新しいギャグスター

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村上水軍盛表記一一
-インタピュア一
-ゲスト
山 原 玲 子 (やまはら ・れいこ)
森本
広畠県本郷町出身。
同志社女子大学学芸学部英文学科卒業後、 R
中国放送に戸ナウンサーとして入社し疋
ガ、大学時代にクラブ活動として軽音楽部の
コンサートの司会をしていだのが、戸ナウン
サーになるきっかけとなっだ。
ある時は市長と対談(広島市のテレビ広報番
J\~イ皆さん今日は ! _jと
組〉
、 ある時は '
小 ・中学生の公開録音音楽会、まだある時は
「トップ旭化成、今ヲスキを渡しましだ/中
継タイムは
J と、中園駅伝の実況等々。
硬 ・鞍・スポ ツと、さまざまな仕事を経験
してきている。
現在、ラジオのレギュラー番組として、
「相村
武昭の 5-5
ふるさと中国路」、'
1
1時です、
あなだとご一緒に」を担当。
趣昧は、着物、焼き物ではあるが、時にはジ
令
ーパン¥ある時は毒物と、仕事同様に山原i
子の3
6
0
度の回り顎台を楽しんでいる
。
1
9
2
6
年愛媛県岩城島出島。
c
c
繁 (もりもと ・しげる)
九州大学法学部卒業。
地方史研究協議会会員、歴史作家。
主な著書としては「歴史紀行 ・毛利元就 JJ
歴
f
真
史紀行 ・瀬戸内水軍」、「毛利元就写真集 J
説 ・太閤記」、「坂本龍馬いろは丸事件の謎を
解く_
j,'戦国最強の海上軍団 ・毛利水軍 J
(
新
人物往来社〉
、 「歴史紀行 ・瀬戸内の海賊衆」、
「
果雄の妻」、「傷ついだ備前罵 J山陽新聞社〉
「毛利 ・親驚子鷹孫鳶_j(叢文社〉ほか約 3
0
種の
刊行書がある。
広島県福山市在住。
山原
今日は村ー上水軍についてのお話をいろ
い ろ と お 聞 か せ い た だ こ う と 思 ってまいりま
した 。 ど う ぞ よ ろ し く お 願 い い た し ま す 。
森本先生は地方史研究家としてずい分沢山
るわけですね。それで瀬戸内海の水軍史の研
究 も 始 め ら れ た と い う こ と で す ね。
ところで私は以前から疑問に思っていたこ
となんですが、水軍と海賊とはどのように違
の本を書かれていますが、いつ頃から日本の
うのでしょうか。
歴史に興味を持たれたのですか。
森本
森本
海賊というのは、江戸時代になると文
最初は広島県の吉田高校に教師として
字 通 り 海 の ギ ャ ン グ 、 盗 賊 な ん で す ね 。 とこ
赴任したときですかね。この吉田という所は、
ろが戦国時代以前は海賊すなわち水草なんで
毛利元就が誕生して死亡した地ということも
す。 海賊も水軍も海の武士団というのが正し
あって、戦国時代の遺跡が非常に多いんです。
くて、昔は海賊という 言 葉 は そ れ ほ ど 悪 い 意
昔は普通、お墓などはつくらなかったんです
味ではなかったようです。
が、そこには毛利氏のりっぱな土墓がありま
たとえば南北朝や戦国時代になると、水軍
した。それを見て感激して、毛利元就の研究
は海賊衆や警固衆(けごしゅう)と呼ばれ、
を 始 め た の が 歴 史 へ の 興 味 の 第一 歩 か も し れ
海の治安維持のために活躍したわけです。
ません。
山原
山原
そうして ・
・
・
・
・
・。
ヵ
、
。
森本
実は私の郷里は愛媛県の岩城島という
森本
警固衆というのはどのようなものです
大 名 直 轄 の 水 軍 の こ と な ん で す 。 よく
所なんですが、恩師から村史をつくることの
知られる毛利水軍、大内水軍、織田水軍のよ
依頼を受けました。そしていろんな資料を調
うに、ときの権力者であった大名の家臣とな
べ な が ら 「 岩 城 島 の 歴 史」上 ・下 巻 を ま と め
ったものを警固衆と呼んでいました。
たわけです。これが本格的な歴史を研究する
始まりなんです。
また、もう 一 方 の 権 力 者 で あ る 朝 廷 や 公 卿
は、武力を持っていなかりたんです。つまり
もっとも当時は、学問的に研究をするとい
武士と武士との争いの均衝の上に成り立って
う考え方ではなく、小説的に書いて歴史を大
いたのが朝廷で、自分らで海賊を取り締まらず
衆のものにしたいという気持の方が強かった
に 武 士 団 に 命 じ て 討 伐 を さ せ て い た わ け で す。
ですね。
こ の 武 士 団 も 海 賊 で す ね。
山原
先生がお生まれになった岩城島といえ
ば、因島の隣ですから水軍と大いに関係があ
山原
海賊が海賊を取り締まるということで
す か。
-村 上 家 水 学 書
森本
そ う い う こ と で す ね。 た と え ば 藤 原 純
友 の 乱。 純 友 は ご 存 知 の よ う に 海 賊 て ¥ こ の
乱 を 討 伐 し た の も 海 賊 な ん で す。 そ こ で 朝 延
は 討 伐 側 の 水 軍 を 前 ( さ き ) の 海 賊 と 呼 ん で、
、
討伐される海賊と区別していました。
結論からいうと、水軍とは海上の治安維持
を す る た め の 海 の 武 士 団 で あ った わ け で す 。
と い う の は 、 瀬戸 内 海 の 治 安 が 非 常 に 乱 れ て
-因島大橋
270mの吊橋
西瀬戸自動車道 の向島と因島を結ぶ全長 1,
い た か ら な ん で す。
山原
な ぜ 乱 れ て い た の で す か。
森本
当時 、 海 外 貿 易 の 窓 口 が 九 州 の 太宰 府
り 、 そ の 後 ど う い う 歴 史 を 経 て 村 上 水軍 が 出
にあ った 関 係 で 、 中 国 や 朝 鮮 な ど か ら の 物 資
現 す る ん で し ょ う か。
が 瀬戸 内 海 を 通 って 大 阪 、 京 都 、 奈 良 へ と 運
