ヒュッテ・ジャヴェルの2代

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ヒュッテ・ジャヴェルの2代
ヒュッテ・ジャヴェルは霧ヶ峰沢渡にある。
初代オーナーは高橋達郎さん。この地に山小屋を建てたのは昭和27年(1952)だった。達郎さん
は戦前は東京に住んでいたが、戦後まもなく入笠山の鐘打平に山小屋を建てた。いまはスズランで
有名だが、そのころは一部の山好きな人が通う山だった。だが冬になると客足が止まり商売になら
ない。そこでスキーの盛んだった霧ヶ峰に想いがいったようだ。達郎さんは、たまたま富士見に寓
居していた、詩人の尾崎喜八先生と家族ぐるみの付き合いがあり、詩人から沢渡に建てた新しい山
小屋の名前を「ヒュッテ・ジャヴェル」とつけて貰った。ジャヴェルという名は詩人尾崎喜八が翻
訳した「一登山家の思い出」の著者、エミール・ジャヴェルに由来している。
2代目オーナーは高橋保夫さん。昭和15年(1940)東京生まれで初代と共に富士見に移住し、高
校卒業まではそこに住み、その後は霧ヶ峰沢渡に移った。当時、霧ヶ峰はスキー場として有名で、
池のクルミや強清水あたりは大賑いだった。だけど沢渡は人の気配はまるでなかった。そんななか
で初代は沢渡にジャヴェルを建てた。だが客が来なければ商売が成り立たない。投資してもお先真
っ暗だった。だがいま2代目になって足かけ50数年も山小屋が続いているのも、当時から支えて
くれる人々が数多くいたからである。人々に助けれ山小屋も成り立ってきたのだ。
2代目、高橋保夫さんは大学時代は東京にいたが、卒業した年の昭和38年(1963)の春、
ここへ戻ってきた。人間にはそれぞれの生き方や人生があるのは当然で、その当時、遅かれ早かれ、
いずれは山に生きる心つもりはあった。彼は父の生き方に同調できる要素が多々あったのも事実で
ある。
保夫さんは父から大きく影響を受けたと認めている。保夫さんはクラシック音楽が大好きだ。
中学生のころ、家にあった SP レコードをときどき聴いていたが、それも父の影響である。当時は
珍しかった外人演奏家のコンサートに父に連れられていったり、また山スキーにも一緒に出かけた
りした。
高橋保夫さんは一度だけ勤め人になったことがある。 29才のとき第14回南極観測隊の一員
として、2年間越冬生活を経験した。南極では設営の仕事をしたが、厳しい寒さと美しい極地の景
色、そして人間関係の大切さ人の輪の大切さを学んだ共同生活だった。
保夫さんにはもう一つ、忘れられない体験がある。25才のころヨーロッパに2年間滞在できた
ことだ。これは達郎さんからの「自由な時間」というプレゼントだった。
ヨーロッパではドイツ、オーストリア、スイス、フランス、イタリアと、山村を中心に訪ねた。
達郎さんも日本からきて親子二人はウイーンに7日間滞在した。達郎さんはベートーベンに造詣が
深く、ヒュッテ・ジャヴェルにはベートーベン
のレコードが全曲が揃っていたほどだ。親子は
ウイーンにあるベートーベンの墓地を訪ねた
とき、品のよい老夫婦と出会った。その人に
「ベートーベンのお墓はどこでしょうか?」
と尋ねた、すると
「私もお参りするところです。一緒にお参り
しましょう」
連れだってお参りができた。別れぎわに
名前を聞いたところ
「△xx、ケンプ」
と名乗って老夫婦は別れていった。それを聴
いていた達郎さんは、ふっと立ち止まり
【高橋達郎の随筆】
【高橋保夫編集】
「いまケンプと云わなかったか?」
父の思い出
突然云った。それを聴いて保夫さんは跡を追いかけた。
そして老夫婦に再度尋ねたところ、
それは世界のピアノのマエストロ、 ヴィルヘルム・ケンプさんその人だった。