第19号第7版 - Shodoho (昭道報)

01st June, 2007
No.19
Shodoho
- 1 -
2007 年 06 月 01 日
第 19 号
報
道
昭
第 19 号(第 7 版)
平成 19 年 6 月 1 日発行
<発行所>
関西合気道競技連盟広報部
<監修>
日本合気道協会昭道館師範
成山哲郎
<編集>
昭道報編集係
去る2006年12月6日、昭道館理事長 内山雅晴先生がご逝去されました。享年84歳。12月7日に通夜式、翌日
に告別式がしめやかに執り行われ、道場関係者を含め多くの方が参列されました。
心からご冥福をお祈りいたしますとともに、皆様からお寄せいただいた追悼のお言葉をご紹介いたします。
日本合気道協会昭道館館長 富木昌子
内山理事長の思い出を語るとそれ
はもう四十年近くにも及ぶでしょう
か。親子二代にわたり本当にお世話に
なりました。
初めてお会いしたのは一九七一年、
父に誘わ れて行った第二回全日本学
生合気道競技大会の折ですが、それ以
前から「内山さん」というのは私にと
ってすっかりお馴染みの方でした。父
富(木謙治 と)、お見えになる学生さん
やOBの方々、また母との会話の中に
頻繁に出てくるお名前でした。そして
父は「内山さん」というよき理解者を
得て合気道の研究を ますます進める
ことができると熱く語るのでした。今
にして思えばまだ名前もつかない胎
動期の昭道館の頃です。
それまでも後援の申し出はいくつ
かあったと聞きますが、父はすべてお
断りしていました。それが内山理事長
からのお話は素直にお受けしたので
す。特別に通じる何かがあったのでし
ょう。「内山さんは私心なく合気道を
真っ直ぐ受け入れて くれる人」であ
り、「ご本人だけでなく家族にも勧め
て一緒に稽古をされて いる。」と大き
な信頼を寄せていました。後に内山理
事長からも「これは良いものだから是
非やってみようと思った。」と当時の
お話を伺ったことがあります。こうし
て 合気道に対する二人の純粋な情熱
ががっち り結ばれた結果が昭道館な
のだと思います。そして内山理事長の
お気持ち は富 木師範が亡くなった後
も終生変わることなく、今日のNPO
法人日本合気道協会・昭道館の発展を
支えてくださいました。あらためて心
からの感謝を申し上げます。
大人になっても「昌子ちゃん」と親
しく声をかけてくださった内山理事
長ですが、はじめは父にとっての大切
な友人で あり後援者という位置づけ
でした。しかしその晩年には直接的に
私に大きな転機を与える存在でした。
内山理事長からの強いお勧めが なけ
れば今のような合気道と深く関わる
生活はけ っして考えられないこ とで
日本合気道協会昭道館師範 成山哲郎
内山理事長、心から感謝と哀悼の意
をこめて、溢れる思い出とお別れの言
葉を、ここに捧げます。
理事長に初めてお目にかかってか
ら既に四十年程が経ちました。自分の
両親と共に過 ごした日々よりも 遥か
永きにわたるこの四十年間は、常に理
事長の合気道に対する熱い想いとお
心遣いを感じる日々でした。
最初にお目にかかったのは、私がま
だ国士舘大学合気道部主将で、合気乱
取 法を関西に普及する遠征に参加し
た時でし た。学生の私の目から 見て
も、富木・大庭両師範と内山理事長の
す。父がもうひとつの我が家のように
思っていた内山家へ私も度々寄せて
頂くようになり、シマエ奥様の手料理
をいただきながらお話をしました。
淡々とした口調の中に強い意思と鋭
さを感じさせ、さりげない言葉でいつ
も励まして下さいました。
今までは何かと相談にのって頂き
ましたが 、こ れから それは叶わ ぬこ
と。理事長から与えられた宿題は難問
ですが、シマエさんと一緒に粘り強く
取り組みます。どうぞ見守っていてく
ださい。
間には深い信頼関係が感じられ、両師
範の合気道へのひた向きな情熱に、理
事長が心から 共感なさっておら れる
ように感じました。そうした理事長の
お気持ち の結晶が昭道館道場で あり
ます。
縁あって、その昭道館の専任指導員
を拝命し た私が専任指導員になって
から四―五年程の間は、理事長とお手
合わせをする機会が随分とありまし
た。印象深かったのは乱取稽古の時の
ことです。偶然、私の下段当てが理事
長にかかってしまった時に「もう君と
は乱取はやら ない!」とおっしゃら
れ、それ以降は本当にお手合わせ頂け
ませんで した。しかし、後になって
「色々な奴と乱取をやったけれど、成
山君は違う感じがしたよ」とお話しに
なっていたと伺い、何とも面映く、し
かし大変な励みに感じたものでした。
また縄跳びが大変お上手で、その理
(次頁へつづく)
私が初めて内山雅晴氏を知ったの
は、学生時代かその後のことである。
富 木謙治 先生 の命で 成 山 哲郎 先輩 が
合気 乱取り法の 紹介に 大阪に行 くこ と
になり、昭道館という名の道場を中心
に、合気道師範・小林裕和 先生傘下 の
諸大学に合気道を広めることになっ
た。この昭道館 という道場を富木先生
に提供されたのが、昭和土地建物株式
会社 社長・内山 雅晴氏で あ るというこ
とを 知り 、日本 合気道協会 の恩人と し
て 尊 敬するよ う に なったの は 、成 山 先
生と 共に師範と して 協会を になうこ と
に な っ た 頃 か ら で あろ う か 。 内 山 氏 は
