医療の質向上と薬剤業務 薬剤師の倫理について 松田 純 先生(静岡大学人文学部・大学院人文社会科学研究科 教授) 平井 みどり先生(神戸大学医学部附属病院薬剤部 部長・教授) 医学・医療の進歩に伴って、脳死問題など生命倫理について問われる課題も多くなりました。人間の尊厳や人 いのち 権、さらには自然・社会環境のなかでの生命に関する価値判断をめぐって、医学・医療だけではなく、法学、倫 理学、宗教学などの専門家が学際的に研究を行っています。実際の医療現場でも病院薬剤師が倫理的な問題 にぶつかって、総合的な視点から判断を迫られる機会も少なくありません。また、薬学部においても、平成14年 に策定された「薬学教育モデル・コアカリキュラム」に基づいて倫理教育が開始されています。そこで、薬剤師 の倫理について研究を進め、薬学生への倫理教育も実践されている静岡大学人文学部教授の松田純先生と、 神戸大学医学部附属病院薬剤部長の平井みどり先生から、薬剤師の倫理についてお話をしていただきました。 があります。ただし、専門職の場合は、一般人の倫理 Ⅰ 薬剤師にとって倫理とは 以上のことが求められます。 薬剤師法第19条で「薬剤師でない者は、販売又 薬剤師はプロフェッション (倫理的な誓いを立てた集団) 近年、日本医療薬学会などで薬剤師の倫理に は授与の目的で調剤してはならない」と定められて いるように、調剤という業務を薬剤師は独占してい ます(医師や歯科医師等についての例外規定あり)。 ついて採り上げられるようになりましたが、 どのよう 医療には薬は欠かせませんから、いわば国民の健康 な背景からでしょうか。 を人質に取っている形になります。それだけに専門 平井 平成4年の医療法改正で医療の担い手、つ 的能力の質と高い倫理性を保つことが求められます。 まり医療人として薬剤師が明記されました。そして 例えば薬局での相談応需は薬剤師の義務であり、 平成8年には薬剤師法が改正され、薬剤師による情 一般の商取引と違って、正当な理由なく応需しなか 報提供が義務化されました。 「薬剤師倫理規定」は った場合、国民の健康は危うくなります。それゆえ 昭和48年に日本薬剤師会から示され、平成9年に 薬剤師法も第21条で、 「調剤に従事する薬剤師は、 改訂(図表参照)されましたが、医療人として直接 調剤の求めがあつた場合には、正当な理由がなけ 患者さんと向き合って情報提供する機会が多くなっ れば、 これを拒んではならない」と定めているわけ たこと、患者さんに対する倫 理の重要性を認識してきたこ とが背景にあると思います。 です。 英語で専門職のことを プロフェッション(Profession) と言います。社会に向かって誓いを立て 一般人としての倫理と薬 宣言するという意味のギリシャ語prophainoに由 剤師という職業に問われる倫 来する言葉です。プロフェッションには、自らの専門 理の違いについて教えてくだ 的能力を「世のため人のために」捧げるという高い さい。 使命感と倫理性が求められます。したがって、薬剤 人間の誰に対しても倫 師というプロフェッション(専門職)の一員に加わる 理性が求められます。薬剤師 ということは、調剤という専門業務に関する一連の という専門職に求められる倫 倫理基準を受け入れることを意味します。 理が一般の倫理とまったく異 平井 なるということではありませ か医師、弁護士を指して用いられた言葉だと記憶し 静岡大学人文学部教授(文学博士) ん。一般人に求められる倫理 ていますが、薬剤師も医療を担う重要な専門職集団 松田 純 先生 を基盤にして、専門職の倫理 だということですね。 松田 3 プロフェッションというのは、元来、聖職者と 倫理とは心の内面の問題であるとともに、 社会的な習慣や制度の問題でもある Ⅱ 倫理という言葉について、薬剤師の方々はどう いう意味合いで理解されているのでしょうか。 平井 倫理教育について 「薬学教育モデル・コアカリキュラム」で 倫理教育の重要性が強調されている 米国の教科書等ではethicalな対応という 言葉がでてきますが、それは、いわゆる「倫理的」と 薬学教育においても倫理教育の必要性が問わ いうよりも患者さんの人権や利益を守るという意味 れてきましたが、平井先生は以前、神戸薬科大学で 合いで使われているように思います。薬剤師の日常 教鞭をとっておられた時にコミュニケーション実習 業務での倫理というのは、そういった患者中心主義 などを指導されておられましたね。 