ベルクソンの自己生成 - 東北大学教育学研究科・教育学部

東北大学大学院教育学研究科研究年報 第 56 集・第 1 号(2007 年)
ベルクソンの自己生成
―内的啓示としての直接的経験―
土 屋 靖 明
本研究の目的は、ベルクソン本人の伝記的証言を主たる題材として、ベルクソンの思想哲学のみ
ならず、人生の営みをも参照することで、自己生成の問題を考察することにある。数学的才能を評
価され、自らも数学専攻を志望していたベルクソンは、(精神的)時間概念の発見によって哲学へと
方向転換した。そのことがベルクソン自身の生涯を決定付け、しかも哲学史においても知的遺産を
遺すことになるのである。ベルクソンはそうした自身の数学から哲学への転回を〈神の定め〉によ
るもの、
〈内的啓示〉によるものと、形容的に表現している。ベルクソンの思想哲学に基づく一方で、
そうしたベルクソンの個人的体験を証拠的裏付けとして、内なる自然の声とも言うべき啓示という
もの、内的啓示と形容すべき直接的経験というものが、一人の人間の人生を方向付けることもあり
得ることを考究していきたい。
キーワード:内的啓示 純粋な経験 直接的経験 《理想主義者》 《浮世離れした人》
序論
ベルクソン(Henri Bergson, 1859-1941)は、ユダヤ系ポーランド人の音楽家の子息としてパリに
生誕した。若年期は数学を志すものの、その後哲学に転向し、哲学者としての生涯を送っている。
ベルクソンは、
教育に関しては体系的な著作を残しているわけではない。教育に関する提言は『書簡・
講演録』
(Écrits et paroles, 1957)に数点掲載されていたり⑴、『思想と動くもの』
(La pensée et le
mouvant:Essais et conferences, 1934)に断片的に記載されている程度である。
ベルクソンを教育関連で取り扱った先行研究としては、教育者としてのベルクソンの姿を記した
伝記的研究、
『書簡・講演録』等に収録された教育小論集を考察対象とした研究、エラン・ヴィタル(生
命の躍動、élan vital)や創造的進化(l’évolution créatrice)などの所謂ベルクソン哲学の中心概念か
ら教育原理を導き出した研究の主として三種類に大別される。
ベルクソンの教師像を記した代表的な研究としては、メールのものが挙げられる。メールはリセ・
アンリ 4 世校時代に師匠ベルクソンと出会い、その第一印象は繊細で温厚な人と述懐している⑵。
また、メールの「ベルクソンとの思い出を集めてみても、自分自身について語られたことは全くな
東北大学大学院教育学研究科博士研究員
― ―
ベルクソンの自己生成
かった」との記述から⑶、内気で控え目で、人見知りするベルクソンの人柄を窺い知ることができる。
バスティドもメールを引用しながら、
「よく知られていることではあるが、ベルクソンは教育を好
まず、生徒たちから逃げていた……ベルクソンは間違いなく、ラテン語や数学、哲学をとても易々
と教えていた……しかしながら、ベルクソンはいつも堅苦しい感じで、エネルギーを内に秘め、文
字通りの教育者(pedagogue)ではなかった。教え子たちは〈ベルクソンは実際に、生徒たちを直接
的個人的に捉える情熱的で親しみ易い先生ではなかった。彼は我々の遥か高くを飛翔していた。我々
は彼を讃嘆しながらも唖然としていた〉と、述懐している」と⑷、ベルクソンの学究肌ではあっても、
生徒に積極的に働きかけを行なう教師肌ではなかった旨を記載している。ベルクソンの仕事は〈思
想の芸術〉とも称されていることから⑸、ベルクソンは後進に自分の後ろ姿を見せる職人気質の師
匠であったと考えることができるであろう。
教育小論集を考察対象とした研究は、主としてセギョンやロンバルのものが挙げられるが、本稿
では割愛させて頂きたい⑹。
ベルクソンの哲学概念から教育原理を導き出した代表者は、『活動学校』
(L’École Active, 1930)
の著者フェリエール(Adolphe Ferrière, 1879-1960)である。フェリエールは「重要なのは、一連の
静的な状態なのではなく、人間に内在するバイタリティーなのである。アンリ・ベルクソンが正し
くも示したように、精神は継続的運動をかかえておきにくいので、この運動を見かけ上は非連続的
