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第 10 回:オーストリア
オーストリアの幼児造形教育から学ぶこと
─ 三つのキンダーガルテンの視察調査から─
●
若山育代[広島大学大学院教育学研究科学習開発専攻博士課程後期 3 年]
わかやま いくよ
●
東京学芸大学大学院
教育学研究科学校心理コース修了。
現在、広島大学大学院
教育学研究科学習開発専攻
博士課程後期3年。
専門は幼児造形教育、教育心理学。
第 2 次世界大戦後、オーストリアの造形教育が日本へ伝わるこ
自己教育力が育まれていくというプロセスを信じていたこと
とによって、日本の造形教育思想や方法論は大きくシフトした。
による。こうしたチゼックの考えはオーストリアから世界中に
こうしてオーストリアの造形教育は日本の造形教育の土台とな
広まり、日本においても造形教育思想の土台となった。
り、現在でもその思想は受け継がれているにもかかわらず、日本
このような背景があるものの、日本では現在、オーストリ
ではその実態はあまり知られていない。そこで、オーストリアの
アの造形教育の実態はあまり知られていない。そこで本レポ
第 2 の都市、グラーツにある三つのキンダーガルテン(幼稚園)
ートでは、オーストリアのシュタイアマルク州の州都であるグ
を視察し、そこで行われる幼児造形教育の実態を調査した結果
ラーツを訪れ、三つのキンダーガルテンにおける造形教育実
をレポートする。
践と、子どもたちの創造力と自己教育力の育ちについて視察
を行った。
はじめに
調査対象となったグラーツは、ウィーンに次ぐオーストリア
造形教育は子どもの知・情・意すべてに働きかけ、それら
第 2 の芸術文化都市である。グラーツが芸術文化都市である理
を豊かにする全人的教育活動である。造形教育では子どもが
由は、ヨーロッパ有数の古都であると同時に現代芸術の発信地
描いたり作ったりすることで知性や感性を広げ深めるだけで
としての顔も持つためである。さらにグラーツはヨーロッパ屈
なく、作品を通して他者との心の通った関わりや情動体験を
指の大学都市でもあり、人々が教育へ向ける期待が高い街でも
持つ。そしてこのような子どもの体験は、子ども中心主義の
ある。つまり、グラーツでは美術と教育が地域の人々や街全体
造形教育によって可能になる。
と深く関わっているのである。これらの理由から、本調査では
この子ども中心主義の造形教育は、オーストリアのフラン
オーストリアのグラーツを調査対象とした。
ツ・チゼック( Franz Cizek )という美術家であり美術教育家
の思想に強く影響を受けている。チゼックは第 1 次世界大戦
36
オーストリアの教育制度
後、精神的に豊かで創造的な国民を育成するために、子ども
マリア・テレジア( Maria Theresia )*1 が教育制度を制定
たちの創造力と自己教育力の育成という目標の下、子ども中
して以来、オーストリアでは現在、9 年間の義務教育が定めら
心の造形教育に積極的に取り組んだ 。チゼックが子ども中心
れている(図表 1)
。オーストリアの教育制度は、EU 共通の教
主義の造形教育を行ったのは、大人とは異なる子ども独自の
育・職業訓練プログラムを背景としており、EU が開発した同
世界認識の仕方や子ども本来の創造力が子ども中心主義の造
プログラムは、平和と調和の実現、多民族・多文化・多言語の
形教育でこそ育まれるという確信を持っていたこと、そして
共生に必要な能力の育成を目指しているのである。
創造力が発揮されることによって主体的、積極的に世界に働
こうした背景から、オーストリアの教育は子どもたちが自
きかけ、健やかにたくましく自分自身の可能性を広げていく
分で自分の未来を創造し充実感のあるキャリアをデザインす
● 調査概要
調査のポイント
(1)キンダーガルテンの全体的特徴
① 保育室・クラスの様子
② どのような遊具が設置されているか
調査時期
2008 年 1 月 4 日から 1 月 21 日
調査方法
キンダーガルテンでの観察と教師へのインタビュー
(2)幼児造形活動の特徴
① どのような題材で行っているか
② 子どもたちの造形活動の様子
③ 教師による造形活動の展開方法
調査協力園
ウォルドルフ
コッハー
ギョスティング
調査日
1月9日
1 月 8 日、17 日
1 月 15 日、16 日
