資料93-2 1 2016 年 8 月 29 日 日本人の宗教と倫理 関西大学教授

資料93-2
2016 年 8 月 29 日
日本人の宗教と倫理
関西大学教授
小田淑子(宗教倫理学会会長)
【概要メモ】
《日本的宗教土壌》
(1)
日 本 の 宗 教 は 主 に 神 道 と 仏 教 で あ り 、そ こ に 儒 教 的 倫 理 が 残 存 す る 。大 半 の 日 本 人 は
神 道 と 仏 教 双 方 に 矛 盾 を 感 じ ず に 属 し 、両 者 を 場 面 で 使 い 分 け る 。 Joseph・M・キ タ ガ ワ
はこれを「宗教の分業」と名づけた。キタガワ理論は日本 の宗教研究者に不評で周知され
ていないが、優れている。神仏習合というが、両者は完全に融合したのではなく、顕著な
相違を維持している。日本人は両者を難なく使い分ける(宗教の分業)が、研究者はこの
宗教の分業を可能にする日本人の宗教性を適切に説明できずにいる。キタガワは日本的宗
教 の 共 同 体 を National Community (国 体 ・ 民 族 共 同 体 )と 名 づ け た が 、 私 は 日 本 的 宗 教 土
壌と名づける。
(2)
日 本 人 に と っ て こ の 宗 教 的 土 壌 は 自 明 の 日 常 生 活 の 場 で 、宗 教 的 だ と 認 識 し て い な い 。
そのため、自分を無宗教と自認し、日本を世俗社会だと認識している 。戦後日本は国家神
道を否定し、公立学校では宗教教育を一切せず、世俗倫理を教える。欧米では教会、神に
関わらない倫理は理性に基づく世俗倫理だが、日本には一神教の超越神がいないため、世
俗 社 会 と 宗 教 的 土 壌 は 区 別 で き な い 。日 本 で は 個 人 と 理 性 を 基 盤 と す る 世 俗 倫 理 で は な く 、
宗教土壌が規範性を与えている。日本人は神を畏れないが、世間体、他者の目を恐れる。
R・ベ ネ デ ィ ク ト は こ の 点 を『 菊 と 刀 』で 、欧 米 の「 罪 の 文 化 」に 対 し 日 本 を「 恥 の 文 化 」
と名づけた。これが日本人の宗教倫理、一般的倫理観の基盤で、規範性をもつ。人々の行
動を規制、時に強制する力をもつが、 それ自体が神でも仏でもない。
《日本人の宗教意識》
日本人の自称「無宗教」は思想・主義としての無宗教・無神論ではなく、日本的宗教を
肯 定 す る 場 合 が 圧 倒 的 に 多 い 。神 道 は 地 域 共 同 体 の 宗 教( 国 家 神 道 の 問 題 も 残 さ れ て い る )
であり、仏教は江戸時代以後今日まで家の宗教であ るため、個人として特定への宗教への
帰 属 意 識 を も て な い 。無 宗 教 と 表 明 す る も う 一 つ の 理 由 は 、自 分 の 宗 教 の 教 え を 知 ら な い 、
他者に説明できないことがある。
この背景に、
( キ リ ス ト 教 特 に プ ロ テ ス タ ン ト を モ デ ル に )宗 教 と は「 教 え 」が あ り 、個
人の信仰を自覚し、特定の宗教(教団・教会)に帰属意識をもつもの、という観念的認識
が 根 づ い て い る 。こ の よ う な 宗 教 の 定 義 に よ り 、明 治 政 府 は「 神 道 非 宗 教 論 」を 提 唱 し た 。
近代国家としてキリスト教信仰・布教の自由を認めるが、キリスト教徒も日本人である限
り天皇崇拝をしなければならない。だが、神道には教えもなく普遍的宗教ではないので、
宗教ではないから信仰の自由に抵触しない。 さらに、福沢諭吉には宗教迷信説、宗教への
否定的見解が見られ、これも日本人が宗教を平気で否定する考え方の底流にある。結果と
して、個人(人権)にとって宗教は重要ではない。このことは他者の信仰の自由を尊重す
ることにも鈍感で、今後、ムスリム移民が増加すれば、問題を起こしかねない。
神道は元来、聖典と教義体系のない古代宗教であるため、教義は清めと祓い程度で、儀
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礼 に よ っ て 存 続 し て い る 。教 義 が な い こ と に 加 え 、日 本 で は 神 々 の 名 前 に も 無 頓 着 で あ る 。
神社にどの神が祀られているかを気にしない。ただ「神」に祈願したのである。仏教に関
し て も 、家 の 仏 壇 に ど の 仏 が 祀 ら れ て い る の か 意 識 し て い な い 。多 く の 場 合 、先 祖 の 位 牌 、
つまりは祖先を仏として拝んでいる。神や仏の固有名詞を知らないことは一神教ではあり
えない。
仏教は経典と教義体系をもち、個人の救済(悟り)を求める 世界宗教であるが、教義仏
教と、死者儀礼を担う「葬式仏教、生活仏教」とのズレが生じている。後者は日本的宗教
土壌に馴染んだ仏教であり、ここでは各宗派の教義を丁寧に教えることは少ない。 厳密に
は先祖崇拝は仏教教義にはないので、教えられない。
日本仏教諸宗派の教義はかなり異なるが、歴史的に宗派間の論争は皆無ではないが、少
ない。日本仏教は鎮護国家の奈良仏教、貴族中心の平安仏教、民衆化した鎌倉仏教と変化
したが、既存の宗派を論駁して倒すことなく、重層化して存続し 、今日に至る。江戸時代
の寺請制でもどの宗派の寺に属するかは問題にされず、一部、浄土真宗と日蓮宗はやや自
覚的な信者がいるが、多くは結婚相手の宗派を気にすることは少ない。