森本
ば れ て い ま し た。 瀬 戸 内の民は土 地 も な い し
あ る 新居 大 島 と い う 小 さ な 島 で す 。 こ の 島 に
村 上 水軍 の 発祥 は 愛 媛 県 新居 浜の 沖 に
貧 し か っ た の で 、 こ の 船 に 積 まれ た 交 易 品 や
村 上 氏 と い う 元貴 族 で あ っ た 人 が 罪 人 と な り
年貢を狙うようになり、海上の治安が乱れた
流 さ れ て き た わ け で す 。こ の こ と は 伊 予 の 「予
わ け で す 。 こ れ が 瀬戸 内 海 の 海 賊 の 始 ま り で
章 記 」 とい 書 物 に 詳 しく 書 か れ て お り 、 村 上
藤 原 純 友 も そ の ひ と り で し た。
氏 は 新 居 大 島 に 居 住す る う ち に 徐 々 に 勢 力 を
拡大して、藤原純友の討伐に向いました。
山原
どうして村上氏が純友を討つことにな
っ た の で す か。
森本
海に詳しく、船上の達者で、あ っ たから
で す 。 な ぜ そ う な った か と い う と 、 新 居 大 島
は 地 乗 り 航 路 の 要 衝 だ っ た ん で す。 昔 は 船 が
小さく、陸地沿いに航行していました。瀬 戸
内海の真 ん中を通る沖乗り航路は、船が大き
くなり操船技術が向上してからのことなんで
す。
山原
元々、水軍の起こりとはいつ頃のこと
安芸の地乗り、伊予の地乗りといって、当
で し ょ う か。
時は陸地沿いを航行していました。しかし瀬
森本
南海道や西海道に海賊が出て困るとい
戸内海には、渦潮や来島海峡のように流れの
う こ と で 、 紀 伊 水 草 や 西 国 水軍 とい った言 葉
非常に早い所がありますので、水先案内人が
が 使 わ れ て い ま す。 そ れ 以 前 の 海 賊 は 陸 地 の
どうしても必要だったわけです。
武 士 が 取 り 締 ま って い ま し た が 、 海 賊 が 増 え
それで伊予の河野氏が村上氏を指揮して海
て く る と そ れ で は 間 に 合 わ な く な ってくる 。
賊 の 取 り 締 ま り に 当た ら せ る と と も に 、 藤 原
そ こ で 海 の 事 情 を よ く 知 った 海 賊 を 懐 柔 し
純 友 を 討 伐 に い く ん で す ね。
て 自 分 た ち の 味 方 に つ け た わ け で す 。 い って
山原
み れ ば毒 をも って 毒 を 制 す る と い った按配(あ
が 、 村 上 水軍 の 始 ま り な ん で す ね。
ん ば い ) で 、 水車 という 毒 を 使 って 、 海 賊 と
藤 原 純 友 の 乱 の 鎮圧 に 手 助 け を し た の
ところで純友というのは藤原氏なんですカ丈
いう毒を討伐していったんですね。
ど う い う 人 だ っ た の で し ょ う か。
山原
森本
今回は水草の中でも特に村上水軍に焦
平安時代の藤原氏には京家、南家、北
点 を 当て て お 話 を お 伺 い す る わ け で す が、 海
家、武家の四家があり、そのうち 北 家 が 摂 政 ・
賊の中からときの権力者側について水軍にな
関白を出した家柄で、いちばん力を持ってい
ました 。 純 友 も 北 家 に 属 す る 分家 に養 子 とし
て 入 っ た 人 で、し た が 、 同 じ 北 家 の 系 統 と は い
って も 本 流 か ら外 れ て い る た め 出 世の 望 み が
な か った わ け で す 。
養父に当たる人で、やっと大宰少弐程度の
官位。今でいう県知事ですね。純友自身も官
位は伊予の橡(じよう)とし寸 三等 官で 、 現
在 な ら さ し ず め 総 務 部長 とい った と こ ろ で し
ニ
ア。
-八幡船(ばはんせん)
朝鮮・中国から遠く東南アジアまで押し渡り「倭冠」の名を J毎外に
とどろカ、せた 。
と こ ろ へ 村 上 仲宗 と い う 人 が 養 子 に い き 、 そ
そ う い った立 場 に い ま し た が 、 中 央 か ら 伊
の子孫が村上水軍の系統といわれています。
予へくると尊敬されるし、海賊を手なづけて
この村上仲宗の孫に為国と定国という人がい
到 頭 海 賊 の 統 領 に な ってしま って 乱 を 引 き 起
ま す が 、 長 男 の 為 国 は 信j
農村上。 弟 の 定 国 は
こすわけです。
しかし最近の研究によると、純友はどうも
藤 原 氏 の 出 身 で は な い よ う で す。
山原
そうすると、出身はどこなんでしょう
、
ヵ。
森本
瀬戸内海へ出てきて新居大島へいき、伊予村
上 と し て 7代 続くわけです。
だ か ら 村上 氏 の 家 系 は 、 源 頼 朝 な ど と 同 じ
清 和 源 氏 の 系 統 に 当 た り ま す が、 実 際 に は 仲
宗のときは村上源氏と清和源氏とがドッキン
伊予の河野氏の分家である 高橋氏から
藤原氏へ養子になっていたみたし、ですね。昔
は子供を出世させたし、ために、力のある氏族
へ養子に出していましたので、純友もどうや
グ し た こ と に な り ま す ね。 仲 宗 は 村 上 源 氏 な
ん で す。
ついでに村上氏の系譜をお話しますと、伊
予 村 上 は 7代 目 の 義 弘 没 後 、 断 絶 す る ん で す 。
らそのようです。だから純友は越智(河野)
そのときに出てきたのが信濃村上の師清で、
一族 な ん で す。
南 朝 の 北 畠 親房 の 意 向 を 受 け て 信 州 の 更 科 か
山原
出 世 を 望 ん で 藤 原 氏 へ 養 子 に い っ たも
ら村上家の継承権はわれにありと出てくる 。
のの、思うように出世ができなかった ・
