10号 - Bekkoame

レオ・フェレの
言語(ラング)観
松 本 伸 夫
レオ・フェレはシャンソン作家・歌手である
ジル)
とは、レオ・フェレにとって社会的制度と
と同時に異色の前衛的な詩人であった。
「難解
して強制力を持っている言葉
(たとえば刑法)
を
な統辞論
(シンタックス)
の中に包囲されたばか
デコンストリュクシオン
(脱構築)
するどころか
げたことをまず書くことが、詩人になるために
デコンボジシオン
(崩壊)
させる人間を自由へと
は適している」と街角の大衆や娼婦たちのあや
解放することにほかならない。いかにも言葉の
しい卑語、俗語を駆使して、厳格な規則でしば
アナーキストらしい。
られてきた現代フランス語法に反逆してきた。
言語
(ラング)
は社会的産物であると同時に歴
その詩人気質はシュールレアリスムの流れをく
史的産物以外の何物でもなく、まったくの人為
Grooteclaes, Léo rêvait, non d'un simple
collage, mais d'une friction magique
みながら同じように決別したことば遊びの天才
であり、文化であり、恣意的な価値体系である
で、庶民派詩人、ジャック・プレヴェールと相
ことを見抜き、独創的な記号理論を樹立したの
entre le graphisme des mots et celui des
images. II voulait apporter une lecture poétique
通じるものがある。
は19世紀スイスの言語哲学者、フェルディナ
詩人としてのレオ・フェレの特徴はなんと
ン・ド・ソシュールである。16世紀フランス
de la photo, de la même façon qu'il avait apporti une
lecture musicale des poètes.
いっても、言葉の生み出す魔力的な共同幻想
から亡命した新教徒(ユグノー)の家系だ。ソ
(国家、社会、国民主権など)
に幻惑されずに、言
シュールはプラトンや聖書以来の伝統的言語観
Avant de partir dans la « nuit camarade », le 13
juillet 1993, Léo Ferré avait imagné ce livre.
Depuis le temps qu'il écrivait des textes sur
les photos-tableaux de son ami Hubert
語を生成する主体としての自我に目覚め、一人
である言語命名論を明確に否定した。レオ・
Quand Grooteclaes à son tour a été rattrapé par la camarde, Patrick Buisson a recueilli ce double
で孤独に生きる勇気を歌いつづけたことにある
フェレが「われわれは概念上のものである」と
testament poétique et pictural. II ne lui restait plusqu a
continuer le rêve jusqu'au bout. Ainsi est né Avec le temps,
と思う。「現代は支配の言葉が最も巧妙に内部
か「木という言葉なしに木は存在しない」
「俺に
に浸透する抑圧の武器となっている」と言った
名前がなければ、俺は存在しない」というのは、
Marie et Mathieu Ferré y ont mêlé deux purs joyaux : Tu chapiteras et La
Mauvaise Graiple, Deux titres inédits de Léo enregistrés lors de son dernier
のはサルトルだが、レオ・フェレもまた「われ
言葉以前には言葉が指し示すべき事物も普遍的
われは概念と言葉に振り回されて生きている。
な概念も存在しないという言語名称目録観の拒
spectacle public le 27 août 1992 i Saint- Florentin.
Avec le temps, (CD inclus) Léo Ferré, éd. Chêne. 300p. 245F
われわれは概念上のものであり、抽象的なもの
否なのである。
であり、リアン
(無)
なのである」
(
「アナーキー
現代思想の源泉となったソシュールの記号論
avec
レ オ・ フ ェ レ ととも に
10
1997.10.1 発行/レオ・フェレ友の会/東京都千代田区神田神保町 2-48 共栄ビル2F 関一般 RRU 内/4号分送込千円
は絶望の政治的表明である」
)
と人間が文化とし
の研究者として著名だった故丸山圭三郎氏は
て過剰なまでに生産した言葉が必然的に持つ非
『文化のフェティシズム』
(頸草書房、1984)
自然性、非実体性を暴いた。彼の詩論ともいう
の中で、
「コトバによって世界が文節され、事物
べき『亡命のテクニック』の中でも「言語の偉
(モノ、コト)
が生まれる」ということについて
大なる悲惨さとは我々に無理やり陳腐な思考様
次のように書いている。
「私たちは地上に生を
式、言葉の支配人的な考えを押しつけることで
うけた瞬間からコトバに囲まれ、コトバによっ
ある」とか「言葉、そこには君たちの悲惨があ
て育てられ、コトバを通して物を考え、コトバ
り、それによって君たちは決定的に捕らわれの
を介して他者との関係を樹立していく。あまり
身となる」といった表現でモノと一体化した言
にも身近であり無意識的なものであるが故に、
葉の暴力性が繰り返されている。
『亡命』
(エグ
反省的にコトバを考えてみることもほとんどな
い。. . . .
にするのはフィンガー・ボールではないし、優
広告
コトバとは、生理器官の本能的使用、たとえ
しさを作るのは手への口づけではない
顧客
ば肺を使っての呼吸とか、足を使っての直立歩
詩を作るのは言葉ではなく、言葉を著名にす
行とか、睡眠とか消化といった<身分け>行為
るのが詩なのだ
とは本質的に異なるものであった」
。
誰が結局絶望をでっちあげるのだろう?
太陽を打ち負かす我々の飛行機と一緒。
この
音節の数があっているかどうか数えるために
<自殺した声>を思い出す我々のテープレ
こうして人間も含めた動物に備わっている本
指の助けをかりる作家は詩人ではなく、タイピ
コーダーと一緒。
道の真ん中に停泊する我々の
能的な行動様式“身分け構造”が人間において
ストだ
魂と一緒に、
我々は虚空の淵で牛肉の包みに紐
は破壊され、意識や自我、世界観、自然などを
今日の詩人はひとつのカーストに、一党に、
をかけられていろいろな変革が通りすぎている
生み出す“言分け構造”がコトバによって生ま
あるいは<パリの名士たち>に所属しなければ
のを見守っている
れたという。「そもそも<言分け構造>自体が
ならない
道徳の中にはわずらわしいものがあることを
コトバの思考による予見と計画によって作られ
降伏しない詩人は片端の人間 詩は群衆の叫
た道具の有用性という、<身分け構造>内の欲
び声。それは音楽のように聴かれなければなら
徳である
求ではない欲望を基盤にカテゴリー化した非自
ない。単に読まれるだけ、活字の中に閉じ込め
もっともうつくしい歌は権利要求
(ルヴァン
然な世界であった」
。そして言葉の指し示す指
られるだけが運命のあらゆる詩には終わりがな
ディカシオン)
の歌である
決して忘れないでくれ、
それはいつも他者の道
向対象
(レフェラン)
が恣意的にコード化され、
い。詩の性別が決まるのは、声の弦と一緒のと
詩句は世間
(レ・ポピュラシオン)
の頭の中で
物象化し、価値観の絶対化、硬直化をひきおこ
きでヴァイオリンの性別が決まるのがそれに触
愛情交換しなければならない。
詩や音楽の学校
し、実践レベルでの超越的なノルム
(規範)
や義
れる弓と一緒のときとまったく同じだ
では学べない。人は喧嘩するのだ!
務となって拘束力が生じ、秩序を生み、制度化
入党は時代の印。われわれの時代で丸く考え
するという。「コトから記号への道を辿った文
る人間は曲がった考えの持ち主 文学界はいま
化現象はついに<記号から物神>と化す。記号
なお社会 共有の考えは共通の考えだ
であることすらが隠蔽されて関係は物化され
<<文化のフェティシズム>>が完成されるの
である」
。
レオ・フェレの物と言葉の画一的な結合関係
モーツアルトは孤独に死に、共同墓穴へお供
レオ・フェレのサイン
前文』
『
に対する軽蔑は、実は物神
(フェティッシュ)
と
したのは一匹の犬と幽霊たち
ルノワールの指はリューマチで鉤型に曲がっ
ていた
ラヴェルの腫瘍は彼から一気にすべての音楽
化してわれわれの心理を支配している恣意的言
を吸い取った
語
(ランガージュ)
体系との壮絶な闘いであるこ
現代詩はもはや歌わない.
.
.
.はいつくばっ
べ一トーヴェンは耳が聞こえなかった
とを見逃してはならないと思う。
『詩人よ、証明
ている
ベラ・バルトークを埋葬するためには募金が
書を!』というシャンソンでシュールレアリス
にもかかわらず差別
(ディスタンクシオン)
の
必要だった
ムの“法王”といわれたアンドレ・ブルトンの
特権をもっている.
