11.ダムに沈む村 - 日本ダクタイル鉄管協会

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随筆
に白い花が咲いたように見えて美しい。 1,
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追い集める仕事を請負っているようで、放牧
頭以上の牛が点々としている姿である。
の群れに白系ロシヤ人は見受けられなかった。
放牧は、蒙古人がその技術が優れているよ
幾度か夕方の道一杯の巨群に出逢って、ホ
うで、一家族が移動式住居の蒙古ポーに生活
一、ホーと大声をあげて鞭を振る牧童の牛追
をして父親、子供は何匹もの犬を連れて馬に
いを見たが、裸馬を上手に乗り廻す元気な少
乗り、大きな長い鞭を上手に使って数の牛を
年たちの姿に見惚れたことである。
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川
ここにひとりの民俗学者がいた。椋梨夕、ム
の恩恵を受ける三原の人である。この人は豊
田村水没の話を聞くと発心するところあって
直ちに会社をやめた。なんの蓄えもあるわけ
でもないし、加えて病弱であったがダムに沈
む村の人々の歴史を民俗を将来の人々のため
に残そうとしたのである。そのような情熱に
かりたてていったものが一体なんであったの
だろうか。
やがては湖底に沈む村の人々に対する深い
熱い心はどこからやってきたのだろうか。そ
れはその人自身にも他人にはよく説明でき得
ないものであったかもしれない。あれは夕、、ム
呉市水道企業管理者
笹 本 毅
竣功の前後ででもあったろうか。ふと、テレ
ピのスイッチを入れた時その人の顔が映って
いた。アナウンサーがずい分ご苦労なさいま
広島県の椋梨ダムの近くには、西宮神社(大
したでしょうと尋ねた時、その人はただひた
和町箱川)という小さな社がある。その境内
すらに泣いたのである。村の人が懐しくてと
にまた小さな歌碑が建っている。その碑面を
いいかけてそのまま言葉を失ったのである。
読んでみよう。
それを見ていた私も覚わず涙がにじんできた。
!日:豊田郡豊田村に人造湖が出来る/この話
数回の大手術で人工旺門となり、緑内障の
を耳にして 4年 余 村 を 歩 い た / 開 発 が 平 和
悪化で失明に近くなるまで村を歩き村の人と
な村を蝕んでゆく/足で印して 1
0年 / 遠 い
語り、伝来の風俗習慣、民具、生活用具など
昔の様で常に新しく鮮やかである/
を記録し撮影したのである。
湖底に
さて、わが国の民俗学独立の創始者のもっ
新はリ道と
とも重要なひとりは柳田国男氏であるが、柳
なリし家も
田国男氏の学風の影響を受けた人はいても柳
草木もわれに
田氏の感受性は独歩のものがあったように思
もの言ひかくる
この歌碑は、昭和 53年 5月に建っている。
われる。しかも柳田学の大事は実はこの感受
性にあるのであって、柳田氏の死とともに柳
この歌碑の傍らに「ダム水没記念碑」があり、
田学の神髄も失われて、継承するものはいな
そ の 裏 面 に は ダ ム 竣 工 式 昭 和 44年 3月 29日と
いということになる。これは偉大な創始者に
書かれている。もう 10年前の話になる。
共通する運命で、あって、以後の弟子たちによ
昭和 5
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0 第2
7号
ダクタイ jレ鉄管
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って創始者の学風は変質していくものといっ
日本人が明治開国以後、工業立国を旨とし
てからダムの築造ははじまったのである。明
てよい。
なぜこんなことをいい出したかといえば、
治以後の繁栄が、あるいは都市生活者の近代
「ダムに沈む村 J 広 島 県 椋 梨 ダ ム の 民 俗 調 査
文明の享受がすべて農村-の犠牲の上に成立し
をした人は、柳田国男、溢沢敬三、宮本常一
たことは、今日においても本質的には変化は
の系譜につながる人であったからである。夫
ないのである。生産様式の変遷は生活様式の
人が働いてやっと糊口を凌いでいた家にその
改変を生み、人心に作用した。文明の濃度は
志を励まし、調査費の一部にと月々送金して
稀薄の状態を現出したのである。
くれたのは宮本常一氏ひとりであった。その
40年 以 前 の 、 小 数 の 思 想 家 文 人 が 主 張 し た
宮本氏が「ダムに沈む村」の序文を「ひとこ
近代の超克は、今や国民多数の課題となって
とJ と い う こ と で 書 か れ で あ る 。 こ の 「 ひ と
しまった。重大な理由のひとつはあらゆる資
こと J は 本 書 の 内 容 に 触 れ な が ら 、 か つ ま た
源の有限性である。ひとつは人間疎外の情況
日本の民俗学の本質に触れた部分があるので、
である。心のむなしさである。人はパンのみ
そのことについて少し述べてみる。こう書い
によって生きるものではないと西方の聖者の
ている。「もっと血のかよった、しかも地元の
いったことが実感として心にこたえる時代に
人たちの生活を具体的にうかがい知ることの
なってしまったということである。近代の文
できるような書物をまとめ、そのような人た
明を乗越える新文明の創造がこれからのもっ
ちが、ダムのできた後、どのように散ってい
とも重要な国民の英知を傾むけるべき問題で
ったかをもっきとめ、ダムができることによ
ある。その意味において今日の若者は勇気を
