1 陸軍軍医中将 寺師義信 (てらし よしのぶ)の生涯 ~空を翔けた義(よし)ドン~ 寺師良樹 編著 2013年(平成25年)11月1日初稿、12月31日改訂 2014年(平成26年)1月23日改訂 2 寺師義信 寺師義信(てらし よしのぶ、1882年(明治15年)12月20日―19 64年(昭和39年)8月13日)は、陸軍軍医中将、陸軍軍医学校長、日本 航空医学の祖、満州佳木斯(チヤムスまたはジャムス)医科大学学長。 【略歴】 鹿児島県日置郡日置村(現、日吉市)出身。士族の伊東家(実父 伊東楽之 助:漢方医)の次男として生まれ、満5歳の時、士族の寺師家の養子となり寺 師家を継承した。形式的には寺師清が養父であるが、この時清は既に他界して いた。従って、寺師家を継承しつつ、伊東家の手元で育てられた。幼児期より 神童と言われていたが、鹿児島では当時、長男以外で優秀な男子は名のある家 の養子となり、その家の発展に尽くすのが当たり前であった。実父楽之介も黒 木家(島津家主任御典医:黒木良哉)の次男で伊東家に入籍したのであった。 楽之介は馬鹿正直で他人のために奔走し、家財をなげうち困窮していたと伝え られている。そこで、伊東家の貧窮の解決と寺師家の存続という双方の思惑が 一致し、養子が成立したと思われる。寺師家には医師が多かったので、当然医 師になることを期待されたが、本人は文筆や漢詩が得意だったので、文筆業特 に小説家になるのが夢であり、医者になるのが嫌で嫌で仕方なかった。鹿児島 一中(現鶴丸高校)に進むが、森鴎外の「水沫集(ミナワシュウ)」に影響さ れ小説を書いて、地方の新聞に連載していた。実父は是非医者になれと厳命し 3 ていたため非常に煩悶した。中学の岩崎行親校長が「両方ともやってみたらど うか。両兎を追うものは一兎だに獲ずという諺もあるが、鴎外先生は大文豪で あると共に傑(すぐ)れた医学者だ。君も一つそれに倣ってやってみてはどう か?同じ陸軍軍医学校長の椅子に座るよう努力すべし。」と諭され、そこで、 意を決し、第七高等学校第三部(鹿児島大学文理学部の前身)に入学。次に京 都帝国大学医学部を目指し、鴎外先生に倣って軍医を志願した。猛勉強の甲斐 あり、京都帝国大学医学部首席入学、首席卒業と言われていた。その後、両方 の学問をやるのは至難であり、殊に文学で成功するのは天稟の才能を要し到底 及ぶ所では無いということが分かり、小説の方はキッパリと断念した。改めて 鴎外の非凡さに気がついた。同級生には京都大学名誉教授、日本学士院会員、 金沢大学長となった戸田正三博士がいて、七校時代からの親友であった。「京 大でトップだったのは実は戸田君だよ。」と義信は話していた。1910年(明 治43年)京都大学医学部卒業と同時に陸軍見習い医官として軍医の道を踏み 出す。鴎外に初めて拝謁したのは大正の始めで、2等軍医に任官し飛行隊附に 任命されて陸軍省医務局に申告に行った時だった。航空の生理、衛生について 更なる研究の意図を陸軍軍医学校長から位を上げ、当時陸軍省医務局長であっ た森鴎外に進言したところ、「航空は将来あらゆる方面で最も重大なる役割を 果たすことになる。その医学研究は極めて緊要である。どうか研究に邁進され たい」と激励された。この時、欧米では航空機の戦時運用の研究が既に始まっ 4 ていた。後年(1936年(昭和11年)8月1日)夢は叶い、陸軍軍医学校 長の鴎外の使用した椅子に座り、「鴎外先生の御肖像を日々拝して千万無量の 感に打たれた。」と記している。 1917年(大正6年)から飛行機による傷病兵輸送機「衛生飛行機」につ いて研究を始めた。