..
.評判の悪い言葉とは付
リュトブフは飢えていた
怒りを買い、この詩作品をどこでも出版しない
き合わない.
.
.
.それらを無視するのだ
ヴィョンは食べるために盗みを働いた
という前文を求められたレオ・フェレは、逆に
手袋でしか言葉をつかまない。<生理>より
ブルトン並びに現代詩人たちを揶揄するような
も<月のもの>を選ぶ。医学的な用語は実験室
芸術は人体解剖室ではない
『前文』
(プレファス)
を作品として発表した。こ
や薬局方から出る必要はないとますます繰り返
光は墓の上でしか作られない
される
われわれは華やかな時代を生きている そし
こにはレオ・フェレの言語観が率直に表明され
ているので、全文を訳出しておく。
学校のスノビズムは、詩においては、技術的、
すべての人は彼らをばかにする
て華やかな何も持っていない
医学的、庶民的、俗語的などんなものであれ、
音楽は髭そり用石鹸のように販売されている
決められたある言葉しか使わず、その他のもの
絶望でさえも売るために、残されているのは
を詩から奪ってしまうことにあるのだが、これ
その常套表現を見つけ出すだけ
は俺にフィンガー・ボールや手への口づけとい
すべてが用意されている:資本
う言葉の威力を考えさせてくれる 手をきれい
(完)
レオ・フェレの
亡命のテクニック
(『蓄音機の遺書』巻頭エッセイより)
松 本 伸 夫
訳
言語
(ランガージュ)
の偉大なる悲惨さとは、
は無であるが故にだ。透視術のこの貧弱な冒険
母音の中に色彩を見いだしていたランボーが示
(ブズ
の中にこそ他者を必要とする我々の欲求
してくれたように、我々に無理やり陳腐な思考
ワン)
の原因を探らなければならないかもしれ
様式、
言葉
(モ)
の支配人的な考えを押しつける
ないのだ。我々は己自身のなかに自分を見てい
ことである。<俺は母音に“匂い”を見いだし
る。多かれ少なかれ、いつも群衆の中、人けの
た>ということは、もう一度ランボー風に言え
ない道路の中、見ず知らずの人の中に我々は自
ば、Aはエナメル、Bはミント、Iは石炭、O
分の身代わりを眺めているのだ。俺とすれ違
は干し草、Uはエ一テルとなるだろう。では子
い、声を掛ける淫売婦にとって俺は、彼女の次
音は?それらには浮き彫りや材料が見い出せる
の毛皮の一部、クロワッサン付きの一杯のミル
だろう。Bは脂ぎった、Cは透き通るような、
ク・コーヒー、ガス代でない他のものだとした
Dは骨ばった、Fは聖書の紙、あるいは沢山な
ら、いったい何だ。彼女が俺を見るとき、俺は
ある日ある時、
生き物を厄介ばらいにしたい
心の範囲への亡命である瞑想のこの孤独をよく
音、鳥の頻度、柔らかい低音、静かな中音。あ
夜そのものであり、俺は彼女の領域の中にい
という欲望がわれわれをとらえるのは、彼らを
その本当の光の下で見つめ過ぎるからである。
明るさとは、作られた亡命、脱出扉、知識の更
知っている。幾人かの人々の眼差しの後ろに俺
らゆる感覚を通過したアルファベット。ラン
る。さもなければ俺は彼女だ。彼女が彼女と寝
は、なにものをも歪めないこの沈黙をしばしば
ボーはそれを予見していたのだ。だから我々は
る。俺が彼女に彼女の形而上学
(メタフィジッ
見たし、ゆがめるという動詞の中には完全に亡
おそらくユニークな文学、すなわち言葉の
ク)
を作ってやると、彼女はついに小刻みに歩
衣室である。
それはまたわれわれを孤独へ導く
命者であることをいつでも邪魔しない社会主義
ない文学を垣間見ることができるかもしれな
く絶望した女の小さな形而上学と寝る. . . .。彼
病いでもある。
的=ブルジョワ的な決定論のような他のものが
い。食べられ、息をし、見たり、触ったり、聞
女は不吉なことに自分の臓物煮しか作らない。
俺は人間たちといつも暮らしてきた。
今日そ
ある。
いたりできるかもしれない文学。そこから本当
自分の手で、肉体で働く人々は自分の身代わり
のことが一番の心配の種であり、
両足で草を踏
もし俺が眺めれば、一人で居残り、一つのイ
の孤独が始まるかもしれず、そのためにわれわ
など探さない。他人と化したいのは明晰な人と
みながら一人で歩くとき、
俺には軍歌が聞こえ
マージュを教え、俺は知覚の機械となる。もし
れは生きるのだ。すなわち原初的な理解方法で
詩人である。なぜなら亡命者だからだ。だから
るか、薔薇の幽霊かニジンスキーの鳥の務め
俺が凝視すれば、俺は凝視された、つまり眺め
単純化された問題を前に最大限生きること。絵
彼らは出ていくことを繰り返すのだ。
が見えてくる。ワナが考案されても、それは覚
られた物体の中にいる。俺はもはや眼差しの中
空事を言わずに噴水の中の自分を眺めることが
出発は死の繰り返しである。ホームの端です
えられる。いまの俺のワナの中で世間
(ポピュ
にはおらず、中心が変わったのだ。物体が俺を
出来なければならない。そうでなければ俺は絵
でに列車が速く走っており、ハンカチの小旗を
ラシオン)
とともに生きている。なぜなら俺は
見るのだ。俺は一個の石であり、石もて追われ
空事を言っているのだ。
振っている人が見えなくなるとき、魂の破壊の
世間になったからだ。
間もなく短く刈りあげら
る俺の亡命生活で、俺は私刑のおもちゃか武器
鏡の中の亡命では、絵空事を言う。俺は二重
ような何かが起こり、比喩的な死である不在の
れる羊毛の儀式、
喉をかき切られる断末魔の恐
になると宣告する人の思いのままである。我々
の疑問であるし、二重の絶望である。俺はナル
昏睡に陥る。亡命者の埋葬のとき、亡命者は前
怖、
プロレタリアの毛皮、
労働組合の抗議デモ、
は決定的に眺める人の逸楽のために動かされる
シスの伝説と化す。俺は自分を追いかけ、自分
を歩く。それは立ったままの、食べ物を与えら
暗号化されたカトリックの四旬節に俺がすぐ同
さまざまな物体
(オブジェ)
なのだ。
を養子にする。自分を熱愛して、自死する。ヴァ
れた、審議中の死である。俺は港や駅といった
化するためには、
一人の羊飼いが羊の群れとと
だれかが旅より速く行こうとすれば、我々は
レリーを離れると、俺は髪を整え、こめかみを
空
(néant)
の待合が好きじゃない。出発するとい
もに通りすぎるだけで十分である。似たような
ぶらぶら歩きの癖で旅を終えてしまっているだ
調べ、ランプを消して、鏡の中と同じようにそ
うことは想像
(イマジナシオン)
に属することな
連想の中には、我々を支配している特定の考え
ろう。自分のテーブルに座ったまま、俺はまだ
こでフェルメール風に夜を見る。夜のなかの油
のだ。
の不可逆的なこのような運動があって、それは
文学的な古代教会の前庭
(アトリウム)
の掘割で
絵は存在しない。もちろん鏡も俺自身もだ。俺
君が俺の一万キロのところにいて、君が俺を
全体主義的な展開をみせて、我々でないもの、
ぶらぶら歩きをする。そこで俺の身体はぼろぼ
が必要とするのは昼の光であり、それは自分の
捨て、もう愛していないとき、俺は君が生きて
我々の言葉でない語=観念
(モ=パンセ)
に我々
ろになり、動詞の無意味さと知識の脆弱さがア
存在を隠し、俺に一つの贈り物、動く写真を映
いることを知り、君を愛していることがいいの
を従わせる。
また印欧暦にまでさかのぼるとと
