「日本の行方」 京都大学名誉教授 佐伯啓思 御紹介いただきました佐伯でございます。今日はこういうところで講演させてもらうこ とになりましたが、私は具体的な国土計画とか土木建設関係の話は全くわかりませんので、 経済というものを中心にして今の日本社会が一体どうなっているのか、大体どの方向を向 けばいいのかということを、私なりの考えをお話しさせていただきたいと思います。 あくまで私個人の考えですから、ある程度賛成していただく方もいらっしゃるかもしれ ませんし、 「いや、おまえそれは全然違うぞ」というふうに感じられる方もおられるかもし れません。私自身はずっと大学におりましたので、しかも私の関心のありますのが社会思 想で、経済学や政治学を中心とする一種の思想ですから、具体的な現実的な話は余りよく わかりませんので、そこは最初に御了解いただきたい。気楽に聞いていただければと思い ます。 最初に、いわゆる安倍さんのアベノミクスについて私の感じることを少しだけお話しさ せていただきます。 アベノミクスがどこへ帰着するのか、どの辺に着陸するかはかなり大事なことで、これ はこれから 10 年、20 年先の日本を考える上でも無視できないところでしょうね。今、景 気がそれなりによくなってきて、アベノミクスがそこそこ効果を出しているという話にな っています。それはそれで結構なことです。はっきり言って民主党政権がひど過ぎました から、このムードを大きく変えたというのは非常に重要なことです。政治も経済もやはり 今は、現代社会ではムードが非常に重要ですから、ムードを変えることのできる政治家は 力のある政治家だということになります。 安倍さんは経済についてのムードを大きく変えました。しかし、私のように経済思想み たいなものに関心のある者からすれば、幾つか気になることもあるんです。 それはどういうことかといいますと、アベノミクスの第1の矢は超金融緩和。とことん お金を刷って配るという話です。超金融緩和によってデフレを克服する、物価を上げる。 この第1の矢の考え方のもとになっているのは、お金をじゃぶじゃぶ出せば物価が上がる、 インフレになるという話です。反対に言えば、お金の貨幣供給量を減らせば物価が下がる。 要するに、お金の供給量と物価水準の間に大体一定の対応関係があるという考え方です。 これは経済思想的にいいますとマネタリズムと言われるものを基にしており、アメリカ 1 のシカゴ大学のフリードマンという人がその代表でした。もともとアメリカで高いインフ レだったときに、どうしてインフレが高いのか。それは貨幣供給量過剰だからであり、貨 幣供給量を減らせ、そうすればインフレが下がる。ある程度下がったところで貨幣供給量 を固定する。こういう政策です。安倍さんはそれを逆手に使って、デフレで物価水準が低 過ぎるから、もっと上げろ。インフレになったところで貨幣供給をとめるということをや っている。 次の第2の矢は、御存じのように機動的な財政政策、財政出動をやって景気を回復させ る。これは言うまでもなくケインズ主義という考え方です。イギリスの有名な経済学者の ケインズが、1930 年代の大恐慌のときに、景気を回復させるためには財政政策が必要だと 言った。この考え方を使っているんです。 ところが、第1の矢のもとになっているフリードマンという人は、とにかくアメリカか らケインズ主義者を排除する、ケインズ主義はとにかく間違っている、ケインズ主義がア メリカ経済をだめにしたということをずっと言い続けてきた人で、アメリカからケインズ 主義者を一掃することが彼の仕事だったんです。いわば彼はケインジアンを一掃したこと でノーベル賞をもらっているともいえる。一方、ケインズ主義たちは、逆にフリードマン やマネタリズムという考え方は間違っている、と言い続けてきた。 だから、アメリカでずっと相対立し続けてきた二つの政策を一緒にやっているんです。 もちろん安倍さんの背後にいる経済学者はそういうことをわかって、それをうまく組み合 わせればいいと考えているのでしょう。アベノミクスにしても、とにかく景気回復が大事 で、脱デフレが先決だという。そのためには何でもやると言っているので、こういうかな りアクロバティックな、僕らから見たら大丈夫かなと思うようなことをやって、実際よく なればいいじゃないか、結果が出ればいいじゃないか。政治というのは全部結果だから、 結果が出ればそれでいいじゃないかという話になっているわけです。 確かにそうです。結果が出ればいいでしょう。うまくいくかもしれません。しかし、両 方とも相手は間違っていると批判していますから、もしその批判が両方とも正しかったら とんでもないことになるんです。確かに第1の矢の超金融緩和でマネタリズムが言うよう に物価が上がればいい。第2の矢でケインズ主義者が言うように景気が回復すればいい。 いいですけれども、両方ともうまくいかないことだってあり得る。 例えば第1の矢を主張しているマネタリズムは、ケインズ主義は間違っている。どうし てかというと、政府が財政政策をする、政府が公共事業をやると、その分、民間のお金が 2 なくなる。政府部門にお金が流れただけで、民間の経済活動が低下するから、結局プラス・ マイナス・ゼロだ。政府がどんなに財政政策をやったって景気はよくならないと彼らは言 っているわけです。財政政策をやったって景気はよくならないし、後から財政赤字が膨ら んで、経済をもっと悪くするとずっと言ってきたんです。 一方、ケインズ主義者たちはどう言ってきたかというと、景気がよくならないのは需要 が足りないからだ。民間部門が物を買わないのだから、政府がその分を埋めないとだめだ。 別に民間部門はお金を必要としていないので、お金ばっかり供給してもしようがない。そ のお金はどうなるかというと、金融市場に流れていって、金融市場でバブルを起こしたり する。それは経済の足をもっと引っ張ると言ってきたんです。 どちらもそれなりに言い分はあるでしょう。両方とも相手を批判したところが当たって いるとすれば大変なことになるわけです。つまり、大して物価は上がらない。そのかわり そのお金は全部金融市場でバブルを起こす。バブルはいずれ崩壊しますから、この前のリ ーマンショックのようなことがまた起きるわけです。一方、フリードマンが言っている批 判が当たっていれば、政府が幾ら財政政策をやったって、それは民間部門のお金を政府に 回しただけの話で、結局経済はよくならない。財政赤字だけがたまる。こういう可能性も ある。でも、やってみないとわからない。 今のところ景気は若干よくなってきている感じはあるんでしょうね。統計数字からする とそうなっている。しかし、この先はまだわかりません、これはどこへ行くかわかりませ ん。そんなことを言っている間に株が2万円超えで、もうちょっといって天井かなという 話がありますけれども、どこかでまたバブルが崩壊するかもしれません。何が起こるかわ かりません。 おまけに今日の経済は世界中がつながっていますから、中国や EU の動向、アメリカの 景気に左右される。日本も大きく左右されますから、本当によくわからないんです。やっ ぱり国内でお金を回さないとだめでしょう。グローバリズムに過度に偏ると、中国とか EU に左右されて非常に不安定になる。 そこで問題になるのは第3の矢です。安倍さんとしては第3の矢が何とかうまくいけば、 第3の矢で成長産業ができて成長軌道に乗れば、結果として第1も第2も何とかうまくい くだろうという話になっている。だから、第3の成長戦略がうまくいくかどうかにかかっ てくるわけです。 成長戦略が大事だというのはわかるんだけれども、この第3の矢が今どうなっているの 3 かよくわかりません。姿が見えないんです。医療分野で新産業をつくり出す、遺伝子工学 やら生命科学を使うという話がある。しかし、こういうものは1年や2年で効果は出ませ ん。一つの産業を成長産業に育てるというのは、1年や2年の話じゃないんです。5~6 年かかる、場合によったら 10 年近くかかる話なんです。 