・
・
・
・
・。
その 3人 の 息子 た ち か ら 三 島村 上 の 時 代 に 入
森本
平 将 門 と 同 じ な ん で す ね。将 門 も 出 世
の道を求めて都へ登り、賄路などを使い官位
るわけです。
山原
三 島村上というと、 三 つ に 分 か れ て し
を得ょうとしましたが失敗し、結局逆賊扱い
まうわけですか。
され討伐されてしまう 。 こ の よ う な 社 会 情 勢
森本
義顕が能島村上、顕忠が来島村上、そ
な の で 、 純 友 も 国 府三 等 官 の任 期 を 終 え て 京
して顕長の因島村上と、この三つに村上氏は
都 へ 帰 って も 、 大 し た 地 位 は 得 ら れ な い と 考
分 か れ て し ま い ま す。
えたのは 当 然ですね。
こ の 藤 原 純 友 の 乱 で 村ー
上氏は大きな手柄
山原
村 上 氏 の 系 図 は 、 と て も 複 雑 で す ね。
頭がこんがらがってしまいます。
を立 て 、 以 来 村 上 水 軍 の 歴 史 が 始 ま る わ け で
森本
すよ 。
単 に い い ま す と 、 水軍 と い う の は 海 の 武 士 団
確 か に 複 雑 で す 。もう 一 度 整 理 し て 簡
その後も海賊はあとを絶たない状況で、 当
で 、 海 上 の 治 安 を 維 持 す る も の 。 村 上 水車 の
時 は 源 氏 も 一 緒 に この 辺 り を 取 り 締 ま っ て い
起 こ り は 藤 原 純 友 の 乱 が 起 こ った と き に 、 伊
ま し た が 、 平 家 に そ の 支 配 権 を 取 られ て し ま
予の新居大島の村上氏が海上案内、船上の達
います。
者 と い う こ と で 伊 予 守 護 ・河野氏 の 家 来 と し
山原
村 上 氏 は そ の 後 、 ど う な ったのでしょ
て戦い手柄をたてた。
源平が対立していた時代ですが、源頼
養 子 に な り 、 そ の 子孫 が 3代 目 で 信濃 と伊予
信の子供に頼義がいました。その弟の頼清の
とに分かれた。伊予村上氏が父祖の地である
つ
。
森本
その後、 子 孫 の 仲 宗 が清 和 源 氏 の 源 頼 清の
山原
ま あ 、 そ う な ん で す か。 今 ま で 藤 原 純
友の乱と村上水車の起こりをお伺いしたわけ
ですが、その後、水車はどこで活躍するので
しょうか。
森本
源平合戦ですね。当時、瀬戸内海の実
権 は 平 家 が 握 っ て い ま し た が 、 村 上 水軍 の 主
人 で あ る 河 野 氏 は 源 氏 に 味 方 し ま す。 源 氏 に
味 方 し て 、 文 治 元 年 ( 1185) の 屋 島 の 合 戦 に
は間に合わないんですが、その後の長門壇ノ
-因島水軍資料館館内
浦 の 戦 い で は 大 き な 手 柄 を た て て 平 家一 族 を
滅 亡 さ せ て し ま い ま す。
それこそ抜群の手柄をたてましたが、源義
経の支配下にあ ったため頼朝に恨まれ、承久
3年 (1221) の 承 久 の 乱 の と き 、 京 都 側 へ 味
方 し た こ と で、
河野通信は奥州へ流されてしま
います。
-持 (かみしも )
山原
それで河野氏は断絶してしまうんでし
ょうか。
森本
一時断絶状態になるんですが、ひとつ
の部族だけが承久の乱に関係しなかったとい
うことで、愛媛県の石井を根拠地に子孫が続
. ~車羽織
村上武吉、景親が着用したもので、絹、 羅沙(ら
しゃ )、ビロ ー ドカ、多い 。室 町 時 代 に 渡 来 し た ス ペ
イン、ボルトカル人 の 服装 を ま ね し た も の と い わ れ
ている 。
くわけです 。 そ の 中 の ひ と り が 有 名 な 河 野 通
有で、元冠の役で、村上水軍を率いて子柄をた
て ま す 。 お か げ で 河 野 氏 は カ ム バ ックして、
再 ぴ 瀬戸 内 海 の 制 海 権 を 握 る わ け で す 。
だ が 鎌 倉 幕 府 は 、 平 氏 と ち が って 水軍 を 活
新 居 大 島 や 越智 大 島 な ど の 瀬戸 内 海 の 愛 媛 県
用せず、海賊衆や海の民を徹底的に弾圧する
側 を 縄 張 り と し て 活 躍 し た わ け で す ね。
ん で す。
そ の 問 、 源 平 合 戦 時 に は 伊予 の 河 野 氏 は 源
山原
な ぜ 、 海 の 民 を 弾圧 したのでしょうか。
氏 に 味 方 し た の で 、 そ の 支 配 下 に あ った 村上
森本
鎌 倉 時 代 は 農 業 社 会 な ん で す。 だから
氏 も 活 躍 し た 。 要約 す る と こ の よ う な こ と に
農業以外はまったく無視した政策を執るわけ
なります。だから村上水軍は、最初から盗賊
で す。 海 上 で 貿 易 や 商 取 引 を し て い た 海 の 民
団とは違っていたわけです。
や 海 賊 た ち は 徹 底 的 に 抑 圧 さ れ ま し た ね。
山原
そ の お 話 を お 聞 き し て 、 ホ ッ としまし
た。実 は 私 の 先 祖 は 愛 媛 県 の 岡 村 島 な ん で す。
こうい っ た 時 代 が し ば ら く 続 き ま し た の で 、
後 醍 醐 天皇 が 旗 上 げ し た と き に は 、 海 賊 衆 は
子供 の 頃 、 祖 母 か ら 先 祖 は 水軍 であ った と 聞
全員味方をしたわけです。また、陸地でも農
か さ れ て い た も の で す か ら 、 ち ょ っ と気 にな
業以外の人はみんな味方をしましたし、農民
って い ま し た 。 と こ ろ が 村 上 水 軍 の 歴 史 を お
の 中 で も 本 家 以 外 は 冷 遇 さ れ て い ま し た の でL