トリウムを競い合っている奉献の中で、俺は悦
し出してくれる。その中で俺は俺を眺めている
か、それとも君は墓場に横たわっていて、俺が
もに、
いまだに我々がその受託者である野蛮な
に入るのが常だった。俺が求めているのは、眼
他者の存在を想像するのだ。もし俺が反省とい
すぐそばのホテルに泊まって君に花を捧げた
精神活動を維持している──それが我々の自由
も手も、自分を縛りつける何もない静かな亡命
う願望のためだけに、この創造の水へと自分を
り、故人の君の状態の定義、つまり腐った沈黙
意思であると願わくば信じられるかぎりにおい
であり、靴のように紐で結ばれた俺の良心は単
放ち、この変身の底へと旅立つ自分を見るとし
を前にさえしながら、モノに語りかけるように
て──押しつけられた起源にわれわれを従わせ
語
(ヴォキャビュレール)
の中を歩く。俺が求め
たら、俺の人間としての時間は停止し、そのた
君におしゃべりすることの方のどちらがいいだ
るのである。
ているのはイマージュも運動も言葉さえもない
めに平板な時間、絶対的な亡命の時間が始まる
ろうか。俺は一万キロ離れた君を知っている方
亡命は反省の一形態である。
哲学者たちは良
一つの考え
(パンセ)
なのだ。
だろう。つまり俺は無
(RIEN)
を見るだろう。俺
を選ぶ。君は俺から確かにやっと抜け出
し、いざこざを作るために俺を騙したが、俺の
ギャンとよぶこと、それこそ拒否が伝達された
いるのだ。こんな風に一本の指で触れば発射す
シー)
の家のあらゆるカギを握りしめている。
方はお前にくやしい思いをさせるために居残
ことによるものだ。芸術。自由とは一種の断念
る。ちょうど二本の指で触れば始動する活字の
俺は唯一だとはいっていない。俺はそんなこ
る。君が俺にみせた亡命は俺をお前の許に亡命
である。自由が教えられるのは四角い、閉じた
ように。そいつにはほんのちょっと喉元へ一本
とを誰にも書いていない。手紙でことを運ぶの
させ、お前の記憶という人の住まない片隅へ訪
部屋の中でだ。それは純粋な否定
(ネガシオン)
の指で十分なのだ。そいつは死ぬほど待ちくた
は善人ぶった人のやること。俺は目標であり、
問させ、俺の卵をそこに産みつける理由の一つ
からくる。我々が四季を通じて転々としている
びれている。アンドレは古い、大変老けた拳銃
水薬を乞うような病人にはなりたくない。手紙
である。俺は思い出となったのだ。お前が俺を
間もしも何人かの愚か者が、あらゆる明証性
なのだ。そして<群衆めがけて偶然に>発射さ
はちょっと募金くさい。だが俺は郵便物は好き
フィルムの拡大透視器にかけると、お前の見る
(エヴィダンス)
に対してノンと言わなかったと
れることを待ち望んでいる。拳銃としての人生
だ。郵便配達夫と呼ばれる俺にとっては神話的
ものは俺の偽物、前夜の俺である。亡命者たち
したら、我々はまだ自分の木の中にいることに
を生きたいし、手動式存在であること、始末を
な人物の仲介で俺に水薬を求めるなら進んで与
は記憶の中で生きることはない。彼らは明日を
なる。明証性は権力の唯一の関心事だ。太陽は
つけられることを欲している。そうでなけれ
える。郵便配達夫は俺に神話をもたらしてくれ
生きる。
東から昇るが、本当かな?肯定する君たちに俺
ば、単なる金属の塊にすぎないではないか。俺
る。それは俺が鏡の中の他者をおどろかせる
中国へ亡命するためには本当の中国人のいる
は興味を持たない。オレ、俺はいつも反対
(コン
はそいつのためにポケットとかケースのことを
ような宿題帳のコルセットの中への発話(パ
中国でないことが必要であろう。俺に必要なの
ドル)
だ。
考えてやる。そいつには暑くてたまらない布地
ロール)
だ。手紙は俺にとってはいつも悲劇で
は特別に整備されたある中国なのだ。俺にとっ
俺のはっきりした孤独のなかでの目標は非
あるいは革との触れ合いが気持ちいいに違いな
ある。俺は手紙に才能は求めない──シェクス
ての中国はよく俺の家から数メートルのところ
ユークリッド的な道徳である。慈悲から他への
いからだ。一般的に拳銃というやつは冷たく、
ピアはほとんど手紙を書いていない──しかし
にある。シャンゼリゼ、処女林、月、単純過去
最短の道は真っ直ぐではなく、聖なる回り道で
文学のなかでは死ぬほど冷たい。文学とはイン
それは伝記的であれ、文学的であれ人々の魂や
のどれも俺を驚かせない。この二次的な亡命、
ある。俺にとって重要なことは、君のウイに対
ポテンツの拳銃だ。
飢えをインクで赤裸々にすることである。手紙
人が住んでいる孤独、不条理
(ABSURDE)
のな
して俺には手袋のように似合ってそうなノンを
それが話し言葉
(パロール)
であるかぎり、制
は私的な落書き、強制された書く行為
(エクリ
か感情的な常住も退屈だ。俺が言っているのは
対立させることなのだ。必要なのはノンのサイ
御されていないパロールほど俺を苛立たせるも
チュール)
、演出である。サティがやったように
形而上的な退屈であって、退屈を引き起こした
ズである。俺の拒否は俺のものであって、ほか
のはない。自動口述なのか。まだごまかしの効
郵便物を開封せず、毎日々々無傷で沈黙という
欠乏が満たされることによって軽減されるよう
の奴と分け合うことはできない。俺の芸術家肌
く深い録音機には油断大敵。無意識それ自身ま
大型トランクの中に積み重ねておくこと。無関
なそんなものではない。家庭的な退屈の中に見
が君を説得するよう仕向けているにちがいない
だ制御の手段を備えている。そいつは自前のデ
心の天才。無関心は我々人間嫌いにとっての松
えるのは、取り合わせのまずい経済的交換の増
と、お思いだろう。だが俺の名前を君の電話番
カを抱えている。そいつを娼家とみなしたフロ
葉杖だ。
大でしかない。それが俺の上で溶ければ、タバ
号帳に記入する気なんどまったく持ち合わせて
イドまでもっている。娼家とは欲動
(リビド)
の
芸術作品は唯一だ。俺が太陽のシンバルと一
コを買いに出掛けるし、それが時間に対して俺
いない。俺は君の知り合いなんかに属していな
家、亡命者たちの聖なる隠れ家 . . . .。
緒に眺めている風景は、枝葉の手をあらゆる方
を免疫にしてくれる。タバコ?タバコに対して
い。俺が自分と出会うとき、自分を避ける。そ
俺が君を本当に見捨てるのは、君を見放して
向に向け、俺の知らない幾何学的な場所を指し
話かけるすべが必要なのだ。タバコは、刑務所
れほど俺は君似だ。反抗でさえもはや時代遅
も俺にはなんの意味もない日だけだろう。そし
示しているようにも見える立木の中にあるが、
の中あるいは真っ白なべ一ジの前では一人の恋
れだと思う。反抗は都市国家へ戻る方法であ
てそれがむずかしいことなのだ。涙あり、スー
それは正統な芸術作品だ。俺の眼の作品だ。そ
人である。
る。それは部族的な倫理、防衛的な武器である。
ツケースあり、イギリス人の恐怖を意味し、
れは絶対に伝達できないものなのだ。分担する
哲学者たちは一つの記号体系
(コード)
を持っ
好意の否定である。 反抗は──絶望と同じ
我々の暗い気持ちに力点を置く英語固有のスプ
芸術作品、何千部と普及する本、ろうの中に蓄
ている。それは亡命者のような彼らの窮乏をよ
