「未完成交響曲を楽しむ」―第 1 回演奏会に寄せてー 宇部市民オーケストラ 団長 佐藤育男 シューベルトのロ短調交響曲「未完成」は、その美しいメロディーと豊かな叙情性が 聴く者を惹きつける。さらに曲にまつわるいくつかの謎も私を惹きつけてやまない。こ の曲が未完に終わった謎、最近、 「第8」交響曲から「第 7」に改められたり、死後 150 年も経ったのちに自筆譜が出版された謎などがこの曲を一層魅力的にしている。 先ず、未完に終わった謎はこれまでも多くの人によって語られてきた。その主なもの は、「我が恋が終わらざるがごとく、この曲も終わらざるべし」、というセリフで有名な 映画「未完成交響曲」のロマンティックな解釈に始まって、第1、第2楽章があまりに も傑作なので第3楽章以下が続かなかった、あまりにも多作のため第3、4楽章の作曲 を忘れてしまった、不治の病から鬱になり筆が進まなかったなどの諸説があるが、まだ 定説はない。皆様はどの説をおとりになるだろうか? 私は鬱説をとっている。もともと私は、職業柄、作曲家の死因や名曲の背景にある健 康や精神状態との関連に思いを馳せながら聴いて愉しむことが多い。 例えば、ベートーヴェン。音楽家としては致命的とも言える聴力障害をはじめ肝硬変、 慢性下痢など幾多の病気に悩まされながら、その苦悩の数以上の傑作をものにした。そ れらの作品を聴くとき、彼の苦痛との関連がそのまま反映しているものもあれば全く影 響されていないものもあり、極めて興味深い。 スメタナも聴力を失い、耳鳴り、めまいで苦しんだ作曲家である。 「我が祖国」は聴力を 失って 5 年後の傑作であるが、祖国を思う不屈の精神に頭が下がる。 「私の人生の思い出と完全失聴というカタストロフィーを描いた」と友人に書き送った 弦楽四重奏曲「わが生涯」は聴いて心が痛む、という具合である。 さて、シューベルトは天才モーツアルトより5才も早く 31 才で亡くなった。その6 年前の 1822 年、未完成交響曲が作曲された年でもあるが、ピアノを教えていたエステ ルハージ家の召使と交際し梅毒に罹患した、と伝記には書かれている。私はこの事件 と曲が未完に終わったことと大いに関係がある、と考える。 当時の社会は、性については今よりずっとおおらかであったが、梅毒は治療薬もなく、 今のエイズに匹敵する不治の病として恐れられていた。父親が小学校の校長という家 に生まれ育った彼は決して遊び人ではなかった。しかし、彼の親友の一人ショーバー という男が当時の社会通念より遥かにラディカルな思想を世間に発表したり、男女の 交際についても自由奔放に振る舞うことに一種の憧れを持ち、ショーバーと行動を共 にするようになっていた。そのため彼がボヘミアン的生活を一時期送ったとしても不 思議ではない。(病気は親友の出入りする娼館の一人から感染したという説もある。) これから先は私の想像であるが、彼はそれまでサリエリについて作曲した交響曲の 古典的な形式から一歩抜け出し、より自由でロマンティックな曲を作りたかったので あろう。18 才で発表したバラード「魔王」は音楽芸術というジャンルにおいてはロマ ン主義の草分けとして高く評価されていたが、交響曲に対する評価はそれほど高くは なかった。古典的秩序を守る一方、リート的伸びやかな叙情性を組み入れるという彼 の試みは、相反する原理の拮抗のために未完に終わったことの方が多い。未完或いは 破棄された交響曲が 13 曲中6曲にも及ぶという事実がこのことを物語っている。 1882 年 10 月、ロ短調交響曲の第1、第2楽章が完成した。その後、彼は急激に体調 を崩し何か月も回復しなかった。頭髪が抜けかつらを被らなければならなかった彼は ひどい鬱に陥り、死を予感する。そして一時期、世間とのつき合いをまったく断って しまう。私が驚くのは、束の間でも会えない友人には手紙を書くほど人を恋しがる彼 が、まったく人の前に姿を現さなかったことである。 その後、心機一転、11 月にはこの年のもう一つの傑作、幻想曲「さすらい人」の作 曲に没頭するが、その間、彼は未完成に付随することは一切思い出したくなかった、 というのが私の勝手な推測である・・そして、そのうちに本当に第3、4楽章の作曲 は忘れ去られたのではなかろうか? ・ ・このように勝手に見方を変えては、謎を楽しんでいるこの頃である。 ・ 次は、最近発見された彼の自筆譜に関する謎である。シューベルトの交響曲はどれ 一つとして彼の生前には出版されなかった。死後半世紀もたった 1884 年、ブライトコ ップ・ヘルテル社はシューベルト作品全集の一環としてそれらを出版した。出版社の 要請で譜面の校閲に当たったブラームスは、しばしばそれらを「近代化」したという。 自筆譜に手を加えたことを指摘し続けた音楽学者もいたが、大方の人は校閲者にブラ ームスの名前があるだけで充分であった。しかし 1923 年、この曲のオリジナルスコア がスケッチを含めて出版され、更に 1990 年、ブライトコップ社がクリティカルエディ ションを公表した。 ところで、未完成の楽譜は作曲された翌年に友人の手に渡っている。この事実は、 第 1、第 2 楽章だけの不完全な形ながら、この曲は一応完結したものとシューベルトは 結論付けたのでなかろうか?そうでなければ、大傑作の、しかも継続中の楽譜を他人 に献呈するはずがない。その後は、皆様ご存じのように数奇な運命を辿ったのち、32 年後の 1865 年にウィーン楽友協会で初演された。 さて、このたびの宇部市民オーケストラによる「未完成交響曲」の演奏には、従来の 楽譜と異なりブライトコップ社の 1990 年版、即ちシューベルトの自筆譜といわれる新 版が使われる。昨年十月に結成されたばかりなので、楽譜も新規に購入したところ、新 しいヴァージョンだったという次第である。手持ちの旧版と比べると、旧版のディミニ ュエンドが殆どアタック記号になっている。それだけ表情が鋭くなりベートーヴェン的 である、と言えよう。新版スコアによる CD を聴いてみたが、ワルター/ウイーンフィ ルのような流麗さと叙情性に欠ける。その代わり、キビキビしたテンポ、光と影に隈ど られた現代的な演奏である。 金子建志氏著「交響曲の名曲・1」(音楽の友社)には、「新版には当時としては非 常に斬新な不協和音が多い」、と書かれている。それら斬新な不協和音は、後の大作曲 家ブラームスによって、 (若い作曲家の単なるチャレンジとしか受け取られず)妥当な 和音に処理されてしまったのであろうか? ジャズの世界では、シックスやナインスのコードが古典になっている現在、シューベ ルトの不協和音はやがて世界中のどのオーケストラにも取り入られ、21 世紀には当た り前の和音として演奏されるのでなかろうか? ともあれ、私には、新版のアタックが作曲家の悲痛な叫びに聴こえてならないので ある。 新生宇部市民オーケストラの指揮者、十川真弓氏はどのような解釈を下すのであろ うか?皆様、ぜひご来場の上お確かめ戴きたい。 (ウベニチ 1999、2、27)
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