な断片に細分することを好んでいる……生命は継続的な躍動であり、たしかにその強さ、その方向
性においては不規則ではあるが、永続的な衝動である。この〈生命の躍動〉たるエラン・ヴィタルを
知り、その目的を知り、その手段を知ること、これは人間のなすべき大仕事である」⑺、「子どもの
精神上のエラン・ヴィタル、子どもの自発的活動、精神的エネルギーの無限の増大、これが教育の基
礎である」と⑻、ベルクソン哲学を教育基礎概念へと応用させている。ただ、フェリエールのベルク
ソン引用は、この位しか見られない。バスティドはベルクソンとフェリエールの接点が 1911 年以降
あることに着目し、ベルクソンが種の次元で展開したエラン・ヴィタルの思想を、フェリエールは
個の次元に縮減したと説明している⑼。バスティドの理解は、ベルクソンが宇宙論の次元で展開し
た思想を、人間論の次元へと置換して捉え直したものということになろう。そして、ロンバルにお
いては「教育は常に〈先在するものの中に先在しない何ものかを付加する〉行為であり、全く新たな
ものを誕生させるための契機を与えてくれる。……ベルクソンにおける教育とは、創作を思わせる
芸術に喩えられるものである」と⑽、教育そのものを創造的活動と捉えるに至ったのである。また、
フントはベルクソンと同時代のモンテッソーリ(Maria Montessori, 1870-1952)に着目し、創造的進
化の理論に『モンテッソーリ・メソッド』
(Montessori Method, 1909)で提唱された自動教育(autoeducation)の理念に通ずる要素を認めている⑾。
執筆者のこれまでの研究は、ベルクソンの哲学概念から教育原理を導き出すことを主眼としてき
た。プラグマティズム論、とりわけウィリアム・ジェームズ(William James, 1842-1910)との関係性
に着目して、エラン・ヴィタルや創造的進化の理論から人間生成論や教育目的論の原理を読み解く
研究⑿、ナチス・ドイツ以来煽動的とネガティブに評価されてきた propagande という行為の〈宣教〉
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という本来的意味に着目し、propagande に教育的な〈呼びかけ〉の要素を見出し、師弟関係論の構
築に努めた研究がそれである⒀。
本稿では、セルティランジュ『アンリ・ベルクソンとともに―持続論・科学論・宗教論―』
(Avec
Henri Bergson, 1941)やシュバリエ『ベルクソンとの対話』
(Entretiens avec Bergson, 1959)と言っ
たベルクソンの自叙伝を素材として、ベルクソンの人生を振り返りながら、自己生成の問題を考察
したい。数学的才能を評価され、当人も数学を専攻する所存でいたベルクソンが哲学へと転向した
切っ掛けは、そうした自叙伝の中では〈神の定め〉や〈内的な啓示〉と表現されている。そうした事
柄を精緻に検討しながら、精神にとって純粋で直接的な経験であるところの所謂内なる自然の声、
内なる神の声と形容すべきものが、時として一個人の人生を思いも寄らぬ方向へと導き、その御仁
の潜在的資質を開眼させ、一人の人間をより卓越した存在へと生成させていくことも有り得ること
について考えて行きたい。
1. 自己の使命の覚醒―〈時間〉との出逢いと哲学への回心―
「自分は当時、哲学を専攻する意思を持っていませんでした。人々はわたしが数学の才能に恵ま
れていると言い、自分自身も数学を専攻するつもりでいました。しかし、ほどなくして、きっと一
種の神の定めによってでしょうか、時間の問題に取り組み、数学の本質が提起する他の様々な問題
を課題とすることになったのです。これがわたしの学問への開眼のいきさつです。」⒁
ベルクソンは自身が哲学に目覚めた経緯を、ドミニコ会神父セルティランジュに〈神の定め〉との
表現でもって語っている。ベルクソンの数学から哲学への転身、人生の突然変異は、内的で純粋な
個人的経験、天啓とも言うべき一種の宗教的体験によって敢行されたのである。
「時間の発見が、
如何にして如何なる影響の下で行なわれたのか語ることは難しい。いずれにせよ、
とても素晴らしい音楽によって気が散らされがちであったアンジュ時代ではなく、クレルモンでの
自己集中(concentration sur moi-même)の努力の中で、着眼したのだ。わたしの生徒であったジョ
