はじめに 『早稲田大学ワンダーフォーゲル部 創立 60 周年記念誌』をご覧いただくにあ たり、一言ご挨拶いたします。 私は『山小屋 20 周年記念誌』を担当したことで、今回の記念誌にも係わること になりました。記念誌を担当するにあたり、 「草創期の記録を通史として残したい」 という思いが強くありました。私は「OB 会報」の OB インタビュー担当だった 37 代の河内圭司君に同行して、初代の安田平八氏や 3 代の里見昭二郎氏からお話を 伺っていましたので、この機会に早大ワンゲル部の歴史を何らかの形でまとめて みたいと思いました。 しかし、実際に始めてみると 60 年はおろか、20 年の歴史もまとめることさえ 困難に思えました。そこで、草創期から 10 年に絞って安田平八 OB と長谷部光郎 OB のインタビューを軸に、体育局への加入と合宿形態の変遷を記録することで、 何とか 10 年分の歴史をまとめることができました。 他の記念誌編集委員もそれぞれの観点で、早大ワンゲル部の歴史をまとめてく れました。時を経過した活動について書くことは難しい作業でしたが、年代を超 えて暖かい励ましや貴重な資料、情報をお寄せいただき、なんとか形にすること ができました。 多くの関係者の皆様方のご支援に感謝いたします。 2009 年 10 月 栗原 勝義 35 代 平成 21 年 8 月 60 代 ジョン・ミューア・トレイル(アメリカ) もくじ 部創立 60 周年を祝して 稲門ワンダーフォーゲル会会長 福島 正義 14 代............................. 2 早稲田大学ワンダーフォーゲル部 創部 60 周年記念に寄せて 早稲田大学ワンダーフォーゲル部部長 田島 照久......................................... 3 「早稲田大学ワンダーフォーゲル部」草創期 10 年の歴史 栗原 勝義 35 代............................. 4 WWVのボート活動の歩み 春田 一真 57 代........................... 16 早稲田ワンゲルボート、川下り活動のパイオニアとして 藤川 正 36 代............................ 21 51 代〜 60 代はどんな 10 年だったのか? 倉本 賢士 53 代........................... 22 思い出の一枚(平成 12 年〜 20 年) 51 代〜 60 代................................ 28 61 代 主将抱負 古川 歩 61 代............................ 38 ワンゲル今昔物語〜時代経過にともなう活動内容の変遷 堀内 太策 38 代........................... 39 ワンゲル年表 栃谷 佳宏 52 代........................... 50 昭和 40 年 11 月 最初の山小屋と 16 代の方々を中心に 1 部創立 60 周年を祝して 稲門ワンダーフォーゲル会 会長 福島正義 14 代 お陰さまで早稲田大学ワンダーフォーゲル部の創立 60 周年を迎えることが出来ました。 数人の大先輩の方々が太平洋戦争で疲弊していた日本に播いた一粒の種がその後立派に成長し 400 人もの人材 を育てる役割を果してきたことに感謝し皆様と共にお祝いしたいと存じます。 各代のリーダー達が自分たちの進むべき方向を真剣に考え、議論して来た結果の積み重ねが今の現役部員に引 き継がれているのであります。その意味において OB、OG の全会員でこの部を育ててきたのです。各代の行動の 実績はその部員達の人格の一部を形成し、次代に引き継がれ新しい発想のきっかけとなり部の歴史が作られて来 たのです。 定められたルールに基づいて記録や勝負を競うために自己を鍛錬する運動部と異なり、我が部の特長は自然の 中で競うべき相手は他人ではなく自分の持つ様々な内面的課題であります。都会でのトレーニングや四季の厳し い自然の中での活動を通して健全なる体力、精神力、他人を思いやる心とチームワークを養い、4年生になって 統率力を身につけ、優しさと共に様々な可能性に挑むたくましい野性味を兼ね備えた人間を社会に送り出してき ました。最高学府の教育的組織として人を育てる理想的なクラブであると誇って良いと思っています。 私たちは自然の活動からその叡智を学び、自然の脅威と向き合いながら謙虚さを学び、私は我が部をこれらの 生きる上で大切ないわゆるワンゲル力を持った人間を養う場と呼んでも良いと考えております。 20 代前半の一時期に私たちの学年が最上級生となった時、真剣に我々の代の方向性について討論し、下級生 の命を預かる重さを実感として感じたことを懐かしく思い出すと共にこの経験が社会に出てから有形無形に役に 立ったことを感じております。又この時期に出会い濃厚な人間関係を持った友人達は一生の宝であります。この ような貴重な経験をさせてくれた部に感謝しています。 現役にとって OB 会は頼りになる組織であり続けたいと思います。しかし時には乗り越え難い高い壁になる役 割をこれからも続けて行かなければならない、と考えております。自分たちのやりたいことを分かってもらうた めに一生懸命考え、準備し、説得しなければならないという社会人として必要なことを身につけて貰いたいと思 います。 今の現役諸君の活動の舞台は国内とほぼ同じ考え方で抵抗なく海外へと広がりつつあります。将来の日本の更 なる国際化を考えるときそのような地球規模で未知への憧れの意欲を表現できる事は羨ましくもあり喜ばしい事 であります。 又、活動範囲を自転車、ラフティングなど自然全般のアウトドアーに広げつつあります。安全を確保しつつ多 種多様な自然分野での活動の充実を図るためにはその取り組み方、技術の各代の継承、伝承が必要です。その辺 りの配慮と調整も監督、コーチ陣にお願いしているので OB 会として積極的にサポートして行きたいと思います。 OB 会のもう一つの目的であります会員の親睦についての現状について考えて見ますと 20 代から 80 代の大先 輩まで幅広い世代に亘っており、昔と異なりテーマによっては一つにまとまるというのは難しくなって来たこと を感じております。 今回 60 周年記念イベントと銘打って色々な企画をして参りました。この中から今後も定期的に続けて欲しい、 というものは積極的にこれからも継続したいと思っておりますし、新しい企画も良いものはどんどん加えて行き たいと思います。 意思決定の機構についてはそろそろ手直しの必要を感じております。この会は多種多様の価値観、考え方を持っ た多数の人たちを包み込んで行ける懐の深い組織であるべきと思いますが、そのようなものを十分反映できるよ うにしたいと思います。今後、皆さんと共に修正しつつ、この 60 周年を一つの節目として次の 70 年も又楽しい 祝賀の会が持てる様に出来たらと思います。よろしくお願い致します。 2 早稲田大学ワンダーフォーゲル部 創部 60 周年記念に寄せて 早稲田大学ワンダーフォーゲル部 部長 文学学術院教授 田島照久 早稲田大学ワンダーフォーゲル部は本年 4 月に第 60 代新人が入部し、2010 年 4 月には部創立満 60 周 年目を迎えることになります。早稲田大学は 1949 年(昭和 24 年)の学制改革によって新制大学に移行し ましたが、その翌年 1950 年(昭和 25 年)に早稲田大学ワンダーフォーゲル部第 1 期が誕生しましたので、 わが部 60 年の歩みは新制早稲田大学六十年の歩みとまさに重なり合うものということができます。 まずは創部 60 年という大きな節目を迎えるにあたって、競技スポーツセンター、大学関係箇所、山小屋 および冬合宿でお世話をいただいている新店商店の山川久隆様はじめとしてご支援いただいている多くの 方々に心からの感謝を申し上げます。 とりわけ一貫して部活動を技術面、安全面、資金面から常にサポートし続けてくださっている「稲門ワン ダーフォーゲル会」に対しましてはこの場をお借りし、衷心より御礼申し上げます。前部長の大谷孝一先生 より部長職を引き継いでから 14 年になりますが、稲門ワンダーフォーゲル会々長も第 8 期の山口純一さん、 第 10 期内田直彦さん、第 13 期菊池博信さん、そして現会長の 14 期福島正義さんと受け継がれ、変わらぬ ご支援を頂いて参りました。監督も第 22 期土屋猛さん、第 27 期三廻部秀男さん、第 32 期佐藤佳一さん、 そして現監督第 35 期大家敏宏さんとその都度指導力のある名監督を送り込んでいただきました。 特に忘れられないのは佐藤佳一監督時の奥多摩真名井沢での滑落事故のことです。何週間にもわたる若手 OB を中心とした病院 24 時間バックアップ体制には人と人とのつながりを基礎とするワンダーフォーゲル 活動の本質と底力を垣間見た思いで深く感動いたしました。この人たちのためなら部長職を出来るところま で果していこうと心に誓った次第です。 四季折々に千変万化する大自然を舞台に、さまざまなアプローチ手段を駆使して自然を相手に活動を展開 するわがワンダーフォーゲル部は、競技スポーツセンターの管理下にある 44 の体育各部の内でも、一定の ルールの下に他者と競う競技スポーツとは活動のあり方を異にするユニークな存在であるといえます。ワン ダーフォーゲル活動は各自がそれぞれの役割を的確に誠実に遂行することで、生命や身体の安全が確保され、 活動目的が達成されるという極めて高度な当事者意識と技術、体力とを要求される活動であり、精神の練磨 や身体の鍛錬において競技スポーツに劣らぬ修練を必要といたします。その意味では早稲田スポーツの伝統 と栄光の一端を担うにふさわしい部であると考えます。特に大自然の中で驚きと共に自己を解き放つ開放感 は他のスポーツには無い醍醐味でしょう。これまでの OB、OG がその時々に試みてきた多彩な活動形態は現 在、山岳縦走、沢登り、自転車、ラフティングボートでの川下り、里・島歩き、山スキーとして受け継がれ ております。 創部 60 周年を機にこれまで中断していた海外合宿も大家監督の新構想の下再開され、部員一丸となって活 動に取り組む所存でおりますので、今後とも変わらぬご指導ご支援のほど宜しくお願い申し上げる次第です。 在外研究地 ミュンヒェンにて 3 「早稲田大学ワンダーフォーゲル部」 草創期 10 年の歴史 栗原 勝義 35 代 ❖はじめに ある。昭和 15 年(1940 年 ) に立教大学ワンダーフォー 早稲田大学ワンダーフォーゲル部は今年、創部 60 昭和 16 年 4 月に早稲田大学 W・V 部へと拡張したが、 周年を迎える。その節目に当たり、部の草創期 10 年 昭和 18 年 11 月に学徒出陣で部員約 50 名が応召され、 の歩みを記していきたい。以下の記述は、初代 OB 安 解体を余儀なくされた < 注 3>。 田平八氏(2005 年 5 月 22 日)、2 期 OB 長谷部光郎 戦前の早大ワンダーフォーゲル部が学連に加盟した 氏(2008 年 4 月 19 日)、6 期 OB 桑山龍男氏と 8 期 ときの加盟校は、早稲田の他には慶応、立教、明治大 OB 山口純一氏(2007 年 7 月 27 日)とのインタビュー 学がある。『山岳文化 2008 年第 8 号』< 注 4> によれ と『彷徨第 11 号(創立十周年記念特集号)』を主な資 ば日本のワンダーフォーゲルの起源 < 注 5> は、1928 料にしている。昭和 24 年 10 月の創部から昭和 28 年 年に明治大学商学部教授の春日井薫氏が学内で始めた ゲル部の紹介で学連に加盟し、早高 W・V 部と改称した。 10 月の体育局への加入を経て部の組織づくりが進み、 「駿台あるこう会」で、この会が 1936 年に明治大学 昭和 34 年の夏合宿で分散集中型の現在の夏合宿の原 ワンダーフォーゲル部に改名、改組する。戦前の大学 型ができるまでを、「ワンゲル前史」「創部の頃」「体育 ワンダーフォーゲル部は 1935 年に立教大学、同年に 局加盟から昭和 33 年まで」と3部に分けて記していく。 遅れて慶應義塾大学、1936 年に明治大学の順に設立 記述の都合で文中 OB の敬称は略させていただいた。 されたが、実質的には明治大学が一番古い。1938 年 に立教、慶応、明治大学によって全日本学生ワンダー ❖ワンゲル前史 フォーゲル連盟が結成された。『山岳文化 2008 年第 8 現在の早稲田大学ワンダーフォーゲル部が昭和 24 立教、慶応、明治のみが紹介されており、早大ワンダー 年の 10 月 4 日に誕生する以前に、早稲田大学にはも フォーゲル部の記述はない。3大学のワンダーフォー う一つのワンダーフォーゲル部が存在していた。この ゲル部活動は戦争によって中断されたが、終戦直後に ワンダーフォーゲル部は、昭和 14 年(1939 年 ) の春 復活し、その後全国の大学の課外活動として急速に普 号』には、戦前の大学のワンダーフォーゲル部としては、 に早高 < 注 1> ハイキングソサエティとして発足した。 及発展していく。 部長は渡辺栄太郎先生 < 注 2>、創立者は青木欣二氏で < 注 1>1920 年に設立された早稲田高等学院のことか。 < 注 2> 渡辺栄太郎先生は、戦後新たに創設された現在のワンダーフォーゲル部が体育局に加盟した時の初代部長でも ある。 < 注 3> 戦前の早大 W・V 部については『彷徨第 5 号』で、戦前の学連加盟当時に学連理事として活躍していた北浦直 人氏が紹介している。2008 年 4 月 19 日のインタビューで長谷部光郎氏は、戦前にあった早稲田のワンゲル部について 「戦前に早稲田に部があったという話は、部の顧問の渡辺(栄太郎)先生もしていた。渡辺先生が世話したこともあった。 渡辺先生に消息をさがしてもらおうとしたが、わからなかった。」と語っている。なお、 「早高 W・V 部」、 「早稲田大学 W・ V 部」の表記は、『彷徨第5号』からそのまま引用した。 < 注 4> 日本山岳文化学会編集、岩峰社。 < 注 5> 社会人のワンダーフォーゲル活動は、1931 年 10 月に「財団法人奨健会」が出口林次郎氏を指導者として始め たものが起源とされている。 4 「早稲田大学ワンダーフォーゲル部」草創期 10 年の歴史 ❖創部の頃(長谷部さん、安田さん) があり、その時の友人とともに、安田と再会する直前 の夏に立山から黒部を縦走した。この友人との山行が 現在の早稲田大学ワンダーフォーゲル部の起源は、 長谷部の本格的な登山の始まりで、それまではハイキ 昭和 24 年の安田平八と長谷部光郎の偶然の出会いか ングと日帰りの沢登り程度しかやっていない。長谷部 ら始まる。 を本格的な山登りに誘ったこの友人は、卒業後は国立 安田と長谷部は旧制早稲田中学の同級生であるが、 大学に進学するつもりで、旧制の富山高校に在籍して 安田は4年で卒業し、昭和 21 年に早稲田大学専門部 いた < 注 3>。 に入学した。長谷部は旧制中学を 5 年で卒業し、昭和 しかし、早稲田大学が新制大学になった頃、官立大 22 年に早稲田大学の予科(当時の高等学院)に入学し 学は新制の大学になるのが 1、2 年先延ばしになり、 た < 注 1>。昭和 24 年の学制改革により、日本の私立 しかも、官立の大学に入るために地方の旧制高等学校 大学は新制大学に変わった。これにより昭和 24 年の に入っていた生徒たちは、そのままだと旧制高等学校 春には、長谷部は新制早稲田大学の2年生に、安田は がある地方の新制国立大学に入ることになった < 注 新制早稲田大学の 3 年生に編入となった。 4>。そこで、それが嫌な人は地方の官立大学への編入 昭和 24 年の夏休み後の大学構内で、安田と長谷部 をやめて、新制の早稲田大学や慶応大学になだれ込ん は偶然再会する。この時、安田はすでにワンダーフォー でいた。旧制の富山高校にいた長谷部の友人も、この ゲル部を設立する意志を持っていた < 注 2>。安田は名 頃東京へ出てきて慶応大学の 2 年に編入した。この友 古屋で生まれ、子供の頃に新宿の河田町に移住した。 人は旧制富山高校時代には山岳部に入っており、本格 山や自然が好きで高尾山や御岳山にも登っていた。や 的な山の経験があった。この友人の呼びかけで、昭和 がて安田は、山岳部とは違う山のクラブを作りたいと 24 年の夏に長谷部と長谷部の同級生で後にワンゲルに 思うようになっていた。 入部した安達啓三と、富山から来たこの友人の3人で、 一方、長谷部は戦時中に長野県に疎開していたこと 立山から剣、黒部まで 4 泊 5 日で縦走した < 注 5>。 < 注 1> 旧制中学の修業年限は 5 年であったが、1941 年(昭和 16 年)の中等学校令(昭和 18 年勅令第 36 号)によっ て 4 年に改められ、4 年で卒業することもできた。旧制中学校を経ると旧制高等学校、大学予科、大学専門部、高等師 範学校、旧制専門学校、陸軍士官学校、海軍兵学校に進学することが可能であった。早稲田大学の場合は、1922 年から 戦後の学制改革まで、大学専門部、高等師範部、第一高等学院(3 年生、文科と理科、中学校 4 年修了者対象)、第二高 等学院(2 年生、文科のみ、中学校卒業者対象)への進学の道があった。 < 注 2> 長谷部光郎氏は 2008 年 4 月 19 日のインタビューで、 「ワンゲルという言葉は、安田と大学でばったり会った時 には安田の考えにはっきり出ていた。 」と語っている。一方、2005 年 5 月 22 日の安田平八氏とのインタビューをまとめ た OB 会報には、 「ワンダーフォーゲル部を作るといっても、最初はこの言葉は知らなかったと思いますね。東京都体育 協会会長の出口林次郎先生(明大教授)が日本に導入された。昭和 10 年(1935 年)に立教大学で発足したのが日本で 最初のワンダーフォーゲル部、このことも創立時には知っていたことです。 」とある。ワンダーフォーゲルという言葉が、 いつ頃から安田氏の中に刻まれたか正確な時期はわからないが、先生や知人達との話や大学の図書館で調べる中で身につ けていったようであり、少なくとも昭和 24 年 10 月 4 日の部の創設時には明確なものになっていたと思われる。 < 注 3> 旧制大学は、現在の大学の 3、4 年次と、大学院の修士課程・博士前期課程や専門職学位課程などに相当すると 考えられている。各旧制大学(帝国大学)には旧制高等学校が開設されていたが、高等学校の卒業証書さえあれば、専 攻を選ばないかぎり、どこかの帝国大学に無試験で入学できた。帝国大学令により、北海道帝国大学(北海道大学)、東 北帝国大学(東北大学)、帝国大学(後に東京帝国大学と名称を変更、東京大学)、名古屋帝国大学(名古屋大学)、京 都帝国大学(京都大学)、大阪帝国大学(大阪大学)、九州帝国大学(九州大学)、京城帝国大学(ソウル大学)、台北帝 国大学(台湾大学)の9大学があった。現在の大学の 1、2 年次は、旧制高等学校や旧制大学予科が担っていた。 < 注 4> 制度改革前は旧制高校と旧帝国大学の定員は、ほぼ1対1であり、専攻を選ばないかぎり、旧制高校の卒業生 はどこかの帝国大学に無試験で入学できた。 < 注 5> 長谷部光郎氏の談。「1 日目は追分小屋か弘法小屋に泊まり、2 日目は雷鳥沢の上の剣沢の小屋に泊まった。1 日 目と 2 日目は小屋番に食事を作ってもらい料金を払った。3 日目は無人小屋、4 日目も無人小屋、4 泊 5 日で黒部の欅(け やき)平に出てきた。7 月だったと思う。」 「早稲田大学ワンダーフォーゲル部」草創期 10 年の歴史 5 長谷部と安田が偶然再会した時、長谷部が北アルプ れた < 注 10>。しかし、大学公認の部といっても、体 スに3人で行ってきた話をすると、安田も白馬へ行っ 育会にも文化団体連合にも加盟しておらず、部室や予 てきたところだった < 注 6>。安田が、山のグループを 算は与えられなかった。 作ろうと思っているが一緒にやらないかと長谷部を誘 い、それでは一緒にやろうということで、部を立ち上 創部当時の中心メンバーは、安田と長谷部の他に早 げることになった。 稲田中学の同級生が 2、3 人と、さらにその友人が加わっ 山のグループを作ることになった理由の一つには、 て十数人であった。創設総会の席で、最初の活動として、 任意団体として学校の許可を得ないと掲示板に貼り紙 次の日曜日に第 1 回ワンダリングを奥高尾で行うこと ができなかったこともあげられる。安田は学生生活課 を決めた。入部申し込みは百人を超えており、なるべ に通い、当時の渡辺課長から部設立のアドバイスをも く多くの参加者を期待して実施されたが、実際の参加 らった。部の設立には、部則と部長が必要であった。 者は安田平八、長谷部光郎、山本稔、手島宏、柳和夫、 部長は、安田が幼時から親しくしてもらっていた商学 S氏の 6 名であった。 部の芳野武雄先生 < 注 7> にお願いし、部則は安田が 浅川駅(今の高尾駅)に集合し、高尾山から景信、 自力で草案を作成した。 陣馬を日帰りで縦走した。天気は優れず、陣馬の頂上 付近で雨が降り出したが、6 人とも元気で歩き通した。 昭和 24 年 10 月 4 日、早稲田実業学校の正門近くの これが第1回ワンダリングである。 「菊屋」と称した喫茶店 < 注 8> を借り切って、早稲田 このワンダリングの帰りに、次は本格的な山行を行 大学ワンダーフォーゲル部の創設総会が開かれた。総 おうということで奥秩父を全山縦走する計画が決まり、 会出席者は十数名であったが、入部申し込みは百人を この奥秩父山行がワンゲルの第1回目の合宿となる。 超えていた < 注 9>。創設総会で承認を得て、学生生活 10 月に安田、山本、長谷部、芳野政詞(まさし) 課に早稲田大学ワンダーフォーゲル部を同好会として < 注 11> の4人で雲取から金峰まで秩父の全山縦走を 届け出て認められた。この後、大学でサークルに関す 行った。