバン・シュライバー (JeanJacques Servan-schreiber) がこんなことを書いていた。
Mais ces chiffres, ces mesures, ces performances, quelle en est la signification ? Quel en est le
mystère ?
Car la performance du ,Japon, aussi athlétique, brillante, unique même, qu'elle puisse être, n'a pas
grand intérêt en soi -- sauf si l'on est Japonais. Elle ne mérite l'attention des autres peuples du
monde, au moment où tous affrontent l'ère des épreuves, que si elle recèle une part universelle. Que
si elle renferme et peut livrer un secret qui dépasse le Japon. En somme, l'aventure japonaise
moderne a-t-elle un fondement proprement humain, une recette qui vaille ailleurs, si elle est comprise,
si on veut bien la saisir ?
要するに普遍的なものでなかったら学んだり研究したりしても意味がないということだろう。なぜな
ら、普遍的なものでなければ自分たちの文明に取り入れることができないからだ。
「多文化共生」ということもフランス人がこういう目で見ているとしたら、少々恐ろしい気がする。
でも大いにありうることだ。中華思想ということにおいてはフランス人は中国人以上だからだ。
こういう考え方がフランス人の根本にあるから、フランス人は移民の問題を解決するどころかますま
す自分たちの社会を差別と反目の社会にしてしまっているのではないだろうか。
2010 年 9 月 30 日
アフリカ人の知人と話をしていて、アフリカの大統領選挙では、普通の先進国のようにかたや52%
方や48%というような形で勝敗が決まらずに、たいていは勝利者は70%から90%の票を得てい
ることを話題に出した。彼はこう答えたのだ。
アフリカの文化文明の心理からすると、国民の70%や90%位で支持されていない人が大統領にな
ることの方が納得できないのだ。だからインチキをしても勝利者が 70%なり 90%の票を確保するこ
との方が国民のためだということだった。
この答えを聞いて考えこんでしまった。
なるほど私たちは自分たちの民主主義の形こそ進んでいると思いがちだ。しかし考えてみたら、確か
に選挙は民主的かもしれないが、いったん選ばれてしまうと、52%の支持しかない大統領が国民の支
持を得たのだから正統であるということで、52%の意見を 48%の人に有無を言わせずに押し付ける
のが我々の民主主義ではないか。
そう思ったらアフリカ人の民主主義とどちらが文明的かなどわかったものではないな、とこう思って
唸ってしまった。
2010 年 9 月 29 日
最近パリ大学の東洋語学校の先生をしていた森有正のエッセーを読んでいるのだが、私とは外国語を
学ぶ過程における心理的あるいは脳生理学的過程が違うような気がするのだけれど、母国語以外の言
葉を私たちが習得するときの過程の一つが興味深く書いてあって面白い。過程の一つといったのは、
私はこうした外国語習得の過程も個人差が大きく、一般論で記述しない方が良いと思うからだ。脳細
胞の発展過程をと同じで個人差が大きいから軽率な一般論などで律しようとしない方が良いと思うか
らだ。
1967 年の年末のバカンスのことがこんな風に書いてある。
14 時間近くも眠り続け、少し体の具合がよくなった。・・・今日の献立、左記の如し。生ガキ 6 ケ。
バイヨンヌの生ハム、タラのフライ、マッシュルーム付きジゴ 3 切れ、サラダ、チーズ、水菓子、コ
ーヒー。それに葡萄酒はロゼの小瓶。
この日は特別かなと思ったら、翌日のお昼は・・・
小エビ、バイヨンヌのハム、魚(正体不明)、仔牛の脇腹肉、サラダ、マッシュルームポテト、チー
ズ、ヴァニラ・アイス、コーヒー・・・
心配になって本の中で食事のことの書いてあるところを調べると、森有正先生、毎回食事はこんな風
に食べておられるのです。
1967 年代のフランスでは皆こんなにしっかり食べていたのですかねえ?
2010 年 9 月 26 日
フランスが SARKOZY とその一派のおかげでまるで人間の醜い側面がもろに出るような社会の雰囲気
になり、人というものはいつまでたっても利己的で他人の悲しみなど分かるようにはならないのだろ
うかと考え込んでしまう。
私は生まれつきそんなに悲観的にできていないので、いつかは理想の世界が来るだろうと思っている
のだが。それは宮沢賢治が歌っているように、遠い遠い先のことだろう。
ああたれかきてわたくしにいへ
「億の巨匠が並んでうまれ
しかも互いに相犯さない
明るい世界はかならず来る」と
遠くでさぎがないてゐる
夜どほし赤い眼を燃して
つめたい沼に立ち通すのか
世界は未だ夜である。修羅の夜である。そこには業の花びらがいっぱい咲いているのである。しかし
夜は必ず明けるはずである。億の巨匠が並んで生まれ、しかも互いに相犯さない理想の世界は必ずく
る。しかしその世界は遠い。遠く遠く、はてしなく遠い。
そういう思いを抱いて私たちは生きて行かないといけないのだろう。その自覚なくして、開発援助な
どに携わると自分が絶望したりするばかりでなく、相手にも自分の我見を押し付けるようなことをし
て迷惑をかけるだけだろう。
世界を変える努力をするということは、目の前の人間や社会が変わるということだと思っていると、
相手がちっとも変わらないから「こいつたちは何にもわからない野蛮人だ」などと絶望していいかね
ない。
理想の世界に社会を変えようという理想に燃えるのは大切なことだ。だけど、私たちにできることは
私たちの世界が理想の世界へ向かうための種をまくくらいで、きっとその種を育てることすら次の世
代に任せなくてはならないのだろう。ましてやその花が開くのを見るなどというのは、私たちは見る
ことなどできないことの方が多いのだ。でも、私たちの前の世代の人たちがそうして、己はその花の
咲くのを見ることのできぬ種をまいて行ってくれたから、少しは人間らしい生活をしているのだろう。
だから私たちは、この不条理で矛盾に満ち満ちた世界をいかに変えるかということだけに、心を費や
さずに、それと同時に、こうした不条理で矛盾に満ち満ちた世界の中で「自分がいかに良く生きる
か?」ということも考えながら生きてゆくことが大切だろう。
今の現実の中で自分がいかに良く生きるかということと、世の中をよくするための種まきの両方を常
に考えながら生きてゆきたいものだ。
2010 年 9 月 23 日
パリ大学の東洋語学科の先生をしていた森有正がこんなことを書いていた。
勉強を始めてみると、専門の勉強どころか、語学がまず第一の問題だ、ということがわかってきまし
た。必要上短い文章を一つ書いてみても、フランス人に徹底的に直されてしまうのです。しかしそれ
は考えてみれば、ずっと前に暁星にいたとき、仏作文がどんなに直されたかを考えれば当然のことだ
ったのです。しかし、現地へ来てみての、この状態は私にとって大きいショックでした。私は長年、
仏文和訳や和文仏訳を習ったり教えたりして、自分の中に、日本語とフランス語との一種の連関の方
式が出来上がっていたのです。ところで、こういう方式が成立したことに関して若干注解しますと、
一方の項は日本語で、これは私はその中で生まれ、またそれによって自分に一体のものとして形成さ
れた言葉の世界ですが、他の項、フランス語は、私にとって、初めの項、日本語があって初めて存在
し得るもので、ヴェルシオン、すなわち仏文和訳の問題はなるほど仏人の書いた本物の仏文ですが、
それは私が自分では決して書くことも考えることもできるものではなく、仏和辞典、仏和対語法集に
よって辛うじて読み解くもので、結局、この二語連関方式は、私にとって日本語だけが自分の言葉で
あり、他の項、フランス語は私にとって一つの言葉とは言えないものなのでした。そしてそれは広く
言えば私だけの問題ではなく、世上の仏和、和仏等の二国語辞典は、本当に二つの言葉の連関辞典で
はなく、二つの言葉の中の一方だけが生きていて、他は死んだ符牒に過ぎない、という事実なのです。
ですから私は、自分のこれまでの勉強で、フランス語を日本語の一種の符牒として学んでいたのです。
極端に言えばそうなるのです。符牒として特殊な音声と構造と分節法とを持った日本語を学んでいた
のです。千年以上前の日本人が中国語に対してとったのと同じ態度、すなわちそれは、結局漢文とい
う一種の中国語の日本語による馴致の方式を成立させたのと同じ経過が、形こそ異なれ、本質的に近
代ヨーロッパ語に対しても起こっているのです。徳川期の日本人が漢文方式によってある程度中国文
を書くことができたように、この方式で、近代ヨーロッパ語を書くことができます。しかしそれは符
牒の再構成であって、生きた言葉ではありません。底の見え透いたもの、少し掘り下げれば日本語に
なってしまうものです。日本にいる限りはそれでよいかもしれません。しかしフランス語が生きてい
る、そして豊富になり成長しつつあるフランス社会に身を置くと、この方式は役に立たないどころか、
使用法を誤ると実に有害なのです。すなわち現実のフランスに対して人を盲目にしてしまうのです。
外国に住んでいると、外国人とのコミュニケーションは常に大きな問題ですから、言葉に優れた人は
どうやって学んだのだろうと常に気にしていますから、ずいぶんと長い文章を引用した。
要するにフランス語をフランスの文化文明というコンテックストの中で使うことによって、私たちの
脳の構造が変化を起こすのを待たない限り、フランス人の感性を、私たち日本人の感性の座標を通さ
ずに、理解し感じることは、不可能ということなのかなと思って、読んだ。そうしたら、多文化共生
とか共感とかいうことはありえないということにもなりかねないけど、それでは絶望してしまうし、
そんなこともないようだから、きっと言葉や文化文明あるいは感性や人間存在に対する考え方のパラ
ダイムチェンジをすれば何か道が見えてくるのかなと思うのだが。
2010 年 9 月 21 日
私も結構フランスに長くいて、いろんな出来事を見てきたのだけれど、現在ほどフランスの社会の雰
囲気が悪くなったときはないのではないかという気がする。アラン・ジュッペが強行して法を通そう
としたときには、何週間だか忘れてしまったが、交通が全面ストップして、大変だったのだけれど、
社会はどこか和気あいあいとしたところがあった。
建前などは Sarkozy とその一派の方が立派なことを言っているのだけれど、社会ははっきりと人間社
会としては悪くなっているだろう。だいたい、誰でも大人になって独り立ちして生きてゆくようにな
ったら建前の道徳だけでは生きてゆけないことを知らされることになる。
おいしいビフテキを食べたいがために動物の殺生に目をつぶったり、道で困っている人がいても、己
の命や生活が第一といって避けて通るのもおなじじことだろう。
残念ながら私たちは建前だけでは生きて行けないのだ。
だから「悪いことをせざるを得ない」。問題は、その「悪いことをするとき」にも悪いことをすると
きの道徳があるということだ。
「親に孝行せよ」、「うそをつくな」、「物を盗むな」といったことは表向きの建前の道徳だ。これ
を中国では「清規」といっている。
これに対して、中国では「陋規」というのがある。これは本音の道徳だ。
「うそをつくな」ではなくて、人に心配をかけないためにならうそも方便だ。現在の社会で大善につ
くために賄賂を出すこともあるだろう。泥棒ややくざにも渡世の仁義があるだろう。
そういうのを「陋規」というのだ。
今のフランス社会の指導者たちを見ていると、この「陋規」の歯止めが全然なくなってしまっている
のではないかという印象を受ける。これはフランス社会の将来にとって由々しき一大事だと思う。こ
の「陋規」が荒廃するときは、必ずその社会の人心の荒廃をもたらすからだ。
2010 年 9 月 17 日
SARKOZY がヨーロッパ頂上会議で議長のバロゾと激しい口論をしたと伝えられたら、SARKOZY が
その後の記者会見で、ロム追放の問題については、何の問題もなく全員一致の意見であったし、近い
うちにドイツでもロムの追放をするとメルケルが言っていた。そうしたら、ドイツが直後に否定の声
明を出していた。
現在の人間の社会のありさまから言って、権力闘争がなくなるということはありえないだろうから、
権力闘争ということについて何か言う気はないのだが、SARKOZY やその一派のやっていることを見
ていると、歴史的なビジョンは全くなく、国民の問題を解決して国民や国の将来を考えるという気が
あるのかなと心配になる。彼らにとっては、国民や国の問題すらそれを利用して己の権力維持の手段
と考えているのではないのかという気がする。
内務大臣の Brice Hortefeux がテロの危険をここ数日大々的に騒いでいるのも、自分たちの権力維持
が危うくなるような事件ばかり起こってきたので、世論を攪乱するためにやっているのかなという気
すらする。そのうち爆弾がパリのどこかで爆発したら、彼らが自分でおかせたのではないのかなどと
いう気はないのだが・・・
ここまで国民を小馬鹿にした政治がいつまで続くのだろうと、フランス国民のフロンド的な性格とい
うのは本当なのだろうかと、いささか首をかしげてしまう。
2010 年 9 月 9 日
ミッテラン大統領の頃だったか、一世を風靡していた、Bernard Tapie が銀行の LCL を相手取って補
償を求めて争っていた事件で、結局裁判にせず、審判にして国が 2 億 1000 万ユーロを支払ったとい
うことで、新聞が騒いでいる。
Tapie にそれだけの働きがあるのなら、2 億 1000 万ユーロくらい安いものなのだろう。問題は、国と
いう機関を私物化して己の欲望のために使ったり、物の軽重や価値観というものが正しく解らないの
ではないのかと思える人たちが、国を動かしているということだろう。
夏も終わり、秋となり冬がやってくる。毎年何百人というホームレスが人知れずに路上で凍え死んで
いるのだ。あるいは、公団住宅不足でゴミ箱のようなところに住んでいる人たちがいるのだ。そして、
新聞の記事によれば、2 億万ユーロあれば、ホームレスも含めて住宅不足が解消できるということだ。
こういったものの軽重のわからなくなってしまった国の指導者が、郊外の犯罪少年たち相手に啖呵を
切って、断固許さない弾圧するなどといっても、人の心はもっと利口だから、若者たちが納得するは
ずがない。
もっとも SARKOZY とその一派が国民を翻弄するように、ジプシーの国外追放を強行しているのも、
物の軽重もわからないし、歴史的なビジョンもないし、人というものがわかっていないということな
のだろう。それと同時に、それが現在の私たちの文化の流れなのだということも認識して己を反省し
てみることも必要だろう。
たとえばジプシーの国外追放の動きの発端となった「安全のための弾圧」ということにしても、環境
問題の安全と同じで、今の社会で人々の人生に何か本質的に大切なものが欠けてしまっているから、
それを代償するために、人々は本能的にしゃにむに安全志向になっているのではないのか?
私たちの人生が本質的に冒険や危険に満ちたものであることは明らかだ。しかしこうした冒険心や危
険に立ち向かう心無くして、一人の人の人生あるいは国の歴史などありえないだろう。
否、人生の意味そのものがなくなってしまうのではないか。そして人の成長ということもあり得ない
ような気がする。
2010 年 9 月 4 日
今日ラジオを聴いていたら、「あなたはアフリカにクラシック音楽があるか知っていますか?」とア
ナウンサーが言ったのを聞いて、びっくりした。確かに、クラシック音楽というものがあるかという
ことや、あるいはクラシック畑で活躍している人がいるのかなあと考えて、思い出せなかった。
トーテムなどの原住民の文化文明が西洋の芸術家にインスピレーションを与えたことはよく言われる。
日本の浮世絵のように原住民の文化文明が西洋の芸術家にインスピレーションを与えたという点では
同じだけど、日本の場合には、ヨーロッパの文化文明が国内でも育ったのだ。その辺の発展や外国文
明との接触の仕方がどうしてこんなに違うのだろう?
