スピノザと反宗教思想 −『三人の山師論』を中心に− 佐藤 1 拓司 スピノザと反宗教的地下文書の関係 今日のわれわれはスピノザに清廉潔白な生活を送り、神についての真の哲学を追求 した人というイメージをもつ。また最近では、ロックやルソーとは違う、民衆の力に 基盤をおいた民主主義思想を追求した政治哲学者としての一面も強調されている。前 者のイメージは近代ドイツにおけるロマン主義思想によって見いだされたときのス ピノザ像に基づいてる。後者は、構造主義などのフランス現代思想によって新たに見 つけ出されたスピノザ像の影響によるだろう。実際、スピノザはレッシングらによっ て見出されるまで哲学史では埋もれた存在であったといわれる。 だが、じつはドイツのロマン主義思想によって担ぎ出される以前にも、スピノザの 名が人々の話題になり、その思想が一種のブームを作り上げた時代があった。それは 17 世紀末から 18 世紀の前半にかけてのフランスにおける自由思想の開花と流布・伝 播の時代、リベルタンと呼ばれる反宗教的・思想家たちが雨後の筍のごとく現れた時 代である。 この時代は過渡期であった。信仰のみでなく、さまざまな精神的価値が動揺し、い わば「古いフランス」と「新しいフランス」とが対立しながら共存する、転換期であ った。ベールやディドロ、ドルバックといったいわゆる哲学者たちが活躍し、最後に サドにまでいたる自由奔放な時代。たしかに、ここにあげた有名な哲学者たちはキリ スト教は否定しても、(サドは除いて)基本的には穏健な理神論者であった。だがこ の時代には、この表の文化のかげに広大な地下の世界があった。この地下で、この時 代のもっとも危険な思想的書物が匿名の作者によってひそかに書かれ、そしてまた匿 名の写字生によって書き写され、フランス各地さらにはヨーロッパ全土へと送られて いったのである(1)。秘密出版や外国での出版すら適わなかったこの地下写本こそが、 この時代の思想界を真にリードしていたといえる。 この当時のアングラ文化において、スピノザは初めてその名を世に轟かせたした。 17 地下の世界でスピノザの著作の翻訳や要約がなされ、それがこの時代の反宗教的思想 の理論的典拠としてもてはやされるようになったのである。163ある現存の地下写 本のうち、スピノザの名を冠したものは七つもある(2)。哲学者の名前を冠したもの としては、地下写本のなかでは最多であろう。そして何よりこの数多い地下写本の中 でも最高のベストセラーが、「スピノザの精髄」(L'Esprit de Spinoza)という別名 をもつ『三人の山師論』(Traité des Trois Imposteurs)である。スピノザは、この 作品により、当時の思想界に多大な影響を与え、自由思想の理論的権威として扱われ ることになった。 「三人の山師」とは、モーセ、イエス・キリスト、マホメットという三大宗教の創 始者のことである。彼らを山師とみなす「三人の山師」テーゼはすでに中世からあっ たが、この書物はそれをスピノザを用いて理論化を試みたものといえる(3)。作者は 彼らから神秘のヴェールを剥ぎ取り、宗教の正統性・正当性を完膚なきまでに叩き壊 すことを目的とする。この三大宗教の創始者たちは、偉大な超常的能力をもっていた わけでなく、神秘的で超自然的目的のために奉仕したわけではない。自らが民衆を支 配し民族を統治するという私的で政治的な目的のために、宗教という支配装置を創出 した。だから彼らはけっして偉大なる神の子でも偉大なる預言者でもない。「偉大な る山師」なのだ。作者はそう主張する。スピノザの著作から無手勝流に引用しながら、 作者は反宗教的なテーゼを畳み掛けるように連続して打ち出していく。この書物はま さに当時の反宗教的思想のバイブル的な役割を果たした。多くの読者たちがこれによ り当時の奔放なリベルタン的風潮のなかに参加し、同時にそれをスピノザという名と ともに記憶していったのである。 では、スピノザ自身はこの地下文書『三人の山師論』にいかにかかわっていたのだ ろうか。また、この文書はどれだけスピノザの思想を反映しているのだろうか。 2 『三人の山師論』あるいは『スピノザの精髄』の概要 最初に、この有名な地下文書について、その内容を簡単に知っておかなければなら ないだろう。章立ては、だいたい六章で構成されている。第1章は「神について」、 第2章は「人間が、一般に神と呼ばれる不可視の存在と、契約をした理由について」 とある。第1章はきわめて短いので、実質的にこの第1章と第2章は内容的に連続し ているとみてよい。第3章が「『宗教』という語が意味すること−いかにして、そし 18 てなぜ宗教はかくも莫大なものを世界にもちこんだのか」である。この章はもっとも 長大であり、モーセ、イエス・キリスト、マホメットの三人にそれぞれかなりの分量 をさいて、その生涯について詳しく叙述している。第4章は「感覚の真理と自明な真 理」と題され、人は理性の光によって啓蒙されるときに、初めて思考に適した状態に なるということが示されている。第5章は「霊魂について」、そして第6章は「悪魔 と呼ばれる霊について」と題されている。第5章では霊魂が創造において人間に特権 的位置を与えるような非物質的原理などではなく、自然全体に生命を与える微細な炎 の分け前なのだということが語られる。霊などというのは想像力のうちにしか存在し ない幻想にすぎない。そこで第6章ではデーモンやサタンなどという名前も特定の個 体に与えられたものでないことが、エジプト、ギリシャ、ヘブライなどの神話を踏ま えて,論じられている。第5章、第6章はともに比較的短いものであり、内容的にも 付録的意味合いが強い。