《日本人の倫理と宗教倫理》
宗教以上に説明しにくい問題が日本人の倫理、宗教倫理の説明である。上記のように、
日本的宗教土壌が「世間体、世間の目」という規範性をもつことは確かだが、これがどの
ようにして規範たる権威を得ているのか、説明しにくい。キタガワは 日本人の宗教の分業
論で、倫理は儒教によって担われたと説明したが、江戸時代の武家社会には妥当し、戦前
の教育勅語にその残滓は見られるが、戦後社会に顕著に妥当するとは言えない。だが、現
代の学生たちも「他人の目」を非常に気にする。これは理性に基づく世俗倫理ではない。
学校で教える世俗倫理と法律とは異なる規範(義理人情など)が日本社会に存在するのだ
が、そのことを教えないことに問題があるようにも思える。
一つの特徴として、神道の清め・誠実を重視する影響で、行為や生き方を<きれい・汚
い>で判断する倫理を挙げることができる。善悪、正邪の区分とは異なる 一種の美的倫理
である。
仏教研究者は仏教にも仏の慈悲があると主張するが、仏教は 根本に出家者の宗教という
性格を残しており、社会倫理に積極的ではなかった。日本仏教では、天台宗の大乗戒、親
鸞の無戒が示すように、戒律をなし崩しすることに抵抗がない(明治時代の牛肉食の解 禁
も 同 様 )。ま た 、死 者 が 成 仏 す る こ と に な り 、よ り 良 い 輪 廻 転 生 の 条 件 だ っ た 良 い 業( カ ル
マ)を積む倫理も強調されなくなった。駆け込み寺、忍性のハンセン病患者救済所のよう
な例外はあるが、病人、貧困者などの救済施設の少なさはキリスト教との大きな相違であ
る。東日本大震災以後、新しい動きとして宗教家によるボランティア活動が目立ち始めて
いる。これは伝統的な村落地域社会と家族制度の弱体化に対応した、新しいネットワーク
社会の模索でもある。
《生命倫理と宗教:一神教との相違》
神 道 も 仏 教 も そ れ ぞ れ に 独 自 の 生 命 観 、死 生 観 を 持 つ が 、ど ち ら も「 人 間 の 責 任 を 問 う 」
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倫 理 に 直 結 し な い 。一 神 教 で は 人 間 と 自 然 を 明 確 に 区 別 し 、動 物 に は 魂 も 信 仰 も な い た め 、
ペ ッ ト の 葬 儀 は し な い 。ロ ボ ッ ト は 機 械 で 、
「 心 」は な い 。た だ し 人 間 に は 動 物 、自 然 を 倫
理的に扱う責任が(神によって)求められる。日本仏教は「山川草木悉有仏性」を好み、
人間も自然の一部であり、実験動物、針など道具の供養も盛んである(道具の供養はアニ
ミ ズ ム 的 で あ る )。そ れ は 自 然 を 大 事 に す る よ う で あ り な が ら 、人 間 の 責 任 を あ い ま い に す
る面を伴う。
人権に関しても、法律と世俗倫理で人権の尊重を訴えるが、キリスト教では死後も個人
が存続する(最後の審判を受ける)のに対し、日本では先祖、祖先となり、死後の個人が
消え去る。人生が一度限りであればこそ、現世での不公平、不公正は 許されないが、輪廻
転生を認めれば、現世で不公正に扱われる原因は前世に求められ、 そこからの解放、挽回
の可能性が後世に求められる。
仏教は(多神教も)理性や科学との共存にかけては一神教より優れているという自負を
も つ( 進 化 論 の 肯 定 )。脳 死 問 題 以 前 は 、む し ろ 近 代 医 学 を 尊 重 す る 姿 勢 を も ち 、医 学 と 宗
教を棲み分けてきた。キリスト教は科学による生命操作や人工中絶 に非常に敏感で、厳し
く歯止めをかける。欧米では、中絶は女性の人権尊重とのせめぎ合いでようやく一部の国
で認めるに至った。日本では、江戸時代から間引きが行われ、現代でも中絶は比較的安易
に 行 わ れ る ( そ の 分 「 水 子 供 養 」 が 盛 ん だ が 、 こ れ は 倫 理 で は な い )。
日本でも脳死や出生前診断など先端医療や生命科学の実験などに関して宗教家が意見
を 求 め ら れ 、 発 言 を し て き た 。 だ が 、 ES 細 胞 や iPS 細 胞 を 用 い た 最 先 端 医 療 の 可 能 性 に
ついて、宗教界が絶えず注意して情報を集め、各宗派の研究所で研究することは少ない。
こ れ は キ リ ス ト 教 と 仏 教 お よ び 神 道 と の 相 違 で あ る 。ま た 、宗 教 家 は 意 見 を 求 め ら れ れ ば 、
述べるが、その見解は草の根レベル(寺院や神社を通じての人々との関わり)で伝えられ
な い ( 宗 教 間 対 話 に つ い て も 同 様 )。 日 本 で は 発 言 す る 宗 教 家 が 世 論 を 導 く こ と は 少 な い 。
つまり世論を導く活動をしていない。
最初に述べた宗教土壌が独自の規範をもつ。中絶に寛容なこと、かつてハンセン病患者
から戸籍を奪ったこと、現在でも心臓移植が米国のように増加しないことなどは、この宗
教土壌の中に答えがあるように思われる。キリスト教の生命倫理が神学の原則に基づく論
理性をもつのに対し、宗教土壌の規範の原則はまだ十分に解明できていないからかもしれ
ないが、論理的とは言えない。
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