ゼフ・ティセマールがとても立派に語っているが、時間に眼を付けた時、わたしは膨大な野心を抱
いた。哲学書を再読して、誰も時間を論じていないことに気付いたからだ。後にその野心はより慎
ましいものに変化し、自己の見解を試行検討すべく研究を開始した。」⒂
ベルクソンは時間との出逢い、時間概念の発見によって、哲学者としての途を歩み始めたと語っ
ている。但し、
ここで言う時間とは計量可能な「科学的時間」
(EP295)、すなわち「流れた時間(temps
écoulé)
」
(DI136, 166)のことではない。計量可能な時間とは持続しない時間、仮象的な時間、何も
創造されない死んだ時間のことなのである。ベルクソンは精神的な時間こそが、持続する生きた時
間と考えたのであった。
「持続を意識することによって、スペンサーの学説を学ぶことで進化の本質とメカニズムを考察
したことが、続いてゼノン(Zenon, 460.BC 頃)の運動に関する学説が自分の提示した問題に解決を、
あらゆる形而上学な解決をもたらすということを精神に啓示した(se révéla)。」⒃
「自分の省察(réflexion)は幾つかの道を収束させることで、時間すなわち真の持続の着眼へと導
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ベルクソンの自己生成
いた。あなたが大層立派にしめしたように、エレア学派のゼノンの提示した問題によって、当時の
哲学に君臨していたスペンサーを学んだことによって、時間を測定することは不可能だということ
に。
」⒄
ベルクソンは事象的な時間の存在に気付いたこと、実在としての時間に着眼した要因を、精神に
対する啓示があったことによると説明している。すなわち、内面省察としての自己集中が、ベルク
ソンに哲学者としての道すがらを提示してくれたのである。具体的には、「スペンサー(Harbert
Spencer, 1820-1903)を無条件に支持」
(EP294)し、「スペンサーに傾倒」
(PM102)していたベルク
ソンが精神的な時間を発見し、哲学者としの人生を歩み始めた契機は、エレア学派のゼノンの詭弁
(sophisms)に疑問を持ったことによる。そのことは処女作『意識の直接与件に関する試論』
(Essai
sur les données immédiates de la conscience, 1889)に始まり、あらゆる著作で言及されることとな
る。
「運動と運動体が通過した空間との混同から、エレア学派の詭弁は生まれた。何故ならば、二つの
点を分かっている間隙は、無限に分割可能だからである。……エレア学派の錯覚は、不可分で独自
(sui generis)な一連の行為を、その下に横たわっている等質的空間と同一視したことに由来する。
……ゼノンはアキレスの運動を亀の運動と同じ法則に従って再構成し、空間だけが恣意的な解体や
再構成に応ずるものだということを忘れて、
空間と運動とを混同した。……運動の等質的要素とは、
通過した空間、つまり不動性である。
」
(DI84-86)
「ゼノンの議論は、時間と運動をそれに対応する線分と同一視し、線分と同様に扱っている。……
言語はいつも運動と持続とを空間的に表している。……生成をいつも有用な事物と見なしてしまう。
……哲学者は運動に、運動の本質であるところの動性を回復しなければならないが、ゼノンはそれ
を行なっていない。第一の議論では、静止状態における動性を想定し、この動体が通過するはずの
線分上に、無数の段階を考えているだけである。……アキレスが亀を追い越すことを認めず、亀の
運動も勝手に分割できると考えている。
」
(MM213-214)
「エレア学派の哲学者は、生成が思考の習慣と反目し、言語の鋳型に巧く合致しないことから、生
成を非事象的だと言明した。
」
(EC313)
ゼノンは流れた時間のみ、運動体が経過した軌道のみを問題としている。運動そのものを問題と
はしておらず、運動を不動へと置換して解析している。ゼノンは運動を、生成を否定した。加速も
考慮に入れていない。ゼノンが問題としたものは、時間の「距離」
(DI85)であり、時間の「量」
(DI85)
なのである。
ベルクソンはそうしたゼノンの詭弁のカラクリを見破った。そのことがベルクソンの哲学者とし
ての資質を開眼させ、ベルクソンの人生を決定付けたのである。ベルクソンは時間の「質」
