コタール症候群と絶望

コタール症候群と絶望
Nov. 30, 2015 itabashi
1.コタール症候群(否定妄想症候群)
1880 年 Jules Cotard は、
『不安性メランコリーの重症例における心気妄想について』
(Du délire hypochondriaque dans une forme grave de la mélancholie anxieuse) 1
という短い論考を発表した。その全文を訳出し掲載する。
我々(Jules Falret と私)は、かなり奇妙な心気妄想(délire hypochondriaque)を呈する
一患者を数年間観察している。
未婚の女性 X は次のように断言している。
「私にはもはや脳、神経、肺、胃、腸がない。
私には崩壊した身体(corps désorganisé)の骨と皮しか残っていない」(これは彼女自身の
表現である)。この否定妄想(délire de négation)はまさに形而上学的観念にまで及び、そ
れが最近までの彼女の強固な信念の対象となっていた。「私には魂がない。神は存在しな
い。悪魔はなおのこと存在しない。もはや私には崩壊した身体しかなく、生きるために食
べるという欲求がない。私には自然死はあり得ないでしょう。私は焼き尽くされない限り
永遠に生きるでしょう。ただ炎だけが私のためにできる最後のことなのです」。
もちろん彼女は自分(骨と皮)を燃やしてしまうように懇願し続け、何度も自分に火を
着けようとした。
X が入院した時点(1874 年、43 歳)で、少なくとも疾患はすでに2年を経過していた。
それの始まりを、頭のなかに反響する背骨内部の亀裂音のようなもので印すことができる
だろう。
X は入院の時点まで憂うつに囚われ続け、いかなる休息も与えない不安に囚われ続けた。
彼女は地獄のなかの魂のごとくに彷徨い、神父宅や医師宅に助けを求めようとした。
彼女は Venves[注:パリ郊外]に連れてこられた後に、何度も自殺を試みた。当時の
彼女は、自分が劫罰を受けた(damné)と信じていた。彼女の宗教的な事細かさ(scrupule)
は、彼女にあらゆる類いの罪や、ことに初聖体(première communion[注:初めての聖体
拝領の儀式])で告白した罪の非を認めるに至らしめた。彼女は言う、「神は私に永遠の
罪を宣告した。そして私は当然それに値する地獄の苦しみをすでに堪え忍んできた。なぜ
なら私の全人生は一連の嘘、偽善、犯罪以外の何ものでもないのだから」。
入院してまたたく間に、それは彼女自身が日付を特定している時期だが、彼女は事の真
相(la vérité)を理解した。(こうして彼女は、私が冒頭で提示した否定妄想の概念を性格
づけることになる。)この真相を相手に分からせるために、彼女はあらゆる種類の暴力行
為に身を委ねることになる。事の真相が実行されることを求めて、彼女は周りの人たちに
かみつき、ひっかき、叩くのであった。
数ヶ月前から、X はより穏やかになった。メランコリー性不安は明らかに減少した。彼
女は皮肉屋になり、笑い、冗談を言うようになる。彼女は悪意を抱き、からかい好きにな
1
1880 年 6 月 28 日医学心理学会にて発表、1880 年 7 月医学心理学報第 4 巻にて出版
-1-
る。しかし彼女の妄想は少しも変わらないようである。彼女はいつもと変わらぬ激しさで、
「もはや私には脳がない、神経がない、腸がない。食べ物は不必要な体罰というもので、
私には炎の他に終わりはない」と主張するのである。
身体表面の広範囲で痛覚が減弱し、左側より右側に優位である。痛覚を訴えないので、X
に深くピンを刺すことができる。触覚や各種の特殊感覚は損なわれていないようである。
約二十年前、Baillarger は神経麻痺患者の心気妄想に関心を寄せ、彼の主張は活発な論
争の的となった。(彼の多くの業績についてはその正しさが認められ、今日でも一層そう
である。)神経麻痺患者の心気妄想に類似する妄想(私は同一と言っていない)がある種
のうつ病患者(lypémaniaque)において生じるということ、そして私がその病歴を述べて
きた疾患においても同様に生じるということを、十分認めておく必要がある。
この種のうつ病患者がいかなるものかということを、そして彼らが特別なカテゴリーを
形成しているということを、これから確定しなければならない。
