KOJ001303

聖教「 七 」のフォークロア
飯島
生命現象と「セ
吉晴
日の周期」
すべての生命現象には、 細胞、 器官、 個体、 さらには種のレベルまでさまざまな 波がみられ
る 。 それは、 細胞波や脳波などとして 現れるが、 睡眠と覚醒の 波や、 回遊や渡りの 波のような
地球規模の運動としても 現れる。 ところで、 こうした規則的な 波動現象は、 樹木の年輪のよう
に生物の身体の 硬質組織 (爪や 歯など ) にも日々刻まれているという。 それをみると、 セ 日の
「
周期」で同じ 感じの縞が繰り 返されており、 どうも地球の 生物の身体には 何か目に見えない 不
可思議な生命の 波動が忍び寄ってきているものらしい
(三木茂夫『胎児の 世界コ中分新書 ) 。
こ
うした生命の 波にはさまざまなものがあ るが、 女性の月経や 出産の周期も セ 日の週を基準に 数
えられており、 月の引力や潮の 干満が関係しているのかも 知れない。 このように、 われわれの
身体には宇宙やその 波動が文字通り「内臓」されている 訳であ る。
世界宗教と聖教「 七
」
ところで、 人類の出現や 一万年にすぎない 文明の歴史は、 生命の歴史に 比べれば、 ほんの一
瞬の出来事にすぎない。 キリスト教や 仏教といった 世界宗教はほぼ 二千年の歴史をもつが、 旧
約聖善の「創世記」には 神は天や地を 六日間で創造され 第セ 日にすべての 作業を終えて 休息し
たため、 この日を祝福して 聖別したとあ る。 このため、 ユダヤ教徒は 第七日の土曜日を 安息日
(サバト ) としているが、 キリスト教徒は 週はじめの日曜日を 聖日 (ホリデ一 ) にしている。
また「ヨハネ 黙示録」には、 セっ の教会・ ミ ・封印・ 星,・金の燭台 (メ ノラ )
.力
・目などの 言
葉 が出てくる。 ラッキーセブンの 考え方もこうしたユダヤ・キリスト 教の世界を背景として 生
まれたものであ ろう。 一方、 仏教でも、 人の死後は七日目ごとに 供養し最終の 七七日を中有と
いって死者が 別の世界に生まれ 変わる日にしている。 もっともこれはキリスト 教の復活祭の 前
の 四旬節にほぼ 相当し、 古代メソポタミアのイシュタル 女神の冥界下りの 神話でも、 冥界の玉
の前にでるまで セ つの門を通過するたびに 衣服や装身具を 一つずつ外して 冥界の中心についた
ときには全裸となったが、 そこで生命の 水をかけられて 地上に戻るときには 逆に衣服や装身具
をつけて黄泉がえったとされている。
この他、 仏典には セ難
・
セ福
セ情
・
セ聖財 ・セ室・ セ
珍など セ に因んだ言葉がみられる。
仏教語としての セ難
このうち セ 難についてみてみると、 七難とは一般に 種々の難点や 欠点を意味し 、 俗に女性の
色白の肌は セ 難を隠すなどといわれてきた。 しかし、 セ難 という言葉は 元来仏教に由来する 仏
教 用語なのであ る。 仏教では、 セ難 とは文字通り セ つの災難や困難をいい、 経典によってその
内容はさまざまであ る。 たとえば、 『薬師瑠璃光如来本願功徳
経 』では、 セ 難は人出疾疫 難 、 他
国侵迫難 、 自然叛逆 難 、 星宿変性 難 、 日月薄鈍 難 、 非時風雨 難 、 過時下面 難 となっており、
一 25 一
『
法
華経
』
(観世音菩薩普門品 ) では セ 難は火難、 水難、 羅刹 難 、 刀杖 難 、 鬼 難 、 伽 鎮雄、 冤賊難の
セ つになっている。 さらに、 『陀羅尼 集経 』では、 王難、 賊難、 水難、 火難、 羅病難、 茶棋尼鬼
難 、 毒薬難を セ難 としている。
このように、 七難は経典によってその 内容がさまざまであ ることがわかる。 - 玉般若波羅蜜
『 ィ
経口下巻 (受持 品 ) によれば、 「其の南閻浮提に 十六の大国、 五百の中国、 十千の小国あ り。 其
の国土の中に セ の 難 とす可きものあ り、 一切の国王、 是の難の為の 故に般若波羅蜜を 講読せば、
セ難 即ち滅し、 セ福 即ち生じ、 万姓安楽に帝王歓喜せん」とあ って、 具体的には セ難 として日
月 難 、 星宿 難 、 衆火難、 自説 難 、 悪風難、 克陽難 、 悪賊難をあ げている。 この七難を即滅し、
セ 福をただちに 生じさせるためには、 セ 難を説いた教典を 読 諦 したり、 その本尊を作法通りに