(DI85)
を問題とした。時間は「再度辿れる線ではない」
(DI136)。事象的な時間とは「流れつつある時間
(temps qui s’écoule)
」
(DI136, 166)のことであり、「非決定そのもの」
(PM102)であり、「発明を、
絶対的に新しいものへの不断の尽力」
(EC11)なのである。持続する時間とは、「成熟すること、終
わることのない自己創造」
(EC7)なのである。そして、ベルクソンは時間を「永遠の今(perpetual
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present)のメロディー」
(PM170)
、
「動く永遠」
(PM210)、「生の永遠」
(PM170)と表現するに表現
するに至ったのである。
2. 宗教的経験と自己生成
〈宗教的経験〉というと、ジェームズの思想を連想させる。実際、『書簡・講演録』にはジェームズ
宛の 10 通の書簡が収録されていて、ベルクソンとジェームズとの間には相互の思想交流が行なわれ
ていた。宗教的経験は、
『道徳と宗教の二源泉』
(Les deux sources de la morale et de la religion,
1932)においても、全面的に取り上げられている課題である。また、そうした宗教的経験は、人間生
成とも不可分な出来事である。
ベルクソンは「教育者(éducateur)に開かれた途は、二つある。一つは躾(dressuge)の途、もう
一つは神秘性(mysticité)の途である」
(MR99)と記しているが、ここで問題にされる教育方法は勿
論後者に当たる。
「宗教的、いやむしろ神秘的とさえ呼ぶことに躊躇われるものではない」
(MR100)
と述べられている後者の方法は、前者の如く意図的に躾られるものではない。何かしらの宗教的経
験、神秘的経験の到来が待たれるものなのである。前章で、ベルクソン本人が時間概念を発見して
哲学に回心した契機を、内的啓示によるもの、天啓に打たれたものと説明しているが、そうしたベ
ルクソン自身の自己生成がまさしく宗教的経験、神秘的経験、啓示的経験によるものなのである。
然らば、宗教的経験、神秘的経験とは、如何なるものなのか。ベルクソンは「我々の内的生の秘密
を深く探求することで、我々が生の秘密に探りを入れるための手助けをしてくれた」と話している
が⒅、自己の内面と向き合い、内面を深く見つめることで、天命を知る契機を、真実在を悟る切っ掛
けが与えられるのであろう。自己の本来的生を素朴に貫徹すること、そのことが自己を不断に生成
させていくことになるのではないだろうか。
「神秘的経験と言われるものは、あらゆる解釈が加わる以前の直接的経験のことである。真の神
秘主義者とは、自分の中に浸入してくる波にひたすら身を委ねている。彼らは自分の中に自分より
も優れた何ものかを感じているので、偉大な行動人として自らを示現し、神秘主義を幻覚、興奮、忘
我としか見ない人を驚かすのである。そうした神秘主義者が自分の内に流れ込むままにさせておい
たもの、それは彼等を経由して他の人々にまで到達することを望まれて降臨してきた波のことであ
る。
」
(MR101-102)
自分の内に存する自分より優れた何ものとは、一体何なのか。「魂を通じて、魂の内で働いている
ものは神(Dieu)である」
(MR246)とあるように、それはまさしく神である。いやむしろ、「魂は神
性(divinité)で満たされているのであるから、神性の顕現は魂の外では考えられない」
(MR246)と
あるように、それは神性であると表現した方が的を得ているであろう。
自分の魂の中に宿る自分以上の何もの、それは内なる神の声、内的な啓示、より合理的に表現す
れば、汎神論的に申せば、内なる自然の声と言うべきものとなる。そうした内的な啓示は自然と湧
き上がる、込み上げられるものであり、意図的にどうにかされるものではない。まさしく、自分の
内に流れ込んでくる波にひたすら身を委ねるしかない、為すがままにさせておくしかない。自己生
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ベルクソンの自己生成
成とは、そうした自然の流れに従いながらも、内的努力を継続させることで実現されるのではない
か。