ロケーション
グラーツ郊外住宅地 グラーツ郊外住宅地
職員の数
4名
職員構成
教師 4 名
特徴的カリキュラム シュタイナー学校
グラーツ郊外住宅地
8名
10 名
園長 1 名、教師 7 名
園長 1 名、教師 9 名
モンテッソリ学校
独自のカリキュラム
モンテッソリ思想
(3)インタビューの項目
① 園の教育目標(どのような子どもを育てようとしているのか)
② 保護者の様子
③ どのようなことを重視して実践を行っているのか
④ 教師になるためにどのような勉強をしたのか
⑤ カリキュラムの組み方
ることができるようにするだけでなく、EU という国際社会の
図表[1]オーストリアの教育制度
枠組みの中でよりよいヨーロッパコミュニティを創造するこ
25
とのできる主体的、自立的人物の育成を目指している。つま
24
り自己教育力と創造力の育成は、オーストリアだけでなく同
23
21
のこれらの力は EU の未来に関わるのである。
20
14
K.G と略す)が独自の教育活動を展開している。そのため、あ
13
る K.G で行われていることが同じように他の K.G で行われて
11
いるわけではない。また K.G は私立と公立に分けられるが、
10
12
9
私立 K.G ではさまざまな教育哲学者の理念に基づいて実践が
8
行われるため、その理念に共感する保護者がさまざまな地域
7
4
育を行っている。
3
術と教育が街全体に根差すグラーツの中でも、特に造形教育
に力を入れ独自の実践を展開している三つの K.G を対象とし
た。一つ目はシュタイナー思想に基づく「私立ウォルドルフ
K.G」である。ルドルフ・シュタイナー(Rudolf Steiner )は
23
22
★1
20
Borg
HBLA
商業
一般教育 教育
専門学校 専門学校 専門学校
ギムナジウム(Gymnasium)
一般教育学校 高等学校
ギムナジウム
実科ギムナジウム
経済実科ギムナジウム
18
★2
17
16
15
14
ギムナジウム(Gymnasium) 13
義
一般教育学校
務
12
中学校
教
11 育
︵
10 9
年
9 ︶
フォルクスシューレ(Volksschule)
小学校
8
ハウプトシューレ(Hauptschule)
職業訓練校
7
6
キンダーガルテン(Kindergarten)
幼稚園
就
5 学
前
4 教
育
3
★ 1 ヨーロッパの高等教育の構造的統合を目指した 1999 年のボローニャ宣言
以降、オーストリアにおいても学士課程、修士課程、博士課程の 3 段階
課程制が採用されるようになった。だが、専攻によっては旧来の 2 段階
課程制を採用している専攻もある。この 2 段階制とは、ディプローム課
程(4 ∼ 5 年)と博士課程(2 ∼ 3 年)からなる。
3 段階制を採用している専攻例として、生物学や経済学などがある。2 段
階制を採用している専攻例としては、心理学がある
★ 2 ギムナジウム修了試験に合格後マトゥーラ(大学入学資格)を取得
※ Bundesministerium für Unterricht, Kunst und Kultur“Schools and Education”
http://www.bmukk.gv.at/enfr/index.xml を基に作成
NO.13
子どもたちが多く通っており、各園が独自の地域密着型の教
このようにさまざまある K.G の中から、本レポートでは、美
HAK
6
5
24
19
HTL
15
めた幼児保育学校法に基づいて各キンダーガルテン(以下、
から子どもを通わせている。一方、公立 K.G には近隣に住む
学士課程
テクニ
カル専門
16 学校
17
25
21
19
18
オーストリアの幼児教育は、地方自治体や連邦州政府が定
修士課程
22
時に EU 共通の教育目標でもあり、オーストリアの子どもたち
オーストリアの幼児教育と幼児造形教育
博士課程
(2∼3年)
*1 中世から20世紀初頭にかけて繁栄したハプスブルク家の全盛期の女帝であ
ったマリア・テレジアは、
「一般学校令」を公布したことでも知られている。
37
2008
調査時間
9 時から 12 時
オーストリア生まれの教育哲学者であり、彼の思想に基づい
た造形教育実践はオーストリアの伝統的造形教育である。二
つ目はモンテッソリ思想に基づく「私立コッハー K.G」であ