昔偉大な数学者が、数学は紙と鉛筆があればできる。そしてノーベル賞もないから、賞欲しさにうは
うはすることもないし、また権力闘争の手段に使われることもないと言っていた。
その数学だが、これもインドや中国やあるいはハンガリーなどの小国や先進国ではなかったところか
らも偉大な数学者が出ている。ところがアフリカからは偉大な数学者というのは出ていない。
なぜだろうと考えているうちに、アフリカの文明が、何か私たちが思っていないところに基礎を置く
全く別の文明なのかなと考えてしまった。そして、その次元の違う文明の意味を私たちは理解できて
いないのではないのかということだ。
2010 年 9 月 1 日
SARKOZY が自分の票田回復のために安全対策等で硬派の弾圧路線を打ち出し、その象徴のようにジ
プシーの国外追放を大々的にやっている。政治というのも権力闘争なくしてありえないから、仕方が
ないのかもしれないが、これほどビジョンのない政治もフランスの歴史で珍しいような気がする。
恐ろしいのは、世論の人気を得るために SARKOZY がこうした方針を打ち出すのだから、確かに一部
の識者の顰蹙を買っているとはいえ、結局は、多くのフランス人はそれを肯定しているということだ
ろう。だから、SARKOZY のやっていることは、フランス国民の影の部分に深く根ざすことなのでは
ないのかと思う。フランス国民の影の部分に潜むそういう差別やタレこみということが SARKOZY の
上に投影されているだけではないのかと思うことがある。
つまり、フランス国民は、一皮むけばいつでもこういうことをやりかねない国民性を持っているので
はないかということだ。
まあ、フランス国民に限らず私たち日本人もそんな影の部分を持っているのではないのかというのは、
在日外国人に対する日本人の態度にもよく表れている。
そういう我々の人間性に深く根差したものを思うと、理想の世界どころか、多文化共生も、何かはる
か彼方のことではないのかと、絶望的な気にならなくもない。
2010 年 8 月 29 日
ラマダンが始まってイスラム教徒は自分たちの信仰を新たにする大切な期間を過ごしている。
この期間になると、私はカフェのお手洗いに行って扉の取っ手がぬれているとぎょっとする。このラ
マダンの時期になると、イスラム教徒はしっかりと信仰を守るために、外出中も体を清める人が多い
のだ。だからお手洗いの中でも、ぺちゃぺちゃ手でお尻を清める。そして当然、そのぬれた手でお手
洗いの取っ手をつかんで、扉をあけて出てくるのだ。どうも私には気持ちの良いものではないのだが。
こんなことも多文化共生ということを真剣に考えなくてはいけない私たちの時代の象徴といえる。ア
メリカを「悪魔の使い」と言っているイスラム教徒がアラーの教えに従って、自分の尻を清めるため
に、お手洗いの中で、アメリカ文明の象徴ともいえるコカコーラの瓶に汲んだ水をつかっているとい
うのは、まさに多文化共生の象徴ではないだろうか?
それにもかかわらずに殺し合いや憎しみ合いを続ける人の心とはあるいは宗教とはなんだろうと不思
議に思わざるを得ない。
2010 年 8 月 24 日
SARKOZY 一派のせいだかどうかは知らないが、なにか騒がしい世の中になってパリが世界の文化の
中心という雰囲気からは程遠くなってしまった。
しばらく前に、病で顔が醜くなってしまった人が安楽死を許可してほしいと申し出た。それがもとで、
政治家や世論が安楽死を立法化するかどうかということを真剣に議論していた。
顔が醜くなり生きるのが苦しくなった人が、その運命を悲しんで死にたいと思うのは、当然というか
よくわかることだ。しかし、政治家や世論がそれを受けて、真剣に安楽死の立法化を議論するという
ことは、私にはなにか、時代の文化文明が「人生や命の意味」というものを誤解しているのではない
のだろうかという気がする。
私たちの「人生の意味」とはなんだろうか?ということは、私たちが死ぬまで一生考え続けて行かな
ければならないことなのだろう。
一番わかりやすいのは、何かを創造したり何かを成就したときだろう。それはその人の人生の意味だ
ろう。私たちは、そんな時に喜びを感じ自分の人生の意味を感じる。
あるいは、何かを経験しているときにも、私たちは自分の人生の意味を感じたり喜びを感じる。自分
の心のフィーリングにあった音楽を聴いているときや、愛する人と一緒にいるときはもちろん、愛す
る人がいると思い感じるだけで、私たちは喜びや自分の人生の意味を感じるだろう。
では自分が植物人間になってしまったり、何かの運命でじぶんではどうにもできない困難に陥り、自
分の人生が全く他に依存してしまって、自分はその中で全く無力な時だ。
重い病気でになった時でも、あるいは何かの不運でホームレスになった人を思ってもよい。アフリカ
で自分というものがまだ分からない幼い時に飢饉で死んでゆく子供たちを思ってもよい。彼らの人生
にどんな意味を思ったらよいのか?
地獄の大魔王を前に戦っているような大困難の前には、私たち人間の力など芥子粒みたいなものだ。
だが、そんな私たち無力な人間の力ではどうにも変えることのできない運命の前にあっても、「私た
ちがどんな態度をとるか?」というそのことそのものが、その人の存在価値や、その人の人生の意味
といえるのではないだろうか。
サンテグジュペリがその美しい小説の中で言っている、
On ne voit bien qu'avec le coeur. L'essentiel est invisible pour les yeux.
という言葉を私たちはもう一度よくかみしめてみるべきではないだろうか。
2010 年 8 月 15 日
ジプシーの警察と機動隊による追放が続いて、メディアで大々的に報道され、内務大臣の Brice
Hortefeux が得々としてそのオペレーションの成功を語っている。
犯罪人であろうとなかろうと、親の子に対する愛情は尊いものだと思うのだが、そういった人間存在
の基本的な心を大切にすることなくして、正義や国の将来を語ることが出来るものだろうか。
SARKOZY が、その人柄から言って己の権力にしがみついて、あらゆる出来事を単なる「社会現象」
(解決すべき社会問題ではないのだ)と見て、己の権力保持・権力闘争に最大限に利用しようとする
のは、おおいにありうることだ。
しかし、SARKOZY 軍団の中に、誰一人己の運命をとして SARKOZY に諫言する人がいないのは、こ
れはもう、フランス国民の恥であり、フランス国の将来にとって由々しきことではないだろうか。
己と己の家族の運命を賭してヒットラー総統の命令に従わなかった将軍がいたから、現在のパリが残
っていることをフランス人は忘れるべきではないのではないだろうか?
2010 年 8 月 14 日
グルノーブルで暴動が起こったら、その直後に SARKOZY がグルノーブルを訪ねて、きびしい弾圧を
打ち出した演説をしたら、それまで SARKOZY 派を悩ませていた WOERTHE の腐敗事件は一挙に鳴
りを潜めてしまった。
なるほど、SARKOZY の政治屋としての能力を認めなくてはいけないのかもしれないが、現在の
UMP の連中のやっていることを見ると、彼らには歴史観や国のためとか国民のためと言う政治意識
など全然ないのではないのかという印象を受ける。
たしかに、国や国民のために政治をやろうとしたら、まず権力を得ないことには、自分の理想も実現
できない。しかし、単なる個人的な野望のために権力闘争をやるなど、人間としての品位に欠ける。
SARKOZY の一派を見ていると、彼らには個人的な野望としての権力闘争しか頭になく、いろんな事
件も、その個人的な野望の権力闘争に利用するための社会現象に過ぎなくて、大所高所に立って理解
し解決して行かなくてはいけない社会問題であるという意識が全くないという印象を受ける。
2010 年 7 月 16 日
ここ数週間有名な化粧品会社の相続人であるおばあさんの Liliane Bettencourt が湯水の如く政治家に
金をばら撒いていて、現大統領の SARKOZY もだいぶその恩恵にあずかっているというのでメディア
が大騒ぎをしている。
80 過ぎのおばあさんが企業を運営するでもなくて、一般市民が一生見ることも出来ないような何億の
お金を湯水の如くばら撒くなどは、何かシュールな世界に我々は落ち込んだのではないのかと言う気
がして、自分をつねってみて、夢ではないかと確かめたくなるようなことですね。
今政府が老齢年金や社会保障費等の改正で、えこひいきなく一律に税を値上げするんだといっても、
これらのお金持ちの場合には、すでに所得の50%以上の税金は払う必要はないという Bouclier
fiscal の目いっぱい払っているから、結局税金の値上げのあおりを食らうのは、一般市民なのですよ
ね。そんなことを政府や役人が知らないはずはないから、そんな一般市民を馬鹿にしたような詭弁を
だまってのめという政府はやっぱり国にとって、よくないのでしょうね。
おまけにこれくらいのお金持ちになると、150 億ユーロと言うと、それを運用したら大変な所得にな
りますから、たいていは会社組織にして運用した会社が利益を蓄積するような形にしているでしょう
から、このおばあさん個人の所得は、微々たるもの(微々たるものというのは、何千億に比べて数十
億なら微々たるものということで、一般市民にはいずれにせよ縁のない金額ですが・・・)ですから、
ここでも Bouclier fiscal が働いて(所得の50%以上の税金を払う必要はないということですから)
一般市民が一生かかっても見ることがないような何十億のお金は税務署から払い戻されると言うシュ
ールな世界が出現するのですよね。
こういうシュールで不条理としか言いようのない世界をテレビで身近にみていると、恵まれない郊外
の青少年が健全な人生の夢を持てなくなってしまうのも無理もないかという気がしてきますよね。
そういう社会に深く根ざした社会の問題を、まるで郊外の青少年が、悪の原因の如くにいって警察に
よる弾圧強化をメディアで騒がしく言う現政府はフランスの社会の根本問題の解決に役に立つことは
出来ないのではないかと言う気がする。
2010 年 7 月 10 日
数日寝苦しいほど暑かったら、今日は少し暑さが和らいでくれた。 地球の温暖化ということがいわ
れ始めてから、久しいのだが、いまだ私には、科学者の行っていることがよく分からない。これだけ
メディアや政治を巻き込んで大騒ぎをしているのは、利害のある団体や業界が関わっているからだろ
うかと考えているのだが。
たしかに公害にせよ遺伝子操作にせよ、今までの過去の時代の研究や企業の倫理や論理に任せておく
のは好ましくないに決まっているのだが、50 年先のことを問題にして、メディアや政治が大騒ぎをし
ているのを見ると、何か本当はやらなくてはいけない目の前のことを、話題にしたくないから騒いで
いるのかしらと、疑いたくなってしまう。
人類の何千万年と言う歴史の中では、現在われわれが騒いでいる地球温暖化よりもはるかに激しい天
変地異があったのだ。それを人類は勿論現在生存している動植物は乗り越えてきているのだ。
たかが、台風一つコントロールできない科学者が、地球の運命や動植物の運命を知った顔して云々す
るなどは、私には夜郎自大でしかないと思うのだが。
そういう意味では、人類全体としてあるいは動植物全体としては、我々人間の浅知恵でそんなに心配
することはないと、私は楽観しているのだけど。それよりもそうして、人類と言う種や地球の運命を
大声で騒ぐことによって、隣で不幸に死んで行く個体の運命にたいする我々の罪の意識を補償してい
るのではなかろうかという気が私にはしないでもない。
人類や動植物あるいは地球の運命のために少々の個を犠牲にするのはやむをえないと言う論理、ある
いは企業戦士のように会社のためなら個の犠牲はやむをえないと言う倫理、そういったものなのかも
しれないけど、あれはたしかに個か人類の運命か、あるいは個か組織の運命かと言う二者択一を迫ら
れた時には、その選択をしなくてはいけないわけですが、歴史を見てもあるいは我々の個人的な経験
を見ても、本当に二者択一を迫られると言うことはあんまりないんですよね。出口なしの二者択一に
追い込まれたようなときでも、後から落ち着いて考えるとたいてい第三の道があったということが多
いのです。
ですから、地球や人類の将来と言う大義名分のために隣で不幸に死んで行く人に無関心でいられる人
というのは、僕はそれは偽善だという気がしないでもないのです。
第一、50年後のことを議論することほど楽なことはありませんよね?
いのですから。
正誤の判断を問題にされな
それに対して、隣の不幸に対してなら、自分のやったことに対して正否がすぐに分かりますし、無責
任なことを言って済ましているわけには行かない。
だいぶ前に、大統領夫人のやっている差別をなくするための財団と言うのに、アフリカ人の困ってい
る人の話を持ち出して助けてやって欲しいと頼んだら、彼女の答えが、「私の財団は、グループや種
族の不幸を扱っているので、個人の不幸は扱わない」という返事でした。
自分の目の前の、助けてやれる(だから自分にその手段がある)個の不幸を我関せずでいて、グルー
プや種の不幸をなくするために戦うもないだろうと、私は思うし、かなり多くの日本人は私と同じよ
うに思ってくれると思うのです。
ところがそのへんのことをよくよく観察していると、怖ろしいことに気づくのです。
我々日本人は結局心情的・気質的・ムード的にものを考えて行動する。これは国の将来と言うような
ことでも、根本にそれがあると思うのです。ところが西洋人はイデオロギーで論理的に構成し武装し
て考えて行動するから、いったんこうと決めたら、心情的な理由で変わったりしないという、恐ろし
さがありますね。よく言えば日本人のようにちゃらちゃら「転向」したりしないということでもあり
ますが・・・
2010 年 7 月 6 日
化粧品会社 OREAL の相続娘の LILIANE BETTENCOURT が政治家に金をばら撒いていて、その中に
この前の大統領選の財政担当の WOERTHE が入っていたので、大騒ぎになっている。
BLANC の葉巻にしたってたかが 12000 ユーロではないか、きちんと国政をやっていたのなら、安い
ものなのだろうが、問題はろくろく国政も出来ないくせに、国民の税金でぷかぷか 12000 ユーロの葉
巻をすっているということだろう。 国政もろくろく出来なくて政治をやっているのなら、葉巻を吸
いたかったら、自分の金で吸うべきなのだ。 立派に国政をやっていたら、たかが 12000 ユーロで国
民が文句を言うはずがない。
BETTENCOURT
の件にしても同じことだろう。きちんと国政が出来ていればそんなことにいちい
ち国民が目くじらを立てるはずがない。
SARKOZY の権力欲にしたってそうだろう。 権力欲のない政治家など意味がない。人間の組織、そ
れが国であれ、会社であれ、単なる同好会であれ、組織があれば、それを使って自分の理想を実現し
ようとして行こうとする生き様があるならば、権力なくして何もできないのだから。
だが、個人的な自己満足と流行のマヌカンでも連れて歩こうというので権力欲にぎらぎらしているな
どは、品性の欠如もはなはだしい。
WOERTHE の事件が起きてから、UMP の犬どもが吼えているのだが、彼らの話を聴いていると全然
迫力がない。それは、彼らに理想というものの上にたった上で、清濁あい飲むという迫力にかけるか
らだろう。
明治維新のときに当時の権力をほしいままにしていた大久保利通にこんな話がある。幕府の残党の福
地源一郎が新政府に仕えたがっていたときに、福地の友人が「それでは大久保にたのめ」と言った。
福地はためらった。福地は大久保が自分を嫌っていることを知っていたのでした。それでも、勇を鼓
して大久保を訪ねたのです。
そのときに大久保がこう言うのです。
お前も男と生まれたからには大仕事がしたいだろう。それなら、おれにおべっかを使え。おべっかを
使ってオレのそでに入り、オレの権力を利用して仕事をしてみろ。
同じ権力欲におぼれているにしても、UMP の犬と明治の維新の人たちの間には月とすっぽんほどの
違いがある。
こういうのを見ていると、ほんと、私は日本に生まれてよかったと思うのですが・・・ほめすぎでし
ょうか?
