瀬戸内「周防大島」(山口県大島郡)いま そしてそのむかし

 瀬戸内「周防大島」(山口県大島郡)いま そしてそのむかし
「お日和でよろしうござりますよのう」 「水を一杯飲ませてつかさりませ」
「はいはい ここにありますけぇ まぁ.一服休んでいきなされませ」 ある農家の軒先で旅人と
1 島人口の変動 人口急増期とさ過疎化への道
明治17 70000 昭和元年 57000 昭和45年 38000 平成20年 21000 毎年 500 人減少
1732年-35年の3年で大飢饉で人口の3分の一失う その後旱魃 貯蔵に強く収穫の多い「さつまいも」
伝来で1735年以降100年で人口4万増 島全体で3.6倍の55000人
全国の人口は々100年で14万増の2700万人と比べるとその急増ぶりが分かる「芋喰島」と呼ばれる
2 みかんの島大島 (屋代島 金魚島とも)
昭和初め栽培始まる 歴史的には稲作 薩摩芋 養蚕 生糸暴落でみかんへ
最盛期はみかん農家2200件 昭和47年みかん暴落 昭和60年1700件 平成7年940件と減少
急傾斜地で放置園増加 そうしたなか平成7年東京からIターンの牧英男さん(52)廃園借用で「牧農園」を
和田で開園 家賃5千円 米代5千円 酒代1万円の3万円で生活始める 現在13年目で健在65歳
3 ハワイ移民の島
明治18年官約移民始まる 第1回移民船「東京市号」で944人 明治27年から6年間民間「契約移民」で
6万2千人がハワイへ渡る 18世紀ハワイの土着民40万人19世紀に3万4千人に減少サトウキビ栽培の
労働力不足で移民を受け入れてきた 明治33年ハワイ王国アメリカ合併 米国移民法で移民は廃止
「行こうかメリケン帰るかジャパンここが思案のハワイ国」
当時の服装印袢纏 股引 女単衣帯 下駄履き 賃金大工一日10銭ハワイは80銭 白米一升 石油一升16銭の時代 朝6時ー夕4時労働 月26日で十五円 労働歌「ホレホレ節」 今大島の帰化市民
は1万人大島小松に「ハワイ移民資料館」がある
4 村上三島衆 水軍 海賊の島
能島 来島 因島の海賊 16世紀瀬戸内で私関 通行税(帆別銭) 警固料を取った
浮島の宇賀島海賊と上関の村上海賊が2大海賊で抗争 1555年厳島合戦で大内家に謀叛を起こした
陶晴賢(宇賀島海賊)と毛利元就(村上海賊)が争う 毛利軍が勝ち大島西部は村上東部は桑原が領有
和田に村上家の田屋(領主の私宅)がある 毛利の御船手組は大島に給料地を受ける
船頭 大工棟梁 梶取 船大工 大島出身者が多い
5 島初めての純喫茶「すみれ」昭和23年開業 政村哲雄 里子さん(ハワイ生まれ)夫妻 コーヒーと
舶来品も島では珍しいハイカラ品を手がけた
哲雄さんは新聞6紙を切り抜きファイル店の話題つくりに 日経新聞は島で初購読した 平成20年里子さん逝去で60年の歴史を惜しまれつつ閉じた 哲雄さん(93歳)の元気秘訣は
「元気で健やかだよ」玄米 きのこ でんぷん 酢 ごま 野菜 海藻 大豆 ヨーグルト… 玄米を削って白米
…米へんに白で「粕」(かす)ですよ
6 夢のかけ橋完成 昭和51年7月4日 大正10年渡し船 昭和9年県営で無料 16年10銭 21年国営 51年橋完成で国鉄 防予汽船廃船
本土側大畠と大島側小松を結ぶ橋 ここは大畠瀬戸渦潮の名所 北前船の航路で都と四国九州から
日本海への要路であった 鯛釣船の名所でもある
島民43000人の悲願 昭和51年7月4日完成 昭和41年架橋調査費100万円計上でスタート
全島民1戸10円募金 全長1020m 幅6.5m に歩道 色はみかん若芽色