ここではスピノザからの借用がもっとも多く、内容的にも中 核となっている第1章と第2章そして第3章を中心にその概略を紹介したい。(4) 「すべての人間にとって真理を認識することは何よりも重要である。しかし、この 喜びを享受するものはきわめて稀だ。ある者は自分の力で真理を探求することができ ず、またある者はその苦痛を引き受けることを望まない」(TI.chap.1,§.1,/p.3)。 この世には無知がはびこり、そしてこの無知が神や霊魂などの宗教に関する「誤った 観念の唯一の源」となる。山師はこの人々の無知と誤りから利益を得ている。だが「神 が怒ったり嫉妬したりしないということを察するには、少し良識があればよい。また、 われわれが神に帰属させる正義や慈悲が誤った称号であること、そして預言者や使徒 らが神について述べたことは、われわれに神の本性や本質について何も理解させてく れないことも、少し良識があればわかる」(TI.chap.1,§.4,/p.6) 。 とはいえ、無知な民衆は現に神を信じ、宗教にすがっている。どうしてこんなこと になったのか。「自然的原因について無知な人々は、自然的な恐れを抱いている。そ れは、自分たちに害を加えたり保護してくれたりする、そんな力をもった存在や力が どこかにあるのではないか、という不安や疑惑から生じるものである」(TI.chap.2, §.1,/p.12‑3)。こうした自然的な恐れが人々の想像力に訴えかけて、目に見えない 原因を作りだす。詐欺師たちは、人々のこの想像力そしてまた妄想を利用する。人々 の心に恐怖心を植え付け、それに具体的なイメージと物語を与えてやるのだ。そうす れば、人々は勝手にそれを増幅させ、詐欺師たちの策略に自ら望んで従うことになろ 19 う。「それがついには神々となり、そしてこの目に見えない力に対する妄想的な恐れ が、人々が作り出した宗教の源泉なのである」(ibid./p.13)。山師たちはこうして 人々を支配化においた。 こうした神のイメージや宗教の物語はどのようにして作成され、どうしてこれほど の説得力をもつことになったのか。これはいわば神人同形説による。神の本性を理解 できない人間は、神を人間的に解釈し、神も人間と同じ情念をもち、人間と同じよう に考えるはずだと錯覚してしまう。神の働きやその創造物も、人間のそれと同じよう に、何らかの目的のためにあるはずだと考えてしまう。 だが、たとえ人々がどう信じようと真実は別である。「自然がいかなる目的も設け ていないこと、そして目的因が人間が考え出した虚構に過ぎないということ」こそが 真実である(TI.chap.2,§.6,/p.17) 。「もし神が何らかの目的のために働くとしたら、 それが自分自身であれ何か他のものであれ、神には何か欠けたものがあることになる。 そして神が欲求している対象を有していないこと、神がそれを有したいと願望してい るということを認めなければならない」 (ibid.) 。だが、そんなはずはない。 たとえば「人は自らの利益になるもの、神の礼拝にかかわるものを善とし、その反 対のもの、どちらにも適しないものを悪と解する。…結局人は事物を善いか悪いかど ちらかに秩序立てられていると信じており、それは感覚が事物を表象するときに想像 しやすいかしにくいかということなのである」 (TI.chap.2,§.7,/p.20) 。人間は事物 の本性を知らずに、自分たちが考えた神の秩序(あるいは神の物語)を事物に押し付 けてしまった。これは自分たちの想像力の産物(effet de l'imagination des hommes) を、事物あるいは神のうちにあるものと考えている証しである(ibid.)。いいかえれ ば知性と想像力を混同した結果でもある。知性を働かせて自然を見るならば、そこに は善も悪も、秩序も無秩序もない。すべては神の本性たる必然性に従って、生起した り消滅したりする。つまるところ「神、即ち自然」(Dieu, c'est‑à dire la Nature) なのである(TI.chap.2,§.11,/p.27)。(5) 民衆が自然を説明するのに用いるところの概念は、すべてこの想像力の産物である。 宗教とは、いうならばこの想像力の病であり、情念の病である。「恐れが神をつくり、 そして宗教をもつくった」 (TI.chap.3,§.2,/p.31) 。神や宗教は、この原初的な恐れ の感情が無知によって永続させられたことから生じた病気なのである。「かくして、 いつも希望と恐怖の間をふらついている人々は、神は人間を永遠に幸福にしたり不幸 20 にしたりするためだけに働くのだという考えをもつことによって、自らの義務のうち に縛られてしまう。これこそが宗教の無限性を正当化するのである」(TI.chap.2, §.11,/p.28)。「立法者」つまりは山師たちは、ただこの虚構について考察を加える だけでよく、また「未来の恐怖」を持続させるだけでよいのである。そのために彼ら は見えない力の仮想の帝国を説明し、降神術や占い、預言、精霊や悪魔に対する崇拝、 天国と地獄についての信仰を語るのである(TI.chap.3,§.2‑8,/p.31‑8)。モーセ、 イエス・キリスト、そしてマホメットの三人は、これら多くの「狡猾な立法者」のう ちで最大の存在だというわけである(TI.chap.3,§.9,/p.39)。 以上が『三人の山師論』の概要である。一読しだけで、スピノザの議論をかなりの 分量で借用していることがわかる。とくに、第2章は『エチカ』からかなりの文章を そのまま借用している。しかし、主張や結論はスピノザと同じではない。 3 スピノザと『三人の山師論』の接点 スピノザはこの『三人の山師論』にどうかかわっているのだろう。