当初は、寺師は頭がおかしい、戦闘機を開発するべきだと の声が多かった。しかし、軍医として陸軍軍務局に着任早々、当局に航空医学 研究及び衛生飛行機の必要性を説いた。森鴎外の後ろ盾もあり、1918年(大 正7年)8月フランス、イタリア等の欧州留学。イタリアではモンテローザ高 層科学研究所に勤務。所長アガソッチ博士の指導で研究を続け、「航空の血圧 に及ぼす影響ならびに飛行者の筋覚」について博士論文を完成。そして、19 20年(大正9年)、帰朝した彼は軍当局を説得して富士山の頂上に高層科学 研究所を設立。自ら主任となって研究を続ける。後年、これを含め航空医学に 関する論文は70数編に及んだ。こうした航空医学の研究が実って1921年 (大正10年)医学博士号を授与された。1921年(大正10年)、第一次 世界大戦敗戦国ドイツより2台のユンカース(ユンゲル)飛行機が押収され陸 軍に回送された。寺師軍医中佐は、この飛行機を衛生飛行機に改造するよう幾 度も幾度も嘆願する。その甲斐があり1924年(大正13年)、患者輸送機 すなわち「衛生飛行機」の試作を命じられた。この機の研究は所沢陸軍飛行場 で行われた。面識のない山田一夫氏(実は妻ヨ子の仮名であった。)の多大な 5 る援助もあり、完成をみた。この機はユンカース飛行機を改良したものであっ た。ジュラルミン製ベッドを天井から吊るし、ばね仕掛けで床に安定させた。 軽傷者用に3個の椅子があった。軍医、看護兵の椅子、応急用医療箱を備えた。 1926年(大正15年)1月19日以降、所沢にて後藤新平伯等名立たる要 人が試験飛行に参加し、その快適な飛行を絶賛した。「空中病院登場、僅か2 時間で大阪の患者が東京の病院に入院できる!」これが当時の新聞を賑わした トップ記事である 1931年(昭和6年)満州事変が勃発するが、ユンカース型は旧式に過ぎ たので新規の衛生飛行機の作成を上奏する。軍用飛行機を優先して作るべしと の反対意見を覆し、ドイツ製の大型旅客機ドルニエ・メルクール機2機の大改 造を目指し、衛生飛行機の作成に着手する。国民の寄付による学術奨励金を資 金とし、機内病室の設計を引き受けた。昭和7年1月5日竣工。陸軍のメンツ もあり、2機とも衛生飛行機に改造はできなかったが、軍用機に改造された旅 客機は愛国(あいこく)1号と命名され、衛生飛行機に改造された旅客機は愛 国(あいこく)2号と命名された。同年1月10日献納式。重症患者用の寝台 2個、軽傷者用椅子座席5個、軍医の椅子、温度調節のできる暖房装置、完全 防音装置、調剤室、薬品棚、輸血用材、酸素吸入装置らが整備されていた。温 湯飲料供給器、消毒用滅菌水タンク、消火器、便所、汚物投下装置等も備えた。 時速180km、航続時間4時間であった。陸軍は「あいこく2号」を満州の 6 関東軍に送った。多数の負傷兵を奉天から内地まで空輸した。この機の秀逸性 が現地より伝えられ、更なる製造要請があったため、中島製作所に依頼して新 衛生飛行機、後に「愛国40号」と名付けられたフォッカー・ユニバーサル機 の改良型機が1932年(昭和7年)7月16日に竣工した。これは使い勝手 が非常に良いので最もよく使われた。同機は小型で、患者は臥位2名、座位2 名が乗り、衛生部員1名の同乗が可能であった。結局、満州事変の1932年 2月から1934年4月迄の2年余りの間に7機の患者輸送機が満州に送ら れ、合わせて1,512名の傷病軍人が護送され、命を取り留めた。内訳は、 戦傷軍人780名、伝染病10名、凍傷150人、その他の疾病572名であ る。