聖霊の働き - 麻生明星幼稚園

2016 年2月7日
麻生教会主日礼拝説教
「聖霊の働き」
ルカによる福音書21章1節~13節
久保哲哉牧師
1.麻生明星幼稚園と節分の豆まき
先週の水曜日、2月3日は節分でしたので、麻生明星幼稚園では節分の豆まきを行いま
した。昔から幼稚園では節分の日には豆まきをおこなっています。豆まきはキリスト教の
行事ではありませんが、日本の伝統文化に触れる大切な行事です。
幼稚園には OMF という東アジアに向けたキリスト教宣教団体の宣教師のお子さんがい
るのですが、家でしっかり教えられているのでしょう。節分の日の当日に豆まきはやりた
くないといっていました。親御さんは豆まきについて色々と教えたのですが、子どもが鬼
や悪霊が怖いといっているから、配慮をお願いします。とおっしゃられていました。おそ
らくいうこともあるのでしょうけれども、この豆まきはもともと宗教行事で異教の行事で
すから、宣教師である親御さんが敏感にこれを察知されているのでしょう。その親の不安
を子どもが変わって表現しているのだろうと思いました。
なぜ、宣教師の先生方が豆まきを避けるのか。現在は失われてしまいましたが、豆まき
のもともとの発想に触れましょう。古来から日本では季節の変わり目には邪気(鬼)が生
じると考えられておりました。その「邪気」を追い払うための悪霊ばらい行事。それが豆
まきでした。言葉遊びですが、豆には「魔を滅する」力があると信じられていたために、
季節の変わり目に起こる悪い気に対して豆を投げ、聖なる豆を家の中にまくことで、家に
聖なるバリアーをはって、福は内。家内安全を願う行事。これが豆まきのもともとの意味
であったと言われます。古来から「季節の変わり目には魔が忍び寄る」といわれてきたわ
けですが、昔の人の言い伝えは経験則に基づいているので、あなどれないものがあります。
幼稚園では節分の次の日から職員やその家族がバタバタと体調を崩しまして、主任と年
少・年長の担任と補助1名が欠勤となった日がありました。いつも保育を司り、基準とな
っているトップスリーが不在であったため、苦労しました。朝の礼拝はいつも8人で行っ
ている中、僕と事務と2年目の先生と1年目の先生。4名しかいない。残っている先生方
の頑張りで、また補助の先生がベテラン揃いですから、なんとか乗り切りました。ただし
僕が突然礼拝中に背中を痛めたり、その他にも色々なことがありました。
昔の人がこれを「悪い気」や「鬼」のせいにして魔を滅する豆を投げたくなる気持ちも
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わかります。しかしながら麻生明星幼稚園では豆で鬼を撃退し、家に福を呼ぶというより
も、わたしたちの心の弱さにこそ鬼や邪が潜んでいるという発想で教えます。困難や不幸
は確かにあるのです。自らの体勢が悪いときに、神に寄り頼まずに、別のものに頼ろうと
することを、聖書ではそれを「罪」と呼ぶ。主イエスはその十字架の出来事によって「既
に世に勝っている(ヨハネ 17:33)と宣言されたのですから、豆を手にもつのではなしに勇
気を出して御言葉の剣を取って世を戦いぬく。そんな行事となっているわけです。
そうすると最近、どうしても子どもたちの自尊感情の低さが教育界で問題視されている
ことに触れてしまうのですが、かつての日本では魔を滅する豆を外にまいておけば一安心。
他の年中行事でも、ひな人形や鎧兜に願いを込めれば子どもはきっと元気に育つに違いな
い。とか。かつてはそうした信仰が人々の心に安心をもたらして自尊感情を高めていたの
だろうと思うのです。最近はそれが失われてしまったために、日本の子どもの自尊感情・
自己肯定感がさがった要因の一つがあるというのが僕の発想となっています。
昔の牧師たちが熱心に論じてきたことですが、学術的な裏打ちがなかったために世がこれ
を認めなかった所ですが、最近、札幌市教育委員会学校教育部教育推進課指導担当係長と
話す機会がありまして、このような話しをしたら、中立な立場ながら宗教教育の重要性に
ついて理解ある言葉をいただきました。30 年前ではあり得なかったことでしょう。うれ
