書評 (堀田)― 125 【書 評】 「社会は越えられた」のか? ― ジョン・アーリ『社会を越える社会学』を読む 評者 堀 田 泉 『社会を越える社会学―移動・環境・シチズンシップ』 ジョン・アーリ/著、吉原直樹/監訳 法政大学出版局、2006 年 5 月刊 I ネットワークとフロー 現代社会の具体的な進展とその意味が既存の社会学によっては捉えきれない、という認識に到達 すれば、 「社会学の解体」が必然とされざるを得ない。アーリをそう促しているものをキーワードで 表すならば、日々めまぐるしく展開するグローバルなネットワークと、もはやコントロールのきか ないフローの世界、そしてそこから生み出される多様なハイブリッドである。その背景をいま少し 具体的にいえば、国民国家の変容、IT 技術の革新、自然環境という相互に関係させて理解すべき 20 世紀末から姿を現した 21 世紀的諸問題であり、グローバリゼーションである。この状況を前にして、 社会学のディシプリンとしての領土や境界にそもそも意義があるのか、あるとすればどこ設定しな おされ、どのような内容がいかなる方法で扱われるべきなのかという問いに向き合いつつ、アーリ は本書全編にわたって社会学の再構築を試みる。それはあらゆるものが著しく流動化し、行方も定 かでないまま加速化する現代社会というわれわれのリアリティの存立の根拠を説明するものとして、 極めて刺激に富むものである。 序章「(諸)社会」では従来の「社会組成的(societal)」な社会諸理論が自明の前提としてきた「社 会」の概念把握のしかた、すなわち国民と国家に結びつけられ、主権、ナショナル・シチズンシッ プ、社会的統治性が中心に位置づけられた自己-再生産的な実体としてのシステムという理解の有効 性が否定される。出発点に定められるのは、そのような「社会などというものは存在しない」ので ソサエティ モビリティ (368 頁)とい あり、最終章「社会学」における「社会 よりも移動 を中心に据える社会学の再構成」 う到達目標に向かって有効な分析の視点や方法が吟味され、理論が組み立てられていく。しかしそ 126 ―ヘスティアとクリオ Vol.4(2006) れは無からの理論化ではないし、事態が「社会の終焉」でないのは、 「社会学の終焉」ではなく「社 会学の再構成」が語られることが示すとおりである。アーリが明らかにしようとするのは社会と自 然とを含み込んだ新たなシチズンシップからなる「グローバルな市民社会」の意味と意義、および それを取り巻く諸問題である。それはかれが該博に引用する従来の社会学や隣接諸科学の成果を抜 きにはありえないし、何よりもアーリほど理論形成に敏感な社会理論家についてならば、以前の仕 事も含めたかれの体系的思考のなかでこの研究が検討・評価されねばならない。 序章と最終章の中間に位置するものは、第 2 章から第 6 章までの新たな社会を認識するための方 法概念的部分と、第 7 章のシチズンシップの考察部分に分かれる。しかし「脱境界」を注視するア ーリにふさわしく、現代の多彩な社会事象をちりばめた両部分の叙述は相互に響き合っているがゆ えに、読み進むうちに錯綜する世界の一瞬のクリアな理解をもたらしたり、冗漫な繰り返しの印象 を持たせるところもある。これらが内的に結びつけられて現代社会に対する統一的・体系的な理解 へと進められていくところが本書の眼目をなすと思われる。その媒介をなしているのはヒト、モノ、 情報の移動の今日的様態である。 まず、方法としてとりあげられるのは社会科学における「メタファー」、 「旅行」、 「感覚」、 「時間」、 「居住」などである。アーリによれば、社会科学でますます広まっているメタファー的思考は、グ ローバリゼーションを空間的に的確に捉える有効な手段とされる。従来、社会は圏域的・垂直的・ 領土的なメタファーによって語られてきたが、もはや水平的ネットワーク、流動体、球体といった 運動のメタファーなしに、瞬時にして大量に、しかも定まった方向性もなしに飛び交うフローの世 界は把握されえない。それにともない、社会は空間的に脱-領土化され、中心が周縁化され、ネット ワークによってますます「文化的」にアイデンティティが形成されていくようになっている。この 異種混交的でコスモポリタンな社会では、ネットワークの内部の人間の主体的な能力のありかたも、 人間が意図を持って外の世界に向かって成果を実現していくという「近代的」な行為の主体という 意味合いからはかけ離れていく。 