秩父の縦走は、三峯神社から金峰山までの4 る規定が新たに制定され、改めて届け出て、昭和 26 泊5日。1日目が白岩でのビバーク。2日目が笠取小 年 10 月に「学生の会」所属の学生団体として登録さ 屋で熊撃ちの老父と宿泊。3日目が甲武信で小屋の番 < 注 6> これは長谷部光郎氏の話によるもの。 < 注 7> 初代部長の芳野武雄先生は体育局の初代教務主任で、後に第二商学部長、社会科学部長を歴任している。部の設 立時はもちろん、体育局加入に際しても多大な尽力をいただいた。芳野先生に関しては、『会報第 33 号』で 3 期の里見 昭二郎氏が回想している。 < 注 8>『彷徨第 11 号』で、安田氏は創設総会で使った「菊屋」について「『菊屋』と称した喫茶店の跡(そこの姉さん が亡くなって廃業したばかり)」と記している。 < 注 9>『彷徨第 11 号』には、「総会出席者は十数名であったが、入部申し込みの方は既に百人を突破していた」とある が、早大 WWV の『50 周年記念誌』には、「あらかじめ創立を語らいあっていた発起人数名のほか、学内で手配りした チラシを見て集まった学生およそ 50 人弱。部規約を承認、チーフリーダー主将に私が就任しました。入部申し込みは約 100 人でした。」とあり、総会の出席者の人数に相違がある。ここでは、『彷徨第 11 号』の記述を使わせてもらった。 < 注 10> ワンゲルが「学生の会」に所属した時期について、3 期の里見昭二郎氏が『会報第 33 号』で「ワンダーフォー ゲル部は、はじめは同好会としてスタートをきった。このあと、大学でサークルに関する規定が新たに制定されたが、 これを機会に昭和 26 年 10 月に、改めて「学生の会」設立願いを学生部に提出した。そして学部長会での承認を得て、 正式に学生団体として登録されることになった。」と記している。『彷徨第 11 号』の中では、初代の安田平八氏が 10 年 前の記憶として「創設総会で皆さんの承認を得て、学生生活課へ届けを出した。これで学生生活課管掌の「学生の会」 所属という事で、曲がりなりにも大学の公認の部となった。」と記しているが、本文では里見氏の記録を参考にした。ま た、創部からしばらくの間、部の代表(今の主将)は「幹事長」と呼ばれていた。 < 注 11> 芳野政詞氏は、初代部長の芳野武雄先生の3男である。芳野先生の3人の御子息はいずれも早稲田大学に在学 しており、ワンゲル部とも交流があった。芳野先生の次男の満彦氏は、日本人初のマッターホルン北壁登頂者で、新田 次郎の小説『栄光の岸壁』のモデルになった。 6 「早稲田大学ワンダーフォーゲル部」草創期 10 年の歴史 人がいて、宿泊料を払った < 注 12>。10 月8日にスター あり、早稲田大学の加盟は歓迎された。加盟については、 トし、最終日が 10 月12日。テントは持たずシート 中央大学ワンダーフォーゲル部の兼松氏らが協力してく を2枚持って行き、1日目の白岩小屋跡(宿泊予定の れた。学連への加盟や学校との交渉など、対外的な交渉 小屋が1か月ほど前に焼失していた)でのビバークは は主に安田が担当した。山の活動は、お互いに好き勝手 シートをかぶって寝た。甲武信以外は無人の小屋で無 に山に入って報告しあうという状態で、その形が半年ぐ 料で利用できた < 注 13>。この当時の山行は、シュラ らい続いた。 フだけ持っていけば何とかなった。雨の時は防水のア ノラック、夏は濡れるのが嫌で上半身裸で歩く者もい 秋合宿以後、部員がまとまって行ったのが、翌昭和 た。秋や冬のミゾレは一番つらかったが、この時は5 25 年 2 月の細野でのスキー合宿である。細野は今の 日間とも晴天に恵まれた。 白馬駅、当時の信濃四ツ谷駅で降りて、白馬岳や八方 尾根の麓の集落である。細野では、民宿の「まるご」 その頃の山登りは、自分で宿泊場所を探さねばなら < 注 14> をベースに八方尾根などでスキー練習を行っ なかった。秩父はもちろん、北アルプスも立山と上高 た。当時のスキー技術はまだ未熟で、最初のスキー合 地の一部以外は、戦前からの小屋がまだあるのか、番 宿でもスキーで降りてこられるものは一人もいなかっ 人がいるのか、無人小屋なのか、壊れているのか何も た。リフトもなくスキーで登れるようになるのが中心 わからない。『山と渓谷』はあったが専門誌はなく、ほ だった。昭和 26 年の菅平の合宿の時は、スキー登山 とんど情報は入ってこないので自分たちで調べる。自 で下の民宿から根子岳まで行った。傾斜が緩く、登り 分で寝る所を探し、自分で寝る物を持ち、食べ物を持 には良かったが、勾配が無く帰りは苦労した。昭和 28 参する。それが山登りの最大の魅力であり、実力でも 年の野沢のスキー合宿の頃には、やっと何人かが滑っ あった。 て降りてこられるようになった。 奥秩父の縦走の計画も、尾根筋を全て無人小屋に泊 その後の合宿は、5 月に谷川岳でリーダー養成合宿、 まって歩こうという計画であった。小屋番の入ってい 7 月 21 日から 26 日まで白馬岳から唐松岳まで夏合宿 ない小屋を調べたところ、番人のいる小屋は雲取小屋 を行った。夏合宿の参加者は安田ほか 15 名であった。 だけだったため手前の白岩小屋に泊まる 計画だったが、白岩小屋が1か月ほど前 に火災で焼失していて焼け跡でビバー クをした。山行中、小屋の人を除けば誰 にも会わなかった。登山道はキティ台風 の後の倒木が多く苦労したが、途中歩き ながらお互いに知っている歌を歌いあっ た。後に早大ワンゲル部の部歌となる 「旅」がよく歌われた。 合宿終了後、間もなく全日本学生ワン ダーフォーゲル連盟に加盟する。連盟は 戦後再発足したばかりで、加盟校は立教、 慶応、明治、青学、中央の5大学のみで 昭和 27 年 新歓合宿(甘利山) < 注 12>< 注 13> この甲武信小屋について安田氏と山本氏は、当時を振り返った文章(『彷徨第 11 号』、 『会報第 67 号』) の中で「無人」であったとの記憶を示している。 < 注 14> 現在の北安曇郡白馬村の民宿「まるご荘」と思われる。ここをベースにスキー練習を行った。この民宿の主人 の丸山五郎衛門氏は白馬村営小屋の管理人もしていた。昭和 25 年のスキー合宿で使った他に、6 期の桑山龍男氏の頃は 夏山合宿で白馬岳に登るときも駅から「まるご」まで歩き、「まるご」で荷物を詰めて白馬まで歩いていった。8 期の山 口純一氏の頃までは、部員が個人的に行って交流があった。 「早稲田大学ワンダーフォーゲル部」草創期 10 年の歴史 7 秋合宿、スキー合宿、新人歓迎合宿、夏合宿の 4 合宿 われた。椅子一つだけがある仮住まいである。ちなみに、 の形は創部当初から実施し継続された < 注 15>。 永田運動具店が早稲田のワンゲルの象徴である白いキ それぞれの合宿は、10 名から 20 名ほどの参加者で スリングを扱っていた。 あった。次第にリーダーとメンバーのけじめも作られ、 この頃の部員会は観音寺の一室で行われていたが、 創部当初いた名前だけの 100 名程の入部者も大部分は 新人歓迎合宿の準備会などは甘泉園の芝生の上で行っ 去り < 注 16>、本当にワンゲルをやっていこうという た。やがて、永田運動具店も店を改装することになり 者 20 名余りが残った。 移動を余儀なくされた。4 期の真野素一の尽力で昭和 部室は、創部当初は鶴巻町の菊屋を使用した。部室 27 年 10 月に、大学芋を販売していたスズヤの奥の部 といっても、連絡所といった方がふさわしいものだっ 屋を連絡所とすることができた。スズヤは永田運動具 た。その後、昭和 26 年までには高田牧舎の屋根裏に 店の並びにあった。何とか連絡所を確保できたが、外 移動した。2階の 15 畳ほどの広間で、部員会は 10 人 部に対する気兼ねなく自由に使用できる部室の確保は から 20 人の部員がキャプテンを中央に車座になって 部員達の悲願となった。 行われた。 大学の文化団体連合に加盟すれば、3 年以内に同居 昭和 27 年の春に、営業上の理由から高田牧舎を離れ、 ではあるが部室が得られたが、リーダー会は急いで文 早稲田中学前の永田運動具店(現在の穴八幡から正門 化団体連合に加盟するよりも、学生の会のままでいて へ行く文学部の前)の店先を連絡所とした。永田運動 具店に連絡ノートがあって、それが部員間の連絡に使 (左)リュックやウェアは大学近くの永田運動具店に製作を依頼した。 (右)ウェアは当時のサッカー、ラグビーのジャージとほとんど変わらない。 < 注 15> 昭和 24 年から昭和 33 年の 10 年間では、リーダー養成合宿として、昭和 25 年 5 月の谷川岳、昭和 29 年 5 月 の甲斐駒ヶ岳、リーダー強化合宿として昭和 33 年 3 月の八方尾根の記録がある。また、昭和 33 年には新人歓迎合宿と は別に 6 月と 7 月に新人錬成合宿が行われている。 < 注 16> 創部時の 100 名ほどの入部者は名前だけで、本文の第 1 回高尾山への山行の記述にもあるように、実際に部の 運営に携わったり、山行に参加したりした部員は約 20 名程であった。実質的な入部者が急増するのは、昭和 28 年頃か らである。合宿参加者の変遷は、昭和 27 年 5 月 26 人(内学院 7 名推定)、昭和 28 年 50 名(5 月)、昭和 29 年 73 人(4 月)、昭和 30 年 121 人(5 月)となっている。新入部員の数については『彷徨第 11 号』で、5 期の金子敬四郎氏が昭和 28 年に 50 人位の新人が入ったことを記している。また、 『50 周年記念誌』の中で 8 期の山口純一氏が「昭和 29 年、 (中 略)新入部員は 120 名余を数えた。」、9 期の石井豊記氏が「昭和 30 年 4 月の入部希望者受付は約 120 名位あったと聞 いております。」と記している。 < 注 17> 6 期の桑山氏は「靴は、最初は地下足袋と旧陸軍の軍靴の併用。その後、高橋靴屋で6千円ぐらいだった。」と語り、 8 期の山口氏は「高橋靴屋で、8千円で靴を作ってもらった。その頃の初任給が8千円。装備の中では靴が一番高かった。 ちなみにカメラは3万円。キスリングは入部したら必ず揃えるしかなかった。3千円ぐらいだった。寝袋は進駐軍の放 出で千円。北千住の中古品店で買った。寝袋には血がついており、朝鮮戦争(昭和 25 ~ 28 年)で遺体を運んだものと の噂だった。スキーは 3 千円から。」と語っている。 8 「早稲田大学ワンダーフォーゲル部」草創期 10 年の歴史 機会があれば体育局に加盟する道を選んだ。その為に、 たかったということが考えられる。増え続ける学生に この当時から体育局加盟の申請を行った。 対して、指導する体育部を増やさなければならず、ワ 部室とともに苦労したのが、部の活動費の工面であ ンゲルの実技ができれば大勢の学生がまとめて授業を る。部費や入部金を貯めて、3、4 人用の夏用の中古テ 受けられるという利点があった。 ントを 1 つ購入してワンダリングに使い、足りない分 部内には、体育局に加入することで部室や予算の確 は他大学のワンゲル部のテントを借りて使った。夏合 保に道が開かれる一方、大学の体育局の一員としての 宿のテントは、体育局加盟後しばらくは大学の実技用 責任が増し、規制が増えることや、創部当時から持っ のテントを使った。 ていた自由な雰囲気が失われることを危惧して反対の 部員の装備で最も高価だったのが登山靴である。大 声もあったが、総会において体育局加入が決まった。 卒の初任給が 5、6 千円の頃に登山靴は 1 万円以上した。 体育局加入で部の体質は大きく変わった。当時、代 最初は地下足袋を使い、やがてお金を貯めて登山靴を を率いた 5 期の金子、吉良、木村の 3 名は連日のよう 買った < 注 17>。 に議論を重ね、以下の結論に達した。まず、組織を作 シュラフは中古を使い、キスリング型リュックは珍 ること。しっかりした組織ができた後に、楽しい山行 しく、長い山行には背負子を使った。登山服はまちま が行える部にしていくこと。しっかりした組織ができ ちで、サージ生地の背広を使ったりした。炊事は焚き るまでは、軋轢や反発を覚悟で組織作りに徹すること 火で、鍋は薬缶やアルミ鍋を持ち歩いた。生木でも火 を決めた。 をおこす術を身につけることは必須だったが、当時の 体育局に加入するまでの部内には、自由さと野蛮さ 部員は皆、小学生の頃から軍事教練で火のおこし方や が混在していた。合宿中でも計画は常に変更され、歩 ご飯の炊き方は身につけていた。荷物の重さは、1貫 きたいときに歩き、時には兵隊ごっこや山賊ごっこを 目= 3.75 キロで、天幕は4貫目、シュラフはアメリ しながらの山行もあった。トレーニングはやりたい者 カの進駐軍のもので1貫目(約4キロ)、靴は左右両方 がやるだけだった。金子をはじめとして当時のリーダー で1貫目以上あった。したがって、夏山装備で8貫目、 層が、体育局加入を機に部の体質を変えようとした大 きな理由には、部員の急増もある。1 年から 4 年まで 約 35 キロ。冬山装備は 10 貫目、約 40 キロだった。 合わせて 20 名程度の部に、昭和 28 年の春には新人が ❖体育局加盟から 50 名程入ってきた。新入部員はその後も 100 人近く 入ってきたから < 注 3>、増大していく部員を統制し、 昭和 33 年の創部 10 年目まで 活動の安全性を確保していくためには、部の組織化は 昭和 28 年 10 月、部は早稲田大学体育局に加入する 避けられなかった。 < 注 1>。体育局への加入は以前から部が希望していた 部は大きく変わった。トレーニングは全員に課せら ことだったが、大学側から話が舞い込んだ < 注 2>。4 れ、部室に出席簿を作ってトレーニングをいやがる部 期から新しく代を引き継いだばかりの金子敬四郎主将の 員にも参加が強制された。 もとに、体育局から、加入の意志があれば申請書を出す 伝統と名誉のある早稲田大学体育局の一員としての ようにとの話が届いたのだ。 責任を抱えながら、新人を含め約 80 名の部員の統制、 大学側の事情としては、当時必修科目であった体育 受講者 400 名程の体育実技の運営、横尾をベースに奥 の受け皿として、ワンゲル部に体育実技の補助をさせ 穂や槍ヶ岳に女子 5 名を含む 64 名が参加した夏合宿 < 注 1> 新制大学が発足し、正課体育を行うために昭和 24 年に新設された体育部と、50 年の歴史を有する早稲田大学の 体育会とが一本化され、昭和 27 年 4 月に早稲田大学体育局が新しく設置された。体育局の組織は、他大学に先駆けて 早稲田大学が独自に設けたものである。 < 注 2> 部室と予算の必要性から体育局加盟の申請を出していたことは本稿の「創部の頃」で述べた。それとは別に、3 期の里見昭二郎氏が、将来の実技指導を受け持ちたいという希望を、再三体育局に通って関係者に打ち明けていた(『彷 徨第 11 号』18 ページ゙)。 < 注 3> 体育局は学生の体育実技の助手が不足していたと考えられる。新入部員が 100 名近くいるワンゲル部に実技を 手伝って欲しいとの意向が、体育局側にはあったと思われる。 「早稲田大学ワンダーフォーゲル部」草創期 10 年の歴史 9 の実施など困難な道を乗り越えて、この時期に早稲田 む 99 名。1 パーティー 20 名ほどで 4 パーティーに分 大学ワンダーフォーゲル部の組織としての土台が形作 け、約 20 張りのテントを持参して実施した。それま られた < 注 4>。 での夏合宿は、大学から借りた大型のテントをベース にピストン形式で行っていた。この時は病人が出たと 体育局に加入するに当たり、部長には渡辺栄太郎先 きに備えて、慈恵医大の学生が同行した。 生が就任した。当時、創部からお世話になっていた芳 野武雄先生に続いて、商学部講師の神沢惣一郎先生 < 注 5> が部長であった。しかし、体育局の部長は講師で は認められておらず、芳野先生の推薦で、同じ商学部 の渡辺栄太郎先生が部長に就任した。 体育局の加入とともに、初代監督には 1 期の山本稔 が就任した < 注 6>。山本は昭和 29 年 4 月から昭和 32 年 9 月まで、5 期の金子主将、6 期の高橋主将、7 期の樽谷主将、8 期の青木主将の代まで 4 代の監督を 務めた。山本は若手の OB をコーチに迎え、部員達と 寝食を共にしながら部の活動を支えた。 金子主将の時代は体育局に加盟し、コーチには 4 期 の真野素一が就いた。体育局加入により部が実技を担 当することになり、川崎隆章先生 < 注 7> が実技講師 に就任した。金子主将以下、部内の統制や体育局、連 盟との渉外に多忙を極めたが、体育団体としての部の 道筋が確定された時期であった。 6 期の高橋主将の時代は真野に加え、1 期の長谷部 成美が新たにコーチに加わった。6 期の夏合宿は、昭 和 30 年 8 月 13 日から 20 日の日程で吾妻縦走を行っ た。これにより、夏合宿に初めてテントによる縦走形 式が取り入れられた。参加者は OB3 名、女子 9 名を含 昭和 30 年 9 月 大峯山、吾妻耶山での体育実技 (左)講師の川崎隆章先生 (右)初代監督の山本稔氏 < 注 4>6 期の桑山龍男氏は 2007 年 7 月 27 日のインタビューの後、当時を振り返って「昭和 24 年 10 月の創部以来数年は、 部の形態をなしていないとの話も聞きますが、草創期でもあり、早大の文化部の中で自由闊達な気風で活動し、本当に 渡り鳥の部名にふさわしい良き時代だったと思います。昭和 28 年 10 月に体育局に加入して、その名誉と形を作ること ができました。しかし、これは良くも悪くもその後の部の基盤になったことでしょう。昭和 27 年入部の私は、この2 つの時代に生きておりましたので、言えることなのかもしれません。」と述べている。 < 注 5> 神沢先生は、初代部長の芳野先生が 1 年ほど部長を務められた後を引き継いでくださった。しかし、上記の事 情から昭和 28 年に体育局に加入した時に、部長職を一時離れられた。昭和 32 年に再び部長になられてからは、昭和 57 年に大谷孝一部長に引き継ぐまで 26 年の長きにわたって部長職を続けられた。自ら数々の合宿に参加し、部員とともに 悩み考え、部を理解し、ワンゲルを愛してくださった先生である。 < 注 6> 早稲田の体育局の組織ということで、他の運動部に習って監督が創設されたが、妙高に山小屋を持つ横浜国大 のワンゲル部にも京都大学山岳部にも監督はいない。早稲田のワンゲル部に監督やコーチの指導体制ができたことは、 活動の充実と部の存続にとって大きな意味があったと思われる。 <注 7 >明治 36 年(1903 年)生まれ。本名は川崎金蔵。昭和を代表する登山家で、昭和 18 年に『尾瀬と檜枝岐』で 尾瀬を紹介。昭和 33 年創刊の山岳雑誌『岩と雪』の初代編集長。(兄の川崎吉蔵氏は「山と渓谷社」の創設者で、『山 と渓谷』の初代編集長。)後に日本登山学校を創立。昭和 54 年(1979 年)死去。早大卒。戦時中に文部省の外郭団体で お茶の水の体育協会にいたが、実技講師に就任した当時は各大学のワンゲル関係の相談役などをやっていた。 10 「早稲田大学ワンダーフォーゲル部」草創期 10 年の歴史 7 期の樽谷主将の時代は、3 期の里見昭二郎と 5 期 初めて生まれ、以後継承されていく < 注 10>。 の金子敬四郎がコーチとなった。リーダーの樽谷、須藤、 秋に代を執って年間計画書を作る形もこの頃から始 豊田等は、早稲田高等学院時代から部に係わっており、 まった。一方で、極端に部の方向を限定してしまわぬ 強い団結力で結ばれていた。部の運営は幹部の合議に よう、本土横断合宿とは直接の関連性はないが、冬合 より民主的に行われた。部の合宿は、秋合宿、スキー 宿にはスキーを行った。8 期の頃には、部員の増加と 合宿、新人歓迎合宿、夏合宿の4大合宿が継承され、 ともに部員の質や幽霊部員の整理が問題となった < 注 11>。部員としての心構えや熱意を尊重するというリー 部の内部体制はしっかり固められた。 ダー層の方針の下、厳しいトレーニングと、トレーニ 8期の青木主将の時代は、里見と金子の両ヘッドコー ングや合宿に参加しない幽霊部員の整理が行われ、結 チの下に6期の相馬驍と7期の樽谷がトレーナーとし 果として一代 10 人から 15 人の体制が作られていった て部の技術指導に当たる体制がとられた。代を交代し < 注 12>。 た時に、青木主将、山口主務などのリーダー層が、小 昭和 32 年 10 月、監督が山本稔から同期の安田平八 田急線の生田駅の近くにある山本監督所有の「生田山 に交代する。部長も 11 月に渡辺栄太郎先生から神沢 荘」に招かれ、その席で、北アルプスと南アルプスと 惣一郎先生に交替した。 富士山を結んで日本を横断する計画が持ち上がった。 昭和 33 年の秋に代を引き継いだ 10 期は、夏合宿に 昭和 32 年 7 月 10 日から 8 月 10 日の夏合宿は富山 北海道日高合宿を計画した。5 月初旬には日高合宿の から北アルプス、中央アルプス、南アルプス、富士山 計画案が出来上がり、資料収集等の準備活動が始まっ を経て東京に至る本土横断が実施された < 注 8>。青木 た。6 月に日高合宿に向けての体力強化合宿と日高合 主将と 3 年の石井豊、小川剛完の 3 名が横断隊員に選 宿計画が完成するが、6 月末の朝日新聞にワンゲルに ばれ、他の全ての部員がこれをサポートする部分同行 対する批判的な記事が連載され、長期行動に対する負 の合宿形態で実施された < 注 9>。夏合宿を年間活動の 荷力養成を主な目的として北アルプスで実施予定だっ 中心にすえ、その他の合宿、トレーニング、ワンダリ た体力強化合宿の中止が決定。7 月 4 日には、日高合 ングなどを年間計画の中に有機的に位置づける方式が 宿そのものの中止も決定された。これにより、夏合宿 <注 8 >富山からと東京までの 2 か所で、移動手段として自転車が使われた。 <注 9 >中央アルプスの部分は女子隊がサポートした。