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嘉納治五郎のIOC委員就任の経緯
和田 浩一(神戸松蔭女子学院大学)
I.問題の所在
1909 年の〈春〉、嘉納治五郎は日本駐在フランス大使のジェラールから、国際オリンピック委員会
(以下、IOC)委員への就任を打診された。この発表では、これまで十分に検討されてこなかった、
クーベルタンがジェラールを通して嘉納にIOC委員就任を要請した経緯を明らかにする。
II.史料
この研究で注目すべき史料は、ジェラールのクーベルタン宛書簡(1909 年1月 19 日付、IOC博物
館資料部所蔵)である。入手できた書簡のコピーは判読が困難であったが、モンペリエ大学文学部
講師たちの協力を得て、その全容をほぼ明らかにできた。
III.ジェラールのクーベルタン宛書簡の分析
クーベルタンから 1908 年 10 月 24 日付書簡を受け取ったジェラールは、複数の関係者と相談の
後、ロシア駐在大使の本野一郎の助言に基づき、1909 年1月 16 日に嘉納と会談した。ジェラール
は3日後の1月 19 日に、以下の内容をクーベルタンに返信した。
1.信頼を寄せる本野が嘉納を推薦したこと、2.嘉納は高等師範学校校長・柔術の創始者であ
り、スポーツに理解があること、3.嘉納がIOC委員就任を承諾したこと、4.嘉納は 1889 年にヨー
ロッパを訪れており、正確に英語を話すこと、5.嘉納が日本のスポーツ・運動競技に関する報告
書をクーベルタンに送付すること、6.東京高等師範学校の住所、7.Revue Olympique の嘉納へ
の送付依頼、8.クーベルタンの父の死去に対する哀悼、9.日本の政治的状況
IOCは 1909 年5月 27 日の総会で、ジェラールの報告に基づきIOC日本代表委員として嘉納を
選出した(Revue Olympique, 1909.6, p. 89.)。クーベルタンは同年6月 15 日付書簡で、その旨を嘉
納に伝えた(2003 年度体育学会で報告済み)。
IV.登場人物
1.略歴
・ピエール・ド・クーベルタン(Pierre de Coubertin):1863.1.1-1937.9.2
・オーギュスト・ジェラール(Auguste Gérard):1852.3.28-1922
フランスの外交官、Ma mission en Chine: 1918、Ma mission au Japon: 1920
・本野一郎:1862.2.23-1918.9.17
日本の外交官、リヨン法科大学卒業:1889、ハーグ平和会議全権:1899.7.29
外務大臣(寺内内閣):1916.11-1918.4
・嘉納治五郎:1860.10.28-1938.5.4
東京高等師範学校校長:1893.9-1897.9, 1897.11-1898.6, 1901.5-1920.1
2.ジェラールと本野の接点
1)日清戦争の戦後処理
日 清 (下 関 )講 和 条 約 :1895.4.17、三 国 干 渉 (独 ・仏 ・露 ):1895.4.23、三 国 干 渉 受 諾 (日
本):1895.5.4、清仏通商条約:1895.6.20、遼東半島還付条約:1895.11.8
(ジェラール)清国駐在公使/大使、(本野)全権陸奥宗光外相の秘書官
2)両者のベルギー駐在期間
(ジェラール)公使:1897.12-1906.12、(本野)公使:1898.12-1902.3
3)日露戦争後の同盟関係の構築
露 仏 同 盟 * :1901-1904 に成 立 、英 仏 協 商 * :1904.4.8、日 英 同 盟 :1905.8.12、日 仏 協 約 :
1907.6.10、日露協約:1907.7.30、英露協商 * :1907.8.31=三国協商 * (英・仏・露)の完成
(ジェラール)日本駐在大使:1907.1-1913.12
(本野)フランス駐在大使:1902.3-1906.1、ロシア駐在大使:1906.1-1908.6
4)本野宅(東京)でのガーデン・パーティー:1908.11.15
Gérard, Ma mission au Japon, 1920, p. 101.
3.クーベルタンとジェラールの接点
1)「……余の故國に於ける同窓クーベルタン……」『大日本體育協會史』上巻、1938 年、p.15.