スピノザの著作 の中で反宗教思想との関連で重要なのは『神学・政治論』であるが、これが刊行され たのは 1670 年である(1674 年に禁書) 。多くの知識人による反論が出ている(6)。仏 訳も 1678 年に現れており、かなりの話題になったものと推測される。ところが、『三 人の山師論』では『エチカ』からの直接の引用が数多くある。『エチカ』をここまで 利用したものは当時のものとしては珍しい(7)。たんに話題のためにスピノザの名を 利用したかっただけなら、『神学・政治論』の仏訳や当時流通したスピノザ批判書な どを適当に利用すればすむ。仏訳もまだなく、その全貌が詳しく知られていない『エ チカ』からの直接の引用が大量にあることは、『三人の山師論』の作者がスピノザ本 人と直接・間接に接触があったこと、あるいはその作成にスピノザがなんらかの形で かかわっていたと信じさせる材料になる。 この問題について詳しく調査したリチャード・ポプキンは、現時点で言明できるこ ととして、以下の三つの結論を導き出した(8)。 (1)スピノザは三人の山師に関するこの理論の中心的主張をすでに知っていた。 (2)神学・政治論』は部分的に、この問題に対する温和な解決を与えることを試み ている。 (3)宗教がどのようにして発生するのか、そしてそれがなぜ保持され受容されてい 21 るのか、この問題についての自らの理論を発展させていくうちに、スピノザは自らの 言葉でもって、『三人の山師論』の基本的理論として引き継がれたものを提示した。 ポプキンはここまでなら資料的にも推測できるはずだという。たぶん、これは正し い。この作品『三人の山師論』の執筆自体にスピノザが関与していることは証明でき ないし、おそらくありえないだろう。だが、スピノザ自身がこの三人の山師に関する 理論を直接・間接に入手し、それに対して自らの答えを与えようとしたこと。そして それが『神学・政治論』という著作として刊行されたものの、それに対する反応から、 スピノザは、自分の哲学体系が正確に理解されず、無神論的風潮を助長しかねないと、 推測したこと。そしてその予想通りに、スピノザ自身が直接・間接に接触したであろ うフランスの自由思想家の集まりのどこかから、この地下文書『三人の山師論』が計 画されたこと。ここまでは、まず間違いないと思われる。 第一に、スピノザが三人の山師に関するテーゼを知っていたことの証拠は、スピノ ザの長年の知人であるオルデンブルグ(Henry Oldenburg)との交渉に見出すことが できる。彼はイギリス王立協会の秘書官を務めた人物である。このオルデンブルグが (9) 1656 年の4月に、当時イギリスにいた友人のアダム・ボレール(Adam Boreel) に 宛て、当時の宗教批判の悪い風潮について嘆く手紙を送っている(10)。この内容とい うのが、のちに『三人の山師論』の第3章で展開されるものと基本的に同じなのであ る。これによれば、天地創造の物語などはただ安息日を導入したりするために、つま りは政治的な配慮という動機から作られたものにすぎない。モーセが自らの民を元気 づかせ導いていったのも、ただ自分に従わせたかったからであり、未来の富を約束し たのはただ戦争で勇敢に戦わせるためでしかない。キリストやマホメットにしたとこ ろで同様で、所詮彼らは政治的目的のために宗教という詐欺道具を作り出した山師だ というのである。オルデンブルグはこれらを「宗教が恥をかかされれた」悲しいニュ ースとして報告した。これを受けてボレールは、このような反宗教的思想に反対する 仕事を完成させようとした(11)。彼は「宗教の源泉は真に神に基づくものであり、神 はほかならぬ彼(キリスト)をこそ人類全体の立法者であると任命した」と論じて、 三人の山師テーゼを反駁したのである(12)。 ところで、このボレールはスピノザが接触していたキリスト教一派コレギアント派 のリーダーだった人物である。スピノザが破門されたとき、ボレールはオランダにい た。むろん、彼はスピノザをこのグループで受け入れることに関しても知っていたで 22 あろう(13)。このように若き日のスピノザを囲む人々のなかに、三人の山師テーゼを 深く知りその反駁にかかわっていたものがいたわけである。スピノザはコレギアント 派を通して聖書の研究をすすめていたので、このテーゼとその批判についても学んで いたと確実に推測できる。 それでは、『三人の山師論』の著者やそのグループはいかにしてスピノザやその思 想と接することができたのか。文書としては 1678 年に現れた『神学・政治論』の仏 訳が大きな役割を果たした。この仏訳者は、一説にはサン・グラン(M.Saint‑Glain) だといわれるが、彼はスピノザの友人であり『スピノザ氏の生涯と精神』(この書物 はしばしば『三人の山師論』と一緒に出版された)を著したリュカス(Jean‑Maximilien Lucas)と同じくフランス・カルヴィニストの亡命者である(14)。スピノザが 1670 年に サン・テヴルモン(Saint‑Evremond)に会ったとき、また 1672 年にフランス軍の司 令官ストゥープ中佐(15)と会ったときにも、スピノザはコンデ公のまわりの多くの自 由思想家たちと接触をもった(16)。サン・グランも、まず間違いなくそのなかの一人 であったろう。そのときに、スピノザは『神学・政治論』の翻訳計画についても知っ たのではないか(17)。これはあくまで推測でしかない。しかし、ポプキンの言うよう に、サン・グランはその訳業でもってスピノザの最も反宗教的な思想の影響と衝撃を 拡大するのに寄与したのであり、おそらく『三人の山師論』の著者あるいはその協力 者としてもかかわったであろうと思われるのである。