Esquirol2 の論考に見出すことのできる悪魔憑き(démonomanie)の五人の観察例は、そ
れらの類似性によって、および詳細な報告をもって、注目に値する。
この悪魔憑きの患者の第一症例は、過去にうつ病発作(accés de lypémanie)を二度呈し
ていた。悪魔(démon)は彼女の身体のなかにいて、無数の手法で彼女を苦しめるが、
「そ
れでも私は決して粉々にならないでしょう」。
第二症例は、もはや身体を持たない。「悪魔が私の身体を奪い取ったのです。私は一個
の幻影(vision)です。私は無数の年月を生きるでしょう。私は女として成熟した生殖器
官を持っていないのに、蛇の形に化けた悪霊(malin esprit)を子宮に宿しているのです」。
第三症例は、まったくもって身体を持たない。悪魔は彼女の命を奪い、地上に永遠に摸
像(simulacre)を残させるばかりである。
「私には一滴の血もない。私には感覚がない(痛
覚脱出症 analgésie)」。
第四症例は、二十年前から排便していない。彼女の身体は蟇蛙や蛇などでいっぱいであ
り、悪魔の皮膚でできた袋である。もはや彼女は神を信じていない。
「 私は魔王(grand diable)
の女になって百万年を数えている」。これは後方視的な不死(immortalité rétrospective)の
ようなものである。
第五症例は、心臓の位置が動いている。「私は決して粉々にならないでしょう」。
Leuret は類似症例を二例報告している。
一例目の女性患者は、自分は劫罰を受けたと信じており、もはや自らの心臓の動きを感
じ取ることができない。彼女は不滅の肉体をまとった一個の彫像(une statue
en
chair
immortelle)なのである。「私は悪魔に取り憑かれました。この時から私は焼き殺されなけ
ればならないが、目下のところそれがかなわない」。
二例目の女性患者は、心窩部が空洞(vide)であった。「私は劫罰を受けた。もはや私
2
Esquirol「精神病について」1838 年
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には魂がない」。彼女は後に、自分は不死だと考えた。
3
Petit は Maréville でいくつかの観察例を蒐集している。J は自分が劫罰を受けたと信じ
ている。「もはや私には血がない。私は永遠に生きざるを得ない。私を生から解放するた
めに、手足を切断するべきなのに」。彼女は自分をいくつにも切断して欲しいと懇願して
いる。
私は さ ら に Macario4 の 研 究 論 文 の なか で の 一 観 察 例 、Morel5 の 二 観察 例 、そ し て
6
Krafft-Ebing の二観察例を引用することもできるだろう。
これらの患者のすべてにおいて、心気妄想がより大きな類似点を示している。「もはや
我々の体には脳がない、胃がない、心臓がない、血がない、魂がない」。時には「もはや
我々の体そのものには肉体がない」。
ある者たちは、自分たちは腐敗している(pourri)、頭はぼけていると想像している。そ
れは私が目下観察している二人の患者(男性)である。
一人目は自分が劫罰を受けたと信じている。「私は劫罰を受けた人間であり、悪魔であ
り、アンチキリストだ。私は永遠に焼かれ続けるだろう。もはや私には血がない。私の身
体のすべては腐敗している」。
二人目も自分が劫罰を受けたと信じている。彼はおぞましく卑しい存在である。あらゆ
る犯罪の責を負う。「私の脳は腐敗している。私の頭はまるで空っぽのクルミだ。もはや
私には性がない。魂がない。神は存在しない、云々」。彼はあらん限りの方法で自傷や自
殺を試み、自分に死を与えるように懇願している。
この心気妄想は、被害妄想病(délire des persécutions[注:J. Falret は「加害的被害者」
と呼んで、妄想者の構えを特徴づけている])が先行したり随伴したりするものとは、著
しく異なっている。
被害妄想病者は様々な器官が無数の手法で攻撃される。それは放電や神秘的な方法であ
り、空気、水、食べ物の悪性の感染物である。それにも関わらず、未だに器官は破壊され
ない。それらは攻撃に応じて再生しているかのようである。
それに比し、劫罰の刑に処される者たちにおいては、破壊の行為が成し遂げられる。す
なわち器官はもはや存在しない。あらゆる身体は見かけや摸像に還元される。ついに形而