疑問 ← クーベルタン: 1880. 9、サンティニャース校卒業(17 歳)
ジェラール: 1880.11、外務省入省、ワシントン駐在(28 歳)
2)オリンピック・コングレス(1905、ブリュッセル)での協力関係
a 「(コングレスの責任に怯えたIOCベルギー委員の)辞任の仕方はわれわれに衝突を引き起こ
すところだったが、IOCに好意的なフランス人外交官の自発的な仲裁によってこれは回避さ
れた」(下線部、発表者) Coubertin, Mémoires olympiques, 1932, pp. 73-74.
b
委員長クーベルタンの推薦と、ブリュッセル駐在フランス公使の支持により、フランス政府はI
OCベルギー代表バイエ=ラツール伯爵に、公教育功労勲章オフィシエ章を授けた(抜粋)。
(下線部、発表者) Revue Olympique, 1906.1, p. 4.
V.クーベルタンのオリンピズム普及戦略
クーベルタンはIOC委員の推薦を、日本体育会には依頼しなかった。これは既存の体育団体へ
招待状を送った〈ギリシャ委員会〉の手段とは異なるものであり、オリンピズム普及を質的に確保する
ためにとったクーベルタンの方 策であったと考えられる。桑 原(第 一 回 近 代 オリンピックの招 待 状と
北欧)『体育史研究』(1993)、「『アラン』に於る萬國『オリンピア』の遊戯」『體育』(1906.2)を見よ。
VI.結論
嘉納のIOC委員就任は、クーベルタンからの政治的外交ルートを通して実現した。
1.クーベルタンはロンドン大会終了直前の 1908 年 10 月 24 日、オリンピック・コングレス(1905、
ブリュッセル)での協力 者、日本駐在フランス大使ジェラールに書簡を送り、IOC日本 代表委
員の推薦を依頼した。
2.ジェラールは 1909 年1月 16 日、日清戦争後から 10 年以上の政治的交流関係があったロシ
ア駐在大使、本野の助言により嘉納と会談し、同1月 19 日付書簡で、嘉納からIOC委員就任
の承諾を得たことをクーベルタンに報告した。
3.クーベルタンは既存の日本体育会にではなく、「IOCに好意的な」同国人外交官に、IOC日本
代表委員の推薦を要請した。これはオリンピズムの普及を形式的にではなく質的に実現させる
ための、クーベルタンの必然的な戦略であったと見なすことができる。
2004/ 5/21
2004/ 5/21
日本体育学会体育史専門分科会 2004.5.9
たことがあり、たいへん正確に英語を話すわけで
2004年度春の定例研究集会
す が 、あなたがすぐさま、実際に委員会への出席
「嘉納治五郎のI
OC委員就任の経緯」
を求める可能性がかるのか尋ねてきました。しかし、
神戸松蔭女子学院大学
和田 浩一
彼はそのうち会議に参加できるようにしたいと、望
んでいるようです。彼は次のようにもつけ加えてい
ました。任命されてすぐに必要とされる訓令と書類
=====================
をすべて受け取ったときには、国際委員会の(????
●「ジェラールのクーベルタン宛書簡:1909.1.19」
)の性格を日本に知らしめるよう努力すること。他
方 、おそらくあなたが興味をもつと思われる日本の
駐日フランス共和国大使
スポーツや運動競技に関する報告書を、いずれあ
東京、1909年1月19日
なたに送付するということです。
7.ここに、あなたの未来の同僚の氏名と住所を記しま
拝啓
1.10月24日付の手紙にもっと早く返事を書くべきでし
た。私の考えでは、誰が国際オリンピック委員会内
す。
8.