供養すればよいとされている。 伝教大師最澄の『七難消滅護国領
ョ
には、「是の如きの 功徳をも
て、 尽くニ十八元 梵釈衆 、 悪 龍 悪鬼 悪 腫の令に回向せば、 還って慈悲広大の 心を発して 皆 尽く
一切国土を護り、 天災地変 セ 雑筆 皆 悉く 滅 除して更に起らじ」とあ り、 また『姉帖和讃』の 浄
上 には「山家の 伝教大師は、 国土人民をあ はれみて、 セ難 消滅の諦 丈 には、 南無阿弥陀仏をと
なうべし」とあ る 0
セ難 という言葉は、 やがて仏教をはなれて 文学作品等にも 使用されるようになる。 たとえば、
『曽我物語』養二の 泰山府君のことには、 セ 星眼前にくだり 光をやはら げ給ふ 事 、 セ なんそく
「
わっ 、 セ福即 生の明文にかなひぬるをや」とあ る。 また『御伽草子』の「蛤の 草紙」にも、
問と生を
ぅ
「
人
けて、 親に従はぬ人、 この世にては 禍をうけ、 セ なんあ やまちにあ ひて 、 その見思
ふ事 かなひ難し」とあ る。 このセ 難は、 生、 老、 病、 死、 愛 離別、 怨憎 会 、 水下得、 五座陰 る
意味する同じ 仏教用語の八苦と 結びついて、 セ難 八苦の熟語ともなっている。 なお、 民間には
「
セ 難のそそ も 」という伝説もあ る。 これは、 巫女など特別の 女,性が長い 陰毛を持っていたと
う
伝説で、 実際にその陰毛を 祀ったものと 称する事例もみられる。 この伝説は、 女性の毛髪
のなかでもとくに 陰毛がもっ災難除けの 呪力が伝説化されたものと 解釈されている。
民間伝承のなかの「 セ
」
民俗の世界でも、 草分 セ軒
七草・ セ夜 ・七五三・ セ 鳥居
セ福神・ セつ 道具・ セ色 菓子・ セ所粥
・
セ 変化・セ人ミサキ・
セ墓 巡り・セロ・ セ 瀬など多様な セ のつく言葉がみられ、 多く
の 数や世界を表象したり、 物事の起源や 節目をなしたりする 整数になっている。
民間伝承のなかでは、 セつ 前は神のうち」とよくいわれている。 最近では、 この民俗学の 常
「
識と化した言葉には 資料的な裏 付けが乏しいとして 疑義を提示する 研究も現れている。 一般に 、
数えの セ つは満年齢でいうと 五歳に相当し、 幼児死亡率が 高かった近代以前の 民俗社会ではこ
の年まで生き 残ることができればほぼ 成人まで達する 見通しがたったのであ る。 それだけ子供
は現在とはちがって 死ととなりあ わせの存在であ って、 より神に近いものと 見なされていたの
であ る。 一人双の成人男性が ヒト であ り、 力
ま
は目に見えない 存在ではあ ったが、 力
あ えて描かれる 場合には ヒトと 対極をなす老人や 女・子供で表象されたり
力
ま
ま
の姿が
の役割を割り 当
てられてきた。 したがって、 生後間もない 幼児は何段階もの 社会的な誕生の 儀礼を通過してよ
うやく人間界の 子供として承認されたのであ る。
一 26
一
胞衣としての 産着
こうした儀礼の
一 つに 産着があ
る。 少し以前までは、 産着は誕生する 前に用意してはいけな
いとされ、 生まれたばかりの 赤ん坊はボロ や 使い古しの腰巻などにくるんでおいて、
三日目に
正式の産湯を 使ってから人間に 着物の印であ る袖のあ る産着を着ることができたのであ る。 そ
れまでは、 本当に人間の 子なのか魔物の 子なのか不明とされ、 また生まれたての 新生児は魔物
にねらわれて 危険な状態にあ るとみられていたため 男女の性別を 逆にしたり魔除けの 刃物をお
いたりさまざまな 呪 ないがなされた。 一風変わった 産着の一種に、
ノ
カケギ モ ノ 、 ヒッ カケギ モ
、 ウッ カブセギ モ ノ 、 エ ナ ギと 称し、 赤子に着せるのではなく、 覆ったりかぶせたりして 使
用するものがあ る。 たとえば山梨県の 早川町では、 一つ身や姉つ 身の袖なしの 晒しで衿には 赤
布を使ってそれを 伸ばして付け 紐にし、 負ぶった幼児にかぶせて 付け紐を子守りの 胸で結んだ
り、 負ぶい帯に挟んだりしたという。 この ヒッヵケギ モ ノ の背には、 衿にするために 切り抜い
た三角布を折り
返して七段の 装にして縫いつけ、 その上にセ色の 絹糸で セ つの大小に交互に 針
目をつけて四角く
