【沖縄県教育庁文化財課史料編集班】 【Historiographical Institute

【沖縄県教育庁文化財課史料編集班】
【Historiographical Institute, Okinawa Prefectual board of Education 】
Title
Author(s)
Citation
Issue Date
URL
Rights
東アジア医療史より見たベッテルハイム史料(2) : 琉球に
おける牛痘法の導入について
帆刈, 浩之
沖縄史料編集紀要 = BULLETIN OF THE
HISTORIOGRAPHICAL INSTITUTE(37): 23-38
2014-03-20
http://okinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/handle/okinawa/17441
沖縄県教育委員会
沖縄史料編集紀要 第 37 号(2014)
東アジア医療史より見たベッテルハイム史料(2)
─琉球における牛痘法の導入について─
帆刈 浩之
はじめに
ベッテルハイムの琉球への貢献として必ず指摘される事績に西洋医学による治療、とり
わけ牛痘接種技術の移入がある。例えば、沖縄医療史を研究した稲福盛輝は次のように
述べている。ベッテルハイムは「西洋医学の施療を試みたが、当時の人々はこれを好ま
ず、その上琉球王府は彼の日常の行動を監視させ、医療行為を禁止させたのである。しかし、
(1)
彼は藩医であった仲地紀仁に秘かに西洋式牛痘接種法を伝授したと言われている」。 琉球
史の概説には、このような説明が広くなされているが管見の限り、根拠となる史料は示さ
れていない。
今回ベッテルハイムの史料を検討した結果、彼が琉球にもたらした牛痘接種技術は確か
に板良敷朝忠などの役人を通して、王府の実施するところとなり、ある程度の成果を見た
ということがわかった。琉球では 13 年に一度、全島で人痘接種が実施されていたが、19
世紀中期という東アジア近代の幕開けの時期では、1851 年がその年であった。この時に
琉球に滞在していたベッテルハイムの事績を検討することで、琉球の近代への対応のあり
方を医療史の観点から示すことができると思う。
さらに、東アジアにおける近代科学の伝播の問題としても、1851 年の種痘の事例は興
味深い問題を提起してくれる。注目すべき点は牛痘知識の琉球への伝播のプロセスにおい
て、まず中国における受容がなされ、その際、中国医学に則った「解釈」がなされたとい
うことである。すなわち、ベッテルハイムが琉球にもたらした牛痘接種技術は西洋医学と
して導入されたのではなく、中国、あるいは薩摩経由の側面も考慮に入れると、東アジア
の医療として導入されたと言うべきだろう。
HOKARI Hiroyuki: On the Potential Uses of Sources Created by Bernard Bettelheim from the Viewpoint of East
Asian Medical History II: The Introduction of Smallpox Vaccination to Ryukyu
(1) 稲福盛輝「沖縄医療史の黎明期」琉球大学医学部附属地域医療研究センター編『沖縄の歴史と医療史』
九州大学出版会、1998 年、p.45。
- 23 -
沖縄史料編集紀要 第 37 号(2014)
天然痘の予防接種に関する歴史認識については大きな誤解があるように思う。一般的に
東アジアにおける医学史では、天然痘予防の近代的変化は、
「中国式人痘接種法」から「西
洋式牛痘接種法」へという図式で説明がなされる。それは東アジアの近代史を「中国的伝統」
から「西洋的近代」への「発展」と捉える歴史認識と呼応したもので、医学の分野でも「中
国=漢方=後進、西洋=近代医学=先進」という形で整理されることが多い。
しかし、種痘に関する歴史の実態はそれほど単純ではなかった。一つは、19 世紀後半
の中国、とくに江南や広東などではすでに牛痘接種が相当普及していたこと。もう一つは、
人痘接種もその安全性がかなり高くなっていたということである。
本稿では、ベッテルハイムの史料を主として用いながら、琉球における種痘の状況、お
よび牛痘接種技術の移入に関するベッテルハイムと王府の動きを考察する。
1.琉球における人痘接種
ワクチン接種によるコントロールが確立する以前、天然痘はその高い致死率から悪魔の
病気と言われて恐れられた。とくに、他文明との接触が限られるような島嶼地域では一度
ウイルスが侵入すると大流行を引き起こし、ひどい時は文明を滅ぼす一因にもなった。人
口規模の大きな中国や日本本土などでは天然痘は数年に一度流行を繰り返したが、免疫を
持つ大人は重症化せず、死者の多くは生産年齢に達しない子供であり、放置しておいても
社会全体への影響は小さかった。これに対し、人口規模の小さな島嶼地域では時間の経過
とともに免疫保持者が減少して、社会的な被害が大きくなる可能性があった。しかし、反面、
外界から隔絶されているということは、天然痘はヒトにしか感染しないため、その人為的
なコントロールも可能であった。
近世後半の琉球では体系的・組織的な天然痘対策が取られていたことを小林茂は明らか
(2)
にしている。 それは大きく二つの方法があった。一つは沖縄諸島ならびに宮古諸島にお
ける人痘法の施行で、中国や薩摩から購入した天然痘患者の痘痂(かさぶた)を用いて、
十数年おきに実施された。もう一つは、八重山諸島と奄美諸島の対策方法で、感染者の侵
入を水際で防ぐというものであった(検疫停船)。その結果、八重山諸島の住民は天然痘
の免疫を持たない人が多く、外洋航海で中国や台湾に漂着した場合、天然痘に感染して死
(2) 小林茂「近世の南西諸島における天然痘の流行パターンと人痘法の施行」
『歴史地理学』42-1、2000 年。
