Inspiring Minds: Eleftherios P. Diamandis Prepared by Misia Landau Sponsored by the AACC History Division and Department of Laboratory Medicine Children’s Hospital Boston e-mail [email protected] キプロスの南岸のリマソルとパファスの港の間に、ギリシャの女神であるアフロディーテが、海の泡か ら現れたと言われている場所を示している岩がある。ローマの詩人オービットは、-多くの神話の言い 伝えがその島で起こったと言うのと一緒に-彼の叙事詩である Metamorphoses の中で、そのことについ て詳しく話している。千年以上にわたるキプロス人を先祖にもつ Eleftherios Phedias Diamandis は、 そこからそれほど離れていないリマソルの外にあるフィールドで、サッカーをして成長した。ゴールポ ストとして石を使い、彼と彼の友人は夜になってボールが見えなくなるまで遊んだ。 夏に彼は、島に点在するイナゴマメの木から長くて甘い皮の鞘を振りまわしながら野外で働いた。大 変だったが、報酬の良い仕事であった。1 日の終わりには、彼は両親と姉の Elli と一緒に住んでいる 質素な岩の家に帰った。彼が 12 か 13 歳であったある日、イヤフォンからトップ 20 のヒット曲が流れ てきた時、彼は小さなトランジスタラジオで、地元のイギリスの放送を聞きながら部屋で座っていた。 “私は音楽を聞くと、音楽が内部のエネルギーと一緒に素晴らしい喜びを私に与える”、と彼は言った。 ミュージシャン-the Beatles、 the Rolling Stones、the Who-は、彼のヒーローとなった。“私は 彼らに熱中した”と、教授でトロント大学医学部の薬学と生理学の研究部門の中にある臨床生化学のト ップであった Diamandis は言った。 情熱は神話の復讐の女神と一緒に、Diamandis に襲い掛かる癖がある。数年後、大学で、彼はテニスラ ケットを初めて持ち、すぐにゲームに熱中した。 Diamandis の専門に対する変遷は、段々と同じようなパターンに合うように現れた。彼は化学を選択し なかった-化学が彼を選んだ。彼は学校で良く実験し、化学への進路に配属された。彼は 10 年に渡っ て研究に突き進み、彼の家族の中で初めてキプロスを離れた-大学、博士号、最終的には医学校のため にアテネへ旅立ち、大西洋を渡ってトロントへ行き、そこで彼は 27 年間住んだ。 1 その間、彼は分析化学者から臨床化学者となり、それから分子生物学者、そして最近では質量分析‐体 内を途切れなく動いているプロテオミクスがベースとなっている-のスペシャリストとなり、挑戦し続 けた。バイオマーカーの研究は、探究が難しいことで有名であり、破られた約束ばかりが散りばめられ ていた。彼はその研究分野のリーダーとして名声を得て、前立腺特異抗原(PSA)や他の疾患に関与す るタンパクに、とても感受性の高いアッセイを開発した。 “私が彼に初めて会ったとき、Diamandis はカナダにおいて PSA のキングでした。”と、カルガリー 医科大学の生理薬理学の教授であり、1980 年代に Diamandis に初めて出会った Morley Hollenberg は 言った。彼の名声は、研究の全く新しい分野を切り開いたカリクレインの発見によりさら広まった。 それを一見したところでは、キプロスの田舎から国際的な科学の最高点への旅は、島で起きたといわれ ている驚くべき変化のうちの 1 つのようである。大概は神や外部の力によって起こる神話の言い伝えと は異なり、Diamandis の変化は主に Diamandis が行っている-彼に与えられた論理的発展の 1 種であっ た。 彼のウェービーヘア、濃い眉毛、深い茶色の目で、Diamandis の暖かさや、何かに没頭していることが 分かる。“彼は一度もシリアスな顔をしたことがない-彼はいつも笑ってユーモアのセンスがある”と、 トロント医学大学の薬学・病理生物学研究室の准教授である George Yousef は言った。“彼に会っても、 この分野で彼の地位が高いとは思わないだろう”と、Hollenberg は言った。