2010 年 7 月 5 日
うちの名島美帆子主任が、多文化共生・国際協力ということを、各個人が一つの文化圏であるという
ような意味で、同じ日本人同士でもいや家族の間でも多文化共生ということを考えて私達は生きると
いうことを考えないと、本当に私達の一人ひとりが生きがいや生きる意味というものを確信して生き
られるような世界は来ないのではないのかというようなことを話してくれました。
私たちが人生というものをごまかさずに誠意を持って生きようとするときに、問題となるのは、その
意味の多様性にあるだろう。人生の一つの出来事が多様な解釈の可能性を有するということは、私た
ちが真摯に生きてゆこうとするときに、もっとも難しい問題のひとつだろう。
しかし、それが私達の生きている人生のありのままの姿ならば、如何に困難でも私達は、それらに耐
えてゆかねばならないだろう。
人生の出来事が単一な意味を持っていることは稀で、多様な意味を持っていることが多い。だから私
達は、人生の出来事をあるひとつの面から己に説明し、解釈することによって、己の心の上にのしか
かってくる重圧から逃れようとしてはいけないのだ。
それが、己に対し、人生に対して、真摯に生きるということだろう。
2010 年 6 月 27 日
だいぶ前から、書斎の本箱が間に合わなくなって、かといって本箱を新たに入れるだけのスペースが
ないので、自分で板を買ってきて、本棚をつけたのだ。そうこうしているうちに、またスペースが不
足してきたので、其の棚の上にまた板を付け加えるということをやってきたので、不均衡でおかしな
棚が出来ていたのだ。
不均衡なのは、我々日本人の審美感にはたいして邪魔に成らないと思うのだが、今日とうとう下の板
が上の重みを支えきれなくて崩れてきたのでびっくりした。
全部作り変えるのが面倒でそのまま付け足していったら、とうとう崩れたのでした。
仕方がないので、今度は全体を計画的に作り変えて本の整理もした。
日曜大工をしながら、ウインドウズなども出来てから、アップデイトされるたびに現存のソフトや以
前のウインドウズと両立するようにしてきたからきっと、相当無理があるのではないかと思ってしま
った。今、ゼロからスタートするのなら、今のウインドウズとは随分違うものをマイクロソフトの技
術者は作るのではないかしら。
現在の金融システムの不祥事や、政治の腐敗や其の他も、我々の社会が暗中模索で民主主義を作り出
してきてから、歴史的につぎはぎで進んできているから、今のような矛盾が噴出してきているのかな
あと考え込んでしまった。ものすごく大変な問題だなあということです。勿論昔から言われているよ
うに、民主主義も資本主義も理想からは程遠くても、少しずつ継ぎ足して出来てきた制度を、根本か
ら変えることなど出来ないだろうし、たとえ革命が起こって社会が根本的に変わったとしても、人の
心に残る文化文明は、旧態依然としているだろう。
そんなことはおぎゃーと生まれてから家庭で育てられ学校で教育された我々の人生にもいえるのかな
あと思って、人生に突き当たって、新しい道を見つけたときに人はどうするべきかということで、考
え込んでしまった。ゼロから出直すのが、理想なのだろうが、自分の心や周りの環境やいろんなもの
があるから、おいそれとは過去のものを全部捨て去ってゼロから出直すなどということは、普通の人
には難しい。
そういう意味でも、私たちが因果の流れから抜け出ることはとても難しいことですね。不落因果など
と言うことを考えていると、狐になってしまうのかもしれません・・・不昧因果。
2010 年 6 月 26 日
SARKOZY が事実上の独裁政権をしいて、メディアも自分のコントロール下に置きつつあるのだが、
もう第二次大戦からは、随分時がたつというのに、今でも多くのフランス人たちが、自分達の誇りの
ごとく、ドゴールやその抵抗運動を語るのを聞いていて、目の前の現実との乖離に私は理解できない
ものをずっと感じてきていた。
これだけ不条理なことを SARKOZY が無理強いしても、たいした抵抗の動きは見られないのだ。
そうしたら、今日ドイツの文学者のエルンスト ロベルト クルティウス がこんなことを書いているの
を読んで、フランス人というのはそういうところがある民族なのかなあと、考え込んでしまった。
「だが、あなた方は我々がどうやって、あの戦争の残虐を防ぐべきだったというのですか。いったん
政権の座についたヒトラーを追い出すということは不可能だった。彼が狂気の最初の兆候を示した時
に、彼の進路をさえぎることが出来たのは、あなた方、フランス人だったはずです。
1936 年 3 月に、少しでも断固たる態度を示していれば、暴君は転落していたでしょうに。ヒトラー
自身が不安だったのです。彼は戦車も伴わぬ歩兵三個大隊を景気づけの軍楽隊をつけて送り込むだけ
で満足しなければならなかった。ところがパリは一歩も動かなかった。
あの侵入に失敗していれば、独裁者は滅んだはずだったのに。あの日、フランスの弱さがヒトラーを
作り出したのです」
フランス国民のひ弱さが、SARKOZY 独裁政権を生み、5 年あるいは 10 年、いや憲法改変によって場
合によってはそれ以上の年月を、フランスに失わせてしまうことになるのではないのかという気がす
る。そして、その間にフランスの文化文明や社会に植えつけられたトラウマを消化するにはさらにそ
れ以上に長い年月が必要になるのではないか?
まあそんなことはフランスに限ったことではないのだが。日本でも、戦時下という極限状態で、多く
のインテリが集団ヒステリーの如く時代迎合をやった。その彼らの多くが、その当時を振り返って、
「戦争中は作家も学者も皆戦争に協力しなければならなかった」という回顧をして、転向などの言葉
でその罪の意識を表明すると共に自己を正当化していた。
そんなときにも谷崎や荷風のように、社会のそういった風潮に従わなかった人がいたということを知
らないかのように。
まあ、そんなことはどうでも良いのだが、SARKOZY 政権下の政治家たちが、道徳や倫理あるいは正
義といったことをうるさいほど叫んでいるが、そんなものは本当は何の価値もない薄っぺらなものだ
ということが分かっていないことだ。
かって、SARKOZY が大統領に当選して、さもドゴールのあとつぎのような顔をして、演説をしたと
きそれを聞いていた、かってドゴールを抵抗運動をともにした人たちが、さらっと、「ドゴール主義
というのは、演説するのではなくてやって分かるというものだよ」といって全然相手にしていなかっ
たことを思いだす。
道徳や倫理あるいは正義といった薄っぺらなものではなく、心のそこからわいてくる、止むに止まれ
ぬ何かに突き動かされて、そうするということが大切なのだ。そういう自己実現という、己の心のそ
こからわいてくる声を聞くということを知った人の強みというものをもった人がフランスからいなく
なってしまったのではないかという気がするのだ。
2010 年 6 月 24 日
ワールドカップの時のフランス選手団の醜態、それに対する政治家達の無用な介入、Christine
BOUTIN の破廉恥な報酬、Christian BLANC の葉巻、Rama YADE の家族への住居転用、政権に手厳
しい二人のユーモリスト、Stéphnae GUILLON と Didier PORTE の解雇など、なにやらスケールの小
さい椿事ばかり続いている。
かって、ナポレオン 3 世の第二帝政に抵抗して、英仏海峡の英国領ガーンジー島に亡命していたビク
トル・ユーゴーがその第二帝政評して、過去及び未来の真のパリに比べたら、それはまるで生体に出
来た癌だといっていますが、SARKOZY 政権下のフランスを見ていると、何かそんな気がしてくるの
は、私だけでしょうか?
2010 年 6 月 20 日
昨日前の首相であり、現大統領の宿敵のビルパンが新党結成をして、それがドゴール大統領の第二次
大戦のフランスの抵抗運動の始まりとなる 70 年記念日の 6 月 18 日の翌日のため話題になっていた。
南アフリカでのサッカーのフランスチームの醜態といい、本当に SARKOZY 政権下になってからフラ
ンスは品位が落ちたので、フランス好きの私には大変残念なので、そろそろ誰かもう少しましな人が
出ないものかと思うので、色々と候補者が出てくることは好ましい。
それはそれとして、だいぶ前に裁判のことでビルパンが話題になったときに朝日新聞にドビルパンと
書いてあったのですよね。そして今度は新党打ち上げの記事を読売で読んだら、やっぱりドビルパン
でした。
彼の名前は、Diminique de Villepin このうち de は貴族の称号である de です。ドゴールの de も貴族
の称号です。
ですから、ドビルパンということになったのだと思いますが、そのほうが分かりやすいから、日本語
表記ではそれで統一しようという合意があるのかなという気もするのですが。
フランス語では、あの貴族の称号の de は姓だけをいうときにはつけないのですよね。だからフラン
スでは姓だけで書く時は、 de を省いてビルパンというのが正式です。じゃあ何故ドゴールというの
かとなりますが、あれはゴールが 1 音節だからです。姓が 1 音節で姓だけを呼ぶ時は de を付けるの
です。
こういう基本的な教養に属することを間違えるとフランスでは仲間に入れてもらえない気がするので、
日本の新聞の情報は一次情報ではなくて二番煎じが多いのかなあと思って、日本の国際化もまだまだ
時間がかかりそうだなあという印象を受けました。
記者や政治家や実業家の間でも無言の合意があるので、やっぱり記事になることだけだと、その国の
実情を正確に把握するには不十分ですよね。オフレコをすっぱ抜いて報道しなくても、内輪の話をち
ゃんと知っていて本人自身は社会情勢をよく把握して我々の伝えてくれる記者が我々庶民には頼りに
なりますよね?
2010 年 6 月 15 日
数日前のニュースで、刑務所の囚人が数人集まって国を相手に刑務所内の扱いが非人間的であると言
って訴えて裁判で勝っていた。フランスから死刑を廃止するのに貢献した Robert Badinter がどこか
で語っていたが、彼が刑務所内の扱いを改善するために、テレビを導入しようとした時に、刑務所の
やつらが何でテレビをという反応が大部分で受け入れさせるのに苦労したといっていた。
私は犯罪者であろうと何であろうと人間としてその生命も人生も尊敬されるべきだと思っていますか
ら、これは良いことだと思っています。一般の人がもっともっとこうした社会からはみ出している人
やはみ出しかかっている人の運命に関心を持つべきだと思いますから。
ニュースを聞きながら考え込んでしまったのは、刑務所の中にいる連中には、まことに見事な銀行強
盗などをやるくらいの頭と勇気のある連中がいますから、国を相手に裁判などということを、刑務所
にいる間の頭の体操代わりに出来るのでしょう。
これを聞きながら、何かの事情で社会からはみ出してしまって、ずっとホームレスをしているルンペ
ンたちは、そんな集団で国を相手に裁判をするなどという知恵も気力もないと思うと、彼らの利益と
いうか人生を守る人はいないのではないかと、私達の民主主義社会も結局ものも言えずに社会の片隅
で苦しんでいる人たちの犠牲の上で成り立っているのかなあと、私達の社会も理想からは程遠いなあ
と思わざるを得ません。
刑務所では衣食住つきで悠々と生活しているというのに、ホームレスは食べるものもろくに食べずに
冬になれば寒さで死ぬ人がいるというのは、これは国が十分責任を果たしていないからでしょう。国
民の生活に対する責任が果たせていないといえましょう。
その内時間が出来たら、ホームレスの人生を守る会でも作って、「衣食住で人間らしい保障を国がし
ないのならば、我々を刑務所へ入れろ!」という運動でも起こそうかなあともっています・・・
2010 年 6 月 11 日
数日前に前大臣をしていた Christine Boutin が大統領官邸の指示で特別任務ということで月 9500 ユー
ロの報酬でなにやら(?)していたということを、新聞にすっぱ抜かれて、騒いでいた。彼女の場合、
議員の定年退職年金と両方もらっていたということなのだが、そんなことをぼんやり考えていて笑っ
てしまった。
最初は、法律上問題がないということだったのだが、新聞で騒ぎが大きくなったら、皆意見を変えて、
とうとう本人もあきらめざるを得なくなった。
月々1500 ユーロくらいしかもらっていない、普通の定年退職者が、仕事をすると、老齢年金を打ち
切られるというのに、6500 ユーロ以上の年金をもらっているという彼女の掛け持ちが許されるとい
うのでは、庶民はいい気持ちはしないだろう。
そんな騒ぎを見ていたら議員さんというのは、やっぱり自分達に関する立法は自分達に都合が良いよ
うにするものかなと思って、おかしかったのだ。
たとえば、選挙違反でも収賄でもいいが、何かそんなことをして被選挙権をなくしたりしても、誰か
自分の子飼いの人を立てて、闇将軍のようなことをしている人はたくさんいる。有名な戦闘機などを
作っているダソーの二代目社長もそうだろう。選挙違反で下ろされても、その後堂々と自分の部下を
立てて、地元を牛耳っている。こんなみえみえなことが出来るのだ。
これが実業界だと、いったん企業経営を禁止されると、人を立てて陰で操ろうとしても、実質上の経
営者ということで、すぐに責められる。
そんなことを考えながら、やっぱり議員さんたちも自分に都合のいい立法をしているのだなとおかし
くなったのだ。
2010 年 6 月 4 日
南アフリカでのワールドカップの開催が近づいて、ネルソン・マンデラのニュースが時々流れてくる。
マンデラが 27 年の獄舎から解放されたのがちょうど今から 20 年前だった。その当時私も何か人類が
大きな進歩を遂げたような気になってうきうきしたものだった。
しかしその後、人類はそんなに早くは進歩しなかった。人間の表層的な意識が変化したとしても、心
の深層はなかなか変化しないものなのだろう。それは私達個人のレベルでも同じことだ。意識的には
問題にしていないと思っていることに対しても、無意識的なこだわりをもっていたり、思いがけない
態度や行動に、無意識に隠れているこだわりが認められたりすることは多い。
だいぶ前の放送で、マンデラが国際的な活動からは一切身を引いて、近所のアフリカ人の井戸端会議
的な相談にのってやっているというようなことをいっていた。本当かどうか知らないが、人類の進歩
という大きな流れの中では、個人というものの流れは芥子粒みたいなものだということなのかなあと、
彼が思ったのかどうかは知らないが・・・
言うべきことは言い、やるべきことはやった、そして自分の務めを果たす。そういう人生を貫いてき
た。自分のまいた種が花開くのを見られなくても、そんなことは悲しむべきことではないということ
なのでしょうか?