ただし、この当時は合宿ごとに女子隊として独立した活動をし ていたわけではなく、男子と混合パーティーが組まれることが多かったようである。卒部した正部員としての女子部員 の記録は、8 期の 5 名からで、9 期 1 名、10 期 5 名と続く。 <注 10 >『彷徨第 11 号』の中で青木正氏は、「わたし達が部の運営を引き継いだ時最も留意したのは合宿形態に関し てだった。過去の合宿は年四回、春の新人歓迎から冬のスキー合宿までであったが、実際には、委員交替の時期からみ て秋合宿から夏合宿迄がその代の運営に任されていたのであるから、夏合宿は年度最大の行事であり、各行事はこの夏 合宿遂行の為に行われるべきであるとの結論に達し、夏合宿の目標に何を置くかが問題となった。結局、本土横断計画 が採り上げられることとなり、これが達成に全力を注ぐことに決定した。」と記している。本土横断合宿があったから、 夏合宿を目標に年間活動を有機的に位置づけていく方式ができたというよりも、夏合宿を目標に年間計画を組み立てた いという思いがあり、そのための大きな目標として本土横断が計画されたと言ったほうがよいのかもしれない。この合 宿形態の位置づけの見直しが、北海道合宿や海外遠征など以後の合宿の充実を支えていったと思われる。 <注 11 >このことに関して 8 期の青木正氏は『彷徨第 11 号』の中で、「わたしは引継ぎ当初から数の上だけでなく、 質的にも部員を整理しなければならないと考えていた。と云っても、決して実力のみによる少数精鋭主義的考えを持っ ていたわけではない。部員として、その力に優れるものであるに越したことはないが、それよりも、部員としての心構 え或は熱意というものを重視した。体力その他に如何に実力があろうとも、部を利用し、或は部員としての意識に欠け る者にはどしどしおやめを願った。その数は相当なものであったが、残った部員は良くその動揺をおさえて協力してく れた。」と記している。 < 注 12>8 期の山口純一氏は『ワンゲル 50 周年記念誌』で、「青木正キャプテンと私とで幽霊部員を呼び出し、一人一 人退部を勧告し、少数精鋭を目指した。少数とは言え、100 人から 15 人程度への減少であり、一代 10 ~ 15 人の体制 が出来上がるもとを作った。」と記している。 「早稲田大学ワンダーフォーゲル部」草創期 10 年の歴史 11 は東北に変更。東北 5 県を舞台に、朝日班 10 名、北 資料 1 上班 12 名、蔵王班 11 名、鳥海班 11 名、岩手班女 長谷部光郎氏へのインタビューから (2008 年 4 月 19 日) 子 9 名の5隊に分かれ、最後は十和田湖に集結した。 長く準備してきた北海道合宿は中止になり、準備期間 (1)草創期のメンバーについて も短い中での合宿であったが、この合宿が分散集結形 (長谷部光郎の)兄、成美は、長谷部光郎本人が誘っ 式 < 注 13> < 注 14> の初めての夏合宿となり、以後、 て入部。初期のメンバーは安田、長谷部兄弟、館、山本、 この形態が合宿のモデルとなり今日につながっている 手島、柳、芳野政詞(後に退部)、佐野哲也などだった。 < 注 15>。 7期の樽谷などは早稲田の高等学院にいたが、その頃 から大学のワンゲルの学生と一緒に行動していた。 ❖おわりに (2)当時の学生と山登り ハイキングしかしたことがなかった人が、本格的な ここまで、部の草創期 10 年の歩みを概観してきた。 部の歴史を通史として記述するという試みが、果たし て当初の意図をどれだけ実現できたか心もとない。 山登りを目指すのはその当時の学生のはやりであった。 (長谷部の)友達関係で半数近くは何らかの形で山登り をしている。今の若者がスキーに行くのと同じような 記述はできるだけ客観的に書くことに努めたが、部 感覚だったと思う。秩父や奥多摩や丹沢の沢登りなど が抱えていた課題や苦悩の生命観を残したかったので、 には行っている。(長谷部の)友達の当時の学生で、北 統一性のない文体となってしまったことをお許し願い アルプスや秩父に行ったことがない人はほとんどいな たい。 かった。当時、山へ行くには経済的な余裕がないとい けない面はあったが、食べ物さえ持っていけば何とか < 注 13> この合宿で初めて、班が別の地域に分かれて活 動する形態をとった。それまでの夏合宿は、同じコースを 複数の班に分けて行動することはあったが、違うコースに なった。 (3)ワンゲル観 分かれたのは初めての試みであった。 ワンダーフォーゲルはドイツのヒットラーユーゲン < 注 14> この合宿では、分散集結形式を取り入れたこと トの一つの運動としてできた。国土を団体で歩いて、 に加えて、はじめて平地や都市を活動の範囲に加えたこと この国は素晴らしいということを主張する一種の愛国 も重要である。従来の、山地での縦走を主体とした形態か 活動の一つとして生まれてきた。それが日本に伝わっ ら、里山や林道歩きなど平地を含めた広範囲な活動をワン て、歩き回るのが好きな連中が作った。ワンダーフォー ゲル活動の領域とみなし、平地での活動を取り入れたこと ゲルというのは学連に入っている部でも大学によって で、その後のワンゲル活動の幅が広がっていった。 方針が大きく異なる。明治や中央が右寄りだったと思 < 注 15>10 期の活動では 3 月の雪上合宿も重要である。 う。民衆運動のような形で地方に行って盆踊りを習っ 従来は、2 月にスキー練習中心のスキー合宿を行っていた てきて、それを部に持ち帰って行うような部もあった。 が、この雪上合宿は、3 月の春休みの時期にスキー練習と ただし、当時の学連はドイツのワンダーフォーゲル運 スキーツアーを取り入れたもので、その後のスキーツアー を中心とした春合宿への転換点になったと考えられる。 動からは抜け出て、ハイキング部とは違うが山岳部ほ どきついことをしない軽登山のグループというように 思っていた。 早稲田のワンゲルは、ドイツのワンダーフォーゲル運 動を念頭に置いていたのではなく、大学の山岳部が重い 物を持ってポーラー・メソッドの登山中心で、社会人は 岸壁登頂中心だったので、ワンゲル部はそうではないも のを目指した。したがって、正式に禁止したわけではな いが、ピッケルとハーケンは禁止のような共通理解が部 にはあり、2年くらい続いた。 (長谷部は)実際にはピッ ケルやハーケンは持っていたが、ハーケンは使ったこと がなかった。ザイルも持っていてワンダリングでは使っ 12 「早稲田大学ワンダーフォーゲル部」草創期 10 年の歴史 たが、部の合宿で使ったことはなかった。 (4)大学卒業後の安田と長谷部 (長谷部は)記録の更新やきつい山というのではなく、 長谷部は、大学の 2、3、4 年と大学院の 1、2 年の 5 自分の体力の許す限りで軽登山をするという気持ちで 年間はワンゲルと係わった。安田は、大学の 3、4 年 山に登った。しょせん遊び。部員が少なくなったとし と大学院の 1、2 年の 4 年間ワンゲルと係わった。大 たら、遊びとしての魅力がなくなったのかも。 学との交渉は安田を中心に手島も係わり、長谷部や山 また、早稲田のワンゲルには、上からしばりつけられ 本は部の活動が中心だった。 るのが嫌で集まった人たちが多いという面がある。長谷 (5)その他 部兄弟、安達、手島、館などはそういう(誰がリーダー トレーニング:長谷部氏の時代は、組織だってはやっ でリーダーの言うことは絶対とか、リーダーは荷物を持 ていない。やりたい者がやっていた。 たないということはないようにしよう)ところがあった。 山の技術:自分たちで積み上げたり、川崎隆章先生や 25 年の夏に長谷部兄弟、安田、山本、館の5人で剣 その他の実力者に習ったり、その中に合宿に参加して から槍まで合宿前に縦走した。長谷部兄と館は松本ま くれたお茶の水大学のお医者さんなどもいた。 で来て帰った。長谷部弟と山本と安田の3人だけが合 宿に参加。その当時は合宿も必ず参加しなければなら 資料 2 昭和 34 年以降の部の流れ ないものではなかった。合宿前の縦走の時も、称名の 小屋で荷物の重量を量ったら長谷部兄が 40 キロ、山本、 昭和 34 年以降の我が部はさらなる充実期を迎え、 11 期の小谷主将の時代に夏の北海道合宿でワンゲル部 安田がその次、長谷部弟は 13 ~ 15 キロ。長谷部と館 初の体育名誉賞を受ける。昭和 37 年には台湾合宿を は食料だったから日ごとに軽くなった。この時は長谷 行った。海外渡航が自由化(昭和 39 年以降)される前 部がリーダーで行ったが、体力に応じて持つというこ の難しい時代だったことや、金銭面の問題などで部員 とで誰も荷物の重量の差には文句を言わなかった。道 の一部しか行けなかったが、初めての海外合宿となっ がわからなければ皆で相談して決める。合宿に来てく た。昭和 38 年に妙高の山小屋が完成し、積雪期の活 れといったが来なければならないものではなかった。 動が充実していく。昭和 44 年 3 月に北ボルネオ合宿 学連の中でも、早稲田のワンゲルは残雪期の山に登っ が行われ、2 度目の体育名誉賞を受ける。昭和 52 年の たり、荷物を背負ってスキーを履いて歩くようなハー 28 期倉品主将の時代の夏合宿で、本格的に自転車での ドな活動をしていた。学連には早期に入った。立教や 移動が導入された。昭和 53 年の 29 期新井主将の時代 慶応のワンゲル部は早稲田と部員の構成も近く、小屋 には、インド中央部を自転車で横断するインド遠征合 を紹介してもらうなど世話になったり相談したりした。 宿を実現させ、体育名誉賞を受ける。昭和 34 年 3 月 の 10 期による雪上合宿から 3 月のスキーツアーが合 宿に本格的に導入され、翌昭和 36 年から春合宿が部の 主要合宿として定着していく。昭和 38 年の山小屋完成 を機に、春合宿は妙高周辺を中心に実施され、昭和 39 年から昭和 54 年まで続く。この間、昭和 49 年 1 月 に 19 期OBの武田浩意氏が妙高山域で遭難し救出され た。また、昭和 53 年 8 月には、夏合宿中に当時 2 年 生の馬渕勝利氏が沢で滑落し、亡くなった。< 注1> 昭和 56 年の 32 期佐藤主将の時代に中国シルクロー ドの海外遠征合宿を実施。昭和 56 年 12 月に妙高の 山小屋を焼失し、春合宿を中止。この時期、部員の減 少傾向が続いて活動が停滞するが、33 期の片岡主将、 34 期の岡主将の時代と、部員増加と部の土台作りに努 め、昭和 59 年の 35 期大家主将の時代には、10 月に 現在の山小屋を再建。昭和 60 年の 36 期青木主将の時 代には夏合宿でボートを初めて導入。春には北海道の 昭和 29 年 11 月 鳳凰三山オベリスク付近の登行 登山者は平岡 節也氏(8 代) スキーツアーを実現するなど、第 2 の隆盛期を迎えて 「早稲田大学ワンダーフォーゲル部」草創期 10 年の歴史 13 いく。海外遠征合宿は、昭和 62 年のパキスタン遠征 た。山小屋建設委員会が設けられ、5年計画での山小 合宿、平成 6 年のモンゴル遠征合宿、平成 11 年のア 屋完成を目指して資金集めが開始された。その後、9 フリカ遠征合宿といずれも体育名誉賞を受けている。4 期の清水主将の時代に、現役だけで構成された山小屋 年部員が欠員し、3 年部員が代を継承した平成 10 年頃 研究会ができ、10 期の鈴木茂夫主将の時代、昭和 34 から、少子化や学生気質の変化を背景に、部員の減少 年 5 月に山小屋研究会が山小屋建設実行委員会に改め 傾向が続いた < 注 2>。 られ、本格的な調査・研究が実施された < 注1>。 創部 60 周年を迎える今年、部員は 20 名を超え、久 候補地には、白馬山麓、志賀高原、安達太良山、尾瀬 しぶりの海外遠征も成功し、部は第 3 の隆盛期を迎え ることが期待される。 周辺、吾妻山、妙高高原などがあがったが、俗化した所 や今後俗化が予想される所、遠い所、アプローチが長い < 注1> 昭和 55 年(1980 年)5 月には、29 期の太田敏彦 所を除外した結果、第1回の調査行の候補地として妙高、 氏が友人との個人山行中、八海山大日岳の岩峰直下の鎖場 安達太良、吾妻の 3 つが選ばれ、6月に調査行が実施さ で転落し、亡くなった。 れた。調査行をもとに、OB と現役にアンケートを実施 < 注2> 平成 14 年(2002 年)7 月に、53 期の夏合宿前の < 注2>。OB と2年以上の現役部員の意見を重視して、 ワンダリングで、奥多摩の真名井沢下降中に当時 3 年部 妙高を第一の候補地として調査することが山小屋委員会 員の金政雄介氏が滑落事故を起こし救出された。 で決定された。 11 期の小谷主将の時代には、資金面で目標額の 120 資料 3 山小屋のこと 万円が集金できる目途が立ち、昭和 35 年の夏合宿を山 小屋建設に充てることが決定し、土地の選定、設計図 妙高の山小屋は昭和 38 年 11 月に完成し、昭和 56 の作成、資金の募集等の準備が始まった。11 月中旬に、 年 12 月に消失。昭和 59 年 10 月に新しい山小屋が完 大学院建築科の人々を交えた第2次の調査班が妙高を 成し、今日に至っている。 訪れ、建設の候補地として五八の木横手カヤ場が有望 最初の山小屋を妙高五八木に建設する計画は、すで となった < 注3>。 に 11 期の小谷主将の時代にはできており、それまで その後、山小屋委員会が数回開かれ、12 月の山小屋 の経緯が、『彷徨第 11 号』に「山小屋報告」として 委員会で建設候補地が妙高五八の木横手カヤ場に内定 11 期の笹治守弘氏と森義雄氏によってまとめられてい した。設計図第 1 案もでき、土地についても、杉野沢 る。その内容を要約して以下に紹介したい。 部落の杉野沢財産管理員会に土地借用を申し込み、内 <建設計画の歩み> 諾を得るなど準備は順調に進んでいた。しかし、学校 山小屋の建設は創部の頃からの願いであったが、7 当局に山小屋建設の為の予算を申請した結果、昭和 35 期の樽谷主将の時代に、はじめて具体的な計画となっ 年度は 50 万円の出資しかできないが、翌昭和 36 年度 ならば 100 万円の出資が可 能との回答を得たために、昭 和 35 年 2 月の山小屋委員会 で建設を 1 年延期することが 決定された < 注4>。 昭和 40 年 11 月 最初の山小屋 14 「早稲田大学ワンダーフォーゲル部」草創期 10 年の歴史 <注1>山小屋建設実行委員会が誕生すると、コーチの小 ダーフォーゲル部の事故がある。ヒグマの襲撃によっ 川剛完を中心に、喫茶店ボニー(後のクレバス)において、 て、パーティー 5 名中3名が死亡した。以後、部内で ほぼ毎週のように委員会が開かれた。それまでの山小屋研 は長期間、北海道合宿は行われなくなるが、昭和 60 究会は文献を中心としたものだったが、実行委員会は当時 年 3 月に北海道・摩周斜里地方における春合宿で久し 山小屋を所有していた慶応、中央、明治大学や、これから ぶりに北海道が登場する。さらに、昭和 63 年、39 期 建設予定の立教大学に足を運ぶなど、精力的に活動した。 の鰐部主将の時代に夏合宿が北海道の大雪・日高・十 <注2>アンケートの結果は、OB が妙高 12、吾妻1、安 達太良3,特になし4、現役は妙高 13(15)、吾妻4(18)、 安達太良6(9) であった。カッコ内は 1 年生を含んだ数。 <注3>理由は、①五八の木は田口駅から冬期でも歩いて 3 時間の所にあり、夏期(6 月~ 9 月)はバスが通ってい ること。②積雪期は、スキーに適する平均斜度 10 度から 20 度、幅 200 mから 500 m、長さ 3000 mのカギ型スロー プがあり、観光的な要素がないことなどである。 < 注4> 山小屋の建設予算は 200 万円。昭和 34 年には、 5回の映画会の純益約9万円と部員の定期積立、OB の寄 附を合わせ、合計約 48 万円が部の建設資金として集まっ た。神沢部長の尽力と体育局側の好意で、昭和 35 年度には、 大学側から 100 万円の補助が得られることになり、建設 までに残りの 50 万円を、2 回の映画会と現役・OB の寄附 で集める予定であった。 勝地方で実施され、以後は平成 2 年夏、平成 4 年春・夏、 平成 7 年春など、北海道は数多くの合宿の舞台となっ ている。 < 注1>『彷徨第 11 号』122 ページ より。 < 注2>『50 周年記念誌』の中で 11 期の櫻井昭一氏は、 「(日 高十勝地方における夏合宿は)神沢部長の大反対を押し切 り、結果的には体育局表彰を受けた画期的合宿ということ にはなったのだが、」と当時を振り返っている。また、神 沢惣一郎元部長は『会報第 39 号』で、「私が部長に就任 して間もなく当面した大きな問題は、北海道の十勝・日高 で行われた合宿であります。この合宿を決行するにあたっ て最大の難点は、日高山脈に獰猛なヒグマが数多く生息し ているということでありました。私は学生たちを現地に派 遣して調査し、ヒグマ対策を検討しましたが、自信を持つ ことができませんでした。私は迷いに迷った後、この合宿 を許可し、自らも参加して学生たちと行動を共にしました 資料 4 北海道合宿のこと が、私はもしもの場合、責任をとるつもりでおりました。 しかしこの十勝・日高合宿は、このような経過があったに 北海道での合宿は、昭和 33 年の秋に代を引き継い もかかわらず、大成功の裡に終了し、すばらしい合宿で だ 10 期の鈴木茂夫主将の時代に、夏の日高合宿が計 あったと思います。」と記している。 画された。しかし、合宿直前の昭和 34 年 7 月初旬に 中止が決定され、東北合宿に変更された。10 期の北海 道合宿が中止された理由は、以下の 4 つである。 ①昭 和 34 年 6 月に、ワンゲルに対する批判的な記事 が朝日新聞に掲載され、それに対処する理由から、7 月初旬に予定していた北海道合宿のための体力強化 合宿が中止されたこと。 ②夜行性の熊の危険と熊に対する研究の不足。 ③詳細にわたる資料が不足したこと。 ④ワンゲルに対する社会情勢の変化により、合宿が成 功しても評価されず、万一事故を起こした場合は学 校当局や学連に対して迷惑をかけること。< 注1> 一度中止された北海道合宿だったが、その翌年、11 期の小谷主将の時代に北海道日高・十勝で夏合宿が行 われ、体育名誉賞を受賞している。< 注2> 北海道での合宿は、昭和 42 年 8 月に北海道日高・ 北見地方で行われるが、その後しばらく実施されなく なる。その背景には、昭和 45 年(1970 年)夏に日高 山脈・カムイエクウチカウシ山で起きた福岡大学ワン 「早稲田大学ワンダーフォーゲル部」草創期 10 年の歴史 15 WWVのボート活動の歩み 春田 一真 57 代 『彷徨 56・57・58 代』にて、私がワンダーフォー でもあったことが強調されている。 ゲル部に在籍中メインの活動形態として取り組んだ 『彷徨』の引用となるが、その準備は早稲田大学内の ボート(ラフティング)活動において、レースに参加 ボートサークル(早大フロンティアボートクラブ)など した記録とともにその状況を綴らせていただいた。発 から情報を仕入れ、ボート(オカモト社製、RV2000) 行と配布から 1 年程度しか経過していないものの、同 購入後は法政ワンゲルの支援のもと多摩川・御岳渓谷 活動は新たな成長を重ねている。もちろんクラブの成 にて練習ワンダリングが数回行われている。情報収集 長・進化と歩を同じくして。 の方法は、当初から現在に至るまで登山のそれとほぼ この度は、そんな現在のラフティング活動が、WW 変わらない。それは記録(学生の活動記録や冒険家の Vの 60 年の歴史の中でどういった位置づけにあるの 残した書籍等)を求めて読み解き、経験を豊富に持つ か改めて眺める機会を持ちたい。そうは言っても、私 人達にアドバイスを求めるという方法で、野外で自然 の知る限りにおいてということで、近年の変化をクロー を相手に活動する上での基本は変わらないと言えよう。 ズアップしながら、『彷徨』やわずかな方々から伝え聞 36 代では合宿地として選んだ川を下ったことのある他 いた体験談を簡単にまとめたレベルに過ぎないことを 大学の探検部を訪れている。 最初にお詫びいたしたい。多くのボート合宿の記録は、 ちなみにこのとき購入したボート 2 艇のうち1艇は それぞれがしっかりと『彷徨』に刻まれている。そし 今でも現役である。といっても、度重なる冒険の傷跡 て、WWVの歴史はまだまだ続くもの。何かの区切り を抱えて引退寸前の如く倉庫で眠っているというのが で全体を総括する機会はいずれまた訪れるはずと思い、 現実のところ。その隣にはモンゴル合宿の際にオカモ それはその時の楽しみとしたい。 トから寄付していただいたボートも並んでいる。また 当時のパドル(漕ぐための道具)は、お手製の自作品 あけぼの であり、折れたり流されたりすることもあって、短い スパンで使用される消耗品であった。 最初にボート活動が興ったのは、今をさかのぼるこ と 24 年前、36 代の夏合宿であることが『彷徨』に記 されている。その記録を振り返れば「ボート活動を行 16 合宿のかたち いたいので…」と、明確に「ボートを買おう」という 36 代に端を発して以降、ボート活動は夏合宿におい 議論がなされたのは 5 月中旬である。夏合宿まで3か て、24 年間で計 17 回行われている。ボートだけをメ 月を切った時期であり、予算の関係から 36 代を執る インとして長期間にわたるツーリングを行ったり、適 4 年生からのプレゼントとして寄付されたとある。慎 度な長さに分けて2つの河川でのツーリングを行った 重に準備を積み重ねることを強く求められている最近 り、他の活動(縦走や沢登り)と組み合わせて活動す の現役の活動に慣れている立場から見れば、準備期間 るなど様々な方法により各地域で取り組まれてきた。 の短かさには少し驚く。だが、少しの準備期間に比し また、組み合わせる場合にも、ボートツーリングと他 て十分な準備がなされ、合宿は行われている。