この間、理研の高橋政代という人が網膜の iPS を使った手術をやって、その後、山中教 授がコメントを出していましたけれども、 「これはまだ成功とか何とか言えない。これがう まくいくかどうかわかるのは、やっぱり5年待たないとだめだ」というふうに言っていま した。生命科学というのはそんな状況なんです。前人未到の領域に入っていますから、う まくいって本当に医療に応用され、臨床で成果を上げるかどうかは、普通に考えれば5年 ぐらいはかかる話で、それでようやく先が見えてくる。1年や2年でこれが成長産業の軸 になると考えるのは楽観的過ぎるでしょうね。 また、地方創生ということも言っている。これがまたよくわかりません。僕は地方創生 は大事だと思うんです。大事なことだけれども、何でもかんでも地方に丸投げして、勝手 にやってください、お金だけ自由に使ってくださいということではまずいです。 地方がこれだけ衰退したのは、簡単に言えば、東京に人が集まり過ぎたからです。資本 も人も、東京に集めてしまった。東京はそれだけ若者にとっては魅力的な町ですし、東京 には仕事もありますから、若者は東京へ行く。しかも、2020年にはオリンピックだと 言っている。ますます東京集中になるわけです。 だから、地方を活性化するには、東京のレベルを落とさないとだめなんです。しかし、 東京のレベルを落とすなんて政策は簡単にはできません。そのためには大きな国土計画が 必要です。東京をどうするか、大都市をどうするか、地方をどうするか。地方と都市のバ ランスをどうするか。ある程度の分業体制をつくるなら、分業体制をどうするのか。こう いう国土全体についての大きなビジョンがなければ、地方創生だけ言ったって苦しい話で す。 ところが、大きな国土計画は立てない。昔は「○全総」というのがありました。数年、 場合によったら 10 年ぐらいにわたる国土計画という大きなある程度のビジョン、ある程 度の流れをつくって、その流れの中でどういうことをやるかということができたんですが、 今はそれができない。残念なことだと思います。 有権者はそんな 10 年先まで待っていられないですし、政治家は今この1年、1年さえ 苦しいですね、この、2カ月、3ヶ月で何か成果を出さないとだめ。2,3カ月ごとに世 4 論調査で支持率調査をやられますから、この間に何かをやっていかないとだめだ、そんな 政治になってしまっている。いわゆる成果主義が政治の現場に入り込んでしまって、政治 までがきわめて短期的な成果主義になってしまった。これはちょっと恐ろしいことです。 確かにそういう中で 10 年計画なんて立てることは非常に難しい。しかも政権交代が途 中であるかもしれませんから、難しいのはよくわかるけれども、地方創生と言うならば、 もう少し大きな国土計画、日本全体のことを考えていかないと、地方に勝手にやってくだ さいという話ではうまくいかない。だから、地方創生もどういうことになるのかよくわか りません。女性の社会進出とか少子高齢化対策とかもまだ全然姿が見えない。そうやって くると、第3の矢は大丈夫かなという感じが私はしてしまうんです。 今のところ、外国からの観光ブームで、ごく近くの隣人が爆買いとか何とかといって大 挙して押しかけてきてくれて経済を支えている。何か情けない話でね。京都なんかは観光 客でごった返しており、そこまでして京都の町へ観光に来てくださらなくても結構だと個 人的には思いますけれども、そういうところでしか経済を支えることができなくなってい ること自体が大きな問題です。違う形でお金を回していくことを考えないとだめなんです。 だから、成長戦略はどうなるかわかりません。やってみないとわからないことで、まだ 時間のかかることです。今のところ成長戦略がどうなるかは先が見えないとすると、アベ ノミクスは本当に楽観できるのかどうか、私はちょっと疑問に思ってしまいます。残念な ことです。 もしアベノミクスがうまくいかなかったらほかに何があるのか、何もないんです。やる ことは何もないんです。考えられることは今全部やっている。だから、これがうまくいか なかったら、やることがなくなる。 そうだとしたら、どういうふうに考えたらいいのか。発想を変える以外にないでしょう。 アベノミクスの基本的な発想は、とにかくデフレを克服する。これは緊急事態でとにか く克服する。デフレを克服すれば、その次に成長戦略が待っていて、成長軌道に乗り、ま た日本経済は成長でき、グローバルな国際的な競争力が持てる。そういう経済が回復でき ると言っている。 個々の企業についてはそういうことはあるでしょう。しかし、日本の国全体として考え た場合に、日本がこれからグローバルな競争力を持って、世界にもう一度打って出て成長 できる路線に入るんだと考える根拠はほとんどないし、そういうふうに考える必要はない だろうという気がするんです。つまり、簡単に言えば、もう成長を目指すような社会では 5 ないだろう。 これから日本はもう一度グローバルな競争で成長しましょうと。中国は7%ぐらい成長 している。日本は、7%は無理だけど3%あたりで、中国に対抗しようなどと、もう考え る必要はない。そういう方向で発想しないほうがいいだろうという気がするんです。簡単 に言ってしまえば、成長追求路線を少しずつダウンサイズしてくる。そういう状況まで日 本は来ているだろうという気が私はします。 90 年代に日本の経済は低迷した。90 年代から 2000 年代は失われた 20 年と言われた。 安倍政権が誕生するまで、日本はずっと「だめだ、だめだ」と言われ続けてきたんです。 90 年代から 20 年間、日本経済はずっと悪くなった。それはどうしてなのか。どうして日 本経済は 20 年間成長できなかったのか。そのことを改めて考えてみたいんです。そんな 難しい話はするつもりもありません。余り細かい話もするつもりもありません。もっとも 基本的な点だけを論じたいのです。 いろいろな人がいろいろなことを言っていますが、基本的なことを言えば、次の三つの ことが考えられるといいますか、無視できない一番根本にあるものだと思います。 一つは、少子高齢化です。人口減少社会です。 人口減少社会になれば、当たり前の話ですが、どうしてもマーケットが小さくなる。年 寄り社会ではもうそんなに物は買いません。ダイナミックな消費の力は出てこない。これ は当たり前の話。そういうことは 90 年代の半ばには予測されていた。そうすると企業は、 日本のマーケットの縮小を見越して、そんな大規模な投資はしません。投資が減りますか ら、経済規模が縮小してくる。そうすると、少なくとも、拡大の勢いは落ちてくる。これ はデフレ圧力になります。需要が減りますからデフレ圧力になる。だから、少子高齢化、 人口減少社会が予測されれば、当然経済は縮小の方向に向かいます。少なくとも拡大する 要因はないんです。 二つ目は、グローバル化です。 これは、今思っても何か不思議な気がしてしまうんですが、90 年代の半ばごろ、とにか く日本ではあらゆる経済関係のマスコミ、経済ジャーナリズム、経済評論家、経済学者、 そういう人たちがこぞって、これからグローバル化の時代だから、日本もグローバルな市 場競争路線に合わせていかないとだめだという話をしていました。グローバル化が大事だ、 グローバル化に乗りおくれると経済がだめになる、グローバル化しないとだめだ、こうい う話をしていた。 6 ところが、これも考えてみたら当たり前の話で、グローバル化というのは、実は先進国 にとっては都合が悪いんです。グローバル化で資本が自由に動くようになれば、海外に資 本を持っていき、海外の安い労働力を使っていいものをつくって海外に流せば売れますか ら、最初のうちは調子がいいんですが、いわゆる後進国が新興国までレベルが上がってく る。彼らも力をつけてくる、ある程度物がつくれるようになってくると、途端に先進国に とっては非常に厳しくなる。つまり、海外の安い労働力と競争しないとだめです。海外の 安い労働力で新興国がある程度の物をつくれるようになってくると、それと競争しないと だめになる。