しいことです。
そうすると、幼い頃から教会学校において神さまの愛に触れている子どもたちは幸いな
のです。僕自身もそうですが、幼いころから青年時代にかけて、教会にはなんでこんなに
変わった変な友人が多いのだろうかと思っていました。また、あなたたちはなぜそんな根
拠のない自信に満ちふれているのか。不思議に思うこともありました。よくケンカもしま
したが、やはりときどき会いたくもなります。今思うと皆、僕も含めて神の愛が必要な者
たちだったのだろうと思います。教会学校に通い、主なる神と教会の方々に愛されて神の
愛に育まれることで様々な課題を乗り越えて大いに成長し、みんな元気にやっているので
しょう。地域や家庭から愛が薄れて子どもの育ちに心配があるならば、教会学校が地域を
元気にするために必要なのです。本当にそう思います。
4月から教会学校教師で教会役員のの高橋優美子さんが東神大へと旅立ちます。祈りつ
つお支えする方法を考えて、役員会でこの後協議をする予定ですが、教会学校の運営にも
支えが必要です。麻生の地域が元気になるために教会学校の業が必要なのです。どうぞお
祈りいただければと思います。
さて、季節の変わり目は体調を整えるのも一苦労な所がありますが、エフェソの信徒へ
の手紙の最後6章 10 節以下を思い起こして乗り切りました。エフェソの信徒への手紙に
は次のようにあります。
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6:10「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に
対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦い
は、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる
悪の諸霊を相手にするものなのです。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成
し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい」
ここでは人間の戦いが何者との戦いなのかが記されています。「悪魔の策略」「暗闇の世
界の支配者」「悪の諸霊」が相手であると言われます。現代人からみるとどうにもオカル
トのにおいがして、近づくのをためらう表現ですが、聖書はこれを明らかに認めています。
しっかりと立つことができるように、わたしたちは豆ではなく「神の武具」を身につける
必要があるのでしょう。
元来「悪魔」という言葉には、
「引き離す者、切り離す者」という意味があるそうです。
その観点からいえば、これまで悪魔とは「神を愛し、隣人を愛する」「神に愛され、隣人
からも愛される」その大本である「神と人とのつながり」、「人と人とのつながり」を破壊
する力として表現されてきました。
創世記でのアダムとエバが蛇にそそのかされ、神の言葉よりも自分の興味、感心を優先
したように、人間を誘惑して神を忘れ、自己中心に陥れ、そうした自己を中心とする人々
が交わることで世界の闇をより深くする力。それが「悪魔」「サタン」の力といってよい
でしょう。
孫引きですが、哲学者の森有正という人がいて、彼はクリスチャンでオルガンの演奏家
でもあったそうですが「いくら練習しても楽譜よりも早くなってしまうパッセージ(一節)
がある」
「それは訓練の問題ではなく、性格に深く根ざすものだ」と言っているそうです。
おそらく人間の「罪」について触れているのでしょう。気持ちはよくわかります。教会学
校の子どもが献金の祈りの際にどうしても早くなってしまうことがあります。きっと性格
なのでしょう。
私ごとですが、洗濯物を洗濯機の中にいれるようにいつも言われるのですが、いつも洗
濯機の淵にかけてしまう癖があります。それぞれ、お祈りが早口になろうと、洗濯物の置
き場所をいつも間違えたとしても決定的な問題とはならないものですけれども、これが問
題となるときがあるのです。それが、主なる神を前にしたときです。聖書によって神の子