通常の の活動とは完全に区切りをつけている代、他の活動(登 活動において道のない所の開拓という視点から、それ 山など)をツーリングの途中や前後に組み込んで同一 を川に見出した。そして川下りという “ 活動形態 ” の 地域で密接に取り入れている代など組み立て方は様々 開拓であるとともに、ワンゲルの “ 活動地域 ” の開拓 となっている。 WWV のボート活動の歩み 45 代では海外へ飛び出し、約 200km という長距離 ▼ボート導入以降の夏合宿におけるボート活動場所 のツーリングを実現させたモンゴル合宿が行われ、ボー 36 代 ト活動の幅が広げられている。そして、いくつかの代 37 ~ 38 代 (ボートなし) で実践された、同一水系にて行う沢登りとの組み合わ 39 代 釧路川(北海道) 40 代 四万十川 せによって源流から河口までを行動する「水系制覇」 に取り組む活動は、登山に精通しているという “ ワンゲ ルらしさ ” を生かしたボートの取り入れ方であり、魅 力的な活動となっている。川というフィールドを組み 込むことは、そもそも合宿の内容を制約しがちであり、 各代様々な工夫の上で取り組んでいる。すべての紹介 41 代 江の川(広島県)、四万十川(高知県) (ボートなし) 42 代 最上川(山形県) 43 代 釧路川 44 代 熊野川(奈良・和歌山・三重県) 45 代 ヘルレン川<モンゴル> 46 代 十勝川(北海道) はできないが、39 代の釧路川では、レスキュー用とし 47 代 仁淀川(高知県) て自動車タイヤのチューブに 20 m程度の細引きをくく 48 代 天塩川(北海道) りつけたものを艇に積んでいたほか、42 代の最上川で 49 ~ 53 代 (ボートなし) は、帆を立てるという裏ワザも実行されている。 54 代 四万十川 55 代 十勝川 56 代 北上川(岩手県)、最上川 57 代 長良川(岐阜県)、球磨川(熊本県) 58 代 釧路川 59 代 四万十川 60 代 阿仁川・米代川(秋田県) こうした一つひとつの活動の積み重ねがあって、現 在に至っている。さて、私が中心となって参加した合 宿では、海外や沢登りとの組み合わせといった特徴的 な活動は行っていなかったが、時の巡り合わせから別 のテーマに取り組むことができた。 ▼合宿に向けてワンダリングを行う 58 代現役部員(荒川長瀞) WWV のボート活動の歩み 17 激流志向 求めたくなるものである。こうして徐々に激流に挑み たいとする志向が強まっていき、私は 4 年時の合宿で 私が新人として入部したのは 54 代下半期にあたり、 長良川、球磨川という 2 本の河川で、その激流部分を 夏合宿のボートは 48 代を最後に途絶えて久しい時期 メインとしたラフティング合宿を計画し、取り組むこ にあった。その理由は、部員数の極端な減少や海外合 とができた。 宿の実施などにより、他の活動(継続)が優先された など、各代の状況によって様々だったと考えられる。 ただし、合宿外のワンダリングとしては程度の差こそ 新たなる夜明け あれ行われており、我が部の活動形態の一つとして存 激流への志向性をより強めるきっかけとなった出来 続していた。実施は叶わなかったものの 53 代におい 事として、57 代の秋頃から少しずつ参加し始めたレー て久々の復活が計画され、その流れは 54 代に引き継 スラフティングの影響がある。当時私達はまだ年間方 がれ、実に 6 年ぶりに夏合宿ボート隊が誕生した。私 針策定の真最中という忙しい時期にあったものの、今 の入部がそのタイミングと重なり、以降 4 年間のボー 後の可能性を探る意味も含め、レースというものを体 ト合宿に参加できた。 験しようとワンダリングを企画し、初参戦した。そん 久々の活動ということもあり、54 代の夏合宿を実施 な初体験は、日本のレースラフティング界における転 するに向けては比較的数多くの技術習得ワンダリング 機の時期とも重なって、大きな刺激を受ける出来事と が実施された。そのおかげもあり、主要メンバーには なった。 それなりの操船能力が身に付くとともに、部の団体装 ラフティングレースの主な参加主体は大学探検部の学 備から個人装備まで含め、多くの装備も一新された。 生で、年に数回ほど行われていたが、日本で唯一存在 本来ラフティングボートはカヌーなどに比べれば、そ する男子プロラフティングチーム テイケイを中心に、 れなりの激流を安全に下ることができる安定したボー 大会開催数が増やされたり、合同の練習会が開かれた トである。装備が少し充実し、実力も少し身について りといった活発な動きがあり、参加者は大学生を中心 くれば、一般的なツーリングとはまた違ったスリルを に日々切磋琢磨し実力を高めていく状況であった。 ▼激流の利根川に挑む現役部員(第 33 回リバベン) 18 WWV のボート活動の歩み 現在のラフティングレースには、ラフトボートを 4 このまま時間をかけながら、少しずつレースも交えな 人で漕ぐか、6 人で漕ぐという2パターンがある。初め がらクラブのあり方を考えていくことになるのだろう てのレースに参加し、上位チームの競争を目の当たり …。そんな次の時代に入っていくという変化を感じて にした時は、6 人全員が役割分担のもとに漕ぐとここま 引退したものの、次世代を担うはずの参加メンバーの でできるのかと、価値観がガラッと変わるのを味わえ 2 人が次のシーズンを待たずに相次いで退部、春を迎 たものだった。また、純粋に競技への参加そのものが、 える頃にはほぼ振り出しへと戻ってしまう。 しばらく味わっていなかった「忘れていた何か」を思 い出させるような刺激であった。ただし、明らかに異 質なものに取り組んでいるという感覚はなかなか拭え レースラフティング ずに、レースへの参加を普段のサイクルにどうやって 振り出しに戻ったものの、バトンは下級生の手へと 織り込めばよいのか、とにかく手探りの状態であった。 渡った。新たな経験を積み重ねてみようと、横から発 破をかける役を引き受けて、3 度目の長良川(通算で 初めて参加した 10 月の長良川ホワイトウォーター は 4 度目のレース参戦)へと出向いた。新人中心のメ フェスティバル(WWF)以降、翌年の 6 月にリバーベ ンバー構成での参戦ではもちろん結果は出せないもの ンチャー選手権(リバベン)、そして再び長良川 WWF の、参加者やそれを見ている活動を担う立場の者には と私が主導して 3 つの大会に参戦した。それぞれ初参 それなりの課題を持たせることができる。そのような 加となるチャレンジは手探りの範疇を超えるわけもな 中、レースラフティングで勝てる手法を学び、我が部 く、どのようなものか知るだけで精一杯であった。長 にもそれを確立させようと「改革」に取り組むことと 良川は季節的にもそれなりの経験があれば入門者でも なっていく。 参加可能なレベルで、この大会を入り口としたことは 長良川直後に、プロチームのテイケイのメンバーか 調度良かった。だが、リバベンの方は、谷川岳の雪解 ら漕ぎ方を教わる機会を持てたことが一番大きい。そ け水がゴーゴーと押し寄せる激流の利根川で行われる こに参加した横塚(61 代、当時新人)を中心に、下級 もので、練習不足の者が気軽に参加するようなもので 生という立場に悩みながらも合宿の合間を縫うように はなかった。 少しずつ練習を計画し、新しいノウハウを蓄積すべく 準備ができず、中途半端な活動にしかならなかった 奮闘する時間が始まった。横塚とその同期の宮澤が中 ことは否めなかった。しかし、参加して得られるもの 心となり、難易度最高峰のレースであるリバベンには は決して少なくないだろうという想いを訴え、夏合宿 2 度参戦。その他の大会やイベントにも時間の許す限 を漕いだメンバーとある程度練習を重ねて再チャレン り出向くことで技術を磨くとともに、川に魅せられた ジしたのが、通算 3 度目のレース参戦となる長良川で 同世代の学生達(他大学は 9 割以上が探検部)との交 あった。なんとか予選を漕ぎ抜け、上位半分の中に滑 流を行い、ある程度の結果を出せるまで成長している。 り込むこともできて、確実に何かを掴みつつあった。 ▼参加ラフティングレース一覧(主なもの) 代 年月 57 代 大会名・地域 2005 年 10 月 第 12 回長良川ホワイトウォーターフェスティバル(WWF) 2006 年 6 月 第 30 回リバーベンチャー選手権大会 58 代 2006 年 10 月 第 13 回長良川ホワイトウォーターフェスティバル(WWF) 59 代 2007 年 10 月 第 14 回長良川ホワイトウォーターフェスティバル(WWF) 2008 年 6 月 第 32 回リバーベンチャー選手権大会 2008 年 9 月 第 12 回天竜川ホワイトウォーターフェスティバル(WWF) 2008 年 10 月 第 15 回長良川ホワイトウォーターフェスティバル(WWF) 2009 年 4 月 多摩川・御嶽 ラフティングジャパンカップ 2009 第1戦 2009 年 6 月 第 33 回リバーベンチャー選手権大会 2009 年 9 月 第 13 回天竜川ホワイトウォーターフェスティバル(WWF) 2009 年 10 月 第 16 回長良川ホワイトウォーターフェスティバル(WWF) 60 代 61 代 WWV のボート活動の歩み 19 一見すれば競技に熱くなり、元に流れていた価値 観とは随分変わってしまったと映ることもあるだろ 61 年目の WWV において う。 実 際 に レ ー ス そ の も の を 傍 か ら 眺 め る 限 り は、 これまで書いてきた通り、ここ数年は「空いた時間 とても異色の世界に見えることは間違いないだろう。 はラフティング」と言わんばかりに練習に励む傾向に だが「レースで通用する技術を磨くことが、リバーツー あり、ボートワンダリングの計画数は年々伸びている。 リングにおける安全な活動手法を身に付けることにつ 大会参加などの活動数に比例してボートの操船に関す ながる」という理解があるからこそのチャレンジであ る部員の力量も当然大きく上昇し、直近の夏合宿でリー ると強調したい。 ダーを執った佐藤穂高いわく、「国内の河川ならばどこ でも下れるだろうと感じさせる安定感がある」とのこ ここでラフティングのレースとはどのようなものか とである。 を簡単に紹介したい。五輪中継などでカヤック競技の その直近の夏合宿について触れてみると、水辺を楽 映像をご覧になったことのある方は、その延長と思っ しむというテーマの下で、ボート活動と沢登りを行う ていただいて差し支えない。大きく分けて 3 種類の競 「水系隊」を編成している。具体的な場所は、秋田の米 技方法がある。それは、1 キロ程度の短距離レースと 代川水系であり、1R(ラウンド)は太平湖からボート なる「スプリント」、川の中央に設置されたゲートの間 でアプローチをかけるアグレッシブな入渓から、森吉 を上下左右に縫うように漕ぎ抜ける「スラローム」、そ 山域の粒様沢で活動。2R では同じく森吉山域にある桃 して長ければ 10 キロ以上もの距離を 1 時間程かけて 洞沢を遡行、森吉山を登頂。3R では阿仁比立内という 漕ぐ場合もある長距離レースの「ダウンリバー」である。 集落を出発点とし、阿仁川と米代川を日本海まで下っ ワンダラーなら、冬季五輪競技の花形でもあるアル た。冒頭でも触れている通り、「水系」のタイトルを ペンスキーはご存知のことと思う。そして、われわれ 冠したこの隊の活動場所(1R の粒様沢、2R の桃洞沢、 の冬季の活動形態である山スキーの活動内容もご存知 3R の阿仁川、米代川)は全て同じ川の中にあり、異な だろう。この 2 つが綺麗にぴったり重なることはない る活動形態を駆使して、源流部から海に至るまで一本 が、全く重ならないわけではないどころか、一方に精 の川を遊びつくすシナリオを進めた。入渓のアプロー 通すれば、もう一方を行う上で大きな足場を手にする チ手段にまでボートを取り入れる辺りに、こだわりが という想像は許されると考える。今彼らが熱を入れて 感じられる。 いる活動はそれと同じだと考えれば、それなりに合点 「最高に楽しめる夏にしたい、活動や夏合宿の魅力を していただけるのではないだろうか。 新人達にも伝えたいという気持ちが第一だが、活動を 私個人の解釈が強くなるが、WWV は自然へアプロー 手段とし、WWV らしい合宿、WWV にしかできない チする場であると同時に、スポーツの場でもある。ス 合宿を創ると考えてこその計画だった」と語るのは先 ポーツとして行うためには、目標を掲げてその実現の ほどの佐藤穂高の言葉。また、「ボートだけに限らない プロセスにおいて幾重にも思考し、実践を繰り返して が、個々の活動レベルが上がれば、難しいルートへ、 高みを目指すことになろう。そういったサイクルが大 海外の広大なフィールドへと手足を伸ばすことは自然 きなものから小さなものまで、WWV 内の様々なとこ だ。しかし WWV には様々な活動を幅広く行う力もあ ろで回転している。 り、それは十分な魅力となり得るものである。想像力 ことボート活動においても、「川下り」を「ツーリン と発想力があれば、いくらでも面白い活動ができるこ グ」と呼ぶか「ラフティング」と呼ぶかという捉え方 とを実感できた」と付け加えている。 の問題ではなく、 「漕ぐという基本的動作の純粋な探求」 のためにレースへの参加があると考えられる。実際に 彼らは単調なツーリングの船上においても、漕ぐこと を心底楽しんでいる。決してクラブとしての勝ち負け にはこだわってはいない。ただし、参加するからには 記録や勝利に対し、意地を見せることを憚らない。そ れは体育会系の性分なのかもしれない。 20 WWV のボート活動の歩み これから いだだけに、それを絶やすまいと躍起になった時期が 相当長かった。現在もレーススポーツへの取り組みが 36 代にて産声を上げて以降、様々なワンダラーによ 確立しつつあることで、新たなノウハウを発展・継承 り時には細々と、だが確かに「ボート活動」は引き継 することに重点が置かれる傾向を感じることがある。 がれてきた。合宿として計画されることのない空白の だがそれゆえに現役自ら、活動が異質なものとして周 期間が続くこともあったが、部の財産として残され進 囲から捉えられがちな状況としつつあることは、少し 化を遂げている以上、それは然したる問題ではない。 残念でもあろう。61 年目という区切りを通過した現役 WWVは、自然へのアプローチ手段として多くの活動 諸君には、目標の置き方やそこへのアプローチの仕方 形態を選択、開拓してきた。それは自由な発想から選 には絶えず変化を求め、クラブの、そして活動の可能 ばれてきたはずであるが、時としてその多様さ故にそ 性の追求を怠らず、弛まぬ努力を続けてもらいたい。 れらを維持せんと、技術伝承ばかりに目が向けられる 新しいボート活動がすぐそこで目覚めを待っている こともある。 かもしれない。 実際に私自身が、数年の隔たりを経て技術を受け継 早稲田ワンゲルボート、川下り活動のパイオニアとして 藤川 正 36 代 植村直己氏の犬ぞりでの北極点到達や、早大ボート部 OB でもあるカヌーイスト野田知佑氏へのあこ がれを抱いていた栖原と私は、自然を楽しむ方法のひとつとして川下りに興味を持つようになった。当 時より身近な仲間であった法政 WV 部が我々のボート活動におけるお手本であった。まずは、彼らの荒 川上流の長瀞や多摩川上流の御岳渓谷での練習に同伴し、川下りのイロハを教わった。他、早大フロンティ アボートクラブなどからも情報を収集した。 栖原と私で我が 36 代部員を説得し、36 代から後輩への贈り物にするということで、皆で費用を工面し、 まずゴムボート 1 艇を購入した。代を問わず、川下りに興味がある部員を募り、多摩川の御岳渓谷での 本格的トレーニングを開始した。 36 代は足立直実と栗原佳子率いる女子部員も定着し、部員数に恵まれた代であった。多くの人間が集 まれば、趣向も多様となる。36 代の夏合宿は「北海道自転車・縦走隊」、「女子の九州自転車・屋久島縦 走隊」、「韓国隊」、「西表隊」、そして「ボート隊」と地域と形態に全く捉われない活動を実践した。 ボート隊は初めての合宿地として、前半を広島県から島根県を北上し日本海へ注ぐ江の川(ごうのが わ)、後半は高知県の「日本最後の清流」四万十川を選んだ。大変残念なことに、私は怪我により合宿途 中で隊を離脱することになり、「日本最後の清流」を楽しむことができなかったが、隊としては大事無く 太平洋へたどり着くことができ、満足行く合宿であった。 個人的な話だが、後に私はワーキングホリデイ VISA を使い 1 年余りカナダで過ごし、その内の 2 か 月間ユーコン準州のホワイトホースというところに滞在した。そこで大河のごく一部であるが、1週間 キャンプをしながらカヌーでユーコン川中流部を下った。経済的余裕があれば下流域まで下って行きた かったところだが、ボート合宿を経験していたからこそ挑戦することができた貴重な体験だった。 今夏の合宿でもボート隊が編成されたと聞いている。川下りがこれ程 WWV で定着するとは嬉しい限 りである。後輩たちには、今後も登山同様、自然に対する知識を十分に備え、技術、体力を満たした上で、 常に安全を考慮して川下りを楽しんでもらいたいと希望する。 WWV のボート活動の歩み 21 51代~ 60代は どんな10年だったのか? 倉本 賢士 53 代 1. はじめに るとした所以である。 本稿は当部のこの 10 年の現役の活動概略を紹介する しかし、いつも入部者が少ないわけではなかった。実際、 ことを目的としており、私事を述べるのは本来場違い 新人を 10 人以上迎えた代は4代あるが、途中で辞め なのだが、はじめにお礼から述べさせていただきたい。 ていく者が多かったのである。なぜか? 当部のこの 10 年を振り返るとき、そのなかには他 入部者が少ない、もしくは部員が辞めた理由はいく に代えがたい沢山の喜びのかたわら、遭難事故やその らでも考えられるだろう。就職活動の時期が早まった 後の部活動の停滞等から生まれた多くの苦しみがあっ ことや、不況下で資格試験に対するニーズが高まった た。事故当時、私は 53 代の主務だった。あのとき誰 ことで、忙しい部活動を選択する、または続ける学生 原因は、そもそも入部者が少なかったこともある。 もが本当に悲しく、苦しい思いを経験した。そして、 が減ったこと。インターネットの爆発的な普及に伴い、 事故の影響は後代まで続いた。それを思うと今でも辛 趣味も細分化され、早大内にある様々なサークルに学 いときがある。これは同期の宮崎、相澤も同じだろう。 生が吸収されていったこと、そのなかで厳しいトレー しかしこの 10 年、田島部長を始め、OB、OG の皆 ニングを課する体育部が敬遠されたこと。そもそも登 様はどんなときでも当部を支援してくださった。また、 山が若者のなかで流行っていなかったこと、等。 事故後も現役部員達は、精一杯活動を続け当部の歴史 しかし、マクロな影響を論じてもきりがない。少し に確かな足跡を刻んでくれた。そして何より 32 代佐 措こう。ここでは当部におけるミクロな状況を追って 藤前監督、45 代青木元コーチは当部に筆舌尽くしがた みたい。 い力を注いでいただいた。本稿を書かせていただく私 * から 53 代を代表して、皆様に敬意と感謝の意を表し 早稲田大学ワンダーフォーゲル部は登山活動を行っ たい。本当にありがとうございました。 ている団体であり、その活動の内容は積雪期における 山スキー、無積雪期には山岳縦走、沢登り等である(話 を簡略にするためボートや自転車活動は措く。これら 2. この 10 年の特徴と課題 が大切な活動であることには変わりはないし、以下の まず、私が当部のこの 10 年を表すのに最も適して 動にはときに大きな事故に繋がりうる危険因子が多く いると考える数字を挙げる。 含まれており、安全な活動を実現するための知識、経験、 1・1・3・2・3・1・4・2・1・4。 技量、判断力等を備えたリーダー、リーダー層の存在 これは代を執った最上級生の人数を 51 代から 60 代 は欠かすことができない。 まで順番に並べたものである。最上級生が一人だけと 加えて、社会人山岳会等と異なり、入部者のほとん いう代が4代あり、2人の代が2代となっている。代 どが山岳経験の無い者であり、仮に経験者といえども ような問題の所在も変わらない)。そして、これらの活 の運営の中心となる3役(主将・主務・会計)に最上 積雪期活動や沢登りの経験者は皆無である。ここが野 級生がそれぞれ就くことができた代は4代しかない。 球部やラグビー部等とは違うところだ。その彼らも3 ここまで最上級生が少ない時期が続いたのは創部以来 年経てば積雪期のリーダーとなり、下級生を指導し、 なかったことである。この 10 年を表すのに適してい 22 51 代〜 60 代はどんな 10 年だったのか? 行動の判断を下すようになることが求められる。 となり、新人が入部し、その新人もいつしか、ではな 3. この 10 年の部活動について く3年後に最上級生としてリーダーになり、卒部した 本来ならば 51 ~ 60 代の各代について簡単に紹介す ら、次の ・・・、となる。このサイクルは当部を含む学 るのが適当なのかもしれないが、それは各代の『彷徨』 生山岳会としての根本的なあり方である。社会人山岳 や当部のウェブサイトをご覧頂きたい。ここでは前章 会のように実力のあるリーダーが長期にわたって活躍 の末に指摘したテーマについて、2002 年(53 代)に するということがない。あくまで4年間(当部では実 起きた真名井沢滑落事故とその後の部活動についての 質3年半)という限られた学生生活が前提となる。 記述が多くなる。この事故後の試行錯誤が、これから ではこのサイクルを踏まえて、当部で最も大切なこ の当部の運営の参考になると信じるからである。 そして、最上級生が卒部したら、次の学年がリーダー とは何か?それは「伝達」と「成長」という2つの言 葉に集約されると考える。 