縫い、 その中は対角線状に X 印にしたという。 この三角石 は 、 赤子の霊魂が
抜けでないように 守る背守りになっている。 近藤直也に
ょ
れば、 エ ナ ギ につきものの 三角 布は 、
死者の額につける 三角形の額烏帽子と 同様の機能をもち、 産後や死後の 生死どちらの 世界にも
所属しない一定の 猶予期間を表象するものであ るといい、 「イナギ を着る間は胎児としての 性格
を示し、 イナギ を脱ぐことによって、 胎児としての 性格を打ち消す 通過儀礼的要素を 、 イナギ
と
三角布は持ち 合わせていた」と 指摘している (近藤直也『祓いの 構造 創元社 ) 。 早川 W では
コ
これを一歳くらいまで 用いたが、 山に赤子を連れて 行くときは頭越しにかけていき、 ないとき
は 柴をかざして 山の神の前を 通ったという。 神々の前では 赤子は陣かりがあ るといい、 赤子が
笑うようになるとこの 産着をとったが、 それでも山に 行くときはつけていき、 七つ前に死亡し
た場合には着せて 葬ったという。 新潟県東蒲原郡の 上川村では、 同種の産着をエナ ギ とよび、
生後三日目には 赤子を イズメ に入れて頭上にかぶせたり、 寝た子の上にかけたという。 ここで
は、 エ ナ ギ は取り上げ 婆 さんが縫ってくれ、 初 誕生双くらいまで 着せておいたが、 とっておい
て子供が言
ら
う
ことを聞かないときに 見せるとおとなしくなるという。 エ ナ ギ の着用は宮城県か
千葉県に至る 東日本各地に 分布している (近藤直也、 前掲 ) 。 利根川流域以北では、 エ ナ ギ は
肌嬬 絆などのように 主に下着として 誕生後またセ 口・二十一日目から 一定期間常に 着用される
のに対し、 利根川以南の 地域ではニ +-
日や百日の宮参りの 際にのみ通常の 産着の上にかぶせ
て 儀礼的に着用する 上着とされている。 また京都府相楽郡の 和束町から滋 賀県にかけての 山間
部では、 子が生まれると 里から ヵブセと 称する一つ身の 着物が届けられ、 寝ている赤子にの 顔
にかぶせたという。 中世の説話 集 には、 地獄の奪衣婆は 誕生に際して 赤子に エ ナを貸してやり
逆に死んで亡者として 戻ってきたときには 死装束を返却する 話が出てくる。 エナ (胞衣 ) と死
装束は、 ベクトルは異なるが 等価なものとされ、 ともに顕幽両 界を行き来する 旅装束や蓑笠な
どともみられていたのであ る。 実際、 エ ナ ギ を着せないと、 死後見に裸にされるという 伝承が
あ り、 これを着せないと 人を食うとか 噛みつくともいわれ、 エ ナ ギ は胎盤を象徴するものとさ
れてきたのであ る。
エナをかぶったまま 生まれた嚢子は、 ユーラシア大陸全域でシャーマンになったり
動物への
変身能力をもつと 長い間信じられており、 英雄の卵生神話もその 反映とみられている。 真床 襲
一 27
一
余や天の羽衣などの 再生に用いられる 衣と 同様のものといえ
よ
う。 ヵブセやエ ナ ギ などとよば
れる産着は、 まさに一種の エ ナなのであ り、 赤子として生まれる 前の故郷であ る 冥 界へのいわ
ばパスポートでもあ ったのであ る。 斉藤たまは、 これらの産着と 数字の七が結びついている 点
に 注目し、 「さきに七段のひだに、
セ包、 セ つの針目とあ ったが、 セは 何か意味を持った 数字な
のらしい。 お び ときのセ 歳もそうだし、 九州、 奄美の方では、 正月の七日に、 セ つになった子
が セ くさ粥をもらいに 歩く。 それまで子にはセ 人の神さまがついている。 この日に発たれると
いうのであ った」㎝ 生 とものの け コ新宿書房 )
と
述べている。 神奈川県茅ケ 崎市高田では、 婚
姻儀礼で花嫁が 嫁象 のジョウ グチ を入る際に男女の 子どもが菅笠をさしかけるが、 この菅笠を
エナと称している。 誕生のときの 胞衣と同じ意味だからだといい、 やはりこれも 娘から 嫁 へと
生まれ変わる 儀礼といえる。 またⅡ伊勢 国 白子 領 風俗問状谷コには、 死後セセ日の 四十 L 餅に
プ
関して、 「さて四十九日に 大なる餅を、 四十九の餅の 上に置、 寺へ贈る。 是を笠の餅 と云。 俗
に再生し来たる 時、 北鮮胞衣となり、 四十九の餅は 骨となると 云習 はせり」とあ って、 白子領