更に、1940年(昭和15年)までに狭い所での離発着の可能な小型機 を主流とした合計33機の「衛生飛行機」が作成されたが、戦局の逼迫でそれ 以上には増えず、敗戦とともに消滅した。少なくとも1937年(昭和12年) までに、1回の墜落も不時着もなかった。 1936年(昭和11年)8月に陸軍軍医学校長、同年12月に陸軍軍医中 将、陸軍軍医総監となり、1939年(昭和14年)退官予備役編入となる。 1940年(昭和15年)、勲1等旭日大綬章を授与された。悠々自適の生活 をする暇もなく同年、満州佳木斯(チヤムス)医科大学校長の職に抜擢される。 教頭は当代一流の碩学、京都大学医学部教授正路(しょうじ)倫之助博士(後 の兵庫県立医科大学学長)であった。満州には既に、奉天、新京、ハルピンに 7 3つの医科大学があった。佳木斯(チャムス)医科大学の後に旅順にも医大が できた。佳木斯医科大学の最大の特徴は快適な生活を北満の地で送れるよう伝 染病や凍瘡の予防治療に邁進したことであり、日本人、韓国人、中国人の学生 が平等に扱われたことである。終戦間際、ソ連軍の満州侵攻のさなか、最後ま で医科大学の最後尾に残って命からがら帰還。満州引き揚げの際、中国側より 厳重な通達があって、日本人引き揚げ者は勲章、刀剣類、貴金属等一切携行を 許されず、寺師学長も勲1等旭日大綬章およびすべての勲章を彼地に残して身 一つで帰国した。痛恨の思いはソ連に抑留され捕虜となり過酷な生活を強いら れた学生がいたことである。戦前は都内の小石川に居を構えていたが、慣れ親 しんだ陸軍飛行場のある所沢近くの、埼玉県豊岡町(現入間市)で開業医とな る。佳木斯(チャムス)医科大学の卒業生は全て医師免許証が渡るよう、外務 省、文部省、厚生省に認めるよう奔走し、在校生で医師志望者はこれも関係省 庁と談判し日本各地の医科大学等に編入させた。佳木斯(チャムス)医科大学 同窓会は毎年開かれ、満州で失くしてしまった大綬章の再下付を日本政府に懇 願し、昭和38年12月18日夜遅く再交付された。戦後は、日本医事新報に しばしば寄稿し、「炉辺閑話」や「緑陰随筆」等で東大名誉教授緒方知三郎博 士とともに巻頭言を飾った。晩年は医業を辞退し、地元武蔵町(元豊岡町)黒 須の火の用心の夜回りに加わり、拍子木をたたいて町内を回った。その後自宅 で転倒して頭を打ち手足が少し不自由になった。1964 年(昭和39年)夏、 8 体調を崩し2週間後に他界。(81歳)菩提寺は妻ヨ子(よね)の眠る小石川 傳通院。 【義信の逸話】 《不死身伝説6題》:①3歳の時、雨が毎日のように続き、八幡川が氾濫した。 ちょろちょろした川であり用心不要の川であった。20歳の女中がいたが、彼 を背負って、6歳の従姉妹の黒木なほ子も付いて行った。3人とも橋から渦巻 く川の中に落ち込んでしまい、川の両端から崩れてきた土の中に埋められてし まった。村中は大騒ぎし、総出で3人の救出活動を行った。ようやく3人は救 い出され、色々手当をされ、義信だけが助かった。村の人たちは一番危ないと 思われた3歳の子が息を吹き返したので「義ドンは、運の強か子ドンじゃっ。」 と言い合った。航空軍医では4回危ない目にあった。②1914 年(大正3年) 1月10日、所沢飛行場でオモチャの様な研究會式飛行機で飛行中、着陸間際 に墜落し、操縦者は殉職したが、寺師は3週間程度の負傷で済んだ。③191 6年(大正5年)3月15日に搭乗した飛行機が墜落し、鼻柱骨を折った。傷 がもう少し上なら眉間だから即死するところであった。④1919年(大正8 年)7月イタリアの山頂モンテローザ航空医学研究所で作業中、足を滑らして 9 峰から転落した。