1 V 進歩としての歴史 過去に対する建設的な見解 ミスティシズム・・・歴史

V 進歩としての歴史
過去に対する建設的な見解
ミスティシズム・・・歴史の意味は歴史の外のどこかにある、
神学や終末観の領域にあるという見方
シニシズム
・・・歴史は何の意味も持っていないという見方、
あるいは、どれも甲乙のない沢山の意味をもっているという見方、
あるいは、何でも好きな意味を歴史に与えることが出来るという見方
それらに対して、
「過去に関する建設的な見解」(カーの立場)
歴史における進歩の観念
前方に一つのゴールを仮定
歴史的過程が進んで行く前方に一つのゴールを仮定することによって全く新しい要素―
目的論的歴史観―を導き入れたのは、ユダヤ教徒であり、後にはキリスト教徒でありまし
た。こうして歴史は意味と目的とを持つことになりました。
・・・歴史のゴール・・・
「歴史の終わり」
弁神論、
中世的歴史観
人間中心の世界観の復活
ルネサンス・・・・人間中心の世界とか理性優先とかいう古典的な見方を復活し、しか
も、古典的なペシミスティックは未来観に代えるにユダヤ教的キリスト教的伝統に由来す
るオプティミスティックな見方をとりました。
v近代の歴史記述の創始者である啓蒙時代の合理主義者たちは、ユダヤ教的キリスト教的
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目的論は依然として保持しておりましたが、しかし、ゴールを現世化しました。
こうして彼らは歴史的過程そのものの合理的性格を回復することが出来たのです。
歴史は、地上における人間の状態の完成というゴールに向かう進歩であるということに
なりました。
「進歩信仰」
ギボン・・・イギリス啓蒙時代の最大の歴史家・・・
「世界の各時代は、人類の真の富、
幸福、知識、美徳さえも増してきたし、今も増しつつあるという快い結論」
クライマックス・・・・イギリスの繁栄、勢力、自信が絶頂にあった瞬間
イギリスの著述家たちと歴史家たちとは進歩の崇拝におけるもっとも熱烈な信者
アクトン、ケンブリッジ近代史の計画書(1896 年)の中の言葉・・・歴史は「進歩する
科学」
・・・・歴史を書く場合の基礎となる科学的仮説として、人間の世界における進歩と
いうことを前提にしないわけには行かない・・・
ケンブリッジ近代史、最終巻(1910 年)のダンビア(カーの大学時代のチューター)
「自然資源に対する人間の力も、人類の福祉のためのその賢明な使用も、将来限りな
く増大するであろう」
・・・オプティミズムあふれる歴史観
1920 年のビュリ『進歩の観念』・・・
「すでに荒涼たる風景が支配的に・
ロシアのニコライ一世(1796-1855)・・・「進歩」という言葉を禁止
今日では(第二次世界大戦後 10 数年の時代9・・・西ヨーロッパやアメリカの哲学者・
歴史家・・・・
「進歩の仮説を論破」
「西洋の没落」
ヨーロッパの没落
バートランド・ラッセルの「強烈な階級的偏見を示す」言葉・・・・「全体として、百
年前に比べると、今日の世界はかなり自由が少ない」
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E・H・カー・・・・バートランド・ラッセルの言葉は「飛んでもない間違い」
多数者の自由の増加
少数者の自由の減少
E・H・カーが惹かれる言葉:
A・J・P・テーラー・・・・文明の没落に関するすべての議論は、「昔の大学教授は女
中を使い慣れていたのに、今では自分で食後の洗いものをしている、ということを意味す
るに過ぎない・」
・・・昔の女中出会った人たちの眼から見れば、
大学教授が洗い物をするのも進歩のシンボル
アフリカで白人の優越性が失われたことも、大英帝国擁護論者、アフリカーナ―共和
党員、金鉱株や銀行株に投資をしている人たちにとっては悩みの種。
しかし、他人たちにとっては進歩のように見えるかもしれない。
進歩と没落
社会全体か諸階級ごとのとらえ方の違い
生物的進化と社会的進歩
啓蒙時代の思想家たち・・・自然の法則と歴史の法則の同一視、進歩信仰
だが、自然の「進歩」(あるゴールへ向かって絶えず前進)とは?