聞 き し て 、 海 の 盗 賊 で は な い と わ か って 安 心
本家は北条氏につき、分家は後醍醐天皇に味
しましアこ 。
方 を し た ん で す。
森本
岡 村島 は源 平 合戦 で 敗 れ た 平 家 が 住 み
山原
本 家 と 分 家 の 対立 で す ね 。
ついた所で、今でもその子孫が残っているは
森本
こ れ は 村 上 水草 の 主 人 、 河 野 氏 に も あ
ずですよ 。
るんですよ 。 河 野 氏 の 水車 の 本 拠 地 は 大三 島
に あ る ん で す が 、 こ こ に は 河 野 氏 の 分家 が 代
らみがありますので味方についた。 こ れ が 元
代 宮 司 をしている大祝(おおほうり)氏 の 水 軍
号
.L
' ?年 ( l??l) の 砕 武 中 興 や 成 し 滋 げる の や
がありました。 これが後醍醐政権に味方する
パ ックア ップ し た わ け で す 。
ん で す 。 そ れ と 陸 地 部 の 土 居氏と 得 能氏・・
山原
しかし、後醍醐政権も 長 続 き し ま せ ん
こ れ ら も 河 野 氏 の 分 家 で す か ら 後 醍 醐天 皇 に
で し た ね。
味方をしますが、河野氏の本家は北条氏側な
森本
ん で す ね。
農 業社 会 に 非 農 業 社 会 の 政 権 が 誕生 し た わ け
3年 足 ら ず で 崩 壊 し て し ま い ま す ね。
山原
結 構、 複 雑 な ん で す ね 。
で す か ら 、 長 続 き す る は ず が あ り ま せ ん。 結
森本
簡単にいいますと、後醍醐政権ができ
局 、 農 業 社 会 を 基 盤 と す る 武 士 階 級の 子 によ
っ て 打 倒 さ れ て し ま う ん で す ね。
た と き 、 海 の 民 、 水軍 た ち は 今 ま で の 恨 み つ
三島村上水軍家系図
② 同品村上京系I?<
I
① 能島村上京系凶
③ 米L
b村 1
.
.
家系凶
① 右衛門大犬
③
通康
④
④
康吉
③ 山城守
- 義雅
隆 勝t
il-
士口元
②山城守
顕忠
①山城守
稚房
(治郎吉凶)
義顕
一⑤
﹁l 義 忠Illl武吉イ │ │元吉14│一 応武
②
耐部頭
⑥ 絹綿頭
一一
(久間品川系)
(村上凶品
川家)
(村上 一山
下山さ
﹁ 呆親│││﹁ー 元信
通
総
⑤
康
親
⑥
高
k
門
村
家
通
春
l
充
元
祐
⑦
(山陽新聞社発行「瀬戸 内の海賊衆」より)
-大山祇神社(おおやまずみじんじ ゃ)
天照大神の兄神、大山積大神を祭神と
する神社で、古くから「海の神 武人
の神」として歴代の朝廷や武将たちの
-能島城跡
全島が城と関所と軍港
を兼ね、本丸跡のほカ、
尊崇を集めてきた 。
岩場には桟橋跡と見ら
れる柱穴が残っている 。
-因島 水草城
8年
村上 水草の菩提寺である金蓮寺の右手、小高い丘の上に、昭和 5
1
2月に築城された全国唯一の水軍城。
山原
ここで登場するのが足利尊氏ですね。
ていいほど水車の力があるわけですね。
森本
ええ、そうです。尊氏は後醍醐天皇に
森本
ええ、そう考えていいと思いますね。
背き、京都で、戦って敗れます。この場面は N
足利政権がスタ ー トして、京都を中心に近畿
H Kの 大 河 ド ラ マ に 出 ま し た の で ご 存 知 の 方
中国、東海と重要な地点を占領していくわけ
も多いと思い ますが、負けて九州へ 逃 げ て い
ですが、 一 方 、 南 朝 の 後 醍 醐 天 皇 は 奈 良 県 の
くわけですね。
吉 野 へ 逃 げ て し まいます 。 吉 野 は 内 陸 部 で 周
その道中で早くも再起を図るための手立て
をいろいろと講じているんです。
山原
どのような手立てなんですか。
森本
水軍なんです。水軍を味方につけてし
りはすべて包囲されているでしょう。それに
も か か わ ら ず 56年間も政権を維持するんです。
これだけ長期間、政権が続くのも実は水軍
のおかげなんです。
まうんです。そして九州で菊地氏を破り、再
山原
ぴ勢力を盛り返して東上するときに、この水
氏が政権をとることができたのも水車のおか
軍 を 率 い て い く わ け です 。
げ と い わ れ ま し た が・
・
・
・
・・
。
村上水軍を初めとして、大山紙神社(おお
や ま ず み じ ん じ ゃ ) の 河 野 水 軍 な ど 、 瀬戸 内
森本
え
、待ってくださいよ。確か足利尊
南朝政権の支持基盤は東北、北陸、九
州など、京都から遠く離れた地域ばかりで、
海 の 海 上 勢 力 を ほ と ん ど 手 に 入 れ、 湊 川 を 襲
こ れ ら と の 連 絡 に 水 軍 を 使 った わ け で す 。 と
います。これが湊川の合戦で、楠木正成を破
いうのは、内陸部は北朝側に掌握されており
り、新田義貞を追って京都を回復することに
通 行 が む つ か し い 。 ど う し て も 海 上 ル ートを
なるわけです。
とり、水軍の力が必要になってくるんです。
このとき、向うには水軍がないんですね。
水軍というのは海の流れが変わるように、
ここでも水草の果たした役割は非常に大きか
絶えず時代の流れに合わせて、いろんな人の
ったといえますね。
味方をしてきたわけですね。
手前味噌になりますが、源平合戦に勝った
山原
なるほど、そういうことですか。とこ
の も 水 軍 の お か げ 、 建 武 中 興 を 成 し遂げた の
ろで具体的にはどのようなルートで遠隔地と
も水軍のおかげ、尊氏が政権をとれたのも水
連絡をとっていたのでしょう。
軍のおかげなんですよ 。
森本
山原
親房の献策により、東は伊勢の大湊を基地に
日本の歴史の転換期には、必ずとい っ
ここで活躍したのが北畠親房なんです。