2010 年 5 月 31 日
車の中に 18 ヶ月の赤ん坊を入れたまま買い物に行っていて赤ん坊が死んでしまって、その若い母親
が逮捕されたといっていた。
私はこういう話が報道されると考え込んでしまう。
勿論子供の安全管理も考えずに買い物に行って子供を死なせてしまうなどは愚かもはなはだしいわけ
だ。だが、自分の子供がたとえ自分の軽率な行為のためだとは言え死んでしまって一番悲しんでいる
のはその若い母親だろう。
それを今度はその悲しみに打ちひしがれる母親を逮捕して刑務所にぶち込んで母親の人生まで破壊す
るということにどんな意味があるのかと、考えて世論や裁判官も判決を下しているのだろうか?
そこに法律があるからとか単純にに責任問題ということで罰せられる人の人生に無関心に判決を下す
ほうが罪深くはないのか?
2010 年 5 月 27 日
しばらく前にアメリカのルイジアナ沖で BP の石油発掘場から石油が漏れ出して大問題になっている。
自然災害でもそうなのだが、こういう事件が起きるたびに私は、これは科学的あるいは技術的な問題
だろうかそれとも関係者の正直・誠実さの問題だろうかと考え込んでします。
例えば原子力の放射能の問題をとろう。ピエールとマリー・キュリーがラジウムの放射能を発見した
ころは、放射能の人体に与える影響についてそんなに神経質ではなかった。よくわかっていなかった
から。それが証拠に二人とも放射能にやられているのだ。
マリー・キューリーは白血病で亡くなっているし、ピエールはやっぱり放射能にやられて苦しんでい
たのだが、放射能のせいで死ぬ前に、馬車に轢かれて死んでしまった。
現在のように放射能よけの衣服を来て研究していたのではないのだ。
遺伝子操作にしたって、それが直接人体にどんな影響があるかあるいは遺伝子操作をした食物を食べ
続けたら何が起こるかなど、現時点ではっきり分かっている科学者などいないだろう。そんな状態で
安全だの危険だの言っても、それは科学者としての誠実さ・正直さに反することではないのかなとい
う気がするのだ。
もっとも経済学と同じで世間が何か言ってくれと求めている時に、知らぬ存ぜぬでは、通らないのか
も知れないが・・・
どうも最近の風潮として、研究者というか、ごく単純に人間としての正直・誠実さということを忘れ
すぎているのではないかという気がする。
2010 年 5 月 22 日
アメリカの政治学者の A.ハッカーが、
家庭や社会の安心感の欠如は、子供に嘘や盗みをやらせるようになる。うそや盗みは精神病の一種だ。
アメリカの高い離婚率が家庭を不安定にして、アメリカに深刻な不良青少年の問題を生んでいるとい
うようなことを言っていた。
情緒不安の下に育った青年男女が結婚すると、再び安定度の悪い家庭が出来やすく、そしてそこから
また、精神的・情緒的発育障害の子供が育ちやすいといった風に悪循環が起こる。
そういった社会の根本問題を、警察権力による弾圧や国家権力による強制的な精神病院への収監とい
うかたちで対応しているフランスの社会をみていると、アメリカが長い苦難の歴史を経て人種差別の
問題を解決してきたのに、良識の国とかっては言われたフランスが差別の問題に対して良識のある回
答を出せないでいたり、SARKOZY 政権があと 7 年続いたら、フランス社会は相当荒れすさんでしま
うのではないかと少々心配になる。
SARKOZY 自身が情緒不安定でハッカーが言っている家庭での悪循環と同じことが国や社会のスケー
ルで起こっているのではないかということだ。
2010 年 5 月 18 日
明治というのは日本の近代化というか西欧の植民地化の歯牙から日本の命運をかけて逃れるという使
命感をみんなが持っていたためか美しい話がたくさんある。
日本の近代化の基礎として明治初年に東京帝国大学が出来た。勿論、近代的な学問を教えられる先生
などいないから、外国から大学教授を招聘した。それが「末は博士か大臣か?」といわれた時代で、
この当時日本は中世から目覚めようとしていた貧乏国にもかかわらず、ヨーロッパの超一流の学者を
招聘したのだ。勿論そのためには、これらの外国人に、太政大臣や右大臣と同じくらいの報酬を出し
たのだ。
貧乏国日本にとって大きな負担だったのだろうが、明治政府はこれらの外国人学者の役割を十余年と
計画して、いずれ日本人と交代するために、各分野ごとに日本から留学生をドイツ、フランス、イギ
リスなどへ送ったのだ。
日本の土木工学の生みの親となる古市公威がフランス留学中に下宿の女主人がその勉強ぶりにあきれ
て「公威、体をこわしますよ」と注意すると、「私が一日休めば、日本は一日遅れるのです」といっ
たという話はこの時代の話だ。
京都帝国大学が設立されるのが明治 30 年だから、それまでは東京帝国大学の生徒達は、自分たちが
やらなければという使命感に充ちていたのだろう。明治 12 年ころの理学部の卒業生たちが同盟を結
んで報恩のために大学を作ろうと申し合わせたのもそんな雰囲気の中でだろう。
彼らは維持同盟を結んで、会員は 30 円を寄付すべしとして、大学を作ったのだ。(この当時の下級
官吏の月給が十数円だった)勿論金がないから、稚松小学校の校舎を借りて大学が始まったのだ(今
日の東京理科大学である)。
この維持同盟を結んだ卒業生達は、夜になるとこの大学へ無給で教えに行き、さらに当時の前近代化
の貧乏国日本では高価な実験用機械がおいそれと買えないので、東京帝国大学の小使いさんが日中東
京帝国大学が使用を終わった実験機械を夕方になると毎日物理学校に使われていた小学校の校舎へ運
ぶということを数年間続けていたということです。
私はこの話を読むたびに、ああ、日本に生まれてよかったと思うのです。
どうです、いい話でしょう?
現在、国の近代化が出来ずに苦しんでいるアフリカやアジアの国も指導者層がこんな雰囲気が国の中
に盛り上がってくるように努めればよいのにと思うのですが・・・
2010 年 5 月 14 日
芸術家の外面生活をあまり細かい点まで研究すると、ごく稀な場合を除いては、作品の理解を助ける
どころか、かえって反対にその桎梏となり、まるで誤った判断を下すようになる。ことに天才と称せ
られる人々の伝記は、不必要で危険なものというべきである。
とは、よく言われることであるが、本当にそうだろうか?
我々が身近な人を見ている場合に於いてさえ、もっとも深い情熱にあふれた部分が我々の全然予期し
ない場合に現れたり、またその性質上全然適合しないと思われるところに現れたりしても、それはそ
うした時に悪魔的なもの、突発的なもの、計算されないものと我々に思えるものが、その人の経験し
ている内面的必然性が我々には感じられないからだけなのではないだろうか?
そして、この相手の内面的必然性が感じられるようになるまで、判断を下さずに忍耐強く待つという
ことが、本当の意味での「共感」や「受容」ということの背後にしっかりとなければいけないのでは
ないだろうか。
2010 年 5 月 11 日
政治家というのは世論を無視してはやってゆけないので、一般に分かりやすい為ということもあるの
だろうが SARKOZY や HORTEFEUX を見ていると、本人達の思考の構造そのものもそんな風にでき
ているのではないかという印象を受ける。
郊外の暴力や犯罪などの社会問題や投機をはじめとする経済の問題を、単なる原因ー結果という因果
的連関によって見るよりも、多くの事象のコンステレーションとして読み取らないと、とても問題の
本質的な解決にはつながらないだろう。
それを、彼らの場合には、何らかの原因を見出してそれを除去したり改変したりしようとすることに
よって、解決しようとしているのだ。
世論に分かりやすいということでは、己の権力保持には便利かもしれないが、決して真の問題解決に
はつながらないだろう。結局 SARKOZY の任期の間フランスは貴重な時間を失っただけではないのだ
ろうか?
2010 年 5 月 8 日
ギリシアの財政危機がスペイン等に及び始めそうでユーロの将来まで危うしとなったら、財政危機の
引き金となっている投機をコミュニケーションによって支えている信用格付け組織の役割について
云々され始めた。
こうした信用格付け組織がどれくらい社会経済にポジティブな役割を果たしているのか私のは分から
ないが、経済学者と同じで、どこまで根拠があってものを行っているのか分からない人たちが、自分
の行った予想が全く外れても、厚顔そのもので数週間後にはまた別の予想を自信満々で言うなど、科
学や学問の世界とは無縁だと私は思うので、S&P などの信用格付け組織は、国の信用格付けなどと
いう百害あって一利なしなことをやって金を稼ぐようなことをせずに、「経済学者たちの信用格付け」
をやった方がよほど世の中の役に立つと思うのですが・・・
2010 年 5 月 7 日
住友財閥の二代目総理事に伊庭貞剛という人がいて、住友財閥の発祥の地とも言える別子銅山で煙害
やら労使紛争で大変な騒ぎとなったころのことだったと思う。まだ中堅の伊庭がその処理に派遣され
た時の話です。
明治中期の話ですから、当時はまだ労使紛争や社会騒動も今の日本ほどおとなしくはなくて、暗殺な
どは平気で行われていたころですから、そこへ大紛争の平定に行くのですから命がけだったのでしょ
う。
彼が別子銅山のある新居浜へ出発する時に親友でもあり師でもある天竜寺の峨山老漢に自分の妻子 9
人と年老いた母のことを頼んだときに、峨山が、にこにこと微笑みながら、「心配せずと行きなされ。
骨はわしが拾って進ぜる」といった。
この伊庭貞剛の人生は大変興味深いものですから、ぜひ読んで見られることをお勧めします。
私はこの話を学生時代に読んで、坊主というのは物は行ってもなんら行動しない人種だなと思って、
その当時はあまり感心しなかったのです。
それが次第に成長して大人の仲間入りをして自分で人と接して問題の解決をしなくてはいけないよう
になってから、人が変わって行ったり、組織が変わっていったりするには、その人や組織の内的必然
性やあるいはそれらを取り巻く物のコンステレーションがうまく配置されて一つの「機」となって働
きかけたときでないとうまく行かないし、それを無視してやたらと積極的に働きかけても害があるく
らいなものだということをつくづくと思い知らされ、またじっと何もせずに見守ってやることが如何
に大切なことかというのを(またこうして何もせずにいるということが如何にエネルギーのいること
かということでもあります)実感するにつれて、つくづくお坊さんというのはえらいものだなと思う
ようになったのでした。
そして現在では、私自身がいろんな経験をすることが出来るにつれて、何かこちらのためにしてくれ
るというのではなくて、「お前の骨はオレが拾ってやる」といって黙ってこちらが苦闘しているのを
見守ってくれている人がいるということが、如何にありがたいことかということを実感するようにな
ってから、このお坊さんというのは立派な人だったのだろうなあと思うようになったのであります。
2010 年 5 月 5 日
現代は不安の時代といわれる。そして見えない不安ばかりではなくて、失業・暴力といった不安が私
達を常にどこかで待ち受けているのだ。毎日の忙しさに取り紛れて、己を省みることなく、そんな不
安を感じずに生きている人もいるだろう。
だが多くの人は、時に立ち止まって、一体自分はどこから来てどこへ行くのかと自問するときがある
だろう。そんな時それに対する答えを与えてくれる信仰や宗教を持っている人はいい。しかし、現代
では多くの人々はその様なものをもたず、こうした根源的な問に対して、安心立命を与えてくれるも
のを自分が何も持っていないことに気づいて、深い不安に襲われるのではないか?
そのような不安に耐えて考え続けて行ける人は稀で、かなりの人がそのようなことに気づく苦しさか
ら抜けるために、そうした我々の存在の根源的な不安を身体の病気に変えてしまうのだ。
信仰や宗教のない人はそうした不安から逃れるために「科学」に頼ってその不安を解消しようとする
のだ。しかしそれは決して我々の存在の根源に関わるような不安を解消してくれるはずがない。だか
ら検査や薬を求めて医者を訪ね続けても治る筈がないのだ。
このような現代人の心の動きが医師や製薬会社を不必要な医療や薬へと力を注がせることになってい
るのだ。
SARKOZY が地方選挙の大敗のあと、社会の不安感をあおり法や警察による弾圧を強化して、己の権
力の維持に使っていることの背後には、このような我々の時代や文化文明に特有な、我々の心の動き
があることを見落として、SARKOZY を初めとする政治家や実業家の悪徳を糾弾しても世の中はよく
はならないだろう。
2010 年 5 月 4 日
朝ごはんを食べながらラジオを聴いていたら、ニューヨークでどこかの小金もちの絵画のコレクショ
ンがソズビーで競売にされ、その中には 1946 年に買われてから一度だけ公開された名作があるとい
っていた。
私も結構絵画にはすきなのがあって、そのうちお金持ちになったら買いたいなあと思って、今のとこ
ろは飾りたいのがあると、絵描きさんの卵に頼んで複製を作ってもらったりしているのですが。
でも、60 年以上も人類の文化遺産ともいえる傑作を私蔵して一般の人が見られないというのは、罪で
すよね。
ものすごいお金持ちになって、財団をつくり美術館を建てて自分のコレクションを公開するくらいで
なければ、中途半端な金持ちが美術のコレクションなどするべきではないのかなあ?と思って、そん
な話をしていたら、美術館関係の人が、良い作品を何点か持っている人の中には、自分の所蔵作品を
美術館に貸し出したままにする人もあるということでした。
なるほどそれなら美術館は建てられなくても、自分の好きな絵画を数点持つという楽しみと、人類の
文化遺産を人類と共有するということが両立しますね。
2010 年5月1日
年5月1日
SARKOZY が無断欠席自動の親のアロカの支給を止めるように法制化すると発表していた。
家庭にせよ教育にせよ人間というものの問題を考える時に、単細胞的に善悪の二律背反や因果的思考
に頼ると、すぐに「原因」は何か、誰が「悪者」かという考え方に陥りやすい。
だが本当にこうした問題の解決を考えるのならば、全体の現象を根源的な布置として見て、誰が「原
因」とか、「悪者」と考えるのではなく、すべてのことが相関連しあっている姿をよく把握すること
が必要だ。今の SARKOZY のグループにはそういった思考を展開する力は勿論ないだろう。だが、こ
の「誰が悪いかと考えるのではなくて、皆がこれからどのようにすればよいかを考える」という姿勢
はフランスの文化文明にはないのではないかという気がする。
2010 年 4 月 30 日
イギリスの社会経済学者の Nicholas Stern が去年コレージュ・ド・フランスの一時教授になったとき
その就任の講義で Roland Barthes が就任講義で言った次の言葉を引用していた。
自分が知っていることを教えるという時がある。そして次に来るのは自分が知らないことを教える時
だ。それを研究というのだ。
Il est un âge où l'on enseigne ce que l'on sait; mais il en vient ensuite un autre où l'on enseigne ce que
l'on ne sait pas: cela s'appelle chercher.
昨日新聞に地球温暖化のためにカナダのグラン・ノールで万年雪がとけ始め、考古学上の貴重な資料
がたくさん発見されたと出ていた。
こんな発見は神ならぬ我々人間が「計画的」にやることは殆ど不可能だろう。
政治家が世論におもねりあるいは己の責任を逃れるために「安全のための予防の原理」に走りすぎた
り、「目的と結果の分かっている」研究を主眼にするような「研究の生産性」に走り過ぎたりしてい
るのを見ると、彼らはもう少し Nicholas Stern の講義をききに行って、その人生や学問に対する姿勢
を学ぶべきではないかという気がする。
幸いコレージュ・ド・フランスは自由聴講制で誰でも聞きに行かれるのだ。
そしてその壁には Maurice Merleau-Ponty の次の言葉が壁に大きく刻んである。
その創立以来コレージュ・ド・フランスがその聴講者達に伝える使命を帯びているのは、出来上がっ
た真理ではなくて、自由な研究の精神だ。
Ce que le Collège de France, depuis sa fondation, est chargé de donner à se auditeurs, ce ne sot pas
des vérités acquises, c'est l'idée d'une recherche libre.