る。モンテッソリメソッドは現在、オーストリアでポピュラー
な幼児教育であるが、多くの K.G が部分的にモンテッソリメ
本来持っているはずの創造力を抑制してしまうのである。そ
ソッドを導入する中で、コッハーは正統的モンテッソリメソ
のような悪循環を解消するために、子どもは自分の思い通り
ッドを全面的に採用する K.G である。そのようなコッハー
に自由に水彩画を描き、社会的な制約から解放され、本来持
K.G で行われる造形教育は、正統派モンテッソリ造形教育で
つ創造力を存分に発揮する経験が必要なのである。
ある。三つ目は「公立ギョスティング K.G」である。地域密着
このような狙いの下、水彩画活動は毎週水曜日の朝に行わ
型の教育を展開する公立ギョスティング K.G では教師を専科
れる。教師は四つの切画用紙を水に浸し、赤・黄・青の絵の
に分け、専科ごとにプロジェクトベース教育を行っている。現
具を水で溶いておく。また、机を四角く並べて、一度に 4 人の
在、このようなプロジェクトベース教育には多くの注目が集
子どもが描けるようにしておく。子どもたちは好きな時にやっ
まっており、オーストリアの幼児造形教育に新しい風を吹き
てきて、椅子に座り絵を描くことができるのである。
込む存在として見逃せない。以上、三つの K.G における造形
子どもたちは熱心に水彩画を描きながらも、とてもリラッ
教育を取り上げることで、子ども中心主義をベースとする現
クスした様子であった。のびやかに丸や四角、線や点を描い
在のオーストリアの造形教育の実態をさまざまな視点から明
たり、スクリブルを楽しんだり、色を重ねたりしていた(写真
らかにすることが可能になると考えた。以下では視察対象と
1)。例えば、ある女の子は画用紙の右半分にカラフルに線を
なった K.G で行われている実際の幼児造形教育について報告
引き、左半分には筆から絵の具をぽたぽたと垂らしてさまざ
する。
まな技法を楽しんでいた。
ある教師に勧められて筆者も 1 枚水彩画を描かせてもらえる
オーストリアの幼児造形教育の実践例
ことになった。ところが、子どもたちはするすると思いついた
● 事例① ―私立ウォルドルフ K.G
ものを気持ちよさそうに描いていたのに、筆者は何を描こうか
ウォルドルフ K.G では、シュタイナーの教育思想に基づい
戸惑ってしまった。子どもたちを見習ってまずは赤を置いてみ
た実践が行われている。シュタイナーは、豊かな知識や情動、
たところ、思いの外に色が滲んだ。次に青を置いてみるとまた
強い意志を持つ調和的人格の育成こそが教育の本来の目標で
予想外に滲んでいって、最初に置いた赤と混じり合う部分が
あると考えていた。そのためウォルドルフでは、そのような調
でてきた。こうして色が滲んで広がったり混じったりして、最
和的人格を育成するために自然素材のおもちゃを使った遊び、
初に描こうと思っていたイメージが崩れてしまった。このよう
音楽、踊り、絵画などの芸術活動を中心とする教育課程が編
な体験を通して、筆者は自分が既存の完成したキャラクター
成されている。
や形ばかりを描こうとしていたことに気づかされた。
[ウォルドルフの水彩画]
ウォルドルフでは、水彩画活動が調和的人格の育成に不可
活動で経験する自己解放は、どのような制約にも捉われない
欠な「自己解放」の場として位置付けられている。ウォルドル
色や形との対話に没頭しているのではないかと思うようにな
フの教師の報告によると子どもは日々、大人の規準に適した
った。対話とは筆者のように社会的に形成された固定的なイ
振る舞いをするように求められ、さまざまなストレスにさらさ
メージや思いをただ絵の具に押しつけるだけでなく、絵の具
れたり抑圧された思いを抱えたりしているという。人が心身
が描き手に伝える情報、すなわち絵の具の「声」を聞きつつ自
共に調和的であるためには、心に負担のない豊かで健康的な
分の思いを描くことである。つまり、筆者のように社会的枠
心理的状態が不可欠である。そのためウォルドルフでは水彩
組みに注意を向けるのではなく、この「声」に注意を向けるこ
画によって子どもを抑圧から解放し、健康的な心理状態が回
とによって心の奥にあって普段は現れてこない思いを色や形
復すること、そして子どもが本来持っている創造力を存分に
に乗せて、解放する感覚を持つことができるのである。
発揮できることを目指しているのである。