(18) かくして、スピノザはわれわれの想像以上に「三人の山師」理論の反宗教思想に関 わり合いをもっていた。スピノザ自身がその思想に賛同したわけでないし、ましてや 生み出したわけではない。むしろ、スピノザはそれらに反対していたはずである。だ が、そのスピノザの意図は理解されず、誤解をうけたまま『三人の山師論』の普及に より反宗教思想の代表格としての悪名ばかりが鳴り響くこととなった。 4 宿命論と奇跡−オルデンブルグとスピノザの対立点 では、スピノザ自身の考えは本来どういうものだったのか。それはどの点で反宗教 的に誤解されたのか。スピノザの立場とオルデンブルグ/ボレールらとの根本的な対 立点は、後のスピノザとオルデンブルグとの往復書簡にはっきりと現れている。それ は(1)神と自然とを混同しているようにみえること、(2)奇跡の価値を否定して いるようにみえること、この二つである。 23 (1)の神と自然との混同。これはスピノザ哲学に長期間つきまとってきた誤解の 温床であった。スピノザがいう自然は、現実に存在しているこの全宇宙そのもの(所 産的自然 natura naturata)であるだけでなく、それを生み出す力の源(能産的自然 natura naturans)でもある。したがって、スピノザの自然は一定の質料あるいは一 定の物質的実体ではない。ところが、この点が当時の知識人に正しく理解されず、ス ピノザの「神即自然」は神を卑俗な物質と同一視する涜神的教説と解された。すべて の事物は単一実体たる神の様態なのだが、この様態が部分と同一視されてしまう。ゆ えに、それぞれの個体は自らの意志や自由をもたず、ただ運命に翻弄されるだけの存 在となる。このとき、スピノザの哲学は決定論というより、運命論・宿命論の様相を 呈してくる。宿命論は人間社会から褒賞や懲罰の意味を奪い、すべての法や道徳を廃 棄する。(19) スピノザ自身はこうした宿命論的解釈を許していない。いうまでもなく神即自然は 神を物質と同一視するものではなく、また様態は部分とは違う。たしかに、すべては 神の必然的本性から生じる。結石症に苦しむ子供も、悪人・背信者と呼ばれる弱い本 性の者どもも、同じように神の本性から生じたことに違いはない。だが、このような 必然的生起に関して神の責任を問うことはできない。自分たちに与えられた本性がた とえどんなに苛酷なものであったとしても、われわれはそれを自分たち自身のものと して受け止め、そこから生じるすべてのことに責任を負うべきなのである。自然の必 然性はあらゆる物事を善悪無記とするが、同時に人間が現世で観ずるあらゆる不公 正・不条理について神を免責する。われわれは与えられた本性および環境を運命ある いは宿命として甘受せねばならない。人間はその運命とも言うべき状況のなかで自ら の本性あるいは活動力を発揮させるだけなのである。罪も罰もすべては現世における 本性あるいは活動力の衝突のなかで生じる。 だから、神が人間に罰するとは比喩的にしか言い得ない。厳密には、神は審判者な どではない。人は自らの本性あるいは完全性ゆえに幸福を感じ、同様に自らの弱い本 性あるいは小なる完全性ゆえに現世で苦しむこととなろう。それが罰だといえる。そ れゆえ、「事物のこの不可避的必然性は、神の法をも人間の法をも廃棄するものでは ない」といえる(Ep.75/GⅣ312) 。 こうしたスピノザの返答は、スピノザの体系内で考えるかぎり、それなりの説得力 をもつ。だが、その体系の外で生きるものにはどうか。少なくとも、オルデンブルグ 24 は納得しなかった。「人間がけっして避けることのできなかった罪のゆえに、神から 永遠の罰に、あるいは少なくとも一時の厳しい罰に処せられるというのは、あまりに 残酷です」とオルデンブルグはいう(Ep.79/GⅣ330)。オルデンブルグらにとって、 スピノザの体系は唯物論的に規定された宿命論でしかない。「単一実体」とその諸部 分という理解では、スピノザをそう解するのは無理もない。人間を神即ち自然の一様 態つまり現実的に表現されたものとするのでなく、ただの一部分であると考えるなら、 自然必然の法則は外部から押し付けられた宿命にほかならなくなる。人はこの宿命に 対し抗うすべもない。善も悪も関係なく、ただ唯々諾々と自然が命ずるものをこなす だけとなる。だからオルデンブルグの理解したところでは、スピノザの神は宿命と言 う名の冷酷無慈悲な存在でしかない。これはベールもそうだったし、『三人の山師論』 も同じであった(20)。 (2)の奇跡と無知の同一視。これもまた同じような無理解と反発を生んだといえ る。スピノザの奇跡に関する所説は基本的に単純かつ明快である。奇跡というのは「自 然 的 原 因 があ ろ う と なか ろ う と 、原 因 に よ って は 説 明 でき な い 出 来事 で あ る」 (TTP.cap.6,/GⅢ85) 。しかし、スピノザによれば、「自然の中には自然の普遍的法 則に矛盾する何事も起こらない」 (TTP.cap.6,/GⅢ83) 。もしそのようなものが存在 するとしたら、それは神がその普遍的な諸法則によって自然のうちに永遠に確立した 秩序に矛盾することになり、かえって無神論へと導くであろう。したがって、反自然 的あるいは超自然的奇跡が存在すると考えるのは、不条理以外の何物でもない (TTP.cap.6,/GⅢ87)。われわれが奇跡と呼んでいるのは、われわれがその原因を 無知ゆえに知らないからである。 以上のスピノザの考えは、脱宗教化した現代のわれわれからすれば、あたりまえの 議論でしかない。