2010 年 4 月 27 日
ナント市でニカブ(イスラムの頭からかぶって目だけが見えているスカーフ)をかぶって運転してい
た女性が交通のコントロールにあって、ニカブだとよく見えないからというので危険な状況での運転
とか言うことで罰金になった。そうしたら、その女性が自由の侵害だとか行って罰金を払うのを拒否
したのだ。
笑ってしまうのは、そうしたら、内務大臣の HORTEFEUX が彼女の夫は一夫多妻だからフランス国
籍を剥奪するべきだと、声明を出したのだ。内務大臣たるもの、もう少し他にすることがあるだろう
にと思うのは私だけだろうか?SARKOZY だってそんなに馬鹿ではないのだろうに、周りがこんなの
ばかりでは、ほんと、3 年もしたら馬鹿になりますよね。
反対派の議員が、ニカブをかぶっていて見えにくいから交通違反だというのなら、ヘルメットをかぶ
ってバイクに乗っている交通警官は皆交通違反だとどこかで書いていたし、問題の彼女の夫は、自分
は一夫多妻ではない、恋人は何人かいるかもしれない。これでフランス国籍剥奪というのなら、シラ
クだってそうだ、と記者会見していたから、あほらしくなった。
ほんと、フランス的といえばフランス的ですが、レベル落ちましたね・・・
2010 年 4 月 25 日
今日は第二次世界大戦のときのナチスのユダヤ人収容所が解放されて 65 年記念日になるというので
ラジオを聴いていたらいろんな話をしていた。その中で、アルザス地方のストラスブールにあるスト
ラスブール大学の医学部のことだ。ヒットラーによるユダヤ人やジプシーたちの消滅計画が進んでい
て、ストラスブール大学の優秀なドイツ人の医学部の教授 HIRTH が、このままユダヤ人やジプシー
が地上から消滅させられては、大切な研究標本がなくなってしまって大変遺憾であると考えて、ナチ
スの重鎮 HIMMLER に計画書をおくって、強制収容所で自分の選んだ人たちをガス室で殺させてその
死体をストラスブール大学の研究室へ運ばせて、頭蓋骨を初めとするからだの各部を集めていたとい
うのだ。
こんなことはナチスだから出来るのだという人もいるのだろうが、私はそうは思わない。先日も地球
温暖化の委員会の科学者達が、その説にに反対する数人の科学者に対して担当大臣に対して反対意見
を抑えるための陳情書を出していた。こういう心理状態の研究者だったら、社会が命令しそんな雰囲
気だったら(ナチス政権化のドイツのように)、研究のために死体が必要なら、ナチスの重鎮の
HIMMLER に陳情書を出して、ガス室から平気で死体を送らせたのではないのかという気がする。
私は法を守ったりとか倫理がどうのという人の極限状態(たとえばナチス政権下での)での行動をそ
んなに信用していないのだ。
岡潔という数学者が、何かの随筆の中で、田舎の教養も何もないおばあさんにあった時に、「先生、
世の中にはどうしてこうも不幸な人がたくさんいるのでしょう? それを思うと、わしは悲しくて悲
しくてしょうがない」といっていたおばあさんの例を出していて、教養も何もないからきちんと自分
の考えや感情もうまく表現できないが、こういうおばあさんこそ、本当に宗教的な人なのだ、と書い
ていたのを思い出します。
目の前に困っている人や苦しんでいる人がいたら、「ああ可愛そうに」と手を差し伸べられる人だっ
たら、自分がガス室に送り込んだ人たちの死体を夢中になって切り刻んだりしないに決まっています。
ところが目の前に困ったり苦しんでいる人がいても、まずその人が「善人か悪人か」ということを考
えてから、「善人」だったら「ああかわいそうに」と涙を流し、「悪人」だったら、助ける必要なし
と冷たく見ていられる人、こういう人たちは、ナチスの政権下のように政権が許し、法が許すなら、
どんな残酷なこともしかねないのではないのかと、ラジオを聴きながら考え込んでしまいました。
2010 年 4 月 23 日
イスラムのニカブ (niqab・・・目だけ見えている全身を覆った衣服)を SARKOZY が Conseil d'Etat
の否定的な意見にもかかわらず公共の場では全面禁止する立法を緊急にすると発表したら、偶然にナ
ントでこのニカブを着て車を運転していた女性が警察のコントロールにあって罰金を科せられたのだ。
女性の弁護士が、個人の自由の侵害ということで訴えたら、2・3 日して内務大臣の HORTEFEUX が、
この女性の旦那さんが一夫多妻でフランスの法を犯しているのでフランス国籍を剥奪するように要求
したのだ。
まるで SARKOZY 劇だなと言う印象を受けて、私があこがれてきたフランスは何処へ言ってしまった
のだろうという気がしてなにやら情けなくなってくる。
中国の王陽明が若いころにずけずけものを言いすぎて僻地の貴州の竜場というところへ流された時に、
こんなことを書いている。
なるほど形のうえでの文化文明というものはこの田舎にはない。しかしその文化文明とは一体なんで
あるか?はなはだしきにいたっては、道徳を無視して法律命令のような手段を使っておさめようとす
るが、人民はその裏ばかりかいて果てしがない。全い人間性というものは段々なくなってしまってい
るではないか。
政治などというものは、個人の野心とは別に、何十年何百年の後にやがては大樹となる木の種を植え
るくらいの気持ちがなかったら、とても国や国民のためになることなど出来るものではないだろう。
己の目で結果を見ようなどと考えているようでは話にならないのではないか。
2010 年 4 月 19 日
個人的な野望なしで政治をやるなどごく特殊な例外だろうから、政治家や実業家に国とか人類とかい
ってもらい必要はないのだけれども、彼らの説明がまるで国民の知性を馬鹿にしているというかある
いは彼ら自信の知性がその程度なのか、その辺がどうもわからないというのが最近の政治ですね。
イスラムのブルカに下って共和国がどうのこうのと SARKOZY が言っていましたが、共和国の基本は
何か?といったら税金を払っていることでしょう。
だったら、国から資金が流出するのを防ぐためにお金持ちに税制上優遇政策などといわずに、お得意
の強面で、税金をフランス国内で払わないやつは共和国の原則に反するから国籍を剥奪するとやれば
いいのにと思うのですがねえ・・・実は、そうしたらどうなるか興味津々なのですが・・・フランス
国籍剥奪の不便にもめげずに、スイスやその他の税金天国へ行く人がどれくらいあるか?
BESSON のフランス国のアイデンティティーだって、フランス共和国人=税金を払っている人、こ
れほど明快で分かりやすいものはないと思うのですがねえ・・・そうすれば可愛そうな滞在許可なし
で何年も働いて税金を払い続けてきた人たちも、基準の不明確な審査で許可が出たり出なかったりし
なくて済みますよね?
先日の、金融恐慌の時も国が銀行に金を貸して救ったら銀行が再び投機に手を出して問題になったら、
大蔵大臣の LARARDE が、いや、あれはもう銀行が金利と共に返したから、国民の税金を悪用したり
はしていない、と説明していたけど、こんな人を馬鹿にした説明はないと思うのです。
だってそうでしょう? どんな馬鹿だって、何百億の金があれば金利以上に儲けるのはわけないので
すから。その元手がないから皆苦労してやっているのですから、国が担保も何もなしで何百億貸して
おいて、いや、もうあれは普通以上の金利をつけて返済されたからそれで国民の金の誤用ではないな
どという説明は、本当は全然成り立たないことですよね。
2010 年 4 月 16 日
SARKOZY が地方選挙で大敗をきしてから、己の権力維持にウハウハしているのを見ると、もう政府
発表の数値などは何も信用できないなという気がしてくる。
こんな話をご存知だろうか。ド・ゴールのころですから、そんなに権力に執着していないもう少しお
おらかな時代の話です。
フランスの大蔵省が、1963 年以来頑強にポケット版叢書の値上げを反対していたのです。その理由
は?一般の出版物とは異なり、ポケットブックは物価指数の計算に用いられていたのです。
おかしいのは(ポケットブックをフランスで勝ったことのある人はご存知だと思いますが、一冊の本
がその厚さによって、一巻本、二巻本、三巻本などとなっている珍妙な話の出所です・・・)本の制
作費は値上げ自由でしたから、当然一定の価格に置かれていた本の販売価格を上回ってしまったので
す。
こうしてポケットブックの存在あやうし、となったのです。これらの本は安い値段で、ポケットブッ
クは読書普及ということで歴史的な貢献をしてきました。が価格統制がその存在を危うくしてしまっ
たのです。
このときに、出版社にとんちにあるのがいて、それまで単に一冊であった本を、一巻本、二巻本、三
巻本などと名づけることを考え出したのです。それによって、物価指数を上げることなく、本の値上
げをするという芸当が出来、物価統制局にとって「だいじなこと」は守られ、本屋も値上げが出来た
というわけです。
2010 年 4 月 13 日
SARKOZY が大統領になって 3 年がたつ。私は NEUILLY 市で彼が市長をしていた時に縁があったの
で、彼のように個人的野望やら自己顕示欲の強い男が市政と違い国政をやってゆかれるものかなと、
その成り行きに大変興味を持って見ていた。
そしていくつかの興味ある点を目の当たりに見ることが出来た。
あの国を統治して行くような大きなビジョンのない男でもちゃんと国を動かして行かれるのだと思っ
た。ビジョンがなくても論功行賞だけでも何とかなるものだなということだ。政治の世界に入る者に
とって大臣職はやはり一つの究極の目的なのか、あるいは大臣職はよく言われるように、あまりおい
しくていったんやったら止められないということなのか、とにかく政策的に反対であろうと個人的に
敵であろうと、大臣職を持ち出されたら、拒否する人はいなかった。全員受けたのだ。
企業を始めいろんなグループや組織がトップのリーダーシップによって初めて動いて行くものだとい
うことは、私自身も個人的に日々経験していることなのだが、何十万人の社員のいる大企業や何千万
人の国民のいる国の場合に、トップの「カルチュアー」が浸透するものだろうかということは疑問だ
ったのだ。
ところが、SARKOZY と同じようになるか反発するかは別にして、とにかく SARKOZY が大統領にな
ってから、はっきりとフランスの社会が彼の影響を受けて変わりはじめたのだ。
これを見て、政治など誰がやっても同じだどうせ退廃しているなどと考えずにきちんと国の統治の出
来るような品性のある人を選ばないと大変なことになるなと思ったのでありました。組織のトップの
「カルチュアー」が組織の成員の「カルチュアー」に怖ろしい影響を与えるということを目の当たり
に見ることが出来た。
2010 年 4 月 9 日
本を読んでいたらおかしかった。こんなことが書いてあった。
自分の子供が学校に行かないので困りきっていた母親が、偶然テレビでそのような子供についての特
集があるのを見て、「学校恐怖症」という「名前」を知り、すっかり安心してしまったというのです。
それまでは、自分の子供は気が変になったのではないだろうかとか、精神病院に入院させねばならな
いのではないか、のどという不安で一杯だった母親が、「学校恐怖症」という名前を知って、自分の
子供は「学校恐怖症というものなのだ」と知り安心してしまったのだ。
笑い話のようなことですが、我々自身もよくやっていることですよね。名前を知ることによってその
問題や存在の本質が分かったような気になって安心するというのは。対人関係で問題があった時も
「あいつは人間が出来ていない」と決め付けて深く考えるのを避けたほうが楽ですよね。
いろんな現象でもそうで、「アインシュタインの相対性理論」などという名前を知っているだけで何
か分かったような気になっているものですが、たいていは何も分かっていない人のほうが多いと思う
のですが・・・
「名前」というのは不思議な力を我々の心理の上に持っていますよね。
勉強をするときでも、人間関係でも、「名前を知る」ことによって問題の本質に直面することを避け
てしまうことになりやすいことをよくよく自覚していないといけませんね。
「名前」を知った後で、我々はその対象をよく知るように、つまりよく理解するように、努めないと
いけないと思います。そのためには我々は対象をよく観察して、必要に応じて「会話」を交わさねば
なりません。数学のような理論なら、その世界に自分なりに飛び込んで遊ぶということがこの「会話」
を構成しているでしょうし、相手が人間存在なら、「相手の世界」へ自分の偏見を捨てて入っていっ
てみるということでしょうね。
2010 年 4 月 7 日
ニュースで一般医たちが自分たちの診療費が安いから値上げするように政府に向かって働きかけてス
トをして、こういっているとニュースで報道していた。
「我々も Généraliste という名の Spécialiste として Spécialiste と同じ料金にせよ!」
Généraliste の仕事も Spécialiste と同じように大変でまた大切な仕事なのだから Spécialiste と同じ料
金にせよ、とは何故言わないのですかねえ?
やっぱり形式とレトリックが実質よりも大切なフランスの文化文明だからでしょうか?
2010 年 4 月 6 日
シンチアの台風がもとの洪水で多くの死者を出したバンデー地方のフォート・シュール・メールの危
険地域の家を全部破壊するという決定が出されて、底にすんでいた人々のショックを和らげるために
心理的支援のグループを政府が派遣したとニュースで言っていたので考え込んでしまった。
前にも書いたのだが、人生を生きてゆくということは晴れもあれば雨も・嵐もあるのだからもう少し
自分で自分の気持ちくらい処理できるような教育を子供のころからすることの方が大切だと思うのだ
けれど・・・
まあ、大衆から不満が出そうになったらこの心理的支援グループを送る方が権力にあるものにとって
は手っ取り早く自分の権力維持が出来てよいのかもしれないが、長期的な社会の進歩という観点から
はかえって社会が退歩しかねないのではないのかという気がする。
2010 年 4 月 3 日
新聞を読んでいたらこんな記事がでていた。
地球温暖化対策委員会を構成している科学者達が、彼らの説に疑問を提出している数人の科学者に対
して「彼らを何とかするように」高等教育・研究省の大臣のバレリー・ペクレス (Valérie Pécresse)
に訴えたのだ。
政治が科学に介入するようになると、以下に「科学」が堕落するかは経済学を見ればよく分かるはず
だ。アダムスミス以来経済学がなかなか科学として独り立ちできないでいるのは、単に研究対象が複
雑で難しいというばかりではなくて、経済学が誕生の時から政治と密着して歩いてきたからだろう。
地球科学や環境科学が経済学と同じ道をたどるか、物理や数学のように科学らしい科学に成長するか
は、科学者達の姿勢いかんによると思うのだが、これでは心もとなくなる。
2010 年 3 月 31 日
アメリカでオーストラリア人がオーストラリアの会社を相手取って訴訟を起こしたことが元で、勿論
このオーストラリアの会社のフロリダかにある支社が原因になっていることらしいのだが、アメリカ
の最高裁が、アメリカ人以外の人がアメリカ国籍以外の会社をアメリカで告訴するということについ
て国際的に意見を求めたら、フランスの企業が猛烈に反対しているということを読んでおかしかった。
(クラス・アクションを外国籍の企業にも適用するかということ)
つい先日もアメリカの軍部の空中給油機の応札でフランスの EADS が不当に不利な扱いを受けたと騒
いでいたばかりだ。アメリカのやり方は不公平で国際的ではないということだ。
要するに彼らは人類全体の進歩や繁栄とか何かそういったユニバーサルな原理原則があってものを言
っているのではなくて、単に目の前の利益に従ってものを言っているのだと思ってあきれてしまった。
国政を見ても財政赤字だの金融関係の国際ルールの強化などと経済一色だ。たしかに我々の時代は、
文化文明そのものが金に毒されきっているから、仕方がないのかもしれないが、国政というものは、
財政という手段を使って国や国民の人生や将来を考えるということだろう。それが経済一色になって
経済という語を語っていれば政治だと思っているやからが多すぎはしないか?