ヘーゲル・・・・歴史は進歩するものと見て、進歩しない自然から区別
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ダーウィン革命・・・進化と進歩とを同一視。
歴史と同じく自然も結局は進歩するものとされる。
進化と進歩の根本的違い・・・進化の根源=生物的遺伝…何千年、何百万年の単位
歴史における進歩の根源=社会的獲得…世代単位
理性的存在としての人間の本質は、人間が過去の諸世代の経験を蓄積することによって
自分のポテンシャルな能力を発展させていくところにある。
歴史というのは、獲得された技術が世代から世代へと伝達されて行くことを通じての進
歩
歴史の終わりということ
進歩には、明確な始まりや終わりがあると考える必要はない
ヘーゲルの誤り
ヴィクトリア時代の著名なアーノルド・オブ・ラグビーのオックスフォード近代史欽定
講座教授就任講演・・・・
「現代史は、いかにも時が満ちて、もう今後に未来はないと見る
べき証拠があるように思う」・・・誤り
マルクスの予言・・・・カーの言説は理解不可能
マルクスは、階級社会がなくなって、真の人間の社会が始まる、と説いて
いる。
歴史は単に進歩の記録ではなく、
「進歩する科学」である。
歴史は二つの意味において―事件のコースとして、これらの事件の記録として―進歩す
るものである。
歴史における自由の前進に関するアクトンの叙述
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「変化ばかりで速くて進歩の遅いこの四百年間、自由が守られ、堅められ、広げられ、つ
いに理解されるに至ったのは、暴力と打ち続く悪との支配に抗して弱者がやむを得ず行っ
た集団的努力によるもものである」
アクトンは、事件のコースとしての歴史を自由に向かう進歩と考え、
この事件の記録としての歴史を自由の理解へ向かう進歩と考えました。
二つの過程は一緒に進んできたのです。
歴史の内容は、私たちの経験を通してでなければ実現され得ない
進歩と非連続性
現実の歴史・・・逆転、逸脱、中断
一直線の進歩はない…退歩の時代、後退の時代あり
「まともな人間なら、逆転も逸脱も中断もなく一直線に進んできたというような進歩を
信じたことはなかった・・・・進歩の時代があるように、退歩の時代もあることは明らか」
進歩は、時間的にも空間的にも決して連続的なものではない
ある時期に文明の前進のために指導的な役割を演じた集団―階級、国家、大陸、文明、
その他・・・・―は次の時期には同じような役割を果たさないであろう・・・・
「最近のわが没落預言者諸君や、歴史にいかなる意味も認めず、進歩は死んだと断ずる
わが懐疑論者諸君のほとんどすべてが、かつて数世代に亙って文明の前進のために、威風
堂々、指導的な決定的な役割を果たして来た大陸および階級に属しているのは意味深いこ
とであります。」
非連続性の中での進歩…担い手(大陸、階級、国家、文明、その他)
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獲得された資産の伝達
歴史的行為という点から見て、進歩の本質的内容は何か。
市民的権利を万人の上に拡大しよう
刑事訴訟法を改正しよう
人種や富の不平等を除去しよう
彼らの行為に自分の進歩の仮説を適用し、彼らの行為を進歩として解釈するのは歴史家
なのです。
サー・アイザイア・バーリン・・・
「進歩や反動という言葉は随分濫用されてきたが、空虚
な概念ではない」
・・・同意
歴史における進歩は、自然における進化とは違って、獲得された資産の伝達を基礎とす
る、これが歴史というものの前提である。
この資産は、物質的所有物と、自分の環境を支配し変更し利用する能力の両方を含んで
います。実際、二つの要素は緊密に結びつき、相互に作用しあっているものなのです。
物的資源および科学的知識の蓄積における進歩という事実を疑ったり、技術的意味にお
ける環境の支配という事実を疑う人はほとんどいないと思います。
むしろ、疑われているのは、20 世紀に入ってから私たちの社会形成の働きに、また、国
内的にしろ、国際的にしろ社会的環境の支配に、何か進歩があったか、明らな退歩さえあ