「我々自身の内にも一人の神秘主義者が眠っており、覚醒される機会の到来をひたすら待って
いる」
(MR102)とあるが、そうした時の訪れは予見不可能なものであり、〈inspirer〉されるのをひ
たすら待望するしかないのである。
内なる神性は我々自身の内にも潜在しているものではあるが、ベルクソンはそうした神性がとり
わけ顕著に具現化された人物として、
「聖パウロ(Saint Paul, ?-64)、聖テレサ(Sainte Thérèse,
1515-1582)
、シ エ ナ の 聖 カ タ リ ナ(Sainte Catherine de Sienne, 1347-1380)、ジ ャ ン ヌ = ダ ル ク
(Jeanne d’Arc, 1412-1431)
」
(MR241)を挙げている。ジャンヌ=ダルクに代表されるように、神秘
主義者とは魂の深く純粋な神秘性、聖なる自然の声への絶対服従を体現した人たちのことである⒆。
聖パウロが迫害者から使徒へと回心した契機も、
「天からの光」
(『使徒行伝』第 9 章第 3 節)を突然に
受けたこととされている。
〈天からの光〉
とは、
「宗教に含まれるところの形而上学」
(MR101)であり、
「因果的説明を超えた神秘的原理」
(EC68)のことなのであろう。聖パウロが使徒へと突然変異した
所以は、
〈天からの光〉を啓示と解釈して、それに呼応したことに他ならないのである。
3. 純粋で直接的な経験―真理を観るということ―
前章では、宗教的経験、神秘的経験について言及してきた。ただ、ジェームズが「ベルクソンは神
秘的方法という考えが好きなのではないか。神秘的認識というテーマは非常に不完全にしか理解さ
れていないので、哲学者からも科学者からも無視されてきた」と述べているように⒇、神秘的経験と
は合理的な説明が困難な事柄である。純粋経験というと西田幾多郎(1870-1945)の世界となってし
まう、実際に西田は自己の思想形成にベルクソンの純粋持続とジェームズの純粋経験の説が多大な
役割を果たした旨を表明しているのではあるが、宗教的経験を魂にとっての直接的な経験、魂に
とっての純粋な経験と理解すれば、
より合理的に説明できるのではないか。そうした直接的な経験、
純粋な経験については、芸術家の生を例に挙げて、考察していきたい。
「偉大な芸術と単なる幻想(fantaisie)の違いは、何処にあるのだろうか。ターナー(Joseph
Malloed William Turner, 1775-1851)やコロー(Jean Baptiste Camille Corot, 1796-1875)を前にして、
我々が体験することを深めてみよう。我々が絵を受け入れ、感嘆するのは、それらの絵が示す何も
のかを我々が既に感知していたからだということが理解されるであろう。我々にとっては、日常経
験で〈溶暗〉
(dissolving view)として覆われていて、通常我々が事物について持つ蒼ざめ色褪せた
光景を構成するところの、同じように輝いては同じように消えていく無数の光景の中で、消失され
ていった一つの輝かしくも儚い光景であったのである。画家はその光景を孤立させたのである。彼
はその光景をカンバスの上にしっかりと固定させたので、以後我々は彼自身が観たものを実在の中
に認めざる得なくなったのである。
」
(PM150)
ベルクソンは芸術活動を具体例として、純粋で直接的な経験を、単なる幻想と対立させている。
芸術家は実際に観たものを、
彼等が体験した経験的事実を技巧を凝らして表現する。芸術家は「我々
が気付かなかった自然の素晴らしい様相」
(PM150)を、我々に提示してくれる。我々は何気なしに
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見落としがちなものではあるが、彼等が実際に観得し、感受したものを巧みに表現してくれるが故
に、説得力を有するのである。そうした芸術作品を通じて、鑑賞者の「既視感(déjà vu)」
(ES114)
もまた覚醒され、自己の経験的事実を想起させ、オーバーラップさせることにより、そうした作品
に感銘を受けるのであろう。
哲学者もまた、
「哲学者である前に生きねばならない」
(PM152, MR173)。思想哲学は、生きられ
た思想であってはじめて、自らの実際の生を理論化したものであってはじめて、説得力を有するの