お金というものは無視できないし大切な手段であるということは国政でも家庭でも個人の生活でも同
じだ。
しかし我々の個人の人生でも国政でもまるで金や経済がすべてで目的そのものであると思ってしまう
と、その瞬間から我々の人生も国政も逆説的に貧しいものにならざるを得ないだろう。
勝海舟が「氷川清和」の中でこういっている。
しかしいかに治民の術をのみこんでいても、今も昔も人間万事金というものがその土台であるから、
もしこれがなかった日には、いかなる大政治家がでても、とうていその手腕を施すことはできない。
見なさい。いかに仲のよい夫婦でも、金がなくなって、家政が左前になると、犬も喰わない喧嘩をや
るではないか。
国家のことだって、それに異なることはない。財政が困難になると、議論ばかりやかましくなって、
何の仕事もできない、そこへつけ込んで種々の魔がさすものだ。
2010 年 3 月 30 日
今日の新聞の科学欄に肥満の対策として胃袋の中へ玉を飲み込ませてそれを膨らませることで空腹感
をなくして食欲を落とすというようなことが書いてあった。
心理的に問題が会ってがりがりにやせてしまったりむちゃくちゃ太ってしまうのなら分かるのだが、
「わあ、すこしやせなくては」などと騒いでいる人たち向けにこんなことして宣伝でもし始めるのか
なと思うと何か心配になってくる。
もうだいぶ前から、列車の事故とかがあると、それが怪我人も死亡者もいない事故でも、ニュースで
事故にあった人たちのために心理支持グループが送られたなどとよく言っているのを聞いて不思議に
思っていたのだ。大事故にあってものすごいショックを受けたとかそんな場合なら分かるけど、ナイ
フで切り付けられそうになってというくらいで心理支援もないと思うのだが。私が間違っているのだ
ろうか?
私はよく日本で言われる「精神一到何事かならざらん」という精神主義ではないのだ。というよりも
サド・マゾに近い日本人によくありがちな精神主義は嫌いなのです。
ただ、我々人間が一生に実現してゆくものよりもずっと大きな可能性を秘めたものだということは信
じています。そして、不可能だなあと思うこともたいてい頑張ってやれば出来るものなんだというの
も、自分の経験やいろんな人を見ていてそう思います。
心配すると自分の精神がちじこもってしまいますから、自分の持っている力が出せなくなってしまう
のですよね。
だからやれば何でも出来るし、我々は自分に出来ることくらいしか想像できないものですから、そん
なに想像力だけ飛躍するという人はいないものですから、自分がやりたいなあと思ったことは頑張れ
ばできるものだともっています。
そういう意味で自分を信じるということは一番大切だと思うのです。ただそれと同時に、人生には自
分がいくら祈っても頑張っても
どうにもならないこともあるのだという謙虚さや人間の力の限界ということをきちっと自覚した上で、
自分を闇雲に信じられるということが大切でしょうね。
話がそれてきましたが、ナイフできりつけられたくらいで心理支援をうけたり空腹が我慢できなくて
太りすぎたりするのを避けるために、胃袋の中に玉を入れて空腹感をなくすなどというのは、私は人
間というものに対する侮辱のように思えるということと、空腹ぐらい自分で我慢できなかったらどう
やって生きてゆくのだろうと思うのです。
生きているということは、一歩外へ出れば、いや,でなくても家の中でも、肉親がいやみの一つも言う
ことがあるでしょうし、デパートへ行けば「わあ、すてき!ほしい」と思っても自分の小遣いでは手
の出ないものが一杯あるでしょうし 、そんなことは自分で処理できなくて、いらいらしたっり欲求不
満だからといって心理支援だのとやっていたら、生きて行くということの意味を間違えているのでは
ないのかという気がする。
大体そういう世の中の風潮が現在の学校内の問題を起こしているともいえるのではないのか?
2010 年 3 月 28 日
SARKOZY のやっていることを見ていると、本人の人柄は別にして、彼のような男が国を治める地位
についたということが我々の時代の流れを反映しているのかなあと思ってしまうのだ。彼は若いころ
から野心家で政治の世界を歩んできてそういう意味では政治のプロだろう。
だから国費を違法といわれかねないくらい使って世論調査をしてそれにしたがってコミュニケーショ
ンの作戦を立ててやっているというのも時代の流れなのだろうなあと思う。人類が次第に豊かになり
インターネットなどコミュニケーションの手段も大変なスピードで発展しているが、国政や人類のよ
うな大問題となると、国民のすべてに分かるように真実を説明するというのはまだまだ無理だろう。
そうなるとどうするか。孔子が論語で言っているように「民は之を知らしむべからず」ということに
なるのだろうが、彼の場合は、あるいはメディアで言われている彼のフーケツのグループの人たちは、
少しニュアンスが違う意味で、この必要悪を理解しているのではないだろうか?
民衆というものは、服従させて置けばよいのであって、民衆に知恵をつけてはいけない、民衆に知ら
せてはいけない、とこう考えているのだろうかと疑ってしまう。
孔子がいおうとしたのはそうではなくて、民衆というのはなかなか本当のことを理解させようとして
も、理解できないものである。だから政治家はとにかく理由の何たるかを問わず、あの人の言うこと、
あの人のすることならば、間違いないであろう。私はあの人を信じてあの人に任せるというふうに、
民衆から信頼される人間になれということだろう。
これは人類の文化文明が変わっても変わらぬ真理だろう。それが理解できないところに SARKOZY の
今の困難があるのだろうが、恐らく彼は理性ではわかっても、心ではそういうことが理解できない人
柄なのではないのかという印象を受ける。
2010 年 3 月 26 日
ゼネコンの大手 VINCI の前の社長がその非常識な報酬のために起訴されていて、実業界のモラルを改
めるための画期的な裁判とばかりに話題になっていたら、今日あっさり無罪放免になっていた。
VINCI の前の社長の Antoine Zacharias が年俸 400 万ユーロ、退職金 1300 万ユーロ、老齢年金 4000
万ユーロという金額を決めていたのが問題になったのだ。
判決は、取締役会で明々白白に決められたことでなんら違法性なしということだ。
そんなことは明らかだ。この判決を聞いて検事側が上訴したというから、益々国民を馬鹿にした芝居
ではないかという気がしてくる。
腑抜けの阿呆は別にして、大体少しでも力のある社長なら取締役の人事権は掌握しているものだ。だ
から平のころは結構社長に物をずけずけ言っていた社員が取締役になったら急におとなしくなったな
どということはよくあることだ。
その上、取締役達にしてみれば、自分の時にも便宜を図ってもらおうという気があってもおかしくな
いのだから、取締役会が社長の報酬に文句を言うなど、同じ穴の狢に何かやらせるのと同じことだろ
う。
そんなことは検事が知らぬはずはないのであって、それを改めようと本気で思っているのなら、司法
の問題ではなくて、会社法や商法の問題だから、立法=国会の問題だろう。議員たちが知らぬふりを
している限りこういったことが改められてゆくはずがないではないか。
SARKOZY 政権になって、そんなポーズばかりで実質が全然ない人が多くなったという印象を受ける
のは私だけだろうか?
2010 年 3 月 24 日
SARKOZY が CO2 のタックスの立法化を延期するというのでそれが話題になって、今日はこんなこ
とを行っていた人がいた。途中から放送を聞いたので名前を聞けませんでしたが何かの研究者でした。
戦後に先進国では国が豊かになってきて、お金持ちばかりではなくて中産階級にもビフテキが広まり、
牛の飼育の数が急激に増えて、牛は反芻胃を持っているので、CO2 を排出する量が多くて、近いうち
にその公害は自動車が排出する CO2 の量よりも多くなるといっていました。
こんな話を聞いていると、この人たちは学者というよりも政治に半分以上足を突っ込んでいる人たち
なのかなと思ってしまう。
もっとも先日の経済学者のように(大学の先生でした!)自分の本の中に堂々と、研究というのは
「まず結論があって、それからその結論に必要なデータを拾ってくる」と書いている人もいるくらい
ですから、学問や研究というものに対する考え方が変わったのでしょうか?
人間を読み表現の裏を読まないとこれからの世の中では情報というものを我々の中で処理してゆかれ
ないのかなという気がします。人間が読めないと表現の裏が読めません。行間が読めません。人間が
言葉に表現できるのはほんの一部分、それも誤解されることの多い、ごく制限された形でしか語れな
いという言葉の本質があるところへ持ってきて、最近は、己の結論を主張するためには、それに都合
のよい情報だけを伝えようというのが当たり前だとしたら、もう、我々の時代では、こういう表現を、
たとえそれが学者や研究者のものであっても、字面どおりとらえたら困るわけですよね。
言葉に尽くせないものは勿論、表現に現れていない想いとか情念を読みながら情報を判断して行かな
いと、いけないということですね。
そのうち先進国が出す CO2 よりも後進国の人口が出す CO2 とメタノールガスのほうが多いなどと言
い出す学者が現れるのではないのかと心配になるのですが・・・
2010 年 3 月 22 日
地方選挙で SARKOZY 派が大敗して、このままでは 2012 年の大統領選挙の再選はおぼつかないとい
う事態になって、SARKOZY が政治屋のプロとして己の権力維持に全力を尽くしているのを見ていて、
おかしかった。
彼の場合は、フランスの歴史に現れた偉大な政治家のように歴史的なビジョンや哲学あるいは国家的
な使命感というものがあるのではなくて、個人的な権力闘争くらいの感覚しかないのだろうと思うの
だが。だから自分の権力維持(フランスも一応民主主義だから権力維持の一つのファクターとして世
論は無視できない)という観点からそのときそのときの世論調査に従って判断して彼の政治方針もこ
ろころと変わるわけだ。
それを見て私はなんとビジョンや哲学のない男だと軽蔑したわけなのだが、最近考え直して、我々の
時代のように、3 年先のことを予想するのが不可能なくらい変化の早い時代では、彼のように目の前
の利益だけ考えて節操なくころころと方針を変える男の方がフランスの国のためになるということも
ありうるのかなあと考え込んでしまったのだ。
勿論これは本人がフランスの国のためということを考えてやっているかどうかということとは別なの
だが・・・
システミックの本を読むとこんな例が出ていた。ある一点から目的地まで到達するのはどうするのが
一番よいかということなのだが、我々のように「少々」頭がよいと、目的地をまず眺めて、途中に池
があったり色々と障害があるのを見わたして、大局的に計画を立てて障害を避けながら進む道を考え
てからスタートする。
ところが我々の時代のように変化が早いと、前もって計画を立てて障害を避けて作戦を立てておいて
もその地点へ行くころには状況が変わっているから、障害がなくなっていたり別のところに障害がで
きていたりするから、大局的な作戦を立ててスタートしても意味がないというわけだ。
じゃあどうするかといったら、野良犬のようにあちこちふんふん匂いをかぎながらションベンをひっ
かけてあっちにフラフラこっちにフラフラしながら進んでゆくのが一番合理的だというのです・・・
なるほどまさに SARKOZY だと思って考え込んでしまったのでした。
2010 年 3 月 17 日
やはりラジオでフランスの社会学者が話をしていてこんなことを言っていた。日本は人種差別の酷い
国だ。その証拠は?世界中どこにでも存在するユダヤ人の移民集団が存在しないので分かる!といっ
ていました。
まあ、中国人や朝鮮人に対する日本の国や文化文明の対応の仕方を見ると、日本や日本人が国粋主義
であり人種差別主義であるという印象を与えても仕方がないかという気もしますが・・・
司馬遼太郎が何かで、中国のウイグル地区の話だったと思いますが、記憶が定かではありません、そ
の都市に大昔ユダヤ人の集団が移民して流れてきたのだが、しばらくしたら、その大量のユダヤ人の
後が歴史から消えてしまった、と言う話をして、その理由として、中国の文化文明は異文化的な異分
子が入ってきてもそれを抵抗なく受け入れてしまうので、そこにはなんら拮抗関係が起こらないので、
異分子が自然にまわりの社会の中へ溶け込んでしまうので、跡形もなくなったのだ、というようなこ
とを言っていました。
要するに、ユダヤ人の移民グループが存在しないという現象を見て、このフランス人の社会学者と司
馬遼太郎は正反対の結論を出しているということです。
どっちが正しいのだろう? と考えるのも一つの問ですし、かって心理学者のユングが同時代のやは
り心理学(?)の巨人のフロイトとアドラーが正反対の理論を打ち出しているのを見て、そこから、
どちらの理論が正しいのかと言う問いかけではなくて、フロイトとアドラーと言う二人の人間の性格
が彼らの作り出す理論に大きく影響していて、それらはあくまでも「存在する現実」の一側面に過ぎ
ないという考え方をして、彼は彼で自分にあった理論を作り上げていったということを、私達も人の
理論や情報を聞くときには、よくよく考えてみるべきでしょうね。
2010 年 3 月 15 日
今日ラジオを聴いていたら、病院のストライキの人達の声を放送していた。その中の一人がこう言っ
ていました。厚生省が役人を送ってきて病院の経営を、採算性と生産性を上げるために、自動車会社
と同じプロセスでやりなさいと指導していった。彼らは病院や治療の現場を何も知らないくせにと憤
慨していた。
こんな話を聞いていると、いくら有名な病院でも危なくて仕方がないなという気がしてくる。とにか
くもうこれからは、少なくとも顔見知りくらいではないと、何をされるかわからないという気がして
くる。
政治家や実業家も一般国民の範を見せるどころか、悪い例の見本のようなことをやっているから、こ
んなことをしていて、郊外の不良青年達を弾圧しても社会はよくなるはずはないだろうという気がす
るのは私だけだろうか?