富 木 先生の 後 援 者として だ けで な く 、
協会 及び成山哲郎師範の後 援者として
絶え ず 私 たち の 合気 道 に 温 か い眼 差 し
を 向 けて 来ら れ た。 さり げ な く 、 徳 行
を 積 ま れ た 先生 に敬 意を 表 し 、ご冥 福
をお祈り申し上げます。
日本合気道協会師範 志々田文明
由を 伺ったとこ ろ 「昔 、ボ クシングを
やっていたんだ。だからケンカで一度
も負 けたことが ないよ 」と 得意そう に
おっしゃられ、若い社員と の腕相撲で
も 、 一度も 負 け た姿を 見たこ と は あ り
ま せ んで し た 。 そ ん な 負 け ず 嫌 い な 一
面が 頼もし くも あり 、親し みを感じ る
ところでもありました。
そして 内山理 事長 は、何より富木・
大庭 両 師範との 信頼関係を 決して 裏 切
ら な い 方で し た 。 会 社 の 事 務 所か ら は
じ ま っ た 昭 道館 が 二 十 四畳 の 専用 道 場
に な り 、昭 和 五 十 一年 に は 七 十 畳 、 昭
和 六 十 三年 に は 百畳 、 そし て 平 成十 五
年に は現在の百三十畳と、大き な道場
01st June, 2007
No.19
Shodoho
- 2 -
2007 年 06 月 01 日
第 19 号
報
道
昭
に 生 ま れ 変わ っ て い っ た の は 、両 師 範
と理事長の強い絆の証で あり、昭道館
はま さに三人の 合気道に対する愛情と
情熱が形になったものと言えましょ
う。 昭道館は両 師範の合気 道への純粋
な想 いに対する 、理事長の 心から の 応
援の形であったのだと思います。
ま た合 気道に 励む 学生に 対す る応 援
も 常 に 忘 れ な い 方で 、古 く は 三 度 の 台
湾遠征をはじめ 、事あるご とに学生 の
負 担 が 軽 く な る よ う 密 か に ご 配 慮を 頂
き ま し たこ と も 深 く 感 謝す る と こ ろ で
あります。
内 山理 事長 は よ く 食 べ 、 よ く 飲 み 、
よ く 身体を 動か し 、健康を 気 遣 う 方で
した。結婚直後の一年間、理事長と 住
まいを共にさせて頂いた際 には、朝 一
番 の 一時 間にわ たる 入 浴 と 、 私 の 妻 の
焼 く 柳 鰈 の干物 の 朝食を 欠 か さ ず 続 け
る健 全な毎日に 驚かされました。長 い
入浴 時間中には 、富 木 先生 に教わ っ た
合気 体操を な さ って いる事 を 知 り 、 毎
日の 生活に合気 道を取り入 れて おら れ
るこ とに感心致しました。 その反面 、
飲み に行くのも 大好きで 、毎晩のよ う
に 御 伴 さ せて 頂 いた 私 は 、 そ の 度 に 終
電を 逃して梅田や難波から 夜中の散 歩
を す る 羽 目 に な っ たこ と も 、 今 は 良 い
思い出です。
そ ん な 敬愛す る 理 事長 に 、私 は 一度
だ け 逆 ら っ たこ とが あり ま す 。 今 に し
て思えば、それは理事長への生涯一度
の反 抗でし た。 合気道の指 導に生活を
賭 け る 私を 、会 社 の 新 部 門 の 責 任 者 に
抜 擢 し た い と お 話 が あ り ま し た 。「 成
山君 、純粋す ぎ ると 大変 な 苦労を背 負
うよ。清濁併せ呑む時も必要だよ。」と
強く勧める理事長に、大阪を離れる覚
悟で 「それは出来ません」と土下 座し
て お 願 い し た と こ ろ 、「 君 の 気 持 ち は
わ か っ た。 今ま で 通 り に 合 気 道を 続 け
ればいい。」と言って下さいました。あ
の時 のご理解が なければ、 今の私は あ
りま せん。あの 一言によって 、私は 合
気道に専念することが出来ました。 私
の 生 活を 心 配し て 下 さ っ た 上で 私 の 意
志を 尊重して 下 さった理事長のお心 遣
いを 、私はこ れ からも 忘れ るこ とは あ
が 、 訃報 の知ら せを 受け 、 最初に思 い
出したことを述べさせていただきま
す。
理 事長との出 会 いは 、私が 早稲田 大
学合気道部の現役のとき、富木先生 、
大庭 先生より、関西の建設 会社の社長
で 、 自ら も 有 段 者で あり 、 個人で 道 場
を 提 供して 、富 木合気 道 の 普 及 活動 を
して いら っしゃ る 方と伺 い 、関西 遠征
のときに、ご紹 介いただいたのが最初
と記憶しております。
りません。
体 調を 崩され て か ら 、私 に 「 早死に
しち ゃ いか ん。 長 生きしろ 。 そうし な
いと 合気道に対 して 申し訳 ないんだ 」
とおっしゃることが何度かありまし
た。「合気道の先生達は皆、逝くのが早
過 ぎ る 。 君 は長 生 き し な さ い 」と お っ
しゃ い ま し た ね 。 理 事 長 、 確 か に 理 事
長が私の恩師の中で一番長生きでし
た。 それでも、もっともっと長生きし
て頂きたかった。
私は理事長のお言 葉を 守れるでしょ
うか 。理事長から お預かりした合気 道
への お志しを 、 あますとこ ろ なく後 世
に伝えることが 出来るでし ょうか。 ど
うか こ れからも 、今まで と 変わら ぬ 愛
