[ 映像 と お話] バイカ ル湖 の旅 富澤 克祀 姿を見せ てく れ た 。 1 4 日、 の 2 日 目。 植 物 観察 船 で約 1 時間。カ デ イリ ナ こ ヤ ヘ。 ヒナゲ シ こ で は、 シベリ ア鉄道 組 と 飛行 機組 と分 かれ て の出 の旅 は、 車窓 の景色 をな が めた り、途 中 駅 の た。 今 日 エー デ ル 売店 で食 料 を調達 した り、 ロシア語 のア ルフ アベ ット のにわ か勉強 を した り、美 人 の車掌 も 昼食 は フィー ルドガ イド の手製 の料 理 であ る。 夕刻 、 船 で約 2時 間、 リ ストビ ヤ ンカ に 発とな った。 シベリ ア鉄道 組 の坂 田氏を含 む さ んや、隣 接す る コンパート メ ント の子供づ 戻 った。 フ イ スや 201 2年 9月 に開催 の APECの準備 のた れ の客達 とも仲良 くな った り で、 退屈す る こ 4人 は、 2011年 7月 7日成 田空港 から ウ め大規模な道 路 工事 が行 わ れ て いた。 翌 8日 は、ウ ラジ オ スト ク の市 内 見学 の後、夜 、 シ となく 目的 地 のイ ルクー クに 11日夕方 、定 1 5日晴 れ、 イ ルクー ツクに 戻る途中 、木 シベリ ヤ ベリ ア鉄道 に乗車 、 列車 の旅 の スター ト であ 。 ワ ハ ︶ 造 建築 博 物館 を見学、 午 後 はイ ルクー ツク の ラジ オ スト クに向 か った。 空港 から ホテ ルま シベリ ア鉄道 は、今 回 の旅 の目的 の 一つで 刻 ど おり到着 した。 ここで、 飛行機組 の2人 で の1時 間あ まりを車 で走 ったが、途 中 は、 ユー ラ スツ アーズ であ る。 こ の旅行会 社 の社 もあ つた ので、大変 楽 し みだ。 列車 は、 8日 と ホ テ ルで合流、全員 が揃 った。 翌 12日は、 バイカ ル湖畔 の町リ スト ビヤ あ ふれ る地 形 学 と高 山植 物 の宝 庫 ∼﹂ に参加 したも のであ る。 参 加者 は私 を含 め て5名 、エージ ェントは、 ン の儀式 を見学。 深夜 に ホテ ルを チ エツク ア 1 6 日、 プ リ ヤート族 の博物館や シ ャー マ も見 られ 山 の自然 学 研究 会﹂の会員 で 長 の坂 田氏 は、﹁ 22時 3 0分 に定刻 ど お り出 発した。 いよ い 山 の自然 学 研究会﹂主催 の海 今 回 の旅 は、﹁ もあ り、今 回 の旅 でも、 7月 1 2曰ま でわれ よ シベリ ア鉄道 の旅 の出 発 であ る。 車内 は、 ンカ ヘの移動 であ る。途中 、展望台 から バイ バイ カ ル湖 ハイキ ング ∼ ロ マン 外 巡検行 事 ﹁ わ れと 同行 、 巡検 の仲 間 であ ると 同時 に添乗 快適 で旅 の疲 れもあり熟睡 できた。 長 い列車 ウ ト。 空路 ハバ ロフスクに向け 出発す る。 郷 土史 博 物館 、教会等 の市内 見学。 員 の役 目を果 た し て頂 いた。 カ ル湖 を望 み、 博物館、植 物 園 に立ち寄 リバ 大 な アムー ル川 の流 れ は印象的 であ った。 ハバ ロフ スク市 内 見学。 雄 ル ヘ移 動。 午 後、 1 7日、 早朝、 ハバ ロフ スク空港着 。 ホテ イカ ル湖 に ついて の基礎 知識 を仕入 れ る。 こ こま で同行 の坂 田氏と別れ る。 13日、 植物観察 の第 一日目。船 で約 1時 間 目的 地 に到着。 パド ・チ ョルナ ヤ ヘ。 フィ 1 8日、ハバ ロフ スク空港 から帰 国 の途 に。 