としての生き方が示されたときに、この人間の癖・傾向がでるとまずいのです。
お祈りが早口になっても問題ありませんが、神のとき、神のご計画・御心を忍耐して待
つことができずに、気が急いて人間のはかりで動いてしまうことがあります。ここに人間
の罪が露わになります。また、洗濯物を脇に置いても神に罰せられることはありませんが、
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決定的なときに十字架と復活の信仰を脇において、自分を中心にしたらまずいのです。こ
こにも罪が露わになります。
もともとは隣人と共に歩むことができなかったり、怠惰になってしまう傾向があるもの
ですが、悪の諸力、サタンの力とは、わたしたちが主なる神と対峙したときに、人間の弱
さ、悪に傾倒する傾向を刺激し、神から離れさせるあらゆる力のことです。このサタンの
力は目に見える場合もありますが、見えない場合も多いのです。この半世紀で人は「天使」
や「悪魔」の存在を非科学的な存在としてあまり触れないようにしてきましたが、果たし
てそれでよいのかどうかが問われています。わたしたちは日々、この諸力と戦い、私たち
の弱さ戦い、神の御前に悪を働くのでなしに、神の栄光を現すために神の武具を身につけ
る必要があるのです。
2.「サタンが入った」男
さて、過越祭と言われている除酵祭が近づいていたときに「サタンが入った」と記され
る一人の男がいました。その男こそが「イスカリオテと呼ばれるユダ」です。彼は十二人
の弟子の内の一人でした。
まず、過越祭と除酵祭がどのような祭りであるかについて触れましょう。今から 3500
年ほど前、モーセが神の助けによりイスラエルの民をエジプトから導きのぼったことを祝
うユダヤ人の二つの祭り。それが過越祭と除酵祭です。除酵祭とは「酵」母を「除」く「祭」
と書きますが、これは出エジプトの際に、酵母を入れないパンをもって出発したという故
事にちなんだものです。除酵祭は一週間続く祭りであり、イスラエル人は酵母を入れない
パンをその期間、食べるしきたりとなっています。その第一日目が過越祭であって、かつ
ては準備の日に過越の子羊を屠り、その晩にそれを食べたそうですが、現代でも敬虔なユ
ダヤ人の家庭はすべての酵母を家から儀式をもって取り除いたあと、マッツァーと呼ばれ
る酵母を抜いた堅いパンと苦菜と子羊の料理を食べるのだそうです。ルカ福音書によれば、
その過越の食事こそ「最後の晩餐」であって、その準備のためにペトロとヨハネが使いに
出されるというのが今日の物語となっています。
使わされた弟子たちが主の御心のままに不思議な仕方で準備を終えていく。
しかしながらそのバックグラウンドで同じ弟子であるユダに「サタンが入って」主イエス
を殺そうと企てる。主イエスのご生涯の最後の一日が緊迫感をもって始まっていきます。
なぜ、ユダにサタンが入ったかはわかりません。色々な想像をすることはできますが、
今日の箇所ではユダにサタンが入った理由は語られませんから、これは終わりの日、主な
る神に尋ねたい謎です。
まずユダがイエスを裏切るために祭司長や律法学者の所にいっていますから、どうやら
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金のためではなさそうです。民衆を恐れて主イエスを殺すことができなかった人々にとっ
て、このユダの存在は朗報でした。ユダも群衆に見つかってはならないので群衆のいない
ときにイエスを引き渡そうと良い機会を狙っていたとルカは記しています。一人の人間を
殺すために「良い機会を狙う」という表現が恐ろしいのです。サタンが入ると、人はこの
ような状態になるのか、と思わされます。彼は自らの意志で、計画的に主イエスを死に引
き渡すために動きました。
ペトロなども主イエスのことを三度知らないと言って裏切ってしまいましたが、主イエ
スを意図的に殺そうとしたわけではなく、人としての弱さが出てしまった結果であったろ
うと思います。ペトロは自分がやってしまったことの意味に気付いたときに「激しく泣い