という意味合いの他に、科学的な裏付けがあるかど 平井 うかという面もあるのではないでしょうか。 接会話をするようになって、 コ 倫理とよく似た言葉に道徳がありますが、二つ 薬剤師が患者さんと直 ミュニケーション教育が重要 の言葉の違いを教えてください。 になってくるだろうと思い、医 松田 療薬学系実習に「コミュニケ 一言でいうと、倫理と道徳にはニュアンスの 違いはありますが、区別できるようでできません。 ーション実習」と「プレゼンテ 英語ではethicsとmoralという語があります。eth- ーション実習 」を組み入れま icsはギリシャ語起源、moralはラテン語起源ですが、 した 。薬物治療 の 安全性・有 ともに習俗・習慣とか性格といった意味の言葉に由 効性を確保するとともに患者 来します。あえていえば、ethicsは社会的、体系的、 さんの利益を守るという意味 moralは個人的、内面的、心情的というニュアンス 合いでコミュニケーションの があり、日本語の倫理と道徳のニュアンスもそれに 取り方を中心に教えていたよ 対応しています。けれども、倫理および道徳は心の うに思います。不十分ながら 神戸大学医学部附属病院薬剤部長・教授 内面の問題であると同時に、社会的な習慣や制度 も「 共感的対応 」についても 平井みどり先生 の問題でもあり、両者は不可分です。 伝えたつもりです。しかし当時は、倫理ということは 倫理と道徳については、古代中国の漢字の意味 意識していませんでした。 から、明治期における西洋語の導入も含めて、その その後に始まった薬学教育6年制で倫理教育の 歴史的な事情を『ケースブック心理臨床の倫理と法』 必要性が強調されるようになった背景としては「薬 (知泉書館、2009)や『薬剤師のモラルディレンマ』 学教育モデル・コアカリキュラム」で倫理的な教育 (南山堂、近刊)で書いていますので、 ご一読頂けれ 目標を掲げていることがあります。しかし、 どんな倫 ば幸いです。 理教育をしたらいいか、手探りの状態が現状ではな 図表「薬剤師倫理規定」 (平成9年10月 日本薬剤師会改訂) 前文 薬剤師は、 国民の信託により、 日本国憲法および法令に基づき、 医療の担い手の一員として、 人権の中でもっとも基本的な個人の生命・健康の保持促進に寄 与する責務を担っている。 この責務の根底には生命への畏敬に発する倫理が存在するが、 さらに、調剤をはじめ、医薬品の創製から供給、適正な使用に至るまで、確固たる薬(やく) の倫理が求められる。 薬剤師が人々の信頼に応え、 医療の向上及び公共の福祉の増進に貢献し、 薬剤師職能を全うするために、 ここに薬剤師倫理規定を制定する。 第1条(任務) 薬剤師は、個人の尊厳の保持と生命の尊重を旨とし、調剤をはじめ、医薬品 の供給、 その他の薬事衛生をつかさどることによって公衆衛生の向上及び 増進に寄与し、 もって人々の健康な生活の確保に努める。 第2条(良心と自律) 薬剤師は、 常に自らを律し、 良心と愛情をもって職能の発揮に努める。 第3条(法令等の遵守) 薬剤師は、薬剤師法、薬事法、医療法、健康保険法、 その他の関連法規に 精通し、 これら法令等を遵守する。 第4条(生涯研鑚) 薬剤師は、生涯にわたり高い知識と技能の水準を維持するよう積極的に研 鑚するとともに、 先人の業績を顕彰し、 後進の育成に努める。 第5条(最善尽力義務) 薬剤師は、 医療の担い手として、 常に同僚及び他の医療関係者等と協力し、 医療及び保健、 福祉の向上に努め、 患者の利益のため職能の最善を尽くす。 第6条(医薬品の安全性等の確保) 薬剤師は、常に医薬品の品質、有効性及び安全性の確保に努める。また、 医薬品が適正に使用されるよう、調剤及び医薬品の供給に当たり患者等に 十分な説明を行う。 第7条(地域医療への貢献) 薬剤師は、地域医療向上のための施策について、常に率先してその推進に 努める。 第8条(職能間の協調) 薬剤師は、広範にわたる薬剤師職能間の相互協調に努めるとともに、他の 関係職能をもつ人々と協力して社会に貢献する。 第9条(秘密の保持) 薬剤師は、 職務上知り得た患者等の秘密を、 正当な理由なく漏らさない。 第10条(品位・信用等の維持) 薬剤師は、 その職務遂行にあたって、 品位と信用を損なう行為、 信義にもとる 行為及び医薬品の誤用を招き濫用を助長する行為をしない。 