上学的否定[注:物質世界の根本的否定]が頻発するに至る。他方では、そうしたことは
真性の被害妄想病者つまり大概はたいそうな存在論者にとっては、まれなことである。
3
Petit「臨床収集」59 ページ
4
Macario「医学心理学報」第 1 巻
5
Morel「臨床研究」第 2 巻 47 ページ、118 ページ
6
Krafft-Ebing「精神医学概論」(観察第2、第7)
-3-
いくつかの症例においては、心気的観念と一定の論理に従って帰結される不死の観念が
強く結びつく。
「我々は粉々になることはないであろう、なぜなら我々の人体は通常の状態ではないか
らだ。我々は死に瀕しているが、同時にかなり以前から死んでもいるはずである」と患者
らは述べている。彼らは生も死もないという状態にある。彼らは死んでおり生きている(Ils
sont morts vivants)。こうした患者たちにおいては、そのように見える点で幾分逆説的だが、
実際には不死の観念は心気的観念なのである。これは有機的な身体(l'organisme)に関す
る悲哀妄想(délire triste)である。彼らは自身の不死に苦しみ、それから解放されるよう
に懇願する。これと慢性の巨大妄想的被害妄想病者において時折誇大妄想として見出され
る不死の観念とは、まったく別である。
私はここで、ある人物を引き合いに出してもよいだろう。彼は、「自分が誕生する 26 年
前の 1804 年に、ナポレオン一世によって自分に授けられた特別な権利のおかげで私の体
(organisation)の性質はあまりにも強く、決して死ぬことはないことは確かだ」と強く主
張している。
別の者は、「私は預言者エリヤとして天国に召されるだろう、もはや決して死ぬことは
ないだろう」と確信している。
今私が観察報告した患者らが、被害妄想病者
7
と明らかに異なるというのであれば、彼
らは逆に不安性メランコリー患者にとても似ているといえる。つまり彼らは苦悶状態や強
い不安状態にある。彼らは苦しみ、ひっきりなしに話し続け、絶えず同じ苦情を繰り返し、
そして救いを求める。彼らの心気的観念は、まさに不安性メランコリー一般に罹患した患
者らを苦しめる異常感覚に対する妄想解釈に他ならないように思われる。彼らは頭のなか
が空っぽだと感じ、心窩部に不快感(gene 窮屈さ)を覚え、もはや感覚がなく、何も好
まず、神の慈悲を疑うと訴える。なかには、もはや苦しむことすらできないと訴える患者
もいる。ついに患者らは、もう決して治ることはないと確信するに至る。私が観察報告し
た患者らは、もはや脳がない。「我々の心臓は砕け散った(Krafft-Ebing の観察)、我々に
はもはや魂がない、もはや神は存在しない、我々は決して死ぬことはできず、永遠に苦し
む」。ついに大部分の患者は実際に痛覚脱出症を呈するに至る。彼らを刺し、つまみあげ
ても、彼らは痛みを訴えることがない。彼らが酷い自傷行為に身を委ねるのを見ることも
まれではない。
不安性メランコリー一般はヴェザニア発作に頻繁に見られるひとつの症状型、あるいは
断続的な症状型であり、それらは通常は回復する。
ところが心気妄想が付け加わる場合、事は違ってくる。この場合、予後は大変悪い。時
7
より明 確に すると、 ヴェザニア( vesania)[注 :1863
Kahlbaum] の多様な諸 類型
[注:抑うつ→幻覚妄想+興奮→錯乱→痴呆]において気づかれないような移行を(他の
疾患類型のようにここでもそれを)与え得る混合例について話すことを、ここでは省略し
ている。それは、こうした混合例の存在は決して珍しいものではないからである。
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として心気妄想は初回発作時から現れ、しばしば二回目発作、三回目発作においてそれは
発展し、その結果、疾患は慢性状態に移行するのが常である。
もっとも Krafft-Ebing は二人の回復例を挙げているが、私は Leuret の報告のなかにも一
人の回復例を見出している。
私が見出した疾患の患者の全員が不死の観念と並んで心気妄想に言及しており、劫罰
(damnation)や悪魔憑き(possession diabolique)の観念に支配されている、一言で言えば
悪魔病あるいは宗教的狂気の性格を示しているということは、注目に値する。