そして水彩画によって子どもが抑圧から解放されることで、
38
このような体験から筆者は、ウォルドルフの幼児が水彩画
子どもたちがこうして絵を描いている間、教師は他の子ど
もたちが使う画用紙を準備したり、描き終わった子どもの作
子どもは創造力を発揮することができるようになるとウォル
品を片付けたりしていた。時々「見て、見て!」という子ども
ドルフの教師は話す。大人の規準や社会の枠組みは子どもの
がいると、教師は「素敵ね」
「きれいだわ」と顔一面に驚きや
喜びの表情を浮かべて答えていた。教師は決して描き方や何
を描くかを教えたりすることはなく、ただ子どもが描く様子
を見守り、環境を整えるだけであった。
● 事例② ― 私立コッハー K.G
コッハー K.G は、マリア・モンテッソリ(Maria Montessori)
の教育思想に基づいた実践が行われている。主体的で自立的
な精神の育成を重視したモンテッソリの思想に基づいて、コ
[写真1]ウォルドルフの水彩画活動の様子
ッハーの教師たちは子どもの五感を刺激するモンテッソリ教
具を部屋内に配置し、子どもが遊びの中で自ら芸術や言語、
運動、科学、数に触れることができるような環境を設計して
いる。
[コッハー K.G のインプレッション画(impression-painting)
]
コッハー K.G の絵画遊びはそこで子どもが自己の「本性」
を存分に発揮するだけでなく、社会規範や既成概念を壊し自
己規準に基づいて自由にイメージを創造する場にもなってい
る。幼児造形教育を専門とするコッハーの美術教師は、毎週
金曜日の午前中にインプレッション画という絵画遊びを行っ
ている。このインプレッション画は、フランスの芸術教育家、
アルノー・シュタイン(Arno Stern)が開発した絵画教育法
[写真2]コッハーのインプレッション画活動の様子
で、現在ではヨーロッパを中心に広がりを見せている。シュタ
インは、子どもたちが感じたことや伝えたい思いを色や形に
よって自由に表現することで、既成概念や大人のモデルの影
響から解放され、子どもが本来持っている創造力を発揮する
たね」といった言葉かけも行わない。例えば子どもが教師に自
ことができると考えた。このようなシュタインの造形教育観は、
分の絵に対するコメントを求めた場合にも「思い通りのもの
社会的な評価規準よりも子ども自身の自己規準を尊重するコ
ができた?」
「満足できた?」と答えるだけであった。このよ
ッハーの教育観と一致している。このためコッハーの美術教
うな中、ある男の子は壁から数歩下がって自分の絵の全体像
師はインプレッション画を採用しているのである。
を眺めた後、数色の絵の具を選んで教師に混ぜてもらい、で
と呼ぶユニークなアトリエで行われる。美術教師は、このアト
て最終的には誰に意見を求めるでもなく、満足した様子でア
リエに 18 色の絵の具を用意しておき、部屋の中央に一列に並
トリエから出ていった。
べておく(写真 2)
。子ども自身の自己規準を尊重することか
ら、インプレッション画の間、教師は子どもに何を描けばよい
● 事例③ ― 公立ギョスティング K.G
か、どんな色を使ったらよいかを教えることはなく、筆を立て
ギョスティング K.G は、グラーツの公立 K.G である。ギョ
て使うことと絵の具に混ぜる水の量は少なめにすることだけ
スティングでは、現代の情報化社会を健やかに、かつ、たくま
を子どもに教えていた。そして、たとえ子どもが黄色の太陽を
しく生きる子どもの育成が目指されている。ギョスティング
描いていても、それが間違っているとか正しい色はこれだとか
の教師の報告によると、オーストリアの子どもたちは現在、イ
いうような指示は一切出さない。また、子どもを褒めることも
ンターネットやテレビなどの媒体を通してさまざまな情報を
なく、大人の規準を当てはめることになるような「上手にでき
見たり聞いたりすることができるようである。ところがそれら
2008
きた色を使って描き足すということを繰り返していた。そし
NO.13
インプレッション画は、シュタインがクローリエ(Closlieu )
39
の情報は多くの場合、ただ見聞きするだけで終わってしまい
る形以外にも、友達が作る形にも注目させて互いの作品をよ
がちである。しかし教師たちは、本当に大事なことは子どもが
く見せ合うことができるようにするのである。
それらの情報を吟味し、そこから何かを創造することだと考