出典:日本薬剤師会 http://www.nichiyaku.or.jp/contents/yakuzaishi/yaku̲1.html(2009年8月現在) 4 いでしょうか。 公共性などを自覚していなければなりません。また、 松田先生は「薬 医療は複雑なシステムで成り立っており、薬事や医 学教育モデル・コア 療の法律・行政面、医療財政などの経済面まで含め カリキュラム 」で 示 た、多角的な視点から考察しないと、薬剤師の倫理 されている倫理教育 教育はうまくいかないのではないでしょうか。 については、どのよ 平井 うにお考えですか。 ニズム教育が組み込まれていますが、裾野の広い 松田 「薬学教育モ 教養の上に立って初めて、 ヒューマニズムの真意が デル・コアカリキュラム」はその冒頭に「A 全学年 身について実践できるのではないか、 と考えていま を通して:ヒューマニズムについて学ぶ」を置き、 「生 す。現状の薬学教育は、職業的な訓練や科学的な考 命に関わる職業人になることを自覚し」 「人との共 え方を重視するあまり、教養的な教育が不足してい 感的態度を身につけ」 「相手の気持ちに配慮する」 るのではないだろうか、 と危惧しています。 といった目標を掲げていますが、 これには情操教育 倫理的理由を考え抜くことが 倫理教育のポイント の雰囲気を感じます。他者への共感能力は倫理の 基礎ですが、医療現場では複雑な倫理問題、つまり 松田先生は薬学部でも教鞭をとられていますが、 モラルディレンマ(倫理的葛藤)にしばしば直面しま どのように教えておられるのでしょうか。 すので、患者さんの気持ちに共感したまま行動を決 松田 断することが危険な場合もあります。事態を冷静か 体的なケースの形で呈示し、それについて学生た つ的確に分析して、何が問題かを理解した上で、解 ちがグループ討論をします。月刊誌の『薬局』 (南山 決の道を探していくという倫理的なトレーニングが 堂刊)に連載中のケースを使用します(『薬剤師の 必要だと思います。 モラルディレンマ』として南山堂から刊行予定)。討 自分の立ち位置を理解するには リベラル・アーツが必要 倫理教育ではリベラル・アーツという言葉があ 薬剤師が現場で出会うモラルディレンマを具 論の結果をグループごとに発表し、それに私が解説 を加えています。学生は普段こうした問題を友だち 同士で議論する機会がほとんどないらしく、自分と りますが、 具体的にはどのような教育なのでしょうか。 は違う意見を友人たちから聴くのは、新鮮な驚きの 松田 リベラル・アーツの起源はヨーロッパの中世 ようで、それだけでも楽しいようです。 の大学にあり、 「専門や職業に拘束されない自由な 平井 科目」、教養教育という意味です。近年、 リベラル・ を目指す学生、看護師を目指す学生等が一緒に体 アーツが注目されている背景には、科学技術が非常 験学習をして、討論をしていますが、それぞれ見方 に高度化して専門的な研究に集中することが求め が違うので勉強になる、 と言っています。しかし、そ られる一方で、科学や技術が人間と社会に及ぼす影 れは1年生の時に行っているので、卒業時には貴重 響を知らないではすまされないということがありま な経験を忘れてしまうことが問題です。 す。科学者や技術者は自分が発見または発明したり、 神戸大学では、薬剤師を目指す学生と医師 松田先生が行っているような授業は、積極的に採 開発または製造したりする知見や技術、製品が社会 り入れていく必要があると思います。答がでないこ にどんな影響を及ぼすのかについて、無関心であ とを学生は嫌い、国家試験対策に結びつく勉強を優 ることは許されません。そのためには、科学知と人 先してしまう傾向がありますね。 文知の双方を必要とします。例えば、原子力発電や 松田 環境問題、先端医療の問題などについて、政策的に 間前まで高校生だった受講生です。国家試験に関 どうするかを考えたとき、自然科学の分野だけでは わらないような教養教育を若い学年で済ませてし 足りません。人文・社会科学からの考察も必要で、 まおうというのは見識を欠きます。例えば、長期実 総合的な検討を要します。 務実習に臨む時は、 いよいよ現場に出るということで、 リベラル・アーツは薬剤師が「自分が社会にどの 5 薬学教育6年制のプログラムでは、 ヒューマ 私の授業も1年生が対象で、開講当初は2週 緊張感も出て、 プロフェッションへ向かう自覚も高ま ような影響を及ぼしているか」という自分の立ち位 ってきますから、実習前にプロフェッション(専門職) 置を理解する上で必要です。