では笠の餅がエナとなって 再生するとみられていた。
一般に 、 セ歳は正式に 氏神の氏子となって 村の成員として 民俗行事に参加し 社会的役割を 果
たす節目の年齢なのであ る。 なお、 イスラム教徒の 間でも、 「セ目目の祝い」と 称して産後七日
目の新生児を 箕に乗せて炉の 上にもっていく 風習があ る。 箕や節の上に 赤子を乗せる 習俗は
ユーラシアに 広くみられ、 嬰児を セ 口目に炉に供えた 古い時代の名残だとされている
一
(井本英
『境界 祭祀空間コ早 河 出版 ) 。 生のもの ( 自然) であ る新生児を炉の 火で調理したもの
化 ) に変換し 、 此の世の存在にしょうとしたのであ
(文
ろう。 誕生儀礼ではないが、 沖縄の久高島
で -l二年に一度おこなわれるイザイ ホ 一の神事の セツ 橋は 、 神 アサ ギ の入口にあ る半ば砂に埋
もれた小さな 梯子状の丸木橋で、 新たに神役になるナンチュが 神歌のなかを 一人ずつ渡ること
になっている。 もしナンチュに 不浄不貞があ れば橋から落ちて 死ぬという伝承が 伴っている。
セツ 橋は人と神の 世界をつなぐ 橋 なのであ る。 以上の諸 側 が示すように、セ つの構成物は 曜日,
惑星・ ズ 虹
・
・
海 ・美徳と悪徳・ 学芸 (教養科目 )
. 音階・賢人など、
時代や文化をこえて 存在
し、 その神聖さは 際だっている。
このように、 セ という数は完壁な 秩序や循環を 意味し、 知恵や幸運の 数を表象する 空教でも
あ ったのであ る。
古代ギリシアの セ 不思議
古代ギリシアの 哲学者ピタゴラスは「 セは三と 四に分けられる。 三は神 (三位一体
=
父 子
・
・
精霊 ) を表し、 四は四方世界 (東西南北 ) を表す。 この三と 四を合わせた セ という数字は 、 軸
限の神と有限の 世界を同時に 示すもので、 宇宙全体はこの セ という数字のなかに 完全におさ
まっている」と 述べている。 一般に、 不思議な現象を 数えるときも、 セ 不思議」といって セ の
「
数を用いている。 紀元前 3 世紀以来、 古代ヘレニズム 世界から選ばれた セ つの巨大で美しい 建
造物が、 ギリシア語で Hepta Theamatta といわれ、 セ 不思議にあ たる。 これには普通、 ピラ
ミッド・バビロンの 城壁・バビロンの 空中庭園・オリンピアのゼウス
像
・
マ ウソロスの霊廟・
アルテミス神殿・ロドス 島のアポロンの 日像があ げられるが、 このうちいくつかはアレクサン
ドリアの大灯台 (ファロス ) などと置き換えられ、 また後世にはローマのコロセウム・コンス
一 2R 一
タンチノープルのソフィア
寺院・エルサレムのソロモン
神殿などが入った。 ギリシア語の
Theamata は元来「眺めるべきもの」の 意味だったが、 ラテン語では Septem Mlrac Ⅲa と訳さ
れたため、 英語で Seven Wonders (七不思議 ) となったのだという
(藤縄謙三による )。 古代
西洋の七不思議はピラミッドの 他は現存しないが、 驚異に値する 巨大な建造物であ っても、 わ
れわれの感覚の 不思議とはやや 異なっている。
七不思議と聖地
不思議とは、 仏教語「不可思議」の 略で、 われわれの思考世界を 越えた届き得ない 深 い 心理
や現象を意味し、 言葉で言うことも 心で思
う
こともできないものであ
り、 仏典には四種・ 五
種 ・十種などの 不可思議もみえている。 日本の「 セ 不思議」は、 基本的には仏典の 不可思議 セ
種を天然自然のうちに 求めて総称したものということができる
。 この言葉は 、 古くは嘉禎四年-
(1238) の奥書のあ る「諏方 上仕物忌 令之事 」に信州諏訪大社の 神威を示すものとして 使用さ
れている。 『本朝俗諺 志 』には諏訪上 社 七不思議として、 具体的に湖水神事・
元旦 蛙狩 ・五穀筒
粥 ・高野鹿 の 耳割 ・御作田・葛井 社清池 ・宝殿点滴の セっ をあ げており、 葛井 ケ 池の魚がすべ
て片目であ ることもまた 一つの不思議だとしている。
諏訪の セ 不思議の影響からか、 信州にはなぜか セ 不思議が多く 存在しているようであ
る
(降
旗利治『信州七不思議』郷土出版社 ) 。 東の諏訪大社に 対して、 西では四天王寺の 七不思議が古