情と情熱で私を、昭道館を、合気道を、
見守って下さい。
限 り な い感 謝 と尽 き ぬ 哀 惜 の 想 いを
こ め て 、 今こ こ にひ と 時 の お 別 れを 致
します。
内 山理 事長 、 永い 間 、本 当 に ありが
とうございました。
(次頁へつづく)
昭道館草創期の指導員 北山正信
先 日、昭道館 の成山師範 よ り 、理 事
長が十二月六日にご逝去されたとの訃
報 の 知ら せを い た だ き 、驚 いて おり ま
す 。 こ こ に 、昭 道館 創 設 者 で ある 、 内
山雅晴理事長のご生前のご功績を偲
び、謹んで心より哀悼の意を捧げます。
今回、道場の機関紙、昭道報にて追悼
の特 集号を刊行 するとのこ と 、追悼 文
の寄稿のご案内をいただきました。 最
初の出会いから四十年にもなります
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
合掌
卒 業 後 、私が 就 職して 、 初 めて 関 西
の 土 地で 社 会 人 生 活を ス タ ー ト さ せ 、
仕 事 を 終わ って か ら 、 定 期 的 に 、 昭 道
館 に て 稽 古 を さ せて いた だ き 、 同時 に
道場 のメンバー にも指導の お手伝いを
させて いただいて おりまし た。関西が
はじ めて の私に とって は、会社が 肥 後
橋に あり 、昭和 町 の道場と の間の往 復
が 、関西で の独 身生 活の中で 、唯 一 、
気 持 ち の 休 ま る 時 間で し た 。 稽 古 が 終
わ る と 内山社長 が 待 って いて くれ 、 食
事に連れて行っていただき、そのあと、
南の繁華街で よ く遊ばせて いただき ま
した。
食 事 の 時 に は 、 合 気 道 に つ いて 、 富
木 、 大庭両 先 生 と の つ なが り 、 又 社 会
人としての心構え 、社長として 、経営
者と して の心情 等々 の お話 し 、時 間 を
過 ぎ る のも 忘れて 気が つ く と 終電も な
く 、 タ ク シ ー の チ ケ ット を 用 意 し て い
ただき、寮へ帰 ったことが 思い出され
ます。
転 勤で 大 阪か ら 離 れて か ら は 、ほ と
んど お目にかか ることが な く、年賀 状
で の や り取 りで お元気 なご 様子ばか り
と思 って おりま し た。 なか なか お目 に
かか る機会が な いまま、そのまま永 遠
の お 別 れ と な っ て し ま い 、 大変残 念 な
思いで一杯です。
あらためまして 、私の社 会人スタ ー
ト に 際 し て 、 い ろ いろ と ご 指 導 い た だ
いたことに感謝すると共に 厚く御礼を
申し 上げ、最後のお別れの言葉とさせ
て い た だ き ます 。 安ら か に お眠り く だ
さい。
01st June, 2007
No.19
Shodoho
- 3 -
2007 年 06 月 01 日
第 19 号
報
道
昭
昭道館顧問 荒尾敏矩
こ の度 、内山 雅晴 先生の ご逝去の 報
に接し、心より哀悼の意を捧げます。
か つて 私が 関 西 社 会人 合 気 道 競技 大
会で の お役を 務 め させて い ただき ま し
た時 に 、先生に は常になみ なみ なら ぬ
お力 添えを 注いで 頂き、無 事に重責 を
果たす事ができ ました。今も心から 感
謝の気持ちを忘れる事は出来ません。
思い出に残るのは、先生が富木先生、
大庭 先生お二人 を 大変 大事 になされ 、
そ の 恩 恵を も っ て ご 指 導 、 親 睦を 通 し
て 絆 を深 め るこ とが 出 来 ま し た。 今 も
な お 、 大 切 に 心 にし ま って 居 り ま す 。
先生本当にありがとうございました。
こ れからも 先 生のご意志 を成山先 生
の 元 で 皆 さ ん が 力 を 合わ せ 発 展 に 尽 く
す事が何よりのご供養にも なるものと
思 い ます。 先生 、ど う ぞ 安 ら か に お や
すみ下さい。心よりお悔や みを申し 上
げ、哀悼の言葉とさせていただきます。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
昭道館顧問 馬渡和夫
突 然 の訃報 に は ほ んとに 驚 いた。 久
しぶ りに第三十 一回の関西 合気道競技
大会 を 見学 させて いただ い たが 、内 山
先生 のお姿が 見え ないのを 不思議に 思
った。しかし、訃報に接す るとは思 い
も よ ら なか っ た 。 内 山 先生 と 私は た し
か 同 年 齢 のよ う に 聞 いて い たが 、立 派
な実業家で あり 、私には雲 の上の人 だ
った。実力も い くつかの武 勇伝を 耳 に
した。
私がはじめて 昭道館の門をたたいた
の は 急 な 階 段を 上り 詰 め た 奥 に 畳 を 十
畳ほど横に並べた質素な道場だった
が 、やがて 百畳 ほどに なり 、日本合 気
道 協 会 の 中 央 道 場 と な って 富 木 先 生 が
館長に就任された。
昭 道館 合気 道 は いまや押 しも押 さ れ
もせぬ存在で あるが、縁の下の力持ち
と い う べ き か 、 それを 支え て くだ さ っ
たのが内山先生であった。