「機械やモノ、テクノロジーは人間の営みを支配するのでも、それ シチズン ガン に従属するのでもなく、人間とともに一体となって構成されている」 (140 頁)。その例が「市民 =銃 」や写真撮影者、自動車運転手、風景の見物人などの数々の簇生するハイブリッドである。これら は新しい感覚の担い手になっている。 だから感覚や時間も変容している。とりわけ視覚は近代西洋においては、他を支配するまなざし として、科学的方法の基盤として絶大な力を発揮してきたが、これがデジタル化されることによっ て、視覚体験と環境との直接的な結びつきを成立させなくしてしまう。そしてこの視覚は、不連続 性と不確実性の上に成り立っている没場所的な「瞬間的時間」と密接に結びついている。ここでア ーリが展開する時間論は、近代を仕切ってきた「クロック・タイム」への批判的省察である。量子 力学や複雑性まで持ち出されて、それは唯一のものでも、自然的なものでもないし、鉄道の発達に よる時刻表や学校教育の規律化などとともにある社会的制度であったことを確認したうえで、 「瞬間 、、、、、 的時間」とその対極にある「氷河の時間」がグローバリゼーションを解読する複数の時間として提 書評 (堀田)― 127 起されるのである。そして「居住」においてはこのような感覚が、新しい帰属感や想像の共同体を 生んでいることが論じられる。 このような方法的切り口によって特徴づけられる現代社会は、ポストモダンという手垢にまみれ た用語は極力避けられつつも、近年のその議論のなかで共有され、強調されてきた認識そのものを 遺漏なくふまえている、といってよい。たとえば脱-分化、脱-差異化、言説による文化の形成に対 する図像によるそれの優位などといった論点はランカスターの同僚スコット・ラッシュの「ポスト・ モダニティの社会学」とともに読めば、よりリアリティが迫ってくるであろうし、ポストモダン的 現象の社会理論への送り込み方も理解しやすくなる。時間論はバーバラ・アダムであろう。アーリ 独自の理論的貢献は先に指摘したように「旅行」という事象から概念化される「移動」ですべてを 説明しようとしたことにある。 II 中心点としての「移動」 「旅行」を考察する第 3 章は、社会学の再構築への方法の具体的展開であるとともに、市民社会 論への橋渡しの役割が最も大きいので、丹念な読みが必要となる。実は「感覚」も「時間」も「居 ムーブメント 住」も移動あるいは動 き と密接に関連しているし、ネットワークもフローもまずは動態的なもので あるのは論をまたない。アーリはこれを、身体的な移動(ウォーキング、鉄道、自動車、航空機と 空港)、モノの移動、想像上の移動、バーチャルな旅行に分けて歴史的および理論的に説明を加えて いく。これらは社会空間的な実践であり、文化や社会生活を形成してきたこと、そして今まさにナ ショナルな市民社会からグローバルな市民社会へと道筋を拓くもの、しかもこの「移動」への顧慮 が従来の社会学に欠落していたものとして捉えられている。 ウォーキングは場所の本質を追求しつつ場所を消費すること、自然賛美に不可欠なものであり個 人主義イデオロギーをつくってきたこと、鉄道旅行はクロック・タイムを標準化し、他所の場所と の関連で主体性が構成されるのに力を貸したこと、モノ(商品)の移動はビロード革命の推進力に なったこと、TV による想像上の移動=旅は公的世界と私的世界の区別を曖昧にしたこと、サイバ ースペースのバーチャルな旅行は空間を越えた交感や近接性を実現するデジタル・ノマドのコミュ ニティを作りつつあること、などが次々に語られていく。現代社会の日々変化する諸現象を鮮やか に社会理論へと取り込むこの試みはエキサイティングであり、説得的である。 とりわけ、従来の産業社会学、消費の社会学、都市社会学が部分的にしかとりあげてこなかった 自動車による移動の連鎖的反応を 20 世紀の資本主義(フォーディズム)、個人的消費、社会的地位 (アイデンティティの形成)、スピード感覚や視覚の拡張、自動車が居住の一部をなすこと、環境問 題、支配的文化(自動車化された時間-空間が編成され、自動車抜きには市民社会の成員としての通 、、 常の活動ができないようになり、しかもそれが良い暮らしであるという言説の流布)というように、 多くの観点から総合的に捉えて議論の中心に据えたのは、ハーヴェイの先駆的指摘を除けば卓見だ 128 ―ヘスティアとクリオ Vol.4(2006) ろう。