ように──批判の最高の型であるが、沈黙の
リーン
(SPLEEN)
があるから。
涙は分かちあえ、
えられる音楽、このような芸術作品は一種の委
りよく覆い隠すためである。入庫線としての瞑
──テレビで見た幾何学者の隠語では無定形な
スーツケースは交換しあい、空にして、助け合
譲である。人はいつも誰かの、あるいは何かの
想もまた一つの袋小路だ。瞑想の果てには留め
──批判である。そのとおり無定形で怪物的だ
える。スプリーンはたった一人で霧の十字架の
委譲である。シャルトル大聖堂はステンドグラ
金があって、それが浮世に戻ったり、入ったり
から俺はほとんど連れ歩かないのだ。
ように担がなければならない。イエスもやった
スを貫き、我々に色彩の歴史を語ってくれる光
する欲望
(デシール)
である。偉大な孤独なる人
俺は机の上に君の美しい<白髪の拳銃>アン
が無駄だった。父なる神はそれを承知だった。
への委譲だ。シャルトルではドームの反響の中
は、自分の仕事机に住みついているありとあら
ドレを置いた。それは見事なものだ。まだお役
キリストは自分が堂々と家へ帰ることができる
に沈黙がすでに記されている。シャルトルは毎
ゆる世代の拒否
(ルフユ)
を身にまとっており、
にたつことがあると思うかい。それはおとなし
だろうということを知っていた。俺自身の家は
秒ごとに変化する。というのも太陽とその仲間
瞑想するとき、浮世へ戻ることなどない。拒否
い動物のように静かにそこにあって、なにか食
対応するもののないある国の、ふさわしい広さ
である影と光を作っている糸巻のような同一標
の中で、人は耳をそばだて、眼を開き、そして
べるために闘いを待っているのだ。俺のランプ
の中にあり、 法律も宗教も形而上学も
準時間帯が訪問の時間を繰り出すからだ。それ
拒否の中にとどまる。芸術作品が生成されるの
の光の下でとぐろを巻いているこの拳銃は奇妙
ないが、当然のことながら反法律はあって、
は俺が見た風景にちょっぴり似ている。正面の
は否定のなかである。色彩をこばみ、薄紫色
だ。それはちょうど俺の電動タイプライターの
すべてのことがこのアンチの中でよりよくな
窓ガラスに眼作りが終わっていない十三世紀に
(モーヴ)
に見えないものに薄紫色をおき、ゴー
後ろにあって、そいつも電動式になりたがって
るのだ。その国で俺はアナーキー(アナル
時間、分ごとにシャルトルを作り出すのは眼で
ある。古色蒼然としたシャルトル。輝かしい変
人々のためにはアイドルやファンを共犯者にす
ものが付いた田舎風ななにかの仕事だ。そこで
その画像が制御不能になって以来、画家は幽霊
貌をとげた石たちの亡命。
る移動である。ある人の比喩に富んだ描写され
は孤独が予見され、合理的で外部からも見え、
と連帯するようになった。アルルで気が狂った
すべての子供たちは俺の中でさまざまなシン
た怒りは、他の人の潜在的な文章にされない怒
収穫のためには機能的である。
人は見ることも
ヴァン・ゴッホは、その配管から出るとき、自
フォニーを歌っていた。それは底から、反対側
りと混じり合う。それは忠誠の鎖となり、その
できるだろう。フランソワ・モーリアックが
分の耳を切る。ヒマワリと淫売宿の間には女仲
から立ち上がってくるが、すぐに忘れられ、一
最後の鎖の輪は、第一級の偉大な人の死後の亡
ボールペンやインクペン、エンピツで書くこと
介人がいる。それは恍惚の姉妹、パレットだ。そ
種のくだらない趣に終わってしまうことを望ん
命地、銅板に刻まれた亡命地、パンテオンに結
も知られるだろう。腕を延ばしての道具の使い
れだから画家は無限の宇宙に生きている。彼が
でいる。束の間の考えには否定的な趣がある。
びついている。ユゴーは首の先まで人間の仲間
方、力のある着想をばらまく人指し指、隠喩の
見るものは奇妙なものだ。イーゼルの亡命地で
そいつは別の方角からやってくる。ただものを
だった。
抽出を支える中指、きっちりとした文法の守り
彼が見ていると思っていること、それは完全に
作ることにおいて、芸術家が市民に戻るのは発
作家は群衆の人間である。現在の哲学にいわ
手である左の親指の使い方が分かるだろう。冒
世界から引っ込められてしまうのだ。美術史の
表することによってである。芸術とは結局すべ
せれば、作家は社会参加する。それは一方的に
険家のマルローが座ったまま冒険する中でスペ
給付留学生がそれを人質にとって動産価値に仕
てのテーブルの上に、そしてすぐほかの魔法を
コミットした人である。彼はサインはするが、
インでの傷跡の上に小指を置くのも見られるだ
上げるまで。悲劇から経済分野までの間には、
探す男たちの脂肪の中に美を置くことに尽き
不安や寛大さについて考える不眠症の夜の相手
ろう。想像のテクニシャンたちがキレたり、起
涙の時間と画家たちの一人住まいに侵入する美
る。五十年の間でべートーヴェンが聴かれるの
が誰か知らないだろう。至上命令にはいらだ
き上がったり、欠伸したり、電話の騒音に応答
の商人たちの積極的な反省だけしかない。
は、センセーショナルな新聞にルポルタージュ
つ。俺は誰のところでも誰のためでも社会参加
したり、仕事にもどったり、プルーストが現代
レンブラントのいくつかの版画の絹のような
が載ったあとにすぎない。それは彼の難聴とそ
はお断りだ。俺は政治的癒着の伴った煽動的で
文学の中にしつこく存在していることに悪態を
光の中で、ルドンの輝いた読書する人の中で、
の甥の忘恩行為に関するものである。それは聞
いらいらする通俗性のアンガージュマンを見い
ついたりするのが見えるだろう。アンガージュ
ブレダンのサマリア人のめちゃくちゃにたまっ
くに耐えないものであろうし、
電気的に読まれ
だす。今日の作家はバスの中で書く。彼が存在
マンとは、ちょっとしたタタウイン
(チュニジ
た散らかし物の中で、メリオンの中断された
るであろう。人はもはやすでに音楽を聴かず
するのは、彼のボスのところと犠牲者たる読者
アの辺境の町=訳者注)
になるだろう。
ノートルダム聖堂の初期の状態の中で、画家は
に、電力会社の一部門に読ませるままにしてお
のところだ。読者はもはやボードレールが言っ
かれる。美しい。売春はもはや町角の問題では
ているような偽善者ではなく、はやりの出版社
首の先まで人間の仲間の詩人とは?ロダン、
が画家=版画家を二級の亡命者、紙の中、横糸
ない。それは美術の問題なのだ。芸術関係の
のショーウインドーにそそられ、無秩序になっ
彼は手の先まで人間の仲間だった。彫刻とは対
の中、練り粉の底の中への亡命者に仕立て上げ
八方美人どもが訪問を受けなければならなくな
た顧客であり、広告映画の獲物なのだ。ウサギ
話である。彫刻家はけっして一人ではない。彫
るのだ。こうした画家は美術館の中では、そん
りそうである。死者にもかかわらず、ほとんど
が狩り出されるように読者が狩り出され、作家
作るために触る行為は彼をあ
刻家はこねるし、
なに見られない。恐怖感を与えるから。彼らは
相互訪問はしない。だからなんの価値もないの
は一方では獲物を狩り出す勢子たち、つまり飢
らゆる本物の孤独から免れさせる。ベルニーニ
透かし模様に似ている。
だ。
えたり脂ぎったりしている犬の側にいるととも