富 木先生の推 挙を 受けて 成 山先生 を
師範として迎え られたのも 内山先生だ
ったし、その成 山先生を物心両面から
支えてくださったのが内山先生だっ
た。
失 礼だが 、日 本の戯曲の 代表作と い
わ れ る仮名 手本 忠臣蔵に 出て くる 、 大
坂の天野屋義平を連想した。義侠心が
強 く 、信じ たら 親 身に な っ て 尽 くす 心
意気を 私は感じ て いた。こ のことは 、
若 い 人 は 知 ら な いだろ う と 思 って 感 謝
の気持ちを込めて書かせていただい
た。安らかなご永眠を祈る次第である。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
(次頁へつづく)
昭道館草創期の指導員 山口升呉
内 山 雅晴 前 日 本合気 道 協 会 副会長 と
の最初の出会いは、私が大学三年の時、
大 阪 の 桃 山 学 院 大学 で 富 木 先 生 の お 供
をして 、合気乱取法の紹介を 大阪地区
の各 大学 合気道 部へ行った時でした。
超 満 員 の 夜 行 列 車で 立ち つ くして 早 朝
到着した昭道館で仮眠、食 事が出来る
よ う に 手 配して 下 さ って い ま し た。 こ
の時 の講習会の 成功によ って 、翌年 成
山師範が乱取競技の本格的な普及の
為 、 大阪に行か れるこ とに なったので
す。
私 が 社 会 人 に な って は じ めて の 勤 務
地も 大阪で し た ので 、休み の 日に は 昭
道館でよ く稽古をさせて 頂きました。
富 木 先生が 来 阪 さ れ た 折も 呼 んで 下 さ
り 、 席 を ご 一緒 さ せて 頂き まし たが 、
いつも柔和で 暖かいまなざしで我々 の
合 気 道 を 見 守 っ て 頂 いて い た よ う な 印
象が強く残っております。
日 本合気道 協 会第 三代会 長 の富 木 房
枝 様 が 亡 く な っ た 時 に 、「 こ の 合 気 道
は富 木先生が作 ったのだか ら 、富 木 家
のも ので ある。 従 って第 四 代会長は 、
娘の富 木昌子さ んが なるべ きで ある 」
と主張され、とても我々では言えない、
した。
故 富 木 謙 治 先 生 と の 出 会 いか ら 、 そ
の合気道に対す る お考えに 共鳴され昭
道館 を創設されて 約 四十年 、その間 、
実 業 団 ス ポ ー ツ 界に お いて は 年 々 減 少
の 一 途を 辿 って いる 状 況 に ある に も 拘
ら ず 、富 木 、 大 庭 両 先 生 亡 き 後も 、 そ
の熱 い心意気は 一寸のぶれもなく、現
在の世界の競技 合気道の中心道場にま
で 発 展 さ せら れ ま し た 。 門 人 の 一人 と
して その逞し い 実践力に畏 敬の念を 抱
くと 共に 、競技 合気道の普 及を志す 一
人として感謝に絶えません。同時に 、
その強い御意志 は現代人に 失わ れつ つ
あ る 大 切 な 「 何 か 」を ご 教 示下 さ い ま
した。残された私共はその御遺志を 継
いで 競 技 合気 道 の 普 及 に 邁 進 す る 覚 悟
です 。彼の世界 へいか れ富 木、大庭 、
小 林 諸 先 生 、 西 村 様 等 先 人 の 方々 と 合
気 道 談 義 に 花を 咲か せら れ るこ とで し
ょ う 。 ど うか 天 上よ り 見 守 って いて 下
さい。ご冥福を お祈り申し 上げます 。
合掌
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
中心に内山理事長が遺され た昭道館 道
場が さらに発展されるよう祈るばか り
です。
どうぞ安らかにお眠りください。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
関西合気道競技連盟常任幹事 山形雅章
古稀、「人生七十年、古来稀なれ」
一九九二年、内山理事長 は古稀を迎
え ら れ ま し た 。 十 一 月二 十 二 日 に 行 わ
れた関西社会人 合気道競技 大会(現関
西 合 気 道 競 技 大 会 ) の 後 、 阿 倍 野ス ポ
(2005 年 5 月撮影)
関西合気道競技連盟常任幹事 寺西晴高
内 山理 事長 に はこ れまで 昭道館を 支
え て い た だ いて 感 謝 の 気 持 ち で い っ ぱ
いで す。 そんな 理事長が お 亡くなり に
な っ たこ と は 本 当 に 悲 し み に 耐 え ま せ
ん。 理事長は大変明るく、お元気な 方
で し た。 時々 ご 自宅 に おじ ゃ ま さ せ て
いただいた時などは快活と お話しに な
り 、 お酒も 飲 ま れ 、とて も 楽 し い時 間
を 過 ご さ せて い た だ い たこ と も 今 と な
って は良 い思 い 出で す 。 残 され た昭 道
館 の 会 員 の 一人 と して は 、 成 山 先生 を
昭道館本部道場入り口→
し か し 明 快 な 論 法で 紛 糾 し か け て い た
こ の 問 題 の 結論 に 流れを 作 って 下 さ っ
たのです。
私には合気道の恩人としての内山副
会長 だけではな く、事業家 として の 大
先輩 、昭和 土地 建物株式会 社社長と し