“彼の輝きはバーで彼に 会って、‘お仕事は何ですか?’と言った際に、感じる印象からかけ離れている”。実際にそうであっ た。少年にもかかわらず、彼は限界に到達し、広げるだけの情熱的で強固で不屈な本能を持っていた。 “私は、自分の力をどこに使うか見るために、いつも新しいことを探究したかった”と、彼は言った。 “私は到達できると思った所に、限界を押し進めたかった。それはほとんど内面での奮闘であった。” 彼は、ドラマのなりたいものになれるという感覚を、テニスのゲームにも用いる-“私はスーパースタ ーを真似したい。”と、彼は言った。-そして、彼が敬愛する教職に。近頃 Diamandis は、彼が見つけ た最も聡明な生徒に囲まれて、ほとんどの時間を過ごす。彼は、彼らが科学者としてだけでなく、彼ら のベストを引き出せるように彼らを指導し、おだてる。彼は科学、音楽、スポーツに対する情熱を、彼 らと同じ次元で一緒に共有する。彼は自分の研究室を the Advanced Center for the Detection of Cancer または ACDC と名付けた。“AC/DC は私の最もお気に入りの 70 年代のバンドであるため、そう名 づけた。”と、彼は言った。毎年、彼は彼の研究室メンバーに、少しありふれたロックミュージックを ビデオによって、その世界を紹介する。“私たちはいつも負けます。”と、Yousef や部署の彼の同僚 は言った。それは、計画の一部かもしれない。ついでに言えば、彼はテニスや他のスポーツで負けるこ とが嫌いであるが、Diamandis は彼の生徒に勝利の味を味あわせたかった。 “彼はいつも研究室を前に進めようとしています。彼は‘我々は発見の栄光を得た。もしある日、他 の誰があなたよりも先に発見したら、あなたが発見したのではない’と彼は言いました。それは、彼が いつも私たちに気付かせようとしていたことです。-大きく、世界規模の競争であるため、スローダウ ンせずに-そして、もし私たちが最初であれば、私たちはベストでしょう”と、Yousef が言った。 2 Diamandis の自身の完成に対する才能は、リマソルの外のサッカーフィールドや、彼の父親である Phedias が主に建てた小さな石の家にも、トレースすることができる。有名なギリシャの彫刻家の名前 に由来する Diamandis の父親は、沢山働き、賢く、創造的な男性であり、若い家族が外や地元のレンガ 工場で働き支えられていた。完璧な職人であり、彼は靴や修理が必要な物なら何でも修理した。“彼が したことは何でも、彼は完璧に行った。”と、Diamandis は言った。彼は社交術も持っていた。“私の 父親はとてもきらびやかであった。彼は外出すると、喜びに満ちていた-みんなは彼と話したがった。” と、Diamandis は言った。ある年、彼は Agios の小さな町である Athanasios の町長に立候補し、勝利 した。そして彼は、18 年間そのポストを務めた。 彼の妻である Polyxeni は、反対の性格であった。彼女は家にいることを好み、月に 1 回、数人の近所 の人と一緒に、大きなパンを最初から沢山焼いた-彼女の息子は徳義上、その習慣を続けた。彼女の夫 のように、地元の教会の聖歌隊で週に 1 回、まだ歌っている彼女の夫のように、信仰が厚く、彼女は子 供を The Christian Orthodox tradition で育てた。他の少年のように、Diamandis は教会の聖歌隊で 歌った。“その当時は、私たちは信仰に疑問を持たなかった。信仰が厚いことは、今やほとんど文化的 な事である”と、彼は言った。 彼は、彼自身をスーパースターと想像することによって、スポーツや音楽に対する情熱を育てた。彼の 母親の主張において、-彼女は彼に博識になって欲しかった-彼は数時間、文学の創造の世界について 掘り下げて調べた。ドフトエスキーやイギリスの医師-作者の A.J. Cronin は彼のお気に入りであった。 Cronin の治療の倫理の劇的な探求は、その後の彼の医学校受験に影響を与えた。 少年の時、Diamandis は最も有望な候補者のようではなかった。彼は素晴らしい生徒であったが、必ず しもクラスで最も賢くはなかった。“多くの子供は素晴らしい。評価では、何人かは私よりよかった。 