である。経験的事実は、それが純粋で直接的であればある程、理論に生気を宿らせる。啓示も神秘
主義も、ベルクソンにとっては単なる幻想ではない。ベルクソンの意識にとって、純粋に直接的に
与えられた経験だったのである。そうした経験が単なる幻想であったのならば、ベルクソンは哲学
史にその名を留めてはいまい。経験とは「実感し、自分の中で感じ、固有の仕方で自分自身を生き
ること」
(PM243)であり、経験によってしか「我々は完全な確信を得られない」
(PM242)のである。
ベルクソン哲学は本人の直接的な経験的事実によって生命が吹き込まれているが故に、現存し持続
し続けているのである。
「芸術家が常に〈理想主義者〉と考えられてきたことに着目してみよう。芸術家は、生活の実利的
物質的側面にそれほど心が奪われていないことが理解される。芸術家は本来的意味において、〈浮
世離れした人〉
(distrait)なのである。芸術家はそれほどまでに実在から遊離していながらも、何故
に多くのものを観れるのであろうか。
」
(PM151)
「時々幸運にも、感覚や意識がそれほど生活に密着していない人が現われる。自然は、彼等の知覚
能力を行動能力に結び付けることを忘れたのである。彼等がものを眺めるのは、自分のためではな
く、そのもののためなのである。彼等は単に行動するために感知するのではない。彼等は感知する
ために感知する、訳もなく、喜悦(plaisir)のために感知するのである。意識によるにせよ、五感の
一つによるにせよ、彼等自身が何らかの側面で、生まれながらにして〈遊離〉しているのである。ど
の感覚の遊離であるのか、意識の遊離であるのかによって、画家もしくは彫刻家、音楽家または詩
人になったりする。それ故に、我々が様々な芸術において見出すものは、実在のより直接的な視点
なのである。芸術家はあまり自分の知覚を利用しようと考えないので、数え切れないくらい多くの
ものを感知するのである。
」
(PM152-153)
芸術家とは〈浮世離れした人〉
、打算的かつ実利的側面から遊離した人、欲得や損得勘定から遊離
した人である。純粋ゆえに、真理と真っ直ぐに向き合える。芸術家は実利的欲求から解脱している
ために、実在そのものを直接的に知覚できる。芸術家は、実在そのものを体感している。実在その
ものを身に沁みて痛感している。実利的欲求は、真理を観るための〈心の眼〉を曇らせる。ベルクソ
ンは「利害を離れた芸術は、純粋な思弁と同じく贅沢物である」
(EC45)と述べているが、贅沢物で
あるが故に、真理を真理として観得することができるのである。
哲学者もまた、
〈浮世離れした人〉である。哲学とは、純粋な思弁そのものである。実利的欲求か
ら遊離しているが故に、実在の本質を直接的に把握することができる。哲学もまた、真理を真理と
して観得するための贅沢物である。感受性の実利からの遊離が人を芸術家にするのであるならば、
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ベルクソンの自己生成
(観想的)知性の実利からの遊離が人を哲学者にする。そして精神(意識)そのものの実利からの遊
離は、人を宗教家にするのである。芸術家も、哲学者も、宗教家も、煩悩から遊離している。彼等は
真理を観ること、真理と共に生きること、自己の本来的生を生きることを目的としているのである。
ベルクソンが哲学者としての自己の使命を自覚することができたのもまた、浮世の雑念から遊離し
て観想的な内的生活に専念できたクレルモン時代のことであったのである。
結語
本稿では、ベルクソンの思想哲学のみならず、ベルクソンの自叙伝にも基づいて、自己生成の問
題を検討してきた。宗教的に表現すれば、内的啓示とも言うべき内なる神の声、より合理的に表現
すれば、内なる自然の声とも言うべき精神にとっての純粋で直接的な経験が、一人の人間の自己生
成に決定的な契機を与えるということについて考えてきた。そうした精神にとっての純粋で直接的
経験が、一人の人間の人生に転機を齎し、人生の方向付けを決定付けたりもするのである。事実、
数学的な才能を評価され、
当初は数学を志していたベルクソン本人が哲学の途へと回心した理由を、
神の定めによるもの、天啓とも言うべき内的啓示によるものと説明しているが、ベルクソンの精神
の中での純粋で直接的な経験が彼の人生の方向付けを行い、しかも哲学史における一時代を形成す