て の 内山様と お 話が 出来るこ とが 楽 し
みで ありました。実際には会社の中で
は相当厳しい方だったと推 測できます
が 、 独 自の事 業 観 、景気 観 を お持ち の
方で、スケールの大きさを感じました。
富 木 先生 、大 庭 先生 、富 木房枝 様 、
和﨑 先生、そしてまた内山社長と、私
の恩 師で あり、人生の大先輩が次々 と
亡 く な って いか れる の は 本 当 に さ み し
いこ とで す。残 され た私達 が 次の 世 代
の人 達の為に何を為すべき なのか自問
する毎日です。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
日本合気道協会指導部長 森川純治
関 西で 開催 さ れる 大会に は いつも お
元気 な姿をお見せになり、私共門人を
励 ま さ れて いら っしゃ い ま し たが 、 昨
年 十 一 月 の 関 西 大会 に は お 見え に な り
ま せ んで し た の で 気 に な っ て い た と こ
ろ 、 十二 月にな って 訃報を 知ら され ま
昭道館本部道場内部↑
01st June, 2007
No.19
Shodoho
- 4 -
2007 年 06 月 01 日
第 19 号
報
道
昭
ー ツ セ ン タ ー 近 く の ホ テ ル ホ ー ルで 祝
賀 会 が 開か れ ま し た 。 そ の 時 司 会を さ
せて 頂 いたので すが 、下 手 な進行 に も
かかわらず、ご丁寧に感謝のお言葉を
かけて いただいたのが ついこの前のこ
とのように思い出されます。
今 か ら 四十 年 以 上 前 、富 木師 範 と 内
山理 事長との出会いから昭 道館が創 設
さ れ た と 聞 いて おり ま す 。 人 は 出 会 い
から 心を動かさ れ何かを始めるもので
すが 、その思いを持ち 続けることは容
易で は ありませ ん。昭道館 は今も発 展
を 続 けて います 。 それは 内 山理事長 が
よ き 伴 侶を 得て 、 そ の 思 い を 持ち 続 け
ていただいたお陰なのです。
古稀のいわれは、唐代の詩人「杜甫」
の 漢 詩 の 中 に あ る 一 文 か ら と いわ れ て
います。現在七十歳まで生きること は
めずらしくなく 、まだまだ 働きざか り
と 言 わ れる くら いに な り ま し た 。 し か
し 四 十年 以 上も 初 心を 忘れ ず 、思 い を
持ち 続けるこ と は 並大抵で は ないので
す 。 こ れこ そが 「 古 稀 」 だ と 思 う の で
す。
内 山 理 事長 の 古稀 は 、思 いの お陰 で
今 日 も 昭 道 館 で さ ま ざ ま な 出会 いが あ
ります。新しい人生が始まります。 私
たち は感 謝の気 持ち で 一杯で す 。 合
掌
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
関西合気道競技連盟常任幹事 安居隆
長 年 にわ た り 昭 道館 合気 道を 支え て
下さった内山雅晴先生がご逝去され何
とも言えない寂しさを感じます。
中 学 三年 生で 昭 道館 に 入 門し た 私 に
とって先生は雲の上の存在でしたの
01st June, 2007
No.19
Shodoho
- 5 -
2007 年 06 月 01 日
第 19 号
報
道
昭
で 、 大 会 や 行 事 の時 に ご 挨 拶 さ せて 頂
く 程 度 で し た が 、社 会 人 に な って か ら
は時々声をかけて下さるよ うになり 、
還 暦 の お祝 い の 席 で は 先 生 ご 自 身が ボ
ク シ ン グを や っ て おら れ た 話 を さ れ た
ことが懐かしく思い出されます。
そ の 後 も 何 度 か お話 を 伺 う 機 会 が あ
り ま し たが 、 そ の 内容は 大 変 面 白 く 、
本当に豪快な男の生き方に憧れまし
た。
昭 道館 設立 三 十 周年 の頃 に 体調を 崩
され た後も 、十 年 あまり回 復された 、
元 気 な お 姿 を 拝 見し 喜 んで お り ま し た
がこの度のことは本当に残念です。
心よりご冥福をお祈り申し上げま
す。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
関西合気道競技連盟常任幹事 中川世一
内 山理 事長が 、富 木師範 の 合気 道 に
対す る情熱と理 想に深 く共鳴され、 一
九六三年に、会社の社員寮二階の一角
を 道 場として 提 供して 下 さ り 、稽古 が
開始 されたのが 、昭道館の発祥と聞 い
て お ります。 一 九 六七に 専 用道場が 設
立され、その後七十畳に増築されたと
のこ とで 、私が 入門させて 頂いたの は
こ の 道 場で し た 。 一九九 八 年 三 月に 現
在 の 道 場が 新築 され 、二 〇 〇 五年 五 月
に は 現 在 の 一二 六畳 と い う 堂々 た る 道
場に生まれ変わりました。これもみな、
内山理事長の昭 道館に対す る大きな愛
情の賜物だと感謝しております。
成 山師範と何 度も 会社や ご 自宅に 、
道場 の増設、有 段者会の立ち 上げ、各
大会 など 、ご相 談に随行 さ せて 戴き ま