くから知られていた。 幸若舞「敦盛」には、 「天王寺と申は、 しゃうとくたいしの 御願なり。 セ
ふしぎのあ りさま、 こうは ふ るともつきすまじ」とあ る。 こ 寺の七不思議は、 やはり『本朝俗
諺悪ロ によ れば、 「大坂四天王寺に、 三水瓜石の七不思議あ り。 所謂亀井の水、 閲柳 井、 荒陸地、
四百ハ転法輪、 礼拝面、 影向 石 、 引導方なり」とあ
って、
いずれも霊泉や 神霊の依代となる 石
があ げられている。 これらの古 い 中世の七不思議には、 神事や信仰に 深い関係をもっ 自然現象
やものが選ばれている。 あ るいは逆に不思議な 自然現象が信仰対象とされ ゼ 不思議とされたの
かも知れないが、 ト占での神意の 発現を含めて 神霊の出現や 去来と結びつけられていることが
注目される。 当時の人々がどのようなものに 不思議を感じていたのかをみると、
目に見えない
神霊が出現する 際に依代となる 霊泉や石などが 多い。 つまり、 神霊が此の世のどこに 出現する
のかが問題なのであ り、 そうした聖地はいずれも 霊界や異 界と 此の世が接しているような 境界
的な場所と
い えるのではなかろうか。
七不思議は、 世界をどのように 考え構成していたかとい
う世界観をあ る意味で反映したものでもあ り、 不思議のたち 現れる場所はまたすべてのものが
根拠づけられるところでもあ ったのであ る。
日本各地の七不思議
中山太郎は、 文献調査の結果、 七不思議は全国にわたって 約 80 種ほどあ るが、 最も多いのは
越後で セ 不思議が セ つもあ って四十九不思議物語という 書物さえあ ると述べている㎝ 日本民俗
単 辞典 肋 。 越後の七不思議は、 『東遊記
メキ村の同様の 火 (大井 ) . 蓼村の臭水
コ
によれば、 三条如法寺村の 地申から燃え 出る 火 ・カラ
(油の出る 池 ) . 鈍鈍 (越後国中 ) . 寺泊の波の題目
(日
蓮が配流の際に 海上に書いた 妙法蓮華経が 波に浮出る ) .鳥屋野の逆様 竹 (親鸞が配流の 時に 挿
した杖が成長したもの ) .支出 の ハツ房の梅 (一つの台に花実 八ッ 咲き実る 梅 ) だというが、
一 29
一
こ
の 他にも三度栗 (一年に三度実る 栗 ) .繋ぎ 栖 (親鸞が糸で繋いだ 梱の実を植えたため、 今も実
に穴があ る )
.
セツ坊主 人ツ滝 (七つ時分には 坊主、 八つ時分には 滝にみえる 山 ) . 弘智 法印の
遺骸などの不思議があ げられている。 「怪しきことの 重なれるを俗に セ 不思議というなるは 、 越
後より起これるにあ り」といわれるのに、 ふさわしいほど 多くの不可思議な 現象が江戸からみ
て周縁部に当 る 越後には見られたのであ る。 明智次郎は、 越後の七不思議として、 三条市如法
音の 燃 風人・西頸城郡名立町の 四海波・中頸城郡妙高山 赤 坊主 人滝 ・新津市 柄 目木の臭水・ 中
蒲原郡村松 町 河内裏 坊塔 ・栃尾市塩中の 塩水・中頸城郡柿崎 町 米山腰の燃 石 をあ げている㏍世
界大百科事典』平凡社 ) が、 川越名号・数珠掛け 桜 ・片葉葦などを セ 不思議に含めている 場合
もあ って、 諸説があ るようであ る。 越後の セ 不思議では、 石油や石炭などこの 地方独特の地下
資源を不思議なものにあ げている点に 一つの特色があ り、 逆さ竹・姉度栗・
片葉葦など他地方
と共通するものも 少なくない。 また親鸞信仰の 盛行にともない、 とくに近世以後、
親鸞伝説は
越後の七不思議と 結びつけられる 例も出てきたが、 これは他の宗教者や 武将と諸伝説とが 結合
されているのと 同様なものといえる。 セ 不思議には、 今日の科学的な 立場から合理的に 説明で
きる自然現象もみられるが、 当時の人々の 理解を越えた 現象やものをどのように 認識し言葉で
表現し ィ云説 に定着させていったかという 点で興味はつきない。 たとえば、 鎌馳 による傷は痛み
も
出血もないため 小 旋風の中の負圧の 部分に触れてできたものと 説明されているが、 それを悪
霊や魔 獣 のしわざと想像したり 古暦の黒焼きが 治療に効くと 信じたりすることや、 これが一定
の堤や辻などで 多く出合うことなどが 注意される。 これは旋風が 起こるのは、 地理的にも境界
