世田谷南宣教協力体合同堅信式説教

世田谷南宣教協力体合同堅信式説教
2010年10月31日 年間第31主日 田園調布教会にて
第1朗読 知恵の書11
22-12
2
第2朗読 使徒パウロのテサロニケの教会への手紙二1
11-2
2
福音朗読 ルカ19・1−10
「神はひとり子をお与えになるほど世を愛された。神を信じるすべ
ての人が永遠のいのちを得るために。」今日のアレルヤ唱です。
「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望ん
でいます。」(Ⅰテモテ2・4)使徒パウロの教えです。
神はすべての存在をいとおしまれ愛しておられます。本日の第1朗読
の知恵の書は言います。
あなたがお望みにならないのに存続し、
あなたが呼び出されないのに存在するものが
果たしてあるだろうか。
命を愛される主よ、すべてはあなたのもの、
あなたはすべてをいとおしまれる。
わたくしは「福音、喜びの便りとは何か」といえば、まずこのメッ
セージを思います。
存在するものすべては神の御心によって存在し、そして神の愛によっ
て造られたのです。わたしたちの人生には多くの困難があり、この
世界には多くの悪が存在します。しかし、神がすべての人の救いを
望んでおられる、このわたしたちは神のお望みによってこの世に生
まれたのである、という信仰はキリスト教の中心にある信仰宣言で
す。
本日の福音はザアカイという人の救いの話です。ザアカイという人は
「徴税人の頭で、金持ちであった」とあります。
彼は罪深い人とされていました。罪深い人とはどんな人でしょうか?
ユダヤ人の支配者ローマ帝国のために税の徴収を請負っていました。
しかも不正に税をだまし取っている人と考えられていたようです。
しかもザアカイは金持ちでした。人々の恨みを買い、後ろめたい気
持ちを持っていた人かもしれません。複雑な屈折した心を抱えて救
いを待ち望んでいた人だったと思います。イエスの評判を聞き、是
非会ってみたいと思いました。「今日はぜひあなたの家に泊まりた
い」というイエスの言葉を聞いて天にも昇るような気持ちになった
ことでしょう。「今日はぜひあなたの家に泊まりたい」は、原文の
直訳では「今日私はあなたの家に泊まることになっている」「泊ま
らなければならない」となります。普通は、「あなたの家に泊めて
くれませんか」となるのですが、一方的に「泊まることになってい
る」というのは変な言い方ではないでしょうか。イエスは、このよ
うな表現で、罪人とされていたザアカイに対する神の愛を告げ知ら
せたのだと思います。この言葉によってザアカイは救いを体験しま
した。彼は「わたしは、財産の半分を貧しい人に施します。また、
誰かからだましとっていたら、それを四倍にして返します」と宣言
します。イエスは言われました。「今日、救いがこの家を訪れた。」
イエスは貧しい人、圧迫された人のために来られました。わたした
ちはよくそう言いますし、実際そうです。しかしもう一つの重要な
メッセージがあります。それは、イエスは罪人のために来た、とい
うことです。罪人の中には、金持ちもいれば権力者もいます。
金持ちには金持ちの悩みがあるでしょう。ザアカイは金持ちでした。
そして人々から嫌われていました。彼の悩みと孤独は深いものであっ
たかもしれません。
権力を持つ者にも悩みがあるでしょう。神はこの人たちの神でもあ
り、彼らを救う神ではないでしょうか。神の愛は罪人を赦す愛です。
神の赦す愛はイエス・キリスト の十字架によって示されました。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨ
ハネ3・16) のです。
皆さん、とくにきょう堅信を受けられる皆さん、この神の愛を深く
信じ、この神の赦す愛を多くの人々へ伝えることができますよう、
祈りましょう。
世の中には、大きな財産あるいは権力を委ねられている人々がいま
す。時としてそれは大きな重荷となります。財産と権力を神のため
に用いて初めてその人々は解放と救いを経験します。ザアカイの回
心がそのことを示しています。
主キリストの再臨の日、神はすべての悪を滅ぼし神の支配を完成さ
れます。そのときまでわたしたちは、自分に委ねられている財産と
権力を管理し神様にみ旨に従ってよいことのために使わなければな
らないのです。聖霊の導きを祈りましょう。
港品川宣教協力体堅信式説教