し た 。 その 折 い つも 温か い お心 遣 い を
賜り 、幾つもの壁を乗り越えたのが 、
昨日のように思われます。
「 地の利・人 の和・天の 時 」私の 大
好き な言葉ですが 、地の利 とは、場 の
環境 。これが何 事にも基盤となるも の
で す 。こ れを 内 山 理 事長 に 整えて 戴 い
た お 蔭 で 、人 が 育ち つ つ あ り 、 天 の 時
を掴まんとしていると思います。
内 山理 事長 の ご逝去を心 から 御悔 や
み 申 し 上 げ ま す と 共に 、こ れ か ら も 昭
道館 の発 展を宙 の彼 方から 見守って 戴
きたいと存じます。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
関西学院大学合気道部監督 末廣剛太郎
飛花落葉とはよくいったものです。
私が故内山雅晴理事長に初めて お目
にか か ったのは 今から 丁度 三十 五年 前
に な り ま す 。 私 が ま だ 大学 三年 生で し
た。 故小林 師範や 成山師範 と 共に台 湾
遠征 を させて い ただいた事が初めて の
ご縁であったと思います。
世 間 の 事 な ど 何 も 知 ら ず 、 た だひ た
すら 合気道の稽古だけで 日々を過ごし
て い た一貧乏学 生が 生まれて 初めて 飛
行機に乗り、
「海外遠征」を経験させて
いただきました。全国の大学の選抜メ
ン バ ーで 台 湾 全 土を 廻 っ た よ う に 記 憶
して おります。 まさに夢のような一週
間で し た。 そのこ とが 今日 の 自分の 原
点で あると いって も過 言で は ないと 思
いま す。我々 の 様な者にも 優し く声 を
か け て いた だ い た 事が つ い 昨 日 のこ と
のよ うに思い出されます。有り難いこ
とに その翌年にも台湾に同行をさせて
いただき、若い時にこれ以上は無いと
言う程の貴重な経験をさせていただ
き、本当に有り難うございました。
人 の思 いは 受 け 継が れ な ければ な り
ませ ん。故内山 雅晴理事長 の優しい お
人柄とその熱い思いは必ずや多くの
人々に受け継いでいかれる事でしょ
う。
我 々 、 遺 さ れ た 者 は 各々 の 地で 、 そ
の 蒔 か れ た 種 を 更 に 大 き く 育て て い か
なければと心新たにする次第です。
衷 心 よ り ご冥 福 を お祈 り 申し 上 げ ま
す。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
成城大学合気道部総監督 柳利知
こ こ に 古 い 二 枚 の写 真が ある 。 い ず
れも 内山先生と いっしょに 収まって い
るものである。ツーショットではない。
四十 人 くら いの 集 合写 真で ある。し か
しこ の二枚の写 真は、私の人生の大切
なモ ニュメ ント の一つで あるこ とは 間
違いない。
一 枚 は 昭 和 四 十 七 年 一( 九 七 二 私) が
大学三年の時、小豆島で行われた関
東・関西の学生を集めた講習会の時 の
ものである。富木先生、小林裕和先生、
そし て 養 神館 の 塩田剛三先 生。当時 の
錚錚たる合気道界の先生方が集結し
た、歴史に残る講習会だったと言って
も過言ではない。私の記憶ではその後
こ の 三 人 の 先 生 が ご 一 緒 さ れ たこ と は
なか ったと思う。塩田 先生 の厳し い 受
け を 取 っ た こ と も 思 い 出深 い が 、 そ の
後行わ れた富木 先生の指導 法に鳥肌が
立 つ ほ ど の 感 銘 を 受 け たこ と は 一 生 忘
れない。
二 枚目 は翌年 十二 月、富 木・小林 ・
成 山 先生と 共に 選抜 され た 関 東と関 西
の学生が、中華民国 台(湾 へ)海外遠征を
行った時、蒋介石の嫡子・蒋偉国 当(時
将 軍 が) 主 催 さ れ た 歓 迎 会 の 写 真 で あ
る。約一週間各 都市の警察や軍 隊等で
デモ ンストレー ンョンを行 い、どこ で
も 大 歓迎を 受け た。 前 月の 成城 大学 初
の 全 国 優 勝 を 成 し 遂 げ た 余 韻 と さら な
る感動。まさに我が青春の絶頂期だっ
た 。 当 時 は そん なこ と は 考 え も し な か
っ た が 、こ の二 枚 の写 真で さえ 内 山 先
生 の 物 心 に 渡 る 御尽 力 、 御 支 援が な け
れば 、青春の証で ある私のアルバムに
はファイルされてはいない。
先 般の 内 山 先 生 の 告 別 式 で 遺 影を 見
ながら 先生は、功名心も私利私欲もな
く、本当にただ シンプルに 、合気道が
好き だったんで す ね 」と心 で 呟き 、 合
掌した。
内 山 先生 あり が と うござ いまし た 。
ご冥福を心よりお祈り致します。
01st June, 2007
No.19
Shodoho
- 6 -
「
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
昭道館指導員 佐藤竜一
内 山理事長と の思い出は いくつも あ
り ま す が 、特 に 印 象 的 に 残 って い る こ
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