るに至ったのである。
純粋で無媒介の直接的な経験とは、一体何であったのか。本稿においては、芸術家の生、哲学者
の生、神秘主義者すなわち宗教家の生を例に挙げて考察してきた。彼等はいずれも〈浮世離れした
人〉
、実利的物質的欲求から遊離している人、欲得や損得勘定から遊離した人である。実利的欲求か
らの遊離は、魂を純化させ、事象そのものへと直接的に向かわせる。浮世離れしているが故に、実
利的欲求から解脱しているが故に、事象そのものを、真理そのものを素直に観ることができるので
ある。新プラトン主義的な表現を用いれば、実利的物質的欲求から離れて精神そのものに向き直る
ことが、汎神論的な表現を用いれば、自然体に戻ること、内なる自然の声に忠実になることが、
〈心
の眼〉とも言うべき慧眼を覚醒させ、人を真理の途へと誘わせるのである。
【註】
ベルクソンの原著作は、全て Paris, Presses Universitaires de France(PUF)版を使用した。邦訳は、主として白
水社全集版と岩波文庫版を使用させて頂いた。
・Essai sur les données immédiates de la conscience, 1889.……DI(
『意識の直接与件に関する試論』)
・Matière et mémoire, 1898.……MM(『物質と記憶』)
・L’évolution créatrice, 1907.……EC(『創造的進化』)
・Les deux sources de la morale et de la religion, 1932.……MR(『道徳と宗教の二源泉』)
・La pensée et le mouvant:Essais et conferences, 1934.……PM(『思想と動くもの』)
・Écrits et paroles, 1957.……EP(『書簡・講演録』)
⑴ 「良識と古典学習」
(“Le bon sens et les études classiques”, 1895)、「中等教育における哲学の位置と性格につい
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ての覚書」
(“Remarques sur la place et le charactère de la philosophie dans l’enseignement secondaire”, 1902)等
がそれである。
⑵ Gilbert Maire, “Rencontre de Bergson:Causerie radiophonique du 14 septembre 1954”, Les études bergsoniennes
Vol.IX, PUF, 1970, pp.204-208.
⑶ Gilbert Maire, Bergson mon maître, Paris, Éditions Bernard Grasset, 1935, p.9.
⑷ Rose-Marie Mossé-Bstide, Bergson éducateur, PUF, 1954, pp.32-33.
⑸ “Rencontre de Bergson:Causerie radiophonique du 14 septembre 1954”, p.203.
⑹ Jean-Pierre Seguin, La bienséance la civilité et la politesse enseignées aux enfants:Didier Érasme de Rotterdam.
Jean-Baptiste de la Salle.Henri Bergson, Le Cri, 1992, p.48.Jean Lombard, Bergson Création et Éducation, Paris, L’
Harmattan, 1997.
⑺ Adolphe Ferrière, L’École Active, Quatrième edition revue et réduite á un volume ,
Genève, 1930. 古沢常雄・小林亜子『活動学校』、明治図書、1989 年、57-58 頁。
⑻ 同上、103 頁。
⑼ Bastide, ibid, pp.204-207.
⑽ Lombard, ibid, pp.148-151.