薬は使い方によっては としての心構えを教育し、事後に実習で経験したケ 毒にもなりますから、薬を扱う重大さや医療が持つ ースなどについて討論するような教育が効果的だ と思います。 を危険にさらす場合もあります。こうしたときに、倫 実務実習の事前教育などでは、調剤方法や患 理的葛藤が生じ、モラルディレンマに陥ります。4つ 者対応などをマニュアル教育していることが多い の原則はいずれも大切な原則ですので、すべてに ですね。 かなうよう努めますが、それぞれの原則から導かれ 松田 倫理教育はマニュアル教育ではなく、倫理 る行動方針が対立することがあります。そうした困 的理由を考え抜くことがポイントです。私が学生に 難に直面したときに、現時点で最善な道は何かを探 提起しているモラルディレンマも、自分で考えて ることになります。こうした探求を倫理的な比較考 もらう一つの材料にすぎません。実際のケースは 量(balance)といいます。 多種多彩ですから、マニュアル的に答えのみを求 100%の正解は無理、 現時点で最善の決断が求められる める姿勢では、 ケースを何千と用意しても不足です。 比較考量して判断する責務が薬剤師にはある 倫理的な思考力を鍛え、実際のケースにぶつかっ たとき、患者や同僚などと対話を重ねながら、自分 わけですね。 の頭で考えて、判断できるようにならなければなり 平井 ません。 なくてはいけませんが、ただし、正解は一つではあ そうです。医療現場ではその都度、答を出さ りません。また、100%の正解は無理ですから、現 Ⅲ 病院薬剤師が出会う モラルディレンマ 大切にすべき倫理的価値として、 4つの原則がある 松田先生が薬学生対象にテキストとして使用 時点で最も妥当という決断をしていかなければな りません。 現状では、医療安全をどこまで確保できるかを考 えることが中心になっているのではないでしょうか。 最後に、薬剤師がモラルディレンマに直面した 時のアドバイスをお願いします。 している「薬剤師のモラルディレンマ」は現場の薬 平井 剤師にも有効な倫理トレーニングの材料になりそう ないでしょう。状況に応じてどれを優先するのかは、 ですね。 その都度考える必要があります。患者さんが一番の 松田 先生ですから、経験を積みながら鍛えられていくの そうです。薬学生向けの教科書であると同 時に、すでに現場で活躍中の薬剤師向けの生涯学 現場では最初から正答を出すのは容易では だろうと思います。 習用のテキストでもあります。薬剤師倫理規定は第 医療現場は矛盾を感じることが多く、フラストレ 4条で生涯研鑚を謳っていますが、薬についての新 ーションが溜まりやすいのが現実です。患者さんに しい情報に関心をもつだけではなく、新たに生じる 優しく接している看護師さんが、ナースステーショ 倫理問題についても是非関心をもって生涯学習を ンでイライラしているのを見かけますが、自分をも 継続してほしいと願っています。 っと大事にしなくてはいけないでしょう。当院では 倫理原則について教えてください。 松田 米国の生命倫理学では、大切にすべき倫理 的価値として、次の4つの原則が掲げられています。 若い薬剤師が多いのですが、真面目に取り組んで、 自分ひとりで解決しようという気持ちが強いんです。 少し肩の力を抜いて、同僚や上司などと相談してい ● 自律尊重の原則 くように勧めています。 ● 無危害の原則 松田 他職種と連携して解決を図ることも大事です。 ● 善行の原則 他職種の役割まで薬剤師が背負う必要はありませ ● 正義(公正)の原則 んが、他職種の仕事の内容や考え方を理解すること これにさらに誠実の原則が加わることもあります。 は、チーム医療や連携活動をスムーズに推進する こうした原則に則して、患者の思いを尊重する、患 上で必要なことです。福祉も含めて対人援助サー 者の健康や安全を守る、家族の思いにも配慮する、 ビス全般についての幅広い教養が力を発揮します。 医療チームの協力態勢を維持する、医療資源の公 平井 正で効率的な配分に努める等々といった行動が導 抱えているように思います。今後は、薬剤師の倫理 かれます。 に関する議論や倫理的なアプローチのトレーニン しかし、患者の思いを尊重することが、実は患者 薬剤師は、日常業務の中で倫理的な悩みを グに関心が高まっていくのではないでしょうか。 6
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