上述したように、山岳活動について未経験である者 が、限られた期間でリーダーとなるまで成長し、彼ら が再び下級生に活動の伝達をすることが、当部の生命 線である。この生命線は、上級生が「伝達」し、新人・ 下級生が「成長」することによって維持される。しかし、 伝達者としての上級生の人数不足、経験不足や、伝達 する場としての活動の停滞が起これば、生命線は途切 れてしまう。だが、それでも時間は経過する。成長の 機会を逃しても下級生は上級生になるのである。 また、伝達の場という点について、当部は「全員参 加」で目標を追求し、合宿を行うことを大切にしている。 例え上級生が少なくとも、全部員を引っ張って部を運 営し、活動するのである。つまり、伝達のあり方にお ける「どのように」の大部分は決まっている。 最も大切な「伝達」と「成長」は、同時に大きな課 題でもある。 * 以上に指摘した点を考え合わせると、この 10 年の 各代が直面し、試行錯誤した課題は明確である。それは、 各代それぞれが目標とする活動をするうえで、少ない 上級生が、ときに相対的に数の多い下級生が成長する ために「何を」、そして全員参加を前提に「どのように」 伝達するかということである。次章ではこの点につい て述べる。 (1)真名井沢滑落事故と 事故後のクラブ運営について 2002 年7月 14 日、53 代の夏合宿で白神山地にお ける沢登り活動を計画していた宮崎(当時主将)をリー ダーとした隊は、パーティーワンダリングとして奥多 摩の逆川を遡行し、真名井沢を下降する計画で入山し た。逆川の遡行を終了し、稜線から真名井沢の下降に 入ったところである。サブリーダーであった金政(当 時3年)が滑落、頭蓋骨骨折、脳挫傷を負い意識不明 の重体となった。 事故発生後、奥多摩山岳警備隊によって国立病院災 害医療センターに搬送された金政は、8月に入り意識 を回復。その後も驚くべき回復を見せ、10 月には退院 し、リハビリの後、2003 年4月に復学した。 詳細は「真名井沢事故報告書」を参照願うこととして、 ここでは事故が部活動へ与えた影響に焦点を当てる。 * どのような学生山岳会でも重大な遭難事故の発生し た後は、安全性の見直しが行われるなかで、活動の停 滞が起こるものである。そして活動の停滞は、前述し た活動内容や知識・技術を伝達していくサイクルが多 かれ少なかれ途絶することを意味するし、結果的に学 生から見て部の魅力が低下し、入部者の減少や退部者 の増加によって部員数の減少を招く。 当部においても、まさに同じことが起こった。 * 「安全性の見直し」と書いた。言葉にすると当たり前 のことだが、これは非常に大きなテーマだ。しかも遭 難事故の後である。2度と事故を起こさないというの は当然であるが、部活動の当事者(現役部員・監督・ コーチ)にはどれくらい難しい判断が要求されること か。山岳活動から危険因子を取り除くことはできない からである。 51 代〜 60 代はどんな 10 年だったのか? 23 また当時の部はリーダー層の少なさ、相対的に多い いだろうか? つまり実質的にリーダーとして成長して 下級生という課題を同時に抱えており、状況は一層困 いくだろうか? これは個人の素養云々に還元できない 難であった。 問題であった。 ここで2つの方法が検討された。前章末で指摘した * 伝達・成長における「どのように」である。 リーダーがリーダーらしく振舞えない状況。これは 一つは実質的にリーダー層を増やすために卒部後の あらゆる組織にとって危機的な状況であると言わなけ 4年生、アシスタントコーチ、コーチ等が主要な山行 ればならない。目標、方向性に確固たる信念が持てず、 に同行する方法である。この場合、活動の安全性、レ したがって過程がクリアに意味付けされて出てこない。 ベルの維持を望むことが出来る一方、現役のみでの活 一方で積み重ねられてきた行動様式は踏襲しなければ 動ではなくなり、現役の自主性が損なわれるという恐 ならない、何のために行うかが不明瞭であっても ・・・。 れがある。 事故後の当部もしばしばこのような状況に陥った。 もう一つは、現役部員のみでその構成に合わせたレ そして部を去って行く者が非常な数に上った。冒頭で ベルで活動を行うという方法である。この場合、現役 触れた最上級生が少ないという原因のうち当部に起因 のみでの活動となり自主性は維持されると考えられる するものの多くは、ここにあったと私は考える。 一方で、活動の縮小は避けがたい。その結果、活動内 容の伝承が途切れ、活動が先細りしていく懸念がある。 * 当部が取った方法は前者であった。 特に沢登りの活動については慎重にならざるを得ず、 沢登りの計画があった場合はOBの同行が条件となっ た。しかし、OBとはいえ卒部後も沢登りを行ってい る人は少なく、社会人であるがゆえに時間的な余裕も 少ない。現役部員のニーズに対応しきることは非常に 困難であった。そのため沢登りのワンダリングは極め て少なくなり、現役部員内での知識、技術の蓄積が低 下し、現役のみで沢登り活動を行うことができる状況 はなかなか訪れなかった。実際に現役のみでの沢登り が実現するのは、事故後5年が経過した 58 代となっ てからである。 また積雪期の山スキー活動も安全面への考慮や、リー ダー層の薄さから卒部した4年生やコーチの同行で行 われるようになった。事故後の代で現役のみで活動を 行ったのは、57 代と 60 代のみである。それでもこの (2)活動内容について 伝達・成長の「何を」をまとめるのは難しい。とい うのも当部において伝えられているものは係活動で あったり、トレーニングであったり、山の歌であった り非常に多岐にわたる。合宿も新歓、錬成、夏、秋、冬、 春。ワンダリングも多い。すべてを書ききるのは不可 能なので、ここでは代の上半期の目標である春合宿と、 下半期のそれである夏合宿を中心に、活動形態に分け て紹介する。当部において伝えるべき何ものかの総決 算がこの両合宿であると見ても良いからである。 ①上半期(主に積雪期の春合宿について) この 10 年の積雪期活動について最も変化があった点 は装備面だろう。山靴はおろかプラスチックブーツを履 いてスキーを滑る部員はもういない。皆スキーブーツと 遜色ない山岳用の兼用靴(スキー滑降とシール歩行両方 に対応できるスキーブーツ)を装備している。またビン 10 年で常に全部員で積雪期に山スキー活動を行うこと が出来たことは大きな達成であった。部内で知識・技 術等の伝達が最低限でも行われたからである。 しかし、負の側面として、現役部員の自主性が損な われたことは否めない。リーダー、つまり現役部員は 山行中の最終判断を行わなければならない。そこに緊 張や達成感が生まれリーダーとして成長するのである が、経験豊かなOBが同行している場合、どうしても 遠慮や依存が生じてしまう。では、仮に山行が安全に 成功したとして、リーダーは達成感や自信を持つこと ができるだろうか? 計画作成の段階に甘さが出てこな 24 51 代〜 60 代はどんな 10 年だったのか? 60 代 春合宿(尾瀬燧ヶ岳) ディングもディアミールをはじめとするステップイン式 秋合宿は中央アルプス、飯豊、朝日、奥秩父、八ヶ岳、 のもの、 板もカービングである。ゲレンデでスキーを滑っ 尾瀬、日光、上越等で行われている。秋となれば紅葉 ているスキーヤーとほとんど差異がない。道具の変化は を目指し東北を目指す代が多い、が、たいてい紅葉は 滑り方をカービングターンに変えた。しかし何より当部 終わっており、雪に降られることもしばしばである。 の活動において変化したのは、滑降重視の姿勢が大きく 夏合宿での縦走は大雪山、日高、北アルプス、南ア 打ち出されてきたことである。スキーで長く縦走すると ルプスが選ばれている。特にトムラウシや十勝岳から いうスタイルはこの 10 年でほとんど見られなくなり、 大雪山にかけては、この 10 年で3回も歩かれている。 軽装で登り、滑降を楽しむというピストンスタイルの活 また本年8~9月にはアメリカ西海岸のシェラネバ 動が多くなった。 ダ山脈を縦貫するジョン・ミューアトレイルを 60 代 この視点から、この 10 年で特色ある活動を2つ挙 の長谷川パーティーが縦走した。50 代のアフリカ合宿 げる。 以来 10 年ぶりの海外合宿であった。 ・53 代春合宿~舟形山を盟主とする舟形連峰での春合 宿。山形県銀山温泉から宮城県定義温泉までの5泊 の縦走で行われた。このルートでの縦走は記録未見 であり、地味であるが人跡少ない好ルートである。 また当地域で積雪期の合宿を行ったのは過去の当部 でこの代のみである。 ・58 代積雪期の取組み~積雪期活動のテーマを「頸城 3部作」とし、乙妻山・佐渡山ツアー、火打山ツアー、 焼山を中心とする頸城縦断ツアーを行った。焼山は 火山活動による入山禁止措置が解除された直後の山 行である。滑降が重視されたスタイルであると同時 沢登り 51 代夏合宿での日高山脈での沢登りを含む縦走を最 後にしばらく夏合宿では行われなかった。記述の通り 沢登り活動は事故後再開するのが困難であったからで ある。そこで 58 代から大家監督はじめとするOBの 協力のもと本格的な再開が図られ、現役のみでの沢登 り活動が行われるようになった。58 代夏合宿における 沢登りを含む日高山脈縦走(リーダー:鳴海)が最初 の成果であり、59 代では西表島、屋久島、60 代では 森吉山周辺と続いている。 に、頸城山塊を散発的かつ集中的に滑った取組みで あり、今後の積雪期のあり方における一つの好回答 だと思われる。 上記以外には尾瀬、八幡平・裏岩手連峰、八甲田山、 妙高周辺が合宿地となっている。 ②下半期(特に夏合宿について) 縦走 当部で縦走と言えば、やはり錬成合宿が思い浮かぶ。 その錬成の舞台としては南アルプスが最も多く、次い で奥秩父、八ヶ岳となっている。 59 代 夏合宿(屋久島) 60 代 錬成合宿(南アルプス 農鳥岳) 51 代〜 60 代はどんな 10 年だったのか? 25 ボート マウンテンバイク 当部におけるボート活動の歴史は長いが、ほとんど 自転車でのツーリングは夏合宿の定番となった観が はツーリングであった。それが近年大きく変化してき ある。この 10 年夏合宿で自転車活動が行われなかっ た。ボート活動はツーリングに留まらず、ラフティン たのは 53 代のみである(この代も計画がなされてい グでレースに参加するまでになり、ボートトレーニン たが事故後中止)。 グも定期的に行われている(詳しくは 57 代春田によ 活動地域も北海道、東北、中国、四国、九州と全国 る「WWV のボート活動の歩み」16 ページをご覧くだ 各地を走り回っている。 さい)。当部は競争する部ではない、というわけにはい かなくなっているのである。ラフティングレースに参 加している部員の意欲は非常に高い。 ツーリングも盛んだ。夏合宿で四万十川(54 代・ 59 代)、十勝川(55 代)、北上川・最上川(56 代)、 球磨川(57 代)、釧路川(58 代)、米代川(60 代)と 54 代以降毎年行われている。 この興隆の背景には、事故以降、現役部員が沢登り をほとんど行うことができなかった状況が大きいと推 察される。活動手段の一つを失い、そのなかで当時の 現役部員は、自らの力で行うことのできる充実した活 動を求めた結果が、ボート活動であったと思われる。 60 代 ワンダリング(房総) それを追求し現在のような活動形態にまで高めたのが、 57 代春田・柳瀬、58 代御手洗である。彼らが中心となっ てボート活動を牽引し、当部のボート活動は他のワン その他の活動 ダーフォーゲル部にはなかなか見られない魅力を有す これまでの形態別の活動以外で特色あるものは、52 ることとなった。 代夏合宿での佐渡島縦断や 54 代夏合宿の屋久島・口 永良部島ハイク、59 代夏合宿の西表島リーフ歩き等が ある。 4. おわりに 先日ちょうど 60 代の夏合宿が終了した。60 代は4 年生4名をはじめとして最大 30 名近くの部員を抱えて 運営を行った。近年まれに見る大所帯である。そのな かで 60 代は全ての合宿を現役部員のみで行い、夏には 縦走、沢登り、自転車、ボートの活動をし、一隊のみ だが海外合宿も成功させた。隔世の感があると同時に、 やっと当たり前の学生の部活動になったと感じる。 これから 61 代が始まろうとしている。代を執る3 年生は8名、全部員 18 名(2009 年 10 月現在)。下半 期を迎えたときに、再び 30 名を越える部員数となる 可能性もある。 思えば、佐藤前監督が現任の大家監督に監督を引き 継がれた 58 代に、私はコーチになった。そのとき最 58 代 北海道夏合宿(釧路川) 26 51 代〜 60 代はどんな 10 年だったのか? 上級生の3年は2人、2年生は1人であった。 大家監督は監督就任の際に、「部員数の増加」と「海 最後になりましたが、田島部長、OB、OG の皆様に 外合宿の成功」を掲げられた。60 代が終わった現在こ 重ねて感謝の意を表します。そして繰り返しになりま の2つは達成されたと言ってよいだろう。そして沢登 すが、32 代佐藤前監督、45 代青木元コーチ、本当に り活動も再開し、ボート活動も盛んだ。 ありがとうございました。 53 代での事故後の部活動が直面した困難な局面は終 わり、今後は多くの部員数と幅広い活動分野の中でど のように目標を共有して活動を行うかが最大のテーマ となるだろう。 しかし、事故後の問題設定が消え、新たな問題設定 になろうとも、やはり舞台の多くは山岳である。10 年 前と今で山岳の中での人間の非力さに何の変わりもな い。事故はいつでも起こりえるのである。そして事故 が起これば、再び当たり前の部になるためには途方も ない努力が必要になるのである。 参考資料 現役諸君には、現在の部がこれまでの積み重ねであ ・『彷徨』50 号、52 号、56・57・58 号(合併号) り、事故後の困難な局面でも部活動のバトンをつなぎ ・ 『真名井沢事故報告書』 (平成 15 年5月発行、編集: つづけた OB、OG の存在を知ってほしい。また遭難事 45 代青木氏)~ 53 代で発生した遭難事故の報告 故の悲しさや苦しみも風化させてほしくない。本稿が 書である。当部の部室に僅少残っているので、閲 この 10 年の部活動を記述するに当たり、課題や事故 覧可能。 後の部活動の難しさばかりを書いてきたのは、主にこ ・早稲田大学ワンダーフォーゲル部公式ページ~当 の理由による。 部のウェブサイトの基礎は 52 代栃谷が作成、そ とはいえやたらと重苦しい話ではない。現役諸君は れを 57 代廣光が飛躍的に発展させた。両者の尽 バトンの重みを知って、それを受け取ったら、あとは 力無くして現在のウェブサイトはなかった。この 学生らしく軽快に全力で走りきるだけである。 10 年の功績として記しておく。 60 代 春合宿(尾瀬燧ヶ岳) 51 代〜 60 代はどんな 10 年だったのか? 27 51 代 「栃谷、お前書けや」 平成 12 年 中島 一彦 「中島一彦」と名前を打って書き始めてはみたも 中島さんの声が聞こえてきた。「…51 代は俺とお前 のの、実はこれを書いている自分は中島さんではな でとった代やろ。だからお前、例の 60 周年の原稿 い。なぜこのような事態になったのか? 思い返せ 書けや…」 ば事の発端は中島さんからの一本の電話だった。 「あ 確かに、あの頃はいつも中島さんと一緒だった。 のさあ、明日時間ある?」。担当球団のヤクルト三 金がないので早朝の早稲田のマク○ナルドで何も買 連戦の取材で東京に来ていた 47 代の笠井先輩を訪 わずに 2 階へ上がってミーティングしたり、 「太公望」 ね、神宮球場へ。先輩への義理を果たすため阪神の という文学部キャンパスの裏の路地にある中華料理 応援席に陣取るも、トラ党の迫力に恐れおののき、 屋(今もあるのだろうか?)で、サシでビールをつ 和やかムードのツバメ応援席へこっそり移動。試合 いでもらったり……と、二人きりの濃密な時間を過 終了後に四谷三丁目まで歩き、この日集まった 45 ごした。(決して変な意味ではない) ~ 57 代の 6 人ほどで、例の如く終電がなくなるま 中島さんはいつも「お前よくオレについてきてく で痛飲したのである。薄れゆく意識の中、遠くから れたよ」と言ってくれるが、自分からすれば「よく 見捨てないで育ててくれました」である。そんなふ たりで作った合宿の中でも思い出深いのが、北海道 の夏合宿である。自分は自転車隊のリーダーで、1 Rをやりたいように楽しくやらせてもらった。そし て迎えた 2 R……。「あの 2 R」は自分にとってそ れまでの人生の中で最も大きな試練であった。しか し「あの 2 R」があったからこそ、そのあと自分は 1 年間代を執ることができたのだとも思う。何があっ たのか気になる方は、当時そこに居合わせた 53、 54 代の後輩たちをつかまえて、ぜひ話を聞いてみ てほしい。 それというのもこの 51 代、実は『彷徨』を出し ていない。あの濃くて熱い日々の記録が、自分と中 島さんを含めた 10 数名の記憶の中にしか残ってい ないことが、残念でしょうがない。しかし堅固な意 志と実行力で中国・広州の地に大旋風を巻き起こし た中島さんのことであるから、『彷徨 51 号』はいず れ近い内に、華々しくお披露目されることになるだ ろう。今から非常に楽しみである。 28 思い出の一枚● 51 代(平成 12 年) 52 代 平成 13 年 51 年間のタスキの重さ 実家に帰った時、自分の机の引き出しにしまって 栃谷 佳宏 心の底から、嬉しかった。人の心とは、こんなにも ある、汚れた水色の小さな手帳を開くことがある。 素晴らしいものなのか……、心が震えた。 「7:30 マック」「20:00 カンコー会」などと、自分の あの 1 年間を思い返す時、いつも自分が思うのは、 汚い丸字でびっしり書き込まれているのを見ている 到底しっかり者とは言いがたい栃谷という男に、51 と、いつもせっぱ詰まって苦しんでいた当時の自分 年間連綿と受け継がれてきた伝統のタスキをつなぐ の姿が目の前に浮かび上がってきて、ひとり苦笑し という偉業を完遂せしめた、早稲田ワンゲルという てしまう。 組織の、途方もない懐(ふところ)の大きさである。 強烈な個性と求心力を持った先代の主将から引き 継いだ「早稲田ワンゲル」という看板は、自分ひと りで背負うにはあまりに重かった。代を執り終える までの 1 年間、何度その看板をとり落とし、傷つけ、 壊してしまいそうになったことか、数え上げれば本 当にきりがない。しかし、そのたびに叱咤して下さっ たのが、失敗しては落ち込んでばかりいる(その割 には反省がなかなか生きない)出来の悪い後輩を、 文字通りまるごと愛してくれた先輩方であった。居 酒屋のテーブルをはさんで、山小屋の宴会の一隅で、 高田馬場のルノアールで。どれだけ救われ、明日へ の希望を頂いたかわからない。そして、一緒に代を 執り、うだつの上がらないリーダーを陰になり日な たになり支えてくれた後輩たち。中でも忘れられな いのが、北アルプスから佐渡に渡った、最後の夏合 宿である。 直前まで計画していた紀伊合宿が反故になるとい う状況の中、「現状で行える最大限に魅力ある合宿」 を 4 人全員で追及し、立派に形にすることができた。 あの合宿で見た景色、出会った人たちは、心にしっ かりと焼きついて今も消えることがない。そして、 たどり着いた集結地。辺境にも関わらず、自分を一 番気にかけて下さっていた監督、コーチ、先輩たち がかけつけて下さった。一番感謝を伝えたかった人 たちが、自分のために来てくれたことが、本当に、 思い出の一枚● 52 代(平成 13 年) 29 53 代 平成 14 年 君たちは山に行くべきだ 相澤 身江子 30 「陸奥彷徨」という言葉が浮かんだとき、先の見え 何が起こったのか、どうして起こったのか、どう ない話し合いにようやく一筋の光が差した気がしま すれば防げたのか、直視する作業のその間、後輩た した。日本地図を広げ、 「ワンゲルって何?」から始 ちはOB、OGの方々と一緒に、金政にエールを送 めた年間方針は、人力でじっくり歩く、その過程を り続けてくれました。これまで自分たちがしてきた 仲間と共有する、というシンプルなかたちに行き着 ことはなんだったのか、自信を失い、後輩への言葉 きました。派手ではないけど日本の山、人の暮らし を失っていた私たちに、「これで部を終わらせては やこころに染み込んだ山を、一年を通じてじっくり ならない、君たちは山に行くべきだ」と言ってくだ 感じたい、そういう合宿を作っていこうと決めまし さったのが佐藤監督でした。 た。 それでも後輩たちには重荷を残してしまいまし 春、船形連峰での山スキー彷徨は、地形図と目の前 た。とにかく一緒に頑張ってほしい、一緒に乗り越 にある雪の中の起伏とを眺めながら自分たちで道を えてほしい、そんな思いでそれぞれが過ごしたと思 作っていく、その土地と体で対話しながら歩く醍醐味 います。だからこそ今年、杉山・宮本の結婚式に金 を皆で感じることができた合宿だったと思います。 政と立ち会えたことは本当にうれしくて、すっと晴 春合宿を終え、多くの新人たちが入部してくれた れていくような思いがしました。 ことで、あと半年かけて 53 代の 3 人それぞれが経 53 代の一年を振り返る時、心のどこにもすとん 験し、温めてきたものを実現するチャンスが与えら としまえないようなものはこれからもずっとあると れました。しかし、錬成合宿を終え、夏に向けてそ 思います。けれど、それを無理やりどこかへ整理し れぞれが動き始めたとき、仲間を失いかける事故を てしまうことなく、これからも大事に抱えていきた 起こしてしまいました。 いと思っています。 思い出の一枚● 53 代(平成 14 年) 54 代 平成 15 年 54 代をやり切った 先にある未来 2000 年 4 月、部には私も含めて 10 人を超える 金政 雄介 そんな杉山とともにやり遂げた一番のことは、54 新人がいた。