私はいくつか悪魔学(démonographe)を参照してみたが、厳密な意味での類似例をそれ
らのなかに見出すことはできなかった。この疾患類型に対しては、おそらくそれを狂える
放浪者たち(les alienes vagabonds)という事象に結び直す必要があるだろう。彼らは彷徨
えるユダヤ人(Juif-errant)(1228 年頃 Cartaphilius、1547 年頃 Ahasverus、1640 年 Isaac
Laquedem)の伝統に起点を与えたものと思われる。彼らは、自分たちがイエス・キリス
トに対する罪(offense)を犯し、最後の審判の日まで地上を放浪するという宣告を下され
たと信じている 8。
最後の審判の日々のところには、悪魔憑き(possession démoniaque)の名の下に、いく
つかの狂気の様式が混在していた。我々が保全した症例の大部分も、流行性ヒステリー精
神病(hystéromanie épidémique)あるいは被害妄想病(délire des persécutions)というもの
に属している。ここで宗教的狂気と異なったものとして、私が積極的に「重症不安性メラ
ンコリー」と呼んでいる疾患のなかで発展する、ひとつの変種を確立できるだろうか?う
つ病のこの変種を分化させるに値するというのであれば、それは以下の諸特徴によって識
別できるだろう。
1.メランコリー性不安
2.劫罰あるいは憑依の観念
3.自殺や自傷の傾向
4.痛覚脱出症
5.様々な器官、身体全部、魂、神などの不在、あるいは破壊といった心気的観念
6.決して死ぬことができないという不死の観念
8
宗教科学事典の項目;彷徨えるユダヤ人 Juif-Errant。Gaston 氏(パリ)によれば、「こ
の不死という運命は、報酬であり懲罰であると見なすことができるだろう」。これらの差
異と同じものを、巨大妄想者の不死と私がもっと詳しく示した心気症者の不死との間に見
出すことができる。
-5-
2.コタール症候群の位置づけ
本症候群は否定というひとつの形相因が駆動する、特異な心気妄想の一群である。コター
ルは「否定妄想(délire de négation)」という用語を登場させているが、それは「もはや私
は脳を持っていない、神経を持っていない、肺を持っていない、胃を持っていない、腸を
持っていない…(je n'ai plus ni cerveau, ni nerfs, ni poitrine, ni estomac, ni boyaux...)」といっ
た患者表現において、否定詞の強迫的偏執的使用が特徴的であったところから、否定に取
り憑かれた狂気という意味で使用した名称と思える。妄想の内容そのものは、〈次第に物
質としての身体が崩壊し腐敗し脱落し、ついに取り返しが付かないほどに分離してしまっ
た〉、さらに否定運動は形而下世界から形而上世界へと貫次元性に延長し、〈世界の一切
までもが無くなってしまった〉という確信に至る虚無妄想の発展を示している。しかし発
展の根源的駆動因である否定という同一形相はむしろ虚無というそれであり、具象的に空
洞(vide)として世界を貫く超単位となっている。いずれにせよ「否定妄想」という名称
は重要な症状名および診断名となり、それ自体が権威化して、症候群の中核部分に据えら
れて行くことになる。
本症候群は、従来は退行期や初老期に発現する激越型うつ病のまれな一類型として取り
扱われてきた。しかし本症候群に対しては、それを重症うつ病の徴候として捉えるのみな
らず、
「うつ病の精神病理的症状構成がつねに本症候群を潜勢的に内包している」
(宮本)、
「うつ病の精神病理学的本質の理解にとって重要な課題を含んでいる」(武正)というと
らえ方があった。しかしながら、
「今日のようにうつ病に対する治療の進歩した状況では、
その臨床的意義が少なくなっている」(武正)という指摘もある。
原著が一例報告した症例は 41 歳未婚女性であり、入院において症状が開花している。
時代的文化的要因による修飾や抑止はあり得るものの、十九世紀後半では薬物療法がなく、
本症例では十全にその症状を発展し得たのである。完成型としての症状群は、その空想性
精神病的側面を著しく肥大させている。
原著が引用する症例は、その多くが女性である。本症候群を感応性あるいはヒステリー
性の情動変化を伴う系統化されたパラノイアとして解釈することも可能であろう。