して海路、東北・北陸の豪族たちと連携を図
り
、 一 方で、は吉野から紀州、│の田辺や雑賀崎へ
出 て 、 熊 野 ・ 瀬 戸 内 の 水軍 の 力 を 借 り て い ま
した。これらの水軍力を利用して瀬戸内海を
航行し、九州│の豪族たちと連絡をとったわけ
です。
また、瀬戸内海に入っても、北四国の陸地
部は北朝側の細川氏が勢力を張っており、中
-青木城跡
永禄 1
0年 (1
5
67)に因島
村上新蔵人吉充が向島の
余 崎 城 よ り 移 って 居城に
国 筋 も 備 中 ・備後は細川氏 の 領 国 で あ っ た た
め陸上交通は不可能で、した。だからどうして
も水軍の力を借りて瀬戸内海を通る以外、九
したと伝えられている 。
本丸跡には龍王神社の石
碑と地王社の嗣が祭って
州へ通じる道はなかったわけです。
こうした立場の南朝を応援したのが、瀬戸
ある 。
内 海 の 水軍 で、した。
山原
そうしますと、南朝側にとって水軍は
命綱であったわけですね。
森本
そうです。九州で南朝政権を樹立した
-青影城 跡
海賊城ではなく戦国山城であり、も
とは長崎・青木・余崎なとの連絡場
戸斤であった
懐良親王(かねながしんのう)を支援したの
大島で村上義弘に庇護されたことはほぼ確実
も 水 軍 な ん で す 。 延 元 元 年 ( 1336) 征 西 将 軍
ですね。
に任命された懐良親王は南下することになっ
その後、細川氏からの圧力もあって忽那島
たわけですが、ルートとしては瀬戸内海を通
(くつなじま)へ移り 3年 間 ほ ど を 過 ご し ま
るしかありません。最初はまず村上水軍発祥
す。 ここに忽那水軍がいて、この水軍の大将
の地、新居大島へ上陸します。ここでは村上
忽那義範が懐良親王につくすわけです。
水 軍 7代 目 の 村 上 義 弘 の 世 話 に な る ん で す。
実は後になって、明治政府から水軍にほう
この前、新居大島へいって調べたところ、懐
びが出されているんです。
良親王に関する遺跡がありましたので、新居
山原
-水軍にまつわる
イベント
それは懐良親王を支援したお礼という
民謡踊り 、カラオケ大会、ちびっ
こ相撲大会など、盛大に催されて
いる o
②神明祭
因島のほとんどの村で行われてい
1年以降は減少し、現
たが、明治4
①水軍まつり
因島大橋が開通したよ く年の昭和
在は 2月の第 7日曜日に大浜町だ
けで開催されている。
5
9
年から始まつだ因島の新しいイ
「天下泰平護国成就 J の文字の
ベントである。
毎年 5月のゴールデンウィークに
(神明体〉
つけられだ 4組のとんと、
行われ、叡謡ショ一、水軍太鼓、
ぎやかに行われて いる。
0
歳以下の人がかついで、に
を、4
た わ け で す ね。
森本
征 西 将 軍 ・懐 良 親王 の 九 州 に お け る
南 朝 政 権 を 支 え た 水 軍 た ち は 、 武 力 に よ って
北 朝 側の 軍 勢 と 対 決 す る と と も に 、 倭 冠 と し
て 朝 鮮 の 沿 岸 を 荒 ら し 、 米 や 人 間 を 掠奪 して
いました。 これが懐良政権を維持するための
-長崎城跡
村上氏が因島に構えた最初の拠点て¥厳島合戦で
5
57
)
に
向島を得た村上新蔵人吉充か、弘治 3年 (1
大 き な 財 源 だ っ た わ け で す。
しかしその後、北朝側の懐柔策により水軍
向島余崎城へ移るまで の 1
8
0年間の本城であった 。
は懐良親王から離反し、この政権も崩壊して
ことですか。
山原
しまいます 。
森本
そ う い う こ と で す ね。 関 わ っ た 人 は す
べ て 位 階 を も ら っ て い ま す。
新居大島で懐良親王を庇護した村上義
弘 は そ の 後 ど う な っ た の で す か。
F
森本
村上義弘はその後、細川との戦いで落
ち ょ っ と 話 は そ れ ま し た が 、 忽 那 島 に 3年
城寸前であった河野通尭(みちあき)を助け
間ほど過ごしたあと、懐良親王は豊後水道を
九州の懐良親王の元へ連れていきました。 そ
通り、鹿児島の山川港に着くんですが、ここ
の後、通尭は懐良親王から通直という名をい
は 北 朝 側 島 津 氏 の 勢 力 圏。 当 然 陸 路 で は い け
ただき、伊予国の守護としてカムバックしま
ないので、水軍の助けを借りて熊本の八代に
す。 そのときにも支援したのが村上義弘なん
再上陸します。
で す。
ここで南朝側の菊地市の支援を受け、大宰
ところが、河野通直が伊予に返り咲いてか
府を占領して、やがて島津氏を除く九州全土
らの義弘の消息が不明で、、間もなく文中 3年
を 支 配 す る ほ ど の 勢 力 に な る わ け で す 。 約 11
(
1374) 頃 に 亡 く な っ た よ う で す ね。 こ の 村
年間政権を執るんですが、これらを絶えず支
上義弘は先ほどお話したように村上水軍の 7
え た の は 村 上 水 軍 、 熊 野 水軍 、 そ し て 北 九 州
代目で、義弘が死んで村上氏は断絶してしま
の 松 浦 水 軍 だ っ た の で す。
う わ け で す 。 つ ま り 瀬戸 内 海 の 村 上 水軍 の リ
山原
ーダーが不在なんです。
こ の 政 権 も ま た 水軍 の お か げ で 誕 生 し
③水軍御船まつり
1
6日〉と外浦〈とのうら〉町(隔
1
0
月の第 3日曜日に,大山神社で
年 8月 1
6日〉の 2力所でにぎやか
行われている。神様を大三島から
に行われている。これは元来、村
御船にてお迎えしだ由来と村上水
上水軍ガ出障するにあだって、輩
軍の活躍を偲ぶもので、水軍武装
下の村々でi
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'勝祈願と士気の高揚