えているのである。
このような考えに基づき、ギョスティングでは音楽、美術、
6 歳になると、美術史や画家のスタイルを学ぶプロジェクト
が始まる。これは、人類が伝承していくべき文化として子ど
もが美術を捉えるように、文化の作り手である画家やその作
言語、歴史、自然・環境という五つの領域から教育課程が編
品をよく「見る」プロジェクトである。写真 5 は、年長児が作
成されている。また、それぞれの領域は複数のプロジェクトか
ったクリムト(Gustav Klimt)の『期待』
( Expectation )で
ら構成されており、計画や実践はそれぞれの領域の専門教師
ある。子どもたちは、まず『期待』で用いられている手法につ
である担任教師が行う。
いて学び、次にクリムトの生涯について学ぶ。その後、子ども
[ギョスティングの美術プロジェクト]
たちはクリムトと同じスタイルでそれぞれの『期待』を作る。
美術領域では、子どもが物ごとをよく「見る」力を身に付
このプロジェクトによって、子どもたちはクリムトの人生を見
けることが目指されている。ギョスティングの美術教師の報
つめ、作品を見つめ、また、それを通して文化としての美術を
告によると、子どもたちが美術プロジェクトで「見る」ものに
見つめるのである。
は、自分や友達、芸術家の作品といった客観的に目に見える
ものだけでなく、人の「心」といった目に見えないものも含ま
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まとめ― オーストリアの幼児造形教育から学ぶこと
れているという。さらにその美術教師は、美術プロジェクトで
本レポートでは、子ども中心主義に基づくオーストリアの
育つ子どものこのような「見る」力が、情報を吟味し、そこか
造形教育実践と、そこで育つ子どもたちの創造力と自己教育
ら新しいものを創造する力の土台となるとも述べていた。
力の育ちに着目した。チゼックが目指した創造力とは、社会
このような考えに基づき進められている美術プロジェクト
の過剰な期待や枠組みから解放され、子どもが本来持つ自己
は、それぞれの年齢ごとに子どもの発達に応じたプロジェク
規準に基づいて良いと思うもの、作りたい・描きたいという
トが計画されている。
思いを色や形、素材に乗せて作り出すことである。一方、自
まず 3 歳児のためのプロジェクトは、さまざまな材料や道具
己教育力とは子どもが創造力を身に付けることによって育つ
を使うことによって、描いたり作ったりすることに慣れるプロ
力であり、創造的思考によって自分の道を豊かな可能性を持
ジェクトが中心になる。この年齢の幼児は、たくさんの材料
って自立的、主体的に歩んでいく力である* 2。ここで、それぞ
や方法に出会うこと、また美術の可能性に気付くことが大切
れの K.G における子どもたちのこれらの力の育ちについて、
である。例えば、写真 3 は 3 歳児による絵の具遊びの例である
造形活動中の様子を振り返って考察する。
が、これはさまざまなサイズのボールに絵の具を付けて、画用
まず、ウォルドルフ K.G では子どもたちは水彩画活動中に
紙の上で転がしたものである。こうした絵の具遊びによって 3
描きたいものをのびやかに描いていた。さらに子どもたちは水
歳児は自分とボールが描いた線を見つめ、描くことの楽しさ
彩画の活動によって社会的制約から解放される時間を持ち、
を知る。また絵は筆と紙だけでなく、さまざまな道具と材料
これからの未来を健やかに生きていくための心を取り戻して
を用いて描くこともできることを知るのである。
いた。次にコッハー K.G の子どもたちはインプレッション画
次に 4、5 歳児のためのプロジェクトは、道具や材料を使っ
の間、自己規準に基づいて描く行為に没頭していたし、そう
て意図的に色を作ったり、形を作り出したりするプロジェク
することによって自信を持ち、自立的に活動するとはどうい
トが中心になる。写真 4 は 4、5 歳児による共同制作の作品で
うことかを学んでいた。そしてギョスティング K.G の子ども
あり、ひもや紙、綿などの廃材とひまわりの種を板の上に貼
たちもまた、一つの作品を作るために作品や友達、自分自身
りつけて、その上を絵の具で着色することででき上がった大
をよく「見る」ことで、現代の情報化社会をたくましく生きて
きなひまわりである。年中児になると、年少児とは違って意