はたして本症候群はうつ病の周辺症状なのか、それともうつ病が本質として内包する中
核症状なのか、あるいはうつ病に偶発性に併発したものなのか、検討を要する。
3.希望のない空間(hopeless space)
(1)希望と希望のなさ
テレンバッハは、《生殖過程における危機的状況》において、" in Hoffnung sein "という
日常表現に着目する。それは文字通りには「希望を持つこと」であり、婉曲的には「妊娠
している」ことを意味する。そして妊娠が希望となった症例(妊娠したことでメランコリー
が短期間で消褪)をストレス反応の単純型として冒頭に提示する。そうした標準類型とは
異なり、妊娠が絶望となった逆説型(妊娠のために労働を続けられないことの決定的不利
-6-
益)を提示する。「彼女は、妊娠を希望を持つこと(in Hoffnung sein)としては引きうけ
ない状況に陥り、そこで妊娠という希望(Hoffnung)は希望のなさ(Hoffnungslosigkeit)
へと反転せざるをえなかった」。そして妊娠によって現存在を思いもかけずぎりぎりの限
界にまで追い込まれるような状況を呈した複雑型(待ち望んだ妊娠がことごとく死産、流
産、難産となった)を提示する。役割理論(クラウス)から見れば、逆説型は妻と職業人
との役割間葛藤、複雑型は妻の役割内葛藤を示している。
失意(despair)において、希望と希望のなさは、それら同志の対話を通して、現実の位
置価を巡る想像の駆け引きをしている。だが希望と希望のなさは、コインの表と裏のよう
に簡単に入れ替わる。そうした競合ゲームを経て、ついに希望は希望のなさへと解体して
行く。希望のなさはすべての希望を飲み込み、向後の発展系列の出発点に立つ。そこが絶
望(Despair)という決定的な地点である。
(2)対象なき志向性
メランコリー親和型うつ病の前うつ病段階では、負い目(remanence)と希望のなさを
配置する封じ込め状況が形成されており、それら同志の対話の場にある。すなわち負い目
という未完了感情が刻印された残留(remanence;課題の残留と希望の残留が混在)と、
失敗に対して取り返しが付かないという失意の完了感情が刻印された絶望(despair;希望
の喪失)との葛藤において、それら同志の対話の場にある。しかしその場はすでに基底の
切れ込みや潜り込みを許さない状況であり、二者が織りなす真摯な道徳性格はすでに緩む
ことのない一枚岩の同一性を備えている。あるいはそうした岩盤が掘り起こされ、過剰に
道徳性格が強調されている。r-d 空間が前メランコリー状況の空間規定である。
問題は r-d 空間の向こう側に拡がるメランコリー状況である。その状況は一縷の希望も
ないという完全なる準空間規定にあり、その空間がうつ病の作業場なのである。ひとつで
も希望があれば、この空間は絶対的に現れない。メランコリー状況はその全体が完全なる
希望なしであり、希望を想像する余地はない。それでも思いたい、「絶対に許されない。
希望は見つからない。だがどこかに出口があるはずだ、未だ希望は見つかっていないが…」。
これが封じ込められた人間が夢想する希望という弱さである。同時に、「だが一向に死な
ない。ではこの意味は何だ?」と考えあぐねもする。こうした陽性の思考が発酵すること
が、自閉的封じ込めの二次効果である。そしてこうしたメランコリーという時空的制縛状
況からの、ひとつの脱出があり得る。それが対象なき志向性という矢である。
もとより非メランコリー性の r-d 空間からの通俗的脱出においては、脱出の矢は対象を
得る志向性であった。その矢は通俗的対象の抵抗に突き当たる。だがそれでも通俗層を貫
通し、超越層の物自体に近く突き当たっていたことに、通俗者は気づかない。通俗者が騒
ぎ立てるその抑うつ言説においては、通俗層に埋め込まれた d が超越層に埋め込まれた D
を糊塗し、D-R 空間を隠蔽している。
それに比し、メランコリーにおける R-D 空間からの脱出は対象なき志向性である。失
意(despair)は巨大化した絶望(Despair)へと昇格し、それが矢となって一縷の希望もな
い空間に飛び出して行く。むしろその矢は想像ではなく現実の超越対象(物自体の否定
-7-
Negation)に突き当たって行くともいえるが、やはり志向運動は完了しない。絶望 D はす
でに失意の感情をそぎ落とし、今や失意なき否定(negation)の純粋言語活動の端緒とな