同「琉球王府の対天然痘戦略と漂流民」『第八回琉中歴史関係国際学術会議論文集』琉球中国関係国際
学術会議、2001 年。同「疾病にみる近世琉球列島」『沖縄県史 各論編 第四巻 近世』第五章、沖縄
県教育委員会、2005 年。
- 24 -
沖縄史料編集紀要 第 37 号(2014)
(3)
亡する例が多かった。
琉球における医学知識の摂取は、基本的に日本や中国への医学留学生の派遣という形を
取っていた。日本への医学留学生の派遣は 1637 年から明治初年まで継続し、約 50 人に上っ
た。中国との関係では、来琉した冊封使の一行の中に医師がいて、琉球の医師は彼らから
医学を学んだ。中国への医学留学生の派遣は 1638 年に始まり、1840 年まで続き、およ
そ 26 人に達した。その場合、たいていは進貢使節の随員となって福州、あるいは北京に
(4)
派遣されたという。 医学知識の獲得において、琉球は日本と中国という二つのルートを
持っていたのだ。
琉球における人痘法の施行は上江洲倫完が「鼻乾苗」種痘を実施したことに始まるとさ
れる(1766 年)。それ以降、13 年に一度、中国や日本本土からもたらされた痘痂を鼻孔
の中に吹き込む方法で接種され、国を挙げて組織的に施行された。
人痘法の技術的革新は 1851 年の接種の際に見られた。一つは、鼻に吹き込む方法より
も安全性が高いとされた「腕種法」(痘の膿液を皮膚に接種する方法)が実施されるよう
になったことである。それは、すでに前年に宇久親雲上紀仁が泊・那覇などで子供に接種
(5)
していたが、渡嘉敷親雲上通起に薩摩で学習させ、帰国後に琉球で実施させた。 1851 年の種痘施行では、外部からの不慮の病原菌流入を警戒し、薩摩や中国での伝染
病流行状況の情報収集がなされた。偶然、天然痘患者が流入した場合は、奥の山(奥武山)
などで隔離された。また、王族は首里城を離れ、感染しないようにされた。さらに、貧窮
者への一定の配慮もなされていた。
このような状況下、中国で漢訳された牛痘法を解説した漢籍が東アジアに流通するに至
り、牛痘苗入手の要望は各地で強まっていった。1850 年前後の東アジアにおける天然痘
対策の状況は次のように概括できよう。すなわち、人痘法の発達(腕種法)、牛痘法知識
の吸収、そして牛痘苗の需要増である。種痘をめぐる知の状況は急速に変化していったのだ。
2.中国における牛痘法の受容と現地化
アジアにおける牛痘法の普及に関して、中国には早くも 1805 年に伝わったにも関わら
(3) 琉球の外交文書を集成した『歴代宝案』の記載でも、漂着後に天然痘に感染して死亡した者には、八重
山や離島出身の人が多い。『歴代宝案』に見られる天然痘患者の出身地は、以下の通り。なお、カッコ
内の表記は、西暦年・沖縄県教育委員会刊行『歴代宝案』の冊番号・文書番号である。宮古島(1756 年、
5 冊、2-38-10)与那国島(1793 年、7 冊、2-78-12)西表島(1797 年、7 冊、2-84-13)八重山島
(1834 年、11 冊、2-169-9)八重山島(1853 年、14 冊、2-197-02)久高島・鳥島(1818 年、10 冊、
2-123-11)
(4) 稲福盛輝、前掲論文。
(5)『球陽』1851 年(尚泰王 4 年)。附巻 158。小林茂「近世の南西諸島における天然痘の流行パターンと
人痘法の施行」。
- 25 -
沖縄史料編集紀要 第 37 号(2014)
ず普及は遅く、一方、日本は中国より 44 年も遅れて牛痘法が伝播したが、その後の普及
は急速であったとして、日本における在村蘭学医の存在と中国での担い手の不在(儒学が
(6)
価値を独占し、科挙以外の実学的なものの価値が低かった)を指摘する見解がある。この
見解には若干の訂正が必要だろう。近年の研究によると、1862 年以降、江南地域を中心
(7)
に在地エリート層によって牛痘局の設立が相次いだことが分かっている。 実は 1850 年
代は太平天国の乱による混乱で社会経済の先進地である東南中国の社会発展が阻害されて
いたのだ。単純な普及速度の比較ではなく、受容の仕方や当時の社会状況、国家の関与な
ど多面的に考察すべきであろう。
中国への牛痘導入のきっかけをつくったのは、英国人が有益なものを中国に紹介すれば
中国人の英国に対する心証は良くなるであろうという、広東十三行の商人から英国人への
働きかけであった。まもなく、インドにおかれたボンベイ医局(Bombay Medical Board)
から東インド会社の医師が派遣され、中国に牛痘の疫苗が運ばれた。十三行の商人と相談
の上、東生行を経営する劉徳章の娘など健康な児童に接種されたがすでに疫苗の効果はな
(8)
くなっており、失敗に終わったという。
その後、1805 年ポルトガル商人のペドロ・ヒューイット(Pedro Hewit)がエスぺラン
ザ号に牛痘ワクチンを接種された児童を載せ、マニラからマカオへ向かった。マカオに駐
在していた東インド会社付きポルトガル籍外科医師アレクサンダー・ピアソン(Alexander
Pearson)は、当地で中国人への牛痘接種を成功させた。彼は英文の冊子を書いたが、さ
らなる普及をはかるため、また中国の官僚からの要請もあり、ジョージ・スタントン(George
Staunton)に中国語訳を委託、『 咭唎國新出種痘奇書』として刊行された。出版の経費
などは海外交易に従事していた商人鄭崇謙が援助した。この本は牛痘を中国語で紹介した
最初のものであったが、中国語訳が未熟であったことから、あまり普及せずに影響力は大
きくない。
東インド会社は、顧客への感染防止、中国官憲に取り入るために牛痘接種の普及に力を
入れた。その後、ピアソンに代わってジョン・リビングストン(Dr. John Livingstone)が
事業を引き継いだ。その後、ピアソンとリビングストンによって教育された中国人医師た