そうしたらどうするかというと、コストを下げる以外にない。どうしたらコ ストが下がるか。それは賃金を下げるしかないんです。あるいは労働を派遣労働に変えて いく。 そして現にそうなった。賃金が下がった、派遣労働に変わっていった。そうしたら、結 局労働が非常に不安定になる。賃金が下がってしまいますから、今度は消費が伸びない。 所得が伸びないから消費が伸びない。そうしたら企業の経済活動は停滞する。こういうサ イクルに入ってしまう。これもデフレ圧力です。だから、グローバル化は先進国にとって は厳しいのです。 アメリカはよかったじゃないか、といわれるでしょう。確かにアメリカはよかった。ア メリカは、簡単に言えば、ドルが国際通貨だったから、どんどんドルを刷ったんです。そ れから、いわゆる IT 革命がありました。またアメリカは金融工学で金融市場を発展させ た。そこに全部お金を回して、一種の IT バブル、金融バブルをつくり出した。だけど、 これはリーマンショックで失敗したんです。 失敗してみると、アメリカもその後は苦しいんです。今、景気は行ったり来たりで、い ままた多少よくなっていますけれども、これもまたドルをばら撒いているからです。オバ マ大統領は、やっぱり自動車産業を立て直さないとだめだ、GM を立て直さないとだめだ ということを随分言っていました。アメリカも製造業をうまくやらないとだめだという話 にまた戻ったりもした。だけど、余りぱっとしないです。だから、結局、またお金をじゃ んじゃん刷って株式市場にお金を集めてきて、それで何とか格好を保っている状態だから、 アメリカも本当は苦しいんです。 EU も同じです。ヨーロッパも先進国としてデフレ圧力にさらされている。ヨーロッパ は EU をやって市場拡大し、それで何とかかんとかもってきた。けれども、ギリシャショ ックでやっぱりうまくいかない。ギリシャのような非常に弱体国まで抱え込んでしまわな 7 いとしようがなくなった、そこから問題が起こってしまうんです。 だから、先進国はみんな苦しい。グローバル化は先進国にとって必ずしもプラスとは限 らない。日本は何もしなかったから、グローバル化の圧力が日本にもろにかかって、それ が日本にデフレ圧力をかけたんです。 今でも不思議でしようがないんですけれども、95~96 年ぐらいに「価格破壊、価格破壊」 と随分言われた。それはアメリカから出てきた話で、日本は物価水準が高過ぎるぞと。労 働賃金も高いし、不動産価格も高い。東京でコーヒー1杯飲むのとニューヨークで1杯飲 むのでは全然値段が違う。東京のホテルでコーヒー1杯を飲んだら 1,000 もする。とんで もない。そんなことをよく言われました。マンション1部屋借りても、東京は高過ぎる。 価格が高いために日本の消費者が損をしているという話だったんです。日本の消費者が損 しているから、価格破壊で日本の物価を下げないとだめだと、アメリカからそんなことが よく言われてきました。日本の経済評論家もそんなことを言っている。 じゃ、価格破壊で物価を下げるとどうなるのか。私はそのとき何かの雑誌に、価格破壊 をやり過ぎると、その次に雇用破壊になって、雇用破壊がやがて人間破壊になるだろうと いうことを書いたことがあって、今でも覚えていますけれども、友達にちょっとたしなめ られましてね。雇用破壊ぐらいまではわかるけれども、人間破壊は幾らなんでも言い過ぎ だろうと言われたことを覚えていますが、そのときに私が考えたのはこういうことです。 つまり、価格を下げるためには、コストを下げないとだめだ。コストを下げるためには、 先ほど言いましたように労働賃金を下げるか、派遣に変えていくか、アルバイト労働にす るか、そういうことをしないとだめだ。そういうことをやったらどうなるかというと、家 庭ががたがたになるだろう。今まで家で専業主婦をやってきた人たちは、家を出て働かざ るを得なくなる。若い連中は賃金が上がりませんから、結婚もできなくなる。結婚したっ て共働きです。子供を簡単につくるわけにいかない。こういうふうになると家庭が崩れて いくだろう。地域もそういうものの面倒を見るだけの余裕がなくなってくるだろう。学校 もうまくいかない。そうすると、事実問題として、実際問題として、例えば子供たちが暴 れ出すだろうと、そんなことを考えたんです。 学校教育もうまくいかないだろう。地域も学校も家庭も崩壊してくるだろう。人間は外 のつながりの中で生きるもので、家族やら地域やら学校やら、そういうものがうまくいっ ていて人間が育つんだとすれば、そこが崩れてしまったら、ちゃんとした人間が育たない だろう。そういうことを考えて人間破壊に至るだろうということを言ったんです。こうい 8 うことが間違っていたとは思えないですね。そういう方向に進んでいってしまったという 気がします。 確かに消費者だけ見れば、消費者は高いものを買わされていたでしょう。しかし、消費 者は同時に労働者なんです。だから、その高いものを買うために高い賃金を得ていて、そ のお金で家庭が何とか安泰で、全体がうまく回っていた。それで地域社会も比較的犯罪が 少なくてうまくいっていた。消費者が安いものを買えという一言でそれが全部崩れていく わけです。これはちょっと恐ろしい話です。 しかも、はっきりといえば、アメリカ企業が日本への参入を図りたいためにそういうこ とを要求した。日本へ参入するには規制がかかっていて、賃金は高いし、マンションのレ ンタル料は高いし、東京で土地を買おうとしても高過ぎるし、これを何とかしたかったん です。そういう話に乗ってしまった。これがグローバル化というものなのです。 むろん日本にとってありがたい面もあり、それでうまくいく企業ももちろんありますけ れども、日本人のもっと大きな生活全体を考えれば、結局賃金は下がって、家族やら地域 がどうもうまくいかなくなってくる、回らなくなってくるという話になるわけです。 3番目に言いたいのは、こういう状況の中で構造改革をやった。これは大失敗です。そ れははっきりとした話で、根本的に構造改革をあの状況でやったらだめなんです。 構造改革にもいろいろな面がありますから、一つ一つのことを取り出せば、必要な改革 があったというのは認めます。認めるといいますか、それは当たり前の話でしょう。 よく言われたけれども、田舎でバス停を 100 メートル動かすのに、あちこちに陳情に行 って丸1年ぐらいかかる。これは何とかならないかみたいな話がありました。確かにそう いう改革は必要でしょう。そういう個別のところではわからなくはない。しかし、構造改 革の基本的な考え方というのはこういうことなんです。 経済は、御存じのように需要と供給から成っている。企業が生産して消費者が物を買う、 その需要と供給から成っている。ところが構造改革の考え方は、需要は幾らでもある、人々 は幾らでも欲しいものがある。商品さえマーケットに出せば、幾らでも売れる。供給側に 無理な規制がかかってしまっていて、十分な供給ができなくなってしまっている、これが 問題だというのが構造改革の考え方です。 つまり、需要は全く問題がない、供給側に問題がある。供給側の問題を起こしているの は政府規制であり、公共事業をやる。政府部門という能率の悪いところに金が回っている。 そのために、本来消費者が欲しがっているようなものがつくれない。これが日本経済の足 9 を引っ張っている。これをとりはずせば供給が伸びる。需要は幾らでもありますから、経 済全体がうまくいく、成長できるというのが構造改革の発想です。 しかし、先ほど言いましたように、もしも 90 年代の日本経済がデフレ化している原因 が、少子高齢化とかグローバル化で需要が減っているところに問題があったとすれば、全 然解決にならないんです。解決にならないどころか、供給能力を増やせば増やすほど、も っとデフレ圧力になってしまうんです。 だから、構造改革とか市場競争路線というのは、経済が伸びていて調子がいいときにや るのはいいんですが、デフレ圧力が既にかかっていて需要が余り伸びないところに供給ば かり伸ばしてしまっても、これはだめです。