的な場所であ ることを示しており、 そこに不思議を 感じて 鎌馳 という表現を 与えて理解しょう
としたものといえる。
遠州の セ 不思議は 、 浪の音 (m
海鳴り ) .桜ケ池 (渇水期にも枯れない 池 ) .小夜中山の夜泣石
無間の鐘・三度栗・ 片葉草・克丸牡弛
(悲恋のため身投げした 二人の魂が牡弛の 花になった )
であ るが、 小夜の中山の 夜泣石や無間の 鐘など此の世とあ の世の境にまつわる 伝説がやはり セ
不思議に入れられている 点が注目される
『兎園随筆』に
ょ
馬 が話をしたこと・
(加藤 鎮毅 『遠州セ 不思議の旅 J) 。 甲斐の七不思議は、
れば、 甲州善光寺の 如来の汗・甲州切石村百姓 八 右衛門家の天鼠・
石畑 村の
八日市場 切 村石村前沢村で 牝鶏が牝鶏に 化けたこと・ 東都一町田中の 辺り
で六月に電が 降り鳥獣を打ち 殺したこと・セ 両 山 が鳴り御油 が濁ったこと・ 遠州豊田郡月村百
姓 十郎 方で鍬に草が 生え花を開いたこと
(すべて鍬のかねでできたもの ) であ るが、 これに 続
けて「大人星出づる 年ハ 怪しき専有りといへり。 当年星合これにあ たるといふ。 且つ五穀無実
異動と申す事に 御座候。 右左 外 、 越後高田大雨風、 大多く死す。 信州松本大地震 之由 」とあ
り
すべてニュースに 近い奇事異聞の 類が セ 不思議になっている。 ここには遠くの 土地の珍奇な 話
や 事件ばかりでなく、 大人星の出現による 未来の出来事の 予測まで記されており、 対面的なコ
ミュニケーションによる 直接的経験の 支配する村などの 小宇宙から、 時間的空間的に 隔たった
伝聞 (部分的経験 ) やさらに空想 (物語などのフィクション ) でしか近寄れない 世界での話題
が 記事にされている。
メディアの発達と 七不思議の変容
神仏の威力の 発現が奇異な 自然現象や神事と 結びつけて語られていた 古い中世的なセ 布,思議
一 30 一
は 次第に廃れて、 大都市江戸から 遠く離れた越後、 甲斐、 遠江などの周縁地域の 世間話的な事
柄の方が、 むしろ近世中期の 生活感覚の中では セ 不思議の中心に 浮上してきたのであ る。 これ
らの地方は、 身近な世界のようにその 全体を直接見聞するわけにはいかず、
一部は旅などで 体
験 できても大半が 伝聞という間接的な 情報や経験に 基づいて把握され 認識される世界であ る。
こうした全く 空想的な神話的な 世界ではないが、 主に伝聞を通してしか 知り得ない世界が セ 不
思議の主要な 舞台になってきたのであ る。 村のような小さな 世界の境界がすぐに 冥界という 想
像の世界に接していた 時代から、 交通交易の発展により 人、 物資、 情報 (知識 ) の流動性が以
前に比べて飛躍的に 高まってきた 田沼時代以降になると、 人々の世界認識も 広がって古い 昔話
や伝説の衣をまとったような 話では満足できず、 瓦版などの出版その 他のメディアの 発達とと
もに、 より現実に近いニュース 的なものへの 関心や要求が 生み出されていったのであ ろう。
現代社会はコミュニケーション 手段が高度に 電子化され、 われわれは普段交通交易や 情報獲
得の手段を水や 空気と同様に タダ みたいに考えてその 恩義を感じなくなっている。 しかし、 わ
れわれの住居が 非個性的で抽象的な 居住空間に近づいてきたことの 背景には、 近代以降、 情報
通信手段や物流を 極度に発達させ 機械化・非人間化を 推進してきた 事態があ る。 そして現代で
は、 その新しい交通通信システムに 従うことが強いられ、 それに従属しない 限り生き残れない
ようになっている。 これに対して、 高取正男は「近代以双の 社会では、 新しく能率の よい もの、
かならずしも 絶対的な力はなく、 社会上下をあ げての信望を 担うということもなかった。 相対
的な優越だけにとどまり、 社会文化の表層を 形成するだけにとどまっていたから、
旧来のもの
はその背後に 消滅することなく、 十分な生活力と 生命力をたもって 生残ってきた。 もちろん、
近代や現代のそれが、 単層であ るというのではない。 仲略 ) けれども、 その表層を形成してい
るものの厚さと、 力量の相違は、 近代と近代以前とでは 比較を絶する 質的な隔たりがあ った。