(6) 田崎哲郎「アジアにおける種痘」『国立民俗歴史博物館研究報告』第 116 集、2004 年。
(7) 余新忠『清代江南的瘟疫與社会:一項医療社会史的研究』中国人民大学出版社、2003 年。
『西洋種痘論』與『引痘略』為討論中心」
(8) 張嘉鳳「十九世紀初牛痘的在地化:以『 咭唎國新出種痘奇書』、
『中央研究院歴史語言研究所集刊』78-4、2007 年。
- 26 -
沖縄史料編集紀要 第 37 号(2014)
(9)
ちが隣接する福建省および江蘇省に牛痘接種を広めていった。
中国に伝えられた牛痘接種の普及は広東十三行の商人たちの資金に依拠した。中でも怡
和洋行の伍秉鑑(敦元)・伍崇耀父子の貢献は大きかった。また、同じく商人の邱熺(浩
川)はもともと医学の素人であったが、ピアソンの助手として働き、牛痘が「天時を択ばず、
禁忌を煩わず、医を延ばず、薬を服さず」というメリットがあることに注目し、自ら試し
たという。邱はピアソンが著わし、スタントンが中国語に翻訳した『 咭唎國新出種痘奇書』
を参考にして 1817 年に『引痘略』を書いた。その本は中国人痘師が書いたため内容がわ
かりやすく、中国で最も広く読まれた牛痘書であった。牛痘接種の技術はまず外国交易に
携わる中国商人の間で受け入れられ、道光期以降、徐々に他省にも伝播した。
福建省では、1830 年福州で天然痘が流行し、当地にいた南海県出身の顔叙功は付き合
いのあった牛痘接種で著名な広東の邱熺を招こうとした。しかし邱本人は家の事情で来ら
れず、代わりに弟子の陳碧山が福建に来た。最初は乾苗を用いて試みたが失敗に終わる。
そこで牛痘接種した幼児から採った痘漿を別の幼児に接種することを繰り返すという、痘
苗の伝達によって福建に届けられた。十ヶ月かけて数百人に牛痘を試してすべてに効果が
(10)
あったという。その後、『引痘略』は、さらに日本や朝鮮へと伝来し、翻刻がなされ、牛
(11)
痘の普及に大きな影響を与えた。
(12)
そして、琉球の旧久米村にも伝来したことが確認されるが、その影響は不明である。
清朝政府は国家の衛生行政としては牛痘接種に積極的ではなかった。しかし、民間の商
人などの力によって、牛痘接種は広く普及していった。そこにはいくつかの理由が考えら
れる。
一つは、中国にはもともと人痘接種の歴史があったということ。17 世紀から江南地方
を中心に人痘接種が行われ、効果が認められ、自然感染を避けるために多くの人が自発的
に接種を受けていた。
二つ目は、人痘に比べて、牛痘は接種の方法が簡便でかつ結果が優れて良好だったこと
である。牛痘は上腕に発疹が出るだけで、人痘のように全身に症状が出ることがなかった。
(9) A.Pearson, ‘Report submitted to the Board of the National Vaccine Establishment, respecting the introduction
of the practice of vaccine inoculation into China, AD1805’, reprinted in the Chinese Repository, 2 (May 1833),
pp.35-41。
(10) 頼文、李永宸『嶺南瘟疫史』広東人民出版社、2004 年、p.262。
(11) 張嘉鳳:p.770。紀州出身の小山肆成は京都で医学を学び、師の高階枳園から『引痘略』を借り受け、
その和訳を行い、1847 年『引痘新法全書』を出版した。
(12) 旧久米村士族の楚南家文書(法政大学沖縄文化研究所所蔵)の中に『引痘略』の手稿本があり、琉球
王国への伝来が確認できる。
- 27 -
沖縄史料編集紀要 第 37 号(2014)
子供たちは普段と変わらずに遊ぶことができ、人痘のように一日中親が看病する必要がな
い。また、『引痘略』は、「其の法、春夏秋冬を論ぜず、随時皆可。天気を揀ばず、良辰を
(13)
擇ばず。風を避けず、忌を禁ぜず。男女を分けず、大小に拘らず、…」と、人痘法のよう
に多くの制約がなく、便利であることを述べていた。
そして、三つ目は牛痘接種を推進した人たちの戦略である。牛痘の普及に貢献したのは
民間の商人や地方エリートたちであった。彼らには財力および名望があり、牛痘接種の普
及に十分な条件があった。そして、重要な点は彼らの戦略であった。彼らは牛痘接種を慈
善活動として、伝統的な善挙の一環と位置付けた。すなわち、慈幼の精神のもと、善堂や
牛痘局において無料接種を行った。時には接種に来た者に「お恵み」を渡すこともあり、
多くの貧窮者に牛痘接種させることに成功した。さらに牛痘接種を学びたい者には教科書
や道具を与え、無料で牛痘技術を教える牛痘局もあった。
さらに重要な点は、中国における受容に際して牛痘知識が「現地化」「中国化」されて
いたということである。それは、スタントンが翻訳した『 咭唎國新出種痘奇書』と邱熺
『引痘略』を比較するとわかりやすい。前者は書名に「 咭唎國」
「新出」という言葉を用い、
中国人がイギリスに対して好感を持つことを期待しているのに対し、後者ではイギリスに
は触れず、牛痘という新語を用い、中国の伝統医学との関連性を示唆している。
さらに接種する部位について、
『引痘略』は、中国医学の経絡学説を用いて説明していた。
人痘法では、鼻から入った痘苗の気が肺・心・脾・肝・腎の順に骨髄に蓄蔵された痘毒を
発出させ、その後再び腎・肝・脾・心・肺の順で解毒されると説明される。一方、牛痘法
は、接種の部位が三焦という経絡の消爍・清冷淵という二つの穴にあたり、三焦は五臓六腑・
栄衛経絡を統括し、内外左右上下の気を通す箇所で、三焦に接種することで五臓六腑を直
接に動員し胎毒を引き出すことができると説明される。そのため人痘よりも牛痘の方が効
率がよいと説明されている。『引痘略』は西洋伝来の牛痘法を中国医学の理論に融和させ
ることによって中国人への受容を容易にしたのであった。
3.ベッテルハイムによる新たな種痘法の紹介