しかしそういうことをやろうとしたと思いま す。だから、構造改革がもっとデフレ圧力になってしまった。 ここから先は検証できないことなので、私の思いつきといえば思いつきなんですが、さ らに言いますと、需要が伸びなくなっている原因は、少子高齢化とか何とかだけではなく て、90 年代まで来て、人々はもはや 60 年代とか 70 年代のように物を欲しがっていない。 マーケットに出てくるいろいろな新しい電気製品だとか機械だとか衣服だとか、そんなも のを買う関心がなくなっている。つまり、日本経済はそこまでもう成熟してしまった。こ れは非常に大事なことだろうと思うんです。もっともこういうことは検証できません。デ ータにも出てきません。 統計数字にならないから、こういうことを経済学者は議論しないけれども、恐らく物を 買おうとする力といいますか、物に対する欲求といいますか、渇望というか、そういうも のが 90 年代にかなり満たされてしまっていて、それほど大きな渇望、欲望というものが なくなってしまっている。もちろんゼロになることはあり得ないんですが、そういう状況 まで来ていた。 60 年代の、新しい電気製品が出てくればみんなが飛びつく状況ではないんです。テレビ が出てきた、洗濯機が出てきた、新しいタイプの自動車が出てきた、新しい電気製品にみ んなが飛びついて、家族がそれで満足して家庭円満なんて状況ではもうなくなってしまう。 そういう意味で我々の価値観とか社会生活のあり方が変わっていってしまったんです。今 は完全にそういう状況まで来ていると思います。 例えば今の若い人たちを見ても、若い人たちは本当に物を欲しがりません。まず自動車 に関心がないし、免許を取るという気もない。新聞もとりません、本もほとんど買いませ ん、テレビも見ない。僕らは昔よく夜中に深夜喫茶に入り浸っていましたけれども、喫茶 10 店へもほとんど行かない。何をやっているかというと、ただとにかく携帯だけ、スマホだ けなんです。スマホさえあれば全部足りるんです。情報もテレビのドラマも、何もかも全 部見たいときにスマホで見れてしまう。本だって読める。だから、スマホがいじれるよう な空間があれば、大学の食堂みたいなところに座り込んでスマホをいじっていれば、それ で何時間か過ごせるんです。 これじゃやっぱり成長しませんよ。どんな物をつくったって、そんなに需要は発生しま せん。それは決して悪いことじゃないと思うんです。日本経済はそこまで来てしまった。 中国はまだそこまで来ていないから、トイレットペーパーとか便器とか爆買いで買ってい くわけです。そういう中国を見て、それと競争しようなんて言ったって意味がないわけで す。日本はそういう意味ではもうある程度の経済的豊かさは達成して、ある程度の水準ま で来ているんです。そういうことを前提にして物を考えていかないとだめだろうという気 がします。 そうすると、デフレはともかく、少なくともゼロあるいは1%ぐらいのインフレまで回 復する必要があるかもしれないけれども、日本は少なくともグローバルに競争して勝とう という時代ではなくなっている。我々が欲しがっているものは、もうちょっと別なものな んです。市場競争をやって、次から次へと新しく出てくる製品ではない。そういうところ で経済を牽引するということはもう無理なところまで来ているんだろうという気がします。 それにもかかわらずどうしてこんな市場競争圧力が日本にかかっているのか。グローバ ル化が進んで、グローバル化をとめることができないのか。ちょっとだけ昔話をさせても らいたいと思います。 私が大学に入ったのは昭和 43 年(1968 年)です。4月に大学に入りまして、6月から 無期限ストで授業がなくなってしまった。恐らく戦後一番ありがたい大学生活を送らせて もらって、幸いなことに何も勉強しないで単位がもらえたという申しわけない時代でした。 6月から無期限ストに入る。学生がストをやるのは変ですよね。学生は授業を受けるた めに大学に来ている。これは権利ですから、その権利をみずから放棄するのは変な話で、 どうしてストをやったか。一応学生にも理屈が必要だ。当時の全共闘の学生はどういう理 屈を考え出したかというと、今ベトナム戦争が行われている。我々はベトナム戦争に反対 だ。しかし、日本政府はアメリカに協力してベトナム戦争に加担している。これをとめな いとだめだ。日本政府はどうしてアメリカに協力するかというと、それが日本の支配階級 の利益になるから。当時の学生はみんな基本的にマルクス主義ですから、世の中は支配し 11 ている人と支配されている人の二つに分かれるんです。支配階級の利益だと。支配階級と は何かというと、自民党の政治家であり、財界であり、官僚であり、そういう人たちだと。 つまりエリートだ。この支配階級を潰さないとだめだ。しかし、支配階級といきなり闘っ ても負けるに決まっている。じゃ、どうしたらいいか。支配階級に人材を供給している東 大を潰すことから始めよう。しかし、自分たちは困ったことに東大生である。じゃ、自分 たちから授業を放棄しよう。こういう理屈なんです。何となく筋は通っているんですけど ね。何かわけのわかったようなわからんような理屈をくっつけてストに入った。 それはつまらない話ですが、一ついいことがあって、我々は既成のものをとにかく拒否 したんです。世間で流布しているものはまず間違っているだろうと思いました。こういう 理屈ですから、大学の先生が我々に与える知識は間違っているだろう。大学の先生は間違 ったことを教えているということを言うためには、こちらも批判しないとだめ。だから、 学生が自分たちでいろいろ勉強しました。幼稚なものですが、自分たちで自分たちなりの 考え方をつくろうという努力をしました。あれはよかったんです。 与えられたことをそのまま鵜呑みにはしなかった。オーソドックスな考え方は間違って いるだろう、そのときの支配的な意見は間違っているだろうという一種のあまのじゃく的 心構えみたいなものが植えつけられました。 これは大事なことで、当時経済学にいますと、中心になるのはアメリカの市場競争万能 型の経済学です。しかし、我々学生時代はそんなものが当たり前だというふうに誰も思っ てませんでした。それは支配的な勢力を持っているけど間違っている。それをどうやった ら批判することができるかということをしょっちゅう議論していたんです。だから、いろ いろな考え方が生み出されてきたんです。 日本の場合はまだマルクス経済学の力が強いですから、日本の経済学会の半分はマルク スが占めていて、マルクスも当然勉強しました。あと、いろいろありました。アメリカに はマルクスはいないけれども、その影響を受けたラディカル派という、ラディカル・エコ ノミックスというのがあった。イギリスにはまだケインズの弟子が生き残っていて、あの 偉大なケインズの考え方がアメリカ人どもにわかるはずがないと頭から思っていますから、 アメリカの経済学をいつも批判していた。だから、いろいろな考え方があったんです。僕 らは日常的にあれがいいのかこれがいいのかという議論をしていました。 ところが、7~8年前にある若い経済雑誌の編集者としゃべっていたときに、 「君ら大学 でどんな勉強してきたの」と聞いたら、アメリカの市場競争の経済学しか勉強していない 12 んです。それ以外何も、マルクスはもちろん全く勉強していません、ケインズさえも勉強 していない。ましてや先ほど言ったラディカル派とかイギリスのアメリカ経済を批判して いる連中とか、そんなもの名前を聞いたこともない。これは恐るべき状況です。アメリカ の市場競争の経済学しか勉強していない。しかも、それがミクロ経済学、マクロ経済学と いう経済学の教科書になっているんです。教科書としてそれを勉強している。教科書です から疑いようがない。間違っていることが書いてあるはずはないんです。ただそれを勉強 して、学んで、知識として頭の中に入れていればいいんです。そういう状況になっている。 これはやっぱり困ったことです。どうしてそんなふうになってしまったのか。 