近代以前の社会文化の 有していた独特の 重層構造は、 こうして社会のコミュニケーションのシ
ステムのなかに、 いちばんよく 明示されている。 コミュニケーションの 媒体が機械化する 以前
は、 一国の文化は 独自の重層構造をたえず 強力に再生産していた」㎝ 日本的思考の 原型
講談
社 新書 )
と
燈龍燈
潮石 ・龍馬・ 震石 ・金石・日毎 雨 ・不増不減水であ るが、 諏訪や四天王寺のそれにか
・
述べている。 江戸や京から 隔たった土佐の 七不思議は、 『諸国里人
ョ
談コ
によれば、 天
なり近い現象やものが 多く、甲斐のものとは 大分異なっている。 鹿島の七不思議も、
『木曽略名
所 図会コ によ ると、 要石,御手洗池 末 なし 川 ・尖根石・ 結松 ・三度栗・セッ 井であ り、 石
・
湧水・木に因んだ 伝説に基づく 古いものが目立っている。
江戸の七不思議
セ 不思議は、 江戸から遠く 隔たった地方だけではなく、 江戸の町の周辺部に 属す本所、 麻布、
千住、 番町、 下谷、 馬喰町などにも 存在する。 本所の七不思議は、 片葉草 (両国橋周辺 ) .置い
てけ堀 (御蔵 橋下 の 堀 ) . 送り提灯 (本所 南 割下水 ) .狸 雛子 (東駒形 ) . 足洗い屋敷 (天井から
出た大足を洗った 化物屋敷で以後出なくなった ) . 津軽家の大鼓 (両国の津軽稲荷 ) . 明かりな
し ソバ (津軽稲荷のそば。 客が行灯に火を 入れようとしてもすぐ 消えるソバ屋台 ) などでバリ
エーションも 多いが、 怪 昔や怪火にまつわる 現象が少なくない。 本所は堀 割 湿地帯で寂しい 原
野 だったのであ り、 見通しが利くために 夜間はとくに 大気や気象の 関係で遠くの 音や火が反響
一3 一
Ⅰ
したり見えたりすることがあ る。 さらに、 本所の七不思議は 一種の境界でもあ る橋 やその周辺
で語られる場合が 少なくない。 たとえば、 本所の七不思議の 一つぼ「幽霊 橋 」という変異型が
あ って、r 陰陽覚伝 磐 声聞』には「往来 此 / 橋 ニテ座頭 ヲ 殺害セシ
コ
トアリ。 政ニ 其 / 幽霊深更
二化 / 橋ヲ 彼方 ニ 渡り、 是方ニ渡 ル虫 也 。 併シ誰 アッテ 其 / 姿ヲ見 タル者 ナシ
ガタ
ト
ト
雄モ 、 只 ガタ
下駄 / 昔ヲ為 セリ。 政ニ 彼 / 幽霊地 ト云ヘリ。 依テ 人々恐怖シテ 此 / 橋ヲ 幽霊 橋ト称
ク
山 也」とあ る。 また麻布の七不思議は、 善福寺の逆さ 銀杏・六本木の 地名・要石・ 釜 無し横町,
狸穴 ・羽衣の松・ 広尾 ケ 原の送り雛子などであ り、 宗教者や武将に 関連した伝説をもつ 聖なる
樹木、 湯立て神事やト 占に係わる釜の 信仰、 大地 0仕ヒの世) を 支える要石、 怪昔や変化に 深い
関係をもつ 狸 といったものが 不思議な現象に 関連づけられている。 これらの七不思議は、 怪昔
や 怪火、 神木、 橋 や 堀など水辺の 怪異現象に関するものが 大部分を占め 古い型に属している。
宮田 登は 、 本所、 麻布、 千住などの セ 不思議がみな 光と昔を軸に 構成されているのは、 「天然
自然現象をバックとして、 聖域がかつてあ ったと思われる 空間に伴って 生じたものを 総括して
いる」㎝妖怪の 民俗学』岩波書店 ) からだとしている。 江戸の地域開発に 伴い、 かつての聖地
だった場所の 伝承が古い非合理的な 部分を留めたまま 伝説化したために、 このような セ 不思議
が 生まれたのだと
レ
Ⅰ
つ
。 江戸各地の七不思議は、 荒川や隅田川の 水辺にあ たる江戸の北から 東
側に集中的に 見られ、 とくに千住大橋や 両国橋、 永代橋などの 橋をめぐる空間に 限定して語ら
れているものが 多い。 これらの大川をはさんだ 大橋の両側や 古い稲荷社の 小祠が集まる 台地と
低地の境界であ る沖積大地の 縁辺部は 、 川や橋、 坂によって冥界に 通じる特別の 場所であ るた
め、 セ 不思議が集申したのであ る。 宮田はこうした「 セ 不思議は、 江戸が大都市化する 時点で
設定された現象であ り、 いわば都市のトポスを 支える心意の 原点にあ たるものの一つと 考え も
れる」 揃掲 )
と
述べている。
自然環境の破壊と 怪異現象
狸が 汽車に化けた 偽 汽車の伝説はこだまなど 昔の共鳴現象が 背景にあ るのに対して、 狐火や