前稿で論じたように、ベッテルハイムは自らの医療行為を琉球の人々に対する恩恵であ
ると考えていたが、それは「科学的な」西洋医学の「野蛮な」伝統医学に対する優位とい
う認識に基づいていた。また、牛痘接種についても琉球での普及については「偉大なる恩恵」
(great benefit)であると考えていた。天然痘の予防については、特にその重要性を意識し
ていたと思われる。それは、ベッテルハイムが自らの子供に対して接種をしたところ、予
(13) 張嘉鳳、前掲論文。
- 28 -
沖縄史料編集紀要 第 37 号(2014)
想以上に病状が悪化して、息子の苦しむ姿を目にしたことと関係があるだろう。
1846 年ベッテルハイムは琉球へ向かう前に訪れた香港において自らの息子に種痘を受
(14)
けさせた。それには広東から来た 2 人の子供から採取された痘苗が用いられた。8 日後に
は同時に接種を受けた他の子供が発疹性の発熱を起こした。ベッテルハイムは息子にホメ
オパシー治療を行っていたが、ついに 11 日目に熱を発し、全身に発疹が見られた。そして、
ベッテルハイムは3日間看病に追われることになった。なお、息子への種痘方法であるが、
発疹物の鼻と喉への接種であり、その部位の発疹による息苦しさに苦しんだが2・3日後、
(15)
痘疹はしだいに乾燥していった。後に、ベッテルハイムは、この息子への接種では牛痘法
(16)
が用いられたが失敗であったと記している。
香港を発ち、琉球へと向かうに際し、ピーター・パーカー博士から譲り受けたワクチン
を用いて船員に種痘を施した。しかし、船員からワクチンを採取しようとしたが失敗に終
わる。ベッテルハイムは、「・・・ 接種を予定している琉球の人たちは偉大な利益を奪われる
(17)
かもしれない」と述べていたことから、香港から琉球に牛痘法を伝えようとしていたこと
がわかる。
琉球に到着した後、ベッテルハイムは琉球王府に対して新しい種痘法として、牛痘法を
広めるべく説得を行った。1849 年 4 月に次のような手紙を送った。
謹んでここに「種痘の新しい方法」と題したパンフレットを進呈します(このパンフレットには、
多くの中国人が接種している種痘法が載っています。ここから、私が「牛」と「天然痘」とを
合わせて「牛痘」という、もちろん中国語にはなかった文字をつくったことがわかるでしょう)。
本書から牛痘法では接種した部位にしか症状が現れず、全身に広がることがないということが
わかるでしょう。また、人々の間に流行することもなく、大流行して混乱を来たすという恐れ
は全くありません。中国とすべてのヨーロッパ諸国は天然痘の危険性を回避すべく、人々に種
痘を受けるよう命じています。上海の病院を経営しているイギリス人医師はパンフレットを発
行し、その中には、「種痘接種に来院した無数の大衆を除き、昨年の入院患者は男女合わせて
10,978 人に上った。また自分の娘に接種させるべくイギリス人医師の自宅を訪れる高級武官も
いた。寧波には、アメリカ人医師が指導する病院があり、彼の発表によると 1,707 人の入院患
者がいるという」と述べられています。ただ、この小さな国 [ 琉球のこと ] だけが人々を残酷に
(14) A. P. Jenkins 編『沖縄県史 資料編 21 The Journal and Official Correspondence of Bernard Jean
Bettelheim 1845-54 Part I(1845-1851)近世2 』(沖縄県教育委員会、2005 年)。以下では、『県史
21』と略す。1846 年 2 月 18 日、p.21。
(15)『県史 21』1846 年 2 月 21 日~ 24 日、pp.21-24。
(16)『県史 21』1851 年 10 月 29 日、p.565。
(17)『県史 21』1846 年 4 月 15 日、p.58。
- 29 -
沖縄史料編集紀要 第 37 号(2014)
(18)
扱い、避けられない生命の危険に晒しているのです。
ここでいう「種痘の新しい方法」というパンフレットは、先に触れたジョージ・スタン
トンによって中国語訳された『 咭唎國新出種痘奇書』であり、王府の役人から要求され
(19)
て数冊提供している。ベッテルハイムは cowpox の中国語訳である「牛痘」という言葉を
自分がつくったかのように書いているが、すでに紹介した邱熺が『引痘略』の中ですでに
(20)
「牛痘」という言葉を使っている。また、ヨーロッパや中国では、すでに牛痘による接種
が命ぜられているとして、琉球の民衆だけが国家から見放されているとして王府を批判し
ていた。このようにベッテルハイムが牛痘法の普及を王府に求めているうちに、13 年に
一度の人痘接種を実施する年、1851 年を迎えた。
今年は彼らにとって天然痘の予防接種の年である。彼らはすでに首里と那覇で接種を始めてい
る。そのため、接種のための痘苗に関する多くの問い合わせがあった。もし船が来たら、この
年は琉球にとって画期的なものになるであろう。彼らは種痘導入を熱望していた。このひどい
責任は、世俗的な便宜主義によって、利益を琉球人から奪っているあの人々に帰すべきである。
…ここでは天然痘が大流行して初めて種痘を行う。同様のケースで接種を今回行うのは 13 年ぶ
(21)
りである。
13 年おきに種痘を行うのはここの習慣である。成人してからの危険性と比べて、子供はもし接
種していれば、簡単に天然痘をやり過ごすことができる。そのため、13 歳以下の子供はすべて
接種または伝染の影響下に置く必要がある。これはなぜ今年繰り返し、緊急に種痘の要請がな
されたかを説明している。彼らはさらに私の処置法について研究したいと願い出てきた。王府
と関わっている琉球人が私たちの書籍について聞いてきたことは重要だ。悲しいことに彼らを
(22)
助け、好意を獲得する機会(それは 13 年後にしかやって来ない)を失った。