昭道館指導員 遠藤関男
内 山 先生は 私 が 二十 三年 前に 大学 で
合気 道を始めた 頃から 、昭 道館で お 世
話に なった時も 、また協会 のお手伝 い
を さ せて いだ いて いる現 在 まで 、常 に
変わらず温かく見守って下さいまし
た。こ の度の訃報に際し 、残念な気 持
ち と 同時に 感 謝 の気 持ち で 一杯で す 。
ありがとうござ いまし た。 先生の御冥
福をお祈り申し上げます。
2007 年 06 月 01 日
第 19 号
報
道
昭
とを記したいと思います。
昭 道館 本部に 稽古生とし て お世話 に
なって いた四年 間、幾度と なく内山理
事長 の会社を訪れる機会が あったので
すが 、理事長は 必ずといってよいほど
コーヒーとお茶菓子を出して下さり、
「食べなはれ!」「飲みなはれ!」と勧
めて 下 さいまし た。 最初は 緊張しガ チ
ガ チ だ っ た 私で す が 、理 事 長 の 言 葉 は
東 京 出 身 の 私 に と って は 心 地 良 い 響 き
で あり 、緊張が 次第に解れて いった 事
を覚えています。理事長の「食 べなは
れ!」
「飲みなはれ!」の言葉は今でも
私の耳に残っている思い出の言葉で
す。
次 に 、会社 の 社 員 旅行に ご 一緒さ せ
て頂 いた時の事ですが 、旅行を前に 大
病を 患わ れた理 事長は、ま だ足腰が 思
うよ うに動か なかった為 、 私が杖代わ
りとして旅行に参加するこ とになり ま
し た 。( 当 時 成 山 師 範 の 内 弟 子 を し て
いた関係で任命されました。)皆が集団
で 次 々 と 観 光し て い く中 、 私は理 事 長
に 肩 を お貸 し し 、二 人で ゆ っ くり と 観
光を し まし た。 何か あった ら 申し訳 な
いと 、その時は 緊張の連続でしたが 、
そのお蔭で内山理事長と富木謙治先
生 、 大庭 英 雄 先 生 、小林 裕 和 先 生 と の
思い出話や、成山師範の若き頃のお話、
更に 理事長ご自 身の武勇伝 など、他で
は 聞 くこ と が 出 来 な い よ う な 貴 重 な お
話を聞くことが出来ました。
また、旅行中理事長は、
「佐藤君、ワ
シはここで 一休みして おるから 一人で
観光して来なは れ!せっか く旅行に 来
たの に年 寄りの 世話ばかりじゃ つまら
んじゃろ !」と いつも 一緒 に いる 私 に
気を 遣って下 さ いまし た。 当然会社 社
長 と し て の 厳 し さを 持ち 合わ せて い る
とは思いますが 、私にとっては優し い
人 生 の 大 先輩 で あり 、 昭 道 館 を 支え て
下 さ って いる 偉 大 な理 事長 で す 。 本 当
に お 世話に なり まし た。 感 謝の気 持 ち
でいっぱいです。
い つ も お洒 落 な 帽子 を 被 って いら っ
しゃ っ た 内山理 事長 、ど う ぞ 安ら か に
お眠り下さい。 心よりご冥 福を お祈 り
いたします。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
昭道館指導員 酒井進之介
内 山理 事長 に は物心両面 から とて も
温か いご 支援を いただ いて ま いり ま し
た。
昭 道館 に 勤め ると いう機 会を いた だ
いて か ら 暫 くは お話 さ せて いただ く 機
会も ほとんどなかったので すが 、三年
目を 過ぎた辺りからは成山 師範のお供
で 会 社 、ま たは ご 自宅で と お話を お 聞
きする機会がありました。
内 山 理 事 長 の お話 に な る 内容 の 中 で
も特 に富木先生 、大庭 先生 のお話は 実
際に お会いする 機会のなか った私に と
って は 大変 興味深 いも ので し た。ま た
成 山 師 範が 大 阪 に 来ら れ た 当 時 の お 話
など 、直接師範にお聞きす ることは 憚
ら れ るよ う な お 話 も おうか が いす る 機
会が ありました。成山師範 の歩んで こ
ら れ た 修 業過 程 に 比 べ 、 自 分の置 か れ
て い る環境が 如 何に 恵まれて いるか を
知 り 、 自ら の 今 置 か れて い る 立 場 に 気
の引き締まる思いでした。
ま た 私が 結 婚 す る 際 に は いろ いろ と
アド バイスをし て くださっ たり 、時 に
は諭 されたりと いつも気に 掛けて い た
だいたのが今となっては本当に有難
く、 そのお言葉 は今でも私 自身の心 に
響いております。内山理事長の遺され
た 昭 道 館 道 場 が 更 に 普 及 発 展で き る よ
う 、 成 山 師 範 の も とで 微 力 なが ら 力 を
尽 く し た いと 思 いを 新 たに いたして お
ります。内山理 事長、本当 にありが と
うございました。
富木 昌子
井上 賀臣
内田 滋
大森 清恵
佐藤 竜一
志々田 文明
冨岡 浩樹
成山 哲郎
森川 純治
柳 利知
吉川 英夫
木村 二郎
薮内 啓寿
濱崎 正雄
西馬 修
児玉 正嗣
末廣 業太郎
松熊 繁美
伊藤 寿士
荒尾 敏矩
馬渡 和夫
寺西 晴高
山形 雅章
安居 隆
中川 世一
赤木 瑞枝