って、志向性に沿って言語を送致し続ける。絶望 D の対極には物自体の否定 N がある。
この沃野すなわち D-N 空間がメランコリー状況の空間規定である。
(3)幻想
主体に絶望を記しているものは否定であり、否定が死の言葉を語り続けさせる。それに
呼応して、D-N 空間には否定的幻想が提示され続ける。もっとも幻想が映出されるスクリー
ンには秘密がある。スクリーンの背後に現実の生と身体が匿われてあり、否定の分割力か
らそれらを保護しているのである。しかしその内部においても、否定の遠因に符合するよ
、、、
うに、身体が自ずと分割されて(心理自動症 automatisme psychologique ; P. Janet)、想像的
対象への欲望のまなざしへと素材を提供し続ける。以上の帰結として、生と死のスペクタ
クル、生と死が織りなす自在なキメラ的映像、つまり腐敗と否定の想像的スペクトルがス
クリーンに無限に上映され続ける。希望のない空間は、今や生と死の象徴的・想像的断片
群によって組み立てられた一個の小宇宙となる。
実は死は、絶対的に希望のない空間に飛び出しつつ、そこで自らの影すなわち失われた
身体である生を求めて彷徨いあぐねてもいた。いわば生は無力な漂泊者とその影となって
死のなかに潜入しつつ、希望のない空間へと飛び出していた。絶対的に希望のない空間に、
未だそれの対象を見つけていない一縷の希望が迷入している。そしてこの一縷の希望は、
それ自体が生と死の形象膠着種に基づく種差システムにおけるサブシステムである。対象
なき志向性は生と死の配合比を有する多様な形象膠着図象を貫いて行くが、サブシステム
に対応する生自体という目的因は永遠に遠ざかり続ける。ここにもうひとつの反復強迫が
ある。
なるほど希望の欠如は存在の欠如となり、欠如は裏返しに否定的対象に置き換えられて、
無数の幻想が生産されるという構図である。非-存在であった先駆的対象どもまでが亡霊
となって息を吹き返し、ますます否定の幻想が入射する。今や死の欲動は自らの座標を求
めて彷徨い輪舞するばかり。その様子はぎらぎらして、ほとんど生の欲動といってもよい
ほどの光景にある。
だがそれらは必ずひとつあるいはひとつ以上の端的な事実(「取り返しの付かない」失
敗という事実)によって、必ず D 極に繋ぎ止められている。ここから空想が出発するの
だから、図象は半神となる訳である。今一度死という絶望空間のなかへ、まるで怨恨を抱
いてでもいるかのように、あるいは漂泊するかのように、心的エネルギーが低下しても未
だにぎらぎらした向日性を備える生の負い目 R が、それの亡霊と化して飛び出して行く。
いうなれば産出性のメランコリー空間であり、その全体は D-R-N 空間である。つまり R
によって D-N 空間の全体が暗く輝いている。
そのなかで、妄想として図像主題を与えるところは部分集合となっている。腐敗妄想は
-8-
死の陽性要素(「死」の生)の集合であり、D-R 空間に位置づけられる。それらを射影す
る不死妄想という形而上学的図像は死の陰性要素(「死」の死)の集合であり、R-N 空間
に位置づけられる。これによって、腐敗妄想 R から不死妄想 N への発展が直観できる。
一縷の生は「死」の頭上を飛び越え、今度は「死」が生を追いかける。さながら自殺へと
踊り始めたロンドのように。ここには絶対に希望はない。生の逃走が尽きたところ、そし
て生の言葉が尽きたところ、「死」という否定の言葉が主体の現実を飛び越える。
── Jamais l'espérance.
Pas d'orietur.
──絶対に希望はない
救いの筋 もない
Science et patience,
学問をしようと忍耐を重ねようと
Le supplice est sûr.
刑罰は必定だ
文献
・J.Cotard, M.Camuset, J.Seglas, Du Délire des Négations Aux Idées D'énormité, L'Harmattan
1997
・新版精神医学事典.弘文堂 1993
・テレンバッハ著、木村敏訳「メランコリー」みすず書房 1978
・クラウス著、岡本進訳「躁うつ病と対人行動」みすず書房 1983
・シェママ編、小出浩之他訳「精神分析事典」弘文堂 1995
・Rimbaud. Une saison en enfer. Gallimard. 1965
-9-