星野哲郎作詞「しあわせ橋」水前寺清子歌もできた 7 明治30年 郡立「大島海員学校」開設 代わりに明治28年郡役所は屋代から久賀へ移転
34年県立大島商船学校 昭和14年国立に 昭和26年大島商船高等学校 2
昭和42年大島商船高等専門学校 現在も全寮制 5年6月終了 生徒500人 島唯一の国立学校
8 昭和13年 「大島八十八ヶ所霊場めぐり」発足
四国霊場の縮尺版 島一巡全里程38里 163㌔
「あなうれし行くも帰るもとどまるもわれは大師と2人づれなり」 同行2人の精神 大師信仰 求道遍路の旅
村々に善根宿 房舎施(お接待で功徳を積む)をした
1 一番霊所 快念寺(安下庄) 五十一番 神屋寺(津原) 七十二番 浄西寺(油宇) 八十八番 薬師寺(安下庄)
9 1866年「四境の役」第2次長州征伐の舞台で幕軍に占拠された大島 芸洲 石洲 萩 上関(大島口)から征長軍
大島口から幕軍上陸 「きたぞきたかや前島の沖に2本ぼうぼう蒸気船」 郷土大島防衛隊 「百万一心大島一心」の郷土防衛隊 用兵参謀は村田蔵六(大村益次郎) 覚法寺の大洲鉄然僧侶60人で
護国団 真武隊を結成 海軍総督奇兵隊の高杉晋作に早駕籠で救援にはしる
丙寅丸で久賀に救援隊 幕軍は海上へ逃亡した 源明山頂に大島口戦跡碑 久賀に「精忠不朽の碑」戦跡公園 今も油宇浄西寺の石垣に砲弾跡が残る 島の奇兵隊楢崎剛十郎 世良修三など 2週間の戦跡で郷土隊27人没
10 昭和18年6月8日 「陸奥」43580トン爆沈
武蔵 大和につぐ武蔵 日本海軍連合艦隊の隠れ家 呉海軍工廠近くの柱島停泊地大爆発 1121名
が犠牲に 同じ型の長門」とペア最強艦船だった 火薬庫の爆発が原因 昭和25年三好艦長夫人の
決意で引き上開始 47年完了 伊保田に陸奥記念公園 「陸奥の塔」星野哲郎作詞 あぁあの海に陸奥は眠る…
11 「墓と寺」 「集落と海」 瀬戸内大往生の島
「生老病死」の世界…生と死が別のものでなくしっかりと あの世とこの世がたがいに交信をしている姿
やさしさ ぬくもり つましい日々の暮らし 忘れていたものを思い出させてくれる島
繁栄の中でおき忘れてきたものがい生きづいている瀬戸内の島
12
「民俗学の旅」 宮本常一(1907-1981) 全国6千㌔を歩いた民俗学者
私は長い間歩き続けてきた 多くの人々にあい多くのものを見た その長い道程の中で考え続けた
ひと つは いったい進歩というのはなんだろうか 発展とはなんだろうか ということであった
すべてが進歩しているのであろうか 進歩に対する迷信が退歩しつつあるものをも進歩と誤解し
ときにはそれが人間だけではなく生きとし生けるものを絶滅にさえむかわしめつつあるのではないかと
思うことがある 進歩の影に退歩しつつあるものを見定めてゆくことこそわれわれに課されている重要な
課題ではないかと思う」 泥にまみれた庶民の生活そのものの中に人の生きる明るさたくましさをとらえようとしている
宮本民俗学が今の時代開明的です 大島は老人核家族が多いが土地に根付かず種に根付く
核家族世帯同士 連合の薩長土肥型の拡大家族といわれ 土着定住的なのが東北型大家族制度と異なる
13 「東京卒業」 山口県
山口県は1986年から人口減が慢性化毎年4万人…Uターンを呼びかけるメッセージ広告
を新聞広告 850通の手紙が来た 東京という大都会と郷里への思いがそれぞれの人生に
重ね合わせて綴られていた 東京には人が根を張る土がない…
14 大島郡4町(大島町 久賀町 橘町 東和町)が平成16年合併 新町名募集で「周防大島町」誕生応募5910点のなかから合併協議会で決定