2010年10月17日 年間第29主日 高輪教会にて
第1朗読 出エジプト記17・8-13
第2朗読 使徒パウロのテモテへの手紙二3・14-4・2
福音朗読 ルカ18・1−8
今日は祈りについて学びたいと思います。
今日の福音でイエズス様はたとえ話で「気を落とさずに絶えず祈ら
なければならない」と教えています。たとえ話は不正な裁判官の話
です。神を恐れず、人を人とも思わない裁判官でも、ただうるさい
からという理由で貧しいやもめのために裁判をしてあげます。まし
て神は、昼も夜も叫び続ける選ばれた人たちのために裁判をしない
はずはない、と言われます。
神が必ず裁いてくださるという信仰と信頼が必要です。わたしたち
は忍耐して祈らなければなりません。それはちょうどイスラエルが
アマレクと戦ったときにモーセが手を上げていたという出来事にた
とえられます。
使徒パウロは今日の第2朗読で言っています。
「み言葉を宣べ伝えなさい。折が良くとも悪くでも励みなさい。と
がめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。祈り
についてもまったく同じことが言えるでしょう。
次に、ヨハネの福音では次のように教えています。
「わたしの名によって願うことは何でもかなえてあげよう。こうし
て、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何か
願うならば、わたしがかなえてあげよう。」(ヨハネ14・13−14)
イエズス様の名前で願うことが大切です。イエズス様の名前で願う
ということは、イエズス様自身が父に願うことと同じことになるか
らです。ですからイエズス様の願いにふさわしい願いでなければな
りません。
かなえられない祈りがあるでしょうか。
ヤコブの手紙の中で次のように教えています。
「願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おう
と、間違った動機で願い求めるからです。」(ヤコブ4・3)
祈りの動機は自分の利益ではなく神様の御心にかなったものでなけ
ればなりません。
今日は堅信式です。とくに聖霊の7つの賜物、知恵と理解、判断と勇
気、神を知る恵み、神を愛し敬う心を祈り求めましょう。これは大
変相応しい願いです。
福音史家聖ヨハネ布教修道女会誓願式・誓
願50周年説教
2010年10月16日 小金井教会にて
第4誓願 シスターファウスチナ 漆原めぐみ
金祝 シスターユスチナ 増田フミ子
金祝 シスターレジナ 江口シズ
金祝 シスターヘレナ 菅間みゑ
聖書朗読 使徒ヨハネの手紙一、4
福音朗読 ヨハネの福音12
10-11,16;5
4-5,20
23-26
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、
死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛するものは、それを失うが、
この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」
(ヨハネ12:24―25)
使徒ヨハネは「永遠の命」を説きます。
「神は、そのひとり子をお与えになるほどに、世を愛された。独り
子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
(ヨハネ3・16)
「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたの
お遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」〈17・3〉
神はすべての人が永遠の命へいたることを望んでおられます。その
ために御子の命すら惜しまれませんでした。
今日の福音では、命という言葉が三回でてきます。「自分の命」の
命はヨハネ福音書の原文のギリシャ語ではプシュケーです。これは
「息」という意味です。「永遠の命」の命はゾエーです。日本語で
同じ命と訳されていますが、原文では違う言葉です。
わたしたちは地上の命を大切にし、健康であるように心がけなけれ
ばなりません。多く人々が健康のために働いています。その働きは
実に尊いと思います。
しかしわたしたちキリスト信者には永遠の命がもっと大切です。教
会は永遠の命の福音を告げ知らせるのです。