2010 年 3 月 12 日
昨日新聞を読んでいたら面白かった。オランダの研究者が、あと 10 年もしたら、豚や牛や鶏の筋肉
を人工培養して食用に出来るということを言っていた。フランス人の研究者がそれにコメントして、
そんなことをしたら、自然のエコロジーの均衡が破れて、大地の緑が大変なことになるといっていた。
こういう議論を進めると人間の人口が増えすぎると大変なことになるから、大量殺人や戦争で人口が
減った方がよいと、このフランス人の研究者は言うのかなあと、考え込んでしまったのだが・・・
その上おかしかったのは、逆に、フランスの動物愛護の団体がこうした人工培養肉の実用化を考え出
した企業には 100 万ユーロ出すといっていたことだ。
お金などというものは研究がまだどうなるか分からない時こそ必要なのであって、ましてや世界の畜
産に取って代わるようなビジネスになる研究を実現したら(当然特許をとっているだろうから・・・)
そのときにはその企業にとって 100 万ユーロなどごみほどの価値もないと思うのだが・・・
こういう小学生並みの常識で考えてもおかしいことを平気で言える人たちが、メディアを席巻してい
るかと思うと、我々の文化文明はこれからどこへ行くのだろうと心配になる・・・
2010 年 3 月 11 日
今日はラジオを聴いていたら、コンゴ共和国の脳神経科医が話をしていてこんなことをいっていた。
コンゴでは、パーキンソン氏病とアルツハイマーにかかる人の数がすごく少ないらしいのだ。それで、
アナウンサーの何故ですか?と言う質問に答えてこのコンゴの脳神経科医がいうには、パーキンソン
氏病やアルツハイマーにかかるのは 60 才・70 才過ぎてからのことが多いが、今後の平均寿命は 55
歳くらいだから、かかる前にみんな死んでしまうから、罹病率が低いのだ。
なるほどそういう推論の仕方もあるかと思って、考え込んでしまった。
私は寿命があって死期が近づくと頭がぼけてくるのかと思っていたら、そうではなくて、全人類共通
に 60 才とか 70 才になると頭がぼけたり、パーキンソン氏病になるということなのだろう。
こうなると実験して確かめるわけには行かないから、先日の経済学者のように、あるいは何時だかノ
ーベル賞をもらった生化学者のように、研究とは、どれだけ大きな声を出して発表して、自分に都合
のよいデータを集めるかだなどと言うことになるのなしらとおもったら、今度医者へ行く時にはよほ
どよく人を選ばなければと心配になってきた。
2010 年 3 月 9 日
お天気のよい日にカフェのテラスでワインでも飲みながらあるいは道路を歩いている時に、近くを歩
いている人の後姿を見ているのって、結構すきなのです。何かその人の、人柄や他人には見せないそ
の人の過去や人生がにじみ出ているような気がするのです。
真正面から見られれば我々は誰だって即応的に社会向けの顔を造ってしまいますよね?ところがこの
後姿と言うのは、身構えていなくて自然なその人の人柄がにじみ出ていることが多いのです。底には、
その人がその人の人生でどのような生き方をしてきたかがにじみ出ているような気がします。
2010 年 3 月 6 日
日本国内にも海外からの移民の人が増え、国際協力で海外へ行く人も多くなった今日、多文化共生と
か共感・受容ということが日本人の間でも真剣に議論されるようになり、大学でも外国人の先生が増
えて、そんな名前のコースも多くなった。
しかし同質の場の中で場に溶け込んで生きるということを社会や文化の中で教えられ強いられて生き
てきたわれわれ日本人の中に、多文化共生・共感・受容ということが出来るほど、自分自身を知り、
己を知り、自分と言うものを確立している人がどれだけいるのだろうか?
「他」を共感し受容するためには、その主体となる「自己」が確立されていなければならない。だが、
その「自己」を確立せずにあいまいなままにして場の中に溶け込んで生きてゆくことが、「生きると
いうこと」のようになってしまっている日本の文化文明の中で、「他」の共感と受容ということをや
ると、それは確立された「自己」が「他」を共感し受容するのではなくて、自分があいまいに溶け込
んでいる「場」の中へこの「他」を取り込んでしまうということになるだけではないのだろうか?
それは我々日本人同士の人間関係を思いなおしてみればわかる。それが家族であれ友人であれ社会的
な付き合いであれ、相手が我々を「共感・受容」すると言う場合を考えてみるとよい。たいていの場
合には、相手は(家族でも友人でもその他の人間関係でも・・・)「共感・受容」という名の下に
我々の「自己」を無視して、相手が溶け込んでいる「場」の中へ我々を取り込もうとしているだけの
ことが多いのだ。
そんな誤りをわれわれが異文化の人相手にも犯しているのではないのかということも、よくよく考え
てみるべきだと思う。
2010 年 3 月 2 日
文部大臣をしたこともあり科学者でもあった政治家のクロード・アレーグル (Claude Allègre) が「地
球の温暖化現象」は嘘だといって「地球の温暖化」を主張する人たちを詐欺師扱いしてメディアの話
題になっている。
しばらく前には国連の政府間パネルの組織 (IPCC) の出した報告書が科学的根拠のない主張をしてい
るばかりか、「地球温暖化の危機」の主張に反する学説を主張している学者を締め出していたことが
分かってスキャンダルになっている。
少しでも論理的に考えたらクロード・アレーグルのいっているとおりで、「地球の温暖化」など何の
科学的根拠もないことなのだろう。経済現象と同じで気象現象など今の科学のレベルでは、数年先を
予測することも出来ないし、過去の現象の解析とて十分に出来ないのだろう。
我々はインターネットの時代などといっても、時間と空間に制限された中で考え、決定を下し、生き
て行かなければいけないのだ。だから不十分な情報を元に底から先は単なる推論で結論を出さなけれ
ばいけないのだ。
だからといって、経済学者のように、
社会現象や経済現象を議論する時は、結論が決まればそれを裏付けるデータは常にある。ということ
は結論の方が大事だということだ。結論はヤマカンであり、判断だ。判断があって、一生懸命それに
合うデータを探すという感じだ。
となってしまっては、もうこれは科学ではなくて、あるいは地球や社会の将来を考えているとはいえ
なくて、政府委員会の委員の職探しにウハウハしている、学者とはいえない我利我利亡者ではない
か?
そんな人たちに地球や我々の将来を任せているのかと思うと背筋が寒くなりはしないか?
2010 年 2 月 27 日
先日英語(アメリカ語)から翻訳された本を読んでいたらこんなことが書いてあった。
本書は膨大な内容を持っている。さすがにビフテキを食べている人種は違うなと思った。この原著の
全部の章を訳出すると極めて膨大なものになる。監訳者の判断で六つの章を削除した。政治観や非線
形論、ドイツやラテンアメリカなどの章を残念ながら省き、日本の読者に身近なテーマにしぼっ
た・・・
本を読んで勉強するのは自分の現在の世界観を広げるためにやるのだから、現在の自分に身近なこと
ばかりやっていたら意味がないと思うのだが。あまり厚すぎでは売れないという商業ベースの判断が
働いてやっていることなのだろうが、こういうところが日本のメディアのレベルが低い理由のひとつ
なのではないのかしら。
新聞でも同じことで、発行部数から言ったら、フランスの新聞などは零細企業と大企業ほどの差があ
るのだが、一部の新聞のレベルはとても日本の新聞では太刀打ちできない。
2010 年 2 月 25 日
政治家にせよ実業家にせよ、色々と失言したり取らなくてもよい報酬を取ってスキャンダルを起こし
たりしてメディアでたたかれているが、あれはメディアも悪いのだろうなと思う。残念ながら、我々
の生きている世の中は「悪いこと」をしなければ生きていけないような側面もある。きれいに生きて
ゆけるなどというのは偽善だろう。
われわれが守らなければいけないのは二種類あるということだろう。「清規」と「陋規」だ。
「清規」とは、「親に孝行せよ」とか、「兄弟仲良くせよ」とか、「人のものは盗むな」とか、「法
を犯すな」といった建前の表向きの倫理だ。
それに対して、「陋規」というのは、賄賂には賄賂のとり方があるし、喧嘩にも喧嘩のルールがある
ということだ。泥棒にも泥棒のおきてがある。この「ダークサイドの倫理」であり「裏街道の倫理」
も建前の倫理と同じように守れるようにならなかったら、人間として半人前だろう。
2010 年 2 月 22 日
日本が 1960 年代の復興期に逢った時、「いけいけどんどん」で復興と会社の利益のことしか考えず
に公害を垂れ流し続けて、社会問題として耐え切れなくなって初めて、政府がこしを上げて各種の立
法化をすることで公害問題が解決していった。
今の銀行の様子を見ていると、銀行が我々の社会の経済活動に役に立つよりも「公害」を撒き散らす
方が大きくなってきたのではないかと言う気がしてくる。そして、ロビーの圧力よりも社会の声の方
が大きくなって政府が腰を上げるというパターンは 1960 年代の公害と同じパターンかなあと思って、
何か人間の愚かさと言う物が少しも変わっていないような気がして、こんなに我々は愚かなままでい
ていいものかと心配になったのでした・・・
2010 年 2 月 17 日
今日はなんとなくインターネットで東京の町並みを見ていたら、ビルばかりではなくて今でも古い町
並みが残っていて、まさか江戸時代でもないが、古い日本がしのばれるようで興味深かった。
そんな中に「精肉店」と書いてある店があって、というか要するに肉屋さんなのだが、ふっとそれを
フランス語に訳そうと思って困ってしまった。
viandes fines かなあとか悩んでいるうちに、要するに私は「精肉」という日本語の意味を知らないの
だということを自覚しました!
何年かフランスにいてそれ相応フランス語の勉強をしていればたいていのことは訳せるもので、うま
く訳せなくて悩む時は、よくよく考えてみると日本語の意味がわかっていないことが多いです
ね・・・
「精肉」、皆さんこの意味をご存知ですか・・・
2010 年 2 月 11 日
今日のニュースでパリの近郊の貧しい地区で古い建物の中に不法にもう何年もすんでいる人たちがい
たら、何とこの真冬のさなかに県令と市長がそれらの人を追い出してブルトーザーで建物を破壊した
というからあきれてしまった。建物が破壊寸前で中にすんでいる人たちに目前の危険があるというの
なら、それもありうるのだろうが、だったら今まで何年も放置してあったのがかえって許せないこと
だ。
民主主義で法を守るというのがルールなのかもしれないが、もっと常識を働かせたらよさそうに思う
のだが。
一昔前はと言うか、日本では一応役人と言うのは、われわれ利益の追求ということが原則となってい
るビジネスマンと違って、常に大所高所に立ってものを見て判断して行き国や国民のために尽くす人
たちだといわれていたと思うのだが。
フランスのように政界・財界・官界の風通しがよすぎると、お互いによい影響を与え合うことなくか
えって悪い影響を与え合うばかりなのが人間の性なのかなと思って考え込んでしまった。つい先日た
いして国や人々の役にもたたないのに(企業の利益を上げるだけでは国や人々の役に立っているとは
いえまい)二枚舌でうその発表までして自分の報酬を増やしていた輩が何人もいたが彼らもかっては
実業界に入る前は高級官僚だったのだ。
話があちこち飛ぶが、要するに小学生でも分かると言うよりも最近では小学生なら分かるような常識
で判断できることが出来ない人が多すぎるのではないか?それが大企業の社長であったり県令であっ
たり市長であったりすると、彼らは何を考えているのだろうと思う。
内務大臣の HORTEFEUX にいたっては、郊外の貧しい地区の犯罪少年対策として益々警察による弾
圧の強化を打ち出している。彼らはいったい何を考えているのだろうかと首を傾げてしまう。まあ自
分が生きている間に自己満足的に小さな権力闘争をしてそれに勝ってゆけばそれで自分の人生は満足
だということなのかもしれないが。
郊外の非行少年たちにしても、彼らの問題は彼らの問題ではないということを良く考えなかったら、
国を指導している地位にある人間としては失格ではないか?郊外の問題児が問題なのは、彼らや彼ら
の家族が単に問題なのではなくて、時代の不安というものや、上記のような県令や大臣すら小学生以
下の常識で動いているような世相の不安を彼らの心が一挙に背負っているためにああして問題児とな
っているということをよくよく考えなかったら、社会問題としての解決には近づかないだろう。
2010 年 2 月 5 日
随筆家の江原通子の随筆にこんなことが書いてあった。
彼女が 30 代の終わりの頃に、興禅護国会に始めて出て、朝比奈宗源老師にあったときのことだ。そ
の時に、禅の座り方とか息の整え方とかを手短に教わって退室しようとしたとき、老師が江原さんに
身の上を聞かれた。彼女は「早く夫を戦争で亡くして、文芸春秋社に勤めながら一人の男の子を育て
ております」と答えた。すると、老師はゆっくりとひと言「それはかわいそうに」と言った。たった
それだけのことだったのだが、彼女は人の情に深く感動した。その日から後、弱かった彼女の体は丈
夫になり、狭かった心は広くなり、渇いていた心は水がにじむように潤って、彼女の周囲までがその
恵みに浴し、二十数年たった後までも、彼女は限りなくそれを感謝している。
今の私にはとてもこれだけの慈愛や共感の人間的器はないなあと思って、もっともっと修行しなくて
はと思うと共に、こうしたほんの一瞬だが、人生を決定するようなすばらしい出会いがあると思うと、
人生は生きる価値がありすばらしいと思う。そのためにはお互いが心を開いていないといけないのだ
ろうが・・・
2010 年 2 月 4 日
文学・科学・事業などのどれをとってもその結果として表現されたものだけを見ていると、そこには
それに関わった人間が表現しうることの出来た事の一部分が現れているだけで、それも誤解されるこ
との多いごく制限された形で表現されているだけだ。
その後ろには、そういった結果では尽くせない人間の想いとか情念や怨念があるのだということを知
り、そこまで届く理解や共感がなければ「分かった!」といえないのだと思う。
心をののきつつ彼女を抱きしめ
われ物悲しくその目にみいりぬ
『あはれ恋人よ、苦しみに汝はおとろへ
わが息吹にそなたはうちふるへるか?』
『汝はわがたましひを吸ひつくしぬ
汝の情熱はわがもの
おお宝石よ、輝け、
かがやけ、かがやけ、青春の血よ!』
『恋人よ、汝の眼差しは青く
汝の言葉は不可思議なり
見たまはずや、にぎやけく
人々の大空を翔け行くを!』
『いざ行かむ、恋人よ、いざ
輝け、星よ、輝け
上へ上へとのがれ行き
われらがたましひは一つとなりて光らむ』
この詩で、稚拙かもしれないが、青春の多感さを歌つた作者が、「経済学批判」や「資本論」を書い
たマルクスだというのが、おかしかったのだが、彼の奥さんは写真で見ると美人だし、マルクスはロ
マンティックな人だったのでしょうか?
マルクスはヨーロッパで政府批判などするから官憲におわれてアメリカへ移住しようとしていたら、
ビザだか何かの都合でアメリカへ行けなくなって、イギリスに残って「資本論」をかきあげたのだか
ら、人生や社会って不思議ですよね。もしも素直にマルクスがアメリカへ行くことが出来ていたら、
「資本論」はアメリカで誕生していたのですから。そうしたら、アメリカが共産主義を試していて、
今頃は 70 年の時間を無駄にしたと嘆いていたのかもしれません。それが偶然なのか何かの必然なの
か、社会の歩みも、個人の人生の歩みも、人間の理性や論理では計り知れないものがあるという気に
なるのは、私だけでしょうか?