⑾ Harriet E.Hunt, The psychology of auto-education:based on the interpretation of intellect given by Henri Bergson
in his “Creative evolution”, Syracuse, New York, 1912.
⑿ 拙稿「ベルクソンにおける〈生成の努力〉と〈多元的な目的性〉の概念の教育学的意味―プラグマティズム論との
関係性に着目して―」、『教育哲学研究』第 88 号、教育哲学会、2003 年、51-66 頁。
⒀ 「ベルクソンの道徳論における〈プロパガンダ〉
(宣教)に関する教育学的考察―〈呼びかけ〉と〈反響〉―」、『フ
ランス教育学会紀要』第 16 号、フランス教育学会、2004 年、19-32 頁。
⒁ Antoine Dalmace Sertillanges, Avec Henri Bergson, Paris, Gallimard 15 Avril, 1941. 三嶋唯義訳『アンリ・ベルク
ソンとともに―持続論・科学論・宗教論―』、K&K. K ライブラリ、1976 年、7 頁。カトリック思想家であるセルティ
ランジュには、Henri Bergson et le Catholicisme, Flammarion, 1941. と言う著作もある。
⒂ Jacques Chevalier, Entretiens avec Bergson:Avec un fac-similé hors-texte, Paris, Librairie Plon, 1959, p.228. 仲沢
紀雄訳『ベルクソンとの対話』、みすず書房、1969 年、255 頁。
⒃ Ibid, p.227. 同上、255 頁。
⒄ Ibid, p.236. 同上、264 頁。
⒅ Ibid, p.5. 同上、9 頁。
⒆ 澤潟久敬編『ベルクソン世界の名著 64』、中央公論社、1979 年、森口美都男脚注 449 頁。
⒇ William James, Human Immortality: Two Supposed Objections to the Doctrine, London, Constable & Co., 1898.
上山春平訳「哲学の諸問題」、『ウィリアム・ジェームズ著作集 7』、84 頁。
西田幾多郎『思索と体験』、岩波文庫、1980 年、3 頁。
拙稿「ベルクソンにおけるネオ・プラトニズム―美の(形)相と直観―」、『新プラトン主義研究』第 3 号、新プラト
ン主義協会、2004 年、103-118 頁参照。
ドゥルーズ(Gilles Deleuze, 1925-1995)は、ベルクソンをスピノザ(Baruch de Spinoza, 1632-1677)に近接させて
いる(Gilles Deleuze, Le bergsonisme, PUF, 1966, pp.94-95. 宇波彰訳『ベルクソンの哲学』、法政大学出版局、1974 年、
103 頁)。
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ベルクソンの自己生成
Le devenir soi-même de Henri Bergson
―L’expérience immédiate comme la révélation interne―
Yasuaki Tsuchiya
(Cherchu post-doctoral, Faculté de pédagogie, Université du Tohoku)
Le but de cet essai est de se pencher sur la question du devenir soi-même en se fondant non
seulement sur la pensée, la philosophie et la théorie chez Henri Bergson, mais encore sur sa
biographie.
Etudiant, Bergson fut très apprécié pour ses dons mathématiques, et il avait l’intention de se
spécialiser dans le domaine des cette discipline. Mais il apprenait la philosophie par un concours
de circonstances. Bergson y voyait une forme de volonté divine, puis il expliquait le passage des
mathématiques à la philosophie par la révélation interne. Il peut se faire que de des evenements
decoulent d’une destinée dans la vie des hommes.
Révléation interne est, c’est-à-dire une expression religieuse ou mystique. Si on l’ explique
rationnellement, elle est une expérience pure pour une âme ou une expérience immédiate pour
une spiritualité. Les hommes qui ont des spiritualités pures sont, au sens proper du mot, des
《idéalistes》ou des《distraits》. Ils sont moins préoccupés que nous du côté positif et matériel de
la vie. Ils sont plus détachés des vouloirs bénéfiques. A l’exception des mystiques, seuls le
philosophes et les artistes qui sont des《idéalistes》ou des《distraits》peuvent accéder a la vérité.
Keywords:Mots clés:révélation interne, expérience pure, expérience immédiate,《idéaliste》,
《distraits》
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