にぎやかな夏合宿あたりを思い出す。 代を執っての「1年間」である。多くの方々にご心 2009 年 2 月、かつての同期達と久しぶりに顔を会 配をおかけし、お世話になりながらも、多くのもの わせることになった。主将の杉山と同期の宮本が結 を破壊し、多大なご迷惑をおかけしてしまったが、 婚式を挙げ、その 2 次会に集まったわけだ。私は思っ 私は、我々は我々自身の力で我々の 54 代をやり切っ た。色々あった 54 代にとっても、今日はハレの日 たと思っている。それはつまるところ、「部は辞め だと。 られない」という信念である。 10 人を超える 54 代の人材もいつしか杉山と私の そもそもクラブ活動は耐えるものではない。しか 2 人になってしまうが、我々は新人の夏合宿でパー し、我々 54 代に特色があるとすれば、どのような ティを共にして以来のクサレ縁である。それ以来、 状況でも辞めなかった、というものだろうか。そこ 2 年の過酷な錬成合宿を悪天候の中トップを交代し には楽しいアイテムなど殆どなく、在ったのはただ、 ながら乗り切り、夏合宿では佐渡ヶ島を自転車で爽 次代へバトンをつなぐという責任感だけである。関 快に駆け抜け、奥秩父の沢ワンダリングでは一夜の 心は 54 代をやり切った先にある未来だけであった。 ビバークを経験し、2 人で計画した丹沢の沢ワンダ 特に確かめたわけではないが、その点で杉山と私は リングを 4 人の下級生を連れた上で成功させ、最後 気が合い、あの日々を乗り越えられたのだと思う。 にパーティを共にした 3 年の錬成合宿ではふたりし てハマった。 ※写真は 53 代錬成合宿・後発隊、悪沢岳(荒川東岳)山頂 で撮った学年写真である。 思い出の一枚● 54 代(平成 15 年) 31 55 代 亀裂ありキケン。立ち入り禁止 平成 16 年 伊藤 林太郎 32 私たちの代を象徴する写真といったら、この 1 枚 れから 5 年が経ちこうやって振り返ると、何とも的 だと思います。この「思い出の 1 枚」の企画の連絡 確な看板がよくあったものだ、と面白く思えます。 があったとき、私がまず最初に思い浮かべた 1 枚が 激動というか落ち着きが無いというか、まったく これであり、その後の同期との話し合いでも全員一 物事が順調にいったことがない 55 代でした。意見 致で…とはいかなかったのですが(そういったあた が厳しく対立することもあれば、もはや何かを言う りが私達らしいかも)、とにかく 55 代を象徴するも 気も失せてしまうこともしばしばで、今思えば 3 人 のだと思います。 が 3 人ともわがままで、それだけに亀裂も大きかっ これは 55 代の、秋田駒ケ岳から乳頭山、三ツ石 た。しかし、この時ほど本気でぶつかり合ったこと 山の三山縦走を目指した春合宿での 1 枚で、乳頭山 は無く、非常に良い思い出でもあります。そうです の頂上で撮った写真です。55 代上半期での苦労が よね、大庭さん? ようやく報われた思い出の写真、と言いたいところ 仲が悪いとよく言われたものですが、仲良くする ですが、本当のメインは向かって一番左にいる辻が ためにお互いが譲り合っていたら、おそらく思い出 持っている看板にあります。 に残るような出来事はなかったかもしれません。け 「亀裂ありキケン。立ち入り禁止」 んかになるくらい熱い意見をぶつけることが出来た という言葉は私たち 3 人の関係をそのものズバリと ことが何よりも良い思い出です。と、まとめたいと 言い表しているのではないでしょうか。合宿後にこ ころですが、もう少しお互いを思いやる気持ちを の写真を見たときは複雑な気分で、そんなことを冗 持っていたほうが良かったかな、とこの写真を見な 談でも言ってほしくない、と思ったものですが、あ がら思う今日この頃です。 思い出の一枚● 55 代(平成 16 年) 56 代 平成 17 年 感謝してます、 ワンゲル 4 年の日々よ 武井 宣樹 某製薬会社に就職し、配属は旭川。55 代夏合宿と ワンゲルを 4 年間続けた大変さに比べれば、ブリザー 5 年生の時に一人で北海道を自転車で縦断した時に ドの中での営業も何とかやっていけるという、確信 来た思い出深い場所で、奇しくも社会人としての一 があるからです。53 代錬成合宿の大沢岳地獄の登り、 歩を踏み出しました。冬は- 20 度を下回ることも 54 代の初めての冬山テント生活、55 代春合宿の秋 あり、2 時間ほどで、外に出していた車が雪だるま 田駒ケ岳ピストン & 山小屋生活、56 代のボート紛 になってしまうこともあります。しかも常に事故と 失騒動……。合宿の内容としても、かなり充実した は隣り合わせの緊張感……。そんなワンゲルチック 厳しさを味わっていると思います。加えて、ひとり な場所で自分は 3 年目の冬を迎えようとしています。 で代を執るという責任感もまた格別の辛さでした。 2009 年 9 月までは旭川市内を中心に仕事をして 満足のいく活動ができたかどうかは別として、やり いましたが、このたび担当交代のため、稚内で仕事 きったという自負は持っています。 をすることとなりました。めでたく日本最北端の 現在苦境に立たされておりますが、ワンゲルを 4 MR です。親は泣き、営業所の先輩たちからは拍手 年間やってきて、とにかく思うことはあきらめなけ で祝われ、得意先の先生たちからは同情され……。 れば道は開けるということを学びました。先の見え 三者三様の対応ですが、稚内地区は事故頻発地区で、 ない世の中ですが「なんとかなるでしょう!」なん 同業者も事故で亡くなっているという超危険地帯と て、前向きな気持ちで生きていけるのも、厳しくも 聞いています。 楽しい 4 年間のおかげだと思います。感謝してます、 死地に赴く軍人のような扱いを最近されますが、 ワンゲル 4 年の日々よ。 周りが言うほど対して焦っていない自分がいます。 思い出の一枚● 56 代(平成 17 年) 33 57 代 同期 4 人の集合写真の誇り 平成 18 年 廣光 佑亮 私たち 4 人は 54 代の春に入部した。当時の部の は卒部間近だったが、『彷徨』という媒体を通して、 現状は、部員も少なく度重なる退部者問題なども抱 後輩達に何らかのメッセージは残せたのではないか えながらの暗澹としたものだったが、そのおかげで と思っている。 前代の 56 代から委員会に参画させてもらい、合宿 積雪期で同期に故障者を出してしまったことは悔 計画や部の方針決めなどのリーダーシップ面では、 やまれるが、最後の集結まで 1 人も欠けずに 4 人で 他の代に比べて大きな裁量の与えられた代であった。 やってきた。仮に誰か 1 人欠けていても、残りの 3 だが、足場を固めずにスタートすることは、同時 人は変わらず最後までやったと思う。ガキじゃある に試行錯誤の繰り返しでもあり、気がつけば行く末 まいし、4 人揃っていなきゃなどとは露ほども思っ のレールが取り外されたり、しっかり踏み残したは たことはない。だが、揃うと揃わないとでは違う。 ずの足跡もいつの間にか消えていたりと、予期しな それはどこかに強く持っていただろう。4 人以上が い問題に次々と時間を奪われる日々。振り返れば随 並んで写真をとれた代はこの 10 年に多くない。最 分と回り道を重ねながらようやく集結地へとたどり 初に入る人数に自らの意思はなく、巡り合わせみた 着いた。 いなものでしかないが、この巡り合わせは一つの誇 本当にずいぶん散々な想いをしたものだ。もがき りでもある。 にもがいた 3 年半だったが、考えてみれば入部以来 その様にして、3 年半という長いようで短い期間 もがくことのなかった代など、上にも下にも見てこ を走り切った我々は、現在それぞれの目標に向かっ なかった。当時のワンゲルは良く言えば一つの完結 て各々の道を歩んでいる。今後、4 人の進路は其々 した世界であったが、保守主義の中に浸りすぎて、 独自の軌道を描いて行くであろうが、共に苦労して 34 時の流れと共に自らを再構築する力を失ってしまっ 過ごした 4 年間の記憶は、一人ひとりの中で今後を ていたように思う。それに気付いた時、すでに我々 支える確かな礎として胸に刻まれているはずである。 思い出の一枚● 57 代(平成 18 年) 58 代 平成 19 年 ワンゲルと人と山 鳴海 真行 代の始まりは、自分達が、自分達の過ごす代と正 価値を模索していた積雪期。 面から向き合う事から始める。 4 月になり、悲願であった新人の大量入部(10 人) 振り返って 58 代を始めたのは秋合宿であっただ を果たした。今度こそ自分達の力だけで、下半期を ろうと思う。なぜと問われて、答えはそれ以前に責 過ごそうと誓い、活動面ではボート・自転車・沢を 任や信頼・仲間といった言葉への実感が湧かなかっ 主軸として、一人ひとりの個性を受容し高め得るよ た部分が多くあったゆえに。秋合宿の前にどれくら うな多様な活動をテーマとした。新人のやる気と上 いその言葉を実感した瞬間があっただろうか? そ 級生の実力を互いにみがき合いながら、新歓・錬成・ れに気付き考え始めたのが秋合宿であったというこ PW そして夏合宿へとまたたく間に過ぎていった。 とである。月のきれいな奥秩父の秋。 その内容は書くと異常に長いので≪中略≫とさせて 気付いて終わりではなく、責任をようやく考えて いただくが、集結であった後輩とただひとりの同期 背負いはじめたのが、頸城山塊での積雪期である。 の頼もしい笑顔は忘れがたい思い出でありそれに結 A コーチの先輩 2 人についてきていただいて、それ 実していたと、一言にまとめておこう。 でも合計 8 人での活動であった。 そうして自分達に対する一つの締めとして、後輩 ツアーで停滞して知った雪の重みの冬合宿/雪崩 にとっては途中経過の一つであるようにと、北海道 に巻き込まれかけ、なおも雪の重みを知った 2 月の での「三漕三歩(『彷徨』参照のこと!)」を完成さ 乙妻/雪洞を作り満天の星空と朝焼けをみて感じた、 せることができた。その過程にあった叱咤や喧嘩や 雪のある山の美しさは火打山/最後の焼山を目指し 悩みも、激励や和解や信念もすべてひっくるめて充 稜線に登り歩き、風の中で俯瞰した北に広がる北面 実した 1 年間であったと思いおこす。 台地と日本海 蛇足ですが、ついつい意味や結論ばかりを求めて 一つひとつの合宿に行程の踏破と自分達の力の無 しまう日常に、山の日常を。そんな 58 代でした。 さという結論を残して、ワンゲルで山に行くことの 思い出の一枚● 58 代(平成 19 年) 35 59 代 平成 20 年 退部者を 一人も出さずに済んだ代 池田 雄樹 36 59 代のスタート時、既に同期と呼べる存在はみな そして、僕が 59 代主将として何より恵まれ、幸 各々の理由で部を去った後で、一つ下の後輩と一緒 せだったのは代を執っている 1 年間、部を辞めたい に代を執り始めた。消極的な気持ちならばたとえ同 と僕に直接告げてくる者がほとんどいなかったこと 期とはいえ部を続けるべきではないと思っていたの である。勿論、個々人でみれば、そんな悩みを抱え で、今にしてみると同期のことは割と早い段階であっ た者は少なからずいたのだろうが、そうした悩みは さりと諦めてしまっていたように思う。また、元々 すべて後輩たちが互いに解決してくれたおかげで、 新人の頃から主将になりたいという気持ちは誰より 毎年のように悩まされている退部者問題とは僕自身 も強かったこともあり、やる気のある後輩たちと一 は無縁に等しく、現状と照らし合わせたうえで活 緒なら同期がいなくてもなんとか部を盛り上げてい 動の計画を考え、後輩と一緒になって活動を楽しむ けると高を括っていたところもあったのだろう。 ことのみに専念できた。そのお陰もあって最後の夏 ところが、実際に代を執って改めて一人代の難し 合宿までの過程で、59 代で目指した「活動の進化」 さを痛感させられた。学年を隔てて代を執ることは と「チームワークの深化」は自分なりに達成できた 考え方や意識の差異が同期とのそれよりも遙かに大 と信じている。 きく、対等な関係で話せる相手がいない状況で代を 最後に、最高学年が自分一人という頼りない状況 導くことは困難を窮めた。そのうえ、怪我やリハビ で、多大なる力添えをしていただいた監督、コーチ リによる自身の実力や経験の絶対的な不足に苛立 をはじめとする OB、OG の皆様と、WWV60 年の長 ち、焦り、次第に思い悩む事が多くなった。本気で い歴史においても恐らく唯一退部者を一人も出さず 部を投げ出して逃げ出す一歩手前で留まることがで に済んだ代を共に築いてくれた後輩たちに心から感 き、代を全うできたのは、直近の先輩が心の底から 謝いたします。本当にありがとうございました。 親身に接してくださり、仲間を信頼することの大切 なお、写真は最後の夏合宿の集結での一枚で、後 さを教えてくださったからだ。あのときの先輩なく 輩たちが担ぎ上げてくれたお陰でどうにか形になっ して今の僕はあり得ない。 た 59 代を良く象徴している。 思い出の一枚● 59 代(平成 20 年) 60 代 「合宿、すごく楽しかったです」 平成 21 年 の一言 佐藤 穂高 長かったようであっという間だった現役活動がど お顔は出せなくても、遠くから声援を送ってくださっ うにかこうにか無事に終了しました。まずは夏合宿 た皆様。その他、どんな小さな形でも 60 代に関わっ を一緒に楽しんでくれた部員の皆、本当にありがと てくださった皆様。本当に、本当にありがとうござ う。そしてお疲れ様でした。記録も書くつもりですが、 いました。 記録よりも記憶に残るような、記録がなかったとし 活動を行いながら迷うことは多かったと思います。 ても一生忘れられないような、そんな良き活動にす 何が後輩のためになるのか、何を大切にしたいのか、 ることができました。 部員が辞めるのはなぜなのか……。正直問題は多かっ 代を執らせていただいて、1 年を通して部を引っ たです。時には一番大切にしなくてはならないはず 張ってきたわけですが、夏合宿に至るまでの道のり の後輩たちのことをないがしろにしていることもあ は一筋縄ではいかないものでした。私の役不足もあっ りました。そして未だに、今まで自分がしてきたこ て、後輩の皆や応援してくださった方々には、色々 とが良かったのか悩む時もあります。それでも「合宿、 とご心配やご迷惑をおかけしましたが、そのおかげ すごく楽しかったです」の一言を聞くと、本当に救 で「全ての人に支えられて 60 代の活動が成り立って われた気持ちになります。 いる」ということを改めて思い出させてもらったよ とにかく、良くも悪くも 60 代で経験してきた全 うな気がします。もちろんそれを忘れたことは今ま てのことは、いろいろな意味で部の糧になっていく で一瞬たりともありませんが、代を執ったことの重 ことと思います。そしてこうして何事もなく終わり さが、格別に感じさせたのだと思います。 を迎えられることは本当に嬉しく思いますし、最後 これまで活動を共にしてくれた後輩の皆。毎週夜 の言葉をワンゲルへの感謝の気持ちで締めくくれる 遅くまで現役の話に付き合ってくださった監督、コー ということも、心から嬉しく思います。これも全て、 チの皆様。ワンダリングの場でも現役の活動を指導 最後までついてきてくれた現役の皆と、常に支えて してくださった皆様。思い悩むときに、飲みに誘っ くださった監督、コーチをはじめとする OB、OG の てくださった皆様。見送り、部員会、昇格式など、 皆様のおかげです。何度言っても飽き足りませんが、 現役のために一度でも足を運んでくださった皆様。 本当にありがとうございました。 思い出の一枚● 60 代(平成 21 年) 37 61代 主将抱負 古川 歩 このたび、61 代の主将になりました古川 歩です。 もう 1 つ大切にしたいのは、当たり前のことですが 主将となり、これから 1 年間その立場をしっかり自覚 事故を起こさないで活動していくという事。OB の方々 して日々の活動に取り組んでいかねばならないと感じ から受け継いできた部を次代以降に引き継いでいくた ています。 めに、そして何よりも現役で活動している部員たちの まず、私が考えるワンダーフォーゲル部の楽しさに ために、絶対に事故を起こしてはなりません。それを ついて述べさせて頂きます。他のサークルとは違う、 考えれば、やらねばならない事は自然と出てきます。 この部活だからこそ味わえる楽しさというものが必ず 後輩に対しても、同期に対しても、そして自分にも厳 あります。その楽しさは、苦しさの後にある達成感の しい態度で接していかなければならないと心に刻んで 様なものだと私は思います。これまで私がこの部活で 部を引っ張っていこうと思います。 行ってきた活動は楽なものでは全くありませんでした。 61 代は、春と夏の合宿を北海道で行うことを年間方 むしろ、常に苦しいものであり、厳しいものでした。 針として掲げています。北海道は現在のワンダーフォー しかし、だからこそ、それを終えた時にこれまでに感 ゲル部の各活動を行うのに非常に魅力的な場所だと考 じたことの無い達成感と喜びを得られました。それこ えています。その一方で、特に春の活動を北海道で行 そがこの部活のやりがいであり、この部で活動する意 うことは非常に厳しく、近年では行われていない現実 味だと私は思っています。 があります。だからこそ、きちんとした準備を部全体 私が主将としてやっていくこの 1 年間で行っていき で行い、達成させたいと思っています。それを通して、 たい活動はそうしたやりがいを感じられる活動です。 私が味わって欲しいと思っている本当の楽しさを伝え ただ楽しくやっていく活動ではなく、厳しさの先にあ ていきたいと思っています。 る本当の楽しさというものを自分でも味わいたい。他 この 1 年間は北海道という目標に向かって全力で突 の部員にも味わって欲しい。それをこれからの 1 年間 き進む次第です。OB・OG の皆様、ご支援・ご声援を で伝えていけたら、私にとっては成功した 1 年だった よろしくお願いします。 と言うことができます。 61 代の面々。後段左から元木、古川、田中、横塚。 前段左から沼田、佐藤(理)、佐藤(知)、宮澤。 38 61代 主将抱負 ワンゲル今昔物語 時代経過にともなう 活動内容の変遷 堀内 太策 38 代 早大ワンゲル部創設から 60 周年を迎えるに際し、ワンゲル史の中で、誰が何をいつ始めて、いつどのように変 わっていったのか?をできる範囲で整理してみたいと思い、本資料をまとめてみました。 今振り返ってみると、私(堀内)が所属した 38 代(昭和 63 年 /1988 年卒部)前後の活動期はちょうど装備近 代化の端境期であったのではないか、と感じます。(昭和最後の卒業年度ということも偶然とはいえないかもしれ ません。)活動内容としても、諸先輩が切り開き、拡げてきた国内の山を対象にした春夏秋冬の山登り中心の活動 から、海外合宿、サイクリング(MTB)、ゴムボート、パラグライダーなど、いろいろな活動が「ワンゲル活動 の多様性」という思想のもと、積極的に導入されてきた時期とも重なります。 活動内容の変遷については、個々人で受け取り方がずいぶんと違うし、意見も分かれると思いますので、本稿 では、ワンゲル活動を支える装備、食料、トレーニング等がどのように変わってきたのかを極力客観的な見地か ら整理してみます。といいつつもかなり個人的なコメントが入っているところもありその点はご容赦下さい。 1. 時代の定義 時 代 活 動 状 況 50 年前 昭和 29 年体育局に加盟した世代が1~4年になった。 ワンゲルブームがあり7、8、9代の入部者は 100 人を超え、テント不足や、体育局所属の精 鋭を目的として、強烈なトレーニングをして部員を絞った。当時は学割があり、国鉄(JR)は 100km 超は 50%引きだった。山に行くには 22 時 15 分新宿発の準急、23 時 50 分発上野発の 夜行が定番であり、事前乗車するために昼間から順番待ちでホームに並んだ。近隣の永田スポーツ で白の大キスリングを作り、WWVのシンボルとして他校にも鳴り響いた。山靴はナーゲル(鋲) からヴィブラムに変わりつつあった。ザイルは麻で、ナイロンは貴重品、ヤッケも木綿が主流で酢 酸防水だった。チキンラーメンが発売されたのは昭和 34 年、それまでインスタント食品はなく、 「二 幸」でアルファ米と乾燥野菜、乾燥味噌があったが高価で手が出なかった。 山口純一氏記 (8代) 40 年前 川崎清明氏記 (17 代) 20 年前 堀内記 (38 代) 登山ブームを時代背景として大学山岳部によるポーラーによる冬山、一般山岳会による無雪期、積 雪期の岩登ルート開拓、ワンゲルの沢・藪ルートの開拓などの活発な山岳活動が見られる。 全盛期で毎年入部する新人が 100 人。いかにふるい落として精鋭メンバーを絞り込み、充実した 活動を行うかが部の存在目標であった。 ワンゲルの多様化とバブル期の各メーカーや専門店の拡大戦略、バイトの高額化など一気に進化す る時期(だったような気がする)。全体的にバブル期は今からすると経済的には楽だったのかもし れない。新人当時はピッケル等はOBに借りに行くものだったが、自分で持つものに変化した。道 具を借りる時にあったOBとの交流の場も減ってしまった。 現在 部員減少、退部者が多い中で、数少ない上級生と数少ない新人、2 年生と、監督、コーチ、アシス (60 〜 61 代) タントコーチが一体となってワンゲルの伝統をつなげてきた。 一旦減少した部員数も、2009 年 9 月時点では、4 年 4 名、3 年 8 名、2 年 7 名、新人 6 名、と 合計 25 名の所帯と盛り返す。特に 61 代は男女比率 50/50%となった。 世界規模で進むグローバル化の流を受け、大学入学以前に豊富な海外経験を有している部員も多数 いる。そのため、国内・海外のフィールドの区別は、もはや今の現役にとってはあまり重要なもの ではなくなっているのではなかろうか? 活動内容が多様化していく中、部員会で「ワンゲル活動とはなにか?」