20 世紀において自動車が資本主義の中心産業であったということのみならず、どれほど都市 や農村や郊外の景観や機能的形態を根本的に変えてきたかを考えれば、そして機械としての自動車 の基本構造はここ半世紀近く本質的に変化はなく、しかも燃料は別としても当分はこのかたちでの 自動車社会は地球上にさらに広がって支配を続けていくことを考えれば、この着眼点の意義は大き い。本書は、一見するとポストモダン的な事象や言説に目を奪われがちになるが、実はモダンの勘 所はしっかりと押さえられ、それを前提に最新テクノロジーの意義と問題点が考量されていくこと に注目したい。 また、この「移動」を中心とする社会学は、アーリがかなり以前に着想を得、長年にわたって正 当性を問いつつけてきた理論的構想の集約点であることが確認されなければならない。前著『場所 を消費する』はテーマ別に個々の論文を編集したものであって、統一的な視点で全体が叙述されて いるわけではないが、その後半の、ツーリズムやアイデンティティについて書かれた諸章(1990~ 94 年執筆)は、ツーリズムにかかわるサービスの消費、視覚的消費、社会形態と旅行形態の対応、 シチズンシップが政治的権利や義務よりも消費に関わる事柄になりつつあること、ツーリズムによ る自然の消費などへの着眼がちりばめられており、それらが本書で理論的に結晶しているのを見る ことができる。同じく前著『観光のまなざし』とともに、このような研究は 80 年代初頭にまとめら れた『資本主義社会の解剖学』 (1981)とは異なる系列の研究ととられてきた。しかしそうではない。 同一の問題の異なる局面と見るのが至当である。これは「社会学の再構築」の根拠にかかわる問題 である。 『場所を消費する』の前半部分でアーリは、社会学が「社会」という、常識から十分に境界画定 されえないもの対象とするがゆえに隣接諸科学、すなわちマルクス主義や政治学に「寄生」してき た、という。とりわけかれがそれまでに携わってきた資本主義国家の研究においてはこのことが顕 著である。しかしここで「寄生」というのは決してネガティヴな意味ではなく、社会学が隣接諸科 学の成果を批判的に対峙させる場を提供することによって理論の革新をはかれるという意味で、あ るいは新たな、より「社会的」な解釈を引き寄せて、他では無視されている社会的世界の姿を分析 彫琢できるという意味で、極めて創造的なものなのである(この部分は 1981 年初出)。このゆえに 「移動」から社会を解釈することは新しい社会学へと向かう資格を獲得することができる。それの みならず再び隣接諸科学(自らの理論の蓄積を含めて)との諸連関を問うことによって、理論の革 新をはかることができるのである。そして「移動」が新たなシチズンシップの形成を通じて市民社 会論へと結びつけられている必然性はここにある。別個に描かれてきた二つの局面についての内的 な統一の試みが本書でなされている。問題はそれがどこまで成功しているかである。 III 市民社会論 かつてアーリは『資本主義社会の解剖学』で市民社会を経済構造と国家の間に存在する社会的諸 書評 (堀田)― 129 関係の総体、政治とイデオロギーを包含する社会的諸実践の場として規定していた。その社会的諸 実践は、市民の能動的な活動であると同時に、国家が媒介的な仕方でヘゲモニーを発揮しつつ市民 社会に介入していくプロセスでもあり、それがひとえにアーリの注意を引きつけるものであった。 グラムシに対しては理論的に不徹底という意味で批判的であったが、国家が政治社会と市民社会か らなるものであり、ブルジョア社会と市民社会を区別しつつ、国家の市民社会への介入に対し、知 的道徳的リーダーシップというカウンターヘゲモニーが市民社会を争闘の場たらしめる、というグ ラムシの主張を共感的に理解していたはずである。これらの議論はもちろんヘーゲル-マルクスに端 を発する国家と市民社会の弁証法的理解の伝統と蓄積のうえにあるものであって、両者が相互に媒 介しあっているところが重要なのであり、無概念的に結合されるものではない。 