が聖女テレサの恍惚を作っているとき、人々
自発的な亡命の論法によって俺はむりやり自
文学芸術はじかに消費者の下にある。それは
に、いつも道路に面したショーウインドーの反
はそれが彼にとってどれだけの価値があるの
殺の境にまで連れて行かれるかもしれないだろ
象牙の塔とキャフェ・ド・フロールの間の妥協
対側の口だ。他者を積み重ねた文化をクリーニ
か、どれだけのお金になるのか話題にする。性
う。だがカミュ以来自殺のことはもう話題にさ
の亡命地だ。ジャージー島を目的地として亡命
ング店
(PRESSING)に出し、繕い、アイロンを
愛芸術である彫刻が企むのは、二人でだ。形態、
れない。それは哲学的な唯一の問題ではない。
した取るに足らない神秘主義者のユゴーは物を
かけ、圧縮する。むりやり君のポケットに押し
太陽の昇り、沈みに従う輪踊りの道、ひとつの
裏返しの犯罪以外の何ものでもない。ネガティ
書いていた。その亡命は俺に鳥の亡命を考えさ
込む。知識は百科全書化される。作家は厩舎で
アイデアを審美眼にゆだねる大理石のシーツ、
ブな罪。事前に俺に起こる悔恨の情は雑報の前
せてくれる。鳥たちは温度の快適さを求めて
トレーニングのために呼び出されるのを待つ。
一度も針を通したことのない衣装の重み、何千
の情報と同様、俺にはクリーニングの間違った
行ったり、帰ったりする。野性の鵞鳥である
沈黙が作家を呼び出す。経済的確率の沈黙。そ
分の一秒目を探す映画のショットのように、静
行動を前に借りをかえすようなものだ。自殺と
ジャージー島のユゴーは、流れの上で、亡命芸
れは一種音の出る偶然だが、作家の耳をそばだ
止した喜びで陰影をつける相貌、すべてこうし
は放送、文字、決して読まないだろう明日の新
政治家になるロマンチックな自己超克の
術家、
たせる。
たものは、裏切られた材料の饒舌に似ており、
聞付きの演出された亡命だ。 光の中にいれば
中で、我慢せずに叫び続けた。自分は意気消沈
肥育中に詩人は新しい言語
(ランガージュ)
を
この材料は生命を得て光の下で動き、しゃべる
いるほど、俺は闇を演じさせたくなくなる。俺
した人、負けた人、根無し草になった人、可能
創造する。音楽家も同じだ。まもなくその芸術
のだ。彫刻家は父であると同時に母でもある。
は待つ。
な日々を待ちながらポケットの奥で拳の手入れ
家は毎朝ある時間に、彼の地位と悦楽に応じて
粘土、大理石、石。彫刻家は母性の中で生きる。
自分のダイナマイトを抱いて飛び下りるテロ
をしている人、そんな人々から可愛がられる子
配置された事務所で仕事をするよう依頼される
人間性を興奮させる。広がりを作り、愛を作り、
リストの自殺やピンを抜いた爆弾を目標に仕掛
昼、暗闇で作られた昼の神秘を少し伝え、これ
供なんだと。詩人たちが自分たちの出発を教義
だろう。噴水やチェス遊び、遺骨のアイデアを
人に触れさせる。いろいろ望む人は一人ではな
けるカミカゼ
(特攻隊)
の自殺はミュージック・
(ドグマ)
にすることは有益である。いつも何人
吸い込む電気灰皿、模造品はすでに芸術に属し
い。
ホールの出し物だと思う。大きな飛び降りを前
かの新参者が見つかる。出発の宗教は、居残る
ているから模造キノコの生えたプール、そんな
画家、彼は配管の中で生きている。写真術と
にしての陶酔、火薬樽の上への究極の亡命、こ
れは犯罪のバラエティ・ショーの一部で
のは拳、黒い傘の骨のような花形、米の袋の力
はちぐはぐなのだ。
そかな絵であるから、俺は目録に入れるのであ
あり、俺は自殺を信じない。信じるのはある種
によるしかないと俺は思う。俺を傷つけるもの
スミレの花があくびし、
ボードレールの厚い
り、また翻訳はとてもむずかしい。風景を翻訳
の悲しみのほかにない。それは多角形の巣をは
は何もない。悪者にとってはすべて耳が聞こえ
雲が気象学者の誰も絶対に正確に定義できない
しようとしたら、俺は自分の首を斬らなければ
る軌道グモがシジフォスのように底無しのガー
ず、妥協の客観性、反法律、子供の石けり遊び。
だろう秘密の気象学の方へ沈んでいくとき、
退
ならないだろう。翻訳したとしてもなにもな
ゼの織物の樽に水を汲む刑を受けたダナイオス
われわれは百歳であり、一万世紀であり、男性
屈の果てのこの期待に陶酔において匹敵するも
かっただろう。
の娘たちと同様、夜毎に夜の巣をいっぱい張っ
用武具から小石投げ、日本の衝立まで持ってい
のはなにもない。すべてはすべての中にある。
無だ。それは重々しさのない哲学を実践す
た霧の朝のような悲しみ。ちょっと片目をあけ
る。なぜドーム型天井なのか。俺はゴシック様
俺の魂もまた栗を襲う無秩序に似て、残りか
る言葉だ。人から軽蔑される唯一のもの。無の
た自然の不安の孤独、密集しながら追い詰めら
式の円柱に台輪のついた孤独で死ぬ。 悲惨な
す、二番草、既知感
(デジャ・フエ)
の境にある。
局面にこそ法律はその姿を隠している。俺が夢
れた鳥たちの希望に暖かく包まれた木々、ロマ
こと!
俺は決して出発しないからいつも遅れて到着す
見るのは後退した犯罪学。無犯罪。否定的な犯
ンチックで、一番近い空に人類の最初の印を描
いつか俺はなぜ書くか君に語るだろう。詩情
る。ところで俺はほかの立場で生きている。俺
罪学が俺にはいままで見たこともないような陰
く煙、花崗岩のようなごつごつした無意味さの
はいつも脚色されるものだ。左官のように手に
はとてもよく自分にあった接尾辞の助けをかり
画を見せてくれるのに役立つだろう。俺が考え
中でいつも繰り返される石、こうしたものすべ
鏝
(こて)
を持ち、スープを前に夕方になると滲
て語尾変化するのだ。俺は閉じた言語(ラン
ているのはマイナスの写真。
てがあきることなく事物、行為、全てのものの
みだす汗をかいてそこにいるだけで十分だ。君
ガージュ)
なのだ。言葉、そこには君たちの悲
このように表現された詩情──欠乏の中で─
死へと俺を引きずっていく。唯一亡命のテク
は左官、俺は俺のインスピレーションという
惨があり、
それによって君たちは決定的に捕ら
─はあらゆる不条理なものを再発明するよう強
ニックを知っている死とは崩壊
(デコンポジシ
砂漠の中で飢えて大声で叫びながら、ペン先に
われの身となる。
愚か者への罠の向こうにはど
制することになるかもしれない。<木でない>
オン)
である。
何トンものセメントを持った左官だ。俺には疑
んな希望も、開放もない。俺は、不良
(カナイ
木、命名されていない木、こういう言い方をす
(モ)
、ここに敵がいる。木とい
言葉
り深い詩の女神がいる。彼女は常緑の栗の木の
ユ)
の仲間入りを絶対しないためには事件なら
れば、女性のセックスは2546という数字と
う言葉なしに木は存在しない。俺が命名しなけ
麓、メルセデスに積んだカラス麦、俺の寒そう
びに刑法の知識が必要だということに賛同す
等価だ。俺の家では樫の木に名前を付けてい
ればならないもの以外には何も存在しないの
な水筒から乾いた数分間の長きに渡って彼女が
る。
お碗の口の記憶の中に刻まれたこのような
る。それらの木を一区画に押し込める。ドング
だ。11月のこちこちになった朝の向こうに俺
汲み上げる清水を持っているのだ。にもかかわ
記念碑は美しいではないか!