の乗つだ御船の海上パレードや、
の定めに行っていだ法楽能に由来
水軍太鼓の古法打などの海上絵巻
するものである。
ガ繰りひろげられる。ま芝、神社
村上水軍ガ衰退してからは信仰の
の上に船を引き上げる曳舟神事の
行事として残り、悪疫神や悪害 虫
奉納は全国でもめずらしい。
などの禍根をはらうとともに、 新
仏を法悦裡におごそかに送り 出す
④法楽踊一一 水軍出障の儀式
椋浦(むくのうら〉町(
毎 年 8月
風習になっている。
山原
そ こ に 現 わ れ た の が村 上 師 清 で す ね。
領されていました。しかし海を基盤に伸びて
森本
そ う で す 。 天 授 3年(1377)、 義 弘 の 死
いく聞に、徐々に内陸部も支配するようにな
去を聞いてその家系を継ぐためにやってきま
り、ついには島々から小早川氏を追っ払って
す 。 こ の 村 上 師 清 が 後 期 村 上 水軍 の 始祖で、
しまうんですね。
信j
農村上氏の出身です。
先 ほ ど も い い ま し た が 、 師 清 に は 3人 の 息
子がおり、
たとえば能島村上は大島を中心として、伯
方島(はかたじま)、笠岡、忽那島、塩飽島(し
2代 目 に し て 能 島 村 上 、 来 島 村 上
あくじま)を子に入れましたし、来島村上は
因島村上に分かれます。 三 つ の 村 上 は そ れ ぞ
来 島 を 中 心 に 大 崎 上 ・下 両 島 や 大三 島 、 岩 城
れ 河 野 ・村 上 ・今 岡 な ど 、 水 軍 家 ゆ か り の 女
島、岡村島など、近辺の島をどんどん占領し
性 を 嫁 に も ら って 支 配 権 を 握 り 、 旧 勢 力 と の
てい った わ け で す 。
妥 協 の 上 に 三 島村上が形成されるわけです。
山原
この頃から古文書 などが残ってよくわかる
その時期から毛利氏との関係、が出てく
る ん で す ね。
のですが、それまでの村上水軍の歴史につい
森本
て は 不 明 な 点 が 結 構 あ り ま し た ね。
郡 の 吉 田 に あ っ た 2万 石 程 度 の 大 名 に し か 過
山原
三 島村上の成立は南北朝合体後ですね。
これ以降、村上水軍は隆盛期を迎えるわけで
す か。
森本
そ う で す ね。毛 利 氏 は 元 々 広 島 県 高 田
ぎなか った わ け で す 。 そ れ が 武 田 氏 を 滅 ぼ し
て水軍を手に入れてから勢力を急激に拡大し
て 、 や が て は 瀬戸 内 海 を 支 配 す る ほ ど の 大 勢
最初はまだ村上氏は、そんなに力を持
力になるんです。
って い た わ け で は あ り ま せ ん 。 当 時 の 瀬 戸 内
毛利氏はその力をさらに強力なものとする
は 小 早 川 氏 の 力 が 強 く 、 村 上 水草 が 本 当 に力
ため、村上水軍を子に入れようと考えたわけ
を 得 て く る の は 15
世主己にな ってからなんていす。
で す 。 そ の 頃 に 起 こ ったのが厳島(し、つくし
山原
では、どういうことで力を得ていくん
ま)合戦です。
で、しょうカ
山原
それはいつ頃になるんでしょう 。
森本
森本
1555年 で す ね。 そ の 厳 島 合 戦 で、
毛利氏
南北朝の動乱期で、治安が非常に乱れ
て 陸 地 で も 絶 え ず 争 い が 起 こ って い た で し ょ
は 村 上 水軍 に 救 援 を 求 め 、 味 方 に 引 き 込 み ま
う。 そうい った j
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兄をうまく j
舌かして力を f
申
した 。村‘
上水軍 と毛利氏とが初めて結びついた
ば し て く る ん で す。
わ け で す。 これはね、すごいことなんですよ 。
村上氏は元々新居大島が本拠地でしたが、
因島や越智大島などの内陸部は小早川氏に占
水 軍 を 子 に 入 れ た と い う こ と は 、 中 ・四 国
を支配下におさめることを約束されたような
-水 軍 名 と 本 拠 地
塩飽水軍本拠
熊野水軍本拠
-大 刀
-矢 箆 (
や かこ )
ものです。
厳島合戦ではかりに陸地で勝っても、船で
逃げられる恐れがありましたので、どうして
も強力な水軍が必要だったわけです。
山原
-鎧兜
朝鮮征伐の時、村上景親の戦利品
ということは、厳島合戦での勝利も水
草のおかげですね。
森本
もちろんそうですね。このようにして
毛利氏と村上水軍が結び、つきましたが、先ほ
どもいいましたように、水軍というのは、あ
あ ったわ け で す 。 だ か ら 水 軍 の 力 を 借 り て シ
ーレーンをつく って 守 っ た ん で す ね 。
そ の 後 、 山 口 県 全 土 を 征 服 し て 、毛 利 氏 と
っち に つ い た り 、 こ っ ち に つ い た り す る 自 在
村 上 水 軍 は 密 接 な 関 係 を 保 って い ま し た 。 し
の民なんです。だから毛利氏とべったりだっ
か し 元 亀 2年 ( 1571) に 毛 利 元 就 が 死 ん で 状
たかというと、 実 際 の と こ ろ そ う で も な い 。
況 が一 変 す る ん で す が 、 そ の 前 後 に 能 島 水 軍
そ の 後 も 毛 利 に 反 逆 し て い る ん で す。
が 毛 利 に 反 逆 す る ん で す。
因 島 村 上 は 小 早 川 氏 と 密 接 に つ な が ってい
山原
な に が 理 由 な ん で し ょ う ね。
元就が死ぬ前、毛利氏がどうし寸状況
る の で一 心 同 体 な ん で す が 、 能 島 村 上 は 自 在
森本
の 民。 来 島 村 上 は 河 野 氏 の 水 車 で す か ら 、 自