2010 年 1 月 28 日
今日何気なく随分昔に読んだ本をぱらぱらめくっていたら、こんなことが書いてあった。ガンジーの
弟子のネールといえばインドの平和主義ということで有名だ。日本の新聞なども例外なくそのころイ
ンドのことを「平和国家」と書いていたらしい。そのインドが実はネールのころ、国家予算の 33%
を軍事費に使いアジアで航空母艦を持っているただひとつの国らしかった。
フランスなどでは、各新聞が誰に所有されているかはっきりしているので、それぞれの新聞がはっき
りとその傾向を打ち出しているから分かりやすい。
それに反して日本の新聞は公正な記事の報道と言うことをいわれているのだが、その実日本の新聞ほ
ど誰の所有でどんな傾向があるか不透明なものはない。言葉にだまされず報道にだまされずに現実を
見るというのは、私達の時代はインターネットなどもありしやすくなっているはずだが、私達の心理
的閉塞も手伝ってなかなか出来にくい。
おかしかったのはその本の中で、世界の指導者の夫人を見ることは大切だ。専門家のなまじな国際関
係論よりもよほど国際情勢が分かると・・・
昔の例ばかりですが、こんなのがあげてありました。
李承晩婦人はアメリカ人、ケニヤのケニヤッタ夫人はイギリス人、ガーナのエンクルマ夫人は白人系
エジプト人、モロッコとセネガルの国主の夫人はフランス人で、インド軍の元帥、大将の夫人のほと
んどは、イギリス人だから、インドがイギリスと戦争することはありえない!
なるほどそうですよね・・・
2010 年 1 月 22 日
パリは歴史的あるいは地理的な関係からアフリカ人がたくさんすんでいる。移民してきてそのままフ
ランスの生活保護で生活している人から普通に働いている人、本国の政治体制の変化で亡命して逃げ
てきた人(彼らはたいてい働かずのんびり暮らしているから、あれは自分の隠し金があったのか、新
政権との間に何か密約があるのだろうかと不思議な気はするのだが・・・)あるいは政権の座にある
人たちの子供たちがぶらぶら生活していたりする。
そんな彼らと話をしているとやはり祖国アフリカの発展の話になったりする。彼らの中には、大学院
も出て職がないからぶらぶらしているのもいるから、話を聞いていると面白いことは面白いのだが。
中には、何冊も本を書いているのもいて、アフリカ発展のモデルは日本に求めるべきだというので
「着物姿のアフリカ」といった類の本を何冊も書いている人もいる。
話を聞いていると、部落的な考え方(?)や長幼の序的な考え方・・彼らの世界でも老人の知恵は尊
敬されているのだ・・等にているところはたくさんあるのだ。
日本の明治の人たちが西洋に対するコンプレックスがあったのかどうかよく分からないのだが、その
後次第に西洋に対するコンプレックスが生まれてきて、自由にとらわれずに生きているように見える
現在の大学生と話をしていてもそれが感じられる。
ところが不思議なことは、日本人の西洋コンプレックスといいつつも、日本人が西洋のものを導入す
る時は、それが物であれ文化文明であれ社会制度であれ、それを元の影形がないくらいに変形して
「我々にあった形にして導入している」ので、決して我々自身をその導入するものに合わせたりして
いないのだ。
ところがアフリカ人の話を聞いていると、アフリカの発展の為に役に立つモデルを見つけて、それに
合うようにアフリカ人達を変形(?)してアフリカを発展させようと考えているようなのだ。
そんなことを聞いたら、長い間フランスに亡命しているアフリカ人が、「日本には神話があるけど、
アフリカにはもう神話がないのだよ。言葉も植民地時代の言葉だし。口承されていた民話もどんどん
失われて、神話どころか国の歴史もない。そんな状態で若い人が誇りをもてるはずがない」といって
いた。
何かこんな話を聞いて考え込んでいたら、どこかで読んだ、司馬遼太郎の話を思い出した。少し長い
が引用する。
じじい同士が互いの小差を言い合うのも滑稽だが、じつは大差があるようで、昭和一桁当たりに生ま
れた人たちは、太平洋戦争が絶望的段階に入った昭和 18 年にはすでに中学生や女学生になっていた
だけに、精神の上で最大の戦争被害者だったと言っていい。
何しろ鋭敏な少年の感受性を持っている。そのくせ社会や政治についての情報を適度の判断できるー
いわばたかをくくれるような、転把(ハンドル)のあそびといっていいーいいかげんさをもっていな
い。そういう少年たちが、天皇陛下の為に爆雷を抱いて敵の戦車に飛び込めとか、竹やりでアメリカ
兵を突き殺せなどといわれればそれが絶対価値になってしまう。
それだけに、ゆりかえしもつよかったようだ。
私は、戦後、京都大学担当記者になって、初めてこの年齢層の人たちに大量にであったのだが、例え
ば戦前史については「天皇制」というただ一点で捕らえ、それをめぐっての賛否の論が激しく、私な
どは見守るほかなかった。
ただ論者達にとっての旧日本とは、明治以後ではなく、少年期を過した昭和 18 年ごろから敗戦まで
のたった 2・3 年の陰惨の時代に代表されていた。その時代の中学生にとって、「天皇」とは、畏敬
以上に恐怖の名称だったろう。それは少年をして竹やりで敵兵を殺させ、少年もまた死ぬという存在
だったのである。
私ども大正 10 年代生まれの者の多くは、軍隊と言う隔離された社会にいたために、結果としては、
残された年少の人々の置かれた環境を知らずにすごした。
こんな話も聞かされた。
「戦争の末期に、私は小学生でした。小学校まで軍隊組織になったんです。校長が連隊長で、クラス
の級長は小隊長というあんばいでした。冬でもハダシで登下校させられました」
戦後 40 年たって、この話を仙台で聞かされた。話し手は、穏やかな法律学者だった。どこの国の話
しかとはじめは信じがたく、ついには耳をおおいたくなった。鍛錬などと言うようなものではなく、
加虐ではないか。
また島根県の浜田の名門中学の生徒だった友人の M 君も、
「中学生と言うより、奴隷だった。それ以後、奴隷として支配された人間がどんなものかが分かるよ
うになった。極端に言えば、いったん奴隷的に支配された人間は信ずべきではないと今でもおもって
いる」
アフリカの奴隷そして植民地と言う苦難の歴史が彼らの現代の文化文明そして現代史に払いきれない
黒い影を落としているのだろうかと思って、何か人類と言うのはなんと怖ろしい罪を犯し続けて生き
ているのだろうかと思って、考え込んでしまった。
オバマがアメリカの大統領になったのは、そんな意味でも明るい出来事なのだが、その象徴的な意味
が本当にアフリカの文化文明や社会に浸透して行くためには、これから何十年、何百年とかかるのだ
ろうか?
2010 年 1 月 19 日
昨年末にフランスの電力会社 EDF の社長に任命された、Veolia の社長 Henri Proglio が兼任のため二
社から給料をもらうことが問題になったとき、担当大臣の Christine Lagarde と本人が二社から給料
をもらうことは断じてないと否定していた。
そうしたら、実は両社から給料を受け取っていたということが発覚して問題になっている。
私は、300 年以上も前にアダム・スミスが「人間はその欲に従って動くものだ」という原則に従って
打ち立てられた経済学がそのまま残り、今もアダム・スミスが教祖様の如くあがめ祭られているのを
見ると、経済学や経済学者というものを全然信用する気になれないのだが、こうした人たち(つまり、
Christine Lagarde や Henri Proglio のことだ・・・)を見ていると、やっぱりアダム・スミスは正し
くて経済学者も正しいのかなと首を傾げてしまう。
まあ、全体主義体制だったら、人間がありのままではないかのごとく振舞わせることが可能かもしれ
ないが、民主主義国家では、ありのままの人間とうまくやってゆかなくてはならないから、こうして
なんともお粗末で意地汚い事も起こるということなのだろう。
いつかは制度が社会を変え、経済を変え、少しずつだが文化文明を変えてゆくことだろう。だが、そ
の歴史の流れには、激動や逆戻りもあるだろうし時間も必要だろう。
2010 年 1 月 11 日
ジャン・リュック・ゴダール、フランソワ・トリュッフォーらと共に、フランスの映画を世界的なら
しめたヌーベルバーグの大御所のエリック・ローマーがなくなった。
朝、髭をそりながら、ラジオを聴いていたら、昨日エリック・ローマーにあったという人が出ていて、
アナウンサーの「彼はなんと言っていましたか?」という質問に答えて、「MERCI」 だったといっ
ていた。
私も、この世を去る前日には、家族や友人に「ありがとう」といって去ってゆけるようになりたいも
のだと思う。
そんなことは「きれいごとだ」と言う人がいるかもしれないが、そうではなくて、人生や人間存在の
暗い側面や醜い側面を散々厭というほど見せつけられた上それを十分に承知したうえで、人生を愛し
人を愛して、ゲーテのように、 「それでも人生は美しかった (Pourtant la vie était belle)」 といえる
かどうかは、私達が人間としてどれだけ成長できるか、私達の人間としての器がどれだけの物かと言
うことにかかっているのだ。
2010 年 1 月 4 日
今度のインフルエンザのワクチンを政府が 9000 万単位以上購入して、使ったのは 500 万単位くらい
で、エジプトへ転売することを計画中というので、問題になっている。
厚生大臣の Roselyne Bechelot がまだ支払っていないから、契約は解除できるからということでこの
件を正当化していた。UMP の犬、 Frédéric Lefebvre にいたっては、国民を疫病の危険に冒すよりは、
こういった無駄のほうがよいというようなことを言っていた。いずれにせよ、問題の本質を見極めて、
次回への反省とするような発言ゼロなのはおかしくなってしまう。
勿論政治家など転職はなかなか出来るものではないから、己の政治生命がかかってくることとなると
自己防衛が先に出るのもやむを得ないのかもしれないが。
日本の政治家ならこの辺は、問題をぼかして逃げるのではないのかと思うのだが、その辺が文化文明
の違いで面白い。
日本だったら「屁理屈言うな。馬鹿やろー」と言われそうなことが、容認されまかり通るばかりか、
それが賛美されることではないのかとすら思えるのだ。
昔輸血用の血液の検査が十分でなくて、多くのエイズ感染者を出した事件で追い詰められた厚生大臣
が「わたしは責任はあるが罪はない (Je suis responsable mais pas coupable.) 」といったという話が
有名だ。
こういう事件を見ていると、シュバイツアーがどこかで「プロテスタント達は現実を正面から見つめ
る。これは現実克服の第一条件である。ところがラテン系の人々は理論のほうを好む」と言っていた
が、「フラン詩人はレトリックを好む」と付け加えるべきではないのだろうか?
彼らを見ていると「レトリックで万人を説得できたら、真実がどこにあるかなど重要ではない」と言
っているような印象を受ける。
2010 年 1 月 1 日
数年前から郊外で大晦日に車を破壊したりの暴動に近いことが起こり、あたりしい年を新しい希望と
決意で迎えるという雰囲気ではなくなってしまっている。
大企業のトップが私利私欲にはしり企業の社会的責任という考えが彼らの頭の中にあるのかという気
がする。他方昨日はビールを盗もうとしたホームレスをガードマンが何人もで殺してしまうという事
件が報道されていた。
それが乞食であれホームレスであれ、どんな人間も他の何物によっても代用することの出来ない独自
な価値を持っているということを、もっともっと我々一人ひとりが自覚する社会というものがいつか
は来るのだろうかと、心配になる。
モーリアックが自ら書いた墓碑銘には次のように記されているということです。
人生には意味がある。行き先がある。価値がある。一つの苦しみも無駄にならず、一粒の涙も、一滴
のちも忘れられることはない。
フロムが言っているように
誰もが「世界は自分の為に造られている」と言う権利と義務がある。個人の存在はそれ自身が目的で
あり、いわば全被造物の責任を負っているからである。
我々の社会は効率ということを植え付けられすぎて、他の生命(いのち)に対する尊敬の念を忘れ過
ぎているのではないか。
2009 年 12 月 22 日
今日はラジオで科学番組を聴いていたら、聴取者の質問に科学者がこんなことを答えていた。「先日
サテライトが衝突していましたが、これからどんどんとサテライトを打ち上げると空が一杯にはなり
ませんか?」そうしたら科学者が、こう答えていました。
「サテライトは衝突しないようにコントロールされています。先日のサテライトの衝突は、コントロ
ールの不備によるものです。今のところ空が一杯になることは考えられません」
これを聞いていて、何か首を傾げてしまった。
この科学者は、今から 50 年前には、海の中が一杯になるなどとは誰も考えうに海の中へ物を捨てて
いたし、工場からも毒物の排水を地下へ捨て、空には煙突よりもうもうと煙を出しても空が汚れるな
どとは誰も心配しなかったのだ。
地球の周りの海・地下・空から宇宙へ思考の枠が移動したら、同じエラーを平気で繰り返すなどは、
何かいくら難しいことを研究している科学者でも、思考の基本というものがかけているのかしらと不
思議な気がした。
まあ、考えることが商売の科学者でもこんなことを平気で言うとしたら、物欲に取り付かれた金融関
係者が数ヶ月のしないうちに同じ過ちを繰り返すのもやむをえないかという気にもなるのでし
た・・・
2009 年 12 月 19 日
今朝、二人のホームレスが寒さのために死んでいるのを発見されたと報道されていた。そして、
PREFECTURE が「この二人は、ホームレス・収容所へ行くのを拒否したのです」と発表していた。
世の中、正義と己の身を守るのとの両方のバランスの中で生きてゆかないといけないので、こんな形
の発表になるのも仕方がないかと思うのだが・・・しかし、ホームレスの収容所へ収容されるのを拒
否して、寒い雪の中で死ぬのを選んだホームレスが二人いたと言う事は、ホームレス収容のシステム
に問題があるということだろう。
PREFECTURE もソーシャル・ワーカーも彼らの肉体的な飢えや寒さに対して収容所を提案しても、
この二人のホームレスの心が感じていた「飢えと寒さ」に対しては無言であったのではないか?
生きるということよりも、寒さと飢えの中で死ぬのを選ぶということは、なんら希望のなくなってし
まったということではないか。Jean-François Deniau が「Il n'y a pas d'espoir dans le silence des
autres (他者の無言の中に希望はありえない)」といっている。
そうして「死」を選ぶ人たちがいるということは、我々の「他者」に対する姿勢に大きな問題がある
ということを我々は強烈に反省してみるべきではないのか?
2009 年 12 月 16 日
SARKOZY 政権で入閣してその派手な生活で話題をまいた Rachida Dati が冷や飯を食わされてヨー
ロッパ共同体の議会へ送られて、その地味な生活に対する欲求不満を電話でぶつけているところを録
音されて話題になっていた。
すべての若い人がああいった軽薄で派手な生活を夢見ているわけではないのだろうが。サッカーの選
手にせよこうした政治家にせよ、何かそんなきっかけでもないと、地味な家庭に生まれた子供達が夢
多い人生を送ることが出来ないというのはフランスの社会の悪いところだろうな。
ウオルト・ディズニーの話でこんなのがある。
お客様、これはイミテーションです。ご安心ください、ホンモノではありませんから。どうぞ、お手
にとって、握るなり、かじるなり、なんでもしてみてください。でも、これを実につける時は、堂々
と胸を張ってください。胸を張ってこれみよがしに見せればホンモノ、後ろめたそうに目をそらせば
ニセモノ、それだけのことです。だいたい、この世にホンモノのダイヤをホンモノらしく身につけら
れる人が何人いますか。何の遠慮もいりません。お客様のような方が身につければ、それだけでもう
ホンモノです。もし、『ホンモノですか?』って聞かれたらどうするかといいますと、そりゃ、こう
答えるんですよ。『これは、ほんのガラス玉です』
ディオールのオーダーメイドの洋服やショーメの宝石で外観が光っている女性よりも、身につけたガ
ラス玉がダイヤの如く光って見えるくらい品格のある女性のほうがすばらしいと思うのは私だけだろ
うか。