70 年代の初めにアメリカでもいろいろな議論があって、新しい考え方が次から次へと出 てきて、しょっちゅう議論していた。我々だって「あれは正しい」「あれは間違っている」 という話をいつもしていた。それが 90 年代に入る前には完全に消えてしまった。80 年代 の初めぐらいには消えていってしまって、市場競争型の経済学しか残らないんです。 どうしてそうなったのか、私はその理由は簡単だと思っているんです。ただ、経済学者 はこんなことを言ったって認めないでしょうね。私は間違いないと思っているんですが、 理由は非常に簡単で、要するに、市場競争万能型の経済学だけが一番高度な数学を使うこ とができたんです。経済学を御存じの方はすぐおわかりだと思いますが、理論経済学とい うのはほとんど数学の応用分野みたいになっているんです。非常に高度な数学を使うんで す。アメリカの一流の経済学の雑誌を見てもらったら、もうほとんど最初から定理1、証 明、定理2、証明という書き方になっているんです。ほとんど数学の雑誌と変わらなくな ってしまっている。 どうしてそうなったかというと、理由がないわけではない。60 年代にアメリカはソ連と 冷戦体制でソ連と対立している。アメリカの経済学者たちはそのときこういうふうに主張 した。ソ連の社会主義のもとをつくったのはマルクスである。マルクスは根本的に間違っ たことを言っている。それに対してアメリカの自由主義体制のもとになっている市場競争 の理論は科学的に正しい。これは科学的理論である。マルマスは科学ではない、あれはマ ルクスの勝手なイデオロギーだから間違っている。一方、アメリカの自由主義体制を支え ているものは科学的な真理である。こういうふうに言って、社会主義は間違っていると言 った。 だから、市場競争理論は科学的真理でなければならないんです。科学的真理であるとい うことを一番わかりやすく示すのは、数学を使うことです。数学的にやれば論理が完璧で 13 すから、仮定から出発して結論までいきますから、これは科学的に正しいことになる。 そうすると、数学的に表現できないものは、どんどん経済学から落ちていく。マルクス はもちろん落ちました。ケインズも苦しい。というのは、最後に政府が出てきて、政府が 適切な財政政策をするとか金融政策をとるとか、その「適切な」ということは数学になら ないんです。財務省が適切な行動をするのか、と言われたって、それはわかりません。こ ういう話になってきますから、やっぱりケインズ主義者も論争に負けていくんです。 今の市場競争万能型の経済学は極めて高度な数学で、最初から最後まできちっと数学的 に表現できます。何となく見当はつけていただけていると思うんですが、要するに、人間 が合理的に行動することを、何か与えられた状況のもとで与えられた関数を最大化すると いうふうに数学的にあらわせば、与えられた条件のもとである関数を最大化するという数 学問題に置きかえられていって、それを全部組み合わせて、マーケットが、最後は需要と 供給が均衡するという話にすれば、完全に数学的に表現できるんです。だから、やっぱり これがどうしても中心になる。これは恐ろしいことで、私自身はそういうものを見ていて、 これはまずいなと思いました。 数学者が経済に入ってくる。ノーベル賞をもらった経済学者のかなりが数学出身です。 例えば金融工学なんかも 70 年代ぐらいにできます。それも数学者がどっと入ってきて金 融工学をつくるわけです。経済学の理論をやっているかなり中心部分が数学者になる。数 学者は問題を解くことに関心があるので、この経済システムが本当にうまくいくのか、人 間の生活が豊かになるのか、あるいはグローバルな資本主義が本当にうまくいくのかとい う大きな問題にはさして関心がない。最初から与えられた小さな問題を、どういう仮定を 置けばこの問題が解けるかということに関心が向く。私みたいな大きな問題に関心のある 者からすれば、大学院の終わりぐらいに経済学そのものがおかしくなるという感じがした んです。 数学を勉強するためにはかなりエネルギーを使いますから、一遍これに入ると抜けられ ないんです。大学院の人生で一番充実しているはずの期間に、やたら数学ばかり勉強して、 あれに費やした時間は一体なんだったのかという感じになってきますから、数学もやめる わけにいかない。普通はやめるわけにいかないんです。僕自身は、27~28 歳ぐらいのとき にはそういう理論経済学をやめたんですけど、やめてよかったと思います。 数学で武装すると、客観的真理ですから教科書になる。客観的真理を書いているのが教 科書です。物理学の教科書だって、アインシュタインの思いつきを、個人的思いを書いて 14 いるわけじゃないですから。誰が見ても了解できる客観的真理。経済学もそういう話にな っていった。 そうするとどうなるかというと、海外からアメリカに留学する。日本やらアジアから若 い留学生がアメリカへ留学する。それをテキストブックとして読む。テキストブックは非 常にわかりやすいです。初等の経済学の教科書は英語も非常にわかりやすいですし、数式 が出てくる、図表が出てくるから、まだ余り英語ができない留学生も非常に勉強しやすい。 これは教科書ですから、勉強して知識として詰め込んだ。初級が終われば、中級に行く、 上級に行く。もう少しすれば、ドクター論文が書けるんです。それで日本なり本国に帰っ てきたらそれなりのポジションについて、それなりの経済学の指導者になっていくという ことになる。 アメリカは非常にうまいシステムをつくり出していて、アメリカの社会科学は、経済学 に限りませんけれども、基本的にそういうやり方です。教科書化していって標準的な理論 を組み立てて、海外から留学生を集めてきて標準的な理論を勉強してもらって、本国に帰 ってその考え方を広めていくというやり方です。経済学はその典型です。 80 年代にアメリカに留学した経済学者が日本に帰ってきて、日本の現実を見ると教科書 どおりになっていない。そこでどう言うかというと、教科書のほうが正しくて、日本の現 実が間違っている。日本の現実を教科書に合うように変えろ。日本は全然競争してないじ ゃないか。競争してないから能率が悪いんだ、成長できないんだ。日本型経営とか金融市 場が発展していないとか、終身雇用だとか、全部おかしいじゃないか。行政規制なんて教 科書のどこにも書いてなかったという話です。これが構造改革要求になる。経済学者は別 に何のあれもなく、正しいことを言っているつもりだけれども、結果としてアメリカ的な 考え方を日本にうまく移植する役割を果たすんです。 ある経済学者たちは、80 年代にアメリカに留学してアメリカの考え方を受け入れて、ア メリカの経済学者たちと親交を結んで、日本へ帰ってきて日本の現実を見ると、おかしい。 そこでマスコミに登場して「変えろ、変えろ」という話になってくる。そういうことが起 きた。これはやっぱり恐ろしい話です。 先ほどのアメリカの市場競争の考え方は、フォーマルに言うと、一人一人の人間が合理 的に行動して、つまり、自分の所得なり利益をできるだけ高めようとする。一人一人の人 間が合理的に行動して市場が競争すれば、経済は最大限の効率性を達成することができる。 つまり、一番いい状態で成長できるという命題が導かれます。 15 もう一度言いますけれども、一人一人の人間が合理的に行動して市場ができるだけ自由な 競争をすれば、経済は最大限効率性を達成することができる。一番いい状態で成長できる という話です。これが今の市場競争理論の一番中心にある考え方で、それは先ほど言いま したように非常に高度な数学で完全に論証できます。 確かにこれだけを見れば論理的な命題なんです。科学なんです。こうこうすればこうい うふうになりますと言っているだけなんです。しかし、この考え方の中には、実は効率性 を達成することは大事だ、成長することは大事だという価値観が暗黙に含まれている。そ の価値観がなければ、この命題は全く意味を持たない。