にあ っ た か と い う と 、 永 禄 9年 ( 1566) に 出
由に動けない。 三 島村上水軍には、このよう
雲 の尼子氏を滅ぼしたあと、その残党が織田
な 特 長 が あ る ん で す ね。
信長にノ〈ックアップされて攻め込んできます。
そ の 後 、 毛 利 氏 は 周 防 ・長 門 を 攻 め る ん で
そ の 頃 、 毛 利 氏 は 北 九 州 で 大 友 氏 と 戦 ってい
す が 、 征 服 す る の に 3年 近 く か か って い ま す。
るんです。 お ま け に 岡 山 県 の 浦 上 氏 が 大 友 氏
というのは、厳島で戦死した陶晴賢にかつが
と 結 び つ き 攻 め て く る 。毛 利 は 完 全 に 包 囲 さ
れた大内義長は、九州│の大友氏の出身なので、
れてしまうわけです。
大 友 氏 が 関 門 海 峡 を 渡 って 攻 め て く る 恐 れ が
そのときに能島村-上氏が毛利氏に反逆して
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方 の 水 軍 は 大 船 数 般 を 中 心 に 200般 の 船 団 で
木津川口を封鎖し、海からの補給をできなく
したわけです。
本願寺側に味方したのは紀州の雑貨(さい
が)水軍と毛利の水草。
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毛 利 側 は 600般 の 船 に 何 千 俵 も の 米 を 積 ん
てい助けにいくわけです。それに警固船として
村 上 、 毛 利 水 軍 が 300般 。こ れ ら の 船 が 淡 路 島
相手方について戦う。能島村上はそういった
の岩屋を基地に大阪の和泉へ渡るわけです。
亙しているんです。
ことを 2回も手鼻り i
あらかじめ雑賀水軍と申し合わせて木津川口
山原
へ攻め込むわけです。
で は 因 島 、 来 島 は ど う し た の で す か。
やはり能島村上に同調して、毛利氏に反旗を
山原
そのときの水軍の戦いはどのようにし
ひるがえしてたのでしょうか。
て行われたのでしょうか。
森本
森本
いいえ、そのままです。しかし毛利氏
このときは火攻めでした。ほうろくと
は、その後の政策を間違えず進めたので、こ
いう手投げ弾や火矢を飛ばして織田側の船を
の 難 局 を 切 り 抜 け、 や が て は 中 園 地 方全土を
焼き打ちにしました。この戦きは相手の水軍
支配下に置くようになりました。
その雲行きを見て、能島村上は再び毛利氏
につき、それ以降は裏切りはありません。
こ の あ と 、 織 田 信長との戦争が始まります。
を全滅させて勝利に終わり、兵糧を本願寺へ
届けて救うわけですが、陸地の戦いがどうも
パ ッ と し な い ん です 。
結局、戦機を逸してしまうんですね。その
この対戦でも村上水軍は活躍するんですよ 。
後 天 正 7年 ( 1579) に 毛 利 氏 は 水 車 を 再 度 派
当初、信長と毛利氏とは友好関係にありま
遣するんですが、今度は相手方の船が鉄鋼船
した。ところが信長は例の石山本願寺との戦
にな って お り 、 焼 き 打 ち に す る こ と が で き な
いに頭を悩ませていたでしょう。
かったわけです。それで結局水軍はやられて
山原
そ う で す ね。 そ れ も か な り 長 期 間 で し
しまい、本願寺への補給ができなくなってし
その信長に追放された足利義昭が福山
を頑張った本願寺は、補給路を断たれ、降服
ま っ た ん で す 。 そ う し た こ と で 11年 も の 年 月
たね。
森本
の 鞠 (とも)にや ってきて 、 毛 利 氏 に 信 長 と
戦 う よ う 説 得 す る わ け で す。
同じ頃、信長勢は秀吉が播州で孤立状態に
してしまうのです。
このことからも当時の戦争における水軍の
重要性がわかるでしょう 。 ところが日本史の
なっていましたし、周辺の武士はほとんどが
教 科書 に は 全 然 出 て こ な い ん で す ね。
毛利氏についている状況でした。情勢とすれ
山原
ば非常にいいでしょう 。 そ こ で 毛 利 氏 の 東 上
せ ん ね 。 た と え ば N H Kで 放 映 さ れ た 「 大 平
作 戦 が 始 ま る わ け で す。
海 か ら い っ た の が 、 天 正 4年 ( 1576) の 大
E
己」 なども 、 こ う い う 側 面 か ら 民 放 が 制 作 す
坂 石 山 本 願 寺 を 助 け る 木 津 川 口 の 合 戦。 織 田
森本
確かに水軍は、表舞台に全然出てきま
れ ば 、 お も し ろ い か も し れ ま せ ん ね。
ぜひつくってくださいよ 。
その後、織田信長がどういう運命をたどる
森本
と こ ろ が 天 正 13年 の 四 国 征 伐 の あ と 、
かはご承知の通りですが、秀吉あたりはちゃ
能島村上氏は退去を命ぜられ、来島村上氏が
んと認識しているんですね。毛利が強いのは
能島の縄張りを握ってしまうんです。最終的
水軍が強いんだということを・・ ・
・
・。そこでブド
・
には来島村上氏の本拠が陸地に移り、 1
万 4,
000
軍の懐柔作戦を展開するわけです。
石の大名になります。
能島、来島、因島を味方にするために子を
一方、能島村上は瀬戸内海を追い出され毛
つくすんです。結局、来島村上だけが織田方
利水軍の傘下に入り、竹原に移っていました
に寝返りました。
が、秀吉が生きている聞は顔も見たくないと
山原
なにか理由があったのでしょうか。
いうことで日本海側に追いやられてしまいま
森本
来島村ー上はその頃、河野氏の本家から
す。そして因島村上も同様な運命をたどり、
差別されて仲間割れの状況にありましたから