しかし、成功するには評価よりも多くのものが必要である”と、彼は言った。彼が学校を卒業するまで に、彼はハードワーク、容赦のない予習、恐れ知らずの自信で、新たな状況を探索させる多方面への順 応性という、彼のトレードマークの習慣が出来上がった。 その順応性は、いくつかのチャンスで機能しはじめる。軍にいた 2 年間の後-軍のバンドで 1 日 8 時間、 トランペットを吹いていた間-彼は大学進学のためにアテネを訪れた。公共建築の素晴らしさは-パル テノンは彼のお気に入りの場所であった-彼の生活状況と著しく対照的であった。それは学生の奨学金 で住むには、ほぼ不可能であった。学問的に、彼はほとんど 1 人であった。“私は相談相手という言葉 の意味を知らなかった。”と、彼は言った。また彼は、彼の知識を豊かにする唯一の方法であった PhD の意味を理解していなかった。 彼は、大学院研究で分析化学に着手し、数か月で論文のアドバイザーはいなくなった。殆ど備品のない 研究室に 1 人残され、Diamandis は周りを見て、チャートレコーダーと電極を見つけた。彼は論文のプ ロジェクトを決定し、ピクリン酸の電極を作った。“なぜ?““ピクリン酸はその研究室で入手するこ とができた。”と、彼は言った。“ピクリン酸の電極の必要性があるか?。恐らく、ない。しかし、私 は気にしなかった。私はこの挑戦に対処する目的があり、私は挑戦しようとし、行った。たとえ、必要 性がなかったり、誰もそれをみにしなくても。” 3 実際に Diamandis'の電極は、とても価値あるものとなった。彼は尿中や血清中のクレアチニンレベル を測定するために、利用可能なものにした-腎機能の指標であるクレアチニンを電気化学的に測定した のは初めてであった。その経験によって、彼が全く新しい分野である臨床化学に進んだ。“私は、‘あ あ、そのような事があるのか’と言った。”と、彼は言った。臨床面に興奮し、触発され、彼が小さい ころに医者に関する本-A.J. Cronin の患者に関する長編小説を読んだことによって、彼は医学校を受 けることを決めた。 この時までに、彼は妻である Anastasia と結婚した。彼女とは大学で出会った。彼は彼女の知識に影響 を受けた-“彼女は科学において、トップの生徒であった-私よりもはるかに。”と、彼は言った。彼 らの原動力は似ており、彼の両親に似ていた。“もし、私が車を運転するとき、私はアクセルを踏むよ うに言う;彼女はいつもブレーキを踏む。”と彼は言った。“私は時々、リスクをとりすぎるため、私 にとって、それは良い働きをする。私はとても早く決断をするが、彼女はとてもゆっくり決断をする、 それは美しい妥協である”と彼は言った。彼らの 2 人の子供-Maria と Phedias-は、彼が医学校のテ キストを勉強している時、Diamandis の膝に座っていた。 彼と Anastasia の両方は、ギリシャ経済が下降していることが分かった。テニスラケットの費用は、彼 の給料の半分であった。“3 つのテニスボールを買うためには、もう半分を出す必要がある”と、彼は 言った。彼はイリノイ州の大学へ短期ポスドクのため行き、北アメリカへ戻りたかった。彼は 2 年間の 臨床化学のトレーニングプログラムに申し込むことを決めた。彼は 50 の申請書を送ったが、49 の却下 を受け取った。“1 人の男性、トロント大学の Dr. David Goldberg だけが‘興味がある’と言った” と、Diamandis は言った。Goldberg は実際に彼の教授をイリノイに呼び、高位の分析化学者である Howard Malmstadt が、“彼を採用しろ”と言った。Diamandis は通常のポスドクの給料の 3 分の 1 の給 料で採用されたが、3 か月後には彼の給料は全額に上がった-そして、もし彼が戻ってきたければ、彼 の仕事は保証された。 アテネの医学校を終了した後、Diamandis は家族と一緒にトロントへすぐに戻った。次に起こったこと は、Diamandis が生徒に話すのが好きなことである:彼は大学から独立した小さな会社で働き始めたが、 臨床生化学部の非常勤職員であった。彼は部の毎週行われるセミナーに参加し、列の前に座って質問し た。“なぜ?議長は列の前にいるから。”と、彼は言った。それぞれの話が終わった後、彼は本当に良 い質問に答えるよう確認した。