って人々の生活の上にどのような変化がもた
持ってこの困難な、しかも全人類が望んでい
らされたかを書きとめておこうとした。」とあ
る課題に挑戦しなければならなし」私自身の
る。もって本書を印した人の気持がどこにあ
端的な考えでは、アメリカとソピエ卜の思想
ったか明らかであろう。また、「日本には実に
を粉砕する自主独立の思想を日本自身が持た
多くのダムが戦後各地につくられ、その人た
ねばならない。先人がしたように絶学を興し
ちが永く住みついたふるさとを追われていっ
明日への創造の母胎となるような学問、行動
た。追われたことを喜んでいる人々もあるで
を起さねばならないのである。それは偏狭で
あろう。しかし大半の人は立ち退きがたい思戸
はなく、確固たる個性である。確固たる個性
いに苦しみ悩んだのである。しかも問題がい
ははじめて世界史の光栄となるものである。
つも金で解決されようとしてきた。そのこと
今日、よくいわれる価値観の多様化は文明史
からくるやり場のないさびしさをなぐさめて
的観点からすれば、新文明創造への過程であ
くれるあたたかなものは周囲にはほとんどな
る。ある意味では混沌たる芸術的時代から新
い。そうした人たちの心の火を消さないよう
しいものが芽ばえてくるように思える。
につとめた珍しい人であった。」とも書かれで
いる。
さて話は元に帰える。
rダ ム に 沈 む 村 」 は
調査の動機からはじまって、調査をはじめた
都市生活者は、ダムができることを当り前
頃の苦心、やがて村の人との心の交流がはじ
のように思いがちであるが、水没者の運命に
まった話、古墳・古蹟、寺、村の変遷、村の
しんしん
l温い思いを寄せる心は大切なものと泌々思う。
生業、民家、民具、年中行事、婚姻、出産、
遠い昔の開発とは荒蕪の地を都にすることだ
講中、葬儀が印され家の移転、墓の移転、や
った。それは高葉集の歌の中にも見えること
がてダムの完成といった順序で印されている。
である。美しい山村を人造湖にする発想はな
年 8月 広 島 県 が ダ ム 建 設 を 発 表 し て 10
昭 和 34
かったのである。それはせいぜい溜池を造る
年目に県営多目的ダム椋梨ダムの完工式が行
ことによって用は足りた。生活様式が水田耕
われたのである。
作を主としていたからである。
3年 1
1月 2
8日 腸 閉 塞
さて、この著者は昭和5
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随筆
で 夫 人 と か か り つ け の 医 師 と 看 護 婦 の 3人 に
これは三原の鮮本刀良意氏のことである。
見守られて静かに亡くなった。 68歳であった。
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EssαU
私 は 2年 半 前 、 下 水 道 局 長 就 任 の あ と 、 冗
談に職名の下水道局長の頭文字の r
下」を、
降雨時には外して水道局長に、また晴天時に
はこれを冠して下水道局長となれば、私の仕
事は安穏であろうと周囲にもらしたことがあ
るが、どっこいそう簡単に問躍は卸さず、大
雨、渇水、いずれの場合も平素無策、無為で
過していたならば、私の下水道局長としての
逃避の場はあろうはずもなく、大自然と市民
の逆りんをかつてこっぴどい自に遭ってしま
っ
。
人間が自然を征服するなどという思いあが
りはもってのほかである。また自然のなすま
まに任せるのも、愚者の採るところであろう。
出口末人
自然と人間の真の調和こそ、人の豊かさと幸
せであるならば、私どものような仕事に携わ
福岡市は昨年、 90年 来 と い う 異 常 渇 水 に 見
舞われ、文字通り言語に絶する水不足の辛い
る者は麿かれた英知とたゆみない精進のため
身を挺さなくてはならない。
苦しい体験をした。 10カ 月 に わ た る 制 限 給 水
なおここで、水害という言葉で思い出した
1日 5時 間 給 水 と い う 苛 酷
が、今は亡き前福岡市長阿部源蔵氏が在任中、
は、ある一時期、
なまでの節水を市民に強いた。
にもかかわらず、その制限給水期間中の 6
月 10目
、 11日の両日に、 198.5ミリの降雨があ
やはり相当長期の渇水に見舞われたことがあ
った折、ある市民の数百人の集りで挨拶され、
「このたびの未曽有の大水害で・・・・・・・・・云々」
り、下りっぱなしのダムの貯水率をやっと元
といわれ、驚いたことがあった。同席の市会
に 戻 し て は く れ た が 、 そ の 時 、 時 間 降 雨 量45
副議長の某氏が、
ミリを記録し、市内随所で浸水騒ぎがおこっ
からな」と苦笑いをしつつ、天井の一角をし
はうはう
てい
た。私は這這の体であった。実は私の所管す
る下水道局の仕事は、下水道に加えて河川管
理を持っているのだ。
連日の猛暑と晴天に、人も物もそして自然
「渇水も水害には違いない
ばし見詰めておられたことがあった。
水も正数が大きくなり過ぎると氾濫、洪水
を招き、負数になると渇水でまた手痛い目に
あわされる。
も乾き切って、水洗便所に使用する水の不足
渇水と水害のあいだを揺れ動いて仕事をし
と、河川維持用水の枯渇により、浄化能力を
ている私は、少しでもこの揺れ幅を狭くする
衷った河川!から発する悪臭、異臭への市民の
ようにしたいと念じている。
遣る方ない憤糠と、厳しい批判にさらされて
いた時、この突然の降雨は正にと恵みの雨と
であったのだが、皮肉にもそれが浸水騒ぎを
おこし、弱り目に崇り目となった次第である。