しかし「社会なるものは存在しない」という本書の出発点には、 「国民-国家-社会」という社会の 概念(それをアーリは「国民社会」national societies と表現する)、すなわち実体としての国民が国 民国家システムを「社会組成的」に構成するのが社会である、という通念的・常識的理解が提示さ れている。そしてその社会は、領土と「ありふれたナショナリズム」によって特徴づけられてきた のだ、という。もちろんこのような社会の概念把握はアーリの提唱するものではなく、むしろ批判 の対象である。しかし、それはもはや現実(フローとネットワーク)によって維持できないもので あるがゆえに無効化されているのであって、市民社会と国家の相互嵌入や、私的個人の市民と国民 への自己矛盾的な分裂を表現していないがゆえに批判され、斥けられているのではない。 だからこの「国民社会」なるものは「ナショナルなシチズンシップ」が「グローバルなシチズン シップ」へと移行していく前段階をなす実体的なものとして、本書では一貫して疑いを挟むことな く議論の前提とされている。結論部においても「国民国家という歴史上の観念にとって中心をなし てきたのが、単一で安定的かつ包括的なナショナル・アイデンティティ、つまり単一の国民をめぐ って組織化された市民社会である」(341 頁)、とある。もちろんアーリに国家と市民社会の区別が なくなってしまったのではない。両者の対抗的矛盾も事実としては随所に指摘されている。 「トラン スナショナルな市民社会」においては、グローバルな私的利害、支配的な市場関係によって構造化 され、レギュレートされている世界に対する抵抗として、ネットワークが国や企業によって独占さ れてきた情報を公衆に開いた、というように。そして、 「移動」が監視と管理の電子的「要塞化」を つうじて新たな空間的不平等をもたらすとともに、トランスナショナルな一体感(脱国民化したア イデンティティとしての EU)をもたらした、というように。また、TV 以降の情報テクノロジーが 公的領域と私的領域の境界を取り去り、 「公共」を「公共の舞台」に変質させている、という重要な 指摘もある。だがそれらはポジとネガの現象の並列的な対置にとどまっていて、争闘の構造とその 行方を決める市民の主体的・意識的な実践を導出する論理が見えにくくなっているように思える。 ナショナルがただグローバルに置換されたコスモポリタンな市民社会は、方向性もまとまりもない (そしてヘゲモニーもない)、ひたすら激しい論争の場という無概念的なものに至っているとすれば、 それはアーリの本意だろうか。 130 ―ヘスティアとクリオ Vol.4(2006) しかしともあれ、アーリの意図はそこには直接はない。国民国家の脱領土化や権力の変容にあた って「移動」が果たした決定的な役割を示すことにあった。バーチャルな旅行が新たな交感や近接 性の感覚を呼び起こし、いかに風景や万国博的鉄道移動と結びついていたナショナリズムを解体し ていったか、瞬間的時間の感覚がクロック・タイムによる「近代化」を推し進めた東欧諸国の革命 にとっていかに大きかったか、移動を内蔵する新たな様々な居住の仕方が、地方主義と国際主義の 対立軸によってどれほど旧来の国民国家の領域を飛び越えていったか―われわれが瞠目させられ、 共感するのはこれらの分析の鋭さである。そしてこの論述を通じて、いかに政治的・経済的でナシ ョナルなシチズンシップと国民国家が、自然環境問題を背負いきれなくなっているかが改めて痛切 に認識される。マイノリティやジェンダーの問題を引き起こしてきた必然性についても同様である。 だからといって、現代国家の今後果たすべき役割が「移動の調整」に収斂されていくだけのもの でもないだろう。思うに、この市民社会論において私が感じている瑕疵のよって来たるところは、 、、、、、、、、 この「移動の発見」が国民社会ではなく現代資本主義国家の分析とまだ説得的に接合されていない ところにあるのではないか。 「移動」は「中心」であり、文化的であるとともに、政治経済的状況の 強い規定を受けているのである。これは「ないものねだり」ではなく、アーリの研究キャリアから 十分に解かれるべき問題圏にあると期待されるところである。それは経済学や政治学の課題であっ 、、 て、「社会学」の領土外にあるとかれが考えているとは思えない。「寄生」の旅程はまだまだ続くの ではないか。 (近畿大学文芸学部・教授/社会学理論)
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