ところで永遠の命はとは自動的に与えられるのではありません。受
ける人の側に「信じる」という応答がなければならないのです。
福音書にはイエスが人々の不信仰をとがめる場面がたびたび出てき
ますが、信仰を賞賛する場面も少なくはありません。2010年は主日
の朗読配分はC年で、ルカの福音が読まれますが、ルカだけをとって
みてみると次のような場面を思い出すことができます。
人々は屋根に上って瓦を剥がしてまで中風の病人を床ごとイエスの
前につり降ろしました。その人々の信仰をみたイエスは、その中風
の人をいやします。(5・17-26)
また、イエスは百人隊長の信仰に感心しています。「言っておくが、
イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰をみたことがない。
」(7・9)
また罪深い女をゆるして言います。「あなたの信仰があなたを救っ
た。安心していきなさい。」(7・50)
さらに、ヤイロの娘をいやして言われました。「娘よ、あなたの信
仰があなたを救った。安心して行きなさい。」(8・39)
エリコの近くで盲人をいやして言われました。「見えるようになれ。
あなたの信仰があなたを救った。」(18・42)
10月10日、今週の主日の福音では、イエスは重い皮膚病を癒されたサ
マリア人へ向かって言いました。「立ち上がって、行きなさい。あ
なたの信仰があなたを救った。」(17・19)
福音書のイエスは実にいやす人として描かれています。今日で言う
種々の障がい、たとえば目の見えない人の目を開けて見えるように
した、とか・・・脚のなえた人が歩けるようになるとか・・・さら
に目立つのは悪霊、汚れた霊、悪魔を追い出す、という話です。マ
グダラのマリアは7つの悪霊をイエスによって追い出していただいた
女性、とされています。
イエスの宣言した「神の国」はヨハネのいう「永遠の命」に該当す
ると思います。イエスの福音の中心は、ゆるしであり、いやしであ
り、命でした。
きょうここにお集まりの皆さんのなかには医療という使命に従事し
ておられるかたが多数いらっしゃいます。いやしのために働いてい
ます。そして、いやしとは基本的には神の働きである、と思います。
神から与えられる癒しの恵みを仲介し、お伝えするのがわたしたち
の使命ではないでしょうか。
いやしは復活された主イエスからきます。最終的ないやしは復活の
イエスのいのちにあずかることでなければなりません。
イエスは自ら人々の病い、患い、とがの結果を背負われました。そ
して十字架を通してわたしたちを罪とその結果である悪、弱さから
解放し、あがなってくださったのです。わたしたちは、もっと深く、
イエスのあがないといやしの恵みを信じなければなりません。それ
はとりもなおさず、神の愛、アガペーを深く強く信じてその恵みに
与るということに他ならないのです。
そして、さらに、神様からいただいたこのプシュケーの命を大切に
しながら、自分の命を神様のみころに従って生き、さらにイエス・
キリストに従って自分の命を神様におささげしなければなりません。
わたしたちの働きを通して、神の愛と光、その結果であるいやしと
励ましが一人でも多くの人へ現れ伝えられますよう、祈りましょう。
大森教会ミサ説教
2010年10月10日 年間第28主日 大森教会にて
第1朗読 列王記(下5・14-17)
第2朗読 使徒パウロのテモテへの手紙(二テモテ2・8-13)
ルカによる福音(ルカ17・11-19)
今日の福音では、重い皮膚病の10人の人が癒されたという話が伝え
られています。「重い皮膚病」は以前は「らい病」と訳されていま
した。ところが1997年、日本聖書協会は新共同訳聖書で「らい病」
と訳されている箇所を「重い皮膚病」と読み替えことにする、と発
表しました。
その背景には1996年の「らい予防法」の廃止があります。「らい病」
という言葉は不適切な言葉として使用しないことになりました。
「らい病」ということばには差別と偏見と差別の意味が込められて
いると考えられるようになったからだと思います。
日本カトリック司教協議会も聖書のなかで「らい病」という言葉を
使わないように日本聖書協会へ申し入れを行ないました。
らい病は病原菌の発見者、ノルウェーの医師アルマウェル・ハンセ
ンの名前をとり、ハンセン病と呼ばれるようになりました。
聖書に出てくるらい病がハンセン病かどうか、について検討が必要