まず注目すべきは、王府の役人が、ベッテルハイムの言うところの「新しい方法」(牛痘)
(18)『県史 21』1849 年 4 月 25 日、p.304。同内容の大意は評定所文書にも収められている。「 人より
差出候文及 人江差遣候文之大意」39、
『琉球王国評定所文書』第6巻、浦添市教育委員会、1991 年。
p.78。
(19) Medical Report(1851-52), ref. A 2/3, Loochoo Naval Papers ref. A 2/3, the Church Missionary
Society Archive, Special Collections at Birmingham University Library. (英国バーミンガム大学図書館
所蔵、英国聖公会聖教協会文書、イギリス海軍琉球伝道会文書)以下、Medical Report. と略す。史料
をご教示いただいた A.P. ジェンキンズ氏に謝意を表す。
(20)『引痘略』405 頁。「蓋し牛は土畜なり、人の脾も土に属す、土を以て土を引き、同気は相い感じ、同
類は相い生す、故に能く効を取ること此くのごとし、痘種は牛より来たる、故に曰く牛痘也。」邱熺は
接種の部位とは別に、ワクチンの性質についても中国医学の思想である五行説と感応という考えを用
いながら、牛痘の効果を説明している。
(21)『県史 21』1851 年 10 月 18 日、p.561。
(22)『県史 21』1851 年 10 月 23 日、p.563。
- 30 -
沖縄史料編集紀要 第 37 号(2014)
について興味を示していたことである。彼らはかなり緊迫した様子でベッテルハイムに対
して最もよい種痘や手当の方法を繰り返し質問し、新鮮な痘苗の入荷見込みについて尋ね
(23)
ていたのだ。これは香港や東南アジアから艦船で運ばれてくる牛痘苗を期待していたので
あろう。
ベッテルハイムは、王府は天然痘が流行してから種痘を実施しているとして、王府の無
責任さを批判しているが、実際のところ、王府は周到な準備のもと、組織的に接種を実施
していた。小林茂の研究によると、1851 年の人痘接種では、従来のように、天然痘患者
のかさぶたを鼻に吹き込む方法ではなく、痘の膿液を腕などの皮膚に接種する方法で行わ
れ、症状は軽くて済んだという(その膿液は鹿児島から導入された)。しかし、全島で一
斉に人痘接種を行ったため、子供のほとんどが感染し、薬や食糧が十分でない貧窮家庭の
子供の中から多くの死者が出たことは間違いない。ベッテルハイムは、王府が実施した人
痘接種による悲惨な経過について、いくつか記している。
今日墓地で見た、多くの新しく造られた子供の墓はこの近所で起きたものなのかどうかを尋ね
た。否、北西地域からの人で、そこでは見るも恐ろしいがすべてのケースは接種を受けた瀕死
者から起きた。5人子供のいた家族はそのすべてを失い、別の家族は3人すべて亡くなった。
天然痘は最初穏やかな性質であったが、ここに来てからウイルスが悪性に変化したのだと断言
(24)
できる。感染による発病で地方では多くの死者が出たという。
(25)
私の住居の両側にある二つの墓地で恐ろしい規模で埋葬がなされた。二十具は越えている。
ベッテルハイムは護国寺に滞在していたこともあり、天然痘に罹って重症化し不幸にも
亡くなった子供たちの埋葬儀礼の場面に多く出会ったであろう。天然痘は翌 1852 年に入っ
ても収束せず、これに加えてインフルエンザも流行し、死亡者を拡大させていた。そして、
王府の役人にも伝染病の被害者が出た。「那覇と首里の通事の双方から今日得た情報によ
ると、彼らの中の 3 人が猛威をふるっている伝染病に罹ったという。近所の墓地で見た巨
大な墓の丘の陰惨な光景の生々しい記憶がまだ残っている」として、ベッテルハイムは王
府に次のような手紙を送り、医療援助の準備があることを伝えていた。
(23) Medical Report.
(24) A. P. Jenkins 編『沖縄県史 資料編 22 The Journal and Official Correspondence of Bernard Jean
Bettelheim 1845-54 Part II(1852-1854)近世 3 』(沖縄県教育委員会、2012 年)。以下では、『県史
22』と略す。1852 年 1 月 11 日、p.5。
(25)『県史 22』1852 年 1 月 28 日、p.19。
- 31 -
沖縄史料編集紀要 第 37 号(2014)
現在、琉球で不幸にも人々の間で広がり多くの命を奪っている天然痘とインフルエンザの流行
に苦しんでいるのを見聞きするにつけ、さらに多くの人々が犠牲となることのないように、私
の医学的説得に琉球王府が耳を傾けるようにお願いします。琉球には、良い薬も医学知識も病
院もなく、たちの悪い病気に対処することもできないにも関わらず、どうやって二つの伝染病
が結びついた悪を食い止めることができるでしょうか?琉球のすべての医者を私のところに来
させて下さい。私は頑張って彼らの無知を諭し、使う薬を提供するでしょう。その改善のため
の措置がなされるでしょう。さらに人々にお金と食料を配布するようお願いします。また彼ら
に靴下と温かい靴を履くことを許し、或いは命じるよう頼みます。足を温め、頭を冷やすこと
は現在のインフルエンザの治療と予防に極めて重要です。私は喜んで貧しい人のために靴下と
靴を買う 50 ドルを差し出します。私の要望を拒絶しないでください。総理官様。咸豊元年十一
(26)
月二十五日(1852 年 1 月 15 日)
しかし、王府はこの申し出を次のように、やんわりと拒否した。
親切心には感謝しますが、琉球は古来中国の医療に従い、薬もそこから買っているので、新し
い医療法を採用する必要はなく、薬も要りません。さらに琉球は中国の東南にあり、風は穏や
(27)