をあらためて問いつつ、今、 新しいワンゲル活動を創りだすべく努力を重ねている。 ワンゲル今昔物語〜時代経過にともなう活動内容の変遷 39 2. 装備 40 年前 神田の登山用品店の他、アメ横で米軍放出品を調達した。 ■テント 無雪期はアルミポールの綿布製の屋根型テント。冬はウインパー型のナイロン製テント(内張り:羽二重) を使用。 ■ザック 細野テント製の白色帆布のキスリングを特注した。これが早稲田ワンゲルの象徴であり、誇りであった。 ■雨具 ビニール製のポンチョ。冬の防寒・防風具はビニロン製のヤッケとオーバーズボン、ナイロン製のオーバー シューズであった。 ■インナー類 冬はラクダのシャツの下着にウールのカッターシャツが定番。防寒具は毛糸のセーターと化繊綿入りのキ ルティングだった。 ■靴 オールシーズン双葉社または高橋社製のオーダー登山靴。沢登りや里道には地下足袋、わらじも使用した。 ■スキー 国産の安い幅広短スキーにカンダハー改良型の日大バッケン(特注)とナイロンシールを使用。 ■パッキング 夏はダンボール箱、冬は一斗缶を使用。 20 年前 高田馬場のカモシカスポーツか新大久保の ICI 石井スポーツで主に調達した。 (神田・さかいや等の老舗から新興勢力への移行) ■テント 綿布の三角テントから、ナイロンのカモシカ製エスパース、ダンロップ製アルミポールを使ったドーム型 テントへ。新人歓迎、錬成合宿用にのみ木綿の三角テントを使用。雨が降った後のテントは重量が 5 キ ロは増えて団配時に大不評。当時はゴアテックス・テントが出始めであったが高くて買えなかったし、ま た買う気もなかった。 ■ザック キスリングからアタックザックへの切り換え。キスリングと同時に国産メーカーによるアタックザックの 低価格化と品質向上が進んだ=さかいやのサザンクロスがDAXになり、目の肥えた一部の富裕層?はミ レーやシュイナード等のブランドを採用、バブル後期の影響もありか。 ■雨具 ゴアテックス素材の普及(ナイロン雨合羽の駆逐)。入部当時は、ゴアとナイロンが半々。2 年目はゴアテッ クスを標準化。スキーではゴアは弱いとされ、ナイロンヤッケを上に着用。さすがにゴム引きの人はいな かったが、それに近い雨具を活用している人もいた。 ■インナー類 インナー類の進化は著しく、化繊系の下着やインナー手袋などが普及(ただし、今年のトムラウシ事故等 を見るとウール系の長所も見直す契機になるかも)。ウール下着は化繊のものも使っている。 ■靴 通常の山靴に加え、夏場はトレッキングシューズを使用するようになる。冬にはプラスチック・ブーツを 使用する者も出始めた。軽量化と凍傷対策やスキー技術に寄与した。 また、沢登り用には地下足袋とわらじのペアが必須アイテムだったが、フェルト底のウェーディングシュー ズも現れ始めた。当時の部員は、生まれて初めてわらじを履いて歩いた人が多かった。 ■スキー(シール+ビンディング) 品質性能的には取付けシールから貼付けシールへの変更と、素材としてのモヘヤの採用は画期的=滑る機 能が著しく向上。また歩行安全面では品質向上したビンディングの登場も画期的。ジルブレッタ 100 番台 やマーカーから、ジルブレッタ 400 番台への進化(歩行性能が上がり、怪我防止のため外れやすくなった)。 ■パッキング 荷物のパッキング用に米屋さんで購入した 10kg 用米袋(厚手のビニール製)を使用。サイズがちょうど 食料や団配を一つにまとめるのに都合よく、防水性も高いため採用されていた。ガムテープを下側とフタ をする側に貼り付け、何度でも開け閉めできる工夫をしていた。 40 ワンゲル今昔物語〜時代経過にともなう活動内容の変遷 現代 特徴として、冬用と夏用の装備を完全に分けるようになった。また、ボート、自転車 と活動の多様化に対応して、山以外の装備も相当充実している。いろいろなIT技術、 携帯電話、インターネットも使いこなし遭難対策などに活用している。 購入はカモシカスポーツ、さかいや、ICI 石井スポーツ、L-Breath など。 ■雨具 ICI オリジナルのパイネ、モンベル、ノースフェイス、ハミングバード、ローアルパイン、マムートなど、 各自がこだわりを持って使っている。ゴアテックスが必須であるが、最近はゴアテックスプロシェル ( 最 高級 ) を得ようとするものが多い。 ■ヤッケ 最近は裕福なのか夏とは別に冬用のゴアテックスのジャケット、オーバーズボンに替えて、スキー用ある いはアルパイン用ズボンを使用する部員も多い。ノースフェイスやモンベルなど。 ■靴 無雪期にはカモシカオリジナルのパジェロやワイルドキャットを使用。 冬にはスキー兼用靴を使用。4 万円程度のもの。 ■スキー(シール+ビンディング) フリッチ社のディアミールが主流。チタン製で軽量、開放機能もゲレンデスキー並み。但し価格も3万円 ぐらいと高価。スキー板も短く幅広のケービングタイプが主流。スキー他、冬用装備一式を揃えると 15 万円程度の出費となり、学生にとっては相当の負担。 負担軽減策として “ 放出品 ” 制度(=先輩が後輩へまだ使える装備を残していく)あり。 ■アイゼン 部の団体装備として人数分(30 弱)を確保している。(昔はアイゼンの数が少なく個人持ちと合わせてな んとか数を確保していた。) ■レンタカーの活用 ボート活動では、装備類が相当のボリュームとなる。ワンダリングではレンタカーを借りて現地まで移動 することが多い。 50 年前の冬山での装備。ゴーグルとミトンを購入した以外は 中古品をもらったり、作り直したりした。オーバーシューズ は本多氏(6 代)の会社(本多テント)で製作。ピッケルは 名品「札幌かどた」。 昭和 33 年 11 月 桑山龍男氏(6 代)五竜岳遠見尾根にて ワンゲル今昔物語〜時代経過にともなう活動内容の変遷 41 3.食料(含、食事当番) 40 年前 ■メニュー 食器は丸食・平食を団体装備として使用。 夏の朝食はご飯・味噌汁・漬物、昼は飯盒飯・佃煮、夜はご飯にカレー、豚汁、ニューギニア(ピーマン・ ニンジン・玉葱・豚肉の味噌炒め)が定番。 ビニールシートを川において “ 流しそうめん ” を行う。 ■冬 朝はインスタントラーメン、昼は特注乾パン・紅茶、夜はアルファ米(乾燥米)・乾燥野菜。新宿の二幸 で調達した。 ■コンロ 無雪期は焚き火が原則。雨の場合はラジウス。積雪期はラジウス。 ■鍋・飯盒 ご飯もオカズも大鍋を使用。翌日の昼食用には飯盒飯を炊いた。 20 年前 ■夏メニュー 2 つペアの丸食につがれた1合メシ(夜は 1.5 合)とおかずが基本。朝はご飯、味噌汁、漬物。夜はカレー、 シチュー、豚汁あたりが定番メニュー。 昼は ” タッパー飯 ” として、ご飯にサンマの蒲焼缶詰+梅干。主食のご飯がシン飯、ベチャ飯であった 日には涙無しでは食べられなかった。 ■冬メニュー、乾燥野菜・ペミカン 冬場の重量軽減対策として、手作りの “ 乾燥野菜 ” が使われた。ニンジン、ジャガイモを薄くスライス して電子レンジで水分を飛ばし、あとは天日で乾燥させるもの。自宅生が親の支援を受けて製作していた。 冷凍の “ ミックスベジタブル ” を蒲団乾燥機で瞬間乾燥させる、という新技術も導入された。 冬の鍋には、カレー、シチュー、豚汁かまわず、白い「ラード」をチューブ 1 本、あるいは 2 本丸ごと 投入するのがカロリー強化のための必殺業。ついでに、ニンニクチューブを更に 1 本丸ごと加えるのは 食料係の趣味。高価ではあったが乾燥野菜(ジフィーズ)が出始めてメニューへ色を添えていた。 夏用には塩で煮付けた豚肉、冬場には豚肉を味噌やラードで固めたものを団子状にして山に持ち込む。 ■コンロ 火力があり、着火性のよさから、「ホエブス+白ガス」が使用されていたが、火災事故発生により、「ラ ジウス+灯油」に変更したての時期だった。 ワンダリングなど少人数のツアーの際には、EPI ガスが用いられるようになってきた。ガスに慣れてい なかったこともあり、カートリッジ交換時、漏れ出したガスにローソクの火が引火してテントを燃やし てしまったことがある。 ホエブス・大ナベ→ラジウス+コッフェル→ EPI ガスとの流ができて、TPO にあわせて使い分け始めた。 ■鍋・コッフェル 直径 50cm の真鍮製の大なべと木フタセットが基本で、アタックザックの上にかぶせるか、背中部に靴 紐で結びつけるのが基本運搬方式。食当中は常に手で持っていないとひっくり返る不安定さが難。大き くかさばるので満員電車の移動ではヒンシュクの的となる。 コッフェルは飯炊き用として補助的に使用。 丸食はきれいな奴とぼこぼこの奴があり、合宿終了の最終日の朝、さりげなくきれいな丸食を確保して ザックに入れていたような…。 42 ワンゲル今昔物語〜時代経過にともなう活動内容の変遷 ■レーション(行動食) レーションの中身として、主食はカステラ端切れを団子状にしてアルミ箔で包んだもの。毎年冬になる と背負子をかつぎ、2 年生二人掛かりで不二家のケーキ工場までケーキの切れ端を大きな紙袋に詰めた もの(2 袋)を貰いに行っていた。春まで食べられる保存性が今となっては怪しい。「食の安全」を極限 まで求める今の社会では、企業はもうこういうおおらかなことはしない(できない)のであろう。 個人山行の場合は「ロールケーキ」を活用していた。折角フワフワのものを握りつぶすときに悲しみを 感じていたのは私だけだろうか?その他、チョコレート、飴、魚肉ソーセージ、小魚・ピーナッツ等を 投入しビニール袋で 1 日分にとりまとめる。冬の寒いときにコンデンスミルク(チューブ入り)をチュ ウチュウやっていた。レーズンチョコは高価であったが美味しかった。 ■米袋・食袋 日本手ぬぐいを二ツ折りにして袋状にしたものを、米を入れる袋として使用。合宿が進むにつれて、だ んだん小さくなって、最後はハンカチ大のサイズになるのがうれしかった。 現代 ■コンロ EPI ガスが主流だが、長期合宿ではかさばるのを避けるのと、コスト面を考慮して MSR ストーブを使用。 但しテント内での使用は “ 厳禁 ” としている。 ■洗い茶 食事終了後丸食を洗う為に洗い茶を行う。洗い茶は全員で行う。 ■鍋・コッフェル 惣菜系はチタン製のコッフェル、米はアルミのもの使用。丸食についてはかたくなに伝統を守る。(ご飯 用、おかず用として 2 個で全てをまかなうべし、とのワンゲルルール) 水をくむために便利な折れ曲がった丸食のことを特に “ 割れ丸 ” と呼称している。 ■レーション(行動食) 勉強会で得た知識を基に各人で用意する。ただし錬成合宿では、医療トレーニング係考案のものが支給 される。乾燥米(アルファ米)を共同購入している。 昭和 30 年 8 月 吾妻山合宿での食事風景 ワンゲル今昔物語〜時代経過にともなう活動内容の変遷 43 4.トレーニングプログラム 40 年前 ■基本ルール 山行での安全性確保を主眼に週6日のハードトレーニングを実施。 ■基本メニュー ランニング(4、6、8、10km コース)、柔軟体操、筋力運動、球技。 ■特別メニュー トレーニング合宿(夏合宿前)、懸垂下降訓練、負荷訓練。 皇居一周記録会、大学対抗駅伝(皇居他)。 ■トレーニングウエア オールシーズンえんじ色のランニングに白の短パン、素足に運動靴が定番。 ■トレーニング後 旧体育館の風呂、シャワー。 海外遠征研究会機関紙「無名峰」のガリ版切り、クレバスでの打合せ、いねやで食事、クレバスの上で 麻雀等々。 20 年前 ■基本ルール 部員数が当時 30 名程度であったが、各自都合よいときにまとまってトレーニングを実施した。(新人は 必ず上級生と一緒にすることとされていた。)トレーニング時間は、週に5日、各90分程度/月~金。 基本的に、授業時間にあわせてトレーニングの時間枠を決めておき、そこに予め各部員がエントリーし、 その時間になったら各自が集合してトレーニングを実施。(一部に気の合う仲間同士での慣れあいが問題 に…)トレ係が全部員のトレーニング実施状況を確認。水曜日早朝には「全体トレーニング」として部 員全員が顔をあわせて、走ったりし、球技(ソフト、サッカー等)を行うこともあり。 ■基本トレーニングメニュー ・体操、ストレッチ(ストレッチ導入の黎明期) ・ランニング(4、5、6 km コース) ・セットメニュー(腕立て、腹筋、スクワット他の組合せで 2 ~ 3 回繰り返す) ・サーキットトレーニング(ジャンプや屈伸などを組み合わせた有酸素運動) ・筋力トレーニング(バーベル上げ) ■特別メニュー ・箱根山ダッシュ(相手を背中に背負って階段を駆け上る) ・皇居一周タイムレース(記録会、法中早対抗駅伝) ・雪上訓練(富士山5合目) ・岩登り(及び懸垂下降)訓練 ■トレーニングウエア 新人は、グンゼの白のランニングシャツに短パン姿でトレーニングを行うことがルールであった。部員 昇格してから初めて普通のTシャツを着ることができた。 薄汚れた汗臭いランニングシャツで学習院の女子学生をブイブイ言わせるのが早大ワンゲル新人の心意 気であった。女子部員は本ルールの適用を受けず、Tシャツ、ジャージ姿であった。 ■トレーニング後 戸山記念会堂(文学部キャンパス)のシャワールームにて汗を流す。 学食に向かうか、居酒屋に向かうかはトレーニング終了時間帯によるが、夕方の場合はほぼ 80%の確率 で飲みに出かけていたような記憶あり。 44 ワンゲル今昔物語〜時代経過にともなう活動内容の変遷 現代 ■基本ルール ウイークデーで自分の都合のよいところで週に 3 回+土曜朝 9 時から全体トレーニングを実施。 土曜の朝トレではサッカーを 3 チームに分けて行う。2 チームが試合中、残りの 1 チームは筋トレを行う。 学生会館下の「トレーニングセンター」にあるフィットネスマシーンも活用。靖国神社までの長距離ラ ンもたまにあり。20 分間走(次項参照)のコースを利用した駅伝もあり。 60 代の前後で部員総数が 10 名弱から 30 名超へと大幅に増加した。そのため、トレーニングのやり方 も相当の変動があった。 ■ 20 分間走 文学部キャンパス前広場からスタートし、目白通りを周る全長約 2km のコースを周回する。走り始め て 20 分後にどの位置にいたかにより体力を確認する。20 分全力で走った後はジョギングで文キャンま で戻り、サーキットトレーニングを実施。 ■ “ 鬼ごっこ ” トレーニング 戸山公園で範囲を決めて 20 分間 ×2 回の “ 本気 ” 鬼ごっこを行う。鬼につかまった人はその場で筋トレ を行った上で新たな鬼となる。木陰に隠れているのはルール違反であり、参加者はひたすら走りまわる ことを求められる。 ■スーパーサーキット 戸山公園の地形、器具を最大限活動した軍事教練的トレーニング。ポイント毎に丸太飛び越し、懸垂等 のメニューがあり、その間をジョギングでつなぐ。陸上部出身のトレ係が考案し 7 ~ 8 分 ×3 セット行う。 5. アルバイト 40 年前 各自調達 デパートの重量物運搬 地下鉄夜間工事 家庭教師 20 年前 バイト係を任命し、バイトを部として請け負い安定的に人員を供給することで派遣先との win-win 関係 を構築。合宿中は、部員の友人や OB、法政大のワンゲル部にて対応等の苦労もあり。 ・警備会社(ワッケンハット株式会社) ・内装工事会社(デザインハウス「コマ」) 夜勤対応もあり、日給 8 ~ 10 千円。学業との両立も可能で、海外遠征の資金作り他、非常にありがた いバイトであった。バイト先の会社の社長に気に入られ、卒業後入社した方もいる。稼ぐ人は月 10 ~ 16 万円もらっていた。 早大生定番の家庭教師については、夏、冬の長期合宿での不在が理由でなかなか長続きしない傾向があった。 女性部員ではレストランのウエイトレスを勤めたり、弁当屋でおかずを多く盛ってくれる先輩もいました。 現代 家庭教師、夜の製パン工場での袋つめ、総菜屋の店番、本屋店員等あり。 山崎パンでのアルバイトを継続中のある部員より、 「夜 8 時から朝 6 時まで 10 時間労働で日給 1 万円。 週 3 回程度。講義中に眠たくなって辛いときあり。」との証言あり。 家庭教師については、本来、生徒が最も集中的に勉強したい夏、冬の休みに合宿で長期不在となるため、 なかなかバイトの口がなかったのだが、今はゆとり教育のせいか、塾での個別指導の先生役や、一人の 生徒に複数(4 ~ 5 人)の家庭教師がついたりするケース(!?)もあり、ワンゲル部員でも対応できるケー スが増えている。こちらは 3 時間で 1 万円と実入りもよく、パン工場のバイトとの賃金格差が際立つ。 (筆者がヒアリングした限り、今の現役部員は、日本の社会自体が裕福になったためか、最近の早大に 入る学生の家庭環境のなせるわざか、比較的ゆとりのある学生生活を送っているように感じられた。) ワンゲル今昔物語〜時代経過にともなう活動内容の変遷 45 6. その他 40 年前 ■ラジオ(気象通報) ■トランシーバー(実技のみ) ■高度計(重く測定困難な代物) ■地図 読図には5万分の1(2万5千分の1は未だなかった)、行動範囲の広い夏合宿は5万分の1も併用。エ リアマップなどは未だ無かった。 ■赤旗・赤布 赤旗は殆ど使用しなかった。 ■雪洞 春は雪洞を活用し、様々な形態の雪洞を試作、実用化した。 ■学外交流 関東学生連盟に所属し、理事校を務めた。加盟校の中では最も先鋭的なワンゲル部として自他共に認め ていた。全日本、関東学生連盟合同ワンダリングにも参加した。 ■海外計画 第一回台湾遠征後の海外遠征を目指し、部内に海外遠征研究会(海研)が発足し、連日熱い議論を戦わせた。 アフガニスタン遠征計画が挫折し、その3年後にボルネオ合宿として当時の海研メンバーの想いが結実 した。 20 年前 ■ラジオ&テレビ 通常の FM/AM ラジオに加え、高度天気図用気象情報をゲットするために短波ラジオを持ち歩く。日本 船舶振興会が提供する朝 5 時から始まる暗号的で超早口なアナウンサーの語る内容を聞き取ることが気 象係の誇りであった。 一方、性能のよいポータブルテレビも試験的に導入し始めた。NHK の天気予報番組が受信できると、そ こらへんをわかりやすい図を使って解説してくれてしまうので、画像のパワーを感じた。ただ、テレビ は山の中ではなかなか電波がとれないことが多かったので、やはり AM ラジオでの天気予報、気象通報 での天気図作成が原則。 ■トランシーバー 冬合宿、体育局実技(尾瀬)のときに使っていた記憶があるが、とにかくでかくて(本体の長さ 25cm、 重量 2 ~ 3kg)、電池を消耗しまくる、使い勝手の悪い品物との印象。ただし、冬合宿中、山小屋留守 番と三田原山や妙高山に出かけたツアーメンバーと定時交信するときには、なにか「かっこいいな」と 感じたものだった。 ■高度計 相当高価(数万円)だったが手のひらサイズのコンパクトで高性能なものが山の店で売られて、通常の 合宿にも持ち込むようになった。気圧の変化を数値的に確認できることに感動していた。その後、腕時 計組込みタイプのデジタル式のものも出始めたが、そちらは高嶺の花であった。 ■地図 2 万 5 千分の1図の周囲を丁寧に折畳んで使っていた。読図力向上のため、エリアマップはその便利さ 故に “ 禁断の果実 ” とみなされ、合宿では上級生のみが持って歩いていた。 (調達先は「つるや」、 「芳林堂」。 沢登ではガイドブックのルート図を併用。) ■赤旗 冬合宿前は、部室の前で赤旗作り。合宿時、満員電車にスキーにピッケル、赤旗を持ち込んだときには 大顰蹙もの。アタックザックにささった赤旗の束は上級生が示す冬山での勇姿であった。 46 ワンゲル今昔物語〜時代経過にともなう活動内容の変遷 ■学外交流 関東学生連盟主催の救急医療講習、登山セミナー等に参加、他大学との交流を行う。法政大学のワンゲ ル部と仲良し。たまに中央大学も交えて交流会を開催。 ■海外計画 イギリス測量協会の探検用地図を購入、海外合宿の行程を検討。分からぬところは先遣隊(ほとんど個 人旅行ベース)を出して現地調査を実施した。 ■書類作り(コピー) トレーシングペーパーに鉛筆で書いた原稿をジアゾコピー(いわゆる “ 青焼き ”)していたが、ゼロック スの普及にともない 1 枚あたりのコピー単価も安くなってきたため、普通のコピー(白焼き)に切替え ていった。 現代 ■携帯電話と無線の活用 山中では携帯が通じないところも多いので、緊急連絡用に無線(ハム)を常時携帯。部員は全員が「4 級アマチュア無線」の免許を取得すること、としている。 ■スコップ、ビーコン、ゾンデ 冬山遭難対策としてバックカントリースキーの三種の神器となっている。冬合宿では雪崩遭難時を想定 してしっかり捜索練習を積む。 ■赤布や赤旗等 GPS の導入で、それほど多くは持っていかなくなった。 ■学外交流 文科省登山研究会で各種講習を受講。そこで知り合った慶応大ワンゲル部と現役同士の交流あり。 ■メンター制度の採用 新人には必ず “ 新人付き ” として 2 年生が割り付けられ、装備の買出しから始まり人生相談まで公私と もに面倒をみる体制を導入(新人の途中退部を減らすための措置)。 新歓コンパで担当新人の出し物(芸)が受けなかった場合は、新人付きの 2 年生が責任をとって芸を行 うこととなる。 ■情報収集 計画立案段階の情報収集も大きく変化し、インターネットや携帯・PC メールを活用している。新人部 員勧誘のためにホームページも保有。 ■ IT 活用、ワンゲルネットの運用 パソコンを使いこなして、計画書や活動報告書を自由自在に作成している。 インターネットのメーリングリストを通じた OB/OG 同士の連絡、意見交換が意外と有効で、そこに掲 載されたニュースをきっかけに上下の代の人たちが個別連絡をとったり、普段 OB 会活動に参加してい なかった人が新たに活動に参入してきたりするポジティブな影響あり。 ■宴会対応 部員総会は「いねや」の 2 階座敷を伝統的に利用し続けている。メイン会を終えた二次会、三次会では、 非常に高い確率で明治通りの「わっしょい」になだれ込む。聞くところによると、最近、当部員達は「わっ しょい」のお店のスタッフからかなりつれない接客を受けているとのこと。