幾ら物すごい数学で武装して、物 すごい科学的に正しいなんて言ったって、この命題が意味を持つためには、効率性を高め ることが大事だ、成長することが大事だという価値観がなければ、単なる机上の空論で何 の意味も持たない。この命題が実際に意味を持ってくるためには、効率性を達成すること が大事だ、効率性以上の価値観はない。それから成長することが大事だという考え方が前 提になるんです。 逆にこの考え方で経済を見た場合には、そういう価値観が同時に持ち込まれてしまうん です。これはちょっと恐ろしいことだと思います。だから、科学でも何でもないんです。 最初は科学なんですが、科学のつもりで出発しているんですけれども、科学の中にこの価 値観が持ち込まれてしまって、逆にこの考え方がしっかりとでき過ぎているために、この 考え方で世の中を見ると、世の中を科学的に見ているつもりなんだけれども、実はそこに 効率性は大事だ、成長することは大事だという価値観が入ってしまうんです。その価値観 でもって世の中を見ることになってしまうんです。 恐らくこれをやっている経済学者や経済ジャーナリズムは、自分ではそこまで意識して いないんでしょうね。意識していないけれども、結果として効率を達成すること、経済成 長することが一番大事だという価値観で世の中を見ることになってしまうんです。という ことは、ほかの価値観を否定するということです。放棄するということです。 例えば効率性を達成するよりも、効率性はちょっと犠牲にしても、みんなが平等で公正 な社会がいいという考え方もある。あるいは医療とか教育は、確かに能率は悪い、効率性 は悪い。しかし、そこは平等に受けられるような社会が望ましいという考え方ももちろん あります。それから、環境配慮型といいますか、自然や環境と一体となって人間が暮らす 16 ことがいいんだと。効率性を追求するよりも環境を大事にするほうが大事だという価値観 もある。あるいはイタリア人みたいに、そんなにやたらめったら働かないで、もうちょっ と人生楽しんで、ワインを飲んで歌を歌って騒いでいるほうが人間的でいいじゃないかと いう考え方。僕はどちらかというとそちらのほうに傾くんですけれども、そういう考え方 だってある。 僕は最近、もう 10 何年ヨーロッパも行ってないので知りませんけれども、この前帰っ てきた人に聞いてみたら、ドイツなんて、今でも6時になったら店が全部閉まって、もち ろん日曜日は全部閉まっています。6時過ぎたらみんな家に帰ったり、あるいは家から出 てきてみんなで一緒にレストランで飯を食って、劇を見に行ったりコンサートに行ったり、 そういう生活をまだやっていると言っていましたけれども、こういうのは非常にいいです よね。こういう考え方だってあるんです。働くことだけが大事じゃなくて、もう少し地域 のつながり、友達のつながり、そういうところで楽しく生きることが大事だというのも価 値観です。 だけど、そこは選択していない。そこはきちっと議論していない。ただ経済学が、先ほ どの市場競争理論は科学で、これは正しい、この命題は正しいというところから出発して、 それで世の中を見て、正しい命題のように世の中を変えようとした途端に、我々は効率性 の奴隷になってしまう。効率性という価値観の中に囲い込まれてしまうんです。ほかの平 等が大事だとか、教育が大事だとか、医療が大事だ、あるいは地域の生活が大事だ、環境 が大事だというものが全部排除される。誰もそこは議論してもいないし決定もしていない。 だけど自動的に排除されている。こういうことが 90 年代以降に起きたと思います。これ は恐ろしいことです。 つまり、なし崩し的にいつの間にか我々も効率性を追求することから抜けられなくなっ てしまった。しかも、グローバル経済がそういう形で組み立てられていってしまっている んです。60 年代にアメリカが冷戦体制の中で、アメリカが経済学は科学であると、市場競 争の理論は科学であるというふうに言ったことが生み出した産物の一つです。それが 90 年代のグローバリズムや構造改革になっていった。 もう一つここで重要なことは、市場競争理論が大事だという考え方は、アメリカではあ る程度成り立ちます。これはアメリカの価値観をある程度反映している。個人が合理的に 行動する、個人が自分の利益を求めて行動する、これは非常にアメリカ的です。 一方で、アメリカは日本以上に家族を大切にする。朝から晩までアイラブユーなんて言 17 わなきゃならない、そこまでやって家族を組み立てなければならない社会は結構大変なも のだと思いますけれども、アメリカ人はある意味で家族を大事にしようという面が日本人 よりもあるでしょう。地域共同体も大事にします。それから、アメリカは宗教大国ですか ら、日本人以上に宗教に対する関心が深いです。アメリカにもいろいろな面があるけれど も、アメリカで最も軸になる価値観は何かというと、個人主義、自由主義、能力主義でし ょうね。個人が自分の力でアメリカにやってきて、自分の力で成果を上げ、それに対する 正当な報酬を要求するという考え方。これがアメリカ社会の原則です。こういう社会には 市場競争、能力主義、自由主義という考え方は適用しやすいです。適用しやすいというか、 実は市場競争理論はアメリカ社会を背景にして出てきた。アメリカ社会の価値観を前提に しているのです。 日本はそうじゃないです。我々は、人間はいろいろな能力を持っており、いろいろな性 格の人がいる。企業の中で、確かに余り働かない人もいるし、ちょっと能力の劣るかもし れないが、その人がいることで全体が何となく調和したり、またその人にも家族もいるだ ろうと思ってしまう。だから一人一人で仕事をやるよりもチームを組んで、チームでパフ ォーマンスを上げようとするんです。良かれ悪しかれこれが日本企業の一つの大きな特徴 だったんです。 一人一人がばらばらに分断されて仕事をするのではなく、お互いにコミュニケーション をとり、お互いに連結し合って、他人が調子が悪いときには自分が仕事を多少助けてやっ たり肩がわりする。そのかわり自分の調子が悪いときにはちょっと助けてくれといったこ とができた。だから全体としてパフォーマンスは上がる、全体として安定したものをつく っていく。これが日本の経済の基本的な考え方だった。それが結果として日本企業の終身 雇用とか年功序列とかいう形になってあらわれてきた。確かにいまそれがいささか硬直し てしまったことはあるでしょうね。それだけでうまくいかないところまで来ていたかもし れません。 しかし、いずれにしても今ここで言いたいのは、アメリカ型の価値観と日本型の社会の 価値観はちょっと違うということです。 例えば哲学者の和辻哲郎が言っていることですが、日本では「ひと」が同時に「人間」 なんです。我々のことを「ひと」と言ってみたり、 「人間」と言ったりする。 「ひと」と「人 間」という言い方が二つあるのは日本だけで、人間というのは「人の間」にあって初めて 成立する。これは日本人の感覚で、一人の人間が一人で生きているんじゃなくて、 「人の間」、 18 人がつながっていて、人のつながりがあって、初めてその中で一人一人の人間が育ってい くというのが日本の考え方だということを和辻哲郎は言っていますが、それはかなり当た っているでしょう。 ヨーロッパの分割できないインディビデュアルという考え方は、日本には希薄です。そ うすると、社会の価値観は違っていて、アメリカ型の価値観を日本に持ってきたときに厄 介なことになります。個人が自分の能力を発揮して、その発揮した分を自分に還元してく れという考え方が日本ではもともと薄い。全体としてそこそこいっていればいいや。差は つくけれども、そんなに大きな差はつけない。それで全体として企業が安定する。企業は 地域に貢献する、それで地域が安定する。そこで雇用が安定する。こういうぐあいに全体 がうまく安定していけばいいじゃないかという考え方が日本には強かった。 アメリカ型の考え方を導入すると、その全部が崩れていってしまう。これは経済問題だ けじゃないんです。経済の中で効率性がどうのこうのという話じゃなくて、我々の考え方、 社会の組み立て方、生活の仕方、全部が崩れていってしまう。