いく力を身に付けていた。以上から、これら三つの K.G では、
図的に形を生み出すことに楽しさを覚えるようになる。そこ
造形教育によって幼児の創造力と自己教育力が育てられてい
でこのような共同制作によって、自分が描いたり作ったりす
ると考えることができる。
[写真4]年中児による共同制作のひまわり
えるということでもある。これは、チゼックが児童画を美術の
色・形・素材といった造形要素との「対話」があるかどうか
一つのジャンルとして位置付けた第一人者であったことからも
にかかっているように思われる。
「対話」については、ウォル
うなずける。
ドルフ K.G の子どもたちに見られたことを述べたが、ウォル
さらにいえば、芸術と芸術教育が深く関わるというオース
ドルフの子どもたちだけでなく、その他の K.G の子どもたち
トリアのこのような特徴は、日本の造形教育で目指される創
も共通して、色・形・素材といった造形要素との深い「対話」
造力及び自己教育力と、オーストリアの造形教育で目指され
に没頭していたように思われる。なぜなら、コッハー K.G で
るこれらの力の捉え方に微妙な違いを生じさせているように
もギョスティング K.G でも、子どもたちは造形活動において
思われる。つまり日本の子ども中心主義の造形教育によって
材料の声に耳を傾けながら何を美しいと思うか、何を良いと
育つこれらの力は、子どもたちの生きる力の土台となるもの
思うか、どうすれば自分が良いと思うものを創造し実現でき
であり、子どもたちがよりよく生きていくための力である。一
るかを一生懸命に考えている様子が見られたためである。
方、美術が地域や人々、街、さらには国全体の発展と深く関
では、このような子ども中心主義のオーストリアの幼児造形
わるオーストリアでは、子ども中心主義によって育つこれら
教育実践から、日本は何を学ぶことができるのだろうか。もち
の力は子どもたちがよりよく生きていくための力であるだけ
ろん現在の日本においても、チゼックの考えは今も息づき、子
でなく、オーストリアの重要な文化の一つである美術を伝承
ども中心主義やそれによる創造力と自己教育力の育成が目指
していく力でもあり、さらにはこれから新しい美術によって新
されている。だが、オーストリアと日本の幼児造形教育実践に
しいオーストリアをつくり出し、そしてヨーロッパという国際
は次に述べるような違いがある。
社会を支え、世界の可能性を広げていくための力でもある。
まず第一に、創造力と自己教育力の育成を目指して、オー
子ども中心主義の造形教育から始まるこのような創造的国民
ストリアでは上述したようにさまざまな造形教育実践が体系
の育成と社会形成プロセスこそが、チゼックが実現したいと
的に行われている。第二に、コッハーやギョスティングのよう
願った道のりではないだろうか。
に、造形教育を担当する専任教師がいることにより、K.G には
翻って日本の幼児教育の現状を眺めてみるとき、造形教育
造形の部屋が設けられ、創造的な造形活動を促す豊かな環境
の位置付けが決して高いとはいえないという現実に気付かざ
が整備されている。それと同時にそのような教師がいることに
るを得ない。そのような中で我々がオーストリアの造形教育
よって、造形教育は K.G の教育課程の中にしっかりと位置付
から学ぶべきことは、造形教育が持つ豊かな教育力に改めて
けられている。第三に、オーストリアの K.G では、造形教育実
気付くこと、そして自国の文化を守り、育もうとする態度を
践が芸術家や美術を重視した教育学者たちの理論や実践に基
持った子どもたちを育てる場として、美術教育を捉えること
づいて行われている。つまり、オーストリアの造形教育は芸術
である。
2008
造形教育を通してこれらの力が育成されるかどうかは、
[写真5]年長児によるクリムトの『期待』
NO.13
[写真3]年少児によるボールを使った絵の具遊び
や芸術論と深く関わっているのである。子どもの造形教育とこ
れらに関わりがあるということは、オーストリアの重要な文化
の一つである芸術に、子どもたちの造形とその教育が影響を与
* 2 茂木一司「外国の美術教育理論と歴史―チゼック―」
(
『美術科教育の基
礎知識』/宮脇理監修/2000年/p.43)
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