「湖」へ ― 新井卓の風景写真 /平倉圭 写し出されているのは作家によれば、白駒「池」、松島の「海」、那智の「滝」であるが、新井はそれら を総称して「湖」と呼ぶことにためらいを持ってはいない。展示されるダゲレオタイプの1枚において、海 は露光時間の長さゆえに波を失い、半透明のまったき平面に変貌している。「湖」とはこの半透明の閉鎖性 を指す符丁だ。鏡としての写真、あるいはバットに張られた現像液のメタファー。 「湖」の名で呼ばれる半透明の閉鎖性に、新井はダゲレオタイプとデジタル写真という2つのやり方でア プローチしている。そのアプローチはリテラルであると同時にフェノメナルなものだ。事前に見ることので きた25枚のデジタル写真のうち18枚は形式的に同構図であり、中央にピントのあった事物を捉え、手前に ぼやけた遮蔽物を配するディファレンシャル・フォーカシングによって、風景を半透明の知覚的ずれを経験す るための抽象的モデルに変えている。ずれは知覚する身体の抵抗感において閉鎖され、風景は見る者の身体 の抵抗を映し出す鏡となる。一方、光の持続を鏡面の不透明性へと変換するダゲレオタイプのマジックは、 その経験を同一平面上に併存する鏡と画像のレイヤー的な深さのずれとして示してみせる。(散乱する不透 明な光の紋様が林の中の小道を浮かび上がらせる1枚のダゲレオタイプは、今回の展示の白眉である。) だがアプローチの混在に端的に示されるある種の不純ないし不徹底性は、その閉鎖性に穴を開けてもい る。それゆえ写真が古民家の内部に展示されるとき、「湖」の閉鎖性は、「家」なるものの閉鎖性へ、そし て「家」なるものに蓄積すると一般に考えられる共同的記憶の閉鎖性へと容易にすり替えられうるだろう。 これはかつて住人の誰かが見た風景の記憶である、そして私もまたいつかこのような海/池/滝を見た気が する……。写真の記録性と言語に対する本質的な無防備性のために、またいくらかは、他者と束の間の共同 性を立ち上げようとする新井の歓待の身振り(手料理によるもてなし)と古さへの親和性ゆえに、そのよう な読みは決して排除されない。 だが、誰もこのような「湖」など見てはいない。それは「家」なるものの閉鎖性が私たちに与える保護的 で主体破壊的な幻想にすぎない。そこに「家」などなかったかのように、誰も記憶を共有しえなかったかの ように、ただ孤立する「湖」しか存在しなかったかのように光景を抽象的に解体しうるとき、写真はおそら く何かを達成している。写真はけっして、記憶のメディアではない。本来的に痕跡の技術であるダゲレオタ イプをデジタル写真へと暴力的に接合することによって新井が示そうとするのはそのことだ。だから家を出 なければならない。あるいは家を出る必要はすでにない。別の閉鎖性。「湖」へ。 --------------平倉圭 (Hirakura, Kei) 映画・美術理論/美術家 1977生。国際基督教大学卒。東京大学大学院学際情報学府博士課程単位取得退学。 現在、東京大学「共生のための国際哲学教育研究センター」(UTCP)特任研究員、多摩美術大学非常勤講師。 -----------
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