所長アガソッチ博士に一方ならぬ心配をかけたが、落ちた場 所が柔らかい草原であったため、全身打撲傷だけで一命は取り留めた。⑤次は プロペラに叩かれたのであって1924年(大正13年)の4月26日の朝だ った。航空医学研究のためサムルソン飛行機に同乗して、5000メートルの 上空を目指した。ところが、約3000メートルに達したころ、発動機に故障 が生じてプロペラがピタリと止まってしまった。仕方ないので、滑空して所沢 飛行場に不時着した。無事降りて突然止まったプロペラの点検をしていたら、 また、突然プロペラが回転し始め、アットいう間にプロペラにはねられて、気 絶し、気が付いたら所沢軍医学校病院のベッド上にいた。左肩甲骨の骨折であ った。少し上なら首をやられていて即死していたに違いなかった。郷里の老人 たちが「義ドンは運の強か子ドンじゃ。」と言った言葉が思い出された。⑥6 回目は汽車の事故である。1938年(昭和13年)4月、京都で開かれた第 10回日本医学会で「航空医学の将来」という特別講演を終えて、5日の夜1 0時15分京都駅発の、1,2等車急行で帰京の途についた。食堂車に行こう としたが、超満員の電車で自分の席は確保できそうもなかった。厚生省の高野 予防局長が遠くから席を譲ろうとしてくれたが、近づけそうもないので「あり がとう、でも大変だから自分の席に戻ってみる。」と言って、移動しているう ちに逢坂山トンネルに差しかった。車両の間の連結部に行くと、車両がグラグ ラと動揺し、不覚にも振り出されてしまった。気がつくと、自分が線路に投げ 10 出されているのが分かった。トンネルの中であった。線路伝いに歩くも、3回 ほど列車が前後から向かってきた。その度に線路の外に飛び出してやり過ごし た。トンネルから何とか出た時、駅員がいたので、ここはどこだと聞くと大津 ですと答えた。相当な出血があったためすぐさま大津赤十字病院に運ばれた。 更に陸軍大津病院に移送され、頭部の深い挫創3か所、左右5本の肋骨骨折の 手術をする。特に左第十肋骨は二箇所で折れ、その骨端が肺臓を突き刺して血 胸を惹起していた。手術の終わったのは深夜12時過ぎであった。軍人が列車 から落ちるのは稀なことだったので、憲兵を通じて、この件は新聞に載せない よう要請したはずであった。ところが翌日の朝刊に「寺師中将、列車で奇禍。 逢坂山で墜落危篤」と大見出しで報道してしまった。さらに、その日の夕刊に は、全国の新聞が大袈裟に書きたて、中には「陸軍軍医総監泥酔して、列車か ら墜落」等と書いた新聞もあった。後年、アサヒグラフ特集に於いて京都大学 医学部同級生の戸田正三博士と共に全国医家酒豪ベストナインに選ばれるほ どで、飲酒で酔った事は無かったので、この記事はいただけなかった。お悔や みの電報が3通届いた。この時、大阪毎日新聞だけは、事実を少しも誇張もし ないで伝えてくれたので非常に感謝していた。落ちた場所はよほど具合の悪い ところとみえて、墜落した翌々日にも同じ場所で他の方が墜落死亡していた。 その話を聞いて「義ドンは、運の強か子ドンじゃ。」という言葉を病床で繰り 返し思い出していた。幸い負傷は1カ月ほどで全治した。これを契機に「寺師 11 さんは不死身の武人だ、武運長久の揮毫が欲しい。」と多くの方から出征兵士 の日の丸に揮毫を頂きたいと依頼され、快く揮毫をさしあげた。 《猛勉強》 :小学校を終え、鹿児島一中(現在の鶴丸高校)に進む。学生時代、 夏休みは眉毛を剃りおとして自宅で猛勉強。眉毛が無かったら恥ずかしくて外 に遊びに出られない。勢い勉強せざるを得ない。