かで気候も温暖なのです。
この返事に対して、ベッテルハイムは次のようなコメントを日誌に記し、琉球の気候条
件に関する王府の説明には矛盾があり、二枚舌外交を行っていることを批判した。
1849 年 3 月 9 日のマリナー号艦長宛の手紙には「私たちの島は辺海の孤島で山から寒風が吹き、
不健康な気の発散によってジステンバーが流行し、英国人家族を恐れさせて、風土に適応でき
ない彼らは病気に罹るだろう」とあり、記述が矛盾している。何というご都合主義、ばからし
(28)
い。
ベッテルハイムは通事たちに牛痘法を指導し、自ら香港から持参した痘苗と痘痂を提供
するなど支援を惜しまなかった。それにも関わらず、正式な援助要請は断固拒否する王府
の態度にベッテルハイムは憤りを覚えたのであろう。
4.牛痘法の採用とその効果
さて、ベッテルハイムが熱心に勧めていた牛痘法は果たして琉球にどのような形で導入
(26)『県史 22』1852 年 1 月 15 日、p.10。なお、中国語の原文は次に収録されている。
『琉球王国評定所文書』
第 17 巻、pp.10-11。
(27)『県史 22』1852 年 1 月 19 日、p.14。
(28)『県史 22』1852 年 1 月 19 日、p.14。
- 32 -
沖縄史料編集紀要 第 37 号(2014)
され、その効果はどのようであったのであろうか。当時の状況をベッテルハイムは次のよ
うに描いていた。
最後に来たジャンクによって中国から運ばれてきた「痘痂」はその感染の効能は失われていた
に違いない。…私は従者からの話で、貧者に対しては法によって種痘が義務付けられ、多くが
自ら接種を望んでいるのだが、医者、とくに薬と食料が不足している。国中で感染が広まって
(29)
いる中、ひと月も二月も放置されている。
天然痘の治療法が確立していなかった当時の琉球において全島を挙げて人痘接種が行わ
れた場合、免疫を持つ大人を除き、子供たちの生死を分けたのは自然治癒力である。しかし、
自然治癒力を高める上で欠かせない薬と食料にも事欠いていた。そうした状況の中、有効
なワクチンの有無が決定的に重要であった。上記の記載から、王府は中国から「痘痂」を
入手していたことがわかる。
ベッテルハイムが牛痘苗を入手する方法としては、自ら香港から持参したもの以外は、
香港などから来航する艦船から入手するしかなかった。1850 年 10 月 3 日、英国艦船レ
イナード(Reynard)号が琉球に来航した。ベッテルハイムは、同艦でやってきたポッティ
(30)
ンジャー博士から、いくらかの牛痘苗を提供され、うち 2 つを子供の両腕に接種した。
(31)
さらにベッテルハイムは主教からも牛痘苗の提供を受けている。
次いで 1852 年 2 月に、英国艦船スフィンクス(Sphinx)号が琉球に来港した。ベッテ
ルハイムは、香港のジェイムズ・レッグ博士から託された手紙とともに牛痘苗の入った箱
を贈られ、大いに喜んだ。そこには最近、レッグ博士の娘から採られた牛痘苗だと記され
(32)
ていたという。
以上の記述から、上記以外に 1850 年 10 月から 1852 年 2 月の間は、ベッテルハイム
は新たな牛痘苗の入手は不可能であったと言えよう。もちろん、王府には中国あるいは薩
摩経由で牛痘苗を入手する可能性はあった。
ベッテルハイムの牛痘法普及要請に対する王府の度重なる拒否にも関わらず、板良敷朝
忠をはじめ、琉球の役人への個人的な牛痘法技術の伝授は行われていた。そして、1851
(29)『県史 21』1851 年 10 月 24 日、pp.563-564。
(30)『県史 21』1850 年 10 月 7 日、p.365。
(31)『県史 21』1850 年 10 月 29 日、p.391。
(32)『県史 22』1852 年 2 月 6 日、p.24。
- 33 -
沖縄史料編集紀要 第 37 号(2014)
年の 11 月には牛痘法接種によると思われる効果が報告されていた。
天然痘流行に関する矛盾した報告を受けている。首里通事からの知らせで、未成年すべてに「痘
瘡」が出た。しかもこの国では見たことのない軽い程度で。これは今年になり、私のアドバイ
スで板良敷らに渡したランセットによる腕への接種という新しい方法のおかげである。幸い見
失っていた 6 本のランセットが見つかり、通事に与えた。彼らは板良敷同様に自らの腕へどの
ように手術するのかを見るため私に休む暇を与えなかった。これは庶民が外国の医療行為を恐
れず、さらに外科器具を好むことを示している。私はこれをアラブ人やトルコ人の中でも見て
(33)
きた。
板良敷以外の通事にもランセット(外科器具のメス。これで腕に傷をつけ、牛痘苗を植
え付ける)を提供し、種痘手術の技術を教えていた。この「植疱瘡」の技術は薩摩からも
伝えられたであろうが、ベッテルハイムの琉球への貢献の一つとしても挙げることができ
よう。そして、注目すべきは種痘後の症状が軽症であるという報告である。それは、8 日
後の記述にも見られる。
貧しい民衆の中から種痘の時期における接種の助手を探すという提案をした。…すべての患者
の症状が軽度であることから、中国から輸入された痘痂は牛痘で緩和された天然痘によるもの
だと考えられる。中国で種痘を推進している慈善家は賞賛されるべきだ。彼らの努力は、彼ら
(34)
は気づかぬが琉球に恩恵をもたらしたし、日本にももたらされるであろう。
琉球が中国から購入した痘痂であるが、中国で牛痘接種を受けた患者から採集されたも
のであるとベッテルハイムは推測している。そして、その痘痂の生産に尽力した中国人慈
善家の功績を讃えている。確かにベッテルハイムが言うように中国の慈善家たちが自分の
郷土のために普及させた牛痘法は、思いもかけず琉球に伝わり、人々の命を救っているの
である。牛痘法という医療技術の伝播についてベッテルハイムは「西洋→中国→琉球→日