た(ルカ 22:62)」と記されていますが、ルカはユダに関してはそのような描写をしていま
せん。ルカは使徒言行録1章においてただユダの死を報告するに留まります。
もっとも主イエスに近かった12弟子の一人にサタンが入ったのです。サタンが入った
結果、主イエスの存在よりも自分の存在が大きくなり、ユダは主イエスを殺す者となりま
した。きっとサタンはペトロに入ることだってあったでしょう。ヨハネに入ることだって
あったに違いありません。決定的なことは、たとえ主イエスを裏切ることがあったとして
も、悔い改めて主のもとに戻ってくるかどうかということです。ユダは主イエスのもとに
もどらず、他の十二弟子たちはもどってきました。永遠の命に至るか、そうでないかはす
べてこの違いに現れるのです。
私たちは主イエスを実際に殺すことは物理的に不可能ですが、主の御言葉を聞いたとき
にこれよりも自分を優先してしまうことがあります。神の御心が示されたときに、これに
従うことを拒むことがあります。そのようなとき、わたしたちはユダと同じ誤りを犯して
いるのでしょう。神の言葉を殺し、自分を優先する罪がここにあります。
季節の変わり目で体調が悪いということが原因となるかもしれません。世の荒波に翻弄
され、心が弱っているということがあるのかもしれません。物理的に目に見える原因によ
ることもありますし、目には見えない力によって神の言葉をないがしろにしてしまうこと
があるかもしれない。そうしたサタンの攻撃とも思えるような神から離れさせる力に対抗
するために、常日頃からわたしたちは「神の武具」を身につけることが求められます。
3.サタンの力に対抗するためにできること
では神の武具を身につけるために、わたしたちはどうすればよいのでしょう。その第一
の方法は、主イエスをキリスト・救い主と告白し、洗礼を受けることです。洗礼を受けた
とき、わたしたちは主キリストという最強の武具を身につけることとなります。この武具
は目には見えませんから、果たして本当に最強の武具なのか。本当に身につけているのか、
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どうにも不安になることがあるでしょう。だからこそ、主の祝福の内に生きているから大
丈夫。神の守りと導きがあるから大丈夫。このことを確認するためにわたしたちは日々、
主の御言葉を聞き、主キリストが共におられる恵みを聞くために教会に集うのです。
この十全な愛に包まれているから、子どもも大人もまことの人として、成熟した人間とし
て大いに育つことができます。
わたしたちはこれから聖餐を祝いますが、主がわたしたちの内で生きて働いておられる
ことを確認するためにこれを食します。御言葉により、この世界がサタンの力が支配する
のではなく、神の愛で包まれていることを知ったわたしたちです。聖餐のパンとぶどう液
を食したときにわかること。それはわたしたちの内に主が住んでくださり、弱さと貧しさ
を覚える身体と霊と魂を内側から支えてくださる主の恵みです。私たちの内も外も、それ
どころか、十字架の出来事によって主イエスがこの世に既に勝っておられ、この地上が主
の愛で包まれていることが分かる食事。それが聖餐です。この恵みを感謝をもってうけた
いと思います。この恵みは洗礼によってすべての人に開かれています。神の愛を身に受け
て元気に生きたいと思う方はどうぞ牧師まで問い合わせください。喜んで準備を進めたい
と思います。
聖書にはペトロとヨハネが主に使わされた先で、聖霊の働きに導かれ、不思議な仕方で
主のご用をなしていく姿が記されています。主イエスは一緒にいませんが、主イエスの守
りと導きを感じていたことでしょう。
同じように、主の御言葉に従う先で、わたしたち
には聖霊の守りと導きの中を生きていることが目にみえる仕方で味わうことができるので
す。こうした主の守りと導きを体験した数だけ、わたしたちの信仰は増し加えられます。
心の目をもって神の愛を豊かにとらえ、主なる神の愛と守りの内をより深く生きることが
できます。祈りましょう。
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