不知火などの 怪火 伝 もやはり一種の 自然現象に基づくものとして 気象学等で研究されている。
これらの怪異現象は 基本は自然現象なだけに 開発が進展し 二酸化炭素などが 増加し大気が 汚染
されてくると、 生起しにくくなるという。 妖怪や不思議を 感じる想像力は、 自然とともに 衰弱
していくのであ る。 こうした怪異な 現象や伝承を セ 不思議として 文字で記録し 定着させる試み
も、 大きな時代の 変化の中で出てきたものであ るといえる。 本所や麻布の セ 不思議が伝説に 近
いのに比べると、18世紀末の寛政年間に 記録された東武セ 不思議や馬喰町七不思議は 人事関係
たとえば、 八十才の老女が 男女の子供を 産
を中心とした 大分趣きが異なるものとなっている。
んだとか、 鯨が品川神に 入ったとか、 飛鳥桜の返り 咲いたなどという 語や、 女房が 卵 (袋子か )
を産んだり、 雄大 に _ 匹の雄大がつるんだり、 天水桶で四つの 子が水死したとか 怪しい獣など
という話題は 世間話や奇事異聞の 類にかなり近いのであ る。 こうした何が 不思議だか分からな
いものまで不思議と 考える傾向も、 宮田 登によ ると、 都市の人間がその 生活感覚の中で 生み出
してきたものだという
(前掲 ) 。
一 32
一
学校の怪談とリアルさの 喪失
現在、 学校の怪談が 子供たちの間で
- つの大きなブームになっている。 これは学校のトイレ
や階段のほか 体育館、 音楽 室 、 理科室、 保健室、 校長室など特別教室や 運動場をめぐって「 学
校のセ 不思議」といった 形で怖い話や 不思議な話が 盛んに語られて
レ
) る 現象のことであ る。 J丘
代化の中でいち 早く制度化され 知識を授け教育する 中心的施設であ る学校は、 子供達の身体や
考え方を近代社会にふさわしく 作りなおし、 近代社会や産業を 支える人材を 育成する場とされ
てきた。 だから、 そこでさまざまな 怪談が盛んに 語られていることは、 まさに不思議なことで
あ る。 もちろんいろいろな
メ
というものを
引き寄せ、 子供たちは彼等なりに 相対化し理解しようとしているの
自分の手元に
デイ ア の影響を考慮する 必要があ るが、 それらを語ることで 学校
かも知れない。
ィ
可を不思
言義
とするの; 、 という問題は、 時代とともに 変化していく。 それは情報獲得する 手段
が発展し知識が 広がるに つ れ、 未知のものを 解明したり未到の 地を訪れたいという 要求はそれ
ほ つれて大きくなり、 表面的には既知の 世界はますます 大きくなっている。 しかし、 これは世
界を有限のものとした 場合のことであ って、 もし無限であ れば事情は違ってくる。 人は本質的
に分かることしか 理解できないのであ り、 発見といってもすでに 分かっていることをたどり 直
すだけなのであ る。 確かに知識は 以前の時代に 比べ膨大な量になってはいるが、 ものごとをネ寒
く
考え認識する
ろうか。 今や情報や通信手段が 機械化し非人間化してしまったた
力 はどうであ
わ に、 情報の洪水に 流され自分の 足元を見失がちであ り、 情報を知識として 利用し選択はして
も
、 それを自分の 手でしっかり 確かめ見直してみる 機会は少なくなっている。 だから、 何かを
少し深く考えようとしたり、 何かに疑問を 持ち始めると、 すべてが分からないことだらけにな
る。 本当は根拠はないのだが、 真実のこととして 情報を流通させているだけではないのか。
説的だが、 本当にリアルなものがみつからなくなったために、
逆
すべてが幻想の 物語になってし
まっているのであ る。 七不思議の伝承を 検討してみると、 各時代に応じて 未知と既知とのはざ
まから、 内部と外部の 裂け目から、 不思議なものが 言葉にされて 出現しているようであ る。 ボー
ダーレス社会の 現代は 、 目にはっきりと 見えなくても、 あ る意味であ らゆる所に セ つとは限ら
ない多くの不思議なことどもが 存在しているといえよう。
木本稿は「 セ不思議を読み 解く」㎝フォークロア 02 号 1994 年 本阿弥書店 ) に加筆訂正したものです。
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