“それは、私は良いということを行動で示した”と、彼は言った。2 年 が経った頃、議長である Andrew Baines は、彼に彼の代理にならないかと尋ねた。6 年後、彼は臨床生 化学の主任となった。 “その話は、あなたに何を伝えますか?”と、Diamandis は言った。“それは、私が決断し、情熱的で あり、私が注意深い-良い計画者ということを言っている。私はゲームをしているのではない。ちなみ に、もしあなたがそれをゲームと呼びたいならば、私はゲームをしていた。” 迅速な研究で、彼は時間分解蛍光の技術を習得し、それを超高感度分析、特に PSA の分析の開発に用い た。そして、いくつかは運命のようである。“科学の人生において、いわゆる黄金期という時はやって くるだろう。いったんあなたが準備をし、何か-これやあれ-を発見したら、絶好調な時が来た。私に 4 とっての絶好調期は 90 年代後半であり、その時 PSA を研究しており、PSA に似た遺伝子がもっとある という確証を得た”と、彼は言った。最初に、PSA は 3 つの遺伝子の小さなファミリーの一部であると 思われていた。Diamandis は Yousef と他の有能な卒業生と一緒に仕事をしており、以前に 19 番染色体 の未開拓の領域に、15 の遺伝子の大きなファミリーを見つけた。 カリクレインは、凝固カスケードでお互いに影響し、活性化しながら、結びつきの強い遺伝子ファミリ ーをもっている。注意不足ではないが、それら全ての相互作用が分かるのに数年かかるだろう- Diamandis と同僚は、タンパクを研究している多くのチームの一員である。彼らは、卵巣や膵臓癌のよ うに、悪名高く、とらえにくい疾患新たなバイオマーカーの同定も競っている。 Diamandis は午前 5 時半に起床し、コーヒーと自宅で焼いたパンを食べ、元気に運動-AC/DC、Pink Floyd、Led Zeppelin-大抵はトレッドミルをする-を 70 分間する。彼はお気に入りの 1970 年代のバ ンド-でいっぱいにした iPod を持ってマシーンに乗る。彼は、トレッドミルに乗ったり降りたりする ことは、1 日の中で最悪で、またお気に入りの瞬間であると主張する。“終わった後、とても実りがあ る”と、彼は言った。 彼は午前 7 時過ぎに、家族、ギリシャ文明の記念品、Hollenberg によるカリクレインの中国のはけ塗 り法の絵がたくさんあるオフィスに訪れる。彼は生徒や同僚とのミーティングに 12 時間を過ごす;実 験計画や臨時のミュージックビデオの可能性-Diamandis はロックだけでなく伝統的なギリシャ音楽を 演奏する;そして、助成金や原稿の修正-もし、彼が彼の子供をウィンブルドンのテニスの優勝者にし ようとした場合、何が起こるかを説明するような、厳しいが皮肉たっぷりできまぐれなものである。彼 は午後 7 時に退室し、Anastasia との夕食のために帰宅する。 数年前、トロントの郊外の街のあるオークビルに家を買った。最初に Diamandis がしたことの 1 つは、 テニスコートを作る事であった。“今は、それは運動競技場になっている”と、彼は言った。殆どの週 末、家族全員がそこにいる。現在、神経病理学の研修医をしている息子の Phedias と、公認臨床化学者 である娘の Maria と一緒に、Diamandis はいつもテニスをする。“私たちは外でサッカーをする-バド ミントン、ゴルフ、野球なども。”と、彼は言った。Maria には最近、Anastasia という子供が生まれ た。“本当に、私のお気に入りの時間は、孫と一緒にいるときである”と、Diamandis は言った。“彼 女を抱き、彼女と一緒に遊び、彼女の笑顔を見る時、私は忌々しいトレッドミルから降りることよりも 素晴らしいと思う”。 Footnotes Sponsored by the Department of Laboratory Medicine, Boston Children's Hospital © 2013 The American Association for Clinical Chemistry (訳者:間下 有子) 5
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