であるようです。
旧約聖書ではツァラアトというヘブライ語がらい病と訳されていま
した。しかし研究によって、旧約時代にはハンセン病は存在しない
ことが分かってきましたのでその訳は不適切とされました。
福音書でらい病と訳されていた言葉の原語はレプラです。レプラは
ツァラアトがギリシャ語に訳されたときにつかわれたことばです。
今日のルカ17章の「重い皮膚病」も96年まではらい病と訳されてい
ましたが、それが今日のハンセン病であったのかは、はっきりしな
いようです。
ともかく、らい予防法の廃止に伴ない、不適切なことばとなった
「らい病」をどう言い換えるか、が大きな問題となり、聖書協会で
は慎重な検討が行なわれ、結局「重い皮膚病」となりました。
日本のらい予防法の時代、らい病は遺伝病であるとの誤った偏見と
結びつき、またハンセン病を強い伝染力のある病気とされ、患者は
強制隔離されました。らい予防法の廃止により、やっと、ハンセン
病は治癒可能な病気であり、きわめて伝染力の弱い病気である、と
いう理解が一般に伝わるようになりました。
レビ記でも重い皮膚病の人は、
「衣服を裂き、神をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚れた者で
す。汚れた者です』と呼ばわらなければならない。・・・その人は
一人で宿営の外にすまなければならない」(レビ13・45-46)
とされて、やはり隔離されました。
重い皮膚病の患者の苦しみは、単に肉体的な苦しみではなく、社会
的に排除され隔離され忌避されるという点にあります。当時の日本
で、らい病とされた人は、本名を名乗れないという差別を受けまし
た。
日本のハンセン病の強制隔離は終わりましたが、現実に社会復帰す
ることは極めて困難であるといわれています。
ハンセン病者の苦しみは実にその存在を忌み嫌われ、人との接触を
禁止され、人間としての交わりを絶たれてしまう、という苦しみで
あります。
今日は差別ということを考えてみたいと思います。いろいろな差別
があります。差別は偏見と結びついています。日本には、部落差別
という日本固有の差別があります。イエス・キリストは差別された
人を差別から解放するために遣わされました。それは、差別してい
る人を差別に気づかせ、差別している人をも、差別から解放するた
めでした。
さて、10人の人が重い皮膚病から癒されましたが。感謝するために
イエスのところに返ってきたのはサマリア人であった人一人でした。
イエスは言いました。
「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」
ほかに9人は喜びのあまりでしょうか、急いで祭司の下へ行ったから
でしょうか、イエスに感謝することを忘れてしまいました。
肉体の癒しは永遠のいのちへの救いに結びつかなければなりません。
わたしたちは信仰によって救われるのです。体が癒されて健康を回
復することで終わってしまってはなりません。本当に健康は人間全
体の贖い、救いとして実を結ぶのです。
使徒パウロは今日のテモテへの手紙でいっています。
「わたしは、選ばれた人々のため、あらゆることを耐え忍んでいま
す。彼らもキリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るた
めです。」
どうかわたしたちも、キリストとともに死に、キリストともに耐え
忍ぶことができますように、と祈りましょう。
こどものミサ説教
2010年10月10日 年間第28主日 午後2時
東京カテドラル聖マリア大聖堂にて
第1朗読 列王記上 19章19-21節
福音朗読 マタイによる福音 1章16-20節
イエズス様はシモンとアンデレの兄弟に向かって、「わたしについ
て来なさい。人間をとる漁師にしよう」といわれました。またヤコ
ブとヨハネの兄弟もお呼びになりました。
漁師は魚を採る人ですが、この二組の兄弟は人間をとる漁師になる
よう招かれたのです。
今日の第1朗読では、エリヤと言う預言者がエリシャという預言者に
呼びかけて、自分の跡継ぎになるよう招いています。
「子どものミサ」の冊子に書きましたが、少年サムエルは直接神様
の呼びかけをうけました。サムエルという名前は「その名は神」で
す。すごい名前ですね。
神様はイエズス様を通して、また他の人を通して、あるいは直接、
人々に声をかけられます。神様がわたしたちに声をかけることを