オーダーするのがビールピッ チャーと枝豆等簡単(安価)なおつまみのみ。それで深夜を過ぎると一部寝始め、明け方 4 時の閉店ま で居残る方式なので、お勘定は一人あたり 1,000 ~ 1,500 円程度。お店側からみると「金にならない客」 という訳らしい。デフレ社会とはいえ、確かに安い! 最近店側も経営戦略を変えて、閉店時間を午前 3 時に繰り上げた。中途半端な時間に店から追い出され ると「始発までの時間つぶしに苦労する」ようだ。 ワンゲル今昔物語〜時代経過にともなう活動内容の変遷 47 7.最近のワンゲル部室 部室入口と室内 ■部室入口 現在、文キャンの競技スポーツセンター(旧体育局事務所)の 1 Fにあり。お隣は応援部練習場。手前は、当日夜にワンダリ ングに出発するボート用の装備を仮置き。 ■ロッカー 部室内には鍵がかかる個人用ロッカーがあ り。新人は二人で 1 つ使用。 ■部室ドアの表札と新人勧誘用ポスター ■パソコン用ワークスペース ここでワンゲルホームページ更新、メール等を処理。 ■部室で打合せ中 左から 60 代長谷川、佐藤、小松 48 ワンゲル今昔物語〜時代経過にともなう活動内容の変遷 ■部室のカギ 赤いキーホルダーは 20 年来 変 わ ら ず。 但 し、 カ ギ の 管 理は文キャンの守衛室対応 となっている。 ■部室で作業する現役部員と委員・係の一覧表 装備室 ■正面 部室入って右側奥にある 4 畳半スペース。ボート関係装備が多い。右手には工具類、コッフェル、 コンロ、EPI ガス等を収納。左手はアイゼン、テント、ザイル等を納めている。「直前に片付けた ばかりです」というが、比較的きれいに整理整頓されていた。 ■右手前 コッフェル&丸食と EPI ガスのカートリッジ ■左側 テントの棚とピッケル ■右手奥 工具類、ストック、ワンゲル帽子 ワンゲル今昔物語〜時代経過にともなう活動内容の変遷 49 早稲田大学ワンダーフォーゲル部 60 年の歴史 現役部 (昭和) 24.10 早稲田大学ワンダーフォーゲル部創立 25. 2 スキー合宿(細野) 26. 2 スキー合宿(菅平) 11 7 7~8 夏合宿(白馬〜唐松) 夏合宿(立山〜剱〜黒部) スキー合宿(赤倉) 28. 3 スキー合宿(野沢) 8 10 29. 2 4 8 スキー合宿(関燕) 渡辺栄太郎先生 初代部長に就任 山本 稔氏(1 期)初代監督に就任 32. 2 スキー合宿(沼尻) 11 33. 2 8 34. 3 7~8 35. 2~3 7~8 36. 3 5 7~8 10 「稲門ワンダーフォーゲル会」発足 夏合宿(本土縦断ー富山〜北ア〜中央ア〜南ア〜 (会長:安田平八氏 1 期) 富士山〜東京) 安田平八氏(1 期)2 代目監督に就任 神沢惣一郎先生 部長に就任 スキー合宿(沼尻) 33. 5 夏合宿(南ア全山縦走) 神沢惣一郎先生「稲門ワンダーフォーゲル会」 会長就任 OB 現役合同運動会(甘泉園) 雪上合宿(奥只見) 夏合宿(東北地方) ツアー合宿(笹ヶ峰牧場) 夏合宿(北海道日高・十勝) 春合宿(尾瀬・奥鬼怒) 体育名誉賞受賞(日高・十勝合宿) 夏合宿(東北・北ア) 里見昭二郎氏(3 期)3 代目監督に就任 11~12 台湾遠征(第 1 回海外遠征ー早稲田大学 80 周年 夏合宿(本州中央部) 記念) 38. 3 春合宿(八幡平) 39. 3 春合宿(妙高山小屋周辺) 7~8 32. 4 夏合宿(横尾) 春合宿(吾妻・安達太良) 8 川崎隆章先生 体育実技講師に就任 夏合宿(吾妻) 37.2~3 7~8 29. 4 夏合宿(上高地) スキー合宿(沼尻) 10 「稲穂会」発足 早稲田大学体育局に加入 31. 2 8 26. 3 夏合宿(穂高・蝶ヶ岳) スキー合宿(沼尻) 8 (昭和) 夏合宿(白馬) 30. 2~3 8 50 全日本ワンダーフォーゲル連盟に加入 27. 1 7 稲門ワンダーフォーゲル会 夏合宿(東北地方) 夏合宿(西日本一帯) 早稲田大学ワンダーフォーゲル部 60 年の歴史 38.11 39. 4 山小屋(妙高・五八木)完成 山本 稔氏(1 期)体育実技講師に就任 現役部 40. 3 8 春合宿(妙高山小屋周辺) 夏合宿(本州中央部) (この頃 早稲田紛争) 41. 3 8 42. 3 8 春合宿(妙高山小屋周辺・雪洞ツアー) 夏合宿(日本海側一帯) 春合宿(妙高一帯) 夏合宿(北海道日高・北見地方) 43. 3 8 春合宿(妙高・戸隠) 夏合宿(奥只見周辺) 44. 3 北ボルネオ遠征合宿 4 5 8~9 45. 3 8 46. 3 8 春合宿(妙高周辺) 夏合宿(南会津・奥只見) 春合宿(妙高山域) 夏合宿(北ア・加賀白山) 春合宿(妙高山域) 夏合宿(東北、白神・鳥海・船形) 青木 正氏(8 期)5 代目監督に就任 48. 3 8 春合宿(妙高山域) 夏合宿(四国横断) 49.2~3 8 春合宿(妙高山域) 台湾遠征合宿(雪山・玉山) 50.2~3 8 春合宿(妙高山域) 夏合宿(東北地方) 51.2~3 春合宿(妙高山域) 52. 3 4 7~8 40.11 12 41. 3 7 9 10 12 42. 4 12 稲門ワンダーフォーゲル会会報第 1 号発行 第 1 回海外遠征研究委員会発足 音楽会開催(海外遠征資金募集) スキーワンダーリング実施(15 名参加) 定期総会開催 OB会会報名を「会報」に決定 OB親睦会開催(那珂湊海水浴場 37 名参加) 台湾山岳会「訪日登山団」歓迎会開催 OB現役運動会開催(記念会堂 47 名参加) 音楽会開催(海外遠征資金募集) 遭難対策委員会発足 遭難対策基金募集 (クロッカー山脈・キナバル山) 小谷浩一氏(11 期)4 代目監督就任 体育名誉賞受賞(北ボルネオ合宿) 里見昭二郎氏 監督表彰 夏合宿(東北地方) 47. 3 8 10 8 稲門ワンダーフォーゲル会 夏合宿(海谷山塊、黒部、会津、只見、利尻礼文) 45. 4 9 46. 5 47.10 里見昭二郎氏 体育実技講師に就任 早稲田大学ワンダーフォーゲル部創立 20 周年 記念パーティー開催 (東京ヒルトンホテル 126 名参加) OB会会費を終身会費から年会費に変更 OB現役対抗サッカー大会開催 (現役 5ー3 OB) 48. 9 OB親睦会(山中湖)開催 49. 1 武田浩意氏(19 期)妙高山域で遭難、 救出される 50.10 早稲田大学ワンダーフォーゲル部創立 25 周年 記念パーティー開催(銀座東急ホテル 81 名参加) 51. 4 清水修一郎氏(9 期)体育実技講師に就任 9 OB会家族運動会(体育局グラウンド) 春合宿(妙高山域) 青木 稔氏(18 期)6 代目監督に就任 夏合宿(津軽、紀伊、屋久島、本州中央部) *自転車の導入 早稲田大学ワンダーフォーゲル部 60 年の歴史 51 現役部 53.2~4 5 8 インド遠征合宿(インド中央部) 体育名誉賞受賞(インド遠征合宿) 夏合宿(奥美濃・白山) 12 日 夏合宿中、馬渕勝利君事故死 27 日 故馬渕勝利君 追悼式(大隈小講堂) 54. 3 春合宿(妙高山域) 8 夏合宿(東北一帯) 55. 3 8 稲門ワンダーフォーゲル会 53. 2 4 インド合宿壮行会開催(高田牧舎) 山口純一氏(8 期)、体育実技講師に就任 54. 7 3 日 顧問 川崎隆章先生 逝去(76 才) 12 春合宿(尾瀬沼周辺) 夏合宿(紀伊半島、大峰・台高) 56. 1 56. 3 春合宿(尾瀬沼周辺) 7~8 12 中国遠征合宿 妙高山小屋火災、全焼 57. 8 10 11 夏合宿(紀伊半島) 59. 3 8 春合宿(八幡平) 夏合宿(東北地方) 60. 3 8 春合宿(北海道、摩周斜里等) 夏合宿(西表、九州、北海道、韓国等) *川下り、ゴムボートの導入 8 10 春合宿(尾瀬) 夏合宿(東北、白神・焼石・朝日) 土屋 猛氏(22 期)8 代目監督に就任 62.7~8 パキスタン遠征合宿 (インダス川上流域ヒンズーラジ山脈) 63. 3 5 7~8 春合宿(岩手山・八幡平) 体育名誉賞受賞(パキスタン遠征合宿) 夏合宿(北海道、大雪・日高・十勝) (平成) 1. 3 8 52 夏合宿(四国地方) 宮川 威氏(13 期)7 代目監督に就任 大谷孝一先生 部長に就任 58. 8 61. 3 早稲田大学ワンダーフォーゲル部創立 30 周年 記念パーティ開催(大隈会館) 春合宿(八甲田山) 夏合宿(九州、四国、西表) 早稲田大学ワンダーフォーゲル部 60 年の歴史 5 57.11 58. 1 4 神沢先生 還暦祝賀記念パーティー開催 (京王プラザ) 手島 宏氏(2 期)をOB会長に選出 山小屋再建委員会発足 「神沢惣一郎先生に感謝する会」開催(椿山荘) 高橋素平氏(6 期)体育実技講師に就任 59.10 31 日 新山小屋竣工式(妙高杉野沢)挙行 60.11 OB会費「自動引き落とし制度」承認 61. 1 顧問 福井正吉氏 逝去(80 才) 5 OB会費 5000 円に値上げ 62. 2 5 7 パキスタン合宿支援募金活動開始 OB会長に手島 宏氏再選 パキスタン遠征合宿壮行会 63. 1 寺光克彦氏(18 期)体育実技講師に就任 5 (平成) 1. 5 9 10 11 OB副会長に山口純一氏(8 期)を選出 OB会長に山口純一氏(8 期)、 副会長に蓬田俊雄氏(13 期)を選出 OB会会則を改訂 40 周年記念実行委員会発足 那須高原キャンプ開催(参加者 24 名) ワンダーフォーゲル部シンボルマークを理事会で 承認(40 周年実行委員会発案) 現役部 2. 3 8 春合宿(尾瀬地域) 夏合宿(北海道、知床・道北・日高) 3. 3 8 春合宿(八幡平) 夏合宿(東北地方一帯) 4. 3 5 8 春合宿(北海道、十勝周辺) 体育名誉賞受賞(北海道、十勝合宿) 夏合宿(北海道一帯) 5. 3 春合宿(吾妻山域) 8 夏合宿(紀伊半島) 6.7~8 10 モンゴル遠征合宿(モンゴル各地) 田島照久先生 部長に就任 三𢌞部秀男氏(27 期)9 代目監督就任 7. 3 5 春合宿(北海道、大雪山) 体育名誉賞受賞(モンゴル遠征合宿) 8 夏合宿(東北、北海道、大雪・狩場山域) 8. 3 5 8 春合宿(八甲田山) 残雪期スキーツアー合宿(黒部源流) 夏合宿(九州、四国、中国地方) 9. 3 8 春合宿(北ア、朝日岳) 夏合宿(北海道、増毛・手塩宗谷) 稲門ワンダーフォーゲル会 2.10 3. 1 9 6. 4 モンゴル合宿支援決定、WWV 基金の 300 万円 積み増し達成 10 7. 3 5 6 10 11.2~3 5 夏合宿(北ア、白馬〜上高地) 佐藤佳一氏(32 期)10 代目監督に就任 アフリカ遠征合宿(ケニア、タンザニア) 体育名誉賞受賞(アフリカ合宿) 佐藤佳一氏 監督賞表彰 武尊紅葉狩り開催 (コスモヴィレッジ 29 名参加) 第 2 回山小屋スキー祭り開催(19 名参加) OB会長に内田直彦氏(10 期)、 副会長に菊池博信氏(13 期)を選出 神沢先生殊勲祝賀会 (京王プラザホテル 250 名参加) 10 武尊紅葉祭り開催 (コスモヴィレッジ 38 名参加) 8. 2 武尊スキー祭り開催 (コスモヴィレッジ 27 名参加) 10 9.10 12 8 吾妻高原星狩祭り開催(吾妻高原スターハント ユースホテル 40 名参加) スキー祭り開催(妙高山小屋 31 名参加) 市川泰男氏(23 期)体育実技講師に就任 11 春合宿(尾瀬) 神沢先生古稀祝賀会開催 (京王プラザホテル 420 名参加) 5. 3 5 11 10. 3 早稲田大学ワンダーフォーゲル部 40 周年記念 パーティー開催(高輪プリンス 180 名参加) 10. 3 5 9 10 11.11 秋の富士・自然満喫の旅開催 (富士スバルロッジ 24 名参加) WWV 基金貸付規則及び貸借契約書の書式完成 嬬恋高原・四阿山トレッキング開催 (東海大学研修センター 30 名参加) 31 日 顧問 渡辺栄太郎先生 逝去 山小屋の改修完了 (大学施設部全部負担 357 万円) 14 日 顧問 神沢惣一郎先生 逝去(77 才) 第 3 回山小屋スキー祭り開催(25 名参加) 50 周年記念パーティー計画の承認 常任理事会でアフリカ遠征合宿支援を決定 秋の箱根温泉・金時山ハイキング開催 (箱根「花の里」24 名参加) 20 日 WWV創立 50 周年記念パーティー (リーガロイヤルホテル早稲田 215 名) 早稲田大学ワンダーフォーゲル部 60 年の歴史 53 ▲ ▲ ▲ 最近 10 年の歩み 平成 12 年ー 21 年(2000-2009) 現役部 2000 (平成) 12. 3 51 代 <春>尾瀬(山スキー縦走) 8 10 12 52 代 <秋>飯豊連峰(縦走) (平成) 12. 3 10 日 第4回スキー祭(妙高山小屋 20 余名) 第 1 回WWV杯スラローム大会 4 ホームページ編集委員会 発足 イベント企画委員会 発足 ワンゲル活動支援委員会 発足 6 「山小屋募金」積み増しを募集 12.10 <冬>妙高山小屋、三田原山(山スキーツアー) 28 日 第3回紅葉祭(妙高山小屋 20 名) 山小屋に給湯器、冷蔵庫、暖房便座を導入 10 月 31 日を「山小屋の日」に制定 2001 13. 2 13. 3 8 10 12 2002 14. 3 7 8 10 12 2003 15. 3 8 10 12 2004 16. 3 8 10 12 54 <夏>カムイエク(沢登り)、 北海道(MTB)、 大雪山(縦走) 稲門ワンダーフォーゲル会 <春>八幡平(山スキー縦走) <夏>北ア表銀座・裏銀座(縦走)、 佐渡(MTB / 里歩き) 53 代 <秋>朝日連峰(縦走) <冬>妙高山小屋、黒姫山・飯綱山(山スキー ツアー) <春>船形連峰(山スキー縦走) 14 日 真名井沢滑落事故発生 <夏>八幡平(縦走) 54 代 <秋>飯豊連峰(縦走) <冬>妙高山小屋、三田原山(山スキーツアー) <春>八甲田山(山スキー縦走) <夏>石鎚山・四万十川(縦走・ボート)、 屋久島・口永良部島(縦走・里歩き)、 中国・四国(MTB) 55 代 <秋>奥秩父山塊(縦走) <冬>妙高山小屋、三田原山(山スキーツアー) <春>裏岩手連峰(スキー縦走) <夏>大雪山(縦走)、十勝川(ボート)、 北海道(利尻・礼文を含む)(MTB) 56 代 <秋>八ヶ岳(縦走) <冬>妙高山小屋、赤倉前山(山スキーツアー) 早稲田大学ワンダーフォーゲル部 60 年の歴史 24 日 第5回スキー祭(妙高山小屋 23 名) 第 2 回WWV杯スラローム大会 3 「山小屋募金」募集終了 (2,901,164 円を積み増し) 竹田幸雄氏 山小屋管理人を退く 5 「山小屋愛称募集」企画倒れ 13.10 12 14. 3 4 7 14.10 12 13 日 第1回山荘祭(紅葉祭より名称変更) 小屋入口に標識設置(妙高山小屋 21 名) 13 日 神澤惣一郎先生を偲ぶ会 9 日 第6回スキー祭(妙高山小屋 12 名) 内田直彦氏(10 期)第5代OB会長を退任 菊池博信氏(13 期)第6代OB会長に就任 稲門ワンダーフォーゲル会HP開設 真名井沢滑落事故対策本部を設置 病院待機連絡・現地調査等を行う 13 日 第2回山荘祭 (妙高山小屋) 事故を受け「遭難対策資金」積み増しを募集 15. 2 22 日 第7回スキー祭 (コスモヴィレッジ 9 名) 3 「遭難対策資金」募集終了 3,484,234 円を積み増し (早稲田大学、 「体育局」を改組し、 「競技スポーツ センター」を発足) 4 6 日 金政雄介君復学祝いパーティー (立川グランドホテル 58 名) 15.10 13 日 第3回山荘祭 (笹ヶ峰牧場・妙高山小屋各1泊) 16. 4 7 8 25 日 里見昭二郎氏(3期)逝去 山小屋改修工事着工 山小屋改修工事竣工 (風呂改装、給水ポンプ導入) 「現役支援資金」募集開始 9 25 日 山小屋20周年記念祭(第4回山荘祭) 記念Tシャツ販売 (妙高山小屋 34 名) 12 「現役支援資金」募集終了 (630,000 円を積み増し) 現役部 2005 17. 3 8 <春>頸城山塊(山スキー縦走) <夏>早池峰山(登山)、 北上川・最上川(ボート)、北東北地方(MTB) 10 12 57 代 <秋>奥秩父山塊(縦走) <冬>妙高山小屋、オバケ平(山スキーツアー) 2006 18. 3 <春>八甲田山(山スキー縦走) 8 10 <夏>北ア西銀座(縦走)、 長良川・球磨川(ボート)、 瀬戸内海・九州地方(MTB)、韓国岳(登山) 58 代 <秋>奥秩父山塊(縦走) 12 <冬>妙高山小屋、オバケ平(山スキーツアー) 2007 19. 3 <春>頸城山塊(山スキー縦走) 8 <夏>日高山脈(縦走・薮)、大雪山(縦走)、 釧路川(ボート)、北海道(利尻・礼文を含む) (MTB) 10 59 代 <秋>飯豊連峰(縦走)、胎内尾根(薮・縦走) 12 <冬>妙高山小屋、オバケ平(山スキーツアー) 2008 20. 3 <春>八幡平・裏岩手(山スキー縦走)、 岩手山・裏岩手(山スキー縦走) <夏>西表島(薮・リーフ歩き)、 剱岳・四万十川(縦走・ボート)、 屋久島(沢登り・縦走)、山陰地方(MTB) 8 10 12 60 代 <秋>尾瀬(縦走・薮)、上信越国境(縦走・薮)、 日光(縦走・薮) <冬>妙高山小屋、オバケ平(山スキーツアー) 2009 21. 3 <春>尾瀬・平ヶ岳至仏(山スキー縦走)、 尾瀬・燧ヶ岳会津駒(山スキー縦走) 8 <夏>秋田森吉・米代川(沢・ボート)、 東北地方(MTB)、南アルプス(縦走)、 アメリカ・ジョン・ミューア・トレイル(縦走) 61 代 17. 2 10 18. 2 5 9 10 11 19. 2 5 10 12 20. 2 稲門ワンダーフォーゲル会 25 日 第 8 回スキー祭り(妙高山小屋 24 名) 22 日 第 5 回山荘祭(妙高山小屋) 25 日 第 9 回スキー祭り(妙高山小屋) WWV ホームカミングデー(大隈会館 50 名) 菊池博信氏(13 期)第 6 代OB会長を退任 福島正義氏(14 期)第 7 代OB会長に就任 30 日 第 6 回山荘祭(妙高山小屋) 佐藤佳一氏(32 期)第 10 代監督を退任 大家敏宏氏(35 期)第 11 代監督に就任 14 日「妙高山小屋保有大学懇親会」に参加 23 日 第 10 回スキー祭り(妙高山小屋 16 名) OB会費 8000 円に値上げ (昭和 61 年以来 2 度目) 「ワンゲル基金」制度改定(返済免除規定追加) 13 日 第 4 回紅葉祭 (嬬恋高原研修センター 29 名) 60 周年記念事業実行委員会発足 23 日 第 11 回スキー祭り(妙高山小屋 7 名) 6 山小屋に新ストーブ「ヨツール F400」導入 9 27 日 第 7 回山荘祭(妙高山小屋 24 名) 12 21. 2 4 5 7 21.11 6 日 60 周年記念皇居駅伝(皇居 50 余名) 21 日 第 12 回スキー祭り(妙高山小屋 29 名) 第 3 回 WWV 杯スラローム大会 11 日 60 周年記念テニス大会(吉祥寺 17 名) 30 日 60 周年記念新緑ハイク(秩父 8 名) 11 日 60 周年記念尾瀬キャンプ (コスモヴィレッジ 30 名) 14 日 WWV 創立 60 周年記念パーティー (リーガロイヤルホテル東京) 記念 CD 配布 早稲田大学ワンダーフォーゲル部 60 年の歴史 55 編集後記 記念誌の第 1 回の編集委員会は、2008 年 12 月 6 日に高田馬場のルノアールで、私を含め、 37 期の河内と関上、38 期の堀内、50 期の長友、52 期の栃谷、53 期の倉本、57 期の春 田の 8 名で行われ、それぞれの担当が決まりました。 「草創期からの通史」 (栗原)、 「最近 10 年の概観」 (倉本)、 「ボート活動の歩み」 (春田)、 「装 備や食料などテーマごとの部の変遷」(堀内)、「最近 10 年の年表」(栃谷)など主な内容は この時に決まり、それぞれの担当に割り振られました。以後は、メールのやりとりなどで それぞれの担当に責任を持って原稿を執筆しました。 この間、OB 会との折衝や部長、会長などの原稿は河内が、「51 代以降の各代の思い出」 の企画を長友が担当し、全体の編集は関上が司令塔となってまとめてくれました。また、福 島会長と 17 期の山本 OB からは、貴重な資料の提供やご助言を折にふれていただきました。 多くの関係者の皆様方のご支援に感謝いたします。(栗原@ 35 代) 8 月末〆切(もちろん前倒しですが)の原稿がようやく 9 月、10 月に送られてきて、最 近の部の様子をうかがい知ることができました。原稿も個性的な力作揃いで、面白く読ま せていただいたきました。さぞかし取材や執筆は大変でしたでしょう。お疲れさまでした。 先の見えない時代にあっても、WWV 部員は 60 年前と変わらず、部活にどっぷり浸かっ た日々を送っているようです。都会のキャンパスに通いつつ、自然の中に自分の活動場所 を求めて。そこにはいつも仲間や諸先輩方の姿がありました。 本誌編集に携わって過去を振り返り、自分の人生におけるワンゲルの意味を考えました。 現役時代には知る由もなかった、ワンゲルの新しい価値が自身の中に生まれ、若さや情熱、 未知へ挑戦する姿に未来への希望が見えました。50 周年のあとの 10 年。この道しるべの ような記念誌を作りながら、過去から未来へと続く流れを感じています。(関上@ 37 代) 写真提供:6 代 桑山龍男氏(貴重なお写真を提供していただきましてありがとうございました) 51 代〜 61 代の方々 早稲田大学ワンダーフォーゲル部 創立 60 周年記念誌 編著 稲門ワンダーフォーゲル会 60 周年記念誌編集委員会 栗原勝義 河内圭司 関上晴美 堀内太策 長友慎治 栃谷佳宏 倉本賢士 春田一真 発行 2009 年 11 月 14 日 ©Copyright 2009, 早稲田大学ワンダーフォーゲル部、稲門ワンダーフォーゲル会 本書の無断転載・複写・複製を禁じます。
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