井上 哲朗
岩﨑 正人
圓乗 愛
大浦 毅之
大西 美緒
大原 隆志
岡田 有香
片山 惠子
金子 祐美
栢木 かおる
河村 未来
川本 卓史
木下 大樹
木下 真理子
倉西 敏志
上月 修
声元 洋美
小牧 扶美
権代 隆裕
酒井 朱音
酒井 進之介
﨑里 学士
佐子 肇
枝折 優
菅野 健太郎
須田 喜太郎
髙江 美智子
巽 泰滋
小尾 貞夫
津野 井久絵
野下
野原
橋本
橋本
濵口
゙
セ
ー
レ
ー
タ
ー
゚
ヒ
知史
孝好
悦子
ななみ
勝已
良絵
広治
文加
保雄
堀
宗平
孔明
香緒里
彰
泰子
聖子
興介
麻衣
真理恵
泰樹
綾子
朋美
ュ
シ
゙
ヒ
カ
マ
ル
ケ
イ
マ
ト
ー
゙
ハ
ロ
勝利
重信
哲也
佳美
英二
美貴
ス
゙
フ
レ
゙
ク
゙
ト
ッ
゙
ヒ
イ
゙
テ
中島
中田
成山
成山
西井
西井
直正
佑資
謙三
佳也
輝充
東原 善一
平澤 昭雄
藤本 和義
益田
松井
松下
松本
本澤
森本
山口
山﨑
山崎
赤穂
足立
阿見
石井
市川
稲田
岩下
岩田
上野
馬越
遠藤
大井
大樫 直樹
大迫 里奈
岡 紀波
岡部 友紀子
笠井 慎也
葛井 彩代
金森 翔子
金本 泰士
亀田 卓大
川合 千陽
河西 朋奈
北 麻友子
北野 大輔
木村 慎吾
久保 浩之
小松 亜依
近藤 誠
近藤 祐子
斉下 はるの
櫻木 武士
澤井 孝太朗
澤内 清訓
芝辻 亮輔
城間 奈津子
須一 力
関口 達哉
高瀬 亜紀
瀧井 大輔
竹重 康宏
竹中 尚生
竹原 理子
舘 香保里
田中 育子
田中 智也
田中 有希
辻本 博昭
中田 久美子
永田 静
中山 真佑子
野村 雄
橋本 宏太
原田 恵那
原田 大輔
樋口 貴光
樋口 達德
左川 智哉
日根埜谷 美里
福田 裕子
細村 江美
前田 麻美
松田 諭子
松本 都
南 寛子
峯元 優作
三宅 佑昌
最上 和喜
本松 良太
山本 耕平
山本 広之
山本 義人
和田 潤
日本合気道協会 顧問 木暮浩明
関東合気道協会 会長 萩原太郎・理事長 小原弘行
関西学生合気道競技連盟 会長 濱田麗史
大分県合気道協会 竹本義夫
宇部興風館 和﨑正経
大阪商業大学合気道部一同
関西学院大学体育会合気道部一同
昭道館静岡
昭道館姫路支部 代表 表西康裕
昭道館門人 萬谷久美子
植木則雅
関西学院大学合気道部 OB 瀬藤英典
株式会社コナミスポーツ&ライフ コナミスポーツクラブ向日町 支店長 澤村有加
コナミスポーツクラブ 生駒
コナミスポーツクラブ新金岡 篠原郁苗
コナミスポーツクラブ北千里スタッフ一同
コナミスポーツクラブ東岸和田 支店長 新西道浩
株式会社コナミスポーツ&ライフ 阪南支社 光明池支店 支店長 国定和司
01st June, 2007
No.19
Shodoho
- 7 -
2007 年 06 月 01 日
第 19 号
ツ
ー
゙
ハ
ロ
ー
ァ
フ
ル
ニ
報
道
昭
昭
道
報
第 19 号
2007 年 06 月 01 日
- 8 -
Shodoho
No.19
01st June, 2007
NPO 法人日本合気道協会 会長 富木昌子
松楓会 会長 小林聖造
NPO 法人日本合気道協会 理事長 内田滋
昭道館武蔵野
NPO 法人日本合気道協会 師範 成山哲郎
昭道館生野支部
NPO 法人日本合気道協会 師範 志々田文明
昭道館谷町支部
関東学生合気道競技連盟 会長 菊山榮
昭道館 姫路
関東社会人合気道協会 会長 萩原太郎
昭道館八尾
近畿大学体育会合気道部
昭道館雲雀合気道
近畿大学体育会合気道部 OB 会梅合会一同
狛江スポーツ合気道倶楽部他七倶楽部 代表 森川純治
大阪工業大学 OCF 合気道部
昭道館志賀支部
大阪工業大学 OCF 合気道部 OB 会淀水会一同
昭道館沖縄 植木則雅
天理大学体育総部合気道部
駿台会
天理大学体育総部合気道部 OB 会大和会一同
昭道館上尾
大阪商業大学体育会合気道部
稲合会
大阪商業大学体育会合気道部 OB 会養武会一同
昭道館静岡 桑高正行
大阪商業大学体育会合気道部 監督 木下大樹
成城大学体育会合気道部
関西福祉科学大学合気道部
成和会
関西福祉科学大学合気道部 OB 会乙盛会一同
NPO 法人日本合気道協会 副会長 宇野憲司
大阪芸術大学体育会合気道部
NPO 法人日本合気道協会 副会長 二見健吉
大阪芸術大学体育会合気道部 OB 会一同
NPO 法人日本合気道協会 副会長 山口升呉
立命館大学合気道同好会
大阪武育会 会長 木村二郎
大阪市立大学体育会合気道競技部
昭道館門人一同
大阪市立大学体育会合気道競技部 OB 会一同
NPO 法人日本合気道協会 顧問 木暮浩明
関西学生合気道競技連盟 会長 濱田麗史
稲門合気道会 会長 内田滋
成山千代
早稲田大学合気道部 部長 木村一郎
増田慎・綾子
荒尾敏矩
関西合気道競技連盟 常任幹事一同
大杉光生・絵美子
関西合気道競技連盟 審判部一同
帝京大学合気道同好会 監督 西尾直仁
関西合気道競技連盟 審査部一同
明治大学体同連合気道部
関西合気道競技連盟 有段者会一同
宇部興風館 和﨑正経
関西学院大学体育会合気道部
阿倍野区柔道連盟 会長 大丸昭典
合気道角館協会 博進館佐々木道場
山口大学体育会合気道部
昭道館いわき支部 野口智行
中川寛一
関西学院大学体育会合気道部 OB 会一同
阿倍野区剣道協会
昭道館広島支部 原泰志
国士舘大学合気道部