だが、これは当時の常識からすれば、きわめて反宗教的で冒涜的な 暴論と考えられる。現にオルデンブルグはこの問題でスピノザを執拗に追及した。ラ ザロが死者のなかから復活し、またイエスも復活する。聖書のなかにはこうしたさま ざまな奇跡が事実としていくつも挙げられている。それを否定するかのような議論は 許されない。「儚いわれわれ人間には、その理由や説明の仕方を示すことも説明する こともできないような事柄が数多く存在する」とオルデンブルグは責め立てる(Ep.74 /GⅣ310)。これは「聖書に奇跡があると書いてあるではないか」というごとき感情 的な反論でしかない。だがそれだけにスピノザが懇切に説明しても対処しきれないも 25 のであった。 宿命論とそれが導出する奇跡の否定。これら二点がスピノザを涜神的・反宗教的に 誤解させるうえで大きな力となったことは、疑うべくもないだろう。とくに、宿命論 は反宗教的だけでなく反道徳的という非難をも呼び寄せることになる。宿命論は道徳 のよって立つ土台を瓦解させ、善も悪もない無道徳主義を招き寄せる土壌となる。近 代フランスのリベルタンたちはスピノザという武器で守旧派たる当時の教会勢力に 対し攻勢をかけえたものの、今度は自らのよって立つ土台までも侵食されていること に気づくだろう。宿命論と無道徳主義はリベルタンの自由思想および合理主義を空疎 化させる。『三人の山師論』をはじめ、当時のリベルタンたちにスピノザの思想を受 け入れるだけの度量はなかった。こうなるとスピノザという名はリベルタンにとって 武器というより、扱いがたい毒となる。事実、『三人の山師論』はスピノザを用いる ことで大いなる破壊力をもちえたが、自ら訴えるものをほとんど示し得ていない。そ れは作者の資質というより、いうならばスピノザを食したことによる消化不良が原因 であったろう。この時代、スピノザは思想的養分をほとんど誰にも与えることができ なかった。オルデンブルグがスピノザに示した無理解が、『三人の山師論』を経て当 時の思想界全体に蔓延させられたのである。 とにかくオルデンブルグとスピノザの対立点は、その後のスピノザ思想の受容のさ れ方をまさに暗示したものとなっている。オルデンブルグ/ボレールは「三人の山師」 テーゼを批判し、正統的な宗教観を復活させようとした。彼らのなかで学んだだろう スピノザは、より学問的な宗教学を打ち立てようとした。だが、それは外部からみた とき「三人の山師」テーゼのごとき反宗教思想への回帰と誤解されるものだったので ある。 5 スピノザの宗教思想と反宗教思想−『三人の山師論』との融合 いうまでもなく、「三人の山師」理論はまずモーセとイエスそしてマホメットを貶 めることを主題としている。それに対して、スピノザはモーセもキリストもけっして 悪漢としては扱っていない。マホメットに関しては少々悪印象が見受けられるが、こ れは当時のヨーロッパ人の限界であったろう。そのスピノザがどのようにして『三人 の山師論』に利用されたのだろうか。 モーセの権力を正当化するものは何か、イエスに民衆を教導する資格・権利がある 26 のか。これがオルデンブルグの書簡で示された疑問点の要諦であり、同時に「三人の 山師」テーゼを根底で支えるものであった。これに対して、ボレールは聖書とモーセ のもつ役割の神的意義を強調し、イエスが神によって遣わされた人類全体の立法者で あると主張する(21)。だが、スピノザにとってモーセのもつ権力の内実は、ヘブライ 民族がその自然権を彼にすべて譲渡したがために生じた権力の一点集中でしかない。 彼の絶対的権威は彼自らの政治的能力と民衆の自然権を基礎として生じたものなの である。 『三人の山師論』と同様(22)、スピノザもモーセの政治性を強調した。だが、彼は けっして悪意をもってモーセを描いてはいない。「モーセの律法は…政治的見地にお いてのみ立てられたものであり、ヘブライ人たちを教唆するよりも、むしろ威圧する ために用いられた」(TTP.cap.5,/GⅢ71)。エジプトから逃れ出たヘブライの民は、 砂漠の恐るべき自然状態のなかで無政府的にバラバラの状態であった。だからモーセ はまず政治的立法者でなければならなかった。「社会というものは、敵から安全に生 活するためだけでなく、多くの事柄に関して手間をはぶくためにも有利であり、おお いに必要なものである」(TTP.cap.5,/GⅢ73)。本来ならば、「全社会はできるかぎ り共同で支配権を握り、…すべての人が自分自身に奉仕するようにされなければなら ない」 (TTP.cap.5,/GⅢ74) 。だが、このときのヘブライの民は長い間の隷属状態で 疲弊していたし、粗野な精神しかもちあわせていなかった。かくして、支配権はモー セただ一人によって保持されねばならなかったのである。この支配権の確立のために、 彼は宗教を導入した。ヘブライの民は自分自身を統治できる状態にはなかった。だか ら何をするにしても律法を考え、その命令を実行するようにしむけたわけである。畑 を耕し、種を蒔く。また、食事をしたり頭髪や髭を剃ったりすることにも、祭式の一 部として律法に規定されている。このような宗教的祭式を作り出すことで、モーセは 民衆の無秩序な行動を制御したのである。 これがスピノザなりのモーセ弁護である。しかし、このときスピノザは「宗教」に 神的で聖なるものをまったく感じとっていない。ここで彼が述べているのは宗教の祭 式としての姿である。ところが、彼の言によれば、その目的は「人々をして何事をも 自分の決定によらずすべてを他人の命令に従って行うようにさせ、さらに人々が行動 したり思索をしたりする際に、自分が自己自身の権利の下にあるのでなく他者の権利 の下にあることを意識させることにある」(TTP.cap.5,/GⅢ76) 。