や が て 天 正 16年 ( 1588) の 海 賊 禁 止 令 に よ っ
秀吉の誘いに乗ったのです。そうすると今度
て消滅してしまうわけです。
は毛利氏が怒って能島と因島に来島を討伐す
山原
るよう命令を出すわけです。
に匹敵するほどであったと聞いていますが、
その後、秀吉が政権を握ると、毛利氏は秀
隆盛を誇った村上水軍の経済力は大名
それはどのようなものでしたか。
吉の家来になってしまいます。秀吉にすれば
森本
自分が声をかけて味方にならなかった能島、
2,
000貫、石高に換算すると 16万 石 も あ る ん で
因島が憎いんですね。でも、そのときは毛利
す。
私 が 計 算 し た と こ ろ 、 因 島 水 軍 で 3万
すごいですね。他の村上氏はどれくら
氏と妥協して追い出されていた来島村上氏を
山原
元に戻すことでおさまるのですが・・
いになるんでしょうか。
山原
これでまた三つの村上水軍が揃ったわ
森本
詳しい計算はしていませんが、来島は
大体、因島と同程度で、能島はもっと多かっ
けですね。
たようです。
こ の 内 訳 け を 見 ま す と 、 まず領地の収入。
大名の家臣になった場合は知行といいます。
-水草大将がかぶる
帆立貝の兜
-白紫緋糸段威腹巻
(しろむらさきひいとだんおとしはらまき )
お金を 一 度 払 う と 、 目 印 の 旗 を く れ ま
た と え ば 厳 島 合 戦 で 村 上 水軍 が 味 方 し た 見
森本
返 り と し て 能島 、 来 島 は 毛 利 元 就 か ら 周 防 大
す 。 こ の 旗 を 持 って い る と 交 通 許 可 証の よう
島 を も ら って い ま す し 、 因 島 は 向 島 を も ら っ
な も の で 、 他 の 海 賊 は ま ず 襲 って き ま せ ん 。
最 初 は 相 手 の 船 に 直 接 乗 っ て警 固 を し て い
て い ま す。
その後、勢力が強ま って く る と 、 能 島 村 上
ま し た が 、 途 中 か ら は 警 固 船 で 守 って い ま し
は 備 中 笠 岡 の 領主 に な り 、 塩 飽 島 な ど を 支
た。 末 期 に は そ れ さ え も や め て 、 船 で 直 接 護
配するようになりました。 その領地収入がま
衛 し な く な る ん で す ね。
ず 大 き か った ん で す ね。
山原
と い う こ と は 目 印 の 旗 だ け で す か。
森本
そうです。水軍城というのがあるでし
二番目は海の警固料です。
山原
警 固 料 は ど れ く ら い も ら って い た の で
ょう 。 あ そ こ か ら 見 張 る ん で す 。 来 る 船 を 点
検 し て 旗 を か か げ て い る と 、 通 って よ ろ し い
す か。
瀬 戸 内 海 に は 小 さ な 海 賊 が い っぱ い い
と い う こ と に な る 。 も し 税 金 を 払 って い な い
ましたから、村上氏に警固を頼むと安全だと
ことがわかると、積み荷をすべて没収してし
い う こ と で 、 積 み 荷 の 10分 の 1を取 っていま
まいます。
森本
三番 目 の 収 入 源 は 運 送 料 で す 。 世 の 中 、 ず
し
ア
こ。
山原
結 構 高 い ん で す ね。 ど の よ う な シ ス テ
ムで警固してもらうんでしょう 。
-尾道
うっと戦争をしているわけではありませんの
で、平和な時代は空いている船を利用して運
今 治 聞 の瀬 戸 内 の 島 々
瀬戸内海国立公園
。
。
。
送 業 を や って い た ん で す。
だ か ら 経 済 的 に は 非 常 に 恵 ま れ て い ま し た。
と こ ろ が 徳川 政 権 下 、 毛 利 氏 の 船 子 組 に な っ
-村上天皇井能島根元家筋の系図
て か ら は 石高 が す ご く 下 が っ て し ま う ん で す。
能 島 村 上 氏 は 3,
500石 く ら い 、 因 島 村 上 氏 に 至
つて は 300石 。と て も 家 来 を 養 え な い の で 、 禄
を 離 れ て 各 地 に 土着 生 活 を 余 儀 な く さ れ ま し
た ね。
山原
それで、村上水軍が消滅したわけで、すね。
-村上 水軍旗
最後にお聞きしたいんですが、水軍はまった
く 男 の 世 界 な の で し ょ う か。
森本
確かに水軍というのは男の世界なんで
す。 しかし、中国人の 描 い た 『
倭 定 図 巻』 を
山原
見ますと、日本の盗賊船の中に女性がいるん
み た い で す ね。
ぜ ひ一 度 、 参 拝 し て こ の 目 で 確 か め て
で す ね。 で も 、 こ れ は 従軍 慰 安 婦 で 、 女 武 者
で は あ り ま せ ん。
山原
と い う こ と は 、 水軍 と し て の 女 性 は い
なかったわけですか。
森本
村 上 水 軍 にはし、ないんですが、大三 島
の水軍の中に鶴姫という女性が出てきます。
こ の 人 は 大三 島 水 軍 の 指 揮 官 の 妹 で 、 実 際 に
戦 って い る ん で す よ 。 そ の 証 拠 に 女 性 用 の 鎧
がー領(いちりょう)残されています。
この人以外にもいたとは思われますが、資
料 に 残 って い る の は 鶴 姫 だ け で す。大 山 紙 神
社へ参拝しますと、鶴姫の大きな絵図があり
本日はお忙しい中、村上水軍にまつわるお
話をお聞かせいただきありがとうござし、まし
ますし 、 資 料 館 に は 彼 友 が 着 用 し た 鎧 が 陳 列
た。 表 に は 出 な い 日 本 の 歴 史 が わ か っ て 大 変
さ れ て あ り ま す。
勉 強 に な り ま し た。