「召命」あるいは「召し出し」といいます。
神様はすべての人に声をかけて、神様のためによいことをするよう
呼びかけられます。
今日のここに集まっている皆さんに声をかけてくださいます。神様
の声は耳を澄まし、心を静かにしないと聞こえません。
祈りとは神様にお願いすることですが、神様の呼びかけに耳を澄ま
すことでもあります。
心を静かにして神様の声を聴きましょう。
神様は人を通してわたしたちに呼び変えてくださいます。
わたしはいま一人の人のことを紹介したいと思います。
それは日本点字の父、完成者といわれる石川倉次(いしかわくらじ)
という人です。
わたくしはロゴス点字図書館を運営している社会福祉法人ぶどうの
木の理事長をしております。
目に見えない人は字を読むことができません。そこで手で触って字
を読めるようにと、「点字」が考案されました。アルファベットの
点字を造った人は、フランスのルイ・ブライユという人です。彼
は201年前に生まれた人です。アルファベットの点字はそのままでは
日本では使えません。日本の点字に直さなければなりませんでした。
ブライユの点字を日本の点字に移すことに成功した人がいます。そ
の人が石川倉次です。今から151年前に生まれた人です。
石川倉次が点字のために生涯をささげるようになったのは小西信八
(こにしのぶはち)という友人と出会ったことがきっかけになりま
した。小西信八は目の見えない人を教える学校で働いていましたが、
何とかして、ブライユの考案した点字を日本の点字をすることがで
きないかと考え、その研究を石川倉次に依頼しました。石川倉次は
引き受けることは無理と考えましたが、友人の熱心な願いに負けて、
日本点字を考案することに挑戦し、多くの人の助けを得て、大変な
努力をし、ついに今使われている日本点字を完成したのでした。小
西という友人を通して神様に越えた石川倉次の心を動かしたと言え
るでしょう。
ところで石川倉次が卒業した小学校は千葉県市原市の鶴舞小学校で
す。実はわたくしもこの鶴舞小学校の卒業生です。
神様はわたしたちに呼びかけています。神様に仕え、人々を幸福に
するために、あなたは何をしますか?あなたは自分の生涯を何のた
めにささげますか?
神様がわたしたち一人ひとりの心を照らし、神様の望みを悟らせ、
神様の望みを実行する勇気を与えてくださいますよう、祈りましょ
う。
本郷教会ミサ説教
2010年10月3日 年間第27主日 本郷教会にて
おはようございます。
本日わたくしが皆さんの教会を訪問したのは、皆さんの新しい主任
司祭山本量太郎神父様を紹介し、12年余り皆さんの主任司祭を務め
てくださった井手雄太郎神父様に感謝するためでございます。
今日の福音について一言申し上げます。
人生は困難なものです。仏教でも四苦八苦といいます。四苦とは生・
病・老・死です。このほかにさらに4つの苦しみが挙げられています。
わたしたちの人生では、わたしたちの期待と人生での現実の間には
大きな隔たりがあります。こうであって欲しい、当然こうなるはず
だ、と思っても現実はそうではありません。人はそれゆえ失望し、
落胆し、落ち込み、あるいは怒りをいだきます。
怒りは「期待と現実の不一致」から生じる感情である、といわれま
す。
人生は苦難の連続、精一杯の努力をしています。自分の苦労、努力
を誰かに評価して欲しい、という気持を誰しも持っているのではな
いでしょうか。
人は一人では生きて生けません。他の方とのつながりのなかで生き
ています。人間関係の基本は感謝、お詫び、お願い、ということだ
と思います。わたしたちがほかに人になすべきことはこの3つにまと
められるのではないでしょうか。感謝とはその人のしてくれた行為
を有り難いこととして評価することであり、お詫びとは自分がその
人になすべきことにおいて間違いや不足があることを認めることで
あり、お願いは、自分の無力を認めてその人の好意におすがりする
ことです。これが常識であると思うのです。
ところでわたしたちはこの人間関係において、自分が期待する感謝、
謝罪、信頼が得られないとき、不快を覚え怒りさえ感じます。
ところで、今お話した「常識」からみれば、今日の「取るに足りな
い僕(しもべ)」の話は少々受け入れにくい面がないでしょうか?主人は
「有難う」の一言くらい言ってもいいのではないでしょうか?イエ
ズス様の、この分かりにくい点が大切だと思うのです。