嘉納(治五郎)氏
部で日本を代表するにふさわしい「打ってつけの
東京高等師範学校校校長
人 物 」になるのか、ぜひ示していただきたいという
東京小石川区大塚坂下町114番
9.この住所に、もしくはお望みならその当事者本人に、
内容でした。
2.しかし、あなたの関心についてなすべき調査は、言
委員会の規約と合わせて『ルヴュー・オランピック』
うまでもなく困難を伴うものでした。この件について
一揃えと彼が関心をもつとあなたが判断なさる主
は 、最もすぐれた目利きたちに相談しなければな
要な書類を送ってくだされば、彼はあなたに感謝
らなかったのです。ようやく最後に、長年にわたっ
することでしょう。
て関係がありその判断力には全幅の信頼を寄せる、
1 0 .あなたが送ってくださった通知状で、突然あなたを
サンクト・ペテルブルク駐在日本大使の本野男爵
襲った耐え難いご不幸を知りました。心から哀悼の
の助言にもとづき、われわれ皆がよく知っている東
意を捧げます。
京高等師範学校校長で柔術学院の創始者、嘉納
(治五郎)氏に問い合わせたのです。
11.日本は平穏で静まりかえっています。資源の開発、
財 政 の 立 て 直 し、そして平和への事業に全身全
霊を捧げています。
3.P. de クーベルタン様
「国際オリンピック委員会」会長
敬具
A・ジェラール
パリ
--------------------------------------4.多様なスポーツ、とりわけ柔術、水泳、体操です。
===================
5.嘉納氏は今月の16日に会いに来てくれ、会談後、
●「ジェラールの小村外務大臣宛書簡:1909.1.18」
その席で提案できると思っていた重要な委任につ
いて受け入れる用意があると、表明してくれました。
1909年1月18日
彼は必要な許可が得られるよう外務大臣の小村
拝啓
伯 爵 に 働 きかけて欲しいと懇請されたので、小村
パ リ市トロカドゥロ通り32番に本部がある「国際オリン
伯爵には昨日すぐに、この件について手紙を書き
ピック委員会」会長ピエール・ド・クーベルタン男爵が、
ました。外務大臣は間違いなく、求められた許可
この委員会を代表する日本人と会って欲しいと述べて
をただちに与えてくださるでしょう。
きたので、私はいくつかの調査と必要な照会をおこな
6.嘉納氏は1889年にフランス、イギリス、ドイツを訪れ
った後、東京高等師範学校校長で柔術学院の創始者
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2004/ 5/21
2004/ 5/21
である嘉納治五郎氏に、この選任を受け入れる気があ
○ 鈴木良徳『オリンピック外史』1980
るのかどうか尋ねました。
嘉納治五郎氏はこの申し入れを受け入れる準備が
できている様子でした。私は大臣閣下がこの選出を承
2.大日本体育協会『大日本体育協会史』上巻、1938
年、pp. 15-16.
諾してくださるのであれば、嘉納氏に必要な許可を与
其の当時東京高等師範学校長であった嘉納治五郎
えていただくようお願いせねばなりません。
は 、明 治 四 十 二 年 の 春 、駐 日 仏 国 大 使 ゼ ラール
国際委員会委員のリストを、『ルビュー・オランピック』
Ge'rard から突然会見を申込まれた。其処で早速面
11月号に公表されているままの形で、ここに添付して
会 して見ると、同大使の言はれるには、余の故国に於
おきます。
ける同窓クーベルタン男爵
さらに付け加えさせていただきます。委員会の会議
Coubertin から依頼状が来た。……東洋諸国の代表
は年次的であったりもう少し多かったり(ordinaires)す
として日本も此の事業に賛同され、適当の人物を物色
るわけですが、その一つへの将来の(eventuell)出席
して参加するやう斡旋を頼むと言って来た。茲に於て
については、嘉納氏はいかなる場合でも、このうえな
余 は クーベルタン男爵の意を体して外務省を始として
い喜びをもって迎えられるに違いありません。また、まさ
諸方面の人士に意見を求めたところ、貴下が最も適当
に日本においても、オリンピック委員会の目的と事業
であると推薦されるので、其の為に依頼にお訪ねした
を知らしめ、スポーツと身体的競技的な発展の領域に
のであるといふことであった。
おいて日本が成し遂げた事業に関する報告書を、嘉
○ 鈴木良徳編『オリンピツクと日本スポーツ史』1952
納氏自身がこの委員会に送ることで、彼はその使命を
/ 伊東明『オリンピック史』1959/ 『日本体育協会
果たすことになるでしょう。
五 十 年 史 』1963/ 『日本スポーツ百年』1970/ 池
敬具
井 優 『オリンピックの政治学』1992/ 谷口源太郎『日
A・ジェラール
Baron
Pierre de
の丸とオリンピック』1997/ 村田直樹『嘉納治五郎師
閣下/小村伯爵/外務大臣
範に学ぶ』2001
===================
3.木村毅『日本スポーツ文化史』新版、ベースボール
●嘉納のI
OC委員就任の経緯に関する従来の記述
マガジン社、1978、pp. 40-41.
・出典は以下の3点に集約される。
…しかしその友人ゼラールという外交官がフランス大
注1.詳細が判明した箇所
使となって日本に来て、嘉納治五郎を招き、日本をオ
2.修正を要する箇所
リンピックゲームに参加することを勧めた。明治四十三
3.旧字体は新字体に改めた
年のことである。嘉納の思い出話はこうである。
会いたいというから訪問すると、自分はパリの大学
1.『改造』第20巻第7号、1938年(『嘉納治五郎体系』
第8巻、1988年、pp. 367-368.)