これは宗教の神的 27 意義およびモーセの役割のもつ神的権威を、真っ向から否定するようにみえる。むし ろ、こうした宗教観をそのまま乱暴に敷延するならば、宗教を山師が民衆の無知につ け込んで作り上げた所業だと考える『三人の山師論』に結びつくことになろう (TI.chap.3,§.8,/p.37)。ここで述べられているスピノザの宗教論は、第2節で紹 介した『三人の山師論』の議論にそのまま利用されているのである。 イエスおよびキリスト教についても同様である(23)。スピノザによれば、イエスは 国家の利益や民衆の政治的統治にはまったく関わっていない。「たとえばモーセは、 殺すなかれあるいは盗むなかれということを、教師あるいは預言者としてユダヤ人た ちに教えたのではなく、立法者あるいは君主として命じた」(TTP.cap.5,/GⅢ70)。 ところが、イエスはこれを「普遍的な道徳法」として説く。彼はただ道徳法だけを説 いたのであり、それを国家から区別することを何よりも意識していた(TTP.cap.5,/ GⅢ70‑1)。これらの記述をみると、スピノザはイエスにはかなりの気を遣っている のがわかる。だが、それでもイエスの教えを神的で聖なるものだとは記してはいない。 悪意をもって読めば、スピノザはイエスを単なる道徳教師に貶めているのである。そ うなれば、キリスト教もその絶対的で排他的な権威を失う。彼らの祭式も「教会一般 の外的記号として制定された」にすぎず、「自らに何らかの聖なるものを秘めた事柄 として制定されたのではない」(TTP.cap.5,/GⅢ76) 。ここにはボレールのいう「人 類の普遍的立法者」は存在し得ない。スピノザはキリスト教の神秘性・普遍性を否定 してしまった。後に残るのは、『三人の山師論』にあるように、「キリスト教も所詮は 他の宗教と同じく、大ざっぱにいって、山師の構成物にすぎない」(TI.chap.3, §.21,/p.73)という結論だけである。 それでは、スピノザは自身の思想の結論として、宗教が否定されることを容認して いるのだろうか。そうではない。スピノザによれば「預言者は神の啓示を表象力の助 けを借りることでのみ把捉した」 (TTP.cap.1,/GⅢ28) 。したがって、この啓示に基 づく宗教は、表象力を基盤として構成されており、そして人々の表象力に訴えること で服従させる。この表象力に基づき、理性的根拠を持たない点が上記のような批判を 生んだ。しかし、スピノザは知識論の枠組みで表象力(imaginatio)の役割を十分に 認識していた。同様に彼は道徳論および政治論の枠組みにおいても表象力の役割を高 く評価する。啓示宗教は、表象力に訴えることで、人格的な神への服従を命じる。そ して同時に正義と隣人愛の実践へも導くであろう。無政府状態の混乱を抑えるのに国 28 家がきわめて有益であるように、民心の安定と道徳的向上をもたらすうえで宗教は大 いなる力となる。スピノザが「私は聖書すなわち啓示の有益さと必然性に関して高く 評価する」(TTP.cap.15,/GⅢ188)と述べたのは、決して偽りではない。 スピノザは決して理性の立場から表象力および宗教を非難したのではない。しかし、 『三人の山師論』はスピノザを、合理主義・宿命論の権化、リベルタン思想の先駆的 存在としてしまった。こうした視点でみれば、スピノザの著作は反宗教的言説の宝庫 となる。 6 おわりに かくして、神の宿命性の問題にせよ奇跡の問題にせよ、また祭式の意義にせよ、宗 教の根幹にかかわる問題において、スピノザはきわめて誤解されやすい性質をもって いた。スピノザ自身は宗教およびそれに関する問題についてきわめて批判的な考察を 行っていたものの、反宗教的であったわけではない。だが、この時代のなかではどう しても反宗教的に受容されざるを得なかった。スピノザを最初にフランスに紹介した であろうストゥープは、『神学・政治論』の狙いを「すべての宗教、とりわけユダヤ 教とキリスト教をぶっつぶして、無神論と自由思想とあらゆる宗教の自由を導入する ことにある」と述べていた(24)。17 世紀末から 18 世紀初頭にかけてスピノザ思想の翻 訳と紹介を多数遺したブーランヴィリエ伯爵も、「スピノザの思想は不敬虔というよ りもむしろばかげたものである」と記している(25)。ブーランヴィリエ哲学全集の監 修者であるルネ・シモンによれば、ブーランヴィリエ伯爵ですらスピノチスムについ てまったく無知だったのである(26)。こうしたなかで現れた『三人の山師論』が、ス ピノザ思想の反宗教的側面を強調したものになったのは、当然すぎる結果だった。 本論ではスピノザの宗教思想の積極的側面、人間世界において宗教のもつ大きな役 割についてあまり触れていない。それは、この時代のスピノザ受容の歴史においてま ったく理解されず、無視された側面だからである。スピノザは宗教を政治的側面にお いて理解しようとした。『三人の山師論』は宗教を詐欺師の政治的支配装置と考える。 両者の間には大きな深淵があるはずだが、その深淵は暗闇に隠されて発見されなかっ た。なによりも、『三人の山師論』がスピノザの議論を直接利用して反宗教的思想を 描いたゆえに、両者の差異はますますわからなくなったといえる。正確なスピノザ理 解が存在しないなかで、『三人の山師論』はスピノチスムの代弁者としての役割を果 29 たしてしまったのである。 注 『三人の山師論』からの引用は以下のテキストにより、本文中に示すこととした。略 号は TI とした。