ロベール・シューマン

ヨーロッパ統合と独仏枢軸
果たしてきた役割と拡大に伴う今後のゆくえ
市川文子
2004 年 5 月 1 日、欧州連合(EU)は中東欧諸国 10 カ国を新規加盟国として受け入れ、
全 25 カ国となった。域内面積は日本の約 10 倍(398.2 万万 k ㎡)、人口 4 億 6500 万人(日
本の約 3.6 倍)を抱える世界第 1 位の経済圏の誕生である。そして 2007 年にはブルガリア
とルーマニアを加え、27 カ国体制となる。EU は新たな時代を迎えようとしているのだ。
約 60 年前まで、憎しみ合い戦争ばかりを繰り返し、多大な犠牲者を出していたヨーロ
ッパ、特にドイツとフランスの歴史から、一体誰が今日の EU の姿を想像できたであろう
か?どのようにして欧州は統合されてきたのだろうか?そして 21 世紀の EU が抱える問
題と EU の将来像とはいかなるものなのか?この論文では欧州統合の原動力として機能し
てきた独仏枢軸を中心に、EU が今日まで歩んできた道とそのゆくえについて論じたいと
思う。
欧州統合は 1950 年、フランスの外相ロベール・シューマン、ジャン・モネの起草によ
る「シューマンプラン」の発表と、それに基づいて翌年設立された、ECSC (欧州石炭鉄鋼
共同体)により第一歩を踏み出した。その統合の第一歩は同時に、独仏枢軸の誕生でもあっ
た。そもそも欧州統合は、長年にわたって敵国関係だったドイツとフランスが、戦争の絶
えなかったヨーロッパに平和をもたらし、仲直りをしようという願いから手を取り合った
ことに始まる。今日に至るまでの統合は独仏枢軸主導の下に進んできたのだ。両国の関係
なしにはヨーロッパの建設は成しえなかったといっても過言ではないだろう。
創設当初の加盟国はフランス、西ドイツ、イタリア、ベネルクス 3 国(ベルギー、オラン
ダ、ルクセンブルク)の 6 カ国であった。その後、EDC (ヨーロッパ防衛共同体)構想の挫
折を経て、1957 年ローマ条約の調印により翌 1958 年には EEC(ヨーロッパ経済共同体)と
EURATOM( ヨーロ ッパ原子力共同体 ) が設立された 。さらには 1965 年に 3 共同体
(ECSC,EEC,EURATOM)の機関を併合する条約が結ばれ、EC(欧州共同体)が誕生した。
しかし、ドゴールのフランスによる PAC(共同農業政策)改革案への拒否に伴う 1965 年の
ボイコットで、7 ヶ月に及ぶ共同体の機能麻痺という空席危機が起こった。1966 年のルク
センブルクの妥協によってようやくこの危機を回避した EC は 1969 年に開かれたハーグ
会議で「完成・深化・拡大」を目指す決議を採択し、さらなる統合を進める。1974 年に
はパリ首脳会議を開催。欧州理事会を創設し首脳会議の制度化、拒否権の乱用防止、欧州
議会の直接選挙の実施、地域開発基金の設立などを決定した。1984 年、欧州議会で欧州
統合の新たな基本的枠組みともいうべき「欧州同盟条約草案」が採択された。この草案は、
その後の機構改革の本格化、つまり単一欧州議定書の成立に直結することになった。そし
て 1986 年に「単一欧州議定書」が調印され、特定多数決制の導入、欧州議会の権限強化、
新分野への共同体活動拡大などが規定されたのである。1992 年には市場統合の完成と単
一欧州議定書による政治統合の強化とを土台にして、欧州同盟条約(マーストリヒト条約)
が調印され、EU の誕生となった。欧州は経済通貨同盟と政治同盟に向けた統合の新たな
段階に踏み出す。そして 1998 年に単位通通貨「ユーロ」の導入が決定され、ECB (ヨー
ロッパ中央銀行)が発足、2002 年よりユーロ貨幣の流通が 11 カ国で開始された。
独仏関係に焦点を当ててみていくと、1950 年に互いの歩み寄りを見せたシューマンプ
ランによる二国関係の誕生から現在に至るまで、時には対立し、またある時には親密にな
ったりと様々な障害を乗り越えながらも欧州統合の推進力として機能し、欧州と共に築き
上げてきた強力なパートナーシップが伺えるだろう。1963 年には独仏協力条約(通称エリ
ゼ条約)を結んでおり、独仏枢軸はより強固で恒常的なものへとなっていく。ドイツ・フラ
ンスが目指す欧州の姿は前者が連邦的統合、後者は主権は残した国家統合型というように
異なるものであったが、それでも互いに妥協案を模索しながら進み続けてきた。この論文
では統合の過程に触れながら歴代の独仏首脳の関係について、ドゴール・アデナウアー時