これは大変なことなんです。 構造改革がそれをどこまで潰したのかはよくわかりませんが、教育や医療や地域はかな り崩壊状態に近くなってきました。あらゆる次元に、とにかく競争原理を入れる、株式会 社原理を入れる、ということになった。大学もそうです。大学も「民営化、民営化」とい う方向で、本当に一気におかしくなりました。 繰り返しますけれども、アメリカでは、個人がアメリカという社会をつくっていますか ら、アメリカの公という意識は独特なものです。自分たちが政府をつくっている、自分た ちが大統領を選んでいるという意識が強い。だから、逆に彼らが自分たちに一体何をして くれるかということをアメリカ人はたいへん気にします。 日本人はちょっと違います。公ということを意識しないうちに、政府に何か寄りかかっ てしまっていて、政府がいつも何かやってくれるだろうと思っている。自分がそれを支え ているという意識は非常に薄いです。だから、日本の公という観念は、私というものをす っぽりと包んでいる感じが強くて、一人一人の人間が公を支えているという観念はやっぱ り弱いですね。 アメリカには公と私の間の緊張関係があって、それも一種の契約関係です。基本は私に あって、私が責任を持ってやる。しかし、戦争とか軍事とか防衛とかできないことがあり ますから、それは我々が政府に委託しているという考え方がアメリカは強い。 日本はそうじゃない。何かあったら政府が出てきてくれる。戦争もそうだし、経済危機 19 だとか、福祉にしても年金にしても、何か深刻なことがあったら、最後は政府が救ってく れる。しかし、そういうことがない限りはいつも何か政府に甘えつつも、政府を批判して います。最近はとにかく官はたたけと、アメリカから入ってきた考え方を適用している。 だから、官と民の関係のあり方がアメリカと日本では違うんです。違うところにアメリ カ型の考え方を導入してしまっている。これも厄介な話です。 物事をお金で表現することに関しても、アメリカは余り抵抗がありません。例えばアメ リカ人としゃべっていて、 「おまえ、日本の大学で給料どれぐらいもらえるんだ」という話 を割と聞いてくる。こういう話をアメリカ人は余り気にしないです。給料が幾らだという 話はアメリカ人だと割と日常的な話で、「これぐらいだ」「それはちょっと安過ぎるな。ア メリカに来たら、その2倍はもらえるぞ。おまえ、来年から来たらどうだ」といった類の ことを平気で話しますね。しかし、我々は給料だけで働いているわけではない。家族もい るし、日本でやらなければならないこともあるし、そんな簡単にアメリカに行くわけにい かない。生活を安定させることの方が大事なのです。それが我々の感覚でしょう。 だけど、アメリカ人にとっては、そういうこと自体が不合理で理解しがたいでしょう。 「アメリカに来たら給料が2倍もらえるのに、何でその機会を生かさないんだ。いったい どうしてか」と思うのでしょう。そこの感覚が違うんです。アメリカ人にとっては、自分 の能力をお金で表現すること自体、別に悪いことでも何でもなくて、当たり前のことで、 そうだとしたら高いところに行くのは当たり前。それが先ほどの合理的な個人なんですね。 日本はそういう考え方を持っていない。人間の価値を金ではかること自体がおぞましいこ とだという考えのほうが強いんです。 こういう基本的な価値観が違う上に、アメリカの経済の考え方と日本の経済の考え方が ある。市場競争の考え方も、日本は市場競争をしていないわけではないが、アメリカと考 え方が違うだけなんです。そこの違いを我々はいつの間にか忘れてしまいました。 それでアメリカ型の教科書を学んで日本に来て、日本は間違っていると、いうことにな る。行政規制がある、日本的経営もよくない、金融市場は自由化されていない。それを全 部アメリカ型に変えれば日本は効率的になる、成長できるという話になった。やってみた けれども、成長はできない。当たり前です。アメリカでは価値観と社会がそういうふうに なっているからうまくいったのであって、社会と価値観が違うところでやってもうまくい きません。どうしてこんなことが 90 年代にこれほど大規模に起こったのか、そちらのほ うが不思議です。 20 日本人が自分たちの社会についての自信を失っているんです。アメリカが正しくて、ア メリカの言い分を聞けばよい。日本はアメリカにくっついていけばよくなるという思い込 みが強い。これは非常に残念なことです。どうしてそうなったかというと、戦争に負けた とか、占領政策でアメリカの価値観が日本に植えつけられたとか、日米同盟があるとか、 そうした「戦後」という大きな枠組みにかかわってくるので、これ以上アメリカどうのこ うのという話はしませんけれども、実はこういうことが全部絡んでいるんです。 日本人が戦後、自分たちの国を自分たちでどうやって設計するかということをやらなく なった。60 年代の高度成長期はそれでもよかったんでしょう。国が成長してお金がどんど ん増え、富が増え、地方も都市もよくなりますから、あとはお金の配分の問題になる。60 年代はそういう時代だった。 しかし 80 年ぐらいからちょっと変わってくる。日本とアメリカの経済力がほぼ対等に なってしまった。そこでアメリカが日本に対して一斉に攻撃をしかけてくる。89 年あたり、 冷戦の終わる間際、冷戦が終わると次のアメリカの課題は一体何かということをアメリカ の議会で議論している。そのときにアメリカの議会で文書が回覧されていたといいます。 次のアメリカの敵は日本である。そういう文書が回っていたという話を聞きます。 アメリカはそこまで明確に意識していたんです、次は日本との経済戦争になると。日本 がアメリカを経済で負かすことを許すわけにいかないというのがアメリカの考えでした。 日本はそれにまんまと乗ってしまって、アメリカの合理的な経済学を一つの客観的科学で あるかのように信じ込んで日本に持ち込んでしまった。それと、戦後の日本は、日米同盟 を含めて、基本的に国家の基軸をアメリカに委ね、アメリカに依存しながらやってきた。 そのツケがここまで来てしまったのです。 最後に、構造改革やら市場競争路線の中で一番破壊されてしまったものは何かというと、 社会のインフラストラクチャーなんですね。つまり、消費財や通常の商品は市場競争にさ らしてもよい。新しい技術革新ができて新しい製品がマーケットに流れていけばいい。だ けど、市場競争して困るものは一体何かというと、いろいろな意味での社会的なインフラ ストラクチャーです。教育もそうです、医療もそうです、ある種の公共事業もそうです、 それから環境です。こういうものはもともと市場競争にならないんです。市場競争の中で は能率が悪いから公共部門が管理している。大学も本質的にはそうですね。 これは最初から能率が悪いけれども、社会の安定と人間の生活の安定には必要である。 そういう意味で公共財として存続した。しかし市場競争理論、構造改革理論はそれを一切 21 認めない。すべてを効率性という尺度に一元化してしまって、効率性だけでしか評価しな いんです。 だから、日本の教育は効率が悪いということになる。世界のランキングで大学はちゃん とした成果を上げていない、50 何位だとかいう。あるいは日本の大学を出た人材は全然世 界的に活躍できていない。これも全部効率性の話です。だから、効率性を高めるためには どうしたらいいか、英語を話せるようにしようという。 しかしそんな話じゃないです。教育とは、もともと効率を追求するために存在するわけ じゃない。従来、公共事業の対象となってきたものも、中には確かに無駄なものがあった のかどうか知りませんが、基本的に社会の、地域のインフラストラクチャーになってきた はずです。それを効率性の尺度ではかること自体が間違っている。だけど、恐ろしいもの で、小泉改革の時代ですけれども、公共事業は何でも「能率が悪い」 「効率が悪い」と言わ れれば、もう反論ができないという状況になりました。 