Traité de trois imposteurs, Manuscript clandestin de début de Ⅹ Ⅷ e siècle ( éd.1777 ) , présenté par P.Retat, Universités de la Région Rhône‑Alpes, 1973.この『三人の山師論』には、すでに Francoise Charles‑Daubert に よって新しく校訂されたテキストが 1999 年に刊行されているが、論文提出の締め切り までに筆者の手元に届かず、今回はこのままにせざるを得なかった。ご容赦願いたい。 この P.Retat のテキストが 1777 年版をそのまま復刻したものであるがゆえに、でき るだけ利用したいと考えたこともある。しかし、すでにこのテキストは入手困難なも のとなっており、今後は新しいテキストを使用せねばならない。 現在のところ確認されている地下写本の種類は 163、部数は 840 を超える。これらの地下 写本がこの当時の文化の隠された基層を作り上げていた。有名なものは、そのあと 18 世紀後半 の啓蒙の最盛期にひそかに印刷され、ひろく読まれるようになる。詳しくは、赤木昭三『フラ ンス近代の反宗教思想』(岩波書店、1993 年)第2部を参照。本論文は、赤木の研究なしには 書かれ得なかった。 (2) 名前を挙げると、『スピノザの神学政治論の分析』(リスト番号3)、『神と自然についてレ ジスに対してスピノザを弁護する』(番号4)、『ブノア・ド・スピノザの諸原理による形而上学 試論』(番号 49)、『ベネディクト派の一修道増によるスピノザの体系に対する新たな反論の検 討』(番号 56)、『カンブレ氏によるスピノザの体系に対する反論の要約の検討』(番号 57)、 『スピノザの意見の解説』(番号 66)、そして件の『三人の山師論(スピノザの精髄)』(番号 144) である。なお、ここでのリスト番号は、赤木昭三の前掲書(117-127 頁)に従っている。 (3) これが作品として現れたのは、ラテン語の著作『三人の山師について』(De tribus impostoribus)。このラテン語版は、今日の研究では 1650 年頃の作品といわれている。これは 後に刊行されたフランス語版の『三人の山師論』とはまったく別物である。本稿の主題である フランス語版は、17 世紀末から 18 世紀始めに執筆された。1719 年にひそかに刊行されたが、 むしろ写本として広く頒布され、ヨーロッパ全土はおろかアメリカやカナダにも見出される。 写本ごとに章立てなどいくつか異動が見られるが、1768 年以降に何度か秘密出版されたものは どれも六章で成り立っている。私が利用した Pierre Rétat による 1777 年版の復刻でもそうな っている。詳しくは、『三人の山師論』のテキストに付された P.Rétat による序文を参照 (TI./p.7-20.)。 (4) この節での内容の概略はおもに赤木昭三の前掲書にまとめられているものと Daubert の論 文を参照し、必要な部分を筆者が補足することによって、できるかぎり原典からの引用で構成 する形にした。cf.Charles-Daubert,Francoise: Spinoza et les libertins; Le Traité des Trois Imposteurs"ou l'Esprit de Spinoza"", Spinoza,Science et Religion, éd.par Renée Bouveresse, Librairie philosophique VRIN, 1988, pp.171-181. (5) この本のスタイルはスピノザの名前は一切出さずに、彼の著作から多くを借用して反宗教 思想を述べることにあるが、この第2章の辺りはスピノザのテキストをそのまま引用している。 (1) 30 とくに、第2章の2節から9節までの叙述は、『エチカ』第1部の付録をほとんどそのまま写し たような形になっている。Charles-Daubert, op.cit., p.176. (6) 詳しくは、 『歴史批評辞典』のスピノザの項目の注Mを参照されたい。ピエール・ベール全 集第5巻『歴史批評辞典Ⅲ(P−Z)』野沢協訳、法政大学出版局、1987 年、660-663 頁。 (7) たしかに、1677 年には『スピノザの遺稿集』が出版されており、その入手や引用が不可能 だったわけではない(1688 年に禁書)。しかし、『エチカ』などは当時はまだまだその真価も理 解されず、『神学・政治論』に比べ人々の話題になるにはもう少し時間が必要だった。十七世紀 のフランスにおける『エチカ』反駁書としてもっとも理論的に充実したものといわれるフラン ソワ・レミの『新たなる無神論をくつがえす』(Le nouvel athéisme renversé, ou réfutation du système de Spinoza)が刊行されたのは、1689 年になってからである。これはベールの『歴史 批評辞典』第一版の刊行とほぼ同時である。『三人の山師論』が執筆されたのはほぼ同じころと 推測される。『歴史批評辞典』の前掲訳書における野沢協の解説を参照。 (8) Popkin,Richard: Spinoza and the Three Imposters" in Spinoza:Issures and Directions, ed.by Edwin Curley and Pierre-Francois Moreau, E.J.Brill, 1990, pp.347-358. (9) アダム・ボレールは、コレギアント派を率いていた人物である。このため、コレギアント 派は「ボレール主義者」とも呼ばれていた。