代からドイツのメルケル政権誕生まで順を追って述べていきたい。また、ドイツの統合や
イギリスの台頭、ニース首脳会議での関係悪化、2003 年のエリゼ条約 40 周年記念式典で
発表された独仏共同宣言といったような、独仏関係に影響を与えた出来事についても触れ
ていく。
拡大に関しては、1973 年のイギリス・アイルランド・デンマークが加盟した第 1 次拡
大を皮切りに、1981 年のギリシャ、1995 年スペイン・ポルトガル、1995 年オーストリ
ア・スウェーデン・フィンランド、そして 2004 年に中東欧諸国 10 カ国が加盟した第 5
次拡大までを、紆余曲折を経ながらも成し遂げた。2007 年にはブルガリア・ルーマニア
が加わり全 27 カ国となる。総人口は約 4 億 9000 万人。創設当初は想像できなかった「大
欧州」の誕生である。加えて現在加盟交渉中の国々もあり、今後もどこまで拡大を続けて
いくのかが焦点となっている。
しかし、拡大が進み加盟国数も多くなった EU は様々な問題に直面している。この論文
では拡大と深化における問題について言及したい。
まず、深化として欧州憲法を取り上げる。EU は前述したとおり 2007 年に 27 カ国体制
となる。その拡大に伴い EU 自体を管理するシステムを整えることが必要である。その中
心が欧州憲法の批准・発効だ。しかし 2005 年のフランス・オランダでの批准否決を受け
て、現在は足踏み状態であり、2007 年前半に議長国となるドイツの対応に期待がかかっ
ている。だが、ドイツ・フランスそれぞれの姿勢には違いが見られる。既に現草案を可決
しているドイツは現在の骨組みをなるべく維持し、早期発効を目指している一方、フラン
スはそこまで憲法の発効を望んではいない。現行のニース条約を発展させていけばよいの
ではという見解だ。
次に拡大問題であるが、第 2 次東方拡大を控えた EU はトルコの加盟問題や EU 拡大の
リミットなど多くの問題を抱えている。トルコに関しては独仏共に加盟ではなく「特権的
パートナーシップ」構築をとるべきとしている。
もう一つ触れておきたいことが小国の態度である。その例としてデンマークを取り上げ
る。現在まで独仏軸とイギリスなどの大国中心で進んできた EU。特に独仏の決定が EU
全体の決定となっていた図式がある。こういった大国独裁型の EU に小国は懐疑的になっ
ている。
デンマークは 1973 年に EC に加盟したが、1992 年のマーストリヒト条約批准を国民投
票で否決、2000 年のユーロの導入を問う国民投票で否決したという歴史を持つ。拡大・
深化に対しては反対はしていないが、大国中心の EU へは厳しい態度を示している。
今日までヨーロッパは独仏枢軸で進んできた。この二国関係の重要性は無視できない。
そして今後も同様に重要であり続けるであろう。EU は両国なしでは更なる深化も拡大も
なしえない。独仏関係がうまく機能するときにこそ欧州の深化は前進していく。だが、EU
の中での役割は今までとは異なるものに変化していくのではないだろうか。これからも主
導権は独仏枢軸にあるかもしれないが、主導の仕方は自分達の利益だけを中心にして行わ
れるのではなく、各国の仲介役として機能していくことが理想のように思われる。加盟国
が増えれば増えるほど、それだけ多様な個性を持った国が存在することになる。各国の利
害も多種多様であり、そのベクトルを全て同じ方向に向かせることは不可能である。そう
いった、みんなが納得できるような、もちろん独仏自身も含めてだが、妥協案を模索しな
ければならないという状況の中で、独仏が間に入り意見をまとめていければ更なる欧州統
合が可能になるのではないかと考える。また、欧州拡大のリミットに関しては、これは大
変難しい問題ではあるが、やはり EU 自体、いずれは
完成
を迎える日が必要になって
くるのであるから、何らかの形でそのリミットを設けなければならないであろう。現在、
この内容について明文化していく動きがあるので注目していきたい。最後に私が考える EU
の将来像であるが、個人的にはドイツが望むような連邦のようになっていくのではないだ
ろうか。もちろんこれは遠い未来の話であるが、今直面している拡大や憲法といった課題
をクリアしていった後には超国家的な EU が完成するのではないかと思う。そう単純なこ
とではないが、欧州統合が始まった約 60 年前には今日の EU の姿など想像さえできなか
ったはずだ。同様に 60 年後の EU も我々の想像の域を超えた姿になっているの可能性は
決して否定できないであろう。