リはもうなくならない。樫の木たちは、獣の歯
はリスのマーモットたちの夏を思う。ぐったり
らず俺はのらくらなのだ。
政治的パンフレットで詩情は作れない。
それ
の下ですべてのドングリがかみ砕かれるのを感
した俺の魂の霧氷の日だまりの中で砂漠以上に
俺が尊ぶのは、ある種の無秩序、馬鹿みたい
ができるのは使い慣れ、
積極的な好みのある動
じながら、獣の鼻面がだれのものか分からない
よく汗をかく。俺の魂、君の魂。もし俺が名付
な寄せ集めに面して下手に開いたドアであり、
詞に対してよく開かれた口である。
ような匿名性の中ではもう存在しないことにつ
けることができなければ、弱腰になる。涙?ど
そこでは古くて、退屈で赤茶けた本のぼろぼろ
俺が非人間化し、隠されたもの、制御不能に
いて俺に文句を言う。そのときから彼らはアイ
うして涙なのだ。俺は嘴のある隠喩として生ま
の見返しペ一ジ、一対のズボン吊り、古物商で
なったものの犯罪へよじのぼるのは、文体、な
デンティティー(イダンティテ、同一性)に悩
れたのだ。俺の驚きがすぐに一幕ないし二幕の
目的もなく買った音の悪いヴァイオリン・ケー
いしそれが宿っているところのものによってで
む。俺に名前がなければ、俺は存在しない。社
ドラマに脚色されたとき以外俺を驚かしたこと
ス、薬品のチューブ、ラップ包装、こういった
ある。
文体とは結局のところ追い詰められた疑
会生活は、人体解剖
(アントロポメトリ)
に属す
は何もなかった。子供の俺は母親の乳房に形而
ものが、ぎこちなく、いちゃついている。俺が
問の個性なのだ。悲嘆にくれた影こそが、認め
るのである。
上学を感じた。ほかの者ならお乳について言う
尊ぶのは、蚊やハエが襲い、爪で引っ掻いた血
られたもの、既製品、流行の象徴主義の太陽の
のだろうが. . . .。この主要なジュースについて
管が花盛りの沼だ。家や沼の乱雑状態の中で、
下でとぐろを巻こうとあくせくしているのだ。
話し合おう。初めは牛乳だったのだ。俺は幽霊、
俺は自己疎外を計画しているのだ。愚かにも次
文体?それが鼻の先を見せるたびごとに、
烏合
ソース、まだ俺の下で鼻をぐずぐずいわせなが
から次へとタバコをふかし、楽器をつまびき、
の衆は<助けて!>と叫び、画一主義(コン
ら息をすることが許されているデリケートな汗
六十代という苦労の多い黄昏時に、思い出を絶
フォルミスム)
の純化のためにやせ細る。画一
のままでとどまっているのだ。俺の脇の下には
えず思い浮かべながら。その思い出は、俺が毎
的なものは下劣だ。愛の三角形のなかで、アイ
毛が生えており、そこから俺は魑魅魍魎、讃歌、
日々々自分の周りで発見するブルジョワの恐怖
ンシュタインの平行線は俺にはとても気持ちが
ねっとりしたジャズ、直翅目類の情念の世界へ
の犠牲にうまく捧げたいので、あいまいなまま
いい。みんなが嬉しがっている。
入り込むのだ。これら昆虫たちの生活を読みと
にしておきたいものなのだ。俺は言葉のなかで
俺は書く行為
(エクリチュール)
について言葉
れば、最高点で試験に受かる。俺は二倍生きる。
自己疎外する。<俺は君たちを軽蔑する>と言
ではいえないほどの意見を待っている。
風はさ
詩情
(ポエジー)
だって?棘がさすグラジオラ
うとき、それは言葉、罵詈雑言の覆いの下とは
まざまな夢や意味を描く。これこれの時間に
ス、卵生の娘の腹、ガラスの目のついた椅子の
いえ俺は君たちに身を捧げているのだ。君たち
オータン
(南仏に吹く嵐のような南風=訳者注)
下のパラダイス。人生がそこを突き抜けてくる
もまた俺をいつでも軽蔑できる範囲にいる。俺
のエネルギーで撓むこれこれの木は、
俺にはひ
( 完)
若 林 圭 子
人の好みほど千差万別なものはない。男が
いるのは、子供の頃に育った古い木造のトタ
いものだ。特に教訓めいたものは、しらけて
思う美人と女が思うそれも、どうやら違うら
ン屋根の一軒家で、風が吹くとトタンがめく
しまう。これが好きだ、本物だと思えるもの
しい。美人を紹介するよと言われ、あってみ
れてうなり、はたまた天井の隅には蜘蛛が巣
を、私はリアルさの中に探してみたい。私が
るとお互いのセンスの違いに気づく。その人
をはってこちらをうかがっている.
.
.それか
どきっとするほどリアルを感じるのは、埋没
は美形なのだが、私の心をとらえるようなも
らぐっすり眠れるのよと笑っていた。恐らく
しているもの、あるいは見て見ぬふりをして
のがなかったりする。人それぞれ、何に魅力
他人にとっては居心地が悪くても、そのあば
いるものが何かの拍子で明るみになった時
を感じるかはまったく個人的なものだ。その
ら屋が彼女にとっては唯一落ち着ける、これ
だ。覆い隠しても滲み出てきてしまう〔きれ
違いがどうして生まれてくるのか、それは専
が自分のよりどころだ、根っこだと信頼でき
いごとではないな〕と感じさせてくれる何
門家にまかせるとして、好みの違いでもう一
る確かな居場所なのだと思う。私が好むもの
か、そういうものだ。リアルさを何に感じる
つこんな経験がある。それは唄の歌詞にたい
も、多分それに似ている。生活とはほろ苦い
か、それはおそらく個人的な感覚に違いな
しての感想で「詩は『雪月花』を歌うものな
ものだが、けして捨てたものではないと力づ
い。
のに、あなたのは随分、きたない言葉ですね」
けてくれもする何か。時には打ちのめされそ
「
自分は確かにここにいる」と自覚でき、確
といった意味のものだった。今から14、5
うになる何か。それが言葉であれ、唄であれ、
かにこれは知っている匂いだ、手触りだと感
年前の話で、その人は大真面目だと分かった
私はそういうリアルなものを好む。
じながら唄えたらいい。そうして私の唄にう
ので笑うわけにもいかない。またシャンソン
リアルなんていらない、大嘘でも夢のよう
なずいてくれる人がいれば、同じ感覚を共有
の歌詞にはそう誤解されても仕方がないもの
に美しくドラマチックなものがいいという人
する、わかりあえる関係が築けたと言えるの
も多く、私が歌詞を作り始めたきっかけは、
もいる。そういうものに騙されるのも愉快だ
ではないかと思う。私とレオ・フェレの関係
まさにそういう気取った歌詞に飽き足らな
と思う。私がつまらないと思うのは、半端に
もそうであるし、私の唄を聴いてくださる人
かったからであり、センスの違いとはこれか
作りものの、いかにもそれらしくわざとらし
ともそうでありたいと願いながら唄ってい
と妙な感心をしたのを覚えている。
私個人としては、あまりに堂々と美しいも
のにはまったく心が高揚しない。私がひかれ
セカンド・アルバム
る。
ファーストCD 『どんな声でⅠ』
るのは、滲み出てくるものであり、少し苦み
のきいたものだ。私の友人にこんな人がい
る。新しいマンションに住み替えたら、生活
の匂いがまったくなく、真空パックされてし
まったみたいで眠れない。そこで彼女は一計
を案じ、毎夜、ベッドに入ってから自己暗示
をかけることにしたという。今、自分が寝て
連絡先:ART 企画/東京都渋谷区代々木 1 - 1 9 - 2 ZENRI ビル 3F
美と毒と
若林圭子の唄に聴
く抽象性と芸術性
平沼洋司
マーク・ロスコ「ナンバー 15」より
か、とも言っていた。劣悪なものと「作品」
といって選んでいない。「いいなあー」と
との違いの見極め、虚構としての芸術作品
思って選んでいるのである。
を観賞し楽しむことを可能にするのは、大
女性の洋服の柄もまったく同様だ。銭湯
人の教養だ。ホラービデオも異端文学も、成
の富士山のペンキ絵のごとくの具象絵画
熟した文化の影の部分、腐乱した華ともい
が、背中に大きく描かれた洋服はあまり見
うべきもので、教養ある大人にのみ許され
ない。ネクタイなり洋服の一部を切り取り
る楽しみなのである。そのへんを子供に教
額に収めたら、立派な抽象絵画になる。カー
える環境がなくなってしまったこと、大人
テン、壁紙などなど拾いだせばいくらでも
とこどもの住み分けがないことが、現在の
ある。これらはみな「ここちよい」感情を人
病巣であろうか。そう「ガキが見るものじゃ
のこころに与えてくれている。そういう風
ない! あっちへ行ってろ」と一喝できるよ
に生活の中は抽象絵画でいっぱいなのだ。
うな大人の存在がである。前置きが長く
それでも絵画となるとわからないという。
なってしまったが、この論点からみてくる
なぜだろう。
若林さんの唄をいつころから聴いている