そういう立場に自分を追い込 んで一生懸命勉強に没頭したとされる。 《2.26事変(1936年(昭和11年))での使命感》:部下の見習い軍医3 名が騙されて叛乱軍に連れ出された事件があった。「今夜、夜間演習をやるつ もりだが、雪も降っているし、怪我人がでるかも分からぬから、救急衛生材料 を十分に携行して随行せよ。」と命令されたのである。これに非常に驚き且つ 怒り、3人を取り戻すため、叛乱軍の立て籠もり場所を突き止め、2月27日、 午後9時、西郡軍医を従えて、主謀者、安藤輝三大尉、栗原安秀中尉などのい る赤坂の料亭「幸楽」に軍医少将一個人として乗り込む。栗原中尉はピストル を握りしめ、物凄い眼で睨みつけていた。主謀者達と談判した結果、安藤大尉 は、 「決起軍に負傷者が無いことが分かったら、ただちにおかえしします。 」と 答えたので、この一言に念を押しつつ、西郡軍医を伴い幸楽の門を出て行った。 29日の午前9時20分、3名の見習い軍医は無事原隊に復帰した。その後3 12 名の見習い軍医は軍法会議の判決で軍医となることは叶わなかった。こうした 行動の原点は常日頃より尊敬していた山岡鉄舟で、彼を倣い若い頃から毎朝4 0分の座禅で胆力を養い、西郷隆盛と会見するため益満休之助を伴い直談判し、 西郷・勝会談のお膳立てをした、鉄舟さながらの行動をとったものと考えられ る。鉄舟は上記のように勝海舟の江戸無血開城を支えた人物である。 《内助の功》:ユンカース機の衛生飛行機への改造には当時700円が必要で あったが、義信には300円しか所持金が無かった。後藤新平伯がポンと10 0円の金を出してくれた。非常に感激したがまだ300円が足りない。そこで 300円を小石川黒川家生まれの美人で誉れ高い妻ヨ子(よね)が指輪や帯止 等を売り、 「山田一夫」の名前で為替を寄付。 「見ず知らずの人から贈られた金 が使えるか。今夜返しに行く。」と言って受け取りを拒絶する義信を「人生の 一大事、お国のためになる事だから。」と説得し、為替を使わせて頂く。後に 若くして(29歳)肺炎で病死した妻ヨ子の日記で事の顛末を知り涙する。こ の逸話は後年、婦人雑誌「婦人倶楽部」に掲載された。ヨ子の眠る小石川傳通 院が寺師家の菩提寺となった。 《小泉親彦厚生大臣との交流》:2.26事変(1936年(昭和11年))にて、 私服の憲兵が監視していたため「楽々と反乱軍本部に入れた寺師第一師団軍医 部長は叛乱軍に内通している」と当局に密告されたが、川島陸相、小泉医務局 長とは懇意の間で、お互いに実直な性格を知り尽くしていたので、談笑の間に 13 このデマは一掃された。所沢で飛行機事故のため重傷を負った時も病院に駆け つけ、京都の学会からの帰路、逢坂山トンネル内で肋骨を負った時も小泉は真 っ先に病院に駆けつけて義信の手を握りしめ、「ああ良かった、死なずに良か った。」と涙ぐんでいた。トンネル事故の全快祝いとして備前長船佑光(びぜ んおさふねすけみつ)の銘のある大小二口の名刀を贈られた。これらは満州に 携行せず、田舎の親戚に預けておいたため手元に残った。戦後、その二刀を床 の間に置き小泉の遺徳を偲んだ。小泉大臣は戦後、責任感から古式に則り白装 束で自刃した。戦中の大臣で自害したのは道元禅師の「正法眼蔵」研究で有名 な文部大臣、橋田邦彦医博とともに2名の医師だけだった。生きていれば戦争 責任の追求はあり得なかった。橋田医博は「正法眼蔵の側面観」を著作してい る。 《満州佳木斯(チャムス)医科大学における態度》:零下30度Cの極寒の中毎 朝、船こぎ体操や、乾布摩擦を学長始め全員で行った。