彼は当時のイギリスで盛んだった千年王国運動に も深くかかわっていたようである。1646 年版のユダヤ教経典『ミシュナ』の編纂において、彼 はスピノザの師でもあるラビ・ヤコブ・ユダ・レオンとメナセ・ベン・イスラエルとともにそ の仕事に携わっている。1655 年にメナセがクロムウェルと会談するためにイギリスに行ったと き、ボレールはロンドンでその歓迎にあたっている。その後短期間オランダに渡っている。 Popkin, op.cit., p.349. (10) The Correspondence of Henry Oldenburg, ed.and tr. by A.Rupert Hall & Marie Boas Hall, Madison and Milwaukee:University of Wisconsin Press, 1965,Ⅰ, pp.89-92. (11) ボレールがこの「三人の山師」テーゼに対して宗教を守るために書いた文書は『普遍的な 人類の立法者 イエス・キリスト』(Jesus Christ Universi humani Generis Legislator)と題 されている。しかし、この文書は結局公刊されなかった。ポプキンによれば、イギリス王立協 会のボイル・ペーパーの 12、13、15 号にバラバラの順序で掲載されている。Popkin,Richard: Spinoza and Bible scholarship" in The Cambrige Companion to Spinoza, ed.by Don Garrett, Cambrige University Press, 1996, pp.383-407. (12) Oldenburg, op.cit., pp.115-6. Popkin, 1990, p.349. (13) Popkin, 1990, p.349. (14) ibid., pp.353-355. (15) ストゥープ中佐(Col.J.B.Stouppe)はフランス軍がユトレヒト占領していた当時のスイス 人連隊の中佐であり、そのあと旅団長にまで昇進した人物である。ストッパ(Stoppa)と表記 されることもある。ユトレヒト滞在中にはスピノザと会い、彼のことをコンデ公爵に知らせ、 両者の仲介をした。1673 年には『オランダ人の宗教』(La Religion de Hollandais)という本 を著し、そのなかでスピノザの哲学をきわめて批判的に紹介した。cf.Spink,J.S.: French Free-Thought from Gassandi to Voltaire, University of London:The Athlone Press, 1960, pp.239-240. (16) ベールは『歴史批評辞典』において、「自由思想家は方々からこの人[スピノザ]のもとへ やってきた」と記している。彼がここで名をあげているのはエノーとコンデ公爵だけだが、公 爵のまわりにいた多くの自由思想家のことも、当然考慮に入れねばならないだろう。前掲訳書、 655-666 頁。 (17) 『神学・政治論』の仏訳は三つの異なった書名で 1678 年に公刊されている。一つは「公平 な精神の持主の、一般的及び個人的救済のために最も重要な事柄に関する珍しい意見」、二つめ は「聖殿の鍵」、三つめは「古代及び現代ユダヤの迷信的儀式論」である。リュカス/コレルス 『スピノザの生涯と精神』渡辺義雄訳、学樹書院、1996 年、36 頁を参照。 (18) Popkin, 1990, pp.354-355. (19) こうしたスピノザの決定論と道徳の問題については、真田郷史「スピノザの倫理思想にお 31 ける「決定論と当為」の問題」(日本倫理学会編『倫理学年報』第 37 集、1988 年、3-19 頁) を参照。 (20) スピノザとベールに関しては、前掲の野沢協の解説を参照。『三人の山師論』の宿命論的な 誤解については、赤木昭三の前掲書 248-249 頁を参照。 (21) Popkin, 1990, pp.350-351. (22) モーセ宗教の政治性を強調する点でスピノザと『三人の山師論』に違いはない。議論の運 びもそう違いはない。ただ、『山師論』はモーセを、鮮やかな手口で民衆を騙す「魔術師、巧妙 な人間、器用な香具師、巧みな巾着切り」と描き、その魔術的な能力でもってユダヤの民衆の 信頼を得て、反乱を唆したというように描いている(TI.chap.3,§.10,/pp.40-51)。 (23) スピノザとは違い、『三人の山師論』はイエスの道徳と同じくその政治性をも議論の対象と している。第 13 節が「イエス・キリストの政治について」と題されているほどである。罪を犯 した女の扱いやパリサイ人との争いにその特徴が出てくるが、彼を信じたのが女や愚者であっ て、賢者が締め出されていることから、イエスの山師ぶりが明らかだとしている。彼がモーセ やマホメットのように成功しなかったのは、たんに金と武力をもっていなかったからにすぎな い(TI.chap.3,§.13-21,/pp.55-73) (24) ストゥープ『オランダ人の宗教』。筆者はこの書物を閲覧することはできていない。ゆえに 引用はベールの『歴史批評辞典』前掲訳書、652 頁によった。 (25) R.Simon: Henry de Boulainviller; Oeuvres Philosophiques, Martinus Nijhoff/La Haye, 1973, p.xii. (26) ibid., p.x. 32
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