熊本地震

熊本地震
を経験して
今回の本震で壊れた南阿蘇村の神社の鳥居
上野消防署 平川 一彦
(熊本地方で震度7の地震)
4月14日21時26分、熊本県熊本地方を震
度7の地震が襲いました。私はそのことを職場で
知ることとなりました。翌日の15日に、私は妻
と熊本の友人の結婚式に出席する予定でした。
地震の発生を知ると同時に、熊本の両親や兄弟
の安否状況が気になりました。職場の上司の計ら
いで直ぐに両親に連絡を取ると、両親とは直ぐに
連絡は取れたのですが、弟夫婦と南阿蘇に住む祖
母とは連絡が着かず不安な当務を過ごしました。
写真は4月15日の熊本空港
(ひとり熊本へ)
翌日、友人の結婚式は中止となったものの連絡の取れない弟夫婦や祖母のことが心配で、
私は、上司の許可をもらい成田空港から、妻を東京に残してひとり熊本に向かいました。
この時点で熊本空港は一部損壊がみられるものの、使用可能でした。熊本空港に無事に到
着し、空港ロビーを見るとそれほど被害は受けていないこと、
コンビニに並ぶたくさんの食料を見て少し安心しました。
しかし、安心した気持ちは、熊本空港から実家へ向かう益
城町周辺の車窓から見える風景により、一瞬にして大きな不
安へと変わりました。倒壊家屋や断裂した道路は、私がこれ
まで見たことのない光景でしたが、幸い自宅は無事でした。
(余震がつづく中)
4月16日金曜日1時25分頃、実家の2階で寝ていた私
は、背中を両手で叩き上げられたような感覚で飛び起きまし
た。1階からは母の悲鳴が聞こえてきたので、1階に降りよ
うと立ち上がろうとしましたが、揺れで立ち上がることがで
きません。私は何もできないまま、天井が落ちてきて、この
写真は本震後の台所
まま死ぬのではと思いながら、布団の上で四つん這いの状態
で揺れが収まるのを待ちました。
揺れが収まり1階に降りると台所は、床一面に食器棚から
落ちて割れた茶碗やグラスがびっしりで、素足では歩けない
状態でした。その夜は、台所や居間を片付けている間も震度
4~5の地震が絶え間なく続き、外ではサイレンが鳴り、携
帯電話の緊急アラームが鳴り続け、精神状態は普通ではいら
れませんでした。私たち家族は、1階の居間で靴をそばに置
き、いつでも避難できるように準備し、朝まで1階の居間で
過ごすこととなりました。
(長い夜が明けて)
4月16日の朝、水は断水し、ガスは遮断され、かろうじ
て電気だけが繋がった状態でした。
写真は本震直後のコンビニ
私は近くのコンビニに食料を買いに行きました
が、すでに食料や水は何もない状態でした。食べ物
は多少備蓄が家にあり、どうにか家族3人の食べ物
は確保できましたが、水は近くの避難所に給水車が
来るのですが、2時間ほど並んで20L 程度の水し
かもらえず、家族3人が暮らすにはぎりぎりの状態
でした。その後、近所の学校で唯一水が出る蛇口が
あることを知り、そこに何度も何度も水を汲みに行
き、浴槽に半分の水と2L ペットボトル10本の水
を得る事ができました。
写真は本震後も水の出た学校の水飲み場
(本震から一日が過ぎ)
17日になって熊本市内に住む弟夫婦と南阿蘇
村に住んでいる祖母の安否確認が取れました。
幸いに弟夫婦は無事でしたが、弟が勤めていたシ
ョッピングモールが再開できないほど悲惨な状況
になっていることを知りました。ラインで送られて
きた写真を見て、もし日中に地震が発生していたら
人的被害は甚大だったろうと感じました。
余震がつづく中、私は東京に戻るため、父に福岡
写真は崩壊したショッピングモールの天井、営業
時間中であったら・・・(弟撮影)
空港(本震により熊本空港が閉鎖)まで車で送ってもらうこととなりました。途中で長崎に
住む義父と待ち合わせをして、食料や水等たくさんの支援物資を貰いました。熊本は危険な
のに、長崎からわざわざ持ってきてくれた義父の心使いに涙がこぼれました。
(結びに)
東京に無事戻り、今回の地震を体験して私が強く感じたのは、地震に対する備えの足りな
さでした。5年前に東日本大震災という未曽有の大災害が国内であったにもかかわらず、九
州でそんな大きな地震があるわけがないと、私自身も、熊本に住む家族も心のどこかで思っ
ていたように感じます。私は改めて家庭内の食料品や飲料水の備蓄、家具の転倒防止措置を
実施し、被災時の行動を家族としっかり向き合って話し合いました。