起床ラッパとともに興 亜寮を飛び出し、上半身裸で外に出て行った。その後洗面、部屋の整理整頓を して、一汁一菜の朝食をとった。主食は赤いコーリャン飯であった。慣れない ころは皆が下痢をしたという。300名収容の病院が付属していたが、教授陣 は京大系の助教授が多かった。その中に731部隊の教授が1人いた。彼の存 在を憂慮した義信は、細菌化学兵器の研究を禁止した。禁煙促進委員会を造り、 14 禁煙令を出したが、禁煙を犯した学生がいたため自身の指導力の無さに涙した。 教え子で、戦後の医科大学の教授、助教授となった博士も多数いた。首席の川 上正澄博士は神戸医科大学助教授を経て、39 歳という若さで横浜医科大学教 授に就任した。生理学の川上研究室から育った全国の教授は 10 名に及んだ。 また、日本神経内分泌学会に「川上正澄賞」が設立され現在に至っている。 《西郷隆盛について》:西郷の征韓論の意図はロシア南下政策の阻止であり、朝 鮮半島の平和維持が目的であったと義信は考えていた。 《漢方医浅田宗伯について》:不治の病(髄膜炎)に侵されたとされる嘉仁親 王(後の大正天皇)の主治医の一人であった。西洋医は逡巡するばかりであっ たが、宗伯が強力な下剤を与えて脳圧を正常化し、治癒せしめた。覚悟のある 医師の鑑として尊敬していた。そして、「医人蹶起せよ」の文章で終戦直後に 以下の様に主張した。 「医人蹶起せよ(寺師義信)」 幕末の大医浅田宗伯が晩年の詩に次の一節がある。「天公吾に十年の壽を貸 さば更に西洋に入って医名を振るわん。」これは思い切った豪語である。身は 漢医でありながら、西洋に渡り、あちらの医師と腕比べして東洋医学の真価を 発揮しようというその気概には敬意を表してよいと思う。(略)今や敗戦日本 15 は何もかも萎縮して劣等国民を以て自任し、往年の矜持も自尊心も吹っ飛んで 喪家の犬同然の姿となって仕舞った。戦後米国視察に行った沢山の学者達の帰 朝談を聞くに全く心酔し切つて、謳歌にこれ日も足らぬ有様であるが、学問に は国境もなければ、敗戦国もない。一人の浅田宗伯位あつて然るべきだと思わ る々のである。自分は第一次世界大戦後独逸にも行ったが、かの国民性は敗戦 という引け目を少しも感じていない風で、特にそれが医学者に於いて強く見受 けられたのであった。勝敗いづれ夢の跡、変わらぬものは唯真理の探究であり、 敗戦国民とても徒に卑下し、悲観する必要はないのである。国民殊に医師は此 際自覚して往年の元気を取り戻し、協力一致して祖国再建に邁進すべきではあ るまいか。それには医師を指導し善処せしめ得る偉大なる医人為政家の出現を 願望してやまないのである。 《胸像について》:満州佳木斯(チャムス)医科大学の同窓生が贈った。現在は 陸自三宿駐屯地・衛生学校の彰古館にある。この胸像は昭和18年の学徒出陣 で、繰り上げ卒業と同時に入隊する佳斯木医科大学卒業生たちが「もし戦死し たら先生の足下に抱かせて眠らせてほしい。」という願望から、義信の胸像を つくる資金を出し合ったのが発端であった。敗戦後、寺師学長が生きているう ちにと佳木斯(チャムス)医大の同窓会(1958年(昭和33年)~一期生 橋爪藤光会長、1964年(昭和39年)~外園久芳会長~二期生金井清志会 長)が胸像の完成を願った。胸像はブロンズ製で東京芸術大学の伊藤傀氏が作 16 成した。1963年(昭和38年)4月、大阪で日本医学会総会が開催された のを機にホテル「大のや」で同窓会総会が開催された。この時に孫の寺師由紀 子氏の手で胸像は除幕された。その後、この胸像は義信の自宅の庭に安置され ていた。