ったのではないか、という点なのです。社会的存在としての人間の進化は宿命的に技術の
進歩に遅れてきたのではないでしょうか。
こういう疑問を起こさせる兆候は確かにあります。しかし、それにもかかわらず、こ
れは間違っている、と私は思います。
進歩の信仰・・・・人間の可能性の漸次的発展を信じるという意味
「後代への義務という原理は、進歩の観念から直接に流れ出るものである」
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歴史における方向感覚
歴史における客観性という難問
歴史上の事実は、何しろ、歴史家がこれに認める意義次第で歴史上の事実になるので
すから、完全に客観的であるというのは不可能です。歴史における客観性―まだこの便宜
的な言葉を使うとしますと―というのは、事実の客観性ではなく、単に関係の客観性、つ
まり、事実と解釈との間の、過去と現在と未来との間の関係の客観性なのです。
ロビンソンの死・・・意味のある事実と私たちが無視しうる偶然的事実との区別
「唯一の絶対者は変化である」
「この歴史における方向感覚があってこそ、私たちは過去の諸事件に秩序を与え、これ
を解釈する―これが歴史家の仕事です―ことが出来るのであり、また、未来を眺めながら
現在における人間のエネルギーを解放し、これを組織する―これが政治家、経済学者、社
会改革者の仕事です―ことが出来るのです。
しかし、この過程そのものがいつでも進歩するものであり、ダイナミックなものなので
す。私たちの方向感覚も、過去に対する私たちの解釈も、私たちが進むにつれて絶えず変
化と進化とをまぬかれません。
ヘーゲルの誤り
トックヴィル・・・平等の発展を永遠の減少として説く
マルクス・・・階級のない社会
過去と未来との対話
客観性・・・・
「事実を正しく」
・・・ではなく、
「重要性の正しい基準を用いている」
ある歴史家を客観的であると呼び時、私たちは二つのことを考えている
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第一に、その歴史家が、社会と歴史とのうちに置かれた自分自身の状況からくる狭い見
方を乗り越える能力―・・・半ばは、いかに自分がこの状況に巻き込まれているかを認識
する能力、いわば、完全な客観性が不可能であることを認識する能力に依存するところの
能力―を持っているということを意味します。
第二に、その歴史家が、自分の見方を未来に投げ入れてみて、そこから、過去に対して
―その眼が、自分の直接の状況によって完全に拘束されているような歴史家が到達し得る
よりも深さも永続性も優っている洞察を獲得するという能力を意味します。
「もっと永続性のある、もっと完全性と客観性とが多い歴史を書く歴史家たち
過去および未来に対する長期的見方とでもいうべきものを持っている歴史家たち
歴史記述は進歩する科学です。と申しますのは、それが諸事件のコース―それ自身が進
歩するものですが―に対する洞察に絶えず広さと深さとを与えて行こうとするからです。
「存在」と「当為」
過去 200 年間、大半の歴史家は、歴史が進んで行くのには方向があると信じていただけで
はなく、更に、意識的であると否とを問わず、この方向が全体として正しい方向にあると
信じ、人類が劣ったものから優れたものへ、低いものから高いものへと進んで行くと信じ
ていました。歴史家はただ方向を認めたのではなく、それを裏書きしたのです。彼が過去
の研究に用いた重要性のテストは、歴史の進んで行くコースについての感覚というだけで
なく、彼自身がこのコースに道徳的責任があるという感覚なのです。
総じて歴史は行ってきたことの記録であって、行い損ねたことの記録ではありません。そ
の限りでは、歴史は否応なしに成功の物語になるのです。
R.H.トーニー・・・歴史家は「勝利を収めた諸力を前面に押し出し、これに敗れた諸力を
背後に押し退けることによって」、現存の秩序に「不可避性という外観」を与える
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「最も役に立つもの」
真理の二重性
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