の、生活を楽しくしてくれるもの、と思って
と、まさにレオ・フェレの唄、若林圭子の唄
だろうか。最初はそれほど熱心なファンで
いる。
は教養ある成熟した大人の唄なのである。
レオ・フェレの唄にしても、若林さんの唄
はなかったと若林さんには言われるが、山
それと大事なことであるが、芸術には
教養なった文化の影の部分、腐乱の華とも
にしてもそれが言える。
「むずかしい」「暗
手線の大塚駅付近でのコンサ一トにも行っ
「美」
「美学」がなければならないと思ってい
いうべき「美学」を内在した芸術なのであ
い」
「理解できない」
「歌詞が難解」等々いろ
る。
いろいわれているようである。それは抽象
ているので、かれこれ十数年は経過してい
る。
る。熱心でないわりに、何かに引き込まれる
絵画的だからなのだ。しかし、世界も社会も
ような感じで長く聴き続けている理由は何
例えばの話、神戸の小学生殺人事件に関
もうひとつ違った観点からレオ・フェレ
人生も挫折と欺瞞に満ちた生活の中でも、
か? それは「麻薬」みたいなものかもしれな
して、今年度前期の直木賞を受賞した作家
と若林圭子の唄をみると、それは抽象絵画
成熟した大人なら、時に耳を澄ませてゆっ
い。そういう雰囲気が若林さんの人柄と若
の篠田節子氏が書いていたが、仲間内であ
的要素ではなかろうか。一般に抽象絵画は
くり聴く機会があれば、如何に抽象絵画的
林さんの唄にはある。現在は一年に二度の
の事件はよく三島由紀夫の小説「午後の曳
「わからない」と敬遠されがちだ。だが、わ
であっても、素直にこころに響いてくると
ジァンジァンでのコンサ一トを楽しみにし
航」との類似点が話題になるという。
「まる
れわれの毎日の生活の中には抽象が満ち溢
思うのである。そういう意味でレオ・フェレ
ており、熱海の奥の網代の山の中からいそ
であの事件を予見していたかのようだ」と
れていることには、みな気が付いていない。
を基盤にした若林さんの唄を聴くと、わた
いそと出かけていく。そう禁断症状の人間
言った人に対して、
「まったく別物だ。あの
現代生活は抽象絵画との共存なのである。
しなど難解さの中に抽象絵画と同様の「こ
が麻薬を求めるように! 若林さんの唄には
事件には美学がまったくない」と反論した
一例を挙げよう。まずは、男性のネクタイ。
こちよさ」を感じるのである。
「麻薬」のような雰囲気の他に「毒」に見せ
作家がいたという。許せないのが「罪」でな
これはもう抽象絵画を毎日ぶら下げている
掛けた優しさがあるようにも思う。毒に含
く、
「美学」がないことと言うのは、いささ
のである。ネクタイの柄で松の木や家など
そうレオ・フェレとそれを自分のものに
まれた「ここちよさ」とでも言おうか。それ
か不謹慎に聞こえるが、
「小説
(唄や絵画、映
具象絵画的な柄が大きく描かれたものをみ
して唄う若林圭子の唄は成熟した大人が挫
がこの忙しさと欺瞞に満ちた社会では一種
画も含めた芸術)
には美学があるが、事件に
たことがあるだろうか。あったとしても、み
折感を味わった後に出会ってはじめて分か
の清涼剤になっていると思うのである。
は美学はない」という論点は、凶悪事件が起
な「なにあれ」と顔をしかめ決して選ばない
る唄なのだ。そこらへんのガキは分からな
こる度に論じられるホラービデオや他のメ
であろう。ネクタイの柄はチェック、水玉な
くて結構なのである。
芸術とは人のこころを豊かにしてくれる
ディア作品がいけないという論評との関連
どそのほとんどが抽象絵画そのものなので
もの、人生に生きる勇気を与えてくれるも
について、ひとつの答えになるのではない
ある。これを選ぶときも決して分からない
続・雨の夜のシャンソン
藤井東洋司
とに大別される。
華やかさは秋にピッタリの演目である。
前者は、鶴屋南北などにより人間関係の
次に「黒塚」
。これは奥州安達が原に住む
おどろおどろしさを描いたものが主である
鬼女伝説を基に長唄を伴奏にした舞踊劇で
が、後者は、地方に伝わる伝奇説話が基本に
ある。安達が原に人里離れて住まいする老
なり、歌舞伎風にアレンジされたものであ
女。一見人間だが実は人喰い鬼だった。ある
る。
夜、都の名僧一行が宿を求めて彼女のもと
レオ・フェレの怪奇風シャンソンのムー
を訪れた。罪を犯したものでも、鬼でさえ
ドと共通する後者の歌舞伎演目に着目して
も、悔い改めれば成仏できると、この僧から
みたいと思う。まず「紅葉狩」
、これは歌舞
聞いた老女は大喜び、長い間忘れていた心
伎舞踊の代表作で、まだVTRもない明治
の安らぎを得る。鬼となりはててはいても、
32 年に初めてサイレント映画で映像化され
心の中では魂の救いを求めていたのだ。
た演目である。ちなみに当時は劇聖と言わ
ところが、彼女に希望を与えたかに見え
れた九代目市川団十郎が演じている。
た一行の中の一人が、約束をやぶって彼女
どこまでも続く、鬱蒼とした森。やがて忍
す甘すっぱい香りは、若者の血を興奮させ、
信州戸隠山の鬼女伝説がベースになって
の閨の中をのぞいてしまう。中には死骸の
びよる夕闇に白いもやが流れ出す。その夕
柔らかな密のような女の体に酔いしれた。
いて、あたり一面紅葉に彩られた戸隠山中
山! 老女の正体がばれる。信じた人間に
もやの中に黒い大きな館が現れる。誘われ
窓から差す早朝の陽の光に若者はようや
が舞台である。あでやかな腰元達を大勢ひ
裏切られた老女は、怒りの形相もすさまじ
るように館の玄関の重い扉を押し開ける旅
く夢から目覚めた。
きつれた見目麗しい姫君が山中で宴会を開
く鬼の姿となって暴れ狂う。しかし名僧達
の若者。死んだような館の隅のバルコニー
「あれは夢だったのか……。
」
いているところへ偶然通りかかったのが都
の法力にはかなわず祈り伏せられてしまう
に面したガラス窓にほのかな灯りがとも
もうろうとする目に飛びこんで来たの
の若武者平維茂と彼の従卒達。そのまま通
と言うストーリー。
る。いつのまにか館の黒い屋根の上に青白
は、蜘蛛の巣がはった朽ちかけた天蓋。そし
りすぎようとするが、気になるのは美しい
現在、スーパー歌舞伎で有名な市川猿之
い月が昇っている。若者は暗く沈んだよう
て若者の傍らには腐乱した人骨の山。それ
姫のあで姿。近くでもじもじしている所へ、
助が祖父である市川猿翁から譲り受け、家
な玄関ホールにたたずむ。
に頭蓋骨の眼孔から這い出ようとするうじ
姫の腰元達から誘いうけ、内心大喜びでそ
の芸として得意な演目のひとつとしてい
その時、窓からさし込む月のあかりに、女
虫。恐怖に目を見はる若者の耳に、あの女の
の宴会の中へ加わる事となる。美しい女性
る。
の姿。階段の上から女は、若者を手招きす
笑い声かと思へる、屋根の上の風見鶏が風
達の舞いや酒に時を忘れている内に眠って
と、まあ歌舞伎の世界のオカルトをかい
る。
に回る乾いた音が……。
しまう維茂達。実はこの姫の正体は、戸隠に
ま見たわけだが、こういう事を真夜中に書
というレオ・フェレの「吸血鬼の変身」の
何千年も生きる鬼女で、旅人の眠っている
いていると何だか背中がゾクゾクとして気
自分なりのイメージで、又始めちゃいまし
所を襲おうとしたのであるが、維茂の夢の
味が悪くなってきたので今回はもうやめま
誘われるままに階段を昇る若者。長い廊下
た。
中に危険を知らせる山神が現れ、鬼女達の
す。
の突き当たりの扉が開いている。恐る恐る
名付けて〝続・雨の夜のシャンソン”
。
邪魔をする。あきらめて隠れ家に戻った鬼
なんだかレオ・フェレの顔が鬼婆に見え
部屋に入ると、淡いランプの光の中に薄着
今回は、レオ・フェレの怪奇風シャンソン
女達を目覚めた維茂達が、退治するという
てきたぞ。
をまとっただけのさきほどの女。黒く長い
に対して、我が日本の歌舞伎の世界にも探
単純なストーリーである。 髪の女の美しさにただ茫然とする若者。
(た
せば色々とありますですよというお話で
「吸血鬼の変身」に見られるような淫美な
とえば、十数年前の若林圭子女史のような
す。
エロティズムのかけらも見られない、明朗
「
待っていたわ……。こちらへいらっ
しゃい」
女性では……こりゃ失礼)
で健康的な妖怪話で、鬼女を演じる役者が、
女の差し出すグラスの酒に少し酔った若
歌舞伎の幽霊・妖怪物の中には有名な「東
あでやかな姫姿でブットい声ですごんだ
者は部屋の中央のレースに囲まれた大きな
海道四谷怪談」や「牡丹灯籠」などの怪談話