寺師学長の死後、彰古館に歴代の軍医学校長と歴代の軍医総監の肖像 画や写真が掲げられていたが、寺師義信の肖像画や写真がないのが分かり、こ の胸像が彰古館に安置された。 《航空医学について》:戦時下の飛行機の重要性にいち早く気づき、軍用戦闘機 よりも患者輸送機に着目した。1903(明治36年)ライト兄弟が世界初の 動力飛行に成功したが、二宮忠八(1866年(江戸)~1936年昭和11 年))はこれより前に飛行機の設計をしていた。野戦病院付き1等調剤手の忠 八は日清戦争(1984年(明治27年)~1985年明治28)に快勝した 軍部に飛行機の戦時運用を上申していたが、軍部はこれを考えもしなかった。 独自に設計図を作り、模型飛行機を何台も作成したが、失意のうちに軍を去り、 実業についた。製薬会社に勤め、実業界の第1人者となる。1921年(大正 10年)以降やっと彼の飛行機設計の真価が認められた。1927年(昭和2 年)には勲6等瑞宝章を送られた。また、義信博士の「欧米列強に先んじた日 本飛行機発明史」という論文により各国に紹介され世界に知れ渡った。 17 《終戦、開業後の生き方について》:貧困家庭からは診療費も薬代もとらず、そ れどころか患者さんの好物のりんご等の果物を届けた。往診で家庭の様子を察 して無料診療をした。まるで軍医中将という高官の敗戦の罪ほろぼしのようで あった。匿名で10万円を何かの役に立てるよう町役場に幾度か寄贈したが、 結局は徳行の主が知られてしまい、町の爽快な話題となった。 《詩人軍医》:詩人軍医とも言われた。漢詩、和歌を多数残している。戦後は 保険医を風刺した川柳を残している。 悠々自適不憂貧 萬里清風洗世塵 新酒三杯茅屋裏 又迎七十九回春 ( 悠々自適貧を憂えず 萬里の清風は世塵を洗ふ 新酒三杯茅屋の裏 又迎ふ七十九回の春) いくたび死線を越えし果てにして また武蔵野に初日おろがむ 18 草より出て草に入るてう武蔵野 月かげ見れば太古おもはゆ 麥蒔(むぎまき)を終へし親子がうれしげに 月の野道のわが前を行く 今朝富士に初雪降れり武蔵野の 雑木林に百舌鳥鳴くしきり 後藤新平と患者機にわが同乗し 天翔けりたることもありしが のこしおく言の葉もなし安らかに 武蔵野の露と消え行く吾は 思いきや薩摩に生れあづまなる 武蔵野の原にわが朽ちんとは 「保健醫側面観」 單価上げよ單価上げよと啖呵切り 単価上がらず啖呵悲しや 請求書の朝令暮改に悩まされ 保険醫夜半に頭痛鉢巻 保険醫は悲しきものよ今宵また 19 仁術ならぬ算術に泣く 秋風の身にしむ夕べ保険醫は ゼイ、ゼイ、税と喘息の如 減點の通知のはがき引き裂いて 紙屑籠にポイと投げ込む 八時間の労働基準羨まし 保険醫汝は二十四時間 寄邊なき保険醫あわれ朝な夕な 監査の聲におびえ暮らして 【参考文献】 「ブライアン山下物語―日吉、小さな村の多彩な人物たち」日吉人物伝刊行会 編(2006年(平成 18 年)6月1日発行) 「蝿の帝国―軍医たちの黙示録」帚木蓬生(ははきぎ ほうせい)著 新潮社 刊(2011年(平成 23 年)7月20日発行) 「寺師一族の八〇〇年―その源流を探る」医聖社刊(1993年(平成 5 年) 9月発行) 「日本医事新報」:1952 年(昭和27年)8月9日、1953 年(昭和28年) 8月、1955 年(昭和30年)5月、1957年(昭和32年)10月5日、 20 1962 年(昭和37年)1月6日、1月27日、1964 年(昭和39年)7月2 5日等多数。 