本」というルートを想定していたと考えられるが、それは彼自身の移動ルートと重なるか
に見える。そして、それは文明の高いところから低いところへとキリスト教と西洋医学が
伝えられるかの如くイメージされていたのではないか。
そして、天然痘の症状が軽いということの理解に関して、琉球の人々の間では次のよう
に中国医学にもとづく認識がなされていた。
(33)『県史 21』1851 年 11 月 1 日、pp.565-566。
(34)『県史 21』1851 年 11 月 9 日、p.574。
- 34 -
沖縄史料編集紀要 第 37 号(2014)
通事からの話では、牛痘で接種した多くの症例において身体の一部が感染しただけで、残りの
箇所には変化がないという。これは私の観察と完全に一致しており、大いに元気づけられた。
しかし、琉球人はこのことを全く反対に考える。他の愚かで野蛮な民族と同様に彼らも、かゆ
みやすべての膿瘍や発疹を「浄化手段」とみなし、これによって全身の体液から不浄物が排出
されると考えていた。さらに今回の種痘では、患者にたくさんの痘が発症しなかったことにか
なり当惑して、その身体は十分に浄化されていないと考えたのである。彼らは多くの患者に 3、
4 回接種を行ったにも関わらず、同じ結果しか出ず、時として全然駄目だったと言う。もちろん、
私は彼らに言った、その瘡蓋は間違いなく牛痘で緩和されたもので、我々が中国で入念に普及し、
牛痘に関するパンフレットとして士大夫の間で広めているものである、と。彼ら [ 琉球人 ] は接
(35)
種の時だけ、牛痘のことを理解するが、彼らはこの考えを維持することができない。
以上の記述から、王府による集団接種において牛痘と推測される接種が行われ、その結
果、軽い症状で済むなど、ある程度の成功を見たことがわかる。しかし、琉球の人々の理
解によると、症状が軽いのは、十分に「胎毒」が排出されていないからだとし、逆に不安
感を覚えていた。当時の琉球で用いられた牛痘法による接種は完全に安全ではなかったよ
うだが、痘苗の獲得にも取り組んでいたようだ。
この日、やや状態のひどい二人の患者を見る。発疹は両手と足、顔に広がり、背中にも出ている。
これも、稀ではあるが牛痘による症状だろう。・・・(中略)・・・4 時間散歩して帰宅した時、常
に番屋で警備している板良敷が赤い紙袋に入った 14 個の瘡蓋を持って待っていた。それは、私
が幼い娘に接種をする時のために、数名の医者によって集められたサンプルだという。私は彼
の笑顔から、今私の心をつかみ、私が彼らを牛痘接種で助ける代わりに、彼らは寛大さを示し、
痘瘡の痘痂を援助することができると考えていることを見て取った。私は彼に言った。「思慮深
い申し出には大いに感謝する。しかし、痘痂を家に持ち込むのは賢明ではないと思うし、発疹
をもっと綿密に観察するまで番屋で保存しておくのがよかろう」。わが子が伝染病の影響を受け
(36)
ていない以上、接種しようとは思わない。
ベッテルハイムから牛痘法を習った板良敷などは、琉球で独自に痘苗の確保に乗り出し
ていた。しかし、一部の患者に全身に広がる者がおり、それが本当に牛痘であるかどうか、
ベッテルハイムも自信がなかったように思える。また、ベッテルハイム自身、手元に牛痘
苗がない状態で娘が天然痘に罹ったため、琉球人の人痘苗の「英国人のこども」への接種
(37)
の依頼を余儀なくされていることを「不名誉」だと考えていた。
(35)『県史 21』1851 年 11 月 15 日、pp.581-582。
(36)『県史 21』1851 年 11 月 15 日、pp.581-582。
(37) Medical Report.
- 35 -
沖縄史料編集紀要 第 37 号(2014)
また、首里通事は 1852 年 1 月にベッテルハイムを訪れ、ワクチンをもたらしてくれる
船舶がいつ到来するのか心配しつつ、数頭の牛から痘苗を採る実験をしたと話した。百頭
(38)
中、十頭が感染し、四頭に痘疹が見られたという。 琉球側でも独自に牛痘苗の生産を試
みていたことが分かる。
そして、1852 年 2 月、スフィンクス号が琉球に来航、ベッテルハイムは牛痘苗を確保し、
王府に対して次のような手紙を送った。
数日前、種痘液と瘡蓋を入手しました。私は娘の腕に痘液を接種しました。・・・ 娘の身体の痘
液を接種した部位にだけ膿疱が現れたということを誰もが納得するだろう。彼女はわずかな病
症も見られず、歩き、遊び、いつもと同じように食事もしている。そのため、どうか摂政には
琉球の子供一人か二人への接種を許して下さい。それによって天然痘による不幸を永遠になく
(39)
せます。・・・ 咸豊元年 12 月末
ベッテルハイムはスフィンクス号が搭載してきた牛痘苗を用いて、自分の娘に接種し、
結果も良好であった。そして、王府に対して再度、医療支援の申し出を行った。しかし、
結局、やはり王府はこれを拒否した。
数件の家に知らせを送ったように、私は依然としてここで牛痘を導入できるかも知れないこと
を願いつつ、娘ルーシーの腕から痘苗を採取した。7 年後でも痘苗が採取できるかどうか、ま
た一つには痘液の鮮度を保つために、娘ローズにも接種した。大夫が来訪し、感謝を述べ、摂
政と布政官からの書簡を持ってきた。またお菓子 2 つと酒瓶数本を私の贈り物のお返しとして
持ってきた。しかし、天然痘はすでに終わっていて、種痘を採用する必要はないと言ってきた。
私は彼を厳しく叱り、もし無理矢理琉球からその恩恵を取り上げるようなことをすれば、間違
(40)
いなく神の厳しい罰が降されるであろうと言った。
2 月には天然痘が収束に向かったのか、王府は丁寧な贈り物とともに、協力を断ってきた。
しかし、2 月 23 日、板良敷はベッテルハイムを訪問し、スフィンクス号がもたらした痘
苗の入った箱とベッテルハイムの娘ルーシーから採取された痘液に浸された象牙の針を持
(41)