実は、主人とは神様のこと、僕とはわたしたち人間のことだと言い
ます。この話は神様と人間の関係を言っています。
わたしたちは神様に一生懸命仕えています。ですから神様から「よ
くやった」と言ってもらってもいいのではないか、という気持がし
ます。
それどころか、現実の人生では報われることが少ないです。人生は
不条理で、不公平だという気持を持たないほうが難しくはないでしょ
うか?これは、おかしいではないか、何故こんな目に会わなければ
ならないのか、と神様に文句を言いたくなります。
ところがイエズス様は、敵を愛しなさい、と教え、またお返しを期
待しないで貸しなさい、とも教えています。
わたしたちの心には、神様からの当然の報い、という考えがあり、
この世ではそれがない、足りないと思って、不満や怒りを覚えるの
です。
人生において神様からの報いがなくとも、
「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことを
しただけです」
と言えるためには深い信仰が必要です。人生の不条理を感じても、
神様への信頼を保つためには深い信仰がなければなりません。
主よ、わたしたちの信仰を増してください、と心から祈りましょう。
ところで、神様とわたしたちの関係はこのようでなければならない
のですが、わたしたちと他の人との関係はそうはいません。
今日わたくしのなすべきことは、お二人の神父様に感謝することで
す。
本日は本郷教会にとって特別な日です。主任司祭の交代と任命のた
めにわたしは来ています。
井手雄太郎神父様、長い年月にわたる東京教区での司祭として奉仕
に厚く感謝申し上げます。とく本郷教会においては、ご高齢にもか
かわらず12年間にわたり主任司祭を務めていただきました。
また山本量太郎神父様にも感謝申し上げます。宣教協力体の精神に
従って、関口教会主任と本郷教会主任の兼任をお引き受けください
ました。感謝のほかありません。
どうか本郷教会の皆さん、新しい主任司祭への協力ご支援をよろし
くお願いします。
ペトロの家と小聖堂の祝福式説教
2010年10月2日 ペトロの家にて
第1朗読 使徒パウロのエフェソの教会への手紙2章19節―22節
福音朗読 マタイによる福音8章14節―17節
この新しい司祭の家の名前は「ペトロの家」です。今呼んだ福音の
中に、まさしく「ペトロの家」が出てきます。イエスはペトロに家
に行って熱を出しているペトロの姑を癒されました。
このペトロも家もイエスによる癒しとやすらぎに家になるよう願っ
て今日の祝福式を行ないます。
わたしたちの救い主イエスはどんな人だったのでしょうか?何をな
さった人でしょうか?わたしたちは日々イエスに学びイエスをのべ
つ伝えイエスに祈っています。
福音書を読むと、実にイエスは癒しの人でした。彼は病人や障がい
を持つ人を癒し、悪霊を追い出しています。
日本には多くの宗教があります。多くの宗教は民衆の日々の問題、
悩みに応えることを主たる任務にしている、ということを聞いたこ
とがあります。人々の問題は「貧・病・争」という言葉にまとめら
れます。この点で、キリスト教は違うでしょうか?イエス・キリス
トの公生活(宣教活動)を見る限り、イエスの主たる活動が癒し、
ということであった、といえると思います。
しかし大きく違う点もあります。それは十字架ということです。イ
ザヤの預言に、「 彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を
担った」とあるとおりです。 癒す人イエス自身は、最後は十字架に
おかかりになりました。それは。人類の救い、贖いのため、またす
べての被造物と世界の贖(あがな)いと解放、新しくするためであると
わたしたちは信じています。
学生時代のことですが、ある友人が「新しい天と新しい地」という
言葉を口にしました。黙示録21章などに出てくることばです。最近
その言葉がしきりに心に浮かんできます。
わたしたちの現実は厳しい。でも教会は新しい天と新しい地の到来
のしるしであります。使徒と預言者を土台にし、キリスト・イエス
をそのかなめ石として建てられた、このペトロの家は、新しい天と
新しい地を指し示すしるしであります。
この家での祈りと生活がそのしるしとして周りの人々に伝われるよ
う、願ってやみません。復活のイエスがそこにおられる、というし
るしとして灯火のように周りを照らしてくれるよう願ってやみませ
ん。