「IATSS Review Vol.25,No2」 「15年戦争と日本の医学医療研究会会誌 」第7巻2号 「万里雲涛」 国立満州佳木斯医科大学記念文集 満州国立佳木斯医科大学同 窓会刊(1980年(昭和 55 年)10月1日発行) 「防衛ホーム」 2002 年(平成 14 年)10 月 15 日 第 605 号 「同方會」第10巻第11号 1937 年(昭和12年)11月1日発行 「サンデー毎日」不死身 「アサヒグラフ」酒の栄養と生理学 1958年(昭和33年)4月6日 「芝蘭」(第68号)1960年(昭和35年)11月1日発行 「佳雁」佳木斯医科大学同窓会発行 「婦人倶楽部」1940年(昭和15年)5月号 「歩いて」向山辰男:元武蔵町収入役 2003年(平成15年)5月25日 発行 豊岡町報道紙「とよおか」1954年(昭和29年)4月1日 読売新聞 1950年(昭和25年)3月29日 京税協ニュース 2002年(平成14年)11月25日No.3 「私の半生」金井清志著 2008年(平成20年)3月27日 松本タウ 21 ン情報株式会社刊 寺師美枝子氏書簡 2013年(平成25年)11月27日 藤巻禧四朗氏書簡多数 金井清志先生書簡(桂木斯医大2期生、現在91歳でご健在です。 ) 【関連項目】 小泉親彦:戦時下の厚生大臣 西郷隆盛 山岡鉄舟 傳通院:浄土宗。東京都小石川。徳川家康の実母於大の方(法名 傳通院殿) の菩提寺。他に於江の娘千姫、徳川家光公の正室孝子など多くの徳川家の子女 が埋葬されている。 後藤新平 中島製作所:一式戦闘機「隼」の設計生産をし、三菱が設計した「零戦」の三 分の二を生産した。戦後は解体され富士重工業(SUBARU)、日産自動車等に分 かれた。 伊東茂光:寺師義信の弟、伊東家の3男、弁護士資格を持つ。教育家。京都市 崇仁小学校の校長を終戦まで続けた。同和教育の先駆者、開拓者。 川上正澄:生理学者 岩崎行親(いわさき ゆきちか):内村鑑三の畏友。鹿児島一中、更に、七高 22 の校長を務め義信の人生に大きな影響を与えた。 寺師睦宗(てらし ぼくそう) :元日本東洋医学会会長 戸田正三:京都大学名誉教授、金沢大学初代学長 【写真】 佳木斯医科大学にて。視察に来た長男寺師正典軍医と記念撮影 23 若 き 日 の 義 信 軍医中将寺師義信 あいこく(愛国2)号 愛国40号 24 自宅の胸像と次男貞典医博の長男寺師義 典氏(医博)戻ってきた勲章を付けて記念撮影 埼玉県入間郡武蔵町黒須の寺師医院(佳木斯 医科大学の同窓生が寄付金60万円を募り建築できた。 )中央は長女美枝子氏。 25 この医院に元日本東洋医学会会長の寺師睦宗(てらし ぼくそう)氏が 2 回訪 れ酒を交わした。義信のお気に入りの日本酒は「白鹿」の熱燗であった。寺師 睦宗先生は不妊症の漢方治療で有名で、鹿児島生まれである。寺師宗冬氏と共 に全国の寺師家を集めた「寺師会」の設立、「寺師一族の800年」の刊行に 尽力する。寺師の源流は鹿児島県である。 晩年の義信氏(朝日新聞社所蔵) ヨ子(よね)との結婚記念写真 26 ヨ子の亡くなる1カ月前 の家族写真(左からヨ子、長女美枝子氏、次男貞典氏、義信、長男正典氏) 寺師陸軍軍医学校長と小泉陸軍省医務局長 27 佳木斯医 大同窓会(1962年(昭和38年) ) :中央奥、義信の後にある胸像に布が掛 けられている。i 寺師ヨ子 28 武蔵野に立つ義信((1958年(昭和3 3年)3月18日撮影)75歳時、朝日新聞社所蔵 29 辞世 の和歌と漢詩。長男正典氏が命日の日付を記した。81歳と7カ月13日の生 涯であった。
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