ち帰っている。そして、その五日後に首里通事もベッテルハイム宅を訪れて痘苗を求めた
が、ベッテルハイムは、手元には船舶で運搬されてきた痘痂とルーシーの痘疹から剥落し
(38)『県史 22』1852 年 1 月 12 日、pp.7-8。
(39)『県史 22』1852 年 2 月 19 日、p.43。
(40)『県史 22』1852 年 2 月 21 日、p.46。
(41)『県史 22』1852 年 2 月 23 日、p.47。
- 36 -
沖縄史料編集紀要 第 37 号(2014)
(42)
た痘痂しかないと返事をしていた。
このように牛痘技術を学んだ役人たちは牛痘苗の入手に躍起になっていたが、その背景
には牛痘苗の自給があったと思われる。
しばらくすると板良敷が普段着でやって来た。彼は琉球人の手による牛痘の痘苗を持ってきた。
琉球で製造したもので、私のローズに2度目に試すために。彼はこの牛痘は琉球人患者から採っ
たもので、この方法によって彼の研究、注意深さや痘は疑いなく本物であることがわかると言っ
た。琉球人への神の御心によって、種痘という恩恵は琉球人に与えられた。日本人による規則
が変わるまで、公式に認知されることはないだろうが。私は牛痘がここから日本に持って行か
(43)
れて、政府でなくとも、少なくとも民衆にとって貴重な利益をもたらすことを願う。
その後、ベッテルハイムは、那覇通事と首里通事が神の恵みで牛痘種が取れたのだと語
り、すべての離島でも実施することを約束したと書いているが、やや自分に都合の良い見
(44)
解であろう。
ベッテルハイムにとって、牛痘法は文明の証しであり、琉球において牛痘技術の定着が
実現した後、日本への伝播が想定されており、また薩摩の支配が隠蔽されていることにも
気づいていたことがわかる。
おわりに
1851 年の種痘は琉球王府にとっては 13 年に一度の「恒例行事」であった。免疫のな
い子供たちに人痘接種を行うことで社会の崩壊を防ぐという医療政策であった。その琉球
に到来したベッテルハイムはキリスト教の布教のための一手段として医療行為の援助を申
し出た。王府は再三この要請を断ったが、板良敷など役人たちは積極的に牛痘法技術の学
習に励み、ついに牛痘苗の自給を実現したのである。結局のところ、琉球はキリスト教な
ど社会的混乱を来す文化の移入を防ぎ、牛痘法技術のみ獲得に成功したのである。それは
一見、外交的な勝利にも見えるが、迫り来る本格的な近代化の波に対処する上で政治経済
など他の西洋の知の導入はなされなかった。
また、牛痘の知識は中国経由で東アジア世界に伝播したため、それは中国医学による再
解釈が施されており、受容を容易にしていた。ベッテルハイムは牛痘法を西洋文明による
恩恵だと位置づけていたが、琉球の対応は冷静であった。西洋文明の中でも、とくに近代
(42)『県史 22』1852 年 2 月 28 日、p.48。
(43)『県史 22』1852 年 3 月 3 日、p.54。
(44)『県史 22』1852 年 3 月 15 日、p.61。
- 37 -
沖縄史料編集紀要 第 37 号(2014)
医学は、東アジアの知識人が習得をめざす「光り輝く」学問であったが、種痘の知識は本
稿で考察してきたように伝統知の延長として受容されていたように思える。また、琉球は
その地理的条件から、複数のルートから牛痘法の知識を入手することが可能であったこと
(45)
もベッテルハイムへの対応に冷淡であった理由であろう。
琉球王府の人痘政策は牛痘がない条件ではある種の合理性があり、外交・貿易などで海
外に渡航した使節には天然痘に対する免疫が備わっていたと考えられる。しかし、国家の
安定を優先させている点で近代の衛生制度に似て、貧しい庶民一人一人の生死は視野には
(46)
ない。これに対してキリスト教的人道主義によるベッテルハイムの医療行為は個人を対象
に救済を試みた点は正当に評価すべきであろう。
(45) 牛痘法学習でベッテルハイムとは別のルートとして、薩摩ルートがあった。薩摩では 1858 年に種痘
所が設立されている。また種子島では 1856 年には牛痘接種が行われたという記録がある(河内和夫
「種子島における痘瘡について」『日本医史学雑誌』19-2、1973 年)。また 1858 年、眼医許田筑登之
親雲上舒厚は薩摩で牛痘法を学習し、その痘痂を持ち帰り、まず離島で実験した。『球陽』1859 年(尚
泰王 12 年)附巻 179。
(46) 牛痘の導入は当地における衛生制度の導入のタイミングとも重要な関係がある。1860 年代のアジア
では、西洋医学は医術として伝統医学と対等であったが、1890 年代以降、西洋医学は政治支配の為
の統治行為となった。インドや朝鮮、香港などでは牛痘が衛生行政として導入された時、強制隔離
などが行われ民衆からの反発が見られた。Deepak Kumar, “Unequal contenders, uneven ground: medical
encounters in British India, 1820-1920”, in Andrew Cunningham & Bridie Andrews eds., Western Medicine
as Contested Knowledge, Manchester University Press, 1997. Shin Dong-won, Western Medicine, Korean
Government, and Imperialism in Late Nineteeth-Century Korea: The Case of the Choson Government Hospital
and Smallpox Vaccination, Historia Scientiarum, vol. 13-3, 2004. 帆刈浩之「中国人移民と帝国医療:近代香
港における天然痘流行」『史潮』新 60 号、2006 年。
- 38 -