で、いま国際オリンピック会長をしているクーベルタン
と同窓だった。彼から手紙がきて、東洋からまだ参加
最初に私がその交渉を受けたのは明治四十二年の
国がないので、ぜひ日本に参加してもらうように、しか
春である。……。当時東京に駐在していたフランス大
るべく尽力ねがいたいとある。そこで私はこのことをさっ
使ゼラール氏が外務省の肝煎りで、私に会いたいとい
そく小村外相と菊池(大麓)文相に相談すると、しごく
うから、何事かと思って会見した。……
賛成であったから、私は再びジェラール大使を訪ねて、
… … 。ついては私をクーベルタン男が推薦するとい
応諾の旨を答えると、やがて委員会で投票の結果、私
っているから、承諾を願えないだろうか。
が日本の委員に当選したとの通知があった。
これは外務省で調べたり、各方面の意見を求めた結
果、私が最も適任であると、内定したのだ。
3
4
Ambassade de la République Française au Japon
M. Kano qui a visité en 1889 la France,
l'Angleterre et l'Allemagne, et qui parle très correctement
To~kyo~, le 19 janvier 1909
l'anglais, m'a dit que vous pourrez, dès à présent,
permettre au Comité sa présence réelle. Il espérait
Mon Cher Président,
cependant pouvoir prendre part un jour à vos séances.
Il a ajouté qu'aussitôt nommé et lorsqu'il aurait
J'aurais voulu répondre plus tôt à
reçu toutes les instructions et documents nécessaires,
la lettre du 24 Octobre, par laquelle vous
il s'efforcerait de faire connaître au Japon le
avez bien voulu me prier de vous désigner
caractère ???????????? du Comité International, se
quel serait dans ma pensée le "right-man"
réservant, d'autre part, de vous envoyer des rapports,
propre à représenter le Japon, au sein du
qui peut-être vous intéresseraient, sur les sports et
Comité International Olympique.
l'athlétisme au Japon.
-------------------------------------------------------------------
Mais, l'enquête que j'avais à faire
à votre égard n'était pas sans offrir quelque
Je vous donne ici le nom et l'adresse
de votre futur collègue :
difficulté. J'ai dû consulter à ce sujet les
meilleurs juges. C'est enfin sur l'avis de
M. le Baron Motono, ambassadeur du Japon
M. Kano (Jigoro), directeur de l'école
normale supérieure de Tokyo,
à Saint-Pétersbourg, avec qui je suis lié depuis
No. 114 SakaShitamachi, Otouka,
de longues années, et dont le jugement m'
Koishikawaku, Tokyo.
inspire pleine confiance, que je me suis adressé
à M. Kano (Jigoro), directeur de l'Ecole
C'est à cette adresse, ou, si vous le préférez, à l'
Normale Supérieure de Tokyo et fondateur de
intéressé même, qu'il vous sera reconnaissant de vouloir bien,
l'Institut de Jiu-jitsu, bien connu par nous tous.
lui faire parvenir, avec les Statuts du Comité, une collection
de la "Revue Olympique," et les principaux documents que
Monsieur le Baron P. de Coubertin,
vous jugerez être de nature à l'intéresser.
Président du "Comité International Olympique"
J'ai su, par le faire part que vous
à Paris.
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avez bien voulu m'envoyer, le deuil cruel qui vous a
Sur les divers sports, notamment le jiu-jits,
frappé. Permettez-moi de vous exprimer à nouveau
la natation et la gymnastique.
M. Kano est venu me voir le 16 de
mes sincères et affectueuses condoléances.
Le Japon est calme, il se recueille
ce mois, - et s'est déclaré prêt, après l'entretien
et se dévoue extrêmement aux travaux de la paix,
que j'ai eu avec lui, à accepter le mandat im-
ainsi qu'au développement de ses ressources et au
portant(?) que j'avais cru pouvoir lui proposer. Il m'a
rétablissement de ses finances.
cordialement prié de faire auprès de M. le Comte
Veuillez agréer,
Komura, ministre des Affaires Etrangères, une démarche
destinée à lui obtenir l'autorisation nécessaire - j'ai,
mon cher Président, avec mes meilleurs souvenirs ????????
dès hier, écrit à ce sujet à M. le Comte Komura,
l'expression de mes sentiments dévoués.
et je ne doute pas que le ministre des Affaires Etrangères
veuille aussitôt accorder l'autorisation demandée.
A. Gérard