り、大股でのしのし歩き回るなど喜劇とも
ベッドに女を抱き寄せた。女の体が醸し出
と、
「紅葉狩」や「黒塚」のような妖怪伝説
思える珍舞踊だが、紅葉の山中をいろどる
[レオ・フェレの WEB ページ]
http://perso.club-internet.fr/leoferre/
http://milak.irfu.se/~uzan/ferre.html
なお友の会でもバックナンバーを中心に以下の
サイトを建設中である。
http://www.bekkoame.or.jp/~rruaitjtko/leoferre.html
アレクサンダー・ソクーロフ
「マザー、サン」を観る
カムラータ・シカーナ
最近渋谷のユーロスペスースで、アレクサン
ダー・ソクーロフの「マザー、サン」という映画
を観た。レイト・ショーにかかっている映画で、
夜9時から 10 時 30 分までの一日一回。120 前後
の座席に六割程度の入りであったろうか。
登場人物は、ただの二人。死を目前にした母と
息子。言葉は極端に少なく、力弱くとぎれがちで
断片的な日常の会話である。映像は、最初目が悪
くなったのかと思わせるようなソフト・フォー
カスで、全体にシアン系統の色を薄めているの
か、ややセピアがかっている。ストーリーは、一
言で言ってしまえる。彼女のベッドと、息子が彼
女を抱きかかえて外に連れ出し、やがてまた戻っ
てきて、眠るように息絶える。それがすべてだ。
木々と草原、草原の彼方を白い煙をたなびか
せながら走り去る汽車と遠い海、その上に浮かぶ
帆船。そして流れていく黒い雲と風の音、その風
の音の下に微かなピアノの音。皺の浮き出た手。
やがて暗灰色の画面が二∼三分続き、……ク
レジットが出て、ああ終わったのだなと思う。し
ばらく座席にそのまま座っていた観客は、やが
てぱらぱらと立ち上がり、三々五々ホールを後
にする。
言葉の少なさやストーリーの凝縮を補うに足
る充分な映像の強さがあれば、そこに感情移入
できるだろう。そのような手法は望むところで
あり、しばしば人はそのように光景を印象づけ
意味を与えている。だが、形状が放棄されている
わけではないとはいえ、映像すらもデフォルメ
されたものとして提出されるとすれば、そこに
あるのは最早精神現象の初源的イマジネーショ
ンのエネルギー、すべての形とそれに意味を与
えた不定形のマグマでしかない。それゆえス
トーリーの斬新さやスピード感、スリリングな
展開、映像の超リアリズム風の美しさや圧倒的
迫力…そんなものを期待してはならない。むし
ろその正反対に位置すると考えたらいい。一種
幻想的な──それらはこの世界においてある世
界となる存在のある層を創造するのであり、こ
れはよく考えれば、本当はそこには存在しない
のだが──美しさを湛えた映像だ。ここでは
我々は提出された映像の回廊に自ら漂いだし、
ゆっくりと味賞しつつその内奥へと歩を進めて
いかなければならない。自らに内面化された現
在を次第に漂白しながら、映像の呼吸に合流し
ていく。草原の彼方を白い煙を吐きながら汽車
が走りすぎていく . . . . .。窓の外に咲く霞草のよ
うな白い花 . . .。流れ出す黒い雲 . . .。そして、時
おり歪む光景 . . .。それらは何を意味していたの
か。我々の無意識の領域への下降なのか。答えは
しばしば錯綜として多様であり不透明だ。
昔、Mt.Fuji 山麓の山中に一人暮らしたことが
ある。特別仕事をすることもなかったので、毎日
朝起きては陽が沈むまで、音楽を聴きながら窓
の外を眺めていた。外にはすすきの原と名も知
らぬ木々、彼方には Bay Suruga が広がっていた。
あとは空ばかり。毎日同じ光景を眺めていると、
やがて植物が少しずつ変化していくのに気がつ
く。動物の活動的な時間とは異なった時間を生
きている生命があることに気がつく。静かなし
かし確実な生命の時間がそこにあるのを実感す
る。一日は思いの外あっけなく終わっていった。
我々の時間はなんと騒々しく変化に充ちている
のだろうか。そしてまたなんと短いタームに司
どられているのか。
やがて秋を迎え銀色に輝きだしたすすきの原
を風が渡っていく。言葉もなく陽光の中黄金色
きら
に煌めく熟成の季節は、また氷雨に打たれる凋落
の季節を予感し、再生の種子を宿している。人は
大人になったら一年くらい山にこもったらい
い。そして今や地球上最大の害虫となり果てた
我々の文明に思いをめぐらすといい。
ソクーロフの映像の歪みは、人がその情念に
よって自然の景観すら変えて見ることができる
ということを教えている。「鏡の中に映像を見る
のではなく、存在しないものを措定し、何かそこ
にないものを見ること」
。
「美しい自然の反復」へ
の模倣・擬態をもって、人は自らの社会のイデー
を始めたではないか。だからそこに裂け目が
あったのを知っていたのだし、そうすることに
よって自らの不条理を生き抜いてきたではない
か。神話は繰り返しそれを述べてきたのではな
かったか。だが今それは遙かに遠い記憶だ。
かす
草原を吹き渡る風の音の底の方に微かな音楽
が流れている。小さなピアノの音が気になった。
誰の音楽だろうとチラシを見ると、ミハエル・グ
リンカ、オトマル・ヌッシオ、ジュゼッペ・ベル
ディとある。だが、私がどこかで聴いたことがあ
ると思いついたのは、グレン・グールドの弾いた
ブラームスのインテルメッツォやバラードのこ
とであった。調べてみると、最晩年に書かれた間
奏曲インテルメッツォ集は、グールド二十八歳
6 0 年に録音されたものである。そしてブラーム
ス二十一歳に書かれたバラードの方は82年、グー
ルド死の年に録音されている。
吉田秀和氏の「ブラームス」によると、このバ
ラードは、一九世紀ロマン派のヘルダーが蒐集
した「諸民族の声」に収められたスコットランド
のバラードに由来している。
それは、母親と血にまみれた刀をもって帰っ
てきた息子との問答の体をなしている。
「お前の刀についている血糊はどうしたの?」
「鷲を殺したのです」「鷲の血はそんなに赤くな
い」
「馬を殺したのです」
「お前の馬は年をとって
いて、殺す必要なんてなかった」「おお、お父さ
んを殺してきたんです、お母さん」
「じゃ、その
償いに何をするの?」「大地に足の安まるところ
はないから、河を越えて遠くにゆきます」
「じゃ、
お前の妻や子供はどうするの?」「世界は大き
い。彼らは乞食になればよい。私はもう二度と会
わない」
「じゃ、お前の大事なお母さんはどうす
るの、エドワード?」
「あんたには呪いと地獄の
火を望む。お母さん。あんたがこれをすすめたん
だ、おー、おー」
ブラームスがこれを書いたのは二十一歳、
ちょうどシューマンが精神病院に入院し残され
た妻クララや子供たちの世話に明け暮れていた
時である。そんな中にあって彼は、どこかで
シューマンの死を願う己の暗い心に慄然とした
に違いない。だが、その暗い情念を、彼は独り歌
わずにはいられなかった。このバラードの赤い
血の記憶を、彼は生涯拭い去ることはなかった
だろう。
若きグールドが弾いた、ブラームス晩年のイ
ンテルメッツォ集の最初におかれた曲も、この
「諸民族の声」に収められたスコットランド民謡
「不幸な母親の子守歌」
「ボスウェル夫人の悲歌」
に基づくものだった。三十八年の歳月を経てブ
ラームスは同じ歌に立ち戻ったのだ。だがずっ
と灰色に中立的装いをまとって、しかしまるで
山中の湖沼がたたえる底知れぬ蒼穹の藍のよう
に深く。
さて mother とは誰か。mother とは何か?
「母親とは語る誰かである。彼女が語るのは、社
会的個人だからであり、また、ある特定の社会に
ラング
固有な想念の意味作用を担う、この社会の言語
を語るということである。母親は新生児に対し、
社会を代表する、第一の、圧倒的存在である。母
親は新生児に対し、過去の無数の世代の能動的
な代弁者である。
」母が子に語る言葉を通じて言
語の制度は、母の語った言葉を遙かに越えて自
らの社会に固有な意味を伝えていく。母の言葉
の中で、母達の愛と制度としての社会的想念が
幾重にも絡み合い分かち難く繋ぎ止められてい
く。
「殺戮に充ちた二十世紀への挽歌」とこのソ
クーロフの世界を評する人がいる。私はその映
像は音楽の想念の形象に似ていると思う。深い
深淵を穿つ極北のクレバスの崖頭に歌うものた
ちがいる。歌は言葉を遙かに越えていく。それは
またレオ・フェレの世界でもある。