私から見ていますと、冷戦のなかで、アメリカ経済学は科学であるといいだした。そこ で市場競争は効率性を達成できる。これが完全に高度な数学で表現できてしまう。そこま でいった途端に、その後の流れが今日の状況まで来るんです。構造改革を通して教育が崩 壊する、医療が崩壊する、地域が崩壊する、家庭がうまくいかない。そういうところまで 全部きてしまう。これは本当に恐るべきことだと思います。 今そういうことを立て直す必要があります。それは非常に難しい話ですが、幾つかどう してもやらないとだめなことはあると思うんです。実は、東日本大震災は価値観を大きく 変える大きな転換期だったと思うんです。 先ほど言いましたように日本は人口減少社会に入ってくる、成熟社会である。だから、 成長はそんなに期待できない。成長できない社会は競争しちゃだめなんです。成長できな い社会で、つまりゼロ成長に近い状態で競争すると、パイの取り合いになるんです。能力 のあるものは勝つけれども、ちょっと劣るものはどんどん状況が悪くなる。当然そうなる。 だから、成長できない社会というのは、競争社会じゃなくて、安定した生活をつくる社会、 もしくは共生社会というふうに価値観を変えていかないとだめでしょう。 東日本大震災をきっかけとして社会がそういうふうに転換すべきだったと思いますね。 今でも思います。だけど、実際にはそうはならなかったですね。 確かに安倍さんの気持ちもわからなくはない。デフレを克服するのが先決であると。若 い人たちが働いても賃金がどんどん下がっていく、これはやっぱりまずいと。それは確か 22 にそのとおりです。デフレを克服して、ある程度の安定した経済成長まで持ってこないと だめだ。だけど、別にそれ以上、国際競争といって無理に成長する必要はない。1%でい いんです。ゼロだって別に停滞した社会じゃない。中ではたえず変わるので、新しいもの は次から次へと出てくるんです。 それに個々の企業は競争するんです。特にグローバル企業は競争するんです。そこはや ってもらったらいい。それまでやめろとは言わない。だけど、国全体でいえばそうではな い。これも厄介な話で、この 10 年間ぐらい、政治が全部企業と同じ論理で動いていきま す。政治家も、どれだけの成果を出しました、この1年間でこれだけやりましたというこ とを達成してたえず、民の審判を受ける、とぃう風潮が強くなりすぎた。しかも日本はグ ローバル競争で勝つような国にしないとだめだという。これは企業の論理です。企業はそ ういう競争で勝つという論理が必要です。しかし、国はそうじゃない。国の中には弱い者 もいれば、貧しい地域もあって、その全体をどうやってバランスさせるかということをや るのが政治でしょう。このバランスを長期的にどうやって安定させ、将来へどういうふう につなげていくかが国というものの観点なんです。政治家の観点なんです。 政治家が企業の論理と一緒になってしまって、効率性と短期的な成果を出すという論理 に取り込まれてしまった。これは日本だけじゃないです。非常に世知辛くなってきて、パ イの取り合いになってくると、そういうふうになってくるんです。それだけのゆとりがな くなってきたということでしょうね。これは困ったものです。 結局、今本当に必要なのは、まず基本的に価値観の転換。効率性、成長追求社会から安 定、共生社会へ価値観を変えていく。その枠組みをどうやってつくっていくかです。あと 20 年もしたら、日本人の人口は1億人を切るという話になっている。そういう社会に向け てどういう新しい社会像を設計していくか。そういう 10 年、20 年を見通したプランが必 要なんです。厳密なものじゃなくて、ラフな見通しでいい。ラフな見通しを政府が出さな いとだめですね。その場合に地方と東京の関係をどうするのか。地方は一体どうするのか。 私は地方の中核都市は非常に重要な役割を果たすと思います。人口 20 万人ぐらいの町 というのは非常に重要です。人口 20 万人ぐらいの町は、本当は一番住みやすい町です。 その町に高齢者が住んで、もちろん若い者もいて、高齢者が最後まで仕事ができて、病気 になったら医療機関にかかれる。病気になる前にかかりつけの医者なりカウンセラーの人 たちと健康のチェックをし、電車に乗って 30 分も1時間もかかるんじゃなくて、できる だけ自宅の近くもしくは自宅で仕事ができて、地域に溶け込んで地域を盛り上げることが 23 でき、最後は病院に搬送されて、介護施設か何かに入って死んでいくというのが一つのシ ステムなんですよ。これは人生の問題でしょう。人の生き方の問題なんです。その人生を ちゃんと全うできるようなシステムをどうやってつくるかが大事だと思いますね。これが 都市であり、地域である。 だから、都市とか地域というのは、金をひっぱってきて落とせばいいという話じゃない。 そのシステムをどうやって設計するか。ある程度満足を得て生きていけるようなシステム をどうやって設計するか。繰り返し言いますけれども、効率性の問題じゃない。こうした 公共的なシステムの整備するのはやっぱり官です。ただ、官はそこで余りお金を使えませ んから、官は大きなビジョンを出して民間の手法をそちらに誘導する。そういう意味では 官と民の協調でしょう。寛のインディケーション・ポリシーのもとで、官と民が一体とな って地域をどうするか、都市をどうするか。どういうシステムをつくるか。交通システム も、医療システムも、そこで子供を育てる教育システムをどうするか。そういうことこそ がこれからは重要になってくるはずなのです。 二つ目は、これも難しいんですけれども、防災でしょうね。これから日本は大変なこと になることがわかっているわけですから、東日本大震災の教訓は、日本をどうやって強固 な防災国家にしていくかということだったんです。金はかかるけれど、しようがない。復 興会議とかありましたけれども、当然ですが東北を復興するという話しかしていない。日 本全体の防災という議論はほとんどでてこないのです。結局は東北に金をつぎ込んで建設 ラッシュにするということに終始してしまった。それはやっぱりまずい話で、いずれにせ よ、災害は東北だけの話ではなくて、どれぐらい先の話かわかりませんがそんなに遠くな い話で、日本中がどうなるかわからない状態です。東南海、それから首都圏も含めて。富 士山噴火だってあり得るという話です。 いつ来るかわからないものに対して総合的計画を立てるのは確かにたいへんに難しいで すが、少なくともいざ起きたらどういう避難システムをつくるか、代替システムをつくる か、ライフラインや経済の基盤をどうするか、といった救済システムを想定しておく、こ れぐらいのことは早急に準備態勢に入らないとまずいですね。政府もやっていないわけで はないみたいですけれども、その姿が我々には全然見えないんです。 本当は国土強靭化という話と、地方創生は結びついた話で、その大きな枠組みとして、 10 年、20 年にわたる大きな国家のビジョンが提示されないと困るんです。そのためにど ういうことが必要で、どういう産業を育てればいいか。これは成長産業の話になっていっ 24 てもいい。そのなかで地方創生も何が必要かという話になってくる。そのためには今ここ で今年度はどういうことが必要か、来年度はどういうことが必要か。それは財政の話にな ってくるわけです。そのためにどれだけのお金が必要かというので、第1の矢で金融の話 になってくる。これが本来の順序だと私は思うんです。 だから、このままでは、アベノミクスは今のところアベコベノミクスになっていて、いさ さか困惑してしまうのですが、今からでも遅くはないので、そういうことを世論として盛 り上げていくことができれば、少しはまた変わってくるんじゃないかという気もするんで す。 余り具体的な話じゃなくて、茫漠とした話で恐縮ですけれども、何か物を考える参考に していただければ幸いです。 どうも長時間にわたりましてありがとうございました。 (拍手) 25
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