わ って いな い自然 のま ま の素晴 ら し い姿 を 見 世 界自然 遺 産 のバイ カ ル湖 は、 人 の手が加 る ことが出来 た。鮮や かな朱色 のカ ノ コ ュリ、 緑大会総△ じ に残 し て欲 し い。 ︵ 5月17日 於 ・ ー ルドガ イド は持参 の植 物 の図鑑 で、 ラテ ン イブ キジ ヤ コウ ソウ、 シ ャジ ク ソウ等 も見 る ことが出来 た。 昼食 は、 彼が作 った キ ャンプ ●暑 気 払 い 七 月 一九 日 ︵ 木 ︶ 一三時 ∼ 語 の学 名 を示 し てく れた ので正式な名前 を知 の飯食 炊暴 の雰 囲気 の料 理を楽 しんだ。 植物 於 〓J A C会 議 室 会費 千円 準備 の都合 上、 要申 込 8 &聟x8占S ?譴 紀 松本迄 せ てく れた。 い つま でも こ の美 し い姿 を後世 観察 を しな がら、宿泊 地 のボ リ シ ョイ ・ヨ ブ イま で散策。 湖 面に時 々バイカ ルアザ ラ シが -1- がら登攀に関わ った人たち の寄稿を編集 した本 です。 題名 のように本文も英語で書 かれ ていま この翻 訳が宮下さん の手によるも のだと知りま したが、残念な記述もありました。﹁ 日本山岳会 禄爽会報 H 8 号 で遺稿 を拝読 し て、はじめ て らも、一読す るだけ で終え てしま つていました。 をどなたが訳さ れた のだろうかと いぶかりなが 写真も挿入され ています。 これだけ の長 い記録 のまま読ん でいるよう でした。槙さんが撮 った な章 で、 ほとんど全文が根さん の ﹃山行﹄をそ ﹁ アイガー北東稜 の初登攀﹂ はとりわけ重要 登攀︶ ドイツ語に翻 訳さ れた のが宮 下 啓 三氏 であ ドイツ語版 ヽい卜頁 アイガー北東稜 の初 る。︵ り で、英語版 にはま つたく欠落 している字句 で す。 さん の紹介も別頁にあります。 それらは次 の通 と紹介 され ています。また寄稿者と し ての官 下 ていた のが大間違 いでした。 ドイツ語版 には宮 下さんがドイツ語 への初翻 訳者 であ るときちん 注意が払われ ていて、内容 は同 一だろうと考え そ の知人から、 アイガーに ついてまとま った す が 、 英 語 版 に よ る と 原 本 は ﹃口嘔﹃ た F ´ 口■rF b鳳口﹄ ②なるドイツ語 の本 です。編 の会員たち に気付 いてもらえな いので、自分か 署 □ ベルン在じ とな つていま 者 は U目諄︼レ昴円 ︵ す。 ら この事実を報告さ せていただ いた次第 です﹂ ど こにも宮 下啓 三 の名が見当たりません。英語 しました。見落としがあ つたかもしれませんが、 員。著作 に ﹃スイ ス ・アルプ ス風土記﹄︵ 0一S、 い 京 の慶応大学ドイツ文学教授、 日本山岳会会 Co∞o年生︶根 有恒氏 の文を翻 訳した。東 B.宮下 啓三 エピソードが書 かれ ていることがわかります。 版 しか読んでな い自分 の怠慢を棚に上げ て、近 遺言を語 知りました。さ っそくプリントして ﹃ けで、禄爽会報がイ ンターネ ットで読めるのを 藤沢教会 での前夜式 に参列した のがき っか 杉本 賢治 ︱ ﹃山 行 ﹄ のド イ ツ語 訳 ︱ 官下啓 三さん のお仕事 目次を迫 いますと、取付きから頂上ま で、北 とある のです。あらためて手元 の英 語版を見直 グリ ン ヽどアルレギ稜Vの間 に ﹁ A頂上氷 甲 とへヽ 本が出たからと送られてきた のが 冒∬q 目8 く■腎巴E風重﹄ ①でした。アイガー北壁 の登山 史を歴史的 および地理的な エピソードを交えな ﹄に ることができ て私はうれしく思 つています。 壁 の古典 ルートに沿 った要所とそこにかかわる A.夢山史 で重要な 翁山行﹄の︶ 一章を初め て 感銘を受けながら ﹁ 増えた山の名、消えた山の 名﹂を読み終えました。 喜 の会﹂が初め 宮下さんとお会 いした のは ﹁ デ ルヴ アルトと 日本 におけるアイガー の意義 ﹂ な る章 があ り、へヽ ヽッテ ルレギ繊アとA頂上vの問 に ﹁ アイガー北東稜 の初登攀﹂と いう章が置か にも翻訳者が紹介され てな いのだから、会員が 藤 緑さんにお手紙をさ しあげました。本 のど こ ﹃ウ イリアム ・テ ル伝説﹄ 貧o一0 ,マoo 歳 田孫 一さんと遭遇 したときに ︵ ﹃アルプ﹄〓ヽ 号︶同行していた保科清子さんと三井基子さん から、 この出会 いに ついて ﹁ ま いん べるく会﹂ 気づかれな いのも無 理な いのではな いかと生意 の記念演奏を前に猛練習中とか。☆ ﹁ 東北支援 の タベ﹂に向け、 こちらもリ ハーサ ルに懸命。 ︵ K︶ 孫 一アンサ ンブ ルのメンバー。斜里のアルプ館 で 編集後記 ★寄稿された杉本さんは往時 の串 田 ☆ ② ︻o8 年 ﹂ お ぎ 貯 ¨ ” u邑 な 民 営 ≧甲 ︵ツ ューリ ッヒ︶ 出版 シ ① No8 年 、 ξ Φg 日 ●すμ 8o 日 ∪8r ︵ アト ル︶出版 脚注 と思 いますが、 ひさしぶり の読書 で日が疲 れま した。 コ﹂ ま で導 いて下さ つた近藤 緑さんに感 , 謝 し、宮 下さん の霊安 かれと祈 り つつ、 これに て終えます。 他 の頁 にも富 下さ ん のお名前 が 出 ているか のスイ ス﹄︵ いooじ がある。いず れも 日本調 ドイツ語版 N一o頁︶ ︵ れ ています。 者とならんで翻訳者 の名前が書 いてあるくら い 違 います。Aミ どアルレギ稜Vの頁に直行 し、宮 下さん の名を探 しま した。英語版 の扉 には寄稿 は頁数が英語版より多く、写真 を挿入した頁も 図書室 で探t 出 し て いただ いた ド イ ツ語版 勝手な ことはいえま せん。 会 の図書室 にあ る ﹃ 目 円 アイガ ー﹄ と いう 嘔 美 しい書物 の中 に私 の訳が収められ ています。 ﹂ と書かれている のです から、ゝ﹂ れを読まず して、 ドイツ語に翻訳しました。日本山岳 ご自身が、﹁ にと のご 示唆 でした。 その通り です。宮 下さん 近藤 さ んから即座 にご 返信 を いただき ま し た。山岳会図書室にあ るドイツ語版を見 るよう 気な ことを書 いてしま った のです。 でお聞き し ていま した。 山仲間 に三輸利雄 くん ︵ 永 年会 員︶や 山岳会 入会 で紹介者 にな って下さ つた山下 一夫さん の 子息 であ る隅野成 一くんなど 五人が います。三 輸 くんと克 子さん ︵ユーデ ルフイ ス ・クラブ︶ の 一粒種が今 井喜美 子さん のお弟子 にな り、学 問 でも宮 下さ ん のお弟子さんにな つたと いうご 縁があ り、 ドイ ツ在住 の仕事仲間が宮下さん の 教 え子と いう偶然もあ って宮下さん には片想 い の親 しさを感 じ ていました。 引 退 後や っと行 け る よう にな つた ア ルプ ス 周辺 の山歩 き で知り合 つたグリ ンデ ルヴ アルト の知人が、口 ■0胸 な る休暇住宅に改築 した , のを機 に仲 間 は毎年 のよう に同家 に滞在 して知 人 一家 と親交を深め ています。 だ から、ドイツ語から英語 への翻訳には十分な -2- てだ ったと思 いますが、宮下さんが農鳥岳で串 央) (中